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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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題未定稿7

題未定稿7
 もう一つ読者を惑わすのは「摘句」だ。それは往々、衣装から引きちぎった刺繍の花で、摘者により、吹聴され附会された挙句、俗世を超越した素晴らしいものとし、読者は全体を見ていないから、彼によって目がくらみ、はっきり見えなくなる。最も顕著な例が上述の「悠然と南山をみる」で陶淵明の「酒を述す」や「山海経を読む」等の詩を忘れ、彼を単に漂漂然としたように捏造してしまうのは、この摘句が引き起こした結果だ。近着の「中学生」(高校生の意)12月号に朱光潜氏の『「曲終わりて人見えず、江上数峰青し」について』の文に、この両句を詩の美の極みとして推しているが、私はものを割裂してそれを美しいとする小さな疵を免れぬと感じた。彼が素晴らしいところというのは:
 『私はこの両句が好きだが、それは私に哲学的奥義を啓示してくれるからだ。「曲終わりて人見えず」が表現するのは消逝で、「江上数峰青し」の表現するのは永恒だ。愛する楽声と奏楽者は消逝したが、青山や巍然として旧の如く、永遠に我々の心情をそこに寄託させてくれる。人はつまるところ凄涼をおそれ、伴侶を求む。曲終わり、人去り、我々はすこし前まで遊んで目にし、懐いた世界が、忽然、脚底から崩れ去ってしまう。これは人生で最も耐えがたいことだが、目を転ずると、江上の青峰があり、またもう一つの親しむべき伴侶、別の足を托すに足る世界にめぐり会えたようで、且つまたそれは永遠にそこにあるのだ。「山窮み、水尽き、疑うらくは路なきかと、柳暗花明また一村」この風景に似る。それだけでなく、人と曲は本当に消え去ったのか:この纏綿とした悲しい音楽は山霊を驚動させなかったか?それは江上の青峰の美しさと厳粛さを伝えなかったか?この美しさと厳粛さを深く刻まなかったか?却って青山と湘霊の奏でる音はすでに今回の因縁をはっせいさせず、青山が永遠なら、瑟の声と瑟を鼓す人も永く存す』
 これは確かに彼が激賞する理由を説明している。だが尽くされてはいない。読者は色々異なっており、ある人は「江賦」「海賦」を愛読し、ある人は「小園」「枯樹」を欣賞する。後者は有無消滅の間を徘徊する文人で、人生に対して、その騒がしさを厭うが離れ去るのも怖れる。また生を求むに懶(ものう)く、喜んで死ぬわけでもなく、実に無愛想で寂絶もまた空しく。疲れて休もうとしても、休息もあまりに凄涼で、それだからある種の撫慰が無いとやりきれない。そこで「曲終わり、人見えず」のほかに、「只この山中にあり、雲深くして処を知らず」とか「笙歌は院落に帰し、灯火は楼台に下る」の類が往々、称道される。眼前に見えぬが、遠くにはあり、もしそうでなければ悲哀しきりで、これ正に道士の説く「帰命の礼に心を至す、玉皇大天尊!」也。
 疲れた人を慰撫する聖薬は、詩としては朱氏の言葉では「静謐」(せいひつ)という:
 『芸術の最高の境地は熱烈には無い。詩人の人となりについて言うと、彼の感じた喜びと苦しみはきっと常人の感じたのより熱烈である。詩人の詩人たる所以は、熱烈な喜びと熱烈な苦しみが、詩として表現された後、老酒(紹興酒)が長い年月寝かされて、苦味が取れ、醇朴になるのに比せられる。他の所でもこの話をしたが:「この道理が分かれば、古代ギリシャ人が何を持って平和な静謐を詩作の究極の境地としたかが分かる。詩神アポロを紺碧の頂に置いて、衆生の混乱を俯瞰させ、眉宇の間は常に甘い夢をみるが如く、一点も動じることの無い態度と分かる神色を保持できた。この所謂「静謐」(Serenity)は当然最高の理想で、一般の詩では得られないものだ。古ギリシャ――特に古ギリシャの造型美術――は常に我々にこのような「静謐」を味あわせてくれる。「静謐」は轄然と大悟するもので、帰依を得た気持ちである。それは眉を低くして黙想する観音様に比せられ、全ての憂愁と喜びを消し去ると言える。この様な境地は中国の詩には少ない。屈原阮籍李白杜甫はみな眼をいからした仁王の不平不満な様を免れない。陶淵明は全身が「静謐」であり、それが偉大の所以である』
 古ギリシャ人も平和な静謐を詩作の究極の境地と考えていたかもしれぬが、私はこの点について何の知識も無い。ただ、現存のギリシャ詩歌について言えば、ホーマーの史詩は雄大で活発であり、サッフォーの恋歌は分かりやすく熱烈で、いずれも静謐ではない。「静謐」を詩の究極の境地とするが、この境地が見られないのは多分、卵型を人体の最高の形としながらも、その形が人に現れないのと同じと思う。アポロが頂にいる時、彼が「神」のせいで古今を問わず、凡そ神像は常に高いところに置かれるものだ。この像は写真で見たが、目を開いていて、神気清爽で、けっして「常に甘い夢を見るが如く」ではなかった。
だが実物を見たら‘我々にこの様な「静謐」を感じさせるかどうか’なかなか断定しがたいが、本当にそう感じたとしても、多分それはいささか彼が「古」(いにしえ)のせいだと思う。
 私も雅俗の間を徘徊する者だが、こんな話をすると殺風景だが、自分では頗る「雅」だと思う」。骨董が好きな為かもしれぬ。十余年前、北京で田舎の金持ちと知りあいになり、どうした訳か、彼が忽然「雅」になりだし、鼎を買ったのだが、周代のとのふれこみで、本当に土中で変色し、まだら模様があり、古色古香がした。が、数日後、銅匠にその土花(土の斑点)と緑青をきれいに擦り落とさせ、客間に飾り、銅光を金ぴかにさせた。このように磨けば精光を発する古銅器はその後見たことは無い。これを聞いたすべての「雅士」は大笑いし、当時私もびっくりして失笑を禁じえなかった。だが次いで粛然となり、ある啓示を得たようだ。この啓示に「哲学的意味」は無く、これこそが本当の周の鼎だと思ったのだ。周代の鼎は現代の椀と同じで、我々の椀を年中洗わないという事は無いから、鼎はきっと当時は金ぴかできれいだったし、言葉を換えれば、それはけっして「静謐」ではなく、些か「熱烈」であった。こうした俗気はいまなおぬけきれず、私の古美術を見る目を変え、ギリシャ彫刻のように、これまではいつも「只ひとあじの醇朴さ」を残していると思ってきたが、その理由はかつて土中に埋まってい、長い風雨を経て、角と光沢を失ったからで、彫造当時はきっと斬新で真っ白にきらめいていたから、我々が今見るギリシャの美はその実、当時のギリシャ人の所謂美とは異なり、我々はそれは新しいものだと想像しなければならない。
 凡そ、文芸を論ずるには一つの「究極の境地」を虚構空想し、人を「絶境」に陥れ、美術では土中の埋蔵物に魅了させ、文学ではこだわりをもって「摘句」するが、この「摘句」はまた大いに人を困じさせるから、朱氏はまた銭起の二句を取り上げただけで、彼の全編を放り出し、またこの二句で作者の全人を概括し、この二句で屈原、阮籍、李伯、杜甫などを殺し、「怒った仁王の目で、不平不満な様を免れぬ」と考えた。だが彼ら四人は朱氏の美学の下敷きにされ、無実の罪の犠牲にされたのだ。
 我々は今、先ずは銭起の全編をみてみよう:
 『 省の試験は湘(水)の霊が瑟(琴の一種)を鼓す。
 雲和の瑟を善く鼓し、常に帝子(湘水の女神)の霊を聞く。
 馮夷(山の神)空しく自ら舞い、楚客は聞くに堪えず。
 苦調は金石を凄み、清音、杳冥に入る。
 蒼梧来たりて怨慕し、白芷、芳馨を動(どよも)す。
 流水湘浦に伝わり、悲風洞庭を過(よぎ)る。
 曲終わりて、人見えず、江上数峰青し』
 「醇朴」や「静謐」を証明しようとするなら、この全編は引用に適さぬ。中間の4聯は
「衰颯」にとても近い。だが上文無しでは末の2句は判然としない。ところがこの判然と
しない点が、引用者の絶妙さかもしれない。今題目を見ると「曲終わり」は「鼓瑟」に結
び付くのが分かり、「人見えず」は「霊」の字を点じ、「江上の数峰青し」は「湘」を成す。
 全編としては唐人のうまい試帖たるを失する無しと雖も、末の2句もそれほど神奇でもない。況や題名に明らかに「省の試験」としており、当然「憤憤と不平な様」はありえぬし、もし屈原が椒や蘭(楚の大夫や公子)と口論などせず、上京して功名を得んとしたら、きっと答案には不平不満など書かぬであろうし、合格を最優先したことだろう。
 そこで再びこの「湘霊、瑟(琴の一種)を鼓す」の作者の他の詩を見なければなるまい。だが私の手元には彼の詩集は無く「大歴詩略」(清代編集の唐の詩選)しかなく、これも迂な夫子の選本だが、中身は少なくないので、その中の一首をみると:
 「落第後、長安の客舎に題す。
  青雲の望みを遂げず、愁いつ黄鳥飛ぶを見る。 梨花、寒食の、客子未だ春衣ならず。
  世事随時変わり、交情我と違う。空しく余す主人の柳。相見て却って依依たり、」
 落第して旅館の壁に詩を題すのは些か憤憤を免れぬし、「湘霊、瑟(琴の一種)を鼓す」は、題からしても、省試ということもあり、あのように円転活脱するほかなかった。彼と屈原、阮籍、李白、杜甫の4人は時には仁王の怒る目を免れなかったが、全体として見れば彼は一丈六尺(仏身)にはなれなかった。
 世間に「事に則して事を論ず」という法があり、詩に則して詩を論ずるのが一番よいことと思う。私は文を論ずるなら全体をしっかり読むことが大切で、作者の全人を顧慮し、彼が処している社会状態を見てはじめて確かなことが言えると思う。さもなければ、夢みたいなものになってしまう。夢を見ることを反対するものではないが、ただそれを聞く人が、心の中でそれは夢を聞いているのだと分かっているべきだと主張するのであって、このことと、私が真面目な読者に向って、選本や標点本ばかりに頼って文学研究をしないように勧めているのと同じで、他意は無い。自分で目を光らせて多くの作品を読めば、歴来の偉大な作者で『渾身から「静謐」』な人は誰もいないのが分かる。陶潜は正に『渾身から「静謐」ではなかったから、彼は偉大であった』のである。今往々「静謐」と尊敬されるのは彼が選文家と摘句家に縮小され、凌遅(切り刻んで殺される刑)にされた所以である。
  
訳者雑感:魯迅の「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指」を摘句したのは誰だろう。毛沢東の発動した「文化大革命」で、この句が摘句されたのは、その当時としては純粋に受け止められていたが、それも「権力闘争」に使われただけというのは、実にこの句に対して許せぬことだと思う。
 今「虎もハエも叩く」大運動を展開中だが、「刑は大夫に上らず」という不文律を破って、大トラを捕まえた。いろいろな「句」が摘されているが、すべて最終的には「権力闘争」だった、という一言で終わりそうな気がしてならない。
 権力を一手に集中させ、No.2の首相の権力も取り上げないと心配でならないというのは、
文革中に目にしたことだ。彼の心底から笑った顔を見たことが無いのはなぜだろう。
     2014/08/02記

 

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「題未定」稿6

「題未定」稿6
6.T君が教えてくれたのだが:私の「集外集」出版後、施蟄存氏がある雑誌に、この本は出版に値しない、選びなおした方が良い、と評した由。その雑誌を見ていないが:施氏の「文選」推薦崇拝及び「晩明二十家小品」を自ら出した功業や「言行一致」を標榜する事から推測するに、確かにその様である。私はいま彼の言行を研究しているのではないので、余計なことではあるが。
 「集外集」が出版に値せぬとは、誰が言おうとそれは正しい。あにこれのみならんや、で将来四庫全書が再開したとき、多分私の全ての訳著は排除されるだろう:今でも天津図書館の目録に「吶喊」と「彷徨」の下に「銷」(しょう、溶かす)の字が注されておる。「銷」とは廃棄の謂いで:梁実秋教授がどこかの図書館主任のとき、私の多くの訳著を駆除しようとした由。だが一般情勢からみて、現在の出版界はそれほど勤厳ではないから私の「集外集」を出版しても紙墨の無駄だとは思わぬようだ。選本(抄本)に関しては、私は弊多く、利少ないと考えており、以前「選本」という文章を書いて自分の意見を説明し、後に「集外集」に入れた。
 勿論自由気ままにというなら、どの様に選本しても構わぬし、「文選」も「古文観止」も問題無い。だが、文学又は作家を研究しようとすると、所謂「人を知り、世を論ぜよ」で、そうなるとそれに適応できる選本はとても得難い。選本が示すのは往々、作者の特色というより、選者の眼光だ。眼光が鋭利で、見識が深いほど、選本は固より正確だが、残念ながら大抵の眼光は豆粒ほどで、作者の真相を抹殺するのが多い。これこそ「文人の受難」で、蔡邕を例にとると、選者はたいてい彼の碑文を選ぶだけで、読者に彼を儀典用の文章の名手と感じさせるだけだが、「蔡中郎集」の「述行賦」(「続古文苑」にもあり)の中の、
「工巧は台榭に究め、民、露処して湿に寝るに、嘉谷は禽獣に委ねるが、下は糠秕(ぬか・しいな)で一粒も無し」(王の贅沢と民の困窮を言う:出版社注)。(手元に本が無く、記憶違いがあれば後に訂正あること御容赦されたく)という文章を見なければならない。それで初めて彼が単なる老学究ではなく、血性を有する人であり、当時の状況も理解でき、彼が確かに死への途をとったことも分かる。また選者に録取されている「帰去来辞」と「桃花源記」のように、論客には「菊を東籬の下に採り、悠然と南山を見る」を称賛されている陶潜氏も、後人の心目には、長い間飄逸とされてきたが、全集ではとてもモダンであり、「絲として履となり、素足に附して周旋せんと願うも、行と止には節あり、空しく床前に委棄されるを悲しむ」という文章で、ついに身を揺変させ、「ああ我が愛する人」の靴に化さんと想うが、後に自ら「礼義に止まる」ために最後まで進攻できていないが、そうした想い乱れた自白は畢竟、大胆であった。詩についても論客の敬服する「悠然と南山を見る」ほかに、「精衛(山海経の神話の鳥)は微木をくわえ、滄海を填めんとし、形天(同左の怪物)は干戚を舞い、猛き志、固より常にあり」の類のように「仁王立ちの目で怒る」式の文章もあり、彼が終日飄飄然としていたわけではない。この「猛き志、固より常にあり」と「悠然と南山を見る」は同じ人で、どちらかを取捨しては、全人格ではなくなり、更に
抑揚をつけると、真実から離れてしまう。勇士は戦闘するが、休息も飲食もするし、勿論性交もする。だが最後の一点だけを取って画像にして妓院に懸けると性交大師と尊ばれることになり、それは当然根拠の無いことで、冤罪となってしまう。近頃の人が陶潜を称賛し、引用するのを見るたびに、往々古人のために惋惜するのを禁じえない。
 これも文学遺産継承問題で、愚かな人間の手にかかると、良い物も結局得られなくなってしまう。数日前の「時事新報」の「青光」に、林語堂氏の文が引用されており、原文は棄ててしまったが、大意は:老荘は上流で、人前でわめき散らす類は下流で、彼が今読もうとするのは中流だけで、上下を剽窃するものは最も見るに足りぬ、と。私の記憶が間違ってなければ、これは正に宋人の語録、明人の小品、下って「論語」(孔子のでなく)「人間世」「宇宙風」(林が主宰していた刊行物)という「中流」作品に死刑宣告をするのみならず、御当人の自信の無さをあからさまに表白するものだ。だがこれも腹の中には何も無いのに、高等な談話をするのに過ぎず、「中流」とはいえ、一概にはできず、たとえ剽窃でも、良いところをとるのと、無用の物や悪いのをとる、「中流」の下をとるなど、剽窃すらうまくできず、「老荘」は言うに及ばず、明清の文章も本当によく分かっているかどうか。
 古文に標点をつけるのは、受験生を困らせるだけでなく、往々著名な学者もしくじり、詞曲を妄りに点じ、駢儷文を変に分解してしまう美談はもう過去のこととなり、回顧するまでもない:今年たくさんの廉価版の珍本が出たが、すべて著名な人が標点をつけたが、世道に関心ある人は復古の炎を煽るものではと心配している。私はそんなに悲観しておらず、一元数角で数冊買って古(いにしえ)の中流の文が読めるし、現在の中流の標点も見ることができ:現在の中流は必ずしも古の中流の文章の結論をよく理解できているとは限らぬことがこれでよく分かるからだ。
 例えば、この種の例を挙げるのは大変危険で、古から今日まで、文人が命を落とすのは、往々彼の何とかいうイデオロギーの誤りのためでなく、個人的な私怨のせいが多いからだ。
だがやはり挙げねばなるまい。ここまで書いたら例示すべきで、所謂「箭は弦上にあり、発せざるべからず」だから。しかしいろいろ忖度した結果、「暫く其の名を隠す」と決し、難を免るべきで、これは中国人が上っ面の面子だけを大切にする欠点を利用するのだ。
 例えば私が買った「珍本」に、張岱の「琅嬛文集」の「特刷本定価四角」があり:「乙亥十月、蘆前冀野父」の跋によると、「峭僻(けわしい)途を康荘(ひろびろと)させた」物の由だが、標点に照らして読んでゆくと、決して康荘ではない。標点は五言・七言詩には最も容易につけられ、文学家でなくとも、数学家もできるが、楽府となるとあまり「康荘」ではなくなり、それゆえ巻三の「景清刺」に理解できない句がある:
 『…鉛の刀を佩び。膝髁に蔵す。太史は奏す。機に破らんと謀る。王と称さず前に向う。坐して御衣に対し、血唾を含む。…』
 琅琅と誦すべく、韻も押しているが、「不称王向前」の一句はいささか難解である。原序をみると:「清はことが成らなかったのを知り、勇躍して上に訽(たずねる)す。大いに怒りて曰く。我を王と謂うなくんば、即ち王は敢えて尓(なんじ)なるか。清曰く。今日の号。なお王と称すか。その歯を抉れと命じ。すぐまた訽す。さすれば血を含みて前に出。御衣を汚す。上ますます怒り。その皮膚を剥ぐ。…』(標点は悉く原本に遵ず)では、詩は「王と称さず、前に向って坐る」とすべきで「王と称さず」とは「なお王と称すか」也:
「前に向かって坐る」とは「さすれば血を含みて前に出」也。そして序文の「勇躍して上に訽す。大いに怒りて曰く」は「勇躍して訽す。上大いに怒りて曰く」としてこそ筋が通る。作文の基本に拠り、次に続く「上益々怒る」を見れば分かることである。
 たとえ明人の小品がいかに「本色」と「性霊」を有すといえども、それを妄りにもてあそぶのはよくないことで、自分を誤まつは小事だが、人を誤ってはいけない。例えば巻六の「琴操」「脊令操」序に次の句があり:
 『秦府の僚属。秦王の世民に勧む。周公の事を行え、と。兵を玄武門に伏す。建成元吉魏徴を射殺す。亡を傷んで作る』
 文章としてはよく通じるが、「唐書」を見ると、魏徴は実は射殺されてはいないようだ。彼は秦王世民が皇帝になって17年後に病死している。従って我々は「建成元吉を射殺し、魏徴その亡を傷んで作る」と標点を付けるほかない。これは明らかに張岱の「琴操」であって、どうして魏徴が書けるだろうか。それできっぱりと彼も射殺してしまう方が道理が無いわけではないが、「中流」文人はよく擬作するもので、韓愈などは周文王に替って「臣の罪、当に誅すべく、天王は聖明であらせられる」と書いているほどで、ここではやはり「魏徴、亡を傷んで作る」が穏当だろう。
 私はここで「文人相軽んず」の罪を犯した。その罪状に曰く:「毛を吹いて疵を求む」、だが私は思うに「功が罪を折半」してくれ、著名な人の中にも文も読めず、句読点すら付けられぬ者もおり、文章を選ぶとなると、これが良いあれが良い、と実にぞっとするほどで、真面目に勉強しようとする人は、一、選本に依拠してはだめで、二、標点を信じてはいけないという事だ。

訳者雑感:
 陶淵明の「悠然と南山を見る」の句が余りにも有名となり、彼がとてもモダンな面も持つ詩人であったことを知るには「選本」だけではだめであるという。同じように 魯迅の「眉を横たえ、冷やかに対す千夫の指」は文革中の中国の到るところで目にした。今これを持ち出す人は少なくなったが、あらがう文人としての魯迅と、他の作品で見ることのできる彼の全人を知るにはやはり「選本」だけではいけないだろう。
「眉を横たえ」の句は1960年代、殆どの中国人が知っていたが、毛語録と同様、文革が否定されて消えてしまったようだ。今では教科書からも消えてしまうようで、残念である。
「雨にも負けず」の詩や「銀河鉄道」などで知られる宮沢賢治にも宗教家として知られていない面がある。先日寄居の荒川辺に出かけた時、偶然見つけた彼の短歌「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川きしの片岩のいろ」を見つけた。盛岡高等農林学校の2年生の時、秩父方面に地質調査に訪ねたころの作品で、『 』に入れた句は、石碑にも「 」で
囲ってあったが、片岩を「粋なもやうの博多帯」とする感性の持ち主であると発見したことである。
 2014/07/26記

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小品文雑談

小品文雑談
 「小品文」が流行してから書店の広告には、書簡、論文まで小品文に並べられ、これは商売の為で、依拠するには足りぬ。第一義として紙幅が少ない物というのが一般的意見だ。
 だが紙幅が少ないというだけが小品の特徴ではない。幾何の定理は数十字に過ぎないし、「老子」はわずか五千言だがいずれも小品とは言えない。これは仏教の小乗の如くで、まず内容を見、それから篇幅を講じる。小さな道理や道理のない長編でもなければ、小品と呼べる。骨力のある文章はきっと「短文」というに如かず。無論短いのは長いものに及ばないが、わずか数句では森羅万象を尽くす事も出来ぬが、それは「小」ではない。
 「史記」の「伯夷列伝」と「屈原賈誼列伝」は引用された騒賦を除けば、実は小品に過ぎぬが、「太史公」の作であり、よく目にするから誰もこれを選んで翻刻しない。晋から唐まで何人も作家がいるが:宋文は知らぬが「江湖派」の詩は確かに私の言う所の小品だ。今みんなが提唱するのは明清のもので、「性霊を抒写する」のが特色だ。当時、一部の人は確かに性霊を抒写でき、気風と環境、そして作者の出身と生活も、ただこの様な意味から抒写することができ、そういう文が書けた。性霊の抒写というが、その実、後にパターン化し、「性霊の賦」に過ぎず、例文通りに書かれるようになった。勿論危難を予感する人もいて、後に自ら危難にもあったから、小品文には時に感憤も挟まれ、文字の獄の時には全て廃棄、削除され、それで我々が目にするのは「天馬空を行く」のような超然とした性霊だけとなった。
 これは清朝の検査選定した「性霊」を経て今日に到り、うまい具合に明末の洒脱はあるが、清初の所謂「道理に反した」ものはなくなり、国が存する時の高士は、国が滅びても逸士を失うことは無かった。逸士も資格を持つべきで、まず「超然」であり「士」とは庸奴を超え、「逸」とは責任を超えるのだ:今、特に明清の小品を重んじるのは、実は大いに理由があるのは怪しむに足りない。
 だが「高士で逸士を兼ねる夢」はきっと長続きはしないだろう。この一年来大きな破綻をきたし、自ら少し高いと思い、紙面一杯に空言を弄し、でまかせを言う下流なものは、道化や低俗な役者と同じで、主意はただ、公子たちの舞踊の資となるだけで、舞女たちと商売を競っているだけの憐れな状況にある。すでに五四運動前後の鴛鴦蝴蝶派の数段下である。
 小品文盛行のため、今年もまた所謂「珍本」がよく出た。論者の中に心配する人もいる。私は無用とは思わない。原本の値段は高く、大抵買えないが、今や一元数角で現代の名人の祖師や昔の性霊を読むことができ、彼らがどのように手間暇かけ、今の性霊はどのようにして学び、難しい問題にこつこつ取り組み、たとえどんなに難しい問題でも、識見を持っていなくても、難しい問題に二度と騙されることの無いようにできるではないか?
 しかし「珍本」は「善本」ではなく、まさに無聊なので、誰も読まず、日ならずして消えて減少する:減少するから「珍」となる。たとえ古書店で大枚を払わねばならぬ「禁書」でも、全てが慷慨激昂し、人を奮起させる作品ではなく、清初、ただ単に作者が禁じられた為で、往々内容とは関係が無い。この種の本は読者に選択する目が必要で、識者も相応の指摘をすることを希望する。     12月2日

訳者雑感:「珍本」というのは日ならずして読む人が減って行き、本自体が少なくなるから「珍」であって、「善本」ではない、というのは面白い指摘だ。史記の列伝はどこでも目にすることができるから、珍本ではなく、善本だろう。僅か五千言しかない「老子」は小品ではない、というのも面白い。
     2014/07/18記
     

 

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孔另境編「当代文人書簡抄」序

孔另境編「当代文人書簡抄」序
 日記や手紙はこれまでなにがしか読者むけであった。以前の朝章国故の美辞麗句や清詞に抑揚をつけ、如何にして請托するかを見ると、名人でも日記や手紙すら気ままに書くことができなかった。晋人が手紙を書くのもすでに「匆々と草書で書く暇が無い」と言わねばならなかったが、今日の人は日記を書くとなると、つい日々伝抄を防ぎ、出版に及ばぬことになる。ワイルドの自叙はいまだに一部未公開で、ロマンロランの日記は死後十年してやっと発表されたが、我が中国ではできないだろう。
 しかし、現在、文人の非文学作品を読むのは古人の目的とは違っていて、少し欧化した:昔は文壇の故実の考察にあり、最近は作者の生きざまの探索にある。後者の方が多いようだ。一個人の言行は、ある人達が知りたがり、また他の人が知るのを妨げないが、一部はそうではない。しかし人の感情は他の人に知られたくない事を知りたがろうとし、その為書簡にも出路ができる。これはけっして隙間から覗き見して、隠された私事を見つけるのではなく、実はその人の全体を知ろうとするためで、心に留めていない点でも、その人の――社会的一分子としての真実を見いだす事にある。
 これが「文学概論」上、著名な創作でも、作者は本来自分を掩えず、何を書いたとしても、その人はやはりその人で、藻飾をつけ、見栄で制服を着ているにすぎない。手紙は固より比較的自由なものだが、慣れて来ると慣性が出るのを免れず、他の人は今回彼が赤裸々に登場したように思うが、実は肉色でぴったりした小さめのシャツとズボンを穿いて、甚だしきは、平常けっして身につけないブラジャーもしているのだ。話はとしてはそうだが、礼服の時に比べると、今の方が真実に近い。だから作家の日記や書簡は往々、彼自身の簡潔な注釈も得られる。だが百%本当だと真に受けてはいけない。作者のある者は記帳すら、工夫をこらしており、ショーペンハウエルは梵語を使い、他人が分からぬようにしている。另境氏の編集は文人の全貌を示そうとしたものと思う。都合の良いことにショーペンハウエル氏の如く苦労して古風で難解なものにしたものは、中国にはまだ無い。ただ、私が序を書くのは、手紙を書く比では無く、どうもこうした序を書く拳経(形式?)を使うのを免れぬ:編者、読者諸氏のご賢察を賜りたく。
  1935年11月25日夜、魯迅、上海閘北の且介亭に記す。

訳者雑感:魯迅もその後結婚することになる自分の教え子の許広平との往復書簡集を公開しているが、これなどは出版に際して、本人も何がしかの修正を加えたものだろう。
ショーペンハウエルが梵語で書いたとか、石川啄木も家人に読まれても分からぬようにとローマ字で日記を書いたが、やはりこれも後に公にしておるから、ロマンロランの死後十年してから公開を許すとか、やはり文人は何か生きた証を後世の人に残しておきたいという強い願望があるのだろう。芭蕉も「奥の細道」を何回も手を入れて、兄や各地の友人に残してきたが、生前に出版することは肯んじなかった。これも尋ねた先の人達への影響に配慮したのかもしれない。       2014/07/16記

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ドストエフスキーのこと

ドストエフスキーのこと
――日本の三笠書房「ドストエフスキー全集」普及版のために
ドストエフスキーのことを2-3書かねばならぬことになった。何を書こうか?彼は大変偉大だが、私は彼の作品を細心に読んではいない。
回想すると、若い頃偉大な文学者の作品は読んだが、作者を敬服するが好きになれなかったのは二人いた。一人はダンテ。あの「神曲」の「煉獄」に私の愛する異端があり:
鬼魂が大変重い石を手で険しい岸壁の上に押し上げた。これは極めて力を要す作業だが、手を放せば即刻自分が押しつぶされる。なぜか知らぬが自分もとても疲れ果てたようになった。そこで私はそこに留まって天国に行けなくなってしまった。
 もう一人がドストエフスキーだ。彼が24歳の時に書いた「窮乏した人」を読み、彼が晩年の様に孤独寂莫なのに驚いた。後に彼は大変罪深い罪人となると同時に、残酷な拷問官になって現れた。小説中の男や女達を、万難を忍受する境遇に置き、彼らを試練し、表面的な潔白を剥ぎ取るだけでなく、内蔵されている罪悪を拷問でえぐり出し、更にはその罪悪の内にある潔白もえぐり出す。しかしそれをあっさり殺す事は肯んじず、できる限り長く生きさせようとする。ここでドストエフスキーは罪人と一緒に苦しみ、拷問官と共に喜んでいるようだ。これはけっして通常の人のできることではなく、要するに偉大なる故だ。だが私自身は常々、読まないで放り出そうとする。
 医学者は往々にして、病態を使ってドストエフスキーの作品を解釈してきた。Lombroso(イタリアの精神病学者)式説明は、現今の大多数の国できっととても便利なため、一般人の賛同を得られている。が、たとえ精神病者としても、ロシア専制時代の精神病者で、彼に似たような重圧を受けたら、受ければ受けるほど、彼のあの誇張を挟んだ真実を理解でき、ぞくっと身ぶるいせざるを得ないほどの熱情で、堪忍袋も破裂しそうになると、彼を愛するようになることだろう。
 しかし中国の読者として、私はドストエフスキー式の忍従をよく理解できない――暴虐に対する真正な忍従について、中国にはロシアのようなキリストはいない。中国に君臨するのは「礼」で、神ではない。百%の忍従は嫁ぐ前に死んだ許婚の夫に、堅苦にずっと頑なに80歳まで生きた所謂節婦の身に、ひょっとして偶然見つけ出す事が出来るかもしれないが、一般の人には無い。忍従の形式はあるが、ドストエフスキーのように掘り下げて行くと、私はやはり虚偽だと思う。圧迫者は被圧迫者の不徳の一つに対しては虚偽と言い、同類に対しては悪という:圧迫者のそれは却って道徳的だとする。
 だが、ドストエフスキー式の忍従は只単に説教や教戒で完結はしない。これは耐えられない忍従だからで、あまりに偉大な忍従の故だ。人々も罪業を帯び、まっしぐらにダンテの天獄に突き進み、ここでみんなで合唱し、もう一度天人の功徳を修練する。ただ、中庸の人だけは、もとより地獄に落ちる心配は無いが、きっと天国にも行けないだろう。
                  11月20日
訳者雑感:私もドストエフスキーの作品は途中で投げ出してしまったからコメントは無い。
 魯迅が指摘している点で『中国にはロシアのようなキリストはいない。中国に君臨するのは「礼」で、神ではない。百%の忍従は嫁ぐ前に死んだ許婚の夫に、堅苦にずっと頑なに80歳まで生きた所謂節婦の身に、ひょっとして偶然見つけ出す事が出来るかもしれないが、一般の人には無い。忍従の形式はあるが、ドストエフスキーのように掘り下げて行くと、私はやはり虚偽だと思う。圧迫者は被圧迫者の不徳の一つに対しては虚偽と言い、同類に対しては悪という:圧迫者のそれは却って道徳的だとする』がとても印象的だ。
 中国にキリスト教会が再建されつつあるが、韓国でのような急速な入信者の増加はみられない。「礼」という二千年以上の「ささえ」があり、「マルクシズム」ですら「礼」に裏打ちされた「しきたり」で排除されつつあるようだ。しかしこの「礼」は「礼教」という(妖怪)にまで巨大化し、自分の出世の為には手段を選ばず、「礼」も放り出して人を食ってそれを糧にしてきた歴史がある。八千万人以上となった「共産党と言う名の党に入党した人びと」に「礼」のある人はどれくらいいるのだろう。上層部まで昇りつめた人はきっと少ないに違いない。「礼」と「昇官」は相容れないものなのだろうか。
        2014/07/14記


 

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蕭紅作「生死の場」序

蕭紅作「生死の場」序
 もう4年前の事だが、2月に私は妻子と上海閘北の火の海にいて、中国人が逃げ出し、死亡して後を絶ったのをこの目で見た。後に数名の友人の助けでやっと平和な英租界に逃れたが、難民は道いっぱいにあふれてはいたが安全だった。閘北から4-5里だが、こんなにも違う世界――我々はどうやってハルビンのことを思い浮かべられようか。
 本編が我が卓上に届いたのは今年の春。私はすでに閘北に戻っていて、周囲は又賑やかさを取り戻した頃だ。だが5年前とそれ以前のハルビンを見た。これは無論略図に過ぎず、叙事と写景は人物描写に勝るが、北方人の生に対する強靭さ、死とのあらがいは、往々、紙背を透し:女性作家の細やかな観察と、軌を越えた筆致はまた多くの明麗さと新鮮さを増している。精神は健全で、文芸と功利を強く関係づける人を憎み、そんな人がこれを見てゆくのは、とても不幸で何の得る所も無い。
 文学者はかつて彼女の作品を出版しようとし、原稿を中央宣伝部の書報検査委員会に提出したが、半年放置後、不許可となった、人は常々、事後に聡明になるようで、回想するとこれは正に当然の事だ:生への強靭さと死へのあらがいは、きっと大いに「訓政」(孫文の軍政、訓政、憲政の3つの時期の一つ、政府が民衆に民権の使い方を訓練させる)の道に大きく背いたのだ。今年5月、ただ「略談皇帝」の一篇のため、この気焔万丈の委員会は忽然煙火が消滅し、「身を以て則となり」実地の大教訓となった。
 奴隷者(青年作家団の名)は血と汗で得た数文の金で、この本を出そうとしたのが、我々の上司が「身を以て則となった」半年後で、私に序を依頼してきた。然しこの数日、デマが飛び、閘北の賑やかな居民は又頭を抱え、ほうほうの体で逃げ出し、道は荷物と人でごった返し、路傍には黄白の外人が、この礼譲の邦の盛況を笑いながら見ていた。自分は安全地帯にいると思っている新聞社の新聞は、この逃亡者たちを「使用人連中」「愚民」などと称した。私は彼らの方が利口だと思った。少なくとも経験から偉そうなことを言う官報の文章は信用できぬと知っている。彼らはまだ記憶に新しいのだ。
 今1935年11月14日夜、私は灯下で再び「生死の場」を読み終えた。周囲は死んだ如く静かで、聞きなれた隣人の声も無い。食べ物売りの声も無いが偶々遠くに犬の声がする。思うに英仏租界はこんな状況ではなく、ハルビンも違うだろう:私とそこの居民は互いに違った心情を抱き、違った世界に住む。しかし私の心は今古井戸の水の如く、微波すらたえず、麻痺したように以上の文字を書いた。正に奴隷の心だ!――だが、もし読者の心を動かせるとしたら?それなら我々は決して奴才ではない。
 だが私のしずかに坐して牢騒とした話しを聞くより、次の「生死の場」に進む方が良い。
彼女は君たちに強靭さとあらがう力を与えてくれるから。
      魯迅

訳者雑感:魯迅が4年前というのは1932年の1.28の上海戦争(日本では事変)である。
出版社注では「略談皇帝」は「閑話皇帝」が正しく、この中で古今内外の君主制度を取り上げ、日本の天皇にも及んだため、にほんの上海領事が「天皇を侮辱し、国交を妨害する」との名目で抗議した。国民党政府は圧力に屈して、この機に便乗して進歩的世論を制圧した、との説明がある。
 この2-3年、日中間で、或いは日韓間で、相手側から「軍国主義の復活をたくらんでいる」とか小島の領有権をめぐっていろんな抗議を受けてばかりいる。それで日本の言論界の進歩的な世論が制圧されることが無いように願う。自虐的な報道をするな、とは右の政治家と一部の新聞がこれまでリベラルだといわれてきた複数の新聞を攻撃する材料を与えている。
 それにしても、自衛隊の記念集会をなぜソウルでするのだろうか?
アメリカやイギリスでやっているのだろうか?
   2014/07/12記

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逃名

逃名(名声を嫌って逃れる)
 数日前、上海の新聞に広告があり、見出しは一寸角の大きな4文字で――
 『救命、見に行こう!』
 見出しだけだと、外科医の重病人手術、おぼれ死にそうな人に人工呼吸を、座礁した船に乗っている人を救助せよ、鉱山の崩落で生き埋めになった坑夫を救出せよと呼びかけている様に思わせる。実はそうではない。例の通り「水害救援の為の演芸大会」で陳皮梅・沈一呆の独り芝居を見、月光歌舞団の歌舞を見る類だ。広告通り「五角(0.5元)払って、一命を救助し… 一挙両得、こんな楽しいことをなぜしないのか」
お金は救命に使われるが、「見る」のは演芸で「救命」ではない。
 中国は「文字の国」といわれ、そうらしいが、本当にそうだとも言えない。言うなれば、文字を重んじない「文字遊戯の国」で、実態とかけ離れた手法を弄び、文字と言葉の定義をごっちゃにし、しばらくは「解放」を「孥戮」(殺す意)と解し、「舞踊」を「救命」と解さないといけないようだ。小さな乱を起こせば偉人になり、教科書を編纂すると学者で、文壇のゴシップを書くと作家になる。それで、少し自分を大事にする人は、そういう堂々たる名を目にすると、心配になり、できるだけそこから逃れようとする。逃名とは実は名を大事にすることで、逃れるのはこうした名からで、そこに漬けられたくないからだ。
 天津の「大公報」の副刊の「小公園」は近頃文章を大切にし、名を重んじない事を標榜してきた。この見識はとても正しい。だが偶々「老作家」の作品が出ていたが、それは作品が良いのであって、名前のせいではない。しかし8月16日の紙面に大変面白い「多くの先輩作家が、寄稿の後で、よろしく頼むとの依頼を附している」のを載せている:
 『私の文章を平日版に載せて欲しい。そうなったら大変うれしい。私と著名な人が一緒に並べられるのは厭きて嫌になってきた。勇敢な新人達の中に入れて欲しい。多くの場合、彼らの作品はより新鮮だから』
 こういう「先輩作家」たちはウソを言っているようだ。「著名人」には厭きるほど嫌になっているのではない。我々は離乳してすぐご飯やパンを食べるが、これまでずっと、慣れてきているが、厭きるほど嫌にはなっていない。編集者となれあいでなければ、先輩作家がこれを頼んで、「老人ぽさを返還して童年に戻る」手法を弄んでいるのでなければ、これが証明しているのは:所謂「先輩作家」も一群の人達は名を盗んでおり、そのため他の一群と一緒に扱われるのを羞じ「著名なひとと一緒にされるのに厭きて嫌になった」と感じ、逃げ出す事に決したのだ。
 この後、彼らは「勇敢な新人群にまじって」気持ちよくやりたいのだが、作品は「より新鮮になる」であろうか。今とても測りがたい。逃名は固より闊達とは言えないが、去就はあり、愛憎あり、畢竟やはり身を潔くし、孤高の士たらんとするのである。「小公園」にはすでに現実に身を以て法を説く人がおり、上海バンドには依然として「自費出版」でニュースを造り、或いは「言行一致」と自称し、又は「冤罪」だと大声で叫び、或いは明朝の死屍を引っぱりだして台にのせ、現存の古人に喝をいれてもらい、更に自分で自分の名を人名事典に挿入して「中国の作家」としたり、或いは自分の作品を画集に入れて「現代傑作集」と名付け――忙しそうに立ち回っては、陰でこそこそしながら格好をつける。
 作家は一列に坐り、将来人を笑わせたりこわがらせたり、「厭きて嫌にさせるか」――
今はとても測り難い。但、もし「前年の鑑」によれば「後から今を見れば、亦猶、今昔を見る如し」で、多分きっと「悲夫」となるを免れまい!
               8月23日
 
訳者雑感:この作品から推測するに、上海の出版界では「自費出版」で自分の名前を有名にしようとする「作家」たちが沢山いて、又老作家たちも実は名前を貸していただけの連中もいて、週末に出る娯楽版的な「副刊」で読者の目を欺いていたようだ。
 そんな連中と一緒にされたくない、という動機が「逃名」という題名になったのか。
 文章を一番大切にし、名前で判断しないというが、現実は作家の名前で本を買う人が多い。「カモメのジョナサン」の訳は、新人が出しても、余り買う人がいないというのが問題である。名前で本を買うのは今も昔も、変わらないのだろう。
     2014/07/11記

 

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毛筆論の類

毛筆論の類
 国産品愛用が提唱されて久しいが、上海の国産品公司もたいして発展せず、「国産品市場」も閉鎖され、建屋も撤去されたが、新聞にはまだ国産品特集をよく見る。そこで勧告され、罵倒されている人達は例によって学生・児童と婦女子だ。
 数日前、筆墨についての文章を見て、中学生たちが訓斥されていて、彼らの9割はペンとインクを使っており、これが中国の筆墨の出路を妨げているという。無論こういう学生たちを何とか奸とかまでは言わないが、少なくともモダンガールが外国の白粉や香水を愛用するのと同じで「入超」に対する若干の責任を負うべきだとされている。
 それはそうかもしれないが、思うに、西洋のペンとインクを使うか否かは、時間の余裕があるかどうかに関係している。私自身は先ず私塾で毛筆を使い、後に学校でペンを使ったが、その後田舎に帰って毛筆を使う人は、私が悠然と硯を置いて、紙を広げ、墨をすって揮毫できるなら、羊毫と松煙(の墨)は良いものだと思う事だろう。だが、速く大量の字を書くのはむつかしく、言い換えればペンとインクには勝てないとなる。学校で講義を筆記する時に、たとえ墨汁にし、都度墨をする煩わしさはなくせても、すこし経つと筆先が墨汁の膠で固まってしまって書けなくなる。やはり筆洗いの水壺を持参せねばならず、ついには小さな卓上に「文房四宝」を置くことになる。ましてや筆先が紙にどれだけ接するか、即ち字の粗細だが、これを全て手に任せるとすぐ疲れてしまい、段々遅くなる。閑人は構わぬが、忙しくなると、どうしたってペンとインクの方が便利となる。
 青年は当然、洋服に万年筆を差すようになり、そうする人が増えるのは便利だからだ。便利な器具の力は勧告や諭すこと、そしることや痛罵の類の空言で止められない。信じなければ、自動車に乗る人に、北方ならラバの車、南方なら緑のラシャの駕籠に乗るように勧めてみるが良い。これを笑い話というなら、学生に筆を使えというのはどうなのか?現在の青年はすでに「廟頭の鼓」となっており、誰が叩いても構わない。一方では学科も沢山増えているのに、古書を提唱し、一方で教育家はため息をついて、彼らの成績は悪く、新聞も読まず、世界の大勢に疎いと嘆いている。
 だが筆墨すら外国に依存するのは論外だ。この点は前の清朝官僚の聡明さを支持する。彼らは上海に製造局を作り、筆墨より大事な器械を造ろうとした。――結果は「積弊は改め難し」でなにも造れなかったが。現代の人も聡明で「Cinchona」というのは元来アフリカの植物だが、ついに入手し、自分で植えて、コレラが発生してもすぐ対応でき、Cinchonaの丸薬を飲めるし、「糖衣」もあり、薬嫌いの可愛いお嬢さんたちも甘い甘いと飲むことができる。インクとペンの製法を入手するのはCinchonaを偸むようなリスクは無い。だから人にインクとペンを使うなというより、自分でそれらを造ったが良い:ただし、良い物を造るべきで「羊頭狗肉」にならぬようにしなければならない。さもないと、これまた無駄使いになってしまう。
 しかし私は信じているが、毛筆擁護者も大抵は私の提案を空談とは言わないだろう。これも事実で:質屋にも奇妙な装束や異様な服を受けぬように公告して、筆墨業も墨をすすり、筆を舐めなどと主張するような国粋は徐々に無くなるのは免れまい。自己改造は人に対して禁じるより難しいことだ。しかしこの方法で良い結果と効果がでないと、青年達の一部は旧式の文人儒者になってしまう。    8月23日

訳者雑感:1970年代に上海に半年ほどいた頃、友諠商店という外国人向け主体の商店で色々なものを買った。工芸品とか玄関マットの絨毯などが好評だった。そしてもう一つ「英雄」というブランドの万年筆が超安価で人気があった。というのは、戦前アメリカ資本のパーカーの工場が上海にあり、戦後それをそのまま引き継いだからだということだった。当時の1元は150円で、もともと給与が低く抑えられていたので、定価もとても安くて、日本へのお土産にちょうど良かった。ただ、書き味はいまいちで、暫く使うとインクがでにくくなったりしたので、引出しに放置されがちであった。
 1935年の魯迅が書いた本文をみると、国粋者たちはやはり筆と墨を使うよう勧告し、ペンとインクを使う青年たちを罵倒していたという。それほど国粋が染みついていたのだ。
魯迅は「国産品愛用」運動を展開するなら、羊頭狗肉ではないしっかりしたペンを造れと呼びかけているが、やはり国産品の良いものは造れなかったようだ。文化大革命の嵐が過ぎさると、やはり元々はアメリカ資本のパーカーの工場から「英雄」ブランドで出荷している。
 30年の改革開放で、衣料品とか靴は生活用品はだいぶ国産品の品質も向上したが、自動車とか精密機器などはやはりまだ国産品を愛用しようにも術が無いようだ。自分で創意工夫していい物を造ろうとするより、ちょっと品質は劣るがよりコストの安い物で「儲けよう」という発想が改められないようだ。長持ちする良い製品を造って国民に喜んでもらって、結果自然に収益が増えるという考え方をする人はまだまだ少ない。嗚呼!
    2014/07/08記

 

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殆ど何事もない悲劇

殆ど何事もない悲劇
 ゴーゴリはやっと中国の読者にも知られるようになり、彼の名著「死せる魂」の訳も第一部の半分が発表された。(魯迅)訳は満足できるものではないが、第2から第6章で計5人の典型的地主が描かれ、諷刺も多く、実際に老婦人と守銭奴のプリーシキンを除けば、皆夫々愛すべき点があることが分かる。農奴の描写は何も取り上げるべき所も無く、彼らは誠心的に紳士のために働いているが、何の役にも立たぬだけでなく、有害であるとさえ書かれている。ゴーゴリ自身地主なのである。
 しかし当時の紳士たちはこれに対して大変不満で、例によって反撃し、作品中の典型の多くはゴーゴリ自身だと言い、彼は大ロシアの地主について何も分かっていないと攻撃。それはその通りで、作者はウクライナ人で、彼の家人への手紙は全く作中の地主のことばと似ている。たとえ彼が大ロシアの地主の状況を知らなかったとしても、創作中の人物は生き生きとしており、今、時代が変わり、国が違っても我々は確かにどこかでよく見かけた人物のように感じる。諷刺の手腕についてはここでは触れぬが、単にあの独特な点、特に日常の事を普通の言葉で、当時の地主の無聊な生活をするどく描いた。例えば、第4章のロシトリエフは地主のドラ息子で、祭り好きで、博打好きのほら吹きで、見栄っ張りだが、――殴られても平気だ。酒場でチチコフに会い、自分の可愛い子犬を自慢し、チチコフに犬の耳をさわらせ、さらに鼻もさわらせ――
 『チチコフはロシトリエフに好意を示そうと、その犬の耳をさわり「こりゃとってもいい犬になるよ!」と言った』
 『次にそのひんやりした鼻の頭をさわってみな、と言われ、チチコフは彼の機嫌を損なわぬように、鼻をさわって:「そんじょそこらの鼻とは大違いだ!」 と言った』
 こういうことが自慢の主人と世故にたけた客の応酬は我々も今でも随時耳にする。だがある人達はこれを交際術とみる。「そんじょそこらの鼻とは大違いだ!」とはどんな鼻なのか。しかし聞く人はそれだけで十分。後にロシトリエフの荘園に来て、彼が所有する田野と資産を見せた。――
 『次にクリミヤの雌犬を見に行ったが、犬はもう眼が見えなくなっており、ロシトリエフはもうじきお陀仏だと言った。2年前まではとても素晴らしい犬だった、と。皆もいっしょに見たが、雌犬は確かに眼が見えなくなっていた』
 この時、ロシトリエフは本心から眼の見えなくなった犬を褒めていたが、確かに見えないようだった。だがこの事が皆に何の関係があるというのか、そして世間の人は確かにこんなことを話題にし、自慢したり、それを証明しようとする。そして忙しく、真面目に生きていることを証明しようとするのもいる。
 こうした極めて平凡で、或いは全く何事もないような悲劇を、まさしく声なき言葉のように、詩人によってその情景を描き出されなければ、容易には感じ取れない。しかし人は英雄的で、特に悲劇的なことで亡ぶことは少なく、ごく平常に或いはまったく何事もない様な悲劇で亡ぶことが多い。
 ゴーリキーの「涙を湛えた微笑」は今、本国では必要なくなり、それに代わって健康な笑いが生まれた。だが他の場所では依然必要で、そこに多くの人々の影が蔵されている。況や健康な笑いは、笑われる方にとっては悲哀であり、従ってゴーリキーの「涙を湛えた微笑」が作者と立場のことなる読者に伝われば、健康になる:これが「死せる魂」の偉大な所であり、正に作者の悲哀である。   7月14日

訳者雑感:本品はどうも分からない。私自身「死せる魂」を読んだことが無いからだろう。魯迅はこの作品を訳しており、その訳語感がこれだが、地主の生活を描いてどうしようと考えたのだろう。こうした人間はもはやこの地上に居る必要は無いということだろうか。
ゴーゴリがウクライナ人であり、大ロシアの大地主のことはウクライナ人には分からぬと批判された云々という点は、どういうことだろう。それにしてもクリミヤ産の犬が登場するが、今年のロシアのクリミヤ併合はロシアにとって吉と出るか凶と出るか?その影響はEUや新疆ウイグル問題などを抱える中国にどのような影響を及ぼすだろう。
集団的自衛権を閣内で通過させたのは、安倍氏の祖父以来の念願で、これでやっと米国と『対等』になれる方向に一歩踏み出したと思っているようだ。靖国神社に祭られているのは、戊辰戦争以来、明治政府のために犠牲になった「軍人」だが、先の大戦で犠牲になった軍人の殆どは「米国」によってであり、中韓両国によって死んだのは少ない。
 きな臭くなってきたことは間違いない。
     2014/07/03記

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「天のお陰」

「天のお陰」
「天のお陰説」は我々中国の国宝である。清朝中葉にはすでに「天のお陰の絵図」の碑が建てられ、民国初年、状元陸潤庠(ショウ)氏も一枚の絵を描いた:大きな「天」の字の最後の一筆の尖端に老人が腰かけ、碗を手に飯を食らう。この図は石印され、信天派や嗜奇派の人達がまだ収蔵している。
 みんながこの学説を信じており、図と違うのは碗を手にしていない点だけだ。この学説はどうも半分程は生き残っているようである。
 一月前、「旱魃の象がある」と大騒ぎしたことがあったが、今は梅雨で雨が十数日続いたが、毎年必ず起こり、台風や暴雨だと到るところで水害が出る。植樹祭に数株植えても、天の意を挽回するには足りない。「五日に一風、十日に一雨」の唐虞(堯舜の意)の世は今や遠い昔。天に頼っても飯を食い損ねる。これは多分信天派の料り及ばぬ所だ。やはり「幼学瓊林」(明末の天文書)の聡明を学ばせ、曰く:「軽清なるものは浮上して天となる」。
「軽清」で又「浮上」するにはどんな法に「頼れば」良いのか。
 昔、真の言葉だったものは、今少しホラに変わった。多分西洋人が言いだしたことだろうが、世の中に貧乏人にも日光と空気と水は取り分がある、と。しかし今の上海にはこれは適用されず、朝から夜まで心身ともにくたくたになるまで働かされて、日光も浴びられず、良い空気も吸えず:水道も引けぬから、清潔な水も飲めぬ。新聞には往々:「最近天候不順で疫病流行」と出ているが、これはただ「天候不順」だけのせいとは言えまい。「天なにをかいわんや」只黙して冤罪を受けるのみ。
 だが「天」の下で「人」になれぬとなると、砂漠の民は水飲み場の争奪の為に命がけで闘い、彼らはけっして「嗚呼…などの詩」で事を終わらせたりしない。スタイン博士は甘粛省敦煌の沙地から大量の骨董を掘り出したというではないか?あの地方は元来繁栄していた所だったが、天のおかげか、天風により沙によって埋没させられた。将来の骨董製造のため、天によるのも良い方法だが、生きている人にとって価値は無い。
 ここまでくると、自然を征服しようと言いたいが、今そんなことは言えないから、「ここに留まって住む」しかないか。  7月1日

訳者雑感:PM2.5で肺炎にかかり、大量の豚の死骸が浮かぶ河の水は飲めず、日光の射さない地下豪に鼠のように住むしかない。これが北京の大卒生の現実である。上海や北京で貧乏人でもきれいな水を飲めた時代は遠い昔となった。金持ちは海南島までしばしば出かけて、上手い空気で肺を洗っているそうだ。これを洗肺というそうだが、拝金主義の頭を洗脳することが肝要であると思う。60年前に理想だった共産主義という思想で洗われた脳はわずか30年の繁栄がもたらした腐敗という富を占有しようとする煩悩に汚されてしまったから。
 天のお陰を感謝せぬたたりか? 30年の腐敗の天罰か。敦煌のように沙地に埋没する他ないか。         2014/06/19記

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