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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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読書の忌(いみはばかること)

焉于
中国の医書に「食忌」なるものがあり、2種の食物の食い合わせは有害で、死ぬこともあり、例として葱と蜜、蟹と柿、落花生とカラス瓜の類が挙げられている。本当かどうか?
誰かが実験したとか聞かないから、知るよしもない。
 読書にも忌があるが、「食忌」とは些か異なる。というのも、某種の書は他の種類の書と同時に読めない、さもないと、どちらかが必ず殺され、或いは少なくとも読者に憤怒を起こさせることになる。例えば今盛んに提唱されている明代人の小品文の幾つかは確かに面白いものがある。枕上、厠上、車中、船中、どこで読んでも一級の閑潰しである。然しそれには先ず、読者の心を空洞にし、何もないことが肝要だ。例えば以前「明季稗史」「痛史」、或いは明末遺民の著作を読んだものは、その結果はそれぞれ異なり、この両者はきっと争いを始め、相手を殺さねばすまなくなる。私はこの為、それらの明代人の小品を憎む論者の気持ちが分かるような気がした。
 ここ数日、偶々屈大均の「翁山文外」を読み、その一篇、戊申(即、清の康熙7年)8月に書いた「代北(山西省北部の地名)より入京の記」がある。彼の筆は中郎より下ではないし、その文には極めて重い面があり、数句引用する―――
 『……河に沿って行く、ある所は渡りある所は渡らない。往々、西夷の皮の天幕を見る。高さは不ぞろいで、所謂穹廬が連なり、丘や低い土山の如し。男も女もみなモンゴル語で:固体や液体の酪を売る者、羊馬を売る者、毛皮を売る者、2頭の駱駝の間に臥せている者、鞍無しの馬に乗り、二三人づれで移動し、戒衣を着て、赤や黄色の(袈裟)を着、小さな鉄輪を持ち「金剛穢呪」を念呪する者、その頭には柳の筺(ハコ)を載せ、馬糞や木炭を盛るは、みな中華の女子。みな頭髪を巻きあげ、裸足で垢(あか)だらけの顔で、毛皮を裏返しで着ている。人と牛馬は一緒に寝、ムッと鼻孔を突くなまくさい臭いは百余里絶えず。……』
 こういう文章を読んで、こうした情景を想像したらもう忘れることはできない。それで中郎の「広庄」や「瓶史」(彼の文人趣味の代表作)では積憤をはらすことは断じてできないし、更に憤怒をますだろう。これは実際、中郎の時代に彼らが互いに標榜した物より更に悪いが、彼らは揚州十日、嘉定三屠(いずれも明末の満州族清朝の暴虐事件)を経験していないからである!
 明代人の小品文も良いし、語録体も悪くないが、私は「明季稗史」の類と明末遺民の作品の方が実際さらに良いと思う。今まさに標点をつけて出版する時である:みんなに読んでもらって目覚めて貰おうではないか。     11月25日
訳者雑感:1930年代の北京上海などの大都会では、明代の閑潰しにもってこいの小品文がよく読まれたようだ。林語堂などがそれに標点をつけて(現代人に読み易くして)勧めている。それに対して、明末に満州族の清朝政府によりどれほどの暴虐を受け、辛酸を舐めたかを書いた「明季稗史」「痛史」に標点を付けて出すべきだというのが本編の主題だ。
     2013/07/26記

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罵り殺しと褒め殺し

                           阿法
 現在、文学評論に些か不満な人は、この数年所謂評論が褒めるか罵るかしかないからだ。
その実、所謂褒めるとか罵るというのは、称賛と攻撃で、それを字面の良くないのに替えたにすぎぬ。英雄を英雄とし、娼婦を娼婦というのは、表面上はへつらいと罵りだが、実はまさしくそれに該当し、評論家を攻めるわけにはゆかない。評論家の誤りは妄りに罵り、妄りにへつらうことで、英雄を娼婦といい、娼婦を英雄だとすることだ。
 評論が威力を失くしたのは「妄り」に始まるが、「妄り」より甚だしくは「妄り」に事実と相反し、内実をみんなに発見されたら、その効果は時に相反してしまうからだ。それ故今、罵り殺しは少なく、褒め殺しが多い。
 人は古いが、最近のことでは、袁中郎がそれだ。この明末の作家は文学史上、彼らの価値と地位を持っている。不幸にして、一群の学者たちに持ちあげられ、称揚され、標点をつけて印刷され『色借、日月借、燭借、青黄借……』と「借」の字をむちゃくちゃに使われ、まさに中郎の顔に隈取りをして、みんなに見せて大いに称賛され「おお何と素晴らしい“性霊”か!と持ちあげたが、これは中郎の本質とは関係ないのだが、他の人が彼の隈取りを洗い清めるまで、「中郎」は人の笑い物になるのを免れず、不愉快な目にあう。
 最近の人では、タゴールがそうだと思う。中国に来て講演したとき、彼の為に琴を置き、香を焚き、左に林長民、右に徐志摩が夫々印度帽を戴く。徐詩人が紹介を始めた:「ええ!そもそも云々と訳の分からぬことを言い、白雲清風、銀磬……当!」彼があたかも活神仙のように言う。そこで地上にいる我が青年達は失望し、離れていった。神仙と凡人、どうして離れずにおれようか?だが今年彼がソ連の事を論じる文を見た。自ら声明を出し:「私は英国統治下のインド人」だという。彼ははっきり認識している。きっと彼が中国に来た時は、決してまだデタラメな状態では無くて、もし我々の詩人諸公が活き神仙にしなかったなら、青年達は彼にそれほど隔絶を感じなかったであろう。今はとても衰えてしまった。
 学者とか詩人の肩書で、作者を論評・紹介することで、当初は周囲を欺く事が出来るが、周囲が作者の真相を知った時、彼自身が不誠実で学識不足なのをさらけ出す。しかし、周囲が真相を指摘しないと、作家は褒め殺しにあい、何年経ったら立ち直れるか分からない。
                   11月19日
訳者雑感:文壇では互いが持ちあげ、褒めあってその作品の読者を増やそうとする。その行為が評論だ。魯迅は(学生たち)一部の例外を除き、彼が翻訳した外国作家以外の作家を大抵は罵っている。袁中郎を持ちあげたのは林語堂たちであり、タゴールを持ちあげたのは徐志摩たちで、それが褒め殺しで、青年達が離れて行ってしまった原因だとする。
袁中郎やタゴール本人は素晴らしいものを持っているのにである。
      2013/07/25記



 

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梅蘭芳他について(下) 

                                         張沛

 更にまた梅蘭芳はソ連に行こうとしている。

 議論紛々。我々の大画家徐悲鴻教授もモスコーに行き、松を描いたが――馬だったかも、しかと覚えていない――国内では誰も取り上げなかった。この事から梅蘭芳博士は芸術界では確かに超人だということが分かる。

 そして更に「現代」編集室にも緊張を高まらせた。編集首席の施蟄存氏曰:「更に梅蘭芳に「貴妃酔酒」を演じさせよう!」(「現代」5巻5期)と、こんな大声で叫ぶので、不満が極度に達していることがわかるが、もし性別を知らぬと、ヒステリーになったのではと心配だ。編集次席の杜衡氏曰:「劇本の鑑定作業は完了したから、何名かを最先進的な戯をまずモスコーで梅蘭芳氏の「転変」後の個人的創作の為に派遣するのは構わない。……前例に従って、ソ連に行く芸術家は何はともあれ、事前に何らかの「転変」を示すべきだ。

(「文芸画報」創刊号)これは大変冷静で、一見すぐ彼の手法が巧妙と分かるし、斉如山氏(当時の北平国劇会会長)に、自ら愧じいって、すぐ助けて貰いたいとお願いさせた。

 だが梅蘭芳氏は正しく中国戯は象徴主義と言っており、劇本の字句は雅であるべきとしており、その実、芸術の為の芸術であり、一種の「第三種人」である。

 では彼は「何らかの<転変>を示す」ことができないから、目下時期尚早である。多分別の筆名で劇本を書き、インテリ階級を描き、専ら芸術の為で、俗事は問わず、最後はやはり革命と言う方向になる。こうなると活動が増え、最後まで到達できず、花や光やで終わるとなると、それを書いたのが私なら、革命という方向にはならないだろう。

 私は梅博士が自分で文章を書けるか知らないが、別の筆名で自分の戯を称賛し:或いは別の会社(グループ)を造り「戯劇年鑑」を出版し、自ら序を書き、自分を劇作界の名人とするだろうか?もしそうなら、こんな手は使わぬだろう。

 もしそんなことを弄ばないなら、真に杜衡氏を失望させ、彼に「もう一度光輝け」を書かせるだろう。

 このあたりで止めておこう。さらに書くと私も梅氏が評論家の罵倒によって、戯が演じられなくなったと批難されぬようにせねばならぬから。 111

 

訳者雑感:この当時の梅蘭芳に博士とつけて揶揄しているのは魯迅一流の皮肉だろう。

  2013/07/24

 

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梅蘭芳他について(上)

                                                   張沛

 名優崇拝は古くから北京の伝統だ。

辛亥革命後、俳優の品格も向上し、崇拝も清くなってきた。

昔はただ潭叫天一人が劇壇の雄で、彼の技芸はみなが称賛したが、一部に権勢との関係もあり、彼は「老仏爺(みほとけ:皇太后)」と言われた西太后のお気に入りだった。

誰も彼を宣伝せぬし、彼の為に智恵を出さなかったし、世界的な名声を得ることもなかったし、脚本も書かなかった。そうしなかったのは多分「遠慮」したためだと思う。

 後の有名な梅蘭芳は違った。梅蘭芳は男優でなく女形で、皇族お抱えの俳優でもなく、

一般大衆の寵児だったから、士大夫は手を出せた。
士大夫はいつも民間の物を奪おうとし、竹枝詞(俗曲:歌謡曲に近いか)を文語文にし、
「小家の碧玉」を妾にしたが、ひとたび彼らの手に染まると、彼らとともに滅んでしまう。
彼らは俗衆から取り上げ、ガラスケースに入れ、紫檀の棚に飾る。多くの人には分からぬ文句で、ゆるゆると「天女散花」を舞わせ、くねくねと「黛玉葬花」を演じさせた。
それまでは彼が戯を作ったのだが、その時から、戯は彼のために作られるようになり、
凡そ新しい劇本はすべて梅蘭芳のためであり、
且つまた士大夫の心眼中の梅蘭芳であった。

雅ではあったが、多くの人にはよく分からず、見ようという気にもならず、見る資格もないと感じた。

 士大夫たちも日に日に消沈してゆき、梅蘭芳は近頃とても冷落した。

 彼は女形だったから、年をとると勢いどうしても冷落するのか?いや、そうではない。

老十三旦(女形)は70才だが、舞台に上がると満座の喝采を得る。なぜか?

彼は士大夫に占有されてガラスケースに入れられていないからだ。 

 名声の起滅は光の起滅と同じで、起こる時は近くから遠くへゆくが、滅する時は遠くに余光を留める。

梅蘭芳の日米訪問は、実はすでに光の発揚でなく、中国に於ける光の収斂である。

彼はガラスケースから跳び出そうとせぬから、このように運び出され、又戻って来た。

 士大夫たちのパトロンを受ける前に演じた戯は、当然俗で、猥雑で汚れてもいたが、

溌剌とし、生き生きしていた。「天女」になって高貴になったが、それ以降活気が失せ、

かしこまってしまって憐れだった。生気のない天女や林妹妹(黛玉)を見るのは、多くの人にとっては、生き生きとした美しい村娘に及ばなかった。彼女には親近感を感じる。

しかし、梅蘭芳は記者に対して、他の劇本をもっと雅にして欲しいと言った。

          111

訳者雑感:現代中国で第一人者と言われた梅蘭芳も、この当時は、没落する士大夫の占有とされ、一般庶民から遊離していたのか?その後、彼は大きく脱皮したのだろう。

この雑文などを誰かに見せられて、発奮したのだろうか?

      2013/07/21

 

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又も「シェークスピア」

又も「シェークスピア」      苗挺

 ソ連がシェークスピアのオリジナル劇を上演しようとするのは「醜態」であり:

マルクスがシェークスピアを講じたことは当然誤りである:

梁実秋教授がシェークスピアを一部銀貨千元で翻訳予定という:

杜衡氏がシェークスピアを読むのは、「やはり人となるための経験を積むため」の由。

 我々の文学家杜衡氏は、それまで自分でも「人としての経験」が欠けていたと思っていなかったので、群衆を信じていたが、シェークスピアの「シーザー伝」を読んではじめて
「彼らに理性は無く、明確な利害観念もなく:
彼らの感情は、何人かの扇動家にコントロールされ、操られていることが分かった」
(杜衡:「シェークスピア劇シーザー伝の群衆」<文芸風景>創刊号)

 むろんこれは「シェークスピア劇」に基づくもので、杜氏とは関係ないが、彼自身言うように、今もそれが正しいか否が判断できぬが、自分としては「やはり人となる為の経験が必要」だと感じているのは疑いなしに明白だ。

 これが「シェークスピア劇シーザー伝の群衆」が杜衡氏に与えた影響である。

だが、杜氏の「シェークスピア劇シーザー伝の群衆」で表現した群衆はどうだろうか?

「シーザー伝」で表現されたものとなんら違っていない――

  『……これは我々にこの数百年来の政変で、常々目にしてきた事を想起させ、

「鶏が来たら、鶏を迎え、狗が来たら狗を迎える」式……それらは非常に心痛む状況だ。

…人類の進化は一体どこにあるのか?そもそも或いは我々この東方の古い国もこれまでまだ二千年前のローマの経て来た文明の段階に停滞しているのか』

 確かに「古(いにしへ)を思うという幽なる感情は」往々、現在の為である。

これを比べると、ローマにもきっと理性があったし、明確な利害関係があり、
数人の扇動家にコントロールされず、操られなかった群衆はいたのだが、
彼らは駆逐され、圧制を受け、殺されたのではないかとの疑念が起こる。
シェークスピアはそんなことは調べもせず、

思い到らなかったようだが、故意に抹殺したのかもしれない。彼は古い時代の人だから、

こうした手法を使うのは造作も無いことだと考えていただろう。

 しかし、彼の貴手により取捨されたものが、杜衡氏の名文で発揮され、
実際我々は、
群衆は永遠に「鶏が来たら、鶏を迎え、狗が来たら狗を迎える」
的なネタにすぎず、

結局はやはり迎えられた者が力を得ることになる:「私として本音を言えば」群衆の無能と、

鄙すべきことは、はるか「鶏」「狗」の上にあるという「心情」が些かある。

無論これは正に群衆を愛しているためだし、彼らが余り争いごとを好まぬせいである。

――自分では判断できぬが、「この偉大な劇作家は、群衆をこのように見ている」のだ。

信じられなければ、彼に聞いてみるとよい!   101

 

訳者雑感:シェークスピアは宮廷貴族たちのために劇本を書いた。

その中に、ソ連革命後の群衆の蜂起とか造反する群衆はあまり描かれていないようだ。

それをソ連がオリジナル通り演じるのは「醜態」だと批難する人がいた。

中国の「京劇」もやはり宮廷貴族の為に作られた者が多かったが、町民の為の物もあった。

ちょうど近松とか鶴屋南北などの劇本が町民を対象にしていたのと近い。

 シーザーの時代にもローマ市民はシーザーを支持する派と、彼を排除しようとする勢力

を支持する人々の間に熾烈な争いがあったことだろう。だがシェークスピアはそれをとり

あげなかった。それを調べなかったか、思いいたらなかったか?

答えは魯迅も分からないとしているが、やはり観劇者の為の劇本に徹したものか。

    2013/07/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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試験場3つの醜態  

          黄棘

 昔、八股文の試験は、3巻の答案があり、受験生は面子を失ってばかりで、後に策論に

改められたが(政治・経義への意見を陳述する方法:出版社)やはり相変わらずだった。

第一巻は「白紙答案」で題目のみ買いて文は無く、又は題目すらない。一番すっきりしている。他に何の問題もない。第二は「模範解答マル写し」で、先ず僥倖を頼み、刊行されている八股文を熟読又は携帯し、題目に合えばそのまま写して試験官の目をだます。

品行は「白紙」より劣るが、文章は大抵良いから、他に何の問題も生じない。

第三は最悪で、デタラメを書く事で、不合格になるのは言うまでも無い。

デタラメは多くは笑い話のネタになる。茶席と酒後の話しのネタはたいていこの類だ。

 「通じない」がこの中に入っていないが、たとえ通じなくとも、題目に従って文を書いたのだから:況や文章を書く時に、通じない文章を書く境地も容易ならざることであり、我々は中国古今の文学家で、ひとことも通じない文章を書いていない人がいるなどと、

保証できるだろうか?

一部の人は自分では「通じる」と思っているが、それは彼が「通じる」か「通じないか」分かっていないせいだ。

 今年の試験官はこうした高校生の答案を嘲笑う。この病原は、実はデタラメを書く事にある。これらの題目は、刊行文をマル写しさえすれば全て合格だ。例えば、「十三経」とは何か?文天祥は何朝の人か?空っぽの頭をひねってもダメである。それで、文人学士は、国学の衰微を大いに嘆き、青年がダメなのは、あたかも彼らが文林の中の、単なる大きな果実のようで、物事を介することを止めたようだという。

 だがマル写しも簡単ではない。試験官を試験会場に閉じ込めて、突然幾つかの余り知られていない古典を問うと、大抵デタラメな答を書き、白紙を出すとは限らぬ。この話をするのは、既に文人学士になっている人を軽く見るのではない。古典が多いから、しっかり覚えていないのは当たり前で、全部覚えている方が古怪だ。古書は多くが、後の人が注釈した物ではないか?それは全て自分の書斎で、群書を調べ、類書を翻し、年月を重ね脱稿したもので、それでも「未詳」や誤りがある。今の青年は当然、それを指摘する力は無い。証明できるのは、他の人がなにか、「補正」している事にあり:かつ、補の補、改正の改正も時に之ありだ。

 こうしてみると、刊行文をマル写しすることができ、それを敷衍してゆければ、その人は大人物である:青年学生に多少の間違いは常にある。それで世間は嘲笑うが、実は冤罪だと言う人がいないのはなぜだ?    925

 

訳者雑感: 知るを知ると為し、知らざるを知らざると為す、之知るなり。という言葉を思い出した。中国の試験は、知らないことに対して、デタラメな答えを書いて、教師たちの嘲笑のタネにされる。日本でも「焼肉定食」の方が「弱肉強食」より面白いのと同じだ。

      2013/07/08記                                                

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中秋の二つの願い

                白道

 数日前はまさに「悲喜こもごも」の日々だった。新暦の918(満州事変)が過ぎたら、

旧暦の「中秋賞月」と「海寧の観潮」(浙江潮)だった。
海寧といえば「乾隆帝は海寧陳閣老の息子」だと言う人もいた。
満州の「英明の主」はもともと中国人がとり替えたという説は、何とも小気味が良い福のあることよ。一兵も失わず、一矢も費やさず、只単に生殖器官だけで革命したのは、真に大変うまいことをしたものだ。

 中国人は家族を貴び、血統を重んじるが、一方で関係の無い人たちと姻戚を結ぶのを喜ぶのは、どうしてかよく分からない。小さい頃から「乾隆は我々漢人の陳家からこっそり抱いて行ったものだ」とか、「我々の元は、欧州を征服した」の類は、昔からよく聞いて、耳にタコができるほどだが、今でもタバコ屋が中国政界の偉人投票をすると、ジンギスカンがその一人に列するし:民智を啓発する新聞も、満州の乾隆帝は陳閣老の息子と書く。

 古代、女性は確かに和親のため番族に嫁し:劇でも男が番族の王の娘婿に招かれ、うまいことして、おもしろくやっている。近頃は、侠客を義父と仰ぎ、富翁の入り婿となり、急に出世したりするが、これは余り体面が良いとは言えぬ。男一匹、大丈夫は、別の能力あり、志もあり、自らの智力と上述のとは別の体力に恃むべし。さもないと、将来また、日本人は徐福の子孫だと言いだしはしないかと心配だ。

 一つ目の願いは:今後いい加減な姻戚関係を作って這い上がろうとしないこと。

 だがとうとうある人たちは、文学にも姻戚関係を持ち出し、女の才能は男との肉体関係の影響を受けるとして、欧州の何名かの女流作家は皆、文人の情人を持つのを証拠とする。

そこで誰かが反駁し、それを言いだしたのは、フロイトだとしてあてにならぬとした。

だがこれはフロイトではなく、ソクラテスの夫人が全く哲学を解さないのや、トルストイの夫人が文学を書けなかったことを反証にすることを忘れはしなかった。況や世界文学史上、中国に何人所謂「親子作家」「夫婦作家」で「しびれるほど面白い」人がいるだろうか?文学は梅毒と異なり、霉菌も無いから、性交で相手にうつることはない。

「詩人」が女を釣る時、まず「女流詩人」と持ち上げるのは、一種のご機嫌とりであって、

彼が真に彼女に詩才を伝染させたのではない。

 二つ目の願いは:今後、眼光を臍下三寸から離すこと。     925

 

訳者雑感:最近民国時代の「黄金の十年」という言葉を耳にする。
1937年から本格化する日中戦争が始まるまでの十年間を指す由。1928年に蒋介石が国民政府の首席になってから、1936年に西安事件で、監禁されるまでは、
その前の軍閥割拠の混乱とその後の日中戦争の混乱との相対論では、比較的「ましな」状態だったのだろう。

 9.18事変の記念日・中秋の名月の数日後に、魯迅もこんな臍下三寸の話題を載せていられるのは、まさに「ましな」状態だったのだろう。

それにつけても、女流作家が文人の情人を云々というのは、不易のようである。
その逆は
どうだろうか?       2013/06/29

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商人の批評

         及 鋒

 中国には今良い作品が無い、というのが以前から評論家や乱評家には不満で、少し前、

なぜなのかを探求したことがある。結果は何も出なかったが、新しい解釈は出た。林希雋氏は言う:「作家が自らをダメにしていて、機を見て敏捷に立ち回って功績をあげ」「雑文」を書くので、シンクレアやトルストイの様になれないのだ。(「現代」9月号)

 又もう一人の希雋氏は「この資本主義社会で…作家はいつの間にか商人になってしまった。…より多くの報酬の為に<粗製濫造>の手法をとらざるを得ず、精魂こめて工夫して、

真剣に創作する人がいなくなった。(「社会月報」9月号)

 経済に着眼するのは、一歩踏み込んだと言える。だが、この「精魂こめて工夫して、真剣に創作する」学説は、常識的な見解しかない我々とは大変異なる。従来、資本を投じて、

理を得るのは商人だから、出版界では商人はお金を出して出版社を作り、金もうけをしてきた社長だと考えて来た。今、はじめて文章を書いてわずかな稿料を得るのも商人であると知った。「知らぬ間に」なってしまったに過ぎぬが。農民が数斗の米を節約して売りに出し、労働者が肉体労働で銭に換え、教授が口舌を売り、妓女が淫を売るのは「知らぬ間に」そうなった商人である。ただ、買い手だけは商人ではないが、彼の銭は必ず物との交換で得たものだから、彼も商人である。そこれ「この資本主義社会」では一人一人皆商人だが、

「知らぬ間」と「はっきりした」との2つに大きく分類できる。

希雋氏本人の定義に照らせば、彼はもちろん「知らぬ間に」なった商人だ:売文を生計の為と考えなければ、その為に<粗製濫造>する必要も無いが、それではどうやって生きてゆくのか。きっと他の商売をするのだから、それははっきりした商人になるから、彼の見識はどうしても一商人の見識から逃れられない。                 

「雑文」は非常に短く、費やす時間も「平和と戦争」(これは林希雋氏の文章から引用したもので、原名は「戦争と平和」だが)のように長時間ではなく、力もごく少ないのは、

その通り。だが些かの常識は必要だし、多少の苦心も要り、さもないとまさしく「雑文」で、さらに「粗製濫造」に陥り、笑い話のタネになる。作品にはどうしても欠点はある。

Apollinaire(仏の詩人)は孔雀を詠じて、羽を広げたときは燦爛と輝くが、後に尻の穴が露わとなったと書いた。だから評論家の指摘は必要だが、評論家もこのとき、羽を広げ、

彼の尻の穴を露わにした。しかしそれでもなぜ必要なのかというと、その正面には燦爛と輝く羽があるからだ。もしそれが孔雀でなく、鵝鳥や鴨の類なら、羽を広げたら露われるのは一体何かを考えねばならない。      9月25日

訳者雑感:

 文学作品は芸術の一つだが、商品でもある。昨今の「本屋大賞」に選ばれた作品は、はっきりした目に見える形での「芸術と商売」を結合したものであると言えよう。

 村上さんの長い題名の作品は、はたしてどうだろう?初期の作品は残ると思うが、最近の作品の寿命はどうだろうか?    2013/06/27

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シェークスピア

           苗 梃

 厳復が「狭斯丕尓」(シェークスピアの音訳)を紹介したが、紹介だけで終わり:梁啓超が「莎士比亜」を説いたが、誰も注意せず:田漢が彼の作品を少し訳したが、今余り流行していない。今年、また「莎士比亜」「莎士比亜」と言いだしたが、だがそれは単に杜衡氏が、彼の作品によって、群衆の盲目性を証明しただけでなく、ジョンソン博士を敬服する教授(梁実秋:出版社)までも、マルクス(馬克斯)を「牛克斯」とする(マルクスのシェークスピアを評する)文章まで翻訳するまでになった。なぜか?どういうつもりか?

  更には、聞くところでは、ソビエトロシア(以後ソ連と称す)も、原本の「莎士比亜」 劇を演じるという。演じないのは問題ないが、演じるとなると、施蟄存氏に「醜態」 を発見された…。

 『… ソ連は最初「シェークスピア打倒」だったが、その後、「改編シェークスピア」 を唱え、今や演劇のシーズンに「原本のシェークスピア」を演じようとまでしているではないか?(更に、梅蘭芳に「(楊)貴妃酔酒」を演じさせようとまでして、文学への政治方針運用の醜態は実に嘲笑うべきことだ』(「現代」55期、施蟄存「私と文語文」)

 ソ連は遠いし、演劇シーズンの情況についても私には分からぬから、嘲笑うかどうかは暫く随意にお任せする。だが、梅蘭芳と記者の談話が「大晩報」の「火炬」に載ったが、「貴妃酔酒」を演じに行くとは言っていない。

 施氏自ら言う:『生まれて30年、幼稚で無知な頃を除いて、思想と言行は全て一貫してきたという自信あり。…』(前掲書)これは勿論たいへん素晴らしいことだが、彼の「言う」所と、他の人の「行い」は必ずしも一致しないし、或いは偶然一致しないこともあり、「貴妃酔酒」が現前の好例だ。

 実は梅蘭芳はまだ行動を起こしていないのに、施蟄存氏は彼が「無産階級」の前で、肌を脱いで、湯あみしたとしている。こうなると彼らは単に「資産階級」の「余毒」に染まっただけでなく、中国の国粋にも染まろうとしているのではなかろうか。彼らの文学青年は、将来、宮殿を描写する時「文選」と「荘子」に「言葉」を尋ね探すかも知れぬ。

 だが「貴妃酔酒」を演じれば、固より施氏を「冷笑」させるだろうが、演じないとして、人に迎合すれば、予言家を腐らせるだろう。どちらも面白くないから、施氏は又自ら言う:

「文芸よ、私はこれまでずっと孤独な人間で、どうして敢えて衆の怒りに触れることなどできようか?」(前掲書)

 最後の一句は謙遜で、施氏に賛成する人は実は多いのだ。そうでなければ、どうして、こんな堂々と雑誌に発表などできようか?――この「孤独」はとても価値がある。

                920

 

翻訳雑感:
シェークスピアと楊貴妃の物語、これをソ連で原本のまま上演するというのが、
本編のテーマだ。最初「打倒シェークスピア」を唱えていたソ連が、原本のまま演じる。

 演劇のシーズンに「改編」したシェークスピアには人気が出ないのだろう。

 楊貴妃が湯あみ後に肌脱ぎになって酔う艶姿は、ソ連「無産階級」の文芸とは相入れない。

 実際には演じられなかったようだが、群衆はこれまで見て来た「うきうき」させてくれる「出し物」を見たいという気持ちは不変なのであろう。

     2013/06/23

 

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漢字とラテン化

             仲度

 大衆語文(口語文が大衆には理解できないので、大衆に分かる文を作ろうという提案がなされた)に反対する人は、提案者に向って得意げに命じる:「現物を出してみよ!」と。

一方では本当に真面目な人もいて、その人が誠意なのか、揶揄しているかも問わず、懸命になってすぐ標本を作る。

 読書人が大衆語を提唱するのは、口語を提唱するより難しい。口語提唱時は、良くも悪くも、使うのは口語であったが、今、大衆語の文章を提唱するが、それは大衆語ではない。

しかし、反対する人に命令を発する権利は無い。敗残者でも、健康を取り戻す運動を提唱することに関しては、彼は絶対間違っていない:だが纏足を提唱するなら、それが自然の足を持った壮健な女性でも、彼女はやはり意識的或いは無意識的に人を害するのだ。

アメリカの果物王は、ある果物の改良の為に、10年の歳月をかけたそうで、況やこの問題の大変多い大衆語においておや。もし彼の矛で彼の盾を攻めてみれば、反対者は文語か口語に賛成する人で、文語には数千年の歴史あり、口語にも過去20年の歴史あり、彼も彼の「実物」を掲げて、皆に見せて貰いたいものだ。

 だが我々も自分で試してみるのはいいことで、「動向」誌で、すでに3篇の純粋土語を使った文章があり、胡縄氏は読んだ後、やはり土語でない方が明確だと考えた。だが、もう少し工夫すれば、どんな土語で書こうと、みな理解できる。私個人の経験によると、我々の地方の土語は蘇州のと大変異なるが、(蘇州語で書かれた)「海上花列伝」は「一歩も外に出なくても」蘇州語が分かる様になった。最初は分からなかったが、我慢して読んでゆくうちに、記事を参考に、対話を比べて行くうちに、みな分かる様になった。勿論困難ではあったが。この困難の根源は、漢字にあると思う。一個一個の四角い字はみな意味を持っていて、それを使って土語を書くと、何割かは本義を使うが、何割かはただ音を借りているに過ぎず、我々が読んでゆく際に、どの漢字が意味を使い、どれが音を借りているか、

慣れて来るとたいしたことは無いが、最初は大変苦労する。

 例えば、胡縄氏の挙げる例では「窩里に帰ろう」と書くと多分、何か犬小屋「窩」(動物のねぐら)のように思ってしまうから、「家に帰ろう」と言う方がはっきりするという。

この句の病根は、漢字の「窩」にあり、実際こう書くべきではないと思う。我々の郷里でも家を「Uwao-li」と発音し、読書人が文字にすると、ごく当然だが「窩里」と書くが、思うに、このUwaoは実は「屋下」の2つの音が一緒になって、又訛ったものであり、「窩」Wo)で勝手に代替できるものではない。もし他の意味を有する音で書いたら、何の誤解も生まないだろう。

 大衆語文の音数は、文語や口語より多いし、もし四角い文字で書くと、頭がつかれ、時間も無駄で、紙墨も浪費する。この四角い病を帯びた遺産のために、我々の最大多数の人は、すでに数千年、文盲として殉難してきており、中国もこんな状態であり、外国では既に人工的降雨をしているのに、我々は蛇を拝み、迎神している。皆が生きて行こうとするなら、思うに:漢字に我々の犠牲になってもらうしかない。

 今、我々には「ラテン化表記」の一筋の道しかない。これは大衆語と切り離せぬ。やはり読書人から、先に試験して、字母と綴り方を紹介し、その後、文章を書く。初めは日本文のように、少しの名詞類の漢字を残し、助詞、感嘆詞、後には形容詞、動詞もみなラテン語音で記し、そうすれば、目にもなじみ、理解も容易になる。横書きは当然だ。

 これは今すぐ実験しても難しくないと思う。

 確かに漢字は古代から伝来の宝だが、我々の先祖は漢字より古い。従って、我々は更に古くからの宝である。漢字の為に我々を犠牲にするか、我々の為に漢字を犠牲にするか?

これは喪心して気の狂った者でなければ、すぐ回答できることだ。   823

 

訳者雑感:

 明治の初め、日本に来た欧米人が日本の子供の識字率の高いことに驚嘆している。その一方で、中国の文盲が多いのを指摘している。

 1934年頃、口語文すら20年経て迷路に追いやられ、大衆が読める文章は無かった。

何とか大衆が読める文章を作ろうというのが「漢字とラテン化」だ。

魯迅はここで、中国語を日本語と同じように、「漢字ローマ字まじり」の表記にして、大衆の頭への負担を減らそうと提唱している。実際はローマ字混じりの大衆語は生まれず、その後、「簡体字」の大量導入によって、多少は頭への負担が減ったが、文盲は余り減らなかった。1960年代の終わりに、文革中の中国を訪れたとき、老人たちの多くは文盲であった。

それではならじと、小学生が漢字の先生として親は祖父母に漢字を教えるような運動も出て来たが、やはり子供から漢字を学ぶのは(抵抗があり)難しかった。

 文革で、ひとつだけ改善があったとすれば、例の「毛語録」を下放された青年たちが、各地の文盲たちに「共通語」の発音で、朝から晩まで、食事の前後に繰り返しくりかえし、お経のように唱えたことで、それが徐々に浸透していったことぐらいか。

それもやはりつまるところは、1990年代以後の急速なテレビの普及で、テロップで漢字を出し、共通語と方言で四六時中放送した結果、文盲がかなり減ったという。

 

私が中国語を学び始めたころ、倉石先生が岩波から「ローマ字」で引く辞書を出された。

画期的なことであった。だが、その後また漢字で引く辞書ばかりとなって今日に至る。

 1970年代に上海に住んでいた頃、北京ではあまり商店もなく、気にしなかったことだが、上海の通りの商店の屋号はすべて漢字とローマ字綴りが併記してあった。このローマ字表記は北京音であり、上海語しか話せない「古い世代」への教育的意味があったのだろう。

その後、テレビの普及に伴い、屋号は漢字だけになり、なお且つ「金看板」と称する、大きな板に縦書きで金色の装飾を施した「字画の多い漢字」に戻っている。簡体字しか読めなかった人達も、テレビの影響で、昔のドラマの中に出て来る「繁体字」も読めるようになり、商店も字画の少ない漢字より「上等」にみえる繁体字にするのが流行している、

 魯迅の提唱した漢字ローマ字綴りは、結局は実現しなかったが、横書きというのはしっかり定着した。これはいまだに殆どの新聞と雑誌が縦書きの日本と大きな違いだ。

中国は横書きの結果、多くの外来語をローマ字表記で自然に記述でき、日本では縦にローマ字を記述するのに比べ、読み易いこと間違いない。

日本ではポケベル、携帯、スマホなどは縦書き対応できるようにしているが、CD PC,とかは面倒なのか、適当な日本訳も作らないようだ。PCはパソコンとはいうが。

ちなみに、上記の中国語は、尋呼机(機)、手机、智能手机、光盤、電脳などという。

 

新暦は積極的に取り入れた日本だが、西洋的な横書きは後れをとっている。

中国は、文字は殆ど横書きだが、暦は依然として旧暦が大切にされている。

     2013/06/19

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