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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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3)「天津のコンプラドール」


1.
二十数年ぶりに天津に出かけた。北京空港から高速で2時間。市の中心を流れる海河の畔のハイアットホテルに着き、夕食の時間まで、昔住んでいた頃の建物を探しながら歩いた。当時は、唐山大地震の後で、大通りの両側は、掘っ立て小屋がびっしりと並び、家を失った人々が、体を寄せ合うようにして、懸命に生きていた。今も鮮明に思い出すのだが、片道三車線の大通りの半分は、倒壊した建物のレンガや木材を再利用したバラックで埋め尽くされていた。もちろん歩道も同じ状態なので、歩く余地もなく、私は人々と同じように、車道の端を歩いた。そのうち、一軒の板壁に手書きで、「此屋有病人、請粛清」とあるのを見つけた。「病人がいるので、お静かに」というお願い。
 暑い夏の夕日がようやく沈む頃、人々は近くの露天市場で買ってきた野菜を、
道路端の七輪で煮炊きしていた。水はどこから手に入れるのだろうか。市政府は、郊外に建てた避難住宅に移るように公告しているのだが、多くの人は、
生活用水も無い路上のバラックから離れたがらない。郊外に出てしまうと、これまでの八百屋や肉屋からの食糧が入手できなくなる。郊外の臨時住宅には、ろくな食料品店が無い。それに仕事場からも遠くなって、通勤に不便だ。それらが、引っ越せない、やむにやまれぬ事情だという。
 図書館前の広場には、魯迅の像が残っていた。その像の台の辺りからロープを引いて、いく張りものテントの下で暮らしている人がいた。テント越しに
魯迅の顔を眺めながら、魯迅選集の中の一枚の写真を思い出していた。北京の師範学校の校庭だったか、大勢の学生達の中心に、椅子の上に立って上半身だけ見える形で、学生達に語りかける魯迅の姿を。
2.
 今では天津の町は、すっかり整理されたが、横丁の一角にはまだ当時の面影が残っている。しかしそのころ大いに繁昌していた露天市場は、あとかたもなくなっていた。渤海から採れたばかりの渡り蟹を売っていた屋台の魚屋たちは、どこかに引っ越してしまっていた。
 当時、事務所兼住居として住んでいた「友誼賓館」はすっかり模様替えされて、当時の事務所はサロンに変じていた。家族連れの外国人は珍しいということもあって、ホテルの従業員も親切にしてくれた。彼等と、仕事の合間に、いろいろおしゃべりした。こうしたホテルで働いていたものは、労働改造で精神をたたきなおさなければならない、として、安徽省の山村に送り込まれ、3年ほど「土とともに暮らした」と言う。
稲草も麦草も知らない、都会そだちの青年にとって、土にまみれて生きることは、とても耐えられないことであった。ホテル勤務のような、土と遠くかけ離れた生活をしてきた若者にとって、過酷な自然のなかでの暮らしは、筆舌に尽くせないことであった。が、人間は慣れればなんとか生きられるものだと悟った。「豚になっても生きよ」とは映画「芙蓉鎮」の中で、腐敗分子の濡れ衣を着せられて牢に繋がれることになった恋人に向かって、男の口から出た言葉だが、まさしく豚小屋に入れられも、豚になっても生き続けるのだ!との叫びであった。
 ひと月の給料は三元。これで歯ブラシや石鹸などを買うのが精一杯であった。
でも、自分はまだましだ。友達の多くは、黒龍江省や新疆ウイグル自治区などに送られて、家族からの連絡もそのうちに途絶えてしまい、帰るにも帰られない長い年月を過ごさねばならなくなった、という。
 その年の秋から年末にかけて、菊人形展も終わり、水上公園の放し飼いの丹頂鶴たちが、氷雪の上でダンスを踊り始める頃、「寒いね、寒いね」と言いながらも、子供を連れてパンダを見に出かけた。水上公園から帰って、食事を済ませて、部屋に戻ってテレビをつけてみると、逮捕された四人組の裁判の模様が公開放送されていた。つい数年前まで猛威をふるった四人組の時代は終わったのだ、と全国民に告げているのであった。大学の大きな階段教室のような大ホールが、この歴史的裁判の舞台であった。演壇の上には、裁判官が並ぶ。
被告席には、かの江青以下の四人組。そしてその後方の階段席には、大勢の傍聴人の姿。3人の被告はうなだれて,しょぼんとしているのに対し、江青は、背筋をぴんと伸ばし「私は国家のためを思って、誠心誠意、働いてきたのに、こんな仕打ちにあうのは断じて認めない。主席夫人が、こんな裁判などにかけられることがあってはならない。」などと叫び、壇上の裁判官を傲然と睨みつけていた。
3.
 そのテレビを見た翌日、一人の初老の男が、私の事務所の戸を叩いた。品のよさそうな、いかにも教育を受けたことのあるという感じであった。中肉中背で50代半ばころと見受けた。彼が言うには、先日テニスコートに日本人らしき私を見つけたので、受付の人にどこの誰かと聞いて、尋ねてきたのだとのこと。「戦前の天津鐘紡に友人がいて、同じテニス仲間であった私の会社の先輩ともテニスをした」という。「文化大革命で、すべての財産は没収され、姉と二人で生きてゆくだけの、ぎりぎりの狭い部屋に押し込められてきた。その姉も逝ってしまったので、ビザが取れしだい、香港にいる親戚を頼って移住する予定だ」という。「それまで良ければ、週末、彼の所属する「天津テニスクラブ」に遊びに来てくれ、友人たちを紹介するから」と言う。
戦前、イギリス人たちが「ブリティシュ クラブ」なるものを、世界各地の港湾都市に作っていた。香港やシンガポール、上海、横浜などにもその俤が残っている。天津にもそれほど規模は大きくないが、室内プールとテニスコートがその記念(かたみ)として残っていた。それで週末になると、そのコートに出かけて、初老の人たちとテニスをして仲良くなった。彼の仲間は戦前に始めた人たちで、外国人との接触も多く、「大公報」の記者をしていたとか、国際的な人たちが多かった。
 だいぶ親しくなったころ、彼は自分の生い立ちを語り始めた。「実は私の家は広東出身のコンプラドールで、百年ほど前に、天津に支店を出すというので、こちらに移ってきたものだ。私の会社とも取引があって、Shipping Invoice
名前があるのを見たことを覚えている。今は、昔の住まいの離れの一角に住んでいるが、一度食事に誘うから、家族3人で来てくれ」という。
妻に相談したら、子供がまだ小さいので、迷惑をかけるから、遠慮したいというので、私ひとりで出かけた。所番地をたよりに、タクシーで彼の家の近くまでたどりついた。
番地は広東路某番地余、と余の字がつく。「本体の番地は数家族用の住まいとして、人々の手に渡ってしまい、私の住んでいる離れは「余」を付けているのよ」と彼は笑って話した。離れといえども、家のレンガは普通のものの3倍くらい大きくて、たいそう頑丈なのが彼の自慢であった。万里の長城のレンガのような印象を受けたので、そう言うと、「これは清朝時代の天津の城壁を取り壊したときのレンガなのよ。それを貰い受けて造ったものさ」という。李鴻章や袁世凱が北京から汽車に乗って、天津駅頭に降り立つ映画で見たシーンが思い浮かんだ。義和団の乱や辛亥革命を見てきた城壁のレンガを触ってみた。暖かな手ざわりがした。「牢から開放された後、この離れに住んで、姉と一緒に暮らしてきたが、とうとうその姉もいなくなってしまったので、一人暮らしは耐えられそうも無い。だから香港のジャーディンマセソン社に親戚がいるので、それを頼りにビザを申請しているところさ」という。「四人組が逮捕され、この部屋に戻ってきた。まだいつ又何がおこるか心配だったが、私の会社のような外国の商社の支店ができて、家族も一緒に滞在できるようにまでなったのだから、もう二度と元に戻るようなことにはならないだろう」と自信に満ちた言葉で語った。
 そうした生活を半年ほど続けた後、私たちが帰国することになったというと、彼は泣き出さんばかりに悲しんだ。せっかく仲良くなれたのに、私たちが去ってしまうと、又ひとりぼっちになってしまうのだ。友情の記念にと、私たちの出発の前日、子供への土産と、お腹の大きく張り出した布袋さんのような弥勒仏の置物を抱えてきた。日本の住所を教えてくれというので、自宅の住所を書いて渡した。「香港に移住できたら、是非とも日本に遊びに行きたい」と別れを惜しんでくれた。その後、半年ほどして、彼からの手紙が届いた。香港への移住がかなって、昔の縁でジャーディン社の顧問として、生活の場を得て、若い頃やっていたShipping関係の仕事をみていると書いてきた。最後に、香港に来ることがあったら、是非連絡してくれと。
4.
 香港には広州交易会に参加するとき、立ち寄る機会があったが、空港からそのまま広州に直行という忙しいスケジュールの中で、彼のところに尋ねてゆく時間はなかった。暫くして私は北京に転勤となった。私は北京から彼宛に手紙を出したが、返事は返ってこなかった。体調でも崩して、会社を休んでいるのだろうか。或いは日本へは気軽に出せる手紙も、北京へとなると、万一昔のような理不尽なやり方が再発して、私に変な嫌疑がかかるかもしれないと心配して、手紙を書くのをためらったのかもしれない。当時は手紙が開封されることは常識だったから。
 それから暫く後、仕事の関係で、ジャーディン社の北京事務所があることを知った。ジャーディン社の中国における活動に興味が湧いてきた。いろいろな本を読んでゆくうち、キーワードは茶とアヘンだと分かってきた。
 今でこそ、アヘンは禁止され、商取引の対象にはなっていないが、ジャーディン社が香港、広東で活躍していたころは、れっきとした貿易品目として扱われていた。大航海時代以来、冒険者たちの最大の目的は、一儲けして財産をなすことであった。だが、誰しもが簡単にひと財産を残せるほど、容易ではなかった。
ヴァスコダガマのように大量の胡椒を無事ヨーロッパまで持ち帰ることができれば、莫大な稼ぎとなった。胡椒の次に茶が登場する。新茶を一番早くヨーロッパに持ち帰れば、その帆船は英雄扱いされた。南中国からイギリスの港まで、何日で着けるか、航海日数の短縮競争が起こった。Tea Clipperとして有名なカティサークの出番であった。その茶の代金の支払いに大量の銀が中国に払われたが、中国がイギリスから買うものは何も無い。21世紀の今日の、米ドルが一方的に中国の外貨保有高を押し上げるだけで、中国は米国から買うものは、あまりないのと似ている。そこで、イギリスはその銀を取り戻すため、インドで栽培したアヘンを売り込んだ。ジャーディン社関係の本の中に、アヘン取引での収益が最大であった、という記述を見て、愕然とした。
 吸引者を廃人にしてしまうアヘンで、財をなしたというのは許せないと感じた。それまでの印象では、アヘンは広東など南方中心で、北方は比較的その害に毒されていないと錯覚していた。実は中国全土に広まっていて、遥か遼東半島の金州あたりまでアヘン窟がいっぱいでき、中毒患者が増え、全中国を蝕んだ。金州の博物館に、長いキセルを手に、ほとんど死んだような目をした常習者の写真が何枚も展示されている。
 今日から見れば、唾棄すべきアヘン貿易も、ジャーディンとパートナーのマセソンたちの議会への働きかけで、イギリス政府のお墨付きの下に、堂々と営まれてきた。
 それが、林則徐により禁止され焼却されたため、アヘンを没収されたジャーディン社を含む貿易商たちは、その賠償を求めて、本国政府を説得して、大艦隊を中国に遠征せしめた。英国議会でも賛否両論、激しい論戦となった。当時は、ごろつきたちと見下されていたアヘン貿易商の賠償のために、栄光の帝国艦隊を極東にまで派遣すべきではない。非人道的なアヘン貿易のためなどとは、言語道断だと、良識ある議会人は反対した。しかし、マンチェスターの産業界の支持を得て、自らも議員となっていたマセソンなどの活動により、さらには英女王の取り巻き立ちの、清との貿易から得られる莫大な利益のためにという貪欲さが合致した結果、艦隊派遣となった。イラク戦争が石油のための戦争といわれる如く、この戦争はアヘン戦争と呼ばれ、大英帝国に不名誉な名を残す戦争となった。この戦争の引き金を引く中核的な役割を担ったのが、ジャーディン社と知ったときは本当に驚いた。
 当時、英国は中国からの茶に高額の関税を課して、財政をまかなっていた。その茶の代金として銀の代わりに、アヘンを使ったのだが、もし英国が財政的に、茶に関税など課す必要がないほど余裕があって、なお且つ貪欲でなく、そしてもし、植民地アメリカに対しても茶税などを課すようなことをしなければ、
例の有名なボストン茶会事件は起こらなかったであろう。そしてアメリカ独立戦争はもう少し遅くなったであろう。茶という嗜好品をめぐって、アメリカが独立し、アヘン戦争が起こった。
5.
 当時のイギリスはアメリカ産の綿花を原料に、マンチェスターで綿織物としてインドに輸出した。その結果インドの土着綿業を破壊してしまったほどだ。その一方で中国産の茶を大量に仕入れたイギリスは、その見返りとして織物などの売り込みを試みたが、うまくゆかなかった。
「地大物博」と豪語していた清は、外国が求めてきた物品を分け与えてやるという態度で、その支払いには金銀銅などの貴金属貨幣を要求した。イギリスも茶の代金として大量の銀を払い続けた結果、巨大な貿易赤字を抱えてしまった。何らかの手段でこの穴埋めをしなければならない。片貿易は必ず破綻する。
一方だけが、金銀などを貯め込むと、貿易摩擦が生じ、挙句の果ては戦争になる。片貿易が起こったら、双方が真剣に協議を重ね、解決策を見出さないと大変なことになる。これが平等互恵のルールである。しかし今から170年ほど前には、そんな智恵は働かず、武力に訴えることとなってしまった。朝貢貿易しか認めない清国に対して、英国は物乞いのような取引は屈辱的だとし、貴重な銀の大量流出に耐えられなくなった。そこで、一攫千金を狙って、極東にまで出張っていた冒険的商会のボスたちにインド産のアヘンを渡し、これを清に売り込んで、それまで払い続けてきた銀を取り戻そうとした。その商会のボスたちの頭目的存在がジャーディンであった。
 アングロサクソン魂というのは、おそろしいほどの私欲の発露たる商魂の塊である。イラク戦争、パレスチナ紛争など、その源をたどれば、このアングロサクソンの私欲に発している。貪欲な商魂のすさまじき発露である。富や資源を求めて、あらゆる手段を駆使して、その目的を達成するのが、ゲームのように楽しく感ずるのであろうか。先の大戦でも、ユダヤ人を虐殺したことを大きく報道し、ユダヤ人の支持とその富を取り込むために、アラビア半島の土地を、
パレスチナ人からユダヤ人に分け与えるという約束をして、ドイツを屠った。
日本軍の頑固な抵抗で、さらに多くの米国兵が犠牲になるのを防ぐため、サハリン、千島などを分け与える約束で、ソ連に対日攻撃を承諾させた。
6.
 数年前、中国に返還後の香港を訪れた。返還直前にも訪れたのだが、その時、現地の人から聞いた話が、実によくこの魂を表していると思う。アヘン戦争後、植民地にしてから160年の間に蓄えた膨大な財産がある。これをそのまま中国に渡してなるものかと、空港や鉄道、橋梁など次々と巨大な土木工事を行い、それらの元請をすべて英国系の会社に発注した。香港政庁の金庫が、空になるまで使い切った。その上前は、いうまでもなく、イギリス政府に戻ってくる仕掛けだ。
 今回、返還から数年経って、落ち着いてきた香港島の中国銀行のビルを眺めながら、公園を散歩していたら、その一角に「茶の博物館」という案内板が目にとまった。古い格式ある建物を利用したもので、入場券をと尋ねたら、無料ですとの答え。二階には、数百年前に中国各地で作られた、素晴らしい姿形の骨董の茶器が展示されていた。説明書によると、かつて英国人総督の邸宅を、茶の博物館として公開し、香港の好事家たちが蒐集した茶器を一堂に集めたそうだ。アヘン戦争の結果、割譲させられた香港が祖国に戻ってきた。アヘン戦争といわれるが、その底は茶のための戦争でもあった。現代の香港の繁栄は、元をただせば、茶によって始まったといえる。茶の取引が始まり、銀が払われ、それが底をついて、アヘンで代替されて起こった戦争。その戦利品としてイギリスに割譲された香港。最後の総督パッテンが英海軍基地から乗船して香港を去って行ったとき、いかほどの財を持ち出したかは知らない。しかし、その邸宅は持ち出せなかった。それを茶の博物館にしたとは、なんと面白い意趣返しかと、感心した。
7.
天津にも上海と同様、列強が競って作った租界の跡がある。フランス人は、モントリオールに見るような、美しい塔の印象的なカトリック教会を建てた。唐山地震にも倒れず、冬の夕暮れには美しいシルエットで、仕事に疲れた私を慰めてくれた。
イギリス人は、ホテルや競馬場、そしてブリティシュ クラブという娯楽場を造った。戦後数十年経ても、そうした歴史的建物は壊されずに残っている。面白い対照である。英仏が競って植民したカナダの諸都市を始め、上海や天津など、両国人の残したものは、永い年月を経てその民族性を示してくれる。フランス人の住んでいた町には、カトリック教会の尖塔が聳え、イギリス人の方は、酒を飲みながらカードやビリヤードで遊ぶクラブや競馬場、そしてゴルフ場さえも残している。そんなことを感じながら、夕食に間に合うようにホテルに戻った。約束の時間までまだ20分ほどあったので、ロビーの売店を冷やかしていた。ひさかたの天津なので、なにか記念になるような土産はと探していると、「近代天津十大買弁」という本が平積みされていた。買弁とは確か二十数年前、彼から身の上話を聞いたときの「コンプラドール」のことだったなと、
思い至った。表紙の丸囲いの写真の右には、梁炎卿とある。ひょっとして、ひょっとすると、この写真の主は、私の知っている梁さんの祖父か父親ではないかと直感した。顔のつくりというか、輪郭のかもし出す雰囲気が似ている。白い美髯を蓄え、ふっくらとした頬の横に長い耳をもち、清朝時代の肖像画に良く描かれている、典型的な広東商人のイメージだ。アヘン戦争の映画に登場する、広東十三行の頭目たちの風貌である。早速買い求めて中をめくってみた。
しかし約束の時間が迫ってきたので、それを部屋に置きに帰った。
8.
 天津の人たちとの会食は、海河の畔の「飲茶」の店で、好みの点心を肴に
紹興酒をごちそうになった。私が唐山地震の後の復興の時期に、この街に住んでいたという話題になった。彼等もそのころの生活を思い出してか、今日では想像すらできないほど、人々の暮らしの大変だったことが語られた。天津から秦皇島に向かう鉄道の線路際には、途切れることなく、地震でなくなった人々の土饅頭が並んでいた。「十何万もの人が犠牲になったので、こうするほかには葬送の手段が無かった」という。
 最近ようやく、トヨタなど世界的な大企業が進出してきて、天津の市内も活況を呈してきた。上海のような派手さはないが、着実に製造業が基盤を固めつつある。そんな話をして、友誼を確かめ合い、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、早速先ほどの本を読み始めた。読みすすめてゆくうち、表紙の写真は、私の梁さんの父親だと分かった。「1872年、20歳のとき先輩の唐景星に随って、上海のジャーディンの練習生となり、その後天津に転勤、1938年に亡くなるまで、60年以上の長きにわたり、ジャーディンの買弁として活動した」とある。
 その本に依れば、ジャーディンは1840年代のアヘン戦争前後に、大変な財をなし、今日の大銀行、香港上海銀行の設立にも、中核的な役割を果たした、英国の商社である。今でも香港を中心に世界各地で活躍している。梁さんの父は、そのジャーディン社に手腕を買われて、同社天津支店の買弁として活躍した。堪能な英語を駆使し、大変な商才を発揮した。その結果、ジャーディン社の買弁の総元締め、House Compradorとなった。義和団事件のあった1900年を挟み、第一次世界大戦前後には、梁さんの父は、英国資本と清朝の官民企業との間の仲介者として、大活躍した。当時の商取引はほとんど「つけ」で行われた。端午の節句、夏の中元、大晦日の3回に勘定を払った。
江戸時代の日本でもそうであったように、侍や商人は年に2回、或いは3回しか代金を払わないのが、東方の習慣であった。しかし、英国商社のジャーディンは毎月決済を主張して譲らない。そこで買弁たちは、その間に介在して、
清国商人たちの不払いリスクの見返りとして、高率の口銭を取って収益を拡大した、などと記されている。
9.
 この本の著者、劉海岩氏は買弁たちが、どのようにして莫大な利益をあげたかを、詳細に記している。値上がりしそうな商品は、市場の動向をよく見極めながら、大量に買い出動する。土地や建物も将来の値上がりを見込んで、優良物件を片端から買いに出る。古来、中国の商人は、手にした金で、産業を興すというよりは、商品や土地建物を仕入れて、その売買で稼ぐという方面で、商才を発揮してきた伝統がある。21世紀の今日でも、商才に長けた人たちは、額に汗して、ものづくりに励むよりも、その方がスマートで格好良いし、手っ取り早いと考えている節が見られる。
 劉氏は、これもあれもなんでもやった、と言う具合に買弁たちの手口を記述する。船荷証券の数量と、税関用の書類の数量を自分の都合の良いように書き換えるのは、朝飯前。運賃請求用の重量も、単位が替わるごとに数字を変換して、利ざやを稼ぐ。12進法と中国の旧式の重量単位との変換で、当時の算盤は、買弁たちの手元に、お金が沢山残るような仕組みになっていたと記す。
 買弁としての梁家のことを非難しつつも、筆者は梁家が、第一次大戦中は、中国の商品を大量に輸出して祖国に富をもたらしたと記す。その過程で、大いに資本を蓄積し、土地建物に投資して、大変な財を成したとする。どうしてこんなに莫大な財産を築けたか。「彼は生涯、ジャーディンというイギリス商社のために忠実に働き、勤勉倹約に努め、投資するときも、リスクを排除し、無謀な投資は一切せず、ただひたすら蓄財に励んだからだ」と著者は言う。
 時勢に会った良きパートナーに恵まれたということ。それはジャーディンにとっても同じで、外国に出向いて、成功するか否かの鍵は、現地のパートナーの良し悪しにかかっているとは、よく言われることだ。
 ほかの買弁のように、官と結託して政商として活動したり、官位を買うなどということをしなかった。戦争で負けることの無かった英国商社の代理人となったことも、成功の基盤であった。
 日本にも明治維新後、たくさんの外国商館ができ、今日でも長崎、神戸、横浜などに多くの建物が残っている。しかし、殆どが小規模なままで、その後、民族系商社に敗れて、多くは消滅してしまった。日本でも、外国商館のために働く買弁は多くいた。しかし、明治政府の富国強兵政策のもと、自前の商社、石炭鉱山の開発、商船会社などを興し、外国商館を駆逐した。そうした外国商館も、商売規模の小さい日本を見限って、清国の上海、天津などに移っていった。日本に上海や天津のような欧米人が、勝手に振舞える租界が無かったことも幸いした。
10.
 梁家と比較の意味で、この本にあるドイツ商社の買弁であった、王銘に触れてみる。梁氏と同時代に活躍した王氏は、北京の官界に入り込み、政商として一世を風靡した。しかし、ドイツの敗北によって破綻してしまう。時の実力者、李鴻章が天津で洋務を弁じるとして、軍需産業を興したとき、ドイツ泰来商会の買弁として、李に取り入って、魚雷艇や銃砲を買い付け、その後の北洋海軍の基礎を築いた。今もアモイの要塞跡に一門残っている、世界最長の砲身を持つクルップの大砲を買い付けた。イギリスの軍艦を仮想的としている以上、その防御のために、イギリスから大砲を買うわけにはゆかない。中国の古い物語にあるように、「汝の矛で、その盾を破ってみよ」である。イギリスが、清国に自国の艦艇を撃沈できるような大砲を売ってくれるはずがない。ちなみに、日本の明治の大砲といわれるものは、英国のアームストロング社のもので、日本製鋼所が技術導入して、自前で製造できるまでにした。
 明治の初期に、不平等条約改定の前交渉のために、欧米各国を回覧した岩倉具視たちの記録「米欧回覧実記」には、彼等が訪問先でいかに歓待を受けたかが実によく描けている。彼等は訪問先で、立派な装束で歓迎式に臨み、旅行費用は日本から持参した小粒の金できちっと払っている。受け入れ先の企業は、
蒸気機関車や大砲、軍艦など、明治日本が米欧などから大量に買い付けた実績と将来きっと上得意になると期待されたのであろう。しかも金払いがしっかりしていた。このあたりが、武士の魂がまだ健全であった日本の救いであった。野蛮な土地からきたと聞かされてきた割には、服装も整っており、眼光も鋭いものがある、と米国の新聞は報じている。
 さて、話を李鴻章に戻す。クルップの工場で大砲の操作を習得中の清国兵の
研修風景を視察している彼の写真が、最近クルップの書庫で見つかり、きれいに表装されて、アモイの大砲の説明書の横に展示されている。ロシアのニコライ二世の戴冠式に、彼でなければならないと、ロシア側から逆指名され、老体に鞭打つ形で、ペテルブルグ入りした李鴻章は、その後ドイツ各地の武器工廠を視察した。ドイツのメーカーにとっては将来有望な重要顧客として、下にも置かぬ大歓待をしたことであろう。李鴻章はロシア、ドイツなどを訪問して帰国したのだが、このとき、ロシアと密約を交わし、満州鉄道の敷設権を与えたりして、相当額のルーブルを得たと非難を浴びていたので、クルップとしても、せっかく撮影した写真を送るのを躊躇したのであろうか。それが、最近のフォルクスワーゲンの事業や、上海のリニアカーなどのプロジェクトなどが沢山実現して、ドイツと中国の関係が好転しており、李鴻章に対する評価も、残照の清国の最後の宰相として、愛国者でもあったとの評価も出てきており、アモイの要塞に格好の記念物として古証文の写真が、書庫から取り出されて、日の目を見たのであろう。
 余談だが、先年中国のテレビで放映された「共和への道」という連続ドラマで、日清戦争の黄海会戦で敗れるべくして敗れた清国海軍の、悲惨且つとんでもない挿話が紹介されている。皇帝の観閲式に、欧州から買い付けた最新鋭の軍艦から放った砲弾が、的として沖に浮かべた老朽船にいっかな命中しない。あろうことか、このことあるのを恐れていた海軍司令官は、老船に忍び込ませておいた水兵に自爆を命じた。なんとも言いようの無い惨状である。このドラマでは、明治天皇が国民とひもじさを共有せんと、広島の本営で、昼食は硬い握り飯一個で済ませているのに対比して、紫禁城では連日、贅沢な満漢全席を
供させて、箸も付けずに浪費している西太后や皇帝らを映し出している。
 李鴻章にとっては、そんな皇帝であっても忠義を尽くそうとしている。その忠義を果たすためには、軍隊が必要であり、莫大な金が必要であることは何時の時代も同じである。王は、李鴻章の腹心、財布係として資金調達で大変重要な役を果たした。
11.
 その李鴻章のことである。日清戦争の講和交渉に、これもそんな役割など誰も引き受け手がないので、請われてやむなく全権代表として下関に向かった。春帆楼での講和談判の卓に並んだ人物の絵でみると、辮髪を蓄えた李は、大変な寒がりとみえて、彼の隣には火鉢が置いてある。
 2億テールという賠償金の交渉に当たっても、最後の最後になっても、帰国の路銀の足しにいささかでもまけてくれぬかと、伊藤博文に頼んでいる。演出者のシナリオの行間には、それをも彼は私せんとしているような印象を残す。
 台湾や遼東半島まで割譲させられて、帰国後は売国奴として国民から一斉に非難を浴びた。しかし、その後自ら独仏露三国に働きかけて、清朝の故地である遼東半島を取り戻すことに成功した。この時、英国は日本が清朝に外国企業が清国内で工業を興すことができることを認めさせ、自動的に英国がその特恵を享受できるようになったことなどから、日本を重宝し始めていたので、三国干渉には加わらなかった。
 日本の歴史教科書のこの辺の記述は、日本はせっかく手に入れた遼東半島を、
三国干渉により、ロシアに奪われた。憎きロシア! いつの日か,仇を討たんと臥薪嘗胆を唱えた。これが10年後の日露戦争への導火線となるのだ。
 清にとっては、台湾くらいまでは耐えられるが、満州族の故地まで、弟のような存在にすぎなかった小国日本に取られるのは、大変な屈辱であった。この辺の認識が、当時の日本人は理解できていなかったのであろう。爪を伸ばしすぎたとも言えよう。
 日本から取り戻した遼東も、不凍港の欲しいロシアにすぐ租借させている。これは、「夷を持って夷を制す」という李鴻章の思惑から出ている。下関での屈辱を晴らすには、ロシアをして日本に当たらせるのが一番良いと考えた。日本とロシアは早晩、矛を交えることになったであろうが、その触媒役をつとめたのが、李鴻章であった。その李とロシアの間で、実務的なことがらを取り持ったのが、買弁であった。ロシアの方も、日清戦争後、李との接触を強めた。1896年には、清とロシアの政府間の合弁銀行「道勝銀行」を設立し、天津に支店を開いた。外資系銀行として始めて紙幣発行や、塩税、国税などの徴収を認可され、その見返りに、清の親王たちや高官たちの便宜をはかり、清朝御用達銀行として、莫大な資金を運用している。そこに預けた財産保全の為に、李鴻章は腹心の王銘槐を、この銀行の買弁として送り込んでいるのだ。
 李の評価は、最近はいささか修正され、彼の伝記なども、何冊かの本が出版されている。かつての国賊扱いから、西洋列強から祖国を守ろうとして、倒れかけていた清朝をなんとか支えんとして、心血を注いで、苦心した人物として描かれることもでてきた。それは相対的なものではあるが、それまでの腐敗しきった官僚たちに比べれば、の話ではある。国防のために、軍需工場を造り、艦隊を建造し、軍隊を整えたというに過ぎない。それまでイギリスから買っていた武器を、ドイツに切り替えた。背景には支払った代金の一部を還流させる目的もあった。後発のドイツメーカーの方が、そうした方面に融通がきいた。そうした目論見から、買弁を使って、大量の兵器を買い付ける。買弁から還流させた資金は、自分の子飼いの軍隊の軍資金として自在に使える。王はこうした役割をつとめ、当時最大の政商に登りつめた。そして破綻する。まるでつい最近の守屋事務次官と山田洋行の宮崎某の関係のようである。
スケールの大きさで言えば、象と蟻ほど、月とスッポンほどの差があるが。
ちなみに、上海事変で、蒋介石の国民党軍はドイツ製の精鋭な武器で日本軍と対峙した。この英国製ではなくドイツのという伝統は李鴻章以来のものといえよう。
12.
 梁さんは、父炎卿と妻妾4人との間に生まれた15人の内の末子らしい。父親は倹約家で、周囲からは「吝嗇(けち)」と、仇名されていた。口癖は「一銭、
一銭貯めることが、金持ちになる道」であった。一方、子弟の教育費は、惜しまなかった。他の南方系中国人と同じく、彼の家系も多産系で、且つ長期に亘って子をなした。
 余談だが、私がシンガポールの南洋大学にいたころ、下宿していた張さん一家は、やはり広東出身で、祖父の代にインド洋のセーシェルに渡り、そこで育った彼は、勉学のために親戚を頼ってシンガポールにやって来た。そこで本屋の見習いをした。その後、一般書の販売から、教科書の販売まで扱うようになり、戦後は印刷も始めた。9人の子供を育て、炊事洗濯に二人の使用人を使い、子供たちは2人一部屋とか3人一部屋で生活させ、離れの2部屋を外国人に貸していた。私たちの前にはインドネシアから来た学生に貸していた。これは、自らがセーシェルから勉学にきた時の経験から来ているものであった。又、子供たちに外国人との交流に慣れさせようとするものでもあったろう。
母屋の食堂には、8人掛けの円卓があり、私も週末などに呼ばれては、親戚やその配偶者などと一緒に家庭料理を食べさせてもらった。高菜と豚の角煮、白菜と蝦の炒めたのなど、素朴なおかずでご飯を御代わりした。8人が食べ終わると、次の8人が座る。食べ終わった人が私を誘って、彼らの部屋でおしゃべりし、カードなどで遊んだ。2段ベッドの部屋で、お金は一杯あるのに、子供の教育は自分が育ってきた多産系の南方人のやり方で、集団で生活させて、お互いの生活の智恵を伝授し、共有させていたのだと今になって感心している。
 長男が結婚するというので、私たちに貸していた離れを新婚用に改装することになった。それで、母家の一部屋を空けるので、そこに住んでくれという。それで残る半年ほどを、中学生の子供たちと隣室になった。夕食前に、サッカーゴールにシュートとか、バドミントンなどして仲良くなった。
 清明節に、張氏の会館で先祖を祭る儀式に誘われた。生贄の山羊が丸ごと供えられ、海外に住む華僑たちの風習をよく見ていってくれと、礼拝の仕方などを教わった。
 大家族の伝統であろう。子供の頃は一つの部屋で、けんかしながら暮らしてこそ、成人してからも兄弟の絆を忘れないのだ。小遣いは一切与えず、質素に暮らさせる。大人になったら親の仕事を受け継いで、事業を大きくする。これが海外に出た華人たちの成功の礎である。広東から天津にやってきた梁さん一家にも、同じ伝統が脈打っている。
13.
 さて、私の梁さんには1878年生まれの長兄がいた。コーネル大学とマサチュセッツ農科大学に学び、1912年、民国初期の唐紹儀内閣のときに、農務次官を務めた。が、唐内閣の退陣により天津に戻り、父の後を継いだ。彼は農場を買って経営しようとしたが、それにも失敗した、云々と記述の後、突然、梁文奎の文字が目に飛び込んできた。「ややや、これはまさしく彼のことではないか。」
 長男は1930年代、頻繁に起こった身代金目的の誘拐事件の犠牲となった。身代金は払ったのだが、当人は死体となって送り返されてきた。それで次男が継いだ。しかし彼も父親のような商才はなく、梁家の前途にかげりが出てきた。
 実質的には、父親の亡くなった1938年に19世紀以来の古いコンプラドールの時代は終わった。その後、戦争で日本の占領が全てを変えてしまった。
 1945年に日本が敗れると、ジャーディンも戻ってきた。彼等が新しいコンプラドールに任じたのが、私の知っている梁さんなのだ。父親が生前、ジャーディンの幹部に、自分が死んだら、彼を後継にしてくれと頼んだのだそうだ。戦後すぐ、学校を卒業したばかりの彼が、四代目の買弁となった。この頃は、戦前のような仕組みはなくなり、代払いなどもなくなって収益は減ったが、高額な給与制となり、彼は1952年にジャーディンが天津から撤退するまで、
船舶部遠洋航海部門の経理を兼任した。
 その後は、前に書いたとおり、政治運動の荒波に巻き込まれ、離れの一角に
軟禁状態のような形で、お姉さんと暮らしてきた。四人組が逮捕され、冤罪で牢に繋がれていた人たちが、名誉を回復し、彼の軟禁も解かれた。新中国になってから30年。さまざまな荒波が何回も彼を飲み込み、海の底へひきずりこまれてしまった。片時も離れずに暮らしてきた姉が亡くなってしまったので、親類のいる南方に戻ろうと決意したという。アヘン戦争から始まった西洋の衝撃を、コンプラドール、買弁という役割を演じながら、受け止めてきた梁さんの一族の物語を知ったことで、それまで歴史の教科書でしかしらなかった、アヘン戦争以後の中国近代史が、身近なものとして私の心に重く残った。
   (2008320日) 
 
 
 
 

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