忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

梅蘭芳他について(上)

                                                   張沛

 名優崇拝は古くから北京の伝統だ。

辛亥革命後、俳優の品格も向上し、崇拝も清くなってきた。

昔はただ潭叫天一人が劇壇の雄で、彼の技芸はみなが称賛したが、一部に権勢との関係もあり、彼は「老仏爺(みほとけ:皇太后)」と言われた西太后のお気に入りだった。

誰も彼を宣伝せぬし、彼の為に智恵を出さなかったし、世界的な名声を得ることもなかったし、脚本も書かなかった。そうしなかったのは多分「遠慮」したためだと思う。

 後の有名な梅蘭芳は違った。梅蘭芳は男優でなく女形で、皇族お抱えの俳優でもなく、

一般大衆の寵児だったから、士大夫は手を出せた。
士大夫はいつも民間の物を奪おうとし、竹枝詞(俗曲:歌謡曲に近いか)を文語文にし、
「小家の碧玉」を妾にしたが、ひとたび彼らの手に染まると、彼らとともに滅んでしまう。
彼らは俗衆から取り上げ、ガラスケースに入れ、紫檀の棚に飾る。多くの人には分からぬ文句で、ゆるゆると「天女散花」を舞わせ、くねくねと「黛玉葬花」を演じさせた。
それまでは彼が戯を作ったのだが、その時から、戯は彼のために作られるようになり、
凡そ新しい劇本はすべて梅蘭芳のためであり、
且つまた士大夫の心眼中の梅蘭芳であった。

雅ではあったが、多くの人にはよく分からず、見ようという気にもならず、見る資格もないと感じた。

 士大夫たちも日に日に消沈してゆき、梅蘭芳は近頃とても冷落した。

 彼は女形だったから、年をとると勢いどうしても冷落するのか?いや、そうではない。

老十三旦(女形)は70才だが、舞台に上がると満座の喝采を得る。なぜか?

彼は士大夫に占有されてガラスケースに入れられていないからだ。 

 名声の起滅は光の起滅と同じで、起こる時は近くから遠くへゆくが、滅する時は遠くに余光を留める。

梅蘭芳の日米訪問は、実はすでに光の発揚でなく、中国に於ける光の収斂である。

彼はガラスケースから跳び出そうとせぬから、このように運び出され、又戻って来た。

 士大夫たちのパトロンを受ける前に演じた戯は、当然俗で、猥雑で汚れてもいたが、

溌剌とし、生き生きしていた。「天女」になって高貴になったが、それ以降活気が失せ、

かしこまってしまって憐れだった。生気のない天女や林妹妹(黛玉)を見るのは、多くの人にとっては、生き生きとした美しい村娘に及ばなかった。彼女には親近感を感じる。

しかし、梅蘭芳は記者に対して、他の劇本をもっと雅にして欲しいと言った。

          111

訳者雑感:現代中国で第一人者と言われた梅蘭芳も、この当時は、没落する士大夫の占有とされ、一般庶民から遊離していたのか?その後、彼は大きく脱皮したのだろう。

この雑文などを誰かに見せられて、発奮したのだろうか?

      2013/07/21

 

拍手[0回]

PR

又も「シェークスピア」

又も「シェークスピア」      苗挺

 ソ連がシェークスピアのオリジナル劇を上演しようとするのは「醜態」であり:

マルクスがシェークスピアを講じたことは当然誤りである:

梁実秋教授がシェークスピアを一部銀貨千元で翻訳予定という:

杜衡氏がシェークスピアを読むのは、「やはり人となるための経験を積むため」の由。

 我々の文学家杜衡氏は、それまで自分でも「人としての経験」が欠けていたと思っていなかったので、群衆を信じていたが、シェークスピアの「シーザー伝」を読んではじめて
「彼らに理性は無く、明確な利害観念もなく:
彼らの感情は、何人かの扇動家にコントロールされ、操られていることが分かった」
(杜衡:「シェークスピア劇シーザー伝の群衆」<文芸風景>創刊号)

 むろんこれは「シェークスピア劇」に基づくもので、杜氏とは関係ないが、彼自身言うように、今もそれが正しいか否が判断できぬが、自分としては「やはり人となる為の経験が必要」だと感じているのは疑いなしに明白だ。

 これが「シェークスピア劇シーザー伝の群衆」が杜衡氏に与えた影響である。

だが、杜氏の「シェークスピア劇シーザー伝の群衆」で表現した群衆はどうだろうか?

「シーザー伝」で表現されたものとなんら違っていない――

  『……これは我々にこの数百年来の政変で、常々目にしてきた事を想起させ、

「鶏が来たら、鶏を迎え、狗が来たら狗を迎える」式……それらは非常に心痛む状況だ。

…人類の進化は一体どこにあるのか?そもそも或いは我々この東方の古い国もこれまでまだ二千年前のローマの経て来た文明の段階に停滞しているのか』

 確かに「古(いにしへ)を思うという幽なる感情は」往々、現在の為である。

これを比べると、ローマにもきっと理性があったし、明確な利害関係があり、
数人の扇動家にコントロールされず、操られなかった群衆はいたのだが、
彼らは駆逐され、圧制を受け、殺されたのではないかとの疑念が起こる。
シェークスピアはそんなことは調べもせず、

思い到らなかったようだが、故意に抹殺したのかもしれない。彼は古い時代の人だから、

こうした手法を使うのは造作も無いことだと考えていただろう。

 しかし、彼の貴手により取捨されたものが、杜衡氏の名文で発揮され、
実際我々は、
群衆は永遠に「鶏が来たら、鶏を迎え、狗が来たら狗を迎える」
的なネタにすぎず、

結局はやはり迎えられた者が力を得ることになる:「私として本音を言えば」群衆の無能と、

鄙すべきことは、はるか「鶏」「狗」の上にあるという「心情」が些かある。

無論これは正に群衆を愛しているためだし、彼らが余り争いごとを好まぬせいである。

――自分では判断できぬが、「この偉大な劇作家は、群衆をこのように見ている」のだ。

信じられなければ、彼に聞いてみるとよい!   101

 

訳者雑感:シェークスピアは宮廷貴族たちのために劇本を書いた。

その中に、ソ連革命後の群衆の蜂起とか造反する群衆はあまり描かれていないようだ。

それをソ連がオリジナル通り演じるのは「醜態」だと批難する人がいた。

中国の「京劇」もやはり宮廷貴族の為に作られた者が多かったが、町民の為の物もあった。

ちょうど近松とか鶴屋南北などの劇本が町民を対象にしていたのと近い。

 シーザーの時代にもローマ市民はシーザーを支持する派と、彼を排除しようとする勢力

を支持する人々の間に熾烈な争いがあったことだろう。だがシェークスピアはそれをとり

あげなかった。それを調べなかったか、思いいたらなかったか?

答えは魯迅も分からないとしているが、やはり観劇者の為の劇本に徹したものか。

    2013/07/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拍手[0回]

バードの大内宿へ

  湯野上駅の野口母子の写真の車両

1.

 2009年に釜澤さんの書かれた「イザベラ・バードを歩く」を鞄に入れて、
新幹線の郡山から磐越西線で会津に向った。磐梯山を右に見ながら、数名の人が遠くの雪をかぶった飯豊山に向けてシャッターをきっていた。バードが
74日の津川から新潟への途中で、

「平野の背後には、ところどころ雪の山が迫っている」と記したのはこの山だろう。

 会津とは4本の川が集る所だそうで、四川省の小型版だが、四川省は天府と言われる程

豊かな土地で、1億以上の人口を養う大盆地だ。会津も豊かな盆地である。

 会津若松から会津鉄道の古い車両に乗り、強風が吹いたら転落しそうな欄干の低い橋を

ゆっくりゆっくり進み、大内への最寄り駅・湯野上温泉に到着。バスは40分以上待つので、
タクシーで向った。運転手はなぜ大内宿がこういう形で残ったかとよく聞かれますが、

昔の街道はできるだけ峠の上り下りの難儀を減らす為、今のような川沿いの低い道でなく、

少し高い所を保つように作ったので、二百メートル以上も低い所に新しい道ができた結果、

誰も通らなくなって、昔のままの宿場が残った由縁を教えてくれた。6KM 弱だから、歩いて行けぬことも無いが、高度差と歩道が整備されていないので、タクシーを利用する人が多いので助かる由。途中のせせらぎは青森の奥入瀬渓谷の雰囲気に似ている。

 私が最初にバードの「日本奥地紀行」を読んだのは、1973年版の山形生まれの高梨さんの訳であった。彼の名訳にすっかりとりこになったと思う。日本の汚いところ、不潔な点もしっかり指摘しながら、そして食材の貧弱さに閉口しながら、日本の良さ、すばらしさを妹あての手紙の形をとって、英国民及び英語を理解できる世界の全ての人に伝えようとしている。

2.

 1878年(西郷の西南の役の年)、47歳の彼女は一人で外国人が足を踏み入れていない所を選び、通訳の男と2人で(馬子は別)6月から9月にかけ、江戸東京から北海道まで旅をしている。芭蕉の奥の細道の旅の期間と似ており、東北を旅するにはこの時期が比較的移動し易いということも考慮に入れたのだろう。

 旅の途中、芭蕉が最上川下りで、体を休めたように、彼女も阿賀野川で新潟に向い、

体を休め、新潟に届いていた英国からの便りに心はずませ、函館へ向けて、物資調達をしたのだろう。荷物を今の宅急便のように、函館向けに送っている。通訳の男名義で。

「奥の細道」には幾つかの写本があり、曾良の日記の日付と異なる記述がしばしば出てきて、いろいろな説があるように、バードの「日本奥地紀行」も最初に出されたものから、出版社がいろいろ手を加えて「簡略版」を発行して、手軽に読めるようにしたためと、

彼女自身も実際の日時と、手紙を書いた時の日付などが一部異なっていたりしたため、

時として我々読者も「奥の細道」の脚色に惑わされる如くに、頭が混乱することがある。

 我々としては、これは「紀行文」として読めば良いのであって、何月何日彼女が本当に

大内に着いたとか、そこに何泊したかは問題ではなく、彼女がどういう旅をして、どういう感動を覚えたかの記述に、読者として「共感」するか「おかしいな」「面白い観測だな」

と心を動かされながら、共に旅ができるのが最も大事なことだと思う。

 今回、2012年に出た、金坂さんの「完訳 日本奥地紀行」という原本を忠実に「完訳」したものと照らし合わせながら読んでもみたが、若い頃に感動しながら読んだ高梨さんの

「簡略版」の方が、平凡な旅することと紀行文好きの私には、大切に感じられる。

芭蕉の「奥の細道」にもいろいろな写本があるように、バードの「奥地紀行」にも色々な

版があって、それぞれに愛読者がいても不思議はない。

 高梨さんの版の127頁に、「ぱっと赤らんだ裸岩の尖った先端が現れて来る。露骨さのないキレーン(不詳)であり、廃墟のないライン川である。しかしそのいずれにもまさって

美しい。…略」とあり、キレーンとは何だろうなと思いながら、廃墟のないライン川と言う句から、自分なりにどこか欧州の景勝地の名だろうかと想像しながらイメージを膨らませて、次に読み進んでゆく。

  問屋本陣:問屋本陣は、大名の泊まる本陣の中継地点に置かれたもの。江戸時代の物は残っていないので、川島本陣と糸沢本陣を参考にして復元した由。

3.

 今回金坂さんの版で該当箇所を見たら、第一巻の242頁に、「まるで裸地なき{緑豊かな}

キレーン(7)、廃墟なきライン川…略」とあり、(7)の注にスコットランドのアウター

ヘブリディーズ諸島のスカイ島東北端スタッフィンの南三・五マイル{5.5キロ}にある山。

1779フィート(540メートル)のこの山は回りを玄武岩の崖と幻想的な峰で囲まれた山で

…略。と10行くらいの注が付されている。

 この注は確かにバードの読者の多くが英国民なのだから、彼女がキレーンという山と、

ライン川の名を出して、彼女の目にした阿賀野川の支流の景観の素晴らしさを説く際に、

「しかしそのいずれにもまさって美しい」としている。

 キレーンを見たことも無い日本人もライン川の美しさは写真などで知っている。それで、

一般読者としては、高梨さんのキレーン(不詳)でもイメージはふくらますことはできる。

「奥の細道」にも、平安時代の歌枕や、中国の唐宋の詩を踏まえたものがたくさんあり、

それを知って読むのと、知らずに読むのとは雲泥の差がある、云々と説く人も多い。

しかし、中学生や高校生でも、その出典を知らずに読んでも、「荒海や佐渡によこたふ…」とか、「しずかさや岩にしみいる…」などの句や文章を面白いと感じながら読んで行ける。

 学術的に正確で詳細な注のついた「書物」にすることも大事なことだが、芭蕉が何回も

推敲を重ねながら、とうとう生前にはその出版を許さず、その後に版元が出したものは、各地に残っていた「すこしずつ異なる」写本を元にしたように、バードの「奥地紀行」も、

彼女の妹への手紙を基本にしながら、出版社が廉価で読者に読み易いように「簡略化」

したものが、文章的にもこなれてきて、すっかり「とりこ」にされてしまったようだ。

   201374日訪問

 

 

 

 団体客のいない一瞬(忍耐強く待った甲斐あり)

 

駐車場には10台以上の観光バスと230台の乗用車・バンなどが大勢の客を運んできていた。交通整理の人が45人道路横断時に自動車を止めていた。

平日のせいか多くは老人男女であった。

しかし若い人たちも何組かは見かけたし、アベックがアイスとか甘い物を食べていた。

売っている人もほとんど老人で、並べている商品もワラジの御守りとか、足腰がいつまでも元気で健康にくらせるように、というものが多かった。

少し曲がったネギ一本で食べる蕎麦が有名だそうだ。

 

今日の客に有資格者はいないのかな。

       2013/07/11

拍手[1回]

天津のコンプラドール その11

 

天津のコンプラドール その11

1.

前回、日本の石炭産業が民族資本の手で開発されたことが、日本経済の発展につながったことに触れた。グラバー邸で有名な英国商人グラバーは、1859年上海に来て、ジャーディンマセソン商会に入った。そこから長崎にやってきて、同社の長崎代理人という肩書きで、倒幕派の雄藩に肩入れして、大量の武器弾薬を売って大もうけした。彼は、内戦は当分続くとみて、武器を大量に仕入れた。が、鳥羽伏見の一戦だけで終わってしまい、江戸は無血開城。思惑がはずれた。雄藩からの代金回収も滞って資金繰りが悪化、維新後2年目に倒産してしまった。

グラバー商会は倒産したが、彼が肥前藩と共同開発した高島炭鉱の経営は、1870年に官営化され、そして後藤象二郎に払い下げられたが、後に岩崎の三菱に買収されてからも、その経営ノウハウを買われ、所長として活躍していた。三菱の高島炭鉱買い戻しで、日本郵船三菱の発展へとつながった。

一方、中国は李鴻章の肝いりで創設した商船会社への石炭供給のために開山した開ラン炭田(当初は開平)が義和団の事変のドサクサにまぎれて、イギリス資本の手に渡ってしまった。このときに鉱山で働いていた外国人技師は、スタンフォード大学で地質学を専攻し、後に大恐慌にみまわれた米国大統領フーバーだった。彼は1900年6月、天津で義和団に包囲攻撃されている。

彼は、開平鉱務局の監督官庁のトップだった張翼の命で、開平に派遣されてきた天津税関司のドイツ人と相談した。張翼は、八カ国聯軍が浸入してきて、炭鉱を破壊し、石炭が採掘できなくなることを恐れた。それで、炭鉱にイギリス国旗を掲げることが、八カ国聯軍の攻撃から身を守る手段と考えた二人の進言に同意し、炭鉱の全資産を英国資本に譲る契約に調印した。

彼は中英両文の内容が符号していないデタラメな契約にサインした。この間のいきさつは省くが、監督官庁のトップが、自分の責任を回避し、尚且つ石炭採掘から得られる「利権収入」という上手い汁の確保にいかに汲々としていたかが分かる。

自分の任期中に、鉱山が破壊され、採掘が止まってしまっては、目論んでいた収入の道が絶たれてしまうのだ。その後、この騙し取られた開平炭鉱の周囲に、もともと開平炭鉱の経営に関与していた周学熙という天津一の実業家がラン州炭鉱を開いて、開平をイギリス人から取り戻して「開ラン炭鉱」とすることができたのは後の話。

2.

1949年に劉少奇が毛沢東からモスクワ行きの指示を受けたのは、開ラン炭鉱視察中であった。私が天津の旧金融街の一角に、開ラン炭鉱の石造りのがっしりとした本社ビルを見たのも、何かの縁かもしれない。日本と中国の間にLT貿易が始まった頃は、私の会社もこの開ラン炭を輸入していた。私が北京駐在のころも続いていて、秦皇島積みとして2-3日で到着するので、日本の需要家から好評を博していた。

その後、円借款により、山西の大同から秦皇島まで鉄道が敷設され、港は近代的な石炭積出港に変貌した。山西省の有望な炭田が、ロングウオールなど近代的な設備を投入して、幾つも開発された。山東、河北産だけでは足りず、山西省の無数に近い炭田の開発が行われ、最近では内モンゴルなどにも拡大していった。

30年前の出炭量は数億トンであったが、最近では25億トンと10倍にもなっている。鉄鋼業だけでも1トンの銑鉄生産のために約0.5トンのコークスを使う。その鉄鋼生産が、5千万トンレベルから5億トンと10倍になったのだから、鉄鋼向けだけでも相当なものだが、発電用とかセメント用とか中国の殆ど全産業に使用されてきた。

私が90年代に、河北省の邯鄲の近くの製鉄所を何度も訪問したころは、人頭大の大きさの塊炭を満載したトラックの列が、隣の山西省から、省境の山地を越えて、何時間もかけて、延々と輸送されていた。鉄鉱石は不足し始めていて、大半を輸入に依存せざるを得なくなっていたが、石炭は隣の山西省にいくらでもあるから安心だと豪語していた。

その後、外国の借款も利用して石炭輸送用の鉄道がどんどん敷設され、スラリー輸送なども検討された。しかし何といっても、運河での輸送がもっとも競争力があった。今春、重慶から三峡下りをしたとき、最終貯水目標の標高185メートルにまであと数メートルくらいのところまできていた。昔の映像でみた、グングンと後の波が前の波を押し出すような、ダイナミックさは完全に失せていた。李白の有名な、千里の江陵一日にして還る、という醍醐味はなくなってしまった。

そのために、流れの鎮まったダム湖の両岸には、水面から30メートルくらいのところに、貯炭場が何ヶ所も何ヶ所も設けられていた。そこへ近隣の炭鉱からトラックで運ばれた石炭が、次々に落とし込まれていた。水面の近くまで伸びたシューターで、千トンクラスの石炭船に流し込まれ、三峡ダムの水門を通って、武漢、上海まで運ばれると言う。

一旦乗せてしまえば、これほど輸送費のかからない運搬船に勝てるものはない。帰りは工業製品や日用品を積んで遡上するが、重慶までは湖のようなものだ。五大湖とセントローレンス河を行き来する小麦や石炭などを運搬するレーカーを彷彿させる。

三峡が五大湖に変じたようだ。とてつもない長さの湖。ただナイアガラの滝は眺められないのが残念だ。そのうち中国のことだから、ダムの堰から大放流して、観光客を呼び寄せることもするかな。

3.

数年前から今年にかけて、山西はじめ全国至るところで 炭鉱事故によって

数え切れないほど多くの人命が失われている。

政府は私企業の安全対策を無視した採掘をやめさせるべく、厳重に取り締まっているが、私企業のオーナーは、事故のあった炭鉱は閉山し、またすぐ近くの炭鉱を新しい会社名で採掘開始する。

山西には「煤老板」という言葉がある。戦後の日本で三橋美智也が歌って流行した、「おいらはナー生まれながらの炭鉱夫」という歌に典型的なように、

当時、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれて、九州の筑豊炭田を中心に、個人オーナーの経営する炭田がいくつも開山した。山西ではその規模といい、その凄まじさといい、筑豊などとは比べようもないほどの炭田が、次からつぎへと開山され、閉山されている。それらは皆「煤老板」といわれる、炭鉱おやじ、とでも訳すべき、「石炭成金」の手になるもので、その炭鉱親父が五万といる。データによれば年産一定規模の炭鉱は3万社以上あり、その内、神華など大手5社の占有率は10%に過ぎない。25億トンの内、90%22億トンは3万社の炭鉱おやじの手で採掘されている。

彼等炭鉱おやじたちは、表面上は名前を出さない。地方政府の採掘権を認可する役所に勤務している役人と、共同してというかグルになって、次から次へと採掘のしやすい炭田を掘りつくしては、移ってゆく。あたかも焼畑農業のごとくに。

どういう手口かといえば、例えば雲岡石窟で有名な大同の近くの村の役人に、この炭鉱おやじは、採掘の許可証を得る為に、通常の国の定めたロイヤルティ以外に相応の賄賂を渡す。それで、採掘会社を設立し、そこの社長には、別の鉱山で働いていた男を据える。自分は出資して、機材を調達し、産出された石炭をコストで引き取って、もっとも高く売れるところへ販売する。事故が起これば、すぐ閉山して責任はその男に転じて、本人は次の炭田の投資に移ってゆく。石油の値段が信じられないほどの勢いで暴騰したのに伴って、石炭の価格も、龍の飛翔する、がごとくに跳ね上がり、炭鉱おやじはぼろ儲けした。

10年ほど前、日本の製鉄会社の役員から、中国の出炭量があっという間に10億トンを超えたとき、いったいどういうことかね、と聞かれた事がある。

日本でもピークには、6千万トンくらいは出炭していたが、2-3億トンから一気に10億トンを超すことがそんなに簡単にできるとは信じられなかった。

豪州でも 何億トンも増産しようとすると、鉄道とかインフラなどの整備に長時間を要す。また環境問題などで地域政府の認可も簡単には下りない。

石炭産業の民営化以後、こんな会社ばかりが、雨後の筍のようにぞくぞくと現れた。これが先ほど述べた30年間で出炭量がかくも増大した原動力なのだから、これがなかったら、増産のスピードはかなり押さえられたにちがいない。

4.

最近になって、こうした状況が目にあまるようになったので、山西省政府は

「国進民退」政策を打ち出してきた。即ち、中小規模の炭田から民間資本を撤退させ、省がその炭鉱を買い取って30年前のように国営に戻すというのだ。

一旦 民営化した郵便局も、いろいろ不具合がでてきたので、見直すという日本の思考方法を採用しようとしているかもしれない。

確かにすべて民に任せてしまった結果、事故は続発するは、環境はむちゃくちゃになるはで、10年後20年後には石炭の山西といわれていた石炭王国は、

事故を起こして閉山させられ、ボタ山の炭鉱跡ばかりとなってしまうだろう。

大型で近代的な炭鉱の多い内モンゴルなどに負けてしまうことになろう。

国営時代も無駄が多く、決して問題が無いわけではなかったが、労働者の生命は大事にされ、危険な坑道には入ることを拒否できる権利も保証されていた。また、民営のような、ルーズな環境無視の採掘は禁止されていた。

民に任せると、商人である「煤老板」は利益追求に走り、偽の報告書を提出して、政府をあざむき、採掘権が賄賂の対象となって、官吏もその賄賂のために腐敗する。まさしく官民癒着とは、山西の炭田にその真骨頂を見る。

開ラン炭鉱でも、イギリス人、ドイツ人 アメリカ人などが入り乱れて、採掘権をめぐって 血なまぐさい法廷闘争がなされた。国営であるべきものを民間に払い下げたとたんに、すべてハイエナのように貪欲な異民族と身内の中の腐敗した連中に、いいようにされて、富を持っていかれてしまった。

官吏が任期中に、石炭採掘のための利権を付与することで賄賂同然の別途収入を稼ぐことに血眼になる。給与はたかが知れているので、給与外収入の最大化に懸命になり、商人は利を追求することのみに全精力を傾け、安全装置や計画的な採掘など二の次となる。もちろんこの背景には、凄まじい勢いで成長してきた、過去30年の経済発展がベースにある。この経済発展の過程で、数億トンから25億トンにまで増産された石炭が、がぶ飲みされた。20年間で十倍にも増産できたのは、こうした役人と炭鉱親父の上手い汁を吸えるという仕組みがなければ、実現できなかったであろう。もちろん、石炭価格の急上昇と、需要の急拡大がその底にあったのが、原動力であることは間違いない。

官が監督し,民が弁じるのは しっかりとした法制度に基づかねばならないが、そうした社会環境の破壊を無視した違法行為を取り締まる法律は、名はあっても、実施には程遠いところに放置されてきた。監督官庁の役人になる人間が、自ら法の網をかいくぐって、私腹を肥やすことに専念するという、民族的伝統を、どうしたら打破できるか。私の友人の言に依れば「あのね、中国でね、

長というポストに就いたら、好処(うまい汁)を吸わずにはおられないのよ。」

周りがそうするし、そうしない長はすぐ追い出されて、ポイさ。」との由。

この国で、役人になるための試験に合格したいという人間は、有名大学を卒業して、過去の科挙の試験に合格するのと同様の難関が待っている、と報道が騒いでいる。それで親たちは有名進学校を目指して、小学校から家庭教師をつけている。いずれも、その目的はうまい汁の吸える長になるためである。

科挙については、弊害も甚だしかったが、導入された時点での目的は、それまでの世襲制の弊害を無くし、誰でもが受験でき、優秀な役人を採用して、国のために、皇帝のために働いてもらうためであった。だが、国や皇帝のために働いたのはほんの一握りに過ぎず、大概は私腹を肥やすことに専念したという。

世襲もだめだが、科挙と同様の今の公務員試験もなあ。

5.

以前、杭州の学校は、公立の学校を民営化し、高い授業料を取って、有名大学への進学率が格段に向上したと、宣伝されていた。それが最近、教師たちが放課後にお金をとって予備校まがいのような商売を始め、いろいろな弊害が指摘された。

それで、民営化した学校を、もとの公立の学校に戻し、授業料も従来どおりにすると発表した。元来、国の税金で建設した学校を、民間に払い下げて、民間経営にして、優秀な教師を集め、高い授業料の払える親から、成績の優秀な学生を選抜して、私立学校にするというのは、言語道断だと非難の声が上がっている。

湖南省や湖北省でも、一つの学校の中に、優秀な生徒だけを集めて、クラスを編成し、一般より高い授業料を徴収して、いい先生をそろえて、進学率を高めた、という学校が糾弾されて、そうしたエリート教育は許さないと、報じられている。が、実態は、「某実験小学とか、実験中学」という名目で、進学校を作って、教師は塾まがいの教授方法で 給与の何倍もの収入を得ている。

こうした報道に接するたびに、私は、長年の共産党員でもある、私の友人に

解説と、解読を求める。

彼は、大きく嘆息しながら答える。

「我が民族は、名と利と二つながらに富、栄えることを、一生の目標に生きてきた伝統があるのさ。」

「名とは何か。政治的、文化的に後世に伝わるようなことをして、名を残すこと。これが歴代の詩人がほとんど官僚でもあったことの説明にもなる。」

「そして、その政治生命を長く保ちたいなら、李鴻章もそうしたように、政敵に、追い落とされないために、軍事力と資金を蓄えなければ、いつかはやられてしまうということを、身にしみて会得しているからさ。」

「昨年のオリンピックの開会式に女の子が歌った唄、知っているだろう。

五星紅旗は、風を受けて、翩翻とはためく。勝利の歌声はたからかに鳴り響く。

ただ今から我が民族は繁栄と富強へ邁進するのだ」、と。

「繁栄と富強というよりは、繁栄と腐敗に近いがね。」

 

2009年10月29日 大連にて

拍手[1回]

天津のコンプラドール その9 つづき

9.

それから40年経て、魯迅の作品は教科書から削られてしまった。その代わりに、任侠小説で著名な金庸の作品が取り上げられている。ある人は新聞に、今や魯迅の作品は「鶏のあばら骨」になってしまったのかと嘆いている。食べられる肉がひとつもついてないという意味だ。

日本でも漱石鷗外の作品が教科書から消えた。しかし中国に於ける魯迅の影響は、現代日本に於ける漱石鷗外とは比較にならないほど、政治的意味合いが強い。彼は清朝晩年に生まれた。科挙廃止により、洋学が提唱され、学費の要らない官立の学校が建てられた。その南京の水師学堂に入学した。出立の朝に母から、厳しい家計の中から捻出してくれた路銀をもらった、と記されている。だが、その学校は清朝の水兵養成のための学校と知って、路鉱学堂に転校したのだが、結局、これではだめだと日本に留学した。

日本から帰国後、中国をこんなにメチャクチャにしてしまった「礼教」すなわち儒教という「人が人を食う」社会、官僚地主が庶民小作農の血を吸い上げる仕組みを壊さねばならないと立ち上がった。

「孔子を神に祭り上げて、国人の魂をがんじがらめにしばってきた礼教」を徹底的に否定し、孔子の店を打倒せよと叫び、青年に古い書物は読むな、と訴えた。この世から、人々の頭の中から、孔子を叩き出してしまわねば、中国に救いは無いと主張し、作品の中の大テーマとした。

毛沢東は彼のこうした一面を高く評価し、旧体制を打倒するためにもっとも硬い骨を持った戦士だとして讃えた。しかし、魯迅の作品の中には、そうでないものも沢山あり、純文学として読者を感動させるものも多い。

私なぞも、何の先入観もなしに読んだ「故郷」とか「藤野先生」という作品から受けた感動を大切にして、中国文学に親しみを持ってきた。

しかし、その後の「雑文」という形式で、旧体制、封建的、軍閥的体制、それを支えようとする文章家たちを容赦なく、木っ端微塵に叩き潰す、鋭い匕首のような文章の数々が、中国の多くの革命的青年たちの拠り所として、読まれてきたと思う。

只 彼は自分が国葬されることなど、思いもよらなかったろうし、毛沢東に彼の文章の中の一部を引用されて、公園の花壇の中に看板の如くに立てられようとは、想像すらしなかっただろう。

文革から30年以上経た今、彼の作品は書店に並んではいるが、現代の青少年に与える影響は、少なくなってしまったようだ。「狂人日記」や「阿Q正伝」などは、1980年代以降の一人っ子政策導入後の子供たちには、遠い存在のように感じられるのだろう。

彼の作品の役割は、文革を境にして終わってしまったのだろう。文革で持ち上げられた反動もあるかもしれない。私たちは、文革が中国と周辺国に与えた影響、投げかけた問題を、30年経った今、吟味再考することが、必要だと思う。なぜなら、あれほど魯迅が攻撃否定した「孔子を神に祭り上げて、国民を縛ってきた儒教」の古典が、ぞくぞくと復活、現代訳と解説をつけて、出版され、ベストセラーにさえなっているからだ。

10.

1949年から文革開始までの20年間は、共産主義という西洋から輸入した思想を掲げて、国づくりをしてきたのだが、やはり旧社会の伝統が、むくむくと息を吹き返してきた。党と政府の官僚たちは、特権を握り、エリートとして、旧社会の役人のような暮らしをするようになっていった。立派な家に住み、外国訪問なども、はでに行っていた。有産階級がより多くの富を手中にした。

首都北京から全国の津々浦々まで、毛沢東思想を宣伝し、共産主義の理想実現のために、「人民公社」に代表される「無産階級」社会は、人々の生産意欲を減衰させ、成り立たなくなってしまった。

文革中に中国を訪問したとき、我々を接待してくれた党の幹部は、当時、唯一の友好国であったアルバニア産のタバコを差し出して、私に勧めた。当時欧州の品物はアルバニア産以外、殆ど無かったほど、孤立していた。ソ連でも既に、フルシチョフの修正主義でないと、社会が回らなくなっていた。

毛沢東とその取り巻きたちは、「無産階級文化大革命」を起こして、無産階級者の手に、ふたたび中国の大地を取り戻そうとした。動物から進化した人間の生活は、穀物を植えたり、家畜を飼ったりして食糧を生産し、進化してきた。先に述べたように、鉄で生産手段を改善し、より多くの生産をあげて、それをテコに農耕地域を広げて、個々の種族が「財産」を私有するという欲望が引き金となって、より豊かな社会に発展してきた。そうした財産を「無産階級」の手に取り戻そうと試みたのが、文化大革命の一面であった。その裏には、どろどろとした権力闘争やら、怨念やらが一杯つまっていたのだが。

全国の有産者から、家産をすべて取り上げた。天津の大邸宅に住んでいた、梁さんのような有産階級は、産を私有していることを「自己批判」させられた。そして、辺境の農場に送られ、罪名をかぶせられて牢に繋がれた。

「無産階級文化大革命」とは、まさしくこの中国の大地を、またぞろ復活してきた、旧社会を支配してきた有産者たちの手から、取り戻すことだ。更に言えば、彼らの蓄えてきた財産をすべて取り上げて、無産者に配分することであった。梁さんの家も、数家族に配分され、彼が牢から戻ってきたとき、唯一残されていた、狭い離れのような小部屋に姉と二人で住むことを許された。

11.

こうして一旦は有産階級を追い出して、無産階級の手に戻ったかのように見えた中国の大地は、林彪や四人組などが、支配権を巡って、さらに泥沼に陥ってしまった。71年に林彪が毛沢東暗殺に失敗し、ソ連への脱出を謀ったが、墜落死し、72年にニクソンと田中角栄が訪中して、中国は孤立から脱却した。

1976年に、周恩来、朱徳、毛沢東などが、相次いで他界し、四人組も逮捕され、文革で政界から追放されていた、旧幹部たちが呼び戻された。といっても、ことはそう簡単には運ばなかった。

私は周恩来の死後、北京に出張する機会があった。北京飯店の東、王府井の「人民日報」のガラスケースに展示された周恩来の葬儀の写真を見たとき、鄧小平の姿が、数名の幹部の中にあった。翌日、友人を誘って見に出かけたときには、彼の姿はすっぽりと消えていた。それから半年ほどして四人組が逮捕されて、彼は本当に復活した。

「白い猫も黒い猫も、ネズミをとる猫はよい猫だ。」という四川の俗諺は、振り返ってみると、文化大革命の起こる前の1962年に,もうすでに言われていた。ということは、1949年に建国して10年ほどで、請負生産でないと、中国の農民は飢え死にしてしまうという現実に直面していたのだ。黒が資本主義、白が社会主義とすると、資本主義でも社会主義でも、農民の穀物生産がなければ、民は飢え死にしてしまう。社会主義の思想面からは、合法的でないものも、合法的にして、経済発展を目指す。さもなければ、多くの民が飢えてしまうほどの飢饉に見舞われていた。飲食男女は人の性だという欲望が進歩と発展の原動力だという、漢民族の伝統を一方で否定しておいて、増産に励めというのは農民たちにはとてもついていけない、大きな矛盾であった。

新中国になって、国民党時代の大地主を兼ねていた官僚から農地を取り上げて、国有とし、合作社とか人民公社という組織にその任用を委ねた。だが、農民の戸別には何の私有財産も与えなかった。このことが理想と現実で大きなギャップを生んだ。

12.

もし、62年の時点で、人民公社でなく、請負制が本格的に導入されていたら、10年の災厄から免れたかもしれない。10年間の文革で有産階級の財産をすべて取り上げ、そして戸別の請負制にしたのは、戦後日本の農地解放に準じるかもしれない。中国の大地には「所有権」は無い。「使用権」だけが農民や生産企業に付与されている。

ただ、改革解放後、農民に分けたはずの土地を、召し上げて、開発区とし、工業団地とし、住宅団地として、役人の息のかかったデヴェロッパーに払い下げて、莫大な不動産と富が一部の人間に偏在するようになった。

彼等は、自分で製造業を起こして、その販売で収益をあげることよりも、国の土地使用権を、コネや賄賂を使って廉価で入手し、そこにマンションや商業施設を作らせて、そこから出る上がりで稼ぐことの方が、性分に合っているようだ。製造業よりもずっと得意の分野のようだ。

今日ではマルクスの資本論は、欧州の資本主義の発展の次の段階としての「空想」的理論で、資本主義社会を経ていない ロシアや中国での適用は無理があった、という発言が力を得ている。今、西欧はEUとして国境が消されつつある。ある面で、社会主義の方向に向かっている。バンカーの年収制限を打ち出している。アメリカも皆保険という社会主義的方向も模索しており、日本も自民党のやり方が否定された。

中国では国民の多くが、今までの政府の経済政策は、資本主義に近い市場経済だったが、これからは保険、年金などの社会主義的制度を取り入れてゆかねば、貧富の差が益々拡大して、社会不安が起こるという。

中国には、イスラムやチベット仏教などの信仰に篤い人たちは2億人で、残りの11億人は無信仰者という。全世界の12億人の無信仰者の殆どが中国人だと。だから儒教のようなものが必要で、さもないと善悪を判断する基準を持たない国民ばかりとなる。

魯迅が否定しようとした儒教を肯定しようとしている。

孔子の生誕祝いが9月末に世界中から孔子の末裔が集まって、曲阜で行われた。だが、台湾に逃げた直系の一族は、中国の招きに一切応じていない。

2009.9.30.大連にて 

拍手[0回]

天津のコンプラドール その9

 

天津のコンプラドール その9

1.

豪ドル先物取引で、栄智健氏が百億香港ドル以上の損を出し、みずから創設し、北京のCITIC本部から独立した中信泰富即ちCITIC Pacificのトップの座を 4月に追われたことは、先に述べた。その彼が、9月8日、中国の不動産と金融を扱う会社を個人名義で作り、再起を図ると発表した。上海を中心にというが、日本のバブルと同じ現象が起きていると思われる上海で、再度不動産中心に事業展開して、大丈夫かとの懸念する報道が多い。しかしやはり上海なのであろう。彼が青年時代を過ごした、彼一族の出発点なのだから。

この会社は、CITICグループと競合する形ではなく、CITICとの協力を排除するものではない、と発表している。彼は香港の投資家たちの金を集めて、ふたたび大陸の不動産に賭けているようだ。彼の経歴と人脈を使って大陸に投資したいという香港の資産家も多いのだろう。

4月に退任させられた時、周囲はこのままでは終わらないだろう。いずれは、捲土重来するに違いない、と観測していた。退任後、保有するCITIC Pacificの株を段階的に売却し、15億香港ドルの資金を作った。さて、これから彼が上海中心に展開するという不動産、金融業が一般投資家の目にどのように映り、どのような展開を遂げるだろうか。

富は三代続かない、という揶揄を跳ね返して、中国語でいうところの東山再起できるかどうか、見ものである。香港の資産家たちは、彼のブランドと北京政府とのコネクションを使って、彼の会社に投資することに、賭けてみようとしている。香港人特有の楽しみ方、投資のやり方を見るようだ。

マスコミは、国と株主に大損をさせておいて、またぞろ何だ、と辛口の批判が多い。が、北京政府の支持さえ取り付けられれば、儲かる仕組みは、いともたやすくひねり出せるだろう。為替さえ失敗しなければ。その為替も、1年前のリーマン ショックさえ無ければ、こんなことにはならなかった。

豪ドルも人民元に対し、年初比40%も切り上がった。為替とは本当に恐ろしいものだ。天津の梁さんの父も、為替では失敗した。彼を育ててくれた唐景星の招商局での鉄道石炭などの事業展開で、結局は、清朝政府から横槍を食らい、没収されたり、英国資本に買収されたり、次から次へと押し寄せる苦難に鑑み、いわゆる洋務運動事業には手を出さなかった。だが、不動産と金融については、積極的だった。天津の英国租界にもあまたの不動産を取得し、租界外の中国内地にも手を広げた。その不動産会社も登記上は香港に置き、買弁仲間の出資を募り、リスクを分散するとともに、大きな資金を集めた。為替に失敗しても、すぐ又不動産に投資して、取り返すという精神は、中国人の骨の髄まで滲みているようだ。

2.

北京から張家口に鉄道が敷設されると聞くや、鉄道駅予定地に広大な土地を買収し、鉄道会社に対して、駅舎用の広大な土地を貸付、駅前通りの周辺に旅館や商業区、歓楽街を作った。そしてその外周に大型の住宅団地を建設した。株主には天津在の英国人弁護士の名を借りて、政府に取り上げられないようにした。

鉄道の要衝として張家口が発展するとともに、彼の懐には莫大な資金が貯まった。それを長い間、彼は外国の銀行に預けていたが、あるとき魔がさしたのか、中国系の銀行から「定期預金」にしたら、非常に高い利子をつけるという勧誘に乗ってしまった。それに味をしめて、低利の外銀への預金を殆ど中国系銀行の定期にしてしまった。暫くして、為替の大暴落が起こった。高利を狙って、長期預金にしていた梁さんは、莫大な損失を蒙ってしまった。

為替というか、通貨の変動というものは、一旦潮の流れが始まると、その動きは誰も止められない。もうじき戻るだろうと待てば待つほど、行き着くところまで行って、損を出しつくした頃に、反転する。株は紙くずになることがあるが、それは持ち分限りであるのに対して、為替は限度が無いから、底なしの泥沼にひき釣りこまれてしまう例が多い。

梁さんの父は、株や不動産など、ジャーディンの買弁の仕事以外に、多くの金融、債権売買でいちども失敗したことは無かったが、為替では大損を蒙ったという。それにもめげずに、また不動産への投資を続けたそうだ。戦前の中国に、大地主が沢山の農奴的な小作人から搾取してきた、その源泉は土地である。

大地主の土地の囲い込みが、際限なく繰り返されて、共産革命の引き金となったのは、周知のことだが、今また農地の囲い込みと、都市近郊の土地の囲い込みが、始まっている。いずれも使用権という名目で、国有であることには、違いないのだが、50年の使用権の切れた後は、どうなるのだろうか。

3.

栄氏の話から、梁さんの不動産の話をしていたら、友人から温家宝氏の娘が、大連でここ十数年間に急成長してきた大連実徳の徐総経理と結婚していたという話を聞いた。大連の友人に聞いたら、「確かにそうだよ。彼が北京に遊学している頃に、誰かの紹介で、結婚したけどもう別かれたという話だ。」「温首相が偉くなる前じゃないかな」という。

その友人が、人から聞いた話では、温という姓は昔、フィリピンから大陸に戻って来た人たちに多い姓だという。その8で触れたが、北方の種族が中原を征服し、そこにいた部族が南下した。南に住んでいた部族は、人口が稠密になったので、更に南や海の向こうに渡っていった。だがそうした人たちも、そこで成功して、また大陸に戻ってきた、という話だ。

中国の古代史に詳しい顧頡剛氏に依れば、古代中国は、いわゆる黄河流域の東西間の種族間争いがしきりに繰り広げられた。その結果、西の種族が東に攻め込んで、その鉄器などの文明が、山東などに伝播した。そこで鉄と塩とを併せもった山東地域の種族とともに富を築き上げていった。その富を狙って東北にいた種族が、攻め込んできたので、今度は北と南の間に争いが起こり、長い時を経て揚子江から更に南の方に下っていったそうだ。欧州のゲルマンの大移動を彷彿とさせる。こうして南北の文明が混合していった。鉄や穀物などを沢山生産して余力の出来た種族が、地域を拡大していった。古代中国人の地域拡大は、富を求めるものと、それに追われたものとが織り成した、綾錦の如くである。富を得た者が、その資金で更に広い地域を獲得してゆく。なにやら、栄氏の香港移住から上海への再投資など、思考と行動は不易の如しだ。

従来から南に住んでいた人々は、ベトナムや雲南、フィリピンなどに出て行ったという。19世紀以降でも、人口が稠密となった福建や広東から多くの華僑が南洋やハワイ、インド洋の島々にも移り住み、私がシンガポールで寄寓していた張さん一家も、祖父がインド洋のセーシェルで成功して、彼をシンガポールの学校に留学させて、卒業後はシンガポールに定住し、書店、印刷会社を起こし、広東省梅県からも親戚を呼び寄せて、数家族で暮らしていた。梅県は客家の出身地として有名である。

4.

余談だが、南方の華人の行動範囲の広さについて、筆者の経験から少し引用したい。ジョン万次郎は漂流の結果、アメリカ東海岸まで連れてゆかれて、そこで英語を勉強して、また東洋に戻り、島伝いに日本に帰国を果たすことができた稀な例である。

一方、福建広東からの移民たちは、自分の意志からというのもあったが、多くは、人狩りにあい、或いは人口稠密になった結果として、南洋やアメリカなどに連れて行かれた。そこで成功をおさめて、故国に錦を飾った華人が沢山いる。広東省の仏山市には、大良という街があり、そこの一番にぎやかな通りは、両側はまるで、サンフランシスコの金門橋の畔の建物のような洋館が櫛比している。その一軒、一軒は、アメリカで成功して、故郷に戻ってきた人たちが建てたものだ。アメリカでは住めなかったような洋館を建てて、余生をそこで暮らした。隣のだれそれが、洋館を建てたとなると、それ以上に豪華なものを競うようにして次々に建てられたという。

シンガポールのゴム王といわれた、陳嘉庚(タン カーキー)はアモイの生まれで、そこに集美学院を作り、アモイ大学を開校して、林語同や魯迅を教授に招いた。1926年ごろの魯迅のアモイ時代の日記に、私の尊敬する歴史家顧頡剛氏の名が出てきた。顧氏から彼の著書を贈呈された、とある。二人とも北京で教鞭を執っていたのだが、北京を去らねばならぬ理由もあってか、同じ頃にアモイ大学に招聘された。魯迅は短期間で文通相手の許広平のいる広州の中山大学に移っている。顧氏も同じくアモイを去って広州に向かった。

5.

人の縁とは奇遇なものである。シンガポールの南洋大学に留学していた私は、大家の張さんが、ジョホールの錫の鉱山に投資していた。その後私はペナンの英系資源会社から、相場リスクを分散するため、錫を毎日5トンずつ買い付ける役目になるのだが。彼はある日、私の見聞を広めさせてやろうと、日曜の朝早く、張さんが運転するベンツの助手席に座って、シンガポールとジョホールの海峡にかかるコーヅウエイの国境をいとも簡単に通過して、2時間ほどの距離にある錫の採掘場に着いた。共同出資者たちとの話は、客家語で、北京語に比較的近い音もあるそうだが、私にはよく理解できなかった。どうやら錫の値段が下落しているので、しばらく閉山してはという話だった。華人の投資家たちは、ものごとの基準を儲かるかどうかで、即断するので、鉱山でも、電気炉でも相場が下落して儲からなくなったら、すぐ従業員を解雇して、会社を清算する。この辺は歯を食いしばってでも、雇用を守ろう、会社の名前を存続させようとする日本人的発想とは、180度違う。彼等は再開するときは、また別の名前でやれば良いという。

大きな竹ザルで錫を洗鉱している労働者たちを、解雇せねばならぬという話しであった。帰りの車中で、張さんからもうあの錫山の出資は引き揚げると聞いた。ゴム園とか錫などの相場商品に投資してきた彼等にとっては、出資もその引き揚げも日常茶飯事で、解雇した労働者も、次はパームオイルの農園とかに流れてゆく仕組みができていた。

大陸から南洋行きの貨物船の船底に豚の子のように詰め込まれて、マレー半島に連れてこられたクーリーたちが、ゴム園や錫のとれる大きな水溜りのような選鉱場の横の、粗末な掘っ立て小屋で暮らしていた。最初は英国資本が、おびただしい数のクーリーを雇ってきたのだが、戦後になって、華人の資本を蓄えた者たちが、新しいゴム園や、錫鉱山を開いて、大陸から大量の労働者を連れてきた。英国人に使われるよりは、同じ民族のボスの下で働く方が、安心だとも聞いた。労働条件やすぐ解雇などでは華人の方が過酷であったが。

6.

ここ数日、建国60周年を記念して、当時の国慶節やその前後の記念式典のラジオ放送のアーカイブス特集をしている。今年は10周年ぶりに天安門の軍事パレードが開かれるそうだ。今年は、陸軍の歩兵のパレードは少なくし、近代装備の機械軍団が主だという。私が始めてこの広場を訪れたのは、1968年の夏であった。シンガポール華僑が建てた新僑飯店を早朝に抜けだし、自分の目でその広さを確かめようと見に出かけた。当時は毛主席記念堂など何もなく、とてつもない広さに驚いた。天安門の左に、毛沢東と親密なる戦友、林彪の二人が寄り添うように並んだ、でっかい写真が掲げられていた。

日本で8月15日に、天皇の「玉音放送」が流れるように、毛沢東のやや音程を外し、感きわまったような「中華人民共和国」のあと少し間をおいて「成立了」という声が何回も流れている。地主、軍閥、官僚などから、農地を小作人の手に取り戻すことができたという響きが伝わってきた。しかし、取り戻したはずのものが、また一部の特権階級のところに戻ってしまっていた。

国名について、人民の後に、民主という言葉を入れるか入れぬかで、大議論があったというエピソードも紹介されている。隣の北朝鮮の方が先に建国したのだが、あちらの方は、人民民主主義という。中国では、人民という言葉がある以上、これは王侯の国ではない。人民の国であり、人民という字だけで、民主、即ち民が主の国を意味するから、不要だという結論になったという。今も政治協商会議に参加している幾つかの党を民主党派と呼んでいるから、彼らの党には人民の2文字はない。民主党派が国民党を見限ったから、百万の共産軍が、八百万の国民党軍を打ち破ることができたという。

話は飛ぶが、最近、彼のことをかなり自在に話せるようになった中国人が増えている。「私は彼が嫌いだ。」という人も多い。北朝鮮支配者の言動、振る舞い、核実験への固執などを見ていると、60年代の毛沢東を思い出して不愉快だとまでいう。二人とも、米国と対等に渡り合わなければ、自分たちの存在が危ういと感じていたのは、よく似ている、と。その二人の下で切り詰めた生活を強いられた国民は、かわいそうだ、という。戦後になっても、正夫人以外に何人もの女性と暮らしたということまでが、伝わっているのも、いやだという。

7.

大分前のことだが、数名の中国の人たちと会食していて、「君、中国で女房のことを愛人と云い始めたのは、何時ごろからか知っているかい」という話になった。私たちが中国語を学び始めた頃は、この愛人というのが、夫人、女房の意味で使われていて、何の疑問も持たなかったが、文字の国、中国で愛人という言葉が使われ始めたのには、何か訳があるのだろうとは感じていた。

日本語で自分の女房を「愛人」と呼ぶ者はいまい。我が愛する人、という意味で、我愛人、と中国語でいうのだが、彼の愛人というと、奥さんのことか、そうでないのか、困ってしまうときもある。

彼は、杯を傾けながら、語りだした。

「愛人とはねえ、共産党軍が国民党軍に追われて、延安まで逃げ延びたあと、使われ始めたという説があるのよ。君も知っているように、毛沢東も横穴式の洞窟みたいな部屋に住んでいたのだが、彼の洞窟には江青が一緒だったのさ。

それで、彼の部屋に一緒にいる女性をどう呼べばよいか、ということになった。結婚しているとは聞いていないので、夫人を意味する太々とは呼べない。どんなものか思案投首。ある男が、愛人ではどうか?と言いだしたのが、始まりなのさ」。

当時の多くの党員は、封建時代の慣習で魯迅などもそうであったように、若いときに、親の決めた相手と結婚していた。そして夫人は両親と一緒に暮らして、家を守ってきた。それで、都会に出て革命に身を投じた党員たちは、故郷には戻れない。故郷から遠く離れて暮らすうちに、新しい伴侶を見つけて暮らすようになった。

ドイツ共産党から延安に派遣されてきた、中国名李某という男も、周囲の仲間が、女性と暮らしているのを見て、自分も欲しいと要求してきたので、党は彼にも紹介したという。それを見た若い兵士は、共産党もそういうことをするのかと、最近になって公にしている。「飲食男女人之性也」とは孔孟のころからの句で、食欲と性欲は人の本性だという意味だ。共産主義も是を否定しない。

8.

吉川幸次郎は、彼の著作のなかで、正夫人以外をすべて「妾」と書いている。王朝を継ぐ皇帝はたいがい妾腹が多いし、その方が王朝も永続するというのも、おもしろい現象である。かつて女性には「妾願望」というものがあって、正夫人から権力を持つ男を、自分の魅力で奪い取ることに、あやしい魅力を感じるという。動物の世界でも、より大きくて力の強いオスに鞍替えするメスが多いし、それが生存競争に勝ち抜き、より強い子孫を残すための本能だとも言われる。

魯迅研究で有名な藤井省三氏も魯迅と許広平の関係を、現代日本なら「不倫」という関係になると述べている。正夫人以外との関係は、今日ではそうなる。が、昭和の20年代までは、特別「不倫」とか何とかは言い出すものも少なかった。もちろん、谷崎潤一郎と佐藤春夫の例の関係や、有島健郎のように文人のそういう方面での言動は、報道もされたが、政治家や企業家たちの行動は黙認というか、21世紀の今日のごとくに、やかましく言われなかった。

当時の人間は現代よりも男女関係についてより自由奔放であった。いわゆるプロの世界とか、芸者の世界というのが公然とあった。人倫にもとるとか、という意識は薄かった。漱石すら、京の祇園のお茶屋で倒れて、無様なかっこうを東京から駆けつけた夫人に、なじられていることを書いているが、それとて、なんでそこから移動しなかったのか、という面が強い。

1956年に、魯迅の遺体が30年前に葬られていた上海の万国公墓から、虹口にある魯迅公園に移すときのアーカイブも放送された。新中国の偉大な精神的闘士として「魯迅の国葬」が行われたのだ。魯迅の愛人であった許広平の声が聞こえてきた。北方にも住んだことのある彼女だが、やはり南方なまりは消えてはいなかった。

彼女は彼女を愛した魯迅が、国葬されるのを「光栄」だ、と話しているが、本当のところはどうだったのだろうか。当時の政治的な潮流の中で、政治的に利用されているということは感じていなかったろうか。前年には、白話文学の先駆者、胡適を徹底批判する運動が全国的に展開されていた。

魯迅も多くの友人、知人に見送られて葬られた、多くの友人がともに埋葬されている万国公墓にいた方が、居心地がよいと感じてはいないだろうか。毛沢東の言う「もっとも硬い骨を持つ文芸戦士」と神のごとくに祭り上げられてしまった。文革中にはいたるところの公園に彼の有名な「眉を横たえて、冷ややかに対す千夫の指 云々」という句が建てられ、何種もの切手にもなった。

 (つづく)

拍手[0回]

天津のコンプラドール 8.

    天津のコンプラドール 8.

1.

 9月8日、今年の日中韓首脳会議が、10月8日に天津で開催の方向で、調整が進んでいるとの一報があった。昨年は麻生氏の関係で、福岡で開かれた。

今年は主催国の温家宝首相の故郷 天津で、ということだそうだ。

 2007年4月「氷を溶かす旅」として、両国の「友情と協力のために」日本を訪問した温家宝首相は、日本の国会で演説した。私自身もその演説が、彼の心の底から発していると感じて、感動を覚えたことである。

翌日に彼が記者団を前にして、「演説の後、すぐ(天津の)母親に電話をしたら、(90歳近い母が)“息子よ、本当にいい演説だったよ”と私を褒めてくれた。」と語っていたことが、強く印象に残っている。その時の彼の弾んだような中国語が、今も耳の奥から聞こえるようだ。

 どうして、彼は日本の国会での演説を終えたすぐ後に、母親に電話をいれたのであろうか、とちょっと不思議な気もしないではなかった。日本に出かける前に、母親に国会で話すことを、告げて来たのであろうか。彼と略同じ年齢の66歳に6度目の渡航で、殆ど失明の状態で、やっと日本にたどり着いた鑑真和尚のことを、演説の中で2回触れている。1942年天津で生まれた彼は、当時65歳で、母親は日中戦争が激しかったころの天津で、日本人とのいろいろな軋轢、風雪に耐えて、生きてきたのであろう。日本との戦争中に日本人が占領していた天津で、彼女はどのような生活をしてきたのであろうか、と想像してみた。

 2009年3月に、温家宝首相は、インターネットでの国民との対話の中で、

彼女のことに触れている。彼は子供のころ、母親から「どんなひとに対しても、自分の気持ちをこめて話すように。」と教えられてきたそうだ。

彼の母親は、教育関係の仕事に関係していたのであろうか。その母は、90年の風雪と滄桑の歴史を乗り越えて、自分を育ててきてくれたのだが、数日前に脳梗塞で倒れ、両目が失明に近い状態になってしまったと、ネットの庶民に語っていた。

2.

 私の手元に、9月7日付けの大連新商報の切抜きがある。片面では、新疆ウイグル自治区で、注射針事件を抑え切れなかった、同自治区トップの共産党書記の解任を求める漢族のデモに起因して、胡錦涛主席が、即刻、書記と公安のトップを更迭した、と伝えている。

 その隣に、総理就任以来、いちども欠かさずに「教師の日」の前には、学校を訪問し、教師たちとヒザを交えて懇談してきた温家宝首相が、9月4日に北京市の第三十五中学の2年五組の最後列で、40分単位の授業を5科目聴講し、ペンでノートを取っている写真と記事が掲載されている。

 見出しは「永遠に学生」、記事の概要は、彼はどんな多忙なときでも、「教師の日」の数日前には、フルに1日の時間を捻出して、学校訪問を欠かさず実行してきた。教師からいろいろな改善提案を聞き、それに対して彼の意見を丁寧に答えた、とある。その後の新聞発表として、「一国の将来は、教育を重視しているか否かにかかっている。教育を重視しない国に将来は無い。(中略)今年から(注;中国の新学期は9月から)全国各地の義務教育段階の教師の給与は、

その地区の公務員の水準を下回らないことを保障する。」と発言している。

 日本のテレビでもかつて紹介されたように、中国の地方、奥地の教師たちの生活は日本人の想像を絶するものがある。言語に表せないほどの貧困の中で、

本当にわずかな給与にもかかわらず、師範大学を卒業したばかりの教師たちが、

2年、3年という年限を区切って、奥地、農山村の子供たちを、一人で教えている。片道1時間、2時間かけて通ってくる子供たちに、昼食をも準備しながら、真心からでなければ決して勤まらないような環境にもめげずに、教えている。

 これまでは、彼ら彼女等の給与は同地区の公務員の水準から、ほど遠かったのであろう。それを今年から下回らない、と保障したのだ。

私は、そんな山奥の村に、自ら足を踏み入れたことはないが、広東省の田舎に出向いたとき、町の役所が、あたかもアメリカの議事堂を模したような、白亜の建物であったのに、そこからさほど離れていない場所の学校が、とても貧弱であったと、違和感を覚えたことがある。

 そんな役所に勤めている公務員たちも、毎月の給与はたかが知れている。しかし、給与外の収入が、その何倍にもなるのは、中国人なら誰でも知っている。山村の義務教育に従事する教師たちには、縁のないものである。友人にこのことを話したとき、彼の反応は「そりゃ田舎の教師は、誰もなり手がないんだが、北京や大連などの教師は、副業に堂々と、塾を開いては給与の何倍もの収入を得ているし、子弟たちの親から、入試にうまく成功したら、大変な謝礼をもらっているよ。だから、よけい田舎に赴任する教師が少なくなるんだ。」という。

3.

 温家宝首相の発言は更に続く。

「大学教授を尊重するのと同じように、中小学校の教師を尊重しなければならない」と。「この社会で、教育が一番大切だということを、大いに力をいれて宣伝し、(中略)この世の中で教師が最もひとびとの尊敬を受ける職業で、もっとも羨慕に値する職業にしなければならない。」と訴えている。

 私はこの発言の一部を、朝の散歩のときのラジオニュースで聞いて、感動したが、実際には残念ながら、そうでなくなりつつあるということを、認めざるを得ないのだ、という厳しい現実を認識しているのだということが、伝わってきて、づーん、ときた。

彼が小学生だったころ、彼の母親と同じような年齢の教師たちが、彼に対して、真剣に教えてくれたことを感謝し、それをかみしめながら、一字一句を発言していると思った。

 日本でも、オリンピックの開催された1964年ごろを境に、戦前からの教師は「聖職」という使命感を持って教壇に立っていた先生が、減少してゆき、「でもしか教師」という言葉が、登場しはじめた。中国も昨年のオリンピックを節目にして、日本が歩んだ道を歩むことになるのだろうか。

 大都市の教師の収入が高くなればなるほど、師範大学の卒業生は大都市に残りたがるようになり、田舎の学校には誰も行きたがらなくなるのは無理もない道理だ。温家宝首相の言うように、「ひとびとの尊敬を受ける教師になるよりは、人より高い収入を得るために大都市の教師になる、という流れは阻止できない。」それが、彼の心を苦しめているのだ。儒教2千数百年の伝統の中国で、‘師’となること、‘師’に対する尊敬の念は、世界の中でもっとも高い水準にあった国で、師となるよりも、より収入の高い職業に就かせるべく、世の親が血眼になっている。その結果、子供たちが、より有名な大学に入ることを最大の目標とし、学校の教師たちも、教え子たちの内の何名を有名大学に入学させたかを、教師の技量、成績として競っている。

4.

 今年の6月の大学入試で、大量の不正が発覚し、役人と教師たちによって点数が操作されたというのは、科挙の長い伝統をそのまま受け継いだものである。

「舞弊」という中国語がある。不正を働いてでも、目的を達するという意味で、魯迅の祖父ですら、なかなか科挙に合格できない息子のために、これをしたということで、牢に繋がれた。試験会場で、優秀な受験生の答案を横取りして、そのまま写すなどということが、横行している。

カンニングという言葉そのものの行為が、至るところで行われている。その最終目標は、役所に入り、官について、給与の何倍、何百倍もの収入を得るためという。その子供たちの背中を一生懸命に押しているのは、父親よりは母親が圧倒的に多いという。これは何も中国に限ったことではないが、昨今の新聞報道で、毎年数千人の収賄容疑者が、処刑されているが、少額の収賄は別として、大金、それも何千万、何億元というような金額の収賄犯の多くは、夫人とか家族の口利きによるものが、多いという。

 本人の物欲金銭欲はそれほどでなくとも、一定以上の高官に就任するやいなや、夫人のところへ、たいへんな贈り物が届く。将を得んとすれば、馬を射よ。である。送る側の狙いは正確無比である。必ず目的を達成する。

  小倉芳彦の「古代中国を読む」という本には、古代中国では、賄賂は、決して今日のような罪悪とは考えていなかった、とある。王と貴族の間の絆をしっかりとしたものにするためには、自分の身分や地位を保障してもらうために、最高級の玉の宝飾を、賄賂として王に贈るのが慣わしだったという。

 毒薬で殺されることになった男が、執行人に賄賂を贈って、その毒薬の濃度を薄めてもらって、毒殺から免れたという逸話を引いている。

 それがだんだん時代ともに変じて、今日では官位を引き上げてもらうため、あるいはより大きなビジネスを獲得するために、贈る様になったのだ。

5.

温首相は母親の薫陶を受けて、人に話をするときも、心をこめて話すように教育されてきた。その母親が、自分が日本の国会での演説を、天津の自宅で、同時中継テレビを通じて、聞いていてくれた。演説後すぐ電話したのは、「永遠に母親の子」であることを示している。なによりも真っ先に、彼女に電話して、どうだった、と感想を求め、「とてもよかった。いい話だったよ。」と褒めてもらって、翌日、記者たちに話さずにはおられないほど、うれしかったのであろう。高倉健の随筆「あなたに褒められたくて」の通り、彼は母に褒められたくて一生懸命、生きてきたのだ。

 彼は、素晴らしい母親に育てられて幸せであった。文化大革命中、甘粛省に長いこといて、離れてくらしていた。そんなつらい生活も、母親に褒められたくて、一心に金槌を握って、地質調査に励んだのであろう。

 現代の小中学生たちを見ていて、自分たちが親や教師たちから受けたものを今日の子供たちが、経済的にはすごく発展したのに、過去よりもよい環境で教育を受けることができていないということが、彼の心を痛めさせているのだろう。

私の会社から家までの間に、6階建ての大きなビルの中学校がある。5時半ごろ、仕事を終えて、その付近にちかづくと、3車線の道路のうち、2車線が、下校を待つ親や、関係者の出迎えの車で一杯になる。高学年になっても、親が車で迎えに来るというのは、一体ぜんたいどうしたことなのであろうか。

 中には、徒歩や自転車で帰る生徒もいるが、やはり進学校に入学させるために、遠方から通っているものが多いのであろう。日本のように電車が発達していなくて、通学には車しかないという面もあるが、中には高校生までも車の送迎が見られる。アウディとかベンツもあるし、殆どは新しい車だ。

6.

天津のコンプラドールその2を書いていて、気づいたことだが、広州近郊の例えば、仏山とか順徳あたりに科挙の進士をたくさん輩出した書院を見学したことがある。明の万歴のころ、状元となった黄士俊が建てたといわれる立派な書院で、清暉園という。もちろん広州市内にもそのモデルとなったような立派な書院がいくつかあるが、広州から車で1-2時間も離れたところにも、科挙に合格した人間が沢山いたとの説明書が展示されていた。

炎暑の広東でも、北方より多くの進士を出している。北方や西部地域は、武器を作る鉄の生産が盛んで、武力で統治するのに力を発揮してきた。一方、北部の人間が中央に攻め込んで、ドミノ倒しのように南方に追われてきた人たちは、広東に住みついた。中には客家とよばれ、体力的にも北方にかなわないので、一生懸命勉強することで頭角を現そうとした。文天祥などもそうだとされる。清末に活躍した梁啓超は客家かどうか知らないが、孫文たちは客家だといわれている。

閑話休題、科挙の制度が廃止されて、広東の多くの青少年たちは、役人になる希望は捨てて、英国人が開いた香港の英語学校に寄宿し、英語や近代的な西洋の学問を学んで、広東にもどり、ジャーディン社の総コンプラドールであった唐景星たちのような人たちに率いられて上海や天津のコンプラドールとなっていったケースが多いと感じたことである。広東香港は科挙廃止後のコンプラドールの養成所であった。前にも触れたが、唐氏は、後輩のために、ビジネス英漢辞典を編集し、上海に「格致書院」という学校まで作って、子弟の教育には大変熱心であった。

梁さんの父も教育にはとても熱心で、天津では屈指の金持ちなのに、広東幇の中では‘吝嗇でもナンバーワン’と言われていたが、妻妾との間にもうけた沢山のこどもたちにはみな最高の教育を受けさせていた。教育費は一切惜しまなかった。教育が、故郷を離れて働く広東人の最大の拠り所だと信じていたのだろう。

 7.

 そんなことを考えていたら、一人っ子政策の結果、車で送迎されて育った世代から、20年後の中国の将来を担うことのできる人間が育つであろうか、と心配になってきた。日本には、自国の学校には入学できず、外国の大学へ行って、英語は上手く話せるよというだけの政治家は何人かいるが、そんな人たちでは国難を乗り切ることは難しかろう、とも思った。

 9月7日、頼んでおいた本が届いた。人民出版社の「朱鎔基が記者の質問に答える」という表題で、1991年の副首相のころから、2002年に首相を退任するまでの12年間、内外のジャーナリストたちの質問に答えたものを編集した本だ。8月末に完成し、9月2日に発売された。

 457ページ、362千字で59元。この種の本としては、倍近い値段だが、初版は何部印刷されたのだろう。新聞に百万部は売れるだろうとの評があった。だが、朱鎔基氏本人の言葉は一切付け加えられていない。前書きも、何もいっさいない。彼自身はこの出版には何も関知しない。

 彼は首相退任後6年間、公の場から一切退いた。新聞記事から引用すると、

「彼は故郷の長沙に帰ることを拒絶し、従兄弟の書いた彼の伝記を読むことも拒絶し、中華詩詞協会の名誉主席就任への要請も拒絶した。」云々と続く。

 江沢民主席が、訪問先の求めに応じて、いろいろなところで、彼の名前を揮毫したものは、よく目にするが、朱氏のものはめったに見かけない。08年10月に山西省の平遥に出かけたとき、百年近く前の昔の役所の門に架けるための板看板に、地の人の求めに応じて揮毫したのを始めてみた。それも彼が首相を退いてから2002年に夫人と一緒に、平服で観光に訪れたときのものだ。

その役所の名は「平遥県衙」という。百年ほど前にここを訪問したフランス人ジャーナリストが撮った、ここで行われた当時の裁判と腐刑などまがまがしい処刑の写真を展示していた。

中国のウオール街と呼ばれて、票号という自家の手形を発行するなどして、金融で栄えたこの街でも、貪官汚吏が毎年のように悪事を働いた。だがここの役人は彼等を厳しく処罰したことをこの展示品はしっかりと説明していた。彼はこの役所の展示に心を動かされて、「平遥県衙」という4文字と自分の名を書くことに応じたのであろう。自分の後任者たちが、是非ここの人たちと同じように、貪官汚吏をきびしく取り締まってくれることを切望して。

8.

 今回の出版は、どのような背景から出てきたものであろうか。6年間、一切公の場で発言してこなかった彼のことを取り上げるのは、きっと何か訳があるに違いない。彼は一言もコメントしていないが、12年間の彼の言動は、とりもなおさず政治的なものである。

 芭蕉は「奥の細道」の手稿を何回も何回も白い紙を貼って書き直し、推敲に推敲を重ねて完成に近い状態になった。周囲の人たちが出版をと持ちかけたのを、きっぱり拒絶している。生前には公にしてくれるな、という意思表示であった。朱氏のこれまでの姿勢は、この芭蕉の心情を髣髴とさせる。弟子たちは、芭蕉の作品のすばらしい出来を、世の人に分かち与えたいと考えてもいただろうが、これによって名声を更に高めて、出版で収入を得ようとする輩もいたかもしれない。アメリカでは退任した大統領は、講演や回顧録を書いて余生のための収入を確保すると言う。

彼の伝記も、過去にも国外で沢山出版されて、好評を博してきた。しかし、彼は、そうした書物が中国で出版されるのを拒否してきた。

彼の記者への返答を読み進めてゆくうちに、私の心をぐさりと掴むことばにであった。 それは、2000年3月15日に行われた、第9次全人大の三次会議での記者会見のときであった。デンマークの記者が民主的な選挙の実施などの質問の最後に、「総理、貴方の任期は既に半ばを過ぎましたが、貴方が離任した後で、中国人民が貴方のどんな点を、もっとも記憶にとどめておいて欲しいと思いますか?」との問いに答えたものである。

 「残りの任期は残すところ3年もありませんが、(中略)私は人民の信任に背かぬように力を尽くして(後略)」という文章の後、「只 私が退任した後、全国の人民がこう一言、言ってくれることを望んでいます。“彼は一個の清官であった。貪官ではなかった。”それで私はたいへん満足します。もし彼等が更に気前良く、“朱鎔基はやはり実際に良いことをやってくれた、と言ってくれたなら、私は天に感謝し、地に感謝します。」と。

 これは、先に質問を受けていて、原稿を予め考えていたものであろう。ことばの流れとしては、その場の勢いで、原稿から少し脱線しているかもしれない。

 彼は在任中も、離任後も他の政治家の場合によく耳にするような、子弟とか夫人とかが、外資系の会社に云々とか、という噂を聞かなかった。離任後も別のポストに執着して、官から縁が切れることを心配しなかった。逆に自らもとめて、官、公から身を遠ざけた。官にしがみついてきた貪官汚吏の前人たちの末路を、いやというほど見てきた男の生きざまであろう。

9.

 その彼の後を襲ったのが、温家宝首相である。彼は母親の薫陶と、前任者の身の振り方を、しっかりと自分のものにし、その先輩の影を慕いながら、仕事に励んでいるように見受ける。こうした首相が2代続くというのは、改革開放後の中国にとって、なによりのめぐみであると思う。

温首相は、前にも少し触れたが、夫人が宝飾関係に大変関心が強く、自分でも事業を経営云々と言う話が、伝わってきた。それで首相就任後に、離縁したという噂である。本当かどうかは知らない。多くの中国人は真実を知っているようだが、口外しない。彼の外遊に、夫人同伴を見たことはない。本当なのだろうか。そうだとしたら、大変な勇気と決断をしたものだ。

英国のエリザベス女王一世は、生涯結婚しないのかと尋ねられて、「私は国と結婚していますから。」と答えた。温家宝首相が、前任者のように、首相の職務に専念するため、身の清さを保つために本当に離縁しているのなら、それは中国という国と結婚するためと言えるかもしれない。それだけの覚悟で望まないと、13億人もの人間を抱える中国の首相は務まらないのだろう。

朱首相は、別のところで、「農民の収入の向上を一番に考えている。」と述べている。温家宝首相は、2008年に「農民が喜んで小麦栽培に取り組めるように、小麦の買い上げ価格を引き揚げることを決定した。」と発表したときの

彼の表情は、真剣だが、とてもうれしそうであった。先輩の気持ちを引き継いで、そしてまた自分の気持ちをようやく実現できたことのうれしさだろう。

一昨年までは、小麦の値段が、低く抑えられていて、河南省の広大な面積の小麦畑は種も植えられず、農民が都市に出稼ぎに行ってしまった結果、荒れ果てていた。それが、08年の4月に河南省を訪れたとき、開封で乗ったタクシーの運転手からも、今年はやっとここの農民も小麦を植える気になってよかった、という話を聞いた。ほんのわずかな引き上げだったが、農民にとっては死活問題であったのだ。

中国の将来は、温家宝首相が語ったように、教育の問題と農村の農民の生活水準の引き上げにかかっている。

10.

 最近、建国60周年の式典準備のために、多くの軍人に混じって、北京の青少年たちが、深夜に動員されて、パレードの練習をしている姿が、放映されている。

あと1月で国慶節を迎えるこの時期に、人民出版社が6年間も公の場で何も発言してこなかった、彼のことばを印刷したのは、どんな経緯からであったのだろうか。

 このなぞは、もう暫くしたら分かるかもしれない。とうぶん分からないかもしれない。この本が百万部とか2百万部、飛ぶように売れたら、中国は健全な方向に向かっていると言えるだろう。

 首相という大任を力いっぱい勤め上げたら、あとは無官でいたい、と願うのが、本当の気持ちだろう。清官三代ということばがある。これは清の時代の役人を指すことばで、当時は清官といわれた人は殆どいなかったのだが、清官ですら、三代は何もしないで暮らしてゆけるだけの財産を残した、と言う意味だ。いわんや、清官でない貪官などは掃いて捨てるほどいて、彼等はその何十倍、何百倍もの財を蓄えたのだが、さらにその子弟たちを、自分の後継に据えて、さらに輪をかけた貪欲な役人となっていき、1911年の革命で終焉した。

 現代中国の官たちの中で、朱首相の望んだこと、離任の後に、全国の人民から、彼は貪官ではなかった、一個の清官だったと言ってもらえれば、たいへん満足します、ということばを、本当に自分の気持ちとして言えるのは何人くらいいるだろうか。

 大都市の学校には、山村の分校で子供を教えることに喜びを感じていた教師のように清らかな人は、もはや数えるほどしかいない。

(完)

 2009年9月10日 教師の日に、大連

 

 

拍手[0回]

試験場3つの醜態  

          黄棘

 昔、八股文の試験は、3巻の答案があり、受験生は面子を失ってばかりで、後に策論に

改められたが(政治・経義への意見を陳述する方法:出版社)やはり相変わらずだった。

第一巻は「白紙答案」で題目のみ買いて文は無く、又は題目すらない。一番すっきりしている。他に何の問題もない。第二は「模範解答マル写し」で、先ず僥倖を頼み、刊行されている八股文を熟読又は携帯し、題目に合えばそのまま写して試験官の目をだます。

品行は「白紙」より劣るが、文章は大抵良いから、他に何の問題も生じない。

第三は最悪で、デタラメを書く事で、不合格になるのは言うまでも無い。

デタラメは多くは笑い話のネタになる。茶席と酒後の話しのネタはたいていこの類だ。

 「通じない」がこの中に入っていないが、たとえ通じなくとも、題目に従って文を書いたのだから:況や文章を書く時に、通じない文章を書く境地も容易ならざることであり、我々は中国古今の文学家で、ひとことも通じない文章を書いていない人がいるなどと、

保証できるだろうか?

一部の人は自分では「通じる」と思っているが、それは彼が「通じる」か「通じないか」分かっていないせいだ。

 今年の試験官はこうした高校生の答案を嘲笑う。この病原は、実はデタラメを書く事にある。これらの題目は、刊行文をマル写しさえすれば全て合格だ。例えば、「十三経」とは何か?文天祥は何朝の人か?空っぽの頭をひねってもダメである。それで、文人学士は、国学の衰微を大いに嘆き、青年がダメなのは、あたかも彼らが文林の中の、単なる大きな果実のようで、物事を介することを止めたようだという。

 だがマル写しも簡単ではない。試験官を試験会場に閉じ込めて、突然幾つかの余り知られていない古典を問うと、大抵デタラメな答を書き、白紙を出すとは限らぬ。この話をするのは、既に文人学士になっている人を軽く見るのではない。古典が多いから、しっかり覚えていないのは当たり前で、全部覚えている方が古怪だ。古書は多くが、後の人が注釈した物ではないか?それは全て自分の書斎で、群書を調べ、類書を翻し、年月を重ね脱稿したもので、それでも「未詳」や誤りがある。今の青年は当然、それを指摘する力は無い。証明できるのは、他の人がなにか、「補正」している事にあり:かつ、補の補、改正の改正も時に之ありだ。

 こうしてみると、刊行文をマル写しすることができ、それを敷衍してゆければ、その人は大人物である:青年学生に多少の間違いは常にある。それで世間は嘲笑うが、実は冤罪だと言う人がいないのはなぜだ?    925

 

訳者雑感: 知るを知ると為し、知らざるを知らざると為す、之知るなり。という言葉を思い出した。中国の試験は、知らないことに対して、デタラメな答えを書いて、教師たちの嘲笑のタネにされる。日本でも「焼肉定食」の方が「弱肉強食」より面白いのと同じだ。

      2013/07/08記                                                

拍手[0回]

中秋の二つの願い

                白道

 数日前はまさに「悲喜こもごも」の日々だった。新暦の918(満州事変)が過ぎたら、

旧暦の「中秋賞月」と「海寧の観潮」(浙江潮)だった。
海寧といえば「乾隆帝は海寧陳閣老の息子」だと言う人もいた。
満州の「英明の主」はもともと中国人がとり替えたという説は、何とも小気味が良い福のあることよ。一兵も失わず、一矢も費やさず、只単に生殖器官だけで革命したのは、真に大変うまいことをしたものだ。

 中国人は家族を貴び、血統を重んじるが、一方で関係の無い人たちと姻戚を結ぶのを喜ぶのは、どうしてかよく分からない。小さい頃から「乾隆は我々漢人の陳家からこっそり抱いて行ったものだ」とか、「我々の元は、欧州を征服した」の類は、昔からよく聞いて、耳にタコができるほどだが、今でもタバコ屋が中国政界の偉人投票をすると、ジンギスカンがその一人に列するし:民智を啓発する新聞も、満州の乾隆帝は陳閣老の息子と書く。

 古代、女性は確かに和親のため番族に嫁し:劇でも男が番族の王の娘婿に招かれ、うまいことして、おもしろくやっている。近頃は、侠客を義父と仰ぎ、富翁の入り婿となり、急に出世したりするが、これは余り体面が良いとは言えぬ。男一匹、大丈夫は、別の能力あり、志もあり、自らの智力と上述のとは別の体力に恃むべし。さもないと、将来また、日本人は徐福の子孫だと言いだしはしないかと心配だ。

 一つ目の願いは:今後いい加減な姻戚関係を作って這い上がろうとしないこと。

 だがとうとうある人たちは、文学にも姻戚関係を持ち出し、女の才能は男との肉体関係の影響を受けるとして、欧州の何名かの女流作家は皆、文人の情人を持つのを証拠とする。

そこで誰かが反駁し、それを言いだしたのは、フロイトだとしてあてにならぬとした。

だがこれはフロイトではなく、ソクラテスの夫人が全く哲学を解さないのや、トルストイの夫人が文学を書けなかったことを反証にすることを忘れはしなかった。況や世界文学史上、中国に何人所謂「親子作家」「夫婦作家」で「しびれるほど面白い」人がいるだろうか?文学は梅毒と異なり、霉菌も無いから、性交で相手にうつることはない。

「詩人」が女を釣る時、まず「女流詩人」と持ち上げるのは、一種のご機嫌とりであって、

彼が真に彼女に詩才を伝染させたのではない。

 二つ目の願いは:今後、眼光を臍下三寸から離すこと。     925

 

訳者雑感:最近民国時代の「黄金の十年」という言葉を耳にする。
1937年から本格化する日中戦争が始まるまでの十年間を指す由。1928年に蒋介石が国民政府の首席になってから、1936年に西安事件で、監禁されるまでは、
その前の軍閥割拠の混乱とその後の日中戦争の混乱との相対論では、比較的「ましな」状態だったのだろう。

 9.18事変の記念日・中秋の名月の数日後に、魯迅もこんな臍下三寸の話題を載せていられるのは、まさに「ましな」状態だったのだろう。

それにつけても、女流作家が文人の情人を云々というのは、不易のようである。
その逆は
どうだろうか?       2013/06/29

拍手[0回]

商人の批評

         及 鋒

 中国には今良い作品が無い、というのが以前から評論家や乱評家には不満で、少し前、

なぜなのかを探求したことがある。結果は何も出なかったが、新しい解釈は出た。林希雋氏は言う:「作家が自らをダメにしていて、機を見て敏捷に立ち回って功績をあげ」「雑文」を書くので、シンクレアやトルストイの様になれないのだ。(「現代」9月号)

 又もう一人の希雋氏は「この資本主義社会で…作家はいつの間にか商人になってしまった。…より多くの報酬の為に<粗製濫造>の手法をとらざるを得ず、精魂こめて工夫して、

真剣に創作する人がいなくなった。(「社会月報」9月号)

 経済に着眼するのは、一歩踏み込んだと言える。だが、この「精魂こめて工夫して、真剣に創作する」学説は、常識的な見解しかない我々とは大変異なる。従来、資本を投じて、

理を得るのは商人だから、出版界では商人はお金を出して出版社を作り、金もうけをしてきた社長だと考えて来た。今、はじめて文章を書いてわずかな稿料を得るのも商人であると知った。「知らぬ間に」なってしまったに過ぎぬが。農民が数斗の米を節約して売りに出し、労働者が肉体労働で銭に換え、教授が口舌を売り、妓女が淫を売るのは「知らぬ間に」そうなった商人である。ただ、買い手だけは商人ではないが、彼の銭は必ず物との交換で得たものだから、彼も商人である。そこれ「この資本主義社会」では一人一人皆商人だが、

「知らぬ間」と「はっきりした」との2つに大きく分類できる。

希雋氏本人の定義に照らせば、彼はもちろん「知らぬ間に」なった商人だ:売文を生計の為と考えなければ、その為に<粗製濫造>する必要も無いが、それではどうやって生きてゆくのか。きっと他の商売をするのだから、それははっきりした商人になるから、彼の見識はどうしても一商人の見識から逃れられない。                 

「雑文」は非常に短く、費やす時間も「平和と戦争」(これは林希雋氏の文章から引用したもので、原名は「戦争と平和」だが)のように長時間ではなく、力もごく少ないのは、

その通り。だが些かの常識は必要だし、多少の苦心も要り、さもないとまさしく「雑文」で、さらに「粗製濫造」に陥り、笑い話のタネになる。作品にはどうしても欠点はある。

Apollinaire(仏の詩人)は孔雀を詠じて、羽を広げたときは燦爛と輝くが、後に尻の穴が露わとなったと書いた。だから評論家の指摘は必要だが、評論家もこのとき、羽を広げ、

彼の尻の穴を露わにした。しかしそれでもなぜ必要なのかというと、その正面には燦爛と輝く羽があるからだ。もしそれが孔雀でなく、鵝鳥や鴨の類なら、羽を広げたら露われるのは一体何かを考えねばならない。      9月25日

訳者雑感:

 文学作品は芸術の一つだが、商品でもある。昨今の「本屋大賞」に選ばれた作品は、はっきりした目に見える形での「芸術と商売」を結合したものであると言えよう。

 村上さんの長い題名の作品は、はたしてどうだろう?初期の作品は残ると思うが、最近の作品の寿命はどうだろうか?    2013/06/27

拍手[0回]

カレンダー

09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R