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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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長城


偉大な長城よ!
 この工程は地図にもその小さな像が描かれ、世界中で少し知識のある人は大概しっているだろう。
 その実、従来からただ徒に多くの労働者を狩りだして、辛い賦役に死なせて来ただけで、侵入する胡人(外敵)を防ぎきれなかった。現在は古跡に過ぎないが、すぐには壊滅しないし、或いは保存しようとしている。
 私はいつも思うのだが、私のまわりは、長城に囲まれているような気がする。この長城を構成しているのは、昔からある古レンガと補填された新しいレンガで、二種類が一体となって城壁を築き、人々を包囲している。
 いつになったら長城に新しいレンガを補給しなくなるのか?
 この偉大かつ呪詛すべき長城!
 五月十一日         2010/08/14 訳
 
       訳者あとがき
       長城は、外敵の侵入を防ぐために築かれたものだが、魯迅はこの城壁が、旧時のレンガ(旧教即ち儒教を統治治の手段として利用してきた制度)が壊れずに、辛亥革命の後でもなお、儒教の経典を大切にしようなどの逆流が、新しいレンガとして補給され続けた結果、欧米日露などの侵略に対して独立国家として立ち向かえるような改革を阻んでいるのは、とりもなおさず、人々の考えの発展を妨害する、新旧レンガの旧教である。それゆえ、この旧教の体制を長城に譬えたものだと思う。
 改革開放の30年、今はコミュニズムという背骨を喪失して、科挙の試験顔負けの大学入試の煉獄に、かつての科挙受験生のおかれた状況と似たようなことが起こっている。この受験に合格して、
党員になることが、地方政権の役職に就く「入場券」であって、その入場券を手に入れる発想は、
旧体制のころ先祖がやっていた方法と同じやりかたを踏襲するのが、大方の中国人に一番受け入れられやすい、安心感をもたらすようだ。
        隋唐の時代から実証されてきた、貴族制打倒、皇帝独裁の官僚育成制度というのは、政権争いばかりして、内部闘争にあけくれて、毎年政権が代わるよりも庶民は安心して暮らせるから。
 

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 戦士とハエ

 ショーペンハウエルは言った。人の偉大さを計るに、精神上の大きさと体格上の大きさがあり、その法則は全く相反している。後者は離れれば離れるほど小さくなるし、前者はより大きく見える、と。
 まさに近づけば近づくほどより小さく、欠点もキズも見える。だから彼は我々と同じで、神でも妖怪でもケダモノでもない。やはり人間であり、人間にしかすぎない。ただそれだけにすぎないが、偉大な人間である
 戦士が死んだら、ハエどもが最初に発見したのは、彼の欠点と傷痕、それを舐め、ついばみ、ぶんぶん騒いで得意になり、死んだ戦士より英雄気取りだ。だが、戦士はすでに死んでしまったから、ハエどもを追い払わない。それでハエどもは一層ぶんぶん騒いで、自分たちの声こそ不朽なものであるとか、戦士より自分たちの方がはるかに完全であると思いあがっている。
 たしかに、誰もハエどもの欠点とキズを発見はしていない。
 しかし欠点のある戦士はひっきょうは戦士であって、完全無欠のハエはやはりハエにすぎない。
 去れ! ハエどもめ! 翅でもってぶんぶん騒いでみても、どんなにわめいても戦士を超えることはできないのだ。この虫けらどもめ!
 一九二五年三月二十一日    2010.8.10訳
出版社注; 孫中山逝去9日後に書かれた。4月3日の「京報副刊」に「これはこういう意味」と題して、本分について、「ここでいう戦士とは中山先生と民国元年前後に殉国し、バカどもに嘲笑され、侮辱蹂躙を受けた先駆の烈士を指し、ハエはもちろんバカども。
                                                                                                             
訳者あとがき:
 孫文の評価に関しては、孫大砲とのあだ名が彼の理想主義と現実からの距離を示している。しかしハエどもがどんなに彼の欠点やキズを攻撃しても、生前からそんなバカどもの声に一切妥協することなく、辛亥革命後の中華民国という3千年の歴史上はじめての「皇帝」が統治する政体を共和制にするのに、袁世凱などと14年間闘いながら、こと半ばにして戦死した。最近の中国の孫文に対する評価は、ずいぶんと変化してきていると感ずる。孫文の発想が共産主義的で、旧来の商業資本主義的な色彩の濃厚な「実力者」たち
「実務官僚」たちから危険視され、支持を得られなかった。孫文にこの国は任せられない
という「実権派」たち、「利益追求者」たちに追い落とされてしまった「理想家」だった、
というのが、最近の論調の一つである。これは毛沢東の理想主義にと繋がる系譜だが、過去30年の経済発展を支えてきた「実権派」は「個々人の利益追求」を原動力にしている点で、孫文や毛沢東、或いは太平天国の洪秀全あたりから始まる「耕者有田」の発想と、どこかでぶつかり合いながら、変化発展していると感ずる。

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京の小窓(続き)


11.雪舟の天の橋立
先月の台風23号で、天の橋立も大きな被害を受けた。砂洲の見事な枝の松が何百本も倒れてしまった。倒れてしまった松を見ていて、舞鶴から天の橋立に客を案内したときに読んだ雪舟の本を思い出した。
 室町時代に中国 明に渡り、南画の世界に遊んだ彼の絵は、中国人も驚くほどのエネルギーに満ちた水墨画だ。想像で描いたものも多いが、その原風景は彼が明に渡ったときに、自分の目に焼き付けたものだという。それがある時空を経て、彼の脳裏に湧き出してきて、具象化したのだ、と。
 事実は小説より奇なり、とは文章の世界。雪舟の絵は実風景よりも奇なり、というのが絵の世界。彼が晩年描いたといわれる「天橋立」を見た。解説の中に、この絵はどこから描いたのであろうか。実際にこういう角度から天橋立が描ける場所は無いという。それともう一つ、橋立の根元にある多宝塔がきちんと描かれていることだそうだ。本当にこれを見て描いたのなら、この多宝塔の建立時期からして、雪舟が高齢になってから天橋立を訪れて描いたものだ、との説。
 確かに彼の絵は、内海を隔てて橋の東側の高い山から見て描いたように思える。が、実際には遠景として橋立がそんな構図で見渡せる山はない。飛行機の無い時代、鳥の翼に乗って見たとしか思えない。
 私はこう思う。彼の時代でも、伊能忠敬ほどではなくとも、天橋立の地図を描いた人はいたであろう。初歩的な地図で、東に突き出た半島があり西に橋立が見える図だ。そんな地図を頭に刻んだ上で、今ケーブルで登る有名な観光地、傘松公園に上って、股覗きをする。そのひっくり返った絵を再度ひっくり返す。すると彼が描いたとおりの絵が浮かび上がるという寸法だ。
多宝塔のことは誰かから聞いたか、他の絵で見たものを描き加えたことも十分ありうる。ちょうど中国 明に渡って各地で見た風景を、他の絵の部分と合成して長い絵巻のような大作に描いた様に。
 芭蕉が出雲崎の荒海からは、見えもしないはずの天の川を、佐渡によこたえた句に仕立てたように。
12.聖護院の導師
診察を終えて待合室で薬を待っていた。どこかで会った事のある顔立ちの立派な紳士が入ってきた。はてどこで会ったか思い出せないまま、お辞儀をしたら、先方も不審な面持ちながら返礼した。その瞬間思い出した。
そうだ、数ヶ月前、さる神社で山伏による護摩法要の際、導師役を務めた人だ。額にお椀様のものをつけ、山伏の装束なのですぐには思い出せなかったが
ぎょろっ、とした大きな目、がっしりとした体型、悠然と構えた姿が印象に残っていた。
「失礼しました。先日法要の際に拝見していたものですから。」と自己紹介したら「ああそうですか」と応じてくれた。似たようなことが以前にもあったかのようだ。初めてあのような大掛かりな護摩法要を見て、たいへん感動した。
山伏が、狂言を演ずるかのように、結界を挟んで問答をすすめ、五色の矢を射たり、神剣で悪霊を追い払ったりした。その後導師の先導で、太い丸太を井桁に組み、山ほどに積み上げたヒノキの枝に火を放ち、次から次へと護摩の札を投げ入れる。青い葉の茂ったヒノキはめらめらと燃え、それに周りから山伏が水をかけると、白煙がもくもくと立ち上がり、2-30メートルも立ち上り、白龍が天に昇るかのようだ。
一瞬のうちにあの日の光景を思い出し、年に何回くらいあのような護摩法要を行うのか、と尋ねた。大規模なものは年に数回で、小さいのも入れると20回くらいだ、と。山伏たちは通常は自分の生業を持っていて、法要のあるときは滋賀や大阪からもやってきて、その場で山伏の衣装に着替え、一日勤めて、夕刻には俗界に戻るそうだ。荒縄で身を縛り,尻には獣の皮をつけ、大峰山などに入る時は何日も俗界には戻らぬそうだ。以前は日本全国に出かけたが、最近は近畿地方のみになってしまった。それぞれの地区に霊峰があり、おのおのがそこに入って修験を積む。聞けば聖護院におられるとのことで、時間があれば遊びに来てくださいという。数千名の人たちが、彼のような導師の下で、普段は娑婆で生産活動をし、休みをとって山伏となって山に分け入るのだそうだ。
そんな話しを聞いていたら、名前を呼ばれて「では、失礼します。はい」と相成った。
13.京の橋の下
パリの空の下 セーヌは流れる。というのは映画にもなりシャンソンの名曲も生んだ。アコーデオンのメロディに乗せて陽気に歌うスト決行中の労働者たち。それと同時進行で飼い猫のミルクのために数サンチームのお恵みをと、ミルク缶をもって一日中市内を歩く老婆の姿が映像の中に浮かんでは消える。
京の橋の下、鴨川はほんのせせらぎ程度にしか流れていないが、鯉や鮎が泳ぐ。それを狙う鷺たちと、それを見ながら数メートル間隔で語りあう恋人たちの姿。日曜の午後、河原を散歩しながら橋の下を過ぎるたびに、花見時に使われた青いビニールのテントが少しずつ増えていると感じる。隅田川や上野公園と同じ光景が、二条から五条あたりの橋の下に見られる。が、京のほうが風雅さにおいてやや勝っているようだ。少し早足で過ぎようとするが、どうしても道幅が狭くなっているので、彼らの生活ぶりが目に入ってしまう。
40代くらいにしか見えない女が、普通の服を着て七輪で夕食を準備中だ。
60代の男が、真剣に眺めているのは競馬新聞。30代の男が文庫本を片手に、悠然と缶ビールを飲んでいる。コタツの古い板を縁台の上に置いて、トランプをしている。
かつて橋の下にはぎっしりと小屋が川岸まで建てこんでいて、河岸を歩くことはできなかった。大阪万博の前後に、お上の命で一斉撤去されるまで、人々はそこをねぐらに、みすぎをしていた。いつなんどき官憲に追い出されるかと、不安におびえながらも、大勢が肩よせあって生きていた。今日では、都心の橋の下にねぐらを作れば、毎日の生活には事欠かないようだ。粗大ごみで払い下げにあったソファーに座りテレビを観ていたりする。悪びれるそぶりもなく、ごく自然に生活しているような印象を受けた。出雲の阿国たちの時代から今日まで、河原で暮らす人たちはたくましい。
14.観月橋の燕
八月の下旬、京都新聞で宇治川の下流の葦原につばめが2万羽以上集まってきて、天空がつばめの群れで黒くなるとの写真が出ていた。周辺から飛んできて、ここに数日いて集団で南に飛び立つというので、見に出かけた。観月橋というのはてっきり宇治の平等院の近くの橋だと錯覚していて、駅の交番に尋ねたら、ここは宇治橋だという。ではこの新聞の橋はどこかと写真を見せたら、ここの警官すらつばめのことはあまり知らないらしく、仲間を呼んできて、こりゃどこだろうという。
上空のつばめの群れとその向こうの山並みから、これは観月橋の下流に違いないとのことで、さっそく京阪電車を乗り継いでお目当ての葦原に向かった。まだ6時を少し回ったところだから、日暮れまでには充分間に合う。
浪曲、森の石松で有名な三十石舟がもやっている。橋を渡り近鉄の鉄橋をくぐり、それらしき葦原を探す。他の人が向かっていそうもないので心細い。だんだん暮れてくる。宇治川の左岸の土手を10分ほどゆくと、河原に野球場があり、芝生でサッカーしている親子がいた。下流には高圧線が何本も宇治川をまたいでいる。その向こうにやっと人だかりが見えてきたので、うれしくなった。犬を連れた女性や、子供とボール遊びを終えた父親が三々五々集まってきて燕の群れを指差していた。土手の左は水面と同じくらいの低地に住宅が建てられている。水害を防ぐために土手はたいへん高いところまで盛り上げられている。葦の河原も百メートル以上の幅である。
やっとお目当てのつばめの群れが暮れなずむ上空から、数千羽単位で旋回しながら、そのうちの数百羽が一気に急降下して、葦原の中に落ちてゆく。まるで大型爆撃機からつぎつぎに放たれた散弾の破片が飛び散るようである。燕たちは滋賀や奈良あたりで雛を育てあげ、夏の終わりに南国に飛び立つ基地として、この葦原に集まってくるのだそうだ。葦原に数泊し、ころあいよしとみるや、ある日突然、南に向かって一斉に飛び立つ。土手の穴にではなく、葦の茎に泊まって、旅立ちを待つ。
彼らのねぐらの周囲を見ると、上流は2系列の高圧線で仕切られ、野球場や芝生があって、人間が遊んでいる、そしてその上手に近鉄の鉄橋がある。下流側にも何本もの高圧線が宇治川をまたいでいて、対岸の土手は京阪が通り、高速道路に車が行き交う。
高い土手のこちら側は団地で人間がいっぱいである。燕たちは人間の作った遮断物で、四周を囲まれた葦原なら、大型の鳥や獣の害から襲われる心配は無い。ちょうど五月に家々の軒下に巣を作るように、電力会社の高圧線と鉄道が旅立つ燕のサンクチュアリーを作っているようだ。
15.京の人力車
ひょんなことから、野宮神社に行くことになった。6月、北野天満宮にでかけた折、参拝を済ませてバス停にいたとき、4名の女子中学生が私に近づいてきて、「野宮神社へ行くには何番のバスに乗ればいいですか」と尋ねて来た。のみや神社と発音されて、まったく見当がつかない。わら神社なら知っているけど、安産祈願だから女子中学生にはまだ早いし、などと考えていると、「嵯峨野の縁結びの神様」という補足説明で、それならバスより嵐電がいいと北野白梅町駅への道を教えた。
10月のはじめ台風一過の快晴の日曜に、嵯峨を歩いてみようと嵐電の駅に向かった。増水した保津川の流れが、渡月橋の橋げたすれすれに怒涛のように流れてゆく。川の両側の山々がなだらかな調和を見せて、さすが嵐山だと長い間、橋の欄干にもたれて眺めていた。それから周恩来の「雨中嵐山」の詩を見、保津川の治水をした角倉了以の像に参り、天竜寺の境内に出て、商店街の歩道を歩いてゆくと大勢の若者が並んでいる店があり、とても楽しそうにアイスクリームの買える番を待っている。
その店の向こうに竹やぶが見える。アイスを手に談笑しながら、皆そちらの方に向かう。私もつられてひとつ買って、彼女らのあとに続いた。後ろから人力車がついてくる。黒シャツ姿の若い車引きの、肩から二の腕は夏の日差しで黒光りに焼けている。丁寧な物言いで、「これからやぶに入りますから、ほろを下ろしますね」と一旦車を止めて、黒い幌を畳んだ。これから向かうところは、源氏物語で有名な六条御息所のなんとかと説明が聞こえてくる。関西弁風ではあるが、純粋の京都弁ではない。よそから京都に来て、仲間の学生や職場の先輩から関西弁を耳で学んで、観光客に流暢に説明している。話しぶりが面白いので車の後について竹やぶのうっそうと茂る小道を暫く行くと、「野宮神社」に着いた。ああここだったのか、6月の修学旅行の女生徒たちに道を聞かれたのは。私のように男一人でお参りしているのはいないが、中に入ってわが娘たちの良縁を祈った。
観光人力車は、話しの上手い若者たちの格好のアルバイトとして、京の名所旧跡にはなくてはならないものになっている。標準語でしゃべられると少し嫌味な気がするが、関西弁はしゃべくりな男の軽いのりの言葉として、吉本の漫才を通じて独特の地位を築き上げてきたようだ。
16.嵯峨野の金木犀
野宮神社を後にして、ぶらぶら歩いてゆくと、竹やぶの切れ目に踏み切りが現れた。ちょうど警報機がカンカンと鳴り出して、向こうから男が猛スピードで走ってくる。スリルを味わうように両手にペットボトルを抱えて、間一髪で遮断機をくぐりこちらにやってきた。と見る間に、嵯峨野線の列車が竹やぶをかすめるようにして通り過ぎていった。竹やぶを抜けると、一気に視界が開け、刈入れの終わった田んぼとその畦に咲くコスモスの花が、なんともいえないのどかな雰囲気で、とてもうれしくなる。
田んぼの中の道を何の目的もなく歩いてゆくと、とてもかぐわしい香りが漂ってきた。少し先の農家の生垣のなかに、大ぶりな金木犀がこんもりと茂り、山吹色の実のような花を、枝じゅうに咲かせている。秋ののどかな空気のなかを、幸せの香りを運んでくれる。このかぐわしい香りは秋ならこそだと思う。薫風とは春の風だろうが、秋のものでもあるとしみじみ思った。
 
秋風や 垣から香る 金木犀
ふだん市中の町家の密集したところに住んでいるので、田んぼの中の道を歩いた後に、生垣から香ってくる金木犀に涙が出るほど感謝したくなった。生垣のところまで来ると不思議なことに、鼻がなれてしまったのか、先ほどのような芳香は減じてしまった。
嵯峨野あたりは渡月橋から眺める保津川両岸の桜や、天竜寺とその周辺の寺の紅葉が余りにも有名で、観光ポスターや絵葉書の定番である。確かに、春の桜と晩秋から初冬にかけての紅葉は、全国各地から京都に人を呼び寄せる、最高の舞台装置であることは間違いない。金木犀というのは他にも結構たくさん植えられているし、絵葉書にもポスターにもなりにくい。だが、禅寺や名所旧跡を訪ねたあと、嵯峨野の、のどやかな農道を歩きながら、その折々の香りをかぐことができるのは、京都なればこそだと思った。
17.終焉の地
私の住まいの近くに、歴史上有名な人の碑がいくつかある。多くは彼らが生まれた場所、住んでいた所とかであるが、終焉の地という碑もある。道元や親鸞などは永平寺や本願寺で、弟子たちに看取られて冥土に旅たったと、勝手に思っていた。ちょうど涅槃の釈迦が大勢の信者に看取られたように。だが彼らの終焉の碑は、今日の下京の町中の建物の間やちいさな寺の前にある。
京都の町は木の家がびっしり建て込んでいて、応仁の乱や蛤御門の変などで過去何回も、全市が灰燼に帰したという。それでも先人たちが残しておいた石碑は残っていて、その後有志が建て直したりして引き継がれてきた。自分たちの町内の先人が、大変な恩恵を与えてくれた道元や親鸞の終焉を暖かく受け入れ、親身になってお世話をし、最後は終焉の時を迎えてしまったが、そのことを誇りに思い、後世に伝えてゆこうとする意志の表れである。
仏の教えを広め、大衆を救おうとして全国を巡った二人は、病に倒れ、京都の信者の家にやっかいになりながら、治療を受けたものか。現代のように病院があるわけでもなく、旅の途中で病で倒れたら、そこが終焉の地となってしまったのだろう。
鎌倉時代の日本人に大変な影響を与えた道元や親鸞たちが、病を得て余命いくばくもないというときに、彼らのお世話をして懸命に尽くす。そうすることにこの上ない喜びを感じ、彼らの最期の声を聞くことができた。それを後世に伝えて行きたい。碑を建てて、それを残す。お墓は誰かがどこかに建てるだろう。だが、ここで、自分たちの住んでいるこの場所で、息を引き取ったということを伝えてゆきたい。きっと二人の魂が自分たちの町を守ってくれるにちがいないから。
18.フレンチ リーブ
11月下旬,冷たい雨が降り、木々の葉が紅葉する。先週末の朝、ベランダに出てみたら、ちょうど目の高さにある、赤や黄色に染まった桜の葉が音もなく、はらはらと枝から離れていった。
4月の花びらが春風に舞う白雪ならば、11月の桜葉は秋風に立つ踊り子の髪飾りのようだ。
 覚えずシャンソンの名曲「枯葉」の一節を口ずさんでいた。
Falling Leaves ♪♪
Leafの複数形はLeaves。これは葉が枝から離れるからか、と変な妄想をしてしまった。辞書を繰ると、Leaveにはもともと古期英語の「留まらせる」意味から「去る、離れる、捨てるなどの意味で使われてきた。」とある。
もう一つの「許可」という意味から「休暇をもらう」「賜暇」が出てきた。
木の葉Leafは、秋、気温が急速に冷え込んで、根から養分の補給が途絶え、水の補給も絶たれ、葉脈のバルブが閉まって葉緑素ができなくなると、黄葉する。
そして枝からLeaveする準備を始める。

人の将に死なんとする、その言や良し。
木の葉の将に落ちんとする、その色や良し,と思う。

春から今まで自分を育ててくれた、木の幹や枝に「許可」を得て去る。
小枝たちを幹に「留めたままで」。
許可を得ているのだから、黙したままで去る。
挨拶はしない。

French Leaveという言葉がある。
18世紀のフランスで、客が主人に挨拶せずに辞去することを指すそうだ。
秋。
京都にはFrench Leaveする木の葉に挨拶しようと、
日本各地から多くの人々が、みずからやって来る。

日本語の「葉」も「離れる」の「は」と同じ音で始まる。
「花」も葉の変形したものだそうだが、これも咲き終わると、はらはらと
「離れる」のが良い。
(完)
 
 

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 4)二人の宰相

1.
 9月8日、今年の日中韓首脳会議が、10月8日に天津で開催の方向で、調整が進んでいるとの一報があった。昨年は麻生氏の関係で、福岡で開かれた。
今年は主催国の温家宝首相の故郷 天津で、ということだそうだ。
 2007年4月「氷を溶かす旅」として、両国の「友情と協力のために」日本を訪問した温家宝首相は、日本の国会で演説した。私自身もその演説が、彼の心の底から発していると感じて、感動を覚えたことである。
翌日に彼が記者団を前にして、「演説の後、すぐ(天津の)母親に電話をしたら、(90歳近い母が)“息子よ、本当にいい演説だったよ”と私を褒めてくれた。」と語っていたことが、強く印象に残っている。その時の彼の弾んだような中国語が、今も耳の奥から聞こえるようだ。
 どうして、彼は日本の国会での演説を終えたすぐ後に、母親に電話をいれたのであろうか、とちょっと不思議な気もしないではなかった。日本に出かける前に、母親に国会で話すことを、告げて来たのであろうか。彼と略同じ年齢の66歳に6度目の渡航で、殆ど失明の状態で、やっと日本にたどり着いた鑑真和尚のことを、演説の中で2回触れている。1942年天津で生まれた彼は、当時65歳で、母親は日中戦争が激しかったころの天津で、日本人とのいろいろな軋轢、風雪に耐えて、生きてきたのであろう。日本との戦争中に日本人が占領していた天津で、彼女はどのような生活をしてきたのであろうか、と想像してみた。
 2009年3月に、温家宝首相は、インターネットでの国民との対話の中で、
彼女のことに触れている。彼は子供のころ、母親から「どんなひとに対しても、自分の気持ちをこめて話すように。」と教えられてきたそうだ。
彼の母親は、教育関係の仕事に関係していたのであろうか。その母は、90年の風雪と滄桑の歴史を乗り越えて、自分を育ててきてくれたのだが、数日前に脳梗塞で倒れ、両目が失明に近い状態になってしまったと、ネットの庶民に語っていた。
2.
 私の手元に、9月7日付けの大連新商報の切抜きがある。片面では、新疆ウイグル自治区で、注射針事件を抑え切れなかった、同自治区トップの共産党書記の解任を求める漢族のデモに起因して、胡錦涛主席が、即刻、書記と公安のトップを更迭した、と伝えている。
 その隣に、総理就任以来、いちども欠かさずに「教師の日」の前には、学校を訪問し、教師たちとヒザを交えて懇談してきた温家宝首相が、9月4日に北京市の第三十五中学の2年五組の最後列で、40分単位の授業を5科目聴講し、ペンでノートを取っている写真と記事が掲載されている。
 見出しは「永遠に学生」、記事の概要は、彼はどんな多忙なときでも、「教師の日」の数日前には、フルに1日の時間を捻出して、学校訪問を欠かさず実行してきた。教師からいろいろな改善提案を聞き、それに対して彼の意見を丁寧に答えた、とある。その後の新聞発表として、「一国の将来は、教育を重視しているか否かにかかっている。教育を重視しない国に将来は無い。(中略)今年から(注;中国の新学期は9月から)全国各地の義務教育段階の教師の給与は、
その地区の公務員の水準を下回らないことを保障する。」と発言している。
 日本のテレビでもかつて紹介されたように、中国の地方、奥地の教師たちの生活は日本人の想像を絶するものがある。言語に表せないほどの貧困の中で、
本当にわずかな給与にもかかわらず、師範大学を卒業したばかりの教師たちが、
2年、3年という年限を区切って、奥地、農山村の子供たちを、一人で教えている。片道1時間、2時間かけて通ってくる子供たちに、昼食をも準備しながら、真心からでなければ決して勤まらないような環境にもめげずに、教えている。
 これまでは、彼ら彼女等の給与は同地区の公務員の水準から、ほど遠かったのであろう。それを今年から下回らない、と保障したのだ。
私は、そんな山奥の村に、自ら足を踏み入れたことはないが、広東省の田舎に出向いたとき、町の役所が、あたかもアメリカの議事堂を模したような、白亜の建物であったのに、そこからさほど離れていない場所の学校が、とても貧弱であったと、違和感を覚えたことがある。
 そんな役所に勤めている公務員たちも、毎月の給与はたかが知れている。しかし、給与外の収入が、その何倍にもなるのは、中国人なら誰でも知っている。山村の義務教育に従事する教師たちには、縁のないものである。友人にこのことを話したとき、彼の反応は「そりゃ田舎の教師は、誰もなり手がないんだが、北京や大連などの教師は、副業に堂々と、塾を開いては給与の何倍もの収入を得ているし、子弟たちの親から、入試にうまく成功したら、大変な謝礼をもらっているよ。だから、よけい田舎に赴任する教師が少なくなるんだ。」という。
3.
 温家宝首相の発言は更に続く。
「大学教授を尊重するのと同じように、中小学校の教師を尊重しなければならない」と。「この社会で、教育が一番大切だということを、大いに力をいれて宣伝し、(中略)この世の中で教師が最もひとびとの尊敬を受ける職業で、もっとも羨慕に値する職業にしなければならない。」と訴えている。
 私はこの発言の一部を、朝の散歩のときのラジオニュースで聞いて、感動したが、実際には残念ながら、そうでなくなりつつあるということを、認めざるを得ないのだ、という厳しい現実を認識しているのだということが、伝わってきて、づーん、ときた。
彼が小学生だったころ、彼の母親と同じような年齢の教師たちが、彼に対して、真剣に教えてくれたことを感謝し、それをかみしめながら、一字一句を発言していると思った。
 日本でも、オリンピックの開催された1964年ごろを境に、戦前からの教師は「聖職」という使命感を持って教壇に立っていた先生が、減少してゆき、「でもしか教師」という言葉が、登場しはじめた。中国も昨年のオリンピックを節目にして、日本が歩んだ道を歩むことになるのだろうか。
 大都市の教師の収入が高くなればなるほど、師範大学の卒業生は大都市に残りたがるようになり、田舎の学校には誰も行きたがらなくなるのは無理もない道理だ。温家宝首相の言うように、「ひとびとの尊敬を受ける教師になるよりは、人より高い収入を得るために大都市の教師になる、という流れは阻止できない。」それが、彼の心を苦しめているのだ。儒教2千数百年の伝統の中国で、‘師’となること、‘師’に対する尊敬の念は、世界の中でもっとも高い水準にあった国で、師となるよりも、より収入の高い職業に就かせるべく、世の親が血眼になっている。その結果、子供たちが、より有名な大学に入ることを最大の目標とし、学校の教師たちも、教え子たちの内の何名を有名大学に入学させたかを、教師の技量、成績として競っている。
4.
 今年の6月の大学入試で、大量の不正が発覚し、役人と教師たちによって点数が操作されたというのは、科挙の長い伝統をそのまま受け継いだものである。
「舞弊」という中国語がある。不正を働いてでも、目的を達するという意味で、魯迅の祖父ですら、なかなか科挙に合格できない息子のために、これをしたということで、牢に繋がれた。試験会場で、優秀な受験生の答案を横取りして、そのまま写すなどということが、横行している。
カンニングという言葉そのものの行為が、至るところで行われている。その最終目標は、役所に入り、官について、給与の何倍、何百倍もの収入を得るためという。その子供たちの背中を一生懸命に押しているのは、父親よりは母親が圧倒的に多いという。これは何も中国に限ったことではないが、昨今の新聞報道で、毎年数千人の収賄容疑者が、処刑されているが、少額の収賄は別として、大金、それも何千万、何億元というような金額の収賄犯の多くは、夫人とか家族の口利きによるものが、多いという。
 本人の物欲金銭欲はそれほどでなくとも、一定以上の高官に就任するやいなや、夫人のところへ、たいへんな贈り物が届く。将を得んとすれば、馬を射よ。である。送る側の狙いは正確無比である。必ず目的を達成する。
  小倉芳彦の「古代中国を読む」という本には、古代中国では、賄賂は、決して今日のような罪悪とは考えていなかった、とある。王と貴族の間の絆をしっかりとしたものにするためには、自分の身分や地位を保障してもらうために、最高級の玉の宝飾を、賄賂として王に贈るのが慣わしだったという。
 毒薬で殺されることになった男が、執行人に賄賂を贈って、その毒薬の濃度を薄めてもらって、毒殺から免れたという逸話を引いている。
 それがだんだん時代ともに変じて、今日では官位を引き上げてもらうため、あるいはより大きなビジネスを獲得するために、贈る様になったのだ。
5.
温首相は母親の薫陶を受けて、人に話をするときも、心をこめて話すように教育されてきた。その母親が、自分が日本の国会での演説を、天津の自宅で、同時中継テレビを通じて、聞いていてくれた。演説後すぐ電話したのは、「永遠に母親の子」であることを示している。なによりも真っ先に、彼女に電話して、どうだった、と感想を求め、「とてもよかった。いい話だったよ。」と褒めてもらって、翌日、記者たちに話さずにはおられないほど、うれしかったのであろう。高倉健の随筆「あなたに褒められたくて」の通り、彼は母に褒められたくて一生懸命、生きてきたのだ。
 彼は、素晴らしい母親に育てられて幸せであった。文化大革命中、甘粛省に長いこといて、離れてくらしていた。そんなつらい生活も、母親に褒められたくて、一心に金槌を握って、地質調査に励んだのであろう。
 現代の小中学生たちを見ていて、自分たちが親や教師たちから受けたものを今日の子供たちが、経済的にはすごく発展したのに、過去よりもよい環境で教育を受けることができていないということが、彼の心を痛めさせているのだろう。
私の会社から家までの間に、6階建ての大きなビルの中学校がある。5時半ごろ、仕事を終えて、その付近にちかづくと、3車線の道路のうち、2車線が、下校を待つ親や、関係者の出迎えの車で一杯になる。高学年になっても、親が車で迎えに来るというのは、一体ぜんたいどうしたことなのであろうか。
 中には、徒歩や自転車で帰る生徒もいるが、やはり進学校に入学させるために、遠方から通っているものが多いのであろう。日本のように電車が発達していなくて、通学には車しかないという面もあるが、中には高校生までも車の送迎が見られる。アウディとかベンツもあるし、殆どは新しい車だ。
6.
天津のコンプラドールその2を書いていて、気づいたことだが、広州近郊の例えば、仏山とか順徳あたりに科挙の進士をたくさん輩出した書院を見学したことがある。明の万歴のころ、状元となった黄士俊が建てたといわれる立派な書院で、清暉園という。もちろん広州市内にもそのモデルとなったような立派な書院がいくつかあるが、広州から車で1-2時間も離れたところにも、科挙に合格した人間が沢山いたとの説明書が展示されていた。
炎暑の広東でも、北方より多くの進士を出している。北方や西部地域は、武器を作る鉄の生産が盛んで、武力で統治するのに力を発揮してきた。一方、北部の人間が中央に攻め込んで、ドミノ倒しのように南方に追われてきた人たちは、広東に住みついた。中には客家とよばれ、体力的にも北方にかなわないので、一生懸命勉強することで頭角を現そうとした。文天祥などもそうだとされる。清末に活躍した梁啓超は客家かどうか知らないが、孫文たちは客家だといわれている。
閑話休題、科挙の制度が廃止されて、広東の多くの青少年たちは、役人になる希望は捨てて、英国人が開いた香港の英語学校に寄宿し、英語や近代的な西洋の学問を学んで、広東にもどり、ジャーディン社の総コンプラドールであった唐景星たちのような人たちに率いられて上海や天津のコンプラドールとなっていったケースが多いと感じたことである。広東香港は科挙廃止後のコンプラドールの養成所であった。前にも触れたが、唐氏は、後輩のために、ビジネス英漢辞典を編集し、上海に「格致書院」という学校まで作って、子弟の教育には大変熱心であった。
梁さんの父も教育にはとても熱心で、天津では屈指の金持ちなのに、広東幇の中では‘吝嗇でもナンバーワン’と言われていたが、妻妾との間にもうけた沢山のこどもたちにはみな最高の教育を受けさせていた。教育費は一切惜しまなかった。教育が、故郷を離れて働く広東人の最大の拠り所だと信じていたのだろう。
 7.
 そんなことを考えていたら、一人っ子政策の結果、車で送迎されて育った世代から、20年後の中国の将来を担うことのできる人間が育つであろうか、と心配になってきた。日本には、自国の学校には入学できず、外国の大学へ行って、英語は上手く話せるよというだけの政治家は何人かいるが、そんな人たちでは国難を乗り切ることは難しかろう、とも思った。
 9月7日、頼んでおいた本が届いた。人民出版社の「朱鎔基が記者の質問に答える」という表題で、1991年の副首相のころから、2002年に首相を退任するまでの12年間、内外のジャーナリストたちの質問に答えたものを編集した本だ。8月末に完成し、9月2日に発売された。
 457ページ、362千字で59元。この種の本としては、倍近い値段だが、初版は何部印刷されたのだろう。新聞に百万部は売れるだろうとの評があった。だが、朱鎔基氏本人の言葉は一切付け加えられていない。前書きも、何もいっさいない。彼自身はこの出版には何も関知しない。
 彼は首相退任後6年間、公の場から一切退いた。新聞記事から引用すると、
「彼は故郷の長沙に帰ることを拒絶し、従兄弟の書いた彼の伝記を読むことも拒絶し、中華詩詞協会の名誉主席就任への要請も拒絶した。」云々と続く。
 江沢民主席が、訪問先の求めに応じて、いろいろなところで、彼の名前を揮毫したものは、よく目にするが、朱氏のものはめったに見かけない。08年10月に山西省の平遥に出かけたとき、百年近く前の昔の役所の門に架けるための板看板に、地の人の求めに応じて揮毫したのを始めてみた。それも彼が首相を退いてから2002年に夫人と一緒に、平服で観光に訪れたときのものだ。
その役所の名は「平遥県衙」という。百年ほど前にここを訪問したフランス人ジャーナリストが撮った、ここで行われた当時の裁判と腐刑などまがまがしい処刑の写真を展示していた。
中国のウオール街と呼ばれて、票号という自家の手形を発行するなどして、金融で栄えたこの街でも、貪官汚吏が毎年のように悪事を働いた。だがここの役人は彼等を厳しく処罰したことをこの展示品はしっかりと説明していた。彼はこの役所の展示に心を動かされて、「平遥県衙」という4文字と自分の名を書くことに応じたのであろう。自分の後任者たちが、是非ここの人たちと同じように、貪官汚吏をきびしく取り締まってくれることを切望して。
8.
 今回の出版は、どのような背景から出てきたものであろうか。6年間、一切公の場で発言してこなかった彼のことを取り上げるのは、きっと何か訳があるに違いない。彼は一言もコメントしていないが、12年間の彼の言動は、とりもなおさず政治的なものである。
 芭蕉は「奥の細道」の手稿を何回も何回も白い紙を貼って書き直し、推敲に推敲を重ねて完成に近い状態になった。周囲の人たちが出版をと持ちかけたのを、きっぱり拒絶している。生前には公にしてくれるな、という意思表示であった。朱氏のこれまでの姿勢は、この芭蕉の心情を髣髴とさせる。弟子たちは、芭蕉の作品のすばらしい出来を、世の人に分かち与えたいと考えてもいただろうが、これによって名声を更に高めて、出版で収入を得ようとする輩もいたかもしれない。アメリカでは退任した大統領は、講演や回顧録を書いて余生のための収入を確保すると言う。
彼の伝記も、過去にも国外で沢山出版されて、好評を博してきた。しかし、彼は、そうした書物が中国で出版されるのを拒否してきた。
彼の記者への返答を読み進めてゆくうちに、私の心をぐさりと掴むことばにであった。 それは、2000年3月15日に行われた、第9次全人大の三次会議での記者会見のときであった。デンマークの記者が民主的な選挙の実施などの質問の最後に、「総理、貴方の任期は既に半ばを過ぎましたが、貴方が離任した後で、中国人民が貴方のどんな点を、もっとも記憶にとどめておいて欲しいと思いますか?」との問いに答えたものである。
 「残りの任期は残すところ3年もありませんが、(中略)私は人民の信任に背かぬように力を尽くして(後略)」という文章の後、「只 私が退任した後、全国の人民がこう一言、言ってくれることを望んでいます。“彼は一個の清官であった。貪官ではなかった。”それで私はたいへん満足します。もし彼等が更に気前良く、“朱鎔基はやはり実際に良いことをやってくれた、と言ってくれたなら、私は天に感謝し、地に感謝します。」と。
 これは、先に質問を受けていて、原稿を予め考えていたものであろう。ことばの流れとしては、その場の勢いで、原稿から少し脱線しているかもしれない。
 彼は在任中も、離任後も他の政治家の場合によく耳にするような、子弟とか夫人とかが、外資系の会社に云々とか、という噂を聞かなかった。離任後も別のポストに執着して、官から縁が切れることを心配しなかった。逆に自らもとめて、官、公から身を遠ざけた。官にしがみついてきた貪官汚吏の前人たちの末路を、いやというほど見てきた男の生きざまであろう。
9.
 その彼の後を襲ったのが、温家宝首相である。彼は母親の薫陶と、前任者の身の振り方を、しっかりと自分のものにし、その先輩の影を慕いながら、仕事に励んでいるように見受ける。こうした首相が2代続くというのは、改革開放後の中国にとって、なによりのめぐみであると思う。
温首相は、前にも少し触れたが、夫人が宝飾関係に大変関心が強く、自分でも事業を経営云々と言う話が、伝わってきた。それで首相就任後に、離縁したという噂である。本当かどうかは知らない。多くの中国人は真実を知っているようだが、口外しない。彼の外遊に、夫人同伴を見たことはない。本当なのだろうか。そうだとしたら、大変な勇気と決断をしたものだ。
英国のエリザベス女王一世は、生涯結婚しないのかと尋ねられて、「私は国と結婚していますから。」と答えた。温家宝首相が、前任者のように、首相の職務に専念するため、身の清さを保つために本当に離縁しているのなら、それは中国という国と結婚するためと言えるかもしれない。それだけの覚悟で望まないと、13億人もの人間を抱える中国の首相は務まらないのだろう。
朱首相は、別のところで、「農民の収入の向上を一番に考えている。」と述べている。温家宝首相は、2008年に「農民が喜んで小麦栽培に取り組めるように、小麦の買い上げ価格を引き揚げることを決定した。」と発表したときの
彼の表情は、真剣だが、とてもうれしそうであった。先輩の気持ちを引き継いで、そしてまた自分の気持ちをようやく実現できたことのうれしさだろう。
一昨年までは、小麦の値段が、低く抑えられていて、河南省の広大な面積の小麦畑は種も植えられず、農民が都市に出稼ぎに行ってしまった結果、荒れ果てていた。それが、08年の4月に河南省を訪れたとき、開封で乗ったタクシーの運転手からも、今年はやっとここの農民も小麦を植える気になってよかった、という話を聞いた。ほんのわずかな引き上げだったが、農民にとっては死活問題であったのだ。
中国の将来は、温家宝首相が語ったように、教育の問題と農村の農民の生活水準の引き上げにかかっている。
10.
 最近、建国60周年の式典準備のために、多くの軍人に混じって、北京の青少年たちが、深夜に動員されて、パレードの練習をしている姿が、放映されている。
あと1月で国慶節を迎えるこの時期に、人民出版社が6年間も公の場で何も発言してこなかった、彼のことばを印刷したのは、どんな経緯からであったのだろうか。
 このなぞは、もう暫くしたら分かるかもしれない。とうぶん分からないかもしれない。この本が百万部とか2百万部、飛ぶように売れたら、中国は健全な方向に向かっていると言えるだろう。
 首相という大任を力いっぱい勤め上げたら、あとは無官でいたい、と願うのが、本当の気持ちだろう。清官三代ということばがある。これは清の時代の役人を指すことばで、当時は清官といわれた人は殆どいなかったのだが、清官ですら、三代は何もしないで暮らしてゆけるだけの財産を残した、と言う意味だ。いわんや、清官でない貪官などは掃いて捨てるほどいて、彼等はその何十倍、何百倍もの財を蓄えたのだが、さらにその子弟たちを、自分の後継に据えて、さらに輪をかけた貪欲な役人となっていき、1911年の革命で終焉した。
 現代中国の官たちの中で、朱首相の望んだこと、離任の後に、全国の人民から、彼は貪官ではなかった、一個の清官だったと言ってもらえれば、たいへん満足します、ということばを、本当に自分の気持ちとして言えるのは何人くらいいるだろうか。
 大都市の学校には、山村の分校で子供を教えることに喜びを感じていた教師のように清らかな人は、もはや数えるほどしかいない。
(完)
 2009年9月10日 教師の日に、大連
 
 

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3)「天津のコンプラドール」


1.
二十数年ぶりに天津に出かけた。北京空港から高速で2時間。市の中心を流れる海河の畔のハイアットホテルに着き、夕食の時間まで、昔住んでいた頃の建物を探しながら歩いた。当時は、唐山大地震の後で、大通りの両側は、掘っ立て小屋がびっしりと並び、家を失った人々が、体を寄せ合うようにして、懸命に生きていた。今も鮮明に思い出すのだが、片道三車線の大通りの半分は、倒壊した建物のレンガや木材を再利用したバラックで埋め尽くされていた。もちろん歩道も同じ状態なので、歩く余地もなく、私は人々と同じように、車道の端を歩いた。そのうち、一軒の板壁に手書きで、「此屋有病人、請粛清」とあるのを見つけた。「病人がいるので、お静かに」というお願い。
 暑い夏の夕日がようやく沈む頃、人々は近くの露天市場で買ってきた野菜を、
道路端の七輪で煮炊きしていた。水はどこから手に入れるのだろうか。市政府は、郊外に建てた避難住宅に移るように公告しているのだが、多くの人は、
生活用水も無い路上のバラックから離れたがらない。郊外に出てしまうと、これまでの八百屋や肉屋からの食糧が入手できなくなる。郊外の臨時住宅には、ろくな食料品店が無い。それに仕事場からも遠くなって、通勤に不便だ。それらが、引っ越せない、やむにやまれぬ事情だという。
 図書館前の広場には、魯迅の像が残っていた。その像の台の辺りからロープを引いて、いく張りものテントの下で暮らしている人がいた。テント越しに
魯迅の顔を眺めながら、魯迅選集の中の一枚の写真を思い出していた。北京の師範学校の校庭だったか、大勢の学生達の中心に、椅子の上に立って上半身だけ見える形で、学生達に語りかける魯迅の姿を。
2.
 今では天津の町は、すっかり整理されたが、横丁の一角にはまだ当時の面影が残っている。しかしそのころ大いに繁昌していた露天市場は、あとかたもなくなっていた。渤海から採れたばかりの渡り蟹を売っていた屋台の魚屋たちは、どこかに引っ越してしまっていた。
 当時、事務所兼住居として住んでいた「友誼賓館」はすっかり模様替えされて、当時の事務所はサロンに変じていた。家族連れの外国人は珍しいということもあって、ホテルの従業員も親切にしてくれた。彼等と、仕事の合間に、いろいろおしゃべりした。こうしたホテルで働いていたものは、労働改造で精神をたたきなおさなければならない、として、安徽省の山村に送り込まれ、3年ほど「土とともに暮らした」と言う。
稲草も麦草も知らない、都会そだちの青年にとって、土にまみれて生きることは、とても耐えられないことであった。ホテル勤務のような、土と遠くかけ離れた生活をしてきた若者にとって、過酷な自然のなかでの暮らしは、筆舌に尽くせないことであった。が、人間は慣れればなんとか生きられるものだと悟った。「豚になっても生きよ」とは映画「芙蓉鎮」の中で、腐敗分子の濡れ衣を着せられて牢に繋がれることになった恋人に向かって、男の口から出た言葉だが、まさしく豚小屋に入れられも、豚になっても生き続けるのだ!との叫びであった。
 ひと月の給料は三元。これで歯ブラシや石鹸などを買うのが精一杯であった。
でも、自分はまだましだ。友達の多くは、黒龍江省や新疆ウイグル自治区などに送られて、家族からの連絡もそのうちに途絶えてしまい、帰るにも帰られない長い年月を過ごさねばならなくなった、という。
 その年の秋から年末にかけて、菊人形展も終わり、水上公園の放し飼いの丹頂鶴たちが、氷雪の上でダンスを踊り始める頃、「寒いね、寒いね」と言いながらも、子供を連れてパンダを見に出かけた。水上公園から帰って、食事を済ませて、部屋に戻ってテレビをつけてみると、逮捕された四人組の裁判の模様が公開放送されていた。つい数年前まで猛威をふるった四人組の時代は終わったのだ、と全国民に告げているのであった。大学の大きな階段教室のような大ホールが、この歴史的裁判の舞台であった。演壇の上には、裁判官が並ぶ。
被告席には、かの江青以下の四人組。そしてその後方の階段席には、大勢の傍聴人の姿。3人の被告はうなだれて,しょぼんとしているのに対し、江青は、背筋をぴんと伸ばし「私は国家のためを思って、誠心誠意、働いてきたのに、こんな仕打ちにあうのは断じて認めない。主席夫人が、こんな裁判などにかけられることがあってはならない。」などと叫び、壇上の裁判官を傲然と睨みつけていた。
3.
 そのテレビを見た翌日、一人の初老の男が、私の事務所の戸を叩いた。品のよさそうな、いかにも教育を受けたことのあるという感じであった。中肉中背で50代半ばころと見受けた。彼が言うには、先日テニスコートに日本人らしき私を見つけたので、受付の人にどこの誰かと聞いて、尋ねてきたのだとのこと。「戦前の天津鐘紡に友人がいて、同じテニス仲間であった私の会社の先輩ともテニスをした」という。「文化大革命で、すべての財産は没収され、姉と二人で生きてゆくだけの、ぎりぎりの狭い部屋に押し込められてきた。その姉も逝ってしまったので、ビザが取れしだい、香港にいる親戚を頼って移住する予定だ」という。「それまで良ければ、週末、彼の所属する「天津テニスクラブ」に遊びに来てくれ、友人たちを紹介するから」と言う。
戦前、イギリス人たちが「ブリティシュ クラブ」なるものを、世界各地の港湾都市に作っていた。香港やシンガポール、上海、横浜などにもその俤が残っている。天津にもそれほど規模は大きくないが、室内プールとテニスコートがその記念(かたみ)として残っていた。それで週末になると、そのコートに出かけて、初老の人たちとテニスをして仲良くなった。彼の仲間は戦前に始めた人たちで、外国人との接触も多く、「大公報」の記者をしていたとか、国際的な人たちが多かった。
 だいぶ親しくなったころ、彼は自分の生い立ちを語り始めた。「実は私の家は広東出身のコンプラドールで、百年ほど前に、天津に支店を出すというので、こちらに移ってきたものだ。私の会社とも取引があって、Shipping Invoice
名前があるのを見たことを覚えている。今は、昔の住まいの離れの一角に住んでいるが、一度食事に誘うから、家族3人で来てくれ」という。
妻に相談したら、子供がまだ小さいので、迷惑をかけるから、遠慮したいというので、私ひとりで出かけた。所番地をたよりに、タクシーで彼の家の近くまでたどりついた。
番地は広東路某番地余、と余の字がつく。「本体の番地は数家族用の住まいとして、人々の手に渡ってしまい、私の住んでいる離れは「余」を付けているのよ」と彼は笑って話した。離れといえども、家のレンガは普通のものの3倍くらい大きくて、たいそう頑丈なのが彼の自慢であった。万里の長城のレンガのような印象を受けたので、そう言うと、「これは清朝時代の天津の城壁を取り壊したときのレンガなのよ。それを貰い受けて造ったものさ」という。李鴻章や袁世凱が北京から汽車に乗って、天津駅頭に降り立つ映画で見たシーンが思い浮かんだ。義和団の乱や辛亥革命を見てきた城壁のレンガを触ってみた。暖かな手ざわりがした。「牢から開放された後、この離れに住んで、姉と一緒に暮らしてきたが、とうとうその姉もいなくなってしまったので、一人暮らしは耐えられそうも無い。だから香港のジャーディンマセソン社に親戚がいるので、それを頼りにビザを申請しているところさ」という。「四人組が逮捕され、この部屋に戻ってきた。まだいつ又何がおこるか心配だったが、私の会社のような外国の商社の支店ができて、家族も一緒に滞在できるようにまでなったのだから、もう二度と元に戻るようなことにはならないだろう」と自信に満ちた言葉で語った。
 そうした生活を半年ほど続けた後、私たちが帰国することになったというと、彼は泣き出さんばかりに悲しんだ。せっかく仲良くなれたのに、私たちが去ってしまうと、又ひとりぼっちになってしまうのだ。友情の記念にと、私たちの出発の前日、子供への土産と、お腹の大きく張り出した布袋さんのような弥勒仏の置物を抱えてきた。日本の住所を教えてくれというので、自宅の住所を書いて渡した。「香港に移住できたら、是非とも日本に遊びに行きたい」と別れを惜しんでくれた。その後、半年ほどして、彼からの手紙が届いた。香港への移住がかなって、昔の縁でジャーディン社の顧問として、生活の場を得て、若い頃やっていたShipping関係の仕事をみていると書いてきた。最後に、香港に来ることがあったら、是非連絡してくれと。
4.
 香港には広州交易会に参加するとき、立ち寄る機会があったが、空港からそのまま広州に直行という忙しいスケジュールの中で、彼のところに尋ねてゆく時間はなかった。暫くして私は北京に転勤となった。私は北京から彼宛に手紙を出したが、返事は返ってこなかった。体調でも崩して、会社を休んでいるのだろうか。或いは日本へは気軽に出せる手紙も、北京へとなると、万一昔のような理不尽なやり方が再発して、私に変な嫌疑がかかるかもしれないと心配して、手紙を書くのをためらったのかもしれない。当時は手紙が開封されることは常識だったから。
 それから暫く後、仕事の関係で、ジャーディン社の北京事務所があることを知った。ジャーディン社の中国における活動に興味が湧いてきた。いろいろな本を読んでゆくうち、キーワードは茶とアヘンだと分かってきた。
 今でこそ、アヘンは禁止され、商取引の対象にはなっていないが、ジャーディン社が香港、広東で活躍していたころは、れっきとした貿易品目として扱われていた。大航海時代以来、冒険者たちの最大の目的は、一儲けして財産をなすことであった。だが、誰しもが簡単にひと財産を残せるほど、容易ではなかった。
ヴァスコダガマのように大量の胡椒を無事ヨーロッパまで持ち帰ることができれば、莫大な稼ぎとなった。胡椒の次に茶が登場する。新茶を一番早くヨーロッパに持ち帰れば、その帆船は英雄扱いされた。南中国からイギリスの港まで、何日で着けるか、航海日数の短縮競争が起こった。Tea Clipperとして有名なカティサークの出番であった。その茶の代金の支払いに大量の銀が中国に払われたが、中国がイギリスから買うものは何も無い。21世紀の今日の、米ドルが一方的に中国の外貨保有高を押し上げるだけで、中国は米国から買うものは、あまりないのと似ている。そこで、イギリスはその銀を取り戻すため、インドで栽培したアヘンを売り込んだ。ジャーディン社関係の本の中に、アヘン取引での収益が最大であった、という記述を見て、愕然とした。
 吸引者を廃人にしてしまうアヘンで、財をなしたというのは許せないと感じた。それまでの印象では、アヘンは広東など南方中心で、北方は比較的その害に毒されていないと錯覚していた。実は中国全土に広まっていて、遥か遼東半島の金州あたりまでアヘン窟がいっぱいでき、中毒患者が増え、全中国を蝕んだ。金州の博物館に、長いキセルを手に、ほとんど死んだような目をした常習者の写真が何枚も展示されている。
 今日から見れば、唾棄すべきアヘン貿易も、ジャーディンとパートナーのマセソンたちの議会への働きかけで、イギリス政府のお墨付きの下に、堂々と営まれてきた。
 それが、林則徐により禁止され焼却されたため、アヘンを没収されたジャーディン社を含む貿易商たちは、その賠償を求めて、本国政府を説得して、大艦隊を中国に遠征せしめた。英国議会でも賛否両論、激しい論戦となった。当時は、ごろつきたちと見下されていたアヘン貿易商の賠償のために、栄光の帝国艦隊を極東にまで派遣すべきではない。非人道的なアヘン貿易のためなどとは、言語道断だと、良識ある議会人は反対した。しかし、マンチェスターの産業界の支持を得て、自らも議員となっていたマセソンなどの活動により、さらには英女王の取り巻き立ちの、清との貿易から得られる莫大な利益のためにという貪欲さが合致した結果、艦隊派遣となった。イラク戦争が石油のための戦争といわれる如く、この戦争はアヘン戦争と呼ばれ、大英帝国に不名誉な名を残す戦争となった。この戦争の引き金を引く中核的な役割を担ったのが、ジャーディン社と知ったときは本当に驚いた。
 当時、英国は中国からの茶に高額の関税を課して、財政をまかなっていた。その茶の代金として銀の代わりに、アヘンを使ったのだが、もし英国が財政的に、茶に関税など課す必要がないほど余裕があって、なお且つ貪欲でなく、そしてもし、植民地アメリカに対しても茶税などを課すようなことをしなければ、
例の有名なボストン茶会事件は起こらなかったであろう。そしてアメリカ独立戦争はもう少し遅くなったであろう。茶という嗜好品をめぐって、アメリカが独立し、アヘン戦争が起こった。
5.
 当時のイギリスはアメリカ産の綿花を原料に、マンチェスターで綿織物としてインドに輸出した。その結果インドの土着綿業を破壊してしまったほどだ。その一方で中国産の茶を大量に仕入れたイギリスは、その見返りとして織物などの売り込みを試みたが、うまくゆかなかった。
「地大物博」と豪語していた清は、外国が求めてきた物品を分け与えてやるという態度で、その支払いには金銀銅などの貴金属貨幣を要求した。イギリスも茶の代金として大量の銀を払い続けた結果、巨大な貿易赤字を抱えてしまった。何らかの手段でこの穴埋めをしなければならない。片貿易は必ず破綻する。
一方だけが、金銀などを貯め込むと、貿易摩擦が生じ、挙句の果ては戦争になる。片貿易が起こったら、双方が真剣に協議を重ね、解決策を見出さないと大変なことになる。これが平等互恵のルールである。しかし今から170年ほど前には、そんな智恵は働かず、武力に訴えることとなってしまった。朝貢貿易しか認めない清国に対して、英国は物乞いのような取引は屈辱的だとし、貴重な銀の大量流出に耐えられなくなった。そこで、一攫千金を狙って、極東にまで出張っていた冒険的商会のボスたちにインド産のアヘンを渡し、これを清に売り込んで、それまで払い続けてきた銀を取り戻そうとした。その商会のボスたちの頭目的存在がジャーディンであった。
 アングロサクソン魂というのは、おそろしいほどの私欲の発露たる商魂の塊である。イラク戦争、パレスチナ紛争など、その源をたどれば、このアングロサクソンの私欲に発している。貪欲な商魂のすさまじき発露である。富や資源を求めて、あらゆる手段を駆使して、その目的を達成するのが、ゲームのように楽しく感ずるのであろうか。先の大戦でも、ユダヤ人を虐殺したことを大きく報道し、ユダヤ人の支持とその富を取り込むために、アラビア半島の土地を、
パレスチナ人からユダヤ人に分け与えるという約束をして、ドイツを屠った。
日本軍の頑固な抵抗で、さらに多くの米国兵が犠牲になるのを防ぐため、サハリン、千島などを分け与える約束で、ソ連に対日攻撃を承諾させた。
6.
 数年前、中国に返還後の香港を訪れた。返還直前にも訪れたのだが、その時、現地の人から聞いた話が、実によくこの魂を表していると思う。アヘン戦争後、植民地にしてから160年の間に蓄えた膨大な財産がある。これをそのまま中国に渡してなるものかと、空港や鉄道、橋梁など次々と巨大な土木工事を行い、それらの元請をすべて英国系の会社に発注した。香港政庁の金庫が、空になるまで使い切った。その上前は、いうまでもなく、イギリス政府に戻ってくる仕掛けだ。
 今回、返還から数年経って、落ち着いてきた香港島の中国銀行のビルを眺めながら、公園を散歩していたら、その一角に「茶の博物館」という案内板が目にとまった。古い格式ある建物を利用したもので、入場券をと尋ねたら、無料ですとの答え。二階には、数百年前に中国各地で作られた、素晴らしい姿形の骨董の茶器が展示されていた。説明書によると、かつて英国人総督の邸宅を、茶の博物館として公開し、香港の好事家たちが蒐集した茶器を一堂に集めたそうだ。アヘン戦争の結果、割譲させられた香港が祖国に戻ってきた。アヘン戦争といわれるが、その底は茶のための戦争でもあった。現代の香港の繁栄は、元をただせば、茶によって始まったといえる。茶の取引が始まり、銀が払われ、それが底をついて、アヘンで代替されて起こった戦争。その戦利品としてイギリスに割譲された香港。最後の総督パッテンが英海軍基地から乗船して香港を去って行ったとき、いかほどの財を持ち出したかは知らない。しかし、その邸宅は持ち出せなかった。それを茶の博物館にしたとは、なんと面白い意趣返しかと、感心した。
7.
天津にも上海と同様、列強が競って作った租界の跡がある。フランス人は、モントリオールに見るような、美しい塔の印象的なカトリック教会を建てた。唐山地震にも倒れず、冬の夕暮れには美しいシルエットで、仕事に疲れた私を慰めてくれた。
イギリス人は、ホテルや競馬場、そしてブリティシュ クラブという娯楽場を造った。戦後数十年経ても、そうした歴史的建物は壊されずに残っている。面白い対照である。英仏が競って植民したカナダの諸都市を始め、上海や天津など、両国人の残したものは、永い年月を経てその民族性を示してくれる。フランス人の住んでいた町には、カトリック教会の尖塔が聳え、イギリス人の方は、酒を飲みながらカードやビリヤードで遊ぶクラブや競馬場、そしてゴルフ場さえも残している。そんなことを感じながら、夕食に間に合うようにホテルに戻った。約束の時間までまだ20分ほどあったので、ロビーの売店を冷やかしていた。ひさかたの天津なので、なにか記念になるような土産はと探していると、「近代天津十大買弁」という本が平積みされていた。買弁とは確か二十数年前、彼から身の上話を聞いたときの「コンプラドール」のことだったなと、
思い至った。表紙の丸囲いの写真の右には、梁炎卿とある。ひょっとして、ひょっとすると、この写真の主は、私の知っている梁さんの祖父か父親ではないかと直感した。顔のつくりというか、輪郭のかもし出す雰囲気が似ている。白い美髯を蓄え、ふっくらとした頬の横に長い耳をもち、清朝時代の肖像画に良く描かれている、典型的な広東商人のイメージだ。アヘン戦争の映画に登場する、広東十三行の頭目たちの風貌である。早速買い求めて中をめくってみた。
しかし約束の時間が迫ってきたので、それを部屋に置きに帰った。
8.
 天津の人たちとの会食は、海河の畔の「飲茶」の店で、好みの点心を肴に
紹興酒をごちそうになった。私が唐山地震の後の復興の時期に、この街に住んでいたという話題になった。彼等もそのころの生活を思い出してか、今日では想像すらできないほど、人々の暮らしの大変だったことが語られた。天津から秦皇島に向かう鉄道の線路際には、途切れることなく、地震でなくなった人々の土饅頭が並んでいた。「十何万もの人が犠牲になったので、こうするほかには葬送の手段が無かった」という。
 最近ようやく、トヨタなど世界的な大企業が進出してきて、天津の市内も活況を呈してきた。上海のような派手さはないが、着実に製造業が基盤を固めつつある。そんな話をして、友誼を確かめ合い、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、早速先ほどの本を読み始めた。読みすすめてゆくうち、表紙の写真は、私の梁さんの父親だと分かった。「1872年、20歳のとき先輩の唐景星に随って、上海のジャーディンの練習生となり、その後天津に転勤、1938年に亡くなるまで、60年以上の長きにわたり、ジャーディンの買弁として活動した」とある。
 その本に依れば、ジャーディンは1840年代のアヘン戦争前後に、大変な財をなし、今日の大銀行、香港上海銀行の設立にも、中核的な役割を果たした、英国の商社である。今でも香港を中心に世界各地で活躍している。梁さんの父は、そのジャーディン社に手腕を買われて、同社天津支店の買弁として活躍した。堪能な英語を駆使し、大変な商才を発揮した。その結果、ジャーディン社の買弁の総元締め、House Compradorとなった。義和団事件のあった1900年を挟み、第一次世界大戦前後には、梁さんの父は、英国資本と清朝の官民企業との間の仲介者として、大活躍した。当時の商取引はほとんど「つけ」で行われた。端午の節句、夏の中元、大晦日の3回に勘定を払った。
江戸時代の日本でもそうであったように、侍や商人は年に2回、或いは3回しか代金を払わないのが、東方の習慣であった。しかし、英国商社のジャーディンは毎月決済を主張して譲らない。そこで買弁たちは、その間に介在して、
清国商人たちの不払いリスクの見返りとして、高率の口銭を取って収益を拡大した、などと記されている。
9.
 この本の著者、劉海岩氏は買弁たちが、どのようにして莫大な利益をあげたかを、詳細に記している。値上がりしそうな商品は、市場の動向をよく見極めながら、大量に買い出動する。土地や建物も将来の値上がりを見込んで、優良物件を片端から買いに出る。古来、中国の商人は、手にした金で、産業を興すというよりは、商品や土地建物を仕入れて、その売買で稼ぐという方面で、商才を発揮してきた伝統がある。21世紀の今日でも、商才に長けた人たちは、額に汗して、ものづくりに励むよりも、その方がスマートで格好良いし、手っ取り早いと考えている節が見られる。
 劉氏は、これもあれもなんでもやった、と言う具合に買弁たちの手口を記述する。船荷証券の数量と、税関用の書類の数量を自分の都合の良いように書き換えるのは、朝飯前。運賃請求用の重量も、単位が替わるごとに数字を変換して、利ざやを稼ぐ。12進法と中国の旧式の重量単位との変換で、当時の算盤は、買弁たちの手元に、お金が沢山残るような仕組みになっていたと記す。
 買弁としての梁家のことを非難しつつも、筆者は梁家が、第一次大戦中は、中国の商品を大量に輸出して祖国に富をもたらしたと記す。その過程で、大いに資本を蓄積し、土地建物に投資して、大変な財を成したとする。どうしてこんなに莫大な財産を築けたか。「彼は生涯、ジャーディンというイギリス商社のために忠実に働き、勤勉倹約に努め、投資するときも、リスクを排除し、無謀な投資は一切せず、ただひたすら蓄財に励んだからだ」と著者は言う。
 時勢に会った良きパートナーに恵まれたということ。それはジャーディンにとっても同じで、外国に出向いて、成功するか否かの鍵は、現地のパートナーの良し悪しにかかっているとは、よく言われることだ。
 ほかの買弁のように、官と結託して政商として活動したり、官位を買うなどということをしなかった。戦争で負けることの無かった英国商社の代理人となったことも、成功の基盤であった。
 日本にも明治維新後、たくさんの外国商館ができ、今日でも長崎、神戸、横浜などに多くの建物が残っている。しかし、殆どが小規模なままで、その後、民族系商社に敗れて、多くは消滅してしまった。日本でも、外国商館のために働く買弁は多くいた。しかし、明治政府の富国強兵政策のもと、自前の商社、石炭鉱山の開発、商船会社などを興し、外国商館を駆逐した。そうした外国商館も、商売規模の小さい日本を見限って、清国の上海、天津などに移っていった。日本に上海や天津のような欧米人が、勝手に振舞える租界が無かったことも幸いした。
10.
 梁家と比較の意味で、この本にあるドイツ商社の買弁であった、王銘に触れてみる。梁氏と同時代に活躍した王氏は、北京の官界に入り込み、政商として一世を風靡した。しかし、ドイツの敗北によって破綻してしまう。時の実力者、李鴻章が天津で洋務を弁じるとして、軍需産業を興したとき、ドイツ泰来商会の買弁として、李に取り入って、魚雷艇や銃砲を買い付け、その後の北洋海軍の基礎を築いた。今もアモイの要塞跡に一門残っている、世界最長の砲身を持つクルップの大砲を買い付けた。イギリスの軍艦を仮想的としている以上、その防御のために、イギリスから大砲を買うわけにはゆかない。中国の古い物語にあるように、「汝の矛で、その盾を破ってみよ」である。イギリスが、清国に自国の艦艇を撃沈できるような大砲を売ってくれるはずがない。ちなみに、日本の明治の大砲といわれるものは、英国のアームストロング社のもので、日本製鋼所が技術導入して、自前で製造できるまでにした。
 明治の初期に、不平等条約改定の前交渉のために、欧米各国を回覧した岩倉具視たちの記録「米欧回覧実記」には、彼等が訪問先でいかに歓待を受けたかが実によく描けている。彼等は訪問先で、立派な装束で歓迎式に臨み、旅行費用は日本から持参した小粒の金できちっと払っている。受け入れ先の企業は、
蒸気機関車や大砲、軍艦など、明治日本が米欧などから大量に買い付けた実績と将来きっと上得意になると期待されたのであろう。しかも金払いがしっかりしていた。このあたりが、武士の魂がまだ健全であった日本の救いであった。野蛮な土地からきたと聞かされてきた割には、服装も整っており、眼光も鋭いものがある、と米国の新聞は報じている。
 さて、話を李鴻章に戻す。クルップの工場で大砲の操作を習得中の清国兵の
研修風景を視察している彼の写真が、最近クルップの書庫で見つかり、きれいに表装されて、アモイの大砲の説明書の横に展示されている。ロシアのニコライ二世の戴冠式に、彼でなければならないと、ロシア側から逆指名され、老体に鞭打つ形で、ペテルブルグ入りした李鴻章は、その後ドイツ各地の武器工廠を視察した。ドイツのメーカーにとっては将来有望な重要顧客として、下にも置かぬ大歓待をしたことであろう。李鴻章はロシア、ドイツなどを訪問して帰国したのだが、このとき、ロシアと密約を交わし、満州鉄道の敷設権を与えたりして、相当額のルーブルを得たと非難を浴びていたので、クルップとしても、せっかく撮影した写真を送るのを躊躇したのであろうか。それが、最近のフォルクスワーゲンの事業や、上海のリニアカーなどのプロジェクトなどが沢山実現して、ドイツと中国の関係が好転しており、李鴻章に対する評価も、残照の清国の最後の宰相として、愛国者でもあったとの評価も出てきており、アモイの要塞に格好の記念物として古証文の写真が、書庫から取り出されて、日の目を見たのであろう。
 余談だが、先年中国のテレビで放映された「共和への道」という連続ドラマで、日清戦争の黄海会戦で敗れるべくして敗れた清国海軍の、悲惨且つとんでもない挿話が紹介されている。皇帝の観閲式に、欧州から買い付けた最新鋭の軍艦から放った砲弾が、的として沖に浮かべた老朽船にいっかな命中しない。あろうことか、このことあるのを恐れていた海軍司令官は、老船に忍び込ませておいた水兵に自爆を命じた。なんとも言いようの無い惨状である。このドラマでは、明治天皇が国民とひもじさを共有せんと、広島の本営で、昼食は硬い握り飯一個で済ませているのに対比して、紫禁城では連日、贅沢な満漢全席を
供させて、箸も付けずに浪費している西太后や皇帝らを映し出している。
 李鴻章にとっては、そんな皇帝であっても忠義を尽くそうとしている。その忠義を果たすためには、軍隊が必要であり、莫大な金が必要であることは何時の時代も同じである。王は、李鴻章の腹心、財布係として資金調達で大変重要な役を果たした。
11.
 その李鴻章のことである。日清戦争の講和交渉に、これもそんな役割など誰も引き受け手がないので、請われてやむなく全権代表として下関に向かった。春帆楼での講和談判の卓に並んだ人物の絵でみると、辮髪を蓄えた李は、大変な寒がりとみえて、彼の隣には火鉢が置いてある。
 2億テールという賠償金の交渉に当たっても、最後の最後になっても、帰国の路銀の足しにいささかでもまけてくれぬかと、伊藤博文に頼んでいる。演出者のシナリオの行間には、それをも彼は私せんとしているような印象を残す。
 台湾や遼東半島まで割譲させられて、帰国後は売国奴として国民から一斉に非難を浴びた。しかし、その後自ら独仏露三国に働きかけて、清朝の故地である遼東半島を取り戻すことに成功した。この時、英国は日本が清朝に外国企業が清国内で工業を興すことができることを認めさせ、自動的に英国がその特恵を享受できるようになったことなどから、日本を重宝し始めていたので、三国干渉には加わらなかった。
 日本の歴史教科書のこの辺の記述は、日本はせっかく手に入れた遼東半島を、
三国干渉により、ロシアに奪われた。憎きロシア! いつの日か,仇を討たんと臥薪嘗胆を唱えた。これが10年後の日露戦争への導火線となるのだ。
 清にとっては、台湾くらいまでは耐えられるが、満州族の故地まで、弟のような存在にすぎなかった小国日本に取られるのは、大変な屈辱であった。この辺の認識が、当時の日本人は理解できていなかったのであろう。爪を伸ばしすぎたとも言えよう。
 日本から取り戻した遼東も、不凍港の欲しいロシアにすぐ租借させている。これは、「夷を持って夷を制す」という李鴻章の思惑から出ている。下関での屈辱を晴らすには、ロシアをして日本に当たらせるのが一番良いと考えた。日本とロシアは早晩、矛を交えることになったであろうが、その触媒役をつとめたのが、李鴻章であった。その李とロシアの間で、実務的なことがらを取り持ったのが、買弁であった。ロシアの方も、日清戦争後、李との接触を強めた。1896年には、清とロシアの政府間の合弁銀行「道勝銀行」を設立し、天津に支店を開いた。外資系銀行として始めて紙幣発行や、塩税、国税などの徴収を認可され、その見返りに、清の親王たちや高官たちの便宜をはかり、清朝御用達銀行として、莫大な資金を運用している。そこに預けた財産保全の為に、李鴻章は腹心の王銘槐を、この銀行の買弁として送り込んでいるのだ。
 李の評価は、最近はいささか修正され、彼の伝記なども、何冊かの本が出版されている。かつての国賊扱いから、西洋列強から祖国を守ろうとして、倒れかけていた清朝をなんとか支えんとして、心血を注いで、苦心した人物として描かれることもでてきた。それは相対的なものではあるが、それまでの腐敗しきった官僚たちに比べれば、の話ではある。国防のために、軍需工場を造り、艦隊を建造し、軍隊を整えたというに過ぎない。それまでイギリスから買っていた武器を、ドイツに切り替えた。背景には支払った代金の一部を還流させる目的もあった。後発のドイツメーカーの方が、そうした方面に融通がきいた。そうした目論見から、買弁を使って、大量の兵器を買い付ける。買弁から還流させた資金は、自分の子飼いの軍隊の軍資金として自在に使える。王はこうした役割をつとめ、当時最大の政商に登りつめた。そして破綻する。まるでつい最近の守屋事務次官と山田洋行の宮崎某の関係のようである。
スケールの大きさで言えば、象と蟻ほど、月とスッポンほどの差があるが。
ちなみに、上海事変で、蒋介石の国民党軍はドイツ製の精鋭な武器で日本軍と対峙した。この英国製ではなくドイツのという伝統は李鴻章以来のものといえよう。
12.
 梁さんは、父炎卿と妻妾4人との間に生まれた15人の内の末子らしい。父親は倹約家で、周囲からは「吝嗇(けち)」と、仇名されていた。口癖は「一銭、
一銭貯めることが、金持ちになる道」であった。一方、子弟の教育費は、惜しまなかった。他の南方系中国人と同じく、彼の家系も多産系で、且つ長期に亘って子をなした。
 余談だが、私がシンガポールの南洋大学にいたころ、下宿していた張さん一家は、やはり広東出身で、祖父の代にインド洋のセーシェルに渡り、そこで育った彼は、勉学のために親戚を頼ってシンガポールにやって来た。そこで本屋の見習いをした。その後、一般書の販売から、教科書の販売まで扱うようになり、戦後は印刷も始めた。9人の子供を育て、炊事洗濯に二人の使用人を使い、子供たちは2人一部屋とか3人一部屋で生活させ、離れの2部屋を外国人に貸していた。私たちの前にはインドネシアから来た学生に貸していた。これは、自らがセーシェルから勉学にきた時の経験から来ているものであった。又、子供たちに外国人との交流に慣れさせようとするものでもあったろう。
母屋の食堂には、8人掛けの円卓があり、私も週末などに呼ばれては、親戚やその配偶者などと一緒に家庭料理を食べさせてもらった。高菜と豚の角煮、白菜と蝦の炒めたのなど、素朴なおかずでご飯を御代わりした。8人が食べ終わると、次の8人が座る。食べ終わった人が私を誘って、彼らの部屋でおしゃべりし、カードなどで遊んだ。2段ベッドの部屋で、お金は一杯あるのに、子供の教育は自分が育ってきた多産系の南方人のやり方で、集団で生活させて、お互いの生活の智恵を伝授し、共有させていたのだと今になって感心している。
 長男が結婚するというので、私たちに貸していた離れを新婚用に改装することになった。それで、母家の一部屋を空けるので、そこに住んでくれという。それで残る半年ほどを、中学生の子供たちと隣室になった。夕食前に、サッカーゴールにシュートとか、バドミントンなどして仲良くなった。
 清明節に、張氏の会館で先祖を祭る儀式に誘われた。生贄の山羊が丸ごと供えられ、海外に住む華僑たちの風習をよく見ていってくれと、礼拝の仕方などを教わった。
 大家族の伝統であろう。子供の頃は一つの部屋で、けんかしながら暮らしてこそ、成人してからも兄弟の絆を忘れないのだ。小遣いは一切与えず、質素に暮らさせる。大人になったら親の仕事を受け継いで、事業を大きくする。これが海外に出た華人たちの成功の礎である。広東から天津にやってきた梁さん一家にも、同じ伝統が脈打っている。
13.
 さて、私の梁さんには1878年生まれの長兄がいた。コーネル大学とマサチュセッツ農科大学に学び、1912年、民国初期の唐紹儀内閣のときに、農務次官を務めた。が、唐内閣の退陣により天津に戻り、父の後を継いだ。彼は農場を買って経営しようとしたが、それにも失敗した、云々と記述の後、突然、梁文奎の文字が目に飛び込んできた。「ややや、これはまさしく彼のことではないか。」
 長男は1930年代、頻繁に起こった身代金目的の誘拐事件の犠牲となった。身代金は払ったのだが、当人は死体となって送り返されてきた。それで次男が継いだ。しかし彼も父親のような商才はなく、梁家の前途にかげりが出てきた。
 実質的には、父親の亡くなった1938年に19世紀以来の古いコンプラドールの時代は終わった。その後、戦争で日本の占領が全てを変えてしまった。
 1945年に日本が敗れると、ジャーディンも戻ってきた。彼等が新しいコンプラドールに任じたのが、私の知っている梁さんなのだ。父親が生前、ジャーディンの幹部に、自分が死んだら、彼を後継にしてくれと頼んだのだそうだ。戦後すぐ、学校を卒業したばかりの彼が、四代目の買弁となった。この頃は、戦前のような仕組みはなくなり、代払いなどもなくなって収益は減ったが、高額な給与制となり、彼は1952年にジャーディンが天津から撤退するまで、
船舶部遠洋航海部門の経理を兼任した。
 その後は、前に書いたとおり、政治運動の荒波に巻き込まれ、離れの一角に
軟禁状態のような形で、お姉さんと暮らしてきた。四人組が逮捕され、冤罪で牢に繋がれていた人たちが、名誉を回復し、彼の軟禁も解かれた。新中国になってから30年。さまざまな荒波が何回も彼を飲み込み、海の底へひきずりこまれてしまった。片時も離れずに暮らしてきた姉が亡くなってしまったので、親類のいる南方に戻ろうと決意したという。アヘン戦争から始まった西洋の衝撃を、コンプラドール、買弁という役割を演じながら、受け止めてきた梁さんの一族の物語を知ったことで、それまで歴史の教科書でしかしらなかった、アヘン戦争以後の中国近代史が、身近なものとして私の心に重く残った。
   (2008320日) 
 
 
 
 

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阿Q正伝 2

第六章 中興から末路へ
 未荘に阿Qが戻ってきたのは、丁度この年の仲秋を過ぎたころで、人々は大変びっくりして、阿Qが帰って来たぞ。どこへ行っていたのだ、と噂した。以前何回か城内に行ったときは、帰るとすぐ得意げに吹聴したものだが、今回はそれをしない。それで誰も気に留めなかった。祠を管理している爺さんには、話して行っただろうが、未荘では、趙旦那、銭旦那、秀才の長男が城内に行くとき以外、ニュースにならなかった。二セ毛唐すら数に入らなかったから、況や阿Qをや。爺さんも彼のことをニュースにしなかったから、未荘の社会では知る由も無かった。
 今回阿Qが戻ってきたが、以前とは様変わりで、確かに一驚に値した。夕闇迫るころ、眠たそうな目で、酒店に現れ、カウンターに身を預けて、隠しから出した手には、銀貨と銅銭をいっぱい握って、カウンターに放り投げ、「ほれ現金だ、酒をくれ!」着物も新品の袷で、腰には大きな腰巾着をつけている。ずっしりと重そうで、帯がその重みでだらりと垂れている。未荘の例として人目を引く人物に会ったら、ぞんざいな態度を取るより、敬意を表しておくのだが、今、明らかに目の前にいるのは、阿Qなのだが、ボロの袷をまとっていた阿Qとは別人のようである。
古人曰く「士は三日会わざれば、刮目して見よ」と。だから、ボスもマスターも酒客も通行人も、疑いの眼差しながら、敬意の態度で迎えた。
「ほー。阿Q、戻ってきたか」
「おー、帰って来たよ」
「金持ちになって」 「お前どこで?」
「城内さ」
 このニュースは翌日、未荘中に広まった。人々は現金と新品の袷の阿Qの中興の物語を知りたがった。酒店、茶館、廟の軒下で、噂がどんどんふくれていった。この結果、阿Qは、新たな畏敬を獲得した。
 阿Qの話では、挙人旦那の宅で、仕事をしたという。これを聞いたものは、みな粛然とした。この旦那は白という姓だが、城内には挙人は彼一人。だから姓を冠する必要なく、挙人と言えば彼のこと。未荘だけじゃない、百里四方すべてそうだった。たいていの人は彼の名は挙人だと思っていた。従って、そこで仕事するなんてことは、当然ながら、そりゃ大変なことだった。だが、彼の話ではもう二度とそこではしたくないという。なんでも、この旦那、実はとても「気に食わない奴」だったから、という。この話を聞いたものは、ため息をつきつつも、なにやら痛快にも感じた。阿Qは本来、挙人旦那の家で仕事をする柄ではないというやっかみもあり、またそれをもうやらないというのは、それはそれで惜しいからでもある。
 阿Qに依れば、帰って来たのも、どうやら城内の連中に不満だったようで、彼らが、長凳を条凳と言ったり、魚の油炒めにネギの細切れを入れたり、かてて加えて、通りを歩く女の腰のひねり具合が、いかにもよろしくないというのであった。
 だが、中にはたいへん敬服すべき点もあり、たとえば未荘の田舎もんは、32枚の竹牌しか打てないし、二セ毛唐くらいが「麻醤(マージャン)」を打てる程度だが、城内では「小鳥亀子」など、とってもうまく打つ。二セ毛唐といえども城内じゃあ、たかだか十数歳の子供の「小鳥亀子」の中に入ったら「子鬼が閻魔さまにひねられる」てなもんさ。これを聞いたものは、みな恥じいった。
「お前たち、首切りを見たことがあるか?」と阿Qは聞いた。
「こりゃ見ものだぜ。革命党を殺すのさ。まあ、見ごたえあるぜ……」頭を揺らしながら、唾の飛沫を対面の趙司晨の顔に飛ばした。これを聞いていた連中は慄然とした。が、阿Qはおもむろにまわりを見渡してから、右手を挙げて、首を伸ばして夢中で聞き入っていた王胡のボンの窪を直撃して、「バサリッ」と一声。
 王はビックラ仰天、瞬時に電光石火のごとく首をひっこめた。聴衆はみなゾクッとしたが、とても喜んだ。これ以降、王は長い間、うだつが上がらず、二度と阿Qのそばには寄ってこなかった。他の連中も同じだった。
 この時の阿Qは、未荘の人から見た地位は、趙旦那を超えていたとまでは言わないが、略同じくらいと言っても過言ではなかった。
そして暫くすると、阿Qの名声は未荘中の閨房にも広まった。未荘には銭と趙の二軒しか
深閨のある邸宅はないから、それ以外の十中八九は皆、浅閨に過ぎないが、閨房には違いない。これもいささか不思議な現象であったが、女たちは顔を会わせば必ず話題にした。鄒七おばさんは阿Qから藍の絹のスカートを買った。品は中古だけど、たった九角だって。また趙白眼の母親が、一説には趙司晨の母と言い、要チェックだが、子供用の大きな紅い西洋織の生地を買って、7割がた新品をたったの三百銭で、それも一串92個で百文。それで彼女らは羨望のまなざしで阿Qに会いたがった。絹のスカートを持っていない者は、ぜひ欲しいと。西洋生地の欲しい者は、ぜひ買いたいと思った。
それで、道で会っても、身をひそめるどころか、ときには阿Qが通りすぎてから、追いかけて来て、「阿Q、絹のスカートはあるかい?無いの?西洋生地も欲しいけど、無い?」
 その後、これは浅閨から深閨に伝わった。鄒七おばさんは得意のあまり、絹のスカートを趙家の奥様に見せに行った。奥方は旦那にそれを話した。品はとてもいいものだったと褒めた。旦那は夕食時に、秀才の長男に話した。阿Qはどうも怪しい。我が家も注意せにゃならん。が、彼の品物は他にいいものがあるかどうか知らん。まだいいのが残っているかも知れん。奥方も値打ちで質の良い皮のベストを欲しいと思っていた。家族会議の結果、鄒七おばをすぐ阿Qのところにやった。このために第3番目の例外を作った。今夜はしばらく灯をつけるのを許す、と。
 灯油はだいぶ減ったが、阿Qはなかなか来ない。一族郎党みなとても焦り出していた。
欠伸をしつつ、阿Qはずぼらな奴だからとか、鄒七おばさんがしっかりしないから、と怨んだりした。奥方は、春の一件(敷居)のせいで、おっかながっているのではないか、と気をもんだが、旦那は心配いらない、「俺」が呼んだんだから、と。果たして、旦那の見たてに狂いはなく、阿Qは鄒七おばさんについてやって来た。
「彼は、もうただただ無いよ、もう無いよ、というばかりで……。だから私は、自分で直接話してくれと言っても、同じことのくりかえしで、わたしは…」彼女は息を切らして、駆けつけながら言った。
「旦那!」 阿Qは軒下で立ったまま、うすら笑いを浮かべて声を出した。
「阿Q,お前だいぶ金儲けしたそうだな」そういうと、大股で歩み寄り、全身をなめ回し、「そりゃよかった。そりゃよかった。それでお前は中古のいい品を持っているそうじゃないか。全部持ってきて見せてみろ。他でもない、わしは、一つ欲しいものがある」
「鄒七おばさんに話した通り、みんな売っちゃって、もう無いよ」
「みんな売っちゃったって?」旦那は不覚にも声を失い、
「そんなに早くおしまいか?」
「あれは友達のもので、もともと大して多くなかったし、みんなが買っちゃったから」
「だが、少しは残っているだろ」
「もう、門幕一枚だけだよ」
「すぐ持ってきて見せなさいよ」と奥方は急いで口をはさんだ。
「じゃあ、明日持って来な」旦那はあまり熱心じゃあ無さそうだった。
「阿Q、これから何か入ったら真っ先に全部俺たちに見せろよ…」
「他所より安いことは言わんから」秀才も口を出した。
秀才の女房も阿Qの顔をちらっと見て、彼がこちらの意が通じたかどうか確かめた。
「私は皮のベストが欲しいのよ」と奥方。
阿Qは口では承知はしたが、ものうさげに帰って行ったので、本当にしっかり気に留めてくれたかどうか判然としない。それで旦那は失望し、憤慨しつつ、心配にもなって、欠伸も引っ込んでしまった。秀才は、阿Qの態度に不満で、この「忘八蛋」はよく注意せにゃならん。地保によく因果を含めて話させ、未荘から追い出そう、と言った。が、旦那はそれには反対で、恨みを買う方が心配だし、この手の生業をする奴は、大抵は「地元じゃあ、荒仕事はしない」というから、うちの村は心配無いよ、但、自分たちで夜警をしっかりすればいい、と。秀才もこの「庭訓」を聞いて、その通りだと思い、阿Q駆逐の提案は取り下げた。が、鄒七おばさんに、今のことは絶対口外しないように言いつけた。
 しかし、鄒七おばさんは翌日にはもう、藍のスカートを黒に染め、阿Qの疑わしいことを漏らしてしまった。だが、秀才が駆逐しようとした事は、触れなかった。情勢は阿Qにたいへん不利になっていた。真っ先に、地保が戸口に来て、趙の奥様が見たいからと言って、門幕を持って行った。更に毎月の上納金の額を決めよう、という。次には村民の畏敬も急に変った。ぞんざいな態度こそ取らないが、少し離れていた方が無難となり、この気持ちはこの前の「バサリッ」とやられないようにという時のとは違って、「敬して遠ざく」の入り混じったものだった。
 ただ、一部の閑人は、阿Qの本当の実情を根掘り葉掘り聞き出そうとした。阿Qも何も隠しだてや格好つけたりせず、自分の経験を自慢げにしゃべりだした。そこから分かってきたのは、彼はただのワキ役で、壁を越えられないだけでなく、蔵にも忍び込めなかった。ただ、外で、物を受けとるだけだった。
 ある夜、彼は包ひとつを受け取って、シテが再度入ってから、しばらくすると中は大騒ぎになった。彼は大慌てで逃げだし、夜じゅう走ってやっと未荘に逃れてきた。それでもう二度とやろうとはしなくなった、と。これが阿Qにはとても不利な結果になり、村民の「敬して遠ざけ」ていた者は、怨みを買うことを恐れていただけだったので、彼がもう再び偸みに入らない泥棒だとなれば、まったく「これもまた畏るに足らず」であった。
 
 
第七章 革命
 宣統三年九月十四日、阿Qが例の腰巾着を趙白眼に売った日。真夜中に大きな黒篷船が、趙府の船着き場に着いた。こっそり漕いできたので、村民は白河夜船、誰も気づかず、明け方に出て行った時に何人かが目撃した。よく調べた結果、挙人旦那の船だと判明した。
 この船が未荘に大きな不安をもたらした。正午前には村中の人心が動揺した。船の使命は極秘だったが、茶坊や酒肆では、革命党が城に進入したので、挙人旦那は俺たちの村に避難してきたのだ、と言っていた。ただ、鄒七おばさんはそうじゃないと言い、何個かの古い衣装箱を、預かってもらおうとしたけど、趙旦那は送り返したのだ、と言った。
実際、挙人旦那と趙秀才は、平素なんら行き来も無いし、理屈から言っても、「患難を共にす」などの情宜も無い。鄒七おばさんは趙家の隣で、彼女の見たのは確かなものに違いないから、大概は彼女の言うとおりだろうとなった。
 しかし、デマはますます広がり、挙人旦那自身が来たわけじゃなさそうだが、中に厚い手紙が入っていて、趙家とは遠い親戚だと書いてあり、趙旦那もちょっと考えなおして、損は無いと思い、箱を引き取って奥方の寝台の下に隠した、とか。革命党はこの夜城内に入ったが、白い鎧兜を着け、これは崇正帝(明末皇帝)の喪に服すためだという。
 阿Qは革命党というのはとっくに聞いていたし、今年は自ら革命党を殺すのを見てきた。が、どこかで聞いた話では、革命党は造反するというので、造反となると彼も困ると思い、これまでは「深く憎み、これを根絶しよう!」と考えていた。
それがどうしたことか、百里四方に名の知れた挙人旦那が、こんなに怖がるとは!阿Qはそう聞くと、なんだか恍惚となる自分の感情を抑えきれず、況や未荘の馬鹿どもが、あわてふためくのをみて、阿Qの気持ちは更に痛快になった。
「革命、それもいいじゃないか」と彼は思い、
「この馬鹿野郎たちの命を革(かく)してやろう。憎むべき連中、怨むべき連中、…俺も革命党に投降しよう」
 阿Qは最近、手元も不如意になり、不満がたまっていた。加えて、昼すきっ腹に二碗の酒を飲んだせいか、酔いが早くまわってきて、そんなこと考えながら歩いていると、飄々然としてきた。どうしたわけか、革命党とはすなわち俺のことだという気分になり、未荘の連中はみな俺の俘虜だ。うれしさのあまり、大声で「造反だ! 造反だ!」と叫んだ。
 未荘の人々はみな恐れおののいた目で、彼をみた。この一種憐れむべき目つきは、阿Qがこれまで見たことも無いもので、それを見ると、6月に氷水を飲むような爽快な気分になった。いっそううれしくなって叫んだ。
「よーし、俺の欲しい物は、みな俺のもの。好きな女も俺のもの。ドンジャンドンジャン」
「悔やんでも、悔やみきれぬは♪、鄭君よ、酔って君を斬ってしまったことよ。悔やんでも悔やみきれない♪ああ、あああ♪ ドンドンジャンジャンドンジャンジャン。
ハガネのムチを振り上げて、お前を懲らしめてやる♪」
 趙家の二人の男と、本当の一族の二人が正門の前で、革命の話をしていた。阿Qはそれも見ずに、頭をあげて、うたいながら通りすぎた。
「ドンドン…  」
「Qさん」趙旦那が心配そうに、近寄ってきて声を落として呼んだ。
「ジャンジャン」阿Qは自分の名前に「さん」が付いているので、別人だと思い、自分とは関係ないと思って、ただドンジャンドンジャンとうたった。
「Qさん」
「悔やんでも悔やみきれない♪」
「阿Q!」秀才が直接彼の名を呼んだ。
阿Qはやっと立ち止まって、頭をひねって、「何?」と応じた。
「Qさん… 最近 …」趙旦那は何の話もないので、「近頃、金儲けしたのかい?」
「金儲け、もちろん。欲しい物はなんでも……」
「アー Q兄さん、我々こんな貧乏人仲間は大した問題にはならないよね……」趙白眼は、びくびくしながら言ったが、革命党の手口を探ろうとしているようだった。
「貧乏人? の仲間? どう見たって俺よりずっと金もちだ。」と言って彼は去った。
 皆憮然として、話も途切れた。趙旦那父子は家に帰り、灯を点けるころまで善後策を相談した。趙白眼も戻って、腰巾着を女房に渡して、箱の底に隠すよう命じた。
 阿Qは飄々然と舞い上がるごとく祠に帰った。酔いはもうさめていた。この夜管理の爺さんは、意外なほどに丁寧で、茶まで出してくれた。阿Qはついでに餅菓子を2枚頼み、食べ終わると、火をつけたことのある四両のローソクと高い燭台を頼み、点火して、自分の小部屋で一人寝た。えも言われぬいい気持ちで、うれしくてたまらず、ローソクの火も元日の夜のようにゆらゆら揺れ、気持ちも跳びはねるようだった。
「造反、こりゃ面白い。…… 白い鎧兜の革命党がやってくる。手には、青龍刀、ハガネのムチ、爆弾、鉄砲、三又の両刃の剣,鈎鎌の槍を持ち、「阿Q行こうぜ!」と祠に呼びに来る。「そこで一緒に……」「この時未荘の馬鹿どもは、面白いことになるだろうな。
俺の足元にひざまずいて、‘阿Q、助けてくれ!’という。‘おめえ誰だ?俺様に向かって’
 最初にやるのは、小Dと趙旦那、それに秀才、そして二セ毛唐。何人生かしてやるか?
王胡は残してやってもいいが…、やはりいらん。
「品物は…突入したら真っ先に箱をあけ、元宝銀、洋銭、西洋シャツ、秀才の女房のあの寧波式豪華寝台をひとまず祠に持ってこよう。そのほかには、銭家の食卓と椅子、或いは趙家のでもいい。自分の手で運ぶんじゃない。小Dに運ばせよう。早く運ばなきゃ、一発くらわしてやる。……。
「趙司晨の妹はブスだし、鄒七おばさんの娘は何年か先の話。二セ毛唐の女房は、辮髪の無い男と寝るような女だから、ペッ、ロクな女じゃない!秀才の女房はまぶたの上にかさぶたがあるし。……呉媽はもう長いこと会ってないが、どこにいるんだろうな。
だがなあ、彼女は足が大きいからなあ(纏足ではない、阿Qも纏足の方が、の意)…。
 阿Qは計画を十分まとめる前に、鼾をかきはじめた。四両のローソクも半寸ほどしかへっていない。紅い炎が彼の開いた口を照らしていた。
「はーああ」阿Qは突然声をあげて、頭をあげ、周りを見回したが、四両のローソクを見て、また眠った。
 翌朝起きた時、だいぶおそくなっていた。街を歩いても元のままだった。腹がへったので、どうしようかなと考えたが、何も浮かばない。が、急にアイデアが出たらしく、ゆっくりだが大またで、なにかありげに静修庵に向かった。
 庵は春のときと同様静かで、白壁と黒い門。ちょっと考えながら、門を叩いたら、犬が中から吠えてきた。急いでレンガのかけらを数個拾い、力を入れて門を叩いた。黒い門にいくつかぼつぼつができたころ、やっと中から人が出てきた。
 阿Qは急いでレンガをつかみ、足を開いて黒犬との戦闘に備えた。だが、門はほんのわずか開いただけで、黒犬は出てこなかった。のぞくとあの年かさの尼だけがいた。
「何の用?」彼女は驚いて聞いた。
「革命さ。知っているだろ?」阿Qも言いながらあいまいだった。
「革命。革命。――革命して革命する ――お前たちを」
「私たちをどうする気だい?」尼は両目を紅くして言った。
「何?…」阿Qは、わけがわからなかった。
「お前、知らないのかい。彼らはもう来て革命していったよ」
「誰?……」阿Qはよけいわからなくなった。
「あの秀才と二セ毛唐」
 阿Qはとても意外だった。不覚にもうろたえてしまった。尼は彼が鋭気を失ったのを見てとり、ばたんと戸をしめ、阿Qが再度押してもびくともしなかった。門を叩いたが応答はなかった。
 それは午前中のことだった。趙秀才は早耳で、革命党が夜城内に入ったと聞くや、辮髪を頭上に巻いて、朝早く、元もとさして仲良くもなかった銭二セ毛唐を訪ねた。今や「ともに維新」のときが来た。それで話はとんとん拍子。すぐさま意気投合して同志となって、手を携えて革命に行くことになった。いろいろ考えた後、静修庵に「皇帝万歳、万々歳」の龍牌が掛っているのを思い出し、さっそくこれを取っ払わねばならぬ、とすぐ一緒に庵に行って、革命したのである。尼が阻止しようとしたので、ふたことみこと言って、彼女を満州政府と同一なるものとみなし、ステッキと人差し指と中指の二本を曲げて、何回かこつこつと叩いた。尼は連中が去った後、気を取りなおし、調べてみたら、龍牌は粉々になって地上に散らばっており、観音様の前にあった宣徳炉は無くなっていた。
 阿Qは後から知ったのだが、今朝おそくまで寝ていたことをひどく悔やんだ。
だが、彼らが自分を呼びに来なかったのはとてもけしからんと思った。また一歩退いて考えた。「まさか彼らは俺が革命党に投降したのを知らないのか」と。
 
第八章  革命は許さん。
 未荘の人心は、外見は静かだった。伝来した消息では、革命党は入城したが、別に大きな変動もなく、知県様ももとのまま、ただ何とかいう名に改称された由。挙人旦那も何とかという官になって――こうした官名は、未荘の人には分からない――軍隊もやはり前の隊長のまま、只ひとつ恐ろしいのは、悪い革命党が混じっていて、ひっかきまわしている。翌日辮髪を切りに来て、隣村の便船の七斤がやられて、ブザマな姿にされた。が、そんなのは大して怖くない。未荘人は、元来城に行くことは少なく、たまに出かけるにしても、すぐ予定を変えられるから、危険な目にあうことはまず無い。阿Qも城内の友達を訪ねに行こうと考えていたが、この件を聞いて、取りやめた。
 一方、未荘も改革無しとは言えなかった。数日後、辮髪を頭上に巻いた者が徐々に増えてきた。すでに触れたごとく、一番は茂才公、次が趙司晨と趙白眼、その後が阿Q。夏なら辮髪を頭上に巻いたり、結わえたりするのは珍しくも無いが、晩秋の今、それをやるのは「晩秋に夏もの」で、巻辮髪は大変な英断である。だから未荘も改革と無縁とは言えないのだった。
趙司晨が後頭部をきれいさっぱりして、やって来るのを見た人々は「おお、革命党が来た!」と大騒ぎ。
阿Qはそれを聞いて、大変羨ましくなった。秀才がとっくに巻いたというのは知っていたが、自分もそれができるとは思いもよらなかった。趙司晨もそうしたのを見て、まねようと決心した。竹箸で辮髪を頭上に巻いて、長いことためらってから思い切って外に出てみた。
街に出て、人々は彼を見たが何も言わない。阿Qは最初とても面白くなかった。後には不満に思った。ちかごろすぐかんしゃくを起こしやすくなった。生活は造反の前より苦しくなったわけではないし、人々もぞんざいな態度になったわけでもない。店も現金でなきゃだめだとも言わない。だが、阿Qは自分とした事が、こんなことではと失望していた。革命したら、こんな具合じゃあおかしい。小Dを見かけたとき、一層ムカッとしてきた。
小Dも辮髪を頭に巻き、なおかつ竹箸を使っている。彼ですらこんな風にできるとは思ってもみなかった。彼がこんな風にするのを許すわけにはいかないと思った。小Dは何と心得るか!即刻、竹箸を折って辮髪を降ろさせ、何回かびんたをくらわせ、身の程知らずに、革命党を僭称するなど怪しからんと膺懲せにゃならん。
だが、そう思っただけで、結局は放免し、単に目を怒らせてにらみつけ、ペッと唾を吐いただけにとどめた。
この数日、城内に行くのは二セ毛唐ひとりだった。
趙秀才も例の箱を預かった由来を頼みに、自ら挙人旦那を訪ねようと思ったが、まだ辮髪があるので、危ないことはせぬが良いとしてやめた。彼は傘型に文面を整える正式の書状を、二セ毛唐に託して城内に持参してもらった。また、彼から自分を紹介してもらって、自由党に入党した。二セ毛唐は戻るなり、秀才に立て替えた四元の洋銭を請求し、秀才は銀のスペードのバッジを中国服の大襟にかけた。未荘の人たちは皆畏れいって、これが柿油党(自由党の当て字)のバッジで、翰林(科挙の優秀者)に相当すると言った。趙旦那はこのため、俄然はぶりが良くなり、息子がはじめて秀才になった時より鼻息があらく、眼中になんぴとも無く、阿Qなど鼻にもかけなかった。
 阿Qはとても不満で、だんだん気も落ち込み、銀のスペードの話を聞くや、自分の冷落の原因を悟った。革命するなら、投降だけじゃだめ、辮髪を巻くだけでもダメ、第一に革命党に行き、彼らと知り合いにならねば、と。だが、これまで革命党で知っているのは二人だけ。城内の一人はとうに「バサッ」とやられ、残る一人は二セ毛唐のみ。すぐ彼の所へ行って、相談する外ない。
 銭府の門は開いていたので、阿Qはおっかなびっくり入って行った。入ると驚いたことに、二セ毛唐が庭の中央に立って、真っ黒の洋服を着て、その服に銀のスペードをつけ、手にはかつて阿Qが教えを受けたステッキ、一尺余のザンバラ髪を肩の後ろに垂らして、まるで劉海仙人(がま蛙に乗った伝説の仙人)のような格好であった。その前に背筋を伸ばした、趙白眼と三人の閑人が恭しく、尊敬のまなこで話を聞いている。
 阿Qはそっと近づいて、趙白眼の背後に立ち、気持ちの中では、早く挨拶しようとしたが、どう挨拶すべきか分からない。もちろん二セ毛唐などと呼んでは、とんでも無い。洋人も適切ではない。革命党もちょっと。洋先生とお呼びすべきだろうな。
 洋先生は目をかっと開いて、話しに夢中で、彼の方にまったく注意を向けなかった。
「私は性急なたちで、私たちが会ったときは、いつも洪兄さん!やりましょう!と言ったのだが、彼はNo!――英語だから諸君には分からないだろうがね。さもなければ、とっくに成功していた。しかしこれが正しく彼の非常に用心深い点で。彼は再三再四、湖北に来てくれと私に言ってきたけど、私は行かなかった。このちっぽけな県城では、誰も何かやれるとは思わんがね。……」
 「おお… この…」阿Qは彼の話が少し途切れた時、思い切って勇気を出して口を開いた。が、どうしたことか、洋先生とは呼ばなかった。
話しに夢中になっていた四人は驚いて彼を見、洋先生もやっと見た。
「なにい?」
「おいら…」
「出てけ!」
「革命党に…」
「さっさと出て行け!」洋先生はステッキを振り上げた。
趙白眼と閑人は大声で「先生が出ていけ、と言っているのが聞こえんのか」と怒鳴った。
 阿Qは手を頭に載せて、知らぬ間に門外に逃げ出していた。洋先生も追っかけては来なかった。六十歩ほど速く走ってから、ゆっくり歩きだしたらやるせない思いが湧いてきた。洋先生は彼の革命を許してくれない。他に方法は無い。今後、白い鎧兜の人が、彼を呼びに来ることはもう決してない。すべての抱負、志向、希望、前途、どれもみな帳消しだ。閑人たちが、言いふらして、小Dや王胡の輩に笑われることなどどうでもいい。
 かつてこれほどまでに無聊をかこったことは無い。自分の巻辮も今や何の意味も無い。侮蔑すべきと悟り、仇打ちのために、辮髪をたらそうとしたが、そうはしなかった。夜まで遊んで、酒二碗をつけで飲み、飲み終わるとだんだん元気が戻って来、気持ちの中では、白い鎧兜のかけらがまた出てくるようになった。
 ある日、いつも通り夜遅くまで遊んで、酒店が閉じるまでいて、それから祠に帰った。
バーン、バン、バン!
突如、一種異様な音がしたが、爆竹ではない。阿Qは根っから騒ぎが大好きな野次馬で、暗がりの中を音のする方に向かった。前方で足音がする。聴き耳を立てると、猛然、前方から人が逃げてくる。それを見るや急いで一緒に逃げた。男が曲がれば彼も曲がり、立ち止まると、彼も立ち止まった。後ろから何も来ないと分かって、その男を見ると、なんと小Dだった。
「なあんだ」阿Qは不満に感じた。
「趙家が…や ら れ た!」小Dはぜいぜいしながら言った。阿Qの心はポンと跳びは
ねた。小Dは話し終えると去って行った。阿Qも逃げながら立ち止まること2,3回。彼は必竟、「この種の生業」をやったことがある人間だった。肝も格別大きい、それで疲れた足を引きずって、街角までゆき、注意して聞いてみると、まだ騒いでいるし、よく見ると、
白い鎧兜の人が次々と箱を担ぎ出している。家具も出し、秀才の女房の豪華寝台を担ぎ出しているが、はっきり見えない。前に出ようとしたが、足が動かない。
 この夜は月が無く、未荘は真っ暗でたいへん静寂であった。静寂さは伏羲のころと同じくらい泰平だった。阿Qは立ったまま苛立っていた。さきほどと同様、次から次へと運び出され、箱も家具も秀才の女房の豪華寝台も、目を疑うばかりだった。だが、彼はそれより前には出ないことに決めて、祠に戻った。
 祠は真っ暗だった。戸を閉め、手探りで中に入った。しばらく横になってやっと落ち着いて、自分の気持ちを整理した。白い鎧兜の人は確かに来た。だが、呼びには来なかった。これはすべて憎っくき二セ毛唐のせいだ。俺の造反を許さないからだ。さもなくば、今日どうして俺の取り分が無いなどということになろうか。考えれば考えるほど、ムカムカし、しまいに、心のそこから怨みを押さえられず、猛烈に首を上下させ、「この俺の造反を許さず、自分だけ造反して、こん畜生の二セ毛唐! よーし、お前が造反するなら、造反は首切りの罪だ。お上に訴えてやるぞ。県城にしょっ引かれて首切りだ。一族郎党、財産没収の上、首切りだ、バサッ バサッ」
 
第九章 大団円
 趙家がやられてから、未荘の人の大半はとても痛快に思ったが、またその一方で恐れもした。阿Qも痛快だったが、恐れもした。四日後、阿Qは夜中に突然、県城にしょっ引かれた。その夜は月も出ず、兵隊、自警団、警察の一団と五人の探偵がひそかに未荘に来て、闇に乗じて、祠を囲み、正面から機関銃を設置したが、阿Qは出てこなかった。長い間、動きが無く、隊長は焦り出した。二万の賞金をかけ、二人の自警団が危険を冒して垣を越えて入り、内外呼応して一斉に突入、阿Qを捕えた。祠の外まで連れ出して、機関銃の左近くに来て、彼はどうやら目が覚めたようだ。
 城内に入るともう正午。阿Qは両手を縛られ、古い役所の建物に入り、5,6回曲がって、小部屋に押し込められた。ちょっとよろめいた途端、丈の高い丸太の柵戸が、かかとにくっつくように閉まった。他の三面は壁で、よく見るともう二人いた。
 阿Qはちょっとびくびくしたが、辛いとは感じなかった。祠の寝間はこことそう変わらなかった。同室の二人は田舎者のようで、話し始めてみると、一人は挙人旦那が、彼の祖父の代の年貢未納を取り立てに訴えたためだ、という。もう一人はどうしてだか知らない。彼らが彼にどうしてだ、と聞くので、「造反しようとしたからだ」ときっぱり答えた。
 午後、檻から裁きの場に連れて行かれた。正面にツルテッカンの爺が坐っている。
阿Qは和尚かと思った。後ろには兵隊が立ち、両側は十数人の長衫を着たのが、ツルテッカンと同じようなものや、一尺くらいの髪を二セ毛唐のように肩の後ろに垂らしているのがいた。凶悪な顔で、目を怒らせて自分を見ていた。この連中はその筋の人だと思ったら、膝関節がふにゃふにゃとし、膝を地につけてしまった。
「立って答えろ! ひざまずかなくていい」長衫の男が叫んだ。
 阿Qは分かったようだが、立ち上がれない。体がいうことをきかず、ひざまずいたままで、ついには本当に「ひざまづき」の形になった。
「奴隷根性め!」長衫の男が軽蔑しきったように言ったが、立てさせはしなかった。
「正直に白状しろ。(拷問にかけられて)苦しみたくなければ。とっくに分かっているぞ。話せば許してやる」ツルテッカンの爺は、阿Qの顔を見定めて、穏やかな声ではっきり言った。
「さっさと白状しろ」長衫の男も大声で怒鳴った。
「おいら、もともと、(革命党に入ろうとして、申請に)来ようとしたんだ」阿Qはでたらめなことを考えながら、ぼそぼそと話しだした。
「では、なぜ来なかったんだ?」爺はおだやかに訊ねた。
「二セ毛唐がおいらを入れて呉れなかったのだ」
「でたらめ言うな!今頃そんなこと言っても遅い。今お前の仲間はどこにいるのだ!」
「なに」
「趙家をやった連中さ」
「彼らは俺を呼びには来なかった。彼らは自分で運んじゃったんだ」阿Qはそう言って憤慨した。
「どこへ行ったんだ?話せば許してやる。爺さんはさらに穏やかになった。
「おいら知らない。彼らはおいらを呼びに来なかったんだ……」
すると爺は目配せして、彼はまた檻の中に入れられた。二回目に出されたのは翌日の朝だった。裁きの場は同じ状態。正面にツルテッカンの爺。阿Qはひざまずいた。
爺は穏やかに訊ねた。「何か話すことはないかね?」
 阿Qは考えてみたが何も無かったので「ありません」と答えた。
 すると、長衫の男が紙と筆を阿Qの前に置き、阿Qに筆を握らせた。阿Qはこの時
びっくりしてほとんど「ぶっ魂消てしまった」筆を握るのは初めてだったから、どのように握ったらよいか知らなかった。その男はある場所を指して、花押を描かせようとした。
「俺は字を知らない」阿Qは筆を握りながら恐れおののき恥じ入るように言った。
「じゃあ、負けてやる。丸を描きな」
阿Qは丸を描こうとしたが、筆を持った手はふるえるばかり。それでその男は、紙を地面に置いて、阿Qを伏せさせた。彼は懸命に丸を描こうとしたが、この憎たらしい筆は重くて、いうことをきかない。ブルブル震えながら丸をくっつけようとしたら、外にはみ出して、西瓜の種のようになった。
 阿Qは自分の描いたのが丸くないので、恥ずかしくてたまらなかったが、その男はかまわず、紙と筆を持ち去った。
 数人の男たちが再び檻の中に連れて行った。檻の中に入れられても大して悩まなかった。
人間、天地のあいだに生きていりゃ、まあたいてい引っ張り込まれたり、連れ出されたりするものさ。時には紙に丸を描かされる。ただ丸く描けなかったのは自分の「行状」の上で、汚点であるが。暫くしてやっと分かった。彼はこう思った。自分の孫の代なら、真丸の円が描けるようになるさ。そして彼は眠った。
 しかしこの夜、挙人旦那は眠れなかった。彼は隊長がとても癪にさわった。彼としては、盗品を探し出すことが最優先されるべきと考えた。隊長は大衆へのみせしめが第一と考えた。隊長は近頃、挙人旦那を軽んじだした。ケンカ腰で「一罰百戒ですよ。私が革命党になってまだ二十日も経ってないのに、蔵破りはもう十数件。一件も捕まっていません。私の面子丸つぶれです。今回やっと捕まえたら、迂遠なことをおっしゃる。ダメですよ。ダメ。これは私の所管事項です」挙人旦那は困って、自説を堅持して、もし盗品探しをやらないなら、民政支援の職務を即刻辞す、と脅した。隊長は「ご随意に」と言うのみ。で、挙人旦那はこの夜眠れなかった。幸い翌日辞職はしなかったが。
 阿Qが三回目に檻を出された時は、ちょうど挙人旦那が眠れない夜の翌朝だった。裁きの場に着くと、正面にやはりツルテッカン。阿Qも例の通りひざまずいた。爺は穏やかな口調で、訊ねた。「何も話すことは無いかね?」阿Qは考えたが何も無いので「ありません」と答えた。
 長衫と短衣を着た男が大勢で、西洋織の白い布のチョッキを着せた。上に黒い字がある。阿Qはとてもくさくさしてきた。というのも、なにやら喪服のような感じがしたからだ。
喪服なんて縁起でもない。それから両腕を後ろ手に縛られ、役所の外に出された。
 阿Qは幌の無い車に乗せられ、数名の短衣の男たちも一緒に坐った。車はすぐ動き出した。前には鉄砲を担いだ兵隊と自警団。両側は口をぽかんとあけた見物人が沢山いた。後ろはどうか、阿Qは振り向かなかった。が、突然悟った。首切りされるのだ。あわてた。
両の目はくらみ、耳の中はガーンと鳴った。くらくらしてきた。が、完全にやられてはいなかった。あわてはしたが、泰然としていた。意識の中では、人間、天地の間に生きていりゃ、時として首を切られることも免れまい、と考えた。
 道は見おぼえがあったが、どうもおかしい。どうして刑場に向かわないのか。自分が見せしめのため、市中引き回しされているとは知らなかった。知ったところで同じこと。人生、もとより見せしめにあうこともあろうと考えるだろう。やっと分かった。回り道をして、刑場に連れられ、バサッと首を切られることを。呆然として左右を見回したら、路傍の人の群れの中に、呉媽がいた。久しぶりだったが、城内に働きに来ていたんだ。阿Qは自分が急に士気が無く、越劇のさわりの文句ひとつも唱えなかったのを恥じた。なんとかしなきゃという気持ちが空回りした。「悲しき未亡人」じゃあ元気がないし、「龍虎の闘い」の「悔やんでも悔やみきれない」ではむなしすぎる。やはり「ハガネのムチでお前を懲らしてやる」か、と思ったが、手を振り上げようとして、両手が縛られているのに気づき、それも止めた。
 「二十年後に生まれ変わり、男一匹」阿Qは焦りながらも、「誰に教わるでもなく」これまでやったことのない文句を唱いだした。
「好!いいぞ」群衆の中から狼の遠吠えのような声がした。
 車は前進を続けた。彼は喝采の中、目を凝らして呉媽を見たが、彼女は自分の方は見ず、ポカンと兵隊の背中の鉄砲を見ていただけだった。
 そこで阿Qは再び喝采の群衆を見た。この刹那、彼の気持ちはぐるぐると回った。四年前、山の麓で、飢えた狼に出くわした。ずっと不離不即で彼をつけ狙ってきた。彼の肉を食おうとしていたことを思い出した。あの時もうほとんど死にそうだった。幸い柴刈刀を持っていたので、勇気を出しなんとか未荘までたどりつけた。しかしあの狼の目は永遠に忘れられない。凶暴なくせに、おびえたような目で、遠くから彼の皮と肉と見透かすようだった。いま、これまで見たことも無いような恐ろしい目、鈍いけれど、鋭利ですでに彼のしゃべったことを噛み砕き、皮と肉以外のものを食らわんとして、つかずはなれずついてくる。この目が一丸となって、彼の魂を噛み砕きはじめたようだ。
「助けてくれ」そう思ったが、彼は口には出さなかった。
とっくに目はくらみ、しきりに耳鳴りがし、全身は粉みじんにくだけて飛び散ったように感じた。
 当時の影響で一番大きかったのは、挙人旦那で、ついに何も取り返せず、一家全員泣いた。その次は趙府で、秀才が城内に報告に行ったとき、悪い革命党に辮髪を切られただけでなく、二万の賞金を払わされ、一家全員でおろおろ泣いた。この日以来、彼らは旧時を懐かしむ遺老の気持ちになった。
 世論は未荘では異議は無かった。阿Qが当然悪い。銃殺されたのは悪い証拠で、悪くなければなんで銃殺にされるものか。城内の世論はよくなかった。半分以上は不満で、銃殺は首切りのような見ごたえが無い。そしてあの死刑囚はまさに噴飯ものだった。あんなに長く市中引き回しにされながら、ついに越劇の名場面の唱(チャン)の一節すらうなれなかった。ただついて回っただけまったく無駄骨で、しょうもなかった、と。
  一九二一年十二月   
 
2010年5月31日 温家宝首相訪日の日に。
 首相の職務を害されることを懸念して宝飾関係の夫人と離婚したと伝えられる人と、女性の大臣を罷免して、それが当人を害することになることを懸念しなかった人との会談の日に。
 
 
 
 
 

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阿Q正伝 1


 阿Q正伝は、50歳以上の日本人なら、名前は聞いたことがあると思う。だが、「星の王子さま」のように手にとって読んだ人は多くないだろう。戦前の翻訳では「滑稽本」のイメージもあったし、戦後はルンペンプロレタリアート的な面も加えられた。訳者も学生時代、中国語劇でこれをやった時、田漢の脚本に依拠したので、必ずしも、原作に忠実とは言えなかった。登場人物が多すぎて魯迅の吶喊の印象が薄らいでしまった。田漢も文革で完膚なきまでに批判された。
 今回、阿Qが30歳ごろまで過した海と河のほとりの,そして都会の近くの農村で暮らしている人々の写真が掲載された本が手に入った。何信恩氏と十余名の撮影者が浙江文芸出版社から出した、「与魯迅看社戯」(魯迅と一緒に奉納劇を観る)である。
今も沢山の屋根のそり返った楼閣的な、趣のある越劇の舞台が河辺にたくさん残っている。  
読み進めてゆくうち、阿Qの言葉の中に、山田洋次描くところの柴又のトラさんのセリフが、私の脳裏にダブった。大連にいるとき、日本のテレビで、何十本ものトラさんを見た。時代も半世紀以上ちがうし、辛亥革命のころと、戦後、復興に希望を見出していた日本と比較するのは、どだい無理というもの。だが、「野菊の墓」の時代、矢切りの渡しで、船頭さんが手こぎの櫓であやつる木の船に乗りながら、墨東の水と舟で生きてきた人たちの暮らしぶりと、トラさんがスッカラカンになって、祠に忍び込んで夜露をしのぐ姿と、阿Qとがダブった。トラさんにはさくらという妹もおり、革命騒ぎにも巻き込まれることなく 処刑されずにすんだ。だが、阿Qが祠の中で夢想した世界と、トラさんがトランク一つで日本各地を放浪して夢想したものは、似通ったものもある。
 明治維新のころ、日本にも阿Qがいたが、西南戦争を境に、滅びるものは滅びた。その後、凶作と恐慌で飢え死にしそうになった人を満州に送り出した。訳者の子供時代には、駅の近くに身寄りのない浮浪者がいたが、やがて姿を消した。彼らはどこへ行ったのだろう。魯迅はこの小説を書くとき、阿Qの霊が乗り移ったような気になった、と書いている。彼自身の内なる阿Qへの問いかけが、出発点であろう。
 第一章の序は、「月と6ペンス」に似て退屈かと思うが、阿Qの生い立ちというか、何の係累もないことの説明で、少し辛抱されたく。二章目から、トラさんの映画をみるようなつもりでごらんいただきたい。
 
第一章 
阿Qの伝記を書こうとして、1、2年にもなる。往事を顧みると私は適切な人間ではないのではと思う。従来,不朽の筆こそ、不朽の人の伝を書くべきで、それでこそ、人は文を以て伝わり、文は人を以て伝わるものだ。結局、誰が誰によって伝わるべきか、わからなくなってきた。が、私は阿Qの伝を書くことにした。どうやら阿Qの霊が私の中に、乗り移ってきたようだ。
 このすぐ朽ち果てる文を書こうとして、とても難しく感じる。第一が名だ。孔子曰く「名、正しからざれば、言、順がわず」と。伝の名は大変多い。列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝、……、どれもピタッとこない。列伝だと、名のある人と「正史」に載せられていなければ具合が悪い。自伝、私は阿Qではない。外伝とすると、内伝はどこだ、となる。よしんば内伝とせんか、しかし阿Qは神仙でもないから無理。別伝はというと総統から国史館に「本伝」を作るようにと、命が下ってもいない。英国の正史には、「博徒列伝」は無いが、文豪ディッケンズ(コナンドイルの記憶違い:魯迅の山上への手紙)は「博徒列伝」を作った。これは文豪だから許されるので、吾輩などには許されない。次は家伝だが、我が家が阿Qと同族かどうか知らない。彼の子孫の委託も受けてない。小伝だと大伝がなければならぬ。要するにこれが「本伝」となるべきものだが、私ごとき者の文章は、文体が下卑ていて、「車曳きや豆乳売り」の言葉だから、僭称はしたくない。それで、三教九流の小説家が使うところの、「閑話休題、言帰正伝」から借用して、正伝としよう。古人の撰した「書法正伝」と字面が混同しやすいが、この際やむをえない。
 第二、伝を書くときは、通常、最初に某(なにがし)、字は某、某地の人なり、とするのだが、彼の姓は全くわからない。一時趙だと思われたが、翌日にはもうあやふやになった。
それは趙旦那の息子が、秀才(科挙)に合格し、銅鑼で村中に知らせが回ったとき、阿Qはちょうど老酒の二碗目を飲んでいたところで、小躍りして、これは彼にとっても大変喜ばしいことで、趙旦那とは同族で、仔細に調べると、彼は秀才の三代前の世代に当たる。それを傍できいていた者は、粛然とし、尊敬の態度を取るようになった。それが翌日、地保(隣組の長)が、阿Qを趙旦那のところに引っ張って行き、旦那は顔を真っ赤にしてどなった。
「阿Q、このフーテンが、お前が俺の同族だと!」
阿Qは黙ったままうつむいていた。
趙旦那は烈火のごとく怒って、彼に近づいて、「でたらめ言うな!俺の一族にお前のような奴がいてたまるか!」「お前はほんとに趙姓と関係あるのか!」
 阿Qはだまったまま、後ずさりしようとすると、旦那はとびかかって一発くらわした。
「なんでお前が趙なものか。趙を名乗る資格なぞないわ!」
 阿Qは、自分は趙だと抗弁はせず、手で左頬をさすりながら、地保とともに退出した。外に出てから、地保に訓斥され、酒代二百文を召し上げられた。これを聞いた者は、阿Qもとんだドジを踏んだものよ。てめえから殴られに行ったようなものだ。趙姓も怪しい。もしほんとにそうだとしても、趙旦那がいらっしゃる限り、でたらめを言っちゃいけない。この後、誰も彼の姓について触れなくなったので、結局何という姓か分からずじまいとなった。
 第三、名も何と書くかわからない。生きていたころ、阿Queiと呼ばれていたが、死後、だれもそう呼ぶ者もいなくなったので、「竹帛に之を著す」ということも無い。もし「竹帛に之を著す」というならば、これが最初だろう。まずもってこの難関に立ち向かうことになった次第。つらつら思うに、阿Queiは阿桂か阿貴か。月亭という号を持っていれば、あるいは8月に誕生祝いをしていたら、阿桂だろう。だが、号も無いし、誕生祝いの回状を出したこともない。で、阿桂と書くのは、独断のそしりを免れない。兄弟に阿富という者がおれば、阿貴だろうが、兄弟はない。阿貴という証拠はない。この他に、Queiと発音する字は難しく思い浮かばない。以前趙旦那の子の茂才先生にうかがったが、あれほど博雅な公からも、確かな応えはなかった。結論から言えば、陳独秀主催の「新青年」が提唱するローマ字化のために、国粋の漢字文化は亡くなり、調査する手段も方法も無くなってしまったというわけ。最後の手段として、同郷の人に犯罪記録がないか調べてもらった。8か月経って、返事が来、記録にはQueiの音に近い者はいない、という。ほんとに居なかったのか、調べなかったのか知らない。が、万事窮す。注音字母の普及はまだおぼつかないから、ローマ字を使うよりない。英国で通用しているつづり方で、阿Queiとし、略して阿Qとする。
これは「新青年」に盲従するみたいで、誠に申し訳ないが、茂才さんですら、御存知ないからは、他にどんな方法がありえようや。
 第四、本籍。趙という姓なら最近普及した「群名百家姓」の注により、隴西天水の人也、と言えるのだが、この姓そのものが頼りにならない。それで、本籍も定まらない。未荘に長く住んだとはいえ、他でも住んでおり、未荘の人とも言えない。未荘の人とすると、やはり史法にもとることになる。
 自ら慰めることができるのは、「阿」だけは正確で、一切附会仮借のおそれはない。誰にも通じる字だ。その他に至っては、浅学の手に負えず、「歴史癖と考証癖」の胡適之先生の門人たちに、将来新たな端緒をたくさん探し出してもらうよう切望する。但し、この「阿Q正伝」がそのころには、とうに消滅してやせんか、はなはだ心配ではある。
 以上を以て、序に代える。
 
第二章 優勝記略
 阿Qは、姓名本籍があいまいなだけでなく、それまでの行状も判然としない。未荘の人々の彼との関係は、忙しい時か、からかう時以外、何もなかったので、彼の行状に関心もなかったし、阿Q自身も何もしゃべらず、ケンカをするときだけ、目をかっと開いて、
「俺も昔は、お前なんかよりずっと裕福だったんだ!お前なんぞ、何だ!」と言った由。
 阿Qには家がなく、未荘の祠に住んでいた。定職もなく、日雇いで、麦刈なら麦刈、米つきなら米つき、舟こぎなら舟こぎ、となんでもやった。仕事が長引くときは、その家に一時的に住みこんだが、終われば帰された。だから、忙しいときは阿Qを思い出すが、それは仕事を頼むためで、行状には関心も無かった。ヒマになったら、阿Qのことなど忘れてしまうので、行状などだれも口にしなかった。ただある時、老人が「阿Qは本当によくやる」と褒めたことがあった。このとき、阿Qは肌脱ぎで、呆然と痩せた体をさらしていたが、周囲の連中も、老人が本当に褒めているのか、からかっているのか、分からなかった。が、阿Qはこれを聞いて、とてもうれしがった。
 阿Qは自尊心がかなり強かった。未荘の住人は、彼の眼中になかった。特に二人の「文童」などは物の数にも入れず、軽んじていた。文童は将来、秀才になる可能性もあり、趙旦那、銭旦那が尊敬を受けているのも、金持ちというだけでなく、文童の父親だからであって、それを阿Qは精神的に少しも格別な崇敬を表せず、俺の子なら、もっと金持ちになるさ、と考えていた。彼はしばしば城内に出かけており、それも自負心を強めた背景だが、城内の人間さえも馬鹿にして、長さ三尺で、幅三寸の床几のことを未荘では、「長凳」といい、彼もそう呼ぶが、城内では「条凳」という。これはおかしい。間違っている!と。また、大頭魚の油炒めは未荘では半寸のネギを入れるが、城内では細切りだ。これも間違っている!と馬鹿にした。
 一方で、未荘の人は世間知らずの、田舎者で、彼らは城内の炒り魚を見たこともない、とけなす。
 阿Qは、昔は裕福で、見識も高く、本当によくできる、本来ほとんど完全無欠の人間であったが、体質的に小さな欠陥があった。一番悩ましいのは、頭にいつからか、疥癬の後のハゲができたのだ。これは自分の身に起こったことだが、貴とするに足りないもので、この疥癬の漢字の「癩」及び頼の発音に近い物を忌むようになり、光も忌み、亮も忌み、後には灯も燭もすべて忌むようになった。これを犯した者は、意識的か無意識かに拘わらず、ハゲのところを真っ赤にさせて、相手の力を見極めながら、口下手な相手には、痛烈に罵り、気の小さな奴は殴りつけた。が、ある時から、どうしたわけか、阿Qの分が悪くなる場合が増えてきた。それで、徐々に方針転換し、大抵は、目をかっと開いて、睨みつけるだけにとどめた。
 ところが、阿Qがこの方法をとりだしてから、未荘の閑人たちは、よけいからかうようになった。阿Qに出会うや、びっくり仰天、おどけてみせた。「おや、急に明るくなったぜ」
阿Qは目を怒らせて、かっと睨みつけるだけだった。
「おお、何かと思ったら、安全灯があったのか」閑人たちはまったく怖がらなくなった。
阿Qはしかたなく、別の報復手段を考えた。
「お前ら、このできそこないめ!」
このとき、自分の頭の疥癬は、ある種の高尚かつ光栄あるもので、そこらの疥癬とは違うんだ、という考えが閃いた。が、上述したように、これも「忌を犯す」ことになると悟って、言うのをやめた。
 閑人はさらに畳みかけるように、からかってきたので、ついに殴り合いになった。阿Qは負けてしまった。黄ばんだ辮髪をつかまれて、壁に頭を4、5回ぶつけられ、閑人は満足して去った。阿Qはしばらく呆然としていたが、心の中で、「ああ、倅に殴られてしまった。今の世の中なっとらん」とつぶやいて、精神的に勝利して、あたかも自分が勝ったような気分で、その場から去った。
 阿Qは、考えたことを、ぶつぶつ、言いだしたので、彼をからかう連中は、彼が一種の精神的勝利法をあみだした、と推測した。それで、辮髪をつかんで壁にぶつける前に、「阿Qよ、倅が親父を殴るんじゃないぞ。人間が畜生を殴るんだぞ。自分から言ってみろ。人間さまが畜生を殴るんだ」と命じた。
 阿Qは両手で、辮髪の根元を押さえながら、頭をゆがめて言った。
「虫けらを殴る。これでいいか。俺は虫けらだ。もう放してくれ」
だが、虫けらだと言っても放さず、壁に5、6回頭をぶつけてやっと満足して去った。今度こそ、コテンパンにやっつけてやったと思った。が、ものの十秒もしないうちに、阿Qは何もなかったように立ち去った。自分で自らを軽んじ、いやしめることのできる第一人者だと思った。「自ら軽んじ、いやしめる」を取れば、「第一人者」である。科挙の最優秀合格者「状元」は第一人者じゃないか。「お前など くそ食らえ」
 阿Qはこうした妙手を考え出して、仇敵に打ち勝ち、愉快な気持ちを取り戻し、酒店で数椀の酒を飲み、他の人と冗談を交し、言い争いをしてはまた勝って、いい気分で祠に帰り、そしてすぐ眠った。
 金ができたときは、サイコロ賭博に行った。地べたに、大勢の人がしゃがみ込んで夢中になっている。彼も顔から汗をたらしながら、その輪の中にいた。彼の賭けの張り声は、一番よく響いた。
「青龍に四百!」かけるぞ。
「八一。どうだー!胴元がつぼを開け、汗まみれの顔で唱えるように「天門だぜー♪。角は戻しいー、人と穿堂は、いただきー♪ 阿Qの銭はこっちによこしなって」
 「穿堂に 百五十、百五十!」とかけたが…。
阿Qの銭は、かくして唱(チャン)とともに、汗まみれの胴元の腰に移っていった。それでしまいには、賭け人の外に出て、後ろから見ていた。他人の賭けを自分がかけている如くに、散会するまで、未練がましくみていた。それから、祠に戻り、翌日は目をはらして働きにでた。
 「人生万事塞翁が馬」とはよく言う。阿Qはあるとき、大勝したが、最後はオケラになってしまった。未荘の賽神祭りの晩。このときは、いつも通り、越劇が奉納され、舞台の左手には、賭場が何ヵ所も開帳された。劇の銅鑼や鉦太鼓は、阿Qの耳には、はるか十里の外のよう。彼には胴元の声が聞こえるのみ。彼は勝ちに勝った。銅銭が角洋になり、角洋が大洋(メキシコ銀)になり、大洋が山となった。うれしくて有頂天で、「天門に二元!」とかけた。
 誰かが突然ケンカを始めた。怒声と殴り合いの音、足で蹴りあう大騒ぎとなった。彼の頭はふらふらになり、やっと這い上がったとき、賭場は失せていた。人もいなくなった。体中に痛みが走った。何回か殴られたようだ。野次馬がいぶかしそうに彼を見ている。何か無くしたような気がしたが、祠に戻って、気を取り直したら、あの洋銭の山がなくなっていることに気付いた。賽の賭場の胴元たちは、この村の人間じゃない。どこへ行けば、奴らを探し出せるか。
 ピカピカの洋銭。俺のもの。それが無くなった。倅に持ち逃げされたと考えても、どうにも面白くない。虫けらと考えても、頭に来る。今度ばかりは、さすがの彼も、失敗の苦痛をなめさせられた。
 が、失敗をすぐ勝利に転じた。右手で、思いっきり自分の頬を2回殴った。とても痛かった。でも殴った後は、気が静まってきた。殴ったのは自分で、殴られたのはもう一人の自分だが、しばらくすると、他人を殴ったのと同じような気になった。……
まだ痛いが、心では勝利を得て、満足して横になり眠った。
 
第三章 続優勝記略
しかし、阿Qは常に優勝していたとはいえ、それは趙旦那に頬を殴られた後、名を挙げたという次第であった。
地保に酒代二百文を払い、いまいましいと思いながら、横になっていたが、考えてみるに「今のご時世、全く話にならん。倅が親を殴るなんぞ」それでふと趙旦那の威風に思い至って、そうだ、今や彼が自分の倅だと思い、そうとなれば、自分ながらも、不思議と愉快になってきて、起き上がるや、「悲しき未亡人♪」の一節を口ずさみながら、酒店にでかけた。このとき、自分は趙旦那より一段格上になったような気がした。
 妙なことに、それ以後村の連中は、彼に一目置きだした。それは阿Qがひょっとすると、趙旦那の父親かもしれない、と思ったためで、実はそうではないのだが。未荘では、阿七が阿八を殴ったとか、李四が張三をこづいても、何の話題にもならなかった。名のある人、たとえば趙旦那の関係者がからんでこそ、話題になる。話題に上れば、殴ったのが名のある人なら、殴られた方も、そのおかげで名が出るって寸法。阿Qの方が間違っていても、そんなことはどうでもよい。それじゃなぜだというと、趙旦那は間違いっこないからだ、ということ。では、阿Qが間違っているのに、なぜみんな、彼を尊敬するのか。これを説明するのは難しいが、考えてみれば、ひょっとして阿Qは趙旦那の同族だと言ったために、殴られたのだから、もしそれが本当だったら、と心配し、まあとりあえずは敬意を表しておくのが、身のためだと考えたからであろう。さもなければ、孔子廟の牛と同じで、豚や羊と同じ畜生なのだが、聖人が箸をつけたものだから、先儒たちは、みだりに手をだそうとしないのと似ていると言える。
 阿Qはこの後、数年間というものは、絶好調であった。
 ある年の春、酒を飲んでほろ酔い加減で町を歩いていた。壁ぎわの日当たりで、王胡が服を脱いで虱を取っているのを見、自分も痒くなってきたように感じた。この王胡は、疥癬ハゲで、胡(ヒゲ)が毛むくじゃらで、みんなは彼を王癩胡と呼んでいたが、阿Qは癩の字は取って、王胡と呼んで、見下していた。阿Qとしては、癩は奇とするほどのことではない。頬からアゴまでぼうぼうのヒゲは、実に奇怪で、みっともなくてどうしようもない代物だった。
 彼は並んで坐った。もし他の閑人なら、隣には坐らない。が、王の横なら何も怖くない。本来なら、横に坐ってやるのは、奴の体面を上げてやるようなものだった。阿Qも袷を脱いで、裏返して見たが、最近洗ったせいか、注意が足りないのか、長いこと探して、やっと3、4匹捕まえただけ。王はと見ると、1匹また1匹、2匹3匹と口に入れ、ピシッ プシッといい音を立てている。
 阿Qは最初は失望していただけだったが、だんだん面白くなくなってきた。見下してきた王があんな沢山取るのに、自分はこんなに少ない。体面が傷つけられたこと甚だしいと思い、大きなのを1、2匹探そうとしたが捕まらない。やっと中くらいのを1匹捕まえ、厚い唇でくわえ、力いっぱい噛んでピシ、と音をさせたが、王のようにはいい音がしない。
 阿Qの疥癬ハゲはみるみる紅潮し、服を脱ぎ捨てるや、ペッと唾を吐いて言った。
「毛虫野郎め!」
「かささき犬、お前、誰に向かって言っているんだ!」王は軽蔑のまなこで応じた。
阿Qは近頃、まあそれなりに人の尊敬を受けて来、自分でもちょっと偉ぶっていたが、それでも喧嘩慣れしているヤクザな連中には、びくびくしていたが、今日は、勇気満々であった。ヒゲもじゃ野郎が何をほざくか、と思い、受けて立った。
「いつも毛虫野郎って言われている奴のことだ」
王も立ち上がって、上着を脱いで両手を腰にして怒鳴った。
「骨をガタガタいわしてもらいたいのか」
阿Qは彼が逃げると思って、先制攻撃、一発かまそうとしたが、拳が相手に届く前につかまれ、ぐっと引っ張られて阿Qのほうがゴロンと倒された。辮髪を掴まれ、壁のところまで引っ張ってゆかれて頭をゴツンゴツンとぶつけられた。
「君子は、口は出すが、手は出さぬ!」阿Qは頭をゆがめて言った。が、王は君子ではないようで、そんなたわごとに耳を貸さず、続けざま5回ほどぶつけると、力いっぱい押して、阿Qが6尺ほど転げたのを見届けて、満足して去った。
 阿Qの記憶では、生涯最大の屈辱だった。王は頬からアゴのヒゲという欠点で、これまで阿Qに馬鹿にされてきたが、彼から馬鹿にされたことはなかった。ましてや手を出されたことは無かった。しかし今回彼は手を出した。とても意外な気がした。まさか町で噂になっているように、天子さまが科挙の試験を廃止し、秀才や挙人をとらなくなったので、趙家の威風も地に落ち、自分も見くびられるようになったのだろうか?
 阿Qは呆然と立っていた。
向こうから来るのは、もう一人の天敵、大嫌いな奴、銭家の長男だった。彼は最初城内の洋学堂に入ったが、どうしたわけか日本に行き、半年後に帰ってきた。外人のように足をピンと伸ばして歩き、辮髪も無い。奴の母親は十数日間、泣きわめくし、女房は井戸に3回も跳び込んだ(自殺のジェスチャー)。後に母親は、「辮髪は悪い連中に酒に酔わされた揚句、知らないうちに切られた」と弁解して回った。「本来なら、大官に任命される予定だったが、髪が伸びるまで待つしかない」という。
 阿Qは冗談じゃないと信じなかった。それで彼を見ると「エセ毛唐」とか「外国のスパイ」と腹のなかで、罵ってきた。彼が心そこから憎み怪しからんと思うのは、奴の二セ辮髪だ。辮髪、それが二セときては、人間の資格が無いのだ。奴の女房が4回目の身投げをしないのも、ロクな女じゃないということだ。
 二セ毛唐は近づいてきた。
「ハゲ、とん馬……」阿Qは腹の中だけで罵って来たのだが、今日はムカムカしていたし、仇を討とうとしていたので、思わず口をついて出てしまった。
 このハゲは黄色い漆塗りの棍棒、すなわち阿Qの言うところの「喪主の杖」を振り上げて、大股に近寄って来た。阿Qはこの瞬間、殴られると察知し、急いで筋骨を緊張させ、首をひっこめた。果たして、パンと一声。頭上に一発食らったようだ。
「ハゲはあいつのことだよ」阿Qはそばにいた子供を指して弁解した。
 パンパンパン!
阿Qの記憶では生涯2番目の屈辱だった。が、パンパンと音がした後は、一件落着したような気になり、すっきりした。更に「忘却」という先祖伝来の宝刀も功を奏して、ゆっくり歩いて酒店の入り口に着いたころには、もういい気持になっていた。
 向こうから、静修庵の若い尼がやってきた。阿Qは普段、彼女を見ると必ず唾を吐いて罵ってきたのだが、さっき屈辱を受けたことを思い出し、敵愾心を燃やした。
「今日はどうしてこんなに運が悪いのかと思ったら、お前に会ったせいだ」と思い、近づいて行って、大声で、「ハー、ペッ」と唾を吐きかけた。若い尼は全く取り合わず、頭を下げて、そうそうに立ち去ろうとした。阿Qは更に近づいて行き、手を伸ばして剃ったばかりの頭を触ってオツム てんてんとやった。(関西で散髪直後にするのと同じ、厄除けのまじない的風習が紹興にあると、前書きに触れた何信恩氏の解説に依る)
「かわいい おつむちゃん。早く帰りな。和尚さんが待ってるぜ」
「どうして触るの?」尼は顔を真っ赤にして、急いで去ろうとした。
 酒店の客は大笑い。阿Qは自分の立てた勲功が称賛を博したと知り、一段と愉快になり、
「和尚ならいいけど、俺じゃだめか」と、尼の頬を触った。
酒店の連中はまた大喜び、阿Qは得意満面、観客を満足せしめんと、もう一回つまんでから放した。
 この一戦で王のことはとっくに忘れ、二セ毛唐のことも完全に忘れ、今日の不運のすべての仇を晴らした気になり、妙なことにパンパンと叩かれた時より、全身が軽快になり
飄々と舞い上がるような気分だった。
 
「子無し、跡無し阿Qの馬鹿!」
遠くから尼の泣き声まじりの罵声が聞こえた。
「はっ はっ は」阿Qは得意げに笑った。
「ハッ ハッ ハッ」と酒店の連中も和して笑った。
 
第四章 恋愛の悲劇
 世に云う。勝利者は敵が虎や鷹みたいな強敵でないと喜びを感じないと。羊やヒヨコなんかではつまらない。又、勝利者はすべてを平伏した後、死ぬものは死に、降参するものは降参し、「臣は誠に死罪にあたります」という状態になると、敵もいなくなり、自分ひとりになってしまうと、寂しくてやりきれなくて、却って勝利の悲哀さえ感じるものだ。
 しかし我々の阿Qは、そんな心配は無用。永遠に絶好調のようであった。或いはこれが、中国精神文明の世界に冠たるゆえんかも知れない。
 見よ!彼の飄々と舞い上がるごとき上機嫌を。しかるにこの度の勝利は、常とはいささか違ったようだ。半日ほど得意げに浮かれていたが、祠に戻って、いつもなら寝転がってすぐ鼾をかくのだが、この夜はなかなか寝付けなかった。親指と人差し指がなにかおかしかった。ぬるっとした感触で、尼の顔のなにかすべすべしたものが、指にくっついたか、
指先で尼の頬のぬるぬるしたものを撫でたせいか。
 「子無し 跡無し阿Qの馬鹿!」
阿Qの耳に尼の罵声がよみがえった。考えた。そうだ、女をさがさにゃならん。跡無しだと、墓に誰も飯椀を供えて呉れなくなる。女を探さなきゃ!
「不孝に三つあり。跡無しは最大と」そしてまた「若敖(民)の霊は飢える也」などは人生最大の悲しみだ、とその時そう思ったのは、聖なる経書と賢人の教えに合致していたのだが、惜しむらくは、その後「其の放逸を収めることができなかった」のである。
「和尚ならいいが、…… 女 女 女」と彼は思った。 
 この夜阿Qは何時頃まで寝付けなかったか知らない。多分このときから指先がぬるぬるして、それでこの時から、飄々として… 「女、女……」が欲しくなった。
 このことから、我々は女が人を害するものだということを知る。中国の男は本来、大半は聖賢になれる素地があるのだが、惜しいかな、すべて女によって芽を摘まれてしまう。
商は妲己によって亡び、周は褒姒にめちゃくちゃにされ、秦は…史書には記されてないが、女にといっても必ずしも間違ってはいない。そして董卓は確かに貂蝉に害されて死んだ。
 阿Qも本来、正人君子であって、誰の教えを受けたか詳らかではないが、これまで、彼が「男女の別」を厳格に守ってきて、異端を排す、――たとえば尼とか二セ毛唐とか― 
という正気を持ち合わせている男であった。彼の学説は、凡そ尼というものは、必ず和尚と私通しており、女が一人で出歩いているのは、必ず情夫を誘い込もうとしているのであり、男と女が二人して語らっているのは、必ずあいびきである。彼(女)らを懲らしめるために、常に目を光らせ、大声で「この不心得者め」と罵ったり、人の通らないところでは、うしろから石を投げたりした。
 彼も早、而立になろうとしているのに、若い尼に害されて飄々としてしまった。この飄々とした気分は、礼教から言えば、「あってはならない」ことである。従って女とはまさに憎むべき存在であり、尼の頬がすべすべしていなければ、阿Qも蠱惑されることにはならなかっただろう。また尼が顔に布をかぶっておれば、阿Qといえども、女に惑わされるような羽目に陥らなくて済んだのに。5、6年前、劇場の人ごみの中で、女の太腿に触れたことがある。が、布一枚隔てていたので、その時はなんら飄々然と舞い上がる気分にはならなかった。が、若い尼はちがう。これこそ異端は憎みて余りある証と言えよう。
「女……」阿Qは欲しいと思った。
彼は「必ずや情夫を誘わんとしている」とおぼしき女を、注意して探してみたが、女の方から彼に微笑みかけるものはいなかった。自分に話しかけてくる女の話しを、よく注意して聞いていたが、女の方から誘うような話を持ちかけてはこなかった。おお、これは女の憎むべき点で、彼女たちはすべて「まじめなふり」を装っているのだ。
 この日、阿Qは趙旦那の家で、米つきをし、晩飯後、台所で煙草を吸っていた。別の家だと、晩飯後は帰っていいのだが、趙家では晩飯が早いのと、普段は灯をつけないで、食後はすぐ寝るのだが、たまに例外があり、一:趙旦那が秀才になる前のころは、灯をともして読書するのを許した。二:阿Qが仕事をするときは、灯をつけて米をつくのを許した。この例外のおかげで、阿Qは米つきの前に、台所の床几に坐って一服できた。
呉媽は趙家のただ一人の女中で、皿を洗い終え、床几に坐って、阿Qと世間話をしていた。
「奥様は二日もお食事をお食べにならないのよ。旦那様が若い妾をお買いになったので…」
「女  呉媽……この年若い未亡人……」阿Qは欲しくなった。
「若奥様には8月にお子さんが生まれるっていうのに」
「女……」阿Qは欲しくてたまらなくなった。
阿Qはキセルを置くや、立ち上がった。
「若奥様はねえ……」呉媽は、なにやら言っていた。
「俺と寝て呉れ。お前と寝たい」阿Qは突然彼女に近づき、彼女の前にひざまずいた。
 一瞬、静寂がおそった。
「あれーえ」呉媽は息をはずませ、突然ぶるぶると震えだし、大声で叫んで、外に逃げていった。泣きながら、大声でわめきながら。
 阿Qは壁に向かって、ひざまずいたまま震えていたが、誰もいなくなった床几に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。まずいことになったな、とぼんやり感じながら、おろおろして、あたふたとキセルを腰にさし、米つき場に行こうとした。そのとき、ポンと一声、頭上で音がした。振り向くと、あの秀才が長い天秤竹竿を手に、目の前に立っていた。
「お前!造反するのか、この野郎!」
長い竹竿は彼をめがけて振り下ろされた。阿Qは両手で頭を抱えたが、指の関節に当たり、とても痛かった。台所から飛び出したが、背後からもう一発くらったようだ。
「忘八蛋(ワンパ‐タン、馬鹿野郎)!」秀才は後ろから北京官話で罵声を浴びせた。
 阿Qは米つき場に逃れしばし坐っていたが、指がとても痛かったし、「忘八蛋」という罵声の文句が耳にこたえた。この罵声は未荘の田舎では使わない。専らお役所の金持ち連中のもので、特に恐ろしく響くし、印象もとても強烈だ。
 ただ、もうこの時には、「女…」が欲しい、という気持ちはなくなっていた。更には、叩かれ罵られた後には、一件落着という感じで、もう何の心配も無くなったように感じ、米つきを始めた。つきだして暫くすると暑くなり、手を休めて服を脱いだ。
 服を脱いだら、外がなにか賑やかになり、阿Qは平素から賑やかなのが好きで、野次馬根性で、声のする方へ近づいて行った。声はどうやら庭の方からで、黄昏だったが、多くの人の顔はまだ判別できた。趙一族では、この二日間、絶食中の奥様がいたし、その隣は鄒七おばさん、本当の同族の趙白眼、趙司晨もいた。
 若奥様が呉媽を連れて、女中部屋から出て来て、「さあ外に来て、自分の部屋に閉じこもったりしないで……」と促した。
「お前がふしだらな女じゃないことは誰でも知っているよ。…早まったことおしでないよ」鄒七おばさんも傍らから言った。
呉媽はただ泣くばかり、何か話しているのだが、何を言っているのか分からなかった。
阿Qは「ふん、面白い。この若後家、いったい何を騒いでいるのだ」と思い、わけを聞いてみようと、趙司晨のそばに近づいた。このとき、旦那が彼の方に来るのを見た。そして手には竹竿を握っている。この竹竿を目にするや、猛然、自分が殴られたことを思い出し、この騒ぎと関係があることを悟った。すぐ身を翻し、米つき場に戻ろうとしたが、竹竿に阻まれ、また身を翻して走りに走って、門の外に逃れて、祠に帰った。
 阿Qはしばらく坐り込んでいたが、鳥肌が立つほどぞくぞくっとしてきた。春とはいえ、夜は余寒がきびしく、裸では過せない。服を趙家に置いてきたのを思い出したが、取りに行くには秀才の竹竿が怖かった。そうこうするうち、地保が入ってきた。
「阿Q、この野郎!趙家の女中に手を出しよって、全く、造反する気か!俺の安眠まで妨害しよって、このヤロー」
くどくど訓戒を垂れ、阿Qは何も口応えできず黙っていたが、しまいに夜も更けてきたので、地保に酒代として倍の四百文払わされることになったが、現金が無いので、毡帽をかたに取られた。その揚句、次の五項目をのまされることになった。
一.明日、紅燭 重さ一斤のものを一対、香一封を趙府に、贖罪として届ける。
二.趙府で道士を招き、首つり厄除けのお祓いをするが、その費用は阿Qが負担。
三.阿Qは今後、趙府の敷居をまたぐことを禁ず。
四.呉媽に向後、不測のことがあれば、阿Qが責めを負う。
五.阿Qは工賃と服の請求権を放棄する。
阿Qはやむなく受諾したが、金がない。幸いもう春だから、当面不要な布団を質に入れ、二千文で五項目を履行した。裸で、頭を地につけて謝った後、何文かは残ったので、かたに取られた毡帽は受け出さず、すべて酒に費消した。
只、趙府では香も燭も使わず、奥様が仏事の時に使うので、それまで取っておかれた。あの服も大半は若奥様が8月に生む赤子のムツキになり、残りのボロは、呉媽の布靴の靴底になった。
 
  第五章 生計問題
阿Qは謝罪後、祠に戻り、日が沈むと、世の中がだんだんおかしくなってきたなと感じだした。よく考えてみて分かった。その原因は自分の裸にある。まだ袷があったことを思い出し、それをひっかけて横になった。
眼が覚めると、太陽はもう西壁の上を照らしていた。起き上がって、「畜生め!」と声に出した。起きて町をほっつきだした。裸のときのような肌のひりひりする痛みはなくなったが、世の中がなにかおかしな雲行きになっているように感じた。この日以来、未荘の女たちは、全員はずかしがり屋になったようで、阿Qを見ると、さっと門の中に身を隠す。50に手の届きそうな鄒七おばさんも、一緒に身を隠した。さらには11歳の女の子まで中に呼び込んだ。奇妙なことになったわいと思い、「ここの女も急に、小姐みたいなそぶりを習い始めたか。この娼婦め……」
だが、世間がどうもおかしいと感じだしたのは、それから数日後のことだった。まず酒店がツケを拒否した。次に祠の管理のジジイがくだらんことを言いにきて、出て行けという。三つ目は、もう何日間か覚えてないが、ずいぶん長い間、誰も仕事を頼みに来なくなった。ツケがきかないのはしょうがないとしよう。ジジイの件は、うるさいと一喝して済んだが、仕事がこなくては腹が減る。まったくどうしようも無いことになってしまった。
阿Qは耐えられなくなり、以前雇ってくれた家に頼みに行った。趙府の敷居は跨げなかったが、他の家もどうもおかしい。男が出て来て、うるさそうな顔で、乞食を追い払うように、手を振って「仕事は無い! 出て行け!」
阿Qは妙に感じた。彼らはこれまで結構忙しかったはずなのに、今になって、なぜ仕事が無くなったのだ。きっとこれには訳があるに違いない。注意して聞いてみたら小Donにさせているようだ。この小Dはちびで、やせこけて、力も無い。阿Qからすれば、王胡の下だ。なんと奴が俺の飯のタネを取ってゆきやがった。阿Qの怒りは尋常ではなかった。怒り心頭に発して、手を振りかざして、「ハガネのムチでお前を叩きのめしてやる」と劇の一節をうなった。数日後、銭府の目隠し壁の前で、小Dにばったり出会った。「このヤロー、ここで会ったが百年目」と阿Qはとびかかって行き、小Dも立ち止まった。
「こん畜生」阿Qは睨みつけながら、唾を吐いて、罵った。
「おいら、虫けらさ。これでいいだろ……」と小Dは言った。
この卑下が、却って阿Qの怒りを爆発させた。が、ハガネのムチは持っていなかったので、素手で殴りかかって小Dの辮髪をつかもうとした。小Dは片手で自分の辮髪を守りながら、もう一方の手で、阿Qの辮髪を、つかもうとした。阿Qも片手で自分の辮髪の根元を押さえた。以前の阿Qなら小Dなど歯牙にもかけなかった。だがこの時は、腹が減っているのと、痩せて力がでず、小Dとどっこい どっこい、勢力均衡の状況で、四本の手で二つの辮髪をつかみあい、二人とも腰を曲げ、銭府の壁に、藍色の虹の形を映して、半時ほど過ぎた。
「好了、まあまあ」と見物人は言った。止めに入るような口ぶりだった。
「好、ハオ」見物人は口ぐちに「好」(いいぞやれ! と、まあその辺での両意:訳者注)と声をかけたが、もうやめろ、と言っているのか、面白がっているのか、扇動しているのかわけがわからなかった。しかし、二人は止めない。阿Qが三歩進むと、小Dは三歩退き、そこで踏みとどまる。小Dが三歩出ると、阿Qが下がる。半時間ほどして(未荘には当時まだ時報が無かったので、二十分位だったかもしれぬ)頭から湯気、顔からは大汗が出、阿Qが手を放すと同時に小Dも手を放した。背を伸ばして、後ずさりして、人垣から出て行った。
「覚えてやがれ!こん畜生。……」阿Qは少し遠ざかってから罵った。
「このヤロー、お前こそ覚えとけ」小Dも同じ遠吠えで応じた。
この「龍虎の闘」は勝敗がつかず、見物人も満足したかどうか知らない。その後、何の議論も呼び起こさなかった。が、依然として阿Qには誰も仕事を頼みに来なかった。
だいぶ暖かくなったある日、微風は夏も近いと思わせたが、阿Qはなぜかゾクッと寒気がした。これはまあ何とかしのげるが、一番困るのは腹が減ってたまらない。布団、毡帽、服はとっくに無い。ボロの綿入れも売ってしまった。残るはズボンのみ。こればかりは脱ぐわけにはゆかない。ボロの袷は残っているが、これはもう布靴の底地にしかならない、換金の値打ちもない。
それで、どこか道端に銭が落ちてやしましかと注意して見てまわったが、何も見つからない。自分の部屋で見つかるかもしれないと、部屋中さがしたが、何もあるわけがない。遂に腹を決めて、「求食(食のための職探し)」に出た。歩きながら、なじみの酒店やマントウ屋の前を通ったが、店頭に立ち止まりもせず、頼もうという気にもならなかった。自分が求めているのは、こんな類の仕事ではない。といって、自分が何を求めているのか、自分でもよくわからなかった。
未荘は小さな鎮で、しばらくすると外に出てしまった。多くは水田で、目の前に田植えしたばかりの柔らかな緑がひろがり、動いている丸くて黒い点は農夫だった。阿Qはこうした農家の田園の楽しみには、ほとんど興味がわかなかった。それでまた歩き続けた。これと彼の「求食」の道がはるかに隔たっていることを、直感的に感じていた。そうこうしているうちに、彼はとうとう、静修庵の壁の所にやってきた。
庵の周囲も水田で、壁は新緑の中に立っていた。後ろの低い土塀の中は菜園だった。阿Qは逡巡しながら、周りを見て、誰もいないのを確認し、低い塀によじ登り、ツルドクダミを引っ張った。土がパラパラと落ち、阿Qの足もぶるぶる震えたが、やっと桑の木をつたって、中に跳び下りた。中は一面青々と茂っていた。が、老酒やマントウのような食物は無いようだ。西の所は竹やぶで、筍がたくさん生えているが、煮えていないので食べられない。油菜も実がなってるし、芥菜も開花しているし、白菜もトウが立っている。
阿Qは文童が落第したときのように、いわれもない屈折を感じ、ゆっくりと門の方に行くと、大根があった。しゃがみ込んで、スポッと抜くと、門からまん丸の尼の頭がヌッと顔を出し、すぐ引っ込んだ。あの尼だ、尼くらいなら、阿Qにとっては、塵芥にすぎなかったが、ものごとは一歩退いて考えねばならぬ。そこで、大急ぎで四本抜くと、青菜をひねって、懐に入れた。と同時に、年かさの尼が現れた。
「阿弥陀仏。阿Q!なぜ菜園の大根を取るの?犯罪よ。ああ 阿弥陀仏」
「俺がいつ大根取った?」阿Qは周りを注意して見ながら、逃げの態勢で応えた。
「今とったそれは何?」尼は、ふところを指して言った。
「これがお前のだって?これにお前のだって、言わせられるかい?お前のだって」
阿Qは言い終わる前に、一目散に逃げ出した。追っかけて来たのは太った黒犬。この犬はもともと、前門にいたはずだが、どうして後門に来たのか。黒犬は吠えながら、阿Qを追っかけてきて、腿に噛みつきそうになったが、ふところからぽろっと落ちた大根に驚き、足を止めた。そのすきに阿Qは桑の木によじ登り、土塀をまたいで、大根もろとも塀の外に出た。残った犬は桑の木に向かって吠え、尼は念仏を唱えていた。
阿Qは尼が黒犬を外まで追いかけさせはしまいかと、急いで大根を拾って逃げた。道中で小石を拾ったが、犬はこなかった。阿Qは石を捨て、歩きながら大根を食べた、歩きながら考えた。ここじゃ何も無いから、城内に行ってみるか。三本食べ終わったころには、城内に行くことに決していた。

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范愛農


東京の下宿では、朝起きると、よく新聞を見た。学生は「朝日」と「読売」が多く、社会面のゴシップは「二六新報」だった。ある朝、いきなり中国発の電文が目に入った。
概略は:
「安徽省巡撫(省長) 恩銘がJoShikiRinに刺殺さる。刺客はその場で逮捕」
 みなたいへん驚くと同時に、顔を輝かせ熱心に語りだした。そしてこの刺客は誰かが話題の中心となり、漢字でどう書くか、と。ただ、紹興人は、教科書しか読んでない者でなければ、とうに分かっていた。徐錫麟である。留学から帰国後、安徽の道員(官吏)候補として巡警の仕事をしていたから、巡撫刺殺の可能なポストにいた。
 それから、皆は彼が極刑にされて、家族にも累が及ぶと危惧した。その後すぐ秋瑾女史も紹興で殺されたとのニュースが伝わって来た。徐錫麟は心臓をえぐり出され、恩銘の衛兵たちに全部くわれてしまった、と。その場の人間は怒り心頭に発した。何名かは秘密裏に会合を開き、旅費を集め、日本人の浪人(旧侍)を雇い、スルメを肴にし、酒を酌み交わし悲憤慷慨した後、彼をすぐ徐錫麟の家族を引き連れに向かわせた。
 例に依り、同郷会を開き、烈士を悼み、満州政府を罵り、それから北京に電報を打ち、満州政府の非人道性を譴責すべし、と主張するものが現れた。会は二派に分かれた。電報打つべし派と不要派。私は打電派で私が発言した後、「殺す者は殺し、死んだ者は死んでしまったんだ。屁のつっぱりにもならない電報を今頃打ってなんになる?」とある鈍重な声がした。
 背が高く、髪の長い、白眼の部分が黒眼より多く、人を見る時はいつも斜に構える男が、
席に坐ったまま、私が発言すると、すぐ反対するので、以前から妙な奴だと思っていた。この時、彼を知っている男に、あの冷酷な奴は誰だと訊いた。范愛農といい、徐錫麟の学生だと。私は大いに怒って、まったく人間たる資格も無い。自分の先生が殺されたのに、電報一本打つのを恐れ、それで私はなおさら強く打電するように主張し、彼と論争した。結果、打電派が多数を占め、彼は屈した。次に誰が原稿を書くか推挙することになった。
「推挙など必要無い。打電を主張した人が書けばよい…」と彼。
彼の言葉は私に向けられていると思い、それも理が無いとも言えない、その通りとも思った。だが、私はこの悲壮な文は烈士の平生をよく知っている人が書くべきで、他の人より親密な関係を持ち、気持ちもより悲憤しているから、書きあがった文章は人を感動させずにはおかないだろう、と主張した。また論争が起こり、結果として彼も書かず、私も書かない。誰が引き受けたか知らないが、散会し、原稿書きと一二の幹事が残り、打電した。
 これ以来、私は彼が妙な男で、憎むべき奴と思った。天下に憎むべきは当初満州人だったが、この時ばかりは、それは二の次で、最も憎むべきは彼であった。中国が革命をしないというなら、しかたない。が、革命するならまず彼を除去すべきだ、と思った。
 しかしこの考えはその後徐々に薄らいでゆき、しまいには忘れてしまった。その後我々は会うことはなかった。革命の前年、故郷で教員をしている時、多分春の終わりごろだったか、知人の宴席で、突然見覚えのある顔に出会った。
互いに二三秒顔を見合わせて、同時に叫んだ。
「おお。君は范愛農か!」
「おお、君は魯迅か!」
 なぜか二人とも笑いだしたが、それは嘲笑と悲哀が入り混じったものだった。彼の目は元のまま奇妙な感じだったが、頭には白髪があった。前にもあったのかも知れない。以前は気に留めなかっただけかも。ずいぶん古い布製の馬褂(清時代の服)を着て、ボロの布靴をはき、見るからに貧乏じみていた。私の経歴を話した後、彼はその後学費が続かず、留学をやめて帰国し、故郷に戻ったが、軽蔑、排斥、迫害にあい、受け入れてもらう場所も無かった。今は田舎に身をひそめ、数人の小学生を教えて糊口している。時折、気が滅入ってくると、気晴らしに船に乗って城内にやってくる、という。
 今では酒も飲むようになったというので、一緒に飲んだ。それから城内に来るたび必ず私を訪ねてくれ、親しくなった。酔うと愚にもつかぬことを話しだした。母も偶然耳にして、笑いだしたこともあった。ある日ふと東京で同郷会のときの旧事を思い出し、訊いてみた。
「あの日君は専ら私に反対した。故意だったようだけど、どうしてだい?」
「君、気がつかなかったの? 私はずっと君が嫌いで、私だけじゃなく我々は……」
「あの時より前に、私の名前を知っていたの?」
「知らないわけがないだろう。我々が横浜に着いた時、迎えに来てくれたのは、子英と君だったから。君は我々を見下し、首を横に揺らしていた。覚えているかい?」
 少し考えて、思い出した。七八年前のことだ。子英が私に、横浜に着く同郷の新留学生を迎えに行こうと言ってきた。汽船が着くと、大勢下りてきた。多分十数名。上陸すると、荷物は税関検査を受けた。税関吏は衣装箱の中を引っ繰り返して、刺繍のついた纏足の靴を見つけて、公務はほったらかして、それを仔細に眺めていた。私はたいへん腹立たしく思った。このロクデナシたちは、なんでこんなものを持って来たんだ。と思った。自分では気がつかなかったが、頭を横に揺らしていたかもしれない。検査が終わり、旅館で少し休憩した後、汽車に乗った。何たることか、この読書人たちは客車の中で席を譲り合う。甲は乙に「さ、どうぞ」とやり、乙は丙にどうぞ、どうぞ、とやる。儀礼が終わらぬ内に、汽車は動き出し、客車が揺れ、三四人が倒れた。あの時も、何をしているのかと思った。
汽車の中でさえ、席に関して身分の上下をそのまま持ち込もうとする馬鹿らしさを、暗に軽蔑して、頭を振ったかもしれない。その悠揚迫らず、儀礼を優先していた人物中に、范愛農がいたのを今になってやっと思い出した。彼だけじゃなく、今更言うのも恥ずかしいが、後に安徽で戦死した陳伯平烈士や、殺害された馬宗漢烈士、獄に長く繋がれた後、革命後、やっとお天道様を拝めるようになったが、身には獄吏に付けられた終生消えることのない傷痕を持つ人も1-2名いた。私はそんなことは露知らず、頭を揺らしながら、彼らを東京まで同道した。徐錫麟は同船で来たが、汽車には乗らなかった。彼は夫人と神戸で下船して、陸路で来たから。
 あの時、頭を振ったのは2回だったと思う。彼らが見たのはどちらだったか知らない。席を譲り合っていた時は、騒がしかった。検査の時は静かだったから、きっと税関のときだろう。愛農に訊いたら、そうだという。
「あんなものを持ってきてどうするつもりなのか、理解に苦しむよ。誰のだい?」
「先生の奥様のだ」白い部分の多い眼を剥き出しにして言った。
「東京に着いたら、纏足じゃない振りをしなきゃならんのに、なんでまたあんなものを?」
「知るもんか。奥様に訊いてくれ」
 
 初冬になって、我々の生活は苦しくなってきたが、酒はやはり飲み、冗談話しもよくした。突然、武昌起義がおこり、続いて紹興でも光復した。翌日愛農は城内に来た。農夫の被る毡(チャン)をかぶっていた。あのときの笑顔はこれまで見たことのないものだった。
「迅さん、今日は酒はいいから、光復なった紹興を見に行きたい、一緒に行こうよ」
 我々は街に着いて、歩いてみたら、街中は白旗ばかりだった。外面はそうであったが、中は旧態依然、郷紳が組織した軍政府は、何とか鉄道の大株主が行政司長で、銭荘(金貸)のあるじが軍械司長……。この政府も長続きせず、青年たちがひと騒ぎして、王金発が兵隊を率いて、杭州から乗りこんできた。騒がなくても、多分来ただろう。
彼が来てから、おおぜいの閑人と新参の革命党に担がれ、王都督となった。役所の人間は、初めは布の服だったが、十日もしないうちに、大抵は皮の袍を着るようになった。まだ寒くもなっていないのに。
 私は師範学校の長として金庫の傍に坐らされ、王都督から校費二百元の支給を受けた。愛農は監学になったが、やはり例の布服で、酒は飲まなくなり、世間話をする時間も減った。彼は事務も授業も担当し、立派に切り盛りした。
 
「状況はとても悪いです。王金発の連中は…」と去年私が教えた学生がやって来て、悲憤慷慨し「新聞を出して、彼らを批判しましょう」それで発起人に先生の名を借りたい。もう一人は子英さん。さらにもう一人徳清さん。社会の為に先生は辞退など決してされないと信じております。
 私は承諾した。二日後発行予定のビラを見た。発起人は本当に三人。五日後新聞が出た。トップ記事は、軍政府とその取り巻きを罵り、その後、都督を罵り、彼の親戚、同郷、妾たちを罵った。かくして十数日後。私の家に通報が届いた。都督は私たちが、彼の金を詐取しておきながら、彼を罵っているので、私たちを殺しに刺客を差し向ける、と。
 他の人はたいしたことはないと気にしなかったが、一番あわてたのは私の母で、私に外出はしないでくれと頼んだ。だが、王は我々を殺しには来ないと説明して、私はいつも通り出かけた。いくら緑林(馬匪)大学出身でも、殺人となると生半可ではできない、と。ましてや、私が受け取っているのは校費であって、この点は非常にはっきりしているから、とやかく言われる筋合いはない、と。やはり殺しには来なかった。手紙で、経費を請求したら二百元払ってきた。但、怒っているようで、次回からはもう払わないとの伝言つき。
 一方、愛農は別の情報を得ていて、これは大変難しいことになった。「詐取」したのは、校費ではなく、新聞社に別途出した金のことであった。新聞で数日罵ったら、王金発は五百元届けてきた。そこで我々の青年たちは会議を開いた。第一;受け取るべきや否や。決議:受け取るべし。第二:受けた後、やはり罵るべきや否や。決議:罵るべし。
理由として受け取った後、彼はオーナー株主だが、オーナーが悪いことをすれば、罵しるのは当然のことである云々。
 私は、すぐさま新聞社へ行き、ことの真相を問うた。すべて本当だった。彼の金は受け取るべきではない、と言ったら、会計担当が反対して、私に反問してきた。
「新聞社はなぜ出資金を受け取ってはいけないのか?」
「これは出資金ではない……」
「出資金ではないなら、何か?」
 それ以上話を続けるのはよした。この点は、私も少しは世故に通じるようになっていて、既に分かっていた。もし、私に累が及ぶなどと言うと、たいした値打も無い命を惜しんで、社会のために犠牲になることを肯んじない男だとして、面罵してくるだろう。或いは明日の新聞に、私がいかに死を恐れて、震え慄いていたという記事を見ることになろう。
 しかるに、ものごとは折よく、許寿裳から手紙が来て、南京に来いとの要請を受けた。
愛農もたいへん賛成してくれた。だが、とてもさびしそうな口ぶりで言った。
「ここもこんなんじゃ、もうとてもやって行けない。早く行った方が良い……」
彼の無言のところの言わんとすることも分かった。
南京行きを決めた。まず都督府に辞職届を出し、許可を得た。鼻水を垂らした接収員が来て、帳面と残金の一角と銅銭二枚を渡し、校長ではなくなった。後任は孔教会(孔子の教えを尊崇する会)会長の博力臣がなった。
 新聞社の件は、私が南京に着いて二三週後にケリがついた。兵隊が壊しに来たという。
子英は田舎にいて何もなかった。徳清は城内にいたので、太腿に刀傷を負った。彼は大いに怒り、たいへん痛かったと思う、だが、彼を責めるのは筋違いというもの。彼は大いに怒った後、服を脱いで写真を撮り、一寸ほどの刀傷を写して説明文をつけ、状況を記したものを各地に送り、軍政府の横暴をあばいた。この写真は今やもう誰も持っていないと思う。サイズも小さく刀傷も縮小され、ほとんど無いに等しい。もし説明が無ければ、見た人は気がふれた風流人の裸体写真と思うだろう。もし孫伝芳(軍閥)将軍のお眼にとまったら、発禁されるのは必至だろう。
 南京から北京に移る頃、愛農の学監のポストも孔教会会長が口実を設けて廃された。彼は革命前の愛農に戻った。彼のために北京で何とか仕事を探そうとした。彼もそれを非常に望んだが、機会はなかった。そのため、知人の家に寄食していた。手紙をしばしば呉れた。暮らしむきは益々困窮してきた、と文面も苦しさを訴えていた。
 ついには知人宅からも出ることになり、各地をさ迷った。ほどなくして同郷人からの伝聞で、河に落ちて死んだ、という。
 私は彼が自殺したのではないかと思った。泳ぎが上手かったし、そう簡単に溺れ死ぬわけがない。
 夜、一人で会館(県人会館の宿舎)にいると、やりきれぬほど悲痛に陥り、このことは嘘ではないかと思った。だが、端無くもこれはやはり本当だろうとも思い、もちろん何も証拠は無いが、ほかに手立てもなく、四首の詩を作った。後にある新聞に発表したことがあるが、今ではもう忘れてしまった。一首の中の六句だけは、覚えていて、起句の四句は、「酒をとって、天下を論じるも、先生は酒量少なく、大圜、酩酊するも、ほろ酔いまさに沈論によし。間の二句は忘れたが、末尾は「旧朋は雲と散じ尽くし、余もまた軽塵に等し」
 その後、故郷に帰って、はじめて詳しい話を聞くことができた。愛農は、最初のころ、何の仕事にも付けなかった。周りの人たちは彼を嫌っていたから。彼はとても困窮したが、酒は何とか飲めた。友人がおごってくれたからだ。そのころ、もう人と交際はしなくなったが、しばしば会っていたのは、後から知り合った比較的若い人たちだった。しかし、彼らも彼がくだをまくのを嫌がり出したが、軽口には趣があり、面白かった。
「明日、ひょっとすると電報が来て、開くと、魯迅が私に来い、と言ってくる」彼はしばしばこんなことを口にしたそうだ。
 ある日、数人の新しい友人と船に乗って、劇を観に行った。戻ってきたらもう夜半すぎ。
雨風も強くなってきた。彼は酔っていたが、どうしても船舷で、小便をすると言いだした。皆は止せといったのだが、彼は落っこちっこない、と自信たっぷり。しかし、彼は落ちた。もちろん泳げるのだが、いっかな浮き上がって来ない。
 翌日屍を探すと、菱の密生する(浅い)ところで見つかった。まっすぐに立ったままで。
私は今なお、彼が本当に足を滑らせたのか、自殺したのか、解らない。
 彼は死後、何も残さなかった。一人の幼女と夫人以外は。数名でお金を集めて女児の将来の学費の基金にしようとしたが、提議したとたん、親戚連中がこの金の保護権を争い出した。―――実際まだ金は集まっていなかったのだが、それで皆は無聊に感じ、うやむやに消滅してしまった。
 今、彼の唯一の女児はどうしているだろう。学校に行っていれば中学はもう卒業しているはずだが。
   十一月八日        2010.6.15.
 
訳者 あとがき
これは、作者の辛亥革命前後に袖すり合わせた人々への鎮魂歌である。
紹興という、さして大きな都会とは言えない場所からも、徐錫麟、秋瑾はじめ
彼が横浜に出迎えた時だけでも、何名かの烈士が義に就いている、と書いている。
 その中で、彼自身も軍閥やそれに類似した鉄砲で簡単に人殺しをしてきた軍政府から狙われ、「筆で書くより、足で逃げる方が忙しい」危機を何度もくぐり抜けてきた。
 病気がいよいよ回復の見込みが立たないほど悪化してきたとき、モスコーに行って療養してはどうか、とか。或いは日本に行って治療して欲しいとの、多くの申し出を、断り続けた。増井経夫も、岳父の書を携えて、来日を促しに出かけたのだが、日本に行ってはなにもできなくなる、と断られて、書を書いて返礼としている。最近その書が同家から上海の記念館に贈られたと報道されていた。
 上海という中華世界の混沌から離脱してしまっては、何もできない。何も書けない。というのが、断りの理由であった。
 私は、思う。彼は辛亥革命から25年間、古碑を書きうつしたり、自分の神経を麻酔させたりして、生き延びてきたが、それはそれまでに非条理な軍政府の銃弾で命を奪われた烈士たちへの鎮魂のためであった。そのための吶喊であった。
 21世紀の中国では、書店には信じられないほどの書物が、見ていて楽しくなるほどのきれいな写真とともに出版されている。だが、魯迅の作品は学校の教科書からも締め出される運命にある。今日の学生にとっては、もはや「鶏のあばら骨」に過ぎないのだという。
スープは多少上手いのが出せるが、食べる肉はほとんどついてない、と。
 本当は骨についているわずかな肉がおいしいのだが。マグロの中落ちのごとく。
最後に松枝茂夫が周作文の著作から引用している 魯迅の詩の関連部分の原文を記す。
把酒論当世 先生小酒人 大圜猶酩酊 微酔自沈論 (二句略)故人雲散尽 我亦等軽塵
各句少しずつ漢字が違うのが分かる。これは彼が原詩を見ずに、記憶の中から探り出したものだということがよく判る。故人は旧朋となっているが、それら旧朋が雲のごとく散じ尽くすのを見ながら、何も手を差し伸べてやれない、軽塵に過ぎない自分。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「華蓋集」 「雑感」

 人には(感情から出る)涙があり、動物より進化したが、ただ涙だけでは進化とは言えない。それは、盲腸があるから鳥より進化したとはいうが、盲腸があるだけでは進化したとは言えないのと同じだ。凡そこれらは無用の長物であるばかりでなく、いわれなき死に至らせもする。
 今、ひとは涙を贈りものにする。最上の贈りものと思っている。ひとにはこれ以外何も無いから。涙のない人は血を贈る。だが、各々は他人の血を拒絶する。
 ひとは愛する人が涙を流すのを望まない。しかし、臨終の際、愛する人が君のために涙を流さないのを願うだろうか?涙の無いひとは、どんな時でも愛する人が涙を流すのを望まない。そして血も拒む。彼の為に、号泣したり死ぬことを拒む。
 ひとは大勢の人に見られながら殺される方が、だれも見てないところで殺されるより、気分的に安心する。それは観衆の中の誰かが涙を流すのを妄想するからだ。だが、涙の無い人間は、どこで殺されようと何の関心もない。
 涙のないひとを殺しても、血も出ないだろう。愛する者も彼が殺される悲惨さを感じず、仇も彼を殺す楽しみを得られない。これが彼の報恩と復讐というわけだ。
 敵の鋭利な刃物で殺されるなら悲しみ苦しむことはない。どこから来たか訳も分からない闇の中で殺されるのは、悲しく苦しい。だが最も悲痛な死は、慈母や愛する人が誤った投薬での死亡と、戦友の流弾、細菌の悪意の無い侵入、そして自分で制定に関与していない死刑に処されることだ。
 昔は良かったと言う者は、昔に戻るが良い。この世から超脱したいものはそうすればよい。天国に行きたいものは早く行くがよい!魂を肉体から離脱させようとするものは早く去るが良い!今日の地上には、現在に執着してこの地に生きようとするもの以外、不要だ。
 それにも拘わらず、厭世家たちがまだたくさん居る。彼らは現世の仇敵だ。彼らが一日長く存すると、現世は一日救いを得ることができなくなる。
 以前は、現世に生きたいと願いながら、生きられなかったひとは、沈黙のまま過し、うめき、嘆き、号泣し、哀求したが、やはり生きたくても生きられなかった。それは彼らが憤怒を忘れていたからだ。
 勇者は憤怒し、抜刀して強者に立ち向かう。怯者は憤怒し、抜刀して弱者に向かう。薬で救うことのできない民族には、必ずたくさんの英雄がいて、もっぱら子どもたちを叱る。この臆病な卑怯ものめ!
 子供は叱られながら成長し、また次の子供たちを叱る。思うに、彼らは一生憤怒のうちに過す。憤怒はただこうしたことの中にのみ存して、一生をそうして過す。更に二代、三代、四代、末代と。
 何を愛するにせよ、 食事、異性、国家、民族、人類など、ただ毒蛇のごとくまつわりつき、怨みの亡者のように二六時中執着し、やむことなき者のみが望みがある。ただ、とても疲れたと感じたら、少し休み、休息後ふたたび始める。二回、三回、…。
血書、規定、請願、講学、号泣、電報、会議、挽聯、演説、神経衰弱、なぞは一切無用。
 血書で何が勝ち取れるというのか?君の一枚の血書じゃ、見栄えも良くないし、神経衰弱など、その実、自分が病気にかかっただけで、それを宝物のように扱ってはだめだ。
我が敬愛し、そして又うるさくていやな友よ!
 うめきや嘆息、哀求など驚くにあたらない。苛酷で烈しい沈黙に遭遇したら、しっかりと気をつけねばならない。毒蛇のようなものが屍の森林にうごめき、怨霊のようなものが暗黒の中を走りまわるのを見たら、もっとよく気をつけねばならない。これは「本当の憤怒」がまもなくやって来るのを予告しているから。その時、古代に戻りたいと仰慕するものは、古代に戻るがよい。世の中を超越したいものはそうすればよい。天国に行きたいものは行け!霊魂を肉体から遊離させたいものはそうするが良い! ……。
 五月五日       2010.8.4.訳
 
 

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「これとあれ」

一.
 読経と読史(儒教の経書と史書を読むこと)
 偉い人が、経書を読むべしと言うと、提灯持ちが右に倣えとばかり、経書を読むべきだと唱える。それも何と読むだけではすまず、それでもって救国すると言い出す始末だ。「学びて時に之を習う、亦楽しからずや?」それは確かにそうだ。だが、1895年の日清戦争には負けた。なぜ日本との戦争だけ取り上げるのか?というのは、その時は新しい学校ができる前で、経書を廃止していなかったからだ。
 勉強を始めたばかりの人は、今更糸綴じ本をうんうん唸って学ぶ必要は無いと思う。すでにもう長く勉強した人で、古い書物にはまってしまっているなら、史書を読むのが良い。とりわけ宋代や明代、なかでも野史や雑説が良いと思う。
 今、内外の学者たちは「欽定四庫全書」という名を聞いただけで、魂消てしまい、膝もがくがくと、へにゃへにゃと崩れてしまいそうになる。だが実は,書の原形は改変され、文章も改刪され、簡単な例が「琳琅秘室叢書」の二種の「茅亭客話」で、一つは宋本、もう一つは四庫本で、これを比べればすぐわかる。「官修」で「欽定」の正史も同様。本紀や列伝だけでなく、“歴史の体裁”を整えるだけで、実のあることは何もない。文字や行間に褒貶が隠されているというが、誰がそんなことに気を使って、壺の中身の謎ときなどするものか。今でもなお「平生の事柄を国史館に宣して、伝を立てよ」などと言っているが、もうやめた方が良い。(官僚政治家はこの伝が立つことで名が残るのを目指す:訳者注)
 野史と雑説にも、中には誤伝や恩と怨みに絡んだものもある。しかし、往時を見る目はしっかりしている。それは正史のように恰好をつけなくても良いからである。宋のことなら、「三朝北盟匯編」は骨董品で高すぎる。新刷「宋人説部叢書」が手頃だ。明なら「野獲編」、原本もいいがこれも骨董で、一部数十元もする。「明季南北略」が入手しやすい。また新刷なった「痛史」もお勧めだ。
 史書は本来、過去のエンマ帳で、急進的な猛士とは関係ない。只、先に述べたように、もしそれにはまってしまって、やめられないなら読むのは構わない。我々の目前の状況が、その当時と何と似ていることか、そして現在の混迷な状態、デタラメな思想は、当時にもあって、且またすべて滅茶苦茶だったことがよくわかる。
 中央公園に行くと、おばあさんが孫娘を遊ばせているのを目にする。このおばあさんの容貌は、孫娘の将来を予告している。だから、もし誰かの令夫人の後日の容姿を知りたければ、彼女の祖母を見ればよい。もちろん違いはある。だが総じて言えば、そんなに違わない。我々がエンマ帳を使うのは、このためである。私は、昔からこうだから、現在はもう成すべきことも無く、人々に「過去」に対して畏敬の念を持てとか、過去が我々の命運を決めているなどとは言うつもりは無い。LeBon氏は、「死者の力は生きている者より大きい」と言った。誠に一理あるが、人類は進化発展しているのだ。又、章士●(金+刂)総長の説によれば、米国の何とかいう地方では、進化論を唱えることを禁じた由。これは私を死ぬほど驚かせたが、禁じたいなら禁じさせるまでで、進歩というものは、これはどう転んでも止められないものである。
 要するに、歴史を読むと、中国の改革はいよいよ手を緩めてはならぬとの覚悟ができて来よう。国民性とはいえ、改革が必要なものは改革せねばならぬ。それをしないでは、雑史、雑説に書かれた前車の轍、即ち失敗の前例を学ばないということである。改革すれば孫娘がおばあさんに似てくるなどの心配は無用だ。よい例が、おばあさんの足は纏足で歩行も困難だが、娘は自然の足で、跳びはねたりできる。祖母は天然痘であばたが残っているが、令夫人は種痘のおかげで、つやつやの白い肌。これも大変大きな進歩である。
  十二月八日
二.
 褒めることとけなすこと。(持ち上げることと、掘り下げること)
 中国人は自分を不安にさせる兆のある人間に会うと、これまで二つの方法で、彼を押しつぶしたり、持ちあげたりしてきた。押しつぶすのは、古い習慣と道徳を使い、或いは官の力によって行った。だから孤高な精神の戦士は、民百姓の為に闘おうとして、往々にして、これにやられて亡んだ。それで彼らは安心した。押しつぶせなかったら、今度は持ち上げるのだ。高いところに担ぎあげ、十分に満足させ、自分にとって無害な状況になれば、安心できる。
 利口な人は、利益の為に持ち上げ、勢力家を持ち上げ、役者を持ち上げ、総長の類を持ち上げる。但、一般人は、即ち“儒教の経書”を読んだことの無い人は、持ち上げる“動機”のほとんどは、災厄から免れようと思うからだ。祈り奉る神は、大抵は凶悪な者で、火の神、疫病の神は言うまでも無く、財神も蛇やハリネズミに似た、ひとを脅す畜生である。観音菩薩は良い顔をしているが、これはインドからの輸入で、我々中国の“国神”ではない。要は凡そ持ち上げられるものの十のうち九はロクでもないものである。
 十のうち九がロクでもないものなら、持ち上げられた後、その結果は持ち上げた者の希望に反することになる。不安を増すばかりでなく、怖れを生むことになる。人心というものは、そう簡単に満足しないもので、人々は今に至るもそれを悟らず、持ち上げるのが一時的な安心に過ぎないとは思っている。
 笑話の本に、名は忘れたが、「笑林広記」だったか、ある知県の誕生祝いに彼は子年だったので、部下は金を集めて金のネズミを祝いに贈った。知県はもらった後、別の折に言った。来年は家内が五十歳だ。彼女は私より一年若い牛年だ。もし金のネズミを贈らなかったら、彼は金の牛を思いつきもしなかったろう。一度始めると収拾がつかなくなり、金の牛は贈る力も無いが、仮に贈ったら彼の妾は象年になるかもしれぬ。象は十二支に入っていないから理にかなっていないが、これは私が思いついた話で、知県は我々が考えもしないもっと巧妙な方法を持っていよう。
 辛亥革命の時、私はS城にいて、(革命政府の)都督がやってきた。彼は匪賊の出だが、「経典」を読んだことは無かったけれど、大局をみることはでき、世論を聞くこともできたが、紳士から庶民まで、祖伝の担ぎ揚げで持ち上げられた。こちらで表敬訪問、あちらで御接待、今日は衣服をもらい、明日は高級料亭、持ち上げられて彼はその本分を忘れ、結果、旧来の官僚と同じになり、地上の富を削り取り始めた。(この表現を魯迅は“地表を削り取る”と言う意味の“刮地皮”という成語を使っている、それが次の黄河の氾濫対策提言への導入となる:訳者注)
 一番奇怪なことは、北方各省の河道で、河の全身を持ち上げて、屋根より高くしてしまった。最初は決壊を防ぐために土を積んだ。あにはからんや、積み上げれば積み上げるほど高くなり、一旦決壊すると被害は甚大になる。そこで競って堤を高くし、堤を護り、決壊を防ぐ方法を考える。方法が増えるほど、民は苦労する。もし、最初から河川が氾濫したら、堤をかさ上げせず、川底を掘るようにすれば、このようなことにならないで済むと思う。
 金の牛をむさぼらんとする者には、金のネズミはおろか、死んだネズミすら贈ってはならない。そうなれば、こうした輩の誕生祝いをする必要も無く、誕生祝いに出向かなくてもすむようになれば、これはもう大変な快事である。
 中国人が自らを苦しくさせている根底には、この持ち上げがある。「自ら多幸を求める」道は、掘り下げることにある。その実、労力の量は大差ないのだ。但、惰性に流されている人は、持ち上げる方が省力だと思っている。
 十二月十日
三.
 トップとビリ
 「韓非子」は競馬の奥義を説くに、「トップにならず、ビリを恥じず」と言う。これは我々門外漢から見ても理にかなっているようだ。仮に初めから力いっぱい走ると、途中で馬力が尽きやすい。但、この句は競馬にのみ適用されるべきなのが、不幸にも中国人は処世の金言にしてしまっている。
 中国人は「謀反軍のトップになるな」だけでなく、「災禍を引き起こす首領となるな」や果ては「福の先駆けになるな」などという。だから、すべての改革が容易ではない。先駆けと突撃大将には誰もなりたがらない。しかし人生は道家の人が言うように、恬淡になることですむ訳にはゆかない。それでいて欲しい物はたくさんある。もしまっとうに得ようとしないなら、陰謀と手管を使うしかない。そのため、ひとは日ごとに卑怯になり、「トップになろうとしない」し、「ビリを恥じて」しまう。したがって群衆も危ないと見るや、さっと「鳥や動物のように逃げ去る」。偶に数人が退却せず、害されると、世の評論家たちは、異口同音にバカ呼ばわりする。「こつこつやる」人に対しても同じだ。
 学校の運動会を見た。これはもともと二国間の戦争でもないのに、仇敵視し、競って罵り、殴り合いまでする始末。まあこの件は又別の機会に論じよう。今話すのは、徒競争の時だ。大抵は先頭の三四人がゴールに着くと、それ以外の者はだらけて、数人は所定のコースを走る気も無くして、途中で観客席に紛れ込み、或いはわざと転んで、赤十字の担架で担がれる。もし落後しても完走すると、完走した人を観衆が嘲笑う。多分彼はトンマで「ビリを恥じない」からだ。
 中国にはこれまで、失敗せる英雄は少なく、粘り強い反抗も少なかった。単騎決戦に臨む武人も少なく,反逆者を哭す弔問者も少ない。勝ちそうだとみるや、その周りに群がり、負けそうだと、一目散に逃げ出す。武器が我々より優れた欧米人、我々よりさして優れた武器を持たない匈奴、蒙古、満州人も、すべて無人の境に侵入してきたごとしだ。「土崩瓦解」の四文字はまことにこれを形容していて、自分のことは自分が一番よく知っているということを物語る。
 「ビリを恥じない」人の多い民族は、何事であれ一気に「土崩瓦解」する心配はない。運動会を見るとき、いつも思うのだが、優勝者には敬意を表すべきだが、遅れても、ゴールまで走り終える人と、これを見ても嘲笑わない観客は、正に中国の将来の背骨だろう。
四.
 流産と断種
 近頃、青年の創作に対して、一旦「流産」という悪評がでると、わっとばかりにそれに悪乗りするのが沢山いる。私は信じているが、もともとこの言葉を使った人は、悪意は無かったのだが、偶々そう言うと、それに同調するものも出てくるのは理解できる。世事はもともと大概こうなのだから。
 私はいまひとつ分からないのだが、中国人はなぜ古い事に対して、心は安寧で気持ちも和らぐのだろう。新しい機運に対しては、すぐにも拒絶反応を起し、既成の事にはそんなに完全を求めぬのに、新興のことにはなぜこんなに完全を求めて責めたてるのか。
 知識水準も高く、眼光も遠大な諸先生は我々を指導して、生まれてきた者がもし、聖賢、豪傑、天才でなければ、生まなくてよい。書いたものが不朽の作品でないなら書かなくてよい。改革がすぐ極楽世界に変わるのでなければ、或いは少なくとも我々により多くのメリットを与えてくれないなら、手を出すな!という。
 それなら彼は保守派か?というとそうではない、と。彼は正しく革命家だ。だが、只、公平、正当、穏健、円満、平和で弊害の無い改革法を目下研究中で、まだうまく研究しきれてないという。
 いつ研究成果が出るのか? まだ分からないとの応え。
 子どもの最初の一歩は、大人から見ると確かに幼稚で、危険で、様になっていない。或いはまったくおかしな格好である。ただ、どんな愚かな婦人も、切なる望みは子が第一歩を踏み出すことで、彼の歩き方が幼稚なため、金持ちの車の前に出てひき殺されるのを心配して、ベッドに縛りつけて、横にさせたまま、跳ぶように走れるようになるまで研究させてから、地上に下ろすようなことはしない。彼女はもしそんなことをしたら、百歳になっても歩けないことを知っている。
 昔からこうである、ということでいわゆる読書人は新しく出てきた人に対して、手を換え品を換えて、彼らを縛りつけてきた。近頃は、多少遠慮し、誰か出てくると、大抵は学士文人たちが道をさえぎり、暫く待ちなさい、まあお掛けなさい、と言う。そして道理を説き、調査研究推敲修養…、結果は元の場所にずっと死んだように留まらせる。
さもなければ「かき乱した」との称号を与える。私も今の青年同様、もう亡くなった導師
や存命の人にどう進むべきか訊ねた。彼らは口々に、東に向かってはならん。そして、西
も、南も、北もだめ。だが、東に向かえとか、西へ、南へ、北へとは言わなかった。結局
彼らの心の底にあるものを発見した。それはただ「動くな」だった。
 坐して安寧を待ち、前進を待て。もしそれができれば大変すばらしい。但し、心配なの
は、死ぬまで待っても、待っているものは来ず、生育もせず、流産もせず、一人の英明な
子の生まれるのを待つ。もちろんそうなれば喜ばしいことだが、心配なのはついに何もな
いまま終わることだ。
 もし生まれる子が抜群に優れた子でなければ、断種したほうがましだ、というなら何を
かいわんや。話にもならない。我々が永遠に人類の足音を聞こうとするなら、私は流産は生まないより、希望があると思う。これは明白に出産できることを証明しているから。
  十二月二十日              2020.8.3.訳
 
 訳者あとがき
 平安の昔、菅原道真の出世が余りに早すぎたので、それをねたんだ藤原一族が考え出したのが、「官打ち」という手段だそうだ。菅原家の身分以上に高位の右大臣に持ち上げ、天皇の廃立まで左右できる権力を行使させておいて、最後はザン言により、大宰府に左遷させられた。今回、菅総理が同じ目に会わないことを祈るばかりだ。
 中国でも、宋代に新法党の王安石と党争した旧法党の蘇軾は、何回も地方に左遷されながら、新法党の失脚で中央に戻ったが、やはり上記と同様の「官打ち」に遭い、それを事前に察知して、自ら地方赴任を願いでたなどの話が伝わっている。
 蘇軾が白楽天にならって、西湖の底を浚えて、その土で蘇堤を造った話は有名だ。冬の雨の少ない季節に、湖底や川底を浚える法は南方では可能であったが、北方ではどうだっただろう。
 魯迅はこの作品で、北の人々が、黄河の洪水防止のために、堤を年々高くして、結局は被害を甚大なものにしているから、却って川底を掘り下げる方が良いと説いている。
 阪神間の川は、ほとんど天井川と言われるように、川底の方が高くなっている。本来、川の水は川底を削り取って海に流れるので、川の自然の力に任せて削り取りやすいように、分水を何本も掘り下げて、堤は高くしすぎないのが洪水防止には良いと思う。
 ただ、魯迅の故郷のあたりと違って、黄河はとてつもない量の黄砂を一気に流し込んでくるので、掘り下げれば掘り下げただけ、すぐ溜まってしまうことが問題だろう。最近はダムと分水と取水及び気候変動で、断水現象に悩まされているのも皮肉な結果だ。
南方の洞庭湖は、唐の詩人が歌ったように、「八月湖水平らかなり」で、この平らというのは、最初どういう意味か分からなかったが、夏の大雨によって、水面が岸と同じ高さまで来ている、すなわち水と地は同じ水平線、地平線にあるということで、夏に江南を旅して実感した。江南の水路は地面とあまり段差がないので、そこに架かる橋は水郷の風景でおなじみの下に小舟が通過できるように、丸か台形の高い橋を架けており、それで「高橋」と呼ぶそうだ。もちろん南京や内陸の大都市周辺は高い堤で持ち上げているが、洪水対策用の大きな湖やその支流は水と平らになる。従って、いつあふれ出してもよいように、農家は3-4階建の家を造って避難する。
 三峡ダムも本来ダムのある宜昌あたりは、海抜数十メートルだった水位は今185Mを超えている。この水位がまさしく上流のダム湖の八月湖水平らなり、を生じさせた。何百キロも上流の重慶の水位は175メートルを超え、あれほどの険しい峡谷の崖に立つ住居を水没させて、なお且つ下流に流れて行く速度が緩慢なため、重慶市街も大洪水となってしまった。185メートルのダムというのは、魯迅の反対した堤を高く持ち上げた結果だが、この湖底の底を掘り下げるのは、人類の知恵と手の届かぬところにあるようだ。うまく放水で湖底を掘り下げられれば良いのだが。
 2―3百年前の地図には、上海は正しく海の上だったので、海岸線はだいぶ内陸にあった。あと2-3百年しても、海岸線は過去3百年のようには延び出していないだろうな。
 

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