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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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両地書七

両地書七
 昨25日午前に先生のお手紙拝受。午後哲学教育系の演芸会の手伝いをし、今ようやくペンを取り思ったことを書けるようになりました。
 昨晩「愛情と世の仇」(ロミオとジュリエット)をやる前の9時過ぎに、先生は帰られたそうですね。誰かに言われたのでは?と思いました。帰られて良かったです。その実演技も下手で、出演者もいつも一緒に練習できず、一部の人は1-2度しか練習しておらず、ある人は多いですが、批評する人も脚本を予めよく研究しておらず――本番になっても十分理解しておらず――劇の状況について、当時の風俗習慣衣裳など概して門外漢です。更に出演者は多くが各班からの要請で充当したので、一緒に練習する時間に制限があり、予想通り失敗し、一言でいえば、広場で子供たちに見世物を見せて数銭だまし取るようなものでした。見に来た人も少なく、目的は達成困難だったでしょう。――本当に何も気にせずにみっともないところを見せたら、お笑い草です。
 近来、お腹一杯にたまった不満は――多くは学校問題です。年末休暇中とその前、校長の進退を要求する人は、それぞれが複雑な背景を持っていると思います。だから私は高みの見物と決めました。学期が始まってから、楊を擁護する者と、楊本人の行動を目にしたら、本当に怒髪天を衝くばかりで、総攻撃をかけるのです。私も一面では、反楊の人たちがある色彩を帯びていると言う事は否定しませんが。ただ私は一人で個人的に楊の駆逐運動をするのは良いと思います。それで前号の「婦女週刊」に「持平」の名で「北京女子世界の一部の問題」として投稿したほかに、後の15期の「現代評論」に「一女性読者」の名で「女師大の学潮」が出ました。彼女は本校の牧羊者でしょうが、本人は「部外者」と言っており、私は「子の矛で子の盾を攻めてみよ」と、彼女を駁斥し、「正言」の名で(これまでの投稿は、一つの名を使うのが好きではないので、自分の文が大変卑浅なのを知っておりますから、その採用権は編者に任せ、何とか女士のようにはしませんし、妄りに主筆者の特別な好意を求めず、だから私の原稿はいつも心血を注いでもゴミ箱に捨てられますが、決まった筆名を使いたくないという癖は改められません)こう書いてきて、この文はひょっとして「塹壕戦」にふさわしくないと思いましたが、はやる気持ちは抑えられず、まず先生に批閲してもらってからと思いましたが、時間が経つと明日の菊花(しおれてしまう)になってしまうと思い、急いで郵送し、喉につかえた骨を吐き出して、少しすかっとしましたが、その実、実際には何の役にも立ちません。
 私は世間的な経験は少ないですが、これまで遭ってきた南北の人士も心意気のある人で、頭脳明晰です、大勢に明るいる人は少なく、数人集まると、着物の話でなければ、パーティや劇場へ行ったなどの話です。仕事に熱心な人は学力が劣り、粋を学び、功の深い人は、枯れ木のようで、心は灰の如く、足で蹴ってもびくとも動きません。問題が起き皆で討論すると、何かにかこつけてこっそりその場を去ってしまいます。或いは挙手になるとどちらが多いかを見て挙手し、賛成反対に対し何の定見もありません。功績はすべて自分に帰し、誤りはすべて人のせいにする。やる気の無いこと甚だ哀れで、彼らについてなお何を望まんや!私が小学生の頃、辛亥革命が起こり、長兄は笈を負って南京に行き、種族思想を鼓吹する最も力を注いだ人で、若い私らに常々大義を講じてくれましたが、幼かったため国事に力を尽くすことができず良機を失したのが悔しかったです。文字が読めるようになり、国民党発行の「平民報」を熱心に読み、新しい本を渇望していたので、後に妹と一緒に十余里歩いて城外まで買いに行きましたが、買えなくて残念に思いました。加えて父も性格が剛直でして、私も粗野を免れません。そして又、朱家郭解(後漢時代の遊侠)のように、屋根の上、壁の上を跳びまわって、弱気を助け強気をくじく本を読むのが好きで、剣術を学んで天下の悪者を悉く退治しようと幻想しました。(袁世凱のやろうとした)洪憲盗国の時は、この時を失すべきではないと、当に国のために命を捧げるときで、ひそかに女性革命家の荘君に手紙を出そうとし、それが家族にばれて、家人に阻止され、躓いた結果、これまで気力を失っています。近来年齢とともに社会の内幕が多少分かるようになり、同級生との付き合いも大抵はうわべだけで機械的に対応するだけで、一緒に何かするのも難しく、楽しく話すのもできません。先生が手紙に書いておられるように「今、破壊する準備をしている人もいるようで」とは本当ですか?彼等はどういう人たちでどのように結合しようとしているか知りません。先生の言われる「土匪になる」のですか? 私は度量も無く、才も浅く、力不足で、大事をなすには物足りませんが、どのような事があろうと「馬前の卒」になりたいと思い、あまり大した役には立たないでしょうが、子分として旗振りの役でもさせていただき、何かを造り出すために努力したいというのが、私が先生に仰ぎ望むところです。先生ご理解いただけますでしょうか。
 先生から毎回お手紙を頂くことは、「子鬼(自分の事)」にとって、ちょうど盂蘭盆会の時のようで、お腹一杯食べて袋にも沢山いただき、未曾有の事です。
謹んで「循循とよろしくご指導くださる」ことに感謝申し上げます。
   学生 許広平    3月26晩

訳者雑感:辛亥革命の前後の魯迅と小学生だった許とのそれぞれの経験が良く分かる。許は広東でそんな幼いころから革命に参加したいと考えたという。周りがそんな雰囲気だったのだろう。
広東から武漢の湖北湖南、そして浙江省の3角形一帯が革命の震源地だったのだ。   2016/06/08記

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両地書六

両地書六
 広平兄
貴信拝受後、数日経たようですが、偶々時間がとれず、今日やっと返信します。
「一歩一歩現在が過ぎ去る」のは無論比較的環境に苦しめられていないからですが「現在の私」は「以前の私を含んでおり」この「私」は時代環境に不満を持ち、苦痛もなお続いています。しかしこの境遇に安んずることができ――即ち、船あれば船に乗る云々――で、幻想のとても多い人たちより聊か安穏でいられ、敷衍できるでしょう。要するに、人は麻痺の境界から出たら、苦痛が増え、何も考えられず、所謂「将来に希望を」とは自慰に過ぎず――実際は自ら欺く――の法で、「現状に順応する」と同じです。きっと「将来」も考えず、「現在」も知らぬようになって、初めて中国の時代環境に合致するのですが、一旦知識を持ち始めると、再びそんな状態には戻れません。私が前信で書いたように、「不満があっても悲観せず」で、貴信の所謂「英気を蓄えておいて、いざという時に試す」しかありません。
 貴信の言う「時代の落後者」の定義は違っています。時代環境はすべて変化し進歩しますから、個人が昔のままで何の進歩も無い、それが「落後者」です。時代環境に不満で、それを改良しようとするなら「落後者」ではない。世界の改革者の動機は大抵、その時代環境に対する不満からです。
 今回の教育次官の更迭は、彼の失策の為のようで、でなければ、こうはならなかったと思います。「民国日報」への妨害については北京の官界の例の手口で、実に笑止千万です。一部の新聞を停刊させたら、彼等は天下太平ですか?このような漆黒の染料がめを壊さねば、中国に希望はありません。だが今まさに壊そうとしている人もいるようですが、人数がとても少ない。しかし既にいるわけですから、これから増えるのを期待し、増えれば良くなり――無論これは将来のことで、今は準備のみです。
 知っていたら無論何も言わない訳ではありませんが、この通り、紙面いっぱいの「将来」と「準備」ばかりの指導教示では空言にすぎません。「子鬼」にとっても何ら有益な処はないと思います。時間については問題ありません。というのも、たとえ手紙を書かなくても、他に何もたいしたことはしておりませんから。     
 魯迅  3月23日

訳者雑感;文中の:「将来」も考えず、「現在」も知らぬようになって、初めて中国の時代環境に合致するのですが、…。という表現は「吶喊」の前書きにある、「鉄の部屋の中」の人たちで、そこから目覚めたら、何とかしてこの鉄の部屋から脱出すべく、あらがうことになるのだ。それが「将来」への「準備」だろう。
 今回、自衛隊の廠舎とよばれる風雨をしのげるかまぼこ宿舎で体力温存し、
それこそ「塹壕戦」で7日間堪えた大和君のとった対応はおどろかされた。
日中に鉄道の方向に向かって歩いてゆけば、もっと早く助かっただろうが、その途中でクマに襲われ、事故にあったかもしれぬ。水さえあれば人間は塹壕戦で堪えてゆけるのだ。何はともあれ生きて発見され本当に良かった、良かった。
    2016/06/04記
 

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両地書五

両地書五
 魯迅先生 吾師机下:
 本日19日発の先生のお手紙拝受。「兄」の字の解釈、謹んで拝命します。2年教えを受け、確かに「生疎」な師弟の関係とは言えず、更に「遠慮」は不要とのことですが、やはり「やや勝る」というのをお取りになったのは、先生が己を虚にして人を待つということでしょうか。何れにせよ社会の一種の形式ですから、固より存在価値がありましょうか?謹んで一笑を博します。但し、先生が既に「自分で判定し、沿用されてきた例」なら他の人間が何も言う事もないでしょう。さてそれでは他の話をします。
 現在世界の教育は「環境に適応できる多くの機器の製造方法」なら、性格が素直でない私は、生来曲げ細工になるような素材ではない私は、他の人と同じようにする事は困難で、「将来」が目の前に現れて「現在」になるのを待つと、この間は――私は時代の落後者です。将来の状況は現在知るべくもありませんが、いつもこのように「品性移し難し」だと、経験という師が私たちに告げているように、事実はきっとその通りで、末路はやはり憤激と仇視から離れられず、「誰に対しても発砲し、自分も壊滅する」のです。だから私は過去について絶対懐旧などせず、将来に希望を託しません。現在に対する処方は即ち:船あれば乗り、車あれば乗り、飛行機があれば乗るのを妨げず、山東に行けば一輪車にも乗り、西湖ならボートに乗ります。しかし農村で電車に乗りたいとか、地球から火星に飛びだしたいとは絶対思いません。要するに、現在の事は現在処理対応し、現在の私の力で現在を処理対応するのです。一歩一歩現在を過ぎ去り、一歩ずつ現在の私を越えるのです。しかしこの「私」はやはり元の「私」の成分が含まれており、細胞が人体の中で徐々に新陳代謝するのに似ています。これも余り考えないで、とても退廃的で、青年が一般的に罹る病に染まっていて、実は上記の「<現在>という問題」に対してやはり「白紙答案」から抜け切れていないのです。これに対してどんな方法があるのでしょう。それに任せるしかありません。
 現在は固より黄金世界のことなど講じられませんが、多くの人は良い世界だと思っています。しかし孫中山が死ぬと教育省の次官が即更迭され、「民国日報」がすぐ閉鎖され(或いは中山の死と無関係かもしれませんが)あれ以降の芝居は色々出てきて窮まりないでしょう。「叛徒」の「謀叛」が正しかったかどうかは暫く置いて、ともかくこの「叛徒」の方法は実際あまり高明でないのに、皆本当にこれは「良い世界」ではあるべきことだと思っている。この「黒の染料がめ」の様なものから、ポトポトと垂れる漆黒なものを、どうして許すことができましょうか。こんな甕(かめ)は大きな煉瓦でぶち壊すのが良いのです。或いは釘と鉄板で密封するのが良いのです。但し今それに代るものが、準備できていない状態で、どうしたらよいでしょうか?
 先生も暗い所が多いと感じられているとはいえ、青年にはいろいろなところで、退却せず悲観せず、絶望せぬように指導され、ご自身もやはり悲観的ながら、悲観すべきでないとし、なすべきなきも、なすべきとして前に向かう。この精神は学生も習うべきで、今後自ら必ず踏み越えてゆく必要の無いイバラは避け、英気を養い蓄積し、いざという時に試します。
 私の見た限り、子路は、勇気はあるが無謀で、三鼓の鳴るのを待って進撃という事が出来ず、欧州に生まれていたら、塹壕内で敵を待たせてもきっと長くは堪え切れず、身を挺して出撃するでしょう。関公ややはり関公、孔明もやはり孔明、曹操もやはり曹操で、三人の個性は異なり、行動も違います。私は子路が「率尓として対した」のに同感ですが、名を避け実を求めた偽君子の「方、……五六十の…君子を待った」冉求(孔子の門下)に賛同しません。孔子の門下ではこれを許していますが。しかし子路は門下とはいえ、やはり素性を改められないから、如何ともしがたいです。彼が「纓を結んで死す」のは、「正しく割されていないものは食せず」と同様「迂遠」な面があるが、それは別の問題で、我々ははっきりさせれば騙されることはありません。
 手紙で先生のご指導を頂くのは読書や講義を聞くよりずっと素晴らしいのですが、私自身が浅薄ゆえ、多くの申し上げたいことも十分に書けず、それを先生に差し上げて教えを請えないのが残念です。しかしもし教えを請うた時には、先生は何も惜しまずにきっと教えてくださると信じております。只大切で貴重な時間を、私の様な子鬼が闖入してきて、護符を焼いても呪をとなえても効き目がないから、先生はやむなく光明を照らしてくださるのでしょう。小子は慙愧に堪えません。
  貴方の学生 許広平 啓上     3月20日

訳者雑感:民国14年、即ち孫文たちの辛亥革命も14年に孫文が死に、北京の政治情勢も大きく変わって、教育の世界もいろいろ問題が出てきた。教育とは「環境に適応できる多くの機器の製造方法」という表現が示すように、中国の教育というものの考え方は、学問をして自己を磨くというよりは、政治や経済、国家に有益な機器を造ることのようで、この辺の考え方が今日まで伝わっているのだろうか?日本の理科の教室に掛っていた標語「真理探究」ということを標榜するのと、国家という環境に適応できる多くの機器を造るというのとは大きな相違があるようだ。
   2016/06/02記

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両地書四

両地書四
広平兄:
 今回まず「兄」の字から始めます。自分で制定したのですが、次のような例に沿っています。即ち:昔からの或いは最近知り合った友人、昔の同級生で今も往来している人、直接受講している学生などに手紙を書くとき皆「兄」と呼びます:この外元来先輩或いは割合疎遠で、遠慮が必要な人には「先生」と称し、老爺、奥さん、若旦那、御嬢さん、大人…などを使います。要するに私のこの「兄」の意味は名前を直接書くより多少勝っているに過ぎません。許叔重先生の言うような「兄貴」というような意味はありません。しかしこの理由は私だけが知っているだけですから、貴方が一見して驚かれたのも分かりますが、余りムキになって怪しむことはありません。こうして説明した訳ですからもう奇としないでください。
 現在の所謂教育は、世界のどの国も実は環境に適応する機器を大量に作っているにすぎません。本人の天分に適し、それぞれの個性を伸ばすような時代にはなっていません。また将来本当にそういう時代が来るか分かりません。将来の黄金世界になっても叛徒は死刑にし、皆はそれでも黄金世界だと思うけれど、大きな病根は、人それぞれに異なり、本を印刷するように同一にはできません。この大勢を徹底的に破壊しようとすると、すぐ「個人的無政府主義者」になり、「労働者セヴィリエフ」に描かれたセヴィリエフになるのです。この種人物の運命は、現在――多分将来も――群衆を救おうとすると、群衆から迫害され、ついに独りになって憤懣の余り、全てを仇視し、誰に対しても発砲し、自分も破滅するのです。
 社会は奇怪な事で満ちており、学校も糸綴じ本を有難がり、卒業証の為だけで、根柢の所では「利害」の2字から離れられないとしても、まだましな方です。中国はきっと古くなりすぎたのでしょう。社会の事は大小を問わず、皆劣悪で堪えません。黒墨の染料がめのように、どんな新しい物を入れても皆漆黒にしてしまうのです。もっと良い方法を考え改革しなければ、他に道はありません。すべての理想主義者は「昔のこと」を懐旧しなければ、「将来」に希望を持とうとし、「現在」の問題には白紙答案しか出せません。誰も処方箋を書けず、全ての中で最善の処方は「将来に希望を」しかないのです。「将来」はどういう状況になるのか分かりませんが、必ずあるはずで、きっと到来します。心配なのはその時になると、その時の「現在」になるのです。しかし人はそう悲観する必要はありません。ただ「その時の現在」が「今の現在」より少しでも良ければ良いのです。それが進歩です。
 これら空想は必ず空想だと証明する方法はないから、人生の一種の慰安とすることができ、まさしく信者にとっての神のようです。貴方は私の作品をよく読んでおられるようですが、私の作品は暗すぎますし、いつもただ「暗黒」と「虚無」がすなわち「実際にあるものだ」と感じ、どうあってもこれらに対して絶望的な抵抗をしているから、とても多くの偏った過激な声を出すのです。その実、これは又年齢と経歴の関係で、必ずしもはっきりしたものではなく、私には証明できなくて:只暗黒と虚無は実際に有ります。だから思うに、青年はすべからく、不満があっても悲観せず、常に抵抗し自衛すべきで「イバラの道でも踏み越えねばなりません。固より、やむを得ず踏み越えるのですが、踏み越える必要が無ければ、それは随意で、踏み出す必要もなく、これが私の主張する「塹壕戦」の理由です。実は、何人かの戦士をより沢山留め、更に大きな戦績を得ようとするものです。
 子路先生は確かに勇士だったが、彼は「吾、君子は死しても冠は免れずと聞く」ことで、「纓を結びて死す」となり、これは「迂遠」だと思います。帽子を落としたって何構うものですか。そんなに鄭重なのを見ると、実は仲尼(孔子)先生に一杯食わされたのです。仲尼先生自身は「陳蔡に厄され」ても餓死しなかったのは、本当はずるいのです。子路先生はもし彼のでたらめを信じなければ、髪振り乱して戦い始め、ひょっとして死ななかったでしょう。但しこの種髪振り乱す戦法は、私の所謂「塹壕戦」に属すかもしれません。
 晩くなりましたのでこの辺で。
    魯迅3月18日
訳者雑感:
 文中にある魯迅の嘆息「中国はきっと古くなりすぎたのでしょう。社会の事は大小を問わず、皆劣悪で堪えません。黒墨の染料がめのように、どんな新しい物を入れても皆漆黒にしてしまうのです。もっと良い方法を考え改革しなければ、他に道はありません」と引用が長くなったが、辛亥革命で古い3千年の皇帝支配の政治体制を打破したにもかかわらず、15年経った1925年の北京の状況は、革命前と同じで、黒墨の染料がめで、新しい物もすべて真っ黒にしてしまうのです。この古くなりすぎた中国は、1949年の共産革命を経て新しくなったとして、最近まで「新中国」と呼んできたが、さてどうだろうか?
 2016/05/29記

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両地書三

両地書三
魯迅先生机下
 13日朝先生の手紙、拝受しました。なぜ同じ京城内で3日かかるのか分かりません。開封して一行目の私の名の下に「兄」の字があるのを見まして、先生私の愚かでつまらない人間をご諒解いただき、私が「兄」などにどうして当たりましょうか?いや、いや決してそんな勇気と胆はありません。先生のお考えはいかがでしょうか?弟子は本当に分かりません。「同学」や「弟」と呼ばず、「兄」と言われるのは、遊戯でしょうか?
 教育が人にどれほど効果があるか分かりません。世界各地の教育の人材養成の目標はどこにありましょうか?国家主義、社会主義…を説く人たち、環境の支配を受け、何何化を行う教育をするとか、但し畢竟、教育とはどういう事でしょうか?環境に適応する人間を多くつくることで、個性を損なうのを何とも惜しまず、環境に迎合させるのですが、やはり他の方法を見つけて、一人一人の個性を保全するには如かず。これらは皆とても注目に値しますが、現在の教育者と教育を受ける者は無視され、また現下の教育界のひどさは、この点と無関係とは言えません。
 尤も心が痛むのは「人の気性は容易には改変しません」したがって、多くの人は今も日々、舞台に上がって化粧して観衆の人気を得ようと――得られないかもしれないが――準備するほかは何も構いません。試験の時、良い点が取れないと心配で、学問に対し忠実ではなくなります。授業は予習をしなくて済むような、テーマも簡単なのを望み、特に教士から多くの暗示を得たがり、結局は良い成績表を欲しがるのです。良い成績表は即ち自分の活動のためで、…
彼女らは学校で「利害」の2字以外、他の事には痛痒を感じません。一生懸命になるのは、「是非」の為ではなく、「利害」の為で、群の為ではなく己の為なのです。これも私が目にする彼女ら、一部の人でしょうか?違います。糸綴本を後生大事にし、終日清書をし、本を読むだけで、読めば読むほど腰と背中が湾曲し、年寄りみたいになり、覇気が無く、現代の本や新聞は一顧だにせず、彼女らは現代社会の一員になろうとは考えていないのです。そして例外もあり、彼女らは現代社会の主役になろうと汲々としている。だから奇怪な事が次々起こり、耐えきれぬほどで、真に先生の言われる「土匪」になった方がましです。
 「田舎の女が牧師に綿々と苦しい半生を訴え、救いを求める」故事は、多分物質的な援助を求めたもので、だから牧師はあんな風にしか応対できなかったかもしれません。思うに、精神的なものなら、牧師はこの種の問題はもとより研究していましょうから、きっと良い答えが出せたかも知れません。先生、私の推測は間違っていますか?聖哲の所謂「将来」は牧師の説く「死後」と異なりませんが、「過客」は言いました:「老人よ、貴方は多分ここに長くいるから、前方に何があるか知っているでしょう」老人は「墳」だと答えたが、女の子は「たくさんの野のユリと野バラ」と答え、二人の答えは異なり、「過客」はそこへ行って、所謂墳と花を見ることもないかもしれず、見たのは他のものだが――「過客は」やはり尋ねるでしょう。そして尋ねるに値するようです。
 醒めた時、いくらかでも苦痛を免れようとするなら「傲慢になる」か「茶化す」のも固より一つの方法ですが、私は小学生のころからこれまで、人から「傲慢」とか「茶化す」と非難されなかった日はなく、時にはこれは「処世の道」ではないと感じ、(更に実際自分も何も驕るに足るものはないし)どうも同じ流れに随って汚れることはできませんので、目前の損を蒙るのです。しかし子路の性格は、人に微塵切りにされても一向に気にしないが、彼に「塹壕戦」を命じても、耐えきれないでしょう。しかたありません、やはり出て行くのですが、「余り良くない」ということですと、他にどんな方法がありましょうか、先生。
 草々とこんなことどもを書きまして、そのまま修飾もせずに、又ペンで書きまして、申しわけありません。先生が清楚に毛筆でお書き頂いた詳細で懇切なご指導に対しまして、誠に感謝にたえませんし、恥ずかしいです!
  ご健勝を祈ります。 敬具。 
   小学生 許広平  3月15日

訳者雑感:
 女子師範大学へ中国各地から勉学に来る女子学生は、「是非」の為ではなく、自己の「利害」のためで、良い卒業成績表を得て、「将来」は、社会の主役になろうとしている。何だか点取り虫的というか、科挙の女性版のようだ。良い点を取れば、良い所に就職できるし、留学し、本校の教職員になれる。そんな餌を目の前に並べて、専ら学校の都合のよい方向に引っ張ってゆく。学生は学生で簡単な問題で、更にヒントを得て良い点数を取れるようにと希望する。中国の学校と学生の関係は長い科挙のしがらみから抜け出せてないようだ。それが、基礎科学などをしっかり学ぼうとする気にさせない障害であろう。結果として、ノーベル賞の受賞者が少ないのか。
    2016/05/24記
 

 

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両地書二

両地書二
広平兄:
 今日お手紙受け取りました。いくつかの問題は多分答えられないと思いますが、少し書いてみましょう。――
 学風というのは、政治状況や社会情勢に関わっていると思います。もし山林の中にあるなら、都会より少し良好でしょうが、それもそこで仕事をしている人が良ければですが。しかし政治が混迷し、良い人も仕事ができないと、学生は学校で嫌なニュースを耳にする機会が少ないだけで、学校を出たら社会と接触し、やはり苦しみ、堕落したりして、ただ早いか遅いかの差です。だから、やはり都会にいるに如かずと思います。堕落する者はとうに堕落し、苦しむのも早く苦しむ訳で、さもなければ、比較的静かなところから突然騒がしい処へ来たら、予想外に驚き苦しむこととなり、その苦痛の総量はもともと都会にいた者とほぼ同じです。
 学校もこれまでこういう具合だったが、10-20年前は多少ましで、学校を開設する資格のある人が少なく、競争も激しくなかった為です。今は数も増え、競争も激しく根性の悪いのが顕在化したのです。教育界で高潔とされるのは元々が掩飾で、実は他の世界と同じで、人の気質はそう簡単には改まりません。大学で何年か学んでもたいした効果はありません。ましてやこんな環境ですから、まさしく人体の血液と同じで、一旦悪くなったら、体の一部でも健康を保持できないし、教育界もこのような民国の状況では、特に高潔でいられることはありえません。
 だから学校がたいして高潔でないのは、実はもう大分久しいことです。加えて、金の魅力が元々非常に大きいので、中国はこれまで金で誘惑する術をうまく応用してきた処で、自然こんな現象が起こるのです。いまでは高校もこんな風だと聞きます。たまに例外はありますが、それは年齢が低いためで、経済的な困難とか支払いの必要を感じていないからです。女学校にそれが伝わったのは最近の事で、その起因はまさに女性が経済的自立の必要を自覚したからで、それは独立の方法を得ることが肝要で、それには2つの道に外なりません。一つは力で争うこと。もう一つはうまく取り入ることです。前者はとても力が要ります。それで後者に落ちるのです。たとえ略覚醒している人でも、また再び昏睡するのです。しかしこの状況は女性の世界だけでなく、男も同じで、違うのは取り入るほかに、(権勢の力で)豪奪するのです。
 私は実は「そのまま成仏」などとてもできません。タバコが多いのは麻酔薬に過ぎず、煙霧の中にも極楽をみたこともありません。私が本当に青年を指導する本領を持っているなら、――無論正しくか、間違ってかは問いません――私は決して隠したりはしません。ただ残念ながら、自分に対してすら指針盤が無いので、今に至るも乱雑に動き回っているのです。深淵に入ってしまってもそれは自分の責任ですが、人を率いていたらどうしたらいいでしょう?演台に上がって話をするのを恐れるのはこの為です。ある小説に、牧師を攻撃するのがありました。田舎の女が牧師に苦しかった半生を訴え、彼の助けを求めたのですが、牧師は聞き終えて答えるに:「耐えなさい。上帝は生前貴女に苦しみを受けさせたが、死後はきっと福を賜るのですから」実は古今の聖賢や哲人が説く所はいずれもこれより優れたものはありません。彼らの所謂「将来」は牧師の所謂「死後」に他なりません。私の知っている話はすべてこの通りで、私は信じませんが、私にもそれより良い解釈もありません。章錫琛氏の答えもきっと曖昧なものに違いなく、彼自身は書店の会計もしていて、いつも苦しいと言っている由。
 思うに、苦痛はいつも人生について回りますが、時に離れる時もあり、それは熟睡の時です。目覚めたときは若干の苦痛は免れませんが、中国の古くからの方法は「天狗になる」ことと「茶化す」ことで、私にもその病があると思います。良くないことです。苦い薬に砂糖を入れるとその苦みは元のままですが、砂糖なしよりは聊かましですが、この砂糖はなかなか見つからず、どこにあるか知りません。この問題には白紙しか出せません。
 以上色々書きましたが、やはり章錫琛と同じです。再度私自身がどのように世の中でお茶を濁して過ごしてきたか、ご参考に供します。――
一。「人生」の長途を歩むに、一番よく遭遇する難関は二つあります。その一つは「岐路」で、墨翟先生は慟哭して引き返した由。だが私は泣かないし引き返しません。まず岐路で坐り、少し休み又は眠ります。そこで歩けるような道を選び、りちぎな人に遭ったら、ひょっとしたら彼の食べ物を奪って飢えをしのいだりはするかもしれませんが、道は訊きません。なぜなら彼もきっと知らないでしょうから。虎に遭遇したら、すぐ木に登り、虎が腹ペコになってその場から去るまで待つ。去らなければ木の上で飢え死にするが、まず帯で体を縛りつけ、死体を虎に食わせません。木が無かったら?しょうがありません。虎に食われるしかありませんが、奴をひと咬みするのは妨げません。
 二つ目は「途が窮まる」で阮籍先生も大いに哭した後、戻った由だが、私は岐路と同様、やはり乗り越えて進みます。棘の叢でも暫時歩いてゆきます。が、私もこれまで全てが棘荊で歩けないような処に遭遇したことはありません。世の中に本当に途が窮まるところはないのか、私が幸い遭遇しなかっただけなのか知りません。
 二。社会との闘いについて、私は身を挺して出ることはしませんし、他の人が何かの犠牲でそうしようとするのを勧めません。欧州大戦の時、「塹壕戦」を最重視し、戦士は壕の中で伏し、時には煙草を吸い、歌を歌い、トランプをし、酒を飲み、壕の中で美術展も開いたが、時には忽然と敵に何発か発砲した。中国には闇夜の弾が多いから、挺身して出る勇士はいとも簡単に落命する。だからこの種の戦法が必要です。しかし時には白兵戦もやむを得ず、その時は仕方ないから白兵戦をするしかない。
 要するに、苦悶に対する方法は、襲い来る苦痛に対して、無頼の方法であらがって勝利し、むりやりに凱歌を歌い楽しむ。これが糖を加えることでしょう。
しかし最後はやはり「他に方法なし」となればそれで仕方ありません。
 私の方法は以上です。こんなものに過ぎず、遊戯に近く、一歩ずつ人生の正しい軌道を歩むのとは違うようです(人生に正しい軌道があるかどうか知らないが)。書いてみましたが、貴方の役に立つとは限らないと思いますが、これくらいしか書けないのです。
    魯迅 3月11日

訳者雑感:岐路と窮途についての彼の考え方が分かる手紙だ。
岐路に遭遇した時、律儀な人に遭ったら、彼の食物を奪ってでも生き延びると言うのは面白い比喩だ。しかし彼に道を尋ねはしない。知らないから。やはり自分で歩いてゆくしかない。虎にあったらすぐ逃げる。身を挺してとか、無謀なことで落命しないぞ、というのは辛亥革命の時以来の彼の考え方だ。
     2016/05/17記

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第一集 北京 一

第一集 北京
一。
魯迅先生:
 今手紙を書いているのは、先生から2年弱の教えを受け、毎週「小説史略」の講義を聴くのをとても楽しみにし、授業中にいつも我を忘れて、元気に率直な言葉で発言するのが好きな学生です。彼は沢山の懐疑と憤慨、不満を長い間自分の中に貯めていたのですが、今回抑えきれなくなって先生に手紙を出すことにしました:
 学校というものはその場所を、都会の俗塵から離れ、政治の潮の影響から離れれば離れるほど、よい効果が得られるという人がいます。これは一理あるでしょうか?高校時代は教員を攻撃するということ無くはなかったと記憶しますし、校長に反対する事もそうでしたが、反対か支持かは、「人」の面での権力のバランスに偏重していて、「利」の面で取捨することを見たことはありませんでした。先生、これは都会や政治の潮の影響を受けたからでしょうか?又は年齢の関係で、彼を悪くさせたのでしょうか?どう思われますか?今北京の教育界で、校長駆逐について、反対する者と賛成する者が同時に現れ、すぐ旗幟を鮮明にし、校長は「留学」や「留校」で以て――卒業後は学校に奉職できる――という良いポストを餌にし、学生は権利の得失関係で取捨する故、今日は一人買収し、明日は又一人、…今日は一人買われ、…明日は又一人買われ…ますが、とりわけ憤慨に堪えないのはこういう黴菌に満ちた空気が、名は高等教育を受けるという女子教育界に瀰漫しているのです。女性校長として確かに才能があり、卓見と実績があるなら、元来一般に公表しても構いません。しかし「こそり憐れみを請う」など醜態百出で、人々が口にし、耳にするのです。これは環境の色んな関係もあり、彼女もやむなくこのようにさせられているのかもしれません。しかし何ゆえに校内の学生はこの事に就いて日々軟化するのでしょう。今日は出席してはっきりと反対の意見を提出しながら、目を転じるとすぐそっぽを向いて去り、口をつぐんで、その変態の行動を示すのでしょうか? 状況は日々悪化し、五四以後の青年は大変悲観し、痛哭しています!救うすべの無いほどの赫赫たる気焔の下で、先生、貴方は当然鞄を放り出して、身を清めて遠くへ去れば「そのまま成仏」できるでしょう。しかし貴方は空を仰ぎ、あの人を酔わす煙草をふかしている時、害虫がいっぱいの盆の中で展転として引き抜かれるしか無い人々のことを思う事があるでしょうか?彼は剛率な人間だと自信を持っています。彼は先生が彼よりずっと剛率だと信じています。というのも、この小さな共通点を有するために、彼は先生にできる限り率直に申し上げます。先生が時間や場所の制限を取り除いて、ご指示、ご指導下さいますよう、希望します。先生お引き受けいただけませんでしょうか。 
 苦悶の果実は最も嘗めがたく、噛んだ後は苦みも多少は減りますが、苦みの成分が多すぎて、甘味の分を抹殺します。例えば、苦茶―薬を飲んで、玩味すると、少しは甘い香りもしますが、苦薬を好んで飲みたいとは思いません。病でやむなくという時以外、人は決して故なく苦茶を飲もうとはしません。苦悶を免れがたいのは、疾病を免れがたいのと同じですが、疾病はいつも身辺に有るわけではありません―― 終生病気を抱えている人以外は――。そして苦悶はいつも愛する人より親密に近づいてきます。招かれぬのにやってきて、振り払っても去りません。先生何か良い方法で、苦薬中に糖分を加え、人を苦しめないことはできますか。そして糖分があれば絶対苦くならないようにできますか?先生、貴方は章錫琛氏の「婦女雑誌」の中の回答のような模糊としたものでなく、明解なご指導をいただけませんでしょうか。
 以上、用件のみ。
 敬具。ご健康を祈ります。
     教えを頂いている一学生、許広平     11月3日、14年。

 彼は学生の2文字の上に「女」を付けるべきと見られていますが、彼は敢えて御嬢さんの如くには思っておらず、先生が自らを大旦那と自命されないのと同じです。彼は御嬢さんの身分地位にふさわしくないからです。どうぞ先生懐疑などされませんように。お笑いにならないでください。

訳者雑感:さあ、これから女子師範大の学校長排斥運動を軸とした、学生たちと教育界の上部機関とのあらがいをめぐって、魯迅と許広平の間に手紙の往復が始まる。彼女の長い間貯めてきた、懐疑と憤慨、不満を魯迅がどう解きほぐしてゆくのだろうか?
      2016/05/08記
 

 

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両地書序

両地書序
 (扉:出版社説明)
 本書は作者と許広平が1925年3月から29年6月までの間の通信集で、全部で135通(その中の67通半は魯迅の)で、魯迅の手で編集訂正され、3冊に分け、33年4月、上海青光書局から出版された。作者の生前、4版発行された。

    序言
 この本は次のようにして編集された――
 1932年8月5日、私は霽野、静農、叢蕪の3人の署名入りの手紙を受け取り、漱園が8月1日朝5時半に、北平同仁病院で亡くなったと知った。彼の遺文を集めて彼の記念の本を出したいので、私の所に彼の手紙が無いかと尋ねてきた。これを見て、私の心は突然動揺した。というのは、私は彼が快癒できると望んでいたからで、彼は多分必ずしも良くなることは難しいとは感じながら:次にそうとは知りながら、ついにそんなになるとは思い至らず、彼の手紙はすべて破棄してしまったかも知れないからで、あの枕に伏せて一字一字書いた手紙を。
 私の習慣は、通常の手紙は返事をしたら破棄するが、中に些かの議論があれば、往往残しておくのだが、この3年近くで2回大焼却した。
 5年前国民党の粛清時、私は広州にいて、甲を捕まえたら甲の所に乙の手紙が見つかり、乙を捕えたら乙の家で丙の手紙が出てきて、それで丙まで捕まり、行方不明となったという話をよく耳にした。昔は芋づる式に次々に捕えられたのを知っている。だがそれは昔のことと思っていたが、事実が私に教訓を与え、人として生きてゆくのは今も昔と同じく難しいということを、やっと悟った。
しかし私はやはり余り気にせず、いい加減だった。1930年に私は自由大同盟に署名したら、浙江省の党支部が中央に対し「堕落文人魯迅等」という通達を出すよう申請した時、私は家から逃げ出す前に突然血が騒ぎ、友人からの手紙を全て破棄した。私は「不軌を謀ろうとした」痕跡を消そうなどというのではなく、手紙の為に人に累が及ぶのは実に愚にもつかぬ事で、中国の役所は誰でも一度捕まったら最後、どれほど恐ろしいかを知っているから。その後、この関を逃れ、家を移って手紙は大分たまったが、いい加減にしていたのだが、1931年に柔石が捕まり、ポケットから私の名のあるものが見つかり、お上が私を捕えようとしていると聞いたので、すぐ私は家から逃げ出した。今回は更に血が騒ぎ、全ての手紙を焼却した。
 こんなことが2回あったので、北平からの手紙をもらって、多分有ることはないと思ったが、箱をひっくり返して探してみたが、影も形も無かった。友達からの手紙も一通も無かったが、我々の物はあった。これは何も自分の物を一種特別な宝としていたわけじゃなく、あの頃は時間の関係もあって、そして自分の手紙なら累はせいぜい自分だけだから、と放っておいたもの。その後、この手紙が銃火の交叉する状況下、2-30日放っておいたが、何の損失もなかった。中に些かの欠落はあったが多分それは当時注意を怠って早くに遺失したもので、お上の災厄とか兵火にかかったものではない。
 人が一生一度も横禍に遭わなくても、誰も特別に考えないが、牢に入れられ、戦場に送られたら、彼が単に平凡な人間でも人は少し特別視するだろう。我々のこの手紙もまさにそうだ。それまで箱の底に置かれていたものだが、今思い出すとそれはかつて殆ど裁判沙汰になったり、放火にまみえたりしたものだと思うと、何か特別な様に感じ、いささか愛着を持つようだ。夏の夜は蚊が多く、静かに字を書くことができず、我々は略年月に照らして編集し始め、場所が分かれていたのを三集にして名を「両地書」とした。
 言うならば:この本は我々自身には、いっときは意味があったが、他の人にはそうではない。文中に死ぬよ生きるよという熱情も無く、花や月やの佳句も無い:文辞については、我々はまだ「尺牘精華」や「書状作法」を研究したことも無く、ただ筆に任せて書き、文律に大きく背き、「文章病院」に入院すべき点がとても多い。言っていることは学校騒動にほかならず、本体の状況、食事料理のうまいまずい、天気の良しあしなどで、最も悪いのは、我々は日々漫然と天幕の中にして、幽明も弁ずることなく、自分のことを語るのは大したことはないが、天下の大事を推測するはめになると、どうもいい加減な点を免れず、したがって、文中に浮かれて喜んでいるのもあるが、今から見ると大抵は寝言たわごとだ。この本の特色は、お世辞的に言えば、多分とても平凡だという点。こんな平凡なものは、他の人には無いだろうし、たとえあってもそれを残しておくことはないだろうが、我々はそうしなかった。多分これが一種の特色といえようか。
 しかし妙なことに、ある書店がこれを本にしたいというのだ。出したいなら出すが良い。それは自由で構わないのだが、そのために読者と相まみえることになったが、ここで2点ほど声明を出し、誤解免れたい。その一は:私は現在左翼作家連盟の一員だが、近頃の本の広告は、凡そ作家が一旦左を向いたら、旧作も即、飛昇して、彼の子供の頃の鳴き声さえ、革命文学の気概に合致しているというのだが、我々のこの本はそうではない。この中に革命の気息は何も無い。その二:よく聞く話だが、手紙は最も掩飾の無い、真面目があきらかな文章といわれるが、我々のは違う。私は誰に対しても、最初はうわべをとりつくろい、口ではハイと言いながら、心は否定しており、即ちこの本の中でも、比較的緊張した場面になると、やはり往往、故意にあいまいに書いており、我々がいた所は、「当地の長官」郵便局、校長……、みな誰も自由に手紙を検閲できるお国柄であったからだ。ただはっきり書いたのも多い。
 もう一つ、手紙の中の人名は若干変えてある。これには良い面と悪い面があるが、人の名が我々の手紙の中にあると、その人に都合が悪いとか、単に自分たちの為にとかで、またぞろ「裁判開始まで待て」とかの類の面倒を省くため。
この6―7年を回顧するに、我々を取り巻く波風も少なくないとはいえ、普段のあらがいの中で、互いに助け合うのもあり、石を投げるのもあり、嘲笑や罵しる者もあり、侮蔑もあったが、我々は歯を食いしばり、すでに6―7年あらがってきた。その間、暗に人を中傷するものも皆徐々に自分で更に暗い処に没して行ったし、好意を寄せてくれた朋友もすでに二人この世にいない。すなわち、漱園と柔石だ。我々はこの本を自分たちの記念として、好意を寄せてくれた友に感謝し、且つ我々の子に贈り、将来我々が歩んできた道の真相が大体がこんな風だったと知ってもらうためだ。
   1932年12月16日 魯迅

訳者雑感:さあこれから、学生時代に日本語で読んで感動した物を翻訳する。20代で読んだ時の感動は、50年近くたった今、どういう感じに受け止めるだろう。この書簡集は、冒頭の通り、ある友が亡くなったので、彼の遺文を集めて記念に出したいのだが、という依頼が発端であった。白色テロ横行の時代に手紙に自分の名が出ると、すぐ捕まって、行方不明になる、という時代に全ての手紙は破棄したのだが、これだけは残しておいたということは、大変なことで、
魯迅は許広平からの手紙は残しておいたのは間違いないが、彼の手紙は許が全て大切に保管していたものか、或いは魯迅は出すときに控えを取って置いたものか。彼の他の文章などでも自分の出したものと相手のを併せて載せているケースがよく見られるから、彼は出したものの控えを残しておいたものだろうか。
今ではEmailで出電の記録は自然に残るが、1920―30年代は筆でもう一度書いたのかな。筆写するという作業は、古文書をすべてそうしていたことからすると、当時の人にとってはそう難儀なことと感じなかったかもしれない。
     2016/05/03記
 


 

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