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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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春末閑談

春末閑談
 北京は正に晩春、私が性急なのか夏のように感じる。で、突然故郷の腰細蜂を思い出した。それはたいてい盛夏で、青蠅が涼み棚の索に密集し、鉄のように黒い腰細蜂が、索の間や壁の角の蜘蛛の巣の辺りを飛び、時に小さな青虫をくわえていたり、蜘蛛をつかんでいたりする。青虫や蜘蛛は最初抵抗するが力尽き、くわえられて空に舞い上がり、飛行機の様に飛んでゆく。
老人が教えてくれた。あの腰細蜂こそ、ものの本にあるトックリ蜂で、メスばかりでオスはいない。稲の髄虫を捉えて継子にせねばならない。メスは青虫を巣の中に閉じ込めて、自分は日夜外から叩いて呪文で「私のようになれ」と。それから何日かすると――何日か忘れたが多分7x7=49日くらいか――その青虫も腰細蜂になり、それゆえ詩経に云う:「稲の髄虫に子あり、トックリ蜂はこれを負う」と。稲の髄虫は索の小青虫だ。蜘蛛は?彼等は蜘蛛には触れなかった。何人かの考証家が異説を立てた。メスは、本当は卵を生める:青虫を捉えるのは巣穴に入れて、孵化した幼蜂のエサにするのだ、と。しかし私の先輩達はこの説を採用せず、やはり連れ去って女児にするという。我々は天地の間に美談を残す為、こう言う風にした方が良いと、長い夏の間、することもなく、林の陰で暑さをしのいでいる時、2匹の虫が片方は連れ去ろうとし、もう一方はそれを拒むのを見る時、慈母が娘に教えるのを見るように、好意に満ちているようだが、青虫があらがっているのは、聞き分けのないやんちゃ娘のようだ。
 しかし夷人は憎らしい。何でも科学的にする。科学は多くの驚くべきことを教えるが、多くの美しい夢を壊す。フランスの昆虫学者ファーブルは仔細に観察後、幼蜂のエサと証明した。この腰細蜂は単に普通の凶手でなく、大変残忍な凶手で、学識技術面で極めて高度な解剖学者だ。メスは青虫の神経構造と作用を知っており、奇妙な毒針で、その運動神経球に只一刺で、麻痺を起こさせて、不死不生の状態にするので、身動きできなくなるが、不死不生ゆえ、腐らないので、卵が孵化した時、このエサを捉えた時と同じように新鮮のままだ。

 3年前神経過敏なロシア人のE君に会った。ある日彼は忽然心配そうに言った。将来の科学者はある種奇妙な薬を発明し、それを誰かに注射したら、その人は、喜んで永遠に服役し、戦争の機器になるかもしれない。その時私も眉に皺寄せ嘆息して、同じ心配をしたように装い「同感」の意を表した。殊に我国の聖君、賢臣、聖賢とその取り巻きは、すでにこのような黄金世界の理想を持っていたのだ。「唯、君福をなし、威を保ち、玉食す」ではないか。「君は心を労し、小人は力を労す」ではないか。「人に治められる者は、人を食(やしな)い、人を治める者は人に食(やしなわ)れる。残念ながら、理論的にはすばらしいが、実際は完全な方法を見いだせていない。威を為す人に服従する為には活動してはおられず、玉食を献じるためには死んではならない。治められるためには活動すべきではないし、治める人を養うためには死ぬことはできない。人類が霊長類に昇格するのは当然賀すべきことだが、腰細蜂の毒針がないので、聖君、賢臣、聖賢とその徒、現在の権勢家、学者、教育家は、これに手を焼いていた。将来どうなるか知らないが、昔なら、人を治める者はいろいろ手を尽くして麻痺させる術を使おうとし、トックリ蜂と先を競ってきたのだが、十分に効を奏しなかった。皇帝の一統についても、常に姓を改め、代易するを免れ難く、「永遠の長命」は無かった:「二十四史」は二十四世の多きに至った悲しむべき鉄の証だ。現在また別の面が現れ、世上所謂特殊知識階級の留学生が出て、研究室で研究した結果、医学の未発達は人種改良に有益だとか、中国の婦人の地位はとても平等で、全ての道理はみな正しく、すべての状況は十分良好だと説いている。E君の憂いはむべなるかなである。
だが、ロシアは大きな問題はない。我々中国と違い、所謂「特殊な国情」や「特殊知識階級」がいないからだ。
 只こういう仕事は、ついに古人のようにはうまく奏効できていない。それはこれが腰細蜂のしていることより難しいからだ。メスが青虫に対しては、ただ動けなくさせるだけだから、運動神経球を一刺すれば成功なのだ。しかし我々の仕事は、相手が動けるが、無知覚で知覚神経中枢に完全な麻酔を与えねばならぬからだ。だが知覚が失われると、運動もそれに随って主宰力を失い、玉食を献じられなくなる。上は「最高位者」から下は「特殊知識階級」までそれを享受できなくなるのが問題なのだ。現在について言えば、私見だが、遺老の聖経賢伝法や学者の研究室に入ろう主義、文学家と茶館の亭主の国事を談ず勿れ、教育家の(礼にあらざれば)見るな、聞くな、言うな、などの論以外に、本当に完全で弊害の無い物は無い。留学生の特別な発見も、実は何ら前賢の範囲を越えたものはない。
 ではまた「礼を失えば、これを野に求めん」とするのか。夷人は、そこから取り入れようとするのだから、ここでは当分それを外国と称するが、そこには比較的良い方法があるのだろうか?残念だが無い。あるのはやはり、集会禁止とか、発言禁止の類だ。我々中華と何ら違わない。然し至高な道もあり、人はそのような心を共に持ち、この理は華夷に差はない。猛獣は単独で行動し、牛羊は群れる:野牛の大群は角を並べて城のような形をとるが、一頭を引きだすと、モ―と鳴きだす。民と牛馬は同流で――これは中国についてであって、夷人は別の分類があり――これを治める道として、当然集会を禁じる:この方法は正しい。その次は発言させぬ事。人が発言できるのは、すでに禍をはらんでいて、況や時に文章を書く。だから蒼頡(漢字の創作者)が字を創ると、夜に鬼が鳴いた。鬼すら反対するのだから、官もまた然りだ!猿は言葉を発しないから、猿の世界にはストライキは無い――猿の世界には官もいないから。だがこれは又別途論じよう――確かに虚心に法を採り、本来の素朴な姿に戻り、口を開かず、文章も自から無くする:この方法も間違っていない。然しこれは理論的に言ったに過ぎず、実効についてはやはりとても難しい。最も顕著な例は、あれほど専制的なロシアのニコライ2世「崩御の後」(処刑)ロマノフ王朝はついに「途絶」した。要するに、その大きな欠点は、2つの良い面があるとはいえ、一つが欠けると即;人々の思想を禁止できなくなるからだ。
そこで我々の造物主は――天上にこのような「主」がいたら、とても憎いことだが、永遠に「治者」と「被治者」を分けなかったことが憎い:第2に憎いのは、治者に腰細蜂のような毒針を与えなかったことだ:第3は、被治者にたとえ思想中枢を内蔵する脳を切られても、動き続けて服役さえるようにしなかったことだ。3者の内一つでも得たら、権勢家の地位は永久に堅固な物となろう。
統御するのも労力を省け、天下泰平となる。だが今はそうではない。だからもし高い地位に上ろうとすれば、暫時、勢力を保ちながら日々いろいろ手段を尽くして、夜も考えをめぐらし、実にその苦労たるや大変なものだ。
 頭が無くなっても、服役と戦争の器具になれたら世の中はどうなろうか?こうなるともう帽子や勲章で上位者と下位を分ける要は無くなる。ただ頭が有るか無いかで主か奴か分かる。官か民か、上下、貴賤の区別もできる。更にもう何とか革命をやらかすことも無い。共和、会議などの乱も無く、常に電報が省に送られてくる。古人は畢竟、聡明だった。早くからこういうことを考えていて、「山海経」に名を「刑天」というある種の怪物がいた。彼には物を考える頭は無いが、生きていて、「乳を目とし、へそを口とし」…この点は周到に考えられている。さもないとどうやって見、どうやって食うのだろう――実に師法とする価値が有る。我々国民がみなこうなら、権勢家はどれほど安全快楽だろうか?だが彼刑天は又も「干戚(盾と矛)を執って舞い」かれはどうやら死んでも分に安んじようとしなかったようで、その点は私の考えていた専ら権勢家の為に尽くすという理想的な良い国民とは違う。陶潜は詩に云う:「刑天は干戚を舞い、猛志は固より常にあり」と。この昿達な容貌の老隠士すらこういうことから、頭が無くてもやはり猛志を持っておるから、権勢家の天下もいっときも泰平を得ると言うのは難しかろう。だが本当に多くの「特殊な知識階級」の国民も、特に例外的な希望があるかもしれない:ましてや、精神文明が大いに高まった後では、精神的な頭はそれより先に前に飛び去っており、区区たる物質としての頭の有無はもはや大した問題でもないから。
       1925年4月22日
訳者雑感:魯迅45歳の作品である。子供の頃に土地の老人から聞いた腰細蜂の面白い話しが下敷きになっている。
 あの毒針で一刺しして、脳を麻痺させるが、殺しはしない。それで自分の幼虫の孵化するまで新鮮なままで保存できる…。
 中国の治者はほんの一握りのエリートで、残りはすべてこの腰細蜂に毒針を刺された状態で、何も発言せず、せっせせっせと「年貢」を治める農民であり、
何も批判や革命などを言いださない、戦争の器具としての兵士だ。これが中国を長い間治めてきた治者の「理想」であった。理論的には大変すぐれていたが、
二十四史に示されている様に、長続きしたのは少しだけで、あとは戦乱の連続であった。
 たとえ頭がなくなっても、猛志はもとよりある。「山海経」にでてくる頭のない、怪物の挿絵はしばしば見かける。平時には中国の至るところにこの怪物が活動・生活しているのだ。
 日本の首相が歴代の談話を引用した翌日に記す。頭が切られても怪物のような猛志を持って生き続けるようだ。
      2015/08/15記

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鏡を見て感じたこと

鏡を見て感じたこと
 衣装箱を整理していたら、数枚の古い銅鏡が出てきた。多分民国初年、北京に初めて来た時、買ったもので「情は事に随って遷る」とやらで忘れてしまっていたので、まるで隔世の品を見る如し。
 一枚は直径2寸に過ぎぬが、とても重厚で背面には葡萄が一杯彫られ、跳躍するムササビもあり、周囲は小鳥が飛んでいる。骨董屋はみんな「海馬葡萄鏡」と呼ぶ。だが私のは海馬はいないから名に相当せぬ。かつて海馬のあるのをみたことあるが、高すぎて買わなかった。これらは全て漢代の鏡で:後に模造したのや、鋳型を造ったのもあり、摸様も粗末で拙劣なのが多い。漢の武帝は(中央アジアの)大宛国や安息と通じ、天馬や葡萄をもたらしたので、当時は大抵それを盛事と考えたので、什器の装飾に取り入れたのだ。古時、外来品には海の字をつけた。海榴(ザクロ)とか海紅花(ツバキ)、海棠の類の如く。海は即現在の所謂「洋」で海馬は現代語にすると洋馬だ。鏡のつまみは蝦蟇で、鏡は満月のようで、月にはヒキガエルがいる故だが、漢代の事とは関係ない。
漢人が如何に闊達に信頼の動植物を何のこだわりもなく、装飾の摸様に充てたかがしのばれる。唐人も弱くない。漢人の墓前の石獣の多くは羊、虎、一角鹿、一角獣の様なもので、長安の昭陵には箭(矢)を帯びた駿馬が刻まれ、更に駝鳥もいた。その手法はまったく古人のような方法ではない。今、墳墓には言うまでもないが、通常の絵画でも洋花や洋馬を描こうとしない。私人の印章に草書のような俗字を使う者がいるだろうか。雅人の多くは年月を記すのさえ、甲子を使い、民国紀元を使いがらない。この様な大胆な芸術家はいないのか:いたとしても、民衆が迫害するので、委縮してしまい、絶滅したのか知らぬ。
宋の文芸は今の様に国粋気味つまらない。しかし、遼金元が陸続と進攻してくると、この間の事情は面白い。漢唐も辺境には患わされたが、魄力は雄大だったから、人民は異族の奴隷にはならないとの自信を持っていた。そんなことは、少しも思わなかった。凡そ外来の物を取り入れるときは、それを俘虜の如く、自由に駆使して、全然気にしなかった。だが一旦衰退したら、神経衰弱で過敏になり、外国の物に遭遇するたびにそれが自分を俘虜にするのではないかと感じ、拒否し怖れ、委縮し逃避する。みなが震えてきっとある道理を考え付いて、ごまかし、刻すいはついに軟弱な王と奴隷の宝物になる。
何処からきたにせよ、食物が必要なら、壮健者は何も考えずこれは食いものだと認める。只、衰微し病んでいる者は、胃に悪いのではとか、体に良くないと心配し、多くの禁止事項を設ける。多くの避忌あり:更に一連の割合厳しく、どうも要領を得ぬ理由で、之を食すのも有益で、然るに究極的に食べても構わぬ云々という類だ。ただこの類の人物は日に日に衰弱すると言うのも、終日戦戦兢兢として自分から活気を失うからだ。
 南宋は現在と比べてどうだったか知らないが、外敵には明白に臣と称しながら、只国内では繫文縟礼とああだこうだと下らぬ話が多かった。そして失敗続きの人間がやたらに多くの避忌が多く、裕福で闊達な気風は消えた。後に、何ら大きな変化もなくなった。かつて古物展示の古画で、印文を見たが、幾つかのローマ字であった。が、それは所謂「我が聖祖仁皇帝」の印で、漢族を征服した主でだから彼は敢えてしたのだ:漢族の奴才にはそんな勇気は無かった。それで今、芸術家は西洋文字の印を使えるか?
 清順治帝時代、時憲書(暦の意味)に「西洋新法」による、と言う5文字が印され、これに対して痛哭し流涙して西洋人、アダム・シャールを弾劾したのは、漢人の楊光先だ。それから康熙初めに論争に勝ち、彼を欽天監正にさせたいと申し渡したが、「只推歩の理(暦の理)を知るのみで、推歩の数を知らないから」と辞退した。しかし辞退は認められず、痛哭流涙して「やむなし」として、「中華の良い暦がなくても、中華に西洋人を居させてはならぬ」とした。だが閏月すら間違えてしまった。彼は多分、良い暦は西洋人の専属と思い、中華人は自分では習得できず、うまく学べないと思った。只、彼は遂に死刑を受けたが、殺されず放免されたが帰る途中で亡くなった。アダム・シャールが中国に来たのは、明の嵩禎の初めで、その方法はまだ用いられなかった:後に、阮元(清代の天文学者)がこれを論じて:明末の君臣は大統暦のいい加減さに気づいて、改めようとし、新法の精密さを知ったが、今までそれを施行しなかった。聖朝が定まって、その方法で暦書を作り、天下に頒布した。彼の十余年の弁論と翻訳の労が以て我が朝の採用に備えんとするのであれば、亦奇とすべきなり!…我国聖人が相伝え、人を用いて政治を行い、その是を求め、先入観を持たない。この事によって天の如き度量を仰ぎ見ることができる!」(「畴人伝」四十五)
 今伝わる古鏡は塚から出土したものが多く、元は殉葬品だ。しかし私は一枚の日用品を持っている。薄くて大きく、漢代の物を規範にしたものだが、多分唐代のものだろう。その根拠は:一、つまみの所が摩もうしていて:二、鏡面のへこみを他の銅で補修してある。当時の閨房で唐人の額と眉を照らしたもので、今は私の衣装箱に監禁されていた訳で、今昔の感ひとしおである。
ただ、銅鏡の使用は大体、道光、咸豊時代にはガラスと併用されており:貧しい僻地では今も使われている。私の田舎は冠婚葬祭の儀礼以外すべてガラスに駆逐された。しかし、その余韻は残っていて、道を老人が肩に長椅子のようなものを懸け、上に猪の肝臓色の石と青い石をくくりつけているのを見かけたら、彼の呼び声を聞けば、それが「鏡とぎー、ハサミとぎー!」と分かる。
 宋鏡は良い物を見たことが無い。十中八九は装飾もなく屋号とか「其の衣冠
を正す」などつまらぬ銘があるのみで、まことに「世は日々悪くなる」だ。
しかし、進歩しようとか、退歩せぬようにと思うなら、時々自ら新しいものを
とりいれねばならない。少なくとも異域から材を採らねばならない。それに対して、いろんな顧慮があり、小心でぶつぶつ問題を言って、こうすると祖先に申し開きができないとか、そんな風にすると夷狄の様になり、薄氷の上で、びくびくして震えあがっていてはとても良い物は作れない。
 だから、実際「今は昔に如かず」なのはまさにぐずぐず文句だけ言って、「今は昔に及ばぬ」と言っている諸先生達のせいだ。現在の状況はこんなものだ。再び度量を大きく持ち、大胆に怖れず、新しい文化を尽く吸収せねば、楊光先のように西洋の主人に対して、中華の精神文明を説くような時が来るだろう。
 しかし私はこれまでガラスの鏡を排斥する人を見たことは無い。咸豊年間に汪日禎氏が彼の大著「湖雅」で攻撃していたのを知るのみだ。彼曰く:顔を映すには、ガラスの鏡は銅の精確さに及ばぬ、と。まさか当時のガラス鏡はそんなに悪かったわけでは無かろう。やはり彼の老先生は国粋のメガネで見た故か?私は昔のガラス鏡を見たことは無いから、この点は推測できない。
          1925年2月9日

   訳者雑感:鏡から暦に及ぶ話しだが、中国人の頑なさが如実に描かれている。
今でも暦には必ず旧暦が併記されていて、そちらの方が大切に扱われている。
ITのこれだけ進んだ21世紀でも年号や月日、時間なども十干十二支で表記する、というのが正式と看做しているようだ。さすが魯迅は各雑文の記載日を普通の数字で記しているが、毛筆で縦書きした文章には「辛亥とか甲午などで記され、西暦の漢数字でというのもちぐはぐな感はいなめない。
      2015/08/08記

 

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再び雷峰塔の倒壊について

再び雷峰塔の倒壊について
 崇軒氏の(2月号の「京報副刊」)通信で、彼が船中で聞いた2人の乗客の話しを知った。杭州の雷峰塔の倒壊理由は、土地の人達があのレンガを家に持ち帰って置いて置くと、万事平安如意で、凶に逢っても吉と化す、と。それでこちらも抜き、あちらも抜き、長い間抜いたので倒れてしまったのだ、と。乗客の一人は何度も嘆息して言った:西湖十景は欠けてしまった!
 このニュースは私をまた痛快にさせた。災禍を喜び楽しむのは明らかに紳士的とはいえぬが、元々紳士でもないから今さら取り繕わなくてもいいだろう。
 我々中国の多くの人が――ここで特に声明せねばならぬが:これは4億人全ての同胞を指してはいないことだ!――大抵はある種の「十景病」を患っていて、少なくとも「八景病」で、それが重くなったのは大概清朝時代で、凡その県志を見ると、この県には往々十景か八景があり、「遠山明月」「粛寺清鐘」「古池好水」の類だ。また「十」字型の病原菌が血管に入り込んだようで、全身に広がり、その勢力はとうに「!」(感嘆符)の形で亡国を嘆く病菌の下にはいない。点心(おやつ)には十種の錦、料理には十碗、音楽には十番、閻魔殿には十殿、薬には十全大補あり、ジャンケンには全指手、手福全(十本指が揃う事)
人間の犯罪や不正すら大抵十ケ条の罪状を宣布する。九ケ条を犯した時も手を緩めず十にする様だ。今、西湖十景が欠けてしまった!「凡そ天下国家の為に九経あり」九経はもともと古(いにしえ)よりこれ有りと雖も、九景はみかけないから、正に十景病の患者への格好の訓戒で、自己の愛しおる老病を知らしめ、十分の一が忽然欠けたことを知らしめるのだ。
 しかしそこには悲哀もある。
 実はこういう勢いが必ずもたらす破壊も、やはり虚しいので、痛快がるのも無聊な自己欺瞞に過ぎない。風流人士や仏教の信士、伝統文化の大家は何とかうまい文句をひねり出し、苦心して再び十景を取り戻すまであきらめない。
 破壊なくして新しいものはできないというのは大概その通りだ:が、破壊してもすぐ新しいものが建設できるとは限らぬ。ルソー、シュチルナー、ニーチェ、トルストイ、イプセンなどはボランデスの言を借りれば「軌道破壊者」だ。しかし彼等は破壊者というだけでなく、古いものを一掃し、大声をあげて邁進し、足手まといの邪魔な軌道は、レールごと全部、破片も含めてすべて無くして、決してスクラップやレンガを家に持ち帰って、廃品屋に売ろうなどとしない。中国にはこう言う人はとても少ないし、たとえいても、大衆から罵声をあび、罵しりの唾液でおぼれ死んでしまう。孔丘先生(孔子)は、確かに偉大で、巫や鬼神勢力があれほど旺盛な時代にあったが、鬼神の事を俗に従って話すようなことはしなかった:だが、余りに聡明で「祭はしますが如くし、神のいますが如く祭れ」とし、ただ彼が編集した「春秋」の例の手法に照らし、二つの「如」の字の間に「少しかっこうのよい刻薄」な言を寓したが、その時それを聞いた人はわけが分からなくなり、彼は本心では反対しているのを見いだせなくしている。彼は子路に対しては、それに誓うのを肯んじているが、鬼神に宣戦するのを肯んじていない。というのも、一旦宣戦したら平和を保てなくなり、人を罵る罪を容易に犯してしまうから――鬼を罵るに過ぎぬという――罪だが、「衡論」(1月号「晨報副刊」参照)の作家TY氏のようないい人は、鬼神に替ってこうひやかして曰く:名のためか?人を罵るのでは名を得られぬ。利のためか?人を罵るのも利を得られぬ。女性を口説こうとする為か?蚩尤の顔を文にすることもできぬ。何の楽しみのためにこんな事をするのか?
 孔丘先生は世故に深く通じていた老先生で、だいたい顔を文にすること以外は、深い心も持っていたが、目を見張るような大胆な破壊者にはならず、従って只談じないだけでなく、決して罵ったりしない。それで厳然と中国の聖人となり、その道は広大で包まぬものは一つとてない。さもなければ、現在の聖廟に祀られているのは孔という姓ではないだろう。
 舞台上の事に過ぎぬが、悲劇は人生の価値ある物を壊してみせる。諷刺も又喜劇の変化した支流である。ただし、悲壮で滑稽なのはいずれも十景病の仇敵で、破壊性を持っている為だ。破壊する対象は違うが、中国に十景病のようなものが今もあるからで、そうでなければ、ルソーのような狂人は決して生まれず、また、悲劇作家や喜劇作家、風刺作家も生まれない。すべては只、喜劇的な人物か非喜劇的な人物で、互いに模造した十景の中で生存し、一方では夫々が十景病を持っているのだ。
 然し全てが停滞した生活は世界でもめったにない。それで破壊者がやって来るのだ。が、それは自分達の先覚的破壊者ではなく、狂暴な強盗か外来の蛮夷だ。玁狁(ゲンイン:周代の異民族)は早くから中原に来たし、五胡も来た。蒙古も来た:同胞の張献忠は人間をまるで草を刈るように殺したが、満州兵の一矢により、樹林に逃げ込んで死んだ。ある人は中国を論じて、もし新鮮な血の野蛮人の侵入が無かったら、中国はこれほどまで腐敗することはなかった、という。
これは勿論極めて辛辣な冗談ではあるが、我々は歴史をひもとくと、冷や汗が背中をゾクッとさせられる。外寇が侵入してくると、暫く大騒ぎとなり、ついには彼に主になってもらうか、或いは他の主を探し、自分の瓦礫の古い習慣を補修してもらう。県志を見てみると、毎回の兵火の後に添えられているのは、多くの烈婦烈女の名前だ。近来の兵禍を見ると、節烈な者をたくさん表彰せねばならない。多くの男達は一体どこへ行ってしまったのか?
 凡そこの種の寇盗的な破壊の結果は、瓦礫の山を残すのみで建設と無関係だ。
 だが、平安時はそれこそ老例を補修し、寇盗の無い時は、国中に暫時破壊はないだろうか?そうとも限らぬ。その時は奴才式の破壊行為が次々に現れる。
 雷峰塔のレンガの抜き取りは極身近な小例に過ぎぬ。龍門の石仏のたいていの肢体は不全だし、図書館の本も挿絵の切り取りは防止すべきで、凡そ公共の物や持ち主の無いもの、移動困難なもので、完全な状態を保っているのは少ない。だがその毀損の原因は、それを革新しようとする人の志で除去しようとするのではなく、また寇盗の意図が、掠奪や単なる破壊ではないように、僅かな目の前の極小さな自己の利益の為だけで、完整した立派な物をひそかに傷つけて平気なのだ。人数が多いから傷も当然極めて大きくなり、倒壊後、加害者は一体誰か分かり難い。正に雷峰塔の倒壊後のように、我々は単に田舎の人の迷信だと知っただけだ。共有の塔が失われ、田舎の人の持ち去ったのは一個のレンガに過ぎず、このレンガは将来また他の人の自己利益の為に所蔵され、最終的には尽く無くなってしまう。若し、庶民の暮らしが安定している時なら、十景病の発作で、新しい雷峰塔が再建されよう。だが将来の命運も推察できるではないか。もし田舎の人がやはりこのままであり、老例はやはり老例となる。
 この種の奴才式破壊の結果は瓦礫の山を残すだけで、建設とは無関係だ。
 これは単に田舎の人の雷峰塔に対する問題にとどまらない。日々、中華民族の柱石を偸窃する奴才達は現在どれほどいるのか知らない!
 瓦礫の山の上で悲しむに足りぬ。この上で老例を補修することを悲しむべし。
我々は革新しようと意図をもつ破壊者に対しては、彼の心に理想の光があるのを知っている。我々は彼等と寇盗奴才とをはっきり分けねばならぬし、自分が後の二者に堕ちぬよう、気をつけねばならぬ。この区別は全然面倒でも、難しくもない。ただよく人を観察し、自分で反省し、凡そ言動と思想の中に、そのことで、目先の小さな便宜を図ろうとする前兆があるのは奴才だ。前面にどれほど美しい旗を掲げていようとも。
       1925年2月6日

訳者雑感:
 数日前、明代の万里の長城の多くが崩壊し、見る影もなくなったとの報道が写真付きで出ていた。万里の長城のレンガも本作品と同様な目にあったのだろう。レンガ造りのものは、いろいろな迷信から抜き取られることがよく起こる。
孟姜女の物語でも、彼女の夫が万里の長城の建設にかりだされて、その中に生き埋めにされたという伝説で、彼女が夫を探しに尋ね歩くと、壁が崩れ、夫の死体が現れたという悲しい故事もあった。 
私が「天津のコンプラドール」を書いていた時、テニスで知り合った梁さんの家を尋ねた際、彼が手で触りながら自慢げに、このレンガはね、普通の建設用のものと違うんだ。天津の城壁を取り壊すというので、それを払い下げてもらったもので、普通のレンガの3-4倍の大きさなのさ、ということだった。確かに普通の家で使うレンガの数倍はありそうで、さわると辛亥革命の頃に、袁世凱や蔡鍔(雲南の英雄)などが北京から天津にやってきたとき、馬車か自動車で通り過ぎた城壁なのだなと歴史を感じたことがある。
魯迅はこの作品で、辛辣に目先の私利というか便宜だけを追う十景病にかかっている殆どの中国人と、古い物を破壊して、革新的なものにしようとするとても小数の人をはっきり区別して、前者にならぬように呼びかけている。しかし、2015年の今日でも、おびただしい人数の中国人が、万里の長城からレンガを抜き去り、多くの名所旧跡の「石仏」「移動困難なもの」に落書きしたり、石片を削り去る行為が無くならない。
日本も次郎長の墓石を削って御守りにしたり、立派な御堂に落書きをする不心得者もいるが、だんだん少なくはなってきている。
  2015/07/28記

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写真―3 無題の類

写真―3 無題の類
 写真館は一人か数人の勢力家の写真を撰び、引き伸ばして門口に飾るのは特に北京特有のようだ。S市にいた頃目にしたのは、曾大人(曾国藩)のもので、大きさも6-8寸に過ぎず、長い間それが掛っていて、北京のように時折替えるとか、年々違うと言う事は無かった。だが革命後撤去したかどうか、正確なことは知らない。
 この10年の北京の事情は少し知っているが、写真は勢力家でなければならず、彼が「下野」したら写真は消えてしまうが、電光に比べればずっと長い。白昼明かりをつけて、北京市内のそうした勢力家のように引き伸ばされたり、縮小されたり、飾られたり、取り換えられたりしないのを探すとなると、浅薄な私が知る限り、実に梅蘭芳君だけだ。彼の麻姑(仙女)の「天女散花」「黛玉葬花」の写真は、勢力家たちのように引き伸ばされ、縮小されて、飾られたものよりずっと美しく、これだけでも中国人は実にすばらしい審美眼があると証明できるが――他方、引き伸ばされ、胸を張り、腹のでた勢力家の写真も止むを得ぬかもしれない。
 私は昔「紅楼夢」を読んだきりで、「黛玉葬花」の写真を見るまで、黛玉の目がギョロ目で、唇がこれほど厚いとは夢にも思わなかった。彼女は痩せて結核を患ったような顔と思っていたが、今はじめて福相で、天女の如しだと知った。そして又そういう姿に続いて模倣者たちの天女もどきの写真を見ると、子供が新調の服を着たようで、緊張から哀れで苦しそうな姿で、梅蘭芳君の永遠さを悟り、その目と唇は蓋し止むを得ぬ事で、これも中国人の審美眼を証明するに足る。
 インドの詩聖タゴール氏がご来訪の際、大瓶の香水の如くに、数名の先生方に文気と玄気(幽玄な気持ち)を薫じられたが、誕生祝賀会に陪席できたのは梅蘭芳君だけだった:両国の芸術家の握手だった。この老詩人が名前を「竺震旦」(インドと中国の意味)に変え、この理想郷に近い震旦(中国)を去って後は、震旦の詩賢の頭上にはインド帽も見られなくなった。新聞も彼のことを載せ無くなり、理想郷に近いこの震旦者も飾らなくなり、以前と同様あの巍然とした写真館のショーウインドーには「天女散花図」か「黛玉葬花図」が飾ってあるのみだ。
 唯この一人の「芸術家」の芸術が中国では永遠なのだ。
私が見て来た外国の男優女優の写真は多くないが、男が女に扮するのは見たことが無い。他の名士の写真は数十枚見た。トルストイ、イプセン、ロダンはみな年寄りだ。ニーチェは凶相だし、ショーペンハウエルは苦虫を噛んだようで、ワイルドは審美的な衣装をつけすっかり呆けてみえ、ロマン・ロランは些か妖気をおび、ゴルキーもまるで流れ者の様だ。みな悲哀と苦闘の痕跡がみえるが、天女の「好(ハオー、京劇などで観客のはやし声)」にはとても及ばないのは明らかだ。呉昌碩翁の印刻も彫刻家芸術には違いないし、揮毫料も高いから、中国では芸術家だが、彼の写真は見ていない。林琴南翁は大変な文名があるが、世間の人はあまり彼と「近づき」になりたくないようだ。私は一度薬屋の広告で彼の写真を見たが、それは彼が「お妾さん」の代わりに、丸薬の効能に感謝した関係で、写したもので、彼の文章の為ではない。更に言えば、「車引きや
物売り人」の文を書く諸君について言えば、南亭の亭長や我仏山人は昔の人だから、省略する。近来について言えば、奮闘して多くの作品を書いている創造社の諸君子も、小さなサイズに3人一緒に撮った者のみで、しかも銅板だ。
 我々中国の最も偉大で最も永遠の芸術は、男が女に扮することだ。
 異性はたいてい相愛するものだ。宦官はただ人を安心させることはできるが、誰も彼を愛すことはないのは、彼が無性だからだ。――私がもしこの「無」と言う字を使っても言語的に間違ってなければだが。しかし最も安心できないが。最も貴く思われるのは、男が女に扮することだとわかる。それは両方の性からみて、どちらからも異性に近いからで、男は「女に扮した」姿を見、女は「男が扮している」と見るから。だからこれは永遠に写真館のショーウインドーに掛けられ、国民の心の中に掛っているのである。外国にはこういう完全な芸術家はいない。だからあのようにハンマーとノミを握り、絵具を調合しインクを勝手に使う手合いが跋扈するままにせざるを得ないのだ。
 我々中国の最も偉大で最も永遠で、且つまた最も普遍的な芸術は男が女に扮するものである。
      1924年11月11日

訳者雑感:これまでの魯迅の梅蘭芳についてのコメントなどから推定すると、これは彼が演じる「女形」に熱狂する中国全土の京劇ファンに対する皮肉だと思われる。これは中国の男も女も梅蘭芳に異性を見いだして惚れていることを「無性」の宦官と比べて、痛烈に揶揄しているようだ。彼の写真が引き伸ばされてギョロ目で厚い唇など一向に気にしないという「審美眼」を!
    2015/07/14記

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写真―2、形式について

写真―2、形式について
 要するに、写真は妖術である。咸豊年間にある省で写真がうまいせいで、田舎の人に家財を壊されたことがあった。私が幼かった頃――つまり30年前には、S市にもう写信館があり、皆はとても疑いの目で見ていた。「義和団事変」で大騒ぎしていた頃で、即ち25年前、ある省で缶詰の牛肉は毛唐が殺した中国人の子供の肉だと思われていた。これは例外で、万事万物に例外は免れぬ。
 要は、S市には早くから写信館があり、私は前を通るたびに、その場を去るに忍びないほど興味津津の所であった。といっても年に4-5回しか通らなかったが。大きいのや小さいの、長いの短いの、それぞれ色んなガラス瓶や、つるつるしながら棘のあるサボテンなど私にはみなとても珍しいもので:壁には写信の額があり:曾大人、李大人、左中堂、鮑軍門(曾国藩以下当時の政治家)などで:私の一族の長老が夫々の名を教えてくれ、この人達の多くは現在の大官で、「長髪賊」を平らげた功臣で、お前も彼等から学ぶべきだと諭した。その時は彼等に学ぼうと思ったが、その為には「長髪賊」がすぐまた出てきてくれないかなと思ったりした。
 S市の人は余り写真が好きではなかった。魂を奪われるから、運気の良い時は撮らぬ方が良い。魂:即ち別名「威光」で:私が当時知っていたのはそれだけだったが、最近、世間には元気を奪われるのを怖れて入浴しない名士がいるのを知ったが、元気も多分威光だろう。それから私の知っている事も増え:中国人の魂、別名威光は即ち、元気で、写し取られるし、洗い去られる、ということなどだ。
 多くは無いが、その頃、確かに写真が大好きな人もいた。私はどんな人か知らないが、或いは運気の悪い徒か、新党の人だろうか。只、半身像は大抵避けられたのは、腰で斬られるのを怖れた為だ。もちろん、清朝はすでに腰斬を廃していたが、戯曲では包爺の包勉を一刀両断にするのも見られたが、何と恐ろしい事よ。たとえ国粋としても私にもそんなことはしないで欲しい。だからそんな写真も撮らぬが良い。だから彼等の多くは全身で、傍らには大きな机があり、帽子掛け、茶碗、水煙草用キセル、盆栽があり、机の下には痰壺があり、彼の気管支には痰が一杯つまっていて、次々に吐かねばならぬ。立っているのも坐っているのもあり、手に書物を持ち、襟から大きな時計をぶら下げ、拡大鏡で見れば、当時の時間がわかる。当時はマグネシウムを使っていないから、夜と疑う必要は無い。
 然し名士の風流はいつの世も無くならず、雅人はとうにこの千篇一律の間の抜けたようなスタイルに不満で、裸になって晋代の人物のマネをしたり、斜に絹帯をX状に締めて、X人になったりした。割によく見かけたのは、自分の写真を2枚撮り、服装と格好は別々で、それを併せて1枚にし、2人の自分が片や主賓でもう一人は下僕の如くで、「2人の吾の図」と称した。だが一人の自分が傲然と坐り、もう一人は卑劣で哀れな姿で、坐っているもう一人の自分に跪いているのは、別の名で「己に請う図」となる。この類の「図」は焼き付けてから詩を題すか、或いは「満庭芳の調べに寄せて」「魚児に模して」の類で、それを書斎の壁に掛ける。貴人富戸は元来間抜けの類に属し、この様な風雅なことは少ない。せいぜい何か特別な催しの際に自分が中央に坐り、膝下に彼の百人の子を坐らせ、千人の孫、万人の曾孫(下略)と撮って、「全家福」とする位だ。
 Th.Lippsは彼の「倫理学の根本問題」でこんな話をしている。凡そ人の主でも、容易に奴隷に変わることができるのは、一方では主になることを認めていながら、別の面で奴隷になるのも認めているからだと。威力が低下したら、新しい主人の前で首を垂れ、ひたすらひれ伏すのだ。その本は今手元にないので、大意を覚えているだけだが、中国には訳本もあり、全訳ではないが、この話しはあるだろう。事実で以てこの理論を証明する最も顕著な例は孫皓(三国時代の呉の最後の皇帝)で、呉を統治時は、わがままで残虐な暴君だったが、晋に降参するや、とんでもない無恥卑劣の奴隷になった。中国で何時も言われるが、下に驕るものは、上に伺う時は、かならずおもねる、というのもこの種のことを看破している。しかし表現を最も突き詰めたのは、「己に求む図」だ。将来中国が「図解倫理学の根本問題」を出す時は、これは極めて格好の挿絵となり、世界で最も偉大な風刺画家も、夢にも思いつかず、描けない図だ。
 だが我々が現在目にするのは、卑劣で哀れに跪く写真はもうない。大概は何とか記念写真か、上半身の引きのばしたもので、凛凛としている。私はこういう写真を見た時、何時も言ってる事だが、「己に求める図」の片方にみえるというのは、私の杞憂に過ぎないのであればと思っている。
    1924年10月11日

訳者雑感:写真をこのように合成したりFakeなものを造っておかしくするというのは、中国の絵画の伝統から来ているのだろうか。山水画でも非常に見事な渓谷や絶壁の秘境の絵に、仙人か隠者のような人の姿が描かれている。日本は山水画を中国から学んだが、こうした趣向はあまり取り入れなかったようだ。
 周恩来が亡くなった時、北京飯店の隣の王府井通りの人民日報の「写真展示のショーケース」に鄧小平の姿が他の指導者と並んで有ったのだが、翌日友人を案内して見に行ったら、きれいに消されていた。再度、失脚させられたのだ。
     2015/07/07記
 


 

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写真について

写真について
1.材料あれこれ
 私は幼い頃、S市にいた――30年ほど前だが、進歩の速い天才なら1世紀に相当するだろうが;S市は本名を付すが、その理由も言わないでおこう。
要するにS市ではいつも老若男女が、毛唐が目を抜くということを話していたからだ。ある女が、元々毛唐の家で女中をしていたが、その後そこを辞めて出てきたが、その理由は甕(かめ)の中に塩漬けの目がフナのように一層、一層と漬けられ、甕の縁まで一杯になるのを見たからで、彼女は心配になって逃げてきたというのだ。
 S市にはある習慣があり、余裕のある家は冬に甕に白菜の塩漬けを造り、1年の需要に備える。それが四川のザー菜と同じなのかどうかは知らない。毛唐が目玉を漬けるのはもちろん他の目的があるのだろうが、その方法はS市の白菜漬けの影響があるかもしれないが、中国が外国への同化力に富むと言われていることの証左かもしれぬ。しかしフナのようにというのはどういう事なのだろう?その答えは:確かにS市の人の目なのだ。S市の廟にはどこも菩薩がいて、目の娘娘(女神)と言われている。目に病があれば御参りして祷り:なおれば布か絹で一対の目をつくり、神棚の上か左右に懸けて、御加護へのお礼とする。だから懸かっている目の量をみれば、菩薩のご利益の大きさがわかる。懸けられた目の両側はとがっていてフナのようになっていて、毛唐の生理学の絵図に描かれた丸球のようなものは決してない。黄帝岐伯(医学の典籍)は遠い昔だし:王莾は翟義の党を誅して、肢体を分解し、医者に観察させたが、絵図にしたかどうか知らない。たとえ描いたとしても今ではすでに散逸してしまい、「古(いにしえ)よりすでにこれ有り」というのみ。宋の「析骨分経」は伝えによれば、実際に見たものに基づいており、「説郛」(叢書)の中にあり、私も見たことがあるが、多くはでたらめで、にせものだ。でなければ、実際に見たものすらデタラメであるなら、S市の人が目を理想化してフナの形にするのも怪しむに足りない。
 だが、毛唐は目を漬けものの代わりに食べるのか?そうでなければ他の目的に使うのだというのだ。
一、田舎の人の話しでは、電線の代わりに使う由。どうやって使うのか?それは彼も話さなかった:ただ毎年鉄線を添えていって、将来毛唐の軍隊が来た時、中国人はどこへも逃げられなくするという。
二、写真に使う。この道理は分かりやすく、余計な説明は要らない。我々は他の人と向い合って立つと、相手の瞳に自分の小さな写真(像)が映るから。
 また毛唐は肝を抉るそうで、これも別の目的がある。念仏婆さんが、その目的を説くのを横で聞いたことがある:彼等は抉ったあと、それを煮て油をとり、灯用に使う。それで地面を照らす。人間は欲が深いから、財宝の埋まっている所を照らすと、火先はそこで曲がるという。それですぐそこを掘って宝物を取り出す。だから毛唐はあんなに金持なのだ。
 道学先生の所謂「万物みな我に備えり」については、全国どこでも、少なくともS市の「目に一丁字も無い」者も知っている。だから人間は「万物の霊長」なのだ。それ故、経水も精液も、それを飲めば寿命が延びるし、毛髪と爪もそれで補血ができ、大小便も多くの病を治せるし、腕の肉は親を養う事が出来る。しかしこういうことは、本論の範囲外だからこれで止める。S市の人はとても体面を重んじるし、多くの事は口外を許さない:さもないと陰謀で誅殺される。
               1924年11月11日

訳者雑感: 魯迅は医学を学んだが、子供のころから人体解剖の図とかを丹念に眺めていたのだろう。その後仙台で藤野先生から人体の筋肉や血管の図を描いたものを「添削」されたときのコメントが興味深い。
以下「藤野先生」から引用する。

 一週間たち、多分土曜だったか、助手に私を呼びに来させた。研究室に入ると、整体人骨と沢山の頭蓋骨の中に坐っている彼を見た。―――彼はその時、頭蓋骨を研究していて、後に本校の雑誌に論文を発表した。
「講義は聞きとれますか?」と訊ねられ、
「はい、何とか少しは」と答えた。
「見せてごらん」
 ノートを差し出すと、彼は受け取って二三日後に返してくれ、今後は毎週見せるように、と。持ち帰って開いてみて、びっくりすると同時に、ある種の不安と感激を覚えた。ノートは初めから終わりまで、赤ペンで添削されていた。抜けた点も補充されていたばかりでなく、文法上の誤りも一つ一つ訂正されていた。こうしたことが、彼の授業が終わるまで続いた。骨学、血管学、神経学。
 残念ながら、当時の私は余り熱心な学生ではなく、時としていい加減であった。ある時、先生が私を研究室に呼んで、ノートの図を開いた。それは腕の血管だったが、それを指して穏やかな口調で指摘した。
「ほら、君はこの血管を少しずらしているでしょ。こうすると見栄えが良いのは確かだけど、解剖図は美術じゃないから、実物はそうなっているのだから、それを勝手に換えてはいけない。直しておいたから、今後は黒板の通りに描くようにね」と。
 しかし私は納得はせず、口ではハイと応えたが、心の中では「図は私の方がいい線行っているし、実際の状況はしっかりと記憶している」と考えていた。

この文章の真意は一概には断じられぬが、魯迅もやはり中国人の伝統を受け継いでいて、実際の血管の状況はしっかり記憶しているとかんがえていながら、解剖図ではすこし見栄えよく描く傾向にあるのは否定できないだろう。スタイリストというべきか、じっさいより格好を重んじるようだ。
      2015/07/03記

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鬚について

鬚について
 今年の夏、長安に行き、1カ月ほどいい加減に暮らして帰って来た。それを知った友人が尋ねてきて:あちらはどうでしたか?と聞くので、ちょっとためらいながら、長安のことを思い返し、ポプラが多かったこと、大きなザクロを見たこと、道中、黄河の水をたくさん飲んだことを思い出した。が、こんな事は話してもしょうが無いので、:なにもどうってことは無かった、と答えたら、友はつまらなさそうに去ったし、私もやはりつまらなく暮らしているが、自分としては、「好奇心から尋ねてくれた」友人たちに済まないと思った。
 今日、お茶を飲んで、本を見ていたら水滴が本に落ちたので、唇の上の鬚が伸びているのを知った。「康熙字典」には唇の上、下、頬、顎の鬚は大概特別の名がついているが、私はそんなのんびりした気分もない。私は鬚が伸びたので、いつも通りスープや飲み物にぬれぬようにせねばと、鏡とハサミで鬚を整えた。その目安は唇の上とその上縁をきれいに整えて、隷書の一の字のようにすることだ。
 私は鬚を切りながら忽然長安の事を思い出し、青年時代のことを思い出し長い間感慨にふけった。長安のことははっきりは覚えていないが、多分孔子廟に行った時、部屋の中に多くの印画が掛っていて、李二曲(清代の理学家)の像、歴代帝王の像もあり、その中の宋太祖か何とか宗で名は覚えていないが、要するに礼服を着て鬚をピンとはね挙げている。それで名士が毅然、決然と、「これらはみな日本人の偽造だ。これは日本式の鬚だ」と言った。
 確かに彼等の鬚はハネ上がっているが、彼等は宋太祖や何とか宗を偽造したと派限らぬが、中国皇帝の画像を偽造しようとしたら、鏡に向かって自分の鬚を手本にするから、その手法だと考える突飛さはまさに「意表の外に」出たと言える。清乾隆帝の時、黄易が漢の武梁祠の石刻画像を掘り出したが、男の鬚は多くがハネ上がっていた:現在見ることのできる北魏から唐にかけての仏像の信士の像で、凡そ鬚のあるものの多くはハネ上がっていて、元明の像に至ると、鬚はたいてい引力の影響で下に垂れている。日本人はなぜそんな面倒なことを厭わず、せっせとこれほど沢山の漢から唐の偽の骨董を造って、中国の斎・魯・燕・晋・秦・隴・巴・蜀の深山幽谷、廃墟荒野に埋めたのか?
 鬚を垂らし始めたのは蒙古式で蒙古人が持ち込んだのだと思うが、我が聡明な名士はこれを国粋としている。日本留学生は、日本を恨み、大元にあこがれ、「あの時もし天恵がなければ、この島国はとうに我々に滅亡されていたのに!」と言った。ということだと、垂らした鬚も国粋と認めるしかない。だが何で又黄帝の子孫だというのか?どうして台湾人が福建省で中国人を殴打したのを奴隷根性というのか?
 私はその時抗弁しようと思ったが、すぐ辞めようと考えた。ドイツ留学の愛国者X君は――名前を忘れたのでこうするが――私が中国の悪口を言うのは、日本女性を嫁にしたから、彼等の為に自国の悪い所を言いふらしていると言っているではないか?私は以前、いくつか中国の欠点を挙げたが、「家内」まで国籍を変えさせられ、とばっちりを受けた。況や、今は日本との関係が問題となっているのか?宋太祖や何とか宗の鬚が冤罪としても、洪水や地震と一体どんな関係があるのか?それで私はうなずいて、「ああ、おっしゃるとおりですね」と答えた。昔に比べたら私も随分世故に長けてきたものだ。結構結構。
 左端を整えてから考えた。陝西の人達は熱心に世話をしてくれたと思った。食事提供から、鉄道や船、ラバの車、自動車などの費用を払い、長安に講演に招いてくれたのだが、きっとまさか私が身に危険の及ぶようなこともない小さなことに対しても、自分の意見を率直に言わず、「ああ、そうですね」しか答えなかったから。彼等は一杯喰わされたも同然だ。
 再び、鏡に映る自分の顔に向い、右唇の角を見て鬚の右先端を切り、地上に放って、青年時代のことを思い出した。――
 かなり昔のことで、16-7年前だろう。
 私は日本から故郷に帰る時、唇の上に宋太祖か何とか宗のように鬚をピンとハネ挙げていた。小さな船に坐り、水夫と世間話をしていた。
 「先生、貴方の中国語はうまいね」と彼は言った。
 「私は中国人だよ。君と同郷だよ。なんで…」
 「先生は冗談ももうまいね」 
 私はその時、何とも情けないと感じ、それはX君の手紙より十倍以上だった。その時は家譜を所持しておらず、自分が中国人だと証明するのは不可能だった。所持していても、そこには名前があるだけで、画像は無いから、その名が私だとは証明不能だ。たとえ画像があったとしても、日本人は漢から唐までの石刻の偽造ができるから、木版の家譜など偽造などできぬ事があろうか?
 凡そ、本当のことを冗談にし、冗談を本当の事にし、冗談も冗談にするなら、それに対する方法は一つしかない。話しをせぬ事だ。
 それでそれから話しをしなくなった。
 だが、もし今なら多分「ああ、そうですね。今日はいい天気ですね。あのあたりの村は何と言いますか?」と言うだろう。私は随分世故に長けて来たのだ。
結構なことだ。
 今思うに、水夫が私の国籍を違えたのは、X君の高見とはきっと違うだろう。その原因は鬚で、私はその時から鬚でいろいろ苦労した。
 国は亡んでも、国粋者は減らない。国粋者が多いから、国は亡んだと看做されない。国粋者は国粋を保存するもので:国粋と私の鬚がそれに該当するのだ。
それがどんな「ロジック」からくるのか分からぬが、当時の実情からすると確かにそうなのである。
 「貴方はどうして日本人のまねをするのか。背も低く、鬚をそんな風にして…」国粋者兼愛国者が、えらそうな論議を展開した後、こういう結論に達した。
 残念ながら、その頃はまだ世故に長けておらず、憤慨し抗弁した。第一、私の背はもともとこうなんで、外国の器械で圧縮して本物の(日本人に)見せかけようなど考えたこともない。第二、私の鬚は確かに多くの日本人に似ているが、彼等の鬚のスタイルの変遷を研究したことは無いが、以前何枚もの古人の画像を見たが、上にハネ上がっていず、外か下に向かっていて、我々の国粋のものと変わらない。維新後、ハネ上げ始めたのはドイツ式を学んだのだ。ウイルヘルム皇帝の鬚は、目じりに向かってハネ上がり、鼻梁とまさに平行してるじゃないか?後にタバコで一辺を焦がしたので、両辺を切りそろえるしかなかったが。日本の明治維新の時はまだ彼は失火していなかったが、…。
 これに対する弁明は2分くらいかかったが、国粋化の怒りを解くことはできず、ドイツもやはり外国で、それに私の背も低かったのでやむを得なかった。それに国粋化は非常に沢山いて、意見も統一していたので、私も何回も弁明したが、効果は無かった。1回、2回、10回、10数回と、自分でも馬鹿らしく、面倒になり、もう終わりにした。また中国では鬚用のチックの入手が難しくなり、私もそれ以後は自然のままにした。
 そうしたら鬚の両端は明らかに引力のために地面と90度の直角となった。国粋家はもう何も言わなくなり、中国は救われたのだ。
 そしたら改革家からの反感を招いたが、無理もない。それで何回か説明したが、自分でも無聊で面倒になった。
 4-5年前か7-8年前、会館に一人でいるとき、鬚の不幸な境遇を悲しみ、どうしてこうなったかを考え、忽然、悟った。その禍根は両端の先にある。それで鏡を取り出し、ハサミで真っすぐに切りそろえた。上にも下にも曲がらず、隷書の一の字の形となった。
 「おおー、君の鬚はこうなったか」当初こう言う人もいた。
 「はい、私の鬚はこうです」 
彼は何も言わず、両端の先が無いから何も言う訳に行かず、私の鬚が「こうなった」後、中国の存亡の責任を負わずにすむようになった。要するに、これで泰平無事でこられたが、面倒なのはいつも切りそろえねばならぬ事だ。
       1924年10月30日

訳者雑感:
 魯迅は弁髪の話しをよく題材にして、辛亥革命の頃の弁髪を切るかどうかとか、長髪族(太平天国時代)の話しをよくしてきたが、鬚の話しはこれだけかもしれない。
 仙台の東北大学の史料館の魯迅の記念室に、2番目の下宿のあるじだった宮川氏が、学生服を着た6人の同宿生の学生達の写真に、8年後に立派な鬚を加えたものが展示されていた。主人は下宿生が8年後にはみな立派に社会で活躍しているから、きっとこういう鬚を蓄えているだろうとの発想であろう。この写真の鬚とその後の魯迅の定着した鬚と同じような隷書の一なのが面白い。
 この当時はみな立派な鬚を蓄えるのが男のスタイルだったのであろう。写真の裏面には各人の状況が記されているが、周君(魯迅)は「不明」とある。
(魯迅と東北大学、歴史のなかの留学生)より。
     2015/06/26記
    

 

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雷峰塔の倒壊について

雷峰塔の倒壊について
 杭州西湖畔の雷峰塔が倒壊した由。聞いただけで実際見てはいない。だが倒れる前の雷峰塔は見たことがある。かなり古びた姿を湖面の光と山の色に映し、山に落ちる太陽が辺りを照らし「雷峰夕照」という西湖十景の一つ、「雷峰夕照」は写真で見たことがあるが、さほどでもないと思った。
 全ての西湖名勝の中で、私が最初に知ったのはこの雷峰塔である。祖母が昔よく話してくれた。白蛇の女神がこの塔の下に埋められているの。許仙という人が2匹の蛇を助けたが、一匹は青蛇、もう一匹は白蛇で、白蛇は後に女となり、恩に報いて許仙の嫁となった。青蛇は小間使いとして仕えた。法海禅師という和尚は得道の禅師で、許仙の顔に妖気を見つけ――妖怪を女房にする男は顔に妖気が現れるが、非凡な人間しか見つけられぬのだが――彼を金山寺の法坐の後に蔵してしまった。白蛇の女は夫をさがしに行き、それで「金山は水浸しになった」と。祖母は話しだすととても面白く、「義妖伝」という「弾き語り」からの引用だろうが、私はその講釈本を見ていないから「許仙」「法海」がこのように書かれているかどうか知らない。要するに、白蛇の女は法海の計略で、小鉢の中に閉じ込められてしまった。小鉢は土中に埋められ、その上に鎮めの塔が建てられ、これが雷峰塔だ。この後で色んなことが起こり「白状元が塔を祀る」の類だが、今では皆忘れてしまった。
 その時私の唯一の希望はこの雷峰塔が倒れることだった。大人になって杭州に行きオンボロの塔を見て不愉快になった。その後本で知ったのだが、杭州の人はこの塔を保叔塔と呼んでおり、実は「保俶塔」と書くべきで、銭王の子が建てたものだ。ではその下には白蛇の女は無論いない。だが私の不愉快は治らず、やはり倒れるのを望んだ。
 今、塔はついに倒れたのだが、世間の人が喜ぶのはなぜだろうか?
 これは事実で証明できる。呉越の山間や海浜に出かけて民意を尋ねるが良い。農夫や年寄り、蚕婦や浮浪者も、脳の病の無い人以外、白蛇の女神を可哀そうにと思わない人がいるだろうか? 法海が出しゃばったことをして、と憎まないものがいるだろうか?
 和尚はひたすら経を読んでいればよいのだ。白蛇は自ら許仙を好きになり、許仙も自ら妖怪を娶ったが、それが他の人に何の関係があろうか?彼が経本を放って、横やりをいれたのは嫉妬に違いない――きっとそうだ。
 聞くところでは、後に玉皇大帝も法海が余計なことをし、人の命を苦しめたことを罰しようとしたそうだ。彼は逃げ回って、とうとう蟹の殻に逃げ込んで身を隠し二度と出てこられなくなり、今もそのままだという。玉皇大帝のしたことについては、口には出さないが、不満が沢山あるが、この件だけは大変満足している。「金山が水浸し」の件のため、確かに法海の責任を問うべきだ:彼は確かに良いことをした。だが私はこの話の出典を聞かなかったから、或いは「義妖伝」ではなく、民間の伝説かもしれない。
 秋が深まり、稲が熟すとき、呉越では蟹が多くとれ、赤く茹でた後、どれをとっても、甲羅を開くと中に黄身と膏状のものがあり:雌ならザクロのような鮮紅の卵がある。まずこれを食べると、円錐形の薄い膜があり、これを小刀でそっと注意して底のところから切り取り、ひっくり返して内を外にして壊さないようにすると、羅貫のような姿が現れる。頭と顔、体があって坐っている。我々の地方の子供達は「蟹和尚」と呼んでいたが、それが中に隠れた法海だ。
 当初、白蛇の女は塔の下に埋められていたが、法海禅師は蟹の殻に身を潜めた。今はただ、この老禅師が静坐しており、蟹が死滅する時がくるまで、そこから出てこられない。彼が塔を建てた時、いつかは倒れるだろうと思わなかったのだろうか?
 いい気味だ。ざまあみろ。
       1924年10月28日

訳者雑感:
 1978年秋、宝山製鉄所の建設プロジェクトに参加したころ、連日の交渉の労をねぎらってくれたのか、中国側が我々を「白蛇伝」の観劇に招待してくれた。
その印象を思い出しながら、これを翻訳していると、白装束の女性と青い服を着た小間使いとその仲間たちが、舞台狭しと立ち回り、法海たちと闘っている場面を思い出した。
 その後西湖にもでかけ、雷峰塔の物語も聞いたり、先年大連に駐在時、鎮江から揚州に出向いたとき、金山寺にも参った。距離にするとかなりあるが、例の大運河の南の起点と揚子江をよぎる重要な要である鎮江とは、この物語を作った当時の人からみれば、それほど遠いとは感じなかったかもしれない。
 金山寺の和尚は許仙を寺の法坐の後に蔵し、白蛇の女を小鉢に閉じ込めて、遠い杭州の西湖畔の山上に埋めて、そこに雷峰塔を建てたとか、中国の弾き語りの作者は、聞き手の反応を見ながら、徐々に話をより面白く作り換えてきたのだろう。人々はこの物語を聞いて、法海憎しとなり、白蛇びいきになり、早くあの塔が倒れれば良いと願う。そして一生の内に西湖畔に出かけ杭州に遊んでみたいと思いを募らす。この物語は今、映画のロケ地を訪れる人達の思いと同じことのようだ。
 江南で皆が秋に上海ガニを貪るように食べるのは、この法海憎しと関係あるかもしれない。ざまあみろ!と。
     2015年6月19日記  

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天才が現れる前

天才が現れる前
 1924年1月17日 北京師範大学付属中学校友会にて講演
 私の話が有益で面白いと感じてもらえるかどうか分かりません。私は実はあまり何も知らないのです。しかし何度も延ばしてきたので、今日ここに来てお話しすることになりました。
 今文芸界に対し、多くの人の要望の中で、天才が現れるのを待ち望む声が非常に盛んです。これは明らかに二つの事を反証しています。一つは中国には今一人も天才がいない事。二つ目は、皆が現在の芸術に飽き足らなくなっている事。果たして天才はいるでしょうか? いるかもしれませんが、私や他の人は見たこともありません。見聞に基づいて言えば、いないと言えるでしょう:天才だけでなく、天才を育てる民衆もいません。
 天才は密林や荒野で自生して成長するような怪物ではありません。天才を生み、成長させる民衆によって育てられるものだから、そういう民衆のいない所に天才はでてきません。ナポレオンがアルプスを越えた時、こう言いました。「私はアルプスより高い!」と。これはなんと偉大な英雄でしょう。だが彼の後ろには多くの兵士がいたことを忘れてはいけません:兵がいなかったら山の向こう側の敵に捕らえられるか、追い返され、彼の挙動と言葉はすべて英雄の境界から離れ、きちがいの類にされるでしょう。だから思うに、天才の出現を望む前に、天才を育てるような民衆をつくることが先です。例えば、喬木や美しい花を見たいなら、良い土が無いとなりません:土が無ければ花木もありません:土は花木より重要です。花木には土が無ければどうしようもなりません。正にナポレオンに良い兵士がいなければダメなのと同じです。
 然し今の社会の論調と趨勢は、一方で相も変わらず天才の出現を望みながら、その一方で彼を亡くそうとしていて、その準備に必要な土を掃きつくそうとしています。幾つかの例を挙げると;
その一は「古典の整理」で、新しい思潮が中国に来てから、どれほどの力を持ったでしょうか。それに対して、一群の老人と青年たちまでが、魂魄を失ったように、古典だ古典だと言い始め、彼等はこういいます:「中国には昔から良い物が沢山あったが、整理保存せずに、新しい物を求め、まさに祖宗の遺産を棄ててしまうようなことをしている」、祖宗を持ち出す言い方は極めて権威があるようにみえるが、私はどうも古くなった上着を洗ってたたむ前に、新しい上着を作ってはいけないという説と同じで、信じられない。現状について言えば、物事は各人が自分の考えで行うべきで、老先生が古典の整理をしたいなら、南の窓で死書を没頭して読むのを妨害しないし、青年には彼等の生きた学問と芸術など、各自のやりたいことをやり妨害しない。しかし古典整理の旗で号令をかけようとするなら、世界とは永遠に隔絶します。皆がこうでなければならぬと考えるのは荒唐無稽だ! 骨董屋と話しをすると、彼は自分の品物が一番だとはいうが、今の画家や農夫や職人たちが祖宗のことを軽んじていると罵ることはしない。彼は実際、多くの国学者たちより聡明です。
 その次は「創作崇拝」です。表面的には天才出現を望むのと歩調が似ていますが、実際は違います。その精神は外来思想や異域の情緒を排斥する意味を持ち、だから中国と世界の潮流を隔絶させるのです。多くの人はトルストイやツルゲーネフ、ドストエフスキーの名前はもう聞きあきたと言いますが、彼等の著作の何が中国語に翻訳されたか?眼光を一つの国にとらわれ、ピーターとかジョンと言う名を聞くとすぐ拒否反応を起こし、李三や張四(中国人の一般的な人物)でないと落ち着かない。それで創作家がということになるが、実際から言えば、良い作家は外国の作品の技術と精神からエスプリを吸いあげないと、文章は上手いが思想は往々翻訳作品に及ばず、ひどいものは、伝統思想に加えて、さらに中国人の旧習にあわせたりして、読者は彼に籠絡され、視野も徐々に狭くなり、ほとんど昔の世界に閉じこめられてしまいます。作者と読者双方の因果関係で、異流を排斥し、国粋を大事にしていて、どうやって天才を生みだす事ができましょうか? たとえ生み出せても成長して行けないでしょう。
 こういう気風の民衆は、灰と塵で泥土ではないから、きれいな花や喬木は育ちません!
 更に、意地悪な批評があります。皆は批評家の出現を望んできました。残念ながら、彼等の多くは不平家で、批評家らしくありません。作品が現れると、怨みをこめて墨を磨り、すぐさま高明な論調で「ああ、何と幼稚なことよ。中国には天才が必要だ!」と記す。その後は批評家でもなんでもない輩が叫びだす。彼等は人から聞いてきた話しを繰り返すのである。実はたとえ天才といえども、生まれた時は「オギャー」の産声で普通の子と同じで、決して美しい詩を吟じたりはしない。幼稚だからと頭から痛めつけ、委縮させてしまう。私もこの目で何人かの作者が彼等に罵られ、震えあがったのを見て来た。これらの作者の多くは無論天才ではないが、普通の人間として留めておきたいのです。
 意地悪な批評家は幼苗の上を馬で疾走する。とても気分がいいことだろう:が幼苗には災難だ――普通の苗と天才の苗にとって。幼児が老人に対するように、それは何の恥ずかしいことでもない:作品も同じで、初めは幼稚でも恥ずかしくは無い。痛めつけられねば成長し、成熟、老成する。ただ、老衰と腐敗は救いようが無い。幼稚な人も或いは老成した人も、幼稚な気持ちなら、幼稚なことを書けばよいし、自分が書きたいことを書いて、印刷した後、それで自分の事は終わったわけで、どんな旗を掲げて批判する人がいても放っておけばよいと思う。
 在席の諸君も十人中九人は、天才が現れるのを願っていると思うが、こんな状態では天才を生むことはおろか、天才を育てる泥土を作るのも困難だ。思うに、天才の大半は天賦で:ただこの天才を育てる泥土になることはできるようにみえる。泥土をつくる効果は天才を望むより身近なようです:それがなければ、たとえ千百の天才が出ても泥土が無い為、発育できず、緑豆のもやしのようになる。
 土を造るには、精神を広くし、新潮を取り入れ、旧套から離脱し、容量を大きくし、将来生まれる天才を受容できるようにすることです。また小さなことにくよくよせず、創作できる者は創作し、でなければ翻訳紹介鑑賞し、読み・目にとめ・消閑も構わない。文芸で消閑するというとおかしいかもしれぬが、痛めつけるより勝る。
 泥土と天才を比べるのは勿論比べ物になりませんが、辛抱強い人でないとなるのも大変です:しかし人のすることに過ぎませんから、空しく天賦の天才を待つよりも確かなのです。この点、泥土の偉大な所で、大きな希望もでてきます。且つまた報酬もあり、美しい花が土より咲きだし、見る人を喜ばせ、泥土もそれを鑑賞できるのです。喜びは花自身だけでなく、泥土も伸びやかな気持ちになるのです――泥土にも霊魂があるとすればですが。

訳者雑感:
 このころの中国の文芸界は胡適すらも「国の古典を整理しよう」とのスローガンで「主義を議論するより、問題研究をより多く手掛けよう」としたという。
良いものは中国の伝統文芸の中に沢山あり、西洋かぶれ的なものを排斥した。
 中国は外国からすぐれたものが来るたびに、これは元々古代中国にあったものだ云々として、受け付けなかった。そうした風潮を失くし、新潮を取り入れることのできる土壌を作らねばならぬ、と訴えているようだ。
     2015/06/14記

 

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ノラは家出後、どうなったか?

ノラは家出後、どうなったか?
 1923年12月26日 北京女子高等師範学校文芸会での講演

 今日お話しするのは「ノラは家出後、どうなったか?」です。
 イプセンは19世紀後半のノルウエーの作家です。作品は数十種の詩の他はすべて脚本です。この脚本は一時期、たいてい社会問題を取り上げていたので「社会劇」と言われ、その一篇が「ノラ」です。
 「ノラ」は一名Ein Puppenheimといい、中国では「傀儡の家」と訳しています。(以下「人形」とする)ただこのPuppeは操り人形だけでなく、子供が抱く玩具の人形でもあり、更に言えば、他の人の言うままになることを指します。ノラは当初幸せな家庭に満足していました。が、彼女はついに悟ったのです:自分は夫の人形で子供たちは彼女の人形だと。それで家を出ました。門の閉まる音と共に、幕が下ります。これは皆知っていることと思いますからこれ以上は省きます。
 ノラはどうしたら家出をせずにすんだか?イプセンは答えを出しています、即ち、Die Frau vom Meer「海の女人」で中国では「海上夫人」と訳した人もいた。この女性は結婚しているが、以前海の対岸に恋人がいて、突然彼がやって来て、彼女に一緒に行こうと言ったのです。彼女は夫に、彼を会わせようとしました。最後に夫は答えました「今、君を完全に自由にする。<家を出るかどうか>自分で選べる。また、自分でその責任を負うように」と。それで全てが変わりました。彼女は出て行かなかった。こう見て来ると。ノラはこの様な自由を得ていたら或いは安住できただろう。
しかしノラはついに家を出た。その後どうなったか?イプセンは答えを出していない:彼はもう死んでいる。たとえ死んでいなくても、答える責任は無い。イプセンが詩を書くのは社会の為に問題を提起することで、答える為ではない。ウグイスと同様、自分が歌いたいから歌うので、人に面白いとか有益だと感じさせる為ではないから。イプセンは世故にうとい人で、多くの婦女が彼を宴会に招き、代表者が「人形の家」に感謝する。女性の自覚を高め、解放してくれたこと、人身に新しい啓示に感謝します、との言葉に対して;「これを書いたのはそう言うつもりではなく、私は詩を書いただけです」と答えたのです。
 ノラは家出後、どうなったか?――他の人が答えを出しています。英国人が戯曲を書いて、新式の女子が家庭を出たら、もう次に歩むべき道を失くし、終には、堕落して妓院に行った、と。中国人も――私は彼を何と呼ぶべきか分からない――上海の作家としましょう――彼が見た「ノラ」は原訳と異なり、ノラは帰って来た、というのです。こういう本は残念ながら他の人は見たことはありません。イプセン本人が彼に与えたのでない限り。が、事実から推測するに、ノラには二つの道しかない:堕落しなければ戻るのです。小鳥ならカゴの中は自由が無く、カゴから出ると外には鷹や猫などがおり:麻痺してしまった羽は開けず、飛ぶことも忘れたら、実際歩む道はありません。もう一つは餓死です。餓死は生と隔絶しており、問題になりません。道ではないのです。
 人生の最大の苦痛は、夢から覚醒して進む道の無いことです。夢見ている人は幸福です;進むべき道を発見できなければ、夢から覚めさせない事です。唐の詩人李賀は一生困窮して暮らしたにも拘わらず、死に臨んで母親にこう言いました。「母さん、上帝が白玉の楼ができたから私に文章を書けとの仰せです」と。これは明らかに噓であり夢じゃないでしょうか?然るに、一人は若く、一人は老い、一人は死に、一人は生き残り、死者は喜んで死んでゆき、残った者は安心している。嘘を言い、夢を見ることはこう言う時には偉大さを発揮する。
だから思うのですが、道を探し出せなかったら夢を見るのが良いでしょう。
 ただし、決して将来の夢を見てはいけません。アルツイバージェフ小説の中で、こう言っています。将来の黄金世界を夢想する思想家に尋ねた。そう言う世界を造る為には、多くの人を呼び覚ませねばならない。彼は言う「君達は黄金世界を君達の子孫に約束するが、君達には何を約束するのか?」有るにはあります。即ち将来への希望です。が、代価は大きすぎ、この希望の為に人々の感覚を鍛えあげ、さらに大きな苦痛を感じさせ、霊魂を覚まさせて、彼の腐爛した屍を見させる。ただ、嘘を言い、夢を見る者だけがこう言う時に偉大さを発揮します。だから、道を探せない時に我々がすべきことは夢を見ることです:但し、将来の夢ではなく目前の夢を見るのです。
 しかしノラはすでに目覚め、それほど簡単に夢の境地に戻れません。それ故、家を出るしか無く:出た後は堕落するか或いは戻るのを免れません。そうでなければ、問われねばなりません:覚醒した心以外に何を持っているか?諸君と同じ様なえんじ色の毛糸のスカーフ一枚のみで、どんなに広くても2-3尺で、何の役にも立ちません。彼女は裕福なら鞄にある物を準備せねばいけません。はっきり言えば、お金です。
 夢はそれでいいのですが:そうでなければお金が必要なのです。
 お金というと聞こえが悪いし、高尚な君士たちに嘲笑されるが、私は思うのです、人々の議論するのは、昨日今日のことどころか、食前と食後にしても、往々にして差があるのです:凡そ、食べる為にはお金が必要なことを認めていながら、お金のことを賤しいと思う者は、彼の胃をおしてみて、中に魚肉が消化されていないなら、一日空腹で餓えてみてから、彼がどういうか聞いてみましょう。
 だからノラには金――優雅な言い方では経済――が一番緊要なのです。自由はもとより金では買えませんが、金の為に売ることはできます。人間が生きるには大きな欠陥があり、常に餓えるのです。この欠陥から逃れるため、人形にならない為の準備として、今の社会では経済が最も緊要なのです。第一に、家では男女均等の分配をすべきで:第二は社会で男女平等の力を獲得すべきです。残念ながら、この権利をいかにして獲得するか、まだ分かりませんが、ただやはり戦うことが必要だとは分かっています:多分参政権の要求より烈しい戦いが必要でしょう。
 経済権を要求するのは無論平凡なことですが、きっと高尚な参政権や広範な女子解放の類を要求するより大変でしょう。世の中の事は尽く小さな事をする方が、大きなことをするより大変です。もし、今のような冬に、我々は只一着の綿入れしか無いのですが、凍死しそうに苦しんでいる人を助けるか、或いは菩提樹の下に坐して瞑想して、全ての人類を救う方法を考えるか、どうするかと仮定します。全ての人類を救うのと、一人の苦しんでいる人を助けるのとでは、大きな差があります。でも選べと言われたら、すぐ菩提樹の下に坐るでしょう。そうすれば唯一の綿入れを脱いで、自分を凍死させずに済むからです。
だから家にいて参政権を要求しても大反対にはあいませんが、経済的な均等分配を言うと、目の前に敵が現れ、当然ながら熾烈な戦いになるのです。
 戦いは良くない事で、我々も人が皆戦士になれとは言えません。では平和な方法が大切になるのです。将来親権を使って、自分の子女を解放するのです。中国の親権は絶対的なものですから、財産も均等に分配し、彼等彼女等を平和的に衝突なしに平等な経済権を得られるようにし、その後勉強しても良いし、商売に使っても良い、自分の為に使ってもいいし、社会で仕事をして、使い終わってしまってもそれは当人の勝手で、自分で責任を負うのです。遠い夢かもしれませんが、黄金世界の夢よりずっと近いです。ただ、第一に記憶が大事で、記憶が悪いと子孫に有害になってしまう。人は忘却することができるから、自分が受けた苦痛から離脱でき、忘却できるから、往々にして前人のした間違いを繰り返してしまう。虐待された嫁は姑になって嫁を虐待する:学生を嫌悪する役人は、かつては役人を痛罵していた学生で:現在子女を圧迫するのは十年前の家庭革命者だった。これもきっと年齢と地位に関係がある。但し記憶が悪いのも大きな原因だ。救済方法は各人がノートブックを買って自分の現在の思想と挙動をすべて書いておいて、年齢と地位が変わった後、参考にするのだ。子供が公園に行きたいと言うのをうるさく思うなら、ノートをめくってみて、「自分も中央公園に行きたいな」というメモを見れば、平和な気持ちになる。
他もみんな同じだ。
 世の中には無頼的な精神が有り、その要義は靭性にあります。義和団の乱の後、天津に青皮が、所謂無頼漢ですが、大変跋扈したそうです。例えば、一つの行李(荷物)を運ぶのに2元要求し、小さいからと言っても2元、近くだといっても2元、じゃあもういい、といっても2元要求する。青皮は素より手本にするわけにはゆかぬが、その靭性は敬服に値します。経済権を要求するのも同じで、ある人はそんなことを要求するのは陳腐だとけなしても、すぐ経済権が欲しいと答える:そんな卑しいことをいうな、といっても経済権と答え:経済制度が間もなく変わるから心配するなと言われても、経済権と答えるのです。
 実は一人のノラが家出しても多分困ると感じることは無いかもしれません。彼女はとても特別で、挙動も新鮮で、他の人が同情してくれて生活を助けてくれるかもしれません。だが人の同情のおかげで生きるのは不自由です。それに百人のノラが家出したら、同情も減り、千・万のノラが家出したら嫌がられるだろうし、自分でしっかりした経済権を持つのが一番確かです。
 経済面で自由を得たら、人形じゃなくなるでしょうか?いえ、やはり人形で、人に操られることは減るが、自分が操る人形が増えます。現在の社会は女が男の人形にされるだけでなく、男と男、女と女の間でも或いは男が女の人形になることもあり、これは何人かの女性が経済権を得たら救われることではない。だが人は腹ペコでじっと理想世界の到来を待つことはできない。最低少しでも喘ぎを続け、正にひからびた轍の鮒が僅かな水でもなめる如く、この比較的手に入れやすい経済権を得るために他の手立てを考えねばならない。
 経済制度がほんとうに改革されたらこの話しは空論になることは間違いありません。
 これまでの話しはノラを一般の人としてあつかっていますんおで、彼女が大変特別な人で、自ら望んで犠牲になるようならそれは別の話しです。我々は人が犠牲になるように勧誘も阻止する権利も持ちません。況や、世の中には犠牲になることや苦しみを喜んで受け入れる人もいます。欧州に伝説があり、イエスが磔にされるときに、Ahasvar(靴職人でさすらいのユダヤ人と称される)の家の軒下で休息しようとしたが、Ahasvarは許さず、それで呪詛され、最後の審判がおりるまで彼は休息することができず、只歩き続け今なお歩いている。歩くのは苦しい、休息は楽だ。彼はなぜ安息せぬのでしょう。呪詛に背くとはいえ、多分歩いている方が休息より意に適っていると思うので、狂ったように歩くのでしょう。
 ただ、この犠牲が意に適うかどうかは自分だけに属することで、志士たちの所謂社会とは無関係です。群衆は――特に中国の――永遠に演劇の観客です。犠牲が演じられると、それが本当に慷慨すべきなら悲壮劇だし;とても滑稽にみえたら喜劇です。北京の羊の肉屋の前にはポカンと口を開けて何人かが羊皮を剥ぐのを面白そうに見ています。他人の犠牲は彼等にもたらす益もこの程度に過ぎないのです。況やその後数歩も歩くと彼等はこの愉快さも忘れるのです。
 こういう群衆には何の打つ手もありません。彼らには見るべき劇を無くすのが救済の方法で、まさしくいっときを震撼させるような救済は必要ではなく、深く靭性に富んだ戦いをするのに及びません。
 残念ですが、中国を改変するのはとても難しく、一脚の卓を運びだし、一台のストーブを改装するのさえ、ほとんど血をみずにはできません:血が流れても必ずしもそうなるとは限りません。大きな鞭で背中を叩かないと――中国は自分で動くのを肯んじません。この鞭はいつかは来ると思いますし、その良しあしは別問題ですが、きっとその日が来ると思います。だがどこからやってくるか私もはっきりとは分かりません。 
 今日の講演はこれで終わります。

訳者雑感:女性の経済権、即ち男性から経済的に自立し、自由を勝ち取る。これは女子師範学校での講演で、この動きが中国各地に広がり、纏足が廃止されてゆく。しかし、この過程で多くの血が流され、学生運動でも多くの犠牲者がでた。魯迅は群衆はそれを観劇しているとして批判しており、羊の皮を剥ぐのを面白がって眺めている群衆と、学生の多くが軍警によって銃殺され、壕に落とされておぼれ死ぬのを眺めているだけ、という中国人の「観客」でしか過ぎぬ「性情」を大きな鞭で背中をどやしつけないと、改めることは難しいとしている。いつかはその日が来ると思うが、それが外国軍とくに日本の侵略軍という大きな鞭だとは薄うす感じながら、それがいつ来るかはこの時点では分からない、と結んでいる。この10年後からその鞭の侵略が始まった。
   2015/06/09記
 

 


 

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