忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

イギリス人と中国人の両次世界大戦

 イギリス人と中国人の両次世界大戦での対独・対日勝利への「不思議な感覚」について。

 来年2014年は欧州大戦百周年で、英国の新聞もこうした意見を発表するのでしょうね。
もしアメリカが参戦しなかったら、ドイツは負けなかったでしょうね。その意味では英国はアメリカの助けを借りて、やっと対独勝利を得たという「みじめな勝ち方」をした。
そうしたバックグランドが今回の記事の根底にあるかもしれませんね。
でもドイツが勝っていたら、記事の様に世界が二次大戦も無く今のような諸々の問題を抱えて苦しまずに済んだのでは、というのは 楽観的に過ぎるでしょう。
只一つ、もし日本とユダヤ人の協力によりFUGU Planが成功していて、大量のユダヤ人が満州や上海地区に移民できていたら、ホロコーストの悲劇は小さくなっていたかもしれませんが。
 
 これは先の大戦でも、中国はアメリカが真珠湾のリベンジを掲げて参戦してくれたお陰で、何とか日本に「惨勝」(みじめだが、やっと勝った)できたというのと似た精神面があり、10年ほど前から中国でも「もし日本が先の大戦で勝っていたら」というテーマで論文が出ていて、過去の中国を侵略支配した遼・金・元・清のように東アジア全域を統治して、
強大な国を築きあげ、今のEUや米露などに対等かそれ以上の影響力を行使できる体制となり、それまでのように欧米から侵略・植民地化・租借地化された状態、即ち不平等な状態から、脱出できた云々と説いていました。今でも中国はアメリカに包囲されており、
日本韓国台湾はアメリカの影響下にあり、アメリカ軍が「地位協定」で支配的な立場にあり、これは戦前の上海などの租界地と類似な面(治外法権的)があると認識している。

 これを支持する中国人と話していて、私は戦前の天皇制の下での貴族支配の残る体制で、
大半の農民は小作人で天皇の軍隊が小作人を奴隷のように葉書一枚で自在に戦場に狩りだせるような体制が残ったら、日本人もその日本に支配される中国人・朝鮮人もひどく惨めな状態に陥ると説明しました。戦後の農地解放、象徴天皇、貴族身分廃止、財閥解体などで、ずいぶんよくなったのは、日本がアメリカに負けて、マッカーサー体制が「推しつけて」きた結果の賜物だというと、「きょとん」としていました。
 私の論点は日本が負けてより良くなったのだというのですが、中国人の友人は今の様な日本の体制が「中国を統治」してくれた方が、今の「共産党独裁体制」よりも「ましだ」という考えのようです。
 イギリス人の40代で英語教師をしている友人は、私がどうしてイギリスはインドからアフリカ中近東そして東南アジアの植民地を「比較的こだわりなく(フランス等はベトナムで独立阻止の戦争をしているのに反し)」あきらめたのはどういう背景か、と聞いたら、
「第二次大戦でアメリカのお陰でなんとか体面を保てたが、もはや広大な植民地を保持するだけの軍事的力も、政治経済力も減じたから、撤退した方が良い、とアメリカに諭された結果だ」とのコメントでした。
(フォークランドやジブラルタルは別として)香港とかもゴネルつもりがあれば、九龍徒新開地だけ返還して、香港島は残せたかもしれませんが、そして多くの香港島に住む中国系住民も英国の植民地の方が良いというのが結構根強かったし、多くの中国系住民は英国カナダなどの2重国籍を取得し、家も買いましたが、サッチャ―はトウ小平との会談で、あっさり全て返還したので、会談後、人民大会堂から去る時、階段を踏み外して転んでしまった映像を何回も放映されたのが「印象的」でした。
 とはいえ、シリアからイラク・イランなどの問題を投げだして、アメリカに渡したのが
今日の不幸な状態の始まりだったのです。アラビアのロレンスを使い捨てにした非情さ。
   2013/12/29記     

 

拍手[1回]

PR

病後の雑談4


4.病中にこんな本を読むのはやはり気がめいる。だが数名の聡明な士大夫が、血溜まりの中から閑適を探しだしていることを知ることができた。例えば「蜀碧」は大変悲惨な本だが、序文の後に楽斎氏の批語に曰く:「古穆で魏晋間の人の筆意あり」と。
 これは真に大いなる本領である!その死のような鎮静は、また私の悶もんとした気持ちを明るくしてくれた。(古穆とは死の様な鎮静の意か、世説新語の如くに:訳者)
 私は本を置き、目を閉じ横になってこの本領を学ぶ法を考え、これと「君子厨房を遠ざく」の法とはまったく別で、この時、君子自身自ら厨房に入った為だと考えた。
瞑想の結果、二つの太極拳の技をあみだした。一つは、世事に対し「光を浮かべ、影を掠める」法で、随時忘却し、あまり了然とさせず、関心があるようで、余り深入りしない:
二つ目は現実に対し「聡を蔽い、明を塞ぐ」ようにし、麻痺した如く冷静で、感動や触発されぬようにし、まず努力して後に自然とそうなるようにする。一つ目は外聞がよくないが、二つ目は病を去り、延年長寿の秘訣で、古の儒者も忌まなかった。これは全て大道である。もう一つ軽快な小径があり:双方でウソをつきあい、自ら欺き、人を欺く法だ。
 いくつかの事は、言い換えれば余り適切でないから、君子は俗人がそれを「見破る」のを嫌い憎む。だが「君子厨房を遠ざく」は自ら欺き、人を欺く法で:君子は牛の肉を食わずにはおられぬのに、慈悲心から、牛の死を見るのに怖れおののき、見るに忍びないから、そこを去り、ビーフステーキが焼き上がるのを待ち、その後おもむろに咀嚼するのだ。
ビーフステーキに対しては決して「怖れおののく」ことはなく、彼の慈悲とも衝突しないので、安心して味わう。天性の趣に満ち、歯間に楊枝を使い、腹をさする。「万物はみな我が為に備われり」とする。互いにウソをつくのは決して雅を傷つけることではない。蘇軾先生は黄州で、客に鬼(幽霊)の話しをするよう求め、客ができないというと彼曰く:「妄言でもいいから」との言葉が今に至るも風雅な逸話として伝わっている。
 小さなウソをつくのは無聊解消と悶もんとした気持ちを晴らすことができ:後になると真実を忘れ、ウソを信じるようになるのも心安らぐ醍醐味で、天性の趣が満ちてくる。
永楽帝が強硬に皇帝になろうとしたのを、一部の士大夫はとても良くないと思った。特に彼が建文帝の忠臣を惨殺したことだ。景清と一緒に殺された中に、鉄鉉がいた。景清は皮剥ぎにされたが、鉄鉉は油で揚げられた。彼の二人の娘を教坊送りとし、娼婦にした。これが更に士大夫を不愉快にさせた。しかし後に二人は元の裁判官に詩を献じ、永楽帝の知るところとなり、赦免され、士人に嫁した。
 これは真に「曲終わり、雅を奏ず」で重い負坦を解き、天皇はさすが聖明と感じさせ、善人は最後には救われたとされた。彼女は官妓になったが、究極的には詩の上手な才女で、彼女の父親はまた大忠臣となり、夫になった士人も当然肩身が狭くなかった。但し、これは「光を浮かべ、影を掠める」を必ず守り、これ以上詮索してはいけない。詮索すると、永楽帝の上諭(詔勅)に想い到り、残虐猥雑となり、張献忠が梓潼神(道教の神)を祀った時の「私たちは張姓で、貴方も張姓だ。私たちの先祖と貴方の先祖は同宗である。
この饗(お供え)を受けよ!」という名文は、それに比べると真に高雅で西洋の一流雑誌に十分載せることができる。そうなると永楽帝はけっして才を愛し、弱者を憐れむ名君ではなくなる。況や、当時の教坊はどんな所だったか。罪人の妻女はそこでただ嫖客を待つだけでなく、永楽の定めた法に依れば、彼女等を「転営」させている。これは各兵営に何日間か行かせるのだ。目的は彼女等に大勢の男の凌辱を受けさせるためで、そして「女郎屋の小僧」や「女郎の予備軍」を産ませるためだ。従って現在問題になっている「守節」は、当時実は「良民」のみに与えた特典だった。このような治世の下で、またこんな地獄で、詩を作ることで生まれ変わることができたであろうか?
 私は今回、杭世駿の「訂訛類編」(続補巻上)で、この話が明らかな欺騙だと知った。

『呉人の範昌期の書いた「老妓の巻に題す」で、詩に云う:教坊に落籍し、鉛華を洗い、一片の春心、落花に対す。旧曲を聴けば、空しく恨みあり。故園帰りゆくも家無し。雲鬟(びん)半ば垂れて、青鏡に臨めば、雨のような涙はしきりに弾み、絳紗を湿らす。安んぞ、江州の司馬(白楽天)ありて、尊前に琵琶(行)を賦さん。
昌期、字は鳴鳳:詩は張士澮の「国朝文纂」にあり。同時代の杜瓊、字は用嘉に亦次女の韻詩あり、「無題」と題すが、鉄氏の作でないのは明らかだ。次女の詩に云う所の「春来たりて、雨露ふかきこと海の如く、劉郎に嫁し得たは、阮郎に勝り」はその論、不倫というべく。宗正睦欅は(2代目建文帝)廃立事件を論じた中で、建文帝が西南に流亡した際の諸々の詩はみな好事家の偽作といい、そうであれば、鉄の娘の詩もそうだと知れる…』

 私は「国朝文纂」を見ていないし、鉄氏の次女の詩は杭世駿もまだ出所を捜し出せていないが、彼の話は信じられる……彼は口伝の風流をぶち壊してしまったが。一つには彼は真面目な考証学者で、二つには凡そ大変味気の無い結果となってしまった考証は、往々にして、表面的に聞こえが良く、面白いものより真に近いと思うからである。
 範昌期の詩を最初に鉄氏の長女の作としてなぐさめに自ら欺き、人を欺いたのは誰か?私は知らない。だが、「光を浮かべ、影を掠む」でいいかげんにあしらうということであれば、それもそれで良いのだが。杭世駿に見破られたが最後、もう一度見ると、確かに老妓を詠んだ作であることは明らかだが、第一句は現役の官妓の口吻らしくない。だが中国の一部の士大夫はどうも無から有を生ずるのを愛し、花を接ぎ、木を接いで、物語を造り出すのが好きで、彼らは泰平な世を頌すのみではなく、暗黒を粉飾する。鉄氏の二女のデタラメなことは小さな事だが、大は胡元(蒙古族)が殺掠し、満清(満族)が屠殺した際にも、一部の人達は、単単と何某の烈女が自ら命を絶ったのを称賛し、殉難婦人のことを壁に題した詩句を持ちあげ、こちらで艶伝を作り、あちらで韻に和した詩を作り、華麗な邸宅が廃墟と化したこと、人々が塗炭の苦しみをなめた大事件よりも、ずっと熱を込めて書いている。結局この詩文集を刻したのも、自分たちも全員その中に入れ、風雅もこれにて決まり、という次第だ。
 こんなことを書いている中、私の病もすでに良くなり、遺書を書く必要も無くなった。だが、この際私は親しい友人に託し、将来私が死んだ後、たとえ中国でまだ追悼などを行える状態だとしても、絶対私の追悼会や何とか記念出版をしないように頼む。というのも、それは生きている人の講演や挽聯の競演会になるに過ぎず、人を驚かす為に新たに造語して、対聯をひねりだすために、嘘八百を平気で並べたてる文豪がいるからである。結果はせいぜい、一冊の本を印刷するだけで、たとえ誰かが読むとしても、死んだ私と生きている諸君にとって何の益もない。作者にとっても実は何の益もなく、挽聯はうまくできたとしても、うまくできたというだけのことだ。
 現在の意見として、私はもしそうした紙墨や白布(挽聯用の)を買うくらいなら、数部の明人、清人、或いは現代人の野史や筆記本を印刷するに如かずと思う。但し、真面目に取り組み、工夫をこらし、句読点を間違えないようにしてもらいたい。12月11日

訳者雑感:
 罪人の妻女は教坊に入れられた。教坊というのは広辞苑にも「唐代以降、朝廷の音楽・
歌舞の教習をつかさどった機関」とあるが、その後これが芸者屋、遊里に変じて行く。
明の永楽のころには、魯迅の指摘する様に、各所の兵営に出向いて多数の兵士に凌辱させることにあったという。それを「転営」という由。先の大戦で日本兵の兵営を「転営」させられた日本・韓国朝鮮の婦女たちはおびただしい数にのぼったし、中国の婦人も狩りだされた。日本でもアメリカ軍が進駐してきて、おびただしい数の婦女がそうさせられた。
 日本や中国では、占領支配されたら、婦女がそうされるという運命にあることを暗黙のうちに認めて来たようだが、韓国は少し事情が異なるかもしれない。強制連行という事。
親が売ったというのでなく、軍隊に非人道的に拉致されたというのだろう。日本軍はその筋の業者経由だった、としているが、どうだろうか。
 魯迅は死後、もし追悼会などという(平和時にしかできないことが)ものが開けるような状態であっても、そんなものは文豪たちの「競演会」にすぎぬから、やらないでくれ。
その代わりにその金で「野史」を印刷してくれと頼んでいる。だが実際はそうならなかった。やはり盛大な記念会が何回も開催され、全集が何回もだされ、ついには元の墓から遺体を掘り出して、現在の魯迅公園にある「魯迅の墓」に改葬された。遺体の昇格である。
   2013/12/30記

 

拍手[1回]

病後の雑談3

3.
 清朝は一族皆殺しや、凌遅(手足など切り刻んで最後に喉で留めを指す)をしたが、皮を剥ぐ刑はせず、これは漢人が恥じるべきことだが、後に人口に膾炙した虐政は文字の獄だ。文字獄とはいえ、その実やはり多くの複雑な原因を含んでおり、ここで細説できない:我々は、今なおそれが流した害毒を受けており、それがたくさんの古人の著作の字句を削除改竄し、明清人の多くの本を発禁した。
「安龍逸史」も多分一種の禁書で、私が入手したのは呉興劉氏の嘉業堂の新刻本だ。彼が刻した前清(辛亥革命後の清の呼称)の禁書はこれのみに留まらず、屈大均の「翁山文外」も有り:更には蔡顕の「閑漁閑閑録」も有る。作者はこの為「斬(首切)即決」され、門下生にも累が及び、私が丹念に調べたところ、何ら忌諱(忌むべきこと)に触れる物は見いだせなかった。こうした刻書家には、私は大変感激している。彼が私に多くの知識を与えてくれるからだ――雅人から見たら只の凡俗な知識にすぎないだろう。しかし嘉業堂で本を買うのは真に難しい。まだ覚えているが、今年の春の午後、やっと愛文路で見つけて、大きな鉄の両開きの門を数回叩くと、小さな四角い小窓が開き、中国人の門番と中国人の巡査と白系ロシア人の用心棒がいた。巡査は何の用だと言った。本を買いに来たのだと答えたら、番頭が外出中で、誰もいないから明日出直して来いと。遠くから来たので、待っていたいがというと、彼はダメだと言った。と同時にその小窓を閉じた。二日後また行った。午前中なら番頭もいるだろうと思った。が、今度の答えは更に絶望的で、巡査曰く:「本はもう無い。売り切れた。売り切れだ!」私はもう三度目はあきらめた。とりつく島も無い応対だったからだ。今手元にあるのは、友だちに託して買ったものだ。よく知っている人か、常連以外は買えぬようだ。
 どの本の末尾にも嘉業堂主人劉承干氏の跋があり、彼は明末の遺老にとても同情し、清初の文字の禍に頗る不満である。しかし奇怪なのは、彼自身の文章は前清の遺老の口吻に満ちていて:本は民国になってから刻したのだが、「儀」の字は最後を欠いている。(溥儀)
思うに、明の遺老の著作を試しに読んでみると、清朝への反抗の趣旨は、異民族が中華の主になったことで、朝代が交代したのは二の次であった。従って、明末の遺老を尊嵩しようとするなら、彼らの民族思想を受け入れてこそ、心から通じ合えるものだ。今明の遺老の仇である満州族の清の遺老と自認するのは、却って明の遺老を引き合いに同調するのは、只単に「遺老」の2字に重点を置くだけのことで、何族の遺で、何時どんな時に遺になったかも問わぬのは、真に「遺老を以て遺老」だと称しているだけだと言え、今日の文壇の「芸術の為の芸術」と絶好の対になっている。
 これを以て「古を食し、化さず」のためだとみなすのは間違っている。中国の士大夫は化すべき時に、かならずしも化さないのだ。上述の「蜀亀鑑」の如く、元々一部の筆法歯「春秋」を摸したようだが、「聖祖仁皇帝、康熙元年正月」と書いて、続けて「賛じて」言うに、『… 明末の乱甚だしき矣!風は<豳(ひん)>に終わり、雅は<召旻(びん)>に終わり、乱極まりて、隠憂に託すが、その実事なく、臣の祖が親しく観ると、臣が自らこれを蒙りたると、いずれぞや?是元年正月を以て終わる。終わるにおいて、いたずらに体は元(気)、表は(万邦を)正し、蔑してこれに加えるにあらず。生きて盛世にあい、蕩蕩として名をつけがたく、一に以て世を没するまで忘れる事なき恩を寄せ、一に以て太平の業の由りて始まるを見る!』と。
 「春秋」にこんな筆法はない。満州族の粛親王の一箭(矢)は、張献忠を射殺しただけでなく、多くの読書人を感化し、さらには「春秋の筆法」まで変えてしまった。

訳者雑感:禁書を新たに刻した書店は、中国人の巡査と白系ロシア人の用心棒を雇わねばならなかったのであろう。一つには中国人の「ごろつき」がいちゃもんをつけにくるのは、中国人の巡査が追い返し、租界の警官などが手入れに来たら、白系ロシア人が阻止する。そこまで用心しないと、滅茶苦茶にされてしまったのだろう。
 それにつけても、明の遺老の残した文章を刻した主人も、自らは清の遺老の口吻というのは、満州族に強制された辮髪を最後まで切らず、それにしがみつきながら、明清の禁書を出す、という矛盾に満ちたものであったに違いない。そこには、民国はダメで、やはり元の清朝が良かったとする、ノスタルジーに過ぎない。遺老は「昔は良かった」と言いながら世を没するのである。
   2013/12/24記
    

 

拍手[1回]

病後の雑談2

2.
 「雅」の為、もともとこんな話はしたくなかった。後で考えたら、これでは「雅」は無傷で、自分の「俗」を証明したに過ぎない。王夷甫(晋人)は金のことを口にしなかったが、やはり薄汚れた人物で、雅な人は算盤をはじいてもその雅さを損なわない。だが時には算盤をしまい、或いは暫時それを忘れるのが一番で、それならその時の一言一笑は全て霊機天成(インスピレーション)であり、世間的な利害を忘れられないなら、それは「ヨイショヨイショ派」になってしまう。この重要な鍵は、一つには放るだすことができるか、もう一つはいつまでも執着するかで、雅俗の高低が区分できる。思うに、これは「敦倫」(旧時、夫婦間の性交)は聖賢たるを失わぬが、白昼も女人を想うは「登徒子」(好色)と称す、というのと大体同じだ。
 従って私は多分自分が「俗」だと認めるしかなく、気ままに「世説新語」をめくり、「娵隅躍清池」(蛮語で魚を娵隅といい、魚が跳びはねた句)を見た時、「療養」の最中に絶対「療養費」のことを考えるべきではないのに、すっくと起き上がり、印税と原稿料催促の手紙を書いた。書き終えて魏晋の人との隔たりを感じ、もしも今、阮嗣宗や陶淵明が目の前に現れたら、我々は話しがかみあわないだろうなと思った。それで他の本を取り出して、大抵は明末清初の野史で、時代が近く興趣もあると思った。手にした1冊目は「蜀碧」だ。
 これは蜀賓(許欽文の筆名)が成都から送ってくれた本で、もう1冊は「蜀亀鑑」で、いずれも張献忠が蜀に禍をもたらしたことを講じているが、四川人のみならず、凡そ中国人たるもの、読むべき作品だが、印刻がとても悪く、誤植も多い。一読して3巻目にこんなくだりがある――
 『また、皮を剥ぐのは頭から尻へ一裂きにし、前に張り広げ、鳥が羽を広げたようにし、大抵は翌日になって息絶えた。即死すると獄吏が死刑にされた』
 この時、自分も病気のせいか、人体解剖を思い浮かべた。医術と残虐な刑は生理学と解剖学の知識が要る。中国は実に奇怪な国で、固有の医書に人身五臓図があるが、真にデタラメな間違いが多く、みられた代物ではないが、残虐刑の方法となると、往々古人は早くから現代的科学を理解していいたかの如くだ。例えば、誰もが知っている周から漢にかけて、男に施された「宮刑」また「腐刑」ともいうが、「大辟」(死刑)の一つ下である。
女には「幽閉」(槌で女性器を叩いて塞ぐ)があり、これまで余りその方法を示した者はいないが、要するに彼女を閉じ込めるとか、そこを縫うのでもない。近時、私によってその大まかな状況が調べ出されたようだが、その方法の凶悪さと妥当性は、殆ど解剖学に合致しており、真に私もびっくり驚愕させられた。だが、婦人科の医書はどうか?女性の下半身の解剖学的構造は殆ど分かっておらず、彼らはただ腹部を一つの大きな袋のようにして、中にとても奇妙なものを内装している。
 皮剥ぎ法一つとっても、中国には色々のやり方がある。上述のは、張献忠式で:孫可望式もあり、屈大均の「安龍逸史」にあり、これも今回の病中に読んだ。それは永暦6年、即ち、清の順治9年で、永暦帝はもう安隆(その時に安龍に改名)に身を逃れていたが、秦王の孫可望は陳邦伝父子を殺すと、御史李如月は彼をすぐ弾劾して「勲ある将をほしいままに殺し、人臣の礼にもとる」としたが、皇帝は却って如月を40回の板叩きの刑にした。
しかし事はこれで終わらず、孫党の張応科にこれを知らせ、彼は孫可望に報告した。
  『可望は応科の報告を得、即、如月を殺すよう応科に命じ、皮を剥いで衆に示せと。
それで、俄かに如月を縛り、朝門に到り、石灰一籠と稲草一梱を負う者がその前に置いた。如月は問うた「これは何に使うのか」その人答えて「お前に詰める草だ!」如月は叱咤して曰く:「節穴め!この一株一株が文章で、一節一節は忠の腸だ!」すでに応科は右角の門の階段に立ち、可望の令旨を手にし、如月に跪くように怒鳴った。如月、叱咤して曰く:「私は朝廷から任命された官ぞ。あに賊の令に跪かんや!」と言って中間まで歩いてゆき、闕に向って再拝。……応科は令を促し、地にうつ伏せにさせ、背を剥ぎ、尻に及び、如月は大声をあげて叫び「死ねばすっきりし、全身は清涼な気持ちになる!」また可望を名指しし、大いに罵って息絶えることはなかった。手足切断に及び、前胸に転じたが、猶微声にて罵倒し続けた:首まできて、息絶えて死んだ。ついで石灰に漬け、糸で縫って、草を入れ、北の城門通衢閣に移し、これを懸け…… 』
 張献忠のは、無論「流賊」式で:孫可望も流賊の出とはいえ、この時すでに明を保ち、清に抗する柱石として秦王に封ぜられ、後に満州に降じたが、また義王に封じられたから、彼の使った方法は、実は官式だ。明初、永楽帝が建文帝に忠義を尽くしたあの景清の皮を剥いだのもこの方法だった。大明朝は、皮剥ぎに始まり、皮剥ぎで終わったが、始終不変で:今でも紹興の戯文や田舎の人の口からまだ偶然に「皮を剥いで草を詰める」という話しを聞くことがあるが、皇帝の恵みの大きさを伺い知ることができる。
 真に慈悲心のある人は、野史を見たくない、故事を聞きたくないのも何の不思議もない:
ああした事件は人の世の事とも思えず、身の毛がよだち、心が傷つき、長いこと癒えない。
残酷な事実が尽きることが無いから。聞かぬが一番で、それで精神が保全できる。これは「君子厨房を遠避く」の意味と同じだ。滅亡より少し前の晩明の名家のしゃれた小品は今盛んで、実に縁も故もなしとは言えぬ。だがこの種の心地よい雅の致はまた良好な境遇を持っていなければならず、李如月が地にうつ伏せになり、「背を剥がれ」、顔は下を向いて、読書しているごとき良い姿勢だが、この時、彼に袁中郎の「広荘」を読ませたら、彼はきっと読みたくなかったと思う。この時、彼の性霊は抜け殻となっていて、真の文芸は分からなくなっていたと思う。
 しかし、中国の士大夫は、何と言っても最後のところでは雅気があり、例えば李如月の言う「一株一株は文章、一節一節は忠の腸」とは、大変詩趣に富む。死に臨んで詩を作るのは、古今来、どれほどあるか知らぬ。近代には潭嗣同が刑に臨む前「閉門し轄(くさび)を投じ、張の顔を思う」という一絶を作り、秋瑾女士も「秋風秋雨、人を愁殺す」の句あるが、雅の点で格に会わず、詩選集に入れられず、売れることはなかった。

訳者雑感:明の時代の初めの永楽帝が甥の第2代皇帝建文帝を殺し、第3代皇帝となる際、
前帝に忠義を尽くした景清を「皮剥ぎ」の刑にし、滅亡時の時も同じ方法で忠臣を殺した。
この辺の残虐な刑は衆に示す為のもので、これをしないと衆は恩義ある皇帝とその取り巻きがまだ生きていて、復活してきて、今の残虐な皇帝に復讐してくれると信じることの無いように、との懸念を払しょくする為だろう。
 今月、北朝鮮で起こった第3代目の金氏が、叔母の夫を「ありとあらゆる罪状をつけて」テレビで放映する中、手錠をかけて、大きな男にひきずり出し、裁判の翌日機関銃で死刑にした、と報じた。張氏は2代目の姉の夫で、血のつながりはないが、彼は2代目の長男金正男を担いで、今の3代目の首を挿げ替えようとした、と報じられている。
永楽帝のは、1402年のこと、600年後の2013年も同じ恐怖残虐政治が起こるのは何故だろう?進歩が無い。テレビで放映するのは、城門に曝し首するより残虐だ。
    2013/12/21記

 

拍手[0回]

病後雑談

病後雑談
1.
 ちょっと病気になるのは確かに一種の福である。それには2つの条件があり:1つは軽いものに限り、決してコレラで嘔吐とか、ペスト、脳膜炎の類でなく:2つには手元にお金があり、一日横になっていても餓えることの無いことだ。この2つの1つが欠ければ、俗人は病の雅趣を云々できない。
 かつて私は閑事にかまけるのが好きで、沢山の人を知ったが、こうした人は1つの大望を抱いていた。大望は誰もが持っている物だが、ある人達は茫然な状態にしているだけで、自分ではっきりと口に出せぬに過ぎない。そうした中で、特別風変わりな人が2人いた:一人は天下の人が皆死んで、彼と美女と、もう一人大餅売りが残れば良いと:もう一人は秋の薄暮に、少し喀血し、二人の腰元に扶けられながら、ゆっくりと階前に到り,秋海棠をながめる、というものだ。この種の志向は一見奇妙だが、実は大変周到に考えられている。最初のはしばらく置いておき、2番目の「少し喀血し」はとても道理的だ。才子は元来多病だが、「多い」だけで重くては良くない。一回でお碗一杯や数升も吐血したら、一人の血は何回吐けるだろう?日ならずして雅でなくなるだろう。
 これまで私は余り病気しなかったが、先月ちょっと病気になり、初めは毎晩熱が出て、気力が失せ、食欲も無く、一週間しても回復しないので医者に診てもらった。医者は流行性感冒だと言った。よかった、流感で。流感なら熱が下がる時になっても下がらなかった。医者は大きなカバンからガラス管を出して、採血しようとしたので、彼はチフスを疑っているのではと心配になった。だが翌日血液中にチフス菌は無いと言った:それで肺を診たが平常:心臓も問題無い。これが彼を困らせたようだ。私は疲労ではと聞いた:彼も余り反対せず、只消沈して、疲労ならもっと低いはずだが…といった。
 何回も検査して後、死ぬような病気ではなく、嗚呼哀しい哉、ということにならぬことも明白だったが、毎晩発熱で気力が無く、食欲も衰え、これ真に「少しの喀血」と同じで、病の福を享受した。遺嘱を書く必要もなく、大きな苦痛もなく、真面目な本を読まなくてすみ、日常生計の心配の要もなく、毎日ぶらぶらとし、名目も「療養」と聞こえが良い。
この日から私はどうやら「雅」になったようだ:少し喀血したいという才子のことを、その時何の用もなく寝そべっていてふと思い出した。
 ただ気ままに乱想するだけなら問題ないし、頭の疲れぬ本を読むに如かず。さもないと「療養」にならぬ。こういう時、中国紙の糸綴じ本が良い。これも少しは「雅」になった証拠だ。洋装本は棚に並べて保存するには便利で、今では洋装の二十五六史があるだけでなく、
「四部備要」(経・史・子・集の四部)すら、硬い襟に皮靴(洋装)となった――無論これなども不見識とは言えぬ。だが洋装本を読むには若さと体力が要り、襟を正し正座して厳粛な態度で臨まねばならぬ。寝転んで読むとなると両手で大きなレンガを持つようで、暫くすると両腕が疲れ、一息入れるためにそれを置くしかない。だから糸綴じ本を探しに
行く。
 少し探していると、永らく読まなかった「世説新語」の類が一山あり、横になって読んだ。とても軽くて楽だ。魏晋人の豪放瀟洒な風姿も目に浮かぶようだ。これで阮嗣宗が、
歩兵厨の酒造のうまいのを聞くとすぐ歩兵校尉になろうとしたのを思い出し:陶淵明が彭澤令になるや、官田はすべて酒用米を植えて酒造しようとしたが、夫人の抗議で少し
うるちも植えたことなど、これ真に天の趣が横溢し、今日の「雲の端に立って吶喊する」
者たちが逆立ちしてもけっして果たせぬ事だ。だが「雅」はいでこの辺りで止めておく。
これ以上は良くない。阮嗣宗が歩兵校尉になれたように、陶淵明が彭澤令に補せられたように、彼らの地位は一般人ではないからで、「雅」を求めるなら地位が要る。「菊を東籬の下に採り、悠然と南山を見る」は淵明の好句だが、我々が上海でこれを学ぶのは難しい。
南山が無いから「悠然と洋館」とか「悠然と煙突」を見ると改められるが、庭に竹籬があって、菊を植えられる家を借りると月百両(テール)は必要で、水と電気代は別途:巡警団への支払いも家賃の14%かかるから14両だ。単にこの2項目だけで114両、1両1.4元換算で159.6元となる。近頃の原稿料はいくらにもならず、千字で最低だとたった4-5角で、陶淵明を学ぶ雅人の原稿だからとしても、今千字3元にしかならず、しかも句読点、洋文、空白は除かれる。それだと只菊を採る為、毎月ネットで53,200字翻訳しなければならなくなる。飯はどうする?これは別途考えねばならず、従って「飢え来たりて我を駆り、いずこへゆくか知らず」となる。
 「雅」は地位が要り、銭も要るのは古今不変だが、古代、雅を買うのは今より安かった:
だが方法は同じで、本は本棚に並べ、或いは数冊は床に放り、酒杯は卓に置くが、算盤は引出しに仕舞い、または一番良いのは腹にしまっておくこと。
 これ「空ろなる霊」という。

訳者雑感:長い間熱が下がらず、寝ながら読んだ「世説新語」や陶淵明の句を学ぶことから、当時の上海の文筆業での生計の一端が推察される。駆けだしの作家は千字0.5元くらいで、魯迅などのクラスで千字3元。それも句読点とかローマ字の部分は除外される由。
一方の家賃の方は百テール(租界の通貨)で1.4元換算という2重通貨制度。これは当時の
中国では上海と広東での通貨の価値が違ったことなどからして何の不思議も無かったろう。
つい30年前でも外貨兌換券というのが外国人用に発券されていて、輸入品を購入するにはこれでないと買えなかったことなど、中国人の貨幣に対する感覚では何ら問題ないようだ。
日本でも江戸と大阪では金と銀の2重通貨制であった由。
それにしても、家長としての長男魯迅は、北京時代も上海時代も、母や家族の為に為替を送って、生計を支えており、経済感覚は他の「経済観念に疎い」作家と違い、しっかり計算して暮らしていたようだ。
   2013/12/15記

 

 

 

拍手[1回]

新しい文字について

新しい文字について
         ―問いに答えて
 比較するのは一番良いことだ。ピンイン字を知るまで、象形文字の難しさに想い到らなかった:ラテン化新文字を見るまで、それまでの注音字母とローマ字拼法も面倒で実用に適せず、将来性は無いと明確に断定するのはとても難しかった。 
 四角い漢字はまさに愚民政策の利器で、苦しむ大衆の学習と会得する可能性が無いだけでなく、裕福で権勢ある特権階級ですら10-20年かけても終に会得できぬ者も大変多い。
最近、古文の良さを宣伝する教授も、竟に古文の句読点を付け間違えたのがその証拠である――彼自身も分かっていないのだ。だが彼らは分かったふりをして、デタラメを言い、真相の分からぬ人を騙す事が出来る。
 だから漢字は中国大衆を苦しめる結核で、病原菌が内に潜伏しているから、まずそれを除去せねば、自ら死ぬ他ない。以前も学者がピンインを考え出し、皆が簡単に学べるよう簡単に教訓し、その延命を図ったが、それらの字はやはり繁瑣であって、というのも学者はどうしても官話、四声を忘れられず、学者が造った字だから、学者の気息がなければならなかった為だ。今回の新しい文字は大変簡易で、実生活に基づき簡単に学べ、有用で皆に話す事が出来、皆の話すのも聞け、道理も理解でき、技芸も学べ、これこそ苦労している大衆の物で、まずは唯一の活路である。
 今まさに中国で治験中の新文字は、南方人に読ませてすべて分かるという訳ではない。今の中国では元々一種の言語で統一はできぬから、各地の言語で話さねばならず、それは将来もう一度通じるようにすることを考えるしかない。ラテン化文字に反対する人は往々、これを一大欠陥として、中国文字を不統一にさせるものだと考えているが、四角い漢字は元々、大多数の中国人が識字できぬことを抹殺しており、知識階級の人すらも真に識字してはいないことを抹殺している。
 しかし彼らも新字が苦労している大衆に有利だということはよく知っておるので、白色テロの弥漫している所で、この新字はきっと痛めつけを受けている。現在、新字でなくても、口語の「大衆語」に近いものが、過酷な圧迫と痛めつけを受けている。中国の苦しむ大衆は、不識字なのに、特権階級は彼らがとても聡明になるのを恐れ、まさに彼らの思索機関(頭脳)を麻痺させようと懸命になっており、飛行機から爆弾を落とすように、機関銃から弾を発射するように、刀斧で以て彼らの頭をするのは、すべてそれである。
      12月9日

訳者雑感:訳者が学校で中国語を学び始めた1960年代は倉石先生がラテン化新字で中国語を学ぶ運動が始まっていた。教科書に漢字の無いのもあり、現在のラテン字の綴りだった。
それでも1年生のはじめは、ピンイン(拼音方案)で学んだ先生たちは日本語のカタカナやハングルのような表音文字であるピンインが併記されている辞書や教科書を使っていた。
ボポモフォ と繰り返し舌や上あご、唇をしっかり閉じた破裂音とか確かにこれで発音を覚えないと、所謂欧米人がローマ字で、日本人がカタカナで習った外人の中国語しか話せなくなってしまう。
 これは魯迅も指摘するように学者が官話と四声を忘れられないことからきているだろう。
その後、ローマ字で破裂音や四声を表示する方案が出されたが、魯迅の言う通り、繁雑すぎて実用に適しなかった。いろいろな記号が一杯ついていたからだ。
 それでローマ字方案に代わるものとしてラテン化新字が打ち出され、今日の姿になった。
しかし、このラテン化新字は上海人がそのまま読むと、まったく別の言葉に聞こえてしまう。上海語をこの綴りで記述するのは困難である。やはり全国が北方の言葉を中心にした普通語という統一言語を話せるようにならないと、この新字は普及が難しい。
 それには将来の統一を待たねばならぬ、というのが魯迅の文章だが、それから80年経って、テレビの普及などにより、香港ですら普通語が通用するようになった。だがその一方で、香港の政治家たちは、正式な場では広東語で話し、これを堅持し続けようとしている。
返還後50年したら、政治家も普通語を正式な場で使うようになるだろうが。
      2013/12/11記

拍手[0回]

中国文壇の亡霊4

 書店への弾圧はまさに最高の戦略となった。
 だが、数回の投石では、不十分の嫌いがあった。
中央宣伝委員会は計149種の大量の書籍を発禁処分し、凡そ売れ筋の物は殆どその中に入れられた。中国左翼作家の作品は勿論たいてい発禁にされ、次に訳本も発禁となった。何人かの名を挙げると、ゴーリキー、ルナチャルスキー、フェディン、ファディイフ、セラ
フィモビッチ、シンクレアー、更にはメーテルリンク、ソローグフ、ストリンドバーグにまで及んだ。
 それで出版社は大変困った。彼らの数社は即刻本を供出し、焼却したが、ある社は役所と相談し、救済法を考え、一部の免除を得た。将来の出版の困難を減らす為、役人と出版社は会議を開いた。この会議に数名の「第3種人」がいて、「良い文学と出版社の資本保護の為、雑誌編集者の資格で、日本式方法の採用を提案し、印刷前に原稿審査を行い、削除改定し、他の人達が左翼作家の作品で連座させられ、発禁されることのないようにし、又印刷後に発禁されて出版社が損失を被ることを免れようとした。この提案は各方面に大変喜ばれ、即座に採用された。だが、けっして栄光あるバツ―汗の方法ではなかったが。
 そして即実行され今年7月上海に書籍雑誌検査所が設立され、多くの「文学家」の失業問題は消えたが、それで悔い改めた革命作家たちと、文学と政治を絡ませることに反対する「第3種人」たちが検査官の椅子に坐った。彼らは文壇の状況を熟知しており:頭脳も純粋な官僚の様にまぬけでなく、小さな風刺や片言一句の反語もすぐその含意を察知し、文学の筆で抹消し、いずれにせよその作業は創作より面倒でもないから成績良好の由。
 だが彼らの使った日本式は間違いだった。日本も固より階級闘争を論じるのは許さないが、世界に階級闘争が無いと言ったわけではない。だが中国は、世界には所謂階級闘争はなく、すべてマルクスの捏造したものだから、これを論じるのを許さないのは真理を守る為だとした。日本も固より禁止され、書籍雑誌では削除したが、削除された所は空白を残し、読者はそれが削除されたと分かるが、中国はそれを許さず、必ず文を続けねばならず、読者の眼には完整した文のように見えるが、作者の説いている意味が不明でぼやけたものになった。この種の物は今中国の読者の前ではボケた話しとなり、フリッチェ、ルナチャルスキー等のもそれを免れない。
 それで出版社の資本は安全となり「第3種人」の旗も見えなくなり、彼らも闇の中で、あの絞首刑台の同業者の足を懸命に引っぱったので、彼らの元の姿を描ける雑誌はなくなったが、それは彼らがまさに抹消する筆先で生殺与奪の権力を手にしたためだ。読者は雑誌の消沈してゆくさまと、作品の衰退とそれまで有名だった外国の前進的な作家は、今年になって大抵忽然と低能者に変じたのを目にするのみとなった。 
 しかし実際は文学界の陣営の線引きが一層明確になった。隠蔽は長続きせず、次いで起こったのはまたしても血なまぐさい戦闘だった。
    11月21日


訳者雑感:昨夜12月9日、安部首相がテレビの記者会見で、「特定秘密保護法案は通常の(国民の)生活を脅かすものではない、と発言した。「国民の生活が第一」の小沢氏が以前から、これは「国民の生活を脅かすもの」との批判に反論するものだろう。通常の生活さえしていれば、とは何を意味するのだろう。政府の検閲で「黒塗り」にされるような言動をしなければ、それが通常の生活だというのだろうか?
通常の生活とは政府の言う通りの生活をし、ポチのようになれということか?
1934年の日本と中国の新聞雑誌の検閲で、中国はつじつま合わせの文章でわけが分からなくなってしまったが、日本の検閲ではそこは黒塗りにしたり○や△でブランクにしたそうだ。通常でない主張や意見を発表しようとすると、政府国家はいつでも「秘密保護法案」に基づいて、発言者を拘束、10年の刑を宣告できるわけだ。
            2013年12月10日記

 

 

拍手[0回]

中国文壇の亡霊3

中国文壇の亡霊3
3.
 だが革命文学はそれによって動揺しなかったし、更に発展し読者も信頼を深めていった。
 それで別の方面から所謂「第3種人」が現れ、これは左翼ではないが右翼でもなく、左右の外に超然とした人達だ。彼らは、文学は永遠と考え、政治的現象は一時的だから文学は政治と関わりをもつことはできず、もし関わりを持てば、永遠性を失って、中国には偉大な作品は無くなるだろうと考えた。しかし彼らは文学に忠実な「第3種人」だが偉大な作品は出せなかった。なぜか?左翼の批評家は文学が判らず、邪道に迷わされ、彼らの良い作品はみな厳酷で正確でない批評を受け、彼らが書けなくなるほどの攻撃を受けたためだ。従って、左翼の批評家は中国文学の殺し屋だという。
 政府が禁じた刊行物や作家を殺戮したことについては何ら触れず、それは政治に属するからで、一旦それに触れれば、彼らの作品の永遠性が失われるためだ:況や弾圧については、「中国文学の殺し屋」の類を殺戮するについては、まさに「第3種人」の永遠の文学、偉大な作品の保護者だとした。
 この微弱で偽善的な啼き叫びは、ある種の武器だとは言え、その力は無論とても弱く、革命文学はそれによって撃退されることはなかった。「民族主義文学」はすでに自滅し、「第3種文学」ももう立ちあがれず、この時、本物の武器が登場した。
 1933年11月、上海の芸華映画社が突然一群の連中に襲撃され、滅茶苦茶に壊された。彼らは極めて組織的で、笛の号令で始め、次の笛で停止し、その次の笛で散開した。離れる時にビラをまき、彼らが征伐したのは、同社が共産党に利用されているためだとし、更には映画社だけでなく、書店方面に蔓延し、大規模なのは一群の連中が闖入して全壊し、小規模なのは、どこかから石を投げ、1枚2百元もする窓ガラスを割った。その理由は勿論その書店が共産党に利用されているため。高い窓ガラスが安全でない事が書店主を非常に悩ませた。数日後、「文学者」が自分の「よい作品:を売りに来た。彼は誰も読まぬ物と知りながら、買うしかなかった。代金は1枚の窓ガラスに相当するに過ぎないから、2回目の石を投げられて修理せねばならなくなるのを免れるしかなかった。

訳者雑感:中国の文学は政治と関わりないものが古典として残って来ただろうか?
司馬遷の「史記」は歴史の書だが、中身は「文学」作品としても非常に魅力に富む。
唐代の詩はたいていが「政治に関わりのある」官僚やそれに登用されるために勉強をしてきた「文人」たちのものだから、政治から離れたい様なことを書いていながら、実はやはり政治の世界に関わりたいというものが多かった。
 辛亥革命後の「五四運動」でも多くの文学関係者は政治に深く関わってきた。魯迅すら民国政府の教育部の役人をし、北京大学の教師も兼任していた。この辺は森鴎外が軍人でありながら文学作品を残したのと似てはいるが、彼以外の殆どは政治と関わっていない作家が主流をしめていたのと比べると、中国の場合は文学が政治に翻弄され続けたと言っても過言ではないだろう。
戦後の一連の政治闘争とその渦の中で悲惨な目にあってきた文学者の末路を見た時、日本
と中国の「残酷・厳酷」さの落差がひしひしと感じられる。
 2013/12/08記


 

拍手[0回]

中国文壇の亡霊2

中国文壇の亡霊2
2.
 これ以降、中国で懺悔を知らない共産主義者は殺されるべき罪人となった。さらにこの罪人は、なんと無窮の便宜を提供するようになり:商品となって、金で売られ、人の為に仕事を増やした。さらに学園騒動や恋愛のもつれも、どちらかが共産党だとされて罪人となり、この結果きわめて簡単に解決できるようになった。誰かが裕福な詩人と論争すると、その詩人の最後の結論は:共産党員はブルジョアに反対するが、私には金があり、彼は私に反論するから共産党だ、となる。そして詩神は金のタンクに乗って凱旋する。
 しかし、革命青年の血は革命文学の芽にそそがれ、文学面では以前以上に革命的となった。政府内には外国で学び、或いは国内で学んだ知識水準の高い青年(役人)がおり、彼らが最初に使うのはきわめて普通の手段で:書籍新聞などを発禁し、作家を弾圧し、終には作家を殺戮し、5人の左翼青年作家がこの示威行為の犠牲となった。しかるにこの事件も公表されず、彼らは、これは実行できるが、口外してはよくないことを知っているからだ。
古人も昔から「馬上で天下は取れるが、馬上で之を治めることはできない」と諭している。
だから革命文学を剿滅するには文学という武器を使わねばならないことになる。
 この武器として現れたのが所謂「民族文学」だ。彼らは世界の各人種の顔色を研究し、色が同じ人種は同じ行動をとらねばならぬとしたから、黄色の無産階級は黄色のブルジョアと闘争すべきではなく、白色の無産階級と闘争すべきだと決めた。彼らはジンギスカンを理想的モデルとし、彼の子孫のバツー汗を描き、どの様にして多くの黄色民族を率いてオロシアに侵入し、彼らの文化を破壊し、貴族と平民を奴隷にしたかを描いた。
中国人は蒙古人可汗に従って戦ったが、それは中国民族の栄光とはいえず、ただオロシアを滅ぼしただけで、彼らはそうせざるを得なかっただけで、我々の権力者は現在すでに昔のオロシアが今日のソ連だと知っているから、彼らの主義はけっして自分たちの権力と富と妾を増やす事はできぬと知ったからである。では今日のバツー汗とは誰なのか?
 1931年9月、日本が東三省(旧満州)を占拠したが、これは確かに中国人が他の人の後についてソ連を破壊しようとする序曲で、民族主義文学者達は満足することができた。唯一般民衆は却って目下の東三省喪失は、ソ連を壊すより大変なことだと考え、彼らは激昂しはじめた。そこで民族主義文学者もただ風にまかせて舵を転じるほかなく、この事件に対して啼き叫び嘆くように改めた。多くの熱心な青年達は、南京(政府)に請願に赴き、出兵を求めた:だがこれは極めて苦しく辛い試練を経ねばならなかった。汽車には乗れず、何日も野宿してやっと南京に辿り着いたが、多くの人は自分の脚に頼るしかなかった。
南京に着いたら、はからずもよく訓練された一大隊の「民衆」の手に握られた棍棒、皮の鞭、拳銃で迎えられた。彼らは顔と体にいくつもの腫れ物をもらい、その結果頭を垂れ、気を喪失し、帰るほかなかったが、何名もの人はその後行方不明になり、ある者は水に落ちて溺死したが、報道によると彼らは自ら落ちたとされている。
民族主義文学者達の啼き叫びも、こうして収斂していった。彼らの影も見えなくなり、彼らはすでに葬送の任務を完了した。これはまさしく、上海の葬送の行列と同じで、出発の時は、楽隊が入り乱れてガンガンかき鳴らし、歌うような鳴き声をだすが、その目的は悲哀を埋めてしまおうとするもので、再び記憶に残さぬためで;それが達成されたらみんなちりぢりに解散し、もうもとの行列には戻らない。

訳者雑感:民族主義文学というものが、ジンギスカンをモデルに黄色人種として白人世界
に侵入し、オロシアからドイツ方面を占拠して諸汗国を建てた。
今回は日本の後についてソ連を攻撃する序曲として「民族主義文学」を提唱したが、その日本が
満州事変を起こし、満州を占拠したから、青年達が南京政府に出兵を要請したが、無残な
結果となってしまった。これ以後、国民党政府は「新聞雑誌の弾圧」を始めた。
     2013/12/08記

 

 

 

拍手[0回]

中国文壇の亡霊

中国文壇の亡霊
1.
国民党が共産党に対し、合作から剿滅(そうめつ)に方針変更後、ある人は言った:
国民党はもともと彼らを利用しただけで、北伐がうまくゆきそうになったら、剿滅しようとするのは予てからの計画だった。だが私はこの説はその通りだったとは思わない。国民党の権力者の多くは、共産を望んでいて、彼らは当時先を競って自分たちの子弟をソ連に留学させたのがその証拠だ。中国の父母は自分の子が一番の宝だから、自分の子を剿滅の対象になるための勉強をさせたりはしない。しかし権力者たちは間違った考えを持っていたようで、彼らは、中国はひたすら共産にすれば、自分たちの権力はさらに強大になり、財産と妾もよりたくさん持てるようになると考えていた。少なくとも、共産でないより更に悪くはならないと考えていた。
 我々には伝説がある。2千年ほど前、劉という人が幾多の苦功を積んで神仙となり、彼の夫人と一緒に天に昇ることができるようになったが、夫人はそれを余り望まなかった。どうしてか?彼女はそれまで住みなれた家、鶏、犬たちと離れたくなかった。劉氏は上帝に懇求するしかなかった。家鶏犬と彼ら二人はすべて天上に移りやっと神仙になった。大きな変化だが、その実、何ら変わりはないに等しかった。共産主義国で少しもそれらの権力者の元のままの状態を変えなければ、或いは更に権勢が強大になるなら彼らは必ず賛成する。然るに、その後の状況は、共産主義は上帝のように融通無碍ではないことが判明したので、剿滅の決心をしたのだ。子は勿論一番の宝であるが、自分の方がより大事なのだ。
 それで多くの青年共産主義者及びその嫌疑者と嫌疑者の友人たちが、至る所で自らの血で自らの誤りを洗うはめになった。権力者たちは先の誤りは、彼らの欺騙を受けたのだから、彼らの血できれいに洗わねばならぬと考えた。だが多くの青年達はその詳しい事情も知らず、ソ連留学を終え、駱駝に乗って喜び勇んで蒙古を経由して帰国してきた。ある外国の旅行者がかつて心痛む光景を見たとして、彼女は語った。彼らは今祖国で彼らを待っているのは、絞首刑台だということを知らないのですね、と。
 その通り絞首刑台だが、絞首刑はまだましな方で、単にロープで首を絞められるだけで、それは優遇である。一人一人絞首刑台に登るのだが、彼らの中の一部の人間にはもう一つの道があり、その首にロープを巻かれた友の足を強く引っぱるのだ。これが即ち、事実で以て彼の内心の懺悔(転向)を証明することで、懺悔できるものは、精神的に極めて崇高になった証なのだ。

訳者雑感:本編は4段に分かれており、長いので、1段ごとに分けることとする。
 蒋介石が子の蒋経国をソ連に留学させ、彼がロシア人と結婚したことは皆知っている。
孫文の三民主義も「耕す人に土地を」という考えは共産の考えである、として、それとの対立軸に袁世凱などを担いだのが辛亥革命後の中国の状況であった。それを倒そうとするのが北伐であった。それには共産党との合作が必須であった。
 多くの国民党権力者は共産という考え方で封建王朝とその衣鉢を継ぐ「袁世凱とその後継者」を倒そうとして、共産とも合作しようとしたのだ。そのころは共産と言う考えの下で、今よりずっと強大な権力と財産と妾(情婦)をたくさん蓄えることができると考えていた、と魯迅は指摘する。
 2013年の今日、8千万人強の共産党員は、百年前の辛亥革命後の国民党の権力者が考えていた以上に、強大な権力と財産とお妾さんをたくさん蓄えている。
      2013/12/04記

 

 

拍手[0回]

カレンダー

09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R