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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「小学大全」購入の記

「小学大全」購入の記
 糸綴本は買いたくても手が出ない。乾隆時代の木刻の値は殆どその頃の宋本に等しい。明版の小説は、五四運動以後暴騰し:今年からこの大波は小品文にも押し寄せるのではと懸念される。清朝の禁書になると、民国革命後は宝物になり、取るに足らぬ著作でも百余元から数十元する。古書店街をちょくちょくぶらついてきたが、この種禁書に分不相応な思いをしたことはなかった。端午の節句の前、四馬路(上海の書店街)辺りを歩いていたら、無意識の内に「小学大全」を買っていた。全5冊、70銭で、この名は人から余り歓迎されぬが、清朝の禁書だ。
 この書の編纂者、尹嘉銓は(河北)博野の人:彼の父、尹会一は有名な孝子で、乾隆帝はかつて彼を褒める詩を与えたことがある。彼本人も孝子で道学者であり、官は大理寺卿稽察覚羅学(清朝の皇族子弟の学校主管)になった。そして旗本の子弟に、朱氏の「小学」を講読する様に上奏し「よろしい。その通りせよ」となった。この書は2年後「小学」6巻に注解され、「考証」と「釈文」「或問」各一巻と「後編」二巻で、一函として「大全」とした。そして進呈されてついに乾隆42年9月17日、旨を奉じ「よし。了解。その通りにせよ」となった。これは明らかに皇帝の嘉許を得たのであった。
 乾隆46年、彼は退官し郷里に帰った。だが真に所謂「その老に及び、戒しむべきは得にあり」(何かを得ようとするな)で、彼が欲したのは「名」であったが、大禍を招いてしまった。この年3月、乾隆が保定を通る際、尹嘉銓は子を使わせて上奏し、彼の父に謚(おくり名)を請うたが、朱批は「謚を与ふは国家の定典で、豈(あに)妄らに求むべけんや。
この奏文は本来なら、罪に当たるが、汝が父の為の私情と思い、暫く之を免ず。もし再度分に安んじて家居せねば、汝の罪はのがれられぬ。しっかり遵守せよ」であったが、彼はこれがそんな大問題になると予想しておらず、次いでもう一つ上奏し、「我が朝の」名臣,湯斌・范文程・李光地・顧八代・張伯行などを孔子廟に合祀することを願い出て、「臣の父
尹会一はすでに御製の詩で、孝を讃える褒嘉を蒙っており、すでに徳行の科にあり、自ずと合祀すべきですが、臣敢えてこれを請じるにあらざるなり、とした」さあ大変。これが大問題となり、3月18日の朱批に:「遂に好き勝手に狂吠(ほえる)すは、許すべからず。
これをつつしめ」となったのである。
 乾隆時代の一定した方法は、凡そ文字で罪を得た者は、身柄を拘束し、家宅捜査する物で、家産をとやかくするのではなく、蔵書や他の文章を捜査し、他に「狂吠」があれば、併せて罰するもの。乾隆の考えは一度「狂吠」したものは、一二度には留まらず、徹底して調べねばならぬからだ。尹嘉銓も当然例外たりえず、自己の逮捕と同時に、彼の博野の家宅と北京の寓居も全て捜査された。蔵書と著作は実にたくさんあったが、たいした物は無かった。だが当時はそういうふうには考えられず、大学士三宝等の再三にわたる審査尋問の後、「尹嘉銓は大逆律に照らして、凌遅死刑にするよう請旨するのが相当とされたが、幸い結果はたいへん寛大で:「尹嘉銓には著しい恩を与え、凌遅の罰は免じ、改めて即時に絞首刑と決し、家族にも恩を加え、連座を免じる」として完結した。
 これも名儒兼考子たる尹嘉銓の思いも及ばぬ事であった。
 今回の文字獄はただ一人を絞殺しただけ故、他の案件に比べれば大獄とは言えぬが、乾隆帝は、心機を費やし数編の文章を発した。この文章と奏文(いずれも「清代文字獄档」第6集)から、今回の禍の機は、彼が「分に安んじなかった」ことにあるが、大きな原因として、すでに名儒として自居しおりながら、さらに名臣として合祀を請じたこと:之は全く「許すべからざる」ことだ。清朝は朱子を尊崇していたとはいえ、「尊崇」だけであって、「そのまま学び受け入れる」ことは許さなかった。一旦そうすると、それを講じる者が出てき、学説が生まれ、門徒ができ、門戸(閥)ができ、門戸の争いが起こり、「太平盛世」に累を及ぼすことになる。況や、このような「名儒」で、官について「名臣」として自居するようになることを免れず、「妄りに尊大」になる。乾隆は清朝に「名臣」が存在することを認めなかった。彼自身が「英主」で「名君」だから、彼の統治下に奸臣はありえず、特に悪い奸臣がいなければ、特に良い名臣もおらず、一律に全て良くも悪くも無く、所謂好漢も悪漢の奴才もいないのだ。
 道学の先生を特に攻撃した所以は、当時の潮流で「聖意」でもあった。良く目にするのは、紀昀(イン)の総編纂した「四庫全書総目録提要」と自著の「閲微草堂筆記」の中にある、折々の排撃だ。これが潮流に迎合したもので、もし、彼の性格が生来親しみやすく気さくな性格だったから、道学先生の刻薄を憎んだからだ、と考えるのは誤解である。大学士三宝たちもこの潮流をよく分かっていて、尹嘉銓審査時、かつて奏して:「当該犯がこのようにでたらめで不法な点を調べ、即刻罪を定め、法を正しただけでは、公憤を晴らし、人心を納得させるには不足です。当該犯はかつて三品大員に任官した人物であり、ここは相応に例に従って奏明し、当該犯には厳罰の足ばさみの刑を加え、更に多くの刑罰を受けさせて、いかなる下心でこれを行ったのか追求し、供述を採り、具体的に奏し、もう一度正しい典刑を発して戴いてはじめて、明らかな戒めとなりましょう」とある。
その後、挟み刑をしたか否かは調べていないが、供述を見ると、彼の「醜悪な行為」を以て彼の道学を打倒する策略で、とても真に迫っているので、3件下記する。
 『尋問:尹嘉銓よ!お前は李孝女老いて嫁さずという一篇を書き、「年50を過ぎて嫁さず、我が妻李恭人はそれを聞き、賢と思い、彼女を淑女として夫を相助けんとしたが、仲女は固辞した」などを記している。この処女は堅く嫁さぬと決めているのに、なぜ妻を遣わせて彼女を妾にしようとしたのか?こんな破廉恥なことをどうして正しい経典を講じる男がやったのか? 供述:私が50歳を過ぎて未婚の李孝女を書いたのは、以前から雄県に李という女が貞節を守って、嫁がぬということを知っており、我が妻は彼女を妾にしようとしたが、私は北京にいて候補をしていたので、全く知りませんでした:後から妻が話したのではじめて知りました。それで彼女のためにこれを書いて表揚したが、彼女に会ったこともありません。だが、彼女が50を過ぎているのに、私が妾にしようとした話しは、文の中にあり、破廉恥なことで、弁解の余地はありません』
 『尋問:お前は皇帝に翎子(羽のついた冠)を請いて、それが無いと妻妾に会わす顔が無いといったそうだな。このエセ道学者は女房がこわくてしょうがないとか、皇帝は結局翎子を与えなかったが、どんな面して帰ったか?
供述:当初家にいた時、帝に会ったら翎子を戴けるようお願いしてみると妻に言いました。その頃は、礼儀もわきまえず、恩典を賜るようお願いしたのは、翎子を頂戴して帰れば、とても栄誉なことと思っていました。帝はお与えくださらず、帰宅しても大変恥ずかしく妻子の会わせる顔がありませんでした。全て私がエセ道学者で女房を怖れたのは事実です』
 『尋問:お前の妻は平素から嫉妬深く、お前の為に妾を娶って、嫉妬深くない事を示そうとしたが、もともとこの50女は嫁ごうとせぬことを知っておったのだ。要するにお前というエセ道学者は常常世を欺き、名を盗んだが、お前の妻もそれをまねした。その通りだろう:
供述:妻が私に妾を娶ろうとし、この50才の李氏という女はすでに嫁がぬことを心に決めており、私の妾には決してならぬことは、妻はよく知っており、妻はこれを利用し、嫉妬深くないという名を得んとしたのです。要するに、私が平素してきたことは、世を欺き名を盗んだゆえ、私の妻もこのまねをしたので、陛下の御洞察通りです』
 もう一つ大事なことは、彼と関係のある書物を焼いたことだ。彼の著作は実に多く、版木を「焼却」すべき書籍は86種、拓本7種で、すべて著作だ:「棄却」すべきは、書籍6種、すべて古書で彼の序跋がある。「小学大全」は「注釈編集」したにすぎぬが、「焼却」の列に入れられた。
 だが、私が買った「小学大全」は光緒22年に刻し始め、25年に刊行され、「宣統丁巳」
(実際は中華民国6年に当たる)重版された遺老本で、張錫恭が跋に云う:「世風古(いにしへ)に如かず、この書を読む者、之が転移を願う。…」また劉安濤が跋に云う:「近来、衰退益々甚だしく、異論騒がしく、顕かにこの書にもとり、一唱百和し、家国に害を蒙らせ、唐虞三代以来の先聖先賢、蒙以て正を養うとの遺意は、地を掃きて尽きた。剥(易の64卦)極まれば、必ず復すというゆえ、天地の心は現れん……」
 文字の獄で、士子は敢えて史を治めず、特に近代の事は敢えて言わなくなったが、故事にもうとくなり、乾隆帝が力を尽くして「焼却」した書は、遺老ですらもう分からなくなってしまい、130年も経ずして、新たに宝典となった。これは「剥(易の64卦)極まれば、必ず復す」ではないか?遺老たちも乾隆帝の思いもつかぬことをしたものである。
 しかし、清の康熙、雍正と乾隆の三人は特に後の二皇帝は「文芸政策」更に大きく言えば「文化統制」に大変な努力を尽くした。文字の獄は消極的な一面に過ぎず、積極的な一面は、欽定四庫全書のごとく、漢人の著作には取捨せぬものはなく、採用した書は、凡そ金・元に関する所があれば、大いに修正し、定本とした。この外、「七経」「二十四史」や「通鑑」文士の詩文、和尚の語録も放ってはおかず、鑑定しなければ、評選し、文苑中に実際に蹂躙されなかった個所はない。且つまた彼らは漢文に深く通じた異民族の君主であり、勝者の立場から征服された漢族の文化と人情を批評し、見下し、また恐惧し、過酷な論も加えたが、的確なものもあり、文字の獄はただこうしたことから出て来た辛辣な手法の一つで、その成果は満州の側から言えば、確かに有効でなかったとは言えない。
 現在、この影響はうすれてきたようで、遺老たちの「小学大全」重版はその証拠だが、愚弄されてしまった性霊も、ついにまた、呼び覚まされなかったことが見て取れる。
 近来、明人の小品文や清代の禁書で市価の高いのは貧乏な読書人の手に届かぬが、「東華録」「御批通鑑輯覧」「上諭八旗」「雍正朱批諭旨」……などは誰も見向きもせぬようで、その低廉さは一切の他の書の比ではない。もし心ある人がこれを集め、一冊一冊考察し、その中から、漢人統御、文化批評、文化利用に関する所を分類排列して一冊にまとめてくれたら、単にその策略の博大さと悪辣さが分かるだけでなく、如何にして異民族の主(あるじ)に手なずけられたかが分かるし、今に至るも遺留している奴隷根性の由来が分かる。
 もちろんこれは、性霊文学を賞玩するという趣のあることには遠く及ばぬが、之を使って、些かなりとも現在の所謂性霊を演成してきたところの歴史をしるのも十分有益である。
       7月10日

訳者雑感:
 この3件の尋問と供述をみていると、8月の薄氏裁判の内容とダブってくる点がある。
中国人の心の奥深くには、歴代の裁判の記録や演劇での立ち居振る舞いを「頭に浮かべながら」身を処するというか、あたかも自分もその演者として振舞うような性癖があるように見られる。PTTとは恐妻家の謂いだが、夫人の虚栄心を満足させるために、夫人が賄賂や翎子(社会的地位と名誉)を得んがために、悪を重ねる。必要悪として。やむなく。

薄氏の裁判で浮かびあがって来たいろいろなエピソードをつなぎ合わせると:
 薄氏は大連の星海広場周辺のプロジェクトで実徳の徐氏との関係を強めた。
 大連に石化プラントの一貫としてPVC製造が計画され、そのダウンストリームとして、窓枠(サッシ)の大規模製造工場を実徳が手掛けた。
 薄氏は妻が徐明氏などから相当な金額を受け取っていたことを認識はしていたが、それらはすべて彼女の口座にふりこまれ、彼女が使った部分が多いことがわかる。
フランスの別荘や航空券などの費用を出させた。(この辺は守屋防衛次官のケースと同じ)
そのころから谷氏の言葉を使うと、「心照不宣」口にはできない状況になってきた。
 薄氏が浮気をしたことで、夫婦仲が悪くなり、谷氏は息子瓜瓜を英国に留学させてしまう。それにかかる費用はすべて徐氏等からの賄賂を当てた。
 徐氏等の他に瓜瓜の家庭教師だった英国人Heywood氏に貿易関係での便宜を与え、相当な賄賂を受け取るようになったが、そのことでもめ事が起き、彼を重慶のホテルで毒殺した。これを調べる立場の重慶公安局長だった王立軍が、谷氏が殺害したことを薄氏に報告。
それで、ビンタを食らって終うほどしかられた。他の仲間も同じようにやられて失踪していることを知っていた王は、身の危険を感じて、成都の米国領事館に亡命申請に駆け込んだ。その報告を受けた薄氏は、途中まで王が病気か何かで留守にしているというごまかしがきかなくなって、中央政府は成都の領事館から王を連れ戻した。
 この裁判の彼の弁明で、谷は気がくるってしまった。王は全く信用ならない男で、谷に横恋慕している云々という事柄までDiscloseされた。
 谷・王両氏ともすでに刑が確定された後の証言で、三すくみの「批難合戦」の様相を呈してきたが、これは2人は薄を悪物にすることで、自分の減刑、もしくは仮釈放への措置を望んでおり、それを餌にしての(誘導)尋問に答えるような響きが感じられる。
これは裁判をする政府側の意向に沿ったものだろう。まるで、一時代前の演劇や舞台で演じられた、冤罪裁判と情欲裁判、金瓶梅のどこかの裁判シーンと変わりが無いようだ。
薄氏はやり方が間違っていたことを認めた。家族をしっかり掌握していなかったことも認めた。だが彼は罪を犯したとは認めていない。
それでも、薄氏はどんな判決がでようと、上訴して、最後まで戦うだろう。もう守るべきものは何もないのだから。自身の名が汚れたままで残らぬようにする以外は。
       2013/08/29記

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できもしないこと、と信じない事

できもしないこと、と信じない事
 中国の「愚民」――学問の無い下等人は、人が彼に関心を寄せるのを怖れた。もし、君が何の理由も無くお年は?ご意見は、兄弟は何人?家の状況はなどと訊くと、彼はきっともぞもぞ言った後、どこかへ行ってしまう。学識のある大物は彼らのこうした気質を嫌う。だがこの気質は簡単には治らない。それは彼らの経験に基づくものだから。
 誰かに関心をもたれたら、気を付けないとだまされてしまう。例:中国は改革したから、子供たちはとっくに「孟宗、竹に哭す」や「王祥、氷に臥す」(「二十四孝」の故事の句)
の教訓からは抜けだしたが、はからずもまた新たな「児童年」なるものが現れ、愛国の士はそれで「小朋友」を思いつき、筆や舌でもって、労苦をいとわず教訓を垂れる。一人は勉強を勧める時、昔は「蛍を袋に入れて読書した」とか「壁を穿って光を偸む」等した志士がいた云々:一人は愛国を説く時、昔は十数歳で包囲網を突破し、救援を求めたとか、14歳で出陣して敵を倒した奇童がいた云々。こうした故事は閑談として聞くのは悪くはないが、もし誰かが信じて、その通りにやろうとなると、乳臭いドンキホーテとなる。
毎日ひと袋で4号活字を読めるだけの蛍を捉えるのは容易なことではない。これは容易なことではないだけでなく、壁を穿ったら、大変な騒ぎになり、どこであろうと、怒鳴りこまれて、両親はお詫びに参上してすぐ修理するはめになる。
 救援を求めたり、敵を倒すとなると、もっと大ごとで、外国では30-40歳のすること。
彼らの児童は食べ、遊び、字を覚え、ごく普通のことと重要なことを学ぶのに重点を置く。
中国の児童が特に褒められるのは、もちろんとても良いことだが、一方で出て来る課題はこの為、常に難題ばかりで、今もなお飛剣(剣を空に飛ばす術)の如しで、武当山に上って、師を尋ね、道を学んでからでないと、まったく手が出ないのである。20世紀になって古人の空想した潜水艦や飛行機は実際に成功したが「龍文鞭影」や「幼学瓊林」(いずれも児童向けの故事出典の本)に出て来る模範的故事を学ぶのは難しい。教えている人も信じているとは限らぬと思う。
 だから聞いている人も信じない。千余年の間に、剣の仙人や侠客の話しを聞いてきたが、去年武当山に上ったのはたった3人で、全人口の五百兆分の一(四億人x千余年?)ということが分かる。昔は多かったかもしれぬが、今では経験もあり、余り信じないし、その通りやる人も減った。但しこれは私個人の推測にすぎぬが。
 無責任な、その通りにはできもしない教訓が多いと、信じる人は減り:利己的で人に害を与える教訓が多くなれば、信用する人は減る。「信じない」ことは「愚民」が害を避けるための塹壕で、彼らをバラバラの砂にさせる毒だ。だがこうした気質は単に「愚民」だけでなく、説教する士大夫と雖も、自分と他人を信じている人は何人もいない。例をあげれば、孔子を尊敬しながら、その一方で活仏を拝むのは、丁度、彼の財産をいろいろな株に投資し、多くの銀行に分散して預けるのと同じで、実はそのいずれも信じていないのだ。
      7月1日
訳者雑感:
 中国の物語は奇想天外、できもしないことを大げさに取り上げ、まるで本当にできたかのようにして、人を驚かし、惹きつける。それを読んだり、芝居で観たりする愚民達も、経験を積んでいるから、心から信じる人はいない。それでも、事実は小説より奇なりで、
重慶のトップだった薄氏の裁判をみていると、彼の収賄汚職や権力乱用を証明する為に登場させられた、彼の妻谷氏(英国人毒殺で死刑を無期懲役に猶予)や、彼の右腕だった王氏の証言などの「VTR」を見ると、奇想天外なことが起こるものだと、空いた口を閉じられない。
           2013/08/25記

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「木版画の手引き」まえがき

「木版画の手引き」まえがき
 中国の木版画は唐代から明末まで、大変素晴らしい歴史があった。ただ現在の新木版画はこの歴史と関係が無い。新木版画は欧州の創作木版の影響を受けた。創作木版の紹介は、朝花社に始まり、出版した「芸苑朝華」4冊は、選択と印刷は決して精巧とは言えないし、有名な芸術家は歯牙にもかけぬが、青年学生の注目を浴びた。1931年夏に、上海で遂に中国初の木版講習会が開かれた。それが広まり、木鈴社が<木鈴木版画集>を2冊出した。また野穂社が「木版画」を出した。また無名木版社は「木版集」を出した。だが、木鈴社はとうになくなり、後の2社も継続とか発展したとかの消息は無い。以前上海にはM.K.木版研究社があり、歴史の長い小団体で、何度か作品展を開き、「木版画選集」を出そうとしたが、今夏、私怨者の密告に遭い、社員の多くは逮捕放逐され、版木も工部局に没収された。(M.K.とは木刻の頭文字:工部局とは租界の外国の統治機関:出版社)
 私の知る限り、今木版研究団体は一つも無いようだ。但し、木版を研究する人はいる。羅清楨は「清楨木版集」を2輯出したし:如又村は最近「廖坤玉故事」の連環画を出した。これらは全て特記に値する。
 また作者の暦来の努力と作品が日進月歩したため、只単に中国の読者の共感を得ているのみならず、徐々に世界にもその第一歩を踏み出した。まだ確固たるものにはなっていないが、要するに踏み出そうとしているが、同時に停滞の危機にも直面している。もし鼓舞激励と切磋琢磨が無いと、自己満足に陥ってしまう恐れがある。
 本集は木版画の路程碑となることを願い、去年から流布すべき作品と思われる物を、陸続と編集印刷し、読者の総合的な鑑賞と、作者の参考に供しようとしている。但し、当然ながら蒐集の及ぶ範囲に限りあり、中国の優秀作が全てここにある訳ではない。
 他の出版者は今まさに欧米の新作を紹介しており、同時に中国の古い木版を復印しており、これらはすべて新木版画の羽翼である。外国の良い規範を取り入れ、発揮すれば、我々の作品はさらに豊かになる路が増えるだろう:中国の遺産を取り入れ、新機軸と融合させれば、将来の作品に新しい道が開けるだろう。作者がみな不断に奮発し、本集で一歩一歩前進できれば、上述したことは実際問題、望外のことではないことが分かるだろう。
      1934年6月中 鉄木芸術社記。
訳者雑感:
 魯迅は幼いころから、小説の挿絵に大変興味を持っていた。小説の内容とそれらの挿絵の登場人物の姿・着物・持ち物・小道具など丹念に観察して書き写していたという。
原文は「木刻」で、日本語でもそのままで良いかと思うが、一般に使う「木版画」とした。
それにしても、1934年以前の上海の租界で、木版画を出版する団体が、私怨者の密告によるとはいえ、社員が逮捕放逐され、版木も工部局に没収されてしまった、ということは、内容が左翼的であったのか。魯迅が紹介した「ケーテ・コルヴィッツ」の版画などもその系統をひくものであった。    2013/08/23記

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 隔膜 (隔ての膜)

 隔膜 (隔ての膜)
 清朝初年の文字の獄は、清末になってやっと改めて提起された。最も精力的だったのは「南社」の数名で、被害者の為に遺文を集め印刷した:又留学生の一部は競って日本から文献証拠を持ち運んだ。孟森の「心史叢刊」が出て、我々は比較的詳細な状況を始めて知った。これまで多くの意見は、文字の禍というのは、清朝を罵り嘲笑したから起こったと思っていた。実はそれだけではないのだ。
 この1-2年、故宮博物院の(内部から盗み売却するなど:出版社)話しは芳しくないが、「清代文字獄案件集」という良い本を出し、去年すでに8刷りとなった。その案件は実にいろいろなものがあり、最も興趣あるのは、乾隆48年2月の「馮起炎、易詩二経を注解し献呈する」だ。
馮起炎は山西臨汾県の生員(科挙の一次合格者)で、乾隆の泰陵(雍正帝の陵)参詣を聞き、その著作を懐にして、路上を徘徊し、献呈せんとしたが、はからずも「形跡不審」で逮捕された。その著作は「易」を以て「詩」を解し、とするが、実はでまかせで、ここには抄録しないが、結末に「自伝」もどきの長文があり、これがとても風変わりである。
『さて臣の参上致しましたは、何か請願するとか、求めるということではありません。只一つ未決の事があり、陛下にその由縁を叙したく。臣、名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣張三の姨の家に行き、一人の娘をみそめ、娶りたいと考えましたが、財力及ばず、果たせませんでした』(この後、別の娘を云々と続き、要するに乾隆帝に仲人を頼みたいという内容の手紙だが、ここでは翻訳を省略する)

この文章にどれ程の悪意があるというのだろうか?その頃流行していた才子佳人の小説に夢中になり、なんとかそれで名を成そうとし、天子に媒酌してもらって、いとこの女を娶ろうとしたにすぎぬ。はからずも、事態は結局よくない方に展開した。直隷総督袁守侗が上奏しようとした罪名は「その上程した文書を検閲したら、大胆にも聖主の御前にて、経書をデタラメに講じようとし、その末尾の措辞に至っては、狂妄そのものである。その罪状を諮るに、儀仗に衝突するよりも重いと判定します。馮起炎への罰として、黒竜江等へ流し、軍隊の奴隷にすべく、本庁からの返あり次第、慣例に照らして、刺青をした後、本部に送り届けたく」と。この才子は多分、一人(山海)関を出て、奴隷になっただろう。
この外の案件は、これほどの風雅は無いが、反逆的でないものも結構少なくない。ある者は無鉄砲というだけ:或いは気違い:或いは田舎の迂遠な儒者で、それが本当に忌に触れることすら知らず:或いは田舎の愚民で、本当に皇室に親愛な気持を抱いていただけ。
だが彼らの運命は大抵非常に悲惨で、凌遅(手足を切断し、ゆっくりなぶり殺す)でなければ、一族皆殺しか、その場で首切り或いは「収監して判決待ち」だが、生きて出獄することは無かった。
凡そこれらの事は、粗略に目を通しただけで、清朝の凶暴さと死者の憐れさを感じさせる。だが、もう少し考えると、ことはそんな簡単なものじゃないことがわかる。
こうした惨案の由来はすべて「隔膜」によるためだ。
 満州人自身、厳格に主と奴隷を分けようとし、大臣が上奏する時必ず「奴才」と自称させたが、漢人に対しては、「臣」と称すれば良いとした。これはなにも「炎黄帝の子孫」だから特に優遇し、嘉名を賜ったというのではない。実は、満州人の「奴才」と区別する所以(ゆえん)は、その地位は「奴才」より数等下とするためだ。奴隷はただ命ぜられた通り行うことができるだけで、発言は許されず、議論は固よりダメ。妄に自ら持ち上げるのもいけない。これ即ち「思ったことをその位の範囲外に出してはならぬ」ということだ。例えば:ご主人様、お召しものの角が少しほころびています。このままでは破れますから、繕いましょう、と進言する。彼は自分では忠を尽くしたと思うが、実は罪を犯したことになり、それはそういう類のことを発言するのを許した者がおり、誰でもそれを言えるわけではないから、妄りに言うと「余計なことをして」で当然罪を得る。自分ではそれを「忠を尽くしたのに、咎めを獲た」と考えるのは自分を糊塗しているにすぎない。
但し、清朝建国の君は、大変聡明で、彼らはこうした主意を定めながら、口ではその通りには言わず、中国の古訓を使い:「民を愛すは子の如し」とか「一視同仁」と言った。
一部の大臣と士大夫はこの奥義を理解していたが、信じることはなかった。だが、単純で愚かな人達は真に受けて、「陛下」は自分の親と思い、熱心に甘えてご機嫌とりに励んだ。
だが、彼はどうしてこの被征服者を自分の子にするだろうか?それで殺してしまった。暫くして子供たちは驚いてもう何も言わなくなり、計画はうまく行った。
光緒帝の時、康有為たちが建白書を提出し始めて「祖宗の成法」が破られた。しかしこの奥義は今なお誰も説明しきれないようだ。
 施蟄存氏が「文芸風景」の創刊号に、「忠なのに咎を獲た」者の為に大いに不満を述べているが、「隔膜」からまだ免れていないためだ。これは「顔氏家訓」や「荘子」「文選」等には無いことである。     6月10日

訳者雑感:
 最近の中国のテレビでは清朝の故事を放映するのが減ってきているようだ。以前は現在の所謂「抗日映画」よりずっと多かった。丁度日本の時代劇のように有名な将軍や武将が登場する連続映画で、勧善懲悪あり、才子佳人の恋物語ありだった。
 その中で、「奴才」と自称するのが満州人の首相大臣だった。漢族の大臣は「臣」だった。
なぜ満州人が「奴才」(奴隷と同義語)というのか、余り深刻に考えたことは無かった。
本文を読んではじめて、これは満州人と漢人を数等の距離で疎隔するための「方法」「隔膜」だと知った。
モンゴル人が元を建てた時、やはりモンゴル人が一番上にいて、その下に色目人と言われた西域人を置き、次が最初に降った華北の漢人、一番下が南人で、こうした「隔膜」を設けて漢人を支配した。だが百年もたなかった。満州人はそれ以上にうまく運営したから三百年もった。アヘン戦争と太平天国で満州人だけではどうにも行かなくなって、漢人の首相・大臣を多く登用せねばやってゆけなくなった。それだけ満州人に有能な政治家がいなくなったのは、「奴才」と卑下ばかりさせられてきたからか。満州八旗といわれた旗下の武士達も経済的に困窮して、優秀な子孫を養成できなくなってきていた。それが辛亥革命への導火線となった。
     2013/08/22記

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取り入れ主義

取り入れ主義
 中国は最近まで所謂「閉鎖主義」で、自から出かけず、他者が来るのも許さなかった。大砲で大門を破られて、一連の困難に直面し、現在まで、何でもすべて「差し上げ主義」となった。他の事はしばらく置き、単に学芸上の物も、近頃まず骨董品をひと揃いパリの博覧会に送ったが、「その後どうなったか知らず」じまい:また数名の「大師」たちが数幅の古画と新画をひっさげて、欧州各国で展示し「国光発揚」と称した。まもなく梅蘭芳博士をソ連に送り、「象徴主義」を進める由で、その後、順に欧州にも伝道するという。
私はここで梅博士の演技と象徴主義との関係を論じようとは思わぬが、要するに生きている人間が骨董に代わったのだから、敢えて言うと、顕かに進歩した。
 だが、我々の誰も「礼は往来を尚す」の礼にのっとり、「取り入れよ」と言う者は無い。
 勿論、只送りだす事ができるのも悪くは無く、一に豊富さ、二に度量の大きさを示せる訳だ。ニーチェは自らを太陽と誇ったが、光熱は無窮だが、只与えるだけで取ろうとしなかった。しかるに、やはりニーチェは太陽ではないから狂ってしまった。中国もそうではない。ある人は地下の石炭を掘れば、世界の数百年間の需要を満たすことができるという。だが、数百年後は?数百年後、我々は当然霊魂と化し、天国か地獄に行くだろうが、我々の子孫は存在しているから、彼らに些かの品を残さねばならない。さもないと佳節大典の際、彼らは何も出せなくなり、深々と頭を下げて慶賀し、残り物や冷めた物を賞品として頂戴するしかない。
 この賞品は「(放り投げて)くれる」ものと誤解してはならない、これは「下賜」であって、体裁よく言えば「贈って」くれるもので、私は今その実例を挙げようとは思わない。
(出版社注:これは米国からの五千万ドルの「綿麦借款」を指している、と)
 私は「送り出す」についてこれ以上なにも言いたくない。さもないと「モダ―ン」ではなくなってしまうから。私はただもう少ししぶちんになることを鼓吹したい。送るだけでなく、「取り入れる」ようにしなければならない。即ち「取り入れ主義」である。
 だが、我々は「送られた」ものにおどかされてきた。まず英国のアヘン、ドイツの廃物の銃砲、後にはフランスの香粉、アメリカの映画、日本の「百%国産品」のマーク付きの各種小物。それで、めざめた青年達すら外国品に恐怖を感じた。だがこれは正に「送られて来た」もの故で、「取り入れた」ためではないからだ。
だから我々は頭を使って、自分の目で見て、取り入れるのだ!
 たとえば、我々の貧しい青年が、先祖の陰徳のお陰で(しばらくこう言わせてもらう)大きな邸宅を得、彼がだましとったとか、奪ったとか、合法的に継承とか、入り婿になったとかは問わない。それで、どうするか?私はまず何はともあれ「取り入れよ」と言いたい。だが、この邸宅の元の主に反対し、彼の物はけがれていると考えで、徘徊して門の中に入ろうとせぬのは、ロクデナシだ:勃然大いに怒って、火を付けて焼き尽くし、自分の潔白を保とうとするのは大バカ者だ。しかし、元々この邸宅の主を羨んでいて、今回全てを接収し、欣然とこっそり寝室に入りこみ、残っていたアヘンを吸うのは勿論クズだ。
「取り入れ主義」というのはまったくそうではない。
 彼は占有し、選び出すのだ。フカヒレを見つけても、すぐ路上に放り投げて「平民化」を顕示しようなどとしなくて良い。栄養になるなら、友人と一緒に大根白菜と同じように食べればよい。それを使って客をもてなそうなどとしないこと:アヘンを見つけても、大衆の前で、これ見よがしに便所に抛るなどして、革命を徹底しているような格好はせず、薬局に送り、治療に供すればよいが、「在庫販売、売り切れ御免」などのまやかしはせぬこと。キセルやアヘン用のランプは型式はインド・ペルシャ・アラブの喫煙用具と異なって、確かに一種の国粋といえるし、それを担いで世界周遊すれば、きっと見物客はおり、一部は博物館に送り、それ以外はすべて破壊処分してよいと思う。
 また一群の妾たちは、彼女らを解放し自由に散じさせるが良い。そうしないと「取り入れ主義」は危機に陥ることを免れぬと思う。
 要するに、我々は「取り入れるべしで、我々が必要なもの、或いは使うものは残しておくべきで、それ以外は取り壊して無くすのである。そうすれば、主人は新しい主人となり、家は新しい家となる。しかし、まずこの人は沈着、勇猛で、分別があり、私利私欲の無い人でなければいけない。取り入れることが無ければ、人は自分から新しい人間にはなれず、取り入れるものが無ければ、文芸も自分から新しい文芸にはなれない。
       6月4日

訳者雑感:中国は何でも揃っており、外国から取り入れるものは何もない、とうぬぼれて来た。イギリスの使節が貿易を求めにやってきても、何も要らないと追い返した。それでも彼らが茶や絹を欲しいというと、それなら銀を持ってくれば、与えようという。
 銀が大量に中国に貯まって、銀の交換価値が大幅に下落した。幕末の頃、日本で1:4
の金銀比価が、中国では1:15位で、日本に銀を持ちこみ、大量の金が流出した。こうした金銀為替レートの大変動が、清朝と江戸徳川幕府の旗本たちを困窮させ、庶民も苦しまされた。こうした経済の基盤変化が明治維新と戊戌の政変などにつながったが、日本は西洋からおびただしい量の「文明の機器と学問文化」を「取り入れた」が、中国の方はというと、魯迅の指摘するように、アヘンも妾もそのまま温存する「旧態依然」の旧主人たちが政治経済を支配し、日本のように外国から「取り入れなかった」魯迅は1934年に書いた本文で、「取り入れ主義」を提唱せねばならぬ自分を、どれほど歯がゆく思ったことか。
        2013/08/20記

 


 

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名は体を表す

名は体を表す――靖国神社は招魂社に戻すべし。
1.
 日本語では米ソなどがドイツ軍に勝利した日を「対独勝利記念日」としていたが、英語の辞書にはV-G というのは無く、V-Dayが1946年12月31日とあり、V-E Dayが
Victory in Europe Dayとして1945年5月8日とあり、V-J-Dayが米国では1945年8月14日又は9月2日、英国では同8月15日とある。以上は英語圏としての両国ですら差があることを示している。ちなみにV-JとはVictory over Japanの由。
2.
 アメリカではベトナム戦争というが、ベトナムではアメリカ戦争という。
英国の歴史には聞こえの悪いアヘン戦争という表記が無い。アメリカではアヘン戦争と呼ぶ。イギリスがアメリカ植民地などからの収入を失って、起こした不名誉な戦争として。
中国はKorea Warを「抗米援朝戦争」と呼んできたが、今年から「朝鮮戦争」と改めた。
これだと北朝鮮が仕掛けた戦争のように聞こえる。北朝鮮への距離を置いた表現だ。
3.
 中国共産党は、主に国民党軍と戦ってきたが、日本に戦勝した時点で中国を支配していたのは蒋介石の国民党政府であって、彼らは当初V-J Dayを祝っていた。内戦で毛沢東の共産党軍に負けて台湾に逃げてから、共産党政府は、米国との戦いの為に、日本の国民の支持を取り付けようとして、戦争を仕掛けた日本軍部と一般の日本国民を明確に分けて、
日本国民はファシズムの犠牲者である、として何とか日米の分断を図ろうとした。
4.
 1960-70年代の日本は、反米、反ベトナム戦争を唱えて、アイゼンハウアーの訪日を阻止したほどの反米気運が盛り上がり、岸首相も退陣に追い込まれた。
そして、1972年に田中首相が、アメリカに先んじて周恩来と国交回復し、それをアメリカはけしからんとして「ロッキード事件」をリークして田中を退陣させた、という説も流された。(流したのはアメリカ筋とか?)
5.
 最近の世論調査では、日中両国とも、相手側を「嫌いだ」とする割合が9割を超えた。
一方では日本の安部内閣の支持率が7割くらいあり、その政権の閣僚と多くの議員が靖国神社に参拝するのに対して、どう対応してゆくのが得策か、と考え始めた中国人もいる。
「これは日本人としての神道信仰の情緒的なものもあり、A級戦犯のことばかり批難しても
埒があかぬから、別の方法を考えねば…」と。
6.
 ロンドンのセントポール寺院にはおびただしい数の戦争で死んだ「英雄」「将軍」たちの墓碑と髑髏があり、多くの人がお参りとか(観光)見学に来ている。
碑文をよくみれば、アジアアフリカ植民地獲得戦争や、仏独西などとの戦争での戦死者だ。
彼らは、結局勝者であって、敗者は祭られていない。
 京都の本願寺の大谷廟には日清日露と第2次大戦の最初のころ(勝っていた)の戦死者の墓碑が沢山残っている。オベリスクのような尖塔形とか。青山などにも多くある。
7.
アメリカのメモリアルデーも初めのころは、南北戦争で戦死した南軍の戦死者は対象に
なっていなかった。彼らの戦死者は北軍の戦死者とは別の所で祭られていた。
その後、第一次世界大戦で戦死した南部出身者たちが一緒に祭られるようになって、
全米挙げての記念日となった
靖国神社には、戊辰戦争で戦死した官軍兵士が招魂されていたが、幕府軍の死者はもちろん、西南の役で死んだ西郷たちは招魂されていない。戦場で死んでいない退役軍人も招魂
されていない。本来国の為に戦死した兵の魂を招いて、祭るための神社が招魂社であって、
全国にそれがある。それを東京に集めて、国を靖らかに保つことができなかった「敗北した戦争指導者たち」の魂を招く事は、大きな矛盾がある。名は体を表す。日本を亡国の淵に追いやった戦争指導者の魂は別の場所で、たとえば、別の墓地や寺院で、その人を祭りたいという人達が祭ればよいと思う。上野の西郷さんのように。
     2013/08/19記

 

 

 

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V-G Day & V-J Day

V-G Day & V-J Day
1.
8月16日、香港のPhoenix TVの鄭浩氏等が、日本が8月15日を戦没者追悼記念日として盛大な行事をするのに、中国がこの日に何もしないのはおかしいとコメントしていた。
韓国や北朝鮮が「光復」(植民地から解放され、独立)として記念するのに、中国が対日戦争に、8年間、降参せずに抵抗したことが、最終的に米ソなどの参戦で日本打倒に繋がったのだ、との趣旨である。もし、フランスがドイツに降参したように、蒋介石が日本に降参してしまっていたら、日本は東南アジアなどへ戦線拡大しないで、アメリカやイギリスとの戦争に踏み込まなかった可能性があったとの意見だ。(米国が石油禁輸などしなければ、
との前提付きだが、真珠湾攻撃に追い込まれることにはならなかったのでは…)
2.
 1945年の8月15日に日本が降伏したことを一番喜んだのは米国だろう。中国は日本が降伏して、蒋介石と毛沢東の両勢力が内戦に突入したから、V-J Dayなどを喜べるような状態にはなかったのだと思う。それで台湾は辛亥革命後の中華民国の建国記念日10月10日を祝うし、北京では中華人民共和国の建国記念日10月1日を盛大に祝う。
香港のTV コメンテイタ―は、8.15に何もしないのは、政府の怠慢である、と主張する。
日本が8.15を全国挙げて、先の戦争で中国人及びアジア諸国の人を殺した軍人たちの死を追悼するのに対し中国がこの日に何もしないのは「邪を認める」ことになるという。
 しかし現実には、外務省が日本大使を呼んで抗議するくらいで、中国としては対日勝利をこれまで国民的に祝う式典をしたことは無い。
3.
 アメリカやソ連(ロシア)などが V-G Dayを国民的に祝うのに対して、占領され、戦争に強制的に協力させられたフランスやポーランドはどうであろうか?彼らは戦時下、大変屈辱的な立場に置かれながら、生き延びて来た。ドイツが負けてほっとしただろうが、ドイツに勝ったという気持ちにはなれなかっただろう。
 中国でも、満州初め、華北、華南地区で日本占領下、フランスやポーランドと同じように日本に支配され、強制的に協力させられてきたから、似たような状況だったろう。
対独協力政府、対日協力政府の下で暮らしてきた人々には、屈折した感情があっただろう。
4.
 ドイツはナチスを徹底的に否定し、周辺諸国に「明確なお詫び」をして、今やフランスに、ドイツの軍隊が相互乗り入れの形で、駐留するまでになった。
 一方の日本は、68年経っても、「明確なお詫び」をしていないとして、近隣国からクレームされている。日本はドイツのように徹底的に戦前の体制を否定していないと見られている。国民の多くは平和憲法の継続を望んでいるが、今の政府はそれを変えようとしている。
「不戦」という言葉は消えてしまった。これは、ことと次第によっては、一戦を辞さないということを意味する、ととらえられても構わない、ということだ。
 首相が毎年交替してしまうのは、国力低下も甚だしく、望まないことだが、「戦争放棄」を否定しようとする首相が、4年もやるとなると、本当に「平和憲法」を変えてしまいかねないことを怖れる。
 後藤田さんのような人が、体をはってでも自衛隊の海外派遣を阻止したから、これまで戦争に行かずに済んだが、一度戦争に参加してしまったら、軍というのはもう止められないことになる。戦争をするために存在しているのだから。
ことと次第によっては戦争で、相手をねじ伏せるほかない、ということになるのだろう。
         2013/08/17記

 

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「絵を見て字を覚える」

 人は中年から晩年になっても、子供と触れ合うと、久しく忘れていた子供の世界の領域に踏む込み、お月さんはなぜ人と一緒に歩くのかとか、星はどういうふうに天空にはめ込まれているのかと考える。だが子供は自分の世界で、水中の魚のように自在に泳ぎ、その所以を忘れてしまうが、成人は大人が泳ぐ時と同じように、水のすべすべした清涼感を覚えるが、疲れて辛くなって、どうしても陸に上がらなければならなくなる。
 月と星については、どんなにうまく説明したとしても、生活がよほど困窮していない限り、やはり所謂教育を施し、まずは字を覚えさせるに及ばない。上海には各国の人が住み、各国の書店があり、児童用の図書もある。だが我々は中国人で中国の本を読みたいなら、中国の文字を知らねばだめだ。この様な本もあり、紙も絵も色も装丁も他国には遠く及ばぬが、あることはある。市場に行き、子供に民国21年11月発行の「国難後第6版」の「絵を見て字を覚える」を買った。
 まず色はとても悪いが、それは今問わない。絵も生彩に欠けるが、これもさて置くとする。発行所は上海とあるが、奇妙なのは、絵に蝋燭やランプはあるが電灯は無い:礼装靴や三鑲雲頭靴(刺繍のついた靴)はあるが皮靴は無い。跪づいて銃を打ち、一本足で雑巾がけし、弓を射るのに、両腕は水平ではないから、的に当てることはできないし、もっとひどいのは、吊り竿、風車、機織機の類さえも実物とだいぶ違う。
 私はちょっとため息が出、幼いころに見た「日用雑字」を思い出した。これは婦女婢僕の教育用で、彼らが記帳できるようにさせるための本で、物の名前の種類も多くはないし、絵も粗劣だが、とても生き生きとしてよく似ている。なぜだろう?絵を画いた人がそれをよく知っており、「大根」や鶏は彼らの記憶には曖昧な点は無く、画くと当然実物そっくりのものだからだ。今我々は「絵を見て字を覚える」に画かれた暮らしの――洗顔、食事、読書――状況を見れば、これは作者の意中の読者向けで、作者自身の暮らしぶり、租界で家を借り、一家で住んでいて、金持ちでも貧乏でもないが、一日中懸命に働いてやっと暮らしており、子は学校に行かねばならず、自分も長衫(足もとまである長い服)を着なければならず、心神を使い果たし、暮らしを支えねばならず、参考書を買う余裕、実物を観察し、本領を習得する余力などどこにもない。なんと、その本の末葉に一行「戊申年七月初版」とあり、年表を見ると、清の光緒34年即ち1908年で一昨年に新版印刷と雖も、本は27年前のもので、すでに古籍で、気息奄奄、正に奇とするに足りぬ。
子は敬服すべきもので、彼は星や月以上の境界に思いを寄せ、地下の状況も考えたり、花卉の用途も考え、昆虫の言葉にまで思い到る:彼は天空に飛びあがろうとし、蟻の穴に潜入しようと思う……それゆえ、児童に与える本は本当に慎重でなければならぬから、画くのも本当に大変である。「絵を見て字を覚える」のような2冊の本は、天文、地理、人事、物ごと等、無い者は無い。だが、上は宇宙の大、下はハエの微小まで、すべて本当に知識のある画家でなければ、任に堪えない。
 しかし、我々は自分がかつて子供だった頃のことを忘れ、彼らを間抜けと思い、大して注意しない。たとえ時代の趨勢だとしても、少しは所謂教育を施さねば、またしても只、間抜けに与えるだけで満足し、そうなると彼らは大人になると本当の間抜けとなってしまって、我々と同じことになる。
 だが、我々この間抜け度はさらにひどいもので、子供を愚弄している。この2-3年の出版界で「小学生」「小さい友達」などの刊行物が特に増えたことが分かる。中国には突然こんなにも多くの「児童文学者」が現れたのか?私は:決してそうではないと思う。
           5月30日

訳者雑感:1934年当時の上海出版界では児童向けの本が顕著に増えた。それは中国の親たちが児童向けに本を買い与えることができるようになったことを意味する。たとえ粗悪で絵のおかしなものでも、無よりはましかもしれない。日本も色々な統計資料では昭和10年のころが一番盛んな時代だといわれてきた。丁度1935年ころだ。
魯迅がこうした児童向けの本に対する強い願望は、しっかりとした観察眼を持った画家によって、正しい姿を伝えることである。「いいころかげん」中国語でいう馬馬虎虎の絵や知識で、子供は間抜けだから適当でいい、などという中国人の悪い癖を徹底的に直さないと彼らが大人になっても又我々と同じ轍を踏むことになると警告している。
 21世紀の中国各都市の書店の3分の1程はこうした児童向けのカラフルな絵本などで一杯である。1934年当時のように、児童に本を買い与える親が増えて来た証である。
問題は内容である。昔の版の影印版などのパクリでコストを下げ安売りしているケースが多々見られる。魯迅の警告したように、しっかりした観察力を持った画家を育成できるような「仕組み」が欠けているようで、出版業は「売上」にしか目を向けない。嗚呼!
      2013/08/15記


 

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儒術

儒術
 元遺山(元好問)は金が元に替る時代の文人で、遺老として野史を修そうと、古い文章を保存した人で、明清以来、一部の人からたいへん敬愛された。だが彼の生涯には疑問があり、それは叛将の崔立を徳者と褒めたことで、彼が本当に関わったかどうかと、それが彼の筆で書かれたかどうかについてである。
 金の元興元年(1232年)、蒙古兵が洛陽を包囲し:翌年、安平都尉京城西面元帥、崔立が二丞相を殺し、自ら鄭王となって元に降った。彼は悪名が残るのを怖れて、側近に旨を下して碑を建てて功徳を讃えることを議させた。その結果、文臣の間に大変な恐慌が生じた。それは一生の名誉と節操に関係するので、各人にとっては大変重大な問題となり、当時の状況は「金史」「王若虚伝」に下記の通り――
  『元興元年、哀宗帰徳に去る。翌年春、崔立叛し、群小附和し、立に功徳碑の建立を請ず。翟奕、尚書相令を以て若虚を召して文を為す。時、奕輩は勢いを恃み、威を為す。些かでも逆らう者あれば、讒言し、貶めて、これを屠滅した。若虚は、自分はきっと死ぬだろうと、ひそかに左右員外郎の元好問に謂いて「今我を召して碑を作れ、従わねば則死、作れば則名誉と節操は地に落ちる故、死す方がよいだろう。私としては理を以て諭してはみるが」……奕輩は(彼の心を)奪えず、つぎに太学生の劉祁麻革輩を相に召して、好問、張信之は碑を建てることについて「衆議は二人に委嘱することに決めており、鄭王にはすでに建白している!二人は辞退することはできない」と諭した。祁等は固辞して去った。
 数日後、督促が止まず、祁は草案を作り、好問に提出した。好問は意に満たぬため、自ら之を為し、それを若虚に示し、共に数文字を刪定したが、そのことを直叙するだけとした。その後、兵が入城し、碑を建てることは果たさなかった』
 碑を建てることは「果たさなかった」が、当時すでに「名節」問題は生じており、元好問作とか劉祁作と言われ、文献の証拠は清の凌廷堪の編輯した「元遺山先生年譜」にあるから、今は引用しない。その推敲勘案を経て前出の「王若虚伝」に、前半は元好問「内翰王墓表」に拠り、後半はすべて劉祁自作の「帰潜志」をそのまま採用しており、上におもねったという誹謗は瞞着された。凌氏はこれを弁護して言う:「当時の立碑の撰文は、崔立の禍を畏れたにすぎず、文辞の巧みさを採ったのではないから、すでに京叔の草稿があるのだから、立の要請を満たすに十分で、なぜ之を為す必要などあろうか?」と。そうならば劉祁は、王若虚のように死を覚悟しなかったのは固より大きなキズだが、更に責任逃れをして「責めを塞ぐ」道具になったのは、まったくの不運と言える。
 然るに、元遺山の生涯にはもう一つ大事件があり、「元史」「張徳輝伝」には――
 『世祖、東宮に在りしとき、…中国の人材を探し求め、徳輝は魏璠と元好問、李冶等二十余名を推挙した。壬子の年、徳輝は元好問とともに拝謁し、世祖に儒教の大宗師となるよう請じ、世祖は悦んで之を受けた。それで:歴朝は勅旨で儒戸の兵賦を免じてきましたので、これを遵行されますように、と上奏したところ直ちに受け入れられた。
 拓跋魏の後裔(元好問のこと)と徳輝は蒙古の小酋長に「漢児」の「儒教大宗師」となるように請じた。今日からみると些か滑稽を免れぬが、当時は誰も問題にしなかったようだ。蓋し、兵賦を免除された「嬬戸」は均しく利益に預かったし、世論は士に握られていたから、利益に預かれるうえに、すでに「儒教」を献呈していたから、もうそれに口を出そうとも考えなかった。
 それから士大夫は段々出世したが、最終的には実用に向かず、また徐々に棄てられた。仕官の途は日に日に塞がれたが、南北間の士の争いは日に日に激しくなった。余闕の「青陽先生文集」巻4「楊君顕民詩集序」に云う――
 『我国は金宋時にはじめて、天下の人は才さえあれば之を用い、専ら何かを主とすることは無かったので、儒者を用いるのが多かった。元になってから、吏を使い始め、執政大臣にも吏(士農工商の下の身分)から抜てきした、……而して中原の士で使われる者は少なくなっていった。況や南方の地は遠く、士の多くは、自ら京師に上ることができず、又その中で才を抱く者は往々、吏となるのをいさぎよしとせず、用いられる者は更に減った。それが久しくなると、南北の士は亦、自ら境界をつくって互いにそしりあい、甚だしきは晋の秦に敵対する如く、同じ中国にはおられぬとして、南方の士は益々減っていった』
 しかし、南方では士人は実は冷落してしまったわけではない。同書「范立中の襄陽に赴くを送る詩序」に云う――
 『宋高宗南遷し、合淝は辺地となり、守臣も多くは武臣がなった。……故に、民の豪傑は、皆行きて将校となろうとし、軍巧を積んだ者の多くは地方軍司令官となった。郡中の衣冠の族はただ、范氏、商氏、葛氏三家のみ。……元の皇帝が命を受け、兵革を収め……諸武臣の子弟は、その能力を使う場所が無くなり、多くは伏し隠れて世に出なくなった。春秋の朔日に郡の大守が(儒教の)学校で行事を催す時、(儒者の)深衣を着、烏角巾を戴き、(儀式用の)籩豆(へんとう)罍爵(らいしゃく)を執り唱賛引導する者は皆三家の子孫で、その故にその材は皆成就し、学校の教官は累々といるし、……天道は満盈を忌み憎むと雖も、儒者の恩沢は深遠なること、古来より然る通りなり』
 これは「中国の人材」たちが儒教を献じ、経典を売ってこのかた、「儒家」の享受してきた佳果である。王者の師とはなれなかったし、吏に次ぐこと数等と雖も、畢竟は将軍達や平民より一等勝り、「唱賛引導」するのは「伏して隠れる」者の望むべくもないところだ。
 中華民国23年5月20日及び翌日、上海ラジオ局で、馮明権氏が一部の奇書:「抱経堂勉学家訓」の話しをした(「大美晩報」に依る)。これは聞いたことの無い本だったが、下に「顔子推」の署があり、顔之推(子ではなく之が正)の「家訓」の「勉学編」だと悟った。
「抱経者」とはそのころ、廬文弨の「抱経堂叢書」に入れられていたためだ。
話しの中に次のような一段があり――
 『学芸のある者は、どこにいても安定していられる。飢饉や戦乱で俘虜を多く目にするが、百世小人と雖も、「論語」「孝経」を読むことができれば、人の師となれる:千載冠冕
(千年官吏をしてきた家)と雖も、書物を読めぬ者は、田を耕し、馬を飼う他ない。この事から分かるのは、諸君どうして自ら学ばないでおられようか?もしいつも数百巻の書を持っていれば、千載ずっと小人であることはない。…諺に曰く「千万の積財も身に僅かの伎(わざ)を持つに如かず」「伎の容易に習得でき、貴とすべきは読書に勝る者無し」
 これは実に透徹した見解で:容易に習得できる伎は読書に如かず。ただ「論語」「孝経」を読むことができれば、俘虜にされても猶人の師となれるし、全ての俘虜の上にいられる。
この種の教訓は、当時の事実から推断できるが、これを金や元のころにてらしてみても、その通りで、明清の際においてもその通りであった。今現在、忽然とラジオ放送で聴衆に「訓」じるのは、講演の選者がすでに将来について、大いに何か感じる所あり、雨の降る前に屋根を修理しておこうとするのか?
「儒者の恩沢の深遠」なことは、小から大を見ることである。
我々はこの事で、「儒術」を理解でき「儒の効力」を知ることができる。
       5月27日

訳者雑感:
ジュジュツと入力すると儒術と呪術が出る。北京語では異なるが日本語では柔術なども
発音が近い。医術とか芸術と同様、儒学も儒術という術で人の生業を助ける方術なのか。
マルクスの術が効力を失ってしまったので、また千載の儒術に戻るのだろう。
金が元に滅ぼされたとき、明が清に滅ぼされた時、儒者はたくみにその戦乱の中を生き延びてきた。民国が日本に滅ぼされそうな時代に、雨の降る前の屋根修理。
今、マルクスの術が効かなくなった時、他に何も頼るものもないから、やはり孔子の術を引っ張りだすしかない。
     2013/08/13記

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連環画雑談

「連環画」擁護者の最近の論調は、「啓蒙」の意味合いが多い。
 古人の「左図右史」は今では只、言葉を残すのみで真相は見ることもできぬし、宋元の小説は、ある物は毎ページ、上段に図、下段に文章の体裁で今も残っていて、所謂「出相」である:明清以来、巻頭に登場人物を描き「繍像」と称した。また毎回の故事に画があるのを「全図」と称した。目的は大概、まだ読んでない読者の購読を誘引するためで、閲読者の興趣と理解を増す為である。
 但し、民間には別に一種の「智灯難字」或いは「日用雑字」があり、一字一像で、両相を対照し、図も見られるが、主意は識字を助けるもので、これを要領よくしたのが、現在の「看図識字」となった。文字の多いのは「聖諭像解」(聖諭の絵とき)「二十四考図」などすべて絵を借りて啓蒙するもので、中国文字は難しすぎるので、絵を使って文字の難しさを助けた産物である。
 「連環画」は「出相」の格式を採り、「智灯難字」の効果を収めており、啓蒙しようというのに都合のよい利器である。
だが啓蒙しようとするなら、分かりやすくないといけない。そのレベルは低能児や白痴向けまでは対応できないが、一般大衆向けに着眼すべきで、たとえば、中国画はこれまで陰影がないので、私があった農民は十人中九人は西洋画と写真に反対で、彼らが言うには:人間の顔の両側がどうして色が違うことがあろうか?というもので、西洋人が画を見る時、見る者が一定の場所に立っているが、中国人はこれまで定点に立って見ていないから、彼の言うのも一理あるわけだ。従って「連環画」は陰影無しで良いと思う:人物の傍らに名を書くのも良いし、夢を見ている時は頭から細い光を放つのも悪くない。見る人は内容を理解したら、自分でそうした補助記号を削除できる。これを本来の姿を失っているとは言えない。というのも、見る人はすでに内容を会得したのだから、芸術的な真実は、実物の通りでなくてはならないというなら、人物の大きさが只2-3寸というのは実物通りでなく、地球大の紙も無いから、地球も描けない。
 艾思奇氏曰く:「大衆の本当に切実な問題に触れることができれば、それがより新しいものであって初めて、より流行させることができる」この言葉はその通りだ。だがそれをそうすれば、触れることができるか、触れる仕方について、よく相談しなければならない。
「分かる」というのが一番重要で、よく分かる絵はやはり芸術足りうるのである。
                5月9日
訳者雑感:
魯迅は三味書屋で勉強していた頃、教師の目を偸んで、小説の登場人物の絵をせっせと書き写したという。子供のころから線描きの所謂「出相」の絵が好きだったのだろう。それでそれを一冊の本にまとめて、それを欲しがる裕福な友達に売って、お金に換えたという。
医者の処方賤を手に質屋通いして、父の病いをなんとか治そうとしていた頃だ。
       2013/08/07記

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