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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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深夜に記す(続)

深夜に記す(続)
3.一つの童話
 2月17日の「DZZ」(ソ連で印刷されたドイツ語新聞)に、ハイネ歿後80年記念で、Bredel作「一つの童話」を見て気にいったのでこの題で書いてみる。
 ある時、こんな国があった。権力者は人民を抑圧していたが、彼らを手強いと感じていた。彼らの表音文字は機関銃のようだし、木版画は戦車のようで:土地は取り上げたけれど、決めた駅で下車できません。地上も歩けず、常に空を飛ばねばなりません。皮膚の抵抗力も弱って来て、緊要なことが起こるとすぐ風邪をひき、大臣たちに伝染し、一斉に発病してしまう。
 何種類かの大きな字典を出したが、実用に適さず、本当の事を知りたいなら、これまで印刷されてこなかった字典を引かねばならない。とても新奇な解釈があり、「解放」は「銃殺」:「トルストイ主義」は「逃亡」:「官」の注には:「大官の親戚友人と奴才」:「城」の注は「学生の出入りを防ぐために築いた高くて堅固なレンガの壁」:「道徳」の注には「女子の腕の露出を禁ず」:「革命」の注は「田地に大洪水を起こし、飛行機で<匪賊>の頭に爆弾を落とす」
 分厚い法律全書を出し、学者を各国に派遣して、現行の法律を調べ、精華を摘出して編纂したから、こんなに完全で精密な法律はどこにもない。だが巻頭は一枚の白紙で、まだ印字されるまえの字典を見た人しかこれを見ることはできません。最初に計3条あり:1.或いは寛大に処し、2.或いは厳格に処し、3.或いは時に全て適用せぬ。
 無論法廷はあるが、白紙に印された字を見たことのある犯人は、開廷時に決して抗弁できません。それというのも、抗弁が好きなのは悪人で、一度弁じれば「厳格に処す」を免れないから。勿論高等法院もあるが、白紙の字を見た人は、決して控訴しません。控訴すれば即「厳格に処」されるからです。
 ある朝、大勢の軍と警官が美術学校を包囲した。校内を洋服と中国服を着た人間が飛びまわり、あちこち探し回り、彼らの後にはピストルを手にした警官がついていた。暫くして、洋服の男が寄宿舎で18才の学生の首をつかんだ。
 「政府の命令により君たちを検査する。ちょっと調べるぞ」
「どうぞ!」青年はベッドの下から行李を引きだした。ここの青年達は長年の経験あり、とても利口で、何も持っていなかった。だが、その学生は18才で引きだしの中から手紙を数件探し出された。きっとその手紙には彼の母親の苦しんで死んだことが書かれていて、焼くに忍びなかった為だろう。洋服の男は丁寧に一字一字読み「…この世は人を喰う筵席で、君の母親は喰われ、世の中の多くの母親も喰われてしまった…」という段で、眉を挙げ、鉛筆でそこに曲線を引き、訊ねた:
 「これは何を言おうとしているのだ?」
 「……」
 「誰がお前の母親を喰ったのだ?世の中、人が人を喰うなんてことがあるのか?我々がお前の母親を喰ったとでも言うのか?よし」彼は眼玉をむき出しにして、まるでそれを鉄砲の弾のように撃ち込もうとしているようでした。
 「そんなこと!そんなことじゃない。それは」
青年はあわてた。
 だが彼は眼玉を飛びだしはせず、手紙を折ってポケットにしまい:その学生の木版と木刻、拓片をとり、「鉄の流れ」「静かなドン」新聞の切り抜きをひとまとめにし、警官に指示した:
 「これらを君に渡す!」
 「こんな物が何か問題あるのですか?持って行くなんて」青年はこれは具合が悪いということを知った。
 だが洋服の男は一瞥しただけで、指を振って他の警官に命じた:
 「こやつを君に渡す」
 警官は虎のように跳ねて、青年の服の背中をつかみ、寄宿舎の門の所まで引っぱって行った。門の外には年恰好の同じくらいの学生が2人いて、背中を大きな手で掴まれていた。周りは大勢の教員と学生がとり囲んでいた。


  訳者雑感:香港には「城」が築かれていないから、学生が自由に中心部を占拠できた。大陸では各所に「城」が築かれ、学生たちが自由に出入りできないようにしている。1930年代に魯迅が引用した「権力者」の字典は今も通用するようだ。不変というか、進歩が無い。嗚呼。
 1国2制度の香港の首長選挙は、どうなるのだろう?今のところ警官とヤクザだけだが、軍が出動してきたら…。天安門事件の再発となるだろうか?世界中が注視している中で、よもや発砲・マル焦げの死体が歩道橋から吊り下げられることはないと思うが。
      2014/10/10記

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深夜に記す

深夜に記す
一。ケーテ・コルヴィッツ教授の版画、中国に入ること。
 地面に紙銭の焼けた灰が山のようにあり、古壁には幾つかの絵が描かれ、通る人がそれに目を向けるとは限らぬが、それはそれぞれある意味が蔵されていて、愛であり、悲哀であり、憤怒、……そしてそれらは往々、叫び声より猛烈である。数人はこの意味が分かるのだ。
 1931年――何月かは忘れたが――創刊後すぐ発禁された「北斗」の第一号に木版画があり、母親が悲しげに眼を閉じ、彼女の子を差し出している。これがケーテ・コルヴィッツの木版連続画「戦争」の一枚目で、題は「犠牲」で彼女の版画が中国に紹介された最初の作品だ。
 この木版は私が寄せたもので、柔石が害された記念であった。彼は私の学生であり、共に外国文芸を紹介し、特に木版が好きで、かつて3冊の欧米作家の作品を編集した。印刷はあまりうまくいかなかったけれど。だがどうした訳か突然逮捕され(上海の刑場)龍華で他の5人の青年作家と共に銃殺された。当時の新聞は一切これを報じず、多分そうする勇気も無く、何も記載されなかったが、多くの人は彼がもうこの世にいないと知っていた。それはよくあることだったから。彼の両眼盲した母だけは、愛する息子はきっと上海で翻訳校正をしていると思っていただろう。偶然ドイツ書店でこの「犠牲」を見、「北斗」に送って私の無言の記念とした。然し後に一部の人が含意に気付いていたと知ったが、彼らは大抵記念しているのは犠牲者全員と思っていた。
 この時、ケーテ・コルヴィッツ教授の版画集はちょうど欧州から中国への途上だったが、上海に着いた時、熱心な紹介者はとうに土中に眠っていて、私はその場所さえ知らない。それならやむなし、私一人で見よう。そこには困窮、疾病、飢餓、死亡…勿論あらがいと闘争もあるが、比較的少ない:これは正しく作者の自画像のように、顔には憎悪を憤怒があるが、それ以上に慈愛と悲しみ、憐憫のあるのと同じだ。これらすべては「辱められ、虐げられた」母の心の図象だ。このような母親は、中国の爪を赤く染めていない田舎にもよくいる。人は往々、彼女を嘲笑って、役立たずの息子を愛すという。彼女たちは役立たずの息子も愛すが、すでに強くたくましい力があれば安心し、「辱められ虐げられている」子供の方に注意を向けるのだ。
 今彼女の作品の復製21枚が証明しており:又中国の芸術を学ぶ青年に次の様なメリットを与えてくれている。
1.この5年来、木刻は大変盛んになった。時に迫害されたが、他の版画は比較的まとまったものとしては、A.Zornに関する物だけだった。今紹介されているのは全て銅刻と石刻で、版画の中にこんな作品があり、油絵の類より普遍的で、なお且つZornとは明確に異なった技法と内容なのが分かる。
2.外国へ行ったことの無い人は、往々白人はすべてキリスト教を説くとか、貿易会社を作り、きれいな服を着、うまい物を食べ、気に障るとすぐ革靴で蹴る連中だと思っている。が、この画集を見れば、世界には実は多くの場所で「辱められ、虐げられている」人がいるのが分かり、我々と同じ仲間で、これらの人々の悲哀のために叫び戦っている芸術家もいることが分かる。
3.今中国の新聞には、大きく口を開いて叫ぶヒットラーの像を好んで載せるのが多いが、それは短い時間に過ぎず、写真で見ると永遠にこの姿勢だと、見る方が疲れてしまう。今、ドイツの芸術家の画集には他の人もいて、見れば見るほど美しいと思わせるものがある。
4.今年は柔石が害されて丸5年。作者の木刻が中国に紹介されて5年目:作者は中国式では70歳。丁度良い記念とすることができる。作者は現在、只沈黙を余儀なくされているが、彼女の作品はさらに多くのものが極東世界に紹介された。そうなのだ。人類の為の芸術は、他の力で阻止することはできない。

二。 誰にも知られず死ぬことについて
 この数日で悟ったのだが、誰にも知られずに死ぬことは人間にとって極めて惨苦なことだ。
 中国では革命前、死刑囚は刑に臨んで、見せしめでまず大通りを引き回され、彼は冤罪だと叫び、役人を罵り、自らの英雄的行為を自慢し、死など怖れないと声に出した。それが悲壮になると見物人は大声で喝采し、その後、人々の口で伝わって広まる。私が若い頃、こうしたことをよく聞き、そういうやり方は野蛮で残酷だと思った。
    最近、林語堂博士編集の「宇宙風」で銖堂氏の文章を見たら、違った見解を述べていた。彼はこのような死刑囚への喝采は、失敗せる英雄への崇拝で、弱きを助け「理想としては嵩高でないとは言えぬが、人々を組織していく上で、止むを得ない。強きを抑え、弱きを助く、とうのは永遠に強者を望まぬという事で、失敗せる英雄を崇拝するのは、成功せる英雄を認めないという事だ」だから「凡そ、古来成功した帝王は、数百年も威力を保持することを欲するが、何万何十万の無辜の民を残害して、一時の服従を得たかもしれぬ」
    何万何十万人を残害して、やっと「一時の服従」を得て「成功した帝王」になるとの考えは実に悲しむべきだが:それより良い方法は無いのだろう。だが私は彼らの為に別に良い方法が無いかなど考えようとは思わない。この事から悟ったのは、死刑囚が処刑の前に群衆に話す事が出来るのは「成功した帝王」の恩恵だという事で、彼がまだ力があると自信を持っている証拠だ。だから彼は豪胆に死刑囚にもしゃべらせ、死に臨んで、自分の誇りをしゃべって陶酔を得させ、皆も彼の最期を知ることができる。私が以前「残酷」だと思っていたのは、的確な判断ではなく、そこには些かの恩恵を含んでいたのだ。友人や学生の死に際して、その日時・場所・処刑の方法を知らないのは、それを知っているより更に悲しく心が動顛する。ここからもう一つ推想すると、密室内で数人の屠夫の手で命を終えるのは、群衆の前で死ぬよりきっと寂莫だと思う。
 然し、「成功した帝王」は秘密裏に人を殺したりしない。彼の秘密は:妻妾との戯れだけだ。だが失敗しそうになると、次の秘密が増える:彼の財産目録と隠し場所だ:更に旗色が悪くなると、第3の秘密に到る:秘密裏に人を殺すのだ。この時彼も銖堂氏と同様、民衆は彼ら自身の好き嫌いがあり、成功・失敗などどうでもいいほど、激しくなるからだ。
 従って、第3の秘密法はだとえ策士の献策が無くとも、いつかは採用しようとし、多分ある所ではすでに採用されている。この時、町内は治まり、民衆は静かになるが、我々は試みに死者の気持ちを推測すると、きっと公開された死よりも惨苦なものとなろう。私は以前ダンテの「神曲」の「地獄」篇まで読んで、作者の想定した残酷さに驚いたが、これまで更に読んでみて、彼はまだ仁に厚いと分かった。彼は現在すでに平常の惨苦となっている誰にも知られずに、殺されると言う地獄を思いつかなかったから。

訳者雑感:文化大革命のころ、北京の大通りをトラックに乗せられ、三角帽子を被らされた「反革命・右派」の人々が「みせしめ」にされていた。あの頃はまだ「力」に自信があって、大衆の前に引き回して処刑したのだろう。最近でも凄まじい汚職事件を起こした首長の処刑がテレビで放映された。こうして公開で処刑される方が、誰も知らない所で秘密裏に処刑されるより「仁」があるというのだろう。魯迅の多くの友人・学生が「力」に「自信の無くなった」政権によって秘密裏に殺された暗黒の時代。嗚呼。
     2014/10/08記

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続記(白莾の詩集序の)

続記(白莾の詩集序の)
 これは3月10日のこと。漢口から知らぬ人の手紙を受け取った。中に白莾と同済学校の同級で、彼の「孩児塔」の遺稿があり、出版しようと思うが、出版社から:私に序を書いてもらうように:との要請あり:原稿はバラバラなので、送らないが、もしご覧になりたいなら別送できる、と。実は白莾の「孩児塔」の原稿は同じ時に受難した数名の人の幾つかの遺稿と共に、すべて私の手元にあり、中には彼親筆の挿絵もあるが、彼の友人の手元に別の初稿もありうる:出版社が序をというのも良くある話だ。
 この2年来、遺著を出版する気風も広まり、雑誌でも死者と生者の合作がよくあるが、これは以前あった所謂「骸骨の片想い」でなく、生者が死者の余光によって「死せる孔明、生ける仲達を走ら」そうとしているのだ。私はこうした生者を余り尊敬しないが、今回は感動した。というのは、ある人が受難、或いは冤罪に問われると、所謂昔からの友人は、何も言わぬのは固よりだが、急いで石をぶつけ、それで自分が勝利者の側にいるのを表明するのも結構多い。だが、遺文を抱いて守り、何年かのちに出版し、亡友への交誼を尽くそうとする者は、寡聞にしてあまり知らない。大病がやっと癒え、起座できるようになり、夜雨がしとしとと降り、愴然と懐うところあり、さっと短文を書きあげ、翌日郵送し、印刷者に累が及ばぬよう、彼の姓名を記さなかった:数日後、又「文学叢報」にも送った。出版が妨害されぬように詩の題名も伏せた。
 数日後、「社会日報」にペテン師の史済行が今度は斉涵之と名を変えたとあった。それで初めてこれは騙されたのだと悟った。漢口からの発信者は正しく斉
涵之だったのだ。今もって原稿をだまし取る古い手を使い、「孩児塔」は出版されないだけでなく、多分初稿もあるとは限らぬ。彼は私が白莾と「孩児塔」の詩集名を知っているというに過ぎない。
 私と史済行の交信はとても古く、8-9年前で私が「語絲」の編集をしていて、創造社と太陽社が連合して私を包囲攻撃してきた時、彼は芸術専門学校生と自称し、手紙を寄こした。投稿の幾つかは当時の所謂革命文学のゴシップで、手紙にはこうした原稿を絶えず送ることができるとある。「語絲」に「ゴシップ覧」は無く、私もこの種の「作家」と往来したくなかったので即座に拒絶した。
 その後、また「彳〒」の変名で私のデマを捏造して雑誌に出し、また「天行」の名で(「語絲」にも同名があるが別人)または「史岩」の名で辞を低くして私の原稿を求めてきたが、相手にしなかった。今回彼が漢口にいるとは聞いていたが、史済行がいるからといって、漢口からの手紙すべてを卑劣者の手口と看做せず、疑い深いのは忠厚な長者から批難されるとはいえ、こんな人にも疑いをかけるまでには至らなかった。はからずも、相手はしたたかで、偶々疑慮せず、友情にほだされたのは私の弱みとなってしまった。
 今日また「漢口」の「人間世」第2号を見たら、巻末に「主編史天行」とあり、次号の予告になんと私の<「孩児塔」序>があった。但しそこには次号から「西北風」に改名するとの知らせあり、となると私の序文は「西北風」第1号に載るはずだ。第2号の第一篇は私の文章で<日訳「中国小説史略」序>だ。 これは元々私が日本語で書いた物で、誰が訳したのか、僅か1頁の短文だが、間違いだらけで通じない。だが前面に一行あり:『本編は元来私が日本語訳「支那小説史」の為に書いた巻頭語で…」と私の語気に似せて、私が自ら訳したようにみせかけている。自分で書いた日本語を訳して間違いだらけとは、とても不思議なことではないか?
 中国はもともと「人を人と見ぬ」ところで、たとえ根拠なく人を誣告し、降参したとか、転向したとか、国賊漢奸だというが、それを世間はおかしいと思っていない。だから史済行のペテンも大したことではないとされる。私がとりわけ言いたいのは、私の序を読んだ「孩児塔」を出版する人は、その望みを撤回できることだ。私が先に欺かれたが、一転私が読者を欺くことになるからだ。
 最後に数句「疑い深い」ことから出した結論を添えます:たとえ本当に漢口から「孩児塔」が出てもその詩は疑わしいこと。従来私は史済行の大事業に何か言うつもりはなかったが、今回すでに序を書き、また発表したから私は現在或いはその時になって、真偽を明らかにする義務と権利がある。
  4月11日

訳者雑感:魯迅の頃には復写機も無かったと思う。それでも彼は自分の書いたものを複数の人に出しており、また原文も手元に置いて、後に出版するための控としたのだろう。官憲の検査もあり、またこの手の原稿詐欺が横行していたのだから、原文を手元に置いておかぬととんでもない冤罪に陥れられる。それにしても、知らぬ他人からの「序」の要請を受けて書いて送ったのは、いかに彼が白莾のことを大切に思っていたかの証である。まるで昨今の息子を語った「おれおれ詐欺」に騙された母親のようだ。
     2014/09/27記

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白莾(モウ)作「孩児塔」の序

白莾(モウ)作「孩児塔」の序

春も半ばを過ぎたがまだ寒い:それに終日の雨がしとしとと降り、深夜一人で坐していると、雨音に凄涼さがつのる。午後遠方から手紙が届き、白莾の遺詩に序文を書いてくれとあり:冒頭に:「我が亡友白莾のことは、貴方もご存じでしょう。……」――これが私をいっそう悲しくさせた。

 白莾なら――間違いなく、知っている。4年前、私は「忘却の為の記念」を書いて彼らを忘れようとした。彼らは義に就いて、もう5年経ち、私の記憶では又多くの新たな血が流された:このことに触れると、彼の若い風貌が目の前に現れ、生きているようで、暑い日に大きな綿入れを着て、顔中脂汗で笑いながら私に言った:「3回目ですが、今回は自分で出てきました。前2回は兄が保釈で出してくれ、出たらすぐ干渉するので、今回は彼に知らせなかった。…」私は前回の文章で誤測したが、この兄こそ徐培根で、航空署長で、道は異なってもつまるところは兄弟であった:彼は徐白といい、普通は殷夫の筆名を使った。

 一人の人間として友情があるなら、そして亡友の遺文は一つの火を灯す如く、なんとかしてそれを流布しようと思う。この気持ちは良く分かり、序文を書く義務があると思う。私が悲しいのは、詩が分からぬ事で、詩人の友だちもいないことだ。いたならばいろいろ話したりしたろうが、白莾とも話したことはない、それは彼の死が早すぎたせいだろう。今、彼の詩についてなにも言えない――できないのだ。

 この「孩児塔」が世に出るのは、現在の他の詩人と一日の長を争うものではなく、別の意義があり。これは東方の微光で、林の中の鏑矢で、冬末の萌芽弟、進軍の第一歩、先駆者の愛の儀仗旗で、踏みにじられた者の憎しみの立派な碑である。全ての所謂円熟・簡潔・静穆・幽遠な作品は、これと比す必要は無い。この詩は新しい世界に属しているから。

 その世界に沢山沢山の人がおり、白莾も彼らの亡友だ。この点だけでも本集の存在を保証するに足り、私の序文など何の必要もない。

       1936311日夜 魯迅 上海且介亭に記す。

 

訳者雑感:詩集の名は白莾の故郷の義塚で、もっぱら死んだ子供を葬る墳墓だという。塔というのは元来、土中に死者を葬った上に立てたもの。義塚は辞書によると、無主の屍骨を葬る墓で、家族や親戚によって葬られるのではなく、その地の誰かが葬るもので、義に就いて殺された白莾たちは国民党政府によって、まさにこの「孩児塔」の中に投げ入れられ、いつどこに葬られたかすら分からない。そんな悲しい事を「忘却する為に」魯迅は文章を書いたのだ。いつどこで葬られたのかすら誰にも告げられずに、投げ入れられた者は……。

     2014/09/23

 

     

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私は人をだましたい

私は人をだましたい
 疲れて何もしたくない時は、この世を超越した作家を敬服しそのマネをしてみようと思う。が上手くゆかない。超然とした心は貝のような硬い殻を持っていなければならぬ。それにきれいな水も必要だ。浅間山辺りには旅館はあるだろうが、そこへ「象牙の塔」を作りに行く人はいないと思う。
 しばしの心の平安を得る為、窮余の策として、近頃別の方法をあみだした。それは人をだますことだ。
 去年の秋か冬、日本の水兵が(上海の)閘北で殺された。忽然、沢山の人が引っ越しして、自動車賃が数倍になった。引っ越したのは勿論中国人で、外国人は面白そうに路辺で眺めている。私もときどき見に行った。夜になると大変静かになり、食いもの売りもいなくなり、遠くで犬の吠える声がするだけ。しかし2-3日すると引っ越しは禁じられたようだ。警察は懸命になって荷物を運ぶ荷車の車夫と人力車夫を殴打し、日本の新聞と中国の新聞は異口同音に、引っ越す連中に「愚民」というレッテルを張った。その意味は、天下は実に泰平で、このような「愚民」がいるから、良好なこの世の中が滅茶苦茶になるのだ、というわけだ。
 私は初めから終わりまで動かなかったから、この「愚民」の中に加わらなかった。だがこれは聡明だからではなく、怠けたというだけだ。かつて5年前の正月の上海戦争―日本では「事変」と呼ぶのを好むようだが――の戦火の下で、自由はとうに奪われていたが、私の自由を奪った権力者もそれでもって空に飛んで行ってしまったから、どこへ行っても同じであった。中国人は疑い深い。どこの国の人もこれをおかしな癖・欠点だというが、疑うのは欠点ではない。いつも疑ってばかりいて、決断しないのこそ欠点だ。私は中国人だから、この秘密をよく知っている。その実、決断はしているのだが、この決断はすなわち:結局信用できぬということで。ただ、その後の事実は大抵この決断の的確さを証明している。中国人は自分が疑い深いことを疑っていない。従って、私は引っ越さなかったが、それは天下が泰平だと思っていたわけでなく、結局どこにいようが、同じく危険だというにすぎぬ。5年前の新聞を見てみると、子供の死屍(原文にはXXと伏せてあったが、2006年版には死屍とある)が多く、俘虜交換(俘虜もXX)した例も無く、今思い出してみると、大変悲痛である。
 引っ越した人を虐待し、車夫を殴打するなどごく小事だ。中国人は常に自分の血で権力者の手を洗い、そして彼はまた清潔な人間に変わり、今はただこんな形で事を終わらせて、まずはいい具合だとみなしている。
 だが皆が引っ越している時、私も一日中路傍で騒ぎを眺めていたのではないし、家で世界文学全集を読もうと言う気にもならなかった。少し遠出して映画館に憂さ晴らしに行った。そこは本当に天下泰平だった。こここそ、皆が引っ越てきて住もうとしているところだ。大門をくぐると、12.3歳の女の子につかまった。小学生で水害の募金集めで、寒さで鼻の先も赤かった。小銭が無いと言うと、彼女はとても失望した表情を眼に顕した。私はすまないと感じ、彼女を映画館の中に連れて行き、切符を買って1元を渡した。彼女は大変喜んで、私に「貴方は良い人だ」とほめ、領収書を書いてくれた。これを持っていれば、どこへ行ってももう出す必要は無い、と。それで私は所謂良い人になり、かるやかに入って行った。
 何を見たか?何も覚えていない。要するにイギリス人が祖国の為にインドの残忍な酋長を征伐したとか、アメリカ人がアフリカで大金持ちになったとか、絶世の美女と結婚したとかだろう。こうやって暫く時間を潰し、晩近くになって帰宅すると、また静かになっていた。遠くから犬の吠える声が聞こえる。女の子の満足げな表情の容貌が眼に浮かび、自分も良いことをしたと感じるが、気分はまたすぐ害されて、石鹸か何かを呑んだようになった。
 確か2-3年前、大変な水害があり、この洪水は日本と違って、数か月間か半年は全く水が退かぬ。だが私は知っているのだが、中国には「水利局」という役所が有って、毎年人民からの税金で仕事をしている。それでもこんな洪水が起こる。またある団体が義捐金募集のために公演をしたが、わずか20数元しか集まらず、役所は怒って受け取らなかった。水害を蒙った難民が群れを成して、安全な所へ向うと、治安に危害が及ぶとして、機関銃掃射したというのもよく聞く。きっとすでに皆死んでしまっただろう。しかし子供たちは知らないから、懸命になって死んでしまった人のための生活費を募っており、集らぬと失望し、集ると喜ぶ、その実、1元くらいでは水利局の爺さんの一日のタバコ代にもならぬ。私はそんなことは明々に知っているが、募金が本当に災民の手に届くと信じている如くに1元を渡した。実はこの天真爛漫な子の喜びを買ったに過ぎぬ。私は人が失望するのを見たくないから。
 80歳の私の母が、天国はほんとうにあるか、と訊いたら、私は何のためらいもなく、本当にある、と答えるだろう。
 しかしこの日のその後の気分は悪かった。子供は老人と同じではないから。彼女を騙すべきではないと思い、公開状を書いて、自分の本心を説明し、誤解を解こうとしたが、どこにも発表する所がないから止めた。もう12時であった。外へ出て辺りを見回した。
 すでに人影も無い。ただある家の軒下にワンタン売りが二人の巡査と話していた。普段あまり見たことが無い貧しい天秤担ぎで、食材が沢山売れ残っている事から商売はあがったりの様だ。2角で2碗買い、妻と2人で食べた。多少もうけさせようかと思った。
 荘子は言った:「干からびたわだちの中の鮒は、互いに唾沫で相湿らし、湿気を付ける」と。しかし彼は又言った:「だが江湖にいて互いに相手を忘れているに如かず」と。
 悲しいかな。我々は互いに忘れられぬ。そして私は愈々、恣意的に人を騙し始めた。人を騙す学問を卒業あるいは止められない時、(改造社の)山本社長に会ってしまった。何か書けと言うので、礼儀上「はい」と答えた。「はい」と答えたので書かねばならず、彼を失望させたくない。だが結局人を騙す文章になった。
 この様な文章を書いて、良い気持ちにはとてもなれない。言いたいことは山ほどあるが、「中日親善」が更に進む時を待たねばならない。もう少ししたら、その「親善」の程度はきっと我々中国で、排日は即、国賊と看做す――というのは共産党が排日のスローガンを使って、中国を滅亡させようとするためだということになり――到るところの断頭台に太陽の丸い輪(日の丸)がはためくことだろうが、たとえそういうふうになっても、やはり本当の心を披歴することにはならないだろう。
 私一人だけの杞憂かもしれぬが:互いに本当の気持ちをよくみて理解しなければ、筆や舌、あるいは宗教家の所謂、涙できれいに眼を洗い清めるというような便利な方法を使えるようなら、それは固より非常に素晴らしいことだが、そのような都合のよいことは、世界中さがしてもめったに見つからないだろう。これは悲しいことだ。一方で筋道のない漫文を書きながら、一方で熱心な読者にすまないと思う。
 終わりに臨んで、血で私個人の予感を添えて、お礼とします。
     2月23日

訳者雑感:
 女の子への手紙を書くのは止めたが、この改造社の山本社長からの依頼に答える形で、「私は人をだましたい」という文章を書いて、彼女のことに触れた。
 3.11の後、台湾の人達が2百億円もの義捐金を寄せてくれた。彼ら彼女等は、日本の役所は中国のようなことはしない、と信じてくれて寄せてくれたものだろう。しかし実際にどの様に一刻も早く支援を待つ災民の手に届いたのだろう。

 36年10月魯迅は死んだ。37年、盧溝橋事件から日中戦争が始まった。この文章はその予感を血でもって添えられたのだ。「排日」「抗日」が長く続いた。
日本と日本製品を排除・ボイコットし、日本軍に戦争で抵抗した。今「反日」という、これは日本にやり方に反対する、ということだが、これが「排日」になって、戦争で抗日でなく、制圧・征服ということになりはしないか心配だ。
      2014/09/19記
 

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末篇扉とケーテ版画

且介亭雑文末篇 
扉とケーテ版画
 本書の扉に作者の1936年の雑文35篇を収める。作者は生前編集を始めたが、後に(夫人)許広平がまとめ、1937年7月上海三閑書屋より初版とある。
目次に次いで1936年の本文が始まる。

 「ケーテ・コルウィツ版画選集」序と目録
 Kaethe  Schmidt(旧姓)は1867年7月8日東プロシアのKoeningsbergに生まれる。外祖父はJ.Ruppでその地の自由宗教協会の創立者。父は元々司法官候補だったが、宗教と政治上の見解のため、補欠の望みも無く、困窮した法律家は、ロシア人の説くように:「人民の中へ」と大工(実際は左官)となり、Ruppの死後、その教区の首領と教師になった。4人の子があり、大事に育てたが、当初、ケーテの芸術の才に気付かなかった。ケーテが学んだのはまず銅刻の手芸で、1885年冬に彼女の兄弟が文学を学んでいるベルリンに行き、S,Bern
に絵画を学んだ。後に故郷に戻り、Neidemに学んだが、「嫌になって」ミュンヘンのHerterichの所へ学びに赴いた。
 1891年彼女の兄弟の幼馴染のKarl Kollwitzと結婚。彼は開業医でケーテもベルリンの「小市民」の中で暮らし、絵画を止め版画を始めた。子たちの成長後、彫刻にも注力した。1878年、有名な「織工一揆」(計6枚)を作り、1844年の史実に取材し、以前に出されたHauptmannの劇本と同名だが:1899年に「格莱親」を刻し、1901年「断頭台の舞踏」を刻した:04年にパリに旅行し:04-08年の間「農民戦争」7枚を連作し有名になり、Villa-Romana賞金を受け、イタリアに遊学した。この時、女友達とフローレンスからローマに徒歩旅行したが、この旅行では彼女自身によると、彼女の芸術に大きな影響を与えなかったという。09年に「失業」を作り、10年に「捕えられて死んだ婦人」と「死」をテーマにした小さな絵を描いた。
 世界大戦が起こり、その間殆ど制作しなかった。1914年10月末、彼女のまだ若い長男が義勇兵としてFlandernで死んだ。(実は二男:出版社)18年11月プロシア芸術学院会員に選ばれ、これは婦人として初めてだった。19年以降彼女は大きな夢からはじめて醒めたように、版画にとりくみ、有名なのはこの一年のリープクネヒト記念の木刻と石刻で、22-23年の木刻連続画「戦争」、後に又3枚の「無産者」もあり、それも木刻の連続画だ。1927年彼女の60才記念で、ハウプトマンは当時も戦闘的作家で、彼女に書簡を出し:「貴女の無声の線描は、心髄にしみとおり、惨苦の叫びのように:ギリシャ・ローマ時代にはこのような叫びは聞いたことは無い」と。フランスのロマンロランは言った:「ケーテ・コルヴィッツの作品は現代ドイツの最も偉大な詩歌で、それは貧しい人と平民の困苦と悲痛を写しだした。この丈夫の気概を有する婦人は、陰鬱さと細やかでやさしい同情をもって、こうしたものを彼女の眼の中に入れ、彼女の慈母の腕(かいな)に抱いた。これは犠牲となった人々の沈黙の声だ」と。
しかし彼女は今、教えることも作画もできず、彼女の子供たちとベルリンに暮らして沈黙する以外なにもできない:彼女の子は父と同じく医者だ。
 女性の芸術家で、芸術界を振動させたのは、現代ではケーテ・コルヴィッツを超える人はいない――ある者は賛美し、ある者は攻撃、ある者は攻撃者に対し彼女を弁護する。真にAvenariusの言う如く:『新世紀の数年前、彼女が初めて作品の展覧会をした時、新聞は宣伝した。それ以来ある人は「彼女は偉大な版画家」だと言い:ある人はつまらない、ばかばかしいとし:「ケーテはある男の新派の版画家の仲間に属している」とか、他にも:「彼女は社会民主主義のプロパガンダだ」と言い。3番目は:「彼女は悲観的で困苦した画工」だという。4番目は「宗教的芸術家」だとも言った。要するに:人がどのように自分の感覚と思想でこの芸術を解釈しようとも、そこからどの様にある種の意義を見いだそうとも――ひとつの事は普遍的で:人は彼女を忘れない。誰も一度ケーテの名を聞くと、この芸術を見たように感じる。この芸術は陰鬱で、すべて堅固な動きの中に、強靭な力を集中し、この芸術は統一していて単純で、非常な感じで人に迫ってくる』
 だが、我々中国で紹介された例は少なく、すでに停刊した「現代」と「訳文」で夫々、一枚の木刻を見た記憶はあるが、原画は勿論とても少なく:4-5年前上海で何枚かの作品を展覧したが、注目した人は少なかった。彼女の本国での復製作品は、私が見た限り「ケーテ・コルヴィッツ画帳1927」が最も素晴らしかったが、その後の版で内容が変更され、深愁の作品が戦闘的な物より多くなった。印刷が精密ではないが、枚数が多いのは「ケーテ・1930」でこれを見ると、彼女が深淵な慈母の愛で、すべての侮辱され、害された者の悲哀に抗議し、憤慨し、戦っている事が分かる:取材したテーマは大抵、困苦、飢餓、流離、疾病、死亡だが、シュプレヒコールし、あらがっており、聯合して奮起するものもある。その後また新集(Das Neukeコルヴィッツ作品、1933)も出たが、多くは明朗な作品が多い。W.Hausensteinは彼女の中期の作品を評し、中には鼓動するような男性的版画、暴力的で恐ろしいものもあるが、根本的には生活と深く関わっている様相で、形式的にももめ事などに激しくからんでおり、従ってその形式は世事の形相をしっかりとらえている。永田一修は彼女の後の作品と併せて取り上げ、この批評は不足していると考え、ケーテの作品は、Max Liebermannとは異なり、テーマが面白いと感じて下層世界を描いたのではなく、周囲の悲惨な生活に動かされ、描かずにいられなかったもので、これは人類を搾取するものへの無窮の『憤怒』だとしている。『彼女は目の前の感覚に照らして、――永田一修は言う――黒土の大衆を描いた。彼女は様式で現象に枠をはめなかった。時に悲劇と見られ、英雄化とみられることも免れなかった。どれほど深愁といわれても、どんな悲哀に対しても、決して非革命的ではなかった。彼女は現在の社会が変革可能だと言うことを忘れなかった。そして老境に入るや、より悲劇的或いは英雄的陰暗な形式から脱却した』
 更に彼女は単に彼女のまわりの悲惨な生活の抗争の為だけでなく、中国に対しても、中国が彼女に冷淡なのにもかかわらず:31年1月に6人の青年作家が害された後、全世界の進歩的文芸家が連名で抗議を提出した時、彼女もその署名者の一人だった。今、中国式に作者の年齢を数えると70歳で、この本の出版は紙幅に限りがあるとはいえ、彼女へのささやかな記念と言える。
 選集には合計21枚の原版拓本を主に、復製の27年印刷の「画帳」で補った。以下、AvenariusとL.Dielの解説と私の意見を併せ、目録とする――
(1)<自画像>。石刻、制作年代未詳、「作品集」の順序によれば1910年頃:
(1919年が正しい:出版社)原拓本の原寸は34x30CM、これは作者が多くの版画の肖像から自分で中国向けに選んだ一枚。彼女の悲しみ憐憫、憤怒と慈愛がかそけく感じられる。
(2)<窮苦>。石刻、原寸15x15CM、原版拓本ではこの後の5枚も同じ。これは有名な「織工一揆」の第一枚で、1898年作。4年前ハウプトマンの劇本を「織匠」がベルリンのドイツ劇場で初演され、1844年のSchlesien麻布労働者の蜂起に取材し、作者も多分この作品の影響を受けているだろう。だが、これを深く論じる必要はない。それは劇本で、これは図画だから。我々はこれによって窮苦の人の(家が)氷の如く冷たく、ぼろぼろの家で、父親が子を抱いて、どうすることもできずに部屋の隅に坐り、母親は苦しみを愁い、両手で頭を支え、危篤の子供をじっと見つめ、糸紡車は音も無く彼女の傍らで止まっている。
(3)<死亡>。石刻、原寸22x18CM
 (この後、数行の解説と魯迅の意見が続くが21枚あり、実物の版画集を見ないでも解説だけでも内容はよく分かるが、この翻訳では割愛し、題名だけ記す)
4.相談 5.織工隊 6.突撃 7.結末 8.グレートヘン 9.断頭台の周囲の踊り 10.耕す人 11.凌辱 12.鎌を磨く13.ドーム内の武装 14.反抗 15.戦場 16.俘虜 17.失業 18.死んで捕まった婦人 19.母と子 20.パン 21.ドイツの子供たちは腹ペコだ!
     1936年1月28日 魯迅

訳者雑感:魯迅の版画に対する情熱,とりわけケーテ・コルヴィッツへの愛情がひしひしと伝わってくる文章である。割愛した作品の解説も次の機会に載せてみようと考えている。それだけの価値はきっとあると思う。
    2014/09/17記

 

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後記

後記
 今回の編集も前回同様、書いた順とした。刊行物に発表した作品は、上半期は官検を経たので、何らかの削除を免れなかったが、私はそれをなまけて修正せずに、その部分に黒点を付けてすませた。前回の分を見れば官忌を犯したのはどういうところかすぐ分かる。
 全面禁止は2篇で:1つは「風刺とは何か」で、文学社の「文学百題」の為に書いたのだが、「缺」(欠如)の一字に変じ;もう一つは「助言から無駄話へ」
(「協賛から翼賛へ」とすべきか:訳者注)で、「文学論壇」に書いたが、今もって影も形も「缺」の字すらない。
 作者と検査官の関係で、間接的に検査官を知り、時に頗る敬服もさせられた。彼らの嗅覚はとても鋭敏で、私のあの「助言から無駄話へ」は元来、児童年とか婦女年、経典を読んで救国、敬老精神で俗を正すとか、中国本位の文化、第三種人文芸など、多くの政客豪商、文人学士たちが、もはや助言できる状態ではなく、無駄話に陥ったことを指摘したのだが、確かに発禁やむなしで、実に明白に、かつ徹底的に批判したのだからということが分かる。他の人もきっと私と同様、敬服していると思われるのは、文学家が検査官になっているとの噂があり、蘇汶氏をして1934年12月7日の「大晩報」に下記の公開状を書かしめた:
 『「火炬」編集者殿:
 今月4日号の貴刊「文学評論」特集に。聞問君名で「文学雑談」を載せ――<巷の噂では蘇汶氏は月70元の給与でXX会(原文のまま)に入会された由。文芸は時空には制御されぬが、「洋銀の制御を頗る受けることが良く分かった>
などの文章は憤慨に堪えない。汶(私)はこの数年来、どこにも入会せず、「現代雑誌」の編集と原稿を売って糊口してきた。それ以外、如何な組織から一銭も得ていない。所謂XX入会うんぬんは、X報のデマだと一笑にふすとはいえ、平素から公正で知られる貴誌すら、又もこうした根拠の無いものを信じて報じるとは、ひとこと文句を言わずにはおれない。汶(私)は貴誌を愛する故、特に申し上げるので、原文のまま次号に載せて真相を明らかにしてくだされば幸いです。    敬具。
    蘇汶(杜衡)拝。     12月5日 』
 作者が不当な金品を得ているというのは近頃の文壇のよくあることで、私もルーブルを貰っていると言われたのは4-5年前からだが、9.18(事変)以後、ルーブル説は取り消され、「親日」という新たな罪状に代わった。これまで「貴誌を愛護」する意図はなかったから、修正要求の手紙は書かなかった。しかしとうとう蘇汶氏の頭にふりかかって来たが、デマが多いのは「一利あれば一害あり」ということが分かる。私の経験では、検査官が「第三種人」を「愛護」しているのは本当の様だ。私が去年書いた文章の内、2篇ほど彼らの気に障ったようで、1篇は削られ(「病後雑談の余」)もう1篇は発禁された(「臉譜の憶測」)である。多分これに類したことはまだ他にもあるから「XX会(原文のまま)に入会」と推測されたのだろう。真に「憤慨に堪えぬ」で、辛辣な皮肉になれていない作家はそう感じるに違いない。
 しかし、デマ製造に対して少しも怪しまない社会は、本当の収賄にも何も怪しまない。収賄が制裁を受ける社会なら、妄りに収賄のデマを流した者を制裁しなければならぬ。従って、デマ製造で作家を中傷した新聞雑誌はただ清算するだけで、実際の効果は少ない。
 
 本集の内4篇は元は日本語で書いたものを今自分で訳したものだが、中国の読者に説明をせねばならぬ点は――
一。「生ける中国の姿」の序文は「支那通」を風刺した物で、且つ日本人は結論が好きだと書き、行間には彼らのいい加減さを嘲笑しているようだ。だがこの癖に長所もあり、結論を急ぐのは、実行を急ぐためで、我々は笑ってすますわけには行かない。
二。「現代中国の孔夫子」は雑誌「改造」6月号に載せたもので、この時は我々の「聖裔」(孔子の子孫)がちょうど東京で彼らの祖宗に礼拝し、大変喜んでいた。かつて亦光君の訳で「雑文」2号(7月)に載せたが、今回すこし改訂し、ここに転録した。
三。「中国小説史略」の日本語訳の序文に私は自分の喜びを書いたが、もう一つの理由を説明していなかった。10年前の事になるが、ついに私個人の仇を晴らす事が出来た。1926年、陳源すなわち、西瀅教授はかつて北京で私に対し公に人身攻撃をして、私のこの著作は塩谷温教授の「支那文学概論講話」の「小説」の部分を窃取したものだと言った:「閑話」の中で所謂「まるごと剽窃」と指摘していたのは私に対してだったが、今、塩谷教授の本も中国訳され、私のも日本訳され、両国の読者は二つとも見ることができ、誰が私の「剽窃」と言えるだろうか?嗚呼、「男盗女娼」とはこの世で大いに恥ずべきことで、私は十年間「剽窃」の汚名を着せられたが、今やっとそれを雪げたし、「ウソつき狗」の旗を、自称「聖人君子」の陳源教授にお返ししよう。彼がそれを洗い落とす事ができなければ、それを付けたまま墓まで持って言ってもらおう。
四。「ドストエフスキーの事」は三笠書房の依頼で書いた読者への紹介文だが、私はそこで、被抑圧者と抑圧者との関係は、奴隷ではなく敵対関係とし、決して友人にはなれぬから、互いの道徳は同じにはならぬと説明した。
 最後に鎌田誠一君を記念したい。彼は内山書店の店員で、絵画が好きで私の三回の独露木刻展はすべて彼が一人で設定してくれ:1.28の頃、彼が私と私の家族及び他の婦人子供たちを英国租界に逃してくれた。33年7月、故郷で病気のため亡くなった。彼の墓前に建てたのが、私の手になる碑銘だ。今でも当時、興味本位に私のことを殴られたとか殺されたとかというニュースを流した新聞と、(原稿料)80元のために何回も往復させながら、ついに払ってくれなかった本屋のことを思いだす都度、私は彼に対してほんとうに感謝と申し訳なさの気持ちで胸がいっぱいになる。
 2年来、時に進歩的な青年は好意的に私が最近余り書かなくなったのを惜しみ、失望していると言った。青年を失望させるしかないのは弁明のしようも無いが、多少の誤解もある。今日自分で調べたら:「新青年」に「随感録」を書いてから本集の最終篇まで18年経過し、雑感だけでも80万字ほどある。後の9年で書いたのは前の9年の倍以上あり:この3年の字数は前の6年と等しく「最近余り書かない」というのは正確ではない。更に進歩的な青年諸君は現在の言論弾圧に注意してないようなのが少し不思議に思う。作家の作品を論じようとするなら、周囲の状況も考えねばならぬと思う。
 もちろんこうした状況は極めて分かり難く、公開などしたら、作家は受難を怖れ、書店も閉鎖を免れようとするので、出版界と関係がある人はこうした内部情報も感じ取れよう。これまでに公開された事情を回想して見よう。多分読者も覚えているだろうが、中華民国23年(1934年)3月14日「大美晩報」に次の記事が載った――
『(国民党)中央本部、新文芸作品発禁。
 上海党支部は1,000元19日の党中央の電令を奉じ、各新書店に党員を派し、書籍を検査し、禁書が149種にのぼった。それに関連した書店は29軒で、そのうちかつて党支部が審査して発行を許可した、或いは内政部から著作権を取得して登録し、かつ各作家の以前の作品、例として丁玲の「暗黒の中で」などとても多く、上海出版業の恐慌を引き起こし、新書業組織の中国著作人出版人聯合会が集議し、2月25日代表を選び、党支部に請願の結果、党支部から中央へ送り、各書は再審査され、処分を軽減し、同日中央からの返答を受け、許可されたが、只、各書店は期間内に再度審査を受け、禁書は一律自動的に処分され、販売禁止となり、次に書店ごとの禁書を列記する。
書店名 書名 作家(翻訳も含め)別に合計150冊あり、魯迅の作品も12冊あるが、明細は省略する。(訳者)
 出版業界は書籍販売で収益を得ている人々で、売れれば内容は問わないし、(政府に対する)「反動」的精神はとても少ないから、この請願は好結果をもたらし、「商売困難に同情し」37種を解禁し、改訂削除して22種が許可されたが、その他は「発禁」「販売延期」となった。この中央から許可を得たものと改訂の書名は「出版ニュース」33期(4月1日付)に発表された――
 『中国国民党上海特別市執行委員会、批准執行字第1592号。
 (上述の内容が記載されているが 割愛する:訳者)
 
 然しまだ難しい問題が残っており:書店としては新しい本と雑誌を発行せねばならず、従って永遠に拘留と発禁、甚だしきは閉鎖の危険にさらされた。このリスクは当然書店主の損となるから、その補填が必要だ。ほどなくして風聞が飛び、はっきししないが――何月何日か知らぬが、党・官・店主と編集者が会議し、善後策を検討した。重点は新しい本と雑誌の出版で、どうすれば発禁されずにすむかだ。この時甲某という雑誌編集者が、原稿を官庁に送り、検査を受けて許可取得後に印刷する。文章内容は固より「反動」ではなく、店主の資本も保全され、真に公私ともに利がある。他の編集者も誰も反対せぬようでこの提案は通った。散会時、甲某の友人、乙某編集者も大変感動して、ある書天の代表に語った:「彼は個を犠牲にして、雑誌を保全した!」
 「彼」とは甲某氏で:乙某氏の意を推量するに、きっとこの献策で名誉は頗る傷ついたが、これも神経衰弱の憂慮に過ぎぬ。たとえ甲某氏の献策が無くても、本や雑誌の検査はどうしても実施されるだろうし、別の理由で始まるに過ぎず、況やこの献策は当時、人々にはおおっぴらにされず、新聞も報じようとはせず、皆は甲某氏を功臣と認め、それで虎の鬚をしごこうとはしなかった。せいぜいひそひそ話で、局外で知る人は大変少なく、名誉とも無関係だった。
 (後略:訳者)    
1935年12月31日夜半から一月一日朝に書き終える。


訳者雑感:
 35年前後の雑文集の後記はとても長い。注も含めた全264頁の18頁を占める。発禁処分の書名だけでも6頁半もある。この当時の出版業と官庁の検査を巡る駆け引きも紹介し、やはり印刷する前に認可を得て出版し、書店の損失を防ぐ…など、妥協案が示されているのも面白い。文字の国の民は漢字の印刷物無しでは文化的な暮らしができないと、不満が鬱積するようだ。
 今年になって、北京などの街角で新聞雑誌写真集などが、テント掛けの棚にどっさりと並べられて、庶民に好評を博していたのだが、これを一律撤去せよとのおふれが出た。これらのタブロイド版や雑誌は黄色(ピンク系)も何でも揃えていて、結構流行っていたのだが、これが反政府(中国語的には反動)的な文章が載っているという事で、これの販売をする棚を撤去すれば、一般書店だけでしか買えない事になる。大手書店は「反動的」な記事のある新聞雑誌を並べていると、本の撤去だけでなく、店を閉鎖されるリスクがあるから、勢いそうした物を売らなくなる。今やブログなどIT媒体での情報があふれているが、これは当局が疑わしき用語があればすぐ消去してしまうのだが、タブロイドには手が回りかねる。それで販売する露店の棚を撤去せよ、と相なった。この辺の当局の担当・責任者たちの思考経路は魯迅のころと不変のようだ。
     2014/09/01記

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新しい文字について

新しい文字について
 漢字ラテン化法が世に出て、漢字の簡体字と注音字母と競ってきているが、もう一つはローマ字ピンインがある。このローマ字ピンイン保護者のラテン化文字攻撃の理由は、方法がとても単純で多くの字が分別できぬ由。
 これは確かに欠点の一つだ。凡そ文字は容易に学べて書くことができれば、精密でなければならぬということはない。煩雑で難しい文字が精密であるとは限らぬが、精密であろうとするとどうしても比較的繁雑で難しくなるのは免れぬ。ローマ字ピンインは四声を明確にできるが、ラテン化文字はそれができぬから「東」と「董」の区別ができぬというが、漢字なら「東」と「蝀」は区別できるが、ローマ字ピンインではできない。一個か二個の字を分別できるか否かで、新しい文字の優劣を付けるのは適当ではない。文字は文脈で意味が明白になる。漢字といえども1字2字だけとり出したら、往々正確な意味をつかむことはできない。例えば「日者」の2字はこれだけだと「太陽」と解せ、「ここ数日」とか「吉凶を占う人」とも解せる:また「果然」はたいてい「ついに」の意味だが、動物の名前でもあり。「隆起する形容」にもなる:例えば「一」という字でも単独で使われると、123の1か、「四海一」(三国一)の一か判断できない。だが文中に入れればそれも難しさは無くなる。だからラテン化の1-2個の字を例に曖昧だというのは正当な指摘とはいえない。
ローマ字ピンインとラテン化を主張する両派の争いは実は精密さと粗雑さにあるのではなく、その由来、目的にある。ローマ字ピンインは古来の漢字を主とし、それをローマ字にして、この規則に従って書くようにとの主張で、ラテン化は今日の話し言葉(方言)を主にラテン化し、それを基準とするものだ。これで「詩韻」を比べてみると、後者はかなわないが、今日の人の話す言葉を書くには手軽で始めやすい。この点は精密でないという欠点を補って余りがあり、それにその後、実験しながら徐々に補正可能である。
 始めやすいのと実行が難しいのが、改革者の両大派だ。現状に不満なのは同じだが、現状打破の手段が大きく異なる:一つは革新、もう一つは復古だ。同じ革新でもその手法は異なり:一つは実行するのが難しいが、もう一つは始めやすい。この両者が争っている。実行困難な方法の見栄えの良い幌は完全さと精密さで、これで以て始めやすい物の進行を阻碍しているが、その中身は虚空に懸けた計画ゆえ、結果は成就しがたく;すなわち不可(ダメ)である。
 この不可というのが、まさしく実行困難な者の慰藉だった、というのもそれは改革の実は無いが、名があったからである。改革者の中には、改革を論じるのを極愛するが、真の改革が身に迫ってくると心配になる。只ただ難しい改革を叫ぶことで、容易な改革を阻止できるから、現状維持に注力する。一方で大いに改革を論じることが彼の完全な改革事業と考える。これは畳の上で泳法を学ぶのを主張し、それで泳げるようになるというのと同じだ。
 ラテン化は空談の弊害は無く、話す事が出来、書くこともできる。民衆と連携もあり、研究室や書斎の雅な玩びと異なり、巷間のものである:それに旧文字との関係は少ないが、人民との連携は密で、皆が自分の意見を話せれば、必要な知識も得られて、これ以外により容易な文字は無い。
 更に又ラテン化字でひとが創作できてこそ中国文学の新生があり、現代中国が新しい文学になれる。というのは彼らは「荘子」や「文選」の毒にあたることは無いからである。
     12月23日
訳者雑感:
 科挙の試験で南方出身者の合格者が北方より多いということの理由として、科挙の「詩作」や駢儷文などの韻を踏むのに、南方の方言の方が古来の漢字音の韻を踏襲しているものが多いから、北方出身者より有利だったとの説がある。
 確かに唐詩などの韻を比べてみると、古来の漢音というか呉音を多く残している日本語の韻の方が、現代北京語を中心にした韻よりもよく合致している例が多い。
 そして改革について、始めやすく実行し易いものを主張する人達に対して、精密(正しい)が実行しがたい改革を主張する人達は、それが身に迫ってくると心配になる、それで暗に現状維持を狙っている、という点について、今も普天間基地の移転について、多くの人が実現困難な案を打ち出して、実現できる計画を潰しにかかってきたのは、暗に現状維持を狙っているのだ、という説があるのを示唆しているようだ。基地は危険だが、完全になくなると困ると言う人達がいるのと似ている。
       2014/08/22記

 

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題未定稿九

題未定稿九
 これも前述の所謂「珍本叢書」の一つ、張岱の「琅嬛文集」についてだが、その巻3の書簡集に「又毅儒八弟に与ふ」という書簡の冒頭に:
『以前君が選した「明詩存」を見ると、一字でも鐘・譚(明の文学家)に似あわないのがあると、きっとそれを棄てて採用しなかった:だが今では幾社の諸君が王・李を盛んに称賛し、鐘・譚を痛罵するようになり、君の選び方も一変し、鐘・譚に似た字があると採用しなくなった。鐘・譚の詩集は元のままで、君の目も以前と同じのはずだが、その転じようは、まるで風に飛ばされる蓬(よもぎの枯れたもの)のように捷きこと光と音の如くで、
胸に定説なく、目に定見なく、口に定評なきこと、かくも極まれるや?蓋し、君が鐘・譚を好んでいたとき、鐘・譚にも良いところはあったが、悪い点もあり、玉にも石が混じるのは常で、それで以て連城とするわけには行かぬ:君が鐘・譚を嫌ったときでも、彼らに悪い点もあったが、良い点もあって、蓋し疵は玉を覆い隠す事はできず、それを瓦礫として棄てるわけにもゆかぬのである。君は、幾社の諸君の言を君の胸にのさばらせてはいけない。虚心坦懐、細かく論じて行けば、その美醜はおのずから見えて来るのだ。なぜ好き嫌いで決めてしまうのだ!… 』
 これは明らかに風に随って舵を転じる選者の姿を描いている。選本のあてにならぬ事を指摘証明している。張岱自身は撰文撰史は自分の意見を入れるべきでないとして「李硯翁に与ふ」の手紙に:『私の「石匱」(石の函)の一書は、四十余年間の文だが、心は明鏡止水の如く、自分の意見は決して述べず、故に絵を描くように、美と醜は自ら現れ、敢えて言及したのも、物ごとに則して形を表しただけだ。…』しかし心は畢竟鏡にあらず、虚にもなれず、故に「虚心坦懐」という詩を選ぶ極致も、「自分の意見を出さない」のを作史の極意とするのも、「静謐」を詩の極致とするのと同様、事実上かなわぬ事なのだ。数年前、文壇の所謂「第3種人」の杜衡の輩は超然を標榜したが、実は醜悪の一群となり、暫くして本性をさらけ出し、恥を知る者はみな之を称するを羞じたが、今はこれ以上触れない:たとえ本人は他意無いと自覚し、屹然と張岱の如く中立だと言っても、やはり片寄るのだ。彼は同じ書簡に東林を論ずとして:
 『…夫れ、東林は顧涇陽の講義以来、この名で我国に8-90年、禍をもたらし、その党の浮沈で、代々の興廃を占い、その党が盛んなれば則ち任官のための捷径とし、敗れれば則ち元祐の党碑(失敗した者の碑)とした。…蓋し東林の創始者には君子もいたが、そこに入党した者の中には小人もいて、擁戴者はみな小人で、呼び寄せられた者の中には、君子もおり、この間の筋道は明確で派閥も甚だ異なっている。東林の中で平凡なのは言うに及ばず、貪婪横暴な王図;奸険凶暴な李三才、馬賊首輔の項煜、それに書箋で王位に勧めた周鐘等、みな東林に紛れ込んでいるが、これ等を以て、君子と奏せよと言われても、私のひじを折られようとも、情実にとらわれたりしない。東林のもっとも醜い者は、時敏の闖賊に降参する際「我は東林の時敏なり」と、以て大いに用うを望むと言った事。魯王監国の時、小さな朝廷で科道の任孔当の輩は猶、曰く:「東林に非ずば、すすめて用うべからず」とした。であれば東林の2字は小さな魯国及び汝らを滅ぼした者である。この手でこういう輩を刃し、大釜の湯に入れて薪をがんがん焚くべし。…』
 これは誠に「詞は厳に義は正しく」というべし。挙げた群小もすべて確かにその通りで、特に時敏は3百年後にもこんな人間はいないわけではないが、まさに人の心を寒からしむ。
然し彼が東林を厳しく攻めるのは東林党にも小人がいた為で、古来、全員が君子の群は無く、凡そ党社というものは中立と称する者は必ず不満で、大体においては良い人が多いか悪いのが多いかであって、彼はこれを論じてはいない。或いは、更に言い方を換えるなら:東林は君子が多いが小人もおり、反東林の者も小人が多いが正しい士もいて、それで両方とも善悪があるのは同じだが、東林は世に君士と称する故に小人は憎むべきで、反東林は元々小人だが、正しい士もいるから、さすれば嘉すべしであり、君子には厳しく求め、小人には寛大で、自ら賢明でどんな小さなことも洞察すると思っていては、実際には却って小人のお先棒を担ぐことになってしまう。もし:東林には小人もいるが多くは君子であり、反東林には正士もいるが大抵は小人だとする。それなら重みはだいぶ違ってくる。
 謝国楨氏の「明清の際における党社運動考」は真面目に文献を調べ、大変勤勉に魏忠賢の2度の東林党人虐殺を終えたのを叙して云う:「当時、親戚朋友はすべて遠くへ逃れ、無恥の士大夫はとっくに魏党の旗に投降した。少し公平な言葉で言えば、諸君子を助けようとしたのは、只数名の本の虫と何人かの庶民だった』
 ここで言っているのは、魏忠賢が周順昌逮捕に派した役人を、蘇州の人達が撃退したことだ。庶民は詩や書は読まぬし、史法も知らぬが、美の中から醜をみつけたり、屎中に道を覓(もとめ)たりせぬが、大所から物を見る目があり、黒白を明らかにし、是非を弁じることができ、往々、清高でものごとをわきまえており、士大夫も及ばぬところである。先ほど届いた今日付の「大美晩報」に、「北平特約通信」が学生デモの記事を報じており、警察のホースで噴射され、棍棒や刀で攻撃され、一部は城外に閉めだされ、寒さと飢えに苦しんだが、「この時、燕冀高等師範大学付属中学と付近の住民が紛々と慰労隊を組織し、水と焼餅、饅頭などの食物を送り、学生たちはほぼ飢えをしのいだ…」中国の庶民は愚鈍などと誰が言ったのか、今日まで愚弄され欺かれ圧迫されてきても、まだこの様に物事をよく分かっている。張岱は又こうも言う:「忠臣義士は国破れ家滅ぶ時に多く現れ、丁度石を打つと火が出るように、一閃後すぐ滅すが、人主たる者、急いでこれを採らねば、火種は絶えてしまう」(「越絶詩小序」)彼が指摘した「人主」は明の太祖で、今の状況とはマッチしないが。
 石はあるし、火種は絶えない。ただ、私はもう一度九年前の主張を繰り返す:
もう二度と請願には行かないで欲しい!     
 12月18-19日夜

訳者雑感:学生と庶民たちの目がいかに大きなところから物事をみているか良く分かる。
中国の為政者の多くは、権力闘争の為に大所高所から物を見る目を失ってしまっている。
敵をやっつけねば自分がやられるという、権力闘争に明け暮れてきた長いDNAのせいだ。
今回の大トラ退治で「権力闘争」が終焉できるだろうか?
            2014/08/16記

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題未定稿八

題未定稿八
 今も流伝している古人の文集で、漢人の物でほぼ元の状態をたもっているのはもう無い。魏の稽康のは現存する集の中に他の人の贈答と論難が入っており、晋の阮籍の集にも伏義の来信があり、多分かなり昔の残本で、後人が重編したものだろう。「謝宣城集」は前半しか残っていないが、彼の同僚たちが賦咏した詩がある。こういう集が素晴らしいと思うのは、作者の文章を見ることができる一方で、彼と他の人との関係が分かり、彼の作品とこれに比して同咏した人の優劣とか、彼がなぜその文を書こうとしたのか………今こういう編集方法は、私の知るかぎり「独秀文存」で、彼と関係ある人の文を併せて載せている。
 骨の髄まで謹厳で、墨を金の如く惜しむ、あの立派な作家たちが、一生かけた作品を削りに削って只一字或いは三・四個にして、泰山の頂上に刻み「その人を伝えん」とするのは、まったく当人の自由で、幽霊や水中の化け物の如き「作家」は天兵天将の保佑(助け)があるのは明明白白なのだから、姓名も公開しても何ら問題無いのに、却って身を隠し、彼の「作品」と彼自身の本体に影響が及ぶのを心配し、書いては削除し、しまいには白紙一枚となり、結局何も無いというのも彼の勝手である。多少とも社会と関係のある文章は、集めて印刷すべきと思うが、その中には勿論がらくたも混じっていて、所謂「剪すべからずのイバラ」だが、それらがあってこそ深山幽谷といえる。今や古代と異なり、手書きや木刻の必要もなく、活字を組めばよいのだから。そうとはいえ、紙墨を粗末にするのはやはりその通りではあるが、楊邨人流のものもやはり印刷するのだと思えば、何であれ目をつぶって印刷できる。中国人がよく言うように「一利あれば一害あり」だが、「一害あれば必ず一利あり」でもある:ちょっと無恥な旗を掲げると、無恥の連中を引き出してしまう事になるのだが、遠慮している人に刺激を与えるのは一利といえる。
 遠慮するのを止めた人も少なくないが、所謂「自己愛惜者」も多い。「自己愛惜」するのは悪いことではなく、勿論無恥にはならないが、一部の人は往々、「体裁を整え」「掩飾」するのを「愛惜」と誤解している。作品集に「若い頃の作品」も入れるが、どうもちょっと修正を加えたりしがちで、それは子供の顔に白いヒゲをつけたようであり、また他人の作品も入れるが、特に選別して、気ままに罵ったり侮べつしたような文章は採らない。それらは価値が無いとしているが、実はそれらの文章も本文と同じように価値があり、たとえその力量が無恥な連中を引きだすまでには至らなくても、価値ある本文と関係があるのなら、それはその当時としての価値があったのだ。中国の史家は、早くからこの点に気づいていたから、歴史には大抵、循吏伝、忠臣伝、奸臣伝もあるのだ。さもないと全般を知ることはできない。
 更には、幽霊や水中の化け物のような者の技両に任せたら、すぐ消えてしまい、幽霊のような人達とその文章に反対することもできなくなってしまう。山林隠逸の作品は言うまでも無く、この作者がこの世にいて、戦闘性を持っていたら、彼は社会に敵対者がいる。ただ、こういう敵対者は自らそれを認めようとせず、しばしば駄々をこね:「冤罪だ!これは彼が私を仮想敵としたのだ!」と叫ぶ。だが注意して見ると、彼は確かに暗闇から矢を放ち、指摘されるとやっと公開の鉄砲に改めるが、これもまた「仮想敵」と誣告されたことへの報復だという。使う手口もこれまでの流伝に任せるような事はせず、事後にそれを消すだけでなく、時に臨んで身を隠す:そして編集者もそれを収録するのをよしとしない。その結果後には片方だけが残り、対比できず、当時の抗戦の作も的無しに放たれた矢のようで、空に向かって発狂しているようだ。かつて人が古人の文章を批評するのを見て、誰かが「舌鋒が露出しすぎ」とか「剣を抜いて弩を張る如し」というのがあったが、それはもう一方の文が消えた為で、もしあれば評論家の理解不足をいくらか減じることも可能だ。だから、今後は無価値と言われる他の人の分も広く採用し附録にすべきと思う。以前、例がないといえども、後の宝となればその効用は魑魅魍魎の形をした禹の鼎と同じだ。
 近来の雑誌の無聊さと、無恥と下流さはこの世界で余計なものだが、これも又現代中国の一群の「文学」で現在は今を知ることができるし、将来は過去を知ることができ、比較的大きな図書館は保存すべきだ。但し、C君が以前語ったところでは、これらだけでなく、真面目で切実な雑誌すら保存されるのは非常に少なく、大抵は外国の雑誌で一冊づつ集めて合本装丁される由:やはり「古を尊び、今を賤しみ、近きをないがしろにして遠きを図る」という古くからの病いだ。

訳者雑感:魯迅の雑文集には魯迅が反駁した相手の文章を載せている例が多い。きっと両方を読者に読んでもらって、判断をしてもらおうという発想からだろう。
 魯迅が例に引いている泰山の山頂近くの壁という壁には4-5字の大きな漢字が刻まれており、中には赤い塗料やいろいろ装飾してある。なんだか漢民族の文人はここにこうした短い物を彫ることで名を残すのが最大の望みでもあるようだ。
 そうすることで何時も天と話し合いができるかとでも思っているのであろうか?中には気のきいた物もあるが、大抵は「落書き」に近い。
    2014/08/06記

 

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