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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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往復書簡 一

往復書簡
一.
 旭生様 (徐炳昶 週刊「猛進」主編:訳者注)
 一昨日、「猛進」第一期拝受。貴方が送ってくれたか、或いは玄白さんか、いずれにせよ
どうもありがとう。
 その中の市政を論ずる話が、私にふと関係のない話を思い起こさせました。私は今小さな胡同(北京の横丁)に住んでいますが、ここにいわゆる土車というものがあり、毎月少額の銅銭をもらって、石炭ガラの類を搬出しています。搬出してからどうするか?街の道端に積み上げておくのです。それで毎日高く積み増してゆきます。数軒の古い家は、壁の下半分がそれに埋もれています。それが近所の家の将来を予告しています。どうしてこんなことになるのか知りません。この人たちを見ていると、中国人の歴史を見るような気がします。
 今、名前を思い出せませんが、明末の遺民で、彼は自分の書斎を「活埋庵」と名づけました。北京の人たちは、今みんなして「活埋庵」を建造しているのです。それも自分で建造費を出してです。
 新聞の論壇には「反革命」の空気が濃厚なのが見てとれます。車いっぱいの「祖先伝来」
「古いしきたり」「国粋」等々、みな道路に積み上げて、全ての人たちを完全に生き埋めにしてしまおうとしているのです。
 「何度も言いつづける」のも一つの方法でしょうが、私の見るところ、ある種の人々の――青年すらも――論調は、まったく「戊戌の政変」時、改革に反対した人たちの論調と同じです。27年経っても、こんな具合では、どうしようもない。国民がこんな風だから、良い政府があり得る筈が無い:良い政府はいとも簡単に倒れてしまう。良い議員もいるはずが無い:議員たちは収賄に励み、節操が無く、権勢におもねり、私利私欲に走る、と国民は罵っています。だが、これは大多数の国民もまさにそうなのではないでしょうか?この議員たちは、確かに国民の代表なのです。
 今取り得る方法は、数年前の「新青年」で提唱された「思想革命」です。やはりこの一言しかなく、悲しむべきことながら、これ以外の方法は無いと思います。そして「思想革命」に備える戦士たちは、目下の社会とは無関係の人たちです。戦士が養成されるのを待って、勝負に打って出るのです。私のこのような迂遠な渺茫とした意見は、我ながら嘆かわしく思いますが、雑誌「猛進」への希望は最終的には、やはり「思想革命」です。
       魯迅  三月十二日
 
訳者雑感:北京の変貌ぶりはすさまじい。長安街の南北の平屋はすべて取り壊され、超高層ビルに変じた。しかしつい10年ほど前まで、取り壊される前の胡同に入ると、魯迅の指摘した通り、石炭ガラで壁が半分活埋めされていた。それが耐えられないほどに積み上がると、市政からトラックが回されて、どこかに運び去られる。80年も不変だったのだ。
 魯迅様
 貴方の言われる「27年、相も変わらず」は誠に大変「恐ろしい」ことです。人類の思想には、本来的に惰性がありますが、我々中国人のそれは、より濃厚なのです。惰性の表れ方は一つではなく、ごく普通には、第一は天命に任せ、第二は中庸です。天命に任すとか中庸の空気を打破せねば、我々中国人の思想が進歩するという望みは永遠に無いでしょう。
 貴方の言われる「講演するのと文章を書くのは、どうも失敗者の烙印のようだ。今まさに運命と悪戦苦闘している人は、そんなことを顧みる暇さえない」というのは、実に心痛む話です。しかし私は別の面からみて、まだ多くの人が講演し、文章を書くのはまだ人心が全死に至ってはいないことを証明していると思います。だがここで分別せねばなりません。それには、不平不満の吐露、それが嘲りであれ罵倒であれ、それでこそ人心は未だ
全死に至っていない証明なのです。もしそうでなければ、言いかえると、もしその文章に“!”ばかり使っているのでなければ、そして言うことと書くことがどんなに耳触りのよい物であろうが、それはもはや人心の全死を意味します。亡国か否かは第二の問題です。
 「思想革命」は現在最も重要な問題ですが、私はいつも「語絲」(雑誌)や「現代評論」と我々の「猛進」が一緒になっても、この使命は負えないと思います。二つの希望があり、一つは皆が集まって文学思想専門の月刊誌を作る。中身はレベルを高すぎないようにし、旧悪を暴くのを6-7割、新しいことを紹介するのを3-4割にする。こうすれば大学や中学高校の学生も時間のある時の良友になり、思想の進歩面で、きっと有益になることでしょう。私は今、胡適さんとちょっと話をしましたが、彼は今我々が月刊誌を出すのは大変困難だと言いました。多分毎月八万字なら可能だが、もし十一二万字出そうとすると、ほとんど不可能だと言います。私はどうして十一二万字にどうしてこだわるのか、七八万字あればそれで出し、たとえそれより少なくてもダメだと言う事は無い。要するに、ある方が無いよりずっと良い。これが私の第一の希望。第二は一種の通俗的小新聞です。
現在の「第一小報」はこれに近いようです。この新聞は二三期分しか見ていませんので、評価する手立てもないのですが、印象としては:まず紙幅が極めて小さい。少なくとも
あと半分ほど増やせば良いと思う。次にこの種の小新聞は常に対象を民衆と小学生向けと明確にする。思想は極めて新しい物を必要とするが、話の中身はとても浅く明瞭に書く必要がある。専門用語と新名詞はできるだけ使わない。「第一小報」はこの二点にあまり注意を払っていないようです。このような良質の通俗小新聞が私の第二の希望です。
 いろいろ乱筆で長々と書きましたが、貴方のお考えはいかがでしょうか?
  徐炳昶 三月十六日      2010/09/04
 

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ふと思い到って 十一の4


4.指を切ることと昏倒すること
 またも(抗議のために)指を切ってその場で意識不明になる事態が起こった。
 指を切るのはごく小さな部分の自殺で、昏倒はごく短時間の死亡だ。このような教育が普及しないことを望む。今後このような現象が二度と起きないように。
 
5.文学者は何の役に立つのか
 上海事件発生後、文学者は一人も「狂喊」しないので、ある人、疑問を呈して曰く:
文学者はいったい何の役に立つのか?と。
 敢えて謹んで答える;文学者はいくらかの詩文を作る以外、実に何の役にも立たない。
中国の現在のいわゆる文学者は別のことを言う:たとえ本当の文学の大家でも「詩文大全」
ではないし、一つのテーマごとに必ず文章を書き、一つの案件ごとに、必ず狂喊する訳でもない。彼は万藾無声の時、大いに叫ぶが、金や太鼓が騒がしい時に、沈黙する。レオナルドダヴィンチは、たいへん鋭い感覚の人だが、人間が死に臨むときの恐怖と苦悶の表情を究めんとして、斬首の現場を見に行った。中国の文学者はまだ狂喊していないが、これほどまで冷静にはなれない。ましてや「血花繽紛」という詩をすでに発表したではないか。それが狂喊かどうかは分からないが。
 文学者も多分狂喊すべきだろう。古い例を調べると、事をなすにはまず文を作って名をあげるに如かず、という。上海と漢口の犠牲者の名は、そのうちきれいさっぱり忘れ去られても、詩文は往往にして久しく残り、或いは人人を感動させ、後人を啓発する。
 これが文学者の役目だ。
血の犠牲者が役に立ちたいと思っても、或る面で文学者には及ばない。
 
6.「人民の中へ」
 本当に多くの青年がそこへ帰ろうとしている。
 最近の言論を見ると、旧家庭は青年の新しい生命を呑み込む恐ろしい妖怪のようだ。しかし実際は、最終的には愛すべき所としての位置を失ってはいない。どんなものより吸引力に富む。子供のころに釣りや池で遊んだ所は懐かしい。ましてや大都会と隔絶した故郷で、暫し、半年以上も都会で苦労してきた疲れを癒すことができるなら尚更だ。
 その上これが「人民の中へ」とみなされるに及んでは。
 だが、ここから分かることは、我々の「人民の中」はどのようになっているかで、青年は一人で人民の中へ入るとき、自分の力と心情は北京で仲間と大声でこのスローガンを叫んでいるときとどう違うか?
 この違いをしっかりと覚えておいて、もし将来人民の中から戻って来た時、北京で再び仲間と大声でこのスローガンを叫ぶとき、ふり返って見て、自分が本当に真実を語っているか、嘘でたらめかが分かる。
 それで多分若干の人たちが沈黙する。沈黙して苦しみ、そして新しい生命はこの苦しい沈黙の中から芽を出してくるのだ。
 
7.霊魂と断頭台
 近来、夏は軍閥の戦争の季節で、青年たちの霊魂の断頭台の季節となる。
 夏休みに入ると、卒業生はみないなくなり、新入生はまだ入学していない。それ以外は大半が帰郷する。各種同盟は暫し別れ、喊声も低調、運動も消沈、刊行物も中断となる。炎熱の巨大な剣が天上から降りてきたようだ。神経中枢も突然断たれ、首都も突如として死屍に変じる。独り狐鬼だけが屍の上を往来し、従容として全てを占領した印の大旗を立てる。
 気分爽快な天高い秋が来ると、青年たちは戻ってくるが、すでに新陳代謝したものも少なくない。彼らはまだこの首都が、健忘症にさせる空気を味わっていない状態で、新生活を始める。まさしく卒業生たちが去年の秋に始めたように。
 そこで全ての古い物と廃物が、永遠に新鮮のように見える:もちろん周囲は進歩したか、
退歩したか感じないし、当然ながら会う相手が妖怪は人かも区別できない。不幸にもまた事変が起き、やはりこのような世の中、このような社会の中で、ただ相変わらず、「同胞、同胞よ!」と叫ぶのみだ。
 
8.やはり何もない。
 中国の精神文明は、すでに銃砲に破壊され、多くの経験の後、もう何もない空っぽだということを証明しようとしている。この「何もない」という表現を避けたら、少しは自ら慰めることもできる。もう少し耳触りのよい表現に変えたら、寒天に暖炉の前にいるように、気持ちよく居眠りできよう。しかしその報いとして、治療できる薬は永遠に手に入れられず、全ての犠牲が無駄になってしまう。みんなが居眠りしている間に、狐鬼は犠牲を食べ尽くし、更に肥え太る。
 人はこのことをしっかり覚えておいて、四方を見、八方のことを聞き、これまでのように、すべて自分を欺き、人を欺くようなはかない望みを一掃し、誰もが自分も人も欺むくような仮面を脱いで、誰もが自らも人をも欺く方法を排除し、要するに中華の伝統というあらゆる小賢しいタクラミは全て放擲し、忍耐強く、我々を銃撃してきた毛唐から学ぶ事、
そうしてこそ、初めて新しい希望の芽が出てくる望みがある。
  六月十八日     2010/09/03
 
 
 

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ふと思い到って 十一

十一
    急いては言を択ばず
「急いては言を択ばす」ということの原因は、考える暇が無いことに起因するのではなく、時間があるときによく考えないことにある。
 上海の英国巡査が市民を惨殺したあと、我々は非常に憤慨し叫んだ。「偽文明人の正体が暴露された!」と。ということは、それまでは彼らに何がしかの真文明があると思っていたということだ。然るに中国の銃を持った軍閥は、平民を略奪し屠殺しているのに、一向に抗議する人は出てこない。まさか手を下したのが「国貨」だから、惨殺も歓迎するというのではあるまい。やはり我々はもともと本当に野蛮人だから、自分で自分の家人を殺すのは奇とするに足りないとでもいうのか。
 自分たちが殺し合うのと、異民族に殺されるのはもちろん同日には論じられない。たとえば、自分で自分の頬を打つのは、気持ちとしては落ち着いたものだが、他人に殴られたら、非常に憤慨する。だが、人は自分で頬をぶつようなていたらくに陥ったら、他人に殴られるのも免れない。世の中に「殴る」という事実が無くならない限りは。
 我々は確かに少し急いてあわててしまった。反キリスト教の叫喊の尾声がまだ消えやらぬうちに、多くの人はキリスト教宣教師の上海事件に関する(デモに同情的な)証言に対して、大変敬服している。更にはローマ法王に(電報で同情と支持を)訴えてもいる。
一度流血を見ると、気風はかくも変わるものか。(以前は反キリスト一色だった:訳者注)
 
2.一致対外
 甲:「乙さん!あなたはどうして私がこんな忙しい時をみすかして、私の物を持ち去るの?さあ今返してよ!」
 乙:「我々は今、一致団結して外国に向かわねばならない!こんな危急なときに、自分のことしか考えないの? 売国奴め!」
 
3.「同胞よ、同胞よ!」
 私は自分の罪名を書いて自首したい。今回、強制的な寄付以外に、別途ごく少額を寄付したが、本意はこれで救国に協力しようというのではなく、あの真面目な学生たちが熱心に奔走しているのを見て、感ずるものがあり、彼らが釘にぶつかるのをすまなく思うからだ。
 学生たちは演説のたびに「同胞よ、同胞よ!」というが、同胞とはどんな同胞なのか、どんな心を持っているか知っているだろうか?
 知らないなら、たとえば私の心意も自ら言い出さねば、募金集めの人たちも多分知るまい。
 我が家の近くに小学生が何人かいて、いつも何枚かの紙に幼稚な宣伝文を書き、彼らの細腕で電柱や壁に貼っている。翌日には多くは剥がされている。剥がしたのは誰か知らない。だが、英国人や日本人とは限らない。
「同胞よ、同胞よ!」学生たちは言う。
 私はあえて言うが、中国人の中にいる、あの真摯な青年たちを敵視する目は、英国人や日本人より陰険だ。「外貨排斥」のために復讐するのは必ずしも外国人ではない!
 中国を良くしようとするなら、他の仕事もやらねばならない。
 今回北京の演説と募金の後、学生たちと社会のいろいろな人々が接する機会が非常に多くなり、各方面に注意する若干の人たちが、見たこと感じたことを書き始め、良いことも悪いことも、模範的なものも顔向けできないことも、恥ずべきこと、悲しむべきこと、全て発表し、我々が結局どんな同胞を持っているか、皆に見てもらおう。
 それが分かったら、次に別の仕事を計画できる。
 決してごまかさないこと。たとえ発見したのがいわゆる同胞でなくとも、最初から作り始めるのもいい。発見したのが全くの暗黒でも、暗黒と闘う事ができる。
 けっしてごまかさないこと。外国人が我々のことを知っているのは、我々が自らを知っていることより、しばしばより明確だ。ごく卑近な例が、中国人の編集した「北京ガイド」より日本人の書いた「北京」の方が精確だ!
 
 

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ふと思い到って十


 十.
 なんぴとであれ、無実を証明する立場に立たされたら、白か否かにかかわらず、いずれもすでに屈辱である。ましてや実際に大きな被害をこうむってから、冤罪を証明せねばならぬときては、何をかいわんやである。
 我市民が、上海租界の英国巡査に銃撃され殺されたのに、我々は反撃しないで、まっさきに犠牲者の濡れ衣をすすごうとした。我々は決して「赤化」していない。他国の扇動を受けてやったのではないとか;「暴徒」ではない。皆素手で武器を持っていなかったとか。私にはどうしても分からない。なぜ中国人がもし本当に赤化していたり、国内で暴動したら、英国巡査のいうがままに、死刑に処さなければならないのか?たしか新しいギリシャの人たちが、自国内のトルコ人に武器ではむかった時、暴徒とは呼ばれなかったし、ロシア人は赤化して確かに何年か経ったが、外国人の銃撃で征伐されたことは無いと記憶する。それなのになぜ中国人だけが、市民が殺された後、なんでまたビクビクしながら冤罪の弁護をせねばならぬか。冤罪をすすぎたいという目で、世界に公正な道理を探し求めようとするのか?
 実はこの理由は非常に明白だ。我々は決して暴徒でもなく、赤化していないからである。
 それで我々は冤罪と感じ、偽文明の破綻だと大声で叫ぶ。しかし文明は昔からこうであって、今になって仮面を脱いだわけではない。ただこんな被害をこうむったから分かったのであって、以前は他民族がこうむっていても、我々は知らなかったか、何回もこうむってきたが、すべて忘れてしまっていたからだ。公正な道理と武力が合体した文明など、まだこの世に出現していない。その萌芽は或いは数人の先駆者と被圧迫民族の何人かの頭の中にのみ存在していた。ただ、自分が力を持つと、二つに分かれてしまうのだ。
 しかし英国には本当の文明人がいる。今日、我々は各国の無党派知識階級労働者が組織した国際労働者後援会が、中国に大いに同情して書いた「中国国民への宣言」を見ることができる。
その中に、英国ではバーナード ショーがおり、世界の文学に関心のある人なら大抵知っているだろう。フランスにはバルビュスがおり、その作品は中国にも翻訳されている。彼の母は英国人で、或いは彼が実行力に富むのはそのせいかもしれない。仏作家に多い享楽の気分は彼の作品にはほとんどない。今、みんな出できて中国の為に発言している。だから私は英国人の品性は学ぶべき所がまだまだ大変多いと思う。もちろんあの巡査と商人、それに学生たちのデモを屋上から拍手しながら、嘲笑していた娘たちは除くが。
 我々は「敵を友の如く愛す」人間になるべしとは言わない。目下のところ、我々の敵は誰なのか、実は見極め切れていない。近頃の文章に、「敵がはっきりした」というが、それはまだ文字だけが先行し過ぎている嫌いがある。もし敵がいたら、我々はすぐにも刀を抜いて起ちあがり「血で血を償う」よう要求せねばならぬ。それなのに我々が今要求しているのは、何だ?無実を証明して後、軽微な補償を求めているに過ぎない。その方法も十数条あるが、要するに単に「相互往来を止め」「あかの他人になる」だけだ。本来極めて親密な友人に対しても、これくらいにしかできないのだろうか。
 しかるに実態は、公正な道理と実力はまだ合体していないから、我々は道理だけしかつかんでいないので、会う人はすべてが友であるが、それはたとえ彼が勝手に人を殺してもそうなのである。
 もし我々の手には永遠に道理しかないならば、無実を証明することに永遠にやらねばならず、一生を無駄にじたばたするだけだ。ここ数日、壁にビラが貼られ、「順天日報」
(日系中国語新聞)を読む勿れ、と訴えている。従来この新聞をあまり見ていないが、
決して「排外」しているのではない。実は彼らの好悪がいつも私と大いに異なるためだ。
だが中には確かなことも書いてあり、中国人が自分では言わない話もある。二三年前、丁度愛国運動が盛んなころ、偶々彼らの社説を見た。大意は、国家が衰退する際にはきまって2種の違った意見に分かれる。一つは民気(精神)論者で、国民の気概に重きを置く。もう一方は、民力論者で、国民の実力に専ら重点を置く。前者が多いと国はだんだん弱くなり、後者が多いと強くなる。私はその通りだと思う。そして我々はこの事をしっかり覚えておかなければならない。
 残念ながら、中国は歴来、民気論者ばかりが多くて、今に至るもこのていたらくだ。もしこのまま改めねば、「再び衰え、三度目には竭(つ)きてしまう」ことになり、将来無実を証明する精力さえ無くなってしまう。だから止むを得ず民気を鼓舞するときも、同時に何とかして国民の実力を増大せねばならぬ。ずっとこうしてゆかねばだめだ。
 中国の青年の任務はとても重大で、他国の青年の数倍だ。我々の古人は心や力を、これまでは玄虚、漂渺、平穏、円滑の方に使ってきて、本当に難儀なことは、保留し先送りにしてきたので、一人が、二三人分、四五人分、十人百人分やらねばならず、今まさに試練の時である。相手は屈強な英国人、まさに他山の好石、大いにこれを借りて磨かねばならぬ。仮に今覚悟のできた青年の平均年齢を20歳とし、又仮に中国人は早く老い易いことを計算に入れても、少なくとも一致協力して抵抗し、改革に三十年を使えることになる。もし足りなければ次代、次々代とつなげばよい。この数字は個人から見るとおそろしいほど長いようだが、そんなことをおそれていたら、救いようがない。ただ滅亡に甘んじるのみ。民族の歴史上、これは極めて短い時間に過ぎず、これ以外により早い道は無い。
遅疑している暇などない。ただ自己を鍛錬し、自ら生存を求め、誰に対しても悪意を抱かずやって行く。
 しかし、この運動持続の破滅するリスクは三つある。
一つは、日夜表面上の宣伝に明け暮れ、他のことを見下して放置すること。
二つ目は、仲間に対し性急すぎ、ちょっとでもあわないと国賊よばわりすること。
三つ目は、多くのずるがしこいのが、この機を逆用して、自己の目先の利益をかすめ取ろうとすること。
 六月十一日    2010.8.28.
 
訳者の読後感:
 これは上海の内外紡という日系企業で、首切りに抗議したストライキを機に起こった
所謂5.30運動で、学生二千余名を含むデモ隊に対して英国警官の銃撃で数十名が死傷したことについて書かれたもの。1925年に中国の青年の平均年齢20歳で、早く老い易い中国人でも30年は、力をつけるためにしゃにむにやれば何とかなると檄を飛ばしたもの。
 魯迅の檄に刺激されてかどうかは分からないが、30年もかけずに力を自分のものにした。
その後の30年は、鎖国状態で内部闘争に多くの精力を費やした。魯迅の言う個人的には大変恐ろしいような長い時間をかけたが、次々代の1980年代から公正な道理と実力を合体させる政権がなんとか出来上がったように見られる。
 しかし魯迅が最後に揚げた三つのリスクは、21世紀の今も残っている。
 

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ふと思い到って九


 ある人の言うには、追憶ばかりしている人は先が暗い。なぜなら過去のことに拘泥ばかりして、勇猛に進取することを望めないから。だが、追憶はもっとも喜ばしいという人もいる。前者は誰が言ったか忘れたが、後者は多分A.Franceだと思う。両方とも彼かもしれない。が、二つとも道理があり、整理し研究するなら、結構いい暇つぶしになる。だがこれは学者たちに任せておこう。私はこうした高尚な事業に立ち入ろうとは思わない。結果を少しも出せないうちに、母屋で天寿を全うしてしまうだろうから。(本当に天寿を全うできるかどうかは、もちろん分からぬことだが、ここでは少し見栄え良く書いたまで)。私は、文芸研究の宴席は謝絶できるし、学生を退学させるための会食も避けることはできるが、閻羅大王の招待状はこれを「謹んで謝す」訳にはいかんだろう。どんな格好をつけても無駄だ。さあ今はもう過去に恋々とするなどせず、将来のことに思いを致しても、ともにお先が暗いのは同じだが、そんなことは構わず、書いてゆこう。
 ものを書かないのは、自己保身のためだということを、今頃になってやっと分かったのだが、ものを書くのは、99%自己弁護のためというのは、とうに知っていた。少なくとも私自身はそうだ。だから今から書きだすのは自分のための手紙だ。
 
 F.D君へ:
 一二年前、手紙に私の「阿Q正伝」で、たった一人の無聊な阿Qを捕えるのに、機関銃を使うのは、ものの道理から外れているとのご指摘ありました。当時君に返事を出さなかったのは、差出人の住所がなかったことと、阿Qはもう捕まってしまっていて、貴君といっしょに騒ぎを見に出かけて、検分できなくなってしまったからです。
 数日前、新聞を見ていて君のことを思い出しました。記事の大意は、学生たちが執政府に請願に行ったが、事前にこれを知った政府は東門に軍を増派し、西門には二台の機関銃を据え付けた。学生は入ることもできず、何の結果もなく雲散した。君がまだ北京にいるなら、遠くからでいいから、遠いほどいいから一度見てください。もし本当に二台あるなら、私は「ほんとうにひとこと言いたい」のです。
 学生デモと請願はこれまで何回もありました。彼らはみな節度をもって正しく行ってきて、爆弾やピストルは絶対使わないし、九節(に折れ曲がる)ハガネのムチやさす叉の両刃の剣も無い。まして丈八の蛇矛(じゃぼこ)や青龍掩月刀も無い。せいぜい「懐中に一枚の紙」のみ。それゆえこれまで反乱分子として騒いだ経歴もない。にもかかわらず、機関銃を二台も据え付けたのだ!
 阿Qの事件は大きかった。城下に物を窃盗しに行き、未荘でも強盗を働いた。その時は民国元年で、官吏たちも今よりづっと奇妙な対応をしていた。先生!これは13年も前のことですよ。あの時のことはたとえ「阿Q正伝」の中で、更に一混成旅団と八台の山砲を添えても、言い過ぎにはならないでしょう。
 一般的な視線で中国を見てはいけません。私の友人がインドから帰って来て、ほんとうに奇怪な所で、ガンジス河の畔を歩くたび、捕まって殺された揚句、祭られないように用心せねばならぬと痛感した、と言いました。中国にいても時々、このような恐怖に陥ることがあります。普通、ロマンティック(不可思議、幻想的)と思われていることが、中国では平常のことであり、機関銃が土地神の祠の外に据えられなければ、他にどこに置けばよいのでしょう?
     1925年5月14日 魯迅上    2010/08/27
 
 

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ふと思い到って 八

八.
 五月十二日「京報」の“顕微鏡”に下記の一文が載っていた。
“某学究が某紙に教育総長‘章士釘’の五・七事件関係の上奏文を見て、憂えて曰く;
‘名字がかくも怪僻なるは、儒教聖人の徒に非ず。豈に吾が仲間の古文の道を衛る者ならんや!’”と。
 これを見て。中国のいくつかの字は、口語文中だけでなく、たとえ文語文の中でも殆ど使わぬことを思い出した。そのひとつが、この誤植の“釘”の字で、もうひとつは‘淦’の字で、大抵はただ人名に残るのみ。今、手元に「説文解字」が無いので、釗の字の解釈は全く覚えていないが、淦は船底漏水の意味のようだ。我々は今、船底の漏水を述べるとき、いかに古びた奥妙な文章を使う時も‘淦矣’までは至らない。だから張国淦、或いは
孫嘉淦とか新淦県という地名などを印刷する以外、この一粒の鉛字は全くの廃物だ。
 ‘釗’に至っては、釘に化けるのは笑い話にすぎない。ある人がこのために害をこうむったそうだ。曹錕が総統時代、(その頃はこう書くのも犯罪だったが)李大釗先生を処罰しようとして、国務会議の席上、一人の閣員が言った:彼の名を見れば彼が分に安んじる人間でないことが知れる。よりによってなんでこんな字をつけたのか。李大剣などと。そこで決まった。この‘大剣’先生は自ら‘大刀王五(用心棒)’流の人間だと証明している。
 私はN市の学校で学生だった頃、この剣の字で何回か釘を打たれた。これも自分自身が分に安んじなかったためだが。新任の幹部が来て、威勢がことのほか強くて、学者風を吹かし、傲然としていた。不幸にも同級生に‘沈釗’という者がおり、まずいことが起こった。彼は‘沈鈞’と呼んで自分の識字水準の低さを露呈してしまった。それで我々は彼を見るとちゃかして、‘沈鈞’と呼んだ。嘲りから互いに罵るまでになった。二日もすると、十数名の同級生が次々と二つの小さなバッテンと大きなバッテンをつけられ、退学となった。退学は我々の学校ではたいした事件ではなかった。本部の正庁には軍令がいて、学生の首を切ったりもした。そこの校長となれば、大変な威力を持っていた。当時は‘総弁’といい、資格としても道員候補(清朝の官吏の身分)でなければならなかった。仮にあのころ、現在のように高圧的手段をとれば、我々はとっくに‘正法’で仕置きされ、私も今頃「ふと思い到って」など書けないことになっていただろう。なぜだか知らないが、近頃
‘懐古’傾向が強くなってきたようだ。今回はたった一つの文字で遺老のように昔に思いをはせる口吻になってしまった。
  五月十三日   2010/08/26
訳者メモ:
出版社の注に、魯迅は1898年夏から1902年初めまで江南水師学堂と江南陸師学堂の附属鉱務鉄路学堂に学んだ、とある。上記の退学はどちらの方をさすのだろう?大事件では無いというのからすると、最初の方で、そちらを退学処分になっても後の方に転入できたのか。以前読んだ伝記(署名失念)には、自分の意志で辞めて、日本に留学したとの印象が残っているが、双方とも海軍とか陸軍の建てた学校のようで、それに嫌気がさしたという記憶もある。日本に負けて、洋務運動と軍隊再建が急務であった時代。日清日露の戦争が魯迅を古来からの経書中心の学問から洋学へと向かわせた要因に違いない。

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ふと思い到って 七 


多分配達人が忙しすぎてか、昨日は新聞が来なかった。今日やっと届いたが、奇怪なことに、本紙は二三ケ所切られていた。幸い副刊は大丈夫だった。そこに武者君の「温良」が載っていて、往事を思い起こさせられた。私はかつて確かにこんな糖衣をまとった毒針を、同学たちが贈ってくれたことを思い出した。武者君も世の中に凶獣と羊という二種のものがいることを発見したようだ。だが、これは一部を発見したにすぎない。世の中のものは、こんなに簡単ではない。つけ加えねばならないのは、凶獣のような羊と、羊のような凶獣だ。
 彼らは羊であると同時に凶獣で、自分より凶暴な獣に出会ったら、羊のようになるし、自分より弱い羊を見た時は、凶獣のようになる。それを武者君は二種だけと思ったのだ。
 第一次五四運動後のことだが、軍や警官は遠慮して、銃尻で手に寸鉄も帯びぬ教員学生を乱打しただけで、威嚇も騎兵が畑の中をゆくような程度で、学生たちは驚いてまさしく虎狼にあった羊のように逃げた。だが学生たちが大群になり、敵を襲撃したとき、こどもがいても、突き飛ばしたではないか?学校では敵のこどもだと罵倒して、彼らが家に逃げ帰らなければならないようにさせたではないか。これは古代暴君の一族皆殺しと何の違いがあろうか?
 中国の女性がどれほど抑圧されてきたか。時には羊にも及ばぬほどだった。今では、西洋人の学説のおかげで、少し解放された。だが、彼女たちは一旦威力を発揮できる校長のような地位に就くと、“袖をたくし、手もみする”殺し屋のような男を雇い、何の武力も、
持たない同性の学生を脅かしたではないか?外部の別の学校騒動を利用し、狐や犬の徒党を使い、気に食わない学生を退学させたではないか?そして“男尊女卑”社会で育った男たちがこの時、異性の飯碗の化身の前で尾を振ったのは、まさしく羊にも及ばぬことではないか。羊は本当に弱いが、ここまで落ちぶれてはいない。私は敢然と我が敬愛する羊たちのために保証する!
 ただ、黄金世界が出現するまで、この二種の性質を同時に持つのは免れないようだ。
しかし現れたときの状況を見れば、勇敢か卑怯かの大きな差がでてくる。残念なことに、中国人は羊には凶獣の相を現し、凶獣には羊の相を現す。だからたとえ凶獣の相を現していても、やはり卑怯な国民なのだ。こんなことではきっとおしまいだ。
 中国を救うには、他のものを持って来る必要はない。青年たちが、この二種の古伝の用法をひっくりかえして使えばそれで足りる。相手が凶獣の時は凶獣のようになり、相手が羊の時は羊のように。そうすればどんな悪魔であろうと、彼らはそれぞれの地獄に戻るしかなくなるであろう。
   五月十日      2010/08/25

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天津のコンプラドール その1


1.
二十数年ぶりに天津に出かけた。北京空港から高速で2時間。市の中心を流れる海河の畔のハイアットホテルに着き、夕食の時間まで、昔住んでいた頃の建物を探しながら歩いた。当時は、唐山大地震の後で、大通りの両側は、掘っ立て小屋がびっしりと並び、家を失った人々が、体を寄せ合うようにして、懸命に生きていた。今も鮮明に思い出すのだが、片道三車線の大通りの半分は、倒壊した建物のレンガや木材を再利用したバラックで埋め尽くされていた。もちろん歩道も同じ状態なので、歩く余地もなく、私は人々と同じように、車道の端を歩いた。そのうち、一軒の板壁に手書きで、「此屋有病人、請粛清」とあるのを見つけた。「病人がいるので、お静かに」というお願い。
 暑い夏の夕日がようやく沈む頃、人々は近くの露天市場で買ってきた野菜を、
道路端の七輪で煮炊きしていた。水はどこから手に入れるのだろうか。市政府は、郊外に建てた避難住宅に移るように公告しているのだが、多くの人は、
生活用水も無い路上のバラックから離れたがらない。郊外に出てしまうと、これまでの八百屋や肉屋からの食糧が入手できなくなる。郊外の臨時住宅には、ろくな食料品店が無い。それに仕事場からも遠くなって、通勤に不便だ。それらが、引っ越せない、やむにやまれぬ事情だという。
 図書館前の広場には、魯迅の像が残っていた。その像の台の辺りからロープを引いて、いく張りものテントの下で暮らしている人がいた。テント越しに
魯迅の顔を眺めながら、魯迅選集の中の一枚の写真を思い出していた。北京の師範学校の校庭だったか、大勢の学生達の中心に、椅子の上に立って上半身だけ見える形で、学生達に語りかける魯迅の姿を。
2.
 今では天津の町は、すっかり整理されたが、横丁の一角にはまだ当時の面影が残っている。しかしそのころ大いに繁昌していた露天市場は、あとかたもなくなっていた。渤海から採れたばかりの渡り蟹を売っていた屋台の魚屋たちは、どこかに引っ越してしまっていた。
 当時、事務所兼住居として住んでいた「友誼賓館」はすっかり模様替えされて、当時の事務所はサロンに変じていた。家族連れの外国人は珍しいということもあって、ホテルの従業員も親切にしてくれた。彼等と、仕事の合間に、いろいろおしゃべりした。こうしたホテルで働いていたものは、労働改造で精神をたたきなおさなければならない、として、安徽省の山村に送り込まれ、3年ほど「土とともに暮らした」と言う。
稲草も麦草も知らない、都会そだちの青年にとって、土にまみれて生きることは、とても耐えられないことであった。ホテル勤務のような、土と遠くかけ離れた生活をしてきた若者にとって、過酷な自然のなかでの暮らしは、筆舌に尽くせないことであった。が、人間は慣れればなんとか生きられるものだと悟った。「豚になっても生きよ」とは映画「芙蓉鎮」の中で、腐敗分子の濡れ衣を着せられて牢に繋がれることになった恋人に向かって、男の口から出た言葉だが、まさしく豚小屋に入れられも、豚になっても生き続けるのだ!との叫びであった。
 ひと月の給料は三元。これで歯ブラシや石鹸などを買うのが精一杯であった。
でも、自分はまだましだ。友達の多くは、黒龍江省や新疆ウイグル自治区などに送られて、家族からの連絡もそのうちに途絶えてしまい、帰るにも帰られない長い年月を過ごさねばならなくなった、という。
 その年の秋から年末にかけて、菊人形展も終わり、水上公園の放し飼いの丹頂鶴たちが、氷雪の上でダンスを踊り始める頃、「寒いね、寒いね」と言いながらも、子供を連れてパンダを見に出かけた。水上公園から帰って、食事を済ませて、部屋に戻ってテレビをつけてみると、逮捕された四人組の裁判の模様が公開放送されていた。つい数年前まで猛威をふるった四人組の時代は終わったのだ、と全国民に告げているのであった。大学の大きな階段教室のような大ホールが、この歴史的裁判の舞台であった。演壇の上には、裁判官が並ぶ。
被告席には、かの江青以下の四人組。そしてその後方の階段席には、大勢の傍聴人の姿。3人の被告はうなだれて,しょぼんとしているのに対し、江青は、背筋をぴんと伸ばし「私は国家のためを思って、誠心誠意、働いてきたのに、こんな仕打ちにあうのは断じて認めない。主席夫人が、こんな裁判などにかけられることがあってはならない。」などと叫び、壇上の裁判官を傲然と睨みつけていた。
3.
 そのテレビを見た翌日、一人の初老の男が、私の事務所の戸を叩いた。品のよさそうな、いかにも教育を受けたことのあるという感じであった。中肉中背で50代半ばころと見受けた。彼が言うには、先日テニスコートに日本人らしき私を見つけたので、受付の人にどこの誰かと聞いて、尋ねてきたのだとのこと。「戦前の天津鐘紡に友人がいて、同じテニス仲間であった私の会社の先輩ともテニスをした」という。「文化大革命で、すべての財産は没収され、姉と二人で生きてゆくだけの、ぎりぎりの狭い部屋に押し込められてきた。その姉も逝ってしまったので、ビザが取れしだい、香港にいる親戚を頼って移住する予定だ」という。「それまで良ければ、週末、彼の所属する「天津テニスクラブ」に遊びに来てくれ、友人たちを紹介するから」と言う。
戦前、イギリス人たちが「ブリティシュ クラブ」なるものを、世界各地の港湾都市に作っていた。香港やシンガポール、上海、横浜などにもその俤が残っている。天津にもそれほど規模は大きくないが、室内プールとテニスコートがその記念(かたみ)として残っていた。それで週末になると、そのコートに出かけて、初老の人たちとテニスをして仲良くなった。彼の仲間は戦前に始めた人たちで、外国人との接触も多く、「大公報」の記者をしていたとか、国際的な人たちが多かった。
 だいぶ親しくなったころ、彼は自分の生い立ちを語り始めた。「実は私の家は広東出身のコンプラドールで、百年ほど前に、天津に支店を出すというので、こちらに移ってきたものだ。私の会社とも取引があって、Shipping Invoice
名前があるのを見たことを覚えている。今は、昔の住まいの離れの一角に住んでいるが、一度食事に誘うから、家族3人で来てくれ」という。
妻に相談したら、子供がまだ小さいので、迷惑をかけるから、遠慮したいというので、私ひとりで出かけた。所番地をたよりに、タクシーで彼の家の近くまでたどりついた。
番地は広東路某番地余、と余の字がつく。「本体の番地は数家族用の住まいとして、人々の手に渡ってしまい、私の住んでいる離れは「余」を付けているのよ」と彼は笑って話した。離れといえども、家のレンガは普通のものの3倍くらい大きくて、たいそう頑丈なのが彼の自慢であった。万里の長城のレンガのような印象を受けたので、そう言うと、「これは清朝時代の天津の城壁を取り壊したときのレンガなのよ。それを貰い受けて造ったものさ」という。李鴻章や袁世凱が北京から汽車に乗って、天津駅頭に降り立つ映画で見たシーンが思い浮かんだ。義和団の乱や辛亥革命を見てきた城壁のレンガを触ってみた。暖かな手ざわりがした。「牢から開放された後、この離れに住んで、姉と一緒に暮らしてきたが、とうとうその姉もいなくなってしまったので、一人暮らしは耐えられそうも無い。だから香港のジャーディンマセソン社に親戚がいるので、それを頼りにビザを申請しているところさ」という。「四人組が逮捕され、この部屋に戻ってきた。まだいつ又何がおこるか心配だったが、私の会社のような外国の商社の支店ができて、家族も一緒に滞在できるようにまでなったのだから、もう二度と元に戻るようなことにはならないだろう」と自信に満ちた言葉で語った。
 そうした生活を半年ほど続けた後、私たちが帰国することになったというと、彼は泣き出さんばかりに悲しんだ。せっかく仲良くなれたのに、私たちが去ってしまうと、又ひとりぼっちになってしまうのだ。友情の記念にと、私たちの出発の前日、子供への土産と、お腹の大きく張り出した布袋さんのような弥勒仏の置物を抱えてきた。日本の住所を教えてくれというので、自宅の住所を書いて渡した。「香港に移住できたら、是非とも日本に遊びに行きたい」と別れを惜しんでくれた。その後、半年ほどして、彼からの手紙が届いた。香港への移住がかなって、昔の縁でジャーディン社の顧問として、生活の場を得て、若い頃やっていたShipping関係の仕事をみていると書いてきた。最後に、香港に来ることがあったら、是非連絡してくれと。
4.
 香港には広州交易会に参加するとき、立ち寄る機会があったが、空港からそのまま広州に直行という忙しいスケジュールの中で、彼のところに尋ねてゆく時間はなかった。暫くして私は北京に転勤となった。私は北京から彼宛に手紙を出したが、返事は返ってこなかった。体調でも崩して、会社を休んでいるのだろうか。或いは日本へは気軽に出せる手紙も、北京へとなると、万一昔のような理不尽なやり方が再発して、私に変な嫌疑がかかるかもしれないと心配して、手紙を書くのをためらったのかもしれない。当時は手紙が開封されることは常識だったから。
 それから暫く後、仕事の関係で、ジャーディン社の北京事務所があることを知った。ジャーディン社の中国における活動に興味が湧いてきた。いろいろな本を読んでゆくうち、キーワードは茶とアヘンだと分かってきた。
 今でこそ、アヘンは禁止され、商取引の対象にはなっていないが、ジャーディン社が香港、広東で活躍していたころは、れっきとした貿易品目として扱われていた。大航海時代以来、冒険者たちの最大の目的は、一儲けして財産をなすことであった。だが、誰しもが簡単にひと財産を残せるほど、容易ではなかった。
ヴァスコダガマのように大量の胡椒を無事ヨーロッパまで持ち帰ることができれば、莫大な稼ぎとなった。胡椒の次に茶が登場する。新茶を一番早くヨーロッパに持ち帰れば、その帆船は英雄扱いされた。南中国からイギリスの港まで、何日で着けるか、航海日数の短縮競争が起こった。Tea Clipperとして有名なカティサークの出番であった。その茶の代金の支払いに大量の銀が中国に払われたが、中国がイギリスから買うものは何も無い。21世紀の今日の、米ドルが一方的に中国の外貨保有高を押し上げるだけで、中国は米国から買うものは、あまりないのと似ている。そこで、イギリスはその銀を取り戻すため、インドで栽培したアヘンを売り込んだ。ジャーディン社関係の本の中に、アヘン取引での収益が最大であった、という記述を見て、愕然とした。
 吸引者を廃人にしてしまうアヘンで、財をなしたというのは許せないと感じた。それまでの印象では、アヘンは広東など南方中心で、北方は比較的その害に毒されていないと錯覚していた。実は中国全土に広まっていて、遥か遼東半島の金州あたりまでアヘン窟がいっぱいでき、中毒患者が増え、全中国を蝕んだ。金州の博物館に、長いキセルを手に、ほとんど死んだような目をした常習者の写真が何枚も展示されている。
 今日から見れば、唾棄すべきアヘン貿易も、ジャーディンとパートナーのマセソンたちの議会への働きかけで、イギリス政府のお墨付きの下に、堂々と営まれてきた。
 それが、林則徐により禁止され焼却されたため、アヘンを没収されたジャーディン社を含む貿易商たちは、その賠償を求めて、本国政府を説得して、大艦隊を中国に遠征せしめた。英国議会でも賛否両論、激しい論戦となった。当時は、ごろつきたちと見下されていたアヘン貿易商の賠償のために、栄光の帝国艦隊を極東にまで派遣すべきではない。非人道的なアヘン貿易のためなどとは、言語道断だと、良識ある議会人は反対した。しかし、マンチェスターの産業界の支持を得て、自らも議員となっていたマセソンなどの活動により、さらには英女王の取り巻き立ちの、清との貿易から得られる莫大な利益のためにという貪欲さが合致した結果、艦隊派遣となった。イラク戦争が石油のための戦争といわれる如く、この戦争はアヘン戦争と呼ばれ、大英帝国に不名誉な名を残す戦争となった。この戦争の引き金を引く中核的な役割を担ったのが、ジャーディン社と知ったときは本当に驚いた。
 当時、英国は中国からの茶に高額の関税を課して、財政をまかなっていた。その茶の代金として銀の代わりに、アヘンを使ったのだが、もし英国が財政的に、茶に関税など課す必要がないほど余裕があって、なお且つ貪欲でなく、そしてもし、植民地アメリカに対しても茶税などを課すようなことをしなければ、
例の有名なボストン茶会事件は起こらなかったであろう。そしてアメリカ独立戦争はもう少し遅くなったであろう。茶という嗜好品をめぐって、アメリカが独立し、アヘン戦争が起こった。
5.
 当時のイギリスはアメリカ産の綿花を原料に、マンチェスターで綿織物としてインドに輸出した。その結果インドの土着綿業を破壊してしまったほどだ。その一方で中国産の茶を大量に仕入れたイギリスは、その見返りとして織物などの売り込みを試みたが、うまくゆかなかった。
「地大物博」と豪語していた清は、外国が求めてきた物品を分け与えてやるという態度で、その支払いには金銀銅などの貴金属貨幣を要求した。イギリスも茶の代金として大量の銀を払い続けた結果、巨大な貿易赤字を抱えてしまった。何らかの手段でこの穴埋めをしなければならない。片貿易は必ず破綻する。
一方だけが、金銀などを貯め込むと、貿易摩擦が生じ、挙句の果ては戦争になる。片貿易が起こったら、双方が真剣に協議を重ね、解決策を見出さないと大変なことになる。これが平等互恵のルールである。しかし今から170年ほど前には、そんな智恵は働かず、武力に訴えることとなってしまった。朝貢貿易しか認めない清国に対して、英国は物乞いのような取引は屈辱的だとし、貴重な銀の大量流出に耐えられなくなった。そこで、一攫千金を狙って、極東にまで出張っていた冒険的商会のボスたちにインド産のアヘンを渡し、これを清に売り込んで、それまで払い続けてきた銀を取り戻そうとした。その商会のボスたちの頭目的存在がジャーディンであった。
 アングロサクソン魂というのは、おそろしいほどの私欲の発露たる商魂の塊である。イラク戦争、パレスチナ紛争など、その源をたどれば、このアングロサクソンの私欲に発している。貪欲な商魂のすさまじき発露である。富や資源を求めて、あらゆる手段を駆使して、その目的を達成するのが、ゲームのように楽しく感ずるのであろうか。先の大戦でも、ユダヤ人を虐殺したことを大きく報道し、ユダヤ人の支持とその富を取り込むために、アラビア半島の土地を、
パレスチナ人からユダヤ人に分け与えるという約束をして、ドイツを屠った。
日本軍の頑固な抵抗で、さらに多くの米国兵が犠牲になるのを防ぐため、サハリン、千島などを分け与える約束で、ソ連に対日攻撃を承諾させた。
6.
 数年前、中国に返還後の香港を訪れた。返還直前にも訪れたのだが、その時、現地の人から聞いた話が、実によくこの魂を表していると思う。アヘン戦争後、植民地にしてから160年の間に蓄えた膨大な財産がある。これをそのまま中国に渡してなるものかと、空港や鉄道、橋梁など次々と巨大な土木工事を行い、それらの元請をすべて英国系の会社に発注した。香港政庁の金庫が、空になるまで使い切った。その上前は、いうまでもなく、イギリス政府に戻ってくる仕掛けだ。
 今回、返還から数年経って、落ち着いてきた香港島の中国銀行のビルを眺めながら、公園を散歩していたら、その一角に「茶の博物館」という案内板が目にとまった。古い格式ある建物を利用したもので、入場券をと尋ねたら、無料ですとの答え。二階には、数百年前に中国各地で作られた、素晴らしい姿形の骨董の茶器が展示されていた。説明書によると、かつて英国人総督の邸宅を、茶の博物館として公開し、香港の好事家たちが蒐集した茶器を一堂に集めたそうだ。アヘン戦争の結果、割譲させられた香港が祖国に戻ってきた。アヘン戦争といわれるが、その底は茶のための戦争でもあった。現代の香港の繁栄は、元をただせば、茶によって始まったといえる。茶の取引が始まり、銀が払われ、それが底をついて、アヘンで代替されて起こった戦争。その戦利品としてイギリスに割譲された香港。最後の総督パッテンが英海軍基地から乗船して香港を去って行ったとき、いかほどの財を持ち出したかは知らない。しかし、その邸宅は持ち出せなかった。それを茶の博物館にしたとは、なんと面白い意趣返しかと、感心した。
7.
天津にも上海と同様、列強が競って作った租界の跡がある。フランス人は、モントリオールに見るような、美しい塔の印象的なカトリック教会を建てた。唐山地震にも倒れず、冬の夕暮れには美しいシルエットで、仕事に疲れた私を慰めてくれた。
イギリス人は、ホテルや競馬場、そしてブリティシュ クラブという娯楽場を造った。戦後数十年経ても、そうした歴史的建物は壊されずに残っている。面白い対照である。英仏が競って植民したカナダの諸都市を始め、上海や天津など、両国人の残したものは、永い年月を経てその民族性を示してくれる。フランス人の住んでいた町には、カトリック教会の尖塔が聳え、イギリス人の方は、酒を飲みながらカードやビリヤードで遊ぶクラブや競馬場、そしてゴルフ場さえも残している。そんなことを感じながら、夕食に間に合うようにホテルに戻った。約束の時間までまだ20分ほどあったので、ロビーの売店を冷やかしていた。ひさかたの天津なので、なにか記念になるような土産はと探していると、「近代天津十大買弁」という本が平積みされていた。買弁とは確か二十数年前、彼から身の上話を聞いたときの「コンプラドール」のことだったなと、
思い至った。表紙の丸囲いの写真の右には、梁炎卿とある。ひょっとして、ひょっとすると、この写真の主は、私の知っている梁さんの祖父か父親ではないかと直感した。顔のつくりというか、輪郭のかもし出す雰囲気が似ている。白い美髯を蓄え、ふっくらとした頬の横に長い耳をもち、清朝時代の肖像画に良く描かれている、典型的な広東商人のイメージだ。アヘン戦争の映画に登場する、広東十三行の頭目たちの風貌である。早速買い求めて中をめくってみた。
しかし約束の時間が迫ってきたので、それを部屋に置きに帰った。
8.
 天津の人たちとの会食は、海河の畔の「飲茶」の店で、好みの点心を肴に
紹興酒をごちそうになった。私が唐山地震の後の復興の時期に、この街に住んでいたという話題になった。彼等もそのころの生活を思い出してか、今日では想像すらできないほど、人々の暮らしの大変だったことが語られた。天津から秦皇島に向かう鉄道の線路際には、途切れることなく、地震でなくなった人々の土饅頭が並んでいた。「十何万もの人が犠牲になったので、こうするほかには葬送の手段が無かった」という。
 最近ようやく、トヨタなど世界的な大企業が進出してきて、天津の市内も活況を呈してきた。上海のような派手さはないが、着実に製造業が基盤を固めつつある。そんな話をして、友誼を確かめ合い、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、早速先ほどの本を読み始めた。読みすすめてゆくうち、表紙の写真は、私の梁さんの父親だと分かった。「1872年、20歳のとき先輩の唐景星に随って、上海のジャーディンの練習生となり、その後天津に転勤、1938年に亡くなるまで、60年以上の長きにわたり、ジャーディンの買弁として活動した」とある。
 その本に依れば、ジャーディンは1840年代のアヘン戦争前後に、大変な財をなし、今日の大銀行、香港上海銀行の設立にも、中核的な役割を果たした、英国の商社である。今でも香港を中心に世界各地で活躍している。梁さんの父は、そのジャーディン社に手腕を買われて、同社天津支店の買弁として活躍した。堪能な英語を駆使し、大変な商才を発揮した。その結果、ジャーディン社の買弁の総元締め、House Compradorとなった。義和団事件のあった1900年を挟み、第一次世界大戦前後には、梁さんの父は、英国資本と清朝の官民企業との間の仲介者として、大活躍した。当時の商取引はほとんど「つけ」で行われた。端午の節句、夏の中元、大晦日の3回に勘定を払った。
江戸時代の日本でもそうであったように、侍や商人は年に2回、或いは3回しか代金を払わないのが、東方の習慣であった。しかし、英国商社のジャーディンは毎月決済を主張して譲らない。そこで買弁たちは、その間に介在して、
清国商人たちの不払いリスクの見返りとして、高率の口銭を取って収益を拡大した、などと記されている。
9.
 この本の著者、劉海岩氏は買弁たちが、どのようにして莫大な利益をあげたかを、詳細に記している。値上がりしそうな商品は、市場の動向をよく見極めながら、大量に買い出動する。土地や建物も将来の値上がりを見込んで、優良物件を片端から買いに出る。古来、中国の商人は、手にした金で、産業を興すというよりは、商品や土地建物を仕入れて、その売買で稼ぐという方面で、商才を発揮してきた伝統がある。21世紀の今日でも、商才に長けた人たちは、額に汗して、ものづくりに励むよりも、その方がスマートで格好良いし、手っ取り早いと考えている節が見られる。
 劉氏は、これもあれもなんでもやった、と言う具合に買弁たちの手口を記述する。船荷証券の数量と、税関用の書類の数量を自分の都合の良いように書き換えるのは、朝飯前。運賃請求用の重量も、単位が替わるごとに数字を変換して、利ざやを稼ぐ。12進法と中国の旧式の重量単位との変換で、当時の算盤は、買弁たちの手元に、お金が沢山残るような仕組みになっていたと記す。
 買弁としての梁家のことを非難しつつも、筆者は梁家が、第一次大戦中は、中国の商品を大量に輸出して祖国に富をもたらしたと記す。その過程で、大いに資本を蓄積し、土地建物に投資して、大変な財を成したとする。どうしてこんなに莫大な財産を築けたか。「彼は生涯、ジャーディンというイギリス商社のために忠実に働き、勤勉倹約に努め、投資するときも、リスクを排除し、無謀な投資は一切せず、ただひたすら蓄財に励んだからだ」と著者は言う。
 時勢に会った良きパートナーに恵まれたということ。それはジャーディンにとっても同じで、外国に出向いて、成功するか否かの鍵は、現地のパートナーの良し悪しにかかっているとは、よく言われることだ。
 ほかの買弁のように、官と結託して政商として活動したり、官位を買うなどということをしなかった。戦争で負けることの無かった英国商社の代理人となったことも、成功の基盤であった。
 日本にも明治維新後、たくさんの外国商館ができ、今日でも長崎、神戸、横浜などに多くの建物が残っている。しかし、殆どが小規模なままで、その後、民族系商社に敗れて、多くは消滅してしまった。日本でも、外国商館のために働く買弁は多くいた。しかし、明治政府の富国強兵政策のもと、自前の商社、石炭鉱山の開発、商船会社などを興し、外国商館を駆逐した。そうした外国商館も、商売規模の小さい日本を見限って、清国の上海、天津などに移っていった。日本に上海や天津のような欧米人が、勝手に振舞える租界が無かったことも幸いした。
10.
 梁家と比較の意味で、この本にあるドイツ商社の買弁であった、王銘に触れてみる。梁氏と同時代に活躍した王氏は、北京の官界に入り込み、政商として一世を風靡した。しかし、ドイツの敗北によって破綻してしまう。時の実力者、李鴻章が天津で洋務を弁じるとして、軍需産業を興したとき、ドイツ泰来商会の買弁として、李に取り入って、魚雷艇や銃砲を買い付け、その後の北洋海軍の基礎を築いた。今もアモイの要塞跡に一門残っている、世界最長の砲身を持つクルップの大砲を買い付けた。イギリスの軍艦を仮想的としている以上、その防御のために、イギリスから大砲を買うわけにはゆかない。中国の古い物語にあるように、「汝の矛で、その盾を破ってみよ」である。イギリスが、清国に自国の艦艇を撃沈できるような大砲を売ってくれるはずがない。ちなみに、日本の明治の大砲といわれるものは、英国のアームストロング社のもので、日本製鋼所が技術導入して、自前で製造できるまでにした。
 明治の初期に、不平等条約改定の前交渉のために、欧米各国を回覧した岩倉具視たちの記録「米欧回覧実記」には、彼等が訪問先でいかに歓待を受けたかが実によく描けている。彼等は訪問先で、立派な装束で歓迎式に臨み、旅行費用は日本から持参した小粒の金できちっと払っている。受け入れ先の企業は、
蒸気機関車や大砲、軍艦など、明治日本が米欧などから大量に買い付けた実績と将来きっと上得意になると期待されたのであろう。しかも金払いがしっかりしていた。このあたりが、武士の魂がまだ健全であった日本の救いであった。野蛮な土地からきたと聞かされてきた割には、服装も整っており、眼光も鋭いものがある、と米国の新聞は報じている。
 さて、話を李鴻章に戻す。クルップの工場で大砲の操作を習得中の清国兵の
研修風景を視察している彼の写真が、最近クルップの書庫で見つかり、きれいに表装されて、アモイの大砲の説明書の横に展示されている。ロシアのニコライ二世の戴冠式に、彼でなければならないと、ロシア側から逆指名され、老体に鞭打つ形で、ペテルブルグ入りした李鴻章は、その後ドイツ各地の武器工廠を視察した。ドイツのメーカーにとっては将来有望な重要顧客として、下にも置かぬ大歓待をしたことであろう。李鴻章はロシア、ドイツなどを訪問して帰国したのだが、このとき、ロシアと密約を交わし、満州鉄道の敷設権を与えたりして、相当額のルーブルを得たと非難を浴びていたので、クルップとしても、せっかく撮影した写真を送るのを躊躇したのであろうか。それが、最近のフォルクスワーゲンの事業や、上海のリニアカーなどのプロジェクトなどが沢山実現して、ドイツと中国の関係が好転しており、李鴻章に対する評価も、残照の清国の最後の宰相として、愛国者でもあったとの評価も出てきており、アモイの要塞に格好の記念物として古証文の写真が、書庫から取り出されて、日の目を見たのであろう。
 余談だが、先年中国のテレビで放映された「共和への道」という連続ドラマで、日清戦争の黄海会戦で敗れるべくして敗れた清国海軍の、悲惨且つとんでもない挿話が紹介されている。皇帝の観閲式に、欧州から買い付けた最新鋭の軍艦から放った砲弾が、的として沖に浮かべた老朽船にいっかな命中しない。あろうことか、このことあるのを恐れていた海軍司令官は、老船に忍び込ませておいた水兵に自爆を命じた。なんとも言いようの無い惨状である。このドラマでは、明治天皇が国民とひもじさを共有せんと、広島の本営で、昼食は硬い握り飯一個で済ませているのに対比して、紫禁城では連日、贅沢な満漢全席を
供させて、箸も付けずに浪費している西太后や皇帝らを映し出している。
 李鴻章にとっては、そんな皇帝であっても忠義を尽くそうとしている。その忠義を果たすためには、軍隊が必要であり、莫大な金が必要であることは何時の時代も同じである。王は、李鴻章の腹心、財布係として資金調達で大変重要な役を果たした。
11.
 その李鴻章のことである。日清戦争の講和交渉に、これもそんな役割など誰も引き受け手がないので、請われてやむなく全権代表として下関に向かった。春帆楼での講和談判の卓に並んだ人物の絵でみると、辮髪を蓄えた李は、大変な寒がりとみえて、彼の隣には火鉢が置いてある。
 2億テールという賠償金の交渉に当たっても、最後の最後になっても、帰国の路銀の足しにいささかでもまけてくれぬかと、伊藤博文に頼んでいる。演出者のシナリオの行間には、それをも彼は私せんとしているような印象を残す。
 台湾や遼東半島まで割譲させられて、帰国後は売国奴として国民から一斉に非難を浴びた。しかし、その後自ら独仏露三国に働きかけて、清朝の故地である遼東半島を取り戻すことに成功した。この時、英国は日本が清朝に外国企業が清国内で工業を興すことができることを認めさせ、自動的に英国がその特恵を享受できるようになったことなどから、日本を重宝し始めていたので、三国干渉には加わらなかった。
 日本の歴史教科書のこの辺の記述は、日本はせっかく手に入れた遼東半島を、
三国干渉により、ロシアに奪われた。憎きロシア! いつの日か,仇を討たんと臥薪嘗胆を唱えた。これが10年後の日露戦争への導火線となるのだ。
 清にとっては、台湾くらいまでは耐えられるが、満州族の故地まで、弟のような存在にすぎなかった小国日本に取られるのは、大変な屈辱であった。この辺の認識が、当時の日本人は理解できていなかったのであろう。爪を伸ばしすぎたとも言えよう。
 日本から取り戻した遼東も、不凍港の欲しいロシアにすぐ租借させている。これは、「夷を持って夷を制す」という李鴻章の思惑から出ている。下関での屈辱を晴らすには、ロシアをして日本に当たらせるのが一番良いと考えた。日本とロシアは早晩、矛を交えることになったであろうが、その触媒役をつとめたのが、李鴻章であった。その李とロシアの間で、実務的なことがらを取り持ったのが、買弁であった。ロシアの方も、日清戦争後、李との接触を強めた。1896年には、清とロシアの政府間の合弁銀行「道勝銀行」を設立し、天津に支店を開いた。外資系銀行として始めて紙幣発行や、塩税、国税などの徴収を認可され、その見返りに、清の親王たちや高官たちの便宜をはかり、清朝御用達銀行として、莫大な資金を運用している。そこに預けた財産保全の為に、李鴻章は腹心の王銘槐を、この銀行の買弁として送り込んでいるのだ。
 李の評価は、最近はいささか修正され、彼の伝記なども、何冊かの本が出版されている。かつての国賊扱いから、西洋列強から祖国を守ろうとして、倒れかけていた清朝をなんとか支えんとして、心血を注いで、苦心した人物として描かれることもでてきた。それは相対的なものではあるが、それまでの腐敗しきった官僚たちに比べれば、の話ではある。国防のために、軍需工場を造り、艦隊を建造し、軍隊を整えたというに過ぎない。それまでイギリスから買っていた武器を、ドイツに切り替えた。背景には支払った代金の一部を還流させる目的もあった。後発のドイツメーカーの方が、そうした方面に融通がきいた。そうした目論見から、買弁を使って、大量の兵器を買い付ける。買弁から還流させた資金は、自分の子飼いの軍隊の軍資金として自在に使える。王はこうした役割をつとめ、当時最大の政商に登りつめた。そして破綻する。まるでつい最近の守屋事務次官と山田洋行の宮崎某の関係のようである。
スケールの大きさで言えば、象と蟻ほど、月とスッポンほどの差があるが。
ちなみに、上海事変で、蒋介石の国民党軍はドイツ製の精鋭な武器で日本軍と対峙した。この英国製ではなくドイツのという伝統は李鴻章以来のものといえよう。
12.
 梁さんは、父炎卿と妻妾4人との間に生まれた15人の内の末子らしい。父親は倹約家で、周囲からは「吝嗇(けち)」と、仇名されていた。口癖は「一銭、
一銭貯めることが、金持ちになる道」であった。一方、子弟の教育費は、惜しまなかった。他の南方系中国人と同じく、彼の家系も多産系で、且つ長期に亘って子をなした。
 余談だが、私がシンガポールの南洋大学にいたころ、下宿していた張さん一家は、やはり広東出身で、祖父の代にインド洋のセーシェルに渡り、そこで育った彼は、勉学のために親戚を頼ってシンガポールにやって来た。そこで本屋の見習いをした。その後、一般書の販売から、教科書の販売まで扱うようになり、戦後は印刷も始めた。9人の子供を育て、炊事洗濯に二人の使用人を使い、子供たちは2人一部屋とか3人一部屋で生活させ、離れの2部屋を外国人に貸していた。私たちの前にはインドネシアから来た学生に貸していた。これは、自らがセーシェルから勉学にきた時の経験から来ているものであった。又、子供たちに外国人との交流に慣れさせようとするものでもあったろう。
母屋の食堂には、8人掛けの円卓があり、私も週末などに呼ばれては、親戚やその配偶者などと一緒に家庭料理を食べさせてもらった。高菜と豚の角煮、白菜と蝦の炒めたのなど、素朴なおかずでご飯を御代わりした。8人が食べ終わると、次の8人が座る。食べ終わった人が私を誘って、彼らの部屋でおしゃべりし、カードなどで遊んだ。2段ベッドの部屋で、お金は一杯あるのに、子供の教育は自分が育ってきた多産系の南方人のやり方で、集団で生活させて、お互いの生活の智恵を伝授し、共有させていたのだと今になって感心している。
 長男が結婚するというので、私たちに貸していた離れを新婚用に改装することになった。それで、母家の一部屋を空けるので、そこに住んでくれという。それで残る半年ほどを、中学生の子供たちと隣室になった。夕食前に、サッカーゴールにシュートとか、バドミントンなどして仲良くなった。
 清明節に、張氏の会館で先祖を祭る儀式に誘われた。生贄の山羊が丸ごと供えられ、海外に住む華僑たちの風習をよく見ていってくれと、礼拝の仕方などを教わった。
 大家族の伝統であろう。子供の頃は一つの部屋で、けんかしながら暮らしてこそ、成人してからも兄弟の絆を忘れないのだ。小遣いは一切与えず、質素に暮らさせる。大人になったら親の仕事を受け継いで、事業を大きくする。これが海外に出た華人たちの成功の礎である。広東から天津にやってきた梁さん一家にも、同じ伝統が脈打っている。
13.
 さて、私の梁さんには1878年生まれの長兄がいた。コーネル大学とマサチュセッツ農科大学に学び、1912年、民国初期の唐紹儀内閣のときに、農務次官を務めた。が、唐内閣の退陣により天津に戻り、父の後を継いだ。彼は農場を買って経営しようとしたが、それにも失敗した、云々と記述の後、突然、梁文奎の文字が目に飛び込んできた。「ややや、これはまさしく彼のことではないか。」
 長男は1930年代、頻繁に起こった身代金目的の誘拐事件の犠牲となった。身代金は払ったのだが、当人は死体となって送り返されてきた。それで次男が継いだ。しかし彼も父親のような商才はなく、梁家の前途にかげりが出てきた。
 実質的には、父親の亡くなった1938年に19世紀以来の古いコンプラドールの時代は終わった。その後、戦争で日本の占領が全てを変えてしまった。
 1945年に日本が敗れると、ジャーディンも戻ってきた。彼等が新しいコンプラドールに任じたのが、私の知っている梁さんなのだ。父親が生前、ジャーディンの幹部に、自分が死んだら、彼を後継にしてくれと頼んだのだそうだ。戦後すぐ、学校を卒業したばかりの彼が、四代目の買弁となった。この頃は、戦前のような仕組みはなくなり、代払いなどもなくなって収益は減ったが、高額な給与制となり、彼は1952年にジャーディンが天津から撤退するまで、
船舶部遠洋航海部門の経理を兼任した。
 その後は、前に書いたとおり、政治運動の荒波に巻き込まれ、離れの一角に
軟禁状態のような形で、お姉さんと暮らしてきた。四人組が逮捕され、冤罪で牢に繋がれていた人たちが、名誉を回復し、彼の軟禁も解かれた。新中国になってから30年。さまざまな荒波が何回も彼を飲み込み、海の底へひきずりこまれてしまった。片時も離れずに暮らしてきた姉が亡くなってしまったので、親類のいる南方に戻ろうと決意したという。アヘン戦争から始まった西洋の衝撃を、コンプラドール、買弁という役割を演じながら、受け止めてきた梁さんの一族の物語を知ったことで、それまで歴史の教科書でしかしらなかった、アヘン戦争以後の中国近代史が、身近なものとして私の心に重く残った。
   (2008320日)2010.8.23.訂正 
 
 
 
 
 

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ふと思い到って五、六

五.
 私は早く生まれ過ぎた。康有為たちが「公車上書」(日清戦争後、1895年に和平条約を締結したが、当時康有為たちが北京で会試という最終試験中で、全国から選抜された挙人という省試験合格者、1,200余人が、光緒帝に“和平調印拒否、遷都、変法”を要求)を出した時、もういい年齢になっていた。政変の後、親類の年長者が私に諭して、康有為は王位簒奪しようとしており、だから名を有為と言うのだ、と言う。
“有”は“富は天下に有り”“為”は“貴いこと天子に為る”也と。不軌(条理に会わぬこと)を謀っているに相違ない?と。私は本当にその通りと思った。とんでもない奴だ、と。
 年長者の訓戒は私にかくも大きな影響を与えた。私は読書人家庭の教育を遵守した。息をひそめ、頭を低くし、決して軽挙妄動しない。年長者の前では、目はうつぶせにする。上を向くのは傲慢で、顔はまるで死相みたいに神妙にし、口応えしたり笑ったりするのは、不作法とされた。私は確かにそうすべきとは思いながらも、心中では少し反抗心が芽生えていた。心の中での反抗はなんら罪とはみなされていなかった。思想犯を罰する法律は、現在ほど厳しくはなかったようだ。
 だがこの心の反抗も、やはり大人たちがそうさせたようで、彼らは、自分たちはいつも好き勝手に、大いにしゃべり笑っていながら、子供にだけ禁じていたのだ。民は秦の始皇帝の威勢のよさを見て、反旗をあげた項羽は「彼、取って代わるべし!」と言った。頭角を現す前の劉邦は「大丈夫はこうでなきゃ」と。私も頭角を出す前の口だが、彼らが好き勝手にしゃべるのが羨ましく、一刻も早く大人になりたかった。もちろんそれ以外に別の要因もあったが、大丈夫はこうでなきゃというのは、ただ死んだようにおとなしいふりをしていたくないというだけで、欲望は彼ら二人のように大きくなかった。
 今私は大人になって、これはどんな論理を持ってきても誰も否定できない。私は死んだような仮面を棄て、大いに談じ笑い始めたが、不意に真面目な人たちの釘に打たれ、彼らを“失望”させたと詰られた。私も昔は老人の世界で、現在は青年の世界だということは知っている。だが、治世者が異なっても、言動や笑いを禁じるのは奇しくも同じだ。それで私は死んだふりを続けねばならず、死して後やむのか? 何と痛ましいことよ!
 私は一方で生まれたのが遅すぎたと恨む。二十年早く生まれていたら、大人が好き勝手にしゃべり笑えた時代に間に会っただろうか。私は生まれた時が実に悪かった。呪詛すべき時、呪詛すべき場所で生きているのだ。
 J.S.Millは言った。専制は人を冷嘲させる。我々は天下太平で冷嘲者すらいない。思うに、暴君の専制は人を冷嘲させるが、愚者の専制は人を死んだようにさせるのだ。人はだんだん死んでゆくが、自分はそれは却って道を守るのに有効だと思う。こうしてこそ、初めてまっとうな人間に近づくのだ。
 世に、もしまっとうに生きてゆこうとしている人がいるなら、第一に思い切って発言し、思うさま笑い、好きなだけ泣き、あえて怒り、自在に罵り、なんでも思い切りやることだ。
この呪詛すべき所、呪詛すべき時代を撃退しよう!
                  四月十四日
六.
 外国の考古学者が続々とやって来る。
 中国の学者たちも口々に“古物保存”を唱えて久しい。
 だが、革新できない人間は古物保存もできない。だから外国の考古学者が続々と来ることになるのだ。長城は廃物となって久しい。弱水(伝説上の川で、鴻毛も浮くことを得ず、誰も渡れぬので、外敵は侵入できないという:出版社注)も空想に過ぎない。老大国の国民はことごとく硬直な伝統の中に埋もれ、変革を肯んぜず、一片の精力も無いほど衰え、更には互いに殺し合っている。それゆえ、外部からの新生軍はいとも容易に進入してきた。
真に“それは今に始まったことではなく、昔からこうであった”彼ら外国の歴史はもちろん我々のように古くは無い。
 しかし我々の古物保存は難しい。なぜなら土地が危険で、安全でないから。土地を他人に与えてしまったら、“国宝”がいかに多くとも、陳列する場所も無いと思う。だが古物保存家は革新を罵り、古物保存に懸命で、ガラス板で宋版の書を印刷し、一部数十元、数百元で、(これを読めば)“涅槃へ行ける”“涅槃へ””涅槃へ“と売り出した。仏教は漢代に伝来したが、その古色古香をなんとせん。古書や金石を買い集め、古代文化を研究する愛国の士は、粗略な考証をし、大急ぎで目録を刷り、すぐ学者になったり、高尚な人間となる。そして外国人が手に入れる骨董は、いつもこの高尚な人の高尚な袖の下から、清風と共に流出する。そうでないと言うなら、帰安(今の呉興)の陸氏の宋版の蔵書や、濰県(今の濰坊)の陳氏の古代楽器は、その子孫の手で保存できているだろうか?(両者とも日本の好事家に売られた:出版社注)
 今外国の考古学者が続々とやって来た。彼らの活動は余力があり、考古の名目で単に考古するだけなら可とすべきだが、同好の士を援助し、古物保存をしようとすると、これは大変なことだ。一部の外国人は中国が永遠に一大骨董品であり続け、彼らに賞翫を供してくれるのを望んでいる。これは憎むべきだが、奇とすることはできない。彼らはひっきょう外国人だから。しかし中国はついに、自分だけでなく、青年や赤子まで引き連れて、ともに一大骨董品となり、彼らの賞翫物になろうとしている。どんな心臓の持ち主なのか、まったく理解しがたい。
 中国は儒教の経典を読むのを廃止したが、儒教の学校はまだ腐儒を師として迎え、学生に“四書”を教えているではないか。民国は跪拝を廃止したが、(上海にできた)ユダヤ学校ではまだ遺老(清末の学者、王国維を指す:出版社注)を教師にし、学生に頭を地に付け、寿を拝す儀礼をさせているではないか。外国人が中国人向けに発行する新聞は、五四運動以来の小改革に最も反対したではないか。そして外国人の編集長は中国人執筆者に、道学(即理学、朱子などの儒教思想で“天理を存し、人欲を滅せ”と主張:出版社注)を崇拝し、国粋を保存せよ!と言っているではないか。
 だが、何がどうであれ、革新しないなら生存すら困難になる。現状が鉄の証で、古物保存家の万言の書より数倍も有力である。
 我々の目下の急務は、一に生存、二に衣食、三に発展だ。いやしくもこの前途を阻むものは、古い物も、今の物も、人であれ鬼であれ、「三墳」「五典」(三皇五帝の遺書)、百宋千元の古書、天球河図のような美しい玉や図、金人玉仏、祖伝の丸薬散薬、秘製膏丹などすべてを踏み倒して進むことだ。
 古物保存家は古書を読んでいるだろう。“林回(人名)は千金の璧を棄てて、赤子を負うて走った”の譬えは、禽獣の行為とは言えない、とは正にそのとおりである。
では、赤子を棄てて千金の璧を抱くとは、一体全体なんなのだ?
    四月十八日
訳者あとがき:
1.過激な古物保存家攻撃。赤子を取るか千金の璧をとるか?
千金の璧を大切に保存せよ、という裏では、外国人に勝手に売り飛ばして儲けている
古物保存家。さらに悪いのは青年、赤子を自分の思うままに押し付けて改革を阻止しようとする考えに凝り固まった儒教体制への徹底攻撃の宣言である。
2.近年、中国各地の書店に平積みされたおびただしい量の儒教関連の書物。特に目に
つくのは、きれいな装丁と挿し絵がふんだんに入った、児童向けの清朝時代に隆盛を
極めた儒教関連の暗唱用の語録「三字経」とか「千字文」、子供向けの「論語」等。
3.さすがにもう儒教の学校はなくなったし、魯迅が糾弾している腐儒は姿を消した。
だが、テレビ放送の中で、「論語」とか「国学」などの講義が始められ視聴率の高さを誇っていた。願わくは、魯迅の攻撃した「人をがんじがらめに縛りつけてしまうような体制」に後戻りする方向で、論語が利用されないことを!
私は魯迅も引用している論語の中身、例えば「学びて時に之を習う、亦たのしからずや」はその通りで、非常にいいことが書かれていると思う。それを統治の手段として、
人の脳細胞をがんじがらめにしてしまう伝統復活が、一番の問題だと懸念する。
 
 
 
 
 
 
 
 

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ふと思い到って


一.
 「内経」(旧時の医書)は誰が書いたものか知らない。人体組織について、著者は確かに見たのであるが、ただ皮膚を剥いで、ざっと見ただけで、細かな観察はしていない。それでやや乱雑な書き方であり、凡そ人の筋肉は、手指と足のつま先のところからできているという。宋の「洗冤録」は、人骨について、男女の骨は数が違うという。検死人の話はでたらめが多い。それなのに今なお、前者は医家の宝典で、後者は検験の指針である。これは天下の奇事の一である。
 歯痛は中国では誰から始まったか知らない。古人は壮健だったというから、堯舜時代はまだ無かったようだ。今仮に二千年前としよう。私は幼いころ、いろいろ試してみたが、
「細辛(薬草名)」は少し効いたが、一時的に麻痺させるのみで、対症薬ではない。歯を抜くときの所謂「離骨散」というのは、夢のような話で、実際には存在しない。西洋の歯医者が登場し、やっと根本から解決した。ただ、中国人の手で再伝され、まためいめいが、被せ物や、嵌めこみなどすることだけを学んで、腐った処を除去し、殺菌することを忘れ、またもや頼りなくなってきた。歯痛二千年の間、何ひとつ良い方法を考え付かないで、他国の人が考え付いたものも、しっかり学ばない。これ天下の奇事の二。
 康聖人(有為のこと)は、跪拝(ひざまづいて拝む礼儀)を主張し、「もしそれをしなければ、膝に何の用があるか」と言った。歩く時の脚の動きとの関係はそう簡単には分かりにくいかもしれないが、椅子に腰かけたときの膝の屈伸の大切さを忘れているようだ。さもなくば、聖人は「格物(物の道理を理解する)」に疎いと言わざるを得ない。身体の中で、首が一番細い。それで古人はここを切った。臀部は一番肉が多い。で古人はここを叩いた。当時の格物は、康先生よりずっと精通していて、後の人もこれを愛して手放さなかったのは、故無しとしない。だから一部の地方ではまだ、臀を叩く刑が残っているし、去年北京で戒厳令のとき、斬首が復活した。
国粋の伝統を保つもので、これ天下の奇事の三にちがいない。
二.
 「苦悶の象徴(厨川の作品,魯迅が訳した:訳者注)」のゲラを校正していて、些細なことに思い到った。私は本の形式に一種の偏見があり、本の初めと各章の前後に少し余白を残すのが好きで、印刷に回すとき、必ずそう頼む。が、刷りあがってくると大抵は、各論がぎっしりとつまってい、注文通りで無い。他の本も調べたが、多くの場合ぎっしりと詰まっている。
 中国の本や西洋の本も、良い本は扉に一二枚の余白がついてい、天地も広い。しかし近頃の中国で印刷した本は、大抵扉がなく、天地もせまく、何かコメントを書こうとしても、その余地が無く、頁をめくっても、ぎっしりと黒い文字で埋まっている。印刷油のにおいが鼻につき、ある種の圧迫感と窮地に追いやられそうな感じがする。
「読書の楽しみ」が少なくなってしまうだけでなく、人生に“余裕”もなく、“余地も残さない”ように感じてしまう。
 こうすることが質朴だとでもいうのか。だが質朴は陋(みすぼらしい)の始まりで、精力がみなぎっていると、物力を惜しまぬものだ。現在は陋に陥っているようで、質朴の精神は失われ、だからただ粗悪になり、堕落している。よく言われる如く、“貧すれば鈍する”になっている。このような“余地を残さぬ”雰囲気の中では、人の精神は大抵、貧弱になってしまうものだ。
 外国の学術文芸を平易に説いた本は、よく閑話やユーモアを交えていて、文章に生気があり、読者はとても面白く読めて、疲れを感じない。だが、中国の一部の翻訳はここの部分を削り、とても難しい学術用語だけで、教科書のようにしてしまう。これは正に花を折るとき、枝葉を取ってしまって、花だけ残すようなもので、花枝の生気は消滅してしまっている。人は余裕を失えば、知らず知らずのうちに、余地を残す気持ちを失ってしまったら、この民族の将来は大変心配だ。上述した二つのことは、牛毛よりも小さなことだが、時代精神の一端があらわれていて、これから他のことも類推される。例えば、器具の軽薄化、簡易化(世間では重宝だと誤解しているが)建築の工程短縮、材料削減、ものごと全般にそういう風潮になってきており、“美しさ”を求めず、耐久性も考えず、などなど病原はみな同じだ。このことから更に大切なことも類推することができると思う。
   一月十七日
三.
 私は少し神経がおかしいのではないかと思う。さもなくばとても恐ろしいことだ。いわゆる中華民国はもうだいぶ前に亡くなってしまったと感じる。辛亥革命以前は、私も奴隷であったと感じていた。革命後、ほどなくして奴隷のペテンにより、彼らの奴隷にされてしまったように感じる。
 中華民国の国民の多くは、民国の敵になってしまったようだ。
 中華民国の多くの民は、ドイツやフランスに住むユダヤ人にとても似てきたと思う。彼らの心の中には、もうひとつ別の国があると思う。
 多くの烈士の血は、ひとびとに踏み消されてしまったが、それは別に故意にではなかったように思う。
 私はもう一度なにもかも新規にやり直さなければならないと思う。一万歩譲って、誰かがしっかりした民国建国史を書いて、青年に見せられるように切望する。民国の根源が、たかだか十四年しか経っていないのに、実際にはもう失われてしまったから。
       二月十二日
四.
 かつて、二十四史は「殺し合いの書」に過ぎず、「皇帝の家系図」の類だと聞いたことがあるが、
誠にその通りだ。後に、自分で読んでみて、どうしてそうなったのか分かった。
 歴史にはすべて中国の霊魂が書かれていて、将来の運命を示しているが、化粧が濃すぎ、
やくたいもない話が多すぎて、その底にある真実を探し出すのは容易ではない。
正に密集した葉の隙間を通って、地上の苔を照らす月光のように、ほんのわずかの砕けた影しか見えない。
だが、野史と雑史を読めば一目瞭然で、これは史官のように体裁を整える必要が無いためである。
 秦漢は古すぎて、現在の状況とだいぶ違うので、ここで取り上げない。元の人が書いた者は少ない。
唐宋明の雑史の類は今も沢山残っている。試みに五代、南宋、明末の事情と現今の状況を比べてみると、
驚くほど似ていると思う。あたかも時は過ぎても、我らの中国とは関係ないかのようだ。
現在の中華民国はやはり五代、宋末、明末期だ。
 明末でもって現在の中国を譬えるなら、中国の状況は更に腐敗し、もっと破壊され、更に過酷で残虐になる可能性が高い。現在はまだピークに達していないと言える。だが、明末の腐敗や破壊もその当時はまだピークを迎えてはいなかった。李自成と張献忠が暴れ出したからだ。だが、李と張の苛酷残虐もピークではなかった。
満州軍が侵入し(漢族社会を破壊した:訳者注)たからだ。
 所謂国民性なるものは、実にかくも変えることが困難なものなのであろうか?
もしそうであれば、将来の命運はだいたい想像がつく。やはり使い古された言葉だが、
「古(いにしへ)より、すでに之有り」 だ。
 利口な人は実に利口だから、決して古人を非難攻撃せず、古例を揺さぶらない。古人のしたことは何でも、今の人がみなやって行ける。古人を弁護するのは自分を弁護するということだ。ましてや我々中華の後裔は、どうして先祖伝来のことを受け継がずにおらりょうか?
 幸いまだ誰も国民性は決して変えられない、とは断定していない。その「不可知」の中に、例外はある。
即ち、状況はいまだかつてなかったほどの滅亡の恐怖にさらされているが、例外的に復活蘇生の希望もあり、これが改革者の小さな慰藉だ。
 だがこの小さな慰藉も、多くの古文明を自賛する者たちの筆先で消され、新文明を誣告するたくさんの連中の口に呑み込まれておぼれ死ぬとか、多くのエセ新文明論者の言動に打ち滅ぼされる恐れが強い。なぜなら、よく似た例が「古よりすでに之有り」だからである。
 その実、これらの人たちは同類で、すべて利口な人はよく分かっていて、中国は終わってしまっても、自分の精神は苦しまない。なぜなら、それに見合った対応がとれているからだという。もし信じないなら、清朝の頃に、漢人の書いた武功を称賛した文章を見ればわかる。口を開けば“大軍”といい、口を閉じる時には“我軍”と言う。
この“大軍”、“我軍”に敗れたのは、漢人だとは思い到らないのだろうか。まさか漢人が兵を率いて、ほかの何とかいう野蛮で腐敗した民族を殲滅したと思えるだろうか?
 しかしこれらの輩は、永遠の勝利者で、きっと永遠に存続するだろう。中国ではただ彼らだけが生存に最適で、彼らが生存しているかぎり、中国は永遠にそれまでの運命を反復することから、免れない。
 「地大物博、にして人口も大変多い」このたくさんの好材料を持っていながら、まさかいつも「六道輪廻」の循環芝居しか演じられないのか?
     二月十六日
 
訳者注:原題「忽然想到」は従来「ふと思いついて」と訳されてきた。今回「ふと思い到って」としてみた。夜中にベッドで寝て居ながら、日中のできごとや読んだ本の中のことなどが、いろいろ重なりあって、思いを巡らしているうちに、何か思い当たることがあると、横のメモ用紙に殴り書きで残して置く。思いついてというより、思いがあるところに到って、AとBがぶつかって思い当たるようなことがある。
 魯迅のこの段は、しばらく時間を置いて、別の段で五以下が続いているが、彼が、民国の腐敗した状況を、
明末に譬えているが、自分の神経がおかしいのではないかと疑うほど、明末に似ているが、それはまだピークではない。李自成などの反乱で滅茶苦茶になったが、それすらもピークではない。ピークは満州軍の侵入だと言っている。なんだか、後付けのように見えるかもしれないが、1925年の時点を明末と譬えていて、満州軍の侵入をピークとしているのは、その後の日本軍の侵入がピークになるとの暗喩のように見える。
   2010.8.15. 終戦の日に。
 
 
 

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