ショーペンハウエルは言った。人の偉大さを計るに、精神上の大きさと体格上の大きさがあり、その法則は全く相反している。後者は離れれば離れるほど小さくなるし、前者はより大きく見える、と。
まさに近づけば近づくほどより小さく、欠点もキズも見える。だから彼は我々と同じで、神でも妖怪でもケダモノでもない。やはり人間であり、人間にしかすぎない。ただそれだけにすぎないが、偉大な人間である
戦士が死んだら、ハエどもが最初に発見したのは、彼の欠点と傷痕、それを舐め、ついばみ、ぶんぶん騒いで得意になり、死んだ戦士より英雄気取りだ。だが、戦士はすでに死んでしまったから、ハエどもを追い払わない。それでハエどもは一層ぶんぶん騒いで、自分たちの声こそ不朽なものであるとか、戦士より自分たちの方がはるかに完全であると思いあがっている。
たしかに、誰もハエどもの欠点とキズを発見はしていない。
しかし欠点のある戦士はひっきょうは戦士であって、完全無欠のハエはやはりハエにすぎない。
去れ! ハエどもめ! 翅でもってぶんぶん騒いでみても、どんなにわめいても戦士を超えることはできないのだ。この虫けらどもめ!
一九二五年三月二十一日 2010.8.10訳
出版社注; 孫中山逝去9日後に書かれた。4月3日の「京報副刊」に「これはこういう意味」と題して、本分について、「ここでいう戦士とは中山先生と民国元年前後に殉国し、バカどもに嘲笑され、侮辱蹂躙を受けた先駆の烈士を指し、ハエはもちろんバカども。
訳者あとがき:
孫文の評価に関しては、孫大砲とのあだ名が彼の理想主義と現実からの距離を示している。しかしハエどもがどんなに彼の欠点やキズを攻撃しても、生前からそんなバカどもの声に一切妥協することなく、辛亥革命後の中華民国という3千年の歴史上はじめての「皇帝」が統治する政体を共和制にするのに、袁世凱などと14年間闘いながら、こと半ばにして戦死した。最近の中国の孫文に対する評価は、ずいぶんと変化してきていると感ずる。孫文の発想が共産主義的で、旧来の商業資本主義的な色彩の濃厚な「実力者」たち
「実務官僚」たちから危険視され、支持を得られなかった。孫文にこの国は任せられない
という「実権派」たち、「利益追求者」たちに追い落とされてしまった「理想家」だった、
というのが、最近の論調の一つである。これは毛沢東の理想主義にと繋がる系譜だが、過去30年の経済発展を支えてきた「実権派」は「個々人の利益追求」を原動力にしている点で、孫文や毛沢東、或いは太平天国の洪秀全あたりから始まる「耕者有田」の発想と、どこかでぶつかり合いながら、変化発展していると感ずる。
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