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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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名人と名言

  「太白」第2巻7期に南山氏が「文語文を守る第三の方策」として挙げている:第一は「口語文を書こうとするなら文語文から始めなければ通じない」第二は「口語文を上手に書こうとするなら、まず文語によく通じねばならない」と。十年後に(章)太炎氏の第三がやっと登場し「諸君は、文語文は難しいと思っているが、口語文の方がよほど難しい。理由は現在の口頭語は多くは古語で、小学(旧時、文字の訓詁、音韻研究の学問)に精通していなければ、現在の口頭語の某音が古代の某音だとわからず、古代の某字を知らなければ、書き間違える。…」
 太炎氏の言うのはその通りである。現在の口頭語は、一朝一夕に天から降って来たのではなく、中には当然多くの古語があり、古語がある以上、当然、古書にその多くを見ることができるから、口語文を書こうとする人は、文字ごとに「説文解字」で調べねばならず、それは確かに任意に字を借りた文章を書くのに比べ、どれほど難しいか分からない。だが、口語提唱以来、主張者は誰も口語を書く主旨が「小学」から本字を探し出そうと考えてもいないし、我々は広く一般に知られた借字を使っている。誠に太炎氏の言うように:『知人に会って挨拶する時「こんにちは」の「呀」(語尾音)すなわち「乎」の字は:人に答えて:「はい」という意味で使う「呀」すなわち「乎」の字である』だが、我々はたとえこの両方を知っていても「こんにち乎」とか「はい也」とは言わず、「こんにち呀」「はい呀」という。口語文は現代人が読む為に書くのであり、商周秦漢の死者の為ではなく、地下の古人を起こしてみても分からないし、我々も豪もひるんだりしない。だから太炎氏の第三の方策は実は文が題に対応していない。これは氏が得意とする小学の範囲を広げすぎた為だ。
 我々の知識は有限だから、みんな名人の意見を聞こうとするが、問題がある:博識者の意見を聞くのが良いか、専門家のが良いか?答えはいとも簡単で:全て良い。無論両方とも良いが:両者の色んな意見を聞いてから、相応の注意を採るべきだ。なぜなら:博識者の話は大抵浅く、専門家のはとても精力的だからだ。
 博識者の話は浅くて、分かりやすいが、専門家のはとても精力的な上に、説明が加わる。彼らが精力的なのは自分の專門を講じることを専らとするより、専門家という名によって専門外の事を論じることに精力的だということだ。社会は名人を崇敬するから、名人の話は名言と思い、彼が名を得たその学問や事業が何であったかを忘れる。名人はその誘惑によって、自分が名を得たのがどの学問や事業だったかを忘れ、徐々に全ての人より勝っているから、談ぜぬ所なし、ということで道理から外れてしまう。その実、専門家は彼の得意分野を除けば、多くの見識は往々、博識者や常識家に及ばない。太炎氏は革命の先覚者で、「小学」の大師で、文献を談じ「説文」を講じると、当然聞くべき所は多いが、現在の口語文を攻撃すると、牛の頭が馬の口に対応せぬことになる例だ。また江亢虎博士は以前、社会主義を講じて名を売った名人だが、彼の社会主義はどんなものだったか、私は知らぬ。ただ、今年、彼はその所以を忘れ、「小学」を講じ、「徳」の古字を「悳」として、「直」と「心」から、「直」は「直覚の意」と言いだしたが、実際、精力的さは一体どこまで行くのか知らないが、その上の半分の曲直の直の字ということすら明白ではなく、この種解釈はやはり太炎先生にお伺いすべきだろう。
 だが社会ではどうやら名人の話は名言と思い、名人なら通じない所は無く、知らぬ事は無いと考える。それで欧州史を訳すと、英語の上手い名人に校閲を依頼し、経済学の本なら、古文の上手い名人に「題簽」(本の表紙に張る短冊状の紙に書名を書いたもの)を頼む(経済学など無縁な書の名人に依頼するという諷刺:訳者):学界の名人が医者を紹介して「医術界の名医」だと言い、商業界の名人が画家を称賛して「六法(画の方法)に精通」という。…
 これも現在多く見られる欠陥だ。独の細胞病理学者Virchowは医学界の泰頭で、国民すべて知る名人で、医学史上での地位は極めて重要だが、彼は進化論を信じず、教徒に利用されて何回も講演しHaeckelの言によれば、大衆に大変悪い影響を与えた由。彼の学問はとても深く有名だったので、自分でもそう思い、自分が理解できぬ物は誰も理解できぬと考え、進化論を真剣に研究せず、たった一言だけを述べ、全ての功を上帝に帰した。現在中国でよく紹介されている仏の昆虫学の大家ファーブルもこの傾向が強かった。彼の著作もやはり2つの欠陥があり:一つは解剖学を嘲笑い、二つは人類の道徳観念を昆虫界に用いたことだ。解剖が無ければ彼の様な精しい観察はできず、観察の基礎はやはり解剖学だからだ:昆虫学者は人類に対する利害を基準に、益虫と害虫に分けたのは確かに理に適ったことで、当時は人類の道徳と法律によって昆虫を善虫と悪虫に定めたのは余計な事だ。厳正な科学者がファーブルに対し婉曲に批判するのも実に故なしとしない。但し、この2点に注意すれば、彼の大作「昆虫記」十巻は大変興趣に富み、有益な本である。
 しかし名人の流す毒は、中国ではとてもすさまじいものがあり、これはやはり科挙の余波である。当時は儒生は私塾では、天下国家と如何に関わるかに、物事を推し量り、頭を振りしぼって文章をつくるが、一旦合格すると真に「一挙に名を成し、天下知る」で修史もできるし、文章の値打ちを衡り、民に臨み、河を治める:清末には学校も開き、炭鉱を始め、新軍を練兵し戦艦を造り、新政を条理に従って陳べ、海外視察したが、その成果はどうだったか、私がとやかく言うことではない。
 この病根は今も除去されておらず、一旦名を成せば「満天に舞い上がる」の感あり。私は思うのだが、これからは、「名人の言葉」と「名言」を明確に分けるべきで、名人の言葉がすべて名言とは限らず:実は名言は田夫や野老の口から出た物が多い。言うなれば、名人の名たる所以はその専門についてであって、専門外の気ままな放談は警戒した方が良い。蘇州の学生は聡明で彼らが太炎氏には国学を講じて貰ったのであって、簿記や兵練を講じて貰ったりしなかった。――残念ながら人々はもう少し注意深く考えなかった。
 私は今回、何回か太炎氏に触れたが、自分としては大変すまないと思う。だが、「智者の千慮も必ず一失あり」で、これもきっと先生の「日月の明」を傷つけることは無いであろう。私の説については、「愚者の千慮、必ず一得あり」で蓋し亦「諸を日月にかけても磨滅せぬ」論であると思う。     7月1日
訳者雑感:ファーブルの人類の道徳観で昆虫を善悪に分けることの非、魯迅の東京時代の恩師であった太炎氏の口語文への頑なな姿勢に対する反駁など、名人が専門外の事を放談して大きな害悪を流すのに大反対の主張を展開している。
 それにしても、恩師だったにせよ、太炎氏に対する批判は手厳しいものである。これは林語堂とか他の「名人」と世が看做している者たちへの徹底した反撃である。これが中国の科挙の弊害の余波であって、名だけがまかり通る「いんちきな制度」である。これを否定し改めなければ、将来は無いというのだ。
      2014/06/17記


 

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「題未定原稿」3

「題未定原稿」3
三。
 前述の通り「ボーイ相」は彼の職業と関係ありというべきだが、全てそうとも限らぬし、一部はボーイが出て来る前からの伝統である。だからこの種の相は時には、清廉な士大夫も免れぬ。「事大」は歴史的に存在したし、「自大」も事実上、つねに存在した:「事大」と「自大」は相容れぬが、「事大」であることで「自大」になるのも実際よく見かける――彼は「事大」するに値しない相手を見下すのに十分な理由を持っている。ある人(林語堂を指す:出版社注)が五体投地するほど敬服する「野叟(翁)曝言」(清代小説)の(主人公)の「一人の人(皇帝)の下にいて、衆人の上に在す」文素臣がまさにこの標本だ。彼は華を崇し、夷を抑えたが、実は「満州人のボーイ」で:古(いにしえ)の「満州人のボーイ」はまさに今日の「西洋人のボーイ」である。
 従って、我々読書人は自分は西洋人のボーイよりはるかに勝っていると思っているが、まだすっかりと垢を洗いきっていないから、少し余計なおしゃべりをすると、常々尻尾を出してしまう。再び名文を以下に引用する――
 『…それは文学にあり、今日はポーランドの詩人を紹介、明日はチェコの文豪を紹介し、そして著名な英米仏独の文人については、陳腐だとして嫌い、深く観察して究極を求めぬ。これは女性が流行の服を欲しがるのと同じで、どうも何かに媚びているのだ。自ら女であることを嘆じ、顔色を以て人につかえねばならぬ辛さは言葉にできない、と。この種の流れの弊は浮にあり、これを救う道は学にある』(「今文八弊」より)
 ただ、この種「新装」の始まったのは、思い起こせば大変古く、「ポーランド詩人紹介」は30年も前で、私の「摩羅詩力説」に始まる。その頃は、満族の清が中華を主宰し、漢族は支配されていて、中国の境遇はポーランドにとても似ていて、その詩歌を読むと心に深く刻まれやすく、単に事大の意図など無かったのみならず、媚を献じる心も無かった。後に上海の「小説月報」はかつて、弱小民族作品の特集号を出したが、この種気風は今では衰退し、たまたま有っても余波にすぎない。但し、民国で育った幸福な青年は知らぬし、権勢におもねる奴才:拝金分子は勿論知らない。だがたとえ今ポーランド詩人やチェコの文豪を紹介したとして、それがどうして「媚」になるのか?彼らに「すでに著名な」文人などおらぬではないか?況や「すでに著名」なら誰がその「名」を聞き、またどこから「聞いた」のか?まことに「英米仏独」は中国に宣教師がおり、中国に今も又はかつて租界を有し、何か所かに駐軍し、軍艦もおり、商人も多くいて、彼ら用のボーイを使う者も多く、一般人はただ「大英(帝国)」「花旗(アメリカ)」「フランコ」「ゲルマン」を知るだけで、世界にポーランドやチェコがあることさえ知らない。しかし世界文学史では、文学の目で見るわけで、勢力利害の目で見るわけではないから、文学は金と鉄砲で掩護の必要もなく、ポーランドやチェコは(義和団の時の)八国聯軍に参加して北京を攻撃することもなかったし、その文学は一部の人しか知らず「すでに著名」でないだけだ。外国の文人が中国で有名になろうとするなら、作品に頼っているだけでは不十分なようで、それは逆に軽薄さを得るだけとなるようだ。
 従って、同じく中国に攻めてきた事の無い、ギリシャの史詩、インドの寓話、アラブの「千夜一夜物語」スペインの「ドンキホーテ」のように、たとえ他国ではすでに有名で、「英米仏独の文人」より下位でない作品も、中国では忘れられており、彼らは或いは国家がすでに滅びていて、無能とされ、もはや「媚」の字を使う必要もないわけだ。
 この状況に対し、まず先に前に引用した林語堂氏の訓詞を下記する――
 『この種気風、その弊は奴にあり、これを救う道は、思にある』
 しかし後の2句はうまく使えない。「奴であるなら、「思」しても亦何の益ありや。いろいろ思いめぐらせたが、「奴」になっては、少しばかり巧妙を得るのみ。中国にはむしろ「思」をめぐらして事の無い西洋人向けのボーイの方が、将来の文学にとって却って望みがある。
 だが「すでに著名な英米仏独の文人」は中国では確かに不遇である。中国で学校をつくり、この4カ国語を学んですでに久しいが、最初は使館の通訳養成をもくろんだだけだったが、後に展開して盛大となった。独語学習は清末の軍事操練改革で盛んとなり、仏語は民国時の「勤工倹学」(働きながら学ぶ制度:周恩来、トウ小平などが渡仏した)で盛んになり、英語は最も早く、一にビジネス、二に海軍で、英語学習者は最多で、英語学習用の教科書と参考書も最多で、英語で身を立てた学士文人も多い。だが、海軍は軍艦で人を運ぶに過ぎず、「すでに著名な」スコット、ディケンズ、デフォー、スウイフト、…等を紹介したが、漢文しか知らぬ林紓(翻訳家)は一番有名なシェークスピアの数編の戯曲すら、英語専攻ではなかった田漢が翻訳するまで待たされた。この理由は、正に「思」しなければならないことだ。
 しかし今また「今日はポーランド詩人、明日はチェコの文豪を紹介」する危機が来て、弱国の文人は中国で著名な英米仏独の文学の風格はついに彼らの財力武力で「現在の文林」に深く入ることはできず、「尻尾を追いかける犬」が恒心も無いくせに、志は高山にあり、身を起こそうとせず、山林に電灯を見て、語録に外国語を挟み「すでに著名な英米仏独の文人について」「究極を求めるために」どんな人をいつまで待てばよいのか知らない。それらの文人の作品はむろん素晴らしいが、甲が私などは洋を望んで、嘆じるのみです、と言えば、乙は諸君、どうして一生懸命に探求しないのか、という状況だ。古い笑い話にある:
昔、孝行息子がおり、父の病気を治すには、股の肉が良いと聞いたが、痛いのを恐れ、刀を手にして門を出、途中で他人の腕をつかみ、凶暴にこれを割こうとし、相手は驚いて拒んだが、孝子曰く、股を割き父を治すは即ち大孝、汝、驚き拒むは、豈、人ならんか!と。
これはうまいたとえ話で:林氏云う:「言い方はよくないが、効力は実に同じ」うまい弁解ではある。       6月10日

訳者雑感:洋務運動で、日本は「和魂洋才」というスローガンで、和魂は保持したいと思いながら、実際は魂の部分も幾分かは血肉にしたと思うが、中国では魯迅が記すように、英米仏独からの洋才の採用は、ドイツの軍事操練(の方法)、フランスの勤労しながら勉強、イギリスに至っては海軍中心で人を運ぶ為の軍艦のことは学んだし、海事関係の文学は翻訳したが、シェークスピアすらずっと後になって英語専攻でもない田漢が訳すまで待たねばならなかった、というのは、「魂」に関しては、一切これを拒否してきたことを示している。法の精神とか三権分立とかをフランスから「考え方として」受け入れようともしなかったようだ。フランスで共産主義を学び、それで政権を取ることが最優先され、その結果一党独裁という政治形態が、「国度として民主や三権分立を受け入れる程度に至っていない」
ということを示しているようだ。
    2014/06/11記
 

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「題未定」原稿2

「題未定」原稿
二。
 やはり「死せる魂」翻訳の件。書斎にいるとこれしかない。筆を動かす前にまず一つ決めねばならぬ:できる限り帰化させるか、洋風を保つか?日本語訳者の上田進君は前者だ。風刺作品の翻訳は分かりやすさが第一と考え、分かり易ければ効力はより大きくなと考える。だから彼の訳文は時に一句が数句になり、解釈に近い。私は反対だ。只分かりやすさを求めるなら、創作に及ばない。或いは改作し、ものごとを中国の事にし、人間も中国人にする。訳すならやはりまず第一目的は外国の作品を博覧することで、情を移すのみならず、智を益し、少なくともどこで何時こう言う事が起こったかを知ることで、外国旅行をするのとよく似ている。異国情緒がなければならず、所謂外国のという感じだ。
その実、世界には完全に帰化した訳はありえぬ。もしあっても、顔は似ていても心は離れ、厳密にいえば翻訳とは言えぬ。凡そ、翻訳とは両面を兼ね顧み、一つは分かりやすくし、もう一つは原作の雰囲気を保つことだが、この保つということはしばしば、分かりやすさと相矛盾する:見慣れぬ物だからである。だが元来、西洋人だから、当然見慣れておらず、目になじませるべく、彼らの衣装を換える事は可能だが、鼻を低くし、目をえぐったりすべきではない。私は鼻を削り、目をえぐれと主張はしないから、ある部分はむしろ口調が良くなくても構わぬ方だ。ただ、字句文章の構成は科学理論のように精密でなくてもよく、自由自在で良いが、副詞の「~地」の字を使ってもいいし、この字は今では多くの読者が見慣れてきたと思う。
 「幸か不幸か」私はこの為に、新しい職業「西洋人のボーイになる」ことを発見した。やはり休憩して雑誌をめくっていると、今回は「人間世」28期に林語堂氏の文を目にした。
摘録ではその精神を損なうから、一段すべて引用すると――
 『… 今どきの人はちょっと西洋の真似をして、モダンと自称し、甚だしきは中国の文法を放り出し、英語に倣おうとし、「歴史地」を形容詞「歴史地的」を副詞とし、英語のHistoric-al-lyを模倣し、西洋の弁髪(旧習)を垂らしたが、そうであれば「快来」(早く)は「快」の字が副詞ではないからどうして「快地的来」とならないのか?この類の手法は只、租界の混血児(アイノコ)の怪相で、文字を談じるには物足りぬが、西洋人のボーイとなる才はある。この種の気風の弊は奴にあり、これを救う道は思いにある』(「今文八弊」)
 しかし「地」の字の類の採用は高等華人の得意な英語から来たものではない。英語英語というのは笑止千万だ。況や、上記の文章の反語的な語気からみると、「西洋の真似をしたがる」「今どきの人」のようで、実際も「快来」を「快地的来」とはせず、これは単に作者の虚構だから、その名文を助けるためで、殆ど所謂「自己保身が主で、そうすれば自在に通じ、痛快無比になる」という例である。それは本物ではなく、「モダンを自称する」「今どきの人」が言う事なら、「其の弊は浮にあり」だ。
 私が今も故郷に住んでいてこの一段の文を見たら、よく分かり信用するだろう。我々の所にも西洋の教会は数か所あり、何人かのボーイはいるが、会う事はめったに無い。ボーイの研究をしようとすれば、自分を標本にするしかないが、顔付きは「だいぶ」違うが、何とか使えるかもしれない。その後、「幸か不幸か」上海に出てきて、西洋人が沢山いるから、ボーイもたくさんいて、目にする機会も多く:目にするだけでなく、何人かと話す光栄も得た。確かに外国語が話せ、話すのは大抵「英語」で、「英語」だが、これは彼らの生計の為に専ら西洋の主人の為に奉公しているせいで、彼らは西洋の弁髪を中国に持ちこんだりしないし、無論中国語文法を乱そうとの考えも無いが、時に幾つか音訳で「ナンバーワン」「トースト」等というが、これまですでに使い古された言葉で、新たに違う言葉を話して、自分のモダンさを示そうとすることは無い。彼らはどちらかと言えば国粋的で、余暇さえあれば、胡弓をひき、「探母」(京劇の唱)を唄う:制服で働くが、仕事が終われば、中国服に着替え、時々休暇で遊びに行く時は、金のある者は緞子の靴に絹の上衣だ。だが麦わら帽をかぶり、眼鏡もべっ甲の旧式はかけないのは、中華と西洋のセクト主義からすると欠陥である。
 私に他の職業を見つけさせようとするなら、英語が話せるなら、西洋人のボーイになるのはやぶさかではない。というのも、仕事でお金をもらえるなら、西洋人のボーイになるのと、華人の下僕になるのは、人格上何ら高低差は無いし、まさに外資の工場と華資の工場で得る賃金、或いは学費を払って、外国の大学或いは中国の大学で資格を取るのは、いずれも卑賤と高潔の区別は無いのと同じだ。ボーイを厭うべきは、その職業にあるのではなく、「ボーイ相(づら)」にある。ここでいう「相」は容貌ではなく「中、誠ならば、形、外にでる」で、「形式」と「内容」を包括しての言である。この「相」は西洋人の威勢が、華人たちより高いと感じ、自分も西洋語ができ、西洋人に近いから、華人たちより高いと感じる:但、自分もまた黄帝の子孫で、古い文明を有し、華の事情に深く通じ、毛唐より勝っていると考えているから、華人たちより威勢のいい西洋人より勝っていると思い、又更には西洋人の下にいる華人より上だと思っている。租界の中国人巡査もつねづね、この種の「相」を持っている。華洋の間を股にかけ、主と奴との間を往来するというのが今の租界の「ボーイ相」である。但し、二股膏薬ではなく、流動的でわりあい「融通無碍」で、彼は自らそれを楽しんでいる。君が彼の興をそがぬ限り。

訳者雑感:魯迅は「死せる魂」を訳すにあたって、以前ざあっと読んだというのは、何語の訳だろう。ドイツ語か日本語か?ロシア語を翻訳する力は無かっただろう。それにしても、英語が喋れるからということで租界の西洋人のボーイをしていながら、自らは黄帝の子孫で中華の古い文明に深く通じ、この点では威勢のいい西洋人より上にあり、またその西洋人の下で奴として使われていながら、一般の華人より上だと思っている。まさに阿Qの精神勝利法である。そんなボーイと五十歩百歩の英語が喋れるというだけの人間が英語の翻訳をして、チェコやポーランドの文学を見下している。「死せる魂」を読んでみなければ、と思う。     2014/06/08記

 

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「題未定」原稿

「題未定」原稿
 ごく常識的な考えも、往々、実験によってくつがえされる。これまで、翻訳は創作よりやさしいと思われてきたのは、少なくとも構想を練る必要が無いからということであった。だが本当に訳すとなると、難関にぶつかる。例えば、一つの名詞、一つの動詞が思い浮かばぬが、創作ならそれを回避できるが、翻訳ではそうはゆかぬから考えなければならず、頭はくらくら、目もしょぼしょぼとなり、急いで脳内の箱を開ける鍵を探しても見つからない。厳復(清末の翻訳家)が「名詞一つに旬月も考えあぐねた」というのも、彼の経験からでた言葉で、確かにその通りだと思う。
 最近もこの考えが外れ、自ら苦しむこととなった。「世界文庫」の編者からゴーゴリ作「死せる魂」の翻訳を依頼され、よく考えもせずに承諾した。この作品は以前ざあっと読んだことがあり、書き方も率直で分かりやすく、現代作品のように希奇古怪な点もなく、その当時の人はローソクの灯の下で踊り、何もモダ―ンな名詞もないし、中国に無い物も無く、訳者が部屋にこもって、懸命に造語せねばならぬような物は無いと思っていた。最も懸念したのは新しい名詞で、例えば電灯とか、これはもう新しくもないが、電灯の部品を私は6個の名前を使ったが、ランプのコード、電球、カバー、高さ調節用の砂袋、プラグ、スイッチの6個だが、これは上海語で、後の3個は他所では通じない。「一日の仕事」の中の短編の一つは、鉄工所の話で、後に北方の鉄工所の読者から、機械の名前は何も分からないという手紙をもらった。嗚呼――これは嗚呼しかない――実はそれらの名前の大半は19世紀末、私が江南で、鉱業を勉強していた時、先生に教わったものなのだ。今は昔とどう違うか、南北の地域差で、異なっているのか知らぬ。青年文学家が修養の根拠としている「荘子」や「文選」にもそのような名前は見つけられぬ。致し方ない。「36計、逃げるに如かず」最も弊害の無いのは、手をつけぬに如かず。
 恨むべきは、私はまだとても自大で、ついに「死せる魂」を容易だと思い、たいしたことはないと考えて引き受けてしまい、本当に訳しにかかった。そこで「苦」の字がまず来た。細かく読みだすと、確かに書き方は坦々とそのまま表現しているのだが、至るところに棘があり、ある物は、あから様に、ある物は隠されているのが分かる:重訳といえども、やはりできる限りその筆の勢いを保たねばならぬ。電灯や自動車は出てこないが、19世紀前半のメニュー、賭具、服装なども見たことの無い物ばかり、これではどうしても字典を手ばなせず、冷や汗タラタラ、勿論自分の語学水準の低さを怪しむしかない。但し、この偶然、自身の自大の為に、飲まざるを得なくなった罰杯は干さねばならぬ:やむなく訳していった。だが煩わしくて疲れた時は、新しい雑誌を取り出してきて頁をめくり休憩した。
これが私の昔からのクセで、休憩中も災を幸いとし、禍を楽しむ意を含み、その意味は:今度はみんながどのような問題で困っているかを眺める番が私に来たぞ、ということだ。
 華蓋の運がまだ終わらぬようで、依然として気分が晴れない。手にしたのは「文学」4巻6号で、めくると巻頭に赤い大きな広告があり、次号に亘氏の散文が載るようで、題「未定」とある。思い出せば、編集者は確かに手紙に何か書けと言ってよこしたが、私が最も恐れるのは、正しく文を書くことで、返事は出さずにおいた。文は書こうとすると、辛さを舐めることになり、返事を出さなかったのは、書かぬという答えだった。が、一方で又広告が出て、人さらいにあったも同然で困った。しかし同時にこれは多分自分も間違っていると思い到って、以前公表したように、私の文は湧きだしてくるのではなく、絞りだすのだ。彼は多分この弱点をしっかりつかみ、絞りだす方法を使って:私が編集者にあった時も、偶々彼らが絞り出そうとしているのを感じて、ぞーっとした。以前もし:「私の文は絞り出そうにも、出てこないのです」と言っておれば、きっと安全だっただろうが、私はドストエフスキーが自分の事を少ししか語らず、数名の文豪は専ら他人のことを講じるのを敬服していた。
 だが、積習はまだ尽くは除去しきれておらず、原稿料も畢竟は米に換えられるという事で、少しばかり書いても「海底に冤を沈める」ことにはならぬだろう。筆は不思議なもので、編集者先生と同様、「絞り出す」本領を有すらしい。袖手して坐していると居眠りしたくもなるが、筆を手に原稿用紙を面前にすると往々、何やら不思議なもので書き始める。勿論好い物をと思うが、かならずしもそうはゆかない。

訳者雑感:編集者から何か書けと言われて、雑誌に次号の広告に出されると、「人さらい」にあったも同然、というのは、日本の作家もホテルに缶詰めにされて云々というのと似ている。然し文士気質とは不思議なもので、手を袖にし、坐っていると居眠りしたくなるし、実際眠ってしまうが、筆を手に、原稿用紙を前に置くと、何か書きだすものらしい。
 画家や漫画化家も似たようなもので、登山家が山を前に登りたくなる気持ちに通じるか。
    2014/06/04 天安門25周年の日に、記す。
 あの日以来、一党独裁の政権は、開発独裁で自転車さえ切符がないと買えなかった時代から、北京市内の道路と言う道路は半分以上が車の駐車場になってしまって、身動き取れない状態になり、PM2.5で人々の体をむしばみ、腐敗汚職でとてつもない金額を私し、
国外にその金を持ちだして、本来豊かであった広大な国土を滅茶苦茶にしつつある。
 国のために身を捧げようと心から願う青年はどこを探しても見つからない。
 みな、役人になりそのポストで得られるうまい汁を最大限懐にして、この国から逃げ出そうと計画している輩ばかりだ。 
    2014/06/04追記
 


 

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「中国小説史略」日本語訳序文

「中国小説史略」日本語訳序文
 拙著「中国小説史略」の日語訳「支那小説史」が出版の運びの由、非常にうれしいことだが、またそれで自身の衰退を感じたしだいだ。
 思えば4-5年前、増田渉君が殆ど毎日、寓斎にこの本の打ち合わせに来て、時に当時の文壇の情勢を気ままに談じ、とても愉快だった。あの頃、私にはそんな余裕もあり、且つまた更に研究しようとの野心もあった。だが、光陰矢のごとし、今や妻と子も累となり、書籍収集のたぐいも身外の長物となった。「小説史略」改訂の機縁も多分もうないだろう。
それであたかも丁度筆を置こうとする老人が自分の全集の印刷されるのを見るように、私もそれがうれしいのだろう。
 然るに、積習は忘れがたきようだ。小説史に関する事はまだ時々注意してきて、比較的大きな問題として言えば、今年故人となった馬廉教授が去年、「清平山堂」残本を翻印し、宋人の話本の材料を更に豊かにした:鄭振鐸教授は「四遊記」の中の「西遊記」は呉承恩の「西遊記」の摘録で、祖本ではないことを証明した。これは拙著第16篇のその部分を訂正でき、その精確な論文は「痀僂集」(背の曲がった人:老人)に収録された。
 もう一つ「金瓶梅詞話」が北平で発見され、これまで通用してきた同書の祖本は、文は現行のより粗率だが、対話はすべて山東方言で書かれ、これは江蘇人王世貞の書いたものではない事を証明した。
 だが私が改訂していないのは、それが完備されてないのを不問に付したまま、日本語訳出版に対し、自ら喜ぶしかない。但し、いつかこの懶惰の誤りを補う時が来るのを願う。
 この書は言うまでもないが、寂莫の運命を有するものである。(魯迅が北京で寂莫の中で生活していた時に書いたものの意か)しかし増田君は困難を排して翻訳し、サイレン社主、三上於莵吉氏は利害を顧みず出版してくれた。これは、この寂莫の書を書斎に持ちこんでくれる読者諸君とともに、心から感謝します。
     1936年6月9日灯下、魯迅


訳者雑感:手元に、昭和16年(1941)岩波書店発行の右から「支那小説史」上下583頁
各60銭がある。大阪の阪神地下街の萬字屋書店のラベルがある。学生時代にこれを買うお金は無かったろうから、勤め出してから一杯飲んだあとに立ちよって買ったのだろう。ピンク色の帯びに星三つで60銭だから、当時は星一つが20銭だったと分かる。
 訳者の言葉に、「今年故人になった馬廉教授は(…略)以下が上記と同じ趣旨で記されている」1923年に魯迅が「序言」で「これまで支那の小説史は無かった」と記している。
「あったとしても、まず外国人の作ったものを…支那人が取り入れたのであり…」として、
中国人自らがこれを作らねばならぬという使命感がこれを世に出したものだ。学校の講義に使用したものだが、講義が拙くて聴講者が或いはよく了解し難いかもしれない事を慮り、その大要を書き、謄写にして聴講者に分けた。と続いている。昔の先生は手ずから鉄筆でガリ版刷りして、学生に配ったのだ。先生もそれでしっかり脳内に叩きこみ、学生もその先生の労に報いるべく、勉強に励んだ。今はパソコンで印刷、コピペして済ましてしまい、先生も学生も脳内にほんの少ししか残らないのを気にもしない。試験に通ればよいだけの作業をこなしているだけで、自分の血肉にしようとしてはいないようだ。
 なお、最後の行は、これを(利益が期待できるとは思えない出版を)出してくれることを承諾してくれたサイレン社の社主に心から感謝しているのだが、彼の「日本語の原文」
には『これを書斎にもたらされる読者諸君へとともに』とあり、社主と読者諸君への感謝の言葉と理解されるが、私は、どちらかといえば、この本の出版を引き受けてくれた社主に対して、それを読むことができる読者とともに感謝したい、という気持ちに訳した。
中国語原文は「社主三上於兎吉氏不顧利害、給它出版、這是和将這寂莫的書帯到書斎里去的読者諸君、我都真心感謝的」とある。「和」と「都」の理解が難しいが、出版社主に対して、読者と共に感謝するのか、社主と読者に対して感謝するのか? どう思いますか?
     2014/05/29記

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「助言から無駄話」

「助言から無駄話」
 「幇閑文学」(太鼓もち)はかつて害毒だと批難されて来た――が実は誤解である。
 「詩経」は後に経典になったが、春秋時代にはその中の数編は酒を勧めるのに使われ:屈原は「楚辞」を始めた老祖だが、彼の「離騒」は助言しようとして果たせなかったことの只の不平にすぎない。宋玉(屈原と同時代の詩人)は、現存する作品を見る限り、何の不満もなく、純粋の食客である。しかし「詩経」は経典で偉大な文学作品でもあり:屈原と宋玉は文学史上重要な作家である。なぜか?――畢竟、文才があったからだ。
 中国開国の雄才主君は、「助言者」と「幇閑者」を分けていて、前者は国家の大事に参与させる重臣とし、後者は彼の詩を献じさせ、賦を作らせ「俳優これを畜(やしない)」只、寵臣に列した。後者の待遇に不満な司馬相如は常に病いと称し、武帝の機嫌伺いに出ず、ひそかに封禅の文を書き、家に蔵し、以て彼も大典の計画があると――手助けの本領があることが分かるが、惜しいかな人々がそれを知る様になった時には、彼は「寿を全うしていた」しかし、実際には封禅大典には参与できなかったが、司馬相如は文学史上大変重要な作家である。なぜか?畢竟文才があったからだ。
 しかし、文雅な凡君の時には「助言者」と「幇閑」がごっちゃになり、所謂国家の柱石も常に、媚を売る詞の臣となってしまい、我々は南朝の数人の末代時に、この実例を見ることができる。だが主君は「凡」といえども「野暮」ではないから、それらの幇閑も文才は有しており、彼らの作品は今も滅していない。
「幇閑文学」は害毒という批難は誰が言ったのか?
権門の食客は碁も将棋も打ち、字もうまく、絵も描け、骨董も品評でき、猜拳(拳を当てる遊び)で酒宴を盛り上げるのもうまく、洒落もうまくてはじめて食客の資格を失わなかった。食客は食客の本領を有し、気骨がある者はクズだと看做したが、見せかけはとてもそれに及ぶことはできなかった。例えば、李漁の「一家言」袁枚の「随園詩話」などは、幇閑の誰でもできるというものではなかった。幇閑の志と才を有す者のみが、真正の幇閑であった。志はあっても才無く、デタラメに古書に句読点をつけ、何度も同じ笑い話をし、名士におべっかを使い、下らぬ噂話を吹聴し、厚顔でええかっこしいで、自から得意がる――無論中には趣もありと思う人もいようが――実態は単なる「無駄話」に過ぎぬ。
幇閑の盛んな時代は助言できたが、末代になると単なる無駄話となった。
             6月6日


訳者雑感:中国三千年の文学史に残る「詩経」や「唐詩」から「随園詩話」に至るまで、文才のある者が書いたものは、彼が幇閑であるか否かに拘わらず、古典として伝わった。
 開国の英君は助言者と幇閑を分けていたが、2代目3代目となり世の中が治まってくると、助言者より幇閑がはびこることになる。「狡兎死して良狗煮らる」という世の中となる。
 しかし単なる無駄話しかできぬ者はそれまでで、三千年の篩にかけられて残った作品は、助言者のものだろうと幇閑のものだろうと、文才があったものだけが残されて来た。
 1930年代の中国では、助言しようにもそれを受け止める「英君」もおらず、無駄話しかできぬ幇閑しかいない。幇閑の盛んな時代は助言できたが、末代になると単なる無駄話のみとなったというのは、彼の嘆きである。
嗚呼。
      2014/05/23記

 

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文壇三戸(家)

文壇三戸(家)
 この20年中国には多くの作家と作品が生まれ、今なお進行中で:「文壇」ができたのは何の不思議もない。だがそれを博覧会に出展するとなると顧慮せねばならぬ。
 文字が難しく学校も少ないから、我々の作家の中で、村娘が才媛になったとか、牧童が文豪になったというのは多分殆どないだろう。かつては、牛羊の世話をしながら経典を読み学者になった者もいたが、今は多分殆どいない。――2回「多分殆ど」と書いたが、例外的な天才がいたらご容赦願いたい。要するに、凡そ墨筆を弄す人々はまず何がしかの拠り所を持っており:先祖伝来の財産が今まさに減りつつある家系でなければ、父親が貯めて今なお増えつつある家系だ。さもなければ、人は読書識字に縁が無い。今識字運動をしているが、私もこれで作家が出て来ると信じていない。従って文壇は陰影の面からは、当分は多分2つの大分類の家系の子弟で、「没落しつつある戸」と「成り金の戸」で占められている。
 成り金でも没落でもなくて著作する人も結構いるが、それは第3種人ではなく、甲に近くなければ乙に近く、自費出版する者や、持参金を頼りに出版する者で、彼らは文壇の買官で、本論の範囲外だ。従って筆墨で生きてゆく作家は、まずは没落戸の中に求めねばならぬ。彼は以前、成り金だったかもしれぬが、今は文雅が算盤を上回り、家景は大変不如意だが、またその為に世間の浮き沈み人生の苦楽を見、そこで真に今昔の落差を思い比べ、「纏面とやるせない」気持ちになる。一に天の時が悪いと嘆じ、二に地の理が悪いと嘆き、三に自身も無能と嘆ず。だがこの無能は真の無能にあらず、自分は有能なることを潔よしとせず、それゆえ無能は高尚であり、却って有能より遥か上位にある、と思っている。
君達、剣を抜き、弓を張り、背中に汗をたらし、何をやろうとするか。我が消沈せし顔には「十年一たび覚める揚州の夢」のみ、我が破衣は「襟に残るは杭州の古い酒の痕」のみで、ものうさと汚れたしみ痕さえも歴史的に甚だ深い意味を持っているのだ。惜しむらくは、俗人には分からぬから、彼らの傑作も大抵は特別な神的な色彩を放つ:「影を顧み、自ら憐れむ」というものだ。
 成り金作家の作品は、表面的には没落戸と同じだ。というのも彼の意図は墨水で銅臭を洗い消すことにあり、それで初めて没落戸の主宰する文壇に上ることができたので、自ら「風雅の園林」に附し、他の旗を立てようとしないし、新たに異を唱えようともしない。
但、よく見てみると、別の戸に属しており:彼は窮極的には浅薄で、もったいぶったマネをする。応接間には諸子の(作品の)断句があるが、誰も分からぬ代物で:机上にも石印の駢文があるが、読めもできぬので、「襟には杭州旧酒の痕」と声に出すが、一方では人が彼の破衣を嘲笑いはせぬかと気にして、着るのは新調の洋服か、まっさらな絹の長衫(伝統服)だと見せたがる:又「十年一たび覚める揚州の夢」と言うことはできるが、品行優秀などと言う訳にはゆかず、成り金が金に対しては、ものうさと汚れたしみ痕より、ずっと深い歴史的意味があると感じる。没落戸が消沈しているのは、転げ落ちた者の悲声であり、成り金のやるせなさは、「文壇に上がる為」の手段にすぎない。
 だからその作品はたとえ没落戸の傑作に似たように書いても、やはり見劣りし:彼の作品は少しも「影を顧み、自ら憐れむ」はなく、却って「得意がってうれしがる」方だ。
 この得意がってうれしがる根性は「本物の色」から外れたら「俗」となる。字を識らぬのを「俗」とは言わぬが、文語を書こうとして、うまく書けなければ俗だ。文壇で没落戸はこれまで蔑まれて来た。だが没落戸が没落に耐えられなくなると、この両戸は時に交流を始めた。誰かが「文選」で「詞彙」を探し出すと、それを調べることは大いに可能で、覚えているが、その中に弾劾文があり、弾劾しているのは没落した「世家」で、娘を成り金に嫁がせ、世家の金満家だと騙る:それで両戸がどれほど反発し、またどのように聯合するかが良く分かる。文壇も無論こういう現象あり:ただ作品への影響は、成り金が少し得意になるのを増長させるに過ぎぬが、没落戸は「俗」に対して控えめとなり、他の方面に向って、大いにその風雅を談じるのみだ:しかしたいしたことは無い。
 成り金は文壇に上ると、固より俗は免れぬが、時が経つにつれ、算盤勘定をしながら、詩を誦し読書して数代後には雅となり、蔵書も日増しに増え、お金が日ごとに減ると本物の没落戸の資格ができる。だが時の変化は迅速で、時には修養の時間を与えず、成り金の時期は短く、没落が直ぐ来て「得意がってうれしがる」から「影を顧み、自ら憐れむ」となるか、「得意がってうれしがる」の自信も失くし、また「影を顧み、自ら憐れむ」の姿も似ず、ただ無聊で、いにしえの雅俗すらも口に出せぬ状態となる。これまで名前が無かったが、しばらくこれを「没落成り金」としよう。この一戸はこれから増えるだろう。但し、更に変化し:積極的な方に向えば悪いのは減るだろうが:消極的な方に向うとチンピラ・ヤクザとなるだろう。
 中国の文学を好転させることができるのは、この三戸以外である。   
             6月6日

訳者雑感:魯迅がこの20年の文壇三戸というのは五四運動以来の中国の文学事情、文壇の構成者のことで、没落戸・成り金戸・没落成り金戸の三戸となる。魯迅は没落戸という整理になろうか。何代も続いた科挙合格者を輩出した家系から祖父の疑獄と父の死で一気に没落し「世間の浮き沈み人生の苦楽を見」、南京の鉱務学校などに「転身」し、日本に留学した。当時それしか没落した家系は歩めなかった。鉱務・海軍・医学などを勉強したが、やはり文学に転じた。一匹の魚が死んで浮かんでいるのは魚の病気だが、川じゅうの魚が死んで浮かんでいるのは、水の問題だ。その水を変えなければどうしようもない。それには文学による魂の改造しかない。いいかげんに糊塗するのではなく、真面目に取り組むのだ。
 しかし中国の文壇は、上述の通り、没落戸の「十年一たび覚める揚州の夢」のみ、我が破衣は「襟に残るは杭州の古い酒の痕」のたぐいしかない。成り金戸に至っては、墨水で銅臭を洗い消すことにその意図があり、「得意がってうれしがる」にすぎぬ。その中間として「没落成り金」というのも出てきたが、これらは「自分の楽しみ」のために「ものかき」をしているだけで、中国文学を、そして中国を良い方向に転じさせることができるのは、この三戸以外である、と喝破している。
 しかし、中国の伝統として、古典として今に残って人々に愛され、読まれているのは、たいていは「没落戸」の書いた「詩・戯曲・散文」などで、「楚辞や史記」すら、放逐された屈原や宮刑にされた司馬遷の手になる。李白や杜甫、蘇軾なども左遷中や失職中に書かれた作品が人々に愛されているのも事実である。
 成り金戸の書いたものや政権の中枢にいた人物の書いたものは少ない。
    2014/05/23記
 

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「全国木版画聯合展覧会特集」序

「全国木版画聯合展覧会特集」序
  木版画は元々昔から中国にあった。唐末の仏像、紙牌から、後の小説の挿絵、説明図に至るまで、今も現物を目にできる。またこれで明らかなように:元来大衆の物で「俗」なものなのだ。明代人はかつて詩箋に用い、雅に近い物だったが、結局は文人学士がその上に、大筆で揮豪して踏みにじられてしまったことを証明しているだけだが。
 この5年来、急に盛大になった木版は、古文化とは関係ないとは言えぬが、埋葬された骨に新しい装束を着せたものではない。それは作者と社会民衆の内面からでた共通の要求だから、若干の青年達の一幅の鉄筆と数枚の木版を、このように力強く発展することができた。それらが表現するのは、美術学生の熱い誠で、その故に、常に現代社会の魂である。
実績も具体性を伴い、それが「雅」だとはもとより言えぬが、全て「俗」だとは断乎違うと言える。これまでも木版はあったが、このような境界に達していなかった。
 これは即ち、新興木版の所以であり、大衆が支持する理由である。血脈相通じ、軽視されることはなくなった。だから木版は雅と俗の境界を取り払っただけでなく、実際にずっと光明を増し、前途に偉大な事業が待っている。
 かつて高尚だとされた風景と静物画は新しい木版画では減少したが、この2者は却って優秀な成績を顕した。中国の旧画は両者が最も多くて、見慣れているので、それを見て知らず知らずの内にその長所を長い間かけて摂取してきたためだが、今最も必要なのは、作者の力を込めた人物と物語の絵だが、やはりまだちょっと劣り、平常の器具の姿形が、実物にそぐわないものもある。この事から一面では古い文化の後者への助けになっているが、束縛にもなっているのが分かる。また一面では「俗」に入るのも不易なことが分かる。
 この選集は全国から出品されたものの精髄の1冊目で、これは開始であって、功が成ったというのではないし、幾つかの前哨が進行中ということで、この後、更に尽きることの無い旌旗が空を蔽うような大部隊が現れるのを願ってやまない。
    1935、6、4記
訳者雑感:魯迅の近代木版画への愛情がひしひしと伝わってくる文章だ。伝統ある風景と静物画は長い年月をかけて目にしてきただけに、その「こやし」が近代木版画にも大きな栄養となって機能したのだ。只魯迅も指摘するように、現物とそぐわないようになった物も昔のまま踏襲して陳腐なままにしているのは残念だ。日本の浮世絵ほどには彩色化しなかったのはどうしてだろうか?日本では友禅染のような素晴らしい着物を描いて、それを型にしたりして多色刷りなどを発展させたのがろうか。一方の中国は友禅染というよりは、西陣織のように、糸を染めて、それを織り上げる、絨毯のようにタテ糸横糸を見事に組み合わせて、芸術品に仕上げる方向に進み、版画は章回小説の英雄などの線画とか風景を、白黒印刷で普及させたから、彩色での役者絵などの浮世絵の方に進まなかったのかな。
 江戸時代の京大阪や江戸の町人文化と北京や蘇州の町人文化の差かもしれない。
     2014/05/14記

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再び「文人相軽んず」を論ず

再び「文人相軽んず」を論ず
 今年の「文人相軽んず」は黒白のスローガンが混淆している上に、文壇の混迷を蔽い隠して「羊頭を掲げて狗肉を売る」の者も登場してきている。
 「夫々、長所を以て、短所を軽んず」ということがどれ程あろうか!
この数年目にしたのは「その短を以て、人の短を軽んず」であった。例えば、口語文でちょっとした難読の個所をなじる。確かに「短」なのに、ある人は小品や雑録を引っ提げて、この点を昂然と批判したが、暫くして馬脚を露わし、自分たちが提唱した文章すら、句読の間違いで「短」が大変多いことを露した。あるものは全く「其の短、以て人の長を軽んず」であった。例えば「雑文」を軽蔑する人も、彼が書いているのは「雑文」であるのみならず、彼の「雑文」は彼が軽蔑する他の「雑文」とも比べ物にならぬ程、拙劣なのだ。それらの高論放談はチェホフの指摘するように、恥知らずにも山頂に上り、全てを見下し、軽んじられたものには全く福が無いというのは、彼らと比べ、一体どう「相」(軽んず)ことができるだろうか?今「相」と言うのは、実際は相手に花を持たせたからで、この「相」に依存するのも「文人」故である。然るに「長」たる物はどこにあるのか?
 況や、現在文壇の紛糾は、実は文筆の長短などではない。文学の修養が人を木石に変えることはなく、文人もやはり人間で、そうである以上、心中には是非があり、愛憎がある:ただ、文人であるから彼の是非はより明らかであり、愛憎も愈々熱烈た。聖賢からペテン師や屠殺者に至るまですべてを尊敬し、美人香草から癩病菌まで愛する文人は、この世界では探し出す事ができぬが、遭遇したのが是であり愛であるとすぐ抱きしめる。遭遇した物が非であり憎であれば直ぐ反発する。第三者がそう思わぬなら、彼が非とする物は実は「是」だと言えるし、彼が憎む物は実は愛すべき物で、単にひとくくりに「文人相軽んず」という空話だけで抹殺することはできず、世間はそんな生易しくは無い。文人が居る所必ず紛糾があるが、後に誰が是で誰が非か、何を存し、何を滅ぼすか、全て明らかでないものは無い。と言うのも、読者がいるから彼の是非愛憎は調停役の評論家より明確だからだ。
 しかし又ある人がお前はこわくないのか、と嚇かす。昔、嵆康が柳の下で鉄を鍛えているとき、鐘会が会いに来たが、無愛想に問うた:「何を聞きにきたのか。何を見たら去るか?」それで鐘文人を怒らせ、その後彼は司馬懿の前で是非を問われ落命した。だから誰に会っても急いで挨拶し、坐を勧め、茶を献じ「お名前はかねてより伺っております」と言わねばならない。無論必ずしもそこまでする必要は無いが、文人になる為にここまでするのは、ちょっと娼妓に近いのではないか?こうした脅し屋の例を出すのは正しくは無い。嵆康の落命も彼が傲慢な文人のせいではなく、大半は彼が曹家の婿の故で、たとえ鐘会が是非を問わずとも、いずれは誰かがそうしたろうし、所謂「重賞の下、必ず勇夫あり」なのだ。
 だが私はここで、文人は傲慢であるべきだとか、傲慢で構わぬと言っているのではない。文人は附和すべきではない、と言っているのである。文人は附和してはならぬし、附和できるのは調停役だけだ。只この附和は回避でもないし、是とする所を唱い、愛する所を頌すことで、非とする所と憎む所は相手にせぬ事だ:是とする所は熱烈に主張すると同時に、非とする所を熱烈に攻撃し、愛する所を熱烈に抱擁するように、憎む所をより熱烈に憎み、――丁度ヘラクレスが巨人アンテウスをぎゅっと抱きしめ、彼の肋骨をへし折る為にのようにきつく抱きしめるのだ。   5月5日

訳者雑感:これは難解なロジックで構成されているようで、文壇のどろどろした「せめぎ合い」「罵り合い」を体感していない80年後の私には理解困難な文章だ。だが一点だけ理解できるのは、論争相手に絶対附和してはいけない。相手の肋骨をへし折るくらいギュッと抱きしめるくらいでなければ存立できない、という覚悟を吐露したものかと推察する。
    2014/05/14記

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「人の言、畏るべし」を論ず

「人の言、畏るべし」を論ず
「人の言葉(以後、人言という)畏るべし」は人気スター阮玲玉の自殺後、彼女の遺書にあった物だ。世間を騒がせたこの事件は、から騒ぎの後、段々沈静化し、「玲玉香消記」の公演が終われば、去年の艾霞自殺事件と同様、完全に消滅するだろう。彼女らの死は無辺の人海の中に、数粒の塩をまいたに過ぎず、口さがない連中は些かの塩味を感じたが、暫くせぬうちに淡、淡、淡となってゆくだろう。
 表題の句も初め少し風波を起こした。ある評論家は彼女を自殺させた咎は、彼女の訴訟問題に対し、新聞が大大的に報じた為だとした:暫くしてある記者が公開反駁し、現在の新聞の地位と世論の威信は極めて憐れなもので、人の運命を左右するような力など豪も無い。況やそれらの記事は大抵官憲から取材した事実で、捏造・デマは絶対ないし、古い新聞も揃えているから、もう一度調べられるが、阮玲玉の死は記事とは全く関係ない、としている。
 これらは皆ほんとうのことだと言える。だが――全てがそうだと言いきれない。
 現在の新聞が記事らしく書けないというのはその通りだ:評論は感じたまま談じることはできず、威力を失っているのも事実で、道理の分かった人は新聞記者を過分に責めたりはしない。だが新聞の威力は実はまだ全般的に地に落ちた訳ではない。それは甲には損失は無いが、乙には大きな傷となる:強者に対しては弱いが、弱い者には強者となるから、時に声を呑み、忍耐するとはいえ、時には武威を輝かせる。それで、阮玲玉のような者はその余威発揚の良いネタにされるのは、彼女は有名だが無力なためだ。小市民は他人のゴシップが好きで、とりわけよく知っている人の物が好きだ。上海の横丁に住む因業婆は、近隣の阿二姐さんの家に情夫が出入りするのを知るや、すぐ面白おかしく話す。甘粛の誰かが間男を作ったとか、新疆の誰かが再婚したとかなど、彼女は聞く気も起こさない。阮玲玉は今、うつしみのスターで、皆が知っているから、新聞で騒ぐには好材料で、少なくとも販路拡大につながる。これを見た読者は思う:「私は阮玲玉より美人じゃないが、彼女よりまっとうだ」と:また「阮玲玉の技両には及ばないが、出自は彼女より高いわ」と思う者もいる:自殺後でさえも:「阮玲玉のような技芸は無いが、彼女より勇気はあるわ。だって、私は自殺などしないもの」と思わせた。銅銭何枚かを払って、(ゴシップ覧を見て)自分の優位性を見つけるのは算盤にあう。だが演芸で生きる人は、公衆が上述の前2種の気持ちを持つようになったら、もうおしまいだ。それゆえ、我々は自分でもあまり判然としない社会組織とか意志の強弱などの表面的な問題を大げさにとりあげるのをやめ、自分をその立場に置いて考えてみよう。すると、多分阮玲玉が「人言畏るべし」と思ったのは本当だと思うし、彼女の自殺は記事と関係があるのも本当だと思う。
 だが記者の弁明は、記事は法廷から取材した事実だというのも本当である。上海の幾つかの大新聞とタブロイドに出る記事は、社会のニュースで、ほとんどは既に訴訟として公安局か工部局(租界の行政)に提出された案件だ。だが少し悪い癖があり、大げさに書きたてることで、とりわけ女性に対して余計そうしたがり:この種の案件は名士やお偉方に関係が無いから、描写に遠慮会釈もない。案件中の男の年齢と容貌はたいていそのまま書くのだが、女だとすぐ文才を発揮「年増だが艶っぽさは衰えず」でなければ「妙齢の乙女で聡明で可愛い」となる。女が失踪すると、自ら出奔したか、誘い出されたか分からぬうちに、文才は断定的に:「娘は独り寝のさみしさに男なくして眠られず」というが、どうしてそんなことが分かるのか?農村の婦女が2回3回嫁すのは、元来貧しい寒村では常にあることだが、才子の筆にかかり、大きな見出しを与えられると、「奇淫、則天武后に劣ることなく」とあいなるが、どうしてそんなことが分かるのだろうか?このような軽薄な文章は、村娘を相手にしてもきっと何の問題も無い。彼女は字を知らぬし、彼女の関係者も新聞を読むとは限らぬ。だが知識人に対し、特に社会で活動している女性は大変傷つけられるし、故意に誇張し大騒ぎをおこすのは云うまでもないことだ。しかし中国の習慣では、このような文句は筆を揺らせばすぐでてきて、何も考えずに、その時はそれが女性を弄ぶものとは思いもせぬだけでなく、自分が人民の喉と舌であることにも思い到らない。無論どんな描写をしようが、相手が強者なら構わない。訂正するとか、次号でお詫びすれば、一通の手紙も不要が。だが拳も勇気もない阮玲玉にとってはまさしく生けにえの材料となり、あらぬ隈取りをかかれ、それを洗い落とす術もないのだ。彼女に戦わせようか?彼女は機関紙を持っていないから、どうやって戦う事ができるだろう:冤罪だが相手が見えず、誰と戦えば良いのか? 我々は足を地につけて考えてみれば、彼女が「人言畏るべし」と思ったのもその通りだと分かり、彼女の自殺は記事に関係があると皆が思うのも本当だと知る。
 然るに、前述のように、現在の記事が力を失ったのも事実だが、私は記者謙遜して言うように、一銭の価値もないほど豪も責任を取れぬという所にまでは至っていないと思う。
記事はさらに力の弱い阮玲玉のような相手に対し、彼女の命運を左右するだけの若干の力を持っており、言うならば、やはり悪を為せるし、自分を善だとすることができる。「聞いたことは必ず記事にする」とか「全くその力が無い」とかいうのは、向上しようとする記者がお題目として言うべきことではない。実際はそうではなく――実態は選択し、作用させようとするからだ。
阮玲玉の自殺を弁護するつもりは無い。自殺には反対だし、私も自殺する考えはない。私がその考えが無いのは、それが潔くないからではなく、そうできないからだ。凡そ誰かが自殺したら、今は剛毅な評論家の叱責を受けざるを得ぬ。阮玲玉も例外ではない。だが私が思うに、自殺は大変むつかしいことで、その準備をしていない人が、軽く考える様な容易なことじゃない。もし容易と思うなら、試してみるが良い!
無論試してみようとする勇者もきっと多いことだろうが、彼はその価値があるとは思わないだろう。というのも社会に対する偉大な任務があるからだ。それは言うまでもなくずっと素晴らしいことなのだ。私は皆がノートに果たすべき偉大な任務を書き、曾孫の生まれるころにそれを取り出して、どんな具合になっているか見てみることを希望する。
     5月5日

訳者雑感:
 本編で魯迅は当時のゴシップ記事が魔都上海の大手紙とタブロイド版の大半を占め、弱者をネタにとりあげて、販路拡大優先で、人気スターの自殺事件が続いたことを例にとり、自殺には何の値打もないから、もっと大切な任務をノートに書きだして、曾孫の生まれるまで生き続けようよ!と呼びかけている。
この5月5日は端午の節句を念頭に置いたものだろうか。
人言畏るべしのゴシップ社会でどれだけのスター達が自殺していっただろう。
直近の新聞では、汚職で嫌疑を受けた政府高官が、取り調べを受けたという新聞記事の後
数十名自殺している(40名以上?)と報じている。本来は中国の建設の為に使われるべき税金からの支払いが、役人の懐に貯められ、それが莫大な金額となって、国外に持ち出され、富が喪失されている。そんな役人は新聞がどしどし記事にして、自殺してもらったらよい。彼らにはノートに書くべき偉大な任務などこれっぽっちも無いのだから。
   2014/05/09記

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