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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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京の小窓(続き)


11.雪舟の天の橋立
先月の台風23号で、天の橋立も大きな被害を受けた。砂洲の見事な枝の松が何百本も倒れてしまった。倒れてしまった松を見ていて、舞鶴から天の橋立に客を案内したときに読んだ雪舟の本を思い出した。
 室町時代に中国 明に渡り、南画の世界に遊んだ彼の絵は、中国人も驚くほどのエネルギーに満ちた水墨画だ。想像で描いたものも多いが、その原風景は彼が明に渡ったときに、自分の目に焼き付けたものだという。それがある時空を経て、彼の脳裏に湧き出してきて、具象化したのだ、と。
 事実は小説より奇なり、とは文章の世界。雪舟の絵は実風景よりも奇なり、というのが絵の世界。彼が晩年描いたといわれる「天橋立」を見た。解説の中に、この絵はどこから描いたのであろうか。実際にこういう角度から天橋立が描ける場所は無いという。それともう一つ、橋立の根元にある多宝塔がきちんと描かれていることだそうだ。本当にこれを見て描いたのなら、この多宝塔の建立時期からして、雪舟が高齢になってから天橋立を訪れて描いたものだ、との説。
 確かに彼の絵は、内海を隔てて橋の東側の高い山から見て描いたように思える。が、実際には遠景として橋立がそんな構図で見渡せる山はない。飛行機の無い時代、鳥の翼に乗って見たとしか思えない。
 私はこう思う。彼の時代でも、伊能忠敬ほどではなくとも、天橋立の地図を描いた人はいたであろう。初歩的な地図で、東に突き出た半島があり西に橋立が見える図だ。そんな地図を頭に刻んだ上で、今ケーブルで登る有名な観光地、傘松公園に上って、股覗きをする。そのひっくり返った絵を再度ひっくり返す。すると彼が描いたとおりの絵が浮かび上がるという寸法だ。
多宝塔のことは誰かから聞いたか、他の絵で見たものを描き加えたことも十分ありうる。ちょうど中国 明に渡って各地で見た風景を、他の絵の部分と合成して長い絵巻のような大作に描いた様に。
 芭蕉が出雲崎の荒海からは、見えもしないはずの天の川を、佐渡によこたえた句に仕立てたように。
12.聖護院の導師
診察を終えて待合室で薬を待っていた。どこかで会った事のある顔立ちの立派な紳士が入ってきた。はてどこで会ったか思い出せないまま、お辞儀をしたら、先方も不審な面持ちながら返礼した。その瞬間思い出した。
そうだ、数ヶ月前、さる神社で山伏による護摩法要の際、導師役を務めた人だ。額にお椀様のものをつけ、山伏の装束なのですぐには思い出せなかったが
ぎょろっ、とした大きな目、がっしりとした体型、悠然と構えた姿が印象に残っていた。
「失礼しました。先日法要の際に拝見していたものですから。」と自己紹介したら「ああそうですか」と応じてくれた。似たようなことが以前にもあったかのようだ。初めてあのような大掛かりな護摩法要を見て、たいへん感動した。
山伏が、狂言を演ずるかのように、結界を挟んで問答をすすめ、五色の矢を射たり、神剣で悪霊を追い払ったりした。その後導師の先導で、太い丸太を井桁に組み、山ほどに積み上げたヒノキの枝に火を放ち、次から次へと護摩の札を投げ入れる。青い葉の茂ったヒノキはめらめらと燃え、それに周りから山伏が水をかけると、白煙がもくもくと立ち上がり、2-30メートルも立ち上り、白龍が天に昇るかのようだ。
一瞬のうちにあの日の光景を思い出し、年に何回くらいあのような護摩法要を行うのか、と尋ねた。大規模なものは年に数回で、小さいのも入れると20回くらいだ、と。山伏たちは通常は自分の生業を持っていて、法要のあるときは滋賀や大阪からもやってきて、その場で山伏の衣装に着替え、一日勤めて、夕刻には俗界に戻るそうだ。荒縄で身を縛り,尻には獣の皮をつけ、大峰山などに入る時は何日も俗界には戻らぬそうだ。以前は日本全国に出かけたが、最近は近畿地方のみになってしまった。それぞれの地区に霊峰があり、おのおのがそこに入って修験を積む。聞けば聖護院におられるとのことで、時間があれば遊びに来てくださいという。数千名の人たちが、彼のような導師の下で、普段は娑婆で生産活動をし、休みをとって山伏となって山に分け入るのだそうだ。
そんな話しを聞いていたら、名前を呼ばれて「では、失礼します。はい」と相成った。
13.京の橋の下
パリの空の下 セーヌは流れる。というのは映画にもなりシャンソンの名曲も生んだ。アコーデオンのメロディに乗せて陽気に歌うスト決行中の労働者たち。それと同時進行で飼い猫のミルクのために数サンチームのお恵みをと、ミルク缶をもって一日中市内を歩く老婆の姿が映像の中に浮かんでは消える。
京の橋の下、鴨川はほんのせせらぎ程度にしか流れていないが、鯉や鮎が泳ぐ。それを狙う鷺たちと、それを見ながら数メートル間隔で語りあう恋人たちの姿。日曜の午後、河原を散歩しながら橋の下を過ぎるたびに、花見時に使われた青いビニールのテントが少しずつ増えていると感じる。隅田川や上野公園と同じ光景が、二条から五条あたりの橋の下に見られる。が、京のほうが風雅さにおいてやや勝っているようだ。少し早足で過ぎようとするが、どうしても道幅が狭くなっているので、彼らの生活ぶりが目に入ってしまう。
40代くらいにしか見えない女が、普通の服を着て七輪で夕食を準備中だ。
60代の男が、真剣に眺めているのは競馬新聞。30代の男が文庫本を片手に、悠然と缶ビールを飲んでいる。コタツの古い板を縁台の上に置いて、トランプをしている。
かつて橋の下にはぎっしりと小屋が川岸まで建てこんでいて、河岸を歩くことはできなかった。大阪万博の前後に、お上の命で一斉撤去されるまで、人々はそこをねぐらに、みすぎをしていた。いつなんどき官憲に追い出されるかと、不安におびえながらも、大勢が肩よせあって生きていた。今日では、都心の橋の下にねぐらを作れば、毎日の生活には事欠かないようだ。粗大ごみで払い下げにあったソファーに座りテレビを観ていたりする。悪びれるそぶりもなく、ごく自然に生活しているような印象を受けた。出雲の阿国たちの時代から今日まで、河原で暮らす人たちはたくましい。
14.観月橋の燕
八月の下旬、京都新聞で宇治川の下流の葦原につばめが2万羽以上集まってきて、天空がつばめの群れで黒くなるとの写真が出ていた。周辺から飛んできて、ここに数日いて集団で南に飛び立つというので、見に出かけた。観月橋というのはてっきり宇治の平等院の近くの橋だと錯覚していて、駅の交番に尋ねたら、ここは宇治橋だという。ではこの新聞の橋はどこかと写真を見せたら、ここの警官すらつばめのことはあまり知らないらしく、仲間を呼んできて、こりゃどこだろうという。
上空のつばめの群れとその向こうの山並みから、これは観月橋の下流に違いないとのことで、さっそく京阪電車を乗り継いでお目当ての葦原に向かった。まだ6時を少し回ったところだから、日暮れまでには充分間に合う。
浪曲、森の石松で有名な三十石舟がもやっている。橋を渡り近鉄の鉄橋をくぐり、それらしき葦原を探す。他の人が向かっていそうもないので心細い。だんだん暮れてくる。宇治川の左岸の土手を10分ほどゆくと、河原に野球場があり、芝生でサッカーしている親子がいた。下流には高圧線が何本も宇治川をまたいでいる。その向こうにやっと人だかりが見えてきたので、うれしくなった。犬を連れた女性や、子供とボール遊びを終えた父親が三々五々集まってきて燕の群れを指差していた。土手の左は水面と同じくらいの低地に住宅が建てられている。水害を防ぐために土手はたいへん高いところまで盛り上げられている。葦の河原も百メートル以上の幅である。
やっとお目当てのつばめの群れが暮れなずむ上空から、数千羽単位で旋回しながら、そのうちの数百羽が一気に急降下して、葦原の中に落ちてゆく。まるで大型爆撃機からつぎつぎに放たれた散弾の破片が飛び散るようである。燕たちは滋賀や奈良あたりで雛を育てあげ、夏の終わりに南国に飛び立つ基地として、この葦原に集まってくるのだそうだ。葦原に数泊し、ころあいよしとみるや、ある日突然、南に向かって一斉に飛び立つ。土手の穴にではなく、葦の茎に泊まって、旅立ちを待つ。
彼らのねぐらの周囲を見ると、上流は2系列の高圧線で仕切られ、野球場や芝生があって、人間が遊んでいる、そしてその上手に近鉄の鉄橋がある。下流側にも何本もの高圧線が宇治川をまたいでいて、対岸の土手は京阪が通り、高速道路に車が行き交う。
高い土手のこちら側は団地で人間がいっぱいである。燕たちは人間の作った遮断物で、四周を囲まれた葦原なら、大型の鳥や獣の害から襲われる心配は無い。ちょうど五月に家々の軒下に巣を作るように、電力会社の高圧線と鉄道が旅立つ燕のサンクチュアリーを作っているようだ。
15.京の人力車
ひょんなことから、野宮神社に行くことになった。6月、北野天満宮にでかけた折、参拝を済ませてバス停にいたとき、4名の女子中学生が私に近づいてきて、「野宮神社へ行くには何番のバスに乗ればいいですか」と尋ねて来た。のみや神社と発音されて、まったく見当がつかない。わら神社なら知っているけど、安産祈願だから女子中学生にはまだ早いし、などと考えていると、「嵯峨野の縁結びの神様」という補足説明で、それならバスより嵐電がいいと北野白梅町駅への道を教えた。
10月のはじめ台風一過の快晴の日曜に、嵯峨を歩いてみようと嵐電の駅に向かった。増水した保津川の流れが、渡月橋の橋げたすれすれに怒涛のように流れてゆく。川の両側の山々がなだらかな調和を見せて、さすが嵐山だと長い間、橋の欄干にもたれて眺めていた。それから周恩来の「雨中嵐山」の詩を見、保津川の治水をした角倉了以の像に参り、天竜寺の境内に出て、商店街の歩道を歩いてゆくと大勢の若者が並んでいる店があり、とても楽しそうにアイスクリームの買える番を待っている。
その店の向こうに竹やぶが見える。アイスを手に談笑しながら、皆そちらの方に向かう。私もつられてひとつ買って、彼女らのあとに続いた。後ろから人力車がついてくる。黒シャツ姿の若い車引きの、肩から二の腕は夏の日差しで黒光りに焼けている。丁寧な物言いで、「これからやぶに入りますから、ほろを下ろしますね」と一旦車を止めて、黒い幌を畳んだ。これから向かうところは、源氏物語で有名な六条御息所のなんとかと説明が聞こえてくる。関西弁風ではあるが、純粋の京都弁ではない。よそから京都に来て、仲間の学生や職場の先輩から関西弁を耳で学んで、観光客に流暢に説明している。話しぶりが面白いので車の後について竹やぶのうっそうと茂る小道を暫く行くと、「野宮神社」に着いた。ああここだったのか、6月の修学旅行の女生徒たちに道を聞かれたのは。私のように男一人でお参りしているのはいないが、中に入ってわが娘たちの良縁を祈った。
観光人力車は、話しの上手い若者たちの格好のアルバイトとして、京の名所旧跡にはなくてはならないものになっている。標準語でしゃべられると少し嫌味な気がするが、関西弁はしゃべくりな男の軽いのりの言葉として、吉本の漫才を通じて独特の地位を築き上げてきたようだ。
16.嵯峨野の金木犀
野宮神社を後にして、ぶらぶら歩いてゆくと、竹やぶの切れ目に踏み切りが現れた。ちょうど警報機がカンカンと鳴り出して、向こうから男が猛スピードで走ってくる。スリルを味わうように両手にペットボトルを抱えて、間一髪で遮断機をくぐりこちらにやってきた。と見る間に、嵯峨野線の列車が竹やぶをかすめるようにして通り過ぎていった。竹やぶを抜けると、一気に視界が開け、刈入れの終わった田んぼとその畦に咲くコスモスの花が、なんともいえないのどかな雰囲気で、とてもうれしくなる。
田んぼの中の道を何の目的もなく歩いてゆくと、とてもかぐわしい香りが漂ってきた。少し先の農家の生垣のなかに、大ぶりな金木犀がこんもりと茂り、山吹色の実のような花を、枝じゅうに咲かせている。秋ののどかな空気のなかを、幸せの香りを運んでくれる。このかぐわしい香りは秋ならこそだと思う。薫風とは春の風だろうが、秋のものでもあるとしみじみ思った。
 
秋風や 垣から香る 金木犀
ふだん市中の町家の密集したところに住んでいるので、田んぼの中の道を歩いた後に、生垣から香ってくる金木犀に涙が出るほど感謝したくなった。生垣のところまで来ると不思議なことに、鼻がなれてしまったのか、先ほどのような芳香は減じてしまった。
嵯峨野あたりは渡月橋から眺める保津川両岸の桜や、天竜寺とその周辺の寺の紅葉が余りにも有名で、観光ポスターや絵葉書の定番である。確かに、春の桜と晩秋から初冬にかけての紅葉は、全国各地から京都に人を呼び寄せる、最高の舞台装置であることは間違いない。金木犀というのは他にも結構たくさん植えられているし、絵葉書にもポスターにもなりにくい。だが、禅寺や名所旧跡を訪ねたあと、嵯峨野の、のどやかな農道を歩きながら、その折々の香りをかぐことができるのは、京都なればこそだと思った。
17.終焉の地
私の住まいの近くに、歴史上有名な人の碑がいくつかある。多くは彼らが生まれた場所、住んでいた所とかであるが、終焉の地という碑もある。道元や親鸞などは永平寺や本願寺で、弟子たちに看取られて冥土に旅たったと、勝手に思っていた。ちょうど涅槃の釈迦が大勢の信者に看取られたように。だが彼らの終焉の碑は、今日の下京の町中の建物の間やちいさな寺の前にある。
京都の町は木の家がびっしり建て込んでいて、応仁の乱や蛤御門の変などで過去何回も、全市が灰燼に帰したという。それでも先人たちが残しておいた石碑は残っていて、その後有志が建て直したりして引き継がれてきた。自分たちの町内の先人が、大変な恩恵を与えてくれた道元や親鸞の終焉を暖かく受け入れ、親身になってお世話をし、最後は終焉の時を迎えてしまったが、そのことを誇りに思い、後世に伝えてゆこうとする意志の表れである。
仏の教えを広め、大衆を救おうとして全国を巡った二人は、病に倒れ、京都の信者の家にやっかいになりながら、治療を受けたものか。現代のように病院があるわけでもなく、旅の途中で病で倒れたら、そこが終焉の地となってしまったのだろう。
鎌倉時代の日本人に大変な影響を与えた道元や親鸞たちが、病を得て余命いくばくもないというときに、彼らのお世話をして懸命に尽くす。そうすることにこの上ない喜びを感じ、彼らの最期の声を聞くことができた。それを後世に伝えて行きたい。碑を建てて、それを残す。お墓は誰かがどこかに建てるだろう。だが、ここで、自分たちの住んでいるこの場所で、息を引き取ったということを伝えてゆきたい。きっと二人の魂が自分たちの町を守ってくれるにちがいないから。
18.フレンチ リーブ
11月下旬,冷たい雨が降り、木々の葉が紅葉する。先週末の朝、ベランダに出てみたら、ちょうど目の高さにある、赤や黄色に染まった桜の葉が音もなく、はらはらと枝から離れていった。
4月の花びらが春風に舞う白雪ならば、11月の桜葉は秋風に立つ踊り子の髪飾りのようだ。
 覚えずシャンソンの名曲「枯葉」の一節を口ずさんでいた。
Falling Leaves ♪♪
Leafの複数形はLeaves。これは葉が枝から離れるからか、と変な妄想をしてしまった。辞書を繰ると、Leaveにはもともと古期英語の「留まらせる」意味から「去る、離れる、捨てるなどの意味で使われてきた。」とある。
もう一つの「許可」という意味から「休暇をもらう」「賜暇」が出てきた。
木の葉Leafは、秋、気温が急速に冷え込んで、根から養分の補給が途絶え、水の補給も絶たれ、葉脈のバルブが閉まって葉緑素ができなくなると、黄葉する。
そして枝からLeaveする準備を始める。

人の将に死なんとする、その言や良し。
木の葉の将に落ちんとする、その色や良し,と思う。

春から今まで自分を育ててくれた、木の幹や枝に「許可」を得て去る。
小枝たちを幹に「留めたままで」。
許可を得ているのだから、黙したままで去る。
挨拶はしない。

French Leaveという言葉がある。
18世紀のフランスで、客が主人に挨拶せずに辞去することを指すそうだ。
秋。
京都にはFrench Leaveする木の葉に挨拶しようと、
日本各地から多くの人々が、みずからやって来る。

日本語の「葉」も「離れる」の「は」と同じ音で始まる。
「花」も葉の変形したものだそうだが、これも咲き終わると、はらはらと
「離れる」のが良い。
(完)
 
 

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