魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
写真―2、形式について
要するに、写真は妖術である。咸豊年間にある省で写真がうまいせいで、田舎の人に家財を壊されたことがあった。私が幼かった頃――つまり30年前には、S市にもう写信館があり、皆はとても疑いの目で見ていた。「義和団事変」で大騒ぎしていた頃で、即ち25年前、ある省で缶詰の牛肉は毛唐が殺した中国人の子供の肉だと思われていた。これは例外で、万事万物に例外は免れぬ。
要は、S市には早くから写信館があり、私は前を通るたびに、その場を去るに忍びないほど興味津津の所であった。といっても年に4-5回しか通らなかったが。大きいのや小さいの、長いの短いの、それぞれ色んなガラス瓶や、つるつるしながら棘のあるサボテンなど私にはみなとても珍しいもので:壁には写信の額があり:曾大人、李大人、左中堂、鮑軍門(曾国藩以下当時の政治家)などで:私の一族の長老が夫々の名を教えてくれ、この人達の多くは現在の大官で、「長髪賊」を平らげた功臣で、お前も彼等から学ぶべきだと諭した。その時は彼等に学ぼうと思ったが、その為には「長髪賊」がすぐまた出てきてくれないかなと思ったりした。
S市の人は余り写真が好きではなかった。魂を奪われるから、運気の良い時は撮らぬ方が良い。魂:即ち別名「威光」で:私が当時知っていたのはそれだけだったが、最近、世間には元気を奪われるのを怖れて入浴しない名士がいるのを知ったが、元気も多分威光だろう。それから私の知っている事も増え:中国人の魂、別名威光は即ち、元気で、写し取られるし、洗い去られる、ということなどだ。
多くは無いが、その頃、確かに写真が大好きな人もいた。私はどんな人か知らないが、或いは運気の悪い徒か、新党の人だろうか。只、半身像は大抵避けられたのは、腰で斬られるのを怖れた為だ。もちろん、清朝はすでに腰斬を廃していたが、戯曲では包爺の包勉を一刀両断にするのも見られたが、何と恐ろしい事よ。たとえ国粋としても私にもそんなことはしないで欲しい。だからそんな写真も撮らぬが良い。だから彼等の多くは全身で、傍らには大きな机があり、帽子掛け、茶碗、水煙草用キセル、盆栽があり、机の下には痰壺があり、彼の気管支には痰が一杯つまっていて、次々に吐かねばならぬ。立っているのも坐っているのもあり、手に書物を持ち、襟から大きな時計をぶら下げ、拡大鏡で見れば、当時の時間がわかる。当時はマグネシウムを使っていないから、夜と疑う必要は無い。
然し名士の風流はいつの世も無くならず、雅人はとうにこの千篇一律の間の抜けたようなスタイルに不満で、裸になって晋代の人物のマネをしたり、斜に絹帯をX状に締めて、X人になったりした。割によく見かけたのは、自分の写真を2枚撮り、服装と格好は別々で、それを併せて1枚にし、2人の自分が片や主賓でもう一人は下僕の如くで、「2人の吾の図」と称した。だが一人の自分が傲然と坐り、もう一人は卑劣で哀れな姿で、坐っているもう一人の自分に跪いているのは、別の名で「己に請う図」となる。この類の「図」は焼き付けてから詩を題すか、或いは「満庭芳の調べに寄せて」「魚児に模して」の類で、それを書斎の壁に掛ける。貴人富戸は元来間抜けの類に属し、この様な風雅なことは少ない。せいぜい何か特別な催しの際に自分が中央に坐り、膝下に彼の百人の子を坐らせ、千人の孫、万人の曾孫(下略)と撮って、「全家福」とする位だ。
Th.Lippsは彼の「倫理学の根本問題」でこんな話をしている。凡そ人の主でも、容易に奴隷に変わることができるのは、一方では主になることを認めていながら、別の面で奴隷になるのも認めているからだと。威力が低下したら、新しい主人の前で首を垂れ、ひたすらひれ伏すのだ。その本は今手元にないので、大意を覚えているだけだが、中国には訳本もあり、全訳ではないが、この話しはあるだろう。事実で以てこの理論を証明する最も顕著な例は孫皓(三国時代の呉の最後の皇帝)で、呉を統治時は、わがままで残虐な暴君だったが、晋に降参するや、とんでもない無恥卑劣の奴隷になった。中国で何時も言われるが、下に驕るものは、上に伺う時は、かならずおもねる、というのもこの種のことを看破している。しかし表現を最も突き詰めたのは、「己に求む図」だ。将来中国が「図解倫理学の根本問題」を出す時は、これは極めて格好の挿絵となり、世界で最も偉大な風刺画家も、夢にも思いつかず、描けない図だ。
だが我々が現在目にするのは、卑劣で哀れに跪く写真はもうない。大概は何とか記念写真か、上半身の引きのばしたもので、凛凛としている。私はこういう写真を見た時、何時も言ってる事だが、「己に求める図」の片方にみえるというのは、私の杞憂に過ぎないのであればと思っている。
1924年10月11日
訳者雑感:写真をこのように合成したりFakeなものを造っておかしくするというのは、中国の絵画の伝統から来ているのだろうか。山水画でも非常に見事な渓谷や絶壁の秘境の絵に、仙人か隠者のような人の姿が描かれている。日本は山水画を中国から学んだが、こうした趣向はあまり取り入れなかったようだ。
周恩来が亡くなった時、北京飯店の隣の王府井通りの人民日報の「写真展示のショーケース」に鄧小平の姿が他の指導者と並んで有ったのだが、翌日友人を案内して見に行ったら、きれいに消されていた。再度、失脚させられたのだ。
2015/07/07記
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