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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「草鞋の脚」(英訳中国短編集)まえがき

 従来中国で小説は文学とみなされなかった。軽視され、18世紀末の「紅楼夢」以後は、比較的偉大な作品も生まれなかった。小説家が文壇に入りこんだのは、「文学革命」運動が始まった1917年以降である。もちろん一つは社会の要請からであり、更には西洋文学の影響を受けたからだ。
 だがこの新しい小説が生き残れるかどうかは、常に不断の闘争の中にある。当初、文学革命者の要求は、人間性の解放で、彼らは既存の古いものを掃蕩すれば、残った物は本来の人間、良い社会だと考えたが、そのために保守派の人達から圧迫され阻害された。
10年ほど後になって階級意識が目覚めてきて、進歩的作家がみな革命文学者となり、迫害は一層厳しくなり、出版禁止、書籍焼却、作家は殺戮され、多くの青年は暗黒の中で、彼らの仕事のために殉難した。
 本社はこの15年来の「文学革命」後の短編小説選集だ。我々はまだ新たな試みを始めたばかりで、幼稚さは免れぬが、それは巨大な石の下の植物のように、余り繁茂はしていないが、折れ曲がりながら成長中である。
 これまで西洋人が中国の作品を語るのは、中国人が自分の物を語ることより多かった。だがそれはどうしても西洋人の見方を免れず、中国の古諺の「肺腑がものを語れるなら、医師の顔は土の如し」で、肺腑が本当にしゃべれても、信頼できるとは限らないが、医師の診断の及ばぬ所もあり、意外に実は本当のこともあるかもしれない。
   1934年3月23日 魯迅 上海にて記す


訳者雑感:これは魯迅がアメリカ人の求めに応じて、茅盾とともに選んだものをアメリカ人(伊羅生)が訳した選集のまえがきだが、実際には出版されず、1974年にMITから内容が大幅に変更されて出版された:出版社注。
 西洋人が自分で選んだものは結構あっただろうが、魯迅や茅盾たちが自分で選んだものをアメリカ人に訳してもらう。それを世界に紹介し、世界の人に中国のことを理解してもらう。それが最終的には中国を変えることに繋がると信じていたのであろう。結局は戦争前に出版されず残念であったが、肺腑がものを語れるなら、医師は云々という諺は、正に中国人自らがものを語れるようになれば、医者の診断で見落としてきたことも発見できるではないか、と期待している。
    2013/08/03記

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国際文学社の問いに答えて

質問――
1.ソ連の存在と成功は、貴方にとっていかがですか(ソビエトを作った十月革命は貴方の思想的回路と創作の性質にどのような変化をもたらしましたか?)
2.ソビエト文学に対するご意見は?
3.資本主義諸国のどういう事件と色々な文化的動きの中で注目したのは何ですか?
  (答え)
1.以前、旧社会が腐敗していると感じていたから、新しい社会ができるのを望んでいたが、「新」とはどうあるべきか知らない:そして「新」ができた後、必ず良くなるか堂か知らない:10月革命後、はじめて「新」社会の創造者が無産階級だと知ったが、資本主義諸国の逆宣伝のため、10月革命に対してはやはり懐疑的だった。現在、ソ連の存在と成功は、確かに私に無産階級が現れることを信じさせ、懐疑を完全に除去したのみならず、多くの勇気を与えてくれた。だが創作上、私は革命の渦の中にいなかったし、長い間各所に考察に行けなかったから、私は只旧社会の悪い所を暴露することしかできない。
2.他の国といっても、只――ドイツと日本――の翻訳しか読めない。現在の社会建設を語るものより、やはり以前の闘争を語る――「装甲車」「壊滅」「鉄の流れ」等の方が――
私には興味があり有益です。ソビエト文学はその大半を中国に紹介したいと思いますが、今はやはり闘争の作品が緊要だと思う。
3.私は中国では資本主義諸国の所謂「文化」というものを見ることはできません:只彼らと彼らの奴才たちが、中国で、力学と化学の方法を使って、更に電気機械で、革命者を拷問し、飛行機と爆弾で革命群衆を殺戮しているということを知るのみです。
   (1934年第3-4合併号の「国際文学」に発表された)

訳者雑感:ソビエトの10月革命が魯迅に中国を変革させようとする思いに希望を与えたことは確かだろう。だが彼にとって、革命成功後のソビエト国家建設を描いた作品より、其れに至るまでの「闘争」を描いた作品の方が、より参考になり興味があると述べている。
 彼は腐敗した旧社会を壊して変革することが彼の責務と感じており、新しい国家建設などを謳歌する作品には食指が動かなかったのだろう。
 かれが1949年の新中国建国後も、なお元気で文章をどんどん書ける状態だったとしても、
彼は筆を置いてしまったことだろう。
    2013/08/02記

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3.中国の監獄について


 思うに、人は確かに事実から新しいことを悟り、状況もそれによって変化する。宋代から清末までの長い間、聖賢に代わって専ら「製芸(八股文)」で建言するという頗る難しい文章で以て、士を採用してきたが(科挙で官僚候補を選抜)、清仏戦争に負けて初めてこの方法が間違いだったことに気付いた。それで西洋に留学生を派遣し、兵器製造局を開設し、改善しようとした。これに気付いてもまだ不十分で、日清戦争に負けて学校を作ることに注力した。それで学生たちは年々おおいに騒ぎ(問題を起こした)。清朝が倒れ、国民党が政権を掌握して、やっとこの間違いを悟り、その改善の手段として、監獄をいっぱい作ったが、それ以外何もしなかった。
 中国でも伝統的な監獄は古くから各所にあったが、清末に少し西洋式、即ち所謂文明的な監獄を作った。これは旅行でやってきた外国人に見せる為で、外国人とうまく付き合って行くためであって、文明人の礼節を学ぶために特別に派遣した留学生と同じ類だ。
このお陰で犯人の待遇もよくなり、風呂やある程度の飯も与えたから、とても幸福な所となった。だが2-3週前、政府は仁政を施すとして、囚人向け食糧をかすめることを禁じる命令を出した。それで更に幸福になった。
 旧式監獄は、仏教の地獄に倣ったようで、犯人を禁錮するだけでなく、苦行をなめさせた。金を取り上げ、犯人の家族からも絞り取るなどで、時にはその両方を行った。だが皆当然だと思っていた。もし誰かそれに反対でもしようものなら、犯人に味方したとして悪党の嫌疑を受けた。(当時国民党は共産党を「匪党」と蔑称していたことを踏まえて、「悪党」という言葉を反語的に使った:出版社)
 だが文明は不思議な進歩をするものとみえ、去年犯人を一度帰宅させて、性欲の解決の機会を与えるべきだ、と頗る人道的な説を提唱する官吏も出た。これは何も犯人の性欲に特に同情しているわけではなく、これまで何も実行できていないから、一つ花火をあげて、自分がそういう存在を示したかっただけだった。しかし世論は沸騰した。評論家のある者は、そんなことしたら牢獄を怖がらなくなり、喜んで入獄するようになるからよくないと、世道人心のために憤慨した。所謂聖賢の教えを受けてかくも久しいのに、あの官吏の様な無責任なものがいないのは、真に頼りになるが、彼の意見は犯人に対して虐待を加えねばならぬということが分かる。
 別の面から考えると、監獄は確かに「安全第一」を標語にする人の理想郷にほど遠い所でないこともない。火災はごく稀、泥棒も来ないし、土匪きっと偸みに来ない。戦争になっても監獄が爆撃の標的にはならず:革命が起きても囚人を釈放する例はあるが、屠戮することはない。福建独立の当初、犯人釈放と言う説もあったが、外に出ると、彼らと意見の異なる連中は逃げ出したという謡言もあった。然しこんな例は、昔は無かった。要するに、けっしてそんなひどい所ではないということ。家族帯同が許されれば、現在のような大洪水、大飢饉、戦争など恐怖の時代、中に入って住みたい人もいないとは限らぬ。それで虐待が不可欠となる。
 (ウクライナ人の)Noulens夫妻は赤化宣伝をしたとして、南京監獄に入れられ、絶食を3-4回したが何の効果も無かった。これは彼が中国の監獄の考えをよく知らないせいだ。官員が訝しく思い:彼が食べないのは他の人に何の関係があろうか?只単に仁政と無関係のみならず、食糧も節約でき、監獄にも有益だと考える。ガンディの計画も興行場所を選ばねば効力は無い。
 しかしかくも完美にちかい監獄にも欠点はある。これまで思想的なことは全く留意されてこなかった。この欠点を補うため、近来「反省院」という特殊監獄を新たに作り、教育を施した。私はまだそこへ行って反省したことが無いから、詳細は知らぬが、言うならば、三民主義を時々犯人に聞かせ、自分の誤りを反省せしめるようだ。この外に、共産主義を排撃する論文も書かねばならぬ由。もし書かないとかやれないというと、当然のことだが、終身反省せざるを得ぬし、格式にあわねば、死ぬまで反省せねばならぬ。今現在入っていった者もおり、出て来た者もいるが、反省院を増やさねばならぬというから、入る者の多いのが分かる。試験を終えて放出された良民にたまたま会うことができたが、大抵はとても委縮させられてしまったようだ。多分反省と卒論の為に力を使い果たしたのだろう。その前途に希望は無い。  (日付記述ないが1934年3月に発表された)

訳者雑感:この三編は日本の雑誌「改造」に日本語で「火、王道、監獄」として載せた物。
この中で触れられている「性欲問題解決のための一時帰宅制度」は1933年4月4日の「申報」に司法界の某要人談として、…壮年の犯人の性欲問題云々として引用されたような提案をしている。人民は罪を犯したら自由は失うが、性欲はこれを奪ってはならぬ…、欧米文明国家には、犯人に休暇が与えられている…、と。日本ではどうだろうか?
 仮釈放とか保護観察とか、犯罪者の更生という観点からだろうが、そんなことしたら喜んで監獄入りを希望する連中が増えて、満杯になってしまうだろう。
中国では最近犯罪者が増え、判決後すぐ処刑するという例が多いそうだ。犯罪者用の食糧をかすめ取るふらちな行為が起こらぬように獄舎での待機期間を短縮するものか)
    2013/08/01記

 

 

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2.中国の王道について

2.中国の王道について
 一昨年、中里介山氏の大作「支那と支那国民への手紙」を読んだ。その中で周漢はいずれも侵略者の資質があったと言う点だけ覚えている。そして支那人は皆彼らを謳歌して歓迎した。朔北の元と清に対してすら謳歌した。その侵略が国の力を安定させ,民生の実をほごしさえすれば、それは支那人民の渇望する王道で、そこで支那人が頑迷でそれを悟らない点に対してたいへん憤慨している。
この「手紙」は満州で発行された雑誌に掲載されたが、中国に輸入はされないから、其れに対する返信的なものはこれまで一篇も目にしていない。ただ去年、上海の新聞に載った胡適博士の談話に云う:「只一つ中国を征服する方法があり、それは侵略を完全に停止し、逆に中国民族の心を征服することである」というのだが、言うまでも無くこれは偶然に過ぎぬが、些かこの手紙への返答の様に感じさせる。
 中国民族の心を征服せよ、これは胡適博士が所謂王道に与えた定義だが、思うに彼自身多分必ずしも自分の言葉を信じていないであろう。中国では実は本当に徹底した王道があったことは無いし「また歴史癖と考証癖」の胡適博士がそれを知らぬはずが無い。
 確かに中国にももともと元と清を謳歌した人もいたが、それは火神を崇める類で、心まですべて征服された証拠にはならぬ。暗示を与えて、もし謳歌しないなら、もっとひどく虐待するぞと脅かせば、ある程度の虐待をしても、人々を謳歌させることができる。
4-5年前私は自由を求める団体に入ったことがあったが、当時の上海教育局長陳徳征氏刃勃然大いに怒って、三民主義の統治下でまだ不満なのか、と言った。そんなことをいうなら、今与えている自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げた。その後、以前より不自由になったと感じるたびに、陳氏が王道の学説に精通していると敬服し、一面では本当に三民主義を謳歌すべきと思わずにはいられなかった。しかし、今やもう遅すぎる。
 中国の王道は一見、覇道と対立する様だが、実は兄弟で、この前と後ろに必ず覇道がやってくる。人民の謳歌するのは覇道の軽減を望み、或いはさらに強化されないことを望むためである。
 漢の高祖は歴史家の説では龍の種だが、実は無頼の徒で、侵略者というのは些か間違いだろう。周の武王は征服者の名を以て中国に入り、さらに殷とは民族も異なるから、現代的な言葉で言えば侵略者と言える。だが当時の民衆の声は今やもう残っていない。孔子と孟子は確かに大いにその王道を宣伝したが、先生たちはただ単に周朝の臣民ではなかっただけでなく、暦国を周遊し、活動したのだが、きっと官(官僚)になろうと思ったかも知れぬ。もう少し耳触りのよい言葉でいえば、「道を行」おうとするためであって、官になる為には、周朝を称賛するのが都合良かったからだ。しかし他の記載を見ると、かの王道の祖師であり且つ専家(プロ)の周朝は討伐の当初、伯夷と叔斉が馬を叩いて諌めて引きとめようとしたが;紂の軍隊にも反抗が加わり、彼らの血を流さざるを得なくなった。次いで殷民はまた造反したが、これらを特に「頑固な民」と称し、王道の天下の人民から除外したが、要するに結局は何か破綻をしたようだ。すばらしい王道もただ一個の頑固な民を消してはじめてその根拠を根こそぎにするのだ。
 儒士と方士(方術を使うもの)は中国特産の名物だ。方士の最高の理想は仙道で、儒士のは王道だ。残念ながらこの二つは中国ではとうとう無くなってしまった。長久の歴史的な事実が証明するのは、もしかつて真の王道があったと言えば、それは妄言であり、今まだあるというのは新薬だ。孟子は周末に生まれたから、覇道を談じるのを羞じとしたが、もし彼が今日に生まれていたら、人類の知識範囲の展開により、王道を談じるのを羞じることだろう。

訳者雑感:
 孔子も孟子も官に就くために諸国を周遊し、周の王道の素晴らしさを説いて、春秋戦国の乱れた社会を「元に戻そう」とした。耳障りのよい言葉で言いかえれば、「道を行う」ために自分を官に採用して、世直しをしようじゃないか、と。
孔子と孟子の弟子たちの更に孫弟子たちが、漢代にようやく採用されて、比較的ましな社会になったことは、それまでのひどい戦国時代より「ましな社会」になったと言えよう。
 今また強大な国力をバックに覇道を唱え始めたのではないかと周辺から危惧されている。
孟子が今日に生まれていたら何というだろうか?
     2013/07/29記

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1934年 中国に関する2-3のこと

1934年 中国に関する2-3のこと
1.中国の火について
 ギリシャ人が使った火は、プロメテウスが天から偸んだものだとされてきたが、中国はそうではなく、燧人氏(燧はひうち、のろし、と訓)が自家で発見した――或いは発明したというべきか。偸んだわけではないから、山上に繋がれ、雕(わし)に啄ばまれる災難から免れたが、プロメテウスのように名声が広まり崇拝されることはなかった。
 中国にも火の神はいた。が、それは燧人氏ではなく、勝手に放火する得体の知れぬ者が。
燧人氏の発見或いは発明以来、旨い火鍋が食べられ、灯をともして夜も仕事ができるようになったが、まさに先哲のいうように「一利あれば必ず一害あり」で、火災も起こり、故意に火を付けるあの有巣氏(樹上の巣に住む人:出版社)が発明した巣という人物も現れた。
温厚な燧人氏は忘れられてもしかたない。たとえ消化不良になったとしても、それは神農氏の領域に属すからで、神農氏は今なお人々に覚えられている。火災については、発明者が誰かは分からない。だが祖師はきっといるわけで、止むを得ぬから火神と適当に称して、畏敬の念を捧げる。彼の画像は、赤い顔、赤いヒゲだが、祭祀の時は赤いものは一切避けねばならず、緑に代える。彼はスペインの牛ほどの大きさで、赤い色をみるとすぐ亢奮し、恐ろしい行動にでる。
彼はこのため、祭祀を受けることになる。中国ではこういう悪の神は大変多い。
だが世間は彼らのおかげで賑やかなようだ。儀仗がくりだすお祭りは火神だけで、燧人氏のは無い。火災が起こると被災者と近隣の被災していない人達は、みんなで火神を祭り、感謝の意を表すのは些か意外に思われるが、もし祭らないと再度焼かれることになるから、やはり感謝しておいた方が安全だということだ。また火神に対してだけでなく、人間に対しても時に同じようなことをするのは、多分儀礼の一種と思う。
 事実、放火は非常に恐ろしいことだが、飯を炊く事と比すと興趣がある。外国の事は知らぬが、中国ではどういう歴史があるか調べてみても、飯炊きと点灯をした人達の列伝は探しだせない。世の中でたとえどんなに飯炊きや点灯が上手でも、名人になる望みは殆ど無い。だが、秦の始皇帝は書物を焚いたことで、今も厳然とした名人であり、ヒットラーの焚書事件の前例として引き合いに出される。かりにヒットラーが点灯やパン焼きが上手くて、歴史に前例を探してみても多分難しかろう。ただ幸いながらそんなことで、世の中は騒がないだろう。
 家を焼くのは、宋人の筆記によれば、蒙古人が始めた由。彼らは天幕に住み、家に住むことを知らぬから、彼らが通過した場所に火を付けたという。だがこれはウソだ。蒙古人には漢文を読める者が少なかったから、これを訂正しなかったせいである。その実、秦末には放火の名人、項羽はおり、阿房宮を焼いて天下に名をはせ、今も戯台に登場し、日本でも大変有名である。しかし、焼ける前の阿房宮で毎日灯を点じていた人の名は誰が知っていようか?
 今や爆撃弾、焼夷弾の類が出てき、加えて飛行機も大変進歩し、名人になるのも容易だ。
更にもし以前より大規模な放火をすれば、その人は更に尊敬され、遠くから見ると救世主のようで、その火の光は光明ではないかと思わせる。

訳者雑感:
 愛宕山に登り、神社に詣でて来た。7月31日の夜にお参りすると千回お参りしたことになるというので、一万人程が参詣するので、そのための電球が924メートルの山頂から半分程のところまで取り付け中であった。
 以前京都に住んでいた時、町内ごとに代表を選んで、町内全員向けに「火廼要慎」というありがたいお札を買って来て、翌日配っていた。木造の町家が櫛比(しっぴ)する京都の下町では、毎年どこかで失火で多くの家屋が焼失する。翌年、その地区の人の多くは自ら愛宕山に詣でて、沢山の賽銭を投じ、あのお札を購入すると聞いて、魯迅が書いているように些か不思議に思った。その人に聞くと、翌年は必ずよりおおぜいの人がお参りして、お願いするのだそうだ。そうせぬと今年もまた失火する人がでてくるから…。
 火神を祭るのは、それまでの自分たちの尊崇の念が足りなかったせいであり、それを反省して今年からは盛大に祭るのだ、ということだ。
 京都の八坂神社の祇園祭も京都に例年流行した疫病から守って欲しいとの切なる願いからあのように盛大になり豪奢な山鉾の飾りとなって「尊崇」の念を表そうとしたものだ、といわれている。
 戦争で犠牲になった御霊に尊崇の念を捧げたいという人にとって、靖国神社の御霊は、愛宕山や八坂に祭られている神と同じだろうか?
     2013/07/28記

 

 


 

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且介亭雑文  序

且介亭雑文  序
 この数年、所謂「雑文」の量が増え、また以前より攻撃を受けることも増えた。例えば自称「詩人」の邵洵美、前「第三種人」の施墊存や杜衡即ち蘇汶、更には一知半解の程度すらない大学生の林希雋の類は、いずれも雑文は骨肉の仇の如く、様々な罪状を加えたが、何ら効果は無く、作者も増え、読者も多くなってきた。
 しかし「雑文」というのも今日の新しい事物ではなく、「古(いにしへ)よりこれ有り」で、凡そ文章は分類するに帰すべき類があり、編年なら書かれた年月に従い、文体に関わりなく各種の文を一か所に入れると「雑」となる。分類は文章吟味に有益で、編年は時勢を明らかにするのに有益で、人を知り、世を論じようとすれば、編年の文集を読まなければならず、今古人の年譜を新たに作るのが流行しているが、それは即ちすでに多くの人がこの間の状況を知ろうとしていることを証明している。況や、今これほど切迫した時、作者の任務は有害なものに対し、すぐ反論し抗争することであり、それに立ち向えるのは、反応神経であり、攻守の手足となることだ。他の巨大長編に専心し、未来の文化に対して構想するのはもとより素晴らしいことだが、現在の抗争のために、まさに現在と未来の為に戦う作者が、現在を失ってしまったら、それは未来も失くしてしまうことになる。
 戦闘には必ず発展の方向がある。それは即ち邵・施・林の輩にとっての大敵であるが、彼らの憎む中身は、文芸の法衣を着てはいるが、その中は「死の説教者」を蔵しており、生存と両立するのは不可能である。
 この一冊と「花辺文学」は去年1年の間、官民からの明々暗々、軟々硬々の「雑文」への包囲攻撃の筆と刀に対して書いたものを集めたもので、私の書いたものは全てこの中にある。勿論詩史(杜甫の詩が歴史を捉えていてこう呼ばれた)などとはおこがましくも言えぬが、中には時代の眉目があり、けっして英雄たちの八宝箱のように、一朝開けば光輝燦爛というものでもない。私は只深夜の街頭で夜店の棚に、幾つかの釘や素焼きの皿を並べたに過ぎないが、何人かの人がこの中から自分の用途に合った物を探し出してくれるのを希望し、かつまた信じる。
        1935年12月30日 上海且介亭にて記す。
訳者雑感:出版社注によれば、魯迅は当時、北四川路に住んでいた。同地区は「越界築路」と呼ばれ、(帝国主義者が租界範囲を越えて築いた路)所謂「半租界」だった由。
それで租界の2字から半分ずつとって且介としたという。そんな遊び心もあったというか、前の「花辺」とか「華蓋」とか、魯迅が自分の雑文集に付けた名前への愛情が感じられる。
 さあこれから本冊と二集、末編という3冊を訳すとしよう。
     2013/07/27記

 

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読書の忌(いみはばかること)

焉于
中国の医書に「食忌」なるものがあり、2種の食物の食い合わせは有害で、死ぬこともあり、例として葱と蜜、蟹と柿、落花生とカラス瓜の類が挙げられている。本当かどうか?
誰かが実験したとか聞かないから、知るよしもない。
 読書にも忌があるが、「食忌」とは些か異なる。というのも、某種の書は他の種類の書と同時に読めない、さもないと、どちらかが必ず殺され、或いは少なくとも読者に憤怒を起こさせることになる。例えば今盛んに提唱されている明代人の小品文の幾つかは確かに面白いものがある。枕上、厠上、車中、船中、どこで読んでも一級の閑潰しである。然しそれには先ず、読者の心を空洞にし、何もないことが肝要だ。例えば以前「明季稗史」「痛史」、或いは明末遺民の著作を読んだものは、その結果はそれぞれ異なり、この両者はきっと争いを始め、相手を殺さねばすまなくなる。私はこの為、それらの明代人の小品を憎む論者の気持ちが分かるような気がした。
 ここ数日、偶々屈大均の「翁山文外」を読み、その一篇、戊申(即、清の康熙7年)8月に書いた「代北(山西省北部の地名)より入京の記」がある。彼の筆は中郎より下ではないし、その文には極めて重い面があり、数句引用する―――
 『……河に沿って行く、ある所は渡りある所は渡らない。往々、西夷の皮の天幕を見る。高さは不ぞろいで、所謂穹廬が連なり、丘や低い土山の如し。男も女もみなモンゴル語で:固体や液体の酪を売る者、羊馬を売る者、毛皮を売る者、2頭の駱駝の間に臥せている者、鞍無しの馬に乗り、二三人づれで移動し、戒衣を着て、赤や黄色の(袈裟)を着、小さな鉄輪を持ち「金剛穢呪」を念呪する者、その頭には柳の筺(ハコ)を載せ、馬糞や木炭を盛るは、みな中華の女子。みな頭髪を巻きあげ、裸足で垢(あか)だらけの顔で、毛皮を裏返しで着ている。人と牛馬は一緒に寝、ムッと鼻孔を突くなまくさい臭いは百余里絶えず。……』
 こういう文章を読んで、こうした情景を想像したらもう忘れることはできない。それで中郎の「広庄」や「瓶史」(彼の文人趣味の代表作)では積憤をはらすことは断じてできないし、更に憤怒をますだろう。これは実際、中郎の時代に彼らが互いに標榜した物より更に悪いが、彼らは揚州十日、嘉定三屠(いずれも明末の満州族清朝の暴虐事件)を経験していないからである!
 明代人の小品文も良いし、語録体も悪くないが、私は「明季稗史」の類と明末遺民の作品の方が実際さらに良いと思う。今まさに標点をつけて出版する時である:みんなに読んでもらって目覚めて貰おうではないか。     11月25日
訳者雑感:1930年代の北京上海などの大都会では、明代の閑潰しにもってこいの小品文がよく読まれたようだ。林語堂などがそれに標点をつけて(現代人に読み易くして)勧めている。それに対して、明末に満州族の清朝政府によりどれほどの暴虐を受け、辛酸を舐めたかを書いた「明季稗史」「痛史」に標点を付けて出すべきだというのが本編の主題だ。
     2013/07/26記

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罵り殺しと褒め殺し

                           阿法
 現在、文学評論に些か不満な人は、この数年所謂評論が褒めるか罵るかしかないからだ。
その実、所謂褒めるとか罵るというのは、称賛と攻撃で、それを字面の良くないのに替えたにすぎぬ。英雄を英雄とし、娼婦を娼婦というのは、表面上はへつらいと罵りだが、実はまさしくそれに該当し、評論家を攻めるわけにはゆかない。評論家の誤りは妄りに罵り、妄りにへつらうことで、英雄を娼婦といい、娼婦を英雄だとすることだ。
 評論が威力を失くしたのは「妄り」に始まるが、「妄り」より甚だしくは「妄り」に事実と相反し、内実をみんなに発見されたら、その効果は時に相反してしまうからだ。それ故今、罵り殺しは少なく、褒め殺しが多い。
 人は古いが、最近のことでは、袁中郎がそれだ。この明末の作家は文学史上、彼らの価値と地位を持っている。不幸にして、一群の学者たちに持ちあげられ、称揚され、標点をつけて印刷され『色借、日月借、燭借、青黄借……』と「借」の字をむちゃくちゃに使われ、まさに中郎の顔に隈取りをして、みんなに見せて大いに称賛され「おお何と素晴らしい“性霊”か!と持ちあげたが、これは中郎の本質とは関係ないのだが、他の人が彼の隈取りを洗い清めるまで、「中郎」は人の笑い物になるのを免れず、不愉快な目にあう。
 最近の人では、タゴールがそうだと思う。中国に来て講演したとき、彼の為に琴を置き、香を焚き、左に林長民、右に徐志摩が夫々印度帽を戴く。徐詩人が紹介を始めた:「ええ!そもそも云々と訳の分からぬことを言い、白雲清風、銀磬……当!」彼があたかも活神仙のように言う。そこで地上にいる我が青年達は失望し、離れていった。神仙と凡人、どうして離れずにおれようか?だが今年彼がソ連の事を論じる文を見た。自ら声明を出し:「私は英国統治下のインド人」だという。彼ははっきり認識している。きっと彼が中国に来た時は、決してまだデタラメな状態では無くて、もし我々の詩人諸公が活き神仙にしなかったなら、青年達は彼にそれほど隔絶を感じなかったであろう。今はとても衰えてしまった。
 学者とか詩人の肩書で、作者を論評・紹介することで、当初は周囲を欺く事が出来るが、周囲が作者の真相を知った時、彼自身が不誠実で学識不足なのをさらけ出す。しかし、周囲が真相を指摘しないと、作家は褒め殺しにあい、何年経ったら立ち直れるか分からない。
                   11月19日
訳者雑感:文壇では互いが持ちあげ、褒めあってその作品の読者を増やそうとする。その行為が評論だ。魯迅は(学生たち)一部の例外を除き、彼が翻訳した外国作家以外の作家を大抵は罵っている。袁中郎を持ちあげたのは林語堂たちであり、タゴールを持ちあげたのは徐志摩たちで、それが褒め殺しで、青年達が離れて行ってしまった原因だとする。
袁中郎やタゴール本人は素晴らしいものを持っているのにである。
      2013/07/25記



 

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梅蘭芳他について(下) 

                                         張沛

 更にまた梅蘭芳はソ連に行こうとしている。

 議論紛々。我々の大画家徐悲鴻教授もモスコーに行き、松を描いたが――馬だったかも、しかと覚えていない――国内では誰も取り上げなかった。この事から梅蘭芳博士は芸術界では確かに超人だということが分かる。

 そして更に「現代」編集室にも緊張を高まらせた。編集首席の施蟄存氏曰:「更に梅蘭芳に「貴妃酔酒」を演じさせよう!」(「現代」5巻5期)と、こんな大声で叫ぶので、不満が極度に達していることがわかるが、もし性別を知らぬと、ヒステリーになったのではと心配だ。編集次席の杜衡氏曰:「劇本の鑑定作業は完了したから、何名かを最先進的な戯をまずモスコーで梅蘭芳氏の「転変」後の個人的創作の為に派遣するのは構わない。……前例に従って、ソ連に行く芸術家は何はともあれ、事前に何らかの「転変」を示すべきだ。

(「文芸画報」創刊号)これは大変冷静で、一見すぐ彼の手法が巧妙と分かるし、斉如山氏(当時の北平国劇会会長)に、自ら愧じいって、すぐ助けて貰いたいとお願いさせた。

 だが梅蘭芳氏は正しく中国戯は象徴主義と言っており、劇本の字句は雅であるべきとしており、その実、芸術の為の芸術であり、一種の「第三種人」である。

 では彼は「何らかの<転変>を示す」ことができないから、目下時期尚早である。多分別の筆名で劇本を書き、インテリ階級を描き、専ら芸術の為で、俗事は問わず、最後はやはり革命と言う方向になる。こうなると活動が増え、最後まで到達できず、花や光やで終わるとなると、それを書いたのが私なら、革命という方向にはならないだろう。

 私は梅博士が自分で文章を書けるか知らないが、別の筆名で自分の戯を称賛し:或いは別の会社(グループ)を造り「戯劇年鑑」を出版し、自ら序を書き、自分を劇作界の名人とするだろうか?もしそうなら、こんな手は使わぬだろう。

 もしそんなことを弄ばないなら、真に杜衡氏を失望させ、彼に「もう一度光輝け」を書かせるだろう。

 このあたりで止めておこう。さらに書くと私も梅氏が評論家の罵倒によって、戯が演じられなくなったと批難されぬようにせねばならぬから。 111

 

訳者雑感:この当時の梅蘭芳に博士とつけて揶揄しているのは魯迅一流の皮肉だろう。

  2013/07/24

 

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石巻へ

 

1.

2年前の夏、塩釜から遊覧船に乗り松島を訪ねた。乗客は5人で、二人連れがえびせんをかざすと、たくさんのカモメが一斉に群がり飛んできて、二人は怖じ気づいていた。

それが無くなると、カモメたちは未練気に尚も追いかけて来たが、12分後に引き返して行った。これも大震災津波の影響だったろう。

 震災から2年半経って、あの仙石線の美しかった海岸は復旧しただろうか?

それを見に出かけた。塩釜から船着き場までの海岸沿いの「俳句」などが刻まれた碑は、2年前は倒れたままで、これを修復する前にやらねばならぬことが沢山あるのだから、しょうが無いと思いながら歩いた。今回はブルドーザーが石碑をきれいに撤去していまっていた。元の状態に戻るまでにはあと数年かかるだろうなと思った。

 遊覧船に乗ったら、今回はおおぜいの団体客で席は占められ、2階のデッキに上がった。

団体向けに売り子がえびせんをたくさん抱えて売っている。カモメは出帆前から、えびせんを袋から取り出した客の手をかすめながら飛び来たり、飛びさる。

 前回はテープのガイドだったが、今回は生の声で、右側の半島の地続き部分の住居は、津波の被害が大きくて、半数は誰も住んでいない状態だという。

島の松は大津波をもろに受けた所は、根がやられて、赤く枯れていた。

桂島は80世帯全員が山上の学校に避難して、1週間以上も支援なしに耐えて全員無事だったが、今は半数ほどに減ってしまったという。

 前回はテープの説明で、全ての小さな島にも名前がついているのに感心したが、今回の生ガイドでは、一つの島が3つに裂けたとの説明や、多くの松が枯れてしまい、カモメの巣に変じているのを見た。松島の二百幾つもの島は、過去の地震津波などの自然の力で、このように沢山の島に分かれたのだろうと思った。その中には蔵王連峰から吹き下ろす風も入っていて、その風の起こす浪で、蔵王の方向の壁はきれいな曲線を描いて抉られているのです、との説明にも感じいった。

 50分ほどで松島港に到着。港の正面の繁盛していた土産物店は、まだいくつかシャッターが下りて土嚢を積んだままだ。その数軒先からはみな元通り営業しているから、これは何か別に復旧できない事情があってのことだろう。復旧復興するのはやはり人なのだ。2.

 前回来た時は、橋がやられて渡れなかった雄島に向った。

東北大の艇庫を見ながら、赤いい欄干が修復された渡月橋を渡った。

沢山の仏像や石碑が津波の被害を受けたようにはみえないほど、しっかり残っていた。

芭蕉、曾良の句碑もはっきり読み取れる状態であった。

芭蕉は松島に来て、この島に上陸し雲居禅師の別室の跡などを尋ねた。

その「把不住」庵も(後に再建されたものだが)無事であった。

これもたび重なる自然災害で、倒れたり、廃墟になったりしたものが多いに違いないが、
後の人が彼を尊んで、再建したものが今も今回の津波に負けず残っている。

芭蕉は松島で「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ」の後、予は口を閉じて眠らんとしていねられず、と記述しており、この時は句を残していないとされている。だが、この島の句碑には「朝よさをだれまつしまの片心」とある。

元禄2年の奥の細道に出かける前に作ったものだそうだ。

これ以外にも、「奥の枝折」に「島々や千々に砕けて夏の海」という句があり、雄島から眺めた松島湾の浪が千々に砕けているように観じたものか。

あるいは、小さな島々をそう観じたものか。

3.

 松島海岸駅前から代行バスで矢本に向った。
  


仙石線 津波から2年半後の野蒜駅 (137月撮影)

 

 以前、石巻に用があって、仙石線を何度か利用した。その時私が一番素晴らしい眺めだと思ったのは、東名駅辺りの海沿いになだらかな弧を描く線路であった。今、野蒜駅は上の写真のとおり、電柱は傾いたまま、鉄路は砂に埋もれたままである。

駅舎の右のコンビニは、板壁に大きな穴があいたまま、放置されている。鉄道が不通なのだから、誰もコンビニを利用する人はなく、店を修復する人もいない。

 それでも、元の線路に鉄板を敷いて、クレーンが修復作業を始めている。何年後かには、ハイブリッドのジーゼル車を石巻から仙台まで、東北線に合流して直結するという。

海岸線から少し内陸に入った丘陵地帯で、東京の大手ジェネコンが、東京郊外の新興住宅地開発と同じような雛壇式の宅地造成を行っていた。

仙台から30分の距離だから、こうした復旧が可能なのだろう。それに地場産業もある。

 2年後にもう一度来てみたら、阪神淡路大震災後の神戸のように復興していると思う。

カキの養殖も復活し、浜辺にはおびただしい数の稚貝用の貝殻が並んでいた。

前回来た時は広島産のカキを焼いていたが、今回は地元産だと言う、それまでは、大量の稚貝を、日本各地だけでなく、はるかフランスにまで送っていたそうだ。

今後この地区の稚貝が又フランスなどに届けられるようになる日も近いだろう。

4.

 矢本でバスから下車して、再び仙石線の鉄道で石巻に向った。雨が降り出して来た。

久しぶりの石巻は、駅周辺は大きな変化は感じなかったが、石森さんの漫画のアイドルたちのカラフルな像があちこちに建てられていた。彼を記念する建物も修復されていた。

 昼をどこかで食べようと思ったが、駅周辺は夜の居酒屋風な店はあるにはあるが、昼食用の店はない。それで昔よく歩いた立町商店街を歩いて、旧北上川の方に向った。

十年前もこの商店街はシャッターを閉めてしまった店が点在していて、日本各地の駅前商店街と同じ宿命をたどっていると感じた。

今回、10分ほど歩いて感じたことは、老舗の御菓子屋さんや伝統的な品を扱っている店、そして地場の銀行店舗は津波の被害から立ち直るべく改修され、復旧あるいは、前より現代化した店舗に変わっていた。その隣の幾つかの店は、シャッターが曲がったまま、板塀が崩れたまま、或いは青いシートで囲ったままの状態であった。これらの店は、松島海岸の港の正面の土産屋のように、夫々の事情があって、復旧に新たな資金と人手をかけることができないのだろう。

ラーメンやパスタを食べさせる店は、個人経営だったこともあってか、津波の被害が甚大で、再建できていない。

 時計は2時少し前だが、適当な食堂が見つからず、ひもじくなってきた。コンビニでお握りか、パン屋でパンでも買って食べようと探しながら歩いたが、牛肉屋とか羊羹店、饅頭などを売る店は少しあるのだが、コンビニもパン屋も無い。

とうとう旧北上川の岸辺まで来てしまった。

 自動販売機も見つからない。喉も乾いてきた。コンビニもパン屋も自動販売機もそれを利用する人がいて成り立つことが身にしみてわかった。

石巻駅から北上川まで、夜の飲み屋、すし屋、焼き肉屋等はあるが、旅行者が口にできるものを売る店がない。地元の人はそんな店を利用しないのだろう。

5.

 2年前東電の計画停電で、東京の都心の核となる地域を除いて、周辺の各区を時間ごとに区分けして、45時間の停電を実施したことがあった。千葉横浜の住民たちは大変難儀をさせられた。市役所や電車の駅の周辺は送電されるが、通り一つ隔てて電気が来ない。

その時の都知事の発言を突如思い出した。停電するくらいなら、電気を大量に消費する自販機をとめ、コンビニも営業時間を短縮して(24時間営業など止めて)一般家庭が停電で困ることの無いようにすべきだと提案した。

これは暴論だとして、自販機会社の配送などで働く人たちが失業するとか、コンビニが夜間営業停止すると、夜働く人達が不便になるとして反対して、沙汰やみとなった。

その時の都知事が、冷たい物を飲みたいなら、家で冷やしたものを飲めばいいし、弁当も家で作ればよいと言った。

 我々は現在あまりにも電気がもたらす「便利さ」に飼いならされてしまったようだ。

電気が来ないと、コンビニも自販機もファストフードの店も成り立たない。石巻やそれより北の津波の被害の甚大だった地区には、旅館やホテルなど宿泊施設が殆どやられてしまって、工事関係者を始め、ビジネス客や観光客は、ほとんど仙台市内のホテルに泊まるしかない。それで仙台市のビジネスホテルはいつも満室だそうだ。

 そうか、石巻に旅行者用の食堂やコンビニ、自販機が無いのは、ホテルが無いからか。

ヴォランティアや旅行者は仙台で仕入れた弁当と飲みものを持参して、被害地の復興に来る。去年来た人は、2食分或いは3食分の握り飯やパンを持って来たという。パサパサになった握り飯を食べて飢えをしのいだ、と。

 仙石線が一日も早く復旧して、旅行者が握り飯や飲み物を携帯せずに、普通のホテルに泊まれるようになる日が来ることを切望する。

      2013/07/22

 

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