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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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読書瑣記 3

           焉於

 創作家はたいてい評論家の口やかましいのを憎んでいる。

 ある詩人のつぎのような言葉を覚えている:詩人が詩を書くのは植物が開花する如く、彼は開花せずにはいられないからだ。それを摘んで食べ、毒にあたったとしたら、それは君のあやまちだ。

 この比喩はとても美しいし、理があるようにみえる:だがもう一度考えてみると、間違いに気づく。詩人はつまるところ草ではないし、社会的な一個の人間で:詩集はお金を貰って売るもので、タダで摘むことはできないから、売ったらそれは商品で、買い手にも良しあしを言う権利はある。

 たとえ本当の花だとしても、深山幽谷や人跡未踏の地に咲いているのではないから、毒があれば、園丁は何とか方法を考えるだろう。花の現実は詩人の空想には及ばない。

 しかし今言い方を換えると、作者でない人でも、評論家を憎んでこう言う人もいる:貴方がそうおっしゃるなら、ご自身でやってみては如何!

 これに対しては評論家も頭を抱え、鼠のように逃げ出す。評論家で創作もできると言う人は大変少ない。

 思うに、作家と評論家の関係は、料理人と客に頗る似ている。料理人が作ったものを、客はうまいとかまずいと言う。それに料理人が不満を抱くと、彼は精神病ではないかとか、舌が鈍感とか、かねての憎しみからではないか、代金を踏み倒そうとしているのではとか、或いは広東人で蛇を食べたいからだとか:四川人で辛いのが欲しいなどと考える。

それで説明し、或いは抗議をする――勿論、何も言わなくても構わないが。だが彼が客に対して声を大にして:「それなら貴方、ひとつ作って私に試食させてください!とでも言いだすと、とてもおかしなことになる。

 確かに45年前、筆をとる人は評論家とみなされ、文壇の高い所におることができたし、促成者や乱評者も多かった。だがこういう風潮を矯正するには、評論で以て評価すべきだ。但し評論家という名で、べとべとと泥を塗るのは決して良くない。我々読書界には穏和を愛する者が多く、筆戦を目にすると「文壇は悲観的だ」とか「文人相軽んず」等と言い、果には、是非を云々せず、すべてこれ相互罵倒となり、「漆黒の暗闇」という。はたして今誰が評論家かいわなくなった。文壇は旧態依然だが、評論家はもう露出してこなくなった。

 文芸には必ず評論あるべしで:評論が間違っていたら、評論で以て抗争せねばならぬし、そうしてこそ文芸と評論をともに前進させることができり。一律に口を閉じてしまって、文壇はもう浄化されたとするなら、得られる結果は相反するものとなるだろう。

822

 

訳者雑感:

 創作家と評論家を料理人と客に譬えるのは面白い。客の中にもいろいろいて、作家に対して色々うまいまずいとか文句をつける。それをヒントにして次の作品でさらに良い物を作ろうというのが、一般的な関係だが、この当時の中国の文壇は「悲観的」「漆黒の暗闇」で、相互に罵倒しあうという不毛な状態が続いたのだろう。

相手を頭からつまさきまで罵倒しまくる。相手を否定しまくる。この習性はなかなか修正されないようだ。すべての悪い原因は相手にあり、自分は正しいと言い張る。ここから進歩成長は生まれてこない。

 中国の俗語に「文章は自分の(もの)が一番、女房は人のが一番」というのがある。

科挙の試験の為に、どれだけ「みごとな」四六駢儷体の文章を書く事ができるかに精魂こめて来た結果、内容で人を感動させることができるかどうかが、二の次にされた弊害だ。

     2013/06/17

 

 

 

 

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