忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

「計する所に非ざるなり」

 新年第一回の「申報」(1月7日)が、「要電」を用いて我々に告げて:
「陳(外相、名は友仁)と芳沢の友誼は甚だ深いから、外交界の観測では、
芳沢が帰国し、日本の外相に就任したら、東省(満州)の交渉は陳との私的関係から、より良い解決が得られると期待される」という。
 中国の外交界は中国では何でも「私的感情」というのに見慣れており、こうした観測は元来怪しむに足りぬ。但しこの「観測」から「私的感情」が政府内でいかに重要かが「観測」できる。
 然るに同日の「申報」にまた「要電」で「錦州が三日陥落し、連山、綏中も
続けて落ち、日本陸戦隊が山海関に至り、駅に日章旗を懸けた。
 而して叉同日の「申報」に「要聞」として「陳友仁は東省問題宣言」で「…
…前日すでに張学良に、錦州を固守し積極的に抵抗し、今後もこの旨を堅持し、いささかも変えることのないように、と命じた。不幸にして敗北などとは、
計する所に非ざるなり。…」と。
 しからば「友誼」と「私的感情」はどうやら「国連」とか「公理」「正義」の
類と同様、無効なようで「暴力をふるう日本」は中国とは似ても似つかぬ国で、
専らそんなことをいってみても、それはまことに只「不幸にして敗北するは、
計する所に非ざるなり」の結果となる他ない。
 きっと「愛国志士」が首都南京に請願に行くだろう。勿論「愛国の熱情」は
「特に称賛」するものだが、まずは「常軌を逸せぬよう」にし、次には内政部長、衛戍司令の諸大人との「友誼」「私的感情」がどの程度かを自分で良く考えること。もし「余り深い関係」でなければ、内政界の観測に依れば、ただ単に
「より良い解決を得るのが難しいだけでなく、――直言を許してもらえば――
多分前例の通り「自ら足を滑らせて溺死した」という人が出る。従って請願に
行く前に宣言を順部しておくのが良い:結末に「不幸にして自分で足を滑らせて溺死」しても、「計する所に非ず!」と。そして叉この言葉も真の言葉だということを悟らねばならない。
    (1932年)1月8日
訳者雑感:出版者注には、「足を滑らせて溺死」というのは、1931年9月18日の事変以後、国民党政府の不抵抗政策に反対する各地の学生が南京に続々と請願に押し寄せたのを軍警が屠殺逮捕した際、負傷した学生を河に投げ込んで、
翌日「彼らは足を滑らせて溺死した」と虚偽の発表をしたことを指すという。
表題「計する所に非ず」とは計算外とか、想定外に近いと思われるが、みすみす負けると分かっていながら、「徹底抗戦」とかスローガンは勇ましいが、その実、不抵抗政策で日本軍にはとても敵わないから当面抵抗はしない、ということからすれば、「不幸にして敗北するのは計する所に非ず」とは敗北しても止むを得ないし、敗北を認める他ないという、中国人一流の言い回しだろう。
日本軍部も「汪兆銘政府相手にせず」とか訳の分からないことで重要な時期を
糊塗したために、引くに引けない泥沼に陥ってしまった。
 蒋介石政府、汪兆銘政府、共産党政府、地方軍閥の割拠する中での外交政策が「私的感情」という個人間のパイプで細々と繋がっていたのが、当時の要路の最後の支えだったのだろうが、9.18事変以降、一気にそれらのパイプが断たれてしまうことになった。
 魯迅のこの雑文は、「愛国志士」がまたもや「足を滑らせて溺死」するのを
目にしたくない、との切なる願いである。
     2011/11/29訳
 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R