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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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両地書13

両地書13
 魯迅師:
 「お宅」を探検しました!帰宅後の印象は、赤い灯火が消えてしまったように感じました。一面ガラス張りのお部屋に座り、時にはしとしとと降る雨音を耳に、時に月光の清幽を眺め、棗(なつめ)の木が芽吹き、実がなるときには微風が枝を揺らし、実が落ちるのを見、鶏のコツコと絶えず無く声も耳にされているのでしょうね。朝夕には、時に両手を後ろに組み、この小天地を徘徊し俯仰されるのでしょう。とても趣のあることで、味は如何でしょう。やはり一筋一筋とのぼる煙草の煙がくゆるのを眺め、無窮の空に伝わり、昇騰分散する…。消えてしまうのでしょうか?残るのでしょうか?(小鬼は余り推想や描写がうまくないので、唐突な表現をお許しください!)
 「京報副刊」に一昨日、王鋳君の「魯迅先生…」の一篇と「現代評論」の何号か前のあの文が載りまして、読後私はやはりいいなと思いました。私はいつも教室でお聞きするのと同じようなお話が好きです。どれだけ理解でき、体得できているか分かりませんし、「誤解」もありましょうが、意味深長で人を引き付けずにはおかない妙を感じます。聞きなれていない人たちは、誤解しやすく、端緒を見出せないでしょうが、それは余り問題ではありません。時間が経てば自然に良い方法が見つかり、うまく調和するでしょう。冗長なものよりずっと良く、学者は知らざるを患うなく、法(のり)にかなえられぬを患うのです。
 今の「夫人連」は確かに一人もここに来るにふさわしい人はいないと言えます ――小姐たちも同じ――そして旦那たちの王九齢も辞職しました。但、法学博士がこの種の成見を打破できるか否か分かりません。要は、現在の学校騒動が数カ月続き、申請書も無数に出され、教育部も2回査察に来、総長も3人が代わっても学校の問題は何も落着せず、「大旱に雨雲を望むように」人を替えても、何時になったら終わるか知りません。薛はもう学校に戻り、任務に就いた。一枚の紙を掲示板に張り、大意は:薛の辞任は再三の慰留により、やはり校務が大切として既に任に当たり、云々、と。自治会は即刻彼を教務長と認めるか否か会議し、4年生は間もなく卒業するので、承認を示し、その他の人は少数で、異議は通じず、これは内部麻痺の「死んだふり」の復活です。そして、新任の教育総長は我が校に対して、発表する前から我々をとても失望させました。夫人連を校長にという成見は彼の脳内では軽いことかもしれません。だがそれ以外となると? この種内外の暗黒な内幕は文章にして発表しようと思っているのですが、各方面の掣肘と投稿の難しさもあり、毎日苦しみ、ひっそりと思いを抑え、「勝手にしろ」「やめようにもやめられない」やめなければだめだ!と考えながら、どうにもすかっとできません。
 「猛進」は「語絲」の目録を見過ごし、又受付にも購読用紙があったのを見なかったので、小さなことですが、迂闊でした。分かりましたので、受付に申し込みました。ご配慮ありがとうございました。ご報告まで。
   小鬼 許広平 4月16晩

訳者雑感:学校騒動がもう手に負えぬほど悪化しているのがわかる。辛亥革命で清朝は倒せたが、袁世凱以降の北洋(軍閥)政権が復古主義で孔子を尊敬し、経書を読め云々と主張して、近代化とは逆方向に向かおうとした。それに抗おうとする意思が魯迅と許の手紙からわかる。
  2016/07/25記
 

 

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両地書12

両地書12
 広平兄
  話はたくさんあり、先日、本来口頭でお答えできたが、ここには朝から晩まで客が多いので只天気の話や風の強弱などができただけです。平常の話とはいえ、偶然ある部分だけを耳にすると妙な感じになり、それがデマのもとになりますから、やはり書くことにします。
学校のことは暫く「死にも生きもせず」でしょう。昨日の話では章夫人は来ないとなり、別途二人を推薦したようですが、一人は来ず、もう一人は頼まぬそうです。さらに□夫人はなりたいと思ったが、当局は敢えて請わず、評議会の引き留めは何の役にも立たなかったそうです。それで問題は人が得られないと、当局は「夫人」の類から選びたいが、もとよりこだわり過ぎで、別の時には無くてもよいとか、これが実は死なず生かさずの大原因です。後はどうなるか、次回の解を待つのみ。
 お手紙の中での意見は、実際問題として私は間違っているとは思わないが、賛成は出来かねます。一つは、全局からみてで、二つ目は、自分の偏見からです。第一、これは少人数ではできないし、このような人は今多くないから。いるとしても軽々に使うべきではなく:またたとえ1-2回類似な事件が起きても、国民を震撼させるには不足で、彼らはとても麻痺していて、悪い連中に対して、すごく厳密に警戒しても必ずしも心を入れ替え、顔を改めるとは限らない。又これはすぐにも悪影響を及ぼし、たとえば、民国2年の袁世凱もこのやり方を使ったし、革命者が用いたのは多くの青年だったが、彼はやはり金で雇った奴才で、ちょっと秤で計って見れば、どうしてもこちらが損をするのですが、革命者たちもかつて人を雇って互いに惨殺したこともあり、この道は更に堕落し、今たとえ復活させても、いっときは快いが、大局とは無関係と思います。
第二、私の性格はこうなのですが、自分がやったことのないものに余り賛成しません。時に私もはげしい論調で、青年に冒険を煽ることもしたが、知っている相手に対しては、彼の文章を批評できず、彼の冒険を見たくないし、明らかに自己矛盾だとわかると何もできないという癖が直りません。ついには改良のすべもなく、何ともできず、暫くそのままにしておく他ありません。
 「苦悶の無いところはない。苦悶(この次にまた4つの…)「小鬼」の「苦悶」の原因は「性急」のせいだと思う。進取的国民の間では性急は良い。だが麻痺した中国のような所では、馬鹿をみます。たとえ犠牲となっても、自己を毀損するのみで国度に何の影響もありません。以前学校で演説した時、話したと思うが、この麻痺した国度を治そうとするなら、ただ一つの方法あるのみ。すなわち「靭(ねばり)」で「少しもおろそかにせず」で、少しずつやって、休まねば、「談論風発」のみで役に立たぬということにはならないでしょう。但しその間、「苦悶、苦悶(この次に4つ続く…)」は免れません。しかしこの「苦悶…」と抗うしかありません。これは人に辛抱して奴隷になれと勧めるに近いが、実は大いに異なります。甘んじて楽しんで奴隷になるのは将来の望みはありませんが、心に不平を抱くなら、徐々に効力のあることをするようになれます。
 時に「宣伝」は役に立たぬと思いますが、よく考えてみると、そうとも限りません。革命前、最初の犠牲者は、史堅如だったと記憶しますが,今の人は皆あまり知りません。広東なら割合知っている人も多いでしょう。その後何人もが続いたが、爆発したのは湖北で、やはり宣伝の効果です。当時袁世凱と妥協し、病根を植えたのは実は党人の実力が充実していなかったからです。だから前車に鑑み、これから第一に図らなければならないのは、実力を充足させることで、これ以外の各種言動は只、少し補佐できるのみです。
 文章の見方は人それぞれですが、私は短文が好きで、反語をよく使い、弁論の度に、3x7、21という九九には構わず、すぐ一撃しますから、私と異なるやり方を欠点と思ってしまいます。しかし流暢で意を達する文も良い点あり、わざわざ削減する必要はないです(但し、煩雑冗長は自分で削除すべし)。例えば、銭玄同の文章はとても伸び伸びして、含む所が少なく、読者は一目瞭然、疑う所はなく、だから意見を発表するのに良く、かえってその方がよく、効果も非常に大きいのです。私の文章はよく誤解され、時には思いもかけぬ方に解釈されてしまい、やはり意思は簡潔に練るのがよく、慎重に書かぬとすぐ晦渋になり、その弊害はとても大きい。(原文は不可究詰という4語だが、他に適当な語が見つからないのでそのままにするがとても大きい意、と魯迅の説明)
 一昨日「猛進」は最終的には未訂のように聞きましたが、他の話に移ったので、そのままにしていましたが、もし未訂なら連絡ください。郵送しましょう。
忙しいとはいえ、それは「口癖」に過ぎず、毎日いつも閑座し、無駄話をしておりまして、手紙を書くのは難事ではありません。
    魯迅 4月14日
訳者雑感:宣伝という行為。これが広東で最初の犠牲者が出て、それを宣伝し伝達された結果が、広東のすぐ北の湖北省で革命が起こったことにつながった。
だから、文章で宣伝することで補佐するのが魯迅の考えだったのだろう。しかし、最初の党人が実力(軍事力)が無いために、袁世凱という北洋軍を持つ相手と妥協してしまったのが、その後の民国の長いながい混乱の始まりであった。
 その後、国民党が自前の軍事力を持つようになったが、日本軍には立ち向かえず、重慶まで逃げ延びた。その後朱徳と毛沢東の共産党の解放軍が、蒋介石の国民党軍を大陸から追い出した。軍は党の下に属し、国家の下ではなかった。
トルコのクーデターを起こした軍は国軍なのだろうが、大統領の党に属してはいないのだろう。      2016/07/18記


 

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両地書11 

両地書11 
 魯迅師:
 昨日先生の手紙拝受。一昨日郵送いただいた「猛進」5部いただき、開けてみたら元々発行は北大で、自分の見分の狭さと学識の浅さに、覚えず失笑しました。すぐ受付にゆき、購読を申し込みました。お手紙に「今後発禁にならなければ郵送しましょう」とのお言葉を頂いていますが、厚意に大変感謝申し上げますが、先生はことにお忙しいでしょうから、このようなことにお手を煩わせては申し訳ありませんので、ご放念ください。
 薛氏は当日大きな束の紙を引き裂き、両手いっぱいにつかんで、前に学生、後ろに教育省の職員の間で、あのように進退きわまって狼狽した形で、実に見ものでした。そして私の質問への対応にどぎまぎして、退きましたが、馬鹿にされるままなのに甘んぜず、教務室に私を呼んで尋問恫喝し、私が強く答えると、対応できず、最後の毒針を使い、退くのを進むとし先制攻撃として又所謂
「悪いほうが先に訴える」ものだと言い出す始末です。その意味はけだし、学生を攻撃したために一部の人の反感を買い、それで辞職の書面を各班に送った時、我々は、彼は教員に対してはきっと別の表現をするだろうと思っていました。今はもっぱら学生のために辞職するということですが、本心はどうなのでしょう。但し、最終的に辞めるのなら、滑稽ですが、辞めないより痛快といえます。こうすれば、今回は少し犠牲が少なくて済み、大変価値があるといえます。教務所に張られた彼を罵るビラは確かにやり過ぎの面がありますが、彼の行状に疑うべき点が多々あるからです。書いた人は固よりユーモアには欠けますが、群衆が引き起こしたことで予防もできず、慎重さを欠いたことは免れません。その実、平常心でこれを論じて、彼を罵って「馬鹿」というのは何もおかしいことではなく、どうしたって堂々たる「国民の母の母」でも、勝手に「そんなバカなことあるか」と罵れるのですから、上がそうするのが好きなら、下はさらに甚だしくなるのは、怪しむに足りません。先生、そうでしょう!
 今最も心配なのは、騒ぎが数カ月続き、息も絶え絶えなのに、又やはり女性を女学校の校長にするのが良いと、古い頭の人が、目を閉じて学生に問うて「君たちの大多数は反対か?」というような人を教育部の長にしていることです。こういう類の人から良い校長を選べましょうか? 代々悪くなって、無益なばかりか、有害で:ぐずぐずこのまま何も決めないと、ポストに未練のある連中の手段はいよいよ完璧になり、学生が軟化し消極的になる者はますます増え、ついに事件は影も形もなくなってしまい、馬鹿騒ぎしただけになります。本当になんでこんな苦労をせねばならぬのか、今日という今日になって、初めから何もせねば良かった!苦悶の無いところなどない、苦悶、苦悶、苦悶、苦悶…。
 現在「病根を攻める」とき、「最も速く」「有効に」「遅れずに」やりたいのなら、唯一の道は先生のおっしゃる「火と剣」です。二次革命で孫文が国外に逃れてから、すでにこのことを悟ったから、なんとかして党の軍隊を組織しようとしたが、今もってたいしたことはできていません。況や、今早急に解決をせねばならぬ問題は、まさにこれ以上遅らせることは許されず、若干の準備期間は待つとしても、一歩ずつ進め、少しは効果を収めるべきです。さもないと、おそらく国の魂を死んだ魚を売る店の棚に求めるようになってしまいます。これは杞憂です。だから小鬼の考えは、民意に反する乱臣の賊に対し、実際三寸の剣で一撃のもとに相手を倒し、然る後、天を仰ぎ長嘯し、剣に伏して死ぬに如かず。それなら三四名の犠牲で、賊の肝を寒からしめ、妄動させなくします。犠牲となるものは固より、肝が据わり、勇気あるものだが、学識深いものが当たる要はない。蓋し、そういう人を使うのはもったいない。青年は急いで攻撃するのを望みます。それは老人に比べて甚だしく、彼らは前者を受け継いで、後者のために道を開く橋梁となろうとし、国家の存亡はすべて彼らの肩にかかっています。彼らはどれほどの覚悟ができているのか?それはあまり提起する必要はありません!彼らに「改革を鼓吹」しようと思うのは、国家の人材育成の根本の計です。それは手遅れにならぬよう、急がねばなりません。皮膚が無くなったら、毛が付く場所はありません。これもまた杞憂也。だから私はこの方法は次善の策で、上述の二つを並行して行うべきと思います。
 「柴や愚、参も魯」(講師の弟子で愚鈍だった)と教える立場の人の目にはつとに明らかですが、それでも「なぜ夫々の志を言わないのか?」と下問されたら、私は思い切って「率直に申し上げるだけです」 
 風景を叙述するのは風雅な文人の特長で、花月を悲しむのは女の病で、四海を家とし、何も余計な心配をすることもなく、現在これを懐う者は、なにやら「母の懐で…ゆりかごの中」で考えている言葉はこちらにあるが、気持はあちらにあるのです。全編を「美しい文章」の抒情文は、確かに現在の所謂女流文学家の特徴で、幸い私は文学家の資格も夢もなく、こういう文章は一字も思いつきません。ところが議論の文を書くときの「特別な注意点」を知らないうちに、すべて忘れてしまっていたのです。自らの不注意を先生に看破され、お恥ずかしい限りです。しかし「徹頭徹尾、逐一反駁する」のは、蓋しこんなものじゃないと思います。特に敵を完膚なきまでにするには不足で自分も残念です。これは孟子と東坡の余毒を長い間飲んでいるうちに、知らぬ間にその病にかかっていたのです。「正しく論敵の要所を突くのに欠け」「長文はうまいが、短文は良くない」などは女性の理知判断と論理学がいずれも十分訓練されておらず、加えて長い間の遺伝で、慎重になって、反省しにくい故で、今後何とか改めようと思います。「短文がうまくない」のは上記の病原以外のことで、多分水準の低さのせいでしょう。作文を学んだ時、たいていはどうも文辞が意を達せないかと心配で、意を達するために、饒舌になり、さらに進めば、簡潔な練れた文になるのでしょうが、これは殆ど年齢と学力に関係してくるので、この後さらに洗練するのを願います。しかし鏡がなければ形を見ることもかないませんので、自ら勉強するほかに、まさに匡正を待つ必要あり、どうか先生がよろしくご指導くだされば幸甚です!
 この文章は驢馬でもなく馬でもなく、文語でもなく口語でもない乱文で、すぐ燃すに値しますが、翻って言えば現在の最新の一派で、それも可ですが、私は犬を描こうとして、うまく描けないのです。どうか朱筆で大いにご訂正ください!――先生の朱筆はとっくにくず箱に放ってしまわれたでしょうが。いかがでしょうか?  
  (魯迅先生の御承認の名)小鬼許広平。4月10日晩

訳者雑感:辛亥革命で満州族の清朝を倒すことはできたが、二次革命で国はさらに混乱を極めた。その原因は党に軍隊がないことであった。孫文は軍を持たない革命家であった。革命いまだならず、同志よすべからく努力せよ」という遺言が残るが、海岸の砂のようなばらばらの中国人は、党の軍を核に、革命を実行することはできなかった。毛沢東が言う「鉄砲から政権が生まれる」ということを本当に具現するまで。それで今なお中国の軍隊は共産党が指揮する形の「人民解放軍」という名前のままである。まだ解放されていないのだ。誰からあるいは何から解放されていないのだろう。
   2016/07/12記

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両地書10

両地書10
 広平兄:
 先日5人の署名付き印刷文受領。学校でまた何が起こったかを知りましたが、薛氏の宣言は未着で、学生からの書面で推測できるだけです。私の悪い癖で、表面的なことは信じないので、薛氏の辞職の意思を疑いました。以前から決まっていたことで、この機にそれを発表しているにすぎず、自分では、今辞めるのが特に体裁よいと思っているのです。その実「態度横暴」の罪状はピンときませんし、たとえそうであっても、辞職する必要もなく、自ら辞めようとし、何人かの学生を道連れにしようとするなら、そのやり方は悪劣だと思います。しかし究極の内部状況は分からないので、要するに普通に思いつくことでは、どうやら「陰謀で」「死んだふり」しているに違いないから、学生には対応が難しいでしょう。今や中庸の方法はないから、彼の所謂罪状が「態度横暴」に過ぎぬなら、取り立てて人の生命を制するに足りず、あの反駁の手紙で構わないでしょう。今後はただ平常心で静かにできれば、再度その後の状況をみて、随時実直なやり方で対応すればよいでしょう。
 今回の劇は一人当たり20元分配なら、結果としては悪くないと思います。一昨年、世界語学校の演劇の募金は、数十元の赤字でした。この額では旅行するには足りず、行くとしても天津くらいのみ。事実今は何も旅行しなくとも、江浙の教育は見かけ上は発達しているというが、内実は大して良くありません。母校を見れば、その他の一切が推測できるし、おやつを買って1日1元ほど食べた方が実益があります。
 大同世界は、いっときには来ないと思うし、来たとしても中国の今のような状態の民族にとっては、きっと大同の外でしょう。だから思うに、何であれ要は改革するのが良いのです。但し、改革するのに最も早いのは火と剣で、孫文は一代をかけて奔走したが、中国はやはりこんな状態で、最大の原因は彼には、党軍が無かったからで、そのため、武力をもつ他の人と折り合うしかなかったのです。この数年、彼らは覚悟したようで、軍官学校を作ったが、惜しいかな、遅すぎました。中国国民性の堕落は、決して家のことを顧みないからではなく、彼らは「家」の為に考えることすらしてこなかったと思う。最大の病根は眼光が遠くを見ず、加えて「卑怯」と「貪婪」が、これは歴史的に長い間養成されたもので、いっときにそう簡単に除去できない。こうした病根を攻落することについて、もしできることがあれば、今でも手を離しませんが、たとえ有効でも、遅すぎたし、我々自身が目にすることはできないでしょう。思うに――これは唯そう感じるだけで理由は言えませんが――目下の圧政と暗黒は逆に増大するが、そのためにきっと更に激烈な反抗と、不平を持つ別分子が出てきて、将来の新しい変動への萌芽となるでしょう。
 「門を閉ざし、長く嘆息する」のは大変気がめいります。そこで私は先ずは思想と習慣に明白な攻撃を加え、以前は旧党を攻撃しただけですが、今は青年も攻撃します。だが政府はどうやら言論統制の網を張ろうとしているから、網を破る方法を準備しなければなりません――これは各国で改革を鼓吹する人の決まって遭遇することです。今私は反抗し攻撃する筆を持つ人を探していて、もう数名増えれば「やってみよう」と思っていますが、その効果は分かりません。多分いささか自己満足に過ぎぬかもしれません。だから一面ではまた無聊に感じ、また自分でも余りその気力に乏しく、「小鬼(許を指す)」は若いから当然鋭気に満ち、より面白くていい方法を持っていませんか?
 私の所謂「女性」的文章は何も「ヤ、アイ、ヨ」などが多いというのでなく、抒情文なら見栄えの良い文が多く、風景描写は家庭を懐い、秋の花を見れば心傷み、名月に涙すという類です。弁論文だと一層目につきます。即ち相手の言葉を挙げるに、徹頭徹尾、逐一反駁し、鋭いけれど沈重でなく「論敵」の害毒と正面から対するのが少なく、わずかに一撃で致命的重傷を負わせられない。要するに、唯小さな毒で、劇毒はなく、長文はうまいが短文はうまくない。
「猛進」は昨日5部送ったので、届いたと思います。今後発禁されなければ送ります。手元に数部ありますから。
   魯迅 4月8日

 ○○女士の挙動は良くないようです:彼女が新聞を出すとき、カラハン(ソ連の外交官)のところへ行き、寄付を頼み、応じてくれねばロシアの悪口を書く云々と。

訳者雑感:10回の往復書面で大分お互いの考え方が分かってきた。魯迅は彼女を仲間として、一緒に何かやるときに手伝ってくれないか、と言い始めた。
意気投合寸前と思われる。
    2016/07/06記

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両地書九

両地書九
 魯迅師:
 1日発の貴信拝受。今日やっと筆を取れるようになり、長い間たまっていた話したいことを書きます。
 最近学校は一幕の活劇を演じていて、導火線は教育部から来た薛氏というある種の阿呆で幼稚な振る舞いです。最終的には彼は情理を尽くしても学生には通じないと悟り、逆切れし学生を道連れに締め上げようとし、笑止千万です!こういう下卑た根性は、複雑な問題を抱えており、我々の単純な学生心理では、如何にして彼等の様な狐狸の群れの毒ある悪辣な手口に対抗できるでしょうか。双方の書面を先生は御覧になっていると思います。我々5人の学生のものは、何の虚偽も無いのは確かですが、相手はまたどんな手口を使ってくるか分かりません。先生、今はもう「白兵戦」の時です!正直者はばかを見る羽目になります。戦に臨んで勇気を出さずに退いてはだめです。智者は無益な犠牲はしませんが、中庸の方法はどうすればよいでしょうか?先生は世故に長じられていますから、教えてください。
 前回の劇の結果は一人当たりたった20余元分配され、日本旅行は固より不足で、南方各地参観にも足りず、大騒ぎしたけれど何もなりませんでした。観客が騒ぐのは殆ど中国の劇場の積習といえ、特に女性が演じるときは特にひどくて、本当に演劇を見に来る人はとても少ないのです。だから、「大量の蚊取り線香をたいて追い出すべきです」が、彼らが早くにいぶし出されていたら、芝居になりません。これが目下の社会のどうしようもない相関関係です。嘆かわしいです!
 学校の状況は愈々複雑になってきました。東南大の後塵を拝すのは多分女師大学です。こういう空気を吸うと肺病になりますが、見ていられぬ人は反抗に起ちあがります。が、反抗すると即、損を蒙り:反抗せぬと、永遠に埋没してゆきます。校事、国事…すべてそうです。人生、人生はなんといやなことの多いものでしょう。死にそうな人に人参湯を飲ませるように、死にきれず、といって生きてもゆけぬ。半ば麻痺した瘋狂状態なのです!「ある女読者」の文を、先生は男の書いたものと疑っておられ、それも当然一つの見方で、私も「現代評論」執筆者の多くは校長派と与し、彼女のために協力していると聞いたことがあります。ただ、校内の一部の人も確かに「ある女読者」のような理屈の通らぬ論もあり、従って私の推理は間違っていたとしても、的も無く矢を放っているのではありません。
 民国元年のころ、頑固者はひたすら頑固で、改革派はみな改革で、この両派は相反していたから、どちらかが優勢になれば成功しました。当時の改革派の人は個々に、匈奴が滅びぬ限り、何を以て国家とするやとして、国のために家を忘れ、公の為に私を忘れる気概を持ち、身も家もいらないという気持ちだったから、権利など口にすることもありませんでした。だからあの頃の人心は容易に召還でき、旗幟もわりに鮮明でした。現在は革命分子と頑固派が一緒になって、色々な所で、「役割」を離れず、人を損ない、己を利する風潮で、悪劣分子も増えました。目下中国人は家の経済のために、出世金儲けを謀らねばならず、売国奴が現れてきました。売国奴は社会に不忠で、国にも不忠だが、家には忠なのです。国と家との利害は相互矛盾しているから、人々は国の為に犠牲にはならず、家の犠牲になるのです。そして国との関係は家との直接の関係に如かず、それで国民性が堕落し、それが愈々甚だしくなって処理困難となります。こんな人間はどんな存在価値があるのでしょうか。亡国は最終の一歩です。一部の人は正に最新の無国境主義を唱えていますが、欧米先進国は大同という観点からこういう人を待遇できるでしょうが、国境が無くなっても解決できぬ問題です。
 先生のお手紙で言われるように:「中国で活動している2種の<主義者>…私は無所属だが」は、私は「無所属」でも何かをするのは構わないと思います。あのように不純で、不徹底な団体には、我々は全く希望を持てません。女性の組織した何とか「参政」や「国民促進」「女権運動」などの人たちの行動をみて、私は敢えて女子の団体に加入しようとは思いません。あれらの団体は根本的な事業になんら建設的なものはなく、その結果、大半は「英雄と美人」の養成所になり;言ってみれば、実に人に怒りを感じさせます。少し意を強くすることができるのは、只秋瑾一人で、その他の何とか唐□□、沈□□、石□□、万□□…など、すべて蚊取り線香であぶりだすべきです。あの人たちと協力できないと思いますが、自分一人では余り対したこともできぬし、やはり最後は吾師に希望を託すのです。土匪はどうしても「金儲け第一」ですが、「大きな升で金銀を山分け」でき、それが公平であれば姿かたちを変えた兵隊よりましだと思います。兵隊も「金儲け第一」でない者はなく、それ故、まずは地盤を占拠しようとして、口ではうまいこと言うが土匪に及ばず、土匪の方が自ら貫徹できる目的を持ち、名が実に伴っているのです。
 私は毎日午前から午後3-4時まで授業を受け、放課後は哈徳門の東で「家庭教師」をし、9時に学校に戻り、また小食堂で自習し、12時に寝ます。このように判で押したような日常行動は心身共にいい気分です。これが即「語絲」のいう現在「只自分だけが頼りだ」と覚悟すべきで、我々が物事をする出発点です。一人一人が「自分だけが頼りだ」と思う人が集まって、辺際の無い「聯合戦線」を形成するのです。先生が本当にご自分では「拳なく、勇なき」人間と考え、「その成すことできぬことを知りながら成そう」とは思われませんか?孫中山は必ずしも神聖者とは限らぬとはいえ、確かに彼も純粋に「拳なく、勇なき」状態で数十年やりました。成敗得失はまた別の問題ではありますが。
 物事を成す人は当然「勇猛」な人が多いですが、只この種の人はすぐ血気に任せた勇で、所謂勇だが無謀で、容易に失敗してしまい、指導者としては必ず「精緻な」観察力を持ち、手際良く処置調整ができてこそ、軽挙妄動の弊害を免れ、その「勇往直進」こそ、成功を導くものです。では、第一の「ダメ」は考えすぎなくてもよいでしょうし、第二の「犠牲」は他の人が犠牲になるのを望まぬのであって、「他」の人にとっては、建設することであり、自分は犠牲を望まぬとしても、人は価値あるものと考えている。更に「塹壕戦」を採用後に、得た所の代価は犠牲の総量より大きく、憂慮することは無いのです。「不平を言う」のも実に多いですが、紙上で兵を談ずるのは、書生の意見を免れず、加えて現在の様な暗黒の世界で、窓を開けて明るい話をしても犠牲になるのを免れません。門を閉じて長く嘆息していては意気阻喪します。先生は私に「不平をいう」機会を与えてくれましたので、悶死には至っておりませんが、どのように不平を言って、きれいさっぱりできましょうか?自分もそんな長い溜息を一気に出して、願いどおりに吐き出せるでしょうか。粗野な人間には細かな事は出来ないので、前信で「馬前の卒」にとお願いしたのですが、今先生はもう馬は持たず、車に乗られるなら、私は12-3歳の子供になって、車の後を押して、微力を尽くします。言葉は心を表す記号で、人が書き、話すのはどうしてもその人の個性が出ますが、環境のせいと耳目にふれることで、「話し言葉の排列法は」‘女’と‘男’で幾分違うでしょう。私は、詞句末節はあまり大した関係は無いと思います。眼光をしっかり見据え、心胸を開き、「女士式」な話し方を除去したいので、先生の教えを請います。また「女士式」の文章の違う点は、や、よ、ね、などの字句を好んで使うからで、やはり詩詞の句法を帯びて、明晰な主題命題が無いからでしょうか。先生のご指示に沿って改めます。
 「猛進」は図書館に無く、これを知りません。どこが出しているのか教えてください。それに麻痺を治せる本がありましたら、ついでの折に教えてください。   許広平   4月6日

訳者雑感:
 辛亥革命から15年で、革命の当初は、異民族の支配者を倒すことに犠牲を払う(殺される)ことが「光栄ある」行為と思われていた。だが15年後の今は、
元の革命派と頑固者がそれぞれの「役割」(利権のあるポスト)を離さず、自分のため、自分の家の為にを、第一義とし、国の為になど微塵も考えない。これが中国の国民性の堕落の元となっている。今の国営企業なども皆が寄って、たかって、自分の家の利益の為に奔走し、国の為にという発想はどこにも無い。日本の明治大正の事業家、国家の官僚たちは、中国に比べると、彼らの事業を興すのは、お国の為になるのだという信念から出発していた。もちろん個々の個人的利益を積み上げようとの「私的な欲」も旺盛だったが、それで蓄積した「財」を使ってさらに欧米に追い付き、追い越すことのできるような競争力を高めることに努めた。
 40年前の改革開放を始めた中国は、低賃金と勤勉な労働力をてこに、世界の工場といわれるほど経済的な発展を遂げたが、10年ほど前からそれぞれの事業者と官僚(市長・省長など)が「私家」の財産を最大にすることを第一義とし、腐敗し財産を競争力向上のために使うのでなく、国外へ移動させてしまった。
嗚呼。1925年に許広平が指摘していることが何も変わっていないのだ。
   2016/06/26記

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首相の説得

舛添都知事がやっと辞任した。都議会解散をちらつかせ、9月までの延命を図ったが、
これでは参院選で負けやしないかと危惧した安倍首相の電話でとうとうシャッポを脱いだ。
最後の落としどころは「まだ次の芽があるから」とか。安倍首相は消費税の延期の時も
反対表明していた麻生氏のシャッポを脱がせた。彼を落としたセリフは何だっただろう。
    2016年6月16日記

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両地書八

両地書八
 広平兄
 今手紙を書く時間が取れたので返信します。
 あの劇で私が先に帰ったのは、劇の良し悪しとは関係なく、群衆の中で長く坐っていられないからです。あの日、観衆が多かったから募金の目的も少しは達成できたでしょう。なにせ現在の中国にはたいした批評家も無く、鑑賞家もいないから、あんな劇を見せても十分でしょう。厳格にいえばあの日の観客は何も分からず、騒いでいただけの者が多く、大量の蚊取り線香をたいて追い出すべきでした。
 近来の事は、内容は大抵複雑で実に学校だけのことではありません。見るところ、女学生はましなほうで、多分外の社会との接触が少ないためで、それで着物やパーティのことを話すだけだが、他の所では奇怪限りないことが多く、東南大学事件もその一つです。仔細に分析すると、中国の前途がとてつもなく悲哀になります。小さなことでも同じです。「現代評論」の「一女性読者」の文は文章の用語などから、男の者だと思いますので、貴方の推測は違うかも。この世には卑劣な輩がとても多いのです。
 民国元年の事を言えば、あの時は光明も確かにあり、私も当時南京の教育部にいて、中国の将来に大きな希望を持っていました。勿論あの時も悪辣な分子はもとよりいたのですが、彼等は失敗したのです。1-2年後の二次革命失敗後、だんだん悪くなり更に悪化し、ついに現在の状況になってしまった。その実、これも新しい悪がでてきたのではなく、塗飾していた新しいメッキがはげ落ち、古い相が現れてきたのです。奴才に家政を任せて良くなる訳が無い。最初の革命は排満だから容易にできたけれど、次の改革は国民が自分の悪い根性を改革するのだから、やろうとしなくなった。だからこの後、最も大事なのは国民性の改革でそれができなければ、先制であれ共和とか何であれ、看板を替えても、品物の色は旧態のままでまったくだめです。
 しかしこの種の改革を言いだしても、実際は「手がつけられない」状態で、それだけでなく、今は「政治現象」をちょっと改善しようとしても大変困難です。中国で活動する二つの「主義者」は外見は大変新しいが、彼等の考え方を研究するとやはり古いものだから、私は今所属しておりません。彼らが自分で覚悟をして自ら改良してゆくのを望むのみです。例えば世界主義者は、仲間どうしで喧嘩をするし、無政府主義者の新聞社は兵隊を雇って門を守衛させ、一体何なのかさっぱりわかりません。土匪もだめです。河南では焼き討ち窃盗をするだけで、東三省もアヘン販売の保護に向かっています。要するに「金儲け主義」がとても多くて、梁山泊のような金持ちから召し上げ、貧を救うということは、書物の中の故事になりました。軍もだめで、仲間を排斥する風潮は甚だ盛んで、勇敢無私な者はきっと孤立し、敵に乗じられて、仲間も救ってくれずしまいには陣営は滅んでしまう。ずるい日和見だけが地盤を築いて得々としている。軍中に私の学生が何人かいますが、彼等と同化しなければ勢力を築くことはできぬし、同化しても、それで得た勢力は将来どういう益をもてるか。恵州を攻めて勝利したとは聞きましたが、何の知らせも来ないので、私はいつも心を痛めています。
 私には拳も勇気もなく、仕方ないから筆と墨で、この手紙の様な要領を得ぬことしか書けません。いつも思うのですが、根を深く張った所謂旧文明を襲撃し、動揺させようとするのが将来の万に一つの望みです。注意してみると、何名かの成敗を問わず、戦おうとしている人がいて、考え方が悉く私と同じではありませんが、こういう事は数年前まではなかったです。私の所謂「正に破壊を準備している人は目下いるにはいる」というのは、こういう事に過ぎません。聯合戦線を作るのはやはり将来のことです。
 私に何かしてくれないかと望む人は、何人もいます。私は自分でもだめなのは良く知っています。指導しようとする人はまず勇猛でなければなりません。私は物事を仔細に見るので、子細にみると即、疑慮が多くでてきて、その実、前に勇敢に進むのが難しくなるのです。第二には、犠牲を惜しまぬことですが、私は他の人が犠牲になるのを最も願いません。(これはやはり革命前の種々の事情が刺激を与えた結果です)やはり大局面に向かうことはできません。従って、結果としては空論に過ぎず、不平をこぼして、一冊の本や雑誌を出すことに他なりません。貴方も不平をこぼしたいなら、我々を手伝ってください。しかし「馬前の卒」というのは、とんでもないことです。というのも私には馬は無く、人力車すら昔金周りの良かった時に乗っただけですから。
 新聞への投稿は運によります。一つは編集者もどうもいい加減なこと、二つには投稿が多くなると頭もボーっとして、目もくらむのです。近来私は原稿を読む暇がないだけでなく、疲れてしまい、もう原稿を見たくないと感じています。但し、数人の良く知っている人は別です。貴方が投稿に「女士」と書かないし、私が手紙には「兄」と改称しましたが、文章はどうしても女性的です。仔細に研究していませんが、ざっと見たところ、「女士」的な言葉の排列は、どうしても「男士」とは異なるようで、紙に書くと一見して分かります。
 北京の出版物は、今、以前よりだいぶ増えたが良い物は少ないです。「猛進」はとても勇ましいが、時局的な政治関連が多すぎます。「現代評論」の作者は固より多くは名のある人だが、明らかに灰色の物が多いし、「語絲」は常に反抗精神を持とうとしているが、時に疲れた顔をしており、多分中国の内情に明るいから、失望を禁じ得ないからだろう。このことから、物事を見る目が大変明晰だと、即その勇を失い、荘子の所謂「淵魚を察見する者は不祥」で、蓋し。単に大衆から忌避されるのみならず、自分自身の前進にもまた大きな障害となるのです。私は今新しい仲間を探し、破壊論者を増やそうとしています。
    魯迅 3月31日

訳者雑感:古い考え方、旧体制を破壊することなくして、新しい中国を作ることはできない。だから若い人たちが、魯迅に「核」になって何かしてほしいと願っているが、魯迅は「辛亥革命前の種々の事情が刺激を与えた結果、やはり大局面に向かうことはできません。従って、結果としては空論に過ぎず、不平をこぼして、一冊の本や雑誌を出すこと」が彼の残された手段であった。
 東京留学中に、浙江省の若い仲間と一緒に帰国して革命に身を投じようという考えを強く持ったが、母の事、家族のことなど、祖父の科挙試験での投獄、父の死などから、彼は「勇んで」革命に身を投じること、それは自身の命を捧げることでもあったから、それはできなかった。それが彼のその後の生き方を貫いてきた考えだった。
    2016/06/13記

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両地書七

両地書七
 昨25日午前に先生のお手紙拝受。午後哲学教育系の演芸会の手伝いをし、今ようやくペンを取り思ったことを書けるようになりました。
 昨晩「愛情と世の仇」(ロミオとジュリエット)をやる前の9時過ぎに、先生は帰られたそうですね。誰かに言われたのでは?と思いました。帰られて良かったです。その実演技も下手で、出演者もいつも一緒に練習できず、一部の人は1-2度しか練習しておらず、ある人は多いですが、批評する人も脚本を予めよく研究しておらず――本番になっても十分理解しておらず――劇の状況について、当時の風俗習慣衣裳など概して門外漢です。更に出演者は多くが各班からの要請で充当したので、一緒に練習する時間に制限があり、予想通り失敗し、一言でいえば、広場で子供たちに見世物を見せて数銭だまし取るようなものでした。見に来た人も少なく、目的は達成困難だったでしょう。――本当に何も気にせずにみっともないところを見せたら、お笑い草です。
 近来、お腹一杯にたまった不満は――多くは学校問題です。年末休暇中とその前、校長の進退を要求する人は、それぞれが複雑な背景を持っていると思います。だから私は高みの見物と決めました。学期が始まってから、楊を擁護する者と、楊本人の行動を目にしたら、本当に怒髪天を衝くばかりで、総攻撃をかけるのです。私も一面では、反楊の人たちがある色彩を帯びていると言う事は否定しませんが。ただ私は一人で個人的に楊の駆逐運動をするのは良いと思います。それで前号の「婦女週刊」に「持平」の名で「北京女子世界の一部の問題」として投稿したほかに、後の15期の「現代評論」に「一女性読者」の名で「女師大の学潮」が出ました。彼女は本校の牧羊者でしょうが、本人は「部外者」と言っており、私は「子の矛で子の盾を攻めてみよ」と、彼女を駁斥し、「正言」の名で(これまでの投稿は、一つの名を使うのが好きではないので、自分の文が大変卑浅なのを知っておりますから、その採用権は編者に任せ、何とか女士のようにはしませんし、妄りに主筆者の特別な好意を求めず、だから私の原稿はいつも心血を注いでもゴミ箱に捨てられますが、決まった筆名を使いたくないという癖は改められません)こう書いてきて、この文はひょっとして「塹壕戦」にふさわしくないと思いましたが、はやる気持ちは抑えられず、まず先生に批閲してもらってからと思いましたが、時間が経つと明日の菊花(しおれてしまう)になってしまうと思い、急いで郵送し、喉につかえた骨を吐き出して、少しすかっとしましたが、その実、実際には何の役にも立ちません。
 私は世間的な経験は少ないですが、これまで遭ってきた南北の人士も心意気のある人で、頭脳明晰です、大勢に明るいる人は少なく、数人集まると、着物の話でなければ、パーティや劇場へ行ったなどの話です。仕事に熱心な人は学力が劣り、粋を学び、功の深い人は、枯れ木のようで、心は灰の如く、足で蹴ってもびくとも動きません。問題が起き皆で討論すると、何かにかこつけてこっそりその場を去ってしまいます。或いは挙手になるとどちらが多いかを見て挙手し、賛成反対に対し何の定見もありません。功績はすべて自分に帰し、誤りはすべて人のせいにする。やる気の無いこと甚だ哀れで、彼らについてなお何を望まんや!私が小学生の頃、辛亥革命が起こり、長兄は笈を負って南京に行き、種族思想を鼓吹する最も力を注いだ人で、若い私らに常々大義を講じてくれましたが、幼かったため国事に力を尽くすことができず良機を失したのが悔しかったです。文字が読めるようになり、国民党発行の「平民報」を熱心に読み、新しい本を渇望していたので、後に妹と一緒に十余里歩いて城外まで買いに行きましたが、買えなくて残念に思いました。加えて父も性格が剛直でして、私も粗野を免れません。そして又、朱家郭解(後漢時代の遊侠)のように、屋根の上、壁の上を跳びまわって、弱気を助け強気をくじく本を読むのが好きで、剣術を学んで天下の悪者を悉く退治しようと幻想しました。(袁世凱のやろうとした)洪憲盗国の時は、この時を失すべきではないと、当に国のために命を捧げるときで、ひそかに女性革命家の荘君に手紙を出そうとし、それが家族にばれて、家人に阻止され、躓いた結果、これまで気力を失っています。近来年齢とともに社会の内幕が多少分かるようになり、同級生との付き合いも大抵はうわべだけで機械的に対応するだけで、一緒に何かするのも難しく、楽しく話すのもできません。先生が手紙に書いておられるように「今、破壊する準備をしている人もいるようで」とは本当ですか?彼等はどういう人たちでどのように結合しようとしているか知りません。先生の言われる「土匪になる」のですか? 私は度量も無く、才も浅く、力不足で、大事をなすには物足りませんが、どのような事があろうと「馬前の卒」になりたいと思い、あまり大した役には立たないでしょうが、子分として旗振りの役でもさせていただき、何かを造り出すために努力したいというのが、私が先生に仰ぎ望むところです。先生ご理解いただけますでしょうか。
 先生から毎回お手紙を頂くことは、「子鬼(自分の事)」にとって、ちょうど盂蘭盆会の時のようで、お腹一杯食べて袋にも沢山いただき、未曾有の事です。
謹んで「循循とよろしくご指導くださる」ことに感謝申し上げます。
   学生 許広平    3月26晩

訳者雑感:辛亥革命の前後の魯迅と小学生だった許とのそれぞれの経験が良く分かる。許は広東でそんな幼いころから革命に参加したいと考えたという。周りがそんな雰囲気だったのだろう。
広東から武漢の湖北湖南、そして浙江省の3角形一帯が革命の震源地だったのだ。   2016/06/08記

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両地書六

両地書六
 広平兄
貴信拝受後、数日経たようですが、偶々時間がとれず、今日やっと返信します。
「一歩一歩現在が過ぎ去る」のは無論比較的環境に苦しめられていないからですが「現在の私」は「以前の私を含んでおり」この「私」は時代環境に不満を持ち、苦痛もなお続いています。しかしこの境遇に安んずることができ――即ち、船あれば船に乗る云々――で、幻想のとても多い人たちより聊か安穏でいられ、敷衍できるでしょう。要するに、人は麻痺の境界から出たら、苦痛が増え、何も考えられず、所謂「将来に希望を」とは自慰に過ぎず――実際は自ら欺く――の法で、「現状に順応する」と同じです。きっと「将来」も考えず、「現在」も知らぬようになって、初めて中国の時代環境に合致するのですが、一旦知識を持ち始めると、再びそんな状態には戻れません。私が前信で書いたように、「不満があっても悲観せず」で、貴信の所謂「英気を蓄えておいて、いざという時に試す」しかありません。
 貴信の言う「時代の落後者」の定義は違っています。時代環境はすべて変化し進歩しますから、個人が昔のままで何の進歩も無い、それが「落後者」です。時代環境に不満で、それを改良しようとするなら「落後者」ではない。世界の改革者の動機は大抵、その時代環境に対する不満からです。
 今回の教育次官の更迭は、彼の失策の為のようで、でなければ、こうはならなかったと思います。「民国日報」への妨害については北京の官界の例の手口で、実に笑止千万です。一部の新聞を停刊させたら、彼等は天下太平ですか?このような漆黒の染料がめを壊さねば、中国に希望はありません。だが今まさに壊そうとしている人もいるようですが、人数がとても少ない。しかし既にいるわけですから、これから増えるのを期待し、増えれば良くなり――無論これは将来のことで、今は準備のみです。
 知っていたら無論何も言わない訳ではありませんが、この通り、紙面いっぱいの「将来」と「準備」ばかりの指導教示では空言にすぎません。「子鬼」にとっても何ら有益な処はないと思います。時間については問題ありません。というのも、たとえ手紙を書かなくても、他に何もたいしたことはしておりませんから。     
 魯迅  3月23日

訳者雑感;文中の:「将来」も考えず、「現在」も知らぬようになって、初めて中国の時代環境に合致するのですが、…。という表現は「吶喊」の前書きにある、「鉄の部屋の中」の人たちで、そこから目覚めたら、何とかしてこの鉄の部屋から脱出すべく、あらがうことになるのだ。それが「将来」への「準備」だろう。
 今回、自衛隊の廠舎とよばれる風雨をしのげるかまぼこ宿舎で体力温存し、
それこそ「塹壕戦」で7日間堪えた大和君のとった対応はおどろかされた。
日中に鉄道の方向に向かって歩いてゆけば、もっと早く助かっただろうが、その途中でクマに襲われ、事故にあったかもしれぬ。水さえあれば人間は塹壕戦で堪えてゆけるのだ。何はともあれ生きて発見され本当に良かった、良かった。
    2016/06/04記
 

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両地書五

両地書五
 魯迅先生 吾師机下:
 本日19日発の先生のお手紙拝受。「兄」の字の解釈、謹んで拝命します。2年教えを受け、確かに「生疎」な師弟の関係とは言えず、更に「遠慮」は不要とのことですが、やはり「やや勝る」というのをお取りになったのは、先生が己を虚にして人を待つということでしょうか。何れにせよ社会の一種の形式ですから、固より存在価値がありましょうか?謹んで一笑を博します。但し、先生が既に「自分で判定し、沿用されてきた例」なら他の人間が何も言う事もないでしょう。さてそれでは他の話をします。
 現在世界の教育は「環境に適応できる多くの機器の製造方法」なら、性格が素直でない私は、生来曲げ細工になるような素材ではない私は、他の人と同じようにする事は困難で、「将来」が目の前に現れて「現在」になるのを待つと、この間は――私は時代の落後者です。将来の状況は現在知るべくもありませんが、いつもこのように「品性移し難し」だと、経験という師が私たちに告げているように、事実はきっとその通りで、末路はやはり憤激と仇視から離れられず、「誰に対しても発砲し、自分も壊滅する」のです。だから私は過去について絶対懐旧などせず、将来に希望を託しません。現在に対する処方は即ち:船あれば乗り、車あれば乗り、飛行機があれば乗るのを妨げず、山東に行けば一輪車にも乗り、西湖ならボートに乗ります。しかし農村で電車に乗りたいとか、地球から火星に飛びだしたいとは絶対思いません。要するに、現在の事は現在処理対応し、現在の私の力で現在を処理対応するのです。一歩一歩現在を過ぎ去り、一歩ずつ現在の私を越えるのです。しかしこの「私」はやはり元の「私」の成分が含まれており、細胞が人体の中で徐々に新陳代謝するのに似ています。これも余り考えないで、とても退廃的で、青年が一般的に罹る病に染まっていて、実は上記の「<現在>という問題」に対してやはり「白紙答案」から抜け切れていないのです。これに対してどんな方法があるのでしょう。それに任せるしかありません。
 現在は固より黄金世界のことなど講じられませんが、多くの人は良い世界だと思っています。しかし孫中山が死ぬと教育省の次官が即更迭され、「民国日報」がすぐ閉鎖され(或いは中山の死と無関係かもしれませんが)あれ以降の芝居は色々出てきて窮まりないでしょう。「叛徒」の「謀叛」が正しかったかどうかは暫く置いて、ともかくこの「叛徒」の方法は実際あまり高明でないのに、皆本当にこれは「良い世界」ではあるべきことだと思っている。この「黒の染料がめ」の様なものから、ポトポトと垂れる漆黒なものを、どうして許すことができましょうか。こんな甕(かめ)は大きな煉瓦でぶち壊すのが良いのです。或いは釘と鉄板で密封するのが良いのです。但し今それに代るものが、準備できていない状態で、どうしたらよいでしょうか?
 先生も暗い所が多いと感じられているとはいえ、青年にはいろいろなところで、退却せず悲観せず、絶望せぬように指導され、ご自身もやはり悲観的ながら、悲観すべきでないとし、なすべきなきも、なすべきとして前に向かう。この精神は学生も習うべきで、今後自ら必ず踏み越えてゆく必要の無いイバラは避け、英気を養い蓄積し、いざという時に試します。
 私の見た限り、子路は、勇気はあるが無謀で、三鼓の鳴るのを待って進撃という事が出来ず、欧州に生まれていたら、塹壕内で敵を待たせてもきっと長くは堪え切れず、身を挺して出撃するでしょう。関公ややはり関公、孔明もやはり孔明、曹操もやはり曹操で、三人の個性は異なり、行動も違います。私は子路が「率尓として対した」のに同感ですが、名を避け実を求めた偽君子の「方、……五六十の…君子を待った」冉求(孔子の門下)に賛同しません。孔子の門下ではこれを許していますが。しかし子路は門下とはいえ、やはり素性を改められないから、如何ともしがたいです。彼が「纓を結んで死す」のは、「正しく割されていないものは食せず」と同様「迂遠」な面があるが、それは別の問題で、我々ははっきりさせれば騙されることはありません。
 手紙で先生のご指導を頂くのは読書や講義を聞くよりずっと素晴らしいのですが、私自身が浅薄ゆえ、多くの申し上げたいことも十分に書けず、それを先生に差し上げて教えを請えないのが残念です。しかしもし教えを請うた時には、先生は何も惜しまずにきっと教えてくださると信じております。只大切で貴重な時間を、私の様な子鬼が闖入してきて、護符を焼いても呪をとなえても効き目がないから、先生はやむなく光明を照らしてくださるのでしょう。小子は慙愧に堪えません。
  貴方の学生 許広平 啓上     3月20日

訳者雑感:民国14年、即ち孫文たちの辛亥革命も14年に孫文が死に、北京の政治情勢も大きく変わって、教育の世界もいろいろ問題が出てきた。教育とは「環境に適応できる多くの機器の製造方法」という表現が示すように、中国の教育というものの考え方は、学問をして自己を磨くというよりは、政治や経済、国家に有益な機器を造ることのようで、この辺の考え方が今日まで伝わっているのだろうか?日本の理科の教室に掛っていた標語「真理探究」ということを標榜するのと、国家という環境に適応できる多くの機器を造るというのとは大きな相違があるようだ。
   2016/06/02記

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