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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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惨酷と笑止千万

 318日の惨殺事件は、ふり返って見ると政府のしかけた罠だったこと明白で、純粋な青年たちが不幸にもそれにはまって、三百余人の死傷者が出た。この罠が仕掛けられたのは、「流言」が効を奏した結果だ。
 これは中国のいつもの手で、読書人の気持ちの中には大抵殺意があり、自分と異なる意見を持つ者には死を与えようとする。私が目にしただけでも、陰謀家が他派を攻撃する時、光緒年間には「康(有為)党」、宣統年間には「革命党」、
民国第二革命以後は「乱党」、現在は「共産党」という名を与える。その実、去年一部の「正人君子」たちが他者を「学者ヤクザ」「学匪」と呼んだ時、すでに
この殺意を持っていた。この種のあだ名は「臭い紳士」「文士」の類とは異なり、「ヤクザ」「匪」の字には死への道が蔵されている。但しこれも多分「刀筆吏」
(法廷書記、魯迅の故郷出身者が多いと論敵の魯迅への罵倒語:出版社注)の
法律を歪曲援用せるものかも知れぬ。(論敵が批難することへの予防線)
 去年「学風整頓」のため、当時の学風がいかに乱れ、学匪がいかに憎むべきかの流言が、広く伝播され奏効した。今年も「学風整頓」のため、共産党がどんな活動をし、いかに憎むべきかという流言が流され、奏効した。それで請願者たちは共産党だということになり、三百余人が死傷した。もし一人でも所謂共産党の領袖が殺されていたら、この請願は「暴動」と証明できたであろう。
 惜しいかな一人もいなかった。これは共産党ではなかろう。噂ではやはりいたのだが、彼らは全員逃げたから、更に憎むべし、という。それで、この請願はやはり暴動でその証拠に棍棒一本、ピストル2丁、石油瓶3本が残された。
これらが群衆の携帯したものか否かは置くとして、仮にそうだとしても、死傷した三百余人が持っていた武器がこれだけだとしたら、なんと哀れな暴動よ!
 が翌日、徐謙、李大釗、李煜瀛、易培基、顧兆熊の逮捕状が公表された。彼らは「群衆を動員」したためという。去年の女子師範大学生の「男子学生動員」と同じだ。(章士釗の女子師範大学解散の上程文中の語;魯迅自身の注)
 棍棒一本、ピストル2丁、石油瓶3本を帯びた群衆を「動員」した為だ。このような群衆で政府転覆を図れば、三百余人が死傷し:しかも徐謙たちは人命を児戯のごとくに弄してしまったからには、当然殺人の罪を負うべきだが:
ましてや当人は現場には行かず、或いは全員逃亡したのであろうか?
 以上は政治的なことで、私には真相はわからない。しかし別の面から見ると、
所謂「厳重に逮捕」というのは、どうやら追放という事らしい:所謂暴徒を「厳重に逮捕」というのは、北京中法大学学長兼清王朝善後委員会委員長の(李)、中露大学学長の(徐)、北京大学教授(李大釗)、北京大学教務長(顧)、女子師範大学学長(易):その中の三人はロシア款委員会委員(ロシア革命後、義和団の賠償金など対華特権を放棄するとの宣言を受けてのその利用法検討のための委員会:出版社注):で、一挙に九個の「優美なポスト」が空いたことになる。
 同日にまた新たなデマが飛び、更に五十余人の逮捕状が出る、と:但し姓名の一部はついに本日「京報」に出た。(この中に魯迅の本名あり:出版社注)
このたくらみは、現在の段祺瑞政府の秘書長章士釗流の脳裏に確かに存するのである。国事犯が五十余人の多きを数えるというのは、中華民国の一大壮観:しかも大概多くは教員で、もし一同が一気に五十余の「優美なポスト」を放り出し、北京から逃げて他所で学校を建てたら、中華民国の一大珍事となろう。
 学校の名は「動員」学校とでも称すべきだろう。
          326
訳者雑感:
 魯迅は逮捕状が出た後、外国系の病院に隠れたりしたが夏にはいよいよどうしようもなくなり、北京を逃げ出しアモイ大学に移ることになった。そのアモイも半年弱で翌年1月広州に向かい、10か月程して上海に移る。1年余の間に、北京―アモイ―広州―上海とめまぐるしい移動であった。疾風怒濤という表現がふさわしいか、或いは国民党政府と複数の軍閥間の政治的混乱が46歳前後の彼を襲った。
 日本では大隈重信あたりが政治と大学の両方に関与しているのが有名だが、科挙の伝統というか、本文にも「読書人」に触れているが、政治向きのことをするのが、「書を読んだ人間」の務めであるという根強い意識があるのだと思う。  文中、魯迅が罵倒し、相手も魯迅を罵倒する「章士釗」は、段祺瑞政府の秘書長を務めている。学者は政治にも関与してこそ「男子の本懐」とでもいうものが体中に潜んでいるようだ。
 論語で、人間としての生き方を説くのも、究極の目的は皇帝、或いは当時の諸侯に仕官して「政」に携わることで「志」を実現することであった。
孔子及び彼の弟子たちの開いた学校に集まった書生たちの動機は、自分を買ってくれる人を探すためでもあった。良い値で。
 孔子は弟子に問われて答えた。「売らんかな。我は良き買い手を待つなり」
現今の中国の学校は、良い買い手を見つけやすい大学への受験戦争が激しさを増している。大学の方も買い手が喉から手を出したくなる良き玉を集めるべく、
エリート学生の募集にあらゆる手段を講じて高校の優等生を無試験入学させたりする。政治力のある学長が権力と一緒になって政治を動かしている。学者が政治に関与する国である。政治をしない学者は、研究をしない学者以下かな。
       2010/11/17
 
 
 

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死地

一般人、とりわけ長く異民族とその奴僕鷹犬(手先)に蹂躙されてきた中国人からすると、殺人者は常に勝者で、殺された者は常に敗者だ。目の前の事実も確かにその通りだ。
 318日、段政府が徒手空拳で請願に来た市民と学生を惨殺したのは実に
言語道断で、ただただ我々が住んでいるのは人間世界ではないと思う。だが、北京の所謂言論界はいろいろ論評しているが、紙筆喉舌では執政府前の青年の熱血をもとに戻して、彼らを再び生き返らすことはできない。口先だけの絶叫は、殺された事実と共に、徐々に消え去るのみ。
 しかるに、論評中に、銃刀より痛烈に私を驚かせ、魂消させたものがあった。何人かの論客は、学生たちは自ら死地に赴くべきでは無かった、と考えている。もし徒手の請願は死にに行くようなものだと思うなら、この国の執政府前は死地であり、それはすなわち中国人のまさしく殺されても葬られることの無い所である。心から悦んで奴隷になっても「死ぬまで怨まぬ」ものを除いて。
 だが私は中国人の大多数の意見が一体どうなのかは知らない。仮にこの通りならば、単に執政府の前だけでなく、中国全土、一か所として死地でないところは無い。
 人の苦痛というものはなかなか通じあえない。それゆえ殺人者は殺人を唯一の手段とし、快楽すら覚える。しかし容易に通じぬゆえ、殺人者のみせしめにする「死の恐怖」は、後者を十分には恐れさせきれず、人民を永遠に牛馬に変えてしまうことはできない。
 歴史をみると、改革に関する記事は、決まって、前者が倒れ、後者が継ぐことになっているが、多くはもちろん公義に発している。人々は「死の恐怖」を経験しないかぎり、そうたやすくは「死の恐怖」に怯えないで、これまでやってきたのが大きな理由だと思う。
 但、私は「請願」は、今後は止めるよう切望する。もしこんな多くの血でもって、やっとこの一個の覚悟と決意を得られ、そしてまた記念として永遠に残すならば、今回のことは大変な損失にはならないかもしれない。
 世界の進歩は大抵流血から生まれた。だがそれと血の量には関係が無い。世の中には流血が多いのに、滅亡してしまう民族の先例があるからだ。今回のように、こんな多くの命を失ってもわずかに「自分で死地に赴く」との批判を受けるのみで、一部の人の心の機微が我々に示す通り、中国の死地はとても広大であることが判る。
 今手元にロマン ロランの「Le Jeu de L’Amour et de La Mort」(愛と死の
争い、1924年)があり、その中でカルノ―は、人類は進歩の為に多少の汚点も排除せず、万止むを得ぬ時は罪悪も妨げぬと主張した。
が、彼らはクールボアジェを殺すことを願わず、共和国はその腕で彼の死屍を
持つのを欲しないから、それは重すぎるからとした。
 死屍の重さを知り、持ちたくないという民族には、先烈の「死」は後人の
「生」の唯一の霊薬であるが、その重さを知らぬ民族にとっては圧し潰して、
ともに滅亡する物体に過ぎない。
 中国の改革を志す青年は死屍の重さを知っており、それゆえに「請願」する。
だが、死屍の重みを知らぬ人間が他にいることを知らない。且又、「死屍の重さを知る人」の心までも屠殺する人間がいることを知らぬ。
 死地は確かに目の前にある。中国の為に覚悟をした青年は軽軽に死ぬのを肯んじてはならない。            325
 
訳者雑感:
 中国の青年は歴史の伝統に照らしても、死地に赴くことを厭わないことが、
潔いことだと考えるふしが見受けられる。青年のみならず、4050歳になっても、一度「意気投合」した相手のためならば、自ら死地に赴くことが美学と考えているようだ。司馬遷すらも、自分の信じた者の為にそうすれば恐らく「宮刑」になることも
覚悟してお上に訴えている。その彼が「史記」で取り上げた「刺客列伝」にも、
自分の首を刎ねて、それを秦の始皇帝に会うための土産にする樊於期のことが、
読者に強烈な印象を与える。
 魯迅の「民国以来最も暗黒な日」とした1926318日と同じように、198964日に、おおぜいの青年たちが天安門に集まり、「徒手請願」に赴いた時、
彼らはまさかそれが百年前と変わることの無い「死地に赴く」ことになろうとは、思ってもいなかったであろう。魯迅の指摘するように、後人は「死の恐怖」
を知らぬし、永遠に牛馬に変えられることを肯んじないからだ。
 それを戦車まで繰り出して、追い散らそうとした政権は、青年の焼け焦げた死屍が長安街の陸橋の欄干から吊り下げられた映像が、全世界に放映されたことを頬冠りして、時間が忘却するのを待っている。
        2010/11/16
 

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花なき薔薇の2


1.英国貴族ボルゲン曰く:「中国の学生は英字新聞を読むばかりで、孔子の教えを忘れてしまった。英国の大敵は、帝国を呪詛し、災禍を起して騒ぎ喜ぶこうした学生だ。……中国は過激党の格好の活動場となった。…」(1925630日ロンドン ロイター電)
南京通信伝:「キリスト教市内教会は金陵大学教授、某神学博士の講演を行った。その中で孔子はキリストの信徒だとし、孔子は食事と就寝の前に上帝に祈ったとした。聴衆が何を根拠にそう言えるのか、と質問すると、博士は答えに窮した。その時、教徒数人が大門を閉め‘質問者はソビエトロシアのルーブルに買収されたものだ’と大声を発し、即警察を呼び逮捕した。…」(311日「国民公報」)
ソ連の神通力はまさに広大で、(孔子の父)叔梁紇まで買収し、孔子をイエス以前に生まれさせた。さすれば「孔子の教えを忘れた」ものと、「何を根拠にそう言えるのか?」と質問した者は、当然ルーブルに買収されたに違いない。
2.西瀅教授曰く:「<聯合戦線>には、私に関する流言が特に多いそうで、   私一人だけでも(段政権の懐柔政策として)毎月3千元貰っているそうだ。
‘流言’は口頭で広まるが、紙上には余り出ないのだが」(「現代」65
   当該教授は去年、人の流言を聞いて、彼みずから紙上に公表した:今年は
   自分に関する流言も、彼の手で紙上に公表した。「一人で毎月3千元貰っている」
   というのはいかにも荒唐無稽で、自分に関する‘流言’はとても信じることは
   できない。只、私は人に関するものは理に近いことが多いと思う。
   3.「孤桐先生」が下野した後、彼の「甲寅」はだんだん活気が出てきた由。
   このことから判るのは、やはり官はやっていられない。          
    しかし、彼は又臨時政府の秘書長になった。「甲寅」は相変わらず活気があるかどうか知らない。もしあるなら官もやっていられる、というものだ。
   4.「花なき薔薇」なぞ書いている時じゃない。書いたものは多くはトゲだが、
   平和な心も必要だ。
    北京城内で大殺戮が起きたという。こんな無聊な字を書いている時に、
   多くの青年が銃弾と剣に殺された。嗚呼、人と人の魂は相通じない。
 
   5.中華民国15318日、段祺瑞政府は衛兵の歩兵銃と剣で、国務院前に外交支援の為に集まった青年男女数百人が、徒手空拳で請願するのを包囲し、
   虐殺した。更に逮捕状を出し、「暴徒」という冤罪を着せた。
    かような陰険残虐な行為は、禽獣にも見ることは無く、人類でも極めて稀で
   ロシアのニコライ2世がコザック兵に民衆を殺戮したくらいだ。
   6.中国は、只虎狼の侵食するのを放置し、誰も構わない。それに立ちあがったのは数人の学生のみ。彼らは本来勉学にいそしむべきだが、時局がこんなに
   漂流動揺しており、気が気でなくなった。もし当局にほんの少しでも良心があり、反省自責し、その良心を取り出して対処すべきではないか?
    それがなんと、彼らを虐殺するとは!
   7.もし、このような学生を殺して終わりにしてしまうなら、屠殺者も決して
   勝利者ではないことを知るべし。中国は愛国者の滅亡と同時に滅亡する。屠殺者は財力があるから、末長く子孫を養育できるといっても、来るべき結果は必ず来る。「子子孫孫永遠に」と喜んでなどいられるものか。滅亡は少し先になる
   かもしれぬが、居住環境の最悪の不毛の地で、とても深い坑道の中で、坑夫と
   して最下賤の生業を営むしかない…。
   8.もし中国が滅亡すれば、過去の史実の示す通り、将来は屠殺者の予想外の展開になろう。これは物事の終わりでなく、始まりだ。
    墨で書いたたわごとは、血で書かれた事実を決して覆い隠せない。
    血債は必ず同じもので償われなければならぬ。それが長引けば長引くほど、
   より大きな利息を払わねばならぬ!
   9.以上はすべて空言。筆で書いたものが何になるのだ!
     実弾は青年の血を流した。血は墨で書いたたわごとでは覆い隠せぬのみならず、墨で書かれた挽歌にも酔わない:お上の威力も押しつぶせない。それは
   騙しきれるものではない。打たれても死なないから。
                 318日 民国以来最も暗黒な日に記す。
   訳者雑感:
    5の文中の「外交支援」という訳語に「違和感」を覚える読者が多いことと
   思う。原文は「…請願、意在援助外交之青年男女、至数百人之多」で、国務院の前に請願に来た、青年男女数百人。その意図するところは「援助外交」。
   この援助外交というのは、一体どういうことを指すのか?
    1915年、袁世凱政府に大隈重信が付きつけた「対華21カ条要求」に反対する学生たちのデモが「五四運動」として、大きな潮流となって外交を動かした。
   1926年の318も日本軍との戦いで大譲歩をした国民政府に対して、天安門
   に終結した学生たちの抗議行動を指す。この政府への抗議行動を、魯迅および
   当時の文筆家は「援助外交」という4字で表現したものと見られる。政府が
   あまりにもだらしなく、虎狼のような外国の付きつける「屈辱的な条件」を
   何の抵抗もせずに受け入れること、それが政権の保身のためであって、国民の
   為では決してない、ということが、アヘン戦争以来百年以上続いた史実である。
    学生たちが立ちあがって抗議するのは、外交に弱腰の政府への「援助」なのである。日本も196070年の安保改訂の時に、国会前に終結した学生たちは
   「弱腰政府」への抗議であったわけだが、それは政府に対米交渉をもっと強気に行うように、との支援でもあった。当時の日本は何かというと反米、反米で
   「アイゼンハワー ゴ―ホーム!」「ポラリス入港阻止」などデモ隊の「意」は
   日本政府への支援であった。
    9月の尖閣漁船問題以来、中国各地で発生した「反日デモ」は現政権が、この問題で、対日弱腰外交をしているとのアジによって、インターネットで組織
   動員されたものであろう。沿岸部の大都市の学生たちが動かなかったのは、その省の政府の抑圧によるものか、或いは政府は弱腰外交などしていない、との
   認識がある程度できていたのであろうか。
    学生たちの抗議デモは、政府への外交支援という応援部隊の声援で、この
   声援をうるさく感じ、徒手空拳の若者を銃刀で虐殺に及ぶというのは、余程
   自分の外交に自信がなく、これが自己保身の為で、国家国民の為ではない、と
   いう内心忸怩たるものがあるために起こった悲劇であろうか。
                   2010/11/15
 
 

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花なき薔薇

1.   またSchopenhauerの言葉――「トゲなき薔薇はない。
――が薔薇なきトゲは多い」
     ちょっと趣向を変えて、「花なき薔薇」とすれば、
          見栄えが良くなるかも しれない。

2.      去年はなぜかショーペンハウエルが我が国の紳士に気に入られて、彼の
「婦人論」がよく引用された;私もいろいろな所で数回引用したが、トゲばかりで薔薇はなかった。実に殺風景で紳士諸君に相すまぬことをした。小さいころ見た劇で、名は忘れたが、その一家はまさに結婚式の最中。そこに、魂を取るという「無常鬼」がやって来て、婚儀の式に入り込む。二人が一緒に拝礼し閨房に入り、床に就こうとする…そこに登場して興ざめなこと甚だしい。私はそんな風にはならないようにしたい。
3.ある人は私が「暗闇から矢を射るもの」と言う。私の「暗闇から矢を射る」
  の解釈は、彼らのとは異なる。彼らの解釈では、ある人がキズを負ったが、
  その矢がどこから射られたのか判らない。所謂「流言」はこれに近い。
但、私は明らかにここに立っているのだ。私は矢を放っても、その標的が 誰とは言わない。これははじめから大勢の人と共に、その相手を棄市しようと
するつもりは無いためで、標的にされた者が自分の的に穴があけられたとわかって、面の皮をふくらませてジタバタすれば、私の目的は達成されたのだ。
4.       蔡元培先生が上海に着くと「晨報」は国聞社の電報に依り、彼の談話を発表し、注釈までつけ「まさに長年の心血をそそいだ研究と冷静な観察の結果、大いに国民に教示せしは、知識階級の注意すべきところ」と思う、としている。これは胡適之先生の談話で国聞社の電報コードに問題があるのではないかと思う。
5.  予言者は先覚者であり、故国では受け入れられず同時代人の迫害を受ける。大人物はつねにこうしたものである。彼が人々から恭しく賛美されるようになったら、きっと死ななければならぬ。或いは沈黙するか目の前から消えねばならぬ。
要するにまず第一に当人に質問するのが困難でなければならない。
もし孔子、釈迦、キリストが生きていたら、教徒たちはきっと恐慌を免れない。彼らの行為を見たら、教主たちの概嘆はいかばかりか。だからもし、生きていたら、迫害するしかない。
偉大な人物が化石になった時、人は彼を偉人と呼び、彼はその時、傀儡になるだろう。一流と言われる人の所謂偉大と渺小は、彼が自分の為に
どれだけ利用できるかを指す。
6.  フランスのロマン・ロラン氏は今年満60才。晨報社が文を募り、徐志摩氏が紹介の後で感慨を催し:「但、もしある人が流行のスローガンを持ち出し、打倒帝国主義とか分裂とそねみの現状を示して、ロラン氏にこれが新中国だと報告したら、私はもう彼がどう感じるかわからない」(「晨報」1299号)
彼の住まいは遠いので、すぐこれの真意を問い合わせる訳にもゆかず、「詩哲」(たる彼)からすると、ロラン氏の意見としては、新中国は帝国主義を歓迎すべきとでも思っているのであろうか?
「詩哲」は、(杭州の)西湖に梅花を観に出かけたので、直接問い合わせられぬ。(西湖の)孤山の梅はもう花をつけただろうか。彼の地で中国人が
「打倒帝国主義」と叫ぶのに反対しているのだろうか?
7.    志摩先生曰く:「私は人を褒めることはほとんどしない。だが西瀅のA.フランスに学ぶという文章について言えば、すでにして天津語で言うところの「根がしっかりある」学者で、なお且つ西瀅のこのような点は、私の見る所「学者」といわれるにふさわしい」(「晨報」1423号)
西瀅教授曰く:「中国の新文学運動は芽を出したばかりで、何らかの貢献をしたのは、胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟等々、
すべて外国文学を研究した人。「中でも折り紙つき」の志摩は思想面のみならず、文体でも、詩も散文も中国文学にこれまで無かった一種の風格を持っている。(「現代」63号)
 写すのも煩わしいが、中国には今「根のしっかりある」「学者」と「折り紙つきの」思想家と文人は、どうやらお互いに持ち上げあっているようだ。
8.       志摩先生曰く:「魯迅氏の作品はこういっては大変失礼だが、大して読んでいない。只「吶喊」の二三の小説と最近彼を中国のニーチェだと尊敬する人がほめる「熱風」を数ページのみ。彼のは平常、小品で、私はたとえ読んでも時間の無駄で、読み進めることもなく、読んでも判らない。(「晨副」1433号)
西瀅教授曰く:「魯迅氏は筆を取るやすぐ人を罪に陥れる。…
それで彼の作品は、読んだらすぐ放り込むべきところに放り込む。
――ありていに言えば、それはもうそこから出てくるべきではない――
それで手元には無い。(同上)
写すのも面倒だが、私はすでに中国の今「根のしっかりした」「学者」と
「折り紙つきの」思想家と文人の協力の下に踏みつぶされたようだ。
9.       だが私は「外国文学を研究したことのある」という栄誉を返上したい。
「周氏兄弟」の一人は私に違いない。私が何を研究したというのか。学生時代に何冊かの外国小説と文人の伝記は読んだ。そんなことで「外国文学を研究した」といえようか?
当該教授は――私が「官話」を使うのを許されよ――言った。私はある人が彼を「文士」と称するのを笑ったが、「某紙が連日」私のことを「思想界の権威者と鼓吹する」のを笑わなかった、と述べられた。
現在全く話は違う。笑うだけではすまされない、唾棄するのみ。
10. そうは言っても、自分が攻撃されれば報復し、褒められれば黙す、というのが人情の常。左頬に恋人のキスを受けて、何も言わずに黙っていたからと言って、それに倣って、右頬を敵に咬まれても黙っていろ、と誰が言えようか。
    私が今回、西瀅教授の称賛のおすそ分けの栄誉など要らないというのは、
   「ありていに言えば」実に止むにやまれぬからである。私の同郷出身者には、
   「法廷の書記」(論敵が紹興出身者を貶した言葉)が多いと言われたように、
   彼らは良く知っていて、相手を傷つけるときに、公正さを示すために、関係の無いところで、相手を褒めておくのが手だ。賞もあり罰もありで、第三者の目には公平無私なように見える…。
   「待て!」またしても「人を罪に陥れて」しまった。只、この点だけでも
「たとえ読んでも時間の無駄」あるいは「読んだらすぐ放るべき所に放りこむ」
   ことにさせるに十分だろう。       2月27日
訳者雑感:5番と7番は殆ど無関係のように読み終えてしまう。だがこの二つが、
セットになって魯迅のきっさき鋭いあいくちとなる。
志摩氏と西瀅教授の二人が互いに持ち上げているのは、自分のためにどれだけ利用
できるかどうかに関係している。
 その一方で、彼らの行為行動をみて概嘆だけにとどまらず、痛烈な罵りを繰り返
し、攻撃を止めぬ魯迅は、彼らにしてみれば目に見えぬところに追いやって消して
しまいたい対象に他ならない。
   2010/11/12

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 皇帝の話


中国人の鬼神に対するや、疫病神や火の神の如く凶悪な神にはおべっかを使い、土地神や竃神のように実直なのには、これを欺侮する。皇帝に対してもこれに似た気味がある。君民は、もとは同じ民族で、乱世には「勝てば王、負ければ賊」で、平時は一人が皇帝になり、他の者は平民になる:両者の間の思考には本来大した差は無い。だから、皇帝と大臣は「愚民政策」をとり、民は民で「愚君政策」を持っている。
 昔私の家に老下女がいた。彼女は自分の知っている、且また信じている皇帝への対処法を私に教えて呉れた。彼女の説では:
「皇帝はとても恐ろしく、龍の椅子に坐り、ちょっとでも気に食わないと、すぐ人を殺す。とても手に負えないから、食べ物もおろそかにはできない。食べ終わっても、すぐ又別のものを欲しがるが、おいそれとは探せない。例えば、冬に瓜を食べたいとか、秋に桃が食べたい、と。それが探せないと、すぐ怒って人を殺す。今は、一年中彼にホーレン草をあげるので、食べたいと言えば、すぐ出せるようになり、難しいことは無くなった。但し、もしホーレン草だと言うと、それが安物だと知って又怒りだす。だからみんなは彼に対しては、ホーレン草と言わず、別名の「紅嘴緑インコ」と呼ぶことにしている。
 我故郷では一年中ホーレン草がとれ根は赤くまさしくインコの嘴と同じ色。
 このように愚かな婦人から見てさえどうしようもない皇帝は、いなくてもよいようなものだが、実はそうとも言えない。彼女は必要だと考えていて、しかも彼には権力を傘に自由にさせてやらねばならない。その用途は、彼の力で自分より強い相手を鎮圧してもらいたいから。いつでも人を殺せるというのは絶対条件である。しかるに、もし自分が彼に仕えることになったら、どのように奉仕すればよいか?ちょっと危険を感じるので、彼を間抜けにして、年中辛抱強く「紅嘴緑インコ」を食べてもらうように躾ねばならない。
 しかし、彼の名と位を使って「天子を挟み諸侯に命ずる」のと、私の老下女の意味するところとやり方は同じで、一つは彼を弱くし、更には彼を愚かにするだけに過ぎない。儒家が「聖君」の力によって道を行うのもこのやり方で、
彼に依拠しようとするから、威厳があって重々しく、位も高くせねばならぬ。
又一方で操縦に便なように実直によく言う事を聞くように躾けねばならぬ。
 皇帝がひとたび自分の無上の権威を自覚したら、やりにくくて大変だ。
「普天の下、皇土に非ざるなし」となると、デタラメをやり始め、「自分が得たものゆえ、自分がそれを失っても何を恨むことあらんや」と言い出す始末。それで聖人の徒は彼に「紅嘴緑インコ」を食べてもらうしかない。これが即ち「天」
である。天子の行事はすべて天意をくみとって行うべきで、デタラメはできない。そしてこの「天意」なるものは、またどうしたわけか、只儒者たちだけの知るところという。
 かくして決まりは:皇帝になるには必ず彼らの教えを請わねばならない、ということになるのだ。
 しかるに分に安んじない皇帝がまたデタラメを始める。彼に「天」ではないかと問うと、答えて曰く「我が生は、命が天に在るのではないか」と。
但、天意を体しないばかりか逆天、背天、「射天」におよび、まったくもって、
国家を台無しにしてしまう。天を飯のタネにしてきた聖賢君子たちは、泣くにも泣けず、笑うにも笑えない。
 そこで彼らはひたすら本を著し、説を立て、彼を罵って、百年後には、即ち彼が死んだあとには、その説が大いに世に行われると予言し、自らこれは素晴らしいことだと思い込む。
 だがそれらの本の中に書いてあるのは、せいぜい「愚民政策」と「愚君政策」が、すべて成功しなかったということだけである。 217
 
訳者雑感:これは魯迅の痛烈なそしてコミカルな儒家批判である。儒家たちが、
皇帝をどのように使って、自分たちの飯のタネにしてきたか。辛亥革命により、
清朝皇帝は廃されたが、袁世凱を始め、次々に登場してきた男たちは、共和制はなじまぬとして、自分が皇帝になろうとした。彼らを皇帝にしようと考えたのは、とりもなおさず、飯のタネを失った儒家たちと、儒家色の濃厚な政治家、学者たち(中国では学者が政治的動きをし、政治家になる例も多い)であった。
 現実の軍閥政治家たちに容れられず、実権から追い出された儒家たちは、下野して故郷にもどり本を書く。それは孔子以来続いてきた、理想を古代の実存したと伝えられる「名君」に求め、自分の存命中はできぬだろうが、百年後には、古代のような理想郷が出現すると予言し、紙の上、机の上の論法で、自分をも欺くもので、それはまさに「愚民、愚君政策」の失敗を物語るのみである。
   2010/11/11

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竃神(おくどさん)送りの漫談


 あちこちから爆竹の音が聞こえ、竃の神さんたちが次々に天に上り、玉皇大帝に銘々の家の悪口を告げに行くのを知る。だが、神さんは多分何も言わない。
もしそうでなかったら、中国人はきっと今よりもっと大変な目に遇っていることだろう。
 竃神の昇天する日、街では特別な飴が売られる。ミカンくらいの大きさで、私の故郷にもあるが、扁平で厚いオヤキのような形。名前は「膠牙餳」と言われる。(歯にくっ付く飴)竃神に食べさせて歯にくっつかせ、唇と舌をうまく使えなくさせ、玉帝に悪口を言えなくさせるのが始まりだ。我々中国人の気持ちの中の神鬼は、生身の人間より実直で、鬼神に対してこのような強硬手段を使うのだが、生身の人間に対しては、ごちそうで応対するしかない。
 今の君子は、ごちそうになること、特に宴席に招かれるのを避ける。それは当然で、怪しむに足りないし、確かに聞こえが悪い。只、北京の飯店はとても多く、料理屋もとても多い。すべてがハマグリを食べ、風月を談じ「酒が酣になり耳が熱くなって、歌を歌いだすのか?」そうとも限らない。確かに多くの「公論」はこうした所から広まるが、只公論と招待状の間に何も確とした痕跡は見つけ出せないから、議論は立派なものになる。しかし私の考えでは、やはり酒後の公論には情実があると思う。人は木石に非ず。理屈ばかりでは「情面」(人情味)に欠け、偏向が出る。従って酒席に本当の人の気息が現れる。ましてや中国は従来からずっと情面を重んじてきた。情面とは何か?
明代人は解釈して曰く:「情面とは情に面するの謂いなり」。彼が何を言いたいか知らぬが、言いたいことは判る。今の世は不偏不倚の公論が必要だというのは夢想に過ぎない。たとえ飯後の公論でも酒後の宏議(広く議論する)でも、
一応はこれを聞いてみて悪いと言う事は無い。しかしもしそれがどこでも通用する正しい公論だと思うのは間違いだ、―――がこれを単に公論家の罪にすることはできない。世の中に宴席への招待が流行し、それが一方で憚られるというのは、人に虚偽をさせることだが、それは夫々がその咎を分担すべきである。
 数年前のことだが、(第一次世界大戦で、対独参戦問題で黎総統と段が争い、
軍を動員して黎を退陣させた)「兵諫」の後、軍人階級が専ら(北洋軍の根拠地)
天津で会議を開くのを楽しんでいた時、ある青年が私に対して、:彼らのは、何が会議なものですか、酒席や賭博の卓で、ついでに少し話して、すぐ決めてしまうのはけしからん、と憤慨して訴えたことがあった。
彼は「公論は酒飯から生まれないという説」に騙されていて、永遠に憤慨していることになる。彼の理想の状態がどんなものかは知らない。多分2925年になったら現れるかもしれないが、ひょっとして3925年になるかもしれぬ。
 しかし酒飯を大事に思わない真面目な人も確かにいる。もしいなければ中国はもっと悪くなっていたことだろう。午後2時に始めた会議は、問題を討論し対策を検討、あれこれの議論が風雲を呼び、78時まで延々と続き、皆が端無くも不安焦燥を覚え、カンシャクが益々大きくなり、議論も益々紛糾する。
対策も益々渺茫となり、今日は討論が終わるまで閉会しないと言っていながら、ついには皆が大騒ぎしだして解散する。結果は無。これ即ち食事を軽視した報いで、67時の焦燥不安は、腹具合が発する本人と周りへの警告である。皆は食事と公理は無関係という妖言を誤信して一顧だにせず、腹が減っては演説にも精彩を欠き、宣言もドラフトさえできない状態で終る。
 しかし私は、問題が起きたら必ずナントカ太平湖飯店(魯迅の論敵の愛用した高級レストラン)や擷英番菜館などで大宴会を開けと言っているのではない:
私はそれらの店の出資者でもないし、彼らのために顧客を連れてゆくこともできぬし、皆もそんな金持ちでもないだろう。(と論客を風刺している)
 私が言いたいのは、議論と招宴は今もまだ関係があり:招宴が議論に対して今なお有益であるという事:これも人情の常であり、深く怪しむには足りぬ。
 ついでに熱心で真面目な青年に忠告するが、たとえ酒飯無しの会議でも、余り長くてはダメ。おそくなったら、オヤキか何かを買って来て食べてから又やること。そうすればペコペコで討論するよりずっと容易にまとめられる。
膠牙餳の強硬手段は竃神にあげる物ゆえ、私は構わないが、生身の人間に対しては良くない。もし生身の人間なら、酔わせて満腹にするのが一番で、彼はもう自ら口を開かないが、雁字搦めにしようとするわけではない。中国人は人間に対してとる手段は頗る高明で、鬼神に対して却って特別なものがある。
12月)23日の夜に、竃神を弄するのも一例で、奇怪なことだが、竃神は今なおどうも気づいていないようだ。
 道士たちの「三屍神」(道教でいう体内で祟る神で、庚申に昇天し天帝にその人間の罪を告げる:出版社注)に対するや、すさまじいものがある。私は道士になったことは無いから詳細は知らぬが、話では道士たちは、人間の体には三屍神がいて、ある日、熟睡に乗じて、密かに昇天し、当人の罪状を奏上する由。
 これ実に人体中の悪玉で、「封神伝演義」にたびたび出てくる「三屍神が大暴れし、七つの穴から煙を生ず」の神、即ちこれ也。だが、それを防ぐのは難しくない。彼が昇天する日は決まっているので、その日一日眠らずに、乗ずる隙を与えなければ、罪状は腹に押し込められたまま来年の機会を待つしか無い。
膠牙餳すら食べられず、竃神より不幸で、同情に値する。
 三屍神が昇天せず、罪状は腹の中で、竃神も歯が飴でくっつき、玉皇大帝の前ではもぐもぐするだけで降りてくる。玉皇大帝は下界の状況は何も判らない。
何も知らない。それで我々は今年も旧年と同じように天下太平に過せる。
 我々中国人の鬼神に対するや、かくも素晴らしい手法を編み出した。
 我々中国人は鬼神を敬い信じているが:鬼神を人より間抜けとみなしていて、特別な手段を講じて、それらに対処する。
人に対しては当然異なる。だが、やはり特別な方法で対処するのだが、只、そうだとは決して口外しない:もし口にしたら、彼を軽く見ていたと、言いふらされてしまう。自分ではよくやったと思ったことが却って浅薄さを暴露することになってしまうのだ。   
                25日 (本文のは陰暦の行事)
 
訳者雑感:日本では、大晦日に神棚に餅やお神酒を供えるのと同じように竃にも1年のお礼として、来年もよろしく頼みますという気持ちで、お供えする。中国人のように歯にくっ付く飴で云々というような発想は無い。中国からもたらされた当時は、多分中国人の感覚とか発想に依拠しながら、同じような趣旨でお供えしていたのだろうが、百年もすると日本的に変化してしまう。
 それは鬼神に対してであって、人間に対しては中国人の編み出したものを、上手く使いこなしたようだ。或いは、中国からもたらされる前から、自家薬籠中のものにしていたことだろう。
 人に悪口を言わせない、あるいは自分の意見に同意してもらうためには、酒を飲ませ、おいしいもので満腹にさせることが、最短のようだ。
 だが、それをあからさまに口外しては、招かれた方がいい気がしない。あいつは酒と飯で味方にできる。事実はそうであっても、それをいっちゃあおしめえよ。人間社会はあうんの呼吸で、成りたっている。

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米国の進化論

 113日にオバマ民主の大敗が報じられた。自分たちの税金が、貧者と金融機関の救済に使われるのは我慢ならない、という保守層からオバマ氏の唱えるチェンジに対する「ノー」である、と解説している。
 114日の日経には「人口2,000人ほどの町では、学校で進化論を教えるな」という保守派もいる、と報じている。
魯迅が1925年ごろに懸命になって「改革」を進めようとしているとき、当時の中国の保守層が、米国には州政府が進化論を学校で教える教師を罰金刑に処した、との事実を引用して、魯迅の「改革」に異を称え、「中国古来のやり方、
考え方」を守ることの方が大切だと主張していた人間が権力を握っていた。
 魯迅は彼の雑感「古書と口語文」の末尾に「アメリカの某州では進化論を説くことを禁止したそうだが、実際に(進化を止める)効力はないだろう」と結んでいるが、百年後の今日、チェンジを称えて大統領になったオバマを敗北させた勢力の中に、Tea Partyとか進化論に反対する「熱烈なキリスト教徒」たちという既存勢力、欧州から逃れてきて、これまで自分たちの汗で築き上げてきた人々の心の奥に、チェンジを嫌う流れが一気に押し寄せたのであろう。
 人間は元来、毎朝起きて、日課に従って日々の求めに応じながら生活してゆく。その暮らしがチェンジによって脅かされそうな不安が、心の中に芽生えたら、チェンジに反対するのだろう。十年一日のごとくというのは、向上心の欠けた人間を非難する意味合いが強いが、百年経っても、アメリカの根っからの保守というか、律儀に信仰生活を守れば「安心」して暮らしてゆける生活を脅かすものへの拒絶反応は、大変強固なものがある、と実感した。
 ジャレ.ダイヤモンドの「銃、病原菌、鉄」の主題は、白人が非白人より優れているという人種的な差は無いということだそうだ。たままた欧州で、定住型の農耕社会が可能となり、銃や鉄を他より早く大量に作れたことと、病原菌を退治することができたことが、他の文明より優れていただけ、との由。
 中国は銃こそ欧州に負けたが、鉄の生産とか病原菌の退治などでは決して負けたことは無く、定住型農耕社会も、欧州よりずっと早く、大がかりに発達させてきた。だが、チェンジを嫌う王権統治の下で、王朝の最初は隆盛を極めるが、徐々に腐敗して次の王朝への交代という循環を繰り返してきた。
 アメリカは独立以来二百余年、常にチェンジを掲げ、イギリスとの独立戦争から奴隷解放の南北戦争をはじめ、米西戦争、第2次世界大戦まで、それまでの既存勢力である欧州先進国(例外的に日本も含む)に勝利してきた。
 しかし、朝鮮戦争以来、ベトナム、イラク、アフガンなのでの戦争は、背後にソ連、中国がいたとは言え、自分の「既存の富」を守るために、チェンジの対極の「アンチェンジ」自分のルールを押し付けようとした戦争であった。
 オバマがチェンジを掲げて勝てたのは、ブッシュのそうした戦争にこりごりしたアメリカ人が、期待を託したのだが、オバマもブッシュの戦争を止められないし、逆に自分たちの富を脅かすような行動に、危機感をつのらせたのであろうか。保守が進化論を退治したような格好だ。
 日本の民主党に対する我々の気持ちも、大同小異な面がある。外交の素人集団が、米中ロ三国を相手に、きりきり舞いさせられているのは、チェンジを掲げた民主党に対して、相手は既存勢力として従来の権益をそうやすやすとは、チェンジに応じかねる、と言っているのだ。普天間しかり、北方四島しかり、
尖閣は逆に相手が、その足元を見透かしてきているのだが。この三つ巴、4者の相関関係のパズルは、日本が相応の実力を備えた政権と武力を含めた国力を
持たない限り、大海の波浪にもみくちゃに翻弄されることになるだろう。
        2010/11/04
 
                                                                            
 
 
 

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比喩ひとつ

 私の故郷では余り羊を食べないから、市内で一日数頭しか山羊を殺さない。北京は正に人口も多く状況はまるで違う。羊肉だけを売る店もたくさん目にする。(回教徒が多いため豚と一緒に売れないし、生きたまま店で屠殺するからと訳者は思うが)真っ白い羊の群れが街中の通りをしばしば道いっぱいに歩いて通るが、全て胡羊で我故郷では綿羊と呼ぶ。
 山羊はなかなか見かけない。北京ではとても名が貴く、胡羊より賢く群れを率い、歩を止めさせることもできる。だから牧畜家も数匹飼ってはいるが、胡羊のリーダーとして飼うのであって、殺したりはしない。
 そういう山羊を一回だけ見たことがある。一群の羊の前を歩き、首に鈴をかけ、知識階級の徽章のようだ。通常、先頭は大抵牧人で、羊はじゅじゅつなぎに連なって、つぎからつぎへと柔和で従順な目をして、彼の後をぞろぞろ進む。私はこういう真面目にピタッとついて進む羊たちを見て、心の中で愚にもつかぬことを羊たちに問いかけたい衝動にかられた。
 「君たち どこへ行くんだい?」
 人の群れにもこのような山羊が結構いて、群衆を率いて、平静穏便に群衆が向かうべき所まで連れてゆく。袁世凱はこの辺のことを少しは心得ていたが、上手にこなせなかった。多分彼は本を読まなかったせいか、こうした奥妙な秘訣を熟知運用することができなかった。彼以後の軍人たちはそれに輪をかけたように愚かで、自分で乱打乱割(国を割って軍閥統治したこと)に明け暮れ、乱の果てに哀号の声が国中に響き、民を残虐に扱うだけにとどまらず、学問を軽視し、教育を荒廃させたという悪名を残す結果となった。
 だが「一事を経ると一智に長じる」で、20世紀も四分の一過ぎ、首に鈴をかけた賢人は、きっと幸運にめぐり合えるだろう、といっても今現在は表面的な小さな挫折は免れないが。
 その時が来たら、人々は、特に青年はみな敷かれた軌道に沿って、騒いだりせず、動揺もせず、一心に「正道」を歩み前進するに違いない、もし誰も
 「君たち どこへ行くんだい?」と尋ねなければ。
 
 君子は言うかもしれない「羊は羊、数珠つなぎで従順に歩かなければ、他にどんな方法があるのか?
豚を見てごらん。ひっぱっても逃げようとし、わめき猪突し、終には捕まって行かねばならぬ所へ連れてかれる。その前に暴れもがいたって無駄なことよ」と。
 これは:どうせ死ぬなら羊の如くに死ぬべきで、それで天下太平、互いに省力と言う事。
このスキームはもちろん大変立派で感心もするが、イノシシを見たまえ。二本の牙で狩りの名手すらも退避させる。この牙は豚小屋を脱出して山野に入りさえすれば、暫くすると生えてくるのだ。
 Schopenhauerはかつて紳士をヤマアラシに譬えた。私はそれはいささか体裁が悪いと思ったが、彼には何の悪意もなく、単なる比喩として使ったに過ぎぬ。
 
「Parerga und Paralipomena」にこんな面白い話がある:
 ヤマアラシの群れが冬に互いの体温で防寒しようとピッタリ集まったが、トゲがとても痛いので
離れてしまった。しかしどうにも寒いので皆が寄り集まったが、やはり痛い。
この二つの苦難の中から、終に互いの適宜な間隔を発見した。その間隔を保つことで一番平穏に過ごせた。
 人は社交の必要から一ヶ所に集まり、夫々が互いの嫌な性質と耐えられぬ欠陥のため、再び離れさせる。
彼らは最後に発見した間隔――彼らが一ヶ所に集まっても程良い間隔が即ち「礼譲」と「上流の風習」である。この間隔を守らぬと英国では「Keep your distance!」と注意する。
 だがたとえ注意しても、多分ヤマアラシとヤマアラシの間だけに有効で、
彼らがこの間隔を守るのは痛いからであって、そう注意されたからではない。例えばヤマアラシの
間に別のものを挟んだら、トゲは痛くないからどんなに注意しても、体を寄せ合うだろう。
孔子は:礼は庶人に下らずと説いた。(礼は庶民には適用されない)
今日の状況に照らすと、庶人はヤマアラシ(紳士の意)に近づくわけにはいかぬ。
ヤマアラシは任意に庶人を刺して、暖をとることができるから。それで傷を受けることに
なるのは当然だが、それは自分だけがトゲの無いことを怨む他ない。相手に適当な間隔を
守らせられないのだから。
 孔子はまたこうも説く:「刑は大夫に上せず」。どうりで人は紳士になりたがる訳だ。
(刑罰は上流階級には適用されない)
 このヤマアラシたちには、勿論牙や角あるいは棍棒で防御はできるが、ヤマアラシらの
社会で決められた「下流」または「無礼」という罪名は必ず背負わされる。
              1月25日
 
訳者雑感:
上海やその周辺で羊専門の店を見つけるのは難しい。だが北京には「東来順」という王府井の有名な羊のしゃぶしゃぶ専門店がある。それ以外にも市内の至る所で、「回民」という看板をかけた「羊肉」を専らとする料理店がある。顔付きは漢族と同じでまったく見分けがつかぬほど同化した回民。それに漢族でも回教に帰依している人口がとても多いという。清真寺と呼ばれる回教寺院が、仏教の寺の格好とあまり変わらない雰囲気で立っている。
 
1925年当時の北京の街路を山羊に引率されて数珠つなぎに歩んで行く食用羊。それを見た魯迅の連想は、袁世凱とその後の軍閥による出鱈目な陣盗り合戦。軍閥の下で身にヤマアラシのようなトゲをつけた紳士たちが、庶民を残虐に扱い、血税を吸い上げる。
その軍閥政府から睨まれて、筆で書くより、足で逃げ回るのに忙しかった魯迅は、外国の病院などに退避したが、とうとう北京にはいられなくなって、アモイに去る。そんな時代背景を思い浮かべながら、この比喩を読む。「礼」も「刑」も儒教の説くものは紳士たちの統治のために都合よくできているのであって、庶民とは無関係なものだということが実感できる。     2010/11/02訳

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古書と口語文


口語文を提唱したとき、誹謗中傷をたくさん受けたが、口語文がやっと定着し始めた時、一部の人たちは言い方を改め:古書を読まねば口語文も上手くは書けない、と言い出した。これらの古文保存家の苦心も理解しなければならないが、彼らの祖伝の方法を憐憫せずにはいられない。少しでも古書を読んだ人なら、この種の老練な手法を会得している: 新しい思想は「異端」であり、
殲滅すべきで、それが獅子奮闘の結果、自分の力で確固として立ち始めたら、それは元来「聖教と同源」だとする。外来の事物はすべて「夷を用いて夏(中華)に変ず」であり、まず初めは必ず排除すべしだが、「夷」が入って来て中華の主となれば、考えを訂正して、元来この「夷」もやはり黄帝の子孫だったとする。(清朝も元来夷だったが、中華の主になったことを指す)
まさしくこれは思いもよらぬ事ではないか。何事であれ、我々の「古」の中に、
包含しなかったものは無いのである!
 古い手を使っていては、長足の進歩は望めず、やはり「数百巻の書を読」まなければ、良い口語文は書けないと言い、無理やり呉稚暉先生を例に担ぎだす。しかし又「ゾクゾクするような事にも興味を示す」し、話しも興が尽きないとする。天下の事は実に奇怪千万だが、呉先生の「話している言葉を文にする」ということを引用するが、その「容姿」をどうして「青二才の作品と同じだ」などと言えよう。「筆の赴くに従い、千言万語」を吐くのである。
そこには当然、「青二才」の知らぬところの古典あり、また若造の知らぬ新典もある。清、光緒末に私が初めて日本の東京に着いた時、呉稚暉先生はすでに蔡鈞公使と大論戦中で、その戦史はとても長く、見聞の広さは勿論、今の青二才の及ぶところではない。従って彼の遣辞と典故の妙は、多くの所で大小の故事に習熟したもののみが理解できることで、青年が見たらその文辞の澎湃(ほうはい:湧き出でる)さに驚嘆することだろう。
この点が名士や学者の思っている所謂長所だろうが、その神髄はここにはない。名士や学者たちがお世辞を並べ褒めそやしているのと丁度反対のところ、そして自分ではわざわざ優れていると顕示したりしないが、名士や学者たちの所謂優れていると思っているところも、無くしてしまうことはできない。その説くところ、書くところは、改革の道筋への橋となるのだが、或いは改革の道筋への橋となろうなどと考えていないかもしれない。
つまらなくて人気の落ちた役者は、何とかより長く舞台生活を続け、不朽の名優になろうと必死になってブロマイドをたくさん配って人気挽回に腐心し、虚栄をはるのが上手くなる。無意識のうちに自分のつまらなさを自覚し、それでまだ朽ち果てていない「古」を一口咬んで、その腸の中の寄生虫になって、後世に残ろうとする。或いは口語文の中に少しでも古い気を見つけ出して、逆に骨董に代わって寵栄(ちょうえい:寵を得て栄える)を増そうとする。
もし「不朽の大業」(文章を書くこと)もこの程度なら、余りにも哀れではなかろうか。しかも2929年になっても「青二才」たちに「甲寅」流の本を読ませようと考えているなら、余りに悲惨なことではないか。たとえそれが「孤桐先生の下野後、… 徐徐に生気が出てきた」としても。
古書をけなすには、古書を読んだ者でなければならないというのは本当だ。その弊害を熟知洞察しており、「子の矛で、子の盾を攻めよ」、まさしくアヘンの害を説くにはアヘンを吸ったことの有る者が、そのことを深く痛切に感じているのと同じである。だがしかし、たとえ「若造」でもアヘン禁止の文を書くのに、まず数百両(重さの単位)のアヘンを吸ってからでなくてはならないとまでは言わない。
古文はもう死んだ。人類は進化しているが、口語文はまだ改革の途上にある。 それゆえ、文章は必ずしも万古不滅の典例規則だけに頼る必要は無い。アメリカの某所では、進化論を禁じたそうだが、実際にはきっとそれは効力が無く、進化は止められないだろう。    125
 
訳者雑感:魯迅の比喩の巧みさに驚嘆する。訳していて初めのころは何を意図しているか、難解で投げ出したくなるときがしばしばである。しかし、かれの比喩に遭遇して、ああそうだったのか、と合点がゆくことがある。
古文保存を主張する名士学者を、つまらなくて人気の落ちた役者に譬え、なんとか生き残ろうとしてブロマイドを沢山配って、最後の悪あがき。果てには
寄生虫となって腸の中で生き残ろうとする。
 1925年ごろ、米国でキリスト教信仰の関係で「進化論」を禁じたことなどを
彼の論敵たちが引用しているのも逆手に使っている。
 新中国になって古い漢字は簡体字になったが、改革開放で富を蓄えた大都市の繁華街の「金看板」(金で屋号の文字を飾ったもの)には、昔の繁体字が復活してきた。腸の中で嵐が過ぎ去るのを凌いだ寄生虫が、体外に出てきたようだ。
   2010/10/30

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面白い話 2.


 だが事はそんな単純ではない。中国の悪人(水準以下の文人と無頼な学者や学匪、論敵が魯迅を罵った言葉:出版社注)は、将来大変な苦しみに遇い、死後は地獄に落ちるようで、ここはひとつ深謀遠慮し、今後注意して余計なことは言わぬ方が安全だ。「閑話先生」は、閑事に口出しはしないというが、決してそうとは限らぬだろう。彼はきっと「頭角を現してきた人の鋭気が抜け切ったころに、従容として彼の‘The Finishing touch’で、仕上げにかかり、ふふふと笑いながら、鉄の棒から磨き上げた刺繍針で、そんな性急なやり方ではダメだ、何とバカなことをするものよと詰り、その逆に、「たゆまぬ忍耐こそが天才たる唯一の証拠」と言う。(晨報副刊 1423号)
 後者は前者に勝るとは、世の常だが、堕落した民族には当てはまらない。衣服で譬えれば、裸から下帯、前垂れをつけ、その上に衣冠をつけるのが順序である。我我の将来の天才は特異で、人が前垂れをして激しく踊っている時に、彼は刺繍の仕事場で、刺繍して――ではなく、針を磨き、人の前垂れが破れた時、彼は花の刺繍のシャツを着て登場する。皆は、「おおー」と驚き、哀れで性急な野蛮人は、前垂れを替えることも知らず、鋭気も抜けてしまう。抜けるのはやむないとして、ふふふと笑う風刺の天才は、遠い将来のこととは言え、その魂を鞭打とうとする叱咤の顔である。
 更に恐ろしいのは、例の2025年に陶孟和教授が発表するというもので、内容については、百年後、我が曾孫、玄孫のみが知るべしだが、幸い「現代評論増刊」に一部が発表されたので、管から覗き見ることで、この新書の概略は判る。「現代教育界の特色」について、教員の「兼任」の多さに触れている。
彼は「私の論は悲観的過ぎ、酷薄で、でたらめだろうか?私はこの批評を事実でもって証明されるなら、それを受けとめたい」と述べている。
 批評は百年後に待つとしよう。その頃は事実が果たしてどうなっているか、知りようもないが。典籍は多分「ふふふと笑う」人の佳作だけが残るだろう。もし本当にそうなら、大半は「英雄の見る所と略同じで」後人はきっと酷薄とは言わぬであろう。推測は困難だが、今これを論じるなら、どうやら「孔子が<春秋>を作ったとき、乱臣や賊どもがとても懼れた」のと大変似ている。人々はこのような盛事に逢わなかったが、蓋しもう既に2,400年云々してきた。 
 要するに百年以内に、陳源教授の本が沢山出版され、百年以後に陶孟和教授の本が1冊出る。内容は知らぬが、現在漏れ来るところから見ると、多分あの
「頭角を現してきた人たち」または「北京中を(兼職で)駆け巡る」教授たちを風刺するものであろう。
 私はいつもインド小乗仏教の教えは何とすごいものか、と感嘆するのだが:
地獄説を作り、和尚から尼、念仏を唱える老婆の口を借りて宣教し、異端者を
恐懼させ、信心の薄い者をこわがらせる。その秘訣は、因果応報は目前にあるのではなく、百年後か、少なくとも鋭気の失せたころという点だ。この時、人はもう身動きもできず、人の言うがまま、鬼涙を流し、生きていた時に頭角を妄出したことを深く悔やみ、しかもこの時になって初めて閻魔大王の尊厳と偉大を悟る。
 こうした信仰は迷信だが、神道の教えるところは、世道を立て直し、人心を正すことにあり、御利益がある。ましてや、生前には悪人を豺虎に投与できなかったし、只、死後にやっと口と筆だけでこれを誅して伐したに過ぎず、孔子が2頭立て馬車で諸国を遊説し疲れ果てて戻ってきて、鋼筆で<春秋>を書いたのも、蓋し亦、この志なり。
 だが時代は変遷し、今になると、私はこの古い手法は、すごく気まじめな人たちだけを騙すことができるのだと思う。この手を使う人も、自分では必ずしも信じていない。況や所謂悪人をや。悪を為した人は、報いを受けるが、平常なんら特に奇妙なことにはならないし、時には婉曲な言い回しで、しばらくは遠慮している。なんでまた、地獄行きを免れようなどと思うものか。これは考えてもしょうがない。従容としていられない我々の世で、大仰なものを担ぎ出して偉そうな顔のエセ紳士のやり方でなく、やるなるすぐやる、来年の酒より今すぐ飲む水の方が大事であり、21世紀の死体解剖を待つのは、いますぐビンタを食らわすに如かず。将来、後人たちが立ちあがったのなら、今の人は決してその時に所謂古人の生きていたような社会ではないのである。もし、やっぱり相も変わらず今のような社会なら、中国はおしまいだ。   
114日 2010/10/28
 訳者雑感:これは極めて難解な雑文である。
房向東著 罵人与被罵 と副題のついた「魯迅生前身後」(青島出版社)に触れられているが、魯迅は生前、すさまじい数の「罵文」を書いた。そしてそれと同じかそれ以上の「罵られた文」を彼自身が読んで「こやし」にした。その
「こやし」が魯迅の雑文を育てたのだろう。
仏教の地獄説話を借りて、1925年前後の所謂「保守主義者、国粋家」たちが
新しい考えで、中国を改革しようとして「頭角を現してきた」人たちを、潰しにかかっている。これはそんな動きをする名流たちへの罵文である。
 
 
 

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