魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
莫朕
清代の学問の話しをすると、数人の学者は色めき立ち、当時の学問の発達は前代未聞だったという証拠は真に十分あり:経典解釈の大作が山の如くあり、小学(文字・訓詁・音韻等)も大変進歩し:史論家は跡を絶ったが、考史家は却って増え:とりわけ考証学は、宋明代の人がまったく読めなかった古書を読めるようにしてくれた…。
だがこう言いだすと、又些かためらいもあり、英雄(ヒットラーを指す)が私のことを、(計算高い)ユダヤ人だと言いはしないかと心配だが、しかし、決してそうではない。
学者と清代の学問の話しをするたびに、同時に思うのは:「揚州十日」と「嘉定三屠」(いずれも清軍の大屠殺の状況を記したもの:出版社)だが、こうした小さな事柄は今は提起せずとも構わないのだが、全国の土地を失い、人々が皆たっぷり250年間奴隷と成って、こうした幾つかの栄光の学術史と交換したのだが、この売買は得したのか、損をしたのか。
残念ながら私は数学者ではないので、結局のところは明確にできない。しかし直覚的にやはり多分損だと思うし、庚子(義和団の乱)の賠償金(の返還分)で、何人かの学者を養成したことより、累積欠損はずっと大きいと思う。
しかしこれは俗見に過ぎぬかもしれぬ。学者の見解は得失の外に超然としている。超然としているが。利害の大小の分別は全く無いわけではない。大は尊孔(孔子を尊敬する)より大はなく、肝要なことは尊儒(儒教を尊ぶ)より肝要なことはないから、尊孔と尊儒に配慮してくれれば、どんな新しい王朝に頭を下げても構わぬ。新王朝に対する法の説き方は、「どうか、中国民族の心を征服してもらいたい」ということになっている。
そしてこの中国民族の心の中にも、まことに徹底的に征服され、今日まで、戦禍、悪疫、水害、干ばつ、台風やイナゴの害を受けながらも、孔子廟の修復、雷峰塔の再建、男女二人歩きの禁止、四庫全書の珍本の発行などという体面保持に精を出している。
私もこの災害は短い時間のことに過ぎぬかもしれぬと思うし、記録されねば、将来誰も提起しないだろうが、栄光ある事業は永遠だということは知っている。だが何故か知らぬし、ユダヤ人でもないのだが、損得を云々するのが好きで、みんなと一緒にこれまで提起されなかった損得の勘定をしたいと思う。――しかもなお且つ、今こそまさにそれをする時なのである。(今でしょ:訳者今日風に追加) 7月17日
翻訳雑感:安部首相が先の日中戦争以降の戦争を「侵略」かそうでないか?侵略の定義が定まっていないということで、物議をかもしている。「どうか、中国民族の心を征服してもらいたい」というのは胡適が言いだしたことで、出版社注によると、1933年3月18日、胡適は北平(北京)の新聞記者との談話で:日本が「中国を征服できる只一つの方法は、即ち、徹底的に(武力)侵略を停止し、どうか、中国民族の心を征服するように」というもの。(同年3月22日「申報」北京通信)
武力による侵略ではなく「心を征服する」とはどういうことだろう。
最初に攻め込んできた時は「武力」を使うしかないだろうが、ある程度時間が経過したら、武力による侵略を停止し、その民族の心を征服しなければならない、と侵略してきた新王朝に説くのだ。
これは満州族が侵略してきたとき、最初は大屠殺が幾つかの地方で起こったが、暫くして、辮髪という満州族の風習を受け入れなければ、首が飛ぶというやり方で、民族の心を征服していったことに象徴されると思う。200年後太平天国の時に、彼らは辮髪を切って、長髪賊と呼ばれていたわけだが、太平天国に加担しなかった殆どの漢族は、後生大事に辮髪を守りとうした。これはもう完全に清という新王朝に心を征服されてしまったのだ。
義和団の乱では、「扶清滅洋」を旗印に、清を助け、外国人を排除せよと立ちあがった。
それから11年後の辛亥革命の時ですら、辮髪を切るのは大変な抵抗があり、辮髪の無い男は、女たちから軽蔑・侮べつされた。
12世紀に同じ満州族である女真族が北方半分を侵略し、金という国を建てたが、南には南宋が抵抗を続け、長い間対峙した。当時杭州にいた詩人たちは多くの「反金」「北方領土を取り戻せ」という詩を残している。
中国の歴史では、女真族の金が北方中国を侵略したとはいうが、満州族は「民族の心」を征服した結果、250年間という長期に渡り中国を統治したので、満州族が中国を「侵略」したということは余り聞かない。勝てば官軍なのだろうか。
中国の歴史家の中にも、先の大戦で日本が勝利したら、という仮定の話をする人もおり、日本と中国全土及び朝鮮半島台湾などを一つの国として統治することになったら、欧米や当時のソ連よりずっと強大な大国となっていただろう。そうすれば、欧米の「彼らの正義」と対抗できる「東アジアの正義」を主張でき、今よりずっと豊かで良い生活ができたかもしれない…と。そうなったら、日本を侵略者とは呼ばなくなるだろうが。
歴史はそうならなかったから、やはり侵略と言われるだろう。
自分は認めたくなくても。
2013/05/21記
鄧当世
中国の学者の多くは、色んな知識は聖賢の、少なくとも学者の口から出た物だと考えている:火と生薬の発明応用なども民衆とは無縁で、すべて古の聖王の手になるものだと:
燧人氏(火)、神農氏(生薬)だと。だから人によっては「色んな知識は諸動物の口から出たものというのも、これ亦奇なり」と思うのも、別に奇とするに足りぬ。
況や「諸動物の口から出た」知識は、我が中国では真の知識ではないものが多い。
とても暑くてたまらず窓を開くと、ラジオを持っている家から音が聞こえてきて、「民と楽を同(とも)にする」(孟子)である。イーヤー、エーヤーと唱歌(京劇の曲をうたう)。
外国の事は知らないが、中国の放送は朝から晩まで戯曲の唱で、時に甲高く、時にかすれ声で、好きなら一刻たりとも休まずに聞き続けることができる。扇風機をつけ、アイスクリームを食べながら、「水位が急上昇」して所とか「干ばつで全滅」の地方と全く無関係なだけでなく、窓の外で脂汗を流して、一日中、懸命に生きている人々とも全く別世界だ。
私はイーヤーと声を長くひき、甲高くうたう声を聞いて、忽然フランスと詩人、ラフォンテーヌの有名な寓話:「セミと蟻」を思い出した。やはりこのような炎天下に、蟻が地上で苦労して働き、セミは枝で高吟し、蟻の俗っぽさを笑う。が、秋が来て日ごとに涼しくなり、セミはこの時、衣食が無くなり、乞食になり、準備を済ませていた蟻に教訓を垂れられる、とは学校で「教育を受けた」時に先生が話してくれた。当時はとても感動した。
今でも覚えている。
が、覚えてはいるが、「卒業即失業」という教訓のために、物の見方は蟻とかけ離れたものになった。秋風はもう暫くしたら吹き始め、日ごとに涼しくなってくるが、その時になって、無衣無食となるのは、多分今脂汗を流している人達の方だ:
洋館の周りは、固より静かだが、それは窓を閉め、音とともに暖炉の暖気も留め、中では多分、相変わらずイーヤーや「霧雨よ、ありがとう」の流行歌だろう。
「動物の口」から出た知識は、我が中国には適さぬことが多いのではなかろうか?
中国は自国の聖賢と学者がおり、「労心者は人を治め、労力者は人に治めらる:
人に治めらる者は人を食させ、人を治める者は人を食す」とは何と簡潔明白か。
先生がもっと早くこれを教えてくれていたら、私も上述したような感想で紙筆を浪費することは無かったろう。これも中国人が中国の古書を読まねばならぬ一つの良い証拠だ。
7月8日
訳者雑感:何も付け加えることもないほど、愕然とさせられる寓話だ。
日本人はラフォンテーヌの寓話を信じて生きて来た。水呑み百姓と言われながらも、秋冬に備えて炎天下で汗を流してきた。それが1930年代だけでなく、中国3千年の歴史の中で、古書が示す通り、「人を治める者が人を食してきた」という。「労心者」という概念は、我我日本人には「先憂後楽」する「徳の高い為政者」というイメージだが、魯迅の説によれば、最後には人を食すとなるのか! 2013/05/16記
(3)雨中嵐山――日本京都
(一九一九年四月五日 「覚悟」創刊号)
雨中二次遊嵐山,
両岸蒼松,夾着幾株桜。
到尽処突見一山高,
流出泉水緑如許,繞石照人。
瀟瀟雨,霧濛濃;
一線陽光穿雲出,愈見[女交]妍。
人間的万象真理,愈求愈模糊;
――模糊中偶然見着一点光明,
真愈覚[女交]妍。
(女交は一字で美しい意。日夜浮かぶ注)
<訳詩>
雨の中、二度目の嵐山に遊ぶ
両岸の蒼い松の間に、何本もの桜の花が咲き誇る。
道が尽きると、突如、高い山が目に入る。
こんこんと流れ来る泉のような水は、美しい緑に映え、
河床の巨石を呑みこむように、人を照らす。
しとしと雨はやみ、濛霧がたち籠める:
雲間からもれ来る陽光は、見れば見るほど美しい。
世の中のすべての真理は、求めんとするほど模糊となるが:
――模糊の中に、偶然一点の光明を見つけると、本当に美しいと感じる。
2013/05/15再訳
追記:
この詩を書いた時の周恩来は「詩人」であった。
帰国後これを投稿した。
もし、彼が東京で官費の支給される国立大学に合格し、卒業証書を持って帰国したら、
同じ日本留学組の蒋介石や汪兆銘のように、国民党政府のエリート官僚として、全く別の道を歩んだかもしれない。
日本での勉学を断念して帰国する際に作ったこの詩が暗示するのは何か。
雲間からもれくる一筋の光明とは、その後、彼がフランスに渡り、共産党員になって、
その光明の源を探し求めることに繋がったのだろう。
(4)
雨後嵐山
(1919年4月5日作、「覚悟」創刊号)
山中雨過雲愈暗、
漸近黄昏、
万緑中擁出一叢桜、
淡紅嬌嫩、惹得人心酔、
自然美、不假人工、
不受人拘束。
想起那宗教、礼法、旧文芸、
粉飾的東西、
還在那講什麼信仰、情感、
美観……的制人学説、
登高遠望。
青山渺渺、
被遮掩的白雲如帯、
十数電光、射出那渺茫黒暗城市。
此時島民心理、彷彿従情景中呼出、
元老、軍閥、党閥、資本家、……
従此後「将何所恃」?
<訳詩>
雨後の嵐山
山中の雨止み、雲は愈々暗し、
漸く黄昏に近く、
万緑中に一叢の桜が抱かれているようにみえる、
淡紅のたおやかさが、人の心を酔わせる、
自然の美しさは、人の工(たくみ)を借りることはなく、
人の拘束も受けない。
あの宗教、礼法、旧文芸などの粉飾物は、
そして今なお信仰とか、情感、美観なぞを説く人を制せんとする説だと想う。
高きに登り遠望すれば、
青山渺渺たり、
覆いかぶさる白雲は帯の如く、
十数もの電光が、かの渺茫たる暗い城市より射し出ず、
この時、島民の心理は、情景より呼び出されるようだ、
元老、軍閥、党閥、資本家、……、
今より後、「何をか恃む」や!
訳者雑感:
この詩は雨が上がった黄昏に桂川右岸の「大悲閣」に登って作ったものか?
或いは法輪寺の舞台から京都市内の電光を見たものか?
いずれにせよ、1919年当時、桂川の右岸の高いところから京都市内を遠望したものだろう。
ここに使われている「島民心理」というのは大陸から来た周恩来にとって、島国日本の民が、元老や軍閥、党閥資本家などとどうかかわりあって行くのか?手を携えてゆこうとするのか?反抗しようとするのか?大正デモクラシーの日本、左翼系の思想基地たる京都で、彼は何を感じたのだろう?米騒動や、シベリア出兵、原敬内閣の時である。
四次遊円山公園
四次来遊、
満山満谷的「落英繽紛」:
樹上只剰得青松与緑葉、
更何処尋那「淡紅嬌嫩」的「桜」!
灯火熄、遊人漸漸稀。
我九天西京炎涼飽看、
想人世成敗繁枯、都是客観的現象、
何曾開芳草春花、自然的美、無碍着的心。
<訳詩>
四回円山公園に遊ぶ
来たのは四度目、
山も谷も「落花繽紛(ひんぷん)」と散りしき、
樹上は只、青松と緑葉を余すのみ、
今またどこに「淡紅でたおやかな」「桜」を尋ねんとするか!
灯火消え、遊客はようやく稀になった。
私は京都に九日間いて、自然の変化するを見た、
想うに、人の世の成敗繁枯はすべて客観的現象であり、
何ぞまた芳草春花、自然の美に、碍されることなき心を開かざらんや。
訳者雑感:彼は天津に帰国する途次、友人の住む京都に9日滞在して、4回円山公園に来たのだろうか?それとも以前にも来たことが有ったかもしれない。9日間で4回来たとすれば、余ほど気にいっていたのだろう。(1)の詩は円山の桜が燦爛と咲いていたころのあの円山の池の畔の情景を1919年4月5日に詠んでおり、(2)は落花が山と谷全体に散り敷いていた頃のことを4月9日に作ったことが分かる。
林芳さんの本には、周恩来首相がこの詩を作った50年後のピンポン外交で、愛工大の後藤鉀二さんに「私が日本を離れる時、丁度桜の季節でした。船で琵琶湖へ下りましたが、実に美しかった」と語っていることが紹介されている。
船で琵琶湖に下るというのは、例のインクラインの両側の桜と山科の疎水の両岸に美しい桜が咲いていたのだろう。国交回復に精魂こめた周恩来首相は、体が許せば、是非円山に5度目の観桜を果たしたかったことだろう。それがこんなことになってしまった。1919年五四運動時
2013/05/14記
詩人周恩来 (1)1917年天津南開学校にて
筆者1980年天津駐在時、周恩来記念館で購入せる絵ハガキより。
昨年、本ブログの紀行文で「雨中嵐山」という彼の詩を取り上げた。
魯迅の「重訳を論ず」の訳者雑感で、彼がドイツ語から沢山の重訳をし、本人もドイツに留学することを計画していたことに触れ、周恩来も日本留学で官費の支給を受けられる大学受験に失敗し、故郷天津に戻った後、雑誌などに詩を投稿していたことを目にしたことがあった。
今回、「寥天(ひろき天)」と題する周恩来若き日の詩を日本語に訳して1979年の周恩来夫人鄧さんの来日に間に合わすべく、林芳さんが出した本を図書館で借りることができたので、そこに日夜浮かぶの意訳を付して一部を紹介したいと思う。
彼は東京で生活していながら、京都の嵐山に2回、円山公園に4回訪れているということが、彼の詩から分かる。
底本は周氏歿後、北京大学図書館編として「周総理詩十八首―解釈匯編」で出版された。
四人組とか所謂文化大革命のころには、とても出版できなかったようだ。
1.最初に京都円山公園での「遊日本京都円山公園」
(1919年4月5日作、原詩は天津で発行された「覚悟」創刊号に寄稿)
満園桜花燦爛:
灯光四照:
人声嘈雑。
小池辺楊柳依依、
孤単単站着一個女子、
桜花楊柳、哪個可愛?
冷清清不言不語、
可没有人来問他。
<訳詩>
円山の桜は燦爛と咲いて:
灯光に映える:
人々のはしゃぐ声がさわがしい。
小池のほとり、柳の枝はなよなよと揺れ、
娘がひとり連れも無くそこにたたずむ、
桜と柳、いずれを愛ずるや?
もの悲しげになにも語らぬ、
ああ誰も彼女に声かける者なし。
2013/05/14記
史賁
穆木天氏が「重訳及びその他を論ず」下篇の末尾では、私の誤解を釈こうとしているのを知った。私は誤解しているとは思わないし、違いは軽重の転倒だけで、私はまず翻訳の良しあしが第一と主張し、直接訳か重訳かや訳者の動機にはこだわらない。
木天氏は訳者が「自分を知り」、自分の長所を用いて、「一度苦労したら永く逸品として残る」本に訳すことを求めている。そうでなければやらない方がましだと。これは言ってみれば、イバラを植えるより、更地のままにしておいて、他の良い園丁に永く観賞できる良い花を植えてもらうのが良いということ。だが「一度苦労したら永く逸品として残る」ものは、あるにはあるが、そうはめったになく、例えば文字についても、中国のこの四角い文字は決して「一度苦労したら永く逸品として残る」符号ではない。況や更地も永くは留保できず、空き地であればイバラやカラスムギが生える。最も肝要なことは、人間が手をかけ、植培し、除去することで、翻訳界を「雑草」から守ることだ。それが評論である。
しかし我々はこれまで翻訳を軽視して来、とりわけ重訳を軽く見て来た。創作については評論家がよく口にするが、翻訳については、数年前偶々もっぱら誤訳を指摘する文章が出たが、最近は特に少ない:重訳については更に少ない。評論の仕事上、翻訳の評論は創作より難しい。原文を読むのに訳者以上の力を要すのみならず、作品についても訳者以上の理解が要るからだ。
木天氏の指摘するように、重訳は数種の訳を参考にすると、訳者にはとても便利で、甲の訳に疑問がでた時、乙の訳を参照できる。直接訳はそうはゆかず、分からぬ所に出くわしたら、何ともしょうがない。世界で、異なる言葉を用いて、一句一句同じ意味の作品を書いた作者はいないからだ。重訳が多いのもこれが一因だろう。偸とか懶(おこたる)とかと言っても良いが、多くはやはり語学力不足のせいだ。この種の何冊か参考にした訳にあうと、評論家は更に難しくなり、少なくとも各種の原訳を読まねばならぬ。
陳源訳「父と子」や魯迅訳「毀滅」(きめつ)はこの類に属す。
翻訳の道は寛げた方が良いし、評論の仕事も重視した方が良いと思う。もし理論面だけを厳しくして、訳者に慎重に訳させようとすると相反する結果になり、良心的な人が慎重になり、乱訳者は却って無茶な訳をし、悪い翻訳がややましな訳より多くなってしまう。
最後に余り重要ではないことだが、木天氏は重訳に懐疑的なため、ドイツ語訳を見た後、彼自身が訳した「タシケント」すら、フランス語の原訳は抄本だと思ってしまったが、実はそうではないのだ。ドイツ語訳の本は厚いが、それは2冊の小説を合冊した為で、後半はセラフィモヴィッチの「鉄の流れ」だ。(フランス語訳の量がドイツ語訳の半分の為)
従って我々の見る漢訳「タシケント」は抄本ではない。 7月3日
訳者雑感:
魯迅は仙台から東京に戻り、「域外小説集」を出した。彼は南京の学生時代にドイツ語を勉強し、東京でもドイツ協会の学校でドイツ語の勉強を続けていた。そして東京からドイツへ留学しようと計画していた。母からの帰国要請がなければ、そのままドイツへ行っていたかもしれない。
周恩来は日本で勉強したが、官費の支給される大学に合格できず、傷心のまま天津に戻り、そこから第一次世界大戦後のフランスに行き、共産主義活動を本格化するが、それまでの彼は詩人文学家で、多くの詩を残している。
魯迅が周恩来のような政治の世界に入ったかどうかは何とも言えぬが、彼が母親の要請を無視して、ドイツに行ってドイツで生活したら、また別の方向に進んだかもしれない。彼は日本語と同様、ドイツ語も堪能で、ドイツ語からの重訳も沢山手掛けている。東欧の被抑圧民族の作家の作品などもドイツ語から重訳している。今では東京でドイツ語の書物を扱っている書店は英語に比べてとても少ないが、魯迅のいたころは手軽な価格で入手できたのであろう。
彼が指摘するように、デンマーク語などできる中国人が限られていた時代、(今もそんなにいるとは思えぬが)ドイツ語訳と日本語訳を見比べながら、中国語に翻訳するというのは、原文の「粋」は伝えられないが、作者の伝えたいメッセージは正確に伝えることができたであろう。最近の中国の書店には教養的な外国文学者がたくさん並んでいるが、主に小中学生向けのきれいな絵の表紙であるが、最近直接訳しなおしたものか、重訳なのか?
或いは抄本(簡略化したもの)なのだろうか?
2013/05/13記
史賁(ふん)
穆木天氏が21日の「火炬」で、作家がつまらぬ旅行記を書くことに反対し、それよりギリシャ・ローマから現代の文学の名作を中国に紹介した方が良いという。これは大変良い忠告だと思う。だが彼は19日の「自由談」で、間接訳に反対し「それは狡猾な方法」だとして、多少許せる条件はつけているが、これは彼のその後の説と矛盾するし、誤解させやすいので、私の意見を少し述べたい。
重訳は確かに直接訳より容易である。第一に、原文の中で、訳者が自からの力ではとても及ばぬと愧じ、とても表現しにくい原文の良さを少し消してしまう。訳文が原文に及ばないのは、広東語を北京語に訳すのも、或いは北京語を上海語に訳すのも、ぴったりその通りに訳すのは難しいのと同じだ。重訳は原文の良さに対するためらいを減らしてしまう。
そして忠実な訳者は難解な所に往々注解をつけ、一目瞭然だが、原書にあるとは限らない。このため直接訳はよく間違いが起こるが、間接訳の方が却って間違いが無い場合がある。
その国の言葉をよく知っている人が、その国の文学を訳すのが一番良い、この主張は間違っていない。但し、そうだとすると中国でギリシャ・ローマから現代文学の名作の翻訳を出すのは難しい。中国人が知っている外国語は英語が最多で、次が日本語で、もし重訳しないとなると、我々は英米と日本の文学作品は読めるが、イプセンやIbanez(スペインの作家:黙示録の騎士)のみならず、有名なアンデルセンやセルバンテスの「ドンキホーテ」も読めなくなる。これは何と憐れな眼界(考え方・視界)か。勿論中国でもデンマーク、ノルウエー、スペイン語に精通している人がいないわけではないが、彼らはこれまでも翻訳をしていないし、我々が今有るのは、英語からの重訳で、ソ連の作品すら大抵、英仏語からの重訳だ。
従って、翻訳について今は暫時、厳密なルールは要らないと思う。重要なのは訳文の良しあしで、直接訳か重訳かに重きを置く必要は無い:投機的か否かも問うべきではない。原訳文の趨勢に深く通じている重訳本は、原文をあまり深く理解していない忠実な直接訳より良い場合があるし、日本の改造社訳の「ゴーリキー全集」は一部の革命者が投機的だとして排斥されたことがあったが、革命者の訳が出た後、前者の方が却って優良だということがわかった。ただもう一つ条件があり、余り原訳文趨勢のわかっていない速成の訳は許すべきではない。
将来各種の名作の直接訳が出たら、重訳が淘汰されるべきときだが、その訳は旧訳より良い物でなければならず、単に「直接訳」だというだけで、護身の盾にしてはならぬ。
6月24日
訳者雑感:吉川幸次郎の唐詩選などに英文の翻訳詩が紹介されている。
日本人は同じ漢字を眼にして、分かったようなつもりでいるが、英米人の目から見た唐詩の理解と、日本人の昔からの漢文読みくだしで理解してきたものとの深さの違いが分かる。
原文の良さをそのまま外国語にうつすことは至難の業だ。だが、その作者の考えの深さをしっかり理解した上での翻訳ということは、例えば吉川幸次郎のように、英語訳をしっかり会得したうえで、もう一度見直してみるというのもとても良いことだと思う。
論語とかもきっと英訳と仏独訳などを見比べたら、いろいろ出て来ることだろう。
2013/05/10記
張承禄
「山梁雌雉、時哉時哉!」(論語、郷党:山梁の雌雉が……)物は自からその時がある。
聖経、仏典が一部の人に否定されてから十余年経ったが「今、その正しさを覚り、昨日の非を覚った」(帰去来の辞)で、現在、まさに復興の時だ。関羽と岳飛は清朝時代、数次にわたって神明に封じられたが、民国元年の革命で閑却された:新たに持ち出されたのは、袁世凱の晩年だったが、袁世凱とともに又棺に蓋をされた:そして2回目は今だ。
こういう時は、当然文語を重視し、古文を引用、雅致を標榜し古書を読むようになる。
小家の子弟は、たとえ外が大風雨でも、勇猛に前進し、懸命にあらがった。彼には、安穏に過ごせる帰るべき古巣が無いから、前に進むしかないからだ。身を固め立業の後は、家譜を修め、祠堂を造り、厳然と旧家の子弟を以て自居するが、これは畢竟は後の話だ。旧家の子弟なら、雄を自慢し、奇を好み、時勢にあわせ、食事もし、固より外出するとは限らないが、小さな成功によって、或いは小さな挫折で、彼はすぐ委縮する。一度縮むと、さらにひどく縮んで、全く家に引きこもってしまい、さらに悪いのは彼の家を固陋廃屋にしてしまう。
この邸宅の蔵の旧貨は、壁角の埃いっぱいで、もう除去できないほどだ。しかし坐食の余閑には、いろいろ物色して、破れた書物を修理し、古い壺をなで、家譜を読み、祖徳を懐い、若干の歳月を費消する。もし究極的な無聊なら、さらに続けて破れた書物を修理し、古瓶をさすり、家譜を読み、祖徳を懐い、甚だしきは汚れた壁の基礎をはがし、空虚な引き出しを開き、自分でもわけのわからない宝物を発見しようとして、この救いようも無い貧窮から抜け出そうとする。この両種の人には、小康と窮乏は異なり、悠閑と急迫も違うので、場の収め方の緩急も異なり、こういう時には、骨董の中だけで生活しようとするから、その主張と行為に違いは無くなり、声も気勢もとても盛んなようになる。
それで青年に影響を与え、骨董の中に自分の救星を探しだせると思う。小康者を眺めては、それを閑適と思い、急迫者を眺めては、専心的で、これは、道理にかなっているべきだとする。それに倣う人がいるのは当然だとする。しかし、時間は情を留めてくれない。
彼は最後には空虚になり、急迫者は妄想であり、小康者は冗談だと思う。主張者は何の特別な技両も、卓見も無ければ、骨董は香案(焼香の机)に供すか厠に抛るべきと説くが、その実、すべては一時しのぎの自らを欺き、人を欺くだけにすぎず、前例を調べてみると、随所でその通りなのがわかる。 6月23日
訳者雑感:本文は難解だ。論語の引用句を吉川幸次郎の「論語」で調べたら、吉川さんもこれはいろいろ解説があるが、訳がわからない、と匙を投げている。
魯迅は何を言いたかったのか:辛亥革命で閑却された関羽岳飛の神名を、袁世凱がこれを復活させたが彼の死とともに蓋をし、その十数年後の今1934年に復活させようとしている。
それは旧家の蔵の宝物を探し出して祀ることだ。そんなことをしていては中国を改革することはとてもできない…と嘆じているようだ。
2年ほど前に天安門広場に巨大で太ったぶざまともいえそうな孔子の像が建てられた。
だが、ほどなくして、何の説明も無いまま、撤去された。
これはなにやら関羽岳飛を担ぎ出しては、また蓋をした1920年代のころに似ている。
計画経済という仕組みを放り出し、市場経済という名の国家資本主義の仕組みに移行する段階で、マルクスに代わるものとして、孔子を担ぎ出してみたが、どうやら良くないということで、撤去したのか。
それにしても世界各国の大学内に「孔子学院」という名の語学校を一杯設立しているが、これは孔子の教えをどうこうしようという趣旨ではないようだ。単純な看板に使っただけ。
英語の辞書にはConfuciusはKung-Fu-tszeのラテン語化とある。孔夫子のことだが、その次にConfuse, Confusionという単語が続いており、なんだか混乱してしまう。
誰が何時頃、英語にしたのだろう。
2013/05/08記
白道
「此の生或いは彼の生」
今この5つの漢字を書いて、読者に:どんな意味?と問う。
「申報」の汪懋(ぼう)祖氏の文章では「……の例のように‘この学生かあの学生’と言おうとすると、文語で「此の生或いは彼の生」と書くだけでよく、その省力さはどんなものだ……」と、それですぐ思いつくのは、これは即ち‘この学生かあの学生’と言う意味となる。
そうでないと、その答えは多分いろいろ遅疑を生む可能性がある。この5字は少なくとももう2つの解釈が可能で:
1.この秀才とあの秀才(生員:科挙の合格者で秀才という)
2.この世とあの世。
文語を口語に比すと、確かに時には字数が少ないが、意味が曖昧模糊となる。文語を読むと、往々我々の知性を増幅できるだけでなく、我々の既有の知識によって、注解補足せねばならない。精緻な口語に直して初めて理解できる。もし初めから口語を使えば、字数は増えても、読者にとっては「その省力さはどんなものだ」といえる。
私は文語主張の挙げた文語を例に、文語が用を果たさぬことを証明した。
6月23日
訳者雑感:
「狂人日記」で初めての口語小説を書いた魯迅は、口語を攻撃して、文語を大切にしようと主張する文学家を徹底的に批判した。
その一方で彼の作品の至るところで「古文・古典」からの引用が見られるが。
今回やり玉に挙げられたのは、汪懋祖氏の「中小学校で文語運動を」という文章で、その趣旨は「文語の学習は尋常の言葉より難しいが、…うまく応用すれば省力化でき、読者も作者も印刷工も経済的で、もし耳だけで目を使わぬなら、文語は使えないが、目を使うなら文語は良い。(後略):出版社注」ということだ。
漢字は象形文字から出発しているので、目から判読するのにとても適していて、速読できる点は、ローマ字等より優れているが、その意味を正確に理解するまでに長時間かかることが難点である。
日本語でも「赤とんぼ」の歌の「おわれてみたのはいつの日か」という歌詞を漢字で見るまで、負われてという意味でなく、追われてと思った人が沢山いる。これは多くの歌詞が文語で作られたためだろう。文語の7-5調で作られたものは、日本人の耳になじみ易く、覚えるのに適していて、口語の歌詞はしばらくするとすぐ忘れてしまうのも事実だ。
御経とか歌詞とか詩歌は文語調が残るのかもしれぬ。それで魯迅の脳内には彼が子供のころに覚えた文語の古典が一杯残っていて、それが紡ぎだされてくるのだろう。
習ったことのない古文が出て来ることはないだろう。 2013/05/06記
莫朕
出版界の現況は、定期刊行は多いが、専門書が少ないので、心ある人を心配させている。
小品は多いが大作は少なく、これ又心ある人を心配させる。人は心あり、真に「日坐して、城を愁う」だ。
が、この状況はもう久しく、現在は変わりつつあるが、更に顕著になったに過ぎぬ。
上海の住民は以前からスナック菓子が好きで、ちょっと注意すると、外でスナック売りの声が聞こえ、いつも「実にその徒が多い」。桂花白糖倫教糕(広東起源の糕)猪油白糖蓮心粥、蝦肉ワンタン麺、胡麻バナナ、南洋マンゴ、シャム蜜橘、瓜子大王、それに蜜餞や、オリーブなどもある。なんでもおいしければ朝から夜半まで食べる。うまくなくても構わない。よく肥えた魚や大肉に比べたら量はとても少ないから。その効能は聞くところでは、ヒマつぶしの間に、養生の益を得られて、味も良いということの由。
数年前の出版物は「養生の益」のスナック菓子、或いは「入門」「ABC」「概論」等あり、要は、薄っぺらな本で、1冊数十銭で、半時間で、科学や文学全体或いは外国文が分かった。
その意味は言うならば、ひと袋の五香瓜のタネを食べれば、滋養成長に良く、5年分の飯を食べたに等しい、というもの。数年試したが、効果は現れず失望した。少し試してみて、やはり有名無実なら往々にして失望するのは免れず、例えば今もう仙人になろうと修業する人や、錬金する人もあまりいないし、代わりに温泉に行き、宝くじを買うというのも、試験が無効だった結果だ。そこで「養生」という点を緩めて、「味がいい」という点に偏向してゆく。だがやはりスナックはスナックだ。上海の住民とスナックは死んでも離せない。
そこで小品の登場となるが、何も新しい物は無い。老九章(絹織物の老補)の繁盛時は、「筆記小説大観」流があり、これはスナックの大箱だった:老九章の倒産後は、それに伴って、自然に小粒になった。量も少なくなったが、どうしたわけか却って騒がしくなり、街中がにぎやかになったのはなぜだろう?思うに、これは天秤棒に篆字とローマ字をうまくあわせたネオンサインの為だろう。
しかしながら、やはり元のままのスナックで、上海住民の感応力は以前より敏捷になったからで、さもなければ、どうしてこんなに騒々しいのだろう。ただ、これもきっと神経衰弱のせいだろう。もし本当にそうなら、スナックの前途は憂慮すべきだ。
6月11日
訳者雑感:当時の出版物はスナック菓子のような安くて手軽に読めるものばかりで、本当に滋養成長に欠かせない「魚肉の食事」たる「本」が少ないのを嘆じているのだろう。
ヒマ潰しに食べるのがスナック菓子で、ヒマ潰しに読むのは1冊数十銭のスナック本だと。
だが魯迅もスナック菓子の売り子の呼び声から、9個の名を記しているのは、一通り食べたものと思われる。マンゴとかオリーブとかさすが魔都上海で、戦前の東京には無かったろう 2013/05/05記
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
P R