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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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ふと思い到って 七 


多分配達人が忙しすぎてか、昨日は新聞が来なかった。今日やっと届いたが、奇怪なことに、本紙は二三ケ所切られていた。幸い副刊は大丈夫だった。そこに武者君の「温良」が載っていて、往事を思い起こさせられた。私はかつて確かにこんな糖衣をまとった毒針を、同学たちが贈ってくれたことを思い出した。武者君も世の中に凶獣と羊という二種のものがいることを発見したようだ。だが、これは一部を発見したにすぎない。世の中のものは、こんなに簡単ではない。つけ加えねばならないのは、凶獣のような羊と、羊のような凶獣だ。
 彼らは羊であると同時に凶獣で、自分より凶暴な獣に出会ったら、羊のようになるし、自分より弱い羊を見た時は、凶獣のようになる。それを武者君は二種だけと思ったのだ。
 第一次五四運動後のことだが、軍や警官は遠慮して、銃尻で手に寸鉄も帯びぬ教員学生を乱打しただけで、威嚇も騎兵が畑の中をゆくような程度で、学生たちは驚いてまさしく虎狼にあった羊のように逃げた。だが学生たちが大群になり、敵を襲撃したとき、こどもがいても、突き飛ばしたではないか?学校では敵のこどもだと罵倒して、彼らが家に逃げ帰らなければならないようにさせたではないか。これは古代暴君の一族皆殺しと何の違いがあろうか?
 中国の女性がどれほど抑圧されてきたか。時には羊にも及ばぬほどだった。今では、西洋人の学説のおかげで、少し解放された。だが、彼女たちは一旦威力を発揮できる校長のような地位に就くと、“袖をたくし、手もみする”殺し屋のような男を雇い、何の武力も、
持たない同性の学生を脅かしたではないか?外部の別の学校騒動を利用し、狐や犬の徒党を使い、気に食わない学生を退学させたではないか?そして“男尊女卑”社会で育った男たちがこの時、異性の飯碗の化身の前で尾を振ったのは、まさしく羊にも及ばぬことではないか。羊は本当に弱いが、ここまで落ちぶれてはいない。私は敢然と我が敬愛する羊たちのために保証する!
 ただ、黄金世界が出現するまで、この二種の性質を同時に持つのは免れないようだ。
しかし現れたときの状況を見れば、勇敢か卑怯かの大きな差がでてくる。残念なことに、中国人は羊には凶獣の相を現し、凶獣には羊の相を現す。だからたとえ凶獣の相を現していても、やはり卑怯な国民なのだ。こんなことではきっとおしまいだ。
 中国を救うには、他のものを持って来る必要はない。青年たちが、この二種の古伝の用法をひっくりかえして使えばそれで足りる。相手が凶獣の時は凶獣のようになり、相手が羊の時は羊のように。そうすればどんな悪魔であろうと、彼らはそれぞれの地獄に戻るしかなくなるであろう。
   五月十日      2010/08/25

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ふと思い到って五、六

五.
 私は早く生まれ過ぎた。康有為たちが「公車上書」(日清戦争後、1895年に和平条約を締結したが、当時康有為たちが北京で会試という最終試験中で、全国から選抜された挙人という省試験合格者、1,200余人が、光緒帝に“和平調印拒否、遷都、変法”を要求)を出した時、もういい年齢になっていた。政変の後、親類の年長者が私に諭して、康有為は王位簒奪しようとしており、だから名を有為と言うのだ、と言う。
“有”は“富は天下に有り”“為”は“貴いこと天子に為る”也と。不軌(条理に会わぬこと)を謀っているに相違ない?と。私は本当にその通りと思った。とんでもない奴だ、と。
 年長者の訓戒は私にかくも大きな影響を与えた。私は読書人家庭の教育を遵守した。息をひそめ、頭を低くし、決して軽挙妄動しない。年長者の前では、目はうつぶせにする。上を向くのは傲慢で、顔はまるで死相みたいに神妙にし、口応えしたり笑ったりするのは、不作法とされた。私は確かにそうすべきとは思いながらも、心中では少し反抗心が芽生えていた。心の中での反抗はなんら罪とはみなされていなかった。思想犯を罰する法律は、現在ほど厳しくはなかったようだ。
 だがこの心の反抗も、やはり大人たちがそうさせたようで、彼らは、自分たちはいつも好き勝手に、大いにしゃべり笑っていながら、子供にだけ禁じていたのだ。民は秦の始皇帝の威勢のよさを見て、反旗をあげた項羽は「彼、取って代わるべし!」と言った。頭角を現す前の劉邦は「大丈夫はこうでなきゃ」と。私も頭角を出す前の口だが、彼らが好き勝手にしゃべるのが羨ましく、一刻も早く大人になりたかった。もちろんそれ以外に別の要因もあったが、大丈夫はこうでなきゃというのは、ただ死んだようにおとなしいふりをしていたくないというだけで、欲望は彼ら二人のように大きくなかった。
 今私は大人になって、これはどんな論理を持ってきても誰も否定できない。私は死んだような仮面を棄て、大いに談じ笑い始めたが、不意に真面目な人たちの釘に打たれ、彼らを“失望”させたと詰られた。私も昔は老人の世界で、現在は青年の世界だということは知っている。だが、治世者が異なっても、言動や笑いを禁じるのは奇しくも同じだ。それで私は死んだふりを続けねばならず、死して後やむのか? 何と痛ましいことよ!
 私は一方で生まれたのが遅すぎたと恨む。二十年早く生まれていたら、大人が好き勝手にしゃべり笑えた時代に間に会っただろうか。私は生まれた時が実に悪かった。呪詛すべき時、呪詛すべき場所で生きているのだ。
 J.S.Millは言った。専制は人を冷嘲させる。我々は天下太平で冷嘲者すらいない。思うに、暴君の専制は人を冷嘲させるが、愚者の専制は人を死んだようにさせるのだ。人はだんだん死んでゆくが、自分はそれは却って道を守るのに有効だと思う。こうしてこそ、初めてまっとうな人間に近づくのだ。
 世に、もしまっとうに生きてゆこうとしている人がいるなら、第一に思い切って発言し、思うさま笑い、好きなだけ泣き、あえて怒り、自在に罵り、なんでも思い切りやることだ。
この呪詛すべき所、呪詛すべき時代を撃退しよう!
                  四月十四日
六.
 外国の考古学者が続々とやって来る。
 中国の学者たちも口々に“古物保存”を唱えて久しい。
 だが、革新できない人間は古物保存もできない。だから外国の考古学者が続々と来ることになるのだ。長城は廃物となって久しい。弱水(伝説上の川で、鴻毛も浮くことを得ず、誰も渡れぬので、外敵は侵入できないという:出版社注)も空想に過ぎない。老大国の国民はことごとく硬直な伝統の中に埋もれ、変革を肯んぜず、一片の精力も無いほど衰え、更には互いに殺し合っている。それゆえ、外部からの新生軍はいとも容易に進入してきた。
真に“それは今に始まったことではなく、昔からこうであった”彼ら外国の歴史はもちろん我々のように古くは無い。
 しかし我々の古物保存は難しい。なぜなら土地が危険で、安全でないから。土地を他人に与えてしまったら、“国宝”がいかに多くとも、陳列する場所も無いと思う。だが古物保存家は革新を罵り、古物保存に懸命で、ガラス板で宋版の書を印刷し、一部数十元、数百元で、(これを読めば)“涅槃へ行ける”“涅槃へ””涅槃へ“と売り出した。仏教は漢代に伝来したが、その古色古香をなんとせん。古書や金石を買い集め、古代文化を研究する愛国の士は、粗略な考証をし、大急ぎで目録を刷り、すぐ学者になったり、高尚な人間となる。そして外国人が手に入れる骨董は、いつもこの高尚な人の高尚な袖の下から、清風と共に流出する。そうでないと言うなら、帰安(今の呉興)の陸氏の宋版の蔵書や、濰県(今の濰坊)の陳氏の古代楽器は、その子孫の手で保存できているだろうか?(両者とも日本の好事家に売られた:出版社注)
 今外国の考古学者が続々とやって来た。彼らの活動は余力があり、考古の名目で単に考古するだけなら可とすべきだが、同好の士を援助し、古物保存をしようとすると、これは大変なことだ。一部の外国人は中国が永遠に一大骨董品であり続け、彼らに賞翫を供してくれるのを望んでいる。これは憎むべきだが、奇とすることはできない。彼らはひっきょう外国人だから。しかし中国はついに、自分だけでなく、青年や赤子まで引き連れて、ともに一大骨董品となり、彼らの賞翫物になろうとしている。どんな心臓の持ち主なのか、まったく理解しがたい。
 中国は儒教の経典を読むのを廃止したが、儒教の学校はまだ腐儒を師として迎え、学生に“四書”を教えているではないか。民国は跪拝を廃止したが、(上海にできた)ユダヤ学校ではまだ遺老(清末の学者、王国維を指す:出版社注)を教師にし、学生に頭を地に付け、寿を拝す儀礼をさせているではないか。外国人が中国人向けに発行する新聞は、五四運動以来の小改革に最も反対したではないか。そして外国人の編集長は中国人執筆者に、道学(即理学、朱子などの儒教思想で“天理を存し、人欲を滅せ”と主張:出版社注)を崇拝し、国粋を保存せよ!と言っているではないか。
 だが、何がどうであれ、革新しないなら生存すら困難になる。現状が鉄の証で、古物保存家の万言の書より数倍も有力である。
 我々の目下の急務は、一に生存、二に衣食、三に発展だ。いやしくもこの前途を阻むものは、古い物も、今の物も、人であれ鬼であれ、「三墳」「五典」(三皇五帝の遺書)、百宋千元の古書、天球河図のような美しい玉や図、金人玉仏、祖伝の丸薬散薬、秘製膏丹などすべてを踏み倒して進むことだ。
 古物保存家は古書を読んでいるだろう。“林回(人名)は千金の璧を棄てて、赤子を負うて走った”の譬えは、禽獣の行為とは言えない、とは正にそのとおりである。
では、赤子を棄てて千金の璧を抱くとは、一体全体なんなのだ?
    四月十八日
訳者あとがき:
1.過激な古物保存家攻撃。赤子を取るか千金の璧をとるか?
千金の璧を大切に保存せよ、という裏では、外国人に勝手に売り飛ばして儲けている
古物保存家。さらに悪いのは青年、赤子を自分の思うままに押し付けて改革を阻止しようとする考えに凝り固まった儒教体制への徹底攻撃の宣言である。
2.近年、中国各地の書店に平積みされたおびただしい量の儒教関連の書物。特に目に
つくのは、きれいな装丁と挿し絵がふんだんに入った、児童向けの清朝時代に隆盛を
極めた儒教関連の暗唱用の語録「三字経」とか「千字文」、子供向けの「論語」等。
3.さすがにもう儒教の学校はなくなったし、魯迅が糾弾している腐儒は姿を消した。
だが、テレビ放送の中で、「論語」とか「国学」などの講義が始められ視聴率の高さを誇っていた。願わくは、魯迅の攻撃した「人をがんじがらめに縛りつけてしまうような体制」に後戻りする方向で、論語が利用されないことを!
私は魯迅も引用している論語の中身、例えば「学びて時に之を習う、亦たのしからずや」はその通りで、非常にいいことが書かれていると思う。それを統治の手段として、
人の脳細胞をがんじがらめにしてしまう伝統復活が、一番の問題だと懸念する。
 
 
 
 
 
 
 
 

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ふと思い到って


一.
 「内経」(旧時の医書)は誰が書いたものか知らない。人体組織について、著者は確かに見たのであるが、ただ皮膚を剥いで、ざっと見ただけで、細かな観察はしていない。それでやや乱雑な書き方であり、凡そ人の筋肉は、手指と足のつま先のところからできているという。宋の「洗冤録」は、人骨について、男女の骨は数が違うという。検死人の話はでたらめが多い。それなのに今なお、前者は医家の宝典で、後者は検験の指針である。これは天下の奇事の一である。
 歯痛は中国では誰から始まったか知らない。古人は壮健だったというから、堯舜時代はまだ無かったようだ。今仮に二千年前としよう。私は幼いころ、いろいろ試してみたが、
「細辛(薬草名)」は少し効いたが、一時的に麻痺させるのみで、対症薬ではない。歯を抜くときの所謂「離骨散」というのは、夢のような話で、実際には存在しない。西洋の歯医者が登場し、やっと根本から解決した。ただ、中国人の手で再伝され、まためいめいが、被せ物や、嵌めこみなどすることだけを学んで、腐った処を除去し、殺菌することを忘れ、またもや頼りなくなってきた。歯痛二千年の間、何ひとつ良い方法を考え付かないで、他国の人が考え付いたものも、しっかり学ばない。これ天下の奇事の二。
 康聖人(有為のこと)は、跪拝(ひざまづいて拝む礼儀)を主張し、「もしそれをしなければ、膝に何の用があるか」と言った。歩く時の脚の動きとの関係はそう簡単には分かりにくいかもしれないが、椅子に腰かけたときの膝の屈伸の大切さを忘れているようだ。さもなくば、聖人は「格物(物の道理を理解する)」に疎いと言わざるを得ない。身体の中で、首が一番細い。それで古人はここを切った。臀部は一番肉が多い。で古人はここを叩いた。当時の格物は、康先生よりずっと精通していて、後の人もこれを愛して手放さなかったのは、故無しとしない。だから一部の地方ではまだ、臀を叩く刑が残っているし、去年北京で戒厳令のとき、斬首が復活した。
国粋の伝統を保つもので、これ天下の奇事の三にちがいない。
二.
 「苦悶の象徴(厨川の作品,魯迅が訳した:訳者注)」のゲラを校正していて、些細なことに思い到った。私は本の形式に一種の偏見があり、本の初めと各章の前後に少し余白を残すのが好きで、印刷に回すとき、必ずそう頼む。が、刷りあがってくると大抵は、各論がぎっしりとつまってい、注文通りで無い。他の本も調べたが、多くの場合ぎっしりと詰まっている。
 中国の本や西洋の本も、良い本は扉に一二枚の余白がついてい、天地も広い。しかし近頃の中国で印刷した本は、大抵扉がなく、天地もせまく、何かコメントを書こうとしても、その余地が無く、頁をめくっても、ぎっしりと黒い文字で埋まっている。印刷油のにおいが鼻につき、ある種の圧迫感と窮地に追いやられそうな感じがする。
「読書の楽しみ」が少なくなってしまうだけでなく、人生に“余裕”もなく、“余地も残さない”ように感じてしまう。
 こうすることが質朴だとでもいうのか。だが質朴は陋(みすぼらしい)の始まりで、精力がみなぎっていると、物力を惜しまぬものだ。現在は陋に陥っているようで、質朴の精神は失われ、だからただ粗悪になり、堕落している。よく言われる如く、“貧すれば鈍する”になっている。このような“余地を残さぬ”雰囲気の中では、人の精神は大抵、貧弱になってしまうものだ。
 外国の学術文芸を平易に説いた本は、よく閑話やユーモアを交えていて、文章に生気があり、読者はとても面白く読めて、疲れを感じない。だが、中国の一部の翻訳はここの部分を削り、とても難しい学術用語だけで、教科書のようにしてしまう。これは正に花を折るとき、枝葉を取ってしまって、花だけ残すようなもので、花枝の生気は消滅してしまっている。人は余裕を失えば、知らず知らずのうちに、余地を残す気持ちを失ってしまったら、この民族の将来は大変心配だ。上述した二つのことは、牛毛よりも小さなことだが、時代精神の一端があらわれていて、これから他のことも類推される。例えば、器具の軽薄化、簡易化(世間では重宝だと誤解しているが)建築の工程短縮、材料削減、ものごと全般にそういう風潮になってきており、“美しさ”を求めず、耐久性も考えず、などなど病原はみな同じだ。このことから更に大切なことも類推することができると思う。
   一月十七日
三.
 私は少し神経がおかしいのではないかと思う。さもなくばとても恐ろしいことだ。いわゆる中華民国はもうだいぶ前に亡くなってしまったと感じる。辛亥革命以前は、私も奴隷であったと感じていた。革命後、ほどなくして奴隷のペテンにより、彼らの奴隷にされてしまったように感じる。
 中華民国の国民の多くは、民国の敵になってしまったようだ。
 中華民国の多くの民は、ドイツやフランスに住むユダヤ人にとても似てきたと思う。彼らの心の中には、もうひとつ別の国があると思う。
 多くの烈士の血は、ひとびとに踏み消されてしまったが、それは別に故意にではなかったように思う。
 私はもう一度なにもかも新規にやり直さなければならないと思う。一万歩譲って、誰かがしっかりした民国建国史を書いて、青年に見せられるように切望する。民国の根源が、たかだか十四年しか経っていないのに、実際にはもう失われてしまったから。
       二月十二日
四.
 かつて、二十四史は「殺し合いの書」に過ぎず、「皇帝の家系図」の類だと聞いたことがあるが、
誠にその通りだ。後に、自分で読んでみて、どうしてそうなったのか分かった。
 歴史にはすべて中国の霊魂が書かれていて、将来の運命を示しているが、化粧が濃すぎ、
やくたいもない話が多すぎて、その底にある真実を探し出すのは容易ではない。
正に密集した葉の隙間を通って、地上の苔を照らす月光のように、ほんのわずかの砕けた影しか見えない。
だが、野史と雑史を読めば一目瞭然で、これは史官のように体裁を整える必要が無いためである。
 秦漢は古すぎて、現在の状況とだいぶ違うので、ここで取り上げない。元の人が書いた者は少ない。
唐宋明の雑史の類は今も沢山残っている。試みに五代、南宋、明末の事情と現今の状況を比べてみると、
驚くほど似ていると思う。あたかも時は過ぎても、我らの中国とは関係ないかのようだ。
現在の中華民国はやはり五代、宋末、明末期だ。
 明末でもって現在の中国を譬えるなら、中国の状況は更に腐敗し、もっと破壊され、更に過酷で残虐になる可能性が高い。現在はまだピークに達していないと言える。だが、明末の腐敗や破壊もその当時はまだピークを迎えてはいなかった。李自成と張献忠が暴れ出したからだ。だが、李と張の苛酷残虐もピークではなかった。
満州軍が侵入し(漢族社会を破壊した:訳者注)たからだ。
 所謂国民性なるものは、実にかくも変えることが困難なものなのであろうか?
もしそうであれば、将来の命運はだいたい想像がつく。やはり使い古された言葉だが、
「古(いにしへ)より、すでに之有り」 だ。
 利口な人は実に利口だから、決して古人を非難攻撃せず、古例を揺さぶらない。古人のしたことは何でも、今の人がみなやって行ける。古人を弁護するのは自分を弁護するということだ。ましてや我々中華の後裔は、どうして先祖伝来のことを受け継がずにおらりょうか?
 幸いまだ誰も国民性は決して変えられない、とは断定していない。その「不可知」の中に、例外はある。
即ち、状況はいまだかつてなかったほどの滅亡の恐怖にさらされているが、例外的に復活蘇生の希望もあり、これが改革者の小さな慰藉だ。
 だがこの小さな慰藉も、多くの古文明を自賛する者たちの筆先で消され、新文明を誣告するたくさんの連中の口に呑み込まれておぼれ死ぬとか、多くのエセ新文明論者の言動に打ち滅ぼされる恐れが強い。なぜなら、よく似た例が「古よりすでに之有り」だからである。
 その実、これらの人たちは同類で、すべて利口な人はよく分かっていて、中国は終わってしまっても、自分の精神は苦しまない。なぜなら、それに見合った対応がとれているからだという。もし信じないなら、清朝の頃に、漢人の書いた武功を称賛した文章を見ればわかる。口を開けば“大軍”といい、口を閉じる時には“我軍”と言う。
この“大軍”、“我軍”に敗れたのは、漢人だとは思い到らないのだろうか。まさか漢人が兵を率いて、ほかの何とかいう野蛮で腐敗した民族を殲滅したと思えるだろうか?
 しかしこれらの輩は、永遠の勝利者で、きっと永遠に存続するだろう。中国ではただ彼らだけが生存に最適で、彼らが生存しているかぎり、中国は永遠にそれまでの運命を反復することから、免れない。
 「地大物博、にして人口も大変多い」このたくさんの好材料を持っていながら、まさかいつも「六道輪廻」の循環芝居しか演じられないのか?
     二月十六日
 
訳者注:原題「忽然想到」は従来「ふと思いついて」と訳されてきた。今回「ふと思い到って」としてみた。夜中にベッドで寝て居ながら、日中のできごとや読んだ本の中のことなどが、いろいろ重なりあって、思いを巡らしているうちに、何か思い当たることがあると、横のメモ用紙に殴り書きで残して置く。思いついてというより、思いがあるところに到って、AとBがぶつかって思い当たるようなことがある。
 魯迅のこの段は、しばらく時間を置いて、別の段で五以下が続いているが、彼が、民国の腐敗した状況を、
明末に譬えているが、自分の神経がおかしいのではないかと疑うほど、明末に似ているが、それはまだピークではない。李自成などの反乱で滅茶苦茶になったが、それすらもピークではない。ピークは満州軍の侵入だと言っている。なんだか、後付けのように見えるかもしれないが、1925年の時点を明末と譬えていて、満州軍の侵入をピークとしているのは、その後の日本軍の侵入がピークになるとの暗喩のように見える。
   2010.8.15. 終戦の日に。
 
 
 

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長城


偉大な長城よ!
 この工程は地図にもその小さな像が描かれ、世界中で少し知識のある人は大概しっているだろう。
 その実、従来からただ徒に多くの労働者を狩りだして、辛い賦役に死なせて来ただけで、侵入する胡人(外敵)を防ぎきれなかった。現在は古跡に過ぎないが、すぐには壊滅しないし、或いは保存しようとしている。
 私はいつも思うのだが、私のまわりは、長城に囲まれているような気がする。この長城を構成しているのは、昔からある古レンガと補填された新しいレンガで、二種類が一体となって城壁を築き、人々を包囲している。
 いつになったら長城に新しいレンガを補給しなくなるのか?
 この偉大かつ呪詛すべき長城!
 五月十一日         2010/08/14 訳
 
       訳者あとがき
       長城は、外敵の侵入を防ぐために築かれたものだが、魯迅はこの城壁が、旧時のレンガ(旧教即ち儒教を統治治の手段として利用してきた制度)が壊れずに、辛亥革命の後でもなお、儒教の経典を大切にしようなどの逆流が、新しいレンガとして補給され続けた結果、欧米日露などの侵略に対して独立国家として立ち向かえるような改革を阻んでいるのは、とりもなおさず、人々の考えの発展を妨害する、新旧レンガの旧教である。それゆえ、この旧教の体制を長城に譬えたものだと思う。
 改革開放の30年、今はコミュニズムという背骨を喪失して、科挙の試験顔負けの大学入試の煉獄に、かつての科挙受験生のおかれた状況と似たようなことが起こっている。この受験に合格して、
党員になることが、地方政権の役職に就く「入場券」であって、その入場券を手に入れる発想は、
旧体制のころ先祖がやっていた方法と同じやりかたを踏襲するのが、大方の中国人に一番受け入れられやすい、安心感をもたらすようだ。
        隋唐の時代から実証されてきた、貴族制打倒、皇帝独裁の官僚育成制度というのは、政権争いばかりして、内部闘争にあけくれて、毎年政権が代わるよりも庶民は安心して暮らせるから。
 

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 戦士とハエ

 ショーペンハウエルは言った。人の偉大さを計るに、精神上の大きさと体格上の大きさがあり、その法則は全く相反している。後者は離れれば離れるほど小さくなるし、前者はより大きく見える、と。
 まさに近づけば近づくほどより小さく、欠点もキズも見える。だから彼は我々と同じで、神でも妖怪でもケダモノでもない。やはり人間であり、人間にしかすぎない。ただそれだけにすぎないが、偉大な人間である
 戦士が死んだら、ハエどもが最初に発見したのは、彼の欠点と傷痕、それを舐め、ついばみ、ぶんぶん騒いで得意になり、死んだ戦士より英雄気取りだ。だが、戦士はすでに死んでしまったから、ハエどもを追い払わない。それでハエどもは一層ぶんぶん騒いで、自分たちの声こそ不朽なものであるとか、戦士より自分たちの方がはるかに完全であると思いあがっている。
 たしかに、誰もハエどもの欠点とキズを発見はしていない。
 しかし欠点のある戦士はひっきょうは戦士であって、完全無欠のハエはやはりハエにすぎない。
 去れ! ハエどもめ! 翅でもってぶんぶん騒いでみても、どんなにわめいても戦士を超えることはできないのだ。この虫けらどもめ!
 一九二五年三月二十一日    2010.8.10訳
出版社注; 孫中山逝去9日後に書かれた。4月3日の「京報副刊」に「これはこういう意味」と題して、本分について、「ここでいう戦士とは中山先生と民国元年前後に殉国し、バカどもに嘲笑され、侮辱蹂躙を受けた先駆の烈士を指し、ハエはもちろんバカども。
                                                                                                             
訳者あとがき:
 孫文の評価に関しては、孫大砲とのあだ名が彼の理想主義と現実からの距離を示している。しかしハエどもがどんなに彼の欠点やキズを攻撃しても、生前からそんなバカどもの声に一切妥協することなく、辛亥革命後の中華民国という3千年の歴史上はじめての「皇帝」が統治する政体を共和制にするのに、袁世凱などと14年間闘いながら、こと半ばにして戦死した。最近の中国の孫文に対する評価は、ずいぶんと変化してきていると感ずる。孫文の発想が共産主義的で、旧来の商業資本主義的な色彩の濃厚な「実力者」たち
「実務官僚」たちから危険視され、支持を得られなかった。孫文にこの国は任せられない
という「実権派」たち、「利益追求者」たちに追い落とされてしまった「理想家」だった、
というのが、最近の論調の一つである。これは毛沢東の理想主義にと繋がる系譜だが、過去30年の経済発展を支えてきた「実権派」は「個々人の利益追求」を原動力にしている点で、孫文や毛沢東、或いは太平天国の洪秀全あたりから始まる「耕者有田」の発想と、どこかでぶつかり合いながら、変化発展していると感ずる。

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「華蓋集」 「雑感」

 人には(感情から出る)涙があり、動物より進化したが、ただ涙だけでは進化とは言えない。それは、盲腸があるから鳥より進化したとはいうが、盲腸があるだけでは進化したとは言えないのと同じだ。凡そこれらは無用の長物であるばかりでなく、いわれなき死に至らせもする。
 今、ひとは涙を贈りものにする。最上の贈りものと思っている。ひとにはこれ以外何も無いから。涙のない人は血を贈る。だが、各々は他人の血を拒絶する。
 ひとは愛する人が涙を流すのを望まない。しかし、臨終の際、愛する人が君のために涙を流さないのを願うだろうか?涙の無いひとは、どんな時でも愛する人が涙を流すのを望まない。そして血も拒む。彼の為に、号泣したり死ぬことを拒む。
 ひとは大勢の人に見られながら殺される方が、だれも見てないところで殺されるより、気分的に安心する。それは観衆の中の誰かが涙を流すのを妄想するからだ。だが、涙の無い人間は、どこで殺されようと何の関心もない。
 涙のないひとを殺しても、血も出ないだろう。愛する者も彼が殺される悲惨さを感じず、仇も彼を殺す楽しみを得られない。これが彼の報恩と復讐というわけだ。
 敵の鋭利な刃物で殺されるなら悲しみ苦しむことはない。どこから来たか訳も分からない闇の中で殺されるのは、悲しく苦しい。だが最も悲痛な死は、慈母や愛する人が誤った投薬での死亡と、戦友の流弾、細菌の悪意の無い侵入、そして自分で制定に関与していない死刑に処されることだ。
 昔は良かったと言う者は、昔に戻るが良い。この世から超脱したいものはそうすればよい。天国に行きたいものは早く行くがよい!魂を肉体から離脱させようとするものは早く去るが良い!今日の地上には、現在に執着してこの地に生きようとするもの以外、不要だ。
 それにも拘わらず、厭世家たちがまだたくさん居る。彼らは現世の仇敵だ。彼らが一日長く存すると、現世は一日救いを得ることができなくなる。
 以前は、現世に生きたいと願いながら、生きられなかったひとは、沈黙のまま過し、うめき、嘆き、号泣し、哀求したが、やはり生きたくても生きられなかった。それは彼らが憤怒を忘れていたからだ。
 勇者は憤怒し、抜刀して強者に立ち向かう。怯者は憤怒し、抜刀して弱者に向かう。薬で救うことのできない民族には、必ずたくさんの英雄がいて、もっぱら子どもたちを叱る。この臆病な卑怯ものめ!
 子供は叱られながら成長し、また次の子供たちを叱る。思うに、彼らは一生憤怒のうちに過す。憤怒はただこうしたことの中にのみ存して、一生をそうして過す。更に二代、三代、四代、末代と。
 何を愛するにせよ、 食事、異性、国家、民族、人類など、ただ毒蛇のごとくまつわりつき、怨みの亡者のように二六時中執着し、やむことなき者のみが望みがある。ただ、とても疲れたと感じたら、少し休み、休息後ふたたび始める。二回、三回、…。
血書、規定、請願、講学、号泣、電報、会議、挽聯、演説、神経衰弱、なぞは一切無用。
 血書で何が勝ち取れるというのか?君の一枚の血書じゃ、見栄えも良くないし、神経衰弱など、その実、自分が病気にかかっただけで、それを宝物のように扱ってはだめだ。
我が敬愛し、そして又うるさくていやな友よ!
 うめきや嘆息、哀求など驚くにあたらない。苛酷で烈しい沈黙に遭遇したら、しっかりと気をつけねばならない。毒蛇のようなものが屍の森林にうごめき、怨霊のようなものが暗黒の中を走りまわるのを見たら、もっとよく気をつけねばならない。これは「本当の憤怒」がまもなくやって来るのを予告しているから。その時、古代に戻りたいと仰慕するものは、古代に戻るがよい。世の中を超越したいものはそうすればよい。天国に行きたいものは行け!霊魂を肉体から遊離させたいものはそうするが良い! ……。
 五月五日       2010.8.4.訳
 
 

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「これとあれ」

一.
 読経と読史(儒教の経書と史書を読むこと)
 偉い人が、経書を読むべしと言うと、提灯持ちが右に倣えとばかり、経書を読むべきだと唱える。それも何と読むだけではすまず、それでもって救国すると言い出す始末だ。「学びて時に之を習う、亦楽しからずや?」それは確かにそうだ。だが、1895年の日清戦争には負けた。なぜ日本との戦争だけ取り上げるのか?というのは、その時は新しい学校ができる前で、経書を廃止していなかったからだ。
 勉強を始めたばかりの人は、今更糸綴じ本をうんうん唸って学ぶ必要は無いと思う。すでにもう長く勉強した人で、古い書物にはまってしまっているなら、史書を読むのが良い。とりわけ宋代や明代、なかでも野史や雑説が良いと思う。
 今、内外の学者たちは「欽定四庫全書」という名を聞いただけで、魂消てしまい、膝もがくがくと、へにゃへにゃと崩れてしまいそうになる。だが実は,書の原形は改変され、文章も改刪され、簡単な例が「琳琅秘室叢書」の二種の「茅亭客話」で、一つは宋本、もう一つは四庫本で、これを比べればすぐわかる。「官修」で「欽定」の正史も同様。本紀や列伝だけでなく、“歴史の体裁”を整えるだけで、実のあることは何もない。文字や行間に褒貶が隠されているというが、誰がそんなことに気を使って、壺の中身の謎ときなどするものか。今でもなお「平生の事柄を国史館に宣して、伝を立てよ」などと言っているが、もうやめた方が良い。(官僚政治家はこの伝が立つことで名が残るのを目指す:訳者注)
 野史と雑説にも、中には誤伝や恩と怨みに絡んだものもある。しかし、往時を見る目はしっかりしている。それは正史のように恰好をつけなくても良いからである。宋のことなら、「三朝北盟匯編」は骨董品で高すぎる。新刷「宋人説部叢書」が手頃だ。明なら「野獲編」、原本もいいがこれも骨董で、一部数十元もする。「明季南北略」が入手しやすい。また新刷なった「痛史」もお勧めだ。
 史書は本来、過去のエンマ帳で、急進的な猛士とは関係ない。只、先に述べたように、もしそれにはまってしまって、やめられないなら読むのは構わない。我々の目前の状況が、その当時と何と似ていることか、そして現在の混迷な状態、デタラメな思想は、当時にもあって、且またすべて滅茶苦茶だったことがよくわかる。
 中央公園に行くと、おばあさんが孫娘を遊ばせているのを目にする。このおばあさんの容貌は、孫娘の将来を予告している。だから、もし誰かの令夫人の後日の容姿を知りたければ、彼女の祖母を見ればよい。もちろん違いはある。だが総じて言えば、そんなに違わない。我々がエンマ帳を使うのは、このためである。私は、昔からこうだから、現在はもう成すべきことも無く、人々に「過去」に対して畏敬の念を持てとか、過去が我々の命運を決めているなどとは言うつもりは無い。LeBon氏は、「死者の力は生きている者より大きい」と言った。誠に一理あるが、人類は進化発展しているのだ。又、章士●(金+刂)総長の説によれば、米国の何とかいう地方では、進化論を唱えることを禁じた由。これは私を死ぬほど驚かせたが、禁じたいなら禁じさせるまでで、進歩というものは、これはどう転んでも止められないものである。
 要するに、歴史を読むと、中国の改革はいよいよ手を緩めてはならぬとの覚悟ができて来よう。国民性とはいえ、改革が必要なものは改革せねばならぬ。それをしないでは、雑史、雑説に書かれた前車の轍、即ち失敗の前例を学ばないということである。改革すれば孫娘がおばあさんに似てくるなどの心配は無用だ。よい例が、おばあさんの足は纏足で歩行も困難だが、娘は自然の足で、跳びはねたりできる。祖母は天然痘であばたが残っているが、令夫人は種痘のおかげで、つやつやの白い肌。これも大変大きな進歩である。
  十二月八日
二.
 褒めることとけなすこと。(持ち上げることと、掘り下げること)
 中国人は自分を不安にさせる兆のある人間に会うと、これまで二つの方法で、彼を押しつぶしたり、持ちあげたりしてきた。押しつぶすのは、古い習慣と道徳を使い、或いは官の力によって行った。だから孤高な精神の戦士は、民百姓の為に闘おうとして、往々にして、これにやられて亡んだ。それで彼らは安心した。押しつぶせなかったら、今度は持ち上げるのだ。高いところに担ぎあげ、十分に満足させ、自分にとって無害な状況になれば、安心できる。
 利口な人は、利益の為に持ち上げ、勢力家を持ち上げ、役者を持ち上げ、総長の類を持ち上げる。但、一般人は、即ち“儒教の経書”を読んだことの無い人は、持ち上げる“動機”のほとんどは、災厄から免れようと思うからだ。祈り奉る神は、大抵は凶悪な者で、火の神、疫病の神は言うまでも無く、財神も蛇やハリネズミに似た、ひとを脅す畜生である。観音菩薩は良い顔をしているが、これはインドからの輸入で、我々中国の“国神”ではない。要は凡そ持ち上げられるものの十のうち九はロクでもないものである。
 十のうち九がロクでもないものなら、持ち上げられた後、その結果は持ち上げた者の希望に反することになる。不安を増すばかりでなく、怖れを生むことになる。人心というものは、そう簡単に満足しないもので、人々は今に至るもそれを悟らず、持ち上げるのが一時的な安心に過ぎないとは思っている。
 笑話の本に、名は忘れたが、「笑林広記」だったか、ある知県の誕生祝いに彼は子年だったので、部下は金を集めて金のネズミを祝いに贈った。知県はもらった後、別の折に言った。来年は家内が五十歳だ。彼女は私より一年若い牛年だ。もし金のネズミを贈らなかったら、彼は金の牛を思いつきもしなかったろう。一度始めると収拾がつかなくなり、金の牛は贈る力も無いが、仮に贈ったら彼の妾は象年になるかもしれぬ。象は十二支に入っていないから理にかなっていないが、これは私が思いついた話で、知県は我々が考えもしないもっと巧妙な方法を持っていよう。
 辛亥革命の時、私はS城にいて、(革命政府の)都督がやってきた。彼は匪賊の出だが、「経典」を読んだことは無かったけれど、大局をみることはでき、世論を聞くこともできたが、紳士から庶民まで、祖伝の担ぎ揚げで持ち上げられた。こちらで表敬訪問、あちらで御接待、今日は衣服をもらい、明日は高級料亭、持ち上げられて彼はその本分を忘れ、結果、旧来の官僚と同じになり、地上の富を削り取り始めた。(この表現を魯迅は“地表を削り取る”と言う意味の“刮地皮”という成語を使っている、それが次の黄河の氾濫対策提言への導入となる:訳者注)
 一番奇怪なことは、北方各省の河道で、河の全身を持ち上げて、屋根より高くしてしまった。最初は決壊を防ぐために土を積んだ。あにはからんや、積み上げれば積み上げるほど高くなり、一旦決壊すると被害は甚大になる。そこで競って堤を高くし、堤を護り、決壊を防ぐ方法を考える。方法が増えるほど、民は苦労する。もし、最初から河川が氾濫したら、堤をかさ上げせず、川底を掘るようにすれば、このようなことにならないで済むと思う。
 金の牛をむさぼらんとする者には、金のネズミはおろか、死んだネズミすら贈ってはならない。そうなれば、こうした輩の誕生祝いをする必要も無く、誕生祝いに出向かなくてもすむようになれば、これはもう大変な快事である。
 中国人が自らを苦しくさせている根底には、この持ち上げがある。「自ら多幸を求める」道は、掘り下げることにある。その実、労力の量は大差ないのだ。但、惰性に流されている人は、持ち上げる方が省力だと思っている。
 十二月十日
三.
 トップとビリ
 「韓非子」は競馬の奥義を説くに、「トップにならず、ビリを恥じず」と言う。これは我々門外漢から見ても理にかなっているようだ。仮に初めから力いっぱい走ると、途中で馬力が尽きやすい。但、この句は競馬にのみ適用されるべきなのが、不幸にも中国人は処世の金言にしてしまっている。
 中国人は「謀反軍のトップになるな」だけでなく、「災禍を引き起こす首領となるな」や果ては「福の先駆けになるな」などという。だから、すべての改革が容易ではない。先駆けと突撃大将には誰もなりたがらない。しかし人生は道家の人が言うように、恬淡になることですむ訳にはゆかない。それでいて欲しい物はたくさんある。もしまっとうに得ようとしないなら、陰謀と手管を使うしかない。そのため、ひとは日ごとに卑怯になり、「トップになろうとしない」し、「ビリを恥じて」しまう。したがって群衆も危ないと見るや、さっと「鳥や動物のように逃げ去る」。偶に数人が退却せず、害されると、世の評論家たちは、異口同音にバカ呼ばわりする。「こつこつやる」人に対しても同じだ。
 学校の運動会を見た。これはもともと二国間の戦争でもないのに、仇敵視し、競って罵り、殴り合いまでする始末。まあこの件は又別の機会に論じよう。今話すのは、徒競争の時だ。大抵は先頭の三四人がゴールに着くと、それ以外の者はだらけて、数人は所定のコースを走る気も無くして、途中で観客席に紛れ込み、或いはわざと転んで、赤十字の担架で担がれる。もし落後しても完走すると、完走した人を観衆が嘲笑う。多分彼はトンマで「ビリを恥じない」からだ。
 中国にはこれまで、失敗せる英雄は少なく、粘り強い反抗も少なかった。単騎決戦に臨む武人も少なく,反逆者を哭す弔問者も少ない。勝ちそうだとみるや、その周りに群がり、負けそうだと、一目散に逃げ出す。武器が我々より優れた欧米人、我々よりさして優れた武器を持たない匈奴、蒙古、満州人も、すべて無人の境に侵入してきたごとしだ。「土崩瓦解」の四文字はまことにこれを形容していて、自分のことは自分が一番よく知っているということを物語る。
 「ビリを恥じない」人の多い民族は、何事であれ一気に「土崩瓦解」する心配はない。運動会を見るとき、いつも思うのだが、優勝者には敬意を表すべきだが、遅れても、ゴールまで走り終える人と、これを見ても嘲笑わない観客は、正に中国の将来の背骨だろう。
四.
 流産と断種
 近頃、青年の創作に対して、一旦「流産」という悪評がでると、わっとばかりにそれに悪乗りするのが沢山いる。私は信じているが、もともとこの言葉を使った人は、悪意は無かったのだが、偶々そう言うと、それに同調するものも出てくるのは理解できる。世事はもともと大概こうなのだから。
 私はいまひとつ分からないのだが、中国人はなぜ古い事に対して、心は安寧で気持ちも和らぐのだろう。新しい機運に対しては、すぐにも拒絶反応を起し、既成の事にはそんなに完全を求めぬのに、新興のことにはなぜこんなに完全を求めて責めたてるのか。
 知識水準も高く、眼光も遠大な諸先生は我々を指導して、生まれてきた者がもし、聖賢、豪傑、天才でなければ、生まなくてよい。書いたものが不朽の作品でないなら書かなくてよい。改革がすぐ極楽世界に変わるのでなければ、或いは少なくとも我々により多くのメリットを与えてくれないなら、手を出すな!という。
 それなら彼は保守派か?というとそうではない、と。彼は正しく革命家だ。だが、只、公平、正当、穏健、円満、平和で弊害の無い改革法を目下研究中で、まだうまく研究しきれてないという。
 いつ研究成果が出るのか? まだ分からないとの応え。
 子どもの最初の一歩は、大人から見ると確かに幼稚で、危険で、様になっていない。或いはまったくおかしな格好である。ただ、どんな愚かな婦人も、切なる望みは子が第一歩を踏み出すことで、彼の歩き方が幼稚なため、金持ちの車の前に出てひき殺されるのを心配して、ベッドに縛りつけて、横にさせたまま、跳ぶように走れるようになるまで研究させてから、地上に下ろすようなことはしない。彼女はもしそんなことをしたら、百歳になっても歩けないことを知っている。
 昔からこうである、ということでいわゆる読書人は新しく出てきた人に対して、手を換え品を換えて、彼らを縛りつけてきた。近頃は、多少遠慮し、誰か出てくると、大抵は学士文人たちが道をさえぎり、暫く待ちなさい、まあお掛けなさい、と言う。そして道理を説き、調査研究推敲修養…、結果は元の場所にずっと死んだように留まらせる。
さもなければ「かき乱した」との称号を与える。私も今の青年同様、もう亡くなった導師
や存命の人にどう進むべきか訊ねた。彼らは口々に、東に向かってはならん。そして、西
も、南も、北もだめ。だが、東に向かえとか、西へ、南へ、北へとは言わなかった。結局
彼らの心の底にあるものを発見した。それはただ「動くな」だった。
 坐して安寧を待ち、前進を待て。もしそれができれば大変すばらしい。但し、心配なの
は、死ぬまで待っても、待っているものは来ず、生育もせず、流産もせず、一人の英明な
子の生まれるのを待つ。もちろんそうなれば喜ばしいことだが、心配なのはついに何もな
いまま終わることだ。
 もし生まれる子が抜群に優れた子でなければ、断種したほうがましだ、というなら何を
かいわんや。話にもならない。我々が永遠に人類の足音を聞こうとするなら、私は流産は生まないより、希望があると思う。これは明白に出産できることを証明しているから。
  十二月二十日              2020.8.3.訳
 
 訳者あとがき
 平安の昔、菅原道真の出世が余りに早すぎたので、それをねたんだ藤原一族が考え出したのが、「官打ち」という手段だそうだ。菅原家の身分以上に高位の右大臣に持ち上げ、天皇の廃立まで左右できる権力を行使させておいて、最後はザン言により、大宰府に左遷させられた。今回、菅総理が同じ目に会わないことを祈るばかりだ。
 中国でも、宋代に新法党の王安石と党争した旧法党の蘇軾は、何回も地方に左遷されながら、新法党の失脚で中央に戻ったが、やはり上記と同様の「官打ち」に遭い、それを事前に察知して、自ら地方赴任を願いでたなどの話が伝わっている。
 蘇軾が白楽天にならって、西湖の底を浚えて、その土で蘇堤を造った話は有名だ。冬の雨の少ない季節に、湖底や川底を浚える法は南方では可能であったが、北方ではどうだっただろう。
 魯迅はこの作品で、北の人々が、黄河の洪水防止のために、堤を年々高くして、結局は被害を甚大なものにしているから、却って川底を掘り下げる方が良いと説いている。
 阪神間の川は、ほとんど天井川と言われるように、川底の方が高くなっている。本来、川の水は川底を削り取って海に流れるので、川の自然の力に任せて削り取りやすいように、分水を何本も掘り下げて、堤は高くしすぎないのが洪水防止には良いと思う。
 ただ、魯迅の故郷のあたりと違って、黄河はとてつもない量の黄砂を一気に流し込んでくるので、掘り下げれば掘り下げただけ、すぐ溜まってしまうことが問題だろう。最近はダムと分水と取水及び気候変動で、断水現象に悩まされているのも皮肉な結果だ。
南方の洞庭湖は、唐の詩人が歌ったように、「八月湖水平らかなり」で、この平らというのは、最初どういう意味か分からなかったが、夏の大雨によって、水面が岸と同じ高さまで来ている、すなわち水と地は同じ水平線、地平線にあるということで、夏に江南を旅して実感した。江南の水路は地面とあまり段差がないので、そこに架かる橋は水郷の風景でおなじみの下に小舟が通過できるように、丸か台形の高い橋を架けており、それで「高橋」と呼ぶそうだ。もちろん南京や内陸の大都市周辺は高い堤で持ち上げているが、洪水対策用の大きな湖やその支流は水と平らになる。従って、いつあふれ出してもよいように、農家は3-4階建の家を造って避難する。
 三峡ダムも本来ダムのある宜昌あたりは、海抜数十メートルだった水位は今185Mを超えている。この水位がまさしく上流のダム湖の八月湖水平らなり、を生じさせた。何百キロも上流の重慶の水位は175メートルを超え、あれほどの険しい峡谷の崖に立つ住居を水没させて、なお且つ下流に流れて行く速度が緩慢なため、重慶市街も大洪水となってしまった。185メートルのダムというのは、魯迅の反対した堤を高く持ち上げた結果だが、この湖底の底を掘り下げるのは、人類の知恵と手の届かぬところにあるようだ。うまく放水で湖底を掘り下げられれば良いのだが。
 2―3百年前の地図には、上海は正しく海の上だったので、海岸線はだいぶ内陸にあった。あと2-3百年しても、海岸線は過去3百年のようには延び出していないだろうな。
 

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  「青年必読書」

 「京報副刊」のアンケートに答えて。(アンケート用紙は罫線の一枚もの)
1.青年必読書:これまで気にかけてこなかったので、今答えられない。
2.附註:しかしこの機に自分の経験を述べて若干の読者の参考に供したい。
私は中国の本を読むと、いつも静かに沈んで行くような気持ちになり、実人生から遊離するような気がする。外国の本を読むと、但しインドは除く、常に人生と向きあって、何かをやろうと言う気になる。
中国の本にも、世の中に向かうように勧めているものもあるが、多くは硬直した屍の楽観論である。外国の本はたとえ退廃と厭世なものでも、生きている人間の退廃と厭世である。
私は、中国の本は少ししか、或いは全く読まないで、外国の本を多く読むのが良いと思う。
中国の本は、少ししか読まなくても、その結果は作文がうまく書けないに過ぎない。しかし現在の青年に最も大切なのは“行”であって“言”ではない。生きて活動するなら、作文ができなくてもたいしたことはない。
 一九二五年二月十日    2010.7.28.訳
 

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華蓋集  題記

 大晦日の深夜、この年の雑感を整理したら、「熱風」の丸四年分より多かった。大部分はもとのような意見だが、態度はそれほど素直ではない。措辞もいつも回りくどく、議論も往々にして、数件の小さなことに拘泥し、見識家の笑い物とされるに十分だ。しかし他に何の手だてがあろう。今年はこうした小さなことに出会い、小さなことにこだわる癖がついてしまったようだ。
 偉大な人(ブッダ)は三世を見通し、一切を観照し、大苦悩を嘗め、大歓喜を得て、大慈悲を発す、という。だが私はこれを成すには、深く山林に入り、古樹の下に坐して、静観黙想し、天眼通を会得し、ひとの世から遠く離れれば離れるほど、ひとの世をより広く認識できるということを知っている。そこでその言説が、より高度なものになれば、更に偉大になり、天人の師となるということも、知っている。私は小さい頃、空を飛べるようになるのを夢想したけれど、今なお地上におり、小さな切り傷も救えないから、広い心で、公正妥当な議論を展開し、公平に道理に通じる「正人君子」のようなことをするヒマなど、どこにあろうか。まさしく水に濡れた小蜂は、ただ泥の上を這いまわるだけで、洋館に住んでいる“通”の人たちと競争しようなど決して考えない。
 だが、私は自分の持つ悲しみ苦しみ、憤激は決して洋館の通の人々の会得できるものではない。
 この病の痛さの根底は、私がこの世に生きているからで、そして一個の常人で、“華蓋の運”にめぐり合えたからだ。
 これまで運勢学を勉強したことは無いが、老人の話では、ひとは時に“華蓋の運”に会うそうだ。この華蓋は彼らの発音は大概「鑊蓋(ほーがい)」と訛っているので訂正する。
この運は和尚にとっては幸運で、頭上に華蓋があれば、成仏して開祖になる兆しだが、俗人は不運で、華蓋が頭上でかぶさっていると、釘付けのようで頭が上がらないという。
 今年、雑感を始めたら、二回大きな釘に打たれた。
 一つは「文字の詮索」もう一つは「青年必読書」。署名入りと匿名の豪傑諸士の罵倒の手紙が山のようになり、書架の下に突っ込んである。このあと、又突如として所謂学者、文士、正人君子等に会ったが、彼らは異口同音、公正な話をし、公理を談じ、“同じ仲間と徒党を組み、異見者を打倒す”というのは良くないと言う。残念ながら私と彼らとは大きな違いがある。それゆえ彼らには何回か打たれたのだが、これはもちろん“公理”の為で、私の“党同伐異”とは違うからである。
 かくして今に至るも完結せず、“来年まで待とう”とするほかない。
またある人は私に、このような短評はもう書くなと勧めて呉れる。その好意には大変感謝し、決して創作の貴重なことを知らないではない。しかしこのような事をする時は、やはりこのような事をしなければならない。もし芸術の殿堂にこんな面倒な禁令があるのなら、行かない方がましだ。やはり砂漠に立ち、飛砂流石を見、楽しかったら大笑し、悲しかったら大いに泣き叫び、憤れば大いに罵る。たとえ砂礫に打たれてボロボロになり、頭が傷つき血が流れても、ときどき自分の凝血をさすって、もしそれが花模様のように見えたら、
中国の文士たちとシェークスピアの御相伴で、バター付きパンを食べる愉しさよりましだろう。
 しかるに一方で私の視界が狭いと怨みに思う。中国だけ取り上げてもこの一年、大事件もたくさんあったが、往々にしてそこにも言及しなかったので、なんの感触も無いように思われるだろう。私はかねてから、中国の青年が立ちあがって、中国の社会、文明に何ら忌憚のない批評をしてほしいと望み、「莽原週刊」を出して発言の場としたが、投稿者はたいへん少なかった。他の刊行物は大抵は反抗者に対する攻撃で、これは実に私にとっては、このまま続けられるか心配だった。
 今、一年の最後の深夜、夜も尽きようとし、我が生命も少なくとも一部はすでにこの無聊の中に費消され、私の得た物は自分の魂の荒涼とすさんだ姿だ。しかし私はいささかもこれらを憚ったりしないし、隠そうとも思わない。実際、それらを愛おしくすら思う。これは私が輾転と風砂の中で、暮らしてきた結果だから。自分が風砂の中で、輾転と生活してきたと感じたから、この意味が会得できた。
「熱風」を編集したとき、遺漏以外は数編削除した。今回はこれと異なり、一時の雑感一類のものは全てここに収めた。
 一九二五年十二月三十一日夜 緑林書屋東壁の下で  2010.7.26訳
 

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