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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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週刊「戯」編集者への書状

編集者さま:
 今日、週刊「戯」第14号を拝読。「独白」に私からの回答が得られず「遺憾」とあり、この回答は一昨日に発送したと記憶しており、病いをおして書いたもので、私としては努力したと考えておりまして、今ここで声明しますが、喜んでいただけたと思っています。
 今週号で、数枚の阿Q像を見ましたが、とても風変わりだと感じました。私の意見としては、阿Qは30歳前後で、平常な格好で、農民的な質朴さを持ち、愚鈍だが、ちょっと遊び人的な狡猾さもあり、上海には人力車夫や車を牽いている者の中から彼の影を探す事が出来るが、流れ者風ではなく、ルンペン風でもない。頭に小型のお碗帽を被せると、阿Qではなくなってしまう。私は彼にフェルトの毡帽(チャンマオ)を被らせたと記憶する。
これは黒くて半円形の帽子だが、縁は少し折り曲げて被る:上海の田舎ではまだ被っている人がいるだろう。
図がいるとの由、陳鉄耕君の刻したものが十枚あり、同封しますが不用なら返送ください。彼は広東人で、彼が用いた背景は多くは広東のです。第2、第3の2、第5、第7のこの4枚は比較的良いです:第3の1と本文は符合せず:第9は事実とかけ離れ、あの頃、どこにモーター車に乗った阿Qがいたでしょうか?これは荷車にすべきで、ある地域では板車といい、馬で引く四輪で、平時は貨物を載せます。但し、紹興にもこんな車は無く、私が使ったのは、当時の北京の状況で、私が紹興にいた時は、こんな盛大な行列は見ておりません。
 また今日の「阿Q正伝」で「小Dはきっと小董か」とありますが、そうではありません。
彼は「小同」といい、大人になったら阿Qと同じになります。とりあえず要点のみ。
あわせてご健勝を祈ります!
      魯迅拝     11月18日

訳者雑感:武田泰淳が紹興を訪問し、阿Qが被っていた「毡帽」を買って紀行文を新聞に寄せていた。私も、その数年後に紹興で買い求めて、寒い北京で被っていた。フェルトというか、なんか羊毛や動物繊維の短い糸を(長いのは衣服に仕立てる)突き固めたような感触で、けっこう分厚くて、長持ちしそうな感じがした。2年ほど冬に被っていたが転勤の際、どこかにしまいこんでしまったようで、今手元には無い。残念。
    2013/12/03記

 

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週刊「戯」の編者に答えて

週刊「戯」の編者に答えて
 魯迅様
 「阿Q」第一幕を掲載完了しまして、舞台上演は直ぐには難しいけれど、準備工作は始まりました。第一幕掲載できましたので、貴方からの御意見を賜り、我々の公演準備に対しての助言とさせていただき、また本刊の叢書計画が実現した際には、貴方の意見と「阿Q」の劇本を一緒に印刷して、その序にさせていただきたく、これは編者としてのお願いであり、また作者、読者の演出の仲間たちのお願いであります。
 ご健康をお祈りします。      編者

編集者様――
 週刊「戯」の私あて公開状はつとに拝読致しました:その後、週刊誌も拝受し、これはきっと私に何か答えよとの催促であろうと思いました。戯劇について私は研究したことがないので、最も確かな回答は一声も発せぬことです。しかし、貴方と読者の皆さんが、予め私の門外漢の気の向くままの話しでもよいと御理解いただけるなら、少しばかり個人的な考えを述べても構いません。
 「阿Q」は一回分があまり長くないのと、6日の間があり読んですぐ忘れていました。
今思いだすと、只あの編集の中で「吶喊」の他の人物も登場させ、未荘或いは魯鎮の全容を示す方法はたいへん結構です。ただ阿Qの話す紹興語は、私にはどうも理解できません。
 さて私としても幾つか申し上げたいことがありますが、二点申し上げます――
1.未荘はどこですか?「阿Q」の編者はすでに紹興と決めているようですね: 私は紹興人で、私の描いた背景も紹興が多いため、この決定は大概みなが同意するでしょう。
しかし私の全ての小説では、某所と明示しているのは大変少ないのです。中国人は殆どが故郷を愛護し、他所の大英雄を見下しますが、阿Qもこの癖があり、当時私がもし暴露小説を書いて、事件が某所で起こったと特定したら、そこの人は恨んで、不倶戴天の敵となり、某所以外の人は対岸の火事を見るのといっしょで、被我ともに反省せず、一組は切歯扼腕、他の組は漂漂然とし、作品の意義と作用は全く失せてしまうだけでなく、そこから無聊の末節を生じ、みんなが閑潰しの議論を始め――「閑語揚州」は最近の例です。
病を治すため、処方箋に人参とあるのだが、その服し方が悪いと、全身がふくれてきて、大根の種を飲んでやっともとの状態に戻ったとしたら、人参を買った金は無駄になり、さらには大根代も損をしてしまう。人の名も同じで、古今の文壇の消息通は、往々ある小説の根っこの所は、私仇を晴らす為だと考えているから、作品中の誰それは必ず実際の誰それだと詮索する。こうした才子学者たちに無駄なことをさせ、他の末節を生じさせぬ為に、私は「趙太爺」「銭大爺」を使ったが、これは「百家姓」の最初の2字だからで:
阿Qの姓に至っては、誰もよく知らないとした。但し、当時やはり遥言が飛んだ。又拝行についても、私は長男で弟が二人おり、遥言家の毒舌予防の為、私の作品の悪役には、一人も長男でないものはいないし、四男五男でないものもいない。
 上記のような苦心は、人を怒らせないようにとの心配したのではなく、目的は無聊な副作用をなくし、作品の力を集中し、更に強い力を発揮させるためです。
ゴーゴリの「検察使」は、演者が観客に向って「貴方がたは自分を笑いなさい!」と直接言わせている。(おかしなことだが、中国訳本にはこの極めて大事な一句が削られている)私のやり方は、読者が自分以外の誰だと探りだせなくすることで、暫くしたらそんな推測を忘れ、傍観者となり、そしてひょっとしたらこれは自分の事か、或いは全ての人のようでもある、と疑い始め、そこから反省が始まる。が、私は歴来の批評家で、この点に注意した人はいないと思う。今回の編者が、主役の阿Qの話す紹興語を、このようないいかげんでたらめな態度をとるのは、彼の眼も俗塵に覆われているのだと思う。
 しかし、紹興と特定するのもよいだろう。そこで出て来るのが第二の問題で――
2.阿Qは何語を話すべきか?これは問うまでも無く、阿Qの一生の事がらは紹興で起こった以上、当然紹興語を話すべきだろう、だが第三の問題が出て来る――
3.「阿Q」はどこの人達に見せるのか?紹興人に見せるなら紹興語を話すのは疑いない。紹興の戯文ではこれまで、官員・秀才(科挙合格者)は官話を使い、ボーイ・獄吏は土語
を使い、生(男役)旦(女形)浄(敵役)は大抵官話で道化役は土語を使った。思うにこれもけっして全てこの様に、上下、雅俗、善悪を区別したのではなく、大きな理由として、
警句やこなれた文句、風刺と滑稽は十中八九、下等人の口から出たもので、従って、彼は必ず土語を使い、当地の観客たちがはっきりわかるようにした為だ。そうであれば、この
問題の重要さは、考えてみればすぐわかる。だがもし紹興人に見せるなら、他の演者にも紹興語を大いに話させるのがよく、同じ紹興語だが、所謂上等人と下等人の話すのは必ず
しも同じではなく、たいてい前者の一句は簡明で、助詞と感嘆詞は少なく、後者の一句は長くて助詞と感嘆詞が多く、同じ意味の一句でも倍くらい冗長になる。他の地区の人に見
せるなら、この劇本の作用は減じてしまい、弱まって消えてしまう。私が注意してみる限り、紹興語に深く通じてと自認する県外の人はたいてい、現在、明代の人の書いた小品に
句読点をつけている名人と同様、あまりわかっていないのだ。
北方や福建広東の人に至っては、外国のサーカスの即興劇のしゃれより分からないだろう。
 思うに、普通、永遠、完全という三つの宝は、無論大切なものだが、作家の棺桶の釘にすぎず、彼を釘づけにしてしまうだろう。現在の中国で、時流に会い、その地にふさわし
いものをつくろうとして、使えない劇本は無いが、その実、それは不可能で、このように編集して見ても、それは困難なことだ。だから、現在とれる方法は、会話は比較的簡単で、
理解し易い劇本を書くしかなく、学校のような場所で上演するなら、改める必要はないが、某省の某県の某村でやるとなると、これは一冊の底本とし、せりふはその地の土語にし、
言葉だけでなく、背景も人名も変え、観客が切実に感じられるようにすべきである。例えば、演じられる所が水郷でなければ、船は荷馬車にし、七斤(船頭)も「小辮髪」に
すればよいと思う。
 以上ですが、総括すれば、この劇はやはり専門家せず、多くの人に活用してもうらのが一番です。
 終わりに臨んで、もう一つの尻尾をつけたく、これは無論狆の尻尾のようにおもしろくはありません。これは私にとっても大変残念ですが、言わねばなりません。数ヶ月前、
かつてある友人に大衆語について質問を受け、それへの返信が後に「社会月報」に載りましたが、末尾には、楊頓人氏の文章が載せてあった。紹伯氏が「火炬」に、私はすでに楊
頓人氏と協調し、その上、中国人は協調性に富んでいると深く感慨をもった、と。
今回、この手紙はきっと発表されるでしょうが、私は週刊「戯」にすでに曾今可・葉霊鳳両氏の文章が載ったのを覚えていますが:葉氏は一枚の阿Q像を描いており、私のあの「
吶喊」は、まだ便所で使いきっていないようで、もし多年に亘って、便秘に苦しんでいないのであれば、新しく一冊買ったに違いない。もし私が紹伯氏の判決におびえているなら、
今回は何も書かぬのが当然だが、必ずしもそうとは思わない。ただここで、ついでに声明する:私はこの種の権力は全く無いし、他の人が私の手紙を雑誌に発表するのを禁じるこ
とはできるし、他に誰かの文章があるのかどうか、予め知るすべもなく、従って同じ雑誌に、如何なる作者が協調的か否かを示す意味はない:但し、同じ陣営の人が、変装して、
背後から私に一撃を加えるなら、彼に対する私の憎悪と蔑視は明らかに敵に向けられる。
 これはけっして個人の問題ではなく、現在また紹伯氏がいつもの手段を展開する時期になっており、私が声明しないと、私が書いた各節は、たとえ買弁意識でないとしても、
協調性の論議になってしまう。それでは何の意味があろうか?
 とりあえずご返事まで。お体たいせつに。
      魯迅   11月14日

訳者雑感:紹興では阿Qの頃、1910年頃には、戯が官話と土語の両建てで話されていたのを初めて知った。役人や秀才、二枚目、女形などは北京官話を使ったというのは、北京から数年ごとの任期で紹興に赴任してきた官とその部下たちが話す北京官話をしゃべることができたのだろうか。そして戯を観に来る紹興の土着の人達もその北京官話が理解できたのだろうか?と疑ってみると、やはり警句とか滑稽などの「キーワード」は土語を使って、土着の観客にしっかり分かってもらえるようにしていた、とある。
 かといって、北京から赴任してきた「偉いさん」たちとの会話は絶対必須であったから、土地の役人や秀才たちは北京官話を話せるようになっていたのだろう。2重言語生活は広大な中国で、中央から赴任してくる「長官とその部下」との会話に不可決だったのだ。
 しかし紹興語の土語のしゃれは、外国のサーカスのピエロのしゃれ以上に外部の人には理解困難だった、というのは面白いというか、テレビの普及する前の日本でも、上方漫才
のエスプリは江戸っ子にも理解できなかったのも事実であった。
     2013/12/02記

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ナポレオンとジェンナー

ナポレオンとジェンナー
 私の知人の医者は、よく流行っているが、いつも患者の家族から責められるので、ある時、自嘲気味に:人から称賛を得たいなら、人を殺すのが一番だよ。ナポレオンとジェンナーを比べてみればよくわかる、と言った。
 確かにその通りだと思う。ナポレオンの戦績は我々とは何の関係も無いが、やはり彼を英雄だと敬服する。甚だしきは、自分の祖宗が蒙古人の奴隷になったのに、それでもなおジンギスカンを称賛する:現在の逆卍(ハーケンクロイツ)の眼からすると、黄色人種はすでに劣等種だとされているのに、我々はそれでもヒットラーを讃えたりする。
 彼ら三人は人を殺しても屁とも思わぬとんでもない厄病神だ。
 しかし、我々は自分の上腕に瘡があるのを知っているが、これが種痘の跡で、天然痘から命を救ってくれたものだ。このお陰で、世界でどれほどの子供が救われたか知らぬ――
ある人は成長して後、やはり英雄たちの銃砲で灰になったとはいえ、我々の内でこれが、発明者の名から付けられたことをどれほど知っているだろうか?
 殺人者は世界を破壊し、救人者はそれを補い、修復している。銃砲で灰にされる有資格者たる諸公は、それでも殺人者に恭順する。
 この考え方を変えない限り、世界はさらに破壊されつづけ、人は更に苦しむことになる。
                              (1934年)11月6日
訳者雑感:ドイツ語の新聞や雑誌などでヒットラーが政治に登場してきたころの状態を見て来たのだろう。1934年当時、ナチスドイツから黄色人種は劣等種だといわれて見下されていたのを、承知していながら、ヒットラーを讃えたりした。第一次大戦の結果、青島などの植民地から追い出されたドイツは、英米仏日など帝国主義植民地支配者とは違った目で、ドイツを見て来たためだろうか。当時の国民党の軍備は、クルップなどドイツ製が殆どであった。それは英米仏日など植民地支配者が売ってくれないということもあったろうが、中国とドイツの協力協定の結果であった。
 それにしても、米英から追いつめられたとはいえ、黄色人種は劣等種と公言しているナチスドイツと防共協定から三国同盟を締結するに至るとは、いかなる風の吹いたものか?敵の敵は味方という論理からか。そのドイツは中国大陸で日本軍と戦闘する国民党軍に新鋭の武器弾薬を供給し、日本軍はそのドイツ兵器で大きな痛手を受けたという。また、南京の所謂虐殺を世界に向かって最初に報じたのは在南京のドイツ人ジャーナリストであった。これが世界に日本軍の残虐性を宣伝し、反日活動を高揚させたと言われている。ナチスドイツは一方で中国と協力し、それと戦っている日本と同盟を結んだ。これは独ソもしかり日ソもしかり、中立条約を結びながら、「すきあらば」いつかは攻め込もうと虎視眈々であった。それが30年代後半から40年代への世界情勢だと言えばそれまでだが。智恵が足りなかった。
無人島を巡る制空権という問題が発端となって戦端が開かれぬ事を切に祈る。       2013/11/25記

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気ままにめくる

気ままにめくる
 私の消閑としての読書――気ままにめくるについて書いてみよう。但し一歩間違えると、害を及ぼすかもしれない。
 私が初めて本を読んだのは私塾で、最初は「鑑略」(清代の歴史本)で、卓上にはこれと習字の赤格子付きの帳面、対字(詩作の為の本)の教科書以外、他の書物は不許可だった。だが後に徐々に字を覚えて書物に興味が湧いてきて、家にあった二三箱のボロ本をめくり始めたが、大目的は絵を探すことで、その後、字も読んだ。これが習慣となり、手元に本があると何でもめくってみて、或いは目次をながめ、何ページかを読み、今でもこんな具合で、いい加減な読み方だが、往々にして文を書いた時や、読まねばならない本を読んだ後で、疲れて来るとこんな風にしてうさばらしをしている。確かにそれで疲労回復することができる。
 人を騙そうとするなら、この方法でとても博学で高雅なようにみせることができる。
現在、少し真面目な人は私と閑談後、私が沢山本を読んでいると感心し、概略を話すと、
確かに結構な量を読んでいるようにみえるが、いつも気ままにめくっているからである。
一冊ずつ丁寧に読んでいるわけではない。
簡単に入手できる虎の巻は「四庫書目提要」で、これも面倒だと思うなら「簡明目録」でも問題無い。これを丁寧に読めば、あたかも沢山の本を読んだような気にさせてくれる。
だが私もかつて真面目に努力して、例えば「国学」の類等、師に教えを請い、学者の著述した参考書目に注意した。結果、すべて不満足であった。幾つかの書目は量がとても多くて、十年かけてやっと読み終えることができるほどで、私は彼自身も読んでいないのではないかと思う:ただ、何冊かは比較的良いのがあり、これも著者の人柄を見なければならないし、彼がいいかげんなら、出版されたのも多分極めていい加減で、読まぬ方がましで、読むと余計悪くなってしまう。
 私はこの世に後学のために読書指導をする先生がいないとは言っていない。いるにはいるが、得がたいのである。
 さて私の消閑の読書を述べる――真面目な人はそれに反対で、「雑」だと言い、「雑」は、現在良くないという意味である。しかし良い面もある、と思う。ある家の古い家計簿を見て、毎日「豆腐三文、青菜十文、魚五十文、醤油一文」とあると、昔はこれくらいの出費で一日のおかずが買え、一家が食べられたことを知り:昔の日暦には「外出は不宜、沐浴不宜、上棟不宜」などと書いてあり、昔はこんな多くの禁忌があったと知る。宋人の筆記に「食菜事魔」があり、明人の筆記に「十彪五虎」(五彪が正:出版社)があり『おお!元々「昔からすでに之あり」かと、知る』但し、一部の本だけ読むと、すべて当時の名人の逸事ばかりで、某将軍は毎回38碗の飯を食べたとか、某氏の体重は175斤半もあったとか:或いは奇聞や奇怪な事として、某村では落雷でムカデが死んだとか、某婦が人面の蛇を産んだとか、なんの益体も無いものもある。こうした時は、自らの主意を持って、これは幇閑が書いた本だということを知らねばならない。凡そ幇閑というものは、人の消閑を最悪にさせるもので、彼が使うのは最悪の手法だ。用心しないと誘い込まれ、陥穽に堕ち、後には頭中が某将軍の飯の量、某氏の体重、ムカデや人面蛇で一杯になってしまう。
 コックリさん(占い)の本、妓女の本など読む機会があれば、眉をひそめ、憎厭の態度などしないで、ちょっとめくってみても良い:自分の考えと違う本も、すでに過去のものとなった本に対しても同じ方法で良い。楊光生の「やむを得ず」は清初の本だが、読んでみると彼の思想は活き活きとしており、今彼の意見に近い人が多い。これは些か危険もあり、というのも、それに誘い込まれる恐れがあるからだ。それに対するには、沢山の本をめくってみることだ。多くめくれば比較ができ、比較は騙されることを防ぐ良い方法だ。田舎の人はよく硫化銅を金鉱石と思い、口先で訳の分からぬ事を言うと、慌ててしまいこんで、相手が彼から宝をだまし取ろうとしているのではないかと疑う。本物の金鉱石なら掌にのせて重さをみればわかるから、そうするとあきらめて:分かった、と認める。
 「気ままにめくる」は各種の他の鉱石と比べるやり方で、手間はかかるが本物の金鉱石と比べるほど明白で簡単な事はない。現在の青年が常々、どんな本を読むべきかと訊くのは、本物の金を見たいからで、硫化銅にだまされまいとするためである。そして一度本物の金を認識できたら、同時に硫化銅も認識できるようになり、一挙両得である。
 しかしこういう良いものは、中国の原有の書物の中から容易には得られない。自分でも少しばかり知識を得た頃のことを思い出すと、本当にひどい目にあったと思う。幼い頃、中国は「盤古氏が天地開闢」した後、三皇五帝が出、……宋朝、元朝、明朝、そして「我大清」と続いていると習った。20歳になって「我々」の成吉思汗は欧州を征服し、「我々」の最盛時だったと聞いた。25歳になって所謂「我々」の最盛時は、実は蒙古人が中国を征服し、我々が奴隷になったのだということを初めて知った。今年の8月に、少し調べ物をしていた時、三冊の蒙古史をめくってみたら、蒙古人が征服したのは「オロシア」で、それからハンガリー・オーストリアに侵入したのは、全中国を征服する前だったということを初めて知った。
あの当時の成吉思汗はまだ我々の汗ではなく、ロシア人が奴隷にされたのは、我々より古く、彼らが「我々の成吉思汗が中国を征服し、あの当時が我々の最盛時だった」と言うべきなのである。
 もう長い間、現行の歴史教科書を見ていないから、中身がどんな風か知らぬが:新聞や雑誌には成吉思汗について自慢げに書いた文章をまだ目にすることがある。ことはすでに過去のもので、元々たいした事ではないかもしれぬが、大きな問題であり、やはり真実を書く方が良いと思う。従って、文学を学ぶにも、科学を学ぶにも、まずは歴史について、簡明で信頼できる本を読むべきだと思う。ただし、彼が専ら天王星或いは海王星、ガマの神経細胞を講じるとか、ただ梅の花を詠み、妹よ妹よというだけで、社会について議論しないなら、もちろん読まなくても構わない。
 私は日本語が少し分かるので、日語訳「世界史教程」と新出の「中国社会史」を応急的に使っているが、私がこれまで読んできた歴史書の類より明確である。前者の一部は中国にも訳があったが、只第1巻のみで、後の5巻は出てないし、訳がどうなのか読んでいないので知らない。後者は中国が「中国社会発展史」として先に訳したが、日本語の訳者によると間違いが多く、だいぶ削除されており信頼できない由。
 私は今でも中国がこの2冊の翻訳本をもつことを望む。そしてまた、皆が一斉にやって、一斉に散って行くのを望まない。訳すなら完全に訳し:削除せず、もし削除するならその旨声明を出す事。だがやはり一番大切なのは、注意深く訳し、完全を期し、作者と読者の為に、よく考えることを望む。    11月2日


訳者雑感:
 元・清と異民族(唐も西方の異民族出の李氏という説がある)が中国を統治した時代の版図が最大で、最盛時であったというが、元のジンギスカンは実はロシアを先に征服して、それからハンガリー・オーストリアに侵入したので云々の段は、魯迅の「真骨頂」である。
時間軸から言えば、先にモンゴルの奴隷にされたロシア人こそ、あの当時が、ロシア民族の最盛時であったというべきである。先に従属した民族が後から奴隷にされた民族より上位にある、という考えである。元の時代はモンゴル人が一番上にいて、次が目の色の違う異民族の「色目人」が2番目(これは西域の諸族が主でロシア人はどうかな?少しはいたかもしれない)、その次にモンゴルに奴隷にされた北にいた漢族が3番目、そして最後が南宋と言われた地域で最後まで抵抗を続けていた南人(これはモンゴル人から蔑まれ、日本攻撃の元寇の際に、船に乗せられ大量に狩りだされて多くが死亡した)が4番目であった。魯迅たち長江の南に住んできた南人にとっては「我々の最盛時」などとはとても言えない時代であった。
      2013/11/24記

 

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魯迅の手紙1億円で落札

22日の日経夕刊が、魯迅の短い手紙が1億円で北京のオークションで落札されたと報じている。
陶亢徳という当時の著名な編集者宛ての220字の手紙で、香港のテレビの映像では1枚の用紙に
縦書きで10行前後の短いもので、コメンテイターは1字50万円(香港ドルで)相当だと言い、
最近陳独秀などの手紙もオークションにかけられて、手紙のオークションが熱門(ほっと)になってきていると伝えている。北京上海などに彼の博物館があり、彼の手稿の毛筆の手紙などが展示されていたり、その写真を本にして出版されているが、どうして220字の手紙にこんな値がついたのだろうか?教科書から魯迅の作品が消えてしまうという流れの中でどういうことだろうか?
漱石や鴎外の手紙がオークションにだされてことがあったのだろうか?
ただこの手紙の内容がとても興味深い。
「日本に留学経験のある魯迅が日本語学習について記した内容」で
「日本語を学び、小説を読めるようになるまでに必要な時間と労力は、決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」などと書かれているそうだ。
 1902年4月から1909年9月まで7年半、東京ー仙台ー東京で住み、日本語を習得する傍ら、東京でもドイツ語を熱心に学び、ドイツへの留学も計画していた彼が、「日本語学習」について編集者へあてた手紙で、欧州の文字を学ぶのと同じくらいの時間と労力が必要だ、ということは何を意味するものだろう。漢字が同じで日本語経由で大量の欧州文化を取り入れた中国だが、その魯迅にしても、日本語の小説を読めるようになるまで(彼は大量の作品を翻訳しているが)には、ドイツ語の小説を読めるようになるのと同じくらい時間と労力をかけた、というのか。
彼は一方で大量の欧州(おもに被抑圧国だった東欧など)の作品をドイツ語から重訳している。
彼にとっては、ドイツ語のしっかりした文法・概念の方が、あいまいな日本語からよりも翻訳する際は、よく理解でき、早く理解できたのかもしれない。ドイツはおろか、欧州には一度も足を踏み入れていないのにである。
 彼は晩年内山書店の主人に「西郷」の本と、「川柳」の本を頼んでいる。川柳を作ってみようとの考えですか?との問いに、「いやあ川柳が分かるようになるのも大変で、作るなんてとても」
という意味の答えの後、「日本人が私に漢詩を作ったから見てほしい、と言ってくるが…、
正直言って、漢詩を作るのは難しいからおよしなさい、と言ってるのです」という意味のことを
内山さんの本で読んだ記憶がある。(書名失念)
2013.11.23記

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臉譜の憶測

臉譜の憶測
 戯劇について私は全く門外漢である。が、中国戯劇研究の文章は時々読む。近来、中国の戯劇は象徴主義か否か、或いは中国戯劇には象徴手法があるか否かの問題には大変興味がある。
 伯鴻氏(田漢の筆名)が、週刊「戯」第11号(「中華日報」副刊)に、臉譜(隈取面)について、中国戯は時に象徴主義を用い『白面で「奸詐な役」、赤面で「忠勇」、黒面で「威猛」を、藍面で「妖異」、金面で「神霊」を表すなどを認め、実に西洋の白面が「純潔清浄」黒面が「悲哀」赤面が「熱烈」黄金面が「栄光」と「努力」を表すのと全く同じだ』これが即ち「色の象徴」で些か単純で低級ではあるが、という。
 それはどうやらその通りだが、もう少し考えると疑問が出て来る。白面が奸詐、赤面が忠勇というのも、只顔面だけのことで、他の所では、白はかならずしも奸詐の象徴でなく、赤も忠勇を表さない。
 中国の戯劇史についても私は門外漢である。只古い時代(南北朝)の演劇故事は、仮面をつけており、この仮面はだいたいこの俳優の特徴を示さねばならず、一面ではこの俳優の人相の決まりがあったということだけは知っている。古代の仮面と現在の隈取りの関係は、誰もまだ研究していないようだが、もし何らかの関係があれば「白面が奸詐」の類は、多分人物の分類だけで、象徴の方法ではない。
 中国は古来「人相見」を講じるのが好きだが、もちろん現在の「人相占い」とは違い、気色から禍福を占うことはなく、所謂「中に誠あれば、必ず外に出る」ということで、顔の相からその人の善悪を弁別しようとする方法だ。一般人はこういう見方もあり、我々は今でもよく「彼の様子からみて、善人じゃない」という話をよく聞く。この「様子」の具体的表現が魏劇での「臉譜」だ。金持ちはまったく心も胆もなく(無慈悲)只、自私自利のみで、でっぷりと白く太って、何でもやらかす。それで白は奸詐を表す。赤が忠勇を表すのは、関雲長の「面は重棗(なつめ)」の如しから来ている。「重棗」とはいかなる棗化、私は知らぬが、要するにきっと赤いのだろう。
『実際に忠勇な人の考えは単純で、神経衰弱になることはありえず、顔もすぐ赤くなる。もし、彼が永遠に中立でいたいと考える「第三種人」を自称したら、精神的にいつも苦痛を感じざるを免れず、顔の片方は青、もう一方は赤で、ついには明らかに白鼻(道化)になってしまう。(中国伝統劇では道化は鼻を白塗りにする)黒が威猛を表すのは至極平常なことで、年がら年中戦場を疾駆していたら、顔が黒くならないわけが無い。白いクリームを塗った公子はきっと戦闘には行こうとしないだろう』(『 』内は原文では下線付き)
 士君子は常に人々を一門ごとに分類するし、平民も分けるが、この「臉譜」は俳優と観客が共同して徐々に分類図を設定してきたものだが、平民の弁別、感度の力量は士君子のように緻密ではない。況や、古い時代の舞台での演じ方は、ローマと異なり、観客はとても散漫で、表現もはっきり重点を置かぬと、観衆ははっきりと感じることが難しい。かくして、各類の人物の臉譜は誇大化・漫画化しないではおられなくなって、甚だしきは、更に珍奇古怪になり、実際からはるか離れ、象徴手法のようになった。
 臉譜はむろん、自ら本来の意義を持つのだが、私にはどうも象徴手法とは思えず、また舞台構造と観客のほどあいが、古い時代とは異なってくると、それは更にある種の余計なものに過ぎなくなってきて、その存在を扶持する必然性がなくなってきた。しかし、それを更に有意義な遊芸に活用すれば、今でもとても面白いと思う。   10月31日

訳者雑感:臉譜とは京劇の役者の隈取りを指し、京劇の劇場ではもちろん、飛行場の土産売り場でもミニチュアのセットが沢山並んでおり、それを買い求める人が多い。かくいう筆者も少し大きいのを買って眺めて楽しんでいる。
曹操とか諸葛孔明、あるいは関羽などの臉譜は誰でもわかる。それは上記の通りだが、本物の役者の隈取りも寸分たがわず、誰が演じても分かるようになっている。日本でも歌舞伎ではそれを踏襲しているが、映画などでは、日中両国でこの辺の違いが出て来る。
日本でも確かに「明治天皇」は嵐寛寿郎の当たり役で、彼のイメージが強いが、最近の映画では別の俳優が彼の個性を打ち出している。家康でも秀吉でも「役者」「名優」の個性がわかる顔で演じるが、中国映画では、毛沢東なら彼にそっくりの役者が選ばれ、名優が彼の個性を生かした顔で演じることは少ない。
この辺が、中国の臉譜の強い影響がいまだに残っていると言えるだろう。
     2013/11/19記

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運命

運命
 ある日、内山書店で閑談中――内山にしょっちゅう出かけて閑談するのだが、憐れむべき敵対する「文学家」はこれを理由に私に「奸漢」の称号をつけようと懸命であったが、今ではもうそれを堅持しなくなったが――日本の丙午生まれの今年29歳になる女性は、とても不幸な人だということを初めて知った。丙午生まれの女は夫にかつと信じられ、再婚してもまた買ってしまう。更にはその数が5-6人にもなると信じられているので、結婚したくても大変難しい由。これは迷信だが、日本社会にも迷信は本当に多い。
 私は訊ねた:この宿命を取り除く方法はないの?
答えは:ありません。
 それで私は中国の事を考えた。
 多くの外国の中国研究家は、中国人は宿命論者だと言う。運命で決まっているから如何ともしがたい:中国の論者にもまだ何人かこういう人がいる。が、私の知る限り、中国女性には、このように宿命を取り除く方法が無いと言うことはない。「凶運」や「厄運」はあるが、常にその対策を考えていて、それが所謂厄払いで:或いは相克の運命を怖れぬ男と結婚し、彼女の「凶」とか「厄」を制すのだ。仮に一種の運命があり5-6人の夫にかつというのなら、とっくに道士の類が現れて、自ら妙法を知っていると称し、桃の木で5-6人の男を彫り、呪符に描いたりし、この宿命の女といっしょに「婚礼」を行った後、焼いたり埋めたりするのだ。そして本当の夫と結婚すれば、即ち7人目で、もう何も危険がなくなる訳だ。
 中国人は確かに運命を信じているが、この運命は転移させる方法がある。所謂「どうしようもない、お手上げだ」というのも時には別の道を考え――運命を転移する方法である。
これが「運命」だと確信して後、本当に「どうしようもない」となった時、その時はすでに壁にぶつかっていて、或いはまさしく滅亡の際なのだ。運命は中国人にとって、けっして事前の指針ではなく、事後に余計な心配には及ばぬとする(慰めの)解釈である。
 中国人にも勿論迷信があり、また「信じる」ということもあるが、どうも「堅く信じる」というのは少ないようだ。かつては皇帝を最も尊敬していたが、一面では彼を弄ぼうとし、后妃も尊敬したが、一面では彼女を誘惑しようとも考え:神明を畏れ、紙銭を焼いて賄賂となし、厄から逃れようとし、豪傑は敬服するが、彼のために犠牲になるのはいやがった。尊孔の名儒も、一面では佛を拝み、甲を信じる武士は明日、丁を信じる。過去に宗教戦争は無かったし、北魏から唐末の佛・道二教が互いに倒れたり、隆盛になったりしたのは、ただ数人の者が、皇帝の耳元への甘言蜜語のせいであった。風水・呪符・祈祷……こんなにも大きな「運命」もただ何がしかのまとまったお金を供えるか、頭を数回、地面につけるだけで、宿命と大きく異なったものに取り換えることができる――宿命ではないのだ。
 我々の先哲は「定命」もこのように定まってはいないことを知っており、人心を定めるには不足だと知り、彼は言う:これは様々な方法を用いて得られた結果で、真の「定命」で、様々な方法を用いなければならぬ事すら宿命だ、と。但し、一般の人を見る限り、どうもこうは考えていないようだ。
 人が「堅い信念」を持たないで、いろいろ疑うのは良いこととは言えぬ。それは所謂「節操が無い」からだだが、私は運命を信じる中国人で、運命を転移できると信じているのは、楽観的に捉えてよいと思う。だがこれまでのところ、迷信で以て別の迷信に転移するのは、つまるところ何の違いも無い。以後、もし正しい道理を使って実行できれば――科学で以てこの迷信を換えることができれば、宿命論の考えは中国人から離れて行くだろう、
 もし本当にそういう日が来れば、和尚・道士・巫師・占星家・風水先生……の宝座は全て、科学家に譲られることとなり、我々も一年中、神明や幽霊を詣でることも無くなるだろう。   10月23日

訳者雑感:1934年の上海での和尚・道士・巫師・占星家・風水先生……の宝座はどのくらいの数だったのだろう。1949年から暫くしたら、そうした宝座はすべて一掃されたように宣伝されたが、1980年代以降、徐々に復活しているようで、大連から2時間ほど北東にあるお寺に会社から50名くらいで旅行に出かけた時、旅行社の予定に組み込まれていて、全員が目をつぶって、大きな石碑の前に並んで、7-8歩進んで、手をその石碑に伸ばし、それが触れた場所に依って、めいめいが夫々の案内人に御堂に導かれ、そこで占い師を務める坊さんに「人相手相」を見て貰い、それを「良い方向にとり換えるには」xx元の寄進が必要云々と言われ、私は席を立ったが、何割かの中国人はそれを「命」を良くするための方法だとして払っていた。魯迅のいう神明や幽霊への賄賂だろう。
 そういえば、ここ数年で、横浜中華街の歩道に、沢山の人相見が白い布の机を並べ始めた。以前うるさく感じた天津甘栗の押し売りの数に負けぬ程だ。
     2013/11/16記

 

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「面子」について

「面子」について
 「面子」は話しの際中によくでるが、何となく分かっているようで誰も深く考えない。
 近ごろ外国人の口からも時々この言葉を聞くから、彼らもこれを研究しているらしい。彼らにとって、この意味は分かり難いが、中国精神の綱領で、これをしっかり認識すれば、まさに24年前の辮髪をひっつかむのと同じで、全身も引っぱられて動かせるわけだ。
 前清の頃、西洋人が総理衙門(外務省に相当)に権益を要求しに来た際、ちょっと威嚇すれば、大官達は唯々諾々となった由。但し、退出するときは、側門から出された。正門を通させぬは、面子を失うことで:彼らに面子が無ければ、当然中国の面子が立つわけで、優位になれるのだ。これが事実かどうか断定できぬが、この故事は「中外人士」の多くが知っている。
 それで彼らは我々にもっぱら「面子」だけを立ててくれたということではないか、と私は大変訝しく思うのだ。
 が、「面子」とは一体何なのか?考えなければ良いのだが、考え出すと分からなくなる。それはどうやら色々あるようで、一つの身分ごとに一つの「面子」があり、所謂「顔」だ。この「顔」も一本の境界線があり、この線の下に落ちると面子を失い「顔を潰す」とも言う。「顔を潰す」のを怖れぬは「恥知らず」だ。もしもこの線上にあれば「面子がある」或いは「顔が立つ」が、「顔を潰す」というのは、人によって異なり、車夫が道端で虱をひねるのは何でもないが、金持ちの婿が同じことをすると「顔を潰す」ことになる。只車夫も「顔」が無いわけじゃないが、そういう時でも「顔を潰す」とは思わないだけにすぎず、もしも女房に蹴られてころんで泣いたりすると、これは「顔を潰した」ことになる。この「顔を潰す」規律は上等人にも適用できる。こうしてみると「顔を潰す」機会は上等人の方が多いようだが、必ずしもそうとは限らず、車夫が財布を盗んで見つかると、面子を失くすが、上等人が金珠珍宝をこっそりくすねても何ら顔を潰すことにはならないようで、況や「洋行視察」(問題が起きると、こう称して海外に逃れた:現代の汚職官僚と同じか)をして、顔を洗って出直すという良策もある。
 誰もが「面子」を欲しがるのは、もちろん良いことだとも言えるが、「面子」なる者は、実に不思議なものである。9月30日の「電報」のニュースに:上海西部で、大工請負頭の羅立鴻は母の葬儀のために『貸器具店の王樹宝夫婦の協力を頼んだが、来賓がとても多く、準備した白衣が足りなかった。その時丁度有名な王道才、綽名を三喜子というが、葬儀に列席し、白衣を着用しようとして争ったが果たせず、体面を失したと思い、心中に恨みを抱き……徒党数十人を集め、各自鉄棒を手に、ピストルを持っていた者もいたと言い、王樹宝の家人を乱打し、一時双方は激烈な争いとなり頭から血を流し、多くは重傷を受けた。……』白衣は親族の服す者が着る物だが、今必ず「争って着ようとし」「果たせず」親族でもないのは明らかなのに「体面を失した」と思い、こんな大乱闘を引き起こしてしまった。この時はただ普通とは些か異なる「面子を立てる」ためなら、自分がどうなっても全く構わないとの考えのようだ。こうした感情は「紳商も発露するを免れず:袁世凱は帝と称しようとした時、ある人は名を勧進表に列することで「面子が保てる」として:ある国(日本)が青島から撤兵する際に、ある人は万民傘(旧時、地方官の離任の際、民衆が儀仗傘を送り、そこに全ての贈呈者の姓名を記して「愛戴」していた事を示した:出版社注)に名前を列するのを「面子を保った」と考えた。
 従って「面子」も必ずしも良いこととは限らない。――ただ、人は「恥知らず」になるべきだと言っているわけじゃない。今、話をするのは難しいし、もし「孝を非とする」ことを主張するなら、人はすぐ貴方に父母を殴れと扇動するのかというだろうし、男女平等を主張すれば、人は貴方が乱交を提唱していると言うから――こういう声明を出して置く事が欠かせない。
 況や、「面子を立てる」ことと「恥知らず」は実際にも分け難い時がある。笑い話にあるでしょう。
 ある紳士は金と勢力があり、仮に四大人とすると、人はみな彼と話ができることを光栄に思う。ここに一人の見栄っ張りの小痩三が、ある日うれしそうに人に語って:「四大人が私に声をかけてくれた!」という。人は問うた「何て言ったの?」答えて曰く:「私が門前に立っていたら四大人が現れて、私に:出て行け!と言った」と。これは笑い話で、この男の「無恥ぶり」を形容しているが、彼自身は「面子が立った」と思っている。こんな人が増えれば、それも本当に「面子が立った」ことになる。他の多くの人に対して四大人は「出ていけ」とすら言わないじゃないか?
 上海で「外国のハムを食う(蹴られる)」のは「面子が立つ」とは言わないが「顔を潰す」のでもなく、自国の下等人に蹴られるより「面子が立つ」に近いようだ。
 中国人が「面子」を大事にするのは良いが、この「面子」は「圓機話法」(臨機応変)で変化にうまく対応すると「無恥」と混同し始めるようになった。長谷川如是閑は「盗泉」を説いて曰く:「古(いにしえ)の君子は、その名を改め之を飲む」とは、「今の君子」の「面子」の秘密の実態を喝破している。   10月4日

訳者雑感:「孝を非とする」とは親孝行を否定せよ、ということ。文革中は紅衛兵の中学生に対して、親が反動的なら、親を革命委員会なる組織に訴えて、審判・処罰するような指導が行われた。実際に親を訴えて、処刑されたことを今なお悔み、死ぬまで苦しんでいる中国人がテレビなどで苦衷を告白している。
 面子と無恥は紙一重の差で、中国人だけでなく、日本人も面子のために、大切なものを失っている。先日も民主党の中野氏が1年前の野田首相の解散に対して「野田氏は自分の面子のために解散した」と恨み骨髄で非難していた。解散と引き換えに合意した筈だった国会改革などは、うっちゃられたままである。相手は面子より実を獲ったわけだ。
 太子党の御曹司に、泥鰌の野田氏は顔を潰された。3年後、どうなっているだろう?
      2013/11/15記

 

 

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酔胡従の面

酔胡従の面
1.
 正倉院展を見に出かけた。
今年の目玉は漆金薄絵盤で、その彩色といい、造型の美しさは、彼の時代に既にこれほどのものが人間の手によって創られていたことに感心した。この盤は「香」を焚く器を載せるためのものだが、その香の作り方が展示されていて、とても興味が湧いた。長時間焚く事ができるように、迷路のようにくねくねと曲がった器具に香の粉をきれいにまんべんなく押し込んで行き、現代の蚊取り線香を大量生産するために渦巻き状にしているのと原理は同じだが、唐草文様のように美を追求している。一個一個職人技で且つ工芸家の息吹が聞こえるようだった。
 さて本題に移るが、酔胡従の面が数点展示してあり、最近修復したレプリカもあって、古びて退色した面と彩色が施され、太い髭も植えられて、飛び出してくるようだった。
その後、読売新聞に「正倉院展」のことに触れた記事で、どなたかが「胡」をイランの事、古代ペルシャと考えている人が多いが、正しくはソグド人だと解説しておられた。ペルシャは波斯と漢訳されており、胡はそうではない、と。
2.
 その後、松本清張の「過ぎゆく日暦(カレンダー)」を読み、15頁に下記の如くあり、
『唐招提寺は安如宝の独力による建立である。だが、学者はあまりこれに触れず、ために世間へ鑑真の建立との誤解を与えた。これ学者が東大寺資料を偏重するあまりである。当時のアカデミーの主流東大寺に排斥され、蔑視され、無視された揚州の唐僧鑑真と胡国僧如宝の痛憤が唐招提寺(はじめ「唐提寺」)を独力で建立させた。
 中国唐代の文献には鑑真の名は無し。

高弟法進(ほっしん)は師鑑真に背いて東大寺に残り、聖武帝歿後、故新田部親王の廃宅に遷された鑑真および思託(したく)などの弟子らがこれを私立の寺とし、唐提寺と名付けた。東大寺側は鑑真を中傷すること甚だしく、ために思託は淡海三船(「懐風藻」の選者)に頼んで鑑真の東行記を撰してもらったが、淡海の「唐大和上東征伝」における脚色は度が過ぎ、曲筆舞文に近い。
 早稲田大学教授安藤更生は東征伝を事実なりと信じて論文を書く。
  安如宝は安国の人。
安国は安息国(漢書西域伝)でペルシャのこと。波斯人とも書く。波斯人が八世紀に奈良に居住していたことは聖武紀にも出ている。私はペルシャ人安如宝の努力をテーマに小説を書こうとした。安如宝を安国(中央アジアのボハラ。タシケントの付近)の人とする説があるが、安息国のペルシャ系とした方がよい。』

 引用が大変長くなったが、中略すると誤解を生じる恐れがあり、こうなってしまった。
東大寺側が鑑真を排斥、蔑視、無視したことへの痛憤が「唐招提寺」の建立につながったと言う点は、数年前の正倉院展で見た、鑑真から東大寺の良弁にあてた「唐から新たにもたらされたお経を貸して欲しい」との願い状が反故とされ、その裏側に役所の事務用に使われていたものが、その後再度裏返されてびっくり仰天、端正な漢文ではっきり読み取れる内容だったことで証明された。東大寺側はこの願い状を無視したのだ。この時、鑑真は、少しは眼が見えていたのか。さもなければこの手紙は誰かに代筆してもらったものだろう。
4.
 話は安息国と胡国に移る。
 山川出版の「世界史総合図録」によれば、7世紀から8世紀にかけて、トリポリからアム川の少し西側まで、ウマイア朝のイスラム国家だったが、750年にアッバース朝に代わると版図としては吉川弘文館の「世界史年表・地図」20頁には、アム川を越えたソグドの地に広がっている。東はパミール・カシュガルなどと接するまでに拡大した。
 2013年に山川出版の「世界史リブレット」に森部豊氏の「安禄山」「安史の乱」を起こしたソグド人、という本が出た。8頁に、次のような文がある。
 『ソグド人とは、中央アジアのアム川とシル川にはさまれた地域のうち、ザラフシャン川の流域(ソグディアナ)に住んでいたイラン系の種族で、(中略)オアシス都市では灌漑農耕が行われていたが、利用できる水量がかぎられており、耕地面積の拡大や穀物の生産には限度があった。そのため、過剰な人口は都市の外へでて行き、これがソグド人の交易活動につながったという。(中略)
 ソグド人の東方への進出は古く、文字史料上では後漢王朝とソグドとの間に通交関係があったことが確認できる。(後略)』

 私の感じでは、ソグド人は酔胡従の面のほりの深さや長い鼻などからして、ペルシャ系の種族だろうし、突厥とかモンゴル・西蔵系ではないだろうが、アッバース朝のイスラム帝国支配から脱出した仏教や非イスラム教(ゾロアスターなど)の人々だと思う。
 後漢以来唐代まで中国各地に移住して拠点を築いてきたソグド人は、故郷がイスラム王朝のアッバースに征服されたのに伴い、多くの非イスラムソグド人が唐に流入してきたであろう。彼らは鑑真とともにやって来た安如宝のように敬虔な仏教徒だっただろう。
鑑真の故郷 揚州は塩業で栄えた交易港で、当時の唐代の国政に使う税金の大半は塩からの物品税でまかなわれていた。(それまでの租庸調とか均田法などが崩れた結果)そういう情勢下、多くのソグド人が唐の人との交易を通じて、唐の各地に住みついて行っただろう。
5.
 ここで平凡社の「世界百科事典」でソグド語、ソグディアナを見ると、インドヨーロッパ語族でイラン系に属し、古代ソグディアナで用いられた言語。商業・宗教活動に伴い西安・洛陽など東方へ拡大。文献としては仏典文字として敦煌の千仏洞の一つから発見された。トルファンからマニ教やキリスト教の経典も発見されている。
ササン朝ペルシャ、エフタル、突厥と相次いで支配され、8世紀にアラブの領土となってイスラム化した。とある。
 今日西安はじめ、中国の大抵の大都市にはイスラム寺院があり、回族のみならず、多くの漢族も回教を信じている。だが、鑑真とともに奈良に渡った安如宝のような仏教徒も沢山いたであろう。彼らは長い年月の間に漢族と通婚し、容貌的にも漢族と見分けがつき難くなっているが、安とか康という姓はソグド人の末裔に多いと言われている。
 同じく平凡社の事典の「胡人」を見ると、中国の秦漢では、もっぱら匈奴をさしたが、シルクロードの往来が盛んになって、西域の諸民族を西胡または単に胡と呼び、唐では広く塞外民族を表す一方で、多くイラン人をさした。深目高鼻・青眼多鬚の胡賈胡商は西方の文物・慣習をもたらして、中国文化を世界化し日本にも及んだ。(中略)
6.
 それでは、胡とは一体何をさすと見たら良いであろうか?ペルシャかソグドか?
 唐代には胡風趣味が盛んになり、唐詩にも胡旋舞を踊る胡姫などがしばしば登場する。
その多くは繁華街の酒場であった。彼ら彼女らがイスラム教徒だったら酒を飲んだであろうか?イスラム帝国から脱出してきたソグド人の多くは非イスラム教徒であった可能性が高いと思われる。唐の各地の都市で交易をしながら生活基盤を築いている同族を頼って、沢山のソグド人がやって来ただろう。彼らの多くは繁華街で商売して生計を立てて来た。
 漢族も彼ら彼女らを寛容に受け入れて、唐の都は世界に冠たる国際都市となった。漢族の客はソグド人に向って、「どこから来たの?」と問う。彼ら彼女らの答えは漢族の多くが知っている大国ペルシャの都会名だっただろう。その方が通りがよい。それで漢族の人も彼ら彼女らを「胡」から来た「胡人」だとおおざっぱにくくって、そのまま受け入れた。
 胡姫はソグディアナのどこかから来たとしても、そこはすでにアッバス朝の支配下にあり、その事実を漢族に説明しても意味の無いことだから、ペルシャの都会名を告げて安心させると同時に、自分は大きな国からやって来たのだとの印象を与えることができる。
 古代半島から日本に渡って来た人達も、楽浪郡からやって来ても、漢人(あやひと)と称したのは、彼らが漢に支配されていたからだろう。
 現代中国では、繁華街でよく見かけるスラブ系の女性は大抵モスクワやペテルブルグからやって来たという。シベリアや中央アジアから来たとしても、その地名を言っても漢族や日本人に通じないことを知っているから。
 日本の繁華街には、ハルビンや上海から来たという女性が多い。内モンゴルとか安徽省から来たと言っても分かってくれないからもあるが、ハルビンは美人で有名だし、上海ならだれでも知っているから。
 結論:胡人はペルシャ系だが非イスラム教徒のソグド人のことであろうと思う。
正倉院の酔胡従の面を見、唐詩の胡姫の酒場での活躍から、そう判断する。
      2013/11/13記
 

 

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「目には目を」

「目には目を」
 杜衡氏は『最近「新本を読むは旧書を読むに如かず」の心』により、シェークスピアの「カエサル伝」を再読した。この一読は大変大きな意義があり、結果として彼が旧書を読んで書いた新文章が世に出た:「シェークスピア劇カエサル伝で表現された群衆」だ。(「文芸風景」創刊号)
 この本は杜衡氏が「2カ月かけて翻訳した」物で、非常に丹念に読まれたと思う。彼曰く:『この劇でシェークスピアは2人の英雄――カエサルと…ブルータスを描いている。……そしてもう2人の政治家(扇動家)を創造し、――陰険で卑劣なカシウスと表面的には明らかに感覚麻痺状態なアントニウスを』但し、最後の勝利はアントニウスのもので、『アントニウスの勝利は明らかに群衆の力に依った』それで更に明らかなことは、たとえ「甚だしきは群衆がこの劇の無形の主要部分だと言っても、言いすぎではない」
 しかしこの「無形の主要部分」とは一体何者だ?杜衡氏は事を叙し、文章を引用し、終わりにしている――結論ではないが、これは作者の言いたくない事だが――と述べて――『こうした多くの場所で、シェークスピアはいつも群衆を一個の力として描いている:が、この力は単なる盲目的暴力に過ぎぬ。彼らは理性が無く、明確な利害観念が無い:彼らの感情は完全に数人の扇動家に制御されている。…むろん我々は軽率にこれが群衆の本質だと肯定できぬが、もしわれわれがこれは偉大な劇作家が群衆をこの様に見ているというなら、多分何ら間違ってはいないだろう。この見方は、私は作者が多くの群衆の理性と感情を、他のある種の方法で以て友だちを判断するという罪なことをしていることでわかる。私なら、実を言えば、これらの問題に対する判断は、今なお私の能力を超えており、敢えて妄言しかねる。…』
杜氏は文学家だから、この文章は極めて立派で、謙虚だ。もし「あのくそったれ群衆は、盲目だ!」とでも言ったら、たとえ「理性」に基づいていても、表現の荒っぽさによって、反感を招こう:今「この偉大な劇作家」シェークスピア老先輩が「群衆をこの様に見ている」としたら貴方はどう思うだろう?「巽語の言、いかで悦びなからんや」少なくとも遠慮して、頭をかきながら、もし貴方がシェークスピア劇「カエサル伝」を翻訳或いは精読していなかったら、――この判断は更に「私の能力を超えている」というしかない。
それで我々はみな無責任に単にシェークスピア劇を講じるだけである。シェークスピア劇は確かに偉大で、単に杜氏が紹介した数点のみについても、すでに文芸と政治は関係が無いとする高論を打ち破った。群衆は一つの力だが「この力は単に盲目的暴力にすぎぬ。彼らには理性が無く、明確な利害観念は無い」シェークスピアの表現によれば、少なくとも「民治」という金看板を粉々に踏みつぶしたのであり、況やその他については?
即ち、目の前の杜氏をしてもこれらの問題を判断できなくさせている。一冊の「カエサル伝」はたとえ政治論としてみても、極めて力がある。
しかし杜氏は却ってまた、このことのために、作者に代わって手に汗をして「作者は大大的に多くの群衆の理性と感情を、他の方法で以て友だちを判断するという罪なことをしていると心配する。無論杜氏はこれを気づいており、彼はこの一人の「カエサル伝」で以て彼に智恵を与えてくれた作者のことを愛惜している。しかしそうした「友だち」を肯定的に判断しても、まだ事実をしっかり顧みていない事は免れぬ。それは今単に施蟄存氏が、すでにソ連のシェークスピア劇の「醜態」を観ただけでなく(「現代」9月号)「資本論」にも常々、シェークスピア氏の名言から引用されたことが、いまだかって彼が有罪だと言われなかったことがあっただろうか?将来はといえば、多分「ハムレット」を引用して、鬼(幽霊)の存在を証明する必要が無いように、「ハムレット」は、シェークスピアの迷信だと責めるようなことはないのと同様、「無辜の民を救い、有罪者を伐す」で、杜氏と同じ見識を持つことだろう。
況や杜氏の文章は、彼と意見の異なる人に読んでもらい「文芸風景」という新しい本を読み、無論けっして「新本を読むは旧書を読むに如かず」という気持ちを持っている友人ではない。が、新本を読めば、ただ単に「文芸風景」を読むだけに留まらず、シェークスピア劇を講じる本も大変多いから、少し渉猟すれば、考えもそれほど揺れ動かず、「政治家(扇動家)に扇動されるのを怖れる。それらの「友だち」は作者の時代と環境を除けば、「カエサル伝」の材料は、プルタークの「英雄伝」からだと分かるし、またシェークスピアは喜劇を悲劇に転じたもので:作者はこれによって失意する。なぜか、良く分からない。但し総じて、判断する時はつねになにか思い到ろうとするが、必ずしも杜氏の予言する様に痛快単純ではない。
只「シェークスピア劇カエサル伝に表現された群衆」に対する見方は、杜氏の目とは違ったものもある。今は只十月革命を痛恨し、フランスに逃れたLev,Shestov氏の見解を引用するのみとするが、結論は次の様だ。――
 『「ユリウス・カエサル」で活動する人物は、上述以外に、もう一人いる。それは複合的な人物だ。それは即ち人民、或いは「群衆」ともいう。シェークスピアが写実家と言われるのも決して意義の無いことではない。無論その点で彼は決して群衆におもねるようなことはせず、凡俗な性格を表出したりはしない。彼らは軽薄でデタラメで残酷である。今日はポンペイウスの戦車の後につき、明日はカエサルの名を叫び、数日後には彼の叛徒ブルータスの弁才に惑わされ、その次はまたアントニウスの攻撃に賛成し、ついその前までの人気者ブルータスの首を要求する。人は往々群衆のあてにならぬことに憤慨する。但その実、まさしく「目には目を歯には歯を」の古来の正義の法則を適用している、ということがここに無いだろうか?ものごとの底までよく見れば、群衆はもともとポンペイウス、カエサル、アントニウス、Cinna(ローマの地方長官、カエサルが刺された時、刺した人間を賛美した)の輩を軽蔑し、彼らも乃祖面では群衆をも軽蔑した。今日、カエサルが権力を
握ればカエサル万歳。明日アントニウスになれば、彼の後ろにつく。彼らが飯を食わせてくれ、芝居をみさせてさえくれれば良い。彼らの功績など考えなくて良い。彼らはそういう面はよく分かっていて、王者の如き寛容を施せば、それが自分に応報が得られる。こうした虚栄心一杯の人々の一連の中に、或いはブルータスのような廉直な士がいたのも事実だ。しかし、誰が山の如き砂の中から一粒の珠を捜し出すヒマがあろうか?群衆は英雄の大砲の食糧(かて)で、英雄は群衆からすれば、余興にすぎない。その間にあって、正義が勝利を占め、幕は下ろされる』(「シェークスピア劇の倫理問題」)
 勿論これが精確な見解とは限らぬ。Shestovを哲学者或いは文学者と言う人は多くない。が、これを読んだだけで同じ「カエサル伝」からその描かれた群衆をみれば、結果は杜氏とこんなに違う。しかも推測できるのは、正に杜氏の予測したようにではなく「作者をして群衆の理性と感情を別の方法で友人たちを評価するという過ちを犯させている」
 従って、杜氏はシェークスピアのことを愁う必要は無い。双方とも実は大変よく分かっているのだ:『陰険かつ卑劣なカシウスは表面的にはあれほど感覚麻痺状態でデタラメなアントニウス』はあの時の群衆には又「余興に過ぎなかった」のだ。
    9月30日

訳者雑感:これはなかなか難しい問題だ。当時の論調は「群衆の中へ」というソ連のスローガンが全面を覆っていた。しかし、カエサル伝でシェークスピアが描いた群衆は、英雄の大砲の食糧(かて)で、英雄は群衆にとってみれば「余興」に過ぎない云々という。
 腹いっぱいとまではゆかぬとも、そこそこ食べさせてくれ、芝居も見させてくれさえすれば、誰が「支配者」になっても一向に構わぬ、というのが群衆の「本性」なのだ。それを理性とか感情とか持ち出すと、ややこしくなる。
 英雄たちの権力闘争と群衆は無関係なのだろう。只、毛沢東が劉少奇から実権を取り戻そうとした時、群衆を動員して、彼らに「毛語録」を振りかざさせて、次々と「一握りの実権派」に三角帽をかぶせ、トラックに乗せて、市中引き回しの上、処刑したり自殺に追い込んだ。シェークスピアが20世紀にいたら、プルタークの「史書」を参考にせずとも、
「毛沢東伝」を書いただろう。さてその時、彼は「群衆」をどう描いただろうか?
    2013/11/09記

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