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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「過激」談義

本や雑誌を携えて「香江」を渡ると、「危険文書」所持の嫌疑で、「鉄格子に入れられ、斧やマサカリの味をなめさせられる」危険性について、「香港略談」で触れた。しかしどんなものが「危険文書」なのか知らぬので、これまで気になっていた。何故か?上海保安会の言う「中国の元気が損なわれる」為ではなく、自分の為である。香港に行く時、注意せねばならぬからだ。
 今年は青年がいとも簡単に殺される年だ。「千里、風同じからず、百里、俗
同じからず」という。ここで平常と考えていても、あちらでは過激となり、煮えたぎった油に手を入れて火傷してしまう。今日正しいことが明日犯罪になり、藤のムチで尻叩きにあう。田舎から出てきた若者は、きっと訳も分からないだろう。今行われているのはこういう制度だと思うしかない。私は一昨年45才で「心身ともに病」んでしまったから、この大切な命を心配する必要はないといわれた。しかしそれは他人の意見であって、自分としては何も好き好んで苦しい目に会いたくは無い。「新時代の青年」の御賢察を賜れば幸い也。(上記を書いた者への皮肉)
 それゆえに念には念を入れるべきだ。そう思っていた矢先「天は自ら助くる者を助く」で今日の「循環日報」に参考となる資料が出た。広州執信学校の学生が香港行! 「尖沙嘴埠頭で157号の華人巡査に行李を検査され、中に過激な文書7冊が見つかった。その7冊は:執信学校発行の「宣伝大綱」6冊と「侵略奪略の中国史」1冊。この種過激文書は中国人署管の翻訳員の選訳が完了し、昨日昼、解由連司の訊問後、過激文書保持の容疑で控訴…」引用するのも煩わしいので、大意は「選訳」している間、五百元の保証金を積まされた上に、後に被告が、友人に頼まれたものと供述せるため、「25元に減刑され、本は没収後焚書」と。
 執信学校は広州の普通の学校で、すでに「清党」後だから、「宣伝大綱」は
三民主義に他ならないが、尖沙嘴に行くと「過激」となる。恐るべし。ただ、
友邦(イギリス)に対して「侵略略奪」の文字はやや「過激」を免れぬ。というのも彼らはまさしく、我々に替わって「国粋保存」してくれている恩故があるからだ。但し「侵略略奪」の前に何か別の文字があったのを、記者は記述を憚ったのかも知れない。
 以前、元朝時代について触れたことがあるが、今夜考えてみると、余り正確ではなかった。元の漢籍への対応は、それまでこんなにも神経を使ったことはないほどであった。それが清朝へのモデルとなった。彼らは何回も「文字の獄」を行っただけでなく、叛徒を大量に殺し、且また宋代の「過激文書」も細心の注意を払って改刪した。同胞が「復古」に熱心なのと、友邦の「復古」賛助者は、
これを師の法と奉じて大切にしているようだ。
 私は清代の人が、宋代書物の改竄について「茅亭客話」に触れた。がこの本は「琳琅秘室叢書」の中にあり、時価40元もするので金持ちでないと買えない。
近頃別に商務印書館から「鶏肋編」が出た。宋の荘季裕著で一冊5元と安い。清朝の文瀾閣(四庫文書)本と元の抄本がどう改竄されたか下記す。
 
 『 「燕の地の… 女子…冬にトウカラスウリを顔に塗り…春暖かくなりて、
洗浄。久しく風に当たらなかった故、玉の如き白さ。今中国の婦女はことごとく殊に俗に汚れ、漢唐和親の計は蓋し未だ屈せざる也」(清朝は“今の中国”以下の22字を“それは南方とはこのように異なる”の7字に改作)
「古くより兵乱時には郡邑が焼き尽くされ、盗賊は残虐だったが、家屋は必ず大事にして生存者も残した。靖康の後、金虜が中国を侵略凌辱し、露天に住んで俗を異にし、通過せしところ、ことごとく焼き尽くされた。
曲阜の先聖(孔子)の旧宅は、魯共王の後より、増築を重ねてきて、莽卓巣温の徒も儒を崇め、これを犯そうとはしなかった。金、寇ずるや終に煙土に変ず。
その像を指し謗って曰く:これは夷狄の君子。中原の禍、甲骨文字以来、未だ見たことの無い事也」(清の改作は大きな違いで、「孔子宅は現在故魯の城の帰徳門内の城壁の中に遷った。… 漢中の微に遭い、盗賊が奔突し、西京から未央建章之殿まで、ことごとく崩され壊され、霊光のみ毅然と存す。今その遺址を見ることはできない。先聖の旧宅は近日また兵火の厄に遭い嘆かわしい) 』
 
 引用も面倒ゆえもう止める。ただ第2条で上海保安会の切望する「規則遵守」
の道を悟ることができた。即ち:原文が憤慨しているのは「過激」であり、改作は嘆かわしい事に過ぎないのは「規則遵守」をしているからだ。何故か?
憤激は竿を掲げて始めることができるが、「嘆ずべし」というだけなら、ただ
呆然としているだけで、たとえ全国がこぞって嘆息しても、結果は嘆息に過ぎず、「治安」に対して何の妨害にもならない。
 ただ、青年に警告したいのは:我々は只「嘆ずべき」云々の文なら安全だと考えないで欲しい。新例はまだ見てないが、清朝の古い例をみると、嘆息を許すのは、古人への優待で、今の人には適用されぬ。奴隷はただ嘆息するだけだから大きな害も無いはずだが、主人は気分を害する。
 バートランド ラッセルの称賛した杭州の籠かきのように、常にニコニコ笑っていなければならない。(1920年訪中したラッセルが、杭州の籠かきたちが、
休憩時になんの憂いも無い如く四六時中ニコニコ世間話をしている、と「中国問題」に書いたことを指す:出版社)
 だがこれに私の解釈を加えると:“ニコニコ笑う”のは、けなしているように響くが、決して「階級闘争」を鼓吹するつもりはない。それはこの文章を杭州の籠かきが目にすることは無い事を知っているからだ。況や、「赤狩り」の諸君はニコニコ笑って籠をかこうとはしなだろうし、籠かきを苦しい労働とし、「乱党」くらいにしか思わぬ。況や私の議論も実際は「嘆ずべし」に過ぎぬから。
 今、書籍が往々にして「過激」といわれるが、古人の書籍も禁忌に触れたのが多々あった。ならば中国の為に「国粋を保存する」にはどうすべきか。
よく解らぬ。今マカオで「征詩」を行っており、全部で7,856冊が「江霞公太史(孔殷)の評閲」後、二百名を収録した。第一名の詩は:
 南中多楽日高会・・・ 良時厚意願得常・・・
 陵松万章発文彩・・・ 百年貴寿斉輝光・・・
これは香港の新聞からの引用だが、一連が三圏、原本もこの通り。多分秘密の圏(策略)と思われる。この詩は多分「嵌字格」の如き「格」であり、門外漢はこれ以上の詮索はやめるが、これから私が得た物は、ふと将来の「国粋」を
悟ったことである。それは詩詞駢文が正宗だということ。史学などは必ずしも発達しない。研究するなら、先ず老師や大先生の手を借りて、改定をしてもらわねばならない。ただ詩詞駢文なら、弊害が少なくてすみそうだ。故に駢文の神様と言われた饒漢祥の死は日本人も慨嘆し、「狂徒」はまた罵られた。
 日本人は北京で駢文を拝服し、香港の「金制軍」「国故整理」は中国を愛護し、
その滅ぶのを怖れるのは、その最たるものと言うべし。
しかるに物品通過税廃止に皆が賛成しないのは何ゆえか?通過税は国粋で、(輸入)関税は国粋ではないゆえ也。(当時国内取引には通過税徴収が横行していたが、これを廃止しようとした動きに誰も賛成しなかったことが背景にある)
「これまた嘆ずべきか」
 
 今日は仲秋、璧のごとき月は澄み、嘆息は既に完了せるも、眠りに就こうとは思わぬ。重ねて「征詩」を吟じ、わけもわからぬ。原稿用紙は余白あり。よりて「江霞公太史(孔殷)の評閲」を録し、読者にその良いところを供す。
但し、圏点は僭越にも私が付けた――
 『啓に謝すと題して、わずか28字。古詩19首中の字、復嵌し、すべて内字に限定。首二句は賦、三句は興、末句は興と比。歩みは整然、挙重も軽き若し、絶対頑張らない。虚室に白を生じ、吉祥止止。洵属巧中に巧を生ずるも、難の上に難を加う。その胎息(道家の修練術、胎児の如く、口と鼻を使わずに呼吸すること)の高尚古雅、意義の純粋、格調の渋さ、漢魏の古詩、寝食を忘れ長年学ばずば、この境地に至るは易からず』
      九月十一日、広州
訳者雑感:
 官憲から「過激」とみなされたら、監獄に入れられ、親族から保釈金を積ませて出獄できたが、所持していた本は没収の上、焼却となった。警官側の金儲けという面も否定できない。牢に入れられた若者を金で救い出すのは親の務めであった。過激文書保持は格好の標的だった。
元代、清代の「文字の獄」を引き合いに出して、金の悪口が一杯書いてある
歴史書はモンゴル人には何ともなかったが、金と同じ女真族の満州人によって、
徹底的に改竄された、云々というのが面白い。そう書きなおさなかった頑固な歴史家たちは「文字の獄」に繋がれた。それでもその遺志は子に引き継がれた。
 いずれにせよ、新しい政権が発足して、暫くして「文字を読み書きする」人たちが、政権批判を始めると、それを厳重に取りしまるのが歴代王朝の、特に
異民族の征服王朝が神経を使ったところだ。中国の半分くらいは異民族統治だと言われている。
今の政権は、別に異民族の征服政権でもないから、清朝のように神経を尖らして「文字の獄」を行う必要はないと思われるのだが、天安門事件とかエジプト
とかの文字があると、その文書が削除されるという伝統は、変わっていないようだ。インターネットの時代でも昔と変わらない。
 一方で、ラッセルの指摘するように、休憩時間中に仲間同士でニコニコ笑いながら、世間話をしてなんの屈託もないように見える籠かきたちの楽天。これも今も変わっていない。九割がたこれだ。
 「過激」について、後半の「嵌め字の詩」の解釈はてこずった。誤訳多々ありと思うので、将来訂正したい。
  2011/02/24

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魯迅の無菌化

チュニジアに端を発した独裁政権打倒の動きはエジプト、リビアにまで星火燎原
のごとく広がりつつある。その速さは火の速さより速い光の速さのようだ。
中国も自らを独裁政権と認識している。かつては無産階級(プロレタリア)専政
という言葉を使っていた。専制政治を短縮して専政という。日本語訳は独裁となる。
今は共産党の一党専政と標榜し、他の会派、党派は国政への参加を認めず、
ただ参考までに意見を聞きましょうという「政治協商会議」でガス抜きをしている。

 2月23日の朝日新聞の天声人語に、マーク トウエインの「ハックルベリー フィン
の冒険」のニガーという言葉が2百も出てくるのをスレーブという言葉にして
子供たちにも読んでもらおうとしていることに対して、NY タイムズが
「無菌化」と批判していることを紹介している。
この本は発売当時から「若草物語」の作者オルコットが、粗野で無教養だとして
発売禁止を働きかけていた由。
天声人語は この作品が子供たちにどういう影響を与えるか、ニガー派と
スレーブ派の双方が侃侃諤々議論を戦わせることが大事だと結んでいる。

 昨年、魯迅の全身にすっぽりとコンドームを被せてしまっている図柄が
インターネットにも表れた。
趙無眠のホームページより。 意味するところは、政権批判、あるいは1920年代で譬えれば、
オルコットに代表されるような中国の文人学者(正人君子)の猛烈な否定、
北京から逃れなければならぬほどの身の危険をも顧みず、刺激的な「匕首」
のような鋭い言葉で、論敵を徹底批判した魯迅のような「振る舞い」を、
現代の作家や反政府分子が「再演」することのないように、
すっぽりとコンドームで包んでしまう。
こうすれば、魯迅の言葉のような「スペルマ」も外部に発射されることは無く、
現体制への批判者も
同様に何か発したら「魯迅のコンドーム」を被せるぞよ、と脅している訳だ。

魯迅の無菌化。 
そして魯迅のスペルマを受け継いだ「作家」が誕生することのないように、と。
今の政権にとっては、魯迅の子供たちが、孫悟空の髪から生まれたように
うじゃうじゃでてきてもらっては、迷惑この上ない。
ちなみに岩波版の西田実訳ではニガーを「黒んぼ」と訳した理由を解説している由。
「ちびくろサンボ」という人気絵本が販売自粛?禁止になって久しい。
「阿Q正伝」(大胆に意訳すると「辮髪男はつらいよ」)もひょっとすると中身が
「無菌化」されるか、或いは「ハックルベリー」と同様、学校の生徒には読ませない
ように指導されるかもしれない。
今の中国は その是非をめぐって侃侃諤々議論できる状況にはない。
かえって1920年代の方が、文字の獄で捕えられて斧や鉞で首を切られる心配は
あったが,それでも出版することはなんとかできたそうだ。
それも30年代にはかなわなくなったと魯迅たちも嘆じている。  2011.2.23.

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「阿Q」を書いたころの魯迅

古い本を整理していたら、大学3年のころの語劇に「阿Q正伝」をやった時の学園祭のパンフレットに投稿した原稿がでてきた。竹内好の文章を参考にしたようだ。 1968年秋ごろ書いたものだが、ここに書き出してみる。その年の夏に1か月ほど
広州、長沙、韶山、井岡山、南昌、上海、北京、天津などを訪れた。まさに文革華やかなりし時で、公園の植木の横には、「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指…という魯迅の詩文があちこちに立っていた」
昭和43年11月21日の語劇のパンフレットには「魯迅の素顔」と題している。
 崇高な理想をかかげた孫文の辛亥革命も、いたずらに清朝政府を倒したまでのことに過ぎず、
革命に大きな期待を寄せていた魯迅(当時31才)のはかない希望はことごとくうちくだかれていった。
1918年(すなわち彼38才の時)「狂人日記」を新青年に発表し、つづいて41才の時「晨報」に
「阿Q正伝」を発表した。
 辛亥革命前後、全中国に存在した阿Qとそのとりまき連中、彼らのふるまいを紹興の一中学教師として
ながめ、また革命成立以後も、南京、北京と政府に出仕して、政府の役人として日々の生活を送り、
そうすることによって、体験的に余りにも身辺的すぎる原体験として、革命をうけとめ、その失敗(即ち絶望)
をなめつくした。
 小説を書きだすまでは、古い石刻の拓本を集めたり、中国小説史に関する資料を集めたり校訂したりして
やや逃避的とも思われる生活を送っていた。
 革命の理想(希望)があまりにもみごとに、あっけなくくずれ去るのに耐えられず、かといって力になる
ことは果しえず、小説を書き出して、はっきりと自己を確立するまで、彼は悩み続けたに違いない。
 当時彼は「阿Q的現実」の中国を憂い、革命の首都北京で、石刻の拓本をしている自分を恥じのろった。
そうした思いにかられるとき、たまらなく「寂莫」を感じ、ものを―即ち「阿Q」を―書かずにはおられなくなった
のであろう。
 革命に対する希望が絶望への変わり、その絶望も日常茶飯事となってみれば、希望を信じることが
できないのと同様、自分自身に対する絶望さえも信じることはできなくなったのである。
絶望が信じられなくなったら――どうなるか。もともと希望が信じられなのだから。
絶望が信じられないからと言って、さわぐにはあたらない。
 しかしそれでもなお彼は「人は生きなければならない」ということを信じ、「次代が自分に似ぬ」ことを
希望し、「二度と阿Qの悲劇がくりかえされない」ことを願わずにはいられなかったのである。
 原稿料のためなどでないことはいうまでもなく、彼はこの「阿Q」を書いたとき、中国人のためとか
革命のためとかいうことより以上に、自分自身のため、即ち自分自身を「阿Q」の世界から脱出
させるために、自分自身をより強くするために、自分の弱さを、あらいざらい、ことごとくしぼり出すために
「阿Q」を書かずにはおれなかったのであろう。
 ロマン ロランはこういったそうだ。「この風刺的な写実小説は世界的なものだ。フランス大革命の
時にも阿Qはいた。私は阿Qの苦しそうな顔を永久に忘れることはできない」と。
 絶望之為虚望、正与希望相同。絶望の虚望なること、正に希望に相同じい。









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「首領」は辞退します

この2年、北京で「正人君子」にやられて海辺に逃れ、その後またもや「学者」流にやられて別の海辺に逃れ、そこでも又「学者」流にやられて、西日の晒す楼上に逃れ、満身あせもでライチ―のようになり、恐れ謹慎してひと声もあげねば、罪過から免れると思っていたが。ああ、それでも駄目であった。
 某学者が9月に広州に来て、授業のかたわら私を提訴し、私に対してここから離れること相ならぬ、「開廷を待て」と告げてきた。
 (軍閥の)五色旗も(国民党の)青天白日旗の下でも(不運な)華蓋が身に降りかかり、気も腐ってしまったが、それもまだ終わってはいなかったのだ。
どうしたことか、知らず識らずに、「文芸界」で高い位置に昇格させられた。
 信じられないが、陳源教授即西瀅の「閑話」の広告が証拠で、部分引用は意趣が伝わらないから、コピペする(原文;切って貼る)。
 『徐丹甫先生が「学灯」で:「北京は新文学の策源地となり、根もしっかりして、隠然と全国文芸界を牛耳っている。さて何を北京文芸界というか?正しく、
一二年前の北京文芸界は現代派と語絲派の交戦場で、魯迅先生(語絲派の首領)
の依って立つ大義、彼の戦略は「華蓋集」を読んだ人はご存知と思う。但、現代派の義旗とその主将――西瀅先生の戦略は明らかでは無い。今我々は特別に    
西瀅先生と相談し「閑話」から択んで出版し、文芸界の事に関心ある向きは、
必ずや我先に読みたいと思うことだろう。
 しかし、単に「閑話」だけを故事とみなすのは誤りで、西瀅先生の文筆を欣賞し西瀅先生の思想を研究し、文芸界の権威をもっと知りたいと思う人は――
とりもなおさずこの「閑話」を読まざるべからず!』
 
 これは「詩哲」徐志摩先生のどこか「詩哲」流の「文筆」に大変似ていて、かくも飄々然としているから私まで1冊買いたくなってしまいそうだ。しかし
自分の事に思い到ると逡巡してしまう。足掛け2-3年、大して長くもないが、
「正人君子」から「学匪」と呼ばれ、豺虎に食わせるべき悪人扱いされたことを覚えている。雑感を書いてこの西瀅先生に触れることもあった。それらを「詩哲」は見向きもせず、西瀅先生は即刻それを放るべき所(ごみ箱の意)に放ってしまったのも覚えている。後に「華蓋集」として出したのが実態である。
だが私は「北京文芸界」なるものの存在も知らず、私が「語絲派の首領」で「大義」によって、この「文芸界」で「現代派主将」と交戦したのも知らぬ。
「北京文芸界」は徐丹甫先生が「学灯」で示したように隠然と揺るぎない由だが、私は自分がれっきとした戦績があると言われることに対し、訳も分からず、狐の精に騙されたようだ。
 現代派の文芸はこれまで注意してこなかったから、「華蓋集」のどこで提起したものやら。ただ某女士が「琵亜詞侶」の絵を窃取したとき、「語絲」で(或いは「京報副刊」でか)誰かが書いたものが、その後の「現代派」の口吻からすると、私が書いたと思っていたようだ。ここで丁重に言明するが、それは私ではない。楊蔭楡女士に負かされて以来、全て女士に憎まれるようなことはせぬよう心がけている。女士に憎まれると、すぐ「男士」の義侠心を引き起こし、
「指名手配」される恐れ有り、二度と口を開かぬ事とした。だから現代派とは何の関わりも無かった。
 それがついに幸運が現れ、「首領」に昇格、次いでかつて現代派の「主将」と
「北京文芸界」で交戦した云々。大したものである。本来部屋の中で喜色を浮かべ、にんまりして辞退したりなどせねば、いい気持ちだろうに。しかし近頃、
人に勝手に抑揚されるため、忽然「権威」になるや、すぐまた「権威」から引きずり落とされ、ただ「先駆」だけを許されたりした:そしてまた唐突に「青年指導者」に改称され:甲は「青年叛徒の領袖」と呼び、乙はふふんと冷笑。
自分としては身動きもならず、故に依然として姓名は何回も昇沈と冷暖を繰り返している。人は勝手なことを言い、私をネタにするのもやむを得ないが、最も恐ろしいのは広告のお世辞と嘲罵。まるで膏薬売り場に架けられた死んだ蛇の皮の如し。だから今回現代派より追封を蒙ったとはいえ、この「首領」なる栄名は、改めてここで公に辞退するほかない。
 だがいつもこんなことばかり書いてはおられぬ。そんなものに付き合っている暇などないのだから。
 背中に「義旗」を差した「主将」の出馬には当然ながら敵はしかるべき武将でなければならぬ。何とか演義の劇でいつも目にするのは「名を名乗れ!我宝刀は、無名の士を斬ることはない」の通り、主将が交戦するとなると私の「首領」への昇格は「やむを得ぬ」次第となる。但し私は決してそうではないし、そんなハッタリをすることはない。(主人のごきげんとりの)狆がキャンキャン鳴こうと、臭いトイレであろうと、なんであれ何回でもつばを吐くのだ。背に五本の尖角のついた(義)旗を差した「主将」が出てこなければ、私が「刀筆」を動かさぬということは無い。もし私が便所を攻撃する文字を見て、それをも私の強敵と考えるようなら、我ながら、吾が心がけが未だ分明ならざるを恨むし、もう一度その臭いをかごうとしても、その責任は負えない。人はこの広告を真に受ける恐れがあるから、ここに声明を発表し、累が及ばぬようにしたい。
西瀅先生の「文筆」「思想」「文芸評論界の権威」については当然「欣賞」し、
研究して「認識」すべし。ただ惜しむらくは、それらを「欣賞」するにも今現在、「閑話」一冊しかない。しかし皆の「主将」のすべての「文芸」の中で、一番は「晨報副刊」の志摩先生宛ての大半は魯迅を痛罵したあの手紙だ。あれは、
かっかして書いたから、紳士のタキシードを脱ぎ捨てた真相が躍如している。更に「閑話」に比べ、まるで別の態度で、二者の内、一方は虚偽であることを証明している。これも西瀅先生の「文筆」などを研究するに格好の材料だ。
 しかしあの手紙にも明確に区別せねばならぬものがある。「志摩、…前方は遥遥茫茫とした薄霧の中に目的地がある」の類。私の見るところ、実際はこのような目的地は無く、もしあるなら何も遥遥茫茫ではない。これは熱がまだ十分高くなっていないせいで、もし(華氏)90度前後に上がったら、こうした遥遥茫茫すらも一掃され純粋に近くなるだろうと思う。
     九月九日、広州。
 
訳者雑感:
 現代派が敵の「首領」と持ち上げたのを、そんなものは願い下げだと反論している。相手は自分たちの「主将」を攻撃してきた魯迅を「首領」と呼ばないと、つり合いがとれないというのだ。
 それに対して、魯迅は何も相手が「主将」でなければ「刀筆」を動かさないということはない。その証拠に、飼い主のご機嫌とるのが上手いとされている
狆や、改革に逆行するような議論ばかりする臭い便所には、何回でもつばを吐きつける、と相手を狆や便所に比している。翻訳していて最初これは何を意味するのか理解できなかった。私の理解は間違っているかもしれない。
 2011/02/20
 

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天乳(ノーブラ)を憂う

「順天時報」(日本人が北京で発行していた中国語新聞:出版社注)が、北京の
辟才胡同女子附属高校主任欧陽暁瀾女士が、断髪した女学生の受験を認めぬと報じていた。断髪した女学生は大変落胆している由。やはり情勢がここまで来ると、彼女もそうせざるを得ぬようだ。但し纏足をしていない女学生は受験できるのはまだ助かる。しかし余りにも「新しもの」拒否の嫌いがある。
 男も女も前世からの冤罪である髪の苦労を嘗めさせられるとは。明末以来の記録を見れば分かる。私は清末に辮髪を切った為、大変な苦しみを味わったから、女学生の断髪には賛成しない。北京の辮髪は袁世凱の命令で切られたが、ことはそう単純ではなく、背後には「刀」があったのだ。さもなくば、今でも街中に辮髪がはびこっているだろう。女子も同様で、皇帝(或いは別の名も可)
が命令して初めて断髪が実施されよう。勿論そうなっても、多くの人は面白くないと思うだろうが、切らざるを得まい。一年、半年も経つともうその理由も忘れ:二年後には髪を伸ばすべきじゃないと思うようになる。そうなると長髪の女学生は「大変落胆」せざるを得ぬ。一部の人が色んな理屈をつけて改変しようと試みても、歴来成功したためしは無い。
 現在の有力者の中にも女子の断髪を主張する人がおるが、残念ながらその立場は堅固ではない。一つの地域に、甲が来て乙が追い出され、丙が来て甲が追い出される。甲は断髪といい、丙は長髪という。長い髪は切られるが、短いのは首を切られる。ここ数年青年は災難続きで、特に女性は大変。新聞に有るところでは断髪を鼓吹したが、後に軍が攻め入り、断髪の女子を見つけると、一本一本髪を抜き、両の乳房を割去までし……。この刑は男子の短髪はすでに全国に公認されているが、女子には許さないとの証だ。両の乳房を取るのは、男のようにすることにより、男のやり方をいたづらに真似させぬようにするためだ。これに比べたら、欧陽暁瀾女士のやり方はそれほど厳しいとは言えないかもしれない。
 今年広州で女学生のブラジャー(旧時は金太郎の前だれ状の布で締め付けた)
着用を禁じ、違反者に50洋銀の罰金を科した。報道では「天乳(ノーブラ)運動」と称した。(清末の)樊増祥のような名文の法令でないのは遺憾だとするものもいた。公文書には「鶏頭肉(水生植物の名で乳首を指す:出版社)などといった洒落た文字は無い。蓋し文人学士たちは飽き足らぬようだ。それ以外には、冷やかしや滑稽な論のみ。こんなことばかりでは、いつまでもこのままらちがあかぬと思う。
 私もかつて「杞憂」したことがある。将来中国の学校出の女性は哺乳能力を失い、乳母を雇わねばならぬ、と。しかし今、ブラだけを責めるのは片手落ちだ。第一に社会思想改良。乳房に対しておおらかになること:第二に衣裳改良。
上衣をスカートの中に入れるようにすること。旗袍と中国の短上衣は乳房の解放には適さない。胸部の下がふくれてしまって不便で、見た目もよくない。
 それに大きな問題は、乳房が大きいことが犯罪とみなされ、受験できなくなることだ。我中国は民国成立前、「(士農工商)の四民の列に入らぬ者」のみが受験できなかった。(賎民とされた者以外は誰でも受験可:出版社注)理屈から言えば、女子の断髪は男女の別を失い、有罪である。ならばノーブラは男女の別を付けることに功があるということになる。しかし世の中の多くは、口舌の争いをしていても方は付かない。要は上諭(皇帝の命令)とか、実際には刀でもって、命じねば誰も言う事を聞かないのである。
 さもなくば、既に「短髪犯」ができた上に、「ノーブラ犯」も増え、或いは
「天足犯(纏足しない)」も出て来よう。嗚呼、女性の身に起こる問題は、特別多いから、人生もこのために苦労が尽きない。
 我々が革新とか進化などの問題とはしないで、もっぱら身の安全だけを考えれば、女学生は長髪で胸を締め、半纏足(纏足した足を途中から自然に戻す;
当時は一名文明足と呼ばれた)が良いと思う。それは私が北から南まで通過した所では、看板や旗幟などはことごとく違っていたが、ことこのような女性に対して、悪口や敵視するようなことは聞かなかったから。
     九月四日。
訳者雑感;
 魯迅の辮髪に対する思いは鬱屈したものがあるようだ。自分は東京で日本式の学生服に断髪の写真を撮り、友人に贈った。しかしその一方で阿Qについては、初めは滑稽な作品として書き出しながら、だんだん書き進む内に社会情勢を映しだす深刻な文章に変じて行った。訳者も不明を恥じるのだが、譚璐美さんの説に依ると、阿QQは英語のQueuekju:)から来ていて、辮髪の意。
Qの字は象形文字で教育された中国人から見ると正に辮髪を後ろから描いたものに見える。
 阿Qが革命に参加しようとした1911年前後は殆どの中国人漢民族が後生大事に辮髪を守っており、魯迅が指摘するように断髪した者は蔑視された。それが無くなったのは、袁世凱が政権を握った後だというから数年は辮髪が街中にあふれていたことだろう。
 本文が書かれた1927年当時は、女子の解放が叫ばれ、纏足禁止(天足運動)
と並んで、四角い金太郎の前だれ状の布で乳房を締めつけるのを廃止(天乳)
しようとの動きがあった。しかし魯迅は、自ら舐めた苦渋にかんがみ、民間からの運動や一部の提唱者の口舌だけで、断髪したりノーブラにするのは、賛成しないと言っている。袁世凱や皇帝が命令を出して、従わなければ「殺す」と
言わなければ、この国の人びとは改変しないのだ、と。それが発令されるまでに新しい動きをとるのは、受験資格を失うし、別の軍閥が来たら、髪の毛を
一本一本抜かれ、乳房を取られてしまうことまであると引用している。           
 
 香港の鳳凰テレビの春節特番で、東アジアで春節廃止に成功したのは日本だけだと報じていた。中国韓国ベトナムは廃止を試みたが成功しなかったという。中国は辛亥革命の後と文革の時に二度廃止したが、数年経って民衆の強い要求により元に戻してしまった。春節で一家が団欒できる休暇でなくなったことが最大の不満であった由。その点、唯一日本だけが廃止できたのは、不思議だという何か東方文化を棄てた国という響きであった。だが、と同時にそれは
日本が異質なのだというニュアンスでもあった。西洋人の価値観から来たと言われる夜の一番短い冬至の後をクリスマスとし、それから1週間後に新年という発想と、それを一年の始めとは認めないという牢とした信念は、明治までの日本を含めた東アジアの生活パターン、農事中心に暮らしてきた東アジアの気候風土に根差したものなのだろう。こればかりは袁世凱が刀で以て命令しても、
毛沢東が破旧立新を命じても、暫くは面従しているが、腹の中で背いたものが
わだかまっていて、時が来たら元に戻すのが一番と心得ているようだ。
 マルクスが唱えた主義も、何十年かは従ってきたが、やはりそれは東方にはそぐわないとして、放擲してしまった。孔子に戻るのは春節に戻ったこととどこか似ている。
   2011/02/18
 

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反「漫談」 


 これまで「語絲」にお世辞など言ったことはない。だが今日は一言いわずに
いられない:確かに愛すべき、と。正に「語絲」の「語絲」たる由縁だ。
 私のような「世故に長けた老人」はもうだめで、思い切ったことも言えず、言いたくなくなったり、何か言うのをためらったり、そこまで言う必要も無いと思って仕舞う。そんな暇があれば、菓子でも食べていた方がましだ、と。
 しかし「語絲」にも迂遠な議論をする人がいる。「教育漫談」がそれだ。教育当局と教育談義をするなど、その一例也。
 「与に語るべきでない者と与に語る」即ち「その不可なるを知りつつ之を為す」きっとこの種の人がいるから世界は寂莫にはならないのだ。この点、私は敬服する。但し、多分「世故」のゆえだろうか、敬服の中にも誹謗の気持ちが混じるのはどうした訳だろう。そしてまた惨めさを悼む気にもなる。
 徐先生はよく知っている人だから、十分熟慮した上で、ついにいささか意見を述べることにした。この意見は私自ら十余年の役人暮らしをして、一ダース以上の教育大臣をこの目で見てきて、一つひとつ体得したものゆえ、本来そう軽々しく公言したくは無いのだが。
「教育当局」と教育を談じる根本的な間違いは、この4字の力点の置き方の誤りに有る:そこが「教育」を行う所と思うのが間違いの元。実際はたいてい
「当局」(大臣、高級幹部、実権掌握者)になろうとするのが目的だからだ。
これは過去の事実で証明できる。重点が「当局」にあるから
1.学校の会計担当が教育大臣をやるも可。
2.教育大臣は瞬時にして内務大臣に転じることも可。
3.司法大臣、海軍大臣も教育大臣を兼任可。
 かつて有る大臣は彼が大臣になれたのは、某公司設立法案の議決の際に、もう一人賛成者を増やすために再就任した、と発言。しかしそれでも人は彼に、
教育について相談に来たという。私は痛感するのだが、このような実直な人は、
全員即刻家に帰って、奥方のお相手でお茶を楽しむように命ずべしと思う。
 従って、教育当局の十人中九人は「当局」になることに意があるのだが、
一部には「当局」になろうとすることすら意中に無い者もいる。
 こう言うと、それなら彼は何のために策動するのか?と訊く人がいる。私は顔色が変わる程怒って:彼は「当局」になるため、露骨に言えば「大官」になるためだ! さもなくば何ゆえ「官になる、官をする」というのか?
 この奥妙な学説を体得したのはなまやさしい事では無かった。やや学者的高慢さを免れぬが、徐先生、お許しください。以下に私がこの学説を得た歴史を
略述します。――
 私が目の当たりにした一ダース以上の大臣の内、2人は部下の条陳(意見を箇条書きにした提案報告書)を見るのが好きであった。それで部下は次から次に報告し、長い間続けたが、全て大海に沈む石の如し。当時私もそんな賢くなかったし、心の中ではそんなに沢山の報告書を出しても、一つとして採用すべきものがなかったのか、それとも読む暇がないのかといぶかった。今ふり返ってみると、私も上司の所に伺った時、いつも彼が背をビンと伸ばして報告書を読んでいる姿を目にした:話している間にも、「報告書を読まねばならぬ」とか「昨晩報告書を読んだ」などの話をよく聞いた。あれはいったい何だったのか?
 ある日彼の報告書が置かれている机の傍らを通って外に出た。そのときどうしたはずみか、忽然聖霊の啓示があり、恍然と悟った。――
 おおー! 彼の「大官へ昇進する過程」上に、「報告書を読む」という一項があるのだ。「読」みたいから「報告書」がないといけないのだ。なんのために
「報告書」を読みたいか?それはとりもなおさず、「大官になる」ための一部分だからだ。ただそれだけなのだ。私がそれ以上の余計な望みを持ったのは、自分自身が愚かであったに過ぎぬ。
「一条の光が射し込んだ」それ以降は我ながら物事がよく分かるようになったと感じ、老官僚に近くなった。その後、「孤桐先生」に解雇されたがそれはまた別のことだ。
「報告書を読む」ことと「教育を弁ずる」ことは同じ例で、字面に照らして理解すべきで、もしそれ以上に或いは更に大きな希望と要求をするのは、読書ボケでなければ、分に安んじない人間のすることだ。
 もうひとつ警告すると:もしもっとスマートな当局にあったら「漫談を読む」事も彼の「官になる」――名付けて曰く「教育に留意する」ことになる――
但しそれは「教育」とはまったく何の関係も無いのだ。
                 九月四日。
訳者雑感:
 出版注に依ると、魯迅が教育省に勤務した19122月から267月までの14年間に教育大臣或いは代理大臣は27人も変わった由。トップもどこかの国のようにころころ変わったのだが、それにしても乱世のなせる技ではある。
 魯迅がここで知人の徐さんが「教育当局」と教育を漫談したのを取り上げて、
反「漫談」を展開している。教育に力点の無い、「大官になる野心」だけの高級幹部と漫談して、何の足しになるのか? 教育部に身を置くのは、青少年の教育を弁ずるためではなく、自身の立身出世、大官に昇進するための踏み台としか考えていない役人を相手に漫談しても、百害あって一利なしだ、と徹底批判し、彼の14年で体得した事実を歴史的に記す。提案報告書ばかりがやたらに提出されて、それが大海に沈む石の如しで、何ひとつ具現しない。
訳者が北京駐在していた1980年当時、中国共産党の政府組織は大変巨大なもので、紡績から鉄鋼、化学品など商品ごとに一つの省が設けられ、例えば石炭省とか冶金工業省など大変な数の「当局」が全ての産業を国有企業の傘の下に置いていた。そして驚くべきことに、それぞれの省に十数人の副大臣がいて、まるで一昔前のアメリカの会社のVice Presidentの様相を呈していた。それが
中国で「党員」になり、「官」になって、「立身出世」し「名を上げる」ことが
共産党員の本分と考えられてもいた。国の為より自己の出世が大事であった。
 このことは80年前のみでなく、何百年もの間に築かれて伝わった伝統であり
それが何億の民の上に胡坐をかいていた。胡坐をかけるようになるために、
出世競争に勝利するために、「報告書を読み」「上司や周囲にうまく説明し、取りいることが上手になるよう」研鑽を積んだものだ。
 その後、沢山いた副大臣は大幅に削減され、省自体も大幅に減って、所謂
現業を統治管理する省は廃止された。だが、全国各地の地方政府ではかつての中央のやり方を真似て、したい放題のことができる「当局の長」が五万といる。
そしてその多くが腐敗して、規律委員会で解職されている。つい数日前の鉄道省の劉大臣の辿った道である。低学歴ながら、江沢民前主席へとりいることが巧みであったと報じられている。
2011/02/16
 

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「大義」は返上します

去年、正人君子達の「孤桐先生」に睨まれて八方ふさがりとなり、北京脱出を余儀なくされた後、一言も発せずに1年余が経った。正人君子達はこの「学者ゴロ」をもう忘れたと思っていたが、なんとまだ覚えていた。
 インドにタゴールがいる。彼は中国に来て竺震旦と言う名にした。彼が「新月集」を書き、この震旦に新月社ができた。――経緯は知らぬが――現在又、
新月書店ができた。新月書店が「閑話」を出そうとし、次の広告を出した。
 「魯迅先生(語絲派の首領)の依って立つ大義、彼の戦略は『華蓋集』を読んだ人はきっと知っていると思う。但し、現代派の義旗と、その主将――西瀅先生の戦略は、まだ明らかにはされていない…」
 派や首領など、この種の謚(おくり)名の付け方は実に恐ろしいものがある。
すぐまた別の人がそれを取り消して罵る。甲は:見ろ!魯迅が突如首領と称しているぞ。天下にこんな首領があってたまるか。と言い。乙は:彼はもっぱら虚栄が好きなだけさ。人が彼を首領と呼び、彼もたいへん喜んでいるのをこの目で見た、と。
 しかしこれは何度も教わった教訓から、奇とも何とも思わない。だが今回、
新鮮で恐ろしいと感じたのは、突然、大切な「大義」を我が手に握らせ、大きな旗を持たせて、私に「現代派」の「主将」と対決させようとしていることだ。
私は先に書いたように、公理と正義は正人君子に奪われてしまったから、手元には何も無い。大義なるものも、それが円柱形か楕円かすら知らぬから、私にどのように対決させようとするのか。
 「主将」は当然「義旗」という体面を持っている。しかし私はそのような
「礼帽」を持っていない。派を作らないし、首領にもなっていないから「依って立つ大義」など持ったことも無い。また「戦略」も無いし、広告を見るまで、
西瀅先生が「現代派」の主将とは知らなかったので――これまでは彼のことは、
反動派の三下だと思っていた。
 私は自分について知っているのは以下の通りだ。
「孤桐先生」は今なおご健在で、「現代派」は私のことを「学者ゴロ」「学匪」と呼ばわっていたことをお忘れになったとは思わぬ。それがあろうことか今
突然「魯迅先生」は「大義」云々などを使いだしたのは、単に広告のために過ぎぬと思う。
 嗚呼、魯迅魯迅。どれだけの広告が汝の名を借りて為されたことよ!
    九月三日。
訳者雑感:
 沈黙を守って1年余。相手側が出版物販促の広告に、あれほど「学者ゴロ」とかのレッテルで誹謗してきた魯迅の名を出して、しかも「大義」を持っているかのごとくに書いて、自分たちの「主将」と対決させようとしている。
出版業界、(ジャーナリズムに携わる人間も含めて)その道で名を売って表舞台に躍り出ようとする輩は、今も昔も、著名な作家の名を使って、それに対決するような姿勢を取って、それを踏み石にしてのし上がろうとする。人間のやることは変わらない。
   2011/02/15

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有恒さんに答えて


有恒様:
今日「北新」で貴方の文拝見。私に対する希望と好意あふれるご意見に感謝します、それは貴方の文章からよくわかります。今ここで簡略に私の考えを述べ、貴方と同じ意見を持つ諸兄にも併せお答えします。
今、時間はたっぷりあり、字を書く暇も無いということはありません。だが、議論しなくなってだいぶ経ちました。沈黙の予定は2年間、と昨夏に決めたのですが、それはたいして重要でもなく、児戯のようなものです。今、沈黙している理由は、以前の理由と違います。アモイを離れる時、考えが変わったためです。
この変化の経緯は説明しだすと厄介ですから暫く置いておきます。将来或いは発表できればと思います。単に直近のことを言えば、大きな理由は私の「恐れ」から出ています。この恐れは従来経験したことの無い物です。
 今もまだこの恐れを十分に分析していません。明らかになったことを少し書くと:
1.
ある妄想が崩壊したためです。今まではある楽観を持っていたのです。
青年を圧迫し殺すのは老人だと思っていました。この老人が死んでゆけば中国はきっと生気が出てくると。今、そうではないと悟った。青年を殺すのは大抵青年のようで、しかも再生不能の命と青春に対して何の顧慮もせず、気にもしないのです。もし動物に対してならば、「天の与えた物を、好き勝手に殺戮する」ことになります。特に勝者が得意になって「斧で首を切り落とす」やら「銃剣でめったやたらに刺し殺す」など… 見るだに恐ろしい。私は急進的改革論者ではありませんし、死刑に反対したこともありません。しかし、凌遅(手足等を一つひとつ切断して殺す)と滅族(九族全滅)に対して本当に憎悪と悲痛を表明し、20世紀の人類に有ってはならない事だと思う。斧で首を切り落とすとか、銃剣で殺すことは凌遅とは言えないが、なぜ一粒の銃弾を後頭に撃つわけにゆかないのか?結果は同じ、相手は死にます。しかし事実は事実です。
血の遊戯はすでに始まり、その役を演じるのは青年で、且つ得意満面なのです。この一場の劇がどういう風に終焉するのか、私には分かりません。
2.
 私は自分が一個の……ということが分かりました。それは何か?今すぐには名状しがたい。かつて言ったように、中国は歴来、人間を食う宴をひろげて来、
ある者は食い、ある者は食われます。食われるものもかつては食ったことがあり、今食っている者もまたそのうちに食われます。今分かったのは、自分もその宴に加担していること。貴方は私の作品をご覧になっているから、お尋ねします:読後、貴方の感覚はマヒしましたか、鋭敏になりましたか?昏迷しましたか、活発になりましたか?もし、後者なら私が自分に下した判断は大半事実だということを証明したことになります。中国の宴席に「酔蝦」(酒につけて酔わせた蝦)という料理があり、蝦は生きがいいほどうまいし、気分も愉快になるという。私はこの酔蝦を作る手助けをし、真面目で不幸な青年の脳を醒まし、感覚を鋭敏にさせて、災難に会うと、苦痛を倍加し、彼を憎む人びとにこの敏感な苦痛を賞翫させ、格別の享楽を得させているのです。私は思うのですが、赤軍でも革命軍でも、それらを討伐するさい、もし敵党の学生のような知識分子を捕えた時は、刑罰を特に重くし、労働者や知識の無い者たちより厳しくします。
なぜか? それはより敏感でこまやかな苦痛の表情を見ることで、格段に気分が高まるのです。もし私の考えが間違ってないなら、私の自分に下した判定は、完全に実証されたことになります。
 従って、ついにもう何も言えなくなってしまうのです。
 
 陳源教授流の連中と冗談を言い合う程度なら簡単で、昨日も少し書いたが、実にくだらぬ。彼らは何の問題も無い。彼らはせいぜい半匹の蝦を食べたくらいか、酔蝦の酢を数口飲んだに過ぎません。まして彼らは既に最も敬服する「孤桐先生」の下を離れ、青天白日旗の下へ革命に来たのです。思うに、青天白日旗をもっと遠くにも立てたら、「孤桐先生」も革命に参じるかも知れぬ。
話になりません。次から次へ、みな革命をやろうというのです。
 
 問題は私の落伍です。それともう一点。即ち私の昔の法廷書記の(犯した)罰も取り下げられたようなのです。牡丹を植えて花を得、ハマ菱を植えてトゲを得るのは当然のことで、何の怨恨もない。だが不満はこの罰が重すぎることで、更に悲哀を感じるのは、同僚と学生を巻き添えにしている点です。
 彼らに何の罪があるというのか。ただ私と常に往来していること、私のことを悪く言わないため、今や「魯迅党」や「語絲派」と呼ばれています。これは「研究派」と「現代派」の宣伝が奏効したためです。だからこの一年来、魯迅は原則として「流罪遠島」です。知らぬとは言いません。アモイにいた時、後から周りに誰もいない大きな洋館に住まわされ、私の周囲はただ本だけ。深夜、階下から野獣が「ウオーウオー」と叫ぶのが聞こえました。しかし私は寂しくは感じませんでした。学生も話に来ました。しかし2番目の打撃は:3つあった椅子の内、2つを持ち去ろうとされたことで、なんでも何とか先生の子供が来たので、そちらに使いたいとの由。その時私は怒りました。もし彼の孫が来たら、私は床に坐らねばならないのか、ダメだ、と言ったら諦めたが、3つ目がやってきて、某教授がほほ笑みながら、「又名士気どり」していると言い、アモイでは名士のみが余分の椅子を置いておくことができるような言い方です。
「又」は私が常々名士気どりをしているということを指す「春秋」の筆法で、
貴方も大概おわかり頂けるでしょう。さらに4番目があり、アモイを去ろうとしたら、ある人は、私が去るのは酒が無いのと、他の人の家族が来て気分を害したためだ、という。これもあの「名士気どり」に発している。
 これは思いついたまま書きとめた小事に過ぎぬ。但しこれ一つとっても私が
恐ろしくなって口も開かなくなった事情を御理解いただけると思います。貴方は私が酔蝦になるのを望まぬと思います。私が更に戦うと、多分「心身ともに病」になります。そうなったらまた人に笑われます。勿論そんなことはどうでも良いが、好き好んで酔蝦になどなりません。
 しかし今回私は僥倖にも共産党にされずにすんだ。かつてある青年が陳独秀の「新青年」に私が寄稿したのを以て、共産党の証とした。但し、それは別の青年に覆された。その当時陳独秀はまだ共産のことなど言い出していなかった。
一歩譲って、「親共派」というのもついにはうまく行かなかった。もし私が中山大学、即ち広州を離れたら、そう言われると思う。だが私は離れない。だから新聞に「逃走した」とか「漢口に逃げた」と騒がれたが何も起こらなかった。天下はまだ光明があり、誰も私が「分身法」を持っているとは言わない。今は何のレッテルも貼られず、ただ「現代派」に依れば私は「語絲派の首領」の由。
これは命に何の別状もないし、第2弾が飛んでこなければ大した問題では無い。
もし主役の唐有壬のように「モスコーの指令」などと言い出すとまたややこしくなるが。
 筆があらぬ方に滑ったので、急いで「落伍」に戻ると、貴方はご存知だと思いますが、私はかつて中国には勇気をふるって叛徒を撫哭する弔問客がいないと嘆きました。いまはどうであろうか?この半年、私が一言でも言ったことがありますか。講堂では私の考えを発表しましたが、印刷して文章を発表する場がなかったのです。私はとうに話すらもしなくなりましたが、何の弁解にもなりません。要するにもしあの頃のような何の変哲もない「子供を救え」というような議論をしたら、私自身が聞いても非常に虚しく聞こえます。
 また、以前社会を攻撃したのも実はつまらぬこと。社会は私が攻撃しているのをまったく気にもしていないし、もしそうだとしても、私の身はとっくの昔に殺され、野ざらしにされています。試しに攻撃対象の社会の一分子たる陳源の類は、どう見ているか?況や4億人の人々はどうか?私がまだ生を偸んでいられるのは、彼らの大部分が字を読めないから知らぬので、且また私の文章に効力が無く、大海に一本の矢を放つ如し。さもなくば、雑感数篇が命取りになるでしょう。民衆の悪を征伐せんとする気持ちは、学者や軍閥の比では無い。近来悟ったのは、少しでも革命的な主張は、もし社会に何のさしさわりがなければ、「たわごと」として扱われるが、もし真に影響があれば、提唱者は大概苦しめられ、殺されるでしょう。古今内外、その揆は同じです。目の前の事でも、
呉稚暉先生もある種の主義(空想的無政府主義)を持っていませんでしたか?しかし彼は世の中の人から憤慨されず、積極的に「…(共産党)を徹底的に打倒せよ!」と叫んだりしました。赤党が共産主義を20年以内に実現しようとしているが、彼の主義は数百年後に実現しようとしているに過ぎないから、これはたわごとに近い。人はそんな十余代も先の遠い孫子の代のことなどにかまっていられましょうか?
 長くなったのでここらで終ります。貴方の冷笑と悪意の微塵もない態度に感銘し、誠実にお答えします。もちろん一半はこれにことよせて愚痴をこぼしたのですが、上記は何の謙遜でもなく、私は己を知っており、己を解剖するのは、人を解剖するより情け容赦はしないこと、付言しておかなければなりません。
悪意のかたまりのような批評家がどんなに捜索しても私の真の症候はつかめないから、今回少し書きましたが、それはほんの一部で、まだ多くの事が隠されています。
 私は多分今後何も言いたいとは思わぬし、恐れが去って後、何が後に来るか、
それは知らぬ。多分良い物とは言えぬでしょう。だが私も己を助ける古い方法:一つはマヒ、二つめは忘却を使います。一方であらがいつつ、これから話そうとする「淡い血痕の中に」何かを見つけ、紙に書きます。
       魯迅 九。四。
 
訳者雑感:有恒さんへの返事の中で、彼は攻撃対象の社会は、何の影響も受けず、魯迅の発した言葉は「たわごと」とみなされているか、或いは4億人の民衆の殆どは文字も読めないから、なんの効力も無い。ただ真面目に何とか社会を改善しようと思っている青年の脳を目覚めさせ、敏感にさせて、それが軍閥政権の餌食として、まるで「酔蝦」のように政府の役人たちの「宴席」で珍重され彼らの口に放り込まれてしまう。
その手助けをしているのは彼の書いたものだから、魯迅は恐ろしく感じて、もう書くのは、やめにしよう、社会を攻撃する文章を書いても意味が無い、とまで思いつめている。さあこの後、どう展開してゆくか。続きを訳そう。2011.2.15.訳
 
 

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通信 小峰兄:

小峰兄:
「語絲」数号分拝受。「広東の魯迅」の広告に私の言論の全てがここに収録、とあるのを見ました。それから別の所には‘魯迅著’となっています。これはよくないと思います。
 中山大学に来た目的は、本来教えるためだけでしたが、一部の青年が歓迎会を開催しました。それは具合が悪いと思い、まず初めに私は‘戦士’や‘革命家’じゃないと声明を出しました。もしそうなら、北京やアモイで奮闘しておるべきで:「革命の後方」である広州に身を避けているのだから‘戦士’でない証拠だ、と。
 ところが(開催者の)主席の某氏――その時は委員――が続いて演壇に立ち、
私の話は大変な謙遜で、過去の事実からして確かに戦闘者、革命者だと発言すると、講堂中、一斉に拍手が響き、私は「戦士」と決まってしまい、拍手の後、皆は散会したので、誰に対してそれを辞すことができましょうか。ただ歯をくいしばって「戦士」の看板を背に部屋に戻りました。同郷の秋瑾嬢もこのように拍手を受けて、拍手の中で死んだことに思い到り、私もどうやら「戦死」せざるを得ぬはめになったのかと思いました。
しかたがない。暫く成り行きに任せよう。そうしたらそれから苦しくなったのです。訪問者や研究者、文学の話、思想を探ろうとする者、序を頼む人、署名、演説を依頼する人、大変な騒ぎで亦楽しからずや。一番ニガテは演説で時間が決められ、延期はできない。飛びこみでやって来る青年たちが、勧めつつ迫りきて、引っ張りだそうとします。そして話すのも大概テーマが決まっている。
命題作文は最もニガテです。さもなければ清朝時代、とうに(科挙の)秀才に合格している筈。だがやむなく、ただ起承転結を考え壇上でしゃべる。しかし定例として長くて十分以内としています。でも気持ちは良くない。事前も事後も、親しい人に対して嘆息して、よもや「革命の策源地」に来て、洋式八股文を作ることになろうとは、とこぼしております。
 もうひとつ凡そ何か発表する時は、講義でも演説でもまず自分で目を通さねばいけません。しかし、その時は忙しすぎて、原稿を見ないばかりか、ゲラも見ていません。今回製本され、今日はじめて知ったのだが、一体どうしてこんなことになったのか。中身がどんなものか知らなかった。今私は変な難癖をつけて、ものごとをぶち壊そうとは思いませんが、我々の長年の友情でもって、次の三つを実行するのを許して下さい。
一。書中の私の演説、文章等は全て削除。
二。広告の著者の署名を改正。
三。この手紙を「語絲」に発表。
 こうすれば私は安心できます。他の人が編集した別の人の文は残り、私は安心でき、何の文句もありません。が、もう一つ「広東の魯迅」を見ても魯迅が広東にいることを理解することはできないと思います。表題の後は数十ページの白紙にしたら、「魯迅は広東にいる」と称せるでしょう。
 この一年の境遇を回想すると、実に味わいものを感じます。アモイでは着いたばかりの頃は静かに大人しくしていたが、後に大騒動となり、広東では着いた時は大騒ぎで、それから静かになり、真中が大きくて両端の尖ったオリーブのようです。もし何か作品を書けばこの題が最適だが、郭沫若先生に使われてしまったし、私にはそんな作品も無い。
 当時、私に関する文は多かったでしょう。毎回出るたびに、某教授は魂消んばかりに、「また褒めていますよ。ご覧になりました?」私はうなずいて「見ました」と答えたのを覚えています。次いで彼は「西洋じゃ文学は女が読むだけ」というので「多分その通りです」と答え、心の中では戦士と革命者の虚名はもうじき剥がされることになるだろうと思った。
 当時の情勢から見れば、私がかぶっているのは「紙を糊づけした偽の冠」だと証明した才子(高氏を指す;出版社)たちを怒らせるに十分だった。だがあの状況には別の原因もあるのですが、急ぐことも無いので暫くその話は置いておきます。今申し上げたいのは、新聞にでたいっときの情勢で:今やとうに偽の冠は無くなったのに、新聞ではそれに触れていません。しかし私こと広東にいる魯迅自身は十分知っていますから、次のように書いて、私を憎む先生がたを安心させてやりましょう。
1.‘戦闘’と‘革命’は、以前は殆ど「撹乱」と称されるほどの勢だったが今
やそれから免れ、古い肩書はどうやら剥がれたようだ。
2.序を依頼された本は、すでに(著者の手に)取り戻された。刊行物の私の
署名も取り替えられた。
3.新聞に私は既に逃亡し或いは漢口に到着と言う。手紙で修正を求めたが無
しのつぶて。
4.ある新聞にできるだけ‘魯迅’の二字を出さぬようにしている由。これは
二紙の同一記事を比較して分かった。
5.某紙に私の別の肩書:雑感家が定められ、評して曰く:「その筆法尖鋭なる
こと特に秀で、それ以外他に無い」そして彼は我々と「現代評論」の協力を望
んでいる。何故か?「両派の文章思想をつぶさに見ると、初めから大差は無い」
(今分かったのだが、これは上海の「学灯」からの転載。道理でさもあらん。
閣筆後追伸)
6.ある学者(顧頡剛氏:出版社注)が私の文章が彼に損害を与えたとして訴
訟するから「暫く広州を離れずに開廷を待て」と命じている。
ああ、仁さん、一体どうしたら良いでしょうね。(北京を支配していた軍閥の)
五色旗の「鉄の格子窓と斧と鉞で殺されそうな所から逃げ出して、(国民党の)
青天白日の下でもまた「黒縄で縛られる憂い」に会うとは。「孔子曰く:それは
その者の罪ではない。よって娘を彼に妻(めあ)わす」などという僥倖はめっ
たに起こらないでしょう。嗚呼!
 しかしそんなことはたいしたことでもなく、以上のことは正に「小さな病を
大げさに呻吟」せるのみ。私の言いたいのは、皆さんに私が高い壇上で「思想
革命」を指揮しているなどと誤解しないでもらいたいだけです。特に一部の青
年がなぜ私が発言しないのかを理解できないことです。また何か言ったら永久
に「広州を離れるな、開廷を待て」となりましょう。昔の言葉に「是非をとや
かく言われるのは口出しするのが多いせいで、悩みの増えるのも何にでも首を
突っ込むからだ」と。
私の遭遇したことは社会の常だから、どうってことも無いが、悲哀を感じる
のは私と一緒に来た学生が今でも入学できずに苦労していることです。補足すると、彼らは全て共産党では無いし、親共産でもない。苦しさの原因は私を知っていることにある。一人などは同郷の人から「今後二度と魯迅の学生だと言うな」と忠告された。某大学は特にひどい。「語絲」を読んでいると「語絲派」、私を知っていれば「魯迅派」とされるのです。
こんなことはもううんざりです。正人君子たちを安堵させるのに十分です。もうひとつ付け加えると、これは一部の人々の私に対する状況で、これ以外
私を忘れた者、或いは今も私と往莱する者、または文章を頼みに来たり、講演してくれと言う人もまだいます。
「語絲」は昔通り、読むのが楽しく寂しさを吹き飛ばしてくれます。が私の意
見として南方に関する議論には少し隔たりを感じます。例えば正人君子の南下
をとても奇としていたようだが、「現代」はここでは良く売れているのを御存じ
ないようだ。遠く離れているから無理も無いが。アモイの頃はただ共産党という総称だけを知っていたが、こちらではCP,CYの区別を知りました。近頃は非共産党も何何Y、何とかYと称すのが一つや二つではききません。一団体が正統と自認し、人の思想を監督しているように感じます。どうやら私もその列に入れられたようで、時に詰問式の訪問者が来ます。彼らがそういう連中ではないかと思う。確かなことは分からない。もしそうだとしても、名前も分からない。聞いたことも無いような名前なのです。
 以上いろいろ書きましたが愚痴です。正人君子は今回私を尋問し、「どうだ、苦しさが分かったか。悔い改めるか?」と多分彼らだけでなく、私に好意を持ってくれている人も訊くだろう。私の仁大兄、貴方もその一人かも知れぬから、即回答します:「全く苦しくも無いし、悔やんでいません。それどころか面白いと思っている」と。
 七面鳥の鶏冠のように色がころころ変わり、「開廷まで待つ」間、気の向くままに見てみたら実に面白い。正人君子の一群は「孤桐先生を敬服する陳源教授即西瀯まで、公理と正義の蔵である東吉祥胡同を棄てて、青天白日旗の下で任務に当たろうとし始めた。先日見た「民報」の広告に、私の名の前に「権威」の二字を付けたので、当時陳源教授のけなしようはすごかった。今回「閑話」の出版広告に「文芸批評界の権威を知ろうとするなら、何を置いても「閑話」を読まざるべからず!」これはほんとに私をいい気持ちにさせ、それまで、もともと「君はこんなところへ入らないように」と言っていたところに自らはまり込んだのです。
 だが、その広告にはかつては「学者ゴロ」とされていた魯迅を今回はどうしたはずみか「先生」と尊称し、突然この「文芸批評界の権威」として宣伝された。二つの権威のうち一つはニセで、もうひとつが本物。ひとつは「権威」にけなされた「権威」と「権威」をけなした「権威」です。嗚呼!
お休み。私は元気にやっています。 魯迅 9.3.
 
訳者雑感:
 魯迅が3.18事件以来、徹底抗戦している章士釗は、段祺瑞政権の内閣で大臣を務めた如く、学者であるとともに政治家であった。中国では胡適もそうだし、
文人学者が政治世界で活動することこそ、本領だと考えているような節がある。
 章は1949年以降も中国に留まり、今年の2月の春節の香港鳳凰テレビによると、1962年の春節の宴席に毛沢東が招いた客の中に、溥儀と共に章士釗の名がある。彼がその後、自ら考えを革めて、共産党政権に参加したもののようだ。
どういう背景があるのか、調べてみよう。
  2010.2.9.訳
 
 
 
 
 

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読書について

 716日 広州知用高校にて
 本校の先生方の要請を受け、本日皆さんとお会いすることができました。
特に話すこともなくどうしようか悩んでいました。学校というのは勉強する所だと思い到り、勉強――読書について話してみることにしました。
 個人的な意見ですが諸君の参考にして下さい。大した話にはなりませんが。
 読書というと本を読むことというのは当たりまえのことですが、簡単なことではありません。少なくとも2種類あり:一つは職業としての読書、もう一つは趣味としてので。職業としての読書:勉強は学生の進級のため、教員の授業の為で、勉強せねば危ういことになる。諸君の中にもきっと経験があると思うが、数学が嫌いで、または生物が嫌いだけど勉強せざるを得ない。さもないと卒業できない。進級できないと将来の生計に響く。私自身もそうで、教員だからしたくもないものも勉強する。しないと飯を食いはぐれる恐れ有り。我々は習慣的に読書を高尚なように思うが、この種の読書は大工が斧を研ぐのや、お針子が糸と針を整えるのと同じで、なんら高尚なことも無い。時に苦痛で憐れである。好きなことはさせてくれず、したくないことをせねばならず、これは職業と趣味が一致しないために起きるのです。もし誰もが好きなことをして飯が食えたらどんなに幸せでしょう。が、今の社会ではそうはできないから、勉強する人の大部分はたいてい無理やり苦痛を感じながら、職業のために勉強するのです。
 ここでもう一度趣味の読書の話をすると、それは自分の願望で、強制でなく、
利害関係も無く、趣味の読書はマージャン好きと同じで、毎日毎晩やり、続けてやる。警察に捕まっても出てきたら又やる。注意しときますが、ジャン士の目的は金儲けではなく、趣味なのです。バクチにどんな趣味があるか、門外漢であまり詳しくないが、賭博の好きな人の話では、その妙は一枚一枚の自摸
(つも)にあり、永遠に変化きわまり無いところだそうです。凡そ趣味の読書の、本を手放さない理由はここいらにありましょう。一ページごとに深い趣を感じる。もちろん精神を大きくし、知識を増大させますが、これは計算できないことで、計算したら金目当ての博徒と同じで、それは博徒の間では、下等とされます。
 が、私は、諸君が退学して好きな本を読めと言っているわけではありません。
そういう時はまだ来てない:ひょっとして永遠に来ないかもしれない。うまくいって、将来なんとかして人としてやらねばならぬことに対して、できるだけ多くの興味を持てるようにするくらいかと。
本の好きな青年は本分以外の本を、即ち課外の本を大いに読むよう勧めます。
課内の本だけに囚われぬように。誤解しないようにしてほしいが、例えば国語の授業中に引き出しに隠した「紅楼夢」を盗み読めとは言っておりません。
やるべき授業を終えた後、余暇にそうした本を読んでもよい。本業と関係の無い物もひろく読めということです。理科を学ぶ人は文学書も読み、文学を学ぶ人も科学書も読む、他の人がそこで研究しているのはどんな事なのかを見てみる。こうして他の人、別のこともより深く理解できる。今の中国に大きな欠点があります。自分の学んだものが面白くて一番良い、大切な学問だと考えて;
他のはすべて無用で取るに足らぬ。それをやっている人は将来餓死すべしとまで考えている。だが世界はそんな単純じゃないし、学問は夫々用途があり、何が一番かを決めるのは大変難しい。幸い色んな人がいる。もし世界中すべてが文学家でどこへ行っても「文学の分類」や「詩の構造」の講義では、何ともつまらぬことになる。
 以上のことは付随的効果で、好きな勉強は本人もそんな計算はしないし、公園で遊ぶ如く気ままに読み、気の向くままにやるから苦労とも思わないし、苦にしないから面白くてたまらない。一冊の本を手に「さあ読むぞ!学習するぞ!」などと考えたらすぐ疲れ、興味もなくなるし苦しみに変わるでしょう。 
 今の青年は興味から読書している人もおり、色々な質問を受けます。それで私の考えを説明しますが、他のことは知りませんから、文学の面のみです。
 第一、文学と文章をはっきり区別しないのをよく見かけます。評論を書こうとしている人すらこれがあります。実はごく大まかに言っても簡単に区別できます。文章の歴史や理論を研究するのが文学家で学者です:詩や戯曲、小説を書くのは文章を書く人で、古い時代の所謂文人で、今日の所謂創作家です。
創作家は文学史や理論を少しも知らなくても構わない。文学家は一篇の詩を作れなくても可です。だが、中国社会には誤解が多く、何篇かの小説を書いたら、小説理論を知っているとみなし、新詩を幾つか作ったら詩の原理を話せという。
これまで小説を書こうとする青年が、先ず小説作法と文学史を買ってきて読んでいるのを見ました。それらの本をどんなに熟読しても創作とは何の関係も無いと思います。
 事実として今文章を書く人は教授もしているのは確かです。これは中国では創作がお金にならないためで、生活できぬからです。アメリカの少し売れた作家の中編小説は2千ドル:中国は他の人は知りませんが、私の短編は大手出版社に寄稿しても一篇20元です。当然他のことをせねばなりません。教師や文学の講義をする。研究は冷静さと理智が要りますが、創作には情感が必須です。
少なくとも情熱を発しなければできないし、そこで冷静になったり熱くなったりすると、頭がくらくらしてきます。これが職業と趣味を一致できない苦しい所です。苦しんでも結果として二つとも良くないことです。その証拠に世界の文学史をみれば、その中には殆ど教授を兼ねている人はいません。
 もう一つ良くないのは、教員だとどうしても何か配慮しなければならない:
教授なら教授という肩書があり、言いたいことも言えない。これには反論する人もいて:そんな遠慮などせず言いたいことをどしどし言えば良いという。
しかしそれは事件の起きる前の話で、事件が起こってからは、知らぬ間に大衆の間にまぎれて攻撃してくるのです。教授自身もどんなにこだわらないと思っても、無意識にこの肩書から逃れられないのです。だから外国には「教授の小説」というのがありますが、大抵の人は良くいわないのです。どうしても煩瑣なてらいを感じざるを得ないのです。従って文学研究は一つの分野で、文章を書くのは別のものだと思うのです。
 第二はよく聞かれますが、文学を学ぶにはどんな本を読むべきか?です。これはとても難しい。かつて何人かの先生が目録を出した。しかしそれは役に立たぬと思う。それは目録を書いた先生が、自分が読もうとしているか、或いは
必ずしも読みたいと思っていないものだからです。もし古い本ならまず張之洞
の「書目答問」から入門すれば良い。新しい文学研究なら自分で各種の小冊子、例えば本間久雄「新文学概論」厨川白村「苦悶の象徴」ボロンスキー「ソビエト ロシア文芸論戦」の類を読むと良い。その後で、また考えながら博覧するのが良いでしょう。文学理論は数学のように2X2=4ではないし、議論もいろいろ分かれます。例えば第3のロシアの両派の論戦について付言すると、近来ロシアの小説は余り読まれなくなったそうだが、どうやらロシアと聞いただけで
ビックリするようだが、ロシアの新しい作品は紹介はされているがまだ翻訳されていないので、全て革命前のもので、その作者はあちらでは既に反革命とみなされています。
 もし文芸作品を読みたいなら、まず何人かの著名な作家のアンソロジーを見て、自分の好みに会うと思ったら作者の選集を読み、文学史上でどんな位置にあるかをみる:より詳しく知りたければ、その人の伝記を12冊みれば大略は理解できます。人に教えを請うだけでは各人の趣味も違うし、やはり人夫々でしょう。
 第三に批評について:いま出版物が多すぎて、実際どういうことかと言うと、
読者はあまりの乱雑さに批評を渇望し、批評家がそれに応じたのです。批評というのは少なくともその批評家と趣味の近い読者にとっては有用です。だが、今の中国はどうも違うと言わねばならないようです。往々、人は批評家が創作に対して生殺与奪の権を握っていて、文壇の最高位を占めたものが、忽然と評論家になったと誤認しています:彼の霊魂には刀が掛っている、と。しかし彼は、自分の立論が周到でないかと心配しながら主観を持ち出し、また時には自分の観察が人から軽んじられるのを怖れて、客観を持ち出す:時には自分の文章の根底がすべて同情に基づくと言い、時には校正者を一文の値打ちも無いと罵る。凡そ中国の批評は見れば見るほど出鱈目でいい加減と思う。もし彼らの言う事が本当なら、歩むべき道すら無くなって仕舞います。インド人はこのことを以前から知っており極一般的な比喩で説明します。(イソップ?出版社注)
 老人と子供がロバに荷を載せて売りに出かけた。売り終えて、子供がロバに乗り、老人は歩いて帰った。道行く人が老人を歩かせるとは!と非難。それで交代した。暫く行くと別の人が老人を酷だと非難。老人は子供を抱えて鞍に乗せた。それをまた別の人が残酷だというので二人とも降りた。それからまた次のひとが、空のロバに乗らずに歩くとは間抜けなことと笑った。二人はため息をして、こうなったら残るは一つ、二人でロバをかついで帰った。
 読むにしろ書くにしろ、人の言う事をすべて聞いていては、ロバを担ぐことになりかねません。
 しかし私は批評を見ないと言う訳ではありません。見た後、やはりその本を読んでみて、自分で考え観察するのです。ただ本を読み、博識だが世情に疎い人間になり、自分で面白いと思っても、その趣味はすでにだんだん硬化し、死んでゆくのです。私は先に青年が研究室にこもるのに反対したのもこの意味からですが、学者の一部の人は今もそれを私の罪状に数えています。
 イギリスのバーナードショーはこう言っています。世の中で最もダメなのは読書する者。彼はただ他人の考えや芸術を鑑賞するだけで、自分を用いないから。これはショーペンハウエルの言うところの脳の中に人の馬を走らせるのと同じです。それよりは思索するのが大切だとしています。自分の生きた活力を用いることができるからだが、これとてそれも空想から逃れられません。より良いのは、自分の目で世間という生き生きとした本を読むことです。
 これは確かなことです。実際の経験は読んだり聞いたり、空想よりも常に確かです。依然ライチーを食べました。缶詰めでしたが、それで新鮮な物を想像していました。今回食べたら、考えていたものと違っていました。広東にこなければ永遠に分からなかったでしょう。私はショーの説に一点補足したい。彼はアイルランド人で、立論には偏った、激した所が少なくない点です。広東の田舎の余り経験の無い人を、上海か北京あるいは他のどこかへ連れて行き、観察したことを訊いても、多分非常に限られたものに過ぎないでしょう。観察力を培ってないからです。だから観察するなら、まずは思索と読書を経ねばなりません。
 要約すると、私の意見は簡単で:自分から読もうとすること、即ち趣味としての読書は、他人に教えを請うても役にたちません。ただ、まず広く読み、然る後、自分の好きな一つか幾つかの専門的な分野を択び:そして只本をよむだけではダメで、必ず実社会に接して、読んだ本を生かすことです。
 
訳者雑感:
 魯迅は文部省の役人の給与(月3百元、但し遅配、無支給多発)をベースに
北京大学や女子師範の教師も兼任しながら、創作していた。講義の中身は後に
「中国小説史略」などになったが、これは彼の分類では「冷静さと理智の要る」
文学家の仕事。その一方で情熱を発しなければ書けない創作をするのだから、
頭がくらくらするのを、実感したであろう。
 世界文学史に残る作品は、ほとんど兼任教授はいない、というのはどうだろうか。森鴎外は軍医のトップや帝国博物館長などしながら、沢山の著作を残した。軍医のトップとかは冷静さが要求される役職だろう。だが正式にどこかの教授をしたとは知らない。初期の創作と、役職が上になってからの所謂「歴史もの」には「情熱の発露」と「冷静さと理智」の夫々の面が見てとれる。彼の作風は魯迅のように同時に冷やしたり熱くしたりで頭がくらくらするようなことはなかったろう。時間軸がだいぶ離れていたようだ。
 夏目漱石も大学で英文学を講じながら多くの作品を書いたが、晩年は東大教授という社会的地位を棄てて、朝日新聞の小説のための社員となることを選んだ。収入の面も大きな問題のひとつだったとも伝えられている。
勿論朝日の社員として書いた「こころ」などの作品の深遠さは、教師だったころの作品とは比較できぬが、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」の方が、多くの一般的日本人にはよく読まれていた。(最近はどうか)
 魯迅も勿論晩年の上海時代の雑文などの影響は深遠なものがあるが、文学史的にみれば、兼任教師だったころに「頭を冷したり熱くなったり」もがきながら書いた「阿Q正伝」や「狂人日記」「故郷」などが代表作として挙げられよう。
 いずれにせよ、文学者イコール文章家ではないということは確かだが、魯迅と漱石に限っていえば、文学者でもあり文章家であったことは間違いない。そして二人とも大学教授を辞めて文筆に専念したが、十年前後で病死した。惜しいことだが、その間に成し遂げたことが彼らの本領だったと思う。
   2011/02/04
 

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