魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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「諷刺」とは何か?
――文学社の問いに答えて。
思うに:一人の作者が、精錬された、又些か誇張した筆致で――但し勿論芸術的でなければならぬが――ある一群の人のある側面の真実を描き、それに対してその一群の人達がこれは「諷刺」だと称すものだ。
「諷刺」の命は真実である。かつて実際にあったことである必要ないが、ありうべし、というものでなければならない。従って、それは「捏造」ではなく「中傷」でもない:又「陰に私事を暴く」のでもなく、人を驚かす「奇聞」や「怪現象」でもない。書かれた事は公然のことで、常に目にするが、平時は誰も奇とせず且つまた誰も注意せぬ事だ。
だがこうした事は、その時すでに不合理で、おかしくて軽蔑すべき物で、憎むべきでさえある。だがそういうふうに行われ、習慣になると、公衆は誰も奇に思わぬが:それを取りあげて提起すると、影響がでるのだ。例えば、(殆ど中国服だった時代に)洋服を着た青年が仏像を拝むのは、今ではもはや普通のことだが、それを見た道学先生が怒るのも普通のことだが、暫くするとそれも過去のものとして消えてしまう。だが「諷刺」は正にこの時に撮った写真で、一人は尻をぴんとはねあげ、もう一人は眉をしわ寄せている。他の人から見てもとても不格好に感じるし、自分でもとても不格好に感じる:さらにこれが広まって行くと、後に科学を大大的に講じ、修養を説く際に、大きな障害になる。撮られた写真が真実でない、といったところでむだである:その時、目にした人がおり、誰もが確かにこれらの事があったと思うからだ:しかしそれが本当にあったことだと認めるのは気分が悪い。自分の尊厳を失くしたと感じるからだ。そこでいろいろ知恵を絞って、名目を考えだし「諷刺」と呼ぶのだ。その意味は:そんなことを取り上げるのは褒められたことではないぞ、というのだ。
意識してこれを提起し、精錬し誇張するのは確かに「諷刺」の本領だ。例えば、新聞記事で記憶に残るのは今年2件あった。一件はある青年が士官と詐称し、各地で詐欺をして逮捕され、後に懺悔書を書き、生活のためにやっただけで他意は無いとした。もう一件はコソ泥が学生を引きずり込み、窃盗の手口を教えたので、家長はそれを知り、自分の子弟を家に閉じ込めていたが、それでも奴は家まで押し掛けてきて、したい放題をした。注目すべき事件について、新聞では往々特別な論評が出るのに、この2件には今に至るも何もなく、とても普通の事の様にとらえ、意に介するに足りぬとしている。このネタは、Swiftやゴーゴリの手に渡したら、きっと出色の風刺作品になったと思う。ある時代の社会にとっては、ある事柄はより平常なほど普遍的なものとなり、それはより諷刺を作るのにふさわしいものになるのだ。
風刺作者は大抵諷刺された者に恨まれるが、彼は常に善意であり、彼の諷刺は彼らが改善するのを望んでいるのであって、その一群を水底に陥れようとしているのではない。然し、同じ群の中に、諷刺者が現れたらこの一群は収拾不能で、もう筆墨の救える状況になく:そんな努力は大抵徒労に終わり、又その反対になってしまい、実際その一群の欠点から悪徳に至るまでを表現するに過ぎず、敵対する別の一群にとって有益になってしまう。思うに:別の一群から見ると、その受けとるものは諷刺されたその一群とは異なり、彼らは「暴露」と感じる方が「諷刺」と感じるより多いのだ。
諷刺に似た風貌の作品で、善意のかけらも無く、ただ読者に対して、世事一切はひとつもとるに足りないと感じさせるのは、諷刺ではない。それは「冷嘲」だ。 5月3日
訳者雑感:
ここでは魯迅は自らを諷刺作者として答えているようだ。彼が諷刺した一群の人の改善を願って。彼の諷刺は決して一群の人達を水底に陥れようとして書いているのではない。だが一群の人は、これは自分たちを水底に陥れようとしているのだと感じ、魯迅は人を諷刺して罵るのに長けておるだけで、自分たちの改善を願ってなどという気持ちなぞ微塵もない、と罵り返す。それがこの時代の社会の実態であった。
「阿Q正伝」を書いた時、彼は中国人の多くが根のところに持っている「阿Qの根性」を改善して欲しいと願ったのだが、逆に多くの人はこれは自分の事を諷刺していると感じ、毎月発表される文章にはらはらしながら、罵り返している。
香港のフェニックステレビの何亮亮氏が日清日露の戦争中に戦場となった遼寧省一帯で、
おびただしい数の中国人が戦闘行為のみならず、スパイの嫌疑とか他の容疑でいとも簡単に殺されているのを、それを茫として物見している中国人の多さに触れて、中国人にはそれに反抗しようとする「血性」が無いと評していた。(「劉亜洲氏の文集から引用」)
朝鮮民族には伊藤博文の安重根とか白川義則の尹奉吉とか日本人高官を暗殺した「血性」のある人間がいたが、あれだけひどい目にあっていながら、誰も歴史に残る様な「血性」を発揮したものはいない。旅順で大量の中国人が殺されたのをただ坐して見ているだけで、誰も反抗しようと立ちあがらなかった。
彼が最後に引用していた、「日本の右翼のある作家が、南京で30万人も虐殺したなど、絶対あり得ないことだ。30万人も殺される状況で、誰も反撃せず、逆に日本人が殺されてない、ということは、あり得ないから」というのが耳に残った。確かに爆撃機による空襲や原爆ならいざしらず、地上戦で30万人も殺されて、誰ひとりそれに反撃をしなかったというのは、「血性」の欠如だけではない別の問題があるのではないか?(血性は血気の意)
2014/05/01記
千住のやっちゃばと、生麦の魚市場
1.
清明節の素晴らしい陽春の候を読書していてはもったいないと思い、千住と生麦に出かけた。北千住駅で降りてから、一旦千住大橋に向い、そこから芭蕉が通ったであろう旧日光街道を歩いた。
千住は芭蕉が奥の細道の旅で深川から舟で北上して上陸した地だ。彼の像と句碑が建てられていた。千住大橋の公園には全国の河川の番付やら、ここに西日本からも大量の物資が船で運ばれ、江戸市中や更に小舟で内陸各地へ運ばれていったと記されている。旧日光街道の観光案内所にもいろいろなパンフレットがある。北千住駅で降りてから、一旦千住大橋に向い、そこから芭蕉が通ったであろう旧日光街道を歩いた。
この左側に旧日光街道のやっちゃば、(野菜市場)が続く。 右に足立市場がある。
両側はやっちゃば、といわれた野菜市場で賑わった所で、朝の暗いうちから各地より舟で運ばれて来た野菜類が大八車に載せられて、この市場に並べられ、それが江戸市民の口に入る様に捌かれていった。この通りを歩いていると、なんとなく曲がっていて、真っすぐでは無いというのが気になった。近畿地方では最短距離を直線で結ぶという方法で大きな官道ができ、そこに人が家を建て商店を開いた例が多い。昔読んだ本では、律令時代の路は、周辺に何も無いところをAからBまで最短距離で結ぶ為、直線で造られたと記憶している。前方に見える山をめがけて、懸命に真っすぐの路を作った。これは租庸調などの税制とも関連していようが、各地からの「調」を滞りなく都に運ばせるための路であったからとのことだ。
江戸の周辺では必ずしも直線ではなく、先が見通せないような程度に曲がっているのは何故だろうか?川の曲がり具合にあわせているのだろうか。人口も増え、いろいろな場所に集落ができたり産業が起こったりして、それらを繋ぐために少しずつ彎曲しながら街道を繋いで行ったからだろうか。
京都から大阪へ向う阪急電車は何も無い野に敷設したから直線が長いが、京阪電車は伏見稲荷や石清水八幡などを経めぐるから彎曲が多いのとなんか似ている様な気がする。
関東平野も中央線に乗ると、何も遮る者の無い平野を一直線に突き進むという感じだが、京浜急行は泉岳寺とか川崎大師など寺社仏閣への便を担っている様に敷設されているのと似ている。
2.
さて千住の旧日光街道の街を歩くと、京都の町家や富山の八尾の町立ての雰囲気が醸し出されているのではないかと感じた。道は京都のように直線ではなく、八尾の坂道の様な傾斜はないが、3か所に共通しているのは多くの店が通りに面して幅3間が原則で、ウナギの寝床の様に奥に長い。これは京都の下町の智恵と同じだから、この幅でお上に税金を納めたのだろう。 今ではやっちゃ場は隣の近代的な足立市場に移り、一部の商店が営業しているだけだが、2階建てだった木造の多くは取り毀され、ビルに建て替えられている。その工事現場を見ると、ずっと奥までかなりの長さを保っている。立ち寄った町の駅でお茶をご馳走になったおばさんに尋ねると、「そうよ、こんなに長いから、みんなお金持ちで2-3軒いっしょにして大きなビルが建てられるのよ」といいながら、この街が駅にとても近いから早晩ほとんどがビルに建て替えられるだろうと嘆息していた。
歩いていてあまり良い気分なので、荒川を越えて、歩けるところまで歩いてみようと考えた。昔からの商店や古いしもた屋が残っているところを伝いながら、多分それが旧日光街道だろうと信じながら北上した。とりあえず草加まで行こうと思った。これまでの経験だと、昔からあるような神社仏閣があれば、そこはきっと旧街道だろうと思いながら。詳細な地図を手にしてきょろきょろ歩くより、どこかに紛れ込んでまた旧に復すということも面白い歩き方だと思う。自動車が王様のようになってから、旧道は拡幅されたりしたが、多くはバイパス化され、旧道と斜めに交差しながらあざなえる縄のような場合が多いと感じる。
3.
荒川を越えてから、梅田、島根、六月という地名が続き、竹の塚を過ぎ、毛長川という小さな川を越えると草加だ。せんべい家の看板が増えて来る。市役所にたどりつき、そこの地図で確認しながら、草加の松原に行くことにした。道の両側に旗がひらめき、草加の松原へいらっしゃいと呼びかけている。
ここは日光街道が現在の綾瀬川にぶつかるところで、この川沿いに北上すれば春日部で、
芭蕉の頃はいろいろ派川が入り組んでいただろうが、この川沿いの平坦な道を北上して、今の栗橋辺のどこかで利根川を渡り、間々田から室の八島を訪ねたのだろう。
この草加松原には同行の曽良が風呂敷包みひとつを背負って室の八島の方向を指さす像が立っている。昔の人は徒歩の旅に、できる限り荷物を少なくして、こんな格好で旅を続けたのかと感慨ひとしおであった。洗濯などどうしたのだろう?4-5日位同じものを着て、
俳諧仲間の家に何日か泊めてもらったときに、洗ったり、着替えをもらったものだろうか。
ここにも芭蕉の像が建てられ、矢立橋と百代橋という木造の、清明上河図にあるような太鼓橋の規模縮尺版が架けられていた。下を船でなく、自動車が通り過ぎるのが残念だが。
千住から歩くこと3時間、やっと草加の松原にたどりつき、芭蕉はさらに春日部まで歩いたのだと思いながら、無理をせずに春日部までは次回の楽しみに残し帰途に着いた。
草加松原の芭蕉翁像。見かえる先に曽良の像がある。
右の案内所にドナルド・キ―ンさんの記念写真もあり、百代の旅人がキーワード。
4.
その翌週の早朝、綱島に用があり、その用が終わってそのまま帰宅するのももったいないと思い、鶴見川を河口まで歩くことにした。4月の中旬、10年前なら春風江上の道、ならぬ春風工場の道で、沿線には各種の大中小企業の工場がずらりと並び、水質はどぶ川のようだった鶴見川にも最近はアユが遡上してくるようになったという。沿岸の大きな工場は閉鎖され、マンションやショッピング・センターに変身したのと洗剤の品質改善も大いに影響していると思う。
綱島街道が鶴見川を越える大綱橋から川底を眺めると、なんと川底が見えるではないか!引き潮の時には、このあたりまで海岸の水面の高さと同じなのだということにびっくりした。
以前大洪水の時に、綱島駅から大倉山の間の田んぼが冠水し、線路も冠水してしまったという写真を見て、そうか確かにこの高さでは、一旦暴れ川といわれた鶴見川の各支流から押し寄せた雨水は海に向うベクトルより堤防を乗り越え、決壊させて田んぼに流れ込むベクトルの方が強いのだなと感じた。それ故、護岸を強化し、堤防を高くして天井川にせざるを得ないのだ。海抜1メートルの所に、満潮時に大雨が降ったら、海に出るにも出られぬ雨水はどうしようもないことになる。
私が今住んでいる所は大倉山というのだが、数年前までは太尾と言われていた。そして鶴見川の対岸は綱島という名前で、なぜ陸地に島という名がついているのか、不思議に感じたこともあった。それを数年前の講演会で、この地は鶴見川の洪水時に丁度長い島のように浮かんで見えたから、綱島と名付けられたと聞いて愕然としながら合点した。
私の住まいの太尾町は大倉邦彦という人が「大倉山精神文化研究所」を山の上に建てたので、東急電車が作った隣の梅林とともに、今や横浜市が引き継いで「大倉山公園」として、近隣各地から四季を問わず多くの人が訪れるようになったが、それまでは周囲一面は田んぼで、昔のお百姓さんの言葉に、「太尾には嫁にやるな」と言われる程、水害に悩まされた所だそうだ。
そう言われてみると、太尾というのは、京都の高尾のように、山の尾根の意味で、神奈川では高い山は無いが、低い丘陵の尾根を指したのだろう。同じ鶴見川の上流に市が尾という地名もあり、駅は鶴見川から坂を上った所にあるから、同じような命名なのだろう。
5.
そんなことを思いながら、河口にむかって春風を顔に受けて歩いた。1時間ほど歩くと、森永の新しい工場を過ぎ、JRの鉄橋が何本も架かっている所にでた。新幹線を除いた、横須賀線、東海道線、京浜東北線、貨物線の上下合計8本の線路がここに集中している。近づいてみると、ブイが浮かべられ、作業船が2隻作業している。この地は日本の動脈的な線路が8本も集中しているのだから、万一堤防が決壊したり、線路が流されたら、大変なことになる。それで、川底をさらえつつ、水流を制御しようとしているのだ。しかし海にすぐ近いこの辺りまでくると、大雨の大洪水は上流で氾濫しても、海面と同じ高さだから、氾濫するということは無いのかもしれない。津波でもないかぎり大丈夫なのだろう。
さらに歩いてゆくと大きく右に旋回し、旧東海道の関の跡の石碑があり、そちらへ向う事にした。鶴見川の両岸はこの先、埋め立てられて工場が建てられ、歩行者が堤を歩くことはできなくなっているからここからは、生麦の例のイギリス人を殺傷した生麦事件の跡を見に行くことにした。
旧東海道がこの辺りで昔の姿をある程度保存されているのは、鶴見地区の人々の情熱によるものだと感じた。陸側に第一京浜が作られ、京浜急行とJRの動脈があるが、鶴見川沿いのこの道は、自動車も少なく、旧日光街道を歩いた時と同じたたずまいで、少し彎曲しながら、古い店が続く。雰囲気が似ているなと感じたのは、野菜棚とか並んでいた店と同じように、こちらは魚を並べる棚がいくつも並んでいて、早朝は買い出しの人々で通りが賑わうそうで、午後でもまだ売っている店がある。現役の「魚市場」として昔からの営業を続けているからだ。
旧東海道鶴見橋の石碑と最近架けられた橋。
鶴見川の水運は隅田川と同様、海面から余り差の無い川岸に淡水の港を作れる条件を満たし、木造船が海浜に繁殖する舟虫に侵蝕されない所に「良港」を作れたことによって、所謂「河岸」(かし、と読み、船着き場、市場、旅客を泊める宿場の役割も担った津を指す)
としての機能を発揮し、野菜と魚及びその他の生活必需品を全国津々浦々から荷揚げでき川を遡上して内陸各地にも捌け、且つまた東海道と日光街道での陸送もできるので、大いに繁盛したのだろう。川と道の十字路であった。
2014/04/27記
六朝小説と唐代伝奇はどう違うか?
――文学者の問いに答えて
このテーマに答えるのはとても難しい。
唐代伝奇は今でも実物を見ることができるが、所謂六朝小説は只「新唐書芸文志」から清の「四庫書目」の判定まで依拠するものは幾つかあるが、六朝当時、小説とは看做されていなかったからだ。例えば「漢武故事」「西京雑記」「捜神記」「続斉諧記」等から、劉昫の「唐書経籍志」まで、やはり史部の起居注と雑伝類に属していたのである。当時は神仙と鬼神を信じていたから、虚造とは考えず、記述に神仙と凡俗、あの世とこの世の違いはあっても、全て史の一種であった。
況や晋から隋までの書目は、現在一種も存在しておらず、当時小説と看做されていた物が、どんな形式と内容だったか知る由もない。現存の唯一最も早い目録は「隋書経籍志」だけで、編集者が自ら言う「馬史と班書を遠く覧じ、近くは王・阮の志録を観る」というように、きっと王倹の「今書七志」阮考緒の「七録」の痕跡を尚残しているが、その録す所の小説25種中、現存するのは「燕丹子」と劉義慶撰の「世説」を合わせた、劉考の標注2種しかない。この他は「郭子」「笑林」と殷芸の「小説」「水飾」と当時すでに隋代に亡くなっていた「青史子」「語林」などで、唐宋の類書の中にまだ少し遺文を見ることはできる。
上記の材料だけから武断的に言うと、六朝人の小説は神仙や鬼怪の記叙なく、書かれたのは殆ど人事で:文筆は簡潔で:材料は笑柄で話しのネタ:だが虚構は排斥したようで、例えば「世説新語」は斐啓の「語林」は謝安は不実を語ると記し、謝安は一説に、この事が即おおいに声価を損じた云々というのがそれである。 唐代伝奇文は大いに異なる:神仙人骨妖怪、すべて自由に駆使でき:文筆は精細で曲折があるが、簡潔で古いものを尊嵩する者からは辱められた。叙す所の事情も大抵首尾と波乱を備え、断片的な話柄に止まらず:なお且つ作者は往々、故意にこの事跡の虚構なることを顕示し、以て彼の想像の才を見せる。
だが六朝人も想像と描写ができなかったのではなく、小説に使わなかっただけで、この種の文章は当時も小説とは言わなかった。例:阮籍の「大人先生伝」陶潜の「桃花源記」も実は後代の唐代伝奇文に近い:即ち稽康の「聖賢高士伝賛」(今僅かに輯本のみあり)、
葛洪の「神仙伝」も唐人伝奇文の祖師とみなせる。李公佐の「南柯大守伝」李肇為の賛はすなわち、稽康の「高士伝」の法で:陳鴻の「長恨伝」は白居易の長歌の前に位置し、阮稹の「鸎鸎伝」はすでに「会真詩」に録されており、また李公垂の「鸎鸎歌」の名作の結びを挙げれば「桃花源記」を思わずにいられない。
彼らが書いた所以は、六朝人も唐人もすべて所為(目的)あり、「隋書経籍志」は「漢書芸文志」を抄して(コピペに近い意)説き、小説を著録して之を「卑見を尋ねる」に比すが、小説といえども所為があることの明証と考えた。だが実際は所為の範囲は縮小した。
晋人は清談を尚し、品格を講じ、常に廖々数言で致を立て、顕かにしたから、当時の小説は、多くは奇行や味わい深いものを記した「世説」の類で、実は口舌を借りて名位を得るための入門書だった。唐は詩文で士を採用したが、社会的な名声も大切で、士子は上京して(科挙の)試験を受ける際、予め名士に挨拶に行き、詩文を献じ、称誉を請わねばならず、この詩文を献ずる事を「行巻」と言った。詩文はすでにいっぱい溢れており、もう観たくもないから、ある者は伝奇文を使い、耳目一新を希図し、特別な効力を得んとしたから、当時の伝奇文も「門を叩くレンガ」と大きな関係があった。だが勿論、ただ気風に推されて所為も無く作った者もいなかったわけではない。 5月3日
訳者雑感:換骨奪胎とは骨組を換えて、胎児を奪うという意味の由。STAP細胞の問題で、それまでの論文に他者の論文が「そのまま」コピペされていたことが問題とされていたが、中国で換骨奪胎とか抄本の「抄」(コピペに近い)をするのは、こと文芸や演劇については、何代にも亘って繰り返されて来た。それは有名な詩人のさわりの句を転用・再利用しつつ、さらに人口に膾炙するような作品に仕立てるというのが「文人」の才であったとされてもきた。魯迅が指摘するように、長恨歌はすでにその原型が白居易より昔にあったが、今や彼の代表作となっているように、こなれて、耳に心地よく、感動することができれば、それが一番良い作品となるのだろう。
京劇や歌舞伎の古典もこれまで何代にも亘って、繰り返し演じられるたびに今日の姿に変遷してきたので、最初から「完成品」だったわけではあるまい。
それにしても、最後の段で詩文が世にあふれかえっていたので、名士への「行巻」にもはや詩文では通用しないから、所為のある人たちが伝奇文を書いて詩文に替えたというのは面白いと思った。科挙に合格して役人になることが人生最大の「所為」だった中国人はその所為を達成するために詩や伝奇文の上達に意を用いた。だが合格して出世し始めたら、その「門を叩くレンガ」は棄てられた。ただ出世しなくて、もう「所為」の無くなった者の中にもそれを作った者がいなかったわけじゃない、という。確かに、栄達を極めた人にも名詩を残した例はあるが、多くはそうでない人達の残したものだというのも事実である。
2014/04/28記
現代中国の孔夫子
新着の上海の新聞に日本の湯島に孔子聖廟が落成したので、湖南省主席何健将軍が珍蔵の孔子画像一幅を寄贈したと報じている。正直言って、中国の一般の人は、孔子がどんな容貌だったか殆ど知らない。古くから各県に必ず聖廟、即ち文廟はあるが、聖像はたいてい無い。凡そ崇敬すべき人を絵に画く、あるいは彫塑する時は、一般に常人より大きくするのが原則だが、最も崇敬すべき人、例えば孔子のような聖人は却って、形象すら冒涜するものだとされ、無い方が良いとされてきた。これも道理が無いわけでは無い。
孔夫子は写真を残さなかったから、本当の容貌は知る由もなく、文献に偶に記載があるが、正しいかどうか分からない。新たに彫塑するとなると、彫塑者の空想に頼るより他なく、さらに安心できない。そこで儒者は(イプセンの)「ボラント」方式で、「All or Nothing」を採るしかなかっただろう。
だが画像なら時に目にする。私はかつて3回見た。一回目は「孔子家語」の挿絵:次は梁啓超氏が日本亡命時、横浜で出版した「清議報」の口絵を日本から中国へ逆輸入した物:もう一度は、漢代の墓石に刻された孔子が老子に会っている画像だ。これら画像の孔夫子の相貌についての印象は、とても痩せた老人で、大きな袖口の長い袍子を着て、腰に剣を挿し、或いは腋下に杖を挟み、常に笑うことなく、威風凛凛としている。彼の傍らに侍して坐っていると、きっと腰骨を真っすぐにしてなければならず、2-3時間もすると骨節が痛くてたまらなくなり、普通の人は多分一刻も早く逃げ出したくなるだろう。
私はその後山東へ旅をしたことがあった。でこぼこ路に苦しんだ時、忽然我々の孔子を思い出した。厳然と道徳家然とした風貌の聖人も、そのころ粗末な車に乗り、ぐらぐらと揺られながらこの辺りをあわただしく奔走したことに思い到って、とても滑稽に感じた。この様に感じるのは無論良くない。要するに不敬に頗る近いから、孔子の徒ならそんな気持ちを持ってはいけない。だが当時、私の様な不謹慎な心情の青年はとても多かった。
私が生まれたのは清朝末年で、孔夫子はすでに「大成至聖文宣王」というとても厳めしい位を持ち、言うまでもなく正に聖道が全国を支配していた。政府は読書人に一定の書、即ち四書と五経を読ませ:一定の解釈を守らせ:一定の文章、即ち「八股文」を書かせ:一定の議論をさせた。而して、これら千篇一律の儒者たちは、大地が四角いのは知っていたが、地球が丸いのは知らず、それで四書には記載されていないフランスやイギリスと戦って失敗した。孔子を拝んで死ぬよりは、自分を守る為の計画をたてた方が重要だと思ったのかどうか知らないが、要するに今度ばかりは、一生懸命に孔子を尊嵩してきた政府と官僚がまっさきに動揺し、国費を使って外国書物の大量翻訳を始めた。科学的な古典作品、Herschelの「天文学綱要」Lyellの「地質学原理」Danaの「鉱物学手冊」等は今でも当時の遺物として、時に古本屋の棚に見かける。
しかしものごとには必ず反動がある。清末の所謂儒者の結晶で、代表的な大学士徐桐氏が登場した。彼は数学すら毛唐の学問として排斥したのみでなく:世界にはフランスやイギリスという国があるのは承知しているが、スペインやポルトガルの存在は全く信じないで、フランスとイギリスは何回も貿易でもうけようとやってくるが、自分も決まりが悪いので、出まかせの国名をつけているのだ、と言った。彼は又1900年の有名な義和団の幕後の主導者で、指揮官だった。だが義和団は完全に失敗し、徐桐氏も自殺した。政府も外国の政治法律と学問技術は取り入れるべきところが多いと考えた。
私が日本に留学しようと渇望したのもその頃だ。目的を達成し入学したのは、加納先生の設立した東京弘文学院で:三澤力太郎先生が私に水は酸素と水素からできていると教えてくれ、山内繁雄先生は貝殻の中のある部位の名を「外套」というと教えてくれた。以下はある日のことだ。学監の大久保先生は我々を集め:諸君はみな孔子の徒だから、今日はお茶の水の孔子廟にお参りに行こう!といった。私は大変びっくりした。今も当時の気持ちを覚えているが、まさしく孔夫子と彼の徒に絶望したから日本にやって来たのに、なんで又拝みに行くのだ?いっとき、とても奇妙に思った。しかもこういう感じを抱いたのは決して私一人ではなかったと思う。
だが孔夫子の本国における不遇は20世紀に始まったものではない。孟子は彼を評して、「聖の時なる者」と批評した。(時の政権の求めに対応して物ごとに対処することに長けた聖人)現代語に訳すなら(時流にあわせた)「モダ―ン聖人」とする他ない。彼自身にとってこれはあまりリスクのない尊号だったが、あまりありがたい肩書ではない。だが実際は決してそうでもなかったようだ。孔夫子が「モダ―ン聖人」とされたのは死後のことで、生きている時は大変苦労した。四方八方かけずり回って魯国の警視総監にまでなったが、すぐ下野し、失職した:且つまた権臣に軽蔑され、庶民にも嘲弄され、甚だしきは暴民に取り囲まれて、腹ペコに餓えた。弟子は3千人集めたが、役に立ったのは僅か72人、しかも本当に信用できたのは只一人のみ。ある日孔夫子は憤慨して:「道が行われないなら、桴に乗って海に浮かぼう。我に従う者は其れ由か?」と。こんな消極姿勢からその苦境を窺がい見ることができる。しかしその由すら、後に敵との戦闘で、冠の纓(エイ)を断たれたが、真に由たるに愧じず、この時も夫子の教訓を忘れず、「君子は死すとも冠ははずさぬ」として、冠の纓を結びなおし、体は切り刻まれてミンチ状にされた。唯一人の信じていた弟子を失い、孔子は無論大変悲しみ、この知らせを聞くや、厨房にあった肉のミンチを棄てるよう命じた。
孔夫子の死後の運は比較的良かったと言えると。彼はもう文句を言わなくなったから、いろいろの権勢者が色んなおしろいで化粧して、人を嚇かすほどの高みに担ぎあげた。
しかしその後に輸入された釈迦牟尼に比べ、とてもみじめなものだった。確かに各県ごとに聖廟すなわち文廟があるが、さびしく落ちぶれた様で、一般庶民はお参りに行かない。行くのはお寺や神廟だ。庶民に孔夫子とはどんな人かと尋ねると、聖人だと答えるが、これは権勢者の声を繰り返す蓄音機にすぎない。彼らも文字の書かれた紙を大切にするが、それはそうしないと、雷に打たれて死ぬと言う迷信のせいだ:南京の夫子廟は賑やかだが、それは他にいろいろの面白い見世物や茶店があるからだ。孔子は「春秋」を作り、乱臣や賊どもが怖れたというが、現代人は殆ど誰も筆伐された乱臣賊の名を知らない。乱臣賊と言えば、大概曹操というのだが、それは聖人の教えたものではなく、小説や劇本を書いた無名の作家がそう書いたからだ。
要するに、孔夫子の中国にあるは、権勢者たちが担ぎ出したからで、それらの権勢者、或いは権勢者になろうとする者たちにとっての聖人であって、一般庶民とは何の関係もない。然るに聖廟についてはそれらの権勢者もいっとき熱心になるにすぎず、尊孔している時も、すでに他に目的を持っていたから、その目的が達成されるや、この器具はもはや無用となり、また達成できなかったならもう用無しになってしまう。3-40年前、権勢を得ようとした人は、官につこうとし、「四書」「五経」を読み「八股」を作り、こうした書籍と文章をすべて「門を叩くレンガ」と名付けた。これは文官試験に合格したら、同時に忘れ去られ、丁度門を叩く時のレンガと同じで、門が開けばレンガは不要だからだ。孔子は実は死後もずっと「門をたたくレンガ」の役目を担ったわけだ。
最近の例をみればもっとはっきりする。20世紀以来、孔夫子の運はとても悪かったが、袁世凱の時、また新たな典礼が復活しただけでなく、新たに奇妙な装束が作られ、奉祀する人に着させたのを覚えている。この次に現れたのが帝政だ。だがその門はついに開かず、袁氏は門の外で死んだ。その残渣は北洋軍閥で、彼らも末路に近づいたと感じた時、またこれを使って別の幸福の門を叩いた。江蘇と浙江に盤居し、路上で勝手に人々を殺した孫伝芳将軍は、投壺の礼を復興させて:山東に攻め入り、自身も数え切れぬほどの金と兵隊と妾を蓄えた張宗昌将軍は「十三経」を重刻し、更に聖道を肉体関係で伝染する花柳病のようなものと考え、孔子の後裔の誰かを自分の婿にした。しかし幸福の門は誰に対しても開かなかった。
この3人は孔夫子をレンガとして使ったが、すべて明らかな失敗だった。自分が失敗しただけでなく、それと同時に孔子をも更なる悲境に陥れた。彼らは文字すらあまり識らぬ連中だが、盛んに「十三経」の類を談じたので、人々はとても滑稽に感じた;言行も不一致だったから、さらに人々に嫌われた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、孔夫子が利用され、或いは一つの目的の為の器具だったことがますます明確になって来たので、彼を打倒しようとする欲求もさらに盛になった。だから孔子を立派に飾り付け尊厳を保とうとすると、必ず彼の欠点を探す論文と作品が現れた。孔子と雖も欠点はあるもので、平時は誰も黙っているのは、聖人も人だとして本来は許容できるからだ。しかし聖人の徒が現れて、聖人はこうだった、ああだったとデタラメを宣伝し、お前たちもこうでなくてはならない等というから、人々は笑わずにはいられない。5-6年前「子見南子」(孔子が南子に会うという孔氏を茶化した劇)を公演した時、問題を引き起こした。劇に孔子が登場し、聖人としていうなら、いささか色気を出し、間の抜けた所があるは免れぬが、人としては愛すべき好人物だった。だが、聖人の後裔たちは大憤慨し、大問題だとして役所に訴えた。公演した所が孔夫子の故郷で、そこには聖人の子孫が沢山増えていて、釈迦牟尼やソクラテスが羨むほどの特権階級になっていた。しかしそれも多分まさにその他の彼の後裔でない青年達がそこで「子見南子」を特に上演したかった理由であろう。
中国の一般民衆、特に愚民といわれる人達は、孔子を聖人とはいうが、聖人とは思っていない:彼に対しては恭順で謹厳だが親しくは思っていない。ただ私は、中国の愚民ほど孔夫子のことを分かっているのは世界でも他にないと思う。確かに孔夫子はとても素晴らしい国を治める方法を作ったが、それは民衆を治める為であり、即ち権勢者の為に考え出した方法で、民衆の為に考えたものではない。これが即ち「礼は庶人に下さず」の意味だ。権勢者たちの聖人となって、「門叩きのレンガ」になったのは、冤罪とはいいきれない。
民衆とは関係ないとまでは言えないが、親しいとは言えないというのは、とても遠慮した言い方だと思う。そのまったく親しくない聖人に親近せぬのはまさしく当然のことである。いつでもいいから試みに、ぼろ服を着て裸足で(孔子の)大成殿に上がってみるといい。上海の上等な映画館や一等車に間違って入った時のように、即、追い出される。この建物は大人老爺たちのものだと承知しており「愚民」といえどもそんなばかげたことをするほど愚ではない。 4月29日
訳者雑感:原題は孔夫子とあり、以前は「孔子様」と訳されていた例もあったが、これは元々日本の雑誌「改造」へ寄稿された時の題なのだろう。夫子は辞書には4つの意味があり、男子、官に昇った貴人、迂腐な人、旧時学者への尊称で、ここでは3番目の意味合いも持たされているようだ。同時代の中国人の友人たちに発音してもらうと「こんふーず」と少し揶揄する様な響きを感じる。尊敬の気持ちは感じられなかった。五四運動の頃は彼が次男だったから、孔二先生とか孔二店と更に手ひどい呼称で、それを打倒せよ、とのスローガンが叫ばれていたと聞いた。
先日湯島の聖堂へ出かけて眼にしたのは台湾から寄贈された大きな塑像であった。魯迅のいうように絵では痩せているようだが、塑像にするには常人より大きく、でっかく太っていないと「尊崇」の対象にはならないようだ。先日、日経新聞の湯島案内に高さ4.75Mで重さは何と1.5トンと世界最大だと写真が紹介されていた。
共産主義の理念が失われ、13億人を束ねて行くのに、マルクス・レーニンなどではもはや役に立たぬと悟ったのか、2年ほど前に北京の天安門広場に大きなでっぷりとした孔子の像が建てられたが、写真で見た限り、なんとも戴けない代物だった。その後暫くして、その像が撤去された。門上の毛沢東の肖像と孔子の塑像はなんとも釣り合わない気がした。
英仏などに攻め込まれて、半植民地になり、これはいかんと、欧州の文化文明を採り入れて、洋務運動を展開したが、旧勢力の根強い抵抗にあって百日で終わった。後、魯迅の言うように欧米や日本に大量の留学生を派遣して、彼らが帰国して、黄興・孫文たちの旗の下で、辛亥革命を実現させた。だがその後、袁世凱などが共和制はまだその程度にあらず、として帝政に戻すようにした結果、軍閥割拠の泥沼に転じた。帝政の器具として3人がまたこれを担ごうとしたのだと聞くと、今又これを担ごうとしているのは3人のDNA
が引き継がれているのかと、不思議に思う。
最近、中国共産党政府は、西欧の築いてきた三権分立で代表される政治形態は必ずしも中国の実情にそぐわない。中国は独自の政治体制を作りあげ、西欧社会のマネはしない、と言い始めた。習主席が欧州訪問時に、中国は多党政治の手法は採らない、と発言したのは、とても気になる。袁世凱が共和制はまだその程度にあらず、と公言した時と同じように、21世紀の初頭の中国は、多党政治を行う程度にあらず、と認識しているようだ。一党独裁で、司法権は共産党という党の政権の下にあり、軍隊も共産党の指揮下にあり、国民を解放するための軍であり、国軍ではない、と主張しているのも心配だ。
安倍首相が靖国参拝し戦前中国を蹂躙した「鬼たち」を拝んだから、それに対するには言葉だけでは効力無いと判断したためか、強制連行された人の訴訟を認め、戦争直前の商行為としての租船契約に関わる問題で21日に商船三井の「BAO STEEL EMOTION」号を差し押さえた。司法は党の指示を受けて、オバマ訪日に照準を合わせて行ったのだろう。
どういうふうに対応してゆけば良いか?粛々と静かに慌てふかめないことだ。
2014/04/22記 2014/05/10修正
弄堂(上海の横丁)の物売り昨今
「鳩麦杏仁蓮の実粥!」(ハトムギや杏と蓮の実の粥)
「薔薇白糖倫教糕!」
「海老ワンタン麺!」
「五香茶葉蛋(卵)!」
これは4-5年前、閘北一帯の弄堂のあちこちの物売りの声で、当時記録していたら朝から晩まできっと2-30種はあったろう。住民は本当に小銭を使うのがうまく、おやつを買って彼らに少しの商売をさせていた。売り声がやむのは、彼らがお客にサービスの最中だと分かる。その売り声はとてもみごとで、彼が「昭明文選」或いは「晩明小品」や他のものから見つけて来た言葉かどうか知らぬが、初めて上海に来た田舎者は、それを聞いたらすぐ涎がでてきて、「ハトムギ杏仁」の「蓮の実粥」は新鮮な響きで、それまで夢にも思わなかったものだ。だが、物書きで暮らしている者にとってはいささか害があり、「心は古井戸のごとく」の域に達していないと、やかましくて昼も夜も何も書けなくなるほどである。
最近はだいぶ違ってきた。路上には小さな食堂ができ、以前は正午と夕方には長い上着を着た(上流階級の)人が占領していたが、彼らも今や大抵「沈痛を幽閉に寄す」(林語堂の言:)となり:目下の主要な客は、人力車夫の古巣の粗雑な点心屋(スナック)に行く。
車夫は、いうまでもなく道路際で腹をすかせているが、幸いまだ餅(おやき)は食べられる。弄堂の物売りの声は、奇妙なことだが、昔とは天と地の差あり、食物の物売りはまだいるが、それもオリーブやワンタンなどで、あの「情緒があり肉感のある」、「芸術」的な面白いものは無くなった。売り声はむろん昔通りあるし、上海市民がいる限り、かしましさが止むことは決してなくならないだろう。だが現在では実に減って来て、麻油、豆腐、潤髪用の楡のかんな屑、物干しざお等だ:売り方も進歩し、靴下売りは一人でその丈夫さを宣伝する歌を作り、或いは2人の布売りは、交互にその安さを掛け合いで唄う。しかし、大抵はずっと唄いながら入ってきて、突きあたりまできて引き返し、外に出て行き、立ち止まって商売する者はたいへん少ない。
だが又高雅なものもあり:果物と花売りだ。しかしこれは中国人向けでないから外国語である:
「Ringo, Banana, Appulu-u, Appulu-u-u!」
「Hana Ya, Hana-a-a! Ha-a-a-a!」
外人もあまり買わない。
偶に、盲目の占い師、托鉢の坊主も入ってくる。専ら主婦向けの様だが、彼らは割合良い商売になり、運命占いや、黄色の紙の鬼画符を売る。ただ今年は少し不景気なようで、一昨日はついに大仕掛けの坊主が現れた。最初、鼓とシンバルと鉄索の音だけが聞こえた時、私はまさに「超現実主義」の語録体の詩を作ろうと思っていたのだが、この為に、詩の思いはかく乱されてしまった。音のする方をみると、一人の坊主が鉄のフックを胸の皮に吊り、フックの柄は一丈余の鉄索がかけられ、地上を曳きづりながら、弄堂に入ってくる。他の2人がシンバルを叩いている。だが主婦たちは門を閉め、身をひそめて誰も出て来ない。この苦行の高僧はびた一文も貰えなかった。
後で彼女等に聞くと、答えは:「あの様子じゃ、2角(0,2元)ぐらいでは承知しないからさ」であった。
独唱、二人唱、大仕掛け、苦肉の計、上海ではもう大銭は稼げない。一つには固より、租界の「人心の薄情さ」のためだが、もう一つには「農村復興」に向うしかない(国民党の復興運動のスローガン)ことが分かる。
4月23日
訳者雑感:
中国の有名な作家茅盾が戦前京都に下宿していて、寒くなり始めた初冬の夕暮れに下宿の2階で、ラッパを吹きながらリヤカーを引く豆腐売りの音を聞いて、故郷の豆腐売りと同じ音色だと感じ、郷愁を募らせた描写があった。自動車がわがもの顔で通るようになる前の上海の弄堂と彼が下宿していた当時の京都の小路は同じような情景だったのだろう。
ラッパの音が止む時は、彼がラッパを放し、豆腐を客が持参の容器に入れているのだろう。それが止むとまたラッパを吹き始める。この辺の描写はよく観察していると思う。
京都も阪急電車が四条通を東西に走る地下鉄工事を始めたころから、南北に流れる地下水脈が切断され、町なかでの豆腐作りが困難になり、スーパーなどで大量生産された豆腐に攻められた。だが最近青年が旗をつけたリヤカーを引いてラッパを吹きながら顧客向けに地下水で作った豆腐を売りだしたのはうれしいことだ。つぶれない所をみると、商売が成り立っているようだ。
それと京都の小路にも禅宗のお坊さんが冬でもわらじに素足で「おおおー。おおー」と声張り上げて各路地を5-6名で巡る姿をよくみた。数戸に一戸ずつだが、主婦たちは托鉢僧にお布施をする。平和なればこそみることのできる風物詩だろう。
1935年の上海租界の庶民生活を彷彿とさせるスケッチだが、日中戦争直前の上海で、外人として日本人が中国庶民と一緒の小路で暮らしていたことが分かる。ローマ字つづりのアップルとかバナナなど、北方の果物と南方のものが同時に売られていたとは、上海がいかに当時の東アジアの最先端の都会であったかが分かる。日本でもバナナと林檎が同時に店に並びだしたのは20年ほど前だろうか。それが80年前に物売りが売っていたのだ。
2014/04/15記
「京派」と「海派」
昨春、京派の大師が海派の小丑(道化)を大いにけなし、海派の小丑も少しばかり反撃したことがあったが、暫くしておさまった。文壇の風波も起こってはすぐ終わるが、すぐ終わらぬと実に厄介なことになる。私もかつて聊か騒がれ、多くの唇の槍と舌の剣の攻撃を受け、その頃私が発表した説もなんら分析間違いではなかったと思った。その中に次のような一段がある――
『……北京は明清の都で、上海は各国の租界である。都は官が多く、租界は商が多いから、文人で北京にいる者は官に近く、上海に住む者は商に近い。官に近い者は官によって名を得、商に近い者は商によって利を得、自ら亦それで糊口する。要するに:「京派」は官の太鼓持ちで、「海派」は商の手伝いに過ぎない。… 而して、官の商を見下すは固より中国の旧習で、更に言えば「海派」は「京派」の眼中にはない。…』
しかし、今春末になって、丁度1年ちょっと経ったが、私が先に述べたことが欠陥の無いものではないと悟った。現在の事実関係は、京派がすでに自分たちの評価を下げ、又、海派を自分たちの目線の中で高め、単に自分のことだけをいうのでなく、派の区別はけっして専らその地域と相関関係にあるのではない、とした。さらに「彼を愛すがために彼を恨む」の妙語を実践した。当初、京海の争いは「龍虎の闘い」と看做したのは固より誤りで、官商の間に一本の界あり、というのも明白さを欠き、今はっきりしたことは、田ウナギとトノサマガエルのような物を一緒に炒める蘇州料理――「京海チャプソイ」を持ち出してきたのだ。
実例は小さな物で、重大な例はありえないが、少し挙げると、1.明代の小品選集の発行権を海派に与えた:上海もかつて明代の小品を印刷した人はいたが、それは盗牌もので、今回は真正の老京派の題簽(表紙に貼る書名冊)付きゆえ、確かに正統の衣鉢だ。2.ある新刊行物は真の老京派が先頭で、真の海派がしんがりを務める:以前は京派が刊行物の路を開いたが、半京半海派の主宰する物と、純粋海派が自ら手弁当で始めた物とは大きな違いがあった。要するに:今は以前と異なり京海両派中の一本の路が一つのどんぶりとなったのである。
ここで一言声明しておくと:私は故意に刊行物の名を挙げない。以前、「某」と言う字を使った人がいたが、何故かは知らない。しかし当該誌の作者の一人が言った:彼は「商情に詳しい」友人で、これは彼のために宣伝しているのだ、と。これに啓示を受け、良く考えてみると、彼の言葉はその通りで:褒めるのは固より良い宣伝だし、けなすのも宣伝となり、大いに褒めるのも宣伝なら、辱めるのも宣伝でないとは言えない。
例えば、甲乙が決闘し、甲が勝ち乙が死ぬと、人々はもとより殺人の凶手を見ようとするが、それと同様、もう何の役にもたたなくなった死屍をムシロに巻いて、2枚の銅貨で見世物にし、少し銭稼ぎする。私は今回出版物の名前を言わぬが、主意はその宣伝をしたくないからで、時に陰徳を講じることはせず、あたかも他人の屍で銭儲けするのを防ごうとするかの如し。しかし真面目な読者が私の刻薄を責めたりしないようお願いする。
彼らはこの機会を放ってはおかず、自ら銅鑼や太鼓を敲いて認めるからだ。
声明が長すぎた。もとに戻すと、私の言いたいのはこれまでの事実の証明で、去年海派をけなしたのは、元来、根っこの所では、けなしていたのは遥か彼方から秋波を送ってきたのだということがやっと分かったことだ。
文豪はやはり本当の本領を有し、アナトール・フランス著「タイス」は中国で2種の訳があり、その中にこんな物語がある。ある高僧が砂漠で修業中、アレキサンダー府の名妓タイスは、世道人心を害する人間だと思い到り、彼女を感化して出家させようとした。彼女自身を救い、彼女に惑わされた青年たちを救い、無量の功徳を積もうとした。ことは順調にゆき、テスは出家し、彼は彼女の以前の衣飾を、恨みをこめて毀損した。だが奇怪なことに、この高僧は自分の独房に戻り、修業を続けて行くうちにもう落ちついて続けることができず、妖怪を見、裸体の女を見た。彼は急いで遁れ、遠くへ行こうとしたが効き目は無かった。彼自身テスを愛してしまったことを知ったから、神魂が顛倒してしまった。
だが、多くの愚民は彼を聖僧として、至る所で彼に祈求、礼拝し、彼を敬うので「唖が苦瓜を食べた」ように苦くても物も言えにようになった。彼はついに自白することを決め、テスの所へ行き、言った。「君を愛している!」と。しかしこの時、テスの死期は近く、自ら天国を見たとしって、暫くして息絶えた。
しかし京海の争いの目下の結論は、この本と異なり、上海のタイスは死なず、両手を広げ「いらっしゃい」で大団円となる。
「タイス」の構想は多くはフロイトの精神分析学説を応用しており、厳正な評論家なら「何ら本当の本領」とは言えぬと考えぬし、私も争弁しようなどとは思わない。だが私は自分もあの本の愚民と同様、「君を愛している」「いらっしゃい」を聞く迄は、けなすのは単なるけなしだと思ったし、卑しむのも単なる卑しめで、今すでに世に出ているフロイト学説すら、想いもつかなかった。
ここで又声明を付す:私は「タイス」を例に挙げたが、その物語を例にしたに過ぎぬ。私の昔からの考えは、妓女を海派の文人に比そうとするものではない。この種小説の人物は自由に変えること可能で、隠士、侠客、人格者、内親王、若旦那、若社長の類、全て可である。況やタイスも実は何も咎めることは無い。在俗の時は、溌剌として暮らし、出家後は刻苦修業しており、我々の所謂「文人」と比べれば、中年になったばかりなのに、自ら嘆じて「私は意気消沈して」と死んだも同然なのよりずっと人間らしい。自白するが:私の気持ちとして、むしろ溌剌とした妓女に敬意を表したく、死んだも同然のような文人との冗談の言いあい等したくもない。
なぜ去年北京が秋波を送り、今年上海が「いらっしゃい」と言ったかに至っては、事前の推測となって、正しいかどうか分からないが。思うに:多分頼まれもしないのに、手伝おうとしたので、最近「不景気」だから、両方が一緒になるしかなく、割れたレンガ、古い靴下、鞄、洋服、チョコ、梅ナンとかを一緒にし、もう一度勘定書きを作って新会社とし、それで主要顧客の耳目を一新しようとでもするのだろう。
4月14日
訳者雑感:北京で文芸活動をしてきて上海など眼中にもなかった北京派の連中が、日本の進攻などで立ち行かなくなったのか、上海をけなす事が秋波を送るという事に繋がるという魯迅の展開は、最後になって、上海がそれを受け入れるかどうか疑問であるということで落ちがつく。それまで官のいた都北京が北平と改称されたように、もはや都でもなくなった北京で文芸が成り立たなくなって、上海と同じどんぶりでメシにありつこうとしているのだ、との喝破である。事前の推測で正しいかどうかは分からぬが、としながらも。
国が平和な時は、北京も上海もそれぞれに官と商に近い関係を活かしてメシにありついてきたが、乱世になってそれもままならぬようになった。亡国一歩手前であった。
2014/04/13記
「文人相軽んず」
いつも同じことを言うと厭きられる。だから文壇では一昨年「文人は品行なし」と言われ、昨年は「京派と海派」でひと騒ぎし、今年は新スローガンの「文人相軽んず」が出てきた。
この気風について、スローガン派はとても憤慨し、彼の「真理が哭いている」として、大きな声を張り上げ、あわただしく全「文人」に軽蔑の辞を投げつけた。「軽蔑」を最も憎むが、彼らは「相軽んず」ゆえ、彼の理想と同じ風習の社会を損傷し、彼自身を害して、軽蔑の術を施すしかない、と。これは勿論「即その人の道で以て、その人の身を治む」であり、古怪な人の決まったやり方だが、「相軽んず」の悪弊は容易には根絶できない。
「文選」から言葉を探すと、大抵「文人相軽んず」の4文字を目にするから、拾い出して使ってみるとぴったりする。しかし、曹聚仁氏は「自由談」(4月9日―11日)で既にそれを指摘し、曹丕の所謂「文人相軽んず」は、文は一体に非ず、よく善を備えるは鮮(すくなく)、各々長所を以て短所を相軽んず」凡そ、指摘する所は、僅かに文章作成の範囲に限っている。他の一切の攻撃は姿かたちや貫籍、中傷、デマ及び施墊存氏式の「彼等自身も同じだ」或いは、魏金枝氏式の「彼の親戚も私と同じだ」の類は全て、この中に入っていない。もしこれらを曹丕の言う「文人相軽んず」と一緒にすると黒白混淆で真理は大いに哭くが、文壇の暗黒を増すことになる。
もし「荘子」から言葉を探すと、大概また2つの貴重な教訓に出会う。「彼亦一是非、此れ亦一是非」で覚えておいて危急時の護身符とするのも気がきいているようだ。しかしこれは暫時口で言うのは構わぬが、永遠に実行するのは難しい。この種の格言引用が好きな人は、その精神と相離れることはるかに遠く、狆と老耼(老子)の差より甚だしいこと、今さら言うまでもない。荘子自身「天下篇」で、他の人の欠点を列挙し、彼の「是非無し」を以て、一切の「是非とする所あり」の言行を軽んじているではないか。さもなければ、「荘子」は只単に「今日の天気はハハハ」の7字で済むだろう。
但し、我々は今や漢や魏の時代に非ず、また当時の文人の様に必ず「各々長所を以て、短所を軽んず」必要もない。凡そ、評論家の文人に対する、或いは文人たちが互いに論評し、各々「短所を指摘し、長所を揚げる」は固より可だが「短所を掩飾し、長所を称賛」するのも不可ではない。しかし、それには必ずあちらに「長所」がなければならず、こちらには明確な是非が無ければならず、熱烈な好意がなければならぬ。今年新たに出た「文人相軽んず」という曖昧模糊とした悪名が驚くほど人の目をくらますのは、風流を気取った金持ちや、古雅を装った不良息子、淫書を売るヤクザで、「彼亦一是非、此れ亦一是非」に違いなく、一律拱手し眉を垂れ、敢えて言わず、取り上げるまでもない、というのでは、
どういう類の評論家か文人か?――彼こそまず「軽んじ」られなければならない!
4月14日
訳者雑感:シンガポールの学校で馬さんという女性の先生が、「文章は自分のが一番」
「女房はヒトのが一番」という句を教えてくれた。「文章是自己的好、老婆是人家的好」
これが「文人相軽んず」の伝統だろう。魯迅も胡適や林語堂をとても軽んじている。
彼女は中国の南方で馬という姓はマホメットの馬から来ているのが多いとも語った。
南方人としては響きの美しい北京語であった。
2014.4.4.記
人生、字を識るは糊塗の始め
中国の成語は「人生字を識るは、憂患の始め」で、この句は私の造ったものである。
子供は常々良い教訓をくれる。その一つが言葉を学ぶこと。彼らが言葉を学ぶ時、教師はいないし、文法の教科書もなく、字典もない。只不断に聞いて覚え、分析比較し、ついには一つ一つの言葉の意味がわかり、2-3才になると普通の簡単な言葉はたいてい皆わかり、話す事も出来、大きな間違いは無く、子供たちは往々、人の話を聞くのが好きで、お客さんが来るととても喜び、その最大の目的は固よりお菓子を一緒に食べることだが、賑やかなのが好きで、とりわけ他の人の言葉を研究し、自分にどんな関係があるか――理解できるか、意味を聞くべきか、自分も使えるかなど。
我々の以前の古文学習も同じやり方だった。教師は講釈せず、棒読みさせるだけで、自分で覚え、分析比較させた。うまくゆくと、ついに幾つか分かるようになり、また何句か書けるようになるが、うまくゆかぬ事も多い。自分では分かったと思い、人も分かったと思うが、詳細に見ると余り分かっておらず、明代の小品さえ句読点をうまくつけられないのも少なくない。人が言葉を学ぶのは、高等華人から下等華人まで、聾唖でない限り、学べぬ者はほとんどいないが、文を学ぶとなると大変で、会得できるのは極少数にすぎぬし、たとえ会得できた人でも、遠慮なく繰り返して言わせてもらえば、やはりいい加減な人が少なくない。これは当然古文のせいだ。懸命に古文を学ぶが、時間は有限で、会話のように一日中聞くことはできぬからだ:そしてまた読む本も「荘子」や「文選」「東莱博議」や「古文観止」など、周代の文から明代の文まで、読むほどに錯雑してきて、脳みそも古今各種の馬隊に踏みにじられ、ずたずたにされてしまうが、馬蹄の跡はいささか残り、これが所謂「得る所あり」だ。この「得る所あり」は無論はっきりとではなく、大概は分かったようで分かっていないのだ。この「得る所あり」は無論明確にではなく、大概は分かったようで分かっていないから、自分では分かったと思うが、実は分かっていない。自分は字を識った、と思っているがそうではない。当人はもともと糊塗だから、文章を書くのも糊塗ゆえ、読む人がそれを読んでも当然訳が分からなくなる。しかしどんな糊塗な文章の作者でも、話す言葉を聞けば大抵はっきりし、聞いて分からぬという事は無い。――故意に(むにゃむにゃと)けむに巻く本領を顕示する講演以外は。それゆえ、この「糊塗」の来源は識字と読書だと思う。
自分を例にとると、常々書物から採る語彙はそれほど稀な字ではないし、読者もそうとは思わない字だが、熱心な読者は、紙と鉛筆を差し出して「以前の文章にこの山を形容して‘崚嶒’(けわしい)とかあの山を‘巉岩’(そそりたつ)とありますが、どんな様相ですか?絵でなくても構いませんから、輪郭を描いてもらえませんか、どうぞよろしく」と。
私は腋に汗をかき、穴があったら入りたくなった。自分でも‘崚嶒’‘巉岩’がどんな姿なのか知らず、この形容詞は古書から採ってきた物で、これまで明らかにしてこなかったし、真面目に調べたら大変なことになる。この他に「幽婉」「玲嚨」「蹣跚」「囁嚅」の類は大変多い。
口語文は「話すように明白」たるべし、とは耳にタコができるほど唱えられてきたが、実は今多くの口語文が話すように明白となっていない。明白というなら第一に作者は知ってそうで知らない字を放棄し、生きている人の口から生きた言葉を採り、紙に移すのが良いと思う:子供に学ぶのだ。自分が確かに理解できる言葉で話すのだ。古語の復活や方言の普遍化も無論必要だが、一に選択し、二に字典で含意を確定すべきだ。だがこれは別の問題だから、ここでは割愛する。 4月2日
訳者雑感:
口語で文章を書くのは、子供が耳で聞いて覚え、分析比較して一つずつ言葉の意味を理解し、間違いない言葉を話すようになる。それをそのまま紙に移すと良い文章になる。
これは実感であると思う。彼も自分の子供がめきめきと成長して言葉を話すのをみて、これだと思ったに違いない。晩年になって授かった子供、孫のように可愛いのだろうな。
私事になるが、4歳の孫の出迎えをすることが多くなって驚くことがある。先日トレーナーのまま帰宅しようと途中まで来て、突然建物の陰に入って、リュックからポケットのついた新しいズボンを取り出して、それに履き替えると言う。その時の言葉が「ちょっとおしゃれなズボンに替えるから待って」と。「かっこいいね」と言うと、「おしゃれなの」と言い返す。きっと母親からお婆ちゃんにはこのおしゃれなズボンを見て貰ってね、といわれてきたのだろう。
字を書けない子供が話す言葉は正確である。字を識りだすと、その字の含意を正確に理解せずにいい加減に「かっこいい」と思って「糊塗」に使い、相手にも自分も訳の分からない文章を書いている。反省、反省。
2014/04/03記
田軍作「八月の郷村」序
(ソ連人作家の)Ehrenburgはフランス上流社会の文学家について論じた後で、この他に彼らとは異なった人達がいる、として:「教授たちは静かに彼らの研究室で働き、X線療法を研究する医者は彼らの職務上のことで死亡し、仲間を一生懸命に救おうとする漁師は悄然として大海に沈没してゆく。…片や荘厳な任務遂行、片や荒淫と無恥だ」
末尾2句はまさに現在の中国のことを指しているようだ。中国の方がずっと甚だしいが。
手元に本がないので、どこで見たか言えぬが、多分もう漢訳された日本の箭内亘氏の著作だと思うが、彼はかつて宋代の人がどういう風に蒙古人に淫殺され、俘虜とされ、滅茶苦茶にされ、奴隷として使われたかを一つ一つ記述した。だが南宋の小朝廷は却って以前通り、傷ついた山河の間にいる黎民に威をふるい、傷ついた山河の間に行楽し:逃げ込んだ先で気炎を上げ奢侈な暮らしをし、それとともに頽廃と貪婪が横行した。『役人になりたければ、殺人放火すれば招かれる、金持ちになりたければ、酒醋売りについて行け』とは当時の人々が朝政の精髄から取り込んだ結語だ。
人々は欺きと圧制の下、力を失くし声も失い、せいぜい民謡数句を歌えるだけだった。
『天下に道あれば、庶人議せず』秦の始皇帝、隋の煬帝は、無道だと自認したか?人々はただ永遠に口を噤み、舌を閉ざすしかなく、ぞろぞろと曳かれて殺され、奴隷にされる他なかった。そんな状況が続くと、誰しも口を開くのを忘れるか、きっと口を開けなくなってしまう。すなわち前清末でいうと大事件がたくさん起こった:アヘン戦争、中仏戦争、中日戦争、戊戌政変、義和団の変、八国聯軍進攻から民国元年の革命に至るまで。だが我々はまだ一冊もまともな歴史的著作が無いし、文学作品は言うまでもない。「国事談ずる勿れ」が我小民の本分だから。
我々の学者も以前こう言った(胡適):中国を征服せんとするなら、中国民族の心を征服せねばならぬ、と。実は中国民族の心のある部分は早くから我々の聖人君子賢相武将取り巻きたちに征服されて来たのだ。最近東三省(満州)が占領された後、北平の金持は山海関外の難民が家を借りに来るのを嫌うのは、彼らが家賃を払えないと思うからだ。南方では義勇軍の消息はまだ土匪を倒せず、骨を蒸して屍を検査することもできず、阮玲玉が(誹謗に苦しんで)自殺し、姚錦屏が男に変装したのがみんなの耳目を驚かせたではないか?
「片や荘厳な任務遂行、片や荒淫と無恥だ」
しかし人々は進歩したかどうか、時代が近すぎるからまだ隠滅していないからなのか分からない。私は東三省が占領された事を書いた小説を数種読んだ。この「八月の郷村」は大変良い作品の一つで、短編の連続に近いが、プロットと人物描写の手法もファジェーエフの「毀滅」とは比べられぬが、厳粛、緊張、作者の心血と失った空と大地、受難民及び失われた緑の草原、高粱、バッタ、蚊が入り混じり一団となって読者の目の前に鮮紅として展開され、中国の一部分と全て、現在と未来、死に至る路と生きてゆく道を顕示している。凡そ、心ある読者はしまいまで読み、且つ得る所がきっとあるだろう。
「中国民族を征服せんとすれば、民族心を征服せねばならぬ!」というが、この本はその「心の征服」に対して障碍になる。心の征服はまず中国人自身が代わってやるべきだ。宋はかつて道学で金・元の心を治めるのに替え、明はかつて党獄で満清の箝口に替えた。
この本は勿論のことだが満州帝国を容認せぬが、それゆえに当然中華民国も容認せぬ。この事は大変早く実証されよう。事実が私の推測が間違っていない事を証明したら、これがとても良い本だと言う事を証明する。
良い本がなぜ中華民国を容認せぬか?それは勿論、すでに何回か上述したように――
「片や荘厳な任務遂行、片や荒淫と無恥!」だからである。
これは序らしくないが、作者と読者は私を責めたりしないと思う。
1935年3月28日の夜、魯迅読了後記す。
訳者雑感:魯迅は自分に序を求めてきた田軍(蕭軍の別のペンネーム)の作品を読了後、これを書いた。冒頭のフランスの上流社会の文学とそれとは異なる荘厳な任務を遂行している人達がいることを引用して、中国社会でもフランスの上流社会の荒淫と無恥と同様な連中がのさばっているのに対して、荘厳な任務を遂行している人達がいることを読者に訴えていこうとしている。彼らは満州帝国も容認しないが、東北三省を占領されても、何も抵抗しない中華民国も容認しない。序らしくない序だが、この序を読んだ読者は一気に最後まで読み終えることだろう。最近でも読まれており、「血で書かれた大作」との評だ。
名馬は伯楽に見いだされる。蕭軍とその夫人ともに魯迅に見いだされ、良い作品を書いた。話しは跳ぶが、鶴龍は最初入門申請を断られ、2度目の井筒部屋でも65Kgの体重で床山にでもするかと言われた程見込みが無かったそうだが、やはり名伯楽に見出されたのだろう、人格的にも素晴らしい横綱になった。モンゴル語の他に日本語ロシア語英語も話すというから、スゴイ。口上通り、毎場所優勝にからむような相撲を見せてほしい。
日本人力士から早く横綱が出てほしいが、この3人を全員或いは2人倒して2場所14勝しなければならぬとなると、とても難しいことだと思う。(魯迅が序らしくない序を書いたので、私も翻訳雑感らしからぬ物を書いたが、読者が責めたりしないことを望む)
桜開花の横浜で、2014/03/28記
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