忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

両地書四

両地書四
広平兄:
 今回まず「兄」の字から始めます。自分で制定したのですが、次のような例に沿っています。即ち:昔からの或いは最近知り合った友人、昔の同級生で今も往来している人、直接受講している学生などに手紙を書くとき皆「兄」と呼びます:この外元来先輩或いは割合疎遠で、遠慮が必要な人には「先生」と称し、老爺、奥さん、若旦那、御嬢さん、大人…などを使います。要するに私のこの「兄」の意味は名前を直接書くより多少勝っているに過ぎません。許叔重先生の言うような「兄貴」というような意味はありません。しかしこの理由は私だけが知っているだけですから、貴方が一見して驚かれたのも分かりますが、余りムキになって怪しむことはありません。こうして説明した訳ですからもう奇としないでください。
 現在の所謂教育は、世界のどの国も実は環境に適応する機器を大量に作っているにすぎません。本人の天分に適し、それぞれの個性を伸ばすような時代にはなっていません。また将来本当にそういう時代が来るか分かりません。将来の黄金世界になっても叛徒は死刑にし、皆はそれでも黄金世界だと思うけれど、大きな病根は、人それぞれに異なり、本を印刷するように同一にはできません。この大勢を徹底的に破壊しようとすると、すぐ「個人的無政府主義者」になり、「労働者セヴィリエフ」に描かれたセヴィリエフになるのです。この種人物の運命は、現在――多分将来も――群衆を救おうとすると、群衆から迫害され、ついに独りになって憤懣の余り、全てを仇視し、誰に対しても発砲し、自分も破滅するのです。
 社会は奇怪な事で満ちており、学校も糸綴じ本を有難がり、卒業証の為だけで、根柢の所では「利害」の2字から離れられないとしても、まだましな方です。中国はきっと古くなりすぎたのでしょう。社会の事は大小を問わず、皆劣悪で堪えません。黒墨の染料がめのように、どんな新しい物を入れても皆漆黒にしてしまうのです。もっと良い方法を考え改革しなければ、他に道はありません。すべての理想主義者は「昔のこと」を懐旧しなければ、「将来」に希望を持とうとし、「現在」の問題には白紙答案しか出せません。誰も処方箋を書けず、全ての中で最善の処方は「将来に希望を」しかないのです。「将来」はどういう状況になるのか分かりませんが、必ずあるはずで、きっと到来します。心配なのはその時になると、その時の「現在」になるのです。しかし人はそう悲観する必要はありません。ただ「その時の現在」が「今の現在」より少しでも良ければ良いのです。それが進歩です。
 これら空想は必ず空想だと証明する方法はないから、人生の一種の慰安とすることができ、まさしく信者にとっての神のようです。貴方は私の作品をよく読んでおられるようですが、私の作品は暗すぎますし、いつもただ「暗黒」と「虚無」がすなわち「実際にあるものだ」と感じ、どうあってもこれらに対して絶望的な抵抗をしているから、とても多くの偏った過激な声を出すのです。その実、これは又年齢と経歴の関係で、必ずしもはっきりしたものではなく、私には証明できなくて:只暗黒と虚無は実際に有ります。だから思うに、青年はすべからく、不満があっても悲観せず、常に抵抗し自衛すべきで「イバラの道でも踏み越えねばなりません。固より、やむを得ず踏み越えるのですが、踏み越える必要が無ければ、それは随意で、踏み出す必要もなく、これが私の主張する「塹壕戦」の理由です。実は、何人かの戦士をより沢山留め、更に大きな戦績を得ようとするものです。
 子路先生は確かに勇士だったが、彼は「吾、君子は死しても冠は免れずと聞く」ことで、「纓を結びて死す」となり、これは「迂遠」だと思います。帽子を落としたって何構うものですか。そんなに鄭重なのを見ると、実は仲尼(孔子)先生に一杯食わされたのです。仲尼先生自身は「陳蔡に厄され」ても餓死しなかったのは、本当はずるいのです。子路先生はもし彼のでたらめを信じなければ、髪振り乱して戦い始め、ひょっとして死ななかったでしょう。但しこの種髪振り乱す戦法は、私の所謂「塹壕戦」に属すかもしれません。
 晩くなりましたのでこの辺で。
    魯迅3月18日
訳者雑感:
 文中にある魯迅の嘆息「中国はきっと古くなりすぎたのでしょう。社会の事は大小を問わず、皆劣悪で堪えません。黒墨の染料がめのように、どんな新しい物を入れても皆漆黒にしてしまうのです。もっと良い方法を考え改革しなければ、他に道はありません」と引用が長くなったが、辛亥革命で古い3千年の皇帝支配の政治体制を打破したにもかかわらず、15年経った1925年の北京の状況は、革命前と同じで、黒墨の染料がめで、新しい物もすべて真っ黒にしてしまうのです。この古くなりすぎた中国は、1949年の共産革命を経て新しくなったとして、最近まで「新中国」と呼んできたが、さてどうだろうか?
 2016/05/29記

拍手[0回]

PR

両地書三

両地書三
魯迅先生机下
 13日朝先生の手紙、拝受しました。なぜ同じ京城内で3日かかるのか分かりません。開封して一行目の私の名の下に「兄」の字があるのを見まして、先生私の愚かでつまらない人間をご諒解いただき、私が「兄」などにどうして当たりましょうか?いや、いや決してそんな勇気と胆はありません。先生のお考えはいかがでしょうか?弟子は本当に分かりません。「同学」や「弟」と呼ばず、「兄」と言われるのは、遊戯でしょうか?
 教育が人にどれほど効果があるか分かりません。世界各地の教育の人材養成の目標はどこにありましょうか?国家主義、社会主義…を説く人たち、環境の支配を受け、何何化を行う教育をするとか、但し畢竟、教育とはどういう事でしょうか?環境に適応する人間を多くつくることで、個性を損なうのを何とも惜しまず、環境に迎合させるのですが、やはり他の方法を見つけて、一人一人の個性を保全するには如かず。これらは皆とても注目に値しますが、現在の教育者と教育を受ける者は無視され、また現下の教育界のひどさは、この点と無関係とは言えません。
 尤も心が痛むのは「人の気性は容易には改変しません」したがって、多くの人は今も日々、舞台に上がって化粧して観衆の人気を得ようと――得られないかもしれないが――準備するほかは何も構いません。試験の時、良い点が取れないと心配で、学問に対し忠実ではなくなります。授業は予習をしなくて済むような、テーマも簡単なのを望み、特に教士から多くの暗示を得たがり、結局は良い成績表を欲しがるのです。良い成績表は即ち自分の活動のためで、…
彼女らは学校で「利害」の2字以外、他の事には痛痒を感じません。一生懸命になるのは、「是非」の為ではなく、「利害」の為で、群の為ではなく己の為なのです。これも私が目にする彼女ら、一部の人でしょうか?違います。糸綴本を後生大事にし、終日清書をし、本を読むだけで、読めば読むほど腰と背中が湾曲し、年寄りみたいになり、覇気が無く、現代の本や新聞は一顧だにせず、彼女らは現代社会の一員になろうとは考えていないのです。そして例外もあり、彼女らは現代社会の主役になろうと汲々としている。だから奇怪な事が次々起こり、耐えきれぬほどで、真に先生の言われる「土匪」になった方がましです。
 「田舎の女が牧師に綿々と苦しい半生を訴え、救いを求める」故事は、多分物質的な援助を求めたもので、だから牧師はあんな風にしか応対できなかったかもしれません。思うに、精神的なものなら、牧師はこの種の問題はもとより研究していましょうから、きっと良い答えが出せたかも知れません。先生、私の推測は間違っていますか?聖哲の所謂「将来」は牧師の説く「死後」と異なりませんが、「過客」は言いました:「老人よ、貴方は多分ここに長くいるから、前方に何があるか知っているでしょう」老人は「墳」だと答えたが、女の子は「たくさんの野のユリと野バラ」と答え、二人の答えは異なり、「過客」はそこへ行って、所謂墳と花を見ることもないかもしれず、見たのは他のものだが――「過客は」やはり尋ねるでしょう。そして尋ねるに値するようです。
 醒めた時、いくらかでも苦痛を免れようとするなら「傲慢になる」か「茶化す」のも固より一つの方法ですが、私は小学生のころからこれまで、人から「傲慢」とか「茶化す」と非難されなかった日はなく、時にはこれは「処世の道」ではないと感じ、(更に実際自分も何も驕るに足るものはないし)どうも同じ流れに随って汚れることはできませんので、目前の損を蒙るのです。しかし子路の性格は、人に微塵切りにされても一向に気にしないが、彼に「塹壕戦」を命じても、耐えきれないでしょう。しかたありません、やはり出て行くのですが、「余り良くない」ということですと、他にどんな方法がありましょうか、先生。
 草々とこんなことどもを書きまして、そのまま修飾もせずに、又ペンで書きまして、申しわけありません。先生が清楚に毛筆でお書き頂いた詳細で懇切なご指導に対しまして、誠に感謝にたえませんし、恥ずかしいです!
  ご健勝を祈ります。 敬具。 
   小学生 許広平  3月15日

訳者雑感:
 女子師範大学へ中国各地から勉学に来る女子学生は、「是非」の為ではなく、自己の「利害」のためで、良い卒業成績表を得て、「将来」は、社会の主役になろうとしている。何だか点取り虫的というか、科挙の女性版のようだ。良い点を取れば、良い所に就職できるし、留学し、本校の教職員になれる。そんな餌を目の前に並べて、専ら学校の都合のよい方向に引っ張ってゆく。学生は学生で簡単な問題で、更にヒントを得て良い点数を取れるようにと希望する。中国の学校と学生の関係は長い科挙のしがらみから抜け出せてないようだ。それが、基礎科学などをしっかり学ぼうとする気にさせない障害であろう。結果として、ノーベル賞の受賞者が少ないのか。
    2016/05/24記
 

 

拍手[0回]

両地書二

両地書二
広平兄:
 今日お手紙受け取りました。いくつかの問題は多分答えられないと思いますが、少し書いてみましょう。――
 学風というのは、政治状況や社会情勢に関わっていると思います。もし山林の中にあるなら、都会より少し良好でしょうが、それもそこで仕事をしている人が良ければですが。しかし政治が混迷し、良い人も仕事ができないと、学生は学校で嫌なニュースを耳にする機会が少ないだけで、学校を出たら社会と接触し、やはり苦しみ、堕落したりして、ただ早いか遅いかの差です。だから、やはり都会にいるに如かずと思います。堕落する者はとうに堕落し、苦しむのも早く苦しむ訳で、さもなければ、比較的静かなところから突然騒がしい処へ来たら、予想外に驚き苦しむこととなり、その苦痛の総量はもともと都会にいた者とほぼ同じです。
 学校もこれまでこういう具合だったが、10-20年前は多少ましで、学校を開設する資格のある人が少なく、競争も激しくなかった為です。今は数も増え、競争も激しく根性の悪いのが顕在化したのです。教育界で高潔とされるのは元々が掩飾で、実は他の世界と同じで、人の気質はそう簡単には改まりません。大学で何年か学んでもたいした効果はありません。ましてやこんな環境ですから、まさしく人体の血液と同じで、一旦悪くなったら、体の一部でも健康を保持できないし、教育界もこのような民国の状況では、特に高潔でいられることはありえません。
 だから学校がたいして高潔でないのは、実はもう大分久しいことです。加えて、金の魅力が元々非常に大きいので、中国はこれまで金で誘惑する術をうまく応用してきた処で、自然こんな現象が起こるのです。いまでは高校もこんな風だと聞きます。たまに例外はありますが、それは年齢が低いためで、経済的な困難とか支払いの必要を感じていないからです。女学校にそれが伝わったのは最近の事で、その起因はまさに女性が経済的自立の必要を自覚したからで、それは独立の方法を得ることが肝要で、それには2つの道に外なりません。一つは力で争うこと。もう一つはうまく取り入ることです。前者はとても力が要ります。それで後者に落ちるのです。たとえ略覚醒している人でも、また再び昏睡するのです。しかしこの状況は女性の世界だけでなく、男も同じで、違うのは取り入るほかに、(権勢の力で)豪奪するのです。
 私は実は「そのまま成仏」などとてもできません。タバコが多いのは麻酔薬に過ぎず、煙霧の中にも極楽をみたこともありません。私が本当に青年を指導する本領を持っているなら、――無論正しくか、間違ってかは問いません――私は決して隠したりはしません。ただ残念ながら、自分に対してすら指針盤が無いので、今に至るも乱雑に動き回っているのです。深淵に入ってしまってもそれは自分の責任ですが、人を率いていたらどうしたらいいでしょう?演台に上がって話をするのを恐れるのはこの為です。ある小説に、牧師を攻撃するのがありました。田舎の女が牧師に苦しかった半生を訴え、彼の助けを求めたのですが、牧師は聞き終えて答えるに:「耐えなさい。上帝は生前貴女に苦しみを受けさせたが、死後はきっと福を賜るのですから」実は古今の聖賢や哲人が説く所はいずれもこれより優れたものはありません。彼らの所謂「将来」は牧師の所謂「死後」に他なりません。私の知っている話はすべてこの通りで、私は信じませんが、私にもそれより良い解釈もありません。章錫琛氏の答えもきっと曖昧なものに違いなく、彼自身は書店の会計もしていて、いつも苦しいと言っている由。
 思うに、苦痛はいつも人生について回りますが、時に離れる時もあり、それは熟睡の時です。目覚めたときは若干の苦痛は免れませんが、中国の古くからの方法は「天狗になる」ことと「茶化す」ことで、私にもその病があると思います。良くないことです。苦い薬に砂糖を入れるとその苦みは元のままですが、砂糖なしよりは聊かましですが、この砂糖はなかなか見つからず、どこにあるか知りません。この問題には白紙しか出せません。
 以上色々書きましたが、やはり章錫琛と同じです。再度私自身がどのように世の中でお茶を濁して過ごしてきたか、ご参考に供します。――
一。「人生」の長途を歩むに、一番よく遭遇する難関は二つあります。その一つは「岐路」で、墨翟先生は慟哭して引き返した由。だが私は泣かないし引き返しません。まず岐路で坐り、少し休み又は眠ります。そこで歩けるような道を選び、りちぎな人に遭ったら、ひょっとしたら彼の食べ物を奪って飢えをしのいだりはするかもしれませんが、道は訊きません。なぜなら彼もきっと知らないでしょうから。虎に遭遇したら、すぐ木に登り、虎が腹ペコになってその場から去るまで待つ。去らなければ木の上で飢え死にするが、まず帯で体を縛りつけ、死体を虎に食わせません。木が無かったら?しょうがありません。虎に食われるしかありませんが、奴をひと咬みするのは妨げません。
 二つ目は「途が窮まる」で阮籍先生も大いに哭した後、戻った由だが、私は岐路と同様、やはり乗り越えて進みます。棘の叢でも暫時歩いてゆきます。が、私もこれまで全てが棘荊で歩けないような処に遭遇したことはありません。世の中に本当に途が窮まるところはないのか、私が幸い遭遇しなかっただけなのか知りません。
 二。社会との闘いについて、私は身を挺して出ることはしませんし、他の人が何かの犠牲でそうしようとするのを勧めません。欧州大戦の時、「塹壕戦」を最重視し、戦士は壕の中で伏し、時には煙草を吸い、歌を歌い、トランプをし、酒を飲み、壕の中で美術展も開いたが、時には忽然と敵に何発か発砲した。中国には闇夜の弾が多いから、挺身して出る勇士はいとも簡単に落命する。だからこの種の戦法が必要です。しかし時には白兵戦もやむを得ず、その時は仕方ないから白兵戦をするしかない。
 要するに、苦悶に対する方法は、襲い来る苦痛に対して、無頼の方法であらがって勝利し、むりやりに凱歌を歌い楽しむ。これが糖を加えることでしょう。
しかし最後はやはり「他に方法なし」となればそれで仕方ありません。
 私の方法は以上です。こんなものに過ぎず、遊戯に近く、一歩ずつ人生の正しい軌道を歩むのとは違うようです(人生に正しい軌道があるかどうか知らないが)。書いてみましたが、貴方の役に立つとは限らないと思いますが、これくらいしか書けないのです。
    魯迅 3月11日

訳者雑感:岐路と窮途についての彼の考え方が分かる手紙だ。
岐路に遭遇した時、律儀な人に遭ったら、彼の食物を奪ってでも生き延びると言うのは面白い比喩だ。しかし彼に道を尋ねはしない。知らないから。やはり自分で歩いてゆくしかない。虎にあったらすぐ逃げる。身を挺してとか、無謀なことで落命しないぞ、というのは辛亥革命の時以来の彼の考え方だ。
     2016/05/17記

拍手[2回]

18年間日本を愛したパークス公使

18年間日本を愛したパークス公使
1.
 シュリーマンが日本でグラバーと会ったかどうかを調べていて、シュリーマンが日本にいた1865年6月の1ヶ月間に、グラバーが長崎から往復2週間かかる横浜まで来ていたかを調べていた。オールコックの後任として、中国からイギリス極東艦隊旗艦プリンセス・ローヤル号に乗って6月27日、長崎に到着したパークス公使の船上でのパーティに出席する為、長崎にいたことを「グラバー伝」(アレキサンダー・マッケイ著平岡緑訳)で知った。その前にも、長州藩の武士が彼を訪ねてきて、新任のパークスに手紙をパークスに渡して欲しい、との委託を受けていたので、グラバーが長崎を留守にした可能性は極めて低いと思った。
 同書には、「パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた」
そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とある。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。

2. 
さて、当時のパークスとグラバーの意見の違いはどこからきたのであろうか?イギリスの公使として将軍に力添えをしなければならないというのは条約を結んだ政権に力添えして、それを盛りたててゆくことがイギリスの国益につながる、との政策であることは間違いないだろう。
一方のグラバーは、薩摩や長州の若い武士たちのイギリスへの留学を支援し、薩摩や長州など西南諸藩に大量の武器弾薬を販売して利益を稼ごうとしていたから、「日本の将来は彼らの双肩にかかっているのです」とパークスに進言しているが、「パークスは同意しなかった」とグラバー自身が記している。そして、パークスの仲介などもあり、江戸幕府は退陣し、グラバーの死の商人としての目論みは潰え、倒産の憂き目にあうのだ。

時は経ち、西南戦争が終わった翌1878年5月イザベラ・バードが日本に来て、12月までの半年余の間に妹にあてた手紙を、1880年に2冊の本にして出版した。その後、その普及版として1885年に1冊にして「Unbeaten Tracks in Japan」として出版したら、とても好評で今日まで長い間読み継がれてきた。「この英語を訳すとすれば、「日本の未踏の道」ということになるが、「日本奥地紀行」という名前が今日まで通用している。日本人の通訳を伴ってとはいえ、西洋人の女性が一人で、これまで西洋人が足を踏み入れていないという道を通って、目にしたもの、耳にしたものを彼女自身の言葉と大変魅力のあるスケッチを残してくれたことに感謝する。
 この題名を考えたのはバードではなく、パークスの発案だった、というのが、
楠家重敏他訳「バード日本紀行」雄松堂出版2,002年の359頁にある。その本に彼女の79年5月30日の手紙で、日本の旅で最も楽しかったのは、「蝦夷より伊勢神宮への旅立った」と紹介している。
 彼女の本心は文明化した「古い日本」が好きなのだが、女性旅行家としてのバードに書かせて一般読者に知らせて「商品」にしたかったのは、未開で素朴な人々だった。アイヌはうってつけの素材だった、という訳者のコメントが続いている。
3.
 当時普通の外国人(男性が主だが)に対しては日本政府の発行する目的地の地名付きの査証が無いとそう自由にどこにも旅行することができなかったが、パークスの手配により、彼女は殆どどこにでも行ける査証を得ていたのだ。
 今日我々が大変好感と興味を持って読むことのできる、新潟から山形を抜けて蝦夷にまでの東北紀行は、訳者の解説(365頁)によると、
『第五便の続伸の文末には注目すべき記事がある。「蝦夷行きの蒸気船がこの先一か月は出ないと分かったので」海路で新潟から函館に行く計画をあきらめ、陸路で東北を寄稿することになった。当初のバードの計画では、東北地方はルートになかったのである』
本文の77頁に『蝦夷行きの蒸気船がこの先一か月は出ないと分かったので、残りの夏の計画は決まったようなものである。陸路を行くと四五○マイルほどになるし、知りたい情報が何も手にはいらない。後略 』とあり、通常の査証ではこんな変更はかなわなかっただろう。この辺りにすでに旅行家として有名なバードに日本案内の興味深い「旅行記」を出させたいとするパークスの思惑が見える。日本に18年もいるというのは、並大抵のことではない。嫌にならないどころか、最近日本に帰化したドナルド・キーンさんのような気持ちもあったのであろう。パークスを極東通にしたのはアヘン戦争であり、戊辰戦争、キーンさんを日本通にしたのは日米戦争だというのも不思議な縁だ。戦争がなければ二人とも東アジアに来ることも無く、普通の暮らしをしていたことだろう。
4.
彼は若いころ両親を失くし、従姉を頼って1841年にマカオに来て、アヘン戦争もまじかに体験したそうで、その後広東の領事館で働きながら、オールコックに認められて上海領事になり、1865年彼の後任として日本に着任し、1883年に清国の領事として日本を離れるまで、なんと18年も日本公使を務めた。現在では考えられないことだが、その頃の大英帝国は7つの海に広大な植民地を持っていたから、極東の日本公使にそんな「なり手」がなかったのだろうか。また、外交官のキャリア―としては欧州が主で、植民地などのポストで「財産」をしこたま蓄えて、本国に帰国して大邸宅を構えて老後を楽しむ。それが英国紳士の目論みだったのだろうが。植民地でもない極東の国への赴任は3-4流と見られていたという。その後、パークスは清国公使になって85年に病死している。(北京でマラリアというのと、リューマチでと両説あり)

 バードが新潟で色々な仕事をし、見聞を広めた後、1カ月蒸気船が出ないと
知って、諦めて陸路を取ったというのは大変興味深い結果をもたらしてくれたが、彼女は文中で、蒸気船なら得られる情報が何も手に入らないと心配しているのは、当時の蒸気船にはなにがしかの通信手段があったのだろう。
 何はともあれ、「日本奥地紀行」の山形以北の東北部分が我々の目に触れることができるようになったのは、題名まで発案したパークスのおかげで、彼は一般の外交官が4年前後で任地を離れて帰国するのに、18年もの長い間日本にいたのは、彼が日本をこよなく愛した証だろう。彼女が新潟から蒸気船で函館まで直行していたら、JR東の宣伝文句にある、東北大陸の魅力を伝えることなく、この紀行文も興味がだいぶ薄くなってしまったことだろう。
 パークスはオールコックのような「本」を残さなかったし、時には粗暴とも思われる言動で、日本人を恫喝などし余り評判は芳しくないが、15才くらいから死ぬまで、東アジアで清国人・日本人を見つめ、彼らにどう対応するのが最善かを肌で感じて行動したわけで、灰皿を投げ付けてまでして役者を育てた蜷川の愛と通じるものを感じさせる。
   2016年5月16日記

 

拍手[1回]

ギョエテとは俺のことかと…

ギョエテとは俺のことかと…
1.
 表題は斎藤緑雨の有名な句で、ドイツの文豪ゲーテのカタカナ表記が数十種類あり、それを揶揄したものの由。
 シーザーとカエサル、ツァーリなどは元のラテン語は同じだが欧州語域内でも色んな綴りと発音に発展してきた訳だ。国名なども以前フランスでサッカーのワールドカップの中継を見ていたら「アルマーニ」というのでどこかとユニフォームを見たらドイツの事だった。モナコとミュンヘンなど、知らないと同じ語から変化したものとは分からない。
 閑話休題、去年の今頃、「シュリーマンが(横浜で)会ったのはグラヴァーか」という題で、当時の人的関係等から考えて、グラヴァーは長崎にいた可能性が強いことから、違うのではないかと疑問を持ち、色々調べたことがあった。
 というのも、シュリーマンが横浜に到着した1865年6月3日から7月4日にサンフランシスコに出発するまでの1カ月の間に、グラヴァーが横浜にいた、或いは長崎から来たという可能性が極めて低いからである。当時英国公使は有名なオールコックからパークスに代わる時期で、アレキサンダー・マッケイ著 平岡緑訳「トーマス・グラバー伝」(中央公論1997年)に依ると、
101頁;ここで、英国公使の交代があり、「1865年春、グラバーの支援を得て、海外渡航を希望する二名の長州藩士が長崎入りした。(中略)
 そのころになると、日本では、ラザフォード・オールコックの後任のイギリス公使として、手ごわいサ―・ハリ―・パークスが近々着任することが周知のこととなった。パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた。彼(グラバー)はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていたから長崎にいたトーマス・グラバーがその直前に往復2週間かかる横浜行きをしたという可能性は極めて低い。シュリーマンの江戸行きの手配をしたのが、「グラヴァー商会の友人たち」で、彼ではないと推定される。
そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とあるからである。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。

 その後、K先輩のお力を得て、フランス語の原版はGrauertという綴りであることが分かったので、Grauertの墓地のある横浜山手の外人墓地や横浜開港資料館などへご一緒して、Grauert氏に相違ないと確信した。(その後、最近の講談社学術文庫では以前のグラヴァー氏の記述や何枚かの写真、注なども、出版社の方で訂正されており)私の疑問は氷解したのだが。
2.
 最近、図書館でひょんなことから雄松堂書店の「新異国叢書」の第Ⅱ輯6を見る機会があり、昭和57年12月発行(1982年)で、訳者は上智大の史学専攻の藤川徹氏、原版は上智大の中井晶夫教授が1867年版の同書をパリの国立図書館からコピーを取り寄せたものを拝借した、と書かれている。題は「シュリーマン日本中国旅行記」として訳者は原題の順番を変えたと注記している。
 さっそく問題の個所をみると、
①73頁:グラヴァー商会の友人たちの厚意ある仲介によって(江戸へ行けることになった、略)
②111頁:(注4)としてトーマス・ブレイク・グラヴァーとフランシス・A・グル―ムが共同して設立、明治3年にグラヴァー商会は倒産した。(後略)
③117頁:ハノーヴァーのリンゲンうまれの高名な医師グラヴァー氏の息子であるグラヴァー氏がいた。
④120頁:(注)として、トーマス・ブレイク・グラヴァーThomas Blake Glover(1863-1991)スコットランドのアバディーン生まれの貿易商・技師。とあり、
父はトーマズ・ペリー・グラヴァーで造船業をしていた。本文に医師と書いているが、不明。(山口注:叢書の為、不明のまま印刷に回さねばならぬ時間的な制約があったのかもしれないが、Grauertという綴りをGloverという綴りにして注に入れたのは、何か違うなとの感触はあったので不明としたのであろう)
3.
 そこで、石井和子氏訳の以前の「講談社学術文庫版」1998年版(私家版は1990年12月発行)を見てみると、題は「シュリーマン旅行記清国・日本」で、1869年版の原版をやはりパリの国立図書館で、「古代への情熱」「シュリーマン伝」などを愛読して憧れを持っていた、(ご子)息の宏冶さんが「日本」の部分をコピーして、母に訳して欲しいと頼んできたものを訳すことになった、という経緯があとがきにある。それで、藤川訳との比較だが、
①A115頁:横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで…
②A163頁:(訳注)として、トマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。
③A171頁:そのなかに、若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァ―・リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで(後略)(山口注:若い友人の名前の前のMはKさんにフランス語を見てもらったら、ムッシューのMでしょう、とのことで、それまでのグラヴァー商会とかでは付けなかった個人名にMを付けたもので、突然ThomasがMというイニシャルで出てくるのは何か違うなと感じた)
4.
 さて、新たな疑問だが、石井さん或いは彼女の息子さんは藤川さんの訳本を見たことがあったであろうか?息子さんは「古代への情熱」「シュリーマン伝」などを愛読して憧れを持っていたことから、藤川氏の訳書を見ていた可能性はあると思われる。
 彼は、「夫を見送った後の整理もだいたい終わり」という状態にあった母親に(学生時代フランス語で育った)これを訳して欲しいと、彼女に「いきがい」をとの親孝行の気持ちもあったかも。
 本文の中には2つの翻訳に色々な言葉遣いの違いも多く、例えば108頁の江戸の人口では藤川訳では「皇帝家直属の」は石井訳では「将軍家に属する」とあり、これは将軍が正しいと思われる。藤川訳には「エタ・乞食及び切支丹の徒輩」とあるが石井訳では順番も違うが「その他クリスチャンなど」とあり、これはあの時代の使用禁止の問題が影響していよう。
 これ以外にもいくつかあるが、ここで問題は、石井訳ではMというイニシャル(実はムッシュ)が付いていてそのカタカナ表記にはM・グラヴァー氏とあり、これは重複するが、藤川訳ではMは無く、グラヴァー氏とある。
 想像しながらの推測だが、石井さんは本書の中で、藤川さんの訳書を参考にさせてもらったとは書いてないが、最初は私家版だったから、その点をあまり気にしなかったせいもあろうが、息子さんからこれも参考までに目を通しておいてと渡された可能性はあり、人名などの翻訳には参照されたかもしれない。
それで、冒頭に触れたように欧州語の中でGlover がGrauertに変化したかもしれないとの錯覚から、この問題が起こったのかもしれない。
 文章全体は大分違うが、人名の訳などについては、先輩たちの訳を参照させてもらう、というのは大いにありうることだし、況や1980年代にシュリーマンが幕末に日本に来ていたことを知っている日本人は少なく、彼が横浜で会ったのが、日本人がよく知っているグラヴァーであったなら、とても身近に感じただろうし、「商会」となればその前に来るのはグラヴァーと思ってしまうほど有名だから。
 ただ、藤川さんも注をつけながら、医師と造船、ハノーヴァーとスコットランドの違いの問題は、時間の都合でか、不明とするしかなかったのは残念だ。
 なおKさんによれば医師ではなく博士で神学者だった由。
    2016/05/07記

拍手[0回]

第一集 北京 一

第一集 北京
一。
魯迅先生:
 今手紙を書いているのは、先生から2年弱の教えを受け、毎週「小説史略」の講義を聴くのをとても楽しみにし、授業中にいつも我を忘れて、元気に率直な言葉で発言するのが好きな学生です。彼は沢山の懐疑と憤慨、不満を長い間自分の中に貯めていたのですが、今回抑えきれなくなって先生に手紙を出すことにしました:
 学校というものはその場所を、都会の俗塵から離れ、政治の潮の影響から離れれば離れるほど、よい効果が得られるという人がいます。これは一理あるでしょうか?高校時代は教員を攻撃するということ無くはなかったと記憶しますし、校長に反対する事もそうでしたが、反対か支持かは、「人」の面での権力のバランスに偏重していて、「利」の面で取捨することを見たことはありませんでした。先生、これは都会や政治の潮の影響を受けたからでしょうか?又は年齢の関係で、彼を悪くさせたのでしょうか?どう思われますか?今北京の教育界で、校長駆逐について、反対する者と賛成する者が同時に現れ、すぐ旗幟を鮮明にし、校長は「留学」や「留校」で以て――卒業後は学校に奉職できる――という良いポストを餌にし、学生は権利の得失関係で取捨する故、今日は一人買収し、明日は又一人、…今日は一人買われ、…明日は又一人買われ…ますが、とりわけ憤慨に堪えないのはこういう黴菌に満ちた空気が、名は高等教育を受けるという女子教育界に瀰漫しているのです。女性校長として確かに才能があり、卓見と実績があるなら、元来一般に公表しても構いません。しかし「こそり憐れみを請う」など醜態百出で、人々が口にし、耳にするのです。これは環境の色んな関係もあり、彼女もやむなくこのようにさせられているのかもしれません。しかし何ゆえに校内の学生はこの事に就いて日々軟化するのでしょう。今日は出席してはっきりと反対の意見を提出しながら、目を転じるとすぐそっぽを向いて去り、口をつぐんで、その変態の行動を示すのでしょうか? 状況は日々悪化し、五四以後の青年は大変悲観し、痛哭しています!救うすべの無いほどの赫赫たる気焔の下で、先生、貴方は当然鞄を放り出して、身を清めて遠くへ去れば「そのまま成仏」できるでしょう。しかし貴方は空を仰ぎ、あの人を酔わす煙草をふかしている時、害虫がいっぱいの盆の中で展転として引き抜かれるしか無い人々のことを思う事があるでしょうか?彼は剛率な人間だと自信を持っています。彼は先生が彼よりずっと剛率だと信じています。というのも、この小さな共通点を有するために、彼は先生にできる限り率直に申し上げます。先生が時間や場所の制限を取り除いて、ご指示、ご指導下さいますよう、希望します。先生お引き受けいただけませんでしょうか。 
 苦悶の果実は最も嘗めがたく、噛んだ後は苦みも多少は減りますが、苦みの成分が多すぎて、甘味の分を抹殺します。例えば、苦茶―薬を飲んで、玩味すると、少しは甘い香りもしますが、苦薬を好んで飲みたいとは思いません。病でやむなくという時以外、人は決して故なく苦茶を飲もうとはしません。苦悶を免れがたいのは、疾病を免れがたいのと同じですが、疾病はいつも身辺に有るわけではありません―― 終生病気を抱えている人以外は――。そして苦悶はいつも愛する人より親密に近づいてきます。招かれぬのにやってきて、振り払っても去りません。先生何か良い方法で、苦薬中に糖分を加え、人を苦しめないことはできますか。そして糖分があれば絶対苦くならないようにできますか?先生、貴方は章錫琛氏の「婦女雑誌」の中の回答のような模糊としたものでなく、明解なご指導をいただけませんでしょうか。
 以上、用件のみ。
 敬具。ご健康を祈ります。
     教えを頂いている一学生、許広平     11月3日、14年。

 彼は学生の2文字の上に「女」を付けるべきと見られていますが、彼は敢えて御嬢さんの如くには思っておらず、先生が自らを大旦那と自命されないのと同じです。彼は御嬢さんの身分地位にふさわしくないからです。どうぞ先生懐疑などされませんように。お笑いにならないでください。

訳者雑感:さあ、これから女子師範大の学校長排斥運動を軸とした、学生たちと教育界の上部機関とのあらがいをめぐって、魯迅と許広平の間に手紙の往復が始まる。彼女の長い間貯めてきた、懐疑と憤慨、不満を魯迅がどう解きほぐしてゆくのだろうか?
      2016/05/08記
 

 

拍手[0回]

両地書序

両地書序
 (扉:出版社説明)
 本書は作者と許広平が1925年3月から29年6月までの間の通信集で、全部で135通(その中の67通半は魯迅の)で、魯迅の手で編集訂正され、3冊に分け、33年4月、上海青光書局から出版された。作者の生前、4版発行された。

    序言
 この本は次のようにして編集された――
 1932年8月5日、私は霽野、静農、叢蕪の3人の署名入りの手紙を受け取り、漱園が8月1日朝5時半に、北平同仁病院で亡くなったと知った。彼の遺文を集めて彼の記念の本を出したいので、私の所に彼の手紙が無いかと尋ねてきた。これを見て、私の心は突然動揺した。というのは、私は彼が快癒できると望んでいたからで、彼は多分必ずしも良くなることは難しいとは感じながら:次にそうとは知りながら、ついにそんなになるとは思い至らず、彼の手紙はすべて破棄してしまったかも知れないからで、あの枕に伏せて一字一字書いた手紙を。
 私の習慣は、通常の手紙は返事をしたら破棄するが、中に些かの議論があれば、往往残しておくのだが、この3年近くで2回大焼却した。
 5年前国民党の粛清時、私は広州にいて、甲を捕まえたら甲の所に乙の手紙が見つかり、乙を捕えたら乙の家で丙の手紙が出てきて、それで丙まで捕まり、行方不明となったという話をよく耳にした。昔は芋づる式に次々に捕えられたのを知っている。だがそれは昔のことと思っていたが、事実が私に教訓を与え、人として生きてゆくのは今も昔と同じく難しいということを、やっと悟った。
しかし私はやはり余り気にせず、いい加減だった。1930年に私は自由大同盟に署名したら、浙江省の党支部が中央に対し「堕落文人魯迅等」という通達を出すよう申請した時、私は家から逃げ出す前に突然血が騒ぎ、友人からの手紙を全て破棄した。私は「不軌を謀ろうとした」痕跡を消そうなどというのではなく、手紙の為に人に累が及ぶのは実に愚にもつかぬ事で、中国の役所は誰でも一度捕まったら最後、どれほど恐ろしいかを知っているから。その後、この関を逃れ、家を移って手紙は大分たまったが、いい加減にしていたのだが、1931年に柔石が捕まり、ポケットから私の名のあるものが見つかり、お上が私を捕えようとしていると聞いたので、すぐ私は家から逃げ出した。今回は更に血が騒ぎ、全ての手紙を焼却した。
 こんなことが2回あったので、北平からの手紙をもらって、多分有ることはないと思ったが、箱をひっくり返して探してみたが、影も形も無かった。友達からの手紙も一通も無かったが、我々の物はあった。これは何も自分の物を一種特別な宝としていたわけじゃなく、あの頃は時間の関係もあって、そして自分の手紙なら累はせいぜい自分だけだから、と放っておいたもの。その後、この手紙が銃火の交叉する状況下、2-30日放っておいたが、何の損失もなかった。中に些かの欠落はあったが多分それは当時注意を怠って早くに遺失したもので、お上の災厄とか兵火にかかったものではない。
 人が一生一度も横禍に遭わなくても、誰も特別に考えないが、牢に入れられ、戦場に送られたら、彼が単に平凡な人間でも人は少し特別視するだろう。我々のこの手紙もまさにそうだ。それまで箱の底に置かれていたものだが、今思い出すとそれはかつて殆ど裁判沙汰になったり、放火にまみえたりしたものだと思うと、何か特別な様に感じ、いささか愛着を持つようだ。夏の夜は蚊が多く、静かに字を書くことができず、我々は略年月に照らして編集し始め、場所が分かれていたのを三集にして名を「両地書」とした。
 言うならば:この本は我々自身には、いっときは意味があったが、他の人にはそうではない。文中に死ぬよ生きるよという熱情も無く、花や月やの佳句も無い:文辞については、我々はまだ「尺牘精華」や「書状作法」を研究したことも無く、ただ筆に任せて書き、文律に大きく背き、「文章病院」に入院すべき点がとても多い。言っていることは学校騒動にほかならず、本体の状況、食事料理のうまいまずい、天気の良しあしなどで、最も悪いのは、我々は日々漫然と天幕の中にして、幽明も弁ずることなく、自分のことを語るのは大したことはないが、天下の大事を推測するはめになると、どうもいい加減な点を免れず、したがって、文中に浮かれて喜んでいるのもあるが、今から見ると大抵は寝言たわごとだ。この本の特色は、お世辞的に言えば、多分とても平凡だという点。こんな平凡なものは、他の人には無いだろうし、たとえあってもそれを残しておくことはないだろうが、我々はそうしなかった。多分これが一種の特色といえようか。
 しかし妙なことに、ある書店がこれを本にしたいというのだ。出したいなら出すが良い。それは自由で構わないのだが、そのために読者と相まみえることになったが、ここで2点ほど声明を出し、誤解免れたい。その一は:私は現在左翼作家連盟の一員だが、近頃の本の広告は、凡そ作家が一旦左を向いたら、旧作も即、飛昇して、彼の子供の頃の鳴き声さえ、革命文学の気概に合致しているというのだが、我々のこの本はそうではない。この中に革命の気息は何も無い。その二:よく聞く話だが、手紙は最も掩飾の無い、真面目があきらかな文章といわれるが、我々のは違う。私は誰に対しても、最初はうわべをとりつくろい、口ではハイと言いながら、心は否定しており、即ちこの本の中でも、比較的緊張した場面になると、やはり往往、故意にあいまいに書いており、我々がいた所は、「当地の長官」郵便局、校長……、みな誰も自由に手紙を検閲できるお国柄であったからだ。ただはっきり書いたのも多い。
 もう一つ、手紙の中の人名は若干変えてある。これには良い面と悪い面があるが、人の名が我々の手紙の中にあると、その人に都合が悪いとか、単に自分たちの為にとかで、またぞろ「裁判開始まで待て」とかの類の面倒を省くため。
この6―7年を回顧するに、我々を取り巻く波風も少なくないとはいえ、普段のあらがいの中で、互いに助け合うのもあり、石を投げるのもあり、嘲笑や罵しる者もあり、侮蔑もあったが、我々は歯を食いしばり、すでに6―7年あらがってきた。その間、暗に人を中傷するものも皆徐々に自分で更に暗い処に没して行ったし、好意を寄せてくれた朋友もすでに二人この世にいない。すなわち、漱園と柔石だ。我々はこの本を自分たちの記念として、好意を寄せてくれた友に感謝し、且つ我々の子に贈り、将来我々が歩んできた道の真相が大体がこんな風だったと知ってもらうためだ。
   1932年12月16日 魯迅

訳者雑感:さあこれから、学生時代に日本語で読んで感動した物を翻訳する。20代で読んだ時の感動は、50年近くたった今、どういう感じに受け止めるだろう。この書簡集は、冒頭の通り、ある友が亡くなったので、彼の遺文を集めて記念に出したいのだが、という依頼が発端であった。白色テロ横行の時代に手紙に自分の名が出ると、すぐ捕まって、行方不明になる、という時代に全ての手紙は破棄したのだが、これだけは残しておいたということは、大変なことで、
魯迅は許広平からの手紙は残しておいたのは間違いないが、彼の手紙は許が全て大切に保管していたものか、或いは魯迅は出すときに控えを取って置いたものか。彼の他の文章などでも自分の出したものと相手のを併せて載せているケースがよく見られるから、彼は出したものの控えを残しておいたものだろうか。
今ではEmailで出電の記録は自然に残るが、1920―30年代は筆でもう一度書いたのかな。筆写するという作業は、古文書をすべてそうしていたことからすると、当時の人にとってはそう難儀なことと感じなかったかもしれない。
     2016/05/03記
 


 

拍手[0回]

軍人たちへの痛言

軍人たちへの痛言
 軍人の格として最も高尚なのは、敵を破り、国を保つ責任である。その為に臥薪嘗胆、戈を枕に旦(朝)を待つ。軍人の自戒や如何!馬革に屍を包み、将を斬り、旗を奪うは、軍人自ら期すことなり、また如何!
 今吾紹興の軍人、自ら如何とするや?群れて閑遊する者あり、殴りあい喧嘩する者あり、娼館に宿し、歓を尋ねる者あり、賭博を捕え私に罰する者あり。身は軍・国・民の重い任務を帯びながら、無聊無頼の悪劇を演じるのは、その紀律が厳粛でなく、訓練不良のためか?そもそもガサツな根性ゆえ、教育訓戒は施しがたいせいか?そんな格の軍人を北伐に充てるのでは、中華民国の前途は危うい!
 樹(魯迅の名)曰く:雑草を除かねば、よい苗は興らず、教練の責めを司るものは、何ゆえこの群を害す馬を除去し、誠実で純潔な兵士を求め、まっとうな義勇の軍隊を作らないのか。
 且つ又、この北伐を宗旨とし、東関鎮に一社、闘鶏場に一社、第五中に一社を設け、各自費用を集め、各自兵を招く。
共に紹興にいるのに、勢力は散砂と同様、互いに連絡して気を一にできぬとは、これ誠に樹の理解できぬ所なり。

訳者雑感:
 魯迅が本名の一字、樹を使って、1912年1月16日、紹興の「越鋒日報」の「自由言論」欄に載せたものという。前年に辛亥革命が起こって、紹興にも中華民国の軍隊ができたのだが、実情は魯迅の指摘する通り、清国時代の兵隊と何ら変わらぬ、というより更に劣化したようだ。「好漢は兵にならず」と言われる通り、品格の優れた人間は兵隊にはならず、軍隊には入らない。それを痛切に感じて、まっとうな義勇の軍隊を作らねば、と訴えている。しかしこれはまさしく蟷螂の斧だ。誰も彼の文章に耳を貸さない。
 最近、習主席が軍人の着用する迷彩服を着て、全員が迷彩服の軍人たちの中で、いろいろ指図する映像が流されている。解説者のコメントは彼が作戦指揮センターのセンター長に就任したからとのこと。政治で党と国家のトップであり、首相の権限であった経済面でもその責任を取り上げた形だが、軍事面でも、共産党の軍隊である解放軍のトップでありながら、更に作戦指揮センター長も務めるというのは、それまでのそれに相当する任務を負っていた人間から、その権限を取り上げたような印象だ。余ほど部下を信じられなくなっているのだろうか。    2016/04/27記

拍手[0回]

生麦へ

生麦へ
 4月6日朝、O先輩から電話があり、午後2時半に生麦の例の生麦事件参考館の予約が取れたので、出てこないかとの誘いを受け、さっそく出かけることにした。
1.大倉山―鶴見間のバス停は寺社前が多い
 京浜急行の生麦駅で待ち合わせとなった。久しぶりの快晴で、桜はもう殆ど散ってしまっていたが、2年ほど前に鶴見川を河口まで歩いた時の事を思い出しながら、途中でメモを取らなかった「水神宮」の前の漁業組合の廃業にならざるを得なかった経緯を、再確認のために尋ねることとした。
 今回は大倉山から鶴見駅西口行きの41系統の市バスに乗ることにした。数年前も尾根伝いのバス通りをくねくね回るこの路線のバス停に寺社の名前が多いのが気になっていて、今回それをメモしたら次のようになった。
 大倉山駅の少し西側に①太尾神社前②観音前があり綱島街道に出て③蓮勝寺④法隆寺前⑤建功寺⑥宝蔵寺前⑦安養寺前⑧東福寺前⑨総持寺前、と何とこの30分前後の区間に9つの寺社の前にバス停がある。その名も京都奈良の名刹の名を冠していたりする。総持寺は明治以降に石川の寺を移設したのだそうだが、それ以外は江戸時代以前、鎌倉時代以前のものとの縁起が残る。
 この辺りは別に広い平野が開けているわけでもなく、鶴見川沿いの丘陵地帯で、勿論農民が多かったには違いないが、鶴見川の舟運と旧鎌倉街道、旧東海道との交差するところで、生麦の魚は勿論だが、武蔵平野の農産物と海岸の港から陸揚げされた関西方面からを主とする日本各地の物資が交易され、ここに商工業者が多く集まり、彼らの財力がこのような多くの寺社を建てさせたものと思われる。バス停からも山側に建てられた財力を示す大きな墓も見える。
 20代のころ大船から新橋まで国鉄で通勤していた。その時何気なく不思議だなと感じたのは横浜から川崎の間の国鉄と京浜急行の線路に挟まれた狭い土地にお墓がいくつかあることだった。どこかへ引っ越すということは考えられないことだったのだろう。これと似た光景は京都駅のすぐ東の東海道線と奈良線の間の線路の狭い土地にお寺と墓が今もあることだ。寺にとっても檀家が墓をどこか郊外に移転してしまったら、縁が切れてしまうので、死活問題なのであろう。
 ここ3―40年位の間に、このバス通りにも多くのマンション・戸建が立ち、人口も増え通勤通学の利用者が主体となったが、以前この通りはこうしたお寺にお参りする人の便をはかったものかもしれない。
2.水神宮と神楽殿
 鶴見駅前で昼を食べ、さっそく旧東海道を西に歩いた。鶴見線の古いガードを抜け、鶴見川と平行する道をてくてく行くと、魚河岸の卸店がちらほらと見える。以前は繁盛していたが、時代の流れで少しずつ減っているようだ。
 しばらく歩くと左側に鶴見川の堤防が見えるほどになる。さっそく左折して、鶴見川の堤防を歩く。昔の魚河岸の船着き場は今もいくつか残っていて、釣り船も繋留されている。その河口側には人工の干潟を造ろうとして、柵が伸び出て白い貝殻が川辺に蒔かれている。貝殻浜と呼ばれていたのを復活させるのだ。
 そこを眺めながら、淀川の大型の「わんど」という人工干潟を思い出していた。海水と真水の交わるところにこうした所を作って、植物が増え、昆虫やそれを餌にする魚類が増えるようにとの現代人の願望だ。コンクリートの護岸ばかり造ってきた20世紀の人間としての我々は反省せねばならない。夏にはトンボやチョウチョウが飛びかい、子供たちがタモでそれを追うという光景を再現したい。
 さてやっとお目当ての「水神宮」に着いた。前回尋ねてこの漁協が昭和24年には268名の組合員がいて、活発な活動をしていたことが記されていた。その後、江戸前の魚の名産地ともいうべきこの辺りも、扇島・大黒町が京浜工業地帯の建設のために埋め立てられ、さらには根岸以南も埋め立てられ、羽田空港埋め立て、本牧埠頭、金沢区までも埋め立てられ、留めは日本鋼管の扇島に新工場が建設されることになり、昭和48年に廃業することになり、357名の組合員が補償金をもらって、云々とある。その無念さの証がこの大きな石碑だ。
 鳥居の向こうの川側に建物があり、その姿が少し変わっていたので銘版を見ると、「神楽殿」とあり、この規模のささやかな神社には珍しいと感じた。神社自体はさほど大きくないが、それを支えてきた漁業組合員たちの水難を避けるための切なる願いが、こうした神楽殿を建てさせ、そこで神楽を奉納して、水の神様のごきげんを伺い、ご加護を祈ったものだろう。
 魯迅の小説の「奉納劇」(「宮芝居」という名の方が通用しているが)というのを思い出した。紹興の海岸近くの川の土手の上に、祠が建てられ、その対面に神楽殿のような舞台がしつらえられていて、お祭りの時にはそこで24時間、漁民や農民たちの持ち寄ったお金で、都会から「劇団」を招いて、越劇という紹興や杭州などで盛んな古典劇を催す。それを彼等は銘々が船を仕立てて、その船から観劇する。これも水難を逃れるための農漁民たちの切なる願いからのものであろうから、こうした「神」さま、「水神宮」への奉納劇というのは、中国の江南地方から九州や関西を経て、武蔵の国まで東上してきたものだろう。


    中国の奉納劇(山西省五台山のお寺で、朝8時に撮影したもの)
 

3.生麦事件参考館
 水神宮を後にして、生麦駅改札に向かった。しばらくしてOさんが出てこられ、駅からすぐ近くの「生麦事件参考館」を尋ねた。館長の浅海武夫さんが、迎えてくださった。さっそく1時間弱のDVDの講演を拝聴拝見した。元は生麦で酒の販売会社の社長をしていた浅海さんは、鹿児島から彼のところに生麦事件のことを調べに来た人との出会いが、彼がこの参考館を建てることになったきっかけだった由。社長を辞して、大学に通って、あの当時の歴史を丹念に学び、千件以上の関連資料を集めて、その中から選りすぐったものが展示してある。
 その展示品を眺めながら、氏が全国各地で何回も行ってきた講演会のDVDを聞くうち、すっかり彼の語りの面白さ、ウイットに富んだ語り口に吸い込まれていった。汗をふきふき熱心に語りかける。今80数歳とは思えないほどの熱気を感じた。鹿児島の女子大の講師を引き受けていて、授業が終わると、薩摩おごじょたちはとても熱心で、ついついおいしい焼酎を飲みすごしてしまうほど、会話が弾むと、顔をほころばせて話してくれた。
 氏がライフワークにした「根源」は生麦事件が日本の近代化の「引き金」となったことを、まず生麦の多くの人に知ってもらい、日本の多くの人に知ってもらおうというところにあったと思う。彼も鹿児島の人に問われるまで、よく知らなかったという。
 生麦以前にも日本各地で攘夷の人たちに多くの外国人が殺されたのだが、いくつかの偶然が重なって、この生麦事件が薩英戦争を呼び起こし、その時の薩摩の砲弾は「砲丸投げの丸いボール」でこれが帆柱に当たれば良いが、という程度であるのに対して、イギリス軍のは所謂アームストロングの長い炸裂弾で、この歴然たる差を薩摩人が悟ったことが、攘夷から開国へと方向転換させた、という辺りの語りはとても分かりやすい比喩であった。
 薩英戦争で英国に惨敗した後、すぐ英国の産業を導入し、非常に友好的になって、留学生も出し、英国の技術者も鹿児島に招いて、薩摩が日本の中でも先駆者となったのは、先の戦争で広島長崎への原爆投下や東京や各地への大空襲で悲惨な目にされたアメリカに対して、薩摩が英国に対したと同じように、友好的になり同盟まで結んだという点は、なにか不思議な縁を感じる。
 殺されたリチャードゾンのことを「ごろつき」と形容されたので、なぜかと尋ねたら、彼は上海で中国人を蹴ったりしていたからだとの由。彼が帰国を前に、ちょっと日本を見てみようと思い立ってやってきたのだが、さて英国に戻る段になって、予定の船が機関の故障で帰れなくなってしょげているのを見た友人が彼の知人が丁度遠乗りに出かけるという話を聞き、一緒に連れて行って欲しいと頼んできた。当時外国人の行動限度があって、その範囲は多摩川までだったので、ちょうど21日は川崎大師の例祭で店が沢山でるのでそれを見に出かけることにしたのだが、運悪く島津の殿様の行列に突っ込んでしまったわけだ。
 クレオパトラの鼻が云々ではないが、上海で稼いだ彼がそのまま帰国していたら、横浜で船が故障しなかったら、川崎大師の21日の弘法さんの例祭がなかったら、などなど歴史に「もし」は禁物だが、この一連の偶然が重ならなかったら、薩摩の攘夷は変わらず、開国はもっと先になったことだろうと思うと、歴史の偶然に驚く他ない。
 展示品はとても見ごたえあり、中でも、リチャードソンの包帯でぐるぐる巻きにされた遺体の写真が2種、オランダの博物館から送ってもらって展示されているのは、浅海さんの情熱の結果で、外人墓地にあるリチャードソンのお墓も数年前に自費で改修されたそうだ。「ごろつき」と形容する一方で、彼が偶然とはいえ攘夷に凝り固まっていた日本を、結果として開国させ、浅海さんたちの生麦、ひいては横浜・日本に繁栄をもたらしてくれたという念からだろう。
    2016/04/24記

拍手[0回]

地質の続き 第六 結論

第六 結論
 私はすでに地質の分布と生成、その関連で鉱物埋蔵量など述べ、覚えず敬愛が生じ、種々憂慮し、筆を置いて大いに嘆息し、吾故国はどうなるかと思った。黄帝の神は嘯吟し、白人(帝国主義者)の害が踊っており、その足跡の至るところ、これに随って探索し、すでに鉱山採掘権を得て、遂に伏して力を潜め、某と某は均しく我が所有に非ず。今またロシアが我が金州復州海竜盖州の諸鉱山を探索した。初め新の商人某が自ら採掘を申請し、奉天将軍これを許し、既にロシアと闇取引した由で、その契約を破棄させんとしたが、ロシア人は激怒し、要求を欲するままにした。嗚呼、今まさに滅ぼうとしている国、翼々これを愛護しようとするも、猶至らぬを怖れ、なぜ盗人を室に入れ、これに協力してタル木を折り、棟をたわめ、大厦の傾くのを速めるのか。今また吾浙江をみるに、聞く所では、浙江の紳士某は某商の故智を窃し、その実、外人の手先となって契約を結んだ由。もし吾浙江人が政府のように、起ちてこれを壊せば、その結果はまたロシア人の金州の諸地の如くになるのみ。試みに、尻込みがちで、文弱な浙江人は老病で目もかすみ、耳も遠いような政府はどういう権力で以て敢えてその鉾先を止められようか:口を閉じ、自ら身を隠しても猶、禍に遭い、この凶暴な連中はひとえに外人に提案してこれを促して曰く:「何ゆえに吾浙江の鉱山を探索せぬや」と。嗚呼、険悪でこっそり人を陥れるのを謀り、猛鷲は口を開いており、その亡ぶや、その亡ぶや何の疑いがあろう。吾は将来を予測するに、吾浙江を剽窃される恐れは、北方なら目がぼーっとして見えぬということはない。彼等はすでに外人の銃刀に慣れ、淫りにこの徳政を掠し、伏して媚びてへつらい、以て未来の聖主の歓を博し、最愛の妻女を奪われても、猶敢えて怨むことなく、更にはどうして愛着の少しも無い片土あらんや!吾浙江がそうでなければ、台、処、衢、厳の諸府は、教士の説法により、なお巨大な禍をもたらす。況や忽然、碧眼白晳の異人が経営を指揮して、ガンガン吾国土を日々掘るのを見れば、きっと一種不可思議な感がし、脳に浮遊し、驚きおそれ、憤慨し、手を挙げ体を真っ直ぐに伸ばし、立ち上がり、これを刈り取って快を得る。すると外人はまた口実を得て、要求を出し、示威し、盗賊は束になってやってきて、義に就く者の血が流れる惨事が、また南方で起こるかも知れぬ。そうでなくとも、他の国は勢力均衡の説を持ち出し、群れとなって土地を奪い、瞬く間に瓜分し、国を滅ぼす禍を自ら速めるだけだ。幸いにして数十年後についに独立を得、栄光を奪い合うのは吾夢に符合するが:しかし吾浙江の鉱産物は他省より遜色あるのに、外族を入室させ、空になるまで掘らせたら、工商の諸業が栄えるのは困難になり、失敗の連続で、貧乏と病が待ち受けている。嗚呼、浙江人は戎の謗りに甘んじず、どうしてそれを挽回しようと考えないのか。
 これを如何にして救うか?曰く:子供が群児の食を奪うのをみれば、自分でそれをつかんで食べる。それを師とするは可である。中国は弱いが、吾仲間は中国の主人で、大群として結合し、起って興業すれば、群れてくる児はずるいが、敢えて耐えて阻喪することなければ、彼らの要求の機会は絶える、郷土の人は、お互いによくあえば、理を以て諭すことは可能で、異族に劣ることはない。目でにらみ返し仇を打てば、民は変わり、禍は止む。況や工業が繁盛して興り、機械を使うようになれば、文明の影響は日に日に脳内に記され、ずっと続けてゆけば、遂に良い結果を生む。吾は豪傑侠客の士は、必ず悲しい思いをして、以て袂を奮って起ちあがるのを知っている。さもなければ、吾は服箱(籠)ありても策を受ける暇ないのを憂える。いずくんぞ、そこばくの閑情ありて、地質のことをこれほどに語らんや。
 1903年10月、日本東京で出版の「浙江潮」月刊第8期に、索子の名で掲載。

訳者雑感:
 1903年当時の4字句をたくさん並べた文章は、なかなか理解できない点が多く、現代中国語辞典より、日本の漢和辞典を調べる方が分かりやすい個所もあった。それで地図や地名も入れて15ページの文に長くてこずってしまった。
 魯迅は父の死後、1898年18歳で南京の江南水師学堂(機関科、給費)に入学したが、翌年、江南陸師学堂附設の鉱務鉄路学堂に転校した。97年にドイツが膠州湾を占領している。1902年鉱務鉄路学堂を卒業し、江南督練公所派遣の形で日本に留学した。
 もともと地質学に興味があったのであろう。日本に来て日本語やドイツ語の文献を読み、1903年10月にこれを発表している。文章の中でリヒトホーヘンがこれほど長く中国を経めぐったのは、石炭の為で、それを運びだす手段として鉄路を引いて膠州湾(青島)を占領したことが良く分かる。
 1900年の頃は、石油天然ガスの前で、石炭こそがすべての産業の「根幹」だった。水力発電の電気とか多少はあっても、無尽蔵にあると言われた石炭を何とか確保して、自国の産業振興に資することが喫緊の命題であった。
 魯迅はこのころに、日清戦争で負けて、祖国が列強に好き放題に瓜分されるのを、歯ぎしりしつつこの文章を書いたのだ。
 結果としてはそれから1945年まで、開平(後のカイラン)炭や撫順炭など海岸から近くて採掘しやすくコストの安いものは日本を含む欧米列強に支配されてしまった。戦後も自国中心に採掘してきたが、過去10年の石油資源の高騰により、山西省などで膨大な石炭が採掘され、各地に「石炭王」が出現した。それが今は石油が40ドルを切ったために、石炭は売れなくなり、給与未払いが各地で続発し、全人代すらそれの影響を受けて騒ぎが一層拡大した。
 石炭・鉄鋼・セメントなどの産業を支える基礎物資の生産能力の過多・過剰が大問題となっており、こうした問題をどう解決してゆけば良いか?魯迅が生きていたらどうするだろう。
    2016/04/21記


 

拍手[0回]

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R