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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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抄靶子(チャオバーズ=所持品検査)

抄靶子(チャオバーズ=所持品検査)  旅準(リュイシュン=魯迅と同音)
 中国はなんといっても文明最古の地で、人道重視のお国柄。
人間に対してこれまで大変重視してきた。たまに凌辱誅戮が起こると、それはそういう連中が、
人間ではなかったからだとされてきた。
皇帝が誅したのは「逆」也で、官軍が剿(ソウ)したのは「匪」で、殺し屋が殺したのは「犯」(人)なのだ。
満州人が「中華に入って主」となり、暫くしてこの淳風に染まり,
雍正帝は自分の兄弟を除こうとし、まず「アキナ」「サスヘイ」という名に改称させた。
私は満州語がよく分からぬが、多分「豚」と「狗」という意味だろう。
 黄巣の造反の時、人間を糧とみなしたというが、彼を人食いだというのは正しくない。
彼が食べたのは「二本足の羊」だと称した。
 時は20世紀、所は上海。骨子は長い間「素より人道重視」だが、表面的な違いもある。
中国の一部の「人」という生物に対して西洋人がどんなおくり名を付けているかは知らない。
彼らの手下どもが付けた名なら知っているが。
 租界を歩いていると、制服の同胞と一人の異人(往往、異人なしもあるが)、
がピストルを突き付けて、全身、所持品検査するのによく遭遇する。
白人はあり得ない:
黄色人種でも日本人だというとすぐピストルを下げ、どうぞお通り下さいと放免する:
独り文明最古の黄帝の子孫のみは免れぬ。
香港では「身体捜査」と言い、対面は余り傷つけられぬが、上海では「抄靶子」
(所持品検査)と言う。
抄は捜也で靶子は鉄砲の的で、一昨年の9月にやっとその名の的確さを知った。
4億の靶子が文明最古の地に散らばっており、僥倖を願うには、只只撃たれないようにする他ない。
西洋人の部下は実に自分の同胞に絶好の名を付けたものだ。
 然るに、我々「靶子」たちは、自ら互いに推挙を始める時は慎み深い。
私は老上海ではないから、上海バンド辺りで、以前互いに罵りあう時、どんな言葉を使ったか知らない。
物の本には、「曲辨子」「阿木林」くらいしかない。
(辮髪が短くて曲がっているのが豚の尻尾に見えるから、アホ、馬鹿の類)
「寿頭碼子」は「ブタ」の隠語だが、隠語に過ぎず、「雅」だが意が十分に「達」していない嫌いがある。
今、相手に恭順でないと見咎められたら最後、相手は赤く血走った目をかっと見開き、喉を絞り、
口角泡を飛ばして「ドアホ!」とののしる。
 6月16日
 
訳者雑感:大連空港は軍用空港でもあり、旅客機の離着陸の合間に、
戦闘機がつぎつぎに離着陸を繰り返す。これほど国際化して旅客機の数が増えたのだから、
軍用空港をどこか郊外の人家の少ないところに移転させてはと思った。
だが、計画では旅客用の空港が移転する様だ。周囲は住宅が密集して建てられ、
滑走路の向こう側は5-6階建のマンションがびっしり立ち並ぶ。
まるで普天間基地のようで怖いと感じるから、旅客用が移転するのも良いかもしれない、
大分市内から遠くなって不便になるが安全だろう。
大連の人になぜ空軍がひっこさないかと尋ねたら、あの空港の周辺には空軍の建物が一杯あり、
軍人たちは市内中心部から30分という快適な住居を離れたくないということも理由の一つだそうで、
既得権益として軍は手放さないということだ。
さて本題の「靶子」に戻る。
国内用の飛行機で長春に毎月出かけていたころ、帰りは営口から南下、
渤海側の海岸線に近いところの禿げ山におびただしい数の円が描かれていて、
そこに番号が付いているのを見て、何だろうと思い、大連の地の人に尋ねた。
 答えは「靶子」(バ―ズ)という。音だけでは分からないのでどう書くの、
と聞いたが、字を見ても分からぬ。彼は飛行機のように翼を広げて、そこから
弾を落とすしぐさをしたのでやっと分かった。
 そうかあの円の中に模擬弾を落とす訓練をするために、
戦闘機が次から次に旅客機の合間を縫って離着陸を繰り返していたのだ。
空軍はこういう大都会に住んで、既得権を享受しているかぎり、
何の娯楽も無いような田舎に移転するのは嫌がるのだろうな、と感じた。
 普天間の連中も横須賀や佐世保などでも似たようなことがあるに違いない。
百年の軍港(空港)は放したくない、ということか。
     2012/05/22訳

追記:2012年6月14日の毎日新聞に、
尖閣諸島の久場島は米軍の爆撃標的として使用されてきて、
軍の関係者以外立ち入り禁止となっていたそうだ。
この伝で行けば、米軍が使用している限り、外国は無論日本も、
立ち入りできないということだが、紛争の対象にもならぬだろう。
  6月15日

 
 

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蝙蝠談義

蝙蝠談義         游光
 夜行性動物は人に嫌われるようだ。多分それらが夜は眠らないで、
自分たちの習性と異なり、深夜、熟睡中や「おしのび」の時,
秘密を覗かれているのではないか、と何か心配になるからのようだ。
 蝙蝠は夜行性動物だが、中国では誉が高い方に属す。
蚊や虻を食うから有益だというためではなく、名前が「福」と同音のためだ。
こういう尊容なのに絵に描かれるのも名が良いおかげだ。
また、中国人は本来飛べたらなという願望を持っており、他の物は皆
飛ぶことができるとも考えていた。
道士は羽化せんとし、皇帝は飛昇せんとする。
恋に落ちれば比翼の鳥になろうとし、苦しい時は羽があれば逃れられると思った。
もし虎が翼をつけたらと想像して身の毛をぶるっと震えさせながら、
青蚨(セイフ=伝説の虫でお金が貯まる)が飛んでくれば目じりがほころぶ.

墨子の飛鳶(トビ=飛行機のようなものを作ったのだがすぐ壊れた)
は失伝してしまい、今や飛行機は国民の募金で外国から買うほかない。
 精神文明を重視しすぎたため、勢いそうなるのも不思議ではない。
だができなくても考えることは可能だから、鼠のようなものに羽をつけてもおかしくはない。
著名な文人はそれを詩材に取り入れ、たわむれに
「黄昏、寺に到れば蝙蝠飛ぶ」という佳句をものしている。
 西洋人はこうした高等な雅量は無く、蝙蝠を嫌う。禍の元はと言えば、
イソップだろう。
その寓話に鳥獣がそれぞれ大会を開き、蝙蝠は獣の方に行ったが,
羽があるから獣ではないと断られ、鳥の方に行ったが足が4本だから,
鳥からも断られて立場が無くなってしまった。それでこの二股の象徴の蝙蝠を嫌うようになった。
 中国は近来、西洋の古典を引っぱって来て、蝙蝠をくさしだした。
この寓話がイソップに出て来たのは、まだ喜ばしいことであって、
彼の時代、動物学はとても幼稚だったからこれでよかった。
現在はもう大変事情が違う。クジラは何に属し、蝙蝠は何科か、小学生
でも知っている。
ギリシャの古典を引用し、真面目な話をすれば、彼の知識水準を示すだ
けで、イソップのころに大会を開いた両類の紳士淑女と同じレベルとい
うことになる。
大学教授、梁実秋氏は、ゴム靴はワラジと皮靴の中間だと思ってい、
その知識はこれと似ている。もし彼がギリシャに生まれていたら、
彼の位置はイソップの次になったかもしれない。
まことに残念ながら生まれたのが少しおそかった。  
6月16日
訳者雑感:
 イソップの寓話を持ち出すために蝙蝠を取り上げたのか?
その最終目的は、今では小学生でも知っている動物分類の知識に目をつぶり、ギリシャ古典を引用して蝙蝠をけなすことは、ギリシャ時代の
動物学が幼稚だったころの紳士淑女と同じレベルに戻ってしまう事だ。
 ゴム靴はワラジと皮靴の中間だという梁氏の考えは、何を指すのだろう。
 出版社注に依れば、魯迅がある時講演で、新文学運動提唱の際、胡適は皮靴で文壇に登場し、今のプロレタリア運動は裸足(ワラジ?)で、
文壇に闖入してきた、と言った時、魯迅がはいていたのはズックのゴム靴だった云々として魯迅を批判した梁氏が「第三種人を論ず」の中で、
魯迅を第三種人だとしていることへの反撃だという。
中国人はワラジと布靴を履いてきた。西洋式の皮靴は近代になってからで、ゴム靴というのは、最近の発明だが、決してワラジと皮靴の中間品ではないと思う。しいて言えば、皮靴の進化したものではないか?今では多くの皮靴の底はゴム製が大半を占めているし、中国人愛用の布靴の底もほとんどはゴムになった。ただ未だに古いボロ切れを圧縮して、
それを底にしたものが好まれている。足にやさしいからだろう。
     2012/05/20訳
 
 
 

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偶成

偶成                      葦索
 治国平天下の上手な人は、実に随所でその手法を見いだすことができるようで、
四川でまさにさる人が、長い着物は布の浪費だとして,
隊を派遣して通行人の長い布を切らせた。
 上海もまたお上が茶館を整頓しようとし、その結果、大略は3つ。
1つは衛生に注意:
2つ目は時間を制限:3つ目は教育を施行する。
 1は当然とても良いこと:2は登館、下館時にいちいち鈴を鳴らし、学校の始業みたく、
面倒だが、茶を飲むためやむを得ない。悪いとも言えぬ。
 もっとも難しいのは3番目。「愚民」が茶館に来るのは、ニュースゴシップを聞いて、
思っていることをしゃべったりする他に、「包公案」の類(判事物)を聞くためだ。
遠い昔のことは真偽も不明で、あちらの妄言をこちらで妄聴するわけだから、
安気なものだ。
 今「某公案」に改めたりしたら、信じられないことだし、聞きたくも無い:
敵の秘史や暗い内幕ばかりを語っても、ここで言うところの敵は、
必ずしも聴衆の敵では
ないから、聞いてもさほど興奮しない。
その結果、茶館の亭主はえらい災難で商売はあがったりだ。
 清の光緒初年、我が故郷の劇団に「群玉班」というのがあり、
名実符合せず、芝居が下手で、誰も見に来ない。田舎の人の技両も文豪に劣らず、
一座に歌を贈って:
 「(舞)台の上には群玉班、
  台の下の(客)は皆去った。
  急いで廟門を閉めたが、
  両側の壁に登ってくずれ、
  あわてて引きとめたが、
  残ったのはワンタン担ぎだけ」
 観客の取捨は強制できぬから、見たくないのに引きとめても無益だ。
例えばある雑誌は、金も勢力もあり、本来天下を風靡できる筈だが、読者が少なく、
寄稿者も減って、隔月刊となってしまう。
 風刺はすでに前世紀の老人のたわごととなり、風刺でない良い文芸は、
後の世紀の青年が生み出すもののようである。
       6月15日
訳者雑感:偶然これを書いたのだが、治国平天下のうまい人たちが、
小民の本音をつかめてもいないのに、只整頓したり、教育しようとしても、
小民という観客は自分の好みにあわぬものを受け入れはしない。
下手な芝居ばかり見せたがる「お上」には飽き飽き
するから、逃げ出してしまう。
 迎合ではなく、観客が見たがる芝居を演じなければだめだ。
 読者が少なく、寄稿者も減ってしまう雑誌は、隔月刊となり停刊となる。
そうならない雑誌を作らねばという気持ちか。 2012/05/19訳

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二丑芸術

二丑芸術(インテリ道化の最後の一手)       豊之余
 浙東の某劇団に「二花臉(レン=顔)」という配役がある。雅に訳すと「二丑」(チュウ)だ。
これは「小丑」(道化)とは違って、好き勝手をするプレーボーイはやらないし、権勢を笠にきた宰相の家丁もせぬ。
彼がやるのは公子を守る用心棒とか公子に迎合する太鼓持ち。要するに:身分は小丑より高いが,
性格はより悪だ。
 忠臣は(年配の)老生が演じ、先ずは直諌してみるが、終わりには主に殉じる:
悪臣は道化が演じ、悪いことばかりして最後は滅ぶ。
だが二丑の本領は違う。少しばかり上等人の格好をして、琴棋書画をたしなみ、
宴席で酒令やなぞかけもやるが、権門の力を笠に小民をいじめて蔑視する。
誰かが抑圧されていると、それを見て冷笑し、誰かが陥れられると、脅したり怒鳴ったりする。
だが、彼はいつもそうだというのではなく、ある時は顔をひねり、
舞台下の観客に向かって公子の欠点をあばき、首を揺らしながら滑稽な顔で、
ほら見てなさい、今に彼はとてもまずいことになるよという。
 この最後の一手が二丑の特色。彼には忠臣の愚鈍さは無く、悪臣のような単純でもない。
彼はインテリなのだ。今自分は氷山の上におり、ここには長くいられない事を知っている。
将来他家に移って太鼓持ちをせねばならぬだろうから、こうして今庇護を受けて、
余禄に預かっている時も、この貴公子とは一体ではないという振りをしなければならない。
 二丑の書いた脚本には当然ながらこの役は無い。彼らはそれを肯定しないからだ。
道化即ちプレーボーイの方にも無い。彼らは単に一面しか見ないし、思いつかないからだ。
この二花臉は、小民がこの種人間を見つけて、その精華を取り出して役を作ったのだ。
 世間には、権門があれば悪者がおり、悪者がおればきっと二丑がおり、そしてまた、
二花臉の技芸がある。ある種刊行物を一週間ほど見ていると、彼が忽然として、
時には春を怨むかと思えば、また戦争を頌揚し、また忽然バーナードショ―の演説を翻訳したり、
婚姻問題を提起したりする:だが、そうしている間に必ず感慨激昂して、国事に対して不満をぶちまける:
これが即ち最後の一手だ。
この最後の一手は、一面では彼が太鼓持ちだということを覆い隠そうとしているのだが、
小民はそんな手はよく知っているから、彼の類型を舞台に登場させているという訳だ。
                         6月15日
訳者雑感: 二丑芸術をインテリ道化の最後の一手と訳した。
新聞雑誌にさもインテリらしく、春を怨んだり、戦争賛美したり、いろいろ高尚な話題を提供する傍ら、
最後の一手は「国事に不満をぶつけ」小民の支持を得ようとする。これはまさしく、
舞台で二丑が演じる役だというのが本編の眼目か。
道化でもなく、老生(忠臣)でもない。インテリで書画をたしなむ。そういう手合いばかりが増えたから、
小民はその類型を舞台に登場させた。
小民は彼らがどんなに太鼓持ちでないと偽装しても見破っているぞ、と。   2012/05/18訳
 

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押す

押す
2-3か月前の新聞に、新聞売りの子が代金を貰おうとして電車のステップに乗った時、
下車しようとする客の着物の裾を踏んだため、その客は怒って力いっぱい押したから、
子供は電車の下に転げ落ち、動き出したばかりの電車は急停車できず、轢かれてしまったという。
 子供を押した男はとっくにどこかへ行ってしまい行方不明。が、裾を踏まれたことから、
着ていたのは長衫(ちょうさん:伝統的な上着)と見られ、「高等華人」でないとしても、
上等には属しているだろう。
 上海で道を歩く時、よく見かけるのは2種類の自己中心族だ。
対面から、又は前方から来る相手に一歩も譲らず、両手は使わずに、長い足をまっすぐ、
傍若無人に踏みこんできて、もしこちらが譲らずに転ぶと、腹や肩の上を踏み越えてゆく。
これは西洋人で、すべて「高等」だから、華人のように上下の区別はない。
 もう一種は、両手を曲げ、手のひらを外に向け、サソリのハサミの様に、押してゆき、
押された人が水たまりや火の穴に転げようと一切構わぬ。これは我々の同胞「上等」人だ。
電車に乗る時は、二等車を三等に改造したのに乗ろうとし、新聞はいつもゴシップ記事のタブロイドで,
坐って唾を飲み込みながら読むが、歩き出すと又押す。
 乗車、入門、切符購入、手紙投函時、彼は常に押す:門を出る時、下車、禍を避ける時、
逃げ出す時、彼はまた押す。押された女子供はよろけて倒れる。
彼は生きている人間を、ふんづけて殺し、死体の上を踏み越えて外に出て、舌で厚い唇をペロッとなめ、何とも感じぬ。
旧暦の端午の日に、ある劇場で火事だと流言が飛び、その一声で押されて十数人の力の弱い少年たちが踏み殺された。死体は空き地に放置され、見物人が1万人を超え、人の山人の海でごったがえし、そこでもまた押しあいへしあいだった。
押した結果、さもうれしそうに大きく口を開いて「見ろ、すごいぞ!」という。
 上海に住んで、押されないように踏むれないようにしようとするのは不可能である。
また、この押すと踏むは更に広がろうとしている。下等華人の幼くて弱い者すべてを押し倒し、
下等華人のすべてを踏み倒そうとしている。
その時、残った高等華人だけがそれを頌して祝う――
「見ろ、すごいぞ。文化保全のためには、どんな物を犠牲にしても構わない――
そんなものは何の役にも立たぬのだ!」
            6月8日
訳者雑感:最後2行は意味不明。これは高等華人の発言だ。
下等華人を踏み倒して、それを面白がり、且つまた文化保全のためには、どんな物も犠牲
にして構わぬ。彼らにとっては自分たち(の文化=好き勝手な暮らし)を守るために、
下等華人を犠牲にすることを屁とも思わぬ。人を虫けら扱いするのが「押す」ことか。
2012/05/17訳
 
 

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夜を頌(しょう)す

夜を頌(しょう)す
夜を愛するのは、孤独者、閑人、戦闘不能者、光明を怖れる者のみとは限らぬ。
 人の言行は、白昼と深夜、陽の下と灯の下ではいつもまったく別になる。
夜は天の造化が織りなした幽玄な天の衣で、全ての人をあまねくおおい、暖かく包み、
安らげて、知らずしらずのうちに徐々に人造の仮面と衣裳を脱ぎ去り、丸裸になって、
辺際の無い黒い綿のような大きな塊の中に包み込む。
 夜にも明暗がある。微明、昏暗、手を伸ばすと掌も見えぬ漆黒の闇までいろいろだ。
夜を愛す人は、夜を聞く耳と夜を見る目を持たんとし、自ら暗中に一切の闇を見る。
君子たちは電灯の下から暗い部屋に入り、体を弛緩させる:
恋人達は月光の下から木陰に入ると、忽然と眼の色が変わる。
夜の降臨はすべての文人学士たちが、太陽の下でまぶしい白紙に書いた超然・漫然・恍然・
勃然・燦然とした文章を抹殺し、
後には憐れみ、へつらい、ウソいつわり、ホラ吹き、ごまかしの夜気だけとなり、
燦然と金色の光の輪を作り、あの仏画のように、非凡な学説の頭を囲む。
 そこで夜を愛す人は、夜の恵みの光明を受ける。
ハイヒールのモダンガールは路の街灯の下を、コツコツ音をさせ颯爽と歩く。
だが鼻先に脂汗が光るのを見れば、流行ファッションはついさっき学んだばかりと知れる。
もし煌煌と光る照明の下に長くいたら「没落」の運命に落ちるであろう。
シャッターの閉じた店の暗さが彼女を助け、歩みを緩め、一息ついたとき、
心にしみこむ夜のそよとした涼しい風を感ず。
 夜を愛する人とモガは同時に夜の賜いし恩恵を受ける。
 夜が明けると、人々はまたせっせと起きだす:
夫婦たちも5-6時間前とは全く違う顔になる。
それからは喧騒と雑踏。高い壁の向こう、ビルの中、深閨の内、暗い監獄の中、サローン、
秘密機関の中は依然として驚くべき真の大暗黒が弥漫している。
 現在の白日の下、往来がにぎやかなのは、こうした暗黒の装飾であり、人肉をつけた
醤油の甕の金の蓋であり、鬼の顔に塗られた雪のように白いクリームである。
ただ夜だけは誠実がある。私は夜を愛す。故に夜に「夜を頌す」を書く。
                6月8日
訳者雑感:
これは「野草」と同じ趣だ。白昼のにぎやかさは、夜の大きな暗黒の飾りにすぎない。
人肉をつけた醤油甕の金色の蓋、とは何だろう?
大きな甕の中におびただしい量の人肉がつけられているのか?
鬼の顔に塗られた白いクリームに過ぎぬという。
もう少しこの本を読み進めば、分かるかもしれない。
真実は夜にあり、騒がしい白昼はその真実の装飾に過ぎぬのか?
     2012/05/14訳
 

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准風月談(風月談を准可す)前記

准風月談(風月談を准可す)前記
 民国建国22年5月25日「自由談」の編者の「海内文豪は今後大いに風月を談じて
貰いたい」との呼びかけ以来、
老舗の風月文豪が我が意を得たりと至極ご満悦だったが、
冷淡なのも、洒落たのもあり、更には単に「文壇のスパイ」しか能の無い狆ころたち
すら、彼らのご立派な尻尾をピンと立てたりもした。
面白いのは、風雲を語れる人は、風月も語ることができるとしていることだ。
風月を語れというなら、語ってみることにしましょう。
といっても例によって、御意の通りには参らぬでしょうが。
 題目を一つの絞って作家を制限しようとするのは実際はできない相談だ。
試しに「学びて時に之を習う」という題目を出して、
前朝の遺少(清朝の遺老の老を少<若い>と変えた)と車夫に八股文を書かせたら、きっと全く違ったものになるだろう。
当然、車夫のは全く通じないデタラメなものとなるが、この通じぬデタラメこそが、
遺少たちの天下を倒したのだ。
昔の話にも:
柳下恵(古代の賢人)は飴を見て「養老できる」と言ったが、盗跖(下恵の弟で大泥棒)はこれで閂(かんぬき)をはずせると言った。
彼らは兄弟で、同じものを見ても、思いついた用途は天地の差がある。
「月白く、風清きこの良き夜は何とせん?」(蘇軾の詩)よろしい。風雅の極みだ。
もろ手で賛成する。だが、同じ風月でも「月の暗いは殺人の夜、風の強いは放火の天」というのも一聯の古詩ではないか?
 我が風月談も騒がしいものになったが、それは「殺人放火」の為に非ず。
しかし「風月を大いに談ぜよ」を「国事を談ずるな」と取るのは誤解である。
「国事を漫談する」のは問題無いし、「漫」であるかぎり、
放たれた鋒先がある人の鼻に命中さえしなければ問題無い。
それは彼の武器で看板でもあるからだ。
 6月から色んな筆名を使い始めた。一つには面倒を省くため。
もう一つはある人が罵っている様に、読者は内容を見ないで、
作家名しか注意しないというのを避けるため。
だがこうして書いて見たら、視覚によらずに、専ら嗅覚に頼る「文学家」を疑心暗鬼にさせ、彼らの嗅格が全体と一体となって進化していないため、
新しい作家の名を見ると、
すぐ私の仮名だと疑い、私に対して吠えて鳴きやまず、
その結果ひどいことには読者も
その騒ぎのために、訳が分からなくなってしまった。
当時使った筆名を各篇下に残し、自ら負うべき責めを果たそうと思う。
 もう一点、以前との違いは、発表時に改削されたものは大抵補い、
傍点をつけて分かるようにした。改削が編者や編集長によるのか、
官憲の検査によるかは今では弁別の法も無いが、推想するに、
文を変更するのは諱忌(いむべきもの)を取り去ることで、
文章として脈絡があるのは、大抵編者によるもので、でたらめに削除され、
語気の繋がりに構わず、意味が通るかも構わぬものは、欽定文である。
 日本の刊行物にも禁忌がある。但し、削除箇所は空白か破線で、読者もそれと知る。
中国の検査員は空白を許さず、必ず文字を続けるから、
検査の際の痕跡が分からぬので、
あいまいな表現はすべて作者のせいにされる。
このやり方は、日本より進化しているから、中国検閲史上、
極めて価値ある故事として、残すことを提案する。
 去年の略半年間に随時書いたものが、知らぬうちに1冊となった。
雑多な文に過ぎぬから「文学家」から、取るに足りぬと言われるだろう。
だが、こういうような文章は、
今はだいぶ少なくなったし、「落ち穂拾い」の人たちも、
この中から何か拾えるかもしれないから、これも暫く生きて行けると信ずるので、
1冊として印刷したわけだ。
      1934年3月10日 於上海

訳者雑感:
「准風月談」を日本語読みする際「じゅんぷうげったん」とすると、
順風の意味がまず浮かぶので、そんな風に誤解していた。
正しくはジュン 風月談なのだ。
内容を訳してみて、1933年前後の上海で魯迅は官憲の検査が厳しくなって、
魯迅の名では雑文を出せなくなっていたことが分かる。
それで6月から色々なペンネームを使っていろんな雑誌に寄稿していたのだ。
 松本重治の「上海時代」に彼が長与善郎を魯迅と引き合わせたことが出ている。
その席で、日本も検閲がうるさくなってはきていて□□や伏せ字などで出版界も大変だとはいうが、上海では魯迅の名前で作品をだすことすらできなくなっていることなど、
日本より数段厳しいことなどが話題になったこと、
魯迅が来る途中の通りで見かけたすごく豪華な棺桶を見て、
入りたくなったよ、などとの「冗談」を長与は誤解して、
魯迅がとても暗い印象を受け、それを日本の雑誌に書いている。
それに対して、魯迅はそうではないということを増田に伝えているのだが…。
当時、魯迅の体も大分悪くなっていたこともあり、日本に来て治療を受けながら、
作家活動をしてはどうかと色んな人から勧められたが、行かなかった。
 官憲の検査が厳しくなって、書きたいものも書けなくなるし、
原稿料もろくに貰えない状態だが、やはり中国にいなければ、
彼は何も書けなくなるから、と断った由。
2012/05/12訳

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新中国建国に果たした日本の役割

新中国建国に果たした日本の役割
1.
毛沢東が新中国建国後、北京を訪問した日本人に語った言葉として、
「新中国は日本が戦争で攻めて来たおかげで建国できた」と伝えられてきた。
行間の意味は、日本が国民党軍を攻撃して彼らが弱体化した結果、共産軍が戦後彼らとの戦いに勝利できた、ということだが、これには戦後、アメリカですら蒋介石軍を積極的に支援しなくなるほど、国民党とその上層部のとんでもない腐敗と堕落があったからだ、
と言われて来た。
 スターリンですらもとは蒋介石の国民党を支援していたのだが、最終段階では毛沢東の
共産軍に武器弾薬を与えて、新疆を早く攻め落とせと援助している。ソ連はイギリスなどが介入してきて面倒なことになるのを怖れていた。それで毛沢東軍に迅速に軍を新疆に移動させるために飛行機など大量の輸送機器を与えている。
2.
建国後、共産党政府の公式見解として、蒋介石の国民党が如何にとんでもない腐敗で
堕落していたかが宣伝され、我々も国民党が台湾に逃げ出す際の弱体化の過程で、品格さえ貶められ、故宮の宝を持ち出して逃亡したというイメージが強く残っている。

 最近読んだ「堀田善衛上海日記」(集英社)の巻末に、堀田と開高の対談があり、406頁に、開高がヘミングウエイが新聞記者として敗戦になる少し前に重慶に行っていることに触れ、彼の国民党に対する評価「われわれのコリーグ、仲間、同胞として信ずるに足る。
規則正しい、志気高い軍隊であり、将兵である」という文章を紹介している。
堀田がそれに対し、「それはエリート軍隊に接すれば、そうなりますよ」と疑義を出す。
開高が「いや兵隊もそうだというんだ」それで堀田も上海時代のことを思い出し、
堀田「国民党のエリートの軍隊が最初上海に飛行機で入ってきたんですが、日本軍の引揚げなんかを管理していた軍隊は、これはすばらしいエリートの軍隊ですよ。だって彼らは兵卒にいたるまで英語がペラペラなんだから」という話しに展開する。
国民党軍も日本と戦争していたころは志気も高く、民国革命を旗印に掲げた党であったのだという認識で一致。 (中略)
3.
 二人の対談はその後、重慶と延安の奥地から上海・北京にやってきたエリートたちが、
「日本人が持っていた財産を接収するについて大変な汚職その他があって、その汚職に
関しては、在留日本人の財界上部ももちろん関係ありましたよ。だからある意味では、
彼らの堕落のきっかけをつくったのは、正金銀行を初めとする、それから岡崎嘉平太さんを初めとする当時の日本人財界人であったかもしれませんよ」と記す。
 岡崎氏の名がでてきたのでどうしたことかと思って、彼の略歴をみると、日銀を辞して、
上海の華興商銀の理事に就任、戦争中は大東亜省の参事官を務めていたから、横浜正金などと共に、日本占領下の上海を拠点として財界活動を行っていたわけだ。
二人の対談からすると、国民党のエリートたちが腐敗堕落していったきっかけは日本人が所有していた経済基盤としての企業、財産などの接収の段階で、元来体内に受け継がれて来た「貪欲さ」がむくむくと目覚めてきて、労せずして手に入る財産に目がくらんだのがきっかけだったことになる。
4.
 さらに堀田は浙江財閥について、「もし浙江財閥がものすごく健在であれば、戦後の大混乱を、国民党、国民党軍、国民政府、この三者による引っかき回しを、もし浙江財閥が大変健在であれば、許さなかったと思いますが、これが弱ってましたからね」と続く。
(対談なので、浙江財閥がもし大変健在であればと2度強調されている:筆者注)
 浙江財閥は戦争中、日本に協力したことを国民党側の党・軍・政府が非難する大義名分があったため、浙江財閥の健在さが弱められた、という。
 「もう一つ長期的な目で言えば、国民党及び浙江財閥の確固とした支配を経済的にブッこわしたのはアメリカですよ。戦後いわゆるウオー・サープラス(戦争余剰物資)が、
太平洋のあらゆる島からドーッときたでしょ。マッチ、鉛筆、タバコはいうまでもなく…
アメリカの缶ビールの方が上海でできるビールより安いんです…
余剰物資が怒涛の如く入って来た。これではいかに浙江財閥といえども、つまり地場産業が全部没落して、全部アメリカのサ―プラスによってやられちゃった」
清涼飲料会社もコカコーラによってすべて倒産してしまい、失業者があふれ、市民生活は破綻し、熟柿が落ちるごとく奥地から攻め込んできた共産軍にやられたのは当然の成り行きだったという。
5.
 明治維新の前後、戊辰戦争などで大量の武器が日本に売り込まれたが、英仏独からはもちろんだが、南北戦争が終わったばかりのアメリカから大量のサ―プラスとなった武器が大量に持ち込まれたという。格好の処分場であった訳だ。
 1868年以後の明治日本がもし1945年以降の中国のように内戦を4-5年も続けていたら、さらに大量の武器弾薬が売り込まれ、日本中にそれらがあふれて、大量の金銀が国外に流出したことであろう。生糸や絹織物ではとても払いきれない金額だから。
 勝・西郷会談で早期に終結した結果、金銀の流出も防げて、その後アームストロング砲を英国と合弁で製造できるようにまでなったのは、僥倖であったと言えよう。
 さもなくば、江戸大阪はもちろん、九州北海道にも何の産業も興らず、マッチはもとより機関車なども長期にわたって外国製を使わされる羽目に陥ったであろう。
第二次大戦の敗戦後もアメリカのサ―プラスが日本を席巻したが、新中国建国後、暫くして今度は中国が北朝鮮と共に韓国に進攻してきて、日本がアメリカ軍への供給基地になったことで、戦後の産業復興がかなったのは、不思議な輪廻である。
もし、蒋介石軍が中国を統治していたら、北朝鮮を支援することもなかっただろう。
朝鮮特需も起きず、日本の戦後復興も大幅に遅れたことだろう。
                2012/05/10 日夜浮かぶ

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楊邨人氏の公開状に答える公開状

楊邨人氏の公開状に答える公開状
「文化列車」がレールの無い私の机にまで乗り入れて来た。
それは12月10日発車の第3号で、近頃こういう雑誌がでたのを知った。
その中で、楊邨人氏が私宛に公開状で答えるよう求めている。
これには必ずしも答える必要は無いと思う。
公開状の目的は皆に見てもらうためで、私個人に対しては二次的であるからだ。
答えてもいいが、それはやはり人々に見てもらうためで、
さもなければ、ただ個人宛に郵送すればすむ話だ。
回答のする前に元の書状を記せねばなるまい――

魯迅様
李儵(シュク)氏(李又燃氏のことか或いは曹聚仁氏の筆名か)の「偽自由書を読む」を
読むと、文末近くで:
『魯迅の「偽自由書」を読んで、魯迅氏の人となりに思い到った。
その日、魯迅氏が食事中、咀嚼時に動かす筋が、胸の肋骨まで連動するのを見て、
魯迅氏も老いたな!と。その時私は胸が締め付けられるような感情を禁じえなかった。
以前、父の老いたのを見たとき、そういう気持ちになったことを思い出して、今魯迅氏の
老いたのを見て、昔のことを思い出した。
これは司馬懿一派を喜ばせたであろう。況や傍らには、とうに変心した魏延がいたから』
(この末尾の一句は原文の十字そのまま写したもので、一字も違わない、確かに妙文だ!)

これに対して、二つの感想を禁じ得ない:
一つは、我々の敬愛する魯迅氏も老いたということ。
一つは、我々の敬愛する魯迅氏がなぜ諸葛亮なのか? 氏の「傍らに」いったいどこから「とうに変心した魏延」がやって来たのか?
プロレタリア大衆はいつ阿斗(劉備の子、凡庸な無能者)になったのか?
 一番目の感想を持ったことで、私は大変おそれ驚いた。我々の敬愛する魯迅氏が老いたとは、なんともはや驚きに堪えない!
「吶喊」が北京で初めて出たころ(多分10年前)、拝読後、大変敬慕し、称揚の紹介文を張東蘇氏の編集する「学灯」に載せたことを覚えている。
当時私の先生への敬慕度は、創造社の四君子たちより上だった。
後になって、1928年「語絲」に氏は我々を嘲笑する文章を載せ、双方の論戦には感情が無かったとはいえ、論戦は論戦として、私の心からの敬愛は変わらなかった。
1930年秋、氏の50歳の誕生祝賀会には私も参加者の一人として、大変親しく氏とお話できたことも幸栄だった。
左聯のある大会が、日本人同志の家で開かれた時、また氏とお会いし、愉快であった。
しかし、今年私が共産党を離れて後、左右の挟撃にあい、「芸術新聞」と「出版消息」に、
氏が私を「嘘」(吹飛ばす)と非難しているという記事が載り、書名は多分「北平五講と上海三嘘」で、私を「嘘の方法で、襲撃する」とし、なお且つ、私と梁実秋、張若谷とを同列にしていたので、私は当然反感を抱かざるを得ず、「新儒林外史第一回」を書くことになった。この「新儒林外史第一回」に氏が交戦に使ったのは大刀だと書いて、反攻的な風刺としたのみ。
引用した文章の情緒と態度はすべて氏を敬慕したもので、文中の意味は却って、氏が私を「嘘」で襲撃するのは敵を見誤ったのではないかと述べた。
大著「両地書」を拝読しての紹介文は、筆先にも十分敬慕を含み、謾罵の字は半句も無い。
だが氏は「私の種痘」の一文を誤解したようで、筆に任せて私向けに、2-3本の冷酷な矢を射て、特にある人が、氏が老いたのを攻撃しているとし、私は決して氏が老いたと感じてなどいないし、あの文も氏の老いたのを攻撃していないのに、氏は自ら老いたと思っているのではないか。
 バーナード・ショーの方が氏より年長だし、ショーの髪や髭は氏よりずっと白いが、彼は老いていない。氏はどうして自分が老いたと感じたのか?
私はこれまで氏が老いたと感じたことは無いし、氏が青年の如くあり、且つ永遠に若さを保つのを望む。
 しかし、李儵氏の文を読んで、怖れおののき驚いた。氏はやはり本当に老いたのだ。
李儵氏は氏が老いたのを見て「胸が締め付けられるほど」彼の御尊父の老態を見た時に感じた気持ちになり、私もよく私の老いた父のことを思いだすが、人が私を攻撃した時のように「孝子」になろうとは思いません。
天性として時にはそういう気持ちになり、想念することはありますが。
従って李儵氏の文を見た時、私が自分の父親のことを連想したのではありません。
しかし、氏が本当に老いたのは私を怖れ驚かせた。
私が怖れ驚いたのは、我々が敬愛する文壇の先輩が老いたことだ。
生理的なことで仕事を止めねばならなくなってしまうこと!
この敬愛する気持ち・思いで、今年来の氏に対する反感を砕き、誠心誠意、氏が訓悔されることを切望する。
氏が厳粛な態度になって、「嘘」で吹き飛ばすとか、冷矢を射るなどは慎まれ、相手を心服させるよう希望します。
 第二の感想は私を……、これは李儵氏のことだから、ここで物議をかもしたくない。
 本状について先生が返信の価値があると感じたら、この「文化列車」の編集者に送って、
発表して下さい。さもなくば、文書で厳正に批判してもらっても構いません。どこに発表してもらっても結構です。
 以上、誠心の敬慕を表し、ご健康を祈ります。
楊邨人 謹啓 一九三三、一二、三。

 追信。この手紙は誠心から出た物で、鬼の子らが私を罵って、先生とペンでいざこざを起こした結果、子鬼となって、先生に和を求め「大鬼」に…の意思ではありません。
        邨人再拝

 以下、私の返信。手紙だから冒頭は例の通り書くと、

邨人様:
 貴方の私宛書状に対して返答する値打ちもありません。
貴方が私を「心服」するのを望んでもいないし、貴方も私の批判は不要でしょう。
この2年来の文章はすでに自身の形象を明白にしているし、勿論「鬼の子」たちの
根も葉もない話しは信じませんが、貴方のことも信じておりません。
 これは貴方の言葉が、彼らと同じように、狆ころ式のキャンキャン吠えるだけだと言っているわけではありません:
多分貴方は自分としては永遠に誠実だと思っているでしょうが、急な変化により、
苦心の挙句、身をかわし、右顧左眄した結果、自分の言葉をうまくまとめられず、
デタラメなことを書くようになったのでしょう。
だから聞く人の心に響かなくなったのです。
貴方のこの手紙を例にとれば、もし本当に自分を知っているなら、本来書く必要もないことでしょう。
 貴方はまず初に「どうして諸葛亮か」と尋ねた。それは実際おかしな問いです。
李儵氏は会ったことがあります。曹聚任氏ではなく、李又燃氏かどうか確認できません。
又燃氏とは会ったことも無い。
 私が「どうして諸葛亮」か? 他人の議論に答えることはできぬし、その必要も無い。
そんなことしていたら、一日中返事を書かねばならない。私を「群衆中の蛆」という人もいます。「どうして?」――そんなことに関わってはいられません。
しかし私の知る限り、魏延の変心は諸葛亮の死んだ後で、私はまだ生きています。
従って私を諸葛亮というのは該当しません。
従って「プロレタリア大衆はいつ阿斗になったのか?」という問題もピントはずれです。
こうしたデタラメは「三国演義」や呉稚暉先生を知っているなら、あり得ぬことで、書物にも、他の人も人民を阿斗と呼んだことは無い。安心して下さい。
 しかし貴方は「プチブル文学革命」の旗の下にいながら、いまだに「プロレタリア大衆」とか言っておられるが、自分でこうした字を見て、恥ずかしいとかおかしいとか思わないですか?もう二度とこういう文字を使わぬようにしては如何ですか?
 次に私の老いに「怖れおののいた」とは一体どうしたわけか、不思議です。
私は仙丹の修煉をしてないから、自然の法則で老いるのは、何ら奇とするに足りません
もう少し平静になってください。又その後は死ぬでしょうから、それも自然の法則ゆえ、予め表明しておきます。どうか「怖れおののかぬ」ようにしてください。
さもないとその内に神経衰弱になり、いよいよ話しが支離滅裂になりましょう。
たとえ私が老いたとしても、死んでも、地球を棺桶に持ち込むことはしません。
地球はまだ若いし、存続しますから、希望はまさしく将来にあり、今も尚貴方の旗を立てることは可能です。それは敢えて保証しますから安心して仕事をしてください。 

 さて「三嘘」ですが、そういうことはあったが、新聞に載ったのとは少し違います。
当時あるホテルで、みんなで閑談し、何人かの文章に及んだ時、私は確か:
そんなものは一嘘(ひと吹き)でけりをつけられるから、反駁の値打ちもない、と言った。
この数人の中に貴方も入っていた。私の意見は貴方があの堂々と書いた「自白」(共産党からの離党)の中で明白に農民の純朴さとプチブルインテリの動揺と利己的さを述べ、
それでプチブル革命文学の旗を立てようとするのは、自分で自分の頬を殴るようなものだ。
 しかし、私がそれを言う前に、散会してしまい、終わってしまった。
だが転々とするうちに、その時記者が同席していたかどうか知らぬが、暫くしたら尾ひれがついて新聞に載った。それが読者の憶測を呼んだのでしょう。
 この5―6年、私に関する記事がとても増えた。毀すためか誉めるためか、ウソか真か。
私は意に介さぬ。弁護士を雇う金も無く、しょっちゅう広告を載せるだけの巨費も無い。
各種の刊行物をくまなく見る暇も無い。況や記者は読者の気を引こうと、誇大に書きたてるのは周知のことで、ひどいのはすべて捏造さえする。
例えば、貴方がまだ「革命文学家」だったころ、「小記者」のペンネームで新聞に、
私が南京中央党部の文学賞の賞金を貰って、大宴会を開き、子供の一歳の誕生を祝い、
それが郁達夫氏に亡くなった児のことを思い出させ、悲しませた、と書きましたね。
これなど実に見て来たようなウソもいいところで、まだ一歳にならぬ嬰児も私のとばっちりを受けて、汚れた血を浴びました。
これはすべて創作で、それは私も知っており、達夫さんも知っている。
記者兼作者の貴方、楊邨人さんは当然知らぬはずはない。
 私はそのとき一言も言わなかった。どうしてか?革命者は目的達成の為、いかなる手段を使っても良いというのは、正しいことだと思っていたから。
だから私の罪が重いという理由で、革命文学の第一歩として、まず私を血祭りにあげようとするのなら、私も歯を食いしばって忍受せんとしたのです。
それでも殺されさえしなければ、草の中に逃げ込み、自分で傷口の血をなめてきれいにし、決して他人の手を煩わして伝来の薬は使わないようにしようとした。
 しかし、聖人では無いから、煩わしさに激動する時もあり、確かに貴方「がた」を嘲笑い、それらの文章を後に「三閑集」に入れ、一つたりとも削らなかった。
しかし貴方「がた」のデマと攻撃の文の重さの10分の1以下だ。
それだけでなく、講演でも時に葉霊鳳氏や貴方を嘲笑し、貴方達が「前衛」の名で雄赳びをあげて出陣の際、私は祭旗の犠牲にされ、何合かの剣戟の後、戦線から消え去って行くのを見て、笑いをこらえることができなかった。
 階級的立場上でも個人の立場でも、一笑する権利はある。然し私がまだ傲然と何とかの
「良心」或いは「プロレタリア大衆」の名を借りて、敵を凌圧したことは無い。
さらに表明するが:それは私が彼との個人的な私怨のせいだ、と。
先生、これでもまだ謙譲不足ですか?
 私が責任を負えないような記事のせいで、貴方の「反感」を引き起こしたのに、破格の
優待を蒙って「新儒林外史」で私に大刀を褒めてくれたことに対して、儀礼上謝意を表すべきだが、実際は大宴会を開いたのと同じで、私には大刀なぞ無いし、只一本の「金不換」という名の筆しかありません。
これは何もルーブルを貰っていないという宣伝でもなく、子供のころから使いなれた、
一本5銭の安い筆です。確かにこの筆で貴方と交戦したが、古典を引用するのと同様、
筆に任せてひねり出し、趣をこらしたのみで、特に報復する悪意は無い。
だが貴方は私に「三本の冷酷な矢」だと言った。これは貴方を怪しむことはできない。
というのは、これは陳源教授の発言の余波にすぎぬからです。
しかし報復としても、上述の理由から私はまだ「怨みを以て徳に報ず」の隊伍にまで至っていない。
「北平五講と上海三嘘」などこれまで書いたことも無い。北平で「五講」が出たそうだが、
私が書いたものではないし、見たことも無い。
そんな風潮で騒ぎが広がったら、将来きっと何か書くかもしれないが。
もし書いたら「五講三嘘集」と名付けてみようか。だが後半のは必ずしも新聞のいう三人とは限らぬ。貴方はどうやら梁実秋・張若谷両氏と同じにされるのを羞じているようだが、
並べてみても何も貴方を侮辱などしていないと思う。ただ、張若谷氏は少し劣るし、
とても浅陋で「一嘘」の対象にもなりません。私なら他の人に換えてしまうだろう。
 貴方については、今の私の意見としては多分、そんな悪く書かないだろう。
貴方は革命場中の小さな売店で、決して奸商ではない。私の言う奸商とは、国共合作時代、羽振りの良かった連中で、当時ソ連をほめ、共産に賛同し、とことんやったが、
いざ清党になると、共産青年を使い、共産の嫌疑のある青年の血で自分の手を洗い、
依然としてはばを利かせ、時勢が変わっても羽振り良さは不変で:
もう一種は革命の驍将(勇猛な)で、土豪を殺し、劣紳を倒し、すごく激烈だが、
一度蹉跌すると、「邪を棄て、正に帰る」として「土匪」を罵り、同志を殺し、すこぶる激烈で、主義も変え、依然として驍将たるを失わない。
貴方はといえば、「自白」の中で、革命か否かは、親の苦楽を以て転移するとし、投機的な気分があること疑いも無い。といって大口の売買をするでもなく、わずかに何とかして、
「第3種人」になろうとし、革命党より良い生活をしたいようです。
革命陣営から退散し、自己弁護の為、穏健に「第3種人」になる為にはどうしても、
少しばかり懺悔をせねばならず、支配者にとっても、それは実は頗る有益なのだが、
やはり「左右からの挟み撃ちの対象」となってしまう。
多分その方面で、貴方がたの面積が狭すぎるからでしょう。
それは銀行員が小さな銭荘の丁稚を見下すのと同じことです。
不服だろうが、「第3種人」の存在を認めないのは左翼のみならず、貴方の経験からも
証明されたことで、これはある意味、大きな功徳でした。
 平静にみて、貴方は失敗者の中に入らぬし、自分では「挟み撃ち」にあっていると、
感じているが、今はただすぐにも人を殺せる権力のある連中以外は、誰でも攻撃されるわけだから止むを得ません。
暮らしは辛いだろうが、殺戮される人、監禁される人たちから見れば、月とスッポンで:
文もどこにでも発表でき、封鎖・圧迫・禁止されている作家よりはるか自由自在だ。
羽振りのいいのや驍将に比べると勿論ずっと下だが、それは貴方が奸商でないからで、
貴方の苦しい所だが、いい所でもある。
 大分長くなったからこれまでとする。要するに、私は以前同様、決してデマやデタラメで、貴方を攻撃しようとは思わぬが、これからは別の態度に改めるかもしれない。
当人の「反感」や「敬慕」など一切計算にいれないようにする。
貴方も私が「生理上の理由で仕事を止めるだろう」などということで、私を許すとか容認するなどしないでもらいたい。
 専ら返答のみ、お元気で。
      魯迅。1933.12.28。

訳者雑感:
返信する価値なしと述べながら、なぜこれを公表したのだろうか?出版社注では、これは
当時の刊行物には発表しなかった由だから、この「南腔北調集」になぜ入れたのだろう?

怒り心頭に達したのであろうか。相手はかつて揉み手をして近づいてきた者で、文中にも
魯迅を「先生」「先生」と呼び、敬慕していた、今もしていると書きながら、人身攻撃的な非難の文章は慎めと「慇懃無礼」である。
この文中の「先生」という漢語をどう訳そうか迷った。
 本編に「先生」という言葉が沢山出て来る。楊氏から魯迅宛ての公開状に出て来るのは、
宛先の時は「様」、魯迅先生とか、先生という時は一部を除き「魯迅氏」、「氏」としてみた。
一方、魯迅から楊氏あてには、宛先は「様」で同じだが、先生とあるのは、「貴方」としてみた。
中国語の「先生」の訳語は「さん、様、貴方、お前、君」とした方が適切な場合がある。
日本語の「先生」には「教師、国会議員、稽古ごとや美容師の師匠等」の意味で使うのが多く、中国語で批判的に、或いは揶揄的に使うようなニュアンスの時には、氏とか貴方の方が適切かと思う。
漱石の「心」の中の「先生」と私の関係は、人間として生きてゆく上での「師」「恩師」的なニュアンスが強いが、中国語の文章の中で使われる「先生」は必ずしも「師」ではなく、本編の中で何十回と使われている「先生」は往往「皮肉っぽい」ニュアンスがある。
夫婦間でも互いに名前か時には姓も一緒に、後に何も「さん」に相当するようなものを
つけずに、呼び捨てにするのが「愛情」表現のようだ。
それでいて第三者に向かって話すときは、夫のことを「我的先生」と日本で言う「主人」のように使うのも面白い。
妻のことは、「我的老婆」というのも漢字にすると妙なものだが。
本当の先生(教師)のことは、「我的老師」とこれも老がつく。
教師のことを先生とは言わない。

 最後に、魯迅はこの「返事を書く値打ちも無い」ような男に対してすら、これだけの時間を費やしている。訳しながら、時に嫌気がさすほどで、連休で用事も重なり、私自身も
長い時間を費やし、タイプするごとに、初めから読み返してはいろいろ手を入れた。
 魯迅も何回か手を入れたと思われる。
文末に、老いぼれてもう仕事ができなくなるだろうからなどという理由で私を許すなどせず、どしどし論戦で腕を磨け、と励ましてもいるようだ。
   2012/05/08訳



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唐の文宗と柳公権

 中国の聯句について文宗と柳公権の対話を読んでいて、
やはり旧唐書を見てみなければと思い立ち、
近くの大倉山精神文化研究所の付属図書館を尋ねた。
中華書局の「二十四史」の中の「旧唐書」から該当するとみられる2と7,8,9を
書庫から出して貰って、2では文宗を、
そして7では柳公権の兄、柳公綽の列伝の中に記載されている柳公権の部分を
書き写した。
 文宗は在位826-840年途中幽閉されたが、
復位して840年の開成5年春正月戊寅朔、
上不康(健康を害し)不受朝賀。上崩於大明宮太和殿、寿享33.とある。
 柳公権の列伝に、開成3年、転工部侍朗、充職。とありその後に下記の聯句の段あり。

  引用すると:
旧唐書巻165、列伝115に筧さんが「長安百花の時」に引用されている箇所を見つけた。(旧唐書の4312ページ)
文宗 夏日与学士聯句、帝曰「人皆苦炎熱、我愛夏日長」 
文宗は夏学士と聯句をし、「人は炎熱に苦しんでいるが、私は夏の日の長いのを愛す」
公権続曰「薫風自南来、殿閣生微涼」時、丁、袁五学士皆属継、帝独諷公権両句:
曰「辞清意足、不可多得」(後は省略)
公権が「薫風が南から吹いて、殿閣に微涼が生じた」と続けた時、
丁、袁等五学士も続けたが、帝は公権の2句を「辞がすがすがしく、
意も十分尽くされている」と評し、公権に
命じて御殿の壁に題させ、字は5寸(15cm)角の大きな字で、それを見て帝は嘆じて曰く:
「鐘、王、復生、以てこれに加えるもの無し」と…(後略)

(訳者雑感;
  これから、聯句衆は文宗と柳公権と5学士の7人だったと推定される。きっと沢山の
句がつけられたのだろうが、歴史書に残ったのはこの4句のみ。
宮殿の壁に5寸角の大きな字で書かせたとあり、彼が書の達人だったことが分かる。
それ以外のエピソードとして、公権は穆宗にも仕えたが、帝が召見の時、公権に対して、
「我於仏寺見卿筆蹟、思之久矣」(寺で卿の筆蹟を見、久しく思い念じていた)。
そして公権に問うて曰く「筆何尽善」と、公権はそれに答えて
「用筆在心、心正則筆正」、上改容、知其筆諌也」と。上改容、の三字は帝の容貌が目の前に浮かぶ。心が正しければ筆は正しい。その通りだと思う。
 史官はできうる限り短い語句で列伝を残し、
後世の読者の琴線に触れるような文言にした。
読んだ人が、自分もこういう具合に「史」に名を残したいと望ませるように。
尚、これに加えるもの無し、の句は、芭蕉が「奥の細道」の
汐越の松で西行の歌を引いて、「この一首にて数景尽きたり、
もし一辨を加ふるものは、無用の指を立るがごとし」
の文に影響を与えしか。
芭蕉は必ずや中国の聯句を読んでいたであろう。

     日夜浮 2012/05/03記


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