魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
白道
尤墨君氏は教師として大衆語討論会に参加したが、その意見は大きな問題である。
彼は「高校生に大衆語を練習させよ」とか更には「高校生の作文で最もよく使われ、最も誤用される多くの流行語」を挙げ、「最も良いのは彼らにそれを使わせぬこと」だとし、彼らが将来弁別できるようになってからにすべきだという。というのも、彼らが「新しい物を食べて、消化できぬならそれを禁じるほかない」としている。今、挙げられた「流行語」
の一部を下記する――
共鳴、対象、気圧、温度、結晶、徹底、趨勢、理智、現実、意識下、相対性、
絶対性、立面図、平面図、死亡率…(<新語林>3期)
しかし私はとても奇怪に感じた。
これらの文字はほとんど「流行語」とはいえない。「対象」「現実」など、新聞雑誌を見る人なら、常に目にし、しばしば目にしたら、比べてみてその意味が会得でき、丁度子供が話しが分かるようになるのは、文法の教科書に頼らないでもできるのと同様だ:況や、学校だから教員が指導する。「温度」「結晶」「立面図」「平面図」なども科学の名詞であり、高校の物理学鉱物学植物学の教科書にあり、国文上の意味と何ら違いは無い。
今「最も誤用の多い」のは、自分で何も考えず、教師も指摘せず、他の科学でも同じだが、あいまいなままにしていることではないか?
それでは、只単に中途から大衆語を勉強するのも、高校出身者を大衆に速成するにすぎないから、それが大衆にとって何の役に立つというのだろう?大衆が高校生を必要とするのは、教育程度が高いからで、人々に知識を広め、語彙を増やし、解明できるものは解明し、新たに添加すべきは添加する:「対象」などの定義はまず明白にし、必要なら方言で代替してもよい。訳も換え、もし無いなら新しい名詞を作り、その意味を説明する。
大衆語が、道半ばで家を出てしまったら、新名詞も意味不明となり、この「落伍」は本当に「徹底」している。
思うに、大衆の為に大衆語を練習するのは、却ってそれらの「流行語」を禁止すべきではなく、大事なことは、その定義を教えることであり、教師は高校生に対するのは、将来の高校生が大衆に対するのと同じである。例えば「立面図」と「平面図」は「縦切り図」や「横切り図」と解説すればよく分かる:「ヨコに鋸で切った面」「タテに切った面」というなら、大工の弟子もすぐ分かる。字を知らずとも分かることだ。禁止するのはよくない。
彼らの中には永久にあいまいなままで「高校生は必ずしもすべてが大学に入れて、文豪冶学者になるという理想を実現することはできないからだ」 8月14日
訳者雑感:
本編で挙げられた「流行語」というのは古文の漢語には使われていなかった輸入或いは新語だろうが、大半は日本語の漢字語彙から輸入したものだろう。
それを「流行語」「新語」として使用禁止するというのに魯迅は反対している。当然だ。
魯迅の作品の中にはおびただしい数の日本語からの語彙が使われている。読者は文脈と前後の比較から、丁度子供が大人の語彙をどんどん取り入れ会得するように、多くの青年たちは、これらの語彙を自国語として、縦横無尽に使いこなしてきた。それが近代化へのとても大切なツールとなった。いまやそれらが日本語からの借用語として意識されることも少なくなっており、一部の言語学者や文学関係者しかそれを意識していない。
「意識下」などは日本人もこれを欧州から輸入翻訳した当初は、殆ど理解できなかった。
20世紀の中国は大量の語彙を日本経由で採り入れたが、20世紀末から欧米から直訳が増えたと思う。
「携帯電話」は「携帯」ではなく「手机(機)」と20年前のデカイ大型の時のイメージのハンドフォーンからだろう。固定電話の普及していなかった中国では「手机」がぴったりする訳語だったろう。
2013/06/14記
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