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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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烽火の話五則(奉直戦争の烽火)

烽火の話五則(奉直戦争の烽火)
 親子がケンカしている。が、神通力で彼等の年齢を略同じにしたら、すぐ一対の同じ志、道を同じくする友だちのようになれるだろう。
 賢人が「人心古びず」と嘆いた時、大抵は彼等の巧みな計が失敗したのだが:古老が「人心古びず」と嘆いた時は、則、息子や妾に怒られたせいに違いない。
 電報曰く:「天が中国を禍(わざわい)した。天曰く:全くのいいがかりだ!」
 精神的な文明人が飛行機を作ったのを論じて:これと霊魂の自在に遊行するのを比べるのは、一銭の値打ちも無い。書き終えて、遂に一族郎党引き連れて、東交民巷の外国公館街に移る。(官僚政治家の避難場所)
 詩人が烽火の近くで眠っていて、音が聞こえたら、烽火は聴覚で聞いたのだ。但し、それは味覚に近い。というのは、無味だから。しかし、無為をなさざる無しとすれば(老子の言)無味は当然、味の極みだ。そうでしょ?
    (1924年11月24日に「語絲」に掲載)

訳者雑感:
出版社注に、これは第2次奉直戦争の時、書かれたものの由。
段棋瑞・馮国璋などの北洋軍閥が北京で戦争を始めたとき、「天が中国を禍(わざわい)した。天曰く:全くのいいがかりだ!」という文章がよく出たという。
 飛行機からの爆弾投下。それを避けるには外国公館街に逃げ込むしかない。それができるのは官僚か政治家だけで、庶民は空襲で焼け出される。死亡する。
 東京大空襲記念日に。また「マッさん」の余市にまで米軍が来たというテレビを見た日に記す。
 それにしても最近の川柳に「どうしても派兵したがる首相持ち」というのがあったが、派兵を恒久法にしたいと言い出した。
      2015/03/10記


 

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「楊樹達」君襲来記

「楊樹達」君襲来記
 今朝早く、といってもそれほど早くもなかっただろう。私はまだ寝ていたが、女中(お手伝いさん)が起こしに来て言う:「師範大学の楊さん、楊樹達、が会いたいと。まだよく目覚めて無かったが、すぐ楊遇夫君だと思い、彼は樹達という字で、かつて私に何かを講じて欲しいとのことで一度訪ねてきた事があった。起き上がって、女中に言った:「ちょっとしてからお呼びしてくれ」
 起きて時計を見たら9時20分だった。女中も客を呼びに行った。暫くして彼はすぐ入って来た。だが私は愕然とした、彼は私の良く知っている楊樹達君ではなく、四角い顔で、少し赤褐色で、大きくてきれ長い目、中背の体の20数歳の学生風の青年だった。濃紺の愛国生地の長衫に時流の大袖を着ていた。手には白い囲帯つきの新しい薄灰色の中折れ帽:そして色鉛筆ケースを持っていたが、その動く音から、中はせいぜい2-3本の短い鉛筆だけだろう。
 「君は?」私はいぶかりながら、聞き間違えかと思った。
 「楊樹達です」
私は思った:字は違うかもしれぬが、教員と同姓同名の学生だと。
 「今は授業中なのにどうして来たの?」
 「授業に出たくないのです!」
私は思った:元来好き勝手にやるいい加減な青年で、道理で傲慢だと。
 「君たちは明日休みだろう…」
 「休みじゃない。どうして?」
 「通知が来て…」と私は言いながら考えた。彼は自分の学校の記念日も知らず、もう何日も登校していないか、或いは自分勝手に自由と言う美名を借りる遊蕩者に過ぎぬか、と。
 「通知を見せてください」
 「丸めて棄てちゃった」と私は言った。
 「それを見せてください」
 「取ってきてください」
 「誰が取りに行くの?」
これはおかしい。どうしてこんなに失礼なのか。然し彼は山東なまりで、あのあたりの人は率直なのが多く、ましてや若者の考えは単純で…彼は私がこうした礼節に拘泥せぬと思っているのか。奇とするに足りぬ、と。
 「君は私の学生かい?」ついに疑惑を持った。
 「ははは、どうしてそうじゃない事がありましょうか」
 「では今日は何のために来たの?」
 「お金を貸して下さい、お金を!」
 私は:彼はまったくの遊蕩者であちこちから借りまくっていると思った。
 「何に使うの?」と聞いた。
 「金が無いから。飯を食うには金がいるでしょ、飯食う金も無いのです」彼は手を揺らし、足をばたばたし始めた。
 「なぜ私に金を借りに来たの?」
 「お金持ちだから。教える一方で文章を書いたら沢山お金がたまるでしょ」と凶相な顔付きになって、手で体をやたらなでた。
 この男はきっと新聞で上海の何とか恐喝団の記事のまねをしようとしているから、防がねばならぬと思った。坐っている所からおもむろに移動し、抵抗用の武器の準備をした。
 「金は無い」ときっぱり言った。
 「うそだ!ハハハ、沢山持っている」
 女中が茶を持って来た。
 「彼は金持ちだろう」青年は私を指して彼女に尋ねた。
 女中はとてもあわてふためいたが、遂に恐る恐る「そうではない」と答えた。
 「ハハハでたらめ言うな」
 女中は逃げ出した。彼は坐って他場所を移動して、茶の湯気を指して、
 「とてもつめたい」
 その意味は、私を諷刺しようとして、金を出して人を助けぬ相手を冷血動物だと言おうとしているのだろうと思った。
 「金を持って来い!」突然大声で叫び、手足をばたばたし出した。「金を持ってこないと帰らないぞ!」
 「金は無いよ」と前のように答えた。
 「金が無いだと!ならどうやって飯食っているんだ?私も食いたい。俺も食いたい、ははは」
 「自分の食べる分はあるが、お前にやる金は無い。自分で稼げ」
 「俺の小説は売れないのだ、ははは!」
 私は:彼は何回か投稿したが載せられず、腐っているのだが、なぜ私にいちゃもんをつけるのか? きっと私の作風に反対なのだ。或いは精神病かも?と思った。
 「書きたきゃ書き、書きたくなきゃ書かない。一回書けばすぐ載って沢山お金が入る。それでも無いだと!ははは。晨報館の金は届いただろう。ははは。嘘つくな!周作人、銭玄同;周樹人は魯迅で小説を書いているだろう?孫伏園:馬裕藻は馬幼漁だろう?孫通伯、郁達夫。どんな連中だ!トルストイ、アンドレーエフ、張三は何者だ!ははは、馮玉祥、呉佩孚、ははは」
 「お前は私にもう晨報館へ投稿させないようにするために来たのか?」と聞いたが、直ぐまた私の推測は正しくないと感じた。というのも、私はこれまで、楊遇夫、馬幼漁が「晨報副○(金ヘンに携の造り)に書いたのを見たことが無いし、一緒にされたことも無い:ましてや私の訳の原稿料はまだ届いていない。彼が反対のことを言うはずも無い。
 「金をくれなきゃ出て行かないよ。なんだよ。他へ行かせようとするのか?陳通伯の所へ行けとか、貴方の弟の所へ、周作人か貴方の兄の所へ行くか。
 私は思った:彼は私の弟や兄の所へ行こうとしている。滅族の考えを復活させようとし、確かに古人の凶心が今の青年に伝わっている。と同時にこの考えはおかしいと思い、自分で笑ってしまった。
 「気分が悪いの?」と彼は突然質問してきた。
 「ああちょっとね、だが君の罵りのせいじゃない」
 「ちょっと南を向いてみる」彼は立ちあがり、後の窓に向って立った。
 私は何の意味か分からなかった。
 彼は忽然私のベッドに横になった。私はカーテンを開け、客の顔をはっきり見た。彼の笑い顔を見た。果たして彼は動き出し、瞼と口を震えさせ、凶相と瘋相をあらわにした。震えるごとに疲れるようで、十回もせぬうちに顔も平静になった。
 これは瘋人の神経的痙攣に近いと思った。なぜそんなに不規則なのか。そして牽連する範囲もこんなに広いのかと思った。非常に不自然だと――きっと装っているのだと。
私はこの楊樹達君の奇妙さに対する相当な尊重は忽然消えた。次いで嘔吐と齷齪したものに取りつかれるような感情が湧いてきた。元々、前の推測は理想に近かった。初見の時、簡率な口調と思ったが、彼は瘋を装っているに過ぎず、熱い茶を冷たいと言ったり、北の窓を南というのも、瘋を装っているに過ぎぬ。彼の言葉と挙動を総合すると、本意は無頼と狂人の混合状態を使って、まず私に侮辱と恫喝を加え、それから他にも伝えようとし、私と彼が提起した人達が二度と弁論や他の文を敢えて書こうとしなくさせる為で、万一自分がまずい立場に追い込まれたら、即「精神病」という盾を取り出して、責任を軽くするのだ。しかし当時なぜかしらぬが、彼の瘋を装う技術の拙劣さに対し、すなわちその拙劣さが私に彼が瘋人だと感じさせず、そのご徐々に瘋の気味があると感じだし、そして又すぐ破綻を呈したことで、特に反感を感じた。
横になって唄い出したが、彼にはもういささかも興味が無くなり、一方で、自分がこんな浅薄卑劣な欺瞞を受けたこと、また彼の歌が口笛のようなので、更に私の嫌悪感が湧きでた。
「ははは」彼は片足を挙げ、靴先を指して失笑した。それは黒い深梁の布靴で、ズボンは洋式で、全体としてはモダンな学生だった。
彼は私の靴先が破れているのを嘲笑したのが分かったが、そんなことには何の関心も無くなった。
 彼は突然起き上がり、室外に出て、左右を見て機敏に便所を探し、小用を足した。私も彼に続いて用を足した。
 我々は部屋に戻った。
 「はは、何だ、これは!」彼は又始めた。
 私はもう我慢ならなくなって、彼に言った。
 「もうよせよ。瘋を装っているのはバレてるよ。今日来たのは他の目的があるんだろう?人間なら、相手に明確に伝えろよ。怪しげな格好するのはやめな。本当の事を言え。さもないと時間の無駄で、何にもならぬ」
 聞こえて無いふりをして、両手をズボンのマチに触れ、多分フックをして、目は壁の水彩画を凝視した。
 暫くして、人差指で絵をさして大笑し:
「ははは!」
 こうした単調な動作と例の笑い声はとっくに無味と感じ、ましてやそれも偽りで、こうも拙劣では愈々煩わしくなった。
 彼は私の前に立っており、坐っている私は破れた靴先で彼のすねに触れて言った:
 「もうばれているのに、これ以上なに装っているのか?本意を言いなさい」
だが彼は聞こえないふりをしてうろうろし、突然帽子と筆箱を以て外に出た。
 これは意外で、私はまだ彼を理で諭せる恥じを知る青年だとの希望を持っていたのだが。強壮な体だし、容貌もとても端正だった。トルストイとアンドレーエフの発音も正確だった。
 防寒戸の所まで追いかけ、彼の手をひっぱり言った。「すぐ帰るに及ばない。本心を言いなさい。そうすれば私も理解できるかもしれぬから。彼は少し動揺したが、遂には目を閉じ両手を私に向かって遮った。掌は平にして、まさに私に対し国粋の拳術の経験があるようなしぐさをした。
 彼はそれから外に向かった。大門まで送って留まるように言ったが、私を押しのけて出ていった。
 彼は街に出てもとても傲然と落ち着いていた。
こうして楊樹達君は遠くへ去った。
 帰って女中に彼が来たときの状況を聞いた。「名を名乗った後、名刺をと言ったら、ポケットをさぐって、<あ、忘れた。ちょっとそう言って来てくれ>と笑いながらすこしも瘋のようには見えなかった」と彼女は言った。
 私は愈々嘔吐しそうになった。
然るに、この手段で私は被害を受けて――その前の侮辱と恫喝の他に、女中はこの後、門を閉ざし、夜、門を敲く音がすると、誰ですかと大声で叫ぶのみで出て行かず、私が自分で門を開けるしかなくなった。
 これを書き終わるまでに4回も筆を置いた。
「貴方は気分がすぐれないのでしょう?」と楊君は私に問うた。
そうだ、確かに気分が良くない。私はこれまで中国の状況について、元々すでに気分が良くないが、それでもまだ学問や文学界で、当人の敵に対して瘋子まで武器として使って来るとは予想もしなかった。そしてこの瘋がまた偽物ときては、そのふりをしたのが青年学生とは!
     24年11月13日

訳者雑感:
 魯迅はこれを発表した後で数名の学生から手紙を受け取り、彼は精神錯乱の病気を持っており、13日当日は発病の日であったという。彼は文学青年で原稿を採用されないで、食うに困っていたと言っているが、みなりは立派で、そんな風にはみえず、そのふりをしている偽物だと思った魯迅は大変な被害を受けたと感じて、このような文章を載せてしまったが、全くの誤解だったと知って、訂正の記事を載せている。彼が一刻も早く健康を取り戻す事を希望するのみ、と結んでいる。こんな酷いことを書いたことの結果の「酸酒」は自分で飲むしかない、と悔やんでいる。敵が仕掛けてきたいちゃもんだと誤解したのだ。
         2015/03/03記

 

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「言葉にできない」

「言葉にできない」
観客は舞台下でけなし、客は料理屋で威張るが、役者と料理人は何も口答えできず、自分の本領が無いのをあやしむ。しかし観客が唄い、客が料理をつくるとなると、これはむつかしい。
 だから、被評家は一番平穏なのは、創作を兼ねぬのが良いと思う。城を屠ふるような文筆で、文壇のすべての野草を一掃するのは勿論気持ちが良い。だが、一掃後、天下に詩が無くなったと思い、創作するとこんなのを免れぬ。
  
 宇宙の広大さは言葉にできない:
 父母の恩は言葉にできない:
 恋人の愛は言葉にできない。
 ああああ、私は言葉にできない!
 
 こういう詩は、もちろん良いが、――もしこれが被評家の創作と言う事で言えばだが。老子の「道徳」五千言、初めは「道の道というべきは常の道に非ず」で確かにこれも「言葉にできぬ」この3文字(説不出)も五千言に替り得る。
 ああ、「王者の跡、熄(き)え、而して<詩>滅び:<詩>滅び、しかる後、「春秋」が作らる。「予あによく弁ずや?予止むを得ぬなり!」

訳者雑感:出版社注では1924年の作で、当時多くの作家が「詩集」を出したがいずれも「不佳」であった由。魯迅も母に手紙を書こうとして、なかなか言葉が出てこなかったことなどを述べている。
 人が演じる芝居や造った料理には文句を付けることは容易だが、自分で演じたり料理を作るとなるとこれは難しい。
 芭蕉ですら、沢山の素晴らしい句を作って来たが、松島を目にしたが、「口を閉じて眠らんとしていねられず」と句作を断念している。
     2015/02/24記
 

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渡河と道案内

渡河と道案内
 玄同兄:
 2日前、「新青年」5巻2号の通信欄に:兄と唐俟もエスペラントに反対せず、
一緒に検討できるというのを見た。私もエスペラントには固より反対しないが、
検討するのは願わぬ:エスペラントに賛成する理由は大変簡単で、検討するまでもないからだ。
 賛成の理由は私の見た所、人類は将来やはり共通の言葉を持つべきだから::エスペラントに賛成する。
 将来通用するのがエスペラントかどうか?断定できぬが、多分或いはエスペラントを改良し、さらに整備された物にするか:又は別途更にすぐれた物が現れるか分からない。但し今はエスペラントしかないから先ずエスペラントを学ぶしかない。今は草創の時代に過ぎず、まさに汽船の無い時代は、丸太舟に乗るしか無かったのと同じだ;将来汽船が現れるのが予測できるなら、丸太舟を造らず、それに乗らぬとしたら、汽船も発明できず、人類は水を渡ることはできない。
 しかし、将来何を人類の共通の言葉とするか、確実な証拠は出せない。将来もきっと持てないというのは、これと同じことだ。だから、検討の必要は全く必要なく、夫々が自分の信じるところに随ってやるしかない。
 但し、もう一つの意見がある。エスペラントを勉強するのは一つの事で、エスペラントを学ぶ精神もまた一つの事だ。――口語文学もそれと同じだ。――考え方が旧のままなら、やはり看板を換えただけで、中身の品物は換えない。それだと「四つの目を持った倉頡」が面前から這い出してきて、「柴明華老師」の脚下に跪倒する:これは人類の進歩に反対する物で、以前はNOと言い、今Neという:以前は「咈哉」(だめの意)と書いたのを今「不行」と書くのである。だから私の考えは、本当の学術文芸を灌輸し、思想改良するのが一番大切なことで:エスペラントの検討はその次で:難問を解き、反対意見に反論するのは、取りやめるべきだ。
 「新青年」の通信欄はとても充実していると思う。読者も皆楽しんで読む。但し、個人的な意見だが、もう少し斟酌して減らせると思う:誠実で切実なものだけを検討して、期に按じて載せるべきで:その他の無責任な口から出まかせの批評、常識の無いものは、せいぜい一回だけ答えて、その後は余計なことは言う必要も無く、紙墨を省き、それを別の方面に使うべきだ。幽霊を見たという話しや、仙人を探す話し、伝統劇の面の話しの類は、明らかに、すこしも常識的なものではないことで、「新青年」は彼等に対して只「2x5=10」の道理を説いているが、それに時間を費やすのは、この事業に対して可哀そうではないか。
 「新青年」の内容は大略次の2つで:1つは空気が閉塞汚濁していると感じ、こんな空気を吸ったら将来終わりになってしまうと:眉に皺寄せて嘆息する。同じように感じる人は、皆これに注意し、活路を開くようにして欲しい。ある人が、その顔と声は妓女の眉根の如き美しさが無い、小調子を唄う如き美声が無いというのなら、それは確かにその通りで:我々は彼と論争する要は無く、眉を皺寄せ嘆息するのはもっと美しい、と彼と論争するのは間違っている。
もう1つは、これまで歩んできた道は、大変危険で、崖っぷちに来ており、それゆえ、良心に基づいて、切実に探し求め、他に平坦で希望の持てる道を見つけたら、大声で「こちらに歩きやすい道があるよ」と叫ぶのだ。同じように感じた人は、このように身を転じるのを望む。危険から脱して進歩するのを望む。どうしても他の道を歩もうとする人には、再度勧めるのも固より不可ではない:但し、やはり以前と同様、信じたくなければ懸命になる要は無い。各自が自分の道を歩めば良い。無理やり引っぱって行こうとするのは無益のみならず、自分に同感する人にとって時間の浪費に過ぎないから。
 イエスは言った。車が倒れそうになったら助けよ、と。ニーチェは言った。車が倒れそうになったら、彼を推せ、と。無論イエスの話しに賛成するが:もし相手が君の助けを願わないなら、強引に助けようとしないで、彼の話しを聞こう。その後、倒れずにすめばもとより結構だし、遂に倒れたら、親切に助ければ良い。
 大兄よ:無理やり助けようとするのは、支えるより労力が要るが、効果は得難い。倒れた後に助け起こすのは、倒れそうなのを支えるより、彼等にとっても有益だから。
    唐俟      11月4日 (1918年)

訳者雑感:通信欄への投稿はとても面白いので読者も皆読む以下のコメントは最近の「ブログへの投稿」と似ている。無責任で口から出まかせの批評、それに対する反論とか、反駁で炎上する。だから返事は一度のみにして後は余計なことは言わない。別の有益な方面に紙と墨を使うべきだ。幽霊を見たとか仙人を探す話しなど荒唐無稽で、「新青年」という雑誌の目的にそぐわない。もっと切実なことを取り上げようとの呼びかけである。 
 紙と墨をもっと有益な方面に使おう、というのは非常にまっとうな意見だと思うが、雑誌を売って生計を立てている人達は、通信欄がより充実して読者からの反応が増えれば増えるほど、雑誌が売れて儲かるし、他の大切な問題を取材し、原稿料を支払わなくて済む、という麻薬のような面があるのも事実だろう。痛し痒しだ。
        2015/02/20記

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「集外集」 序言

「集外集」 序言
 中国の良い作家は大抵「若い頃の作品を悔いる」と聞く。自分の作品集を作るとき、青年時代の作品はできる限り削除し、又は全て焼いてしまうという。思うに、これは多分現在の老成した青年が、嬰児の頃の尻を出して指をしゃぶっている写真を見るように、自らその幼稚さを恥じ、現在の自分の尊厳を損なうと考え――それで、もし隠蔽できるなら隠蔽した方が良いと思うわけだ。だが私は「若い時の作品」を恥じることはあるが、悔いたことは無い。尻を出して指をしゃぶる写真は当然笑われるが、自ら嬰児の天真さを持ち、決して青年から老年に至るまで、決して持てるものではない。況や、若い時に作らねば,老いてから作れるとは限らぬから、どうして悔いなど知ろうか?
 以前自分で編集した「墳」は文語を多く留めており、即、これがその意味だが:この意味と方法はずっと変わっていない。但し、漏れはあり:底本を留めていなくて、忘れてしまったものだ。又故意に削ったもの:又は見た所、抄訳のようなもの、また遥か昔に失くしたもの、自分でも疑い、或いは一人の人に対したもの、一つの時期に対したもので、大局と無関係で、事情によって変遷し、再録の必要の無いもの、或いはもともと冗談で、又は暫時の誤解から出た物で、数日後、意味が無くなり、残す必要がなくなったものだ。
 ただ、驚かされたのは、霽雲さんがこんなに沢山の30年前の時文、十数年前の詩文もすべて抄録していたことだ。これは正に私の50年前の尻を出し、指をしゃぶっている写真を飾って、私自身と他の人に鑑賞させるものだ。私も当時の自分の幼稚さに驚くし、且つ恥ずかしさを知らぬに近い。だが他になにか方法があろうか?これは確かに私の影像で――そのままにしておく他ない。
 だがそれを見ることが私に些かの回想を起こさせた。例えば、初めの2篇は、私が故意に削ったもの。1篇は「ライデン」の最初の紹介で、もう1篇はスパルタの尚武の精神描写だが、私は当時の化学的、歴史的な自分の認識が余り高くないので、大抵はどこかから偸んできたものだったが、後にどんなに書いたとしても、もはやそれらの老家のことを思いだせない:しかも当時は日本語を学びだしたばかりで、文法も余り分からず、急いで読んだため、大して理解できておらず、いそいで訳したから、内容も大変疑わしい。又文章も古怪で、特に「スパルタの魂」は今読むと、自分も耳たぶが熱くなるを免れぬ。が、これも当時の気風は慷慨激昂、頓挫抑揚してこそ良い文章と称されたもので、今も覚えているが、「大声で叫び、書を抱きて独り行き、涙払うなく、大風は燭を滅す」は皆が伝誦した警句だった。私の文章も厳復の影響を受け、例えば、「涅伏」は「神経」のラテン語の音訳で、これは今や私しか分からないだろう。その後、又章太炎氏の影響を受け、古めかしくなったが、この集には一篇も無い。(ここまでは日本での作品:訳者注)
 それで帰国したが、新聞の類も古文で、何を書いたか忘れたし、霽雲さんも探し出せず、私もそれをとても僥倖と思う。
 その後古碑を写した。再びやりだしたのは口語文で:何首かの新詩を作った。実は新詩は好きではなかった。――但し古詩も好きじゃないが――当時の詩壇はさびしかったから、太鼓を敲いて賑やかにしたが:詩人と称する人が現れ、それで足を洗った。徐志摩のような詩は好きになれなかった。彼は色んな所へ投稿するのが好きで、「語絲」が発行されると、彼も来た。ある人は賛成し載せたが、私は雑感を書いて彼を茶化したら、来なくなった。これが私と後の「新月派」と仇をなすことになる第一歩だった:「語絲」の同人に何名かこの事で私を嫌う人がいた。が、なぜか知らぬが「熱風」には収めてないので漏れた。やはり故意に削ったのかもう覚えていない。幸いこの集に入れたのがそれだ。
 只数編の講演は今回故意に削った。私は書を講じることはしたが、講演は上手くなかった。それでもう保存の要は無くなった。記録した人は方言の違いで、聞いても余り分からず、漏れがあり、誤ったりし:又は見解の相違から取捨したかなど不確かで、私が重要なことだと思ったものは記録されず、空話などが詳細に記された:あるものは全く悪意の捏造のようで、私の意思と相反した。凡そこれらは記録者自身の創作とする他なく、私はここでは削った。
 私の青年時の作品を恥じはするが、悔いはしない。甚だしきは愛してもおり、これはまさに「乳呑みの牛は虎を怖れず」で、無茶苦茶で、無謀だが、自分では天真だったわけだ。現在は比較的精細だが、自分に対して不満な点もある。私は「刀をひきずり逃げると見せて反撃する<拖刀計>の老将、黄漢升を敬服する。が一方で利害を顧みず、やみくもに突進し、終には部下に首をかかれてしまう張翼徳を愛す:だが私は張翼徳型の青紅黒白を問わず、板斧で「頭を排して首切る」李逵を憎悪するし、このために私は張順が彼を水中に誘い込み、おぼれさせて彼の両目を白くさせるのを好む。(皆水滸伝中の人物:出版社)
 1934年12月20日夜、上海の卓面書斎にて魯迅記す。

訳者雑感:「集外集」という発想はこれまで発行した「作品集」に収めてこなかったものを取りまとめた物の意で、杭州の有名なレストラン「楼外楼」などの発想と似ているかも知れない。若気の至りで、「乳呑みの牛は虎を怖れず」の譬えのように、やみくもに突進して、「文章で中国人の精神を改造しよう」との熱気にあふれた作品を、幼稚で恥じるほどだが、悔いはしない、とまとめたとの魯迅の意図説明だ。「スパルタの魂」を訳し始めてその辺の事情が分かった気がする。
    2015/02/11記
 
 

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