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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「竪琴」まえがき


「竪琴」まえがき(魯迅の翻訳書)
 ロシア文学はニコライ2世の頃以来「人生の為」であち、その主意は勿論探求にあり、
解決にあり、或いは神秘に陥り、頽廃に淪(しず)みもしたが、主流はやはり人生の為。
 この思想は約20年前に一部の文芸紹介者と合流して中国に入って来、ドストエフスキー、
ツルゲーネフ、チェホフ、トルストイの名は徐々によく目にするようになり、彼らの作品も陸続と翻訳され、当時組織的に「被圧迫民族文学」として上海の文芸研究会に紹介され、
彼らも被圧迫者と呼ばれる作家に数えられた。
 凡そこれらはプロレタリア文学とは本来とても遠い存在で、紹介された作品も大抵は、
阿鼻叫喚、呻吟、困窮、辛酸、よくてせいぜい、あらがいであった。 
 ただ、すでに一部の人を不機嫌にさせ、二つの軍馬団の包囲攻撃を招いた。創造社は「芸術のための芸術」の大旗を掲げ「自己表現」を標榜し、ペルシャ詩人の酒杯と「黄書」文士のステッキで、こうした「庸俗」を平らげようとした。もう一つは英国小説の紳士淑女の欣称に供するとか、米国小説家の読者迎合の考えといった「文芸理論」の洗礼を受けて
帰国した者たちは、下層社会の叫喚や呻吟を聞くと、眉をぎゅっと結び、白手袋の細い手を挙げ、自分の思いのままにしたいと:こんな下流なものはすべて「芸術の宮」から出て行け!と排斥した。
 また中国には元々、全国に旧式な軍団がいて、小説は「閑書」とみなす人たちがそれだ。
小説は「ご来場の皆さま」に茶余酒後の暇つぶしに供するものゆえ、優雅で洒脱でなければならず、万が一にも読者の不興を買ったり、消閑の雅興を壊してはならない。この説は、もう古いとはいえ、英米の時流に小説論と合流し、この三つの新旧の大軍が約せずして、同時に「人生の為の文学」――ロシア文学を猛攻した。
 然しなお少なからざる共鳴者がいたので、紆余曲折しながらも中国で成長してきた。
それが本国では突然凋落してしまった。それ以前は多くの作家が転向を企てたが、十月革命で却って彼らは意外にも巨大な打撃を受けた。それでD.S.Merezhikovski 、Kuprin、  Bunin、 Andreev たちの逃亡Artzybashev、 Sologubたちの沈黙 、古くからの作家は
活動シテたが、Briusov、 Veresaiev、 Gorki、 Mayakovski等数名のみとなった。
後にまた Tolstoi が帰って来た。
この外には顕著な新人は現れず、内戦と列強の封鎖下の文壇は、ただ委縮衰退と荒廃を
見るばかりとなった。
 29年ごろにNEPが実行され、製紙印刷出版などの事業勃興が文芸復活の助けとなった。
この時の最重要な枢紐は文学団体の「Serapionshruder 兄弟」だった。
 この派の出現は表面的には21年2月1日からレニングラードの「芸術府」の第一回集会で始まり、加盟者は大抵青年文人でその立場は、一切の立場の否定であった。ジョーシェンコは「党人の観点から、私は無宗旨の人間で、それは大変良いことではないか?自分で
自分の事について言うなら、私は共産主義者でも社会革命家でもなく、帝制主義者でもない。私はただ一個のロシア人で、政治に対して何の企みもない。多分最も近いのはボリシェビキで、彼らと一緒になってボリシェビキ化するのに賛成だ。…但私は農民のロシアを愛す」と言った。これは彼らの立場を大変明白に述べている。
 ただ当時、この文学団体の出現は確かに驚異で殆ど全国の文壇を席巻した。ソ連でこの
様な非ソビエト的文学の勃興はとても奇怪に感じさせた。しかし理由はいとも簡単で:
当時の革命者は革命の遂行に忙しく、ただこれら青年文人が発表した割合優秀な作品を
発表したのがその一で:彼らは革命者ではないとはいえ、身を以て鉄と火の試練をくぐり抜けてきたから、描かれた恐怖と戦慄は読者の共鳴を得やすかったのがその二:その三は
当時文学界を指揮していたボロンスキーが彼らを支持したこと。トロツキーも支持者の一人で、「同伴者」と称した。同伴者とは革命中に内包する英雄主義を含に革命を受け入れ、
共に前進する者だが、徹底的革命の為に戦う者ではなく、死も惜しまぬほどの信念は無いが、いっとき同道する伴侶に過ぎない。この名は当時から今もなお使われて来た。
 然し単に「文学を愛す」というだけで明確な観念形態の旗印のない「S兄弟」たちは
遂に団体としての存在意義を失い、チリジリになり消滅し、後に他の同伴者と同じく、
夫々が個人としての才力で、文学的な評価を受けた。
 4-5年前、中国はかつて盛大にソ連文学を紹介したが、それは同伴者の作品が多かった。
これも異とするに足りず、一つにはこの種文学がわりと早く興り、西欧と日本の称賛を受け紹介されたのが中国にも多くが重訳された機縁による。二つには多分この種の立場を立てぬという姿勢が却って紹介者の称賛を得やすかった故で、彼は自分では「革命文学者」と思ってはいたのだが。
 私はこれまで東欧文学を紹介してきたが、同伴者の作品も数編訳し、今併せて十人の
短編を一冊にまとめた。内三篇は他の人の訳だが、しっかりした訳だと信じている。
惜しむらくは、紙幅の関係で有名な作家全員を収められなかったことだが、曹靖華君の
「煙管」と「四十一」はこの欠点をおぎなっている。
作者の略伝と作品の翻訳或いは重訳の出典は巻末の「後記」に記したから、読者が興味を持たれたら、調べられるとよい。
    32年9月9日 魯迅 上海にて
 
訳者雑感:
 魯迅自身も辛亥革命の前の活動時期から、党員になったり積極的に行動に出るという
ことから一歩身を引いていた。彼自身も同伴者であったし、どの立場にも立たないという姿勢であった。それがこの竪琴の作品の中の同伴者の姿勢と同じだと認識しながらこれを
訳出したのだと思う。  2011.12.9.訳


 

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我々はもうダマされないぞ

帝国主義はきっとソ連に進攻しようとする。ソ連がよりうまく回りだすと、彼らは急いで進攻しようとするのは、一刻も早く滅亡させようとするためだ。
 我々は帝国主義とその手先に実に長い間ダマされてきた。十月革命後、彼らはソ連が如何に貧乏になり、凶悪になり、文化を破壊してきたか言い続けてきた。しかし今、事実はどうか?小麦と石油の輸出が世界を震撼させたではないか?正面の敵である実業党(フランス参謀部の指示を受け、社会主義建設を破壊しようとした:出版社)の首領は只の十年の禁固刑で済んだではないか。(伝えられるほど凶悪ではないとの意か:訳者)レニングラード、モスコーの図書館と博物館も爆破されなかったではないか?セラフィモビッチ、ファジェーエフ、グラトコフ、セプリーナ、ソロコフ等の文学家は西欧や東アジアで彼らの作品を称賛しないものは無かったではないか?芸術については余り知らないが、ウマンスキーに依れば、1919年にモスコーで展覧会が20回、レニングラードで2回(Neue Kunst
in Russland)開かれ、現在の盛んなことは想像できる。
 然しデマゴギーは極めて無恥かつ巧妙で、事実が彼の言葉のデタラメさを証明するや直ぐ身を隠し、別の一団としてやって来る。
 最近パンフレットに米国の財政復興の希望が見えてきたとし、序に言う、ソ連での買い物は常に長蛇の列で、今なお相変わらずである、と。どうやら筆者は並ばされる人たちの不満を代弁し、慈悲の心を施そうとしているようだ。
 この件は、私はソ連が内的にはまさに建設途上であり、外からは帝国主義の圧迫で
多くの物資が十分に回らぬためだと信じるが。但我々も他国の失業者が飢えと寒さの中で
長い列を作っていると聞くし:中国人民は内戦と外国の侮り、水害、搾取の大網の中で、
長い列を作って死に向かっているのだが。
 然るに帝国主義とその奴才連中はまたもやって来ては、ソ連がいかにひどいか悪口を言い、彼はどうやらソ連が一足飛びに天国に変じ、人々が幸福になるのをひたすら願っていたかのようである。今、逆にそうなってしまったので、彼は失望し、不機嫌なのだ。――
まことに悪鬼の涙だ。
 目を見開いて良く見れば、悪鬼の本性が現れ――彼はなんとか征伐しようとする。征伐の一方で、たぶらかしもする。正義・人道・公理の類の話をまき散らす。思い出せば、欧州大戦時に我々の多くの労働者をダマして前線に送り、自分たちの代わりに死なせた。次いで北京の中央公園に無恥かつ愚かにも「公理は戦勝した」との牌坊(鳥居形の)を建てた(だが後に撤去されたが)。今はどうか?「公理」はいずこにありや?これはたった16年前のことだ。我々は今も覚えている。
 帝国主義と我々は、奴才を除き、いかなる利害も我々と相反しないものがあろうか?
我々の腫瘍が彼らの宝物であるなら、彼らの敵は我々の友である。彼ら自身が今まさに崩壊してゆく時、自らを支えきれぬし、末路を挽回できぬので、ソ連の発展を憎むのだ。
デマ・呪詛・怨恨、なんでもやったが効果はないので、ついに手を下して叩く他なく、それを潰滅させないとおちおち眠られぬ。では我々は何をすべきか?我々はまたもダマされるのか?「ソ連はプロレタリア独裁で知識階級は餓死するだろう」――有名な記者が私に警告した。そうだ、これで私はいささか眠れなくなった。だがプロレタリア独裁は、将来のプロレタリア社会の為ではないのか?ただそれを壊そうとさえしなければ、成功も当然早まり、階級の消滅も早まる。その時は誰も「餓死」しないだろう。言うまでも無いが、
一時、列に並ぶのもやむなしで、結局は早くなるのだ。
 帝国主義の奴才はソ連を叩こうとするなら、自分も主人と一緒に叩きに行けば良い!
我々人民と彼らは利害が全く相反する。我々はソ連への進攻に反対する。我々は逆にソ連に進攻せんとする悪鬼を打倒しよう。彼らがどんなに甘い言葉を使って、公正そうな顔を装っていようが。
 これこそが我々自身の生きる道だ!
    (32年)5月6日
 
訳者雑感:1932年当時、魯迅は心底からソ連の社会主義建設を信じていたようだ。中国人の膏血を吸い、土地を奪う資本主義帝国主義は中国の敵だ。彼らが目の敵のように憎み、
一刻も早く進攻して潰滅させよとするソ連は彼らの敵である。敵の敵は味方だという論理。
 そこにしか中国に救いは無いと感じたのだろう。残り3年の命をそこにかけたのだ。
弟の周作人は北京で日本人の妻と家族の生活を棄てきれず、日本の傀儡政府の高官として
過ごすのだが、彼の目には日本の傀儡政府の方が脈があると思えていたのだろう。
 もう一人の魯迅の「語絲」時代の同人、林語堂は36年に渡米してしまう。
ソ連、日本、アメリカとそれぞれに明日の自分の身の置きどころを考えたわけだが、もし
魯迅が36年に死なずに49年を迎えたらどうなっていただろうか。
    2011/12/02訳
 

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林克多著「ソ連見聞記」序

十年ほど前、病気で外人経営の病院に行き、待合室にドイツの「Die Woche」という
週刊誌があったので、それを見たらロシアの十月革命の漫画に法務官や教師が描かれてい、
医者、看護婦すらも眉を斜めに目を怒らせ、皆ピストルを手にしていた。私が見た最初の
十月革命の風刺画だったか、心中こんな凶暴なものなのかとおかしく感じた。後に西洋人の書いた旅行記を何冊か読み、ある者はいかにすばらしいか、またある者はどれ程ひどいか、まちまちで訳が分からなくなった。結局自分でこう断定した:この革命は多分貧乏人にとっては良く、金持ちにとってはきっとひどいことだろうし、旅行者の一部の人は、貧乏な人のことを思うから良いと感じ、金持ちのことを考える人は、きっとすべてひどいと
考えたのだろう。                                                                     
 後に、また別の風刺画を見、英語のだが、ボール紙を切って工場学校育児書等を描き、道の両側に建て、参観者をバイクに乗せてその間を走らせる。これは旅行記にソ連の良い所を書いた人に対するもので、参観時に彼らのペテンに引っかかったという意。政治経済は素人だが、去年、ソ連の石油と小麦の輸出が資本主義文明国の人をあれほど驚かせたのは、私の長年の疑問を解いてくれた。思うに:仮面をかぶった国と殺人ばかりする人民には、決してあのような巨大な生産力を持てぬから、あれらの風刺画は恥知らずの欺瞞だ。
 だが我々中国人は実に小さな欠点があり、即ち、他国の良いことを聞いて学ぼうとしないのだ。特に清党(国民党の共産党粛清)以後は、建設めざましいソ連に触れたがらない。
もし触れると意図する所があって言うのでなければ、きっとルーブルを貰っているとなる。
さらには宣伝と言う二字は中国ではまったくぼろぼろの状態になっている。人々は金持ちの電文や会議の宣言、有名人の談話など飽き飽きしており、発表後すぐ消えてしまうのは、
屁の臭さの長さに及ばぬ。それでだんだん遠くの話しや将来の素晴らしい点を挙げる文章は、すべてペテンとみなし、所謂宣伝もただ自分の利のためにするとんでもない嘘の雅号だと思っている。
 目下の中国にはこの類が常にあふれ、欽定や官許の後押しで、何阻まれることなく至る所へばらまかれるが、読む人は少ない。宣伝は今、或いは後に事実でもって証明すべきで、
それで初めて宣伝と言える。だが中国の今の所謂宣伝は単に後にその「宣伝」がまぎれもなく嘘だという事実を証明するのみならず、更に悪い結果として、凡そ書かれている文章は、おかしいと人々を疑心暗鬼にさせ、ついには、むしろそんなものは見ない方がまし、ということになる。即ち、私自身もこの影響を受け、新聞で新旧三都(南京、洛陽、西安)
の偉観とか、南北二京(南京北京)の新気運とかはやすが、固よりただ表題を見ただけで、
身の毛がよだつし、外国の旅行記すら見る気にならぬ。
 ただこの一年、そんな構える必要なしに一気に読み終えたのが二冊ある。一冊は胡愈之
氏の「モスコー印象記」でもう一冊がこの「ソ連見聞記」だ。細かい文字を読む力が弱いので、読み続けるのに苦労したが、この自分で「メシの為に働かざるを得ない」という
労働者作家の見聞を、終いまで読んでしまった。途中で統計表を解説するような箇所もあり、私もやや無味乾燥に感じたが、それもそう多くはないので終わりまで読み続けた。
その理由は作者が友達に話しているようで、美しい言葉や巧妙な書き方もせず、平坦で
直叙しているし、作者は普通の人で文章も普通で、見聞したソ連も普通の所で、人民も
普通の人で、設定も人情にかない、生活も普通一般の人間らしく、何ら奇異をてらうことはない。つやっぽいことや奇を探し求めると、当然失望は免れぬし、真相を覆い隠すことのない状態で知るためには大変良い。
 またこの本から、世界の資本主義文明国がきっとソ連に進攻しようとする理由が少し
理解できる。労働者農民がみな人間らしくなるのは、資本家と地主にとって極めて不利だから、必ずこの労農大衆の模範を殲滅しようとする。ソ連が普通尋常になればなるほど、
彼らはより恐れる。5-6年前北京で(共産党の影響の強い)広東で裸のデモが起こったことが盛んに伝えられ、後に南京上海でも(共産党の)漢口の裸デモが盛んに宣伝された。
それは敵が尋常ではないことを願った証拠だ。この本に依れば、ソ連は彼らを失望させた。
なぜか?ただ単に妻を共有(共妻)するとか父殺し、裸デモなどの「尋常ならざること」
が無いだけでなく、多くの通常の事実があり、それは即ち「宗教・家庭・財産・祖国・礼教…一切の神聖不可侵」なものが糞土の如く放擲され、ひとつの斬新な真に空前の社会制度が、地獄の底から湧きだしてきて、数億人の群衆自身が自分たちの命運を支配できるようになった。この種の極めて通常な事情は、ただ「匪賊(国民党が革命軍をこう称した)」
がいて初めて成し遂げられた。殺すべきは「匪賊」也だ。
 ただ作者がソ連に行ったのは十月革命の十年後だから、彼らの「我慢、辛抱、勇敢及び
犠牲」で如何に苦闘し、やっとのことで今の結果を勝ち得たかを語ってくれるが、その
故事はたいへん少ない。これは他の著作の任務で、それらをすべて作者に求めるのはできぬ。だが読者はこの点を軽視してはならず、さもないとインドの「譬喩経」の言うように、
高楼を造ろうとして、地上から柱を立てるのに反対するようなもので、さもないと彼が造ろうしているのは、空中の楼閣に過ぎなくなってしまう。
 私が何の警戒もせずに読み終えたのは、上のような理由の為だ。本書に書かれたソ連の良いところを信じるもう一つの理由は、十年ほど前ソ連がいかにひどくて見込みが無いか
と悪口を並べた所謂文明国人が、去年石油と小麦を前にして、ガタガタ震えたことだ。
 更に確かなことは:彼らは中国の膏血を吸い、中国の土地を奪い、中国人を殺すのを見たことで、彼らは大ペテン師で、彼らがソ連の悪口を言い、ソ連に攻め入ろうとすることで、ソ連が良いところだと分かる。本書は実にいっそう私の意見を実証してくれる。
     1932年4月20日、魯迅 上海閘北寓楼にて記す。
 
訳者雑感:1930年頃のソ連に対する魯迅の思い入れは大変なものがある。その思い入れを
促したものは何かといえば、中国人の膏血を吸い、中国の土地をかっさらう日本を含む所謂資本主義文明国が、ソ連の悪口をさんざんまき散らし、ソ連に攻め込んでソ連政府を倒そうとしているからだ。即ち中国を食い荒らす資本主義文明国がにっくき敵と考えている
ソ連は資本主義の敵であり、その資本主義文明国にいいようにされている中国にとっては、
敵の敵は味方だ、という図式である。
 ソ連の建設が石油と小麦を大量に生産し、輸出市場に出てきたため、石油が暴落し、小麦などの食糧価格も下がり、これらを輸出してきたアメリカに大きな打撃を与えたから、
資本主義文明国はガタガタ震えだしたのだった。
 そのソ連は崩壊し、今日の世界は中国という共産党という名の一党独裁の社会主義を標榜しながら資本集積による大量安価生産品の輸出により、米欧諸国の生産体系が混乱を
呈して、失業者が街にあふれて、政府ががらがら崩れそうな状態である。
 ソ連死して中国が資本主義文明国をひっくりかえそうとしている。魯迅がまだ生きていたら、どんな雑文を書いてくれただろうか。
 虎は死んで皮を残す。さらあと10-20年後にこの虎はどうなるのだろうか。
      2011/12/01訳
 

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「計する所に非ざるなり」

 新年第一回の「申報」(1月7日)が、「要電」を用いて我々に告げて:
「陳(外相、名は友仁)と芳沢の友誼は甚だ深いから、外交界の観測では、
芳沢が帰国し、日本の外相に就任したら、東省(満州)の交渉は陳との私的関係から、より良い解決が得られると期待される」という。
 中国の外交界は中国では何でも「私的感情」というのに見慣れており、こうした観測は元来怪しむに足りぬ。但しこの「観測」から「私的感情」が政府内でいかに重要かが「観測」できる。
 然るに同日の「申報」にまた「要電」で「錦州が三日陥落し、連山、綏中も
続けて落ち、日本陸戦隊が山海関に至り、駅に日章旗を懸けた。
 而して叉同日の「申報」に「要聞」として「陳友仁は東省問題宣言」で「…
…前日すでに張学良に、錦州を固守し積極的に抵抗し、今後もこの旨を堅持し、いささかも変えることのないように、と命じた。不幸にして敗北などとは、
計する所に非ざるなり。…」と。
 しからば「友誼」と「私的感情」はどうやら「国連」とか「公理」「正義」の
類と同様、無効なようで「暴力をふるう日本」は中国とは似ても似つかぬ国で、
専らそんなことをいってみても、それはまことに只「不幸にして敗北するは、
計する所に非ざるなり」の結果となる他ない。
 きっと「愛国志士」が首都南京に請願に行くだろう。勿論「愛国の熱情」は
「特に称賛」するものだが、まずは「常軌を逸せぬよう」にし、次には内政部長、衛戍司令の諸大人との「友誼」「私的感情」がどの程度かを自分で良く考えること。もし「余り深い関係」でなければ、内政界の観測に依れば、ただ単に
「より良い解決を得るのが難しいだけでなく、――直言を許してもらえば――
多分前例の通り「自ら足を滑らせて溺死した」という人が出る。従って請願に
行く前に宣言を順部しておくのが良い:結末に「不幸にして自分で足を滑らせて溺死」しても、「計する所に非ず!」と。そして叉この言葉も真の言葉だということを悟らねばならない。
    (1932年)1月8日
訳者雑感:出版者注には、「足を滑らせて溺死」というのは、1931年9月18日の事変以後、国民党政府の不抵抗政策に反対する各地の学生が南京に続々と請願に押し寄せたのを軍警が屠殺逮捕した際、負傷した学生を河に投げ込んで、
翌日「彼らは足を滑らせて溺死した」と虚偽の発表をしたことを指すという。
表題「計する所に非ず」とは計算外とか、想定外に近いと思われるが、みすみす負けると分かっていながら、「徹底抗戦」とかスローガンは勇ましいが、その実、不抵抗政策で日本軍にはとても敵わないから当面抵抗はしない、ということからすれば、「不幸にして敗北するのは計する所に非ず」とは敗北しても止むを得ないし、敗北を認める他ないという、中国人一流の言い回しだろう。
日本軍部も「汪兆銘政府相手にせず」とか訳の分からないことで重要な時期を
糊塗したために、引くに引けない泥沼に陥ってしまった。
 蒋介石政府、汪兆銘政府、共産党政府、地方軍閥の割拠する中での外交政策が「私的感情」という個人間のパイプで細々と繋がっていたのが、当時の要路の最後の支えだったのだろうが、9.18事変以降、一気にそれらのパイプが断たれてしまうことになった。
 魯迅のこの雑文は、「愛国志士」がまたもや「足を滑らせて溺死」するのを
目にしたくない、との切なる願いである。
     2011/11/29訳
 

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南腔北調集題記

題記
 
 一両年前、上海に一人の文学家がいて、今はもうここにはいないようだが、当時は
しょっちゅう他人をネタに彼女の所謂「素描」を書いていた。私も赦免されず、それに
依れば、私はとても講演をするのが好きだが、話す言葉はどもる上に、その話しぶりは
南の方言を北のトーンで語る、という。前の二点については驚いたが、後の一点は敬服
した。その通りである。私は柔らかな蘇州の話し言葉はしゃべれないし、ころころと響く
北京語の音も出せぬし、調子も外れ流暢ではなく、実に南の方言を北のトーンで話す。
 更にこの数年、この欠点は文章にも伝染する勢いで:「語絲」が休刊となり、自由に
書ける場所が無くなり、雑文の筆も夫々の編集者の立場を考慮せねばならず、文も決まりきったことじゃ飽き足らないので、言うべき点は少し言うが、言えぬ所は放っておく。
例えば映画でも時々、黒ンボ(原文は黒奴で30年代のままとする:訳者)が怒って色をなしている場面を目にするが、同じ黒ンボでも鞭を手にしたのがやってくると、あたふたと
頭を下げるでしょう?私もまた同じで、何も恐れぬというわけにはゆかない。
 そうこうしている内に、はや年末となり、近所の家で爆竹を鳴らし、一夜明ければ「天は歳月を重ね、人も寿を加う」のだ。静かで他にすることもないので、この2年に書いた
雑文を取りとめなくめくって並べてみると、すでに一冊分となっている。と同時に上記の
「素描」のことを思い出し、「南腔北調集」と名付け、まだ本になっていない将来の「五講
三嘘集」と対にする準備とする。私塾で勉強していた時、よく対を作ったが、この積習が今も洗い清められない。題は時に「偶成」「漫余」「作文の秘訣」「ごまかしの心伝」などと
玩んだことがあるが、今回は書名にまでそれが及んだわけだ。余り良いことではない。
 次に自分も:今年「偽自由書」を印刷し、これも印刷に回すと来年にはすぐ叉一冊でると思った。それで我ながらおかしくなって笑ってしまった。この笑いはちょっと悪意がある。私はその時、梁実秋氏のことを思い出し、彼が北方で教授をしながら副刊を編集し、徒弟の一人がその副刊に、私とアメリカのH.L.Menckenが毎年一冊本を出そうとする点が
似ていると書いている。毎年一冊本を出すことが、毎年一冊本を出すMenckenと似ているというなら、西洋料理を食べて教授をしているのは、真にアメリカのBabbitと同じになれるということになる。低能もどうやら伝授可能の様だ。ただ梁教授は彼のことが原因で、
Babbitを巻き添えにすることを嫌っている。というのも、小人のデマ(魯迅の言ったことを指す:出版者)のせいで、MenckenはまさしくBabbitと全く相反する人物で、私を彼に比すとは、自分の孫弟子の口から出た言葉とはいえ、骨の中はBabbit老夫子の鬼魂が、
祟っているからだ。指先でピンと弾けば、君子はすぐ宙返りをする。
私もまだまだ腕と目は確かだと思う。
 が、これはちっぽけなこと。大事なことは去年1月8日に書いた「計した所に非ず」で、
幽霊に取りつかれたように悪夢を見、いい加減な状態のまま、もう2年経った。怪事は
随時襲い来たり、我々もすぐ忘却してしまうから、こうした雑感を重ねて温めないと、自分で短評を書いた私自身も少しも覚えていないことがある。一年に一冊出すのは確かに、
学者たちの頭を横に揺らせることができる。しかし只この一冊が浅薄でもこれで遺聞逸事を留められれば、中国がいかに大きく、世の移り変わりがひどくとも、必ずしも多すぎるということにはならないと思う。
 二年来の雑文は「自由談」に載せた物以外はほとんどここに入れた。序や跋は見るべき物のみ数編選んだ。ここに載せたのは当時「十字街頭」「文学月報」「北斗」「現代」「涛声」
「論語」「申報月刊」「文学」等に書いたものだが、大抵は別のペンネームで投稿したが、内一篇は未発表の物がある。
   1933年12月31日の夜、上海の寓居の書斎にて記す。
 
訳者雑感:
 1933年の大晦日に近所の家から爆竹の音が聞こえる。天は歳月を重ね、人も寿を加える。
この3年後に魯迅の寿は途絶える訳だが、彼の人を罵る文章はその手を緩めることは無い。
多くの学者先生がそれを見ては頭を横に揺らせ、魯迅を罵り返す。それを徒弟とか仲間に
書かせる。自分で手を汚さずにしようとするが、弟子の文章なんかでは魯迅にかないっこ
ない。魯迅は露骨にも「低能も伝授可能のようだ」と罵る。西洋料理を食べ教授をしているという点だけの共通点で梁氏とBabbitを比すごとくに、毎年一冊の本を出すという点
だけで、魯迅をMenckenと比すなど、まさに低能としか言えない。毎年この学者先生を
罵る雑文の本を出すということが、よほど腹にすえかね、頭に来ているのだろう。
それにしても魯迅の罵りは痛烈極まりない。寿を縮めたのも止むを得ぬことのようだ。
      2011/11/27訳
 
題記
 
 一両年前、上海に一人の文学家がいて、今はもうここにはいないようだが、当時は
しょっちゅう他人をネタに彼女の所謂「素描」を書いていた。私も赦免されず、それに
依れば、私はとても講演をするのが好きだが、話す言葉はどもる上に、その話しぶりは
南の方言を北のトーンで語る、という。前の二点については驚いたが、後の一点は敬服
した。その通りである。私は柔らかな蘇州の話し言葉はしゃべれないし、ころころと響く
北京語の音も出せぬし、調子も外れ流暢ではなく、実に南の方言を北のトーンで話す。
 更にこの数年、この欠点は文章にも伝染する勢いで:「語絲」が休刊となり、自由に
書ける場所が無くなり、雑文の筆も夫々の編集者の立場を考慮せねばならず、文も決まりきったことじゃ飽き足らないので、言うべき点は少し言うが、言えぬ所は放っておく。
例えば映画でも時々、黒ンボ(原文は黒奴で30年代のままとする:訳者)が怒って色をなしている場面を目にするが、同じ黒ンボでも鞭を手にしたのがやってくると、あたふたと
頭を下げるでしょう?私もまた同じで、何も恐れぬというわけにはゆかない。
 そうこうしている内に、はや年末となり、近所の家で爆竹を鳴らし、一夜明ければ「天は歳月を重ね、人も寿を加う」のだ。静かで他にすることもないので、この2年に書いた
雑文を取りとめなくめくって並べてみると、すでに一冊分となっている。と同時に上記の
「素描」のことを思い出し、「南腔北調集」と名付け、まだ本になっていない将来の「五講
三嘘集」と対にする準備とする。私塾で勉強していた時、よく対を作ったが、この積習が今も洗い清められない。題は時に「偶成」「漫余」「作文の秘訣」「ごまかしの心伝」などと
玩んだことがあるが、今回は書名にまでそれが及んだわけだ。余り良いことではない。
 次に自分も:今年「偽自由書」を印刷し、これも印刷に回すと来年にはすぐ叉一冊でると思った。それで我ながらおかしくなって笑ってしまった。この笑いはちょっと悪意がある。私はその時、梁実秋氏のことを思い出し、彼が北方で教授をしながら副刊を編集し、徒弟の一人がその副刊に、私とアメリカのH.L.Menckenが毎年一冊本を出そうとする点が
似ていると書いている。毎年一冊本を出すことが、毎年一冊本を出すMenckenと似ているというなら、西洋料理を食べて教授をしているのは、真にアメリカのBabbitと同じになれるということになる。低能もどうやら伝授可能の様だ。ただ梁教授は彼のことが原因で、
Babbitを巻き添えにすることを嫌っている。というのも、小人のデマ(魯迅の言ったことを指す:出版者)のせいで、MenckenはまさしくBabbitと全く相反する人物で、私を彼に比すとは、自分の孫弟子の口から出た言葉とはいえ、骨の中はBabbit老夫子の鬼魂が、
祟っているからだ。指先でピンと弾けば、君子はすぐ宙返りをする。
私もまだまだ腕と目は確かだと思う。
 が、これはちっぽけなこと。大事なことは去年1月8日に書いた「計した所に非ず」で、
幽霊に取りつかれたように悪夢を見、いい加減な状態のまま、もう2年経った。怪事は
随時襲い来たり、我々もすぐ忘却してしまうから、こうした雑感を重ねて温めないと、自分で短評を書いた私自身も少しも覚えていないことがある。一年に一冊出すのは確かに、
学者たちの頭を横に揺らせることができる。しかし只この一冊が浅薄でもこれで遺聞逸事を留められれば、中国がいかに大きく、世の移り変わりがひどくとも、必ずしも多すぎるということにはならないと思う。
 二年来の雑文は「自由談」に載せた物以外はほとんどここに入れた。序や跋は見るべき物のみ数編選んだ。ここに載せたのは当時「十字街頭」「文学月報」「北斗」「現代」「涛声」
「論語」「申報月刊」「文学」等に書いたものだが、大抵は別のペンネームで投稿したが、内一篇は未発表の物がある。
   1933年12月31日の夜、上海の寓居の書斎にて記す。
 
訳者雑感:
 1933年の大晦日に近所の家から爆竹の音が聞こえる。天は歳月を重ね、人も寿を加える。
この3年後に魯迅の寿は途絶える訳だが、彼の人を罵る文章はその手を緩めることは無い。
多くの学者先生がそれを見ては頭を横に揺らせ、魯迅を罵り返す。それを徒弟とか仲間に
書かせる。自分で手を汚さずにしようとするが、弟子の文章なんかでは魯迅にかないっこ
ない。魯迅は露骨にも「低能も伝授可能のようだ」と罵る。西洋料理を食べ教授をしているという点だけの共通点で梁氏とBabbitを比すごとくに、毎年一冊の本を出すという点
だけで、魯迅をMenckenと比すなど、まさに低能としか言えない。毎年この学者先生を
罵る雑文の本を出すということが、よほど腹にすえかね、頭に来ているのだろう。
それにしても魯迅の罵りは痛烈極まりない。寿を縮めたのも止むを得ぬことのようだ。
      2011/11/27訳
 

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現代映画と有産階級 その4

訳者付記(訳者としての魯迅の)
 本編の題は元来「宣伝扇動手段としての映画」だった。 所謂「宣伝・扇動」は、元は支配階級のその方面を指して言った言葉で「造反」とは全く無関係だった。 この呼び方を今は多くの人が嫌っている。支配階級のその筋は特にそうだ。その原因は本文の第7章「映画と小市民」の前段に明らかだ。  また本編はもともと「映画と資本主義」の一部だったが、未完のままで、 これは「新興芸術」1-2号の初稿から翻訳した。作者は編末に声明を出し、 それを訳出すると 『私の「映画と資本主義」は元来本稿に続けて社会的逃避映画、プロレタリア階級の宣伝映画など、順次テーマとして完成の予定だった。が、僅か有産階級映画を上記の様に研究したのみで、暫時筆を置くことになった。
 叉本稿は項目ごとに、独立の研究の様に広範な材料を取り上げ、極めて概括的な一瞥を与えているに過ぎず、この点、全編は常識的に過ぎることになった。私自身も頗る残念に思う』
 ただ私は偶然これを読み、大変有益と思った。上海の新聞に映画の広告は毎日大概全2ページを割き、次から次に競って何万人動員、製作に何百万かけ云々と誇り「とても風情のある、ロマンチック、エロチック(或いは悲しくも美しい)、肉感的、滑稽、恋愛、熱情、 冒険、勇壮、任侠、神秘奇怪…空前の大作」などこれを見ないと死んでも死にきれないと、感じさせるほどだ。今この小さな鏡で照らすと、こうした宝は十中八九はこの本文に挙げられたものの一類に帰納でき、どんな目論みで、何を目的にしているか全て分かる。但し、それらの映画は本来中国人を対象としていないから中国に持ち込まれた目的は、製作字の目論みと異なり、旧式の銃砲を武人に売って、ちょっと金もうけするのと同じだ。中国人はこうした見解に対して、勿論彼ら本国人とは異なり、広告宣伝の客を引き付けようとする文句を見ただけで、そのことが良く分かり、各種のフィルムは大抵ただ「とても風情のある、ロマンチック、エロチック(或いは悲しくも美しい)、肉感的…」となる。然るにぼわーっとした中にも効き目があり、彼らが「勇壮な任侠」の戦争大作を見て、 思いがけなく、ヒーローはかくも英武にすぐれていると感じ、自分は奴才に過ぎず、 また「とても風情のある、ロマンチックな愛情大作を見て、その夫人はかくも「肉感」があると感じどうにもしかたなく――自分が他に及ばぬと引け目を感じ、白系ロシアの妓女を買って自ら慰むくらいは今もできる、と。  アフリカの土人は白人の鉄砲を大変好み、米国の黒人はいつも白人の女を強奸しようと思い、火あぶりの刑にあってもそれを止めさせられない。彼らが実際に「大作」を見たからだ。しかし文(明)と野(蛮)の差は大きく、中国人は古い文明国人だから、たいてい、
敬服しても実際の行動には至らぬ。  自分で読んだ後、上記の如き感想をもったので、一部を読者に紹介し、長い時間をかけ、訳出した。 原文は元々大変簡潔だが、映画は門外漢の私ゆえ、一般的な術語も調査が要り、
他の人より煩雑で難しい点も多く、色々な問題も出てきて去年の古新聞を引っくり返しても、探し出せないのは「硬訳」にするしか無く、更に誤訳も免れまい。只、大体において読者には何らかの貢献ができると信じる。
 去年米国の「任侠スター」Douglas Fairbanksはお金が貯まったので、東洋に遊びに来た。 上海の団体が幾つか歓迎の準備をした。中国は元来「俳優を贔屓にする」クセがあり、加えて、唐宋来、生を偸む小市民は、自分に代わって鬱憤をはらしてくれる「剣侠」を崇拝し、「七侠五義」「七剣十八侠」「荒山怪侠」「荒林女侠」…など枚挙にいとまがない。映画を見ればすぐ外国の「七侠五義」即ち「三銃士」の類を敬服する。古い外国の侠客は すでに往き、今はただ外国の侠客を演じる外国の演劇を敬服するほかない。まあ「屠門を過ぎ、大いに嚼(しゃく)し肉を得られずとも叉快なり」(「文選」曹植の「与呉季重書 で、まさに梅蘭芳を贔屓にする者は、彼が演じる天女、黛玉などと関係ないとは断じて 言えないというが如く、怪しむに足りぬ。
 ただ、一部の人は反対し、彼が「バグダッドの盗賊」を演じた時、蒙古の太子を投げ殺したのは、中国を辱めた、と非難した。その実「バグダッドの盗賊」のヒーローは、密か
に、二階級昇進し、ついには王様の娘婿になり、まさに続く第7巻で詳細に説くように小市民或いは無産者をして「この飛翔する物語に激励され、有産階級に忠義を尽くすこと
を、誓おうとする気にさせる」娯楽映画であって、中国を辱めるものではない。いわんや、
物語は「千夜一夜」の物で、Fairbanksは作者でも監督でもないし、我々も蒙古の太子の
子孫や奴才でもないから、彼に対して、ドルの為に演じる一個人に対してかくも真剣に、
怒ることも無い。ただ、端無くも怒ったからには、これも中国によくある慣例で怪しむに
足りぬよくあることだ。
後に、 F氏が来華し、ある団体が歓迎会を開こうとしたが、大きな障害にぶつかり、「F氏
の代理人がF氏は公共の宴席には絶対に出ない、という」ので、外国の侠客の尊顔を拝す
る光栄に浴せなくなった。F氏は「日本到着後、全日程はすべて日本人によって手配され、
かつ東京に着くや映画館に行き、日本の民衆にまみえた」(民国18年12月19日「電報」)
我々当地の蒙古王の子孫は更に没落の感に堪えず、上海映画協会は丁寧に抑揚した手紙を
「大芸術家」宛てに出した。全文は極めて研究に値するところがあるが、紙幅の関係から、
一部のみ摘録すると――
『 「バグダッドの盗賊」で蒙古の太子の演技の状況が極めて劣悪だったことは、東方の
歴史を知らぬ観客に東方民族の性質を知らない人に、良くない印象を与えるのは人類相愛
の過程で、大変大きな障碍となる。東方中華民国人民の状態は、あの演じられたように、
劣悪ではない。弊教会一同は映画芸術の力をよく知っており、転輾と全世界の民情風俗、
知識学問を紹介してきており、言いかえれば全世界の人々の相互の愛と世界人類の憎しみ
も導き入れることができる。弊協会一同は先生を愛する故を以て、先生を大芸術家と考え
る故を以て、先生が改善に努められるよう願い、先生が他人のように、世界に真実でない
ことを紹介し、名誉に傷が付くのを願わない』
 文中に映画の観客への力が偉大と言っているのは正しいが、蒙古太子が「中華民国人民」
というのは、歓迎反対論者と同じように間違っている。中でも、大きな間違いはF氏に
「全世界の人々が相互に愛すように」と勧めるのは、彼がアメリカで大稼ぎしている映画
人だというのを忘れている。そのためこの小さな考えの差で、声を低くし意気地なくも、
彼に本当の「4千年以上の歴史文化に培われた精神」を世界に紹介して欲しいと託して
いるのだ――
 『幣会は更に4千年以上の歴史文化に培われた精神で、声を大にして先生に告ぐ。我中
華人民の美徳を尊重し、礼儀を重んじる点、貴国の人民にもともと劣ることは無い。更に
貴国政府が常に国際社会で公正な道を主持される故を以て、我中華人民の敬愛する所也。
先生は今回の東遊の短い間に、真実の証拠をすでに御覧になられたと思う。今日我中華の
政治状態は、まさに革命完成の経るべき過程の最中である国内戦争中であり、不穏な擾乱
の中にあるが、中華人民は外国から来られた先生の様な賓客に対し、持すべき礼節を忘れ
ることは無いし、人を愛するという気持ちを表明します。この状況は先生がご自分の耳目
で見聞され、真実を明らかにしてください。中には異なる意見を表明する者もいますが、
この種の言論はみな先生の代理人及び代理人から己の為に引用した参加者の礼にもとり、
人情にもとる者の発言が引き起こしたのです…』
 『先生が東遊の後、得られた真実の状況を貴国の同業に紹介し、更には世界に紹介し、
世界の人類を中華の全4億余の人民と相愛の親近感を持てるようにさせ、相憎み背馳の
状態にならぬことを希望し、以て世界の良くない状況を発生させぬようにし、我中華人民
として、先生を敬愛すること、米国を敬愛するが如くにさせてください』
 だが、説明した精神を一言でいえば、我々蒙古王の子孫がたとえ国内でどんなに内戦で
擾乱していようが、西洋人に対しては極めて礼儀正しいという点だけだ。
 これはまさに圧服された古い国の人民の精神で、特に租界においてその通りである。
圧服されているため、ただ人に託して世界に宣伝してもらうしか方法が無く、へつらう
ことは免れぬ。但、自分はまた「4千年以上の歴史文化に培われた」と思っているので、
人に託して世界に宣伝してもらえると考えているのは、少し驕ってもいる。
驕りとへつらいが糾結するのは没落した古い国の人民の精神の特色だ。
欧米帝国主義者は、廃物の銃を使って中国を内戦の擾乱に陥れた上に、古い映画を使って
中国人を驚かせ、ごまかしている。
 旧いものを更新した後、更に内地に運び、ごまかしの教化をしている。それで私はこの
「映画と資本主義」という本は現在、ほんとうに無くてはならぬ物だと思う。
    1930年1月16日 L(魯迅の署名の一つ、これを発表時は伏せたもの:訳者)
 
訳者雑感:岩崎が宗教と戦争を映画で結合して、観客から膨大な「お布施」を巻き上げ、
大稼ぎした、と資本主義社会の映画製作の実態をさらけ出した筆法を使って、この付記で
魯迅は、1930年前後の中国の国共及び各地の軍閥が、欧米の兵器会社から(欧州大戦で)
使い古された「廃物」同然の銃砲を大金で買わされて内戦の擾乱の最中に、これまた
欧米で公開後古くなった映画をどんどん売りつけてきて、小市民、無産階級の人々を
アメリカがアメリカ国民の思想を支配階級に都合のよいように宣伝扇動したごとく、
同じようにしようとしていることを、この岩崎の文章を紹介することによって、何とか
一部のめざめた中国人に紹介しようとしたことが良く伝わってくる。
岩崎の著書は余りないが日比谷図書館の書庫に白楊社刊昭和26年版「世界映画史」を
見つけ、この文章と比べて参考にした。彼はドイツ映画の輸入を手掛け、戦後は東宝で
活躍したが、これを書いた後で官憲ににらまれ、日本にいられなくなって上海に渡って、
魯迅とも交際があった由。
        2011/11/26訳
 
 
 
 
 
 
 
 

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現代映画と有産階級 その3

現代映画と有産階級 その3
5.映画と宗教
 全時代を通じて、宗教は支配階級の役に立ってきたことは何度も証明されている。
 東洋では仏教的忍従と現世蔑視で、西方ではキリスト教的平和主義として、現存の階級
社会の積極的な改革を阻もうとした。
 20世紀には宗教はもはや昔の権威と信仰を失ったが、失った為に支配階級の奴僕に対する態度はより露骨になり、意図的になり始めた。
 物質文明の発達が遅れた国では、宗教はまだ大きな宣伝扇動力がある。資本主義はそれで宗教と映画を結びつけ、同時に利用できるようにした。
 例えば「十戒」「キリスト教徒」「ベンハ―」「King of Kings」「ユダヤ王、ナザレのイエス」の類の宗教映画は感激の涙とともに、全世界の愚夫愚婦、善男信女のポケットから、しっかりお布施を召し上げ、商業的な面からも収益最大のフィルムである。全宗派中で、
ローマカトリック教会は映画の利用に最も注意を払っており、毎年一回映画会議を開き、
その年の全世界への宣伝計画を議定している。
 我々の周囲では宗教の力はとうに殆ど無きに等しい。せいぜい本願寺、日蓮宗の流派が
巡回映画を組織し、農村の農民の信仰をつなぎとめんと尽力しているに過ぎぬ。が、これを以て宗教の世界的な底力を侮ってはいけない。ソビエトの文化革命の暦程を見れば、宗教との闘争は放棄できぬし、現実に起こったことを見さえすればその状況は明らかだ。
6.映画と有産階級
 資本主義的生産方式と有産者政府の監視下に制限されている現今の映画の全ては、殆どすべて有産階級の擁護に使われていることは、すでに明らかにされたと信じる。
 が、ここでは映画と有産階級の関係を狭い意味に限定し、ただ直接的に市民有産階級の栄光と支配に奉仕している映画という種類について論じてみよう。
 この種の映画は概括的に三つに分けられる。
 第一種は封建的貴族社会に対抗して、ことごとく有産階級の勝利を謳歌する役割を果たす。そのため、殆どすべては市民の社会的勃興の歴史に基づいた映画だ。XXまたはXXの
野蛮で横暴の世で、塗炭の苦しみをなめる農民、工商階級。映画の第7巻(終章)で、
有産階級はついに蜂起、映画のクライマックスと壮大な群衆がここで大展開し、典型的な結末で終わる。しかし大多数の映画では有産階級は決して階級の総体として決起はせず、
大抵一人の(往往貴族出身で若くて眉目秀麗な!)英雄の指導で、力点はその個人の英雄主義におかれる。その種の最たる作品は「ロビンフッド」「Scaramouche」  「A Night of Love」
を思い出すだけで十分だ。日本の時代劇特に剣劇映画もたくさん例がある。
 ただ、あの歴史的時代にも新興の有産階級の演じた革命の役割が分かるし、今の無産階級の闘争との間に、大変大きな類似(Analogy)があることが分かる。作者は意識的にアクセントをそれに集中した時、優秀な作品を生み出せる。例えば、「熊の結婚」「農奴の翼」
「スコティン城?」(斯各丁城)「忠次旅日記」などは僅少な代表例だ。
 第二種はプロレタリア革命に反対する映画。
「党人魂」は内務省の検閲で大問題になり、ついに警視庁に上映制限の恐れのある映画に指定されたが、その内容は何だったのだろう?
「大暴動」(魯迅注:上海上映時は「狂風暴雨」)も長さ数巻の小挿絵の御蔭でやっと上映
できたフィルムだが、選ばれたのはどんなテーマなのか?
 これらのフィルムはただロシアのプロレタリア革命を背景としたものだから禁止やカットされたので、要するに描こうとしたのは、プロレタリア革命を統制の無い暴民一揆としただけである。無教養で不道徳な農民と労働者が、多勢をたのみ貴族の館に攻め入り、家具を壊し、美しい少女をXXし、酔って暴れ流血を面白がるだけ。それは無産階級の勝利に、
特に暴虐の仮面をかぶせ、泥を塗り、小市民を反革命に変えさせるための、有産階級のXXだ。我々はここに有産者社会の擁護のような宣伝映画を見、XXXXXXXのXXが禁じた、
ある種の奇怪かつ面白い現象を目にすることとなった。
 固より「Liebe der Jeanne Ney」と「最後の命令」で、十月革命をカットしたが、それは検閲者がなすべきことをしただけの事。
 最後に「大都会」(魯迅注:上海上映時は「科学世界」)は典型的な労使協調映画のシリーズだ。
「大都会」についてもうここで話すべきことは無い。それは「頭と手の間に、心臓が無ければならない」というスローガンを掲げた社会民主義者が、資本家と労働者は戦争に依らずに、相互協力と愛により新たな社会建設が可能だ云々と宣伝するバベルの塔以前の童話だ。
7.映画と小市民
 有産階級の映画宣伝はひとたび階級間の対立がじわじわと顕著になり、決定的に先鋭化してくると、もうそこから逃れられない、不可避的な窮地に陥る。
 実際、映画は大多数の小市民と無産階級が観客で、そして彼ら小市民と無産階級は、とうに有産階級の詭計を察知し始めつつある。即ち、「支配階級の作った自分たちの観念形態への服従を宣告したフィルム、そしてそれで以て無産者のポケットからかすめ取ろうとする手段」とその事実の真相に注視し始めた。
 ルナチャルスキーのソビエト映画について、かつて「拙劣な扇動のため、却って反感を招く結果になった」と説明し、この原則はここでは、有産者的に応用された。
 露骨な宣伝は止めにした。最も望ましいのは、観客に「階級」という観念を見えなくさせることだ。少なくとも銀幕の前に座る数時間はすべての社会的対立を忘れさせること。
こうして小市民の映画が生まれた。
 小市民の家庭劇に二種の特徴的な傾向がある。――
1.あのロマン主義
2.玄妙さを弄ぶ(Sophistication)
 ざっと概観すると現在の映画、特に劇映画は写実主義的だ。また多くの人がこうした
幻想を抱いている。その実、ごく少数の一流作品以外、全て何ら現実的に訴えかけるものは無い。
 勿論ロマン主義といえども、19世紀のブルジョア革命の芸術に特徴的なあの火炎の翼を
持ったロマン主義とは異なる。これは平凡で近視眼的で楽天的な小市民のために作られ、
平凡で近視眼的楽天的ロマン主義である。これはテキサスの農民とシカゴの会社員、アリゾナのカウボーイ、ニュージャージーの牛乳配達、ニューヨークの速記者、ピッツバーグの野球選手、東京の中学生(旧制:訳者注)、横浜の船乗りの誰に対してでも良い。いうなれば、Ready-Madeのロマン主義、象徴的な形相はCollin Moore, Norma Shearer, Clara
Bowなどで、1926年から順次登場してきた。即ちその程度のロマン主義である。
 週給25ドルの大学卒の会社員とミルトンデパートの可愛い娘の恋物語。コニ―アイランド、新フォードの高速車、ジャズ、狩猟。
 アメリカロマン主義に必要なこれ以外の装置と雰囲気は「Vanity Fair」の広告を見れば、
もっと望ましいのは近くの映画館に行き、どれでもいいからアメリカ映画を見さえすれば、
大抵は自分で納得できる。
 読者はこの小市民的ロマン主義はやはり米国資本主義が進みつつある路線の公式的認識と不可分の関係にあることを知らねばならない。この事実はある面、年90億元(ドル?円)のお金が、有産階級の懐に取り込まれ、所謂「Four Hundreds」と言われる有閑階級、利子生活者の大群を生み出した。(Four Hundredsの意味する所 不詳:訳者)
 叉有閑階級、利子生活者の大群は彼ら自身の消費文化娯楽機関を極端に発達し始めた。
消費文化の母胎から、文化爛熟期の特色であるもっともらしい通人趣味、低徊趣味、風刺、
冷嘲などを発酵させた。この過度に洗練された生活感情をSophisticationと称した。パリ式のシックさ、ヤンキースタイルで解釈したHard-Boiledの類はすべてこれと関連し、人々にもてはやされた。
 チャップリンの「A Woman of Paris」ではなんとそのSophisticationの Prototype が表現された。Ernest Lubitschは「 Marriage Circle」で全編にわたってそれを表現した。
モン・ベール、マール・シンクレール、タイバティ・ダライルなど多くの後継者が映画界の玄妙家としてトーンをあげた。
 但、アメリカは全ての資本主義的な興隆の中でも、本体内にはぬぐいきれない内的矛盾を抱えて苦悶した。消費が伴わないのに、一方ではどんどん生産を続け、投資市場を失った大金融資本は、フーバー政府の積極的外交、五百万の失業者天国を抱擁せるアメリカは
今まさに掩飾不能の階級対立の頂点に立っている。この社会情勢は将来どのようにアメリカ映画の中に反映されるか、非常に興味のある問題だ。
(つづく)
訳者雑感:
 魯迅はとても映画が好きだった。蘇州河の北の住まいから上海の繁華街にある映画館に
車に乗ってしばしば映画を見に出かけた。ターザンの映画は何回も見に出かけたという。
岩崎昶が日本にいられなくなった時、上海に招いたりしたのもこの翻訳を通じて、彼のことを尊敬したからであろう。   2011/11/22訳
 
 
 
 
 
 

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現代映画と有産階級 その2

4.映画と愛国主義
 愛国的宣伝映画も世界大戦後の顕著な現象だ。どうしてか?この種の映画は、外見は
異なるが、究極の点は帝国主義戦争への意識的準備、鼓舞であり、その君権主義、好戦性
などから戦争映画として本質的に関連している。
 ではその目的は何か?
 直接的には団体観念、国旗の尊厳の宣伝、間接的には暴力を奨励し、民心を右翼政党に
傾かせ、外国と資本市場を争う際、即刻軍事行動を妥当化するものである。
 この種映画の最も活発な影響は大抵国会議員や大統領の選挙に現れ、ドイツの国権党は、
特に愛国主義的映画で多くの票を獲得した。
 例えば「Friedericus Rex」は日本では大幅カットされ「ライン悲愴曲」と改題された
プロシア勃興歴史映画は、中でも最も成功した例で、まさに大戦後の混乱した時代でかつ
ドイツ革命失敗後に現れた反動の熱狂であり、有産階級の巧妙な宣伝だ。究極的には、飢えに苦しむ小市民たちがこの映画を見て、Friedericus大王近衛軍の精鋭の行進や、七年戦争の堂々たる威勢のいい勝利を見、往年の皇帝の治世を思い出し、無知で安っぽい感激の中で、拍手喝さい、足を踏みならし口笛を吹きだした。
 次いで国民的英雄ビスマルクの伝記を映画化し、ヒンデンブルグの伝記も映画化した。
「ビスマルク」はただその製作の為にビスマルク映画会社を作り、2部20余巻の大作とし、
凡そこの帝国主義政治家の生涯全ての愛国的扇情的要素を一つ残らず盛り込んだ。
「ヒンデンブルグ」はこの老将軍の大統領当選に乗じ――「Friedericus 大王」「ビスマルク」のおかげを利用し――彼の人心掌握のために作られた。
 1927年春、ドイツ国権党の領袖の一人で、アウグスト・カール書店の事実上のオーナー
フォガンベルクは、ドイツの大会社の一つであるウーファ社の財政危機に株の過半を買い取り、同社の社長となった。そこで独の映画事業への影響力はすべて国権党の手に握られた。フォガンベルクはウーファ社の出品計画を立て、露骨に彼の政治主張を顕示した。その最たる世界的な例が「世界大戦」の二部作。
 これに対し、社会民主党内閣は即刻、牽制手段を取った。即ち、ドイツ銀行をフォガンベルクに対抗させ、ウーファ社に投資した。ドイツの独占的大映画会社を国権党の宣伝機関にさせぬために、やむを得ぬ処置だった。「世界大戦」のカット版は日本にも紹介され、
(魯迅注:上海で去年上映)それがどのような傾向と主張を持つかは多分もう詳しい説明は不要だろう。
 表面的に標榜するのは「世界大戦」は1914―17年の戦争中、各国が撮影したフィルムで、
(大半はドイツだが)純粋な歴史的客観に基づき編集されたフィルム記録だ。
 更にこれを専ら自国の勝利への勇敢で愛国的な米国式映画と比べると、真に写実に近い。
しかし注意深い観察者はすぐに見破るだろう。タンナンベックの戦以降、ヒンデンブルグ
将軍の勝利が何度も映し出される。しかも「戦時、何度も祖国を救った将軍であり、平和時には大統領として、祖国の為に尽力した」との字幕とともに、この映画は完結した。
(つづく)
訳者雑感:
第一次大戦後のドイツの混乱を我々は忘れてしまっていた。そこを深刻に受け止め、研究しておいたら、第二次大戦を防げたかも知れぬ。だがそれは歴史にもしもがあったら、ということで、現実は第二次大戦が不可避だとこの論文の書かれた1930年でも想定されている。
 ドイツも戦後の混乱期に「Friedericus 大王」「ビスマルク」「ヒンデンブルグ」などの
過去の英雄の伝記映画をどんどん造って、敗戦に打ちひしがれた国民を慰撫激励したものと思われる。
 我々も第二次大戦後、暫くすると、「明治天皇と日露戦争」など過去の戦勝した英雄たちの伝記映画をたくさん見た記憶がある。
 その一方で、テレビの普及に伴い、大量のアメリカテレビドラマが氾濫し、「コンバット」
を始め、常に米国が正義で悪いファシズム、全体主義、共産主義と闘って世界を守るという宣伝映画をたくさん見させられてきた。それも朝鮮戦争が最後だろう。
 もうアメリカすらベトナムやイラクなどでの戦争映画を過去のようには製作できなくなった。その代わり、スカッドミサイルが夜空を流星の如く飛んでゆき、フセインの軍営を
攻撃するという、リアルタイムの報道がその座を奪った。
      2011/11/18訳

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現代映画と有産階級その一

現代映画と有産階級その一
               (日本)岩崎昶 作
1.映画と観衆
 映画の発明は新たな印刷術の始まりだ。これまで活字と紙で伝達され複製された思想は、
中世の封建的、旧教的社会意識を破壊する力があった。
 ブルジョア社会の勃興と宗教改革はそうした重大な歴史の契機で、これにより結果を得ることができた。今、思想の伝達や観念形態の決定に対して、映画の担う役割は更に積極的、意識的となった。階級社会の擁護も新たな「宗教改革」だ。
 この新しい印刷術は活動写真のシリーズをZelluloidフィルムに印して作る。その活字ハ概念を読者に伝えるのではなく、モーションを具象化して行う。この直接に視覚的という意味において、この上ない通俗的かつ同時に感銘を与える活字で、原則的な言葉という意義からいえば、国際的な活字である。
 宣伝と扇動手段としての映画の効用はここにある。重大なことは映画とその影響を受ける大衆の関係だ。
 具体的な数字でそれを説明しよう。
 英国の映画雑誌(The Cinema)の公表数字によると、1週間に映画を見た観客数は大変な数で、下表の通り。
 国名   アメリカ   イギリス   ドイツ
 常設館数 15,000    3,800    3,600
 人口 1億6百万    44百万   63百万
 週間観客数 47百万  14百万     6百万
 人口比率  45%   33.3%    10.5%
 (Hans Buchner-Im Banne des Films S.21 )
 叉これらの常設館の収容力から一日の観客数は平均下表の通り。
  常設館と収容力
 国名  アメリカ   ドイツ   イギリス
常設館  15,000    3,600    3,800
収容人員 8百万    150万    125万
これらに365日を掛けると
     29億2千万 5億4750万  4億5625万
という年間観客総数の概数が計算できる。この数字は1925年の調査で、比較的新しい統計では世界の常設館は合計約6万5千以上ある。内訳は:
 アメリカ  20,000
 ドイツ    4,000
 フランス   3,000
 ロシア   10,000
 イタリア  2,000
 スペイン  2,000
 イギリス  4,000
 日本    1,100
(Leon Mouaainc-Panoramique du Cinema,p17 )
これから米独英三国の常設館は約30-10%増え、観客数も大体同率の増加と想定され:
三国以外の諸国も同様の増加率と推定できる。
 即ち1925年の統計だが、年間の映画観客総数は米国約29億、欧州約20億、アジア・
中南米・カナダ・アフリカ計10億、総合計59億と伝奇的空想的数字のように見える。
 映画が支配するこの膨大な観衆が映画スタイルの直接性、国際性は映画の数量上、実質上、全て大衆的な宣伝、扇動の絶好の器として使われている。
2.映画と宣伝
 正当にこの宣伝扇動手段としての映画の価値を認識するために、所謂「宣伝映画」という熟語とその概念の意味のないことを知らねばならぬ。
 日本の良い風景を外国に紹介し、客を呼ぶために作った映画、富士・芸者・日光・温泉などをよく宣伝映画と呼ぶ。凡そこれらは時に疾病予防教育や郵貯奨励、保険勧誘の類の為に作られた。当時我々はそのフィルムに装せられた目的を、即刻感じ取り、肺結核の恐う宣伝映画は、往往無料で、タダで見せることから疑惑を持ち、タダで上映するのは必ず何か訳があると思った。この種宣伝映画の目的はすぐに見破られた。
 老いて盲目の母が育てた一人息子、一太郎に召集令状が来、衰弱と老い、そして盲目の母を置いたまま、「君とお国のため」「憎き敵を懲らしめる」為に出征する。勇壮な日章旗、
万歳!一太郎や!と。我々は往往この種軍国美談物を見させられる。こうしたものは即ち、
XX映画会社製作の商業映画で、上映も公会堂や小学校の講堂ではなく、評判の良い一般の常設館で入場料を取って堂々と上映される。こうなると善良でものごとを疑うことのない観客は、これが宣伝映画と感じなくなる。彼らは自分が払った正当な観覧費という一事実で、それが宣伝映画ではない証とする。その実、単純な観客は巧妙に仕掛けられた宣伝に
扇動され、騙されたと言う感覚はない。
然るにその騙しに対して金を払うと言う二重のペテンにはめられたのだ。
市民的用語の慣例上「宣伝映画」の意味のないのは大体以上の通り。なぜか、目的の無い映画は、それだから宣伝映画ではない映画などというものは幻想に過ぎぬからである。
我々が今作れる全ての映画は、隠微な目的――時にはまだ意識的に目的地に到達していない、単に趣味程度に傾いているだけだが。その趣味への傾倒が結果として重要な宣伝価値のある――を摘発し始めた。それは帝国主義戦争への進軍ラッパだったり、或いは愛国主義、君権主義の鼓吹或いは宗教を利用した反動宣伝、ブルジョア社会の擁護、革命の抑圧、
労資協調の提唱、小市民的社会の無関心への催眠術――要するにただ資本主義の利益の為に、専ら思想的布石を講じるためのもの。
 1928年モスコーの中央委員会の席上、映画について「映画を労働者階級の手にするためソビエト教化と文化の進歩の任務を大衆に指導教育組織する手段として」という決議がなされた。ソビエト映画の任務は世界映画史上で資本主義宣伝の澎湃たる波に対抗して、XX
XXXXの宣伝をした。
 世界は今まさに第二次大戦の準備をしており、観念形態の闘争の渦の中にある。映画は
あの59億の観客と一緒に、この闘争の秤の上で、決定的な重みを増してゆく。
3.映画と戦争
 資本主義の宣伝映画の中で最も重要部門は戦争映画だ。
 戦争を映画に取り入れたのはかなり昔である。映画が生まれてすぐローマ、バビロン、エジプト等の兵隊の戦争がでた。当時の映画が舞台に対して唯一のメリットは、ロケと巨大なセット及び群衆の影像の迫力を最大限に具現できた。きらびやかな古代甲冑、城壁に囲まれた都市、神祠、奇怪な偶像、槍盾矛、火矢、石弩。これらの異域情緒は当時、
壮麗な配置で、忽然と現れ、当時まだ映画に対してすごく幼稚な大衆の目を幻惑し、時代にマッチした。
 ただ、初期のこの種の戦争は結局、大がかりなサーカス、武術格闘の芝居と何ら変わらなかった。古代ローマとカルタゴは現代映画の観客の祖国ではなかった。戦争もあの動く扇情的な視覚が彼らを興奮させ、面白がらせただけに過ぎなかった。
 近代の戦争を取り入れると、中身は明らかに意識的に宣伝要素を持ってきたがその最初の映画製作者は、多分W.Griffithと思う。南北戦争に材を取った「民族の誕生」「アメリカ」等の映画で北軍の英雄主義を賛美し、所謂合衆国建国精神を正当化し美化した。凡そこれらは、
後出の多くの抗戦映画の様に、積極的には対外戦争を鼓吹していないが、目的は国民の中にある多民族混淆の人種博物館的合衆国とその住民の確固たる国家概念と愛国心を涵養することにある。「正真正銘のアメリカ人」というスローガンが流行し「アメリカナイズ」運動の有力な武器となり、アイルランドからきた警官、シシリアからきた野菜売り、黒人にもアメリカインディアンにもこの仮面を付けたいと思わせた。
「アメリカナイズ」の暦程で第一次大戦が勃発、米国参戦とそれに伴う急速な帝国主義化が契機となって、完成を遂げた。
 米国は対独宣戦と同時に百万の軍を仏に送らねばならず、速成の募兵開始。速成の海軍拡大が実施された。扇動的な行進曲を演奏する軍楽隊は各都市の目抜き通りに往来し、各交差点でビラをまいた。扇動を受けやすい青年たち、或いは募兵に呼応しないと恋人に蔑まれると感じた者、或いは生活に嫌気をさしていたもの、或いは「海軍に入り世界を
見てみよう」とする者が応じた。この時の米国政府の宣伝も有史以来最大規模で、効果も最大だった。
 この宣伝戦で最重要な役を果たしたのは新聞と映画だった。その時は本来の意味での
戦争映画が初めて作られた。
 スペインの狂信的反独者、Blasco Ibanez原作「黙示録の四騎士」「我々の海」を代表作品とする戦争映画で米国支配階級は、独軍がいかに凶暴かを描き、独潜水艇がいかに
非人道的かを巧妙に描いて単純なヤンキ―を扇動した。
 然るに米帝国主義は本来の鋭鋒を露呈し始め、欧州大戦後、大衆の軍国化は平時にも
不断に手はずを整えるべきということも会得した。
 1920年代前半、全世界人類の脳をしっかり支配したのは、まずあのまだ脳裏にまざまざ
と残る戦争の記憶だ。それである種の欲望が生まれ、世界大戦と言う重大な歴史事件に
付して、国民的叙事詩の形で芸術的に再現しようとしたのはまさに自然なことだった。
作られた映画はしっかりと大衆の興味と感情に傾くのも叉自然であった。こうした有利な
情勢を突然利用したのは、アメリカ帝国主義で、戦争の叙事法は最も好戦的扇動的な企図
の下に製作された。
 戦争映画のシリーズが誕生し「戦地の花」「飛行機大戦」以下、多くの反動的宣伝映画の
名を列挙するのも煩わしいほどだ。言うまでも無く、それらの映画は戦時の純粋な扇動
映画のように露骨な作り方ではなく、娯楽式恋愛の甘みも添え、叉人道主義的戦争批判
の薬味でおおって飲み易くし、比較的自然に暗黙のうちに宣伝目的を達した。よく注意
したマスクを着けてはいるが、究極の目的の所在は、目を被うものを大衆に与え、帝国
主義戦争の本質を分からないようにさせ、米国軍の英雄主義を賛美し、時に軍隊生活の
気安さと面白さを宣伝した。(この種の戦争映画の完全なリストを掲出できないのは大変
残念だが、代表的な数例で私の叙述をより具体的な紙面と時間にしたい。将来必ず補正の
機会があると信じる)
 戦争と映画が歴叙してきたこうした事実は、当然のことだが米国だけの特有な現象では
ない。他の全ての帝国主義列強も競って興した。独は「大戦巡洋艦」「世界大戦」等、我々
の眼前に呈したし、仏は「Verdun――歴史的幻想」「L’Equipage」等。英は「黎明」日本
は「砲煙弾雨」「地球は回る」「蔚山西方の海戦」等、懸命に「軍事思想」の普及に注力。
 戦争映画の叙述を終わるにあたり、幾つかの例外的現象である反戦傾向に触れねば妥当
ではないと思う。
「戦地の花」の数コマにとても感傷的であるが戦争を呪詛する心情描写がみられる。その
心理は「戦地のホトトギス」により積極的に示されている。だがこれらには戦争に対する
確固たる批評と態度は一定していない。ただチャップリンが「Shoulder Arms」で戦争を
虐画化したようなのと同じ程度の認識あるだけだ。
 これに比べると、技術的に卓抜した戦争映画「帝国旅館」の監督Erick Pommerの
「鉄条網」は終末で、人類愛を高らかにうたうあのおかしな誇張もないし、猛烈に帝国
主義戦争を風刺した名喜劇「Behind the Front」と同様大抵は反戦映画の範疇に入ろう。
(つづく)





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翻訳についての書簡

 来信 
敬愛する同志:
 貴方の訳した「毀滅」の出版は、中国文芸生活上、実に大変記念すべき事です。世界の無産階級革命文学の名著を翻訳し、且つまた系統的に中国の読者に紹介する(特にソ連の名著は、偉大な十月(革命)と国内戦争、五年計画の「英雄」を具体的な形で、芸術的な光を当てて読者に提示)――これは中国プロレタリア文学者の重要な任務の一つです。今これをやっているのは、多分きっと貴方とZ同志の努力の御蔭です:しかし誰がそれを個人的な事だなぞと言えましょうか。「毀滅」「鉄の流れ」などの出版は、すべての中国革命文学家の責任だと思います。すべての革命的文学戦線の戦士は、すべての革命的読者にこの勝利を祝うべきです;これはまだ小さな勝利にすぎないが。
 貴方の訳は確かに極めて忠実で「決して読者を裏切らない」という言葉は誇張ではない!この点からも誠意と熱意がうかがわれ、光明の為に戦う人は、苦難に耐えて責任を負わずにはいられません。20世紀の才子や欧化した名士は「最小の労苦で最大の名声を得ようとする」が、この種の人間は、中途半端な換骨奪胎で終わり、初めから終いまで、単なる「サロン」の狆にすぎない。今粗製乱造の翻訳はこうした人間がやっているのでもなく、一部の出版社の投機です。貴方の努力――私とみんなは全てこの努力が、集団になるのを望み――引き続き拡大し深化すべきです。だから私は貴方と同様、「毀滅」を読んで、とても感動し:あたかも自分の子のように愛しました。我々のこの愛はきっと我々を助けてくれ、我々の精力を増強させ、我々の小さな事業を拡大させてくれます。
 翻訳は――原本の内容を中国の読者に紹介できるほかに――もう一つ大変重要な効用があり:我々が新しい中国語を創造するのに役立ちます。中国の言葉はそれほどに貧弱で、日用品すら名が無い。中国の言葉は全くと言っていいほど、所謂身ぶり手ぶり的なレベルから脱却しきれていません。普通の日常会話も殆どパントマイムから離脱不能です。
当然の結果として、表現の細かな分別と複雑な関係の形容詞、動詞、前置詞は殆ど無い。宗法的封建的中世紀の残存物が、中国人の生き生きした言葉をがんじがらめにしています。
(単に労農群衆のみでなく!)こうした状況で、新しい言葉を創造するのは非常に重大な仕事です。欧州先進国はこの2-3百年、4-5百年前にこの仕事を一般的に完成している。
歴史的に少し遅れたロシアも150―60年前にすでに「教会スラブ語」を終わらせている。
彼らの所ではブルジョア文芸復興運動と啓蒙運動でこれを行った。例えばロシアのロモノソフ……プーシキンの如く。中国のブルジョアにはこの能力が無かった。固より中国の欧化した紳商たち、例えば胡適之の流れはこの運動を始めた。が、運動の結果は彼らの政治的主人と同じことになった。そのため、プロレタリアは引き続き徹底的にこの仕事を完成させねばならず、この運動を引っ張ってゆかねばならない。翻訳は確かに多くの新しい言葉と語法、豊かな単語ときめ細かで精密かつ正確な表現の造出に役立ちます。このため、我々は既に現代の新しい言語を創造する戦を進めており、我々は翻訳について種々要求せざるを得ないのです:絶対正確で絶対的な中国の口語文を。これは新しい文化的言語を大衆に紹介しようとするものです。
 厳復の訳は言うまでも無いのです:
彼は、翻訳はすべからく信、雅、達であるべし、文は必ず夏殷周、という。
彼は雅という字で、信と達を打ち消してしまった。最近商務印が翻印した「厳訳名著」は、私にはそれが「何を意図するのか」分かりません。中国民衆と青年に対する冗談でしかありません。古文の文言でどうして「信」な訳ができようか。現在と将来の読者大衆に、どうやって「伝達」することができようか!
 現在、趙景深の流派がまたぞろ要求しているのは:
 たとえ誤訳があっても、むしろ順に努めるべし、
 ぎこちない言葉で信を貫こうなどするな!というものです。
 趙旦那の主張は城隍廟(社寺)で西洋の物語を語るようなものです。自分は外国語を知っており、本や新聞を見て、気ままに所謂耳触りのいい中国語に直しているだけです。明らかに中国の読者を馬鹿にしており、口から出まかせに海外奇譚をしゃべっているのです。
第一、彼の所謂「順」は多少「誤訳」があってもいいという「順」であり、当然ながら、中国の低級な言葉に引きずられ、原意を抹殺してしまうことになる。新しい言語創造にならぬし、逆に中国の野蛮人的言語の保存に努め、発展を妨げることになる。
第二、多少の「誤訳」でもいいと言うのは読者をぼわっと覆い包んでしまって、作者の原意を分からなくさせてしまう。だから私は、趙景深の主張は愚民政策で、知識を独占する
学閥主義――と言っても言い過ぎではないと思う。叉第三に彼は明らかにプロレタリア文学に反対を暗示している「可哀そうな“特殊な走狗”」!彼のこの言葉は彼がプロレタリア文学に反対し、プロレタリア文学の理論著作の翻訳と創作の翻訳を暗に指している。これは、プロレタリア文学の敵の言葉である。
 但、プロレタリア文学の中国語の本の中に、確かに「順」でないのが多くある。これは我々自身の弱点で、敵はこの弱点に乗じて進攻してくる。我々の勝利の道は、もちろんただ正面から向かうだけでなく、敵の軍隊に打撃を与え、自分の隊伍を更に整頓すること。我々の自己批判する勇敢さで、しばしば敵の武装を解除できる。現在、翻訳論戦の結果、我々の同志はこう結論づけた。
「翻訳に誤訳は絶対許されない。しかし時に訳す作品の内容、質に照らし、原作の精神を守るため、多少のぎこちなさは容認できる」
 これはただ「防御的戦術」だ。プレハーノフは言う:弁証法的唯物論者はまさしく
「守から攻めに転ずべし」だ。
第一、もちろん我々はまず我々の認識している所謂「順」と、趙景深等の説とは異なることを説明すべきだ。
第二、我々の要求するのは:絶対的な正確さと絶対的口語である。所謂絶対的口語とは、読んで分かるものだ。
第三、我々は、これまでのプロレタリア文学の翻訳は、このレベルに達してないから引き続き努力しなければならないことを認める。
第四、我々は趙景深等が犯したことを摘出し、彼らが順だというのは、ただ単に梁啓超と
胡適之の交媾によってでてきた雑種――半ば文語で口語ではなく、半死で生き生きしていない言語は、大衆には「順」ではない。
 さて貴方が最近出版した「毀滅」は「正確」だが、まだ「絶対的口語」でないと言える。
 翻訳は絶対口語をというのは「原作の精神を守れ」ないからだけではない。固より、それは大変難しく、大変な工夫がいる。だが我々は困難を絶対おそれないし、あらゆる困難を克服するよう努めねばならない。
 一般的に翻訳のみならず、自分の作品でも同じで、現在の文学家、哲学家、政治評論家や全ての一般の人は、現在の中国社会が、新しい関係、新しい現象、新事物、新観念等が既にあるものを表現するには、殆どすべての人々が「倉頡」(歴史上の文字の創造者)になる必要がある。即ち毎日新たな言葉、新たな句法を創造せねばならない。現実の生活はそれを求めている。1925年の初めに、上海の小沙渡で群衆の為に「ストライキ」という言葉を造っているではないか?また「遊撃隊」「遊撃戦」「右傾」「左傾」「尻尾主義」更には今や一般的になった「団結」「堅固」「動揺」などの類…これら言い尽くせぬ程の新たな言葉、徐々に群衆の口にのぼる言葉となり、たとえ完全に受け入れられなくても、いずれ受け入れられる可能性がある。新句法はちょっと難しいが口頭言語の句法も既に大きな改変と進歩がある。我々自身の話し言葉と旧小説の対話を比べれば、すぐ分かる。しかしこれらの新たな言葉と句法の創造は、無意識のうちに自然に中国の口語文法規則を守っている。凡そ「口語文」は、こうした規則に反した新しい言葉と言い回し――口で話せないのは――自然淘汰され、存在してゆけない。
 従って、「順」とかなんとか言うが:本当の口語は本当によく順(通じる)な現代中国語で、ここでいう口語はもちろん「家庭の瑣事」に限らぬし、言うならば:一般人の普通の談話から大学教授の講義の口から出る口語まで含む。中国人が今、哲学、科学、芸術…を講じるのは、明らかに既に口頭の口語である。そうではないと言えようか?もしそうなら、
紙に書いた言葉(文字)はこの種の口語だが、組み立てが少しきっちりと整理されているもので、この種の文字は今まだ多くの一般的に識字が低い群衆には、依然見ても分からぬし、この言葉は字の読めない群衆には聞いてもわからない。――しかし第一、この状況は只文章の内容に限ることで、文字本体の問題ではないし、第二、この文字は生きており、すでに群衆に受け入れられる可能性があり、それは生きた言葉だからです。
 文章口語は、中国の口語の文法に注意を払わずに、中国の口語の元来の規則に従って新たに創造しないと、「不順」(通じない)な方向になってしまいます。新しい言葉と句法を創造する時、一般大衆が話す習慣をしっかりと掌握しないで、文語を本位にした結果です。こうして書かれた文章は本体自体が死んだ言語です。
 この為、この問題について我々は果敢に自己批判の精神で、新たな闘争を始めるべきだと思います。貴方はどう思いますか?
 私の意見は:翻訳は原文の本意を完全に正確に中国の読者に紹介し、中国の読者が得られる概念は、英露日独仏…の読者が、原文から得られるものと同じになるべきで、この様な直訳は、中国人の話す言葉で書けるようにすべきだ。原作の精神を守るために「多少の不順」も容認するのは言うまでも無い。その逆に「多少の不順」を容認しないと(即ち話し言葉を使わずに)、却って原作の精神を失うことになろう。
 もちろん芸術作品には言語上の要求は更に厳しい。普通の論文より更に精細さが求められる。そこには各人の異なる言葉使い、文字使い、声調情緒の差があり…それはセリフに限らない。そこを貧弱な中国の話し言葉で対応するのは、哲学や科学…の論理的著作よりずっと難しい。ただ、それらの難しさは我々の任務を一層重くするが、我々のこの任務をなくしはしない。
 さて「毀滅」の訳の幾つかの問題を提起するのを許されたい。私はまだ全部読み終えることはできていないし、原文に照らしては少ししか読んでない。ここでフリージェの序文に引用された原文と対比してみます。(序文の順に随い番号をつけるので、貴方の訳文は省略しますので、ご自身で番号順に御覧下さい。序文の少しの誤訳はここでは触れません)
(一) 「考えをまとめてみると、やはり彼の心に一種の――
新らしい極めて望ましい力を持ったやさしい人への渇望について、この種の渇望は大変大きく、いかなる他の願望にも比べようがない」
更に正確にすると:
 要するにやはり彼の心は――ある種の新らしい極めて望ましい力を持ったやさしい人を渇望しており、この渇望は極めて大きく、どんな願望も比べようが無い」
(二)「この時、極めて大多数の数億の人は、この原始的で憐れむべき暮らしをせざるをえず、このような無聊で何の意味も無い生活をし――どうして新しい極めて望ましい人のことなど話し出せようか」
(三)「この世界で最愛の者はやはり彼自身で――彼自身の白いがけがれた力の無い手を愛し、自分のため息の音声を愛し、自分の苦痛を愛し、自分の行為――甚だしきはそれらの最も憎むべき行為を愛した」
(四)これで終わりだ。全ては元の通りになり、何も無かった様に――ホアリアは思った
――また古い道、相変わらずあのごちゃごちゃした――すべてはあの場所へ…だがおお、
私の上帝よ。これは何の楽しみの無いことよ!」
(五)「彼自身はこうした苦悩を全く知らなかったし、これは憂愁に疲れた老人のような
苦悩…こうして苦悩しながら考えた:彼はもう27歳、過ぎ去った時は、もはや1分も戻らぬ。新たらしい格好に換えてもう一度やり直したが、何も良い所は無かった…(この段は、
貴方の訳に誤訳あり、特に「不順」ですが)今、モロシジャは彼の一世一生は全力を尽くして一生懸命に、この一本道を歩むだけで、彼は見たところ、真っすぐで確かに正当な道をレビンソンやバカラノフ、トファンフたちの様に歩むのはまさしくこの様な道:しかし何か誰かがこの道を歩くのを邪魔しているようだ。だがいついかなる時もこの仇敵が自分の心の中にいるとは気づかず、だから彼の苦痛は一般人の卑劣さのためと考え、特別な痛快と傷心を感じた」
(六)「彼は一つの事、仕事しか知らない。だからこの様な真っ当な人は彼を信任しない訳はない。彼に従わずにはいられない」
(七)「初めは生活のこの方面の全ての思想に関して考えたことも無かったが、だんだんその気になって2枚の紙に書いた…この2枚は突然こんな多くの字があり、――誰もレビンソンがこんな字を知っているとは思わなかった」(この段の貴訳はロシア語原文より、
幾つかの副次句が多いのは多分間違って別の所の句を引用したため?或いはフリージェの空虚なところを埋めたもの?)
(八)「こうした苦難を受けてきた忠実な人は、親近者に対し、すべて他者より親しくなり、
自分よりも親近になる」
(九)「…沈黙し、やはり湿った目は、麦打場の疎遠な人――これらの人を彼は早く自分の親近者に変え、あの18人と同じように、声を発せぬ彼の後ろからついてくる人と同じように」(ここの最後の一句は誤訳です)
 これらの訳は日本語とドイツ語で対比してみてください。正確な直訳かどうか、比較できます。私の訳は中国の口語の句法と修辞法に沿ったが、原文の倒置や主語動詞、目的語の重複もあるが、その他は全くの直訳です。
 さて例として第(八)「…甚だしきは、彼自身より親近」の句の言葉の母音はロシア語と同じです。同時に話すとき、原文の口吻と精神が完全に伝えられています。しかし貴方の訳は:これを自分と別人を比べても尚親近な人々」とあり誤訳で(多分日独文の間違いか)
誤りは(一)「甚だしきは」という語を訳してないこと。(二)中国の文語文の文法を使ったので、言語の生き生きとした点を表現できなかった。
 これらの全ては私がこの様に遠慮なく言っていて、自画自賛のようです。普通の関係なら当然「礼を失する」ことになります。が、我々はこの様に親密な間柄であり、お会いしてないのに、このように親密な間柄、この感覚は貴方と話すとき、自分に向かって話すのと同じで、自分に対して相談するのと同じです。
 更にもう一例、重要なことは翻訳の方法に限りません。それは即ち第(一)の「新しい
…の人」問題です。「毀滅」の主題は新しい人の誕生で、そこではファリジェとファジェーエフの使うロシア語の文法は、普通の「人間」という言葉の単数形です。人類でもないだけでなく、「人」の複数でもありません。この意味は革命、国内戦争…の過程で生まれた
新式の人が一種の新しい「Type」――文雅に訳せば典型を指し、これは全ての「毀滅」の中に出てきます。貴方の訳では「人類」と訳されている。ライフンションはある種の新しい…人類を渇望していた。これは別の主題に誤解させます。まるで一般的に渇望しているのは全ての社会主義社会の如くに。しかし事実は「毀滅」の「新しい人」は目の前の戦の切迫した任務;闘争の過程で生まれ鍛錬され改造された一種の新式の人物、ハムロシカ、
メテックなど夫々異なる人物です。これこそは現在の人、一部の人、群衆の中で骨干となる人で、一般的な人類ではなく、漠然とした意味の人類ではなく、正しく群衆の中の一部の人、指導者、新しい全人類の先達です。
 この点は、特に提起する価値があります。勿論誤訳は単に一文言の誤りではなく:「人」は一つの文言で「人類」は叉別の文言です。一セットの本は我々の前にあり、貴方の後記も大変正確に「毀滅」の主題を理解されています。しかし訳は精確でなければならぬし、文言ごとに考えるべきです。「毀滅」の出版は末永く記念するに値します。貴方を慶祝します。私の意見を参考にされ、誤訳問題と一般の言語革命問題について新たな闘争を始めましょう。     J.K.  (即ち 瞿秋白:出版社)  1931.12.5.

     返信
敬愛するJ.K.同志:
 翻訳についての貴信拝受。大変うれしく思います。去年、翻訳洪水の氾濫後、多くの人が眉をひそめ嘆息し、中にはもう冷めきった人もいます。私も偶々訳したので、本来何か言うべきですが、今まで黙していました。「放って置かないで、うるさく取り上げる」のも勇壮なことですが、私のモットーは「共に語るべきでない相手と語るのは、言葉を失う」という古老の一句です。況や今出ているのは、大抵は紙の人形、紙の馬で、もっと赤裸に言えば、「あの世の兵隊」ですから、実際は正面切って痛撃する手段もありません。
趙景深教授旦那を例にとるなら、一面では専ら科学的文芸論の翻訳のわけが分からないと、
攻撃しつつ、圧迫を受けた作家が匿名なのはおかしいと言い、もう一方では大きな慈悲を示し、この様な翻訳は大衆も多分理解できまいと意う。まるで日々大衆のために、何かいい方法を考えているかのようで、それでは他の翻訳者が、彼の陣営を攪乱している格好だ。
これはまさに、ロシア革命のあと、欧米の金持ちの家の奴才(やっこ)が、調べに出かけ、
戻ってきて頭を横に揺らし、眉間にしわを寄せて、報告文を書き、労農はまだどんなに苦しんでいて、飢えを忍んでいるか、と慨嘆し、全文にわたって凄惨なさまを書く。ただ彼は宙返りをすれば、労農がみな王宮に住んで、たらふく食べ、安楽椅子に寝て享楽するのを望んでいたようだ。ところが、やはり苦しいから、ロシアもダメ、革命もダメ、あああ、
どうにもならぬと。この様な哭喪の顔に対して、貴方は彼らに何と言いますか? もし怪しからんと思うなら、指で軽くあのハリボテに穴を開ければよいのです。
 趙旦那の翻訳批判は、厳復を引っぱって来て、彼に替って不平を言ったが、それで貴方の手紙でも、罵られたわけです。ただ私からすると、それは冤罪で、厳旦那と趙旦那は実は、虎と狗の差があります。ごく明白な例は、厳復が翻訳のために、かつて漢晋六朝時代に仏典を翻訳した方法を調べたが、趙旦那は厳復を地下の知己といいながら、彼の訳した本を見ていないのです。今、厳復の訳本は全て出版され、何の意義も無いとはいえ、彼の用いた工夫は調査に値します。記憶では、一番エネルギーを使い、最も苦心したのは、
「ミルの論理学」と「群己権界論」の作者自序で、その次はこの論で、後になぜか「権界」
と改称され、書名もまた難しくなった。最も分かりやすいのは勿論「天演論」で、桐城派の気息がいっぱいで、文字の平仄にも気が配られ、頭を揺らしながら音読すると、まことに声調もコロコロといい響きで、思わずうっとりする。
 この点が桐城派の長老呉汝綸を感動させ、覚えず「周秦諸子に匹敵する」と言わしめた。
然し、厳復はこの「達」し過ぎた翻訳は間違いと知ったから、「翻訳」とは称さず、「候官厳復が趣を達す」と記す:序に一通「信達雅」の類の議論を発表した後、結末に声明を出し:「クマラジュー法師は吾を学ぶものは病む(間違う)」とし、我に続いて来る者が多くなろうが、この書を以てくれぐれも口実にする勿れ!」と記した。
 彼はすでに40年前に趙旦那のように知己に誤託するのを予知して、毛骨慄然としていたかのようだ。僅かこの一つの例からでも、厳趙両大師は実に虎と狗ほどの差があり、同列に談ずることはできない。
 ではなぜこんな芝居をしたのか?答は:当時の留学生は今のような金が無く、社会では西洋人は只機器を造れるだけと考え――特に時報時計の如き――留学生は毛唐の言葉ができるだけだから、「士」とはみなされぬ。そのためコロコロという響きに訳すと、呉汝綸が序を書くまでになり、この序が他の翻訳ビジネスを生み、「名学」、「法の精神」「国富論」などが出てくることになった。但し彼は後に「信」を「達雅」より大事にした。
 彼の翻訳は実に漢から唐の仏典漢訳の歴史の縮図です。中国の仏典翻訳は、漢末は正直ですだ彼はそれを手本にしなかった。六朝はまことに「達」と「雅」で、彼の「天演論」の訳の模範はこれだ。唐になると「信」が主で、ちょっと一読しただけでは全く分からぬが、これが後の彼の訳書の模範になった。経典漢訳の手頃な標本に、金陵刻経処匯印の三種の訳本「大乗起信論」があるが、これが趙旦那にとっては宿敵です。
 だが我々の翻訳もそうたやすくはできないと思う。まず大衆の中のどのような読者のために訳すかを決めねばならぬ。これらの大衆は大まかに分けると:甲、教育を受けている者;乙、文字をほぼ知っている者:丙、文字をあまり知らない者。この内、丙は「読者」の範囲外で、彼らを啓発するのは、絵画、講演、戯劇、映画の役割で、ここでは論じない。
但、甲乙二種には同じ本ではダメで、夫々相応の本を供すべし。乙には翻訳は難しく、少なくとも改作、一番いいのは創作で、この創作は只単に読者の口に会うだけでなく、喜ばれ、たくさんの人が読むようになるのでなければいけない。甲類の読者への訳は、何であれこれまでは「信の方が不順より良い」と主張してきた。勿論この「不順」は決して「ひざまずく」を「膝を地面につけて」だとか、「銀河」を「ミルクの道」と訳せというものではない。即ち、茶を飲むように飯をかきこむ如くに数口で飲み込むやり方ではなく、何回か歯でよく咀嚼すべし、ということ。それで問題が出てきて:なぜ完全に中国化して読者への省力化を図らぬか?そんなに分かり難いものを翻訳と呼ぶのか?私の答は:それも翻訳です。この様な翻訳は新しい物の輸入のみならず、新しい表現法の輸入でもある。中国文或いは中国語は、文法がとても不精密で、作文の秘訣は熟字を避け、虚字を削ると、良い文章になり、話していて往往言葉が意を達せないのは、語彙が少ないからで、教師は授業中、チョークの助けを借りねばならぬ。この文法の不精密は考え方の不精密を証明し、
言いかえれば、脳が少しいい加減だからで、永遠にいい加減な言葉を使っていると、読んでいる時はすらすら読めても、最終的に得られるのはやはりいい加減な影像だ。この病を治すには、ひたすら少しずつ苦しみをなめながら、異様な句法を取り込み、古い物、外省
外府、外国の物も、後には自分が持っていた物の様に取り込むこと。決して空想ではありません。遠い昔の例をだせば、日本では彼らの文章の中に欧化したものが極めて通常な形であふれており、梁啓超が「和文漢読法」を書いた時とは大きく変わっており:近い例では、貴信の通り、1925年に群衆のために「スト」という言葉を造り、これはかつて無かった言葉だが、大衆はみな分かるようになった。
 乙類の読者への訳も、常に新しい言葉を加えるべきだと考え、新しい文法の中に、勿論多すぎてはダメだが、偶々出てくる程度で、少し考えて、人に訊けば分かる程度。そうすべきで、そうすると大衆の言語才能は豊富になる。
 今、誰でも全部分かる本はあり得ない。ただ、仏教徒の「唵」(オン)という字は「人々が理解できる」の意だが、残念ながら「解る中身は同じではない」数学や化学の本に多くの「術語」が使われないなどがありえようか。趙旦那が分からないので、それに触れないというのは、厳復のことばかり覚えていたからです。
 翻訳文芸については、甲類読者を対象とした直訳を提唱します。私自身の訳し方は例えば「山の背に太陽が落ち」は不順だが、「日は山陰に落ち」としないのは、原意は山が主で、これを換えると太陽が主になるからです。創作とはいえ作者もこう区別していると思うから。一方で、できる限りたくさん取り入れ、一方でできる限りたくさん消化吸収し、使えるものは伝えてゆき、残りかすは過去の遺物となる。だから今は「多少の不順」も容認するのは「防守」ではなく実は「進攻」です。今民衆の口から出る言葉は、間違いなく全く「順」であり、民衆の口から出る言葉として捜集した言葉の胚は、その実やはり順なものを求めますので、私は「不順」も容認することを提唱するのです。
 但し、この状況も永遠なものではない。その一部は「不順」から「順」になり、一部は最後まで「不順」のため淘汰され、蹴りだされる。ここで最も大切なことは我々の自己批判だ。来信の訳例のようであれば、全てが私の訳より「達」し、なお且つより「信」だと
認められるなら、訳者と読者双方に大いに有益です。だがそれらは只甲類の読者だけが理解でき、乙類の読者には難しすぎる。これからは、種々の読者層を分けるべきで、種々の訳が必要なのが分かる。
 乙類の読者のための翻訳法は、細かに考えていないので今は何も言えません。ただ大体は今もまだ口語――各所各種の土地の方言――を統一できず、唯一種の特別な口語となるか、一地域の口語に限定するしかない。後の一種は某一地方以外の読者には理解できず、広範に広めようとするなら、勢い前の一種を使うほかない。但し、このためにやはり特別な口語になる他なく、文語の要素も多くなる。私は一ヶ所の方言に限るのは反対で、例えば小説によく使われる「騒ぐな」「黙れ」等の類は、私が北京に来ていなければ、きっと
「別の場所で騒げ」「よそでしゃべれ」の意味と理解し、実際は文語により近い「不要」
(するな、の意、北京の口語ではこれを「別」で表す)の方が良いと思う。これはすぐ分かることだが、このように只一地方でしか通用しない口語は、やむを得ぬ時以外は回避すべきだ。叉章回小説(過去の講談の形式)の筆法を、たとえそれがよく使われているものも、ことごとくそれを採用する要は無い:例えば「林沖は笑って言った:元々お前は知っていたのか」と、「元々お前は知っていたのか。――林沖は笑って言った」の二例は、後の方が西洋的に見えるが、その実我々が話すときにも常用し、耳にする。但し中国人は小説は読むものだと思っているから、前例の方がよく「目」にするし、本で後の例の筆法を見ると、見慣れないと感じる。仕方ないから今は只「説書」(講釈師の語り)の方法を取り、
閑談を聞き、散漫を棄て、民衆の口語をひろく取り込み、比較的みんなが分かる字句を残し、四不像(変てこな:角、蹄、尻尾、首が鹿、牛、ロバ、駱駝のような鹿の一種を指す)
の様な口語とする。この口語は生き生きしてなければダメで、生きているからこそ生きている民衆の口から取り、そして生きている民衆の中に注入すべきだ。
 最後に、来信の末尾の二つの例に大変感謝します。
一、私は「…甚だしきは自分より親近な」を「自分と他人を比較し、より親近な人」と訳したが、これは独日両国語の訳の言い回しです。多分彼らの語法では「甚だしきは」という簡単で的確な表現でこの口吻を持った言葉が無いから、いくつか湾曲して、このような拙い訳になったものでしょう。
二、「新しい…人」の「人」を「人類」と訳したのは私の誤りで、詮索しすぎた誤りです。レビンソンは麦脱穀場の人を見、彼は彼らが目下戦闘中の人にしようとした点、私ははっきり分かるのですが、彼が黙って「新しい…人」を思っている時、私も長い間黙想し:
(一)「人」の原文は日本語訳は「人間」独語訳は「Mersch」でいずれも単数だが、時には
「人々」にも解す:(二)彼は目下「新しい極めてすばらしく、力のある優しい人」がいたらと思い、その望みは余りによくばりで虚しいように思った。私はそれで彼の出身に思い到り、商人の子で知識分子と言う点で、彼の戦闘を推測し、階級闘争後の無階級社会のためであるとすると、彼が思い浮かべる目前の人は、私の主観の誤りであると同時に、将来に移り、尚かつ「人々」となり――人類となってしまった。貴方から指摘されるまでは、私はこの理解は高名だと考えていたが、これは読者に一刻も早く説明せねばならない。
 要するに、今年はこの記念碑的小説を、現在読者にお届けできた。翻訳中と印刷時に大変多くの難題があったが、今は記憶の圏外となったが、貴方の手紙で触れているように、自分が生んだ子のように愛すし、叉彼から生まれる子供の子にまで思い到っております。
そしてまた「鉄の流れ」も大変好きです。この2冊の小説は、粗製だが濫造ではないし、
鉄の人物と血の戦闘は実に多愁で病気がちな才子となよなよした佳人の所謂「美文」的描写などは、ここには影も形もまったくありません。私も貴方と同じく、これは只只小さな勝利に過ぎず、従って多くの人が力を合わせ、より多く紹介し、3年内には内戦時代と建設時代の記念碑的文学書を8-10種ほど出版できて、その他に何種かの往往無産者文学と称されるが、プチブル的偏見(バビサイのような)とキリスト教社会主義的偏見(シンクレーのような)から脱却しきれていない代表作品も翻訳し、分析と厳正な批評を下して、どこが良くて、どこが悪いか対比参考とし、そうすれば読者の見解を、日一日と明瞭にできるのみならず、新しい創作家も正確な手本を得られるようになることを望みます。
                          魯迅 1931.12.28.

訳者雑感:白川静だったか、貝塚茂樹だったか記憶が定かでないが、中国の古文を読むということに関して、中国人は漢字音でそのままスラスラ読めてしまうと、なんだか分かったような気になって、それを書いた古人の意をしっかり理解せぬままに過ぎてしまうことがままある。
一方、彼らのような外国人として古代中国語の文章は、そのまま読めぬから、どう読むべきかまず、迷路に入りこみ、いろいろああでもないこうでもないと考えあぐね、ある時、
突然古人の言いたかった、伝えたかったことはこうではないだろうか、と仮説的に考え、それが正しいかどうかを他の文献などを丹念に探して調べる。この過程で更に深く内容を
理解することができる、という趣旨であった。
 最近西洋人の翻訳した中国の文章を更に日本語訳したものを見る機会がでてきて、西洋人が漢字で書かれた中国語を読むときは、漢字をなまじ日常の日本語生活で使っている日本人より、更に読みが深いなと感心することがある。日本人は漢字2字の単語など、例えば汽車はどうしても鉄道の汽車だと誤解するようなことがある。手紙とか怪我とかなど、
よく指摘されるものは、少し勉強すれば分かるが、概念とか感情表現などでは誤解することがしばしばある。困惑の困は一字で使われると眠いという意味で、錯覚しやすいというか、実際の会話の中で中国人の口から出た音で、その状況を理解しないと分からないことが多い。
 魯迅がこの手紙の中で、不精密な中国語をそのままスラスラ読めても、最終的に得られるのはやはりいい加減な影像だ、と指摘しているのは、これと同じだろうか。
漢代の仏典漢訳の頃は、外国の優れたもの、考え方を正直に取り入れようとした。だがそれは、時代が下るとともに、「順、雅」の方に流れていって、いい加減なままでも、口にしやすく、耳に順に聞こえる方が、上等とされた。それが美文、八股文などの「信」の無い、
あいまいなままでも、コロコロといい響きならかまわないという風潮が蔓延した。
 今日でも、まだ本当にそこから抜けきっているかどうか。「表演」という言葉がある。
演説などが巧みで、うまく演じて言葉巧みに聞く者を知らずしらずの内に、引き込んでしまう力のある人の振舞いを称して「彼は表演がうまい」と揶揄する言葉だ。
実態が伴っていることは極まれである。
       2011/11/13訳

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