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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「墳」の後記

「墳」の後記
わが雑文が半分ほど刷り上がったと聞いたとき、数行の題記を書いて北京に送った。当時は想いついたらすぐ書いて送った。それから20日も経ていないのに何を書いたかはっきり覚えていない。今夜あたりはとても静かだ。部屋の後ろの山裾に野焼きの微光が見え:南普陀寺ではまだ人形芝居をやっており、ときどき銅鑼鼓の音が聞こえる。その間にさらに静かさが深まる。電灯は明るいがなぜか忽然、淡々とした哀愁が私の心を襲ってくる。私は雑文を印刷することを少し後悔しているようだ。我ながら後悔を妙に感じた:これはこれまで余り無かったことだ。今もっていわゆる後悔とは何かを深く知らない。が、この気持ちは暫くすると消えてゆき、雑文はもちろん印刷され、ただ自分の目下の哀愁を追い出すために、何句か書こうと思う。
 前にも書いたと思うが:これは我が生活の事跡にすぎぬ。私が過ごしてきたことを生活と言えるなら、そうだと思うが、私も仕事をしてきたわけだ。ただ私は噴水のような思想もなく、立派な美しい文章もなく、宣伝するような主義もなく、何か運動を起こそうとも思っていない。が、過去になめた失望は大小を問わず苦い味がするが、ここ数年人は私が筆を執るのを望み、意見が大きく反しておらず、私の力でできる限り、勤めていくつかの分を書いて読者にささやかな喜びを与えようとしてきた。人生には辛苦が多いが、時に慰めを得ることもできるから、なにも筆墨を惜しんで彼らに孤独の悲哀を増すこともあるまい。それで小説雑感のほかに、徐々に長短の雑文十数編を書いた。その間、当然ながらお金の為のものもあり、今回は混在している。我が生命の一部はこういう風に使われ、こうして仕事をしてきた。が、今になっても一体何をやってきたのかわからぬ。土木作業員なら、せっせと仕事をしてきたが、台を築いているのか、穴を掘っているのははっきりせぬ。分かっているのは、それが台だとしても、そこから自分を投げ落とし、老死をさらすに他ならない:穴を掘っているなら、当然自分を埋めるためにすぎぬ。要は:逝去、過ぎ去る。一切が光陰とともに早逝する。逝去の中に過ぎ去ろうとする――ただこれに過ぎぬが、私も十分それを甘受することを願っている。
 しかしこれもきっと一句の言葉に過ぎぬ。まだ呼吸している限り、自分である限り、時にこの事績を喜んで収めたいと思い、一文の価値もないと知りながら、いとおしく思わざるを得ず、雑文を集め「墳」とする。やはり巧みを取り込んだ掩飾だ。劉伶は酒を飲んでいい気持になると、人に鋤を持たせ後に従わせ言った:死んだら我を埋めよ、と。自分は磊落のつもりだったろうが、ただまじめな人々を欺くことができただけだ。
 だからこの本の出版は私にとってはそれと同じで、人に対して前にも述べたように、私の文章を偏愛してくれる人に少し喜んでもらいたいと思い:私の文章憎んでいる連中に嘔吐させたい――私は知っている、私は決しておおようではない、そういう連中が私の文章を見て嘔吐したらとてもうれしい。ほかに何の意味もない。良いことも少し書けというのなら、数人の詩人を紹介しているが、一見の価値があると思う:また最後の「フェアプレイ」の一編で、参考になると思うが、これは私の血で書いたものではないが、私の同輩と私より若い青年たちの血を見て書いたものだ。
 私の作品を偏愛する読者が時に:私の文章は本当のことを言っていると評してくれるが、それは褒めすぎで、その理由は偏愛の為である。私は無論人を欺こうとは思わないが、心の中で思っていることを言いつくしていないが、多分読んでみて一応の結果があると思えばそれで良しとしてきた。確かに人をよく解剖するが、さらに多いのは、無情に自分を解剖し、少し発表する。温暖を好む人は冷酷と感じることになる。私の血肉をすべて露出したら末路はどうなることか分からない。時に私はこれについて考えるが、こうして周りの人を駆逐したくなるが、その時でも私を唾棄しない、それがたとえ梟蛇鬼怪でも私の友で、真の友なのだ。もしそれすらいないなら、私一人でかまわない。しかし現在はまだそうではない。それほど勇敢ではないし、理由はもう少しこの社会で生きてゆきたいからだ。もう一つの理由は前にも書いたが、いわゆる正人君子の連中に、どうしても少しでも長く不愉快な日を過ごさせたいからだ。自ら特別な数枚の鉄甲を身につけて立ち、彼らの社会の欠陥をあばきたいからで、私自身が嫌になり、それを脱ぎたくなるまでやるのだ。
 他の人の道案内をしようとするのは難しいことで、自分すらどのように進むべきか分からないのだから。中国には多くの青年たちの「先輩」と「導師」がいるのだが、それは私ではない。私も彼らを信じない。確かに一つの終点があるのは知っている、それはすなわち:墳だ。しかしこれは皆知っていることで、誰の案内もいらない。問題はここからそこへ行く道だ。それはもちろんただ一筋の道ではなく、どれがよいか分からない。今になってもまだ探し求めている。探し求めている間に、私はまだ熟していない果実が偏偏と、私の果実を偏愛する人たちを毒死させるのを恐れている。そして私の作品を憎悪し恨むいわゆる正人君子がまだ矍鑠(かくしゃく)としているのでとても不安だ。それで私の文章は曖昧模糊としたものになり、中断するのを免れぬ。心の中で思うのは:私を偏愛する読者への贈り物はやはり「なにもない」のが一番ではないか、と。
私の翻訳したものは最初千冊で、その後5百冊刷り、最近は2-4千冊となり、お金が入るから増えるのを願うが、哀愁も伴ってくる。読者を害するのではないか心配で、そのため文章を書くのは常に慎重で躊躇する。私が筆に任せて思うことを気ままに書いていると思う人もいるが、実はそうでもないし、自分でもひっきょう私は戦士でもフロンティアでもなく、いろいろ顧忌するところが多い。3-4年前だったか、ある学生が私の本を買って、ポケットからお金を出して私の手に置いた。そのお金はまだ体温が残っていた。この体温が私の心に烙印を押し、今も文章を書くとき常にこういう学生を毒害しはせぬかと怖れ、遅疑逡巡して筆をとれない。私は何の顧忌もなく暮らしてゆくのは必ずしもできるわけではないが、偶には思う、真実少しも顧忌がないなら、青年に申し開きができる。だが今なおこのような決心はできてない。
 今日言いたいことは、これくらいに過ぎないが、比較的真実と言える。この外にもうひとつ。
口語文を提唱した頃、各方面から攻撃されたことを書く。その後口語文が徐々に使われるようになり、勢いが止まらなくなると、一部の人たちは一転してこれは自分の功績だとし、美名をつけ:「新文化運動」とした。また別の人は口語文は通俗的な用を足すのを妨げぬと言いだした:またある人は口語文をうまく書くにはやはり古文を読むべし、と。前者は早くも2回舵を転じ逆に「新文化運動」を嘲笑し:後者の2者はやむなく調和派となったが、数日は硬くなった死体を留めようと図っているのも少なくない。私はかつて雑感で糾弾した。
最近上海で出版した雑誌に、よい口語文を書くためには良い古文をよむべしとし、例として挙げた人名中の一人が私だった、これを見て私はぞっとした。ほかの人は知らぬが、私は確かにかつて多くの古い本を読んだ。教えるために今もなお読んでいる。そのため耳目になじみ、私の書く口語文に影響し、いつもその字句と文体が出てくるのを免れぬ。ただ自分でも正にこれら古老の亡霊を背負っていることに苦しみ、そこから脱却できずに悶々と沈んだ気持ちになる。思想上でも荘子韓非子に時には気まぐれに、あるいは痛烈に毒されていないとも言えない。孔孟の書は最も早期からよく熟読したが、却って私とは関係なくなったようだ。大半は怠惰だからだが、往往、自分で気ままに解釈し、一切の物事は転変中であり、常にその中間物がある。動植物の間、無脊椎と脊椎動物の間、皆中間物があり:こうも言えるようだ。進化の連鎖では一切は中間物だと。文章改革をした初めころ、ろくでもない文士連中がいたのは当然で、ただそれができるだけであったし、その必要もあった。彼の任務は少し覚醒した後、ある種の新しい声を叫ぶことだった:古い陣営から来たので、状況は比較的明るく、戈を反対に向けて一撃すれば、強敵の死命を簡単に制すことができた。だが彼らはやはり光陰とともに去るべきで、徐々に消えてなくなり、せいぜい橋梁の一木一石に過ぎず、前途の目標や模範ではなかった。ついで起こった時は違ったものであるべきで、天性の聖人でないから、積習したものを突然掃討・除去することはできぬとしても、更なる新しい気風がなければならない。文字を以て論ずるなら、古書で生計を立てる必要はなく、生きている人の唇と舌を源泉として、文章をさらに言葉に近づけ、生き生きとしたものにする。現在の人々の言葉に対する窮乏と欠陥については、如何に救済し豊かにしてゆくか、これが大きな問題で、古文の中から若干の資料を取得し、使えるようにすることだが、これは今私が書いていることの範囲外だから、これ以上触れない。
 私はもっと努力したら、大概もっと広く口語を使って、私の文を改革できると思う。只、怠惰で忙しいため、これまでよく出来なかった。常々これは古書をたくさん読んだことと関係あると思っている。古人の書いた憎むべき思想は私の心の中に常にあり、忽然奮闘することができるかどうか分からぬからだ。私はいつもこの思想を呪詛しており、後から来る青年の目にとまらぬ様、希望する。去年青年は中国の書を読むのは少しにするか、読まないようにと主張したのは、あまたの苦痛と引き換えに得た本当のことで、けっして気晴らしとか、冗談ではなく、憤激の辞である。古人曰く:読書せねば愚になる、と。それは勿論正しい。しかし世間は正に愚人によって作られている。聡明な人は決して世間を支えられない。特に中国の聡明な人は、今は思想上のことはさておき、文辞について多くの青年作者は古文や詩詞の中に見栄えの良い、だが分かりにくい文字を摘出し、手品のハンカチとして、自分の作品に飾りつける。これと古文を読めるということと関係があるかどうか知らぬが、まさしく復古であり明らかに新文芸の自殺を試行するものだ。
 不幸にして私の古文と口語文の混交した雑文集が、このころ出版され、読者に少し害を及ぼした。ただ私としては毅然とまた決然とこれらを滅すことができないので、これを借りて暫時、過ぎ去った生活の余痕をみることにしよう。只、私の作品を偏愛する読者もこれをある種の記念として、この小さな丘墳にかつて生きていたものが埋葬されているに過ぎぬと理解してもらいたい。若干の歳月が経過したら、煙塵と化し、この世から消え去るのを記念し、我が事も終われり、と。午前中古文を読んでいて、陸士衡の数句に曹操を弔すものがあり、私のこの一篇の結びとする――
 古いものを大事に残すと、累を遺すから、簡易な礼で薄葬がよい。
 かの裘(皮衣)を遺したとて何の用があろう。後の者の笑い草だ。
 ああ、すさまじい眷恋の存在は、賢人とて忘れられなかったのだ。
 この遺籍を目にして感慨あり、茲にこれを献じ衷心より悼む!
      1926年11月11日夜 魯迅
訳者雑感:「墳」とは正に彼の古文から口語文の端境期に書いた「難解なものと」
「比較的分かりやすい」ものの混交した集で、彼も最後の数句で彼の心境を語っている。あの頃は中国で「フェアプレイ」を掲げるのは時期尚早で、学生たちが多くの犠牲者を出し、魯迅もその結果北京を去ることになった。アモイから広東への移動で、彼の生活も一変することになる。
      2015/12/11記 

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「フェアプレイ」を急ぐ必要は無い

「フェアプレイ」を急ぐ必要は無い
1.解題
 「語絲」57号に(林)語堂氏が「フェアプレイ」(fair play)を講じ始めた。この精神を中国で会得するのは容易ではないから、大いに奨励に努める他ない:
又「水に落ちた犬は叩いて」はいけないとし、以て「フェアプレイ」の意味を補充した。英語を良く知らぬので、この言葉が何を指すのかよく分からないが、「水に落ちた犬は叩く」べからずと、この精神が同じというなら私はひとこと言いたい。だが題名として「水に落ちた犬は叩く」という言葉を直接書かなかったのは、余りにも奇をてらったようで、頭上に義角(義歯の義)を強いて付ける必要もないと考えたからだ。要するに、「水に落ちた犬」は叩くべからずというのではなく、むしろ更に叩くべきだというに過ぎない。
2.「水に落ちた犬」には3種あり、 大抵は叩くべき対象になる。
 今の論者はよく「死んだ虎を叩く」と「水に落ちた犬を叩く」を同じように、いずれも卑怯に近いと考えている。私は「死んだ虎を叩く」というのは臆病なくせに、勇気が有るようにみせかけているので、とても滑稽と思う。卑怯の嫌いは免れぬが、臆病さに可愛げがある。「水に落ちた犬を叩く」はそう簡単ではない。犬がどんな状況でどの様に落ちたのかを見なければならぬ。落水の原因は大抵3つあり:(1)自ら足を滑らせて落ちたもの(2)人が叩いた結果、落ちたもの(3)自分が叩いて落としたもの。前2者については、人の尻馬にのって一緒に叩いたのなら無聊なことだし、卑怯に近い。しかしもし犬と奮戦して、自分の手で叩き落としたら、すぐ竹竿を使って水中の犬を痛打するのは、そんなに悪いことではない。前2者と同一に論じるわけにはゆかぬ。
 剛毅な拳法の師は、倒れた敵に追い打ちをかけるようなことはしないそうで、実に良い模範である。が、私は一つ付け加えるべきだと思う。敵も剛毅な闘士でなければならぬと思う。一敗地にまみれたら、自ら愧じ悔いて、再来しないか、もしするなら堂々と報復に挑むべきで、それも不可ではない。しかし犬の場合はこれを例とするわけにはゆかぬ。というのも犬はどの様に狂い吠えても、実は何の「道義」も解さぬからで:況や犬は水に浮けるし、きっと岸に上がってこようとし、注意を怠ると、犬はぶるぶると水を人の体と顔に飛ばし、尾をまいて逃げる。だがその性質は変わらない。真面目な人は水に落ちた犬を、受洗と認め、懺悔したと考え、もう2度と人を咬まぬと思うけれど、実は大間違いだ。
 要は、人を咬む犬は、叩いて良いと思う。水中でも岸に上がっていようが。
3.特に狆は叩いて水に落ちた後も、更に叩かねばならぬこと。
 狆は別名パーアル狗ともいい、南方では西洋犬というが、実は中国特産の由。
世界の犬のコンテストで常に金賞を得、エンサイクロ・ブリタニカの犬の写真には、数匹は我が中国の狆だ。これは中国には光栄だが、犬と猫は仇敵ではなかったか?これは犬というが、とても猫に似ていて、折衷的で、公正で、調和がとれ、端正で稚気に富み、悠々として決して激すことなく、ただ一人「中庸の道」を得たというような顔をしている。それで金持ちや宦官、奥方お嬢さんに寵愛され、子孫も綿々と絶えない。その任務といえば、きれいな皮毛のおかげで、貴人の愛護を得、内外のお嬢さんの外出時には、細い鎖につながれ後についてゆく。
 これらの点が先ずこれを叩いて水に落とし、更に叩かねばならぬ理由だ:自分から滑って落ちても、叩いて構わない。ただ自分が犬と仲良くしたいなら叩かなくても良いが、犬を可哀そうだと思う必要は無い。狆に対して寛容なら、他の犬は叩く必要は無い。なぜなら他の犬たちは、力はあっても畢竟は狼に似、野性を持ってい、狆の様には双方の機嫌を取ろうとしないからだ。
 以上つい気ままに書いてしまったが、本題とはあまり関係が無いみたいだ。
4.「水に落ちた犬は叩く」な、というのは人の子弟を誤らせる。
 要するに、落水の犬を叩くべきか否かは、第一に岸に上がった後の態度を見ることだ。
 犬の性質というのは余り変わっておらず、1万年後は今と違うかもしれない。だが今話そうとしているのは現在の問題である。落水後、可哀そうだと思うなら、人間を害する動物で可哀そうなのはけっこう多い。コレラ菌は繁殖力が強く、性質はたいへん真面目だ。しかし医者は放っておくわけにはゆかない。
 現在の官僚と国産の紳士や洋行帰りの紳士は、自分の意にあわぬとすぐ「赤」だと言い「共産党」だという。民国元年の前は少し違っていて、先ず康党だと言い、後に革命党と言って役所に密告し、一面では固より自分の尊栄を保つためで、けっして当時の所謂「ひとの血で、官吏の帽子の玉を赤にする」為ではない。しかし革命はついに起こり―― こけおどしの紳士たちは、真っ先に怖れおののいて、喪家の犬の如く、弁髪を頭のてっぺんに巻いた。革命党も新しがりやで――紳士たちがそれまで大層憎んでいた新しい気分「文明」もOKとなり:本当に「皆ともに維新」と言いだした。我々は落水犬を叩かない、彼らが岸に這い上がってくるのに任せよう、と。それで彼等は這い上がって来て、民国2年の後半まで伏していたが、二次革命の頃、突如現れてきて袁世凱が多くの革命党人を咬み殺すのを手伝い、中国は一日一日と暗黒になり、今日まで遺老はもとより、遺少(若い遺老)までこんなに多くなった。これは先烈が気前よく、人殺したちを慈悲深く扱い、彼等の繁殖を許したためで、その後の目覚めた青年たちは暗黒に抵抗して、おびただしい量の気力と生命を失った。
 秋瑾女士は「女侠」と言われたが、今では彼女のことに触れる人も余りいなくなった。革命が起こると彼女の故郷に都督が――今の督軍に相当――来た。彼女の同志であったが:王金発といった。彼は彼女を殺した主謀者を捉え、密告関連の資料を集め、彼女の仇を討とうとした。だが結局は、主謀者は釈放された。聞くところでは、すでに民国になったのだから、皆はもう昔の怨みを取りあげるべきではない、とのこと。第二次革命が失敗すると、王金発は袁世凱の走狗に銃殺された。これに大いに与ったのは彼が釈放した秋瑾を殺害した男だった。
 この男はもうすでに「天寿を全うし、大往生した」が、彼の地には今もこうした輩が跋扈しているから、秋瑾の故郷は今なおこんな状態で、一年また一年と何の進歩も無い。この点から言って、中国の模範的名市(無錫)で育ったあの楊蔭楡女士と陳西瀅氏はこの上なく幸福な人達である。(論敵への揶揄)
5.失脚した政客を「落水犬」と一緒に論じるな
 「犯されても抵抗しない」というのは恕の道で「目には目を、歯には歯を」というのは「直」の道だ。中国で最も多いのは「枉」(曲がった)道だ。「落水犬」を叩かないで却って犬にかまれる。これで真面目な人が苦労をする羽目になるのだ。
 俗言にいう:「忠義に厚いのは役立たずの別名」はとても刻薄だが、良く考えれば、ひとに悪いことをそそのかされないように、との意味だと思う。しかし結局はひどい苦労をさせられた後の警句だ。例えば落水犬を叩かないのは2つの理由が有り:一。失脚した政客と落水犬を一緒にする。二。失脚した政客にも善人と悪人がいるのを分別せず一律にするので、結果は悪人を放置してしまう。現在について言えば、政局が不安定の為、車輪の回るように、こちらが起こると、あちらが倒れる。悪人は氷山(頼りにならぬもの)を後ろ盾に忌む所なく、ほしいままに何でもやるが、一旦失脚するとたちまち憐れみを請うのだ。
それまで自らそういう連中が人を咬むのを目にしたり、咬まれたことのある真面目な人が、「落水犬」とみなして叩かぬだけでなく、憐れんだりする。自分で公理が実現されたからには、こう云う時に侠を示すは我にあり、とするのだ。特にそれがどういう訳で落水したか本当の事を知らず、(逃亡用の)巣穴はもう造ってあり、食料も早くからたっぷり貯蔵してあり、すべて租界に置いてあるのだが、傷は受けたようだが、実はそうではなく、ビッコを装っているに過ぎず、なんとか人々の惻隠の情に訴え、ゆっくりと身を隠すのだ。他日復帰して以前の様に、まず真面目な人達から咬み始め、井戸に落として上から投石するなど、なさぬ事無し。原因を調べてみると、一部には真面目な人達が「落水犬」を叩かなかったせいだ。だから少し苛酷ないい方をするなら、自分で墓穴を掘っているわけで、天を怨み、人を咎めるのは全くの誤りだ。
6.今はまだ「フェア」だけでは立ち行かぬこと。
 仁者たちはこう問うかもしれぬ:それでは我々には「フェア」は不要か?と。私は即刻答えられる:もちろん必要だが、時期尚早だ、と。「言い始めた人が先にやってみては!」 仁者たちはそれに同意するとは限らぬが、私はやはりそうするのが理にかなうと思う。国産と洋行帰り紳士たちがいつも言うではないか。中国には独自の国情あり、外国の平等自由などは適用できぬと。「フェア」もその一つと思う。でなくば、相手が「フェア」でないのに、彼に「フェア」に対応したら、結果は自分が馬鹿を見ることになるし、「フェア」であろうとしても、そうできないのみならず、「フェア」でないことすらできなくなる。だから「フェア」になると言うのは、相手をしっかりみることが大切で、もし「フェア」を受けるにふさわしくないなら、遠慮なく対応し:相手が「フェア」になってから「フェア」を講じても遅くは無い。
 これはダブル・スタンダードの道徳を唱えているようだが、やむを得ぬ事で、そうしなければ中国では多少なりともましなやり方はなくなってしまう。中国では今も多くのダブル・スタンダードの道徳があり、主人と奴才、男と女、皆違う道徳を持ち、まだ統一されていない。「落水犬」と「落水人」を一視同仁していたら、実は大変片寄ってしまい、時期尚早を免れぬ。紳士たちの所謂自由平等は悪くは無いが、中国では少し早すぎる嫌いがある。従って「フェアプレイ」の精神を普遍的に実施しようとするなら、少なくとも所謂「落水犬」に人間らしさが備わるのを待たねばならぬと思う。但し今は当然だがこれを実施してはいけない。即ち、上述の様に、相手をしっかり見なければいけない。更に等級をつける要あり、「フェア」は相手がどのように行っているかを見ることで、どういう訳で落水したにせよ、良い人間なら助け、犬なら構わず、悪い犬は叩くのだ。一言で言えば、「同じ考えの者とは仲間になり、違う者は征伐す」のみ。
 心では「悪智恵の論理」しかないくせに、口では「公理」を説く紳士たちの名言は暫く論議の対象にはせぬし、本心から「公理」を大きな声で叫んでいても、現在の中国では良い人を救えぬし、却って悪人を保護してしまう。悪人が思い通りになって、善人を虐待するときは、たとえ大声で公理を叫んでみても、彼は耳を貸さぬし、叫びは叫びだけで終わり、善人はやはり苦しむのだ。しかし偶にある時、善人が決起したら悪人は本来落水することになるはずだが、誠実な公理論者は「報復するなかれ」とか「仁で恕せ」とか「悪で以て悪に抗する勿れ」…などと大声で叫ぶ。今やっと実効を得たし、決してから騒ぎではない:善人はなるほどと思い、悪人は救いを得る。だが彼は救いを得た後、うまくやったとほくそ笑み、何ら悔い改めもせぬ:更にそれまでに三窟を造ってあり、人にうまく取り入ってほどなくすれば、また以前の勢力を取り戻し、悪をなすのも前と同じとなる。この時、公理論者は当然又大声を挙げるが、今回彼は耳を貸さない。
 しかし「悪を疾(にく)むこと甚だ厳しすぎ」「これを操るに急ぎ過ぎ」ると、漢の清流や明の東林(党)がまさにこれで敗れたと論じる者が出て、このように彼等を責めるのだ。殊にその一方が「善を疾(にく)むこと仇のごとき」だというのを忘れているのだ。人々は何も発言しない。この後、光明と暗黒が徹底的に戦えないなら、真面目な人に悪を放置するのを寛容と思いちがいをさせ、このまま続けていると、現在のような混沌状態は果てしなく続くだろう。
7.「その人の道を以てその人を治める」を論ず
 中国人は漢方医を信じたり、西洋医を信じる人もおり、大きな町には2種類の医者がおり、彼等は夫々その所を得ている。これは良いことと思う。これを推進して行けば、恨みごとはきっと減り、世の中も上手く治まることだろう。例えば、民国の通礼はお辞儀だが、一部の人はそれが良くないと思うなら、彼に叩頭(Kowtou)させれば良い。民国の法律には体罰は無いが、体罰が良いと思うなら犯罪をした時は尻を叩けばよい。椀と箸、ご飯と料理は人が造ったものだが、燧人(火を使い始めた人)より前の民となりたい者は、生肉をたべても構わぬ:何千もの茅葺小屋を建て、大邸宅で堯舜を仰慕する名士たちを皆そこに住まわせ:物質文明に反対する者は当然、怨みを持ちながら乗っているという連中は自動車には乗せない。こうすれば本当に「仁を求め、仁を得たり。また何をか怨むや」で、我々の耳もすっきりするだろう。
 だが惜しいかな、皆はどうもそうはしたくないようで、偏に己を以て人を律しようとするから、世は多事となる。「フェアプレイ」は特に弊害が有り、弱点にすらなり、悪い勢力にうまい汁を吸わせてしまう。例えば劉百昭が女師大生を殴打して曳いていったように、「現代評論」に次々と放屁し、女師学校が回復すると、陳西瀅は女大学生が校舎を占拠するのを鼓動して曰く「彼女らがどうしても退去しないというなら、どうしよう?諸君は強い力で以て彼女等の持ち物を運びだすのは気が引けるのではないか?」殴打して曳きづってゆき、更に運び出すのは劉百昭の先例があり、なぜ今回に限って申し訳ない」と思うのか。これは彼に女師大にこの面で些か「フェア」の気味を感じたからだ。但しこの「フェア」は又弱点に変わり、却って人に利用され、章士釗の「余沢」として用心棒となった。
8.結末
 或いは私の上記の文章を疑う人が:新旧を激させ、或いは両派の争いを起こさせ、悪者を更に悪くさせ、双方を更に激しくさせるのでは、という。但し私は敢えて断言する。改革者への反改革者からの害毒は、これまで手加減されたことは無い。その手口の凄さも大変な物だ。只、改革者はまだ夢の中におり、いつも損害を被ってばかりで、中国はどうにも改革出来ていないのだ。これから後、必ず態度と方法を変革してゆかねば、成りたって行かない。
     1925年12月29日
訳者雑感:
 本文は出版社の解説によれば、魯迅が勤務していた女子師範大学での章学長たちとの戦いで、学長一味が失脚し、魯迅は復職したが、魯迅はさらに章たちを徹底的に批判したため、仲間だった林語堂がフェアプレイ論を持ち出して、これ以上「落水犬」を叩くな、と言いだしたことへの凄まじい反論である。
 特に狆を例にとり、学長たちの寵愛犬だった連中は、また復活したら吠え出し、人を咬んで反撃してくる。これは民国初年、秋瑾の同志だった王金発が、密告者を捉えたがフェアプレイで釈放した男に第二次革命後、袁世凱の狗となっていて逆に殺されたことと同じことになることを指している。
 これほど相手を叩いても、結果は彼らが画策して、魯迅は北京を去るしかなくなってしまい、アモイに行くのだが。
    2015/11/26記


 

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寡婦主義

寡婦主義
 範源廉氏は現在多くの若者に尊敬されている:人は各々意見が違うから、私はそれがなぜか分からない。だが私が敬服するのは、彼が清光緒末年に、まず「速成師範」を出したことだ。学術を速成できるとは、迂遠な人は妙に感じるだろう:殊に当時の中国は「教育荒廃」の真っただ中で、実に緊急を要する事だった。半年後、日本留学から帰国した師範資格者は増え、更に教育面で各種の主義が出てきて、国民皆兵主義や尊王攘夷主義の類があった。女子教育の面で当時最も大声で叫ばれていたのは良妻賢母主義だった。
 私はこの主義がおかしいとは思わぬし、悪妻愚母など誰も望まない。だが今急進的な人は、女子は専ら家庭の中にいるようにとは思わない。今でも日本の以前の出版物を使って、中国の女子教育の誤謬を批判攻撃している。人はいとも簡単に聞き慣れた誤った言葉に惑わされている。例えば、最近ある人はよく言う:誰それは売国奴だと、誰それは子孫のことだけ考えている、と。それで多くの人はみな同じことを云う。だが、本当に国を売ることができれば、大きな利益が得られる筈で、子孫のことを考えるのは良心が有るといえる。現在の誰それ云々は、大抵は国をただで他人に提供しているもので、どうして子孫のことを考えているなどといえよう。この良妻賢母主義も例外ではないし、急進的な人はそれを理由として病にかかっているというが、事実として、どうしてそんなことになるのだろうか? 全ての事は「寡婦主義」のせいに過ぎない。
 この「寡婦」の2字は純粋な中国思想として解釈すべきで、欧米やインド或いはアラブとは比較できない:西洋語に翻訳しようとしても、意訳や神訳は決してできない。ただ音訳で「Kuafuism」とするしかない。
 私が生まれる前はどうだったか知らぬが、生まれて後、儒教はすでに頗る「雑」になっていた:「母命を奉じて、道学の場を設ける者」もおり、「神道で教化する者」「文昌帝君の功過格」を佩服する者もいて、この「功過格」では「人の閨房の中の話」をする者を罰したのを覚えている。私はまだ家を出る前、中国に女学校ができる前の事は知らぬが、私が社会に出て、中国に女学校ができて後、読書人がしばしば女学生を話題にするのを聞いたが、それは例によって大抵悪いことだった。時にはデタラメもあったが、それをデタラメだと言おうものなら、本人も聞いている者も気分を害し、まるで「父兄を殺された」如くに恨まれた。この種の話は当然「儒行」に合致していただろう。なぜなら聖道は広くて博いから、包摂せぬところ無しで、それは小さなことに過ぎず、大して重要なことではないからだ。
 かつてこういう風説の由来を推測したことあり:改革反対の老先生、色情狂気味の幻想家、デマ製造の名人、常識も無く、他に目論見のある記者、学生達から追放された校長と教員、校長になろうとしている教育家、一匹の狗が吠えると他の群れが連れて皆吠える村の犬…。但し、近来他の者も発見したが、それは「寡婦」或いは「疑似寡婦」の校長と舎監である。(北京女子師範の校長と舎監を揶揄したもの:出版社)
 ここで言う「寡婦」は夫と死別したものを指し:所謂「疑似寡婦」は夫と生き別れたもの、及び独身主義者を指す。
 中国の女性が社会に出て働きだしたのは最近の事である。しかし家族制度は改革されてないから、家事も依然煩雑で、結婚したら他の事を兼務するのは難しい。それで社会的な事業は中国では大抵教育だけで、特に女子教育の多くは上記の独身者の掌中にある。以前は道学先生が占めていたが、頑固で元々知識が無いといわれて敗退した。彼女等は新しい教育を受け、外国にも留学したことあり、同じ女性だという看板を掲げ、とって代わった。社会では彼女等はいかなる男性とも関係なく、児女の係累も無く、神聖な事業に専心できるとして、漫然と彼女等に任せた。しかしその結果、若い女性たちの災難が始まり、以前の道学先生の頃よりひどくなった。
 良妻賢母でも東方式でも、夫と子女に愛情が無ければだめだ。愛情は天賦とはいえ、それなりの刺激と運用がなければ、発達しない。例えば、同じ手や足でもただ坐って動かなければ、鍛冶匠や担ぎ人夫と比べるとすぐその違いが分かる。女子でも夫のいる者、児女が生まれて後、真の愛情にめざめる:さもなければ、潜在し或いは委縮し堕ち込むのみで、ひどいのは変態になる。従って独身者に託して良妻賢母を育てようとするのは、あたかも盲人を目の見えぬ馬に乗せて旅にだすようなもので、現代の新しい潮流に適合できるか否かなど、論じるまでもない。勿論特殊な独身女性もこの世にいないわけではない。過去に有名な数学家のS. Kowalewskyや、現在の思想家、E. Keyなどがいる:だがそれはひとつには欲求の向きを変えたのであり、思想もすでに透撤なものになっていたからだ。しかし学士会院が賞金を出してKowalewskyの学術名誉を表彰した時、彼女は友への手紙にこう書いた:各方面から祝賀の手紙をもらいました。運命のいたずらです。これまでこれがこんなに不幸だと感じたことはありません、と。
やむを得ず独身でいる者は、男女を問わず精神上の変化が生まれる。執拗な猜疑心と陰険な性格のものが大変多いから、欧州中世の神父、日本維新前の御殿女中、中国歴代の宦官、その冷酷陰険さは常人の何倍も越えている。他の独身者も同じで、生活は自然でなく、精神状態もとても変わっていて、世事はみな無味に感じ、人は全て憎しみの対象で、天真で歓楽している人を見ると憎悪が生まれる。特に性欲を抑えられている為、他の人の性的事件に大変敏感で疑い深く:羨み、嫉妬する。だがこれも自然の成り行きで:社会的に逼迫され、表面的には純潔を装う他ないが、内心は本能にひきずられ、自主的にというのではないが、何かもの足りなく感じるのだ。
しかし学生は若者で童養媳(幼女を息子の嫁に育てる制度)としてや、継母に育てられたのではなければ、大抵は世間との折衝はあまり深くなく、万事みな光明に感じ、思想や言行もまさにこれ等の人とは正反対だ。これ等の人も自分達の若い頃を思い出す事が出来れば、本来すぐ理解できるはずだ。しかし世の中の多くは愚婦人で誰もそういうことを思い到らない:いつも彼女が長年培ってきた眼光ですべてを観察し、手紙が来たら、ラブレターではと疑い、笑い声を聞くと、色気づいたと考え:男が訪ねて来ると恋人じゃないかと:公園に行くのは密会に違いない、と。学生に反対されもっぱらこういう方法を弄している時はいうまでもないが、平時でもこういうやり方なのである。更に中国は元々流言の産地であり、「正人君士」もこういう流言を話しのネタにし、勢力を拡大して、自作の流言も宝物として奉じており、況や本当に学校当局者の口から出たものであるから、当然より価値が高まるように伝播し始めた。
 私は古老な国度で、世故に長けた者と、多くの若者とは思想言行面で大変大きな溝があり、もし一律に考えると、その結果大きな誤謬が出て来る。中国には悪いことがたくさんあって、それぞれが特殊な名を持ち、書籍の中にも特に別名と隠語がとても多い。週刊で雑誌を編集していた時、受け取った原稿中に、いつもこうした別名と隠語が多くて、私はそれを使うのを避けた。だがよく調べてみると、作者は実際は茫として余り注意を払わず、平然と使っている:その咎は中国の悪い事には別名隠語が堂々と使われているためで、私はよく知っているので、それをわざと避けたのである。こうした若者を見ると、中国の将来は明るいという気がするが:所謂学士や大夫をみると、息がつまる思いがする。彼等の文章は古雅かもしれぬが、その心の中が本当に清浄な者がどれほどいるだろうか:今年の士大夫の文言に関して言えば、章士釗の文に「学を荒廃させ、敷居を越えて、気ままで、忌む所なし」や「両性、相接する機会を封じ」、「検査を受けず体、ついに形を忘れる」、「謹んで願う者、ことごとくその守るところを喪失する」等…、まさに乱れに乱れ、極致に及んだ。だが、実は侮辱された若い学生達には理解できず、分かったようでも大概は少し古文をかじった私と同じようには作者の真意を理解できぬだろう。
 本題に戻そう。人は境遇により思想性格がこんなに異なるので、寡婦や疑似寡婦がやっている学校で、まっとうな若者は生活してゆけない。若者は天真爛漫であるべきで、彼女等の様に陰気ではいけない。彼女等は邪気にあたったと思って:若者は本当に元気に何でもやろうとするべきで、彼女等の為に委縮してはいけない。彼女等は逆に分に安んじていないとみなしている。いずれも罪深い。ただ彼女等が大変気にいっているのは、体裁よく言えば、極めて「しとやかさ」で彼女等を範とし、眼をきょろきょろさせず、顔もかしこまり、学校も陰気な家庭の様になり、そこで屏息しながら卒業に達し:1枚の紙を受領し、それで自分はここで多年にわたって陶冶されたと証され、若者本来の面目を失い、精神的には婚約する前に寡婦となり、この後また社会に出てこの道を伝播してゆこうとする。
 中国といえども当然いささかの解放の機会はあり、中国の婦女といえども、当然自立の傾向にあり:怖れるのは幸いにして自立した後、また変転して自立していない人達を凌虐し、まさに童養媳が姑になると、彼女の悪い姑と同じ様に悪辣になるのだ。私は決して教育界の独身女性が必ず男性と結婚せねばならぬと言っているのではない。彼女らが自由な考えで、比較的遠大な思考方法で、物事を考えてほしいと願うものだ。その一方で教育に心を寄せる人に留意してもらいたいのは、これは女子教育の大問題であり、救いの方法があるというのは、私は教育界の人は、教育に効験がないなどというのを肯定しないということを知っているからだ。中国は今後も独身者はさらに増えて行くだろう。それを良い方法で補い救ってゆかないと、寡婦主義教育の勢いは段々大きくなり、多くの女性はあのように冷酷陰惨な陶冶の下で、活発であるべき青春を失い、復活できない。全国の教育を受けた女性は、嫁していようがいまいが、夫がいようがいまいが、心は古井戸のようで、顔もこわばってしまっている。それも良いかもしれぬが、やはりまっとうな人間として生きて行けない:自分の小間使いや自分の女児のことを考えるのはその次のことだ。
 私は教育を専門にしているのではないが、この危険と害を強く感じているので、この機会に「婦女週刊」の求めに応じて所感を述べた。
      1925年11月23日

訳者雑感:
 今回のミャンマーのスーチーさんの活躍と、寡婦主義という魯迅の文章を考えてみた。魯迅の作品は彼が教えていた女子師範学校の校長とその取り巻きが寡婦や疑似寡婦で、女学生たちが校長らの政策に反対し、校長排斥運動をするのを禁じる為、別の手段を使って制御してきた。それを魯迅は彼一流の筆法で強烈に罵っているのだが、…。
 魯迅のころは教育方面でしか職場の無かった寡婦が、最近は政治やビジネスの場で大活躍している。歴史的にもエリザベス1世や、則天武后など独身主義というか、結婚しなかった女王や、皇帝の死後を襲って天下を治めた皇后も多い。名君と称される人も多いが、サッチャ―さんメルケルさんとかも暦史に名を残すだろう。
韓国の朴さんは独身だそうだが、退任後どう評価されるだろうか?韓国では大抵後任者が前任者の非を暴露して政治生命を断つケースが多いが…。今回の安倍首相との会談後も、昼食すら設営せず、外交面では安倍首相に敗北したと評されているが。
 ヒラリー・クリントン氏は夫はいまも在世しているが、大分時間が経過したとはいえ、王政ではなく、大統領制のアメリカ合衆国としては夫の後を襲って、善政を行えるかもしれない。夫を凌ぐほどになるかもしれない。
    2015/11/11記

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塹壕戦と焦土作戦主義

塹壕戦と焦土作戦主義
 最近私は中国社会で幾つかの主義を発見した。その一つが堅壁清野だ。
「堅壁清野」は兵家の言で、兵家は私の本業じゃないから、この言葉は兵家から得たのではなく、他の本で見たか、世間で耳にしたのだ。今次の欧州戦時、最も重要なのは塹壕戦だった由。それなら今もこの戦法を使っている――堅壁である。清については世界史には興味深い事例が有り:19世紀初、ナポレオンがロシアに進攻した時、モスクワに達すると、ロシア人は大大的に清野作戦を行い、この地域に火を放ち、生活に必要な物を全て焼きつくし、ナポレオンと彼の雄兵猛将に空城で西北の風を吸わせ、1か月もせぬうちに彼等は退却した。
 中国は儒教国で毎年孔子を祭るが「俎豆(祭器)の事は聞くが、軍旅の事は丘(孔子の名)之を学ばず也」。只上から下までこの兵法を使い:私の目を引いたのは、今月の新聞のニュースだ。それによると、教育当局は公共の娯楽場で常々、風俗紊乱事件が起こるから、各校に命じて女学生の遊芸場と公園へ立入を禁じた:並びに女学生の家族にも通知し、協調して禁じるとした。私は本件が確かなものか、詳しく知らぬし:原文も見ていない:また教育局の意図も分からぬ。だからそういう場所へ行くのを禁ずるのは女学生のみか、他の人はそれを起こさぬというのか、そもそも或いはたとえ起きてもそれは構わぬというのか。
 私は後の推測がきっと近いと思う。我々の古聖と今の賢人は口では「本来はまさに清源」で「天下も澄んで清らか」だというが、大概口だけで、本当にそうとは思っていないし「己正しからざれば、人を正す者なし」で、結果は:しまっておこう、となる。第一「己の心で以て、人の心を度し」もっぱら「見ること無くば、欲することなく、民心を乱させぬ」と思うのだ。第二に、器と気宇はかくも大きいが、実際に「天下を澄ます」才能は無い。正に、富翁の唯一の蓄財法はただ金を自分の土地に埋めるのと同じだ。古の聖人の教える「財宝はしっかりしまって置かないと盗みを誘発し、容貌を美しくするのは淫を誘発する」で、子女と財宝の管理は塹壕戦焦土作戦でなければ、というのだ。
 実はこの方法は中国ではとっくにやっていて、私が訪れた先は、北京以外は、道には男と肉体労働をする女だけで、所謂上流婦女はお目にかからぬ。只ここで断わっておくが、私がこういう現象に不満なのは、中国各地を巡って、色んな奥方やお嬢さんを偸み見しようとする為ではない。私はそれに使う路銀を一文も貯めていないのがその証だ。今年は「デマ」が盛んで、ちょっと不謹慎だと「現代評論」にすぐいろいろ書かれるから、先に宣告しておく。ここで名儒の話しをすると、彼等の家庭では男女は簡単に会うことはできない。霍渭厓の「家訓」に面倒な男女を隔てる部屋の構図があり、聖賢を志す者は、自分の家も遊芸場や公園とみなしている;今はもう20世紀なのに、若い頃から不羈の名を負い、自由の説を学ぶ」教育総長は実に寛大である。
 北京では女性をあまり禁固していなくて、外を歩いても侮べつされることは無く、我々の古哲と今賢の意見は一致しないが、この種の気分は満州人が持ち込んだのだろう。満州人はかつて我々の聖上だったので、その習俗も遵守せねばならなかった。思うに、今やもう排満ではなく、民国元年の弁髪切りの如く、やはり昔のくせが復活し、只旧暦で年越しに爆竹を鳴らすのを見ようとしたり、その数を増やそうとするが、残念なことにもう二度と、魏忠賢のようなのが出てきて、彼の養子になって彼を孔子廟に祀るような試験をしないだろう。
 風俗を良くしようとするには、人間性の解放、教育の普及、とりわけ性教育の普及で、これは正に教育者のなすべき事で、「閉じ込める」のは牢の番人の専門の仕事で、ましてや社会は牢獄のように簡単ではなく、長城を築いても胡人は次々と乗り越えて来るので、深い溝も高い塁も役に立たぬ。遊芸場と公園ができる前、男女が門を出なかったか。小家の女は縁日やお祭りに出かけた。彼女たちが大家の女たちより多く「風俗を乱した」と誰が言えよう。
要するに、社会の改良無しに「閉じ込めて」見ても何にもならず、「閉じ込め」を社会改良の手段とするのは、天津―上海線の鉄道に乗って、奉天に行こうとするものだ。こんな道理は誰でも分かるはず:塹壕は堅固でも崩れるのだ。兵と匪賊の「誘拐」事件、婦女かどわかしなどは風俗教化に如何?知らないのか?あるいは知っていても何も言えないのか?敢えて言わないのか?逆に彼等の功徳を讃えているではないか!
 その実、「塹壕焦土」は兵家の法とはいえ、やはり保守後退で、攻撃前進ではない。或いはこの点で一般人の退嬰主義と似た所あり、同じ考えの様ではある。但し、兵事の面では他に期す所あり、援軍の到来を待つか、敵の撤退を待つ:若し単に困って孤城を守るなら、その結果は滅亡のみだ。教育上「塹壕焦土」が待つのは何か?暦来の女の教えから推測するに、待っているのは只一つのみ:死だ。
 天下太平時、或いは暫く平安な時、所謂男子は厳然と貞節従順を教え、しとやかさを説く。「内(女)の言は敷居を出ず」「男女の授受は直接せぬ」と説く。よし!貴方の言を聞こう。外事は貴下にお願いする。但し、天下は鼎が沸くほどひどくなっており、暴力は来襲する。貴下は何を以て教えるや?曰く:烈婦たれ!と。
 宋以来婦女に対する方法は、只一つ。現在に至るもやはりこれ一つだ。
 もし、女の教えが本当に大いに行われていたら、我々中国は歴来多くの内乱、多くの外患、兵火が頻繁に起こったから、婦女は絶滅したのではないか?いや、幸い免れ、死なぬ者もいて、代が替る時、男と共に降参し、奴才となった。そして子供を生み、祖先の香火も幸い絶えなかったが、今なお奴気を帯びた人が沢山いるのが弊害である。「利あれば必ず弊あり」は昔から言われて皆知っている事だ。
 然しこれ以外の儒者、名臣、金満家、武人、権門及び一般庶民は他に何ら良い方法を思いつかぬようで、その結果:これを英知として奉じてきた。更に馬鹿げている事は、自分の意見と違う者は土匪だとみなしたのだ。官(役人)と相反するのは匪、というのは正しくその通りだ。但し最近孫美瑶が抱犢崗に拠って、守ったのは実は「塹壕戦」をしただけで、「焦土」の一品については私は張献忠を推挙する。
張献忠は明末、民を殺戮したことは誰もが知っているが、皆寒気がして身の毛もよだつ。例えば、ABCの三軍が民を殺し終えた後、ABにCを殺させ、又AにBを殺させ、それからAどうしで殺しあわせる。なぜか?李自成が北京に入城して皇帝になったからだ。皇帝になれば民を必要とするが、彼は彼の民を全て殺し、皇帝にさせまいとした。丁度、風俗紊乱を起こすのは女学生だから、全ての女学生を閉じ込めてしまえば、風俗紊乱は起こらないと考える如し。
土匪すら塹壕焦土作戦をするので、今の中国の婦女はもはや解放の道は閉ざされた:現在の郷民(田舎の民)は兵か匪か、はっきり弁別できなくなった由。
    1925年11月22日
訳者雑感:原題は「堅壁清野主義」で、文章から判断して、第一次世界大戦で用いられた例の「西部戦線異状なし」の塹壕戦と、モスコーに攻め入ったドイツ軍を退却させた焦土作戦とした。
 第2次大戦では蒋介石の国民党軍は日本軍が攻めてこられないように、黄河を決壊させた。(38年6月)その結果資料によると、百万人が水死し、6百万人が被害を受けた由。これは焦土作戦の援用版で、中国語で「以水代兵」と言う。
恐ろしいことだ。洪水で以て兵の代わりをさせる、とは。その兵は魯迅の文中と同じく、敵兵を攻撃したのではなく、自分の民を殺したのだ。
      2015/10/25記

 

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ヒゲから歯の話しへ

ヒゲから歯の話しへ
1.
 「吶喊」を開くと、また中華民国9年の双十節の数日前に書いた「髪の故事」を思い出し:去年の今頃、「語絲」が発刊されてすぐそこへ「ヒゲについて」を書いた。どうも少し章士釗の所謂「毎況愈下」(下るほど悪くなる、の誤用)のようだ。――無論この成語は章士釗が最初に誤用したのではないが、彼はすでに伝統的な旧学の大家と自任しており、私も又ちょうど彼と訴訟中だから、彼におっかぶせた訳だ。当時の話しでは――或いはその当時の「流言」で――ある北京大学の名教授が憤慨して、ヒゲから話しを始めて、下がって行き、やがては尻の話しになり、そうなると上海の「晶報」と同じだ、と。なぜか?これは最近の文章をよく知らぬと分からない。後進の「束髪の若いもの」には理解できぬことだ。「晶報」に「太陽に尻を晒す賦」が載り、尻とヒゲは人体の一部で、この部位をとりあげると、他の部位も触れねばならない。まさに顔を洗う人を見て、敏捷で聡明な学者は、きっと彼が洗い続け尻まで洗うだろうと推測する。だからGentlemanになろうとする者は、小さな禍を防ぐため、背後から皮肉を言わねばならぬ。――これ以外に何か深い意味があるなら、私の知る由も無い。
 昔耳にしたことだが、欧米の文明人は下半身とそれに関することに触れることを諱む由。生殖器を中心に円を描き、その中の物は均しく諱の対照となる:そして円の半径は米国の方が英国より大きい由。中国の下等人が諱む事は無い。昔の上等人も諱むことはなく、それで公子でも名を黒臀(尻)とつけられたりしている。諱の始まりが何時からか知らない:英米の半径が拡大され、口と鼻の間、更にその上まで、となったのは1924年の秋かららしい。
 文人墨客は大抵感性がとても鋭敏なためか、大変ナイーブで、彼らには何も言えぬし、見せられぬし、聞かせられず、考えさせられなかった。道学先生はそれ故、これを禁じてきたわけで、相反しているようだが、実はよく通じているのだ。しかし彼等は女性客の絹のハンカチを見、第二夫人の荒れた墓を見て詩を作ろうとする。私は今筆墨を弄し、白文を書いているが、文才は「水平線」の下にあるように定められているようだ。従って絹のハンカチや荒れた墓の類を見て感動することは無い:ただ解剖室で初めて女性の屍にメスを入れた時、少し詩を書く気になったようだ――が、「その気」になっただけで、詩はできず、これを私の詩集を精装本で出版するための予告だなどと、諸兄も誤解しないで欲しい。後に「その気」も失せ、きっと見慣れたせいで、正に下等人が云い慣れた事と同じだ。さもなければ、多分今もヒゲの話しをしようと思わぬのみならず、「人の初め、性は本来善なり」や「天地玄黄賦」でなければ書くのを恥じたであろう。遠いトルコの革命後、女性がベールを脱ぐのは何たる下等なことかと思われていたが、嗚呼、彼女等はすでに口も露出し、将来はきっとお尻をだして歩くことだろう。
2.
 私を「病もないのに呻吟する」輩に数える人がいるが、己の病は己知るで、傍らの人は本当の事は知らぬ。病なくば、誰が呻吟するか?どうしても呻吟したいというなら、それは呻吟病を患っておるので、治しようがない。――但し、模倣は例外だ。ヒゲから尻に至るまでの話しなど、平穏無事に過ごしていたら、誰が好き好んでそれを記念するものか:健康な時は自分の頭、手、脚、足の裏まで何も気にしない。「誰かに首切られる」とか「脾肉(又触れたが、紳士淑女の赦しを乞う)の嘆」を深く感じる時、それはその理由があるから、「呻吟」するのである。批評家達は言う:「病でもないのに」と。私は彼等の健康がうらやましい。
 例えば、腋下や股間の細毛などこれまで大した禍を起こしたことは無いから誰もそれを呻吟のネタにしなかった。頭髪は違う。白髪数本ですら、老先生は鏡をみて感慨する。急ぎ抜こうとする:清初はこのために多くの人を殺しもした。民国が成立し、弁髪は切ることになったが、この先またひっくり返されて、どんなことになるか分からないが、目下の所一段落ついた。それで自分の頭髪については、すっきりと忘れたようで、況や女の断髪の問題については、私は髪油や整髪用の鏝(コテ)を売るつもりも無く:私には関係ないし、何も考えなかった。民国9年になって、私の寓居に若い女性が寄宿することになり、高等女子師範学校に入学し、彼女は断髪しもう揚げ髷やS髷を結えなくなった。このとき初めて民国9年にもなるのに、一部の人は断髪した女子を嫉視することを知ったが、清末の弁髪を切る男と同じで:校長のM氏はもう天に魂を奪われ、自分の髪は頭のてっぺんまで禿げてほとんどつるつるだが、女の髪は千鈞の重みがあると考え、彼女に留めるように強く求めた。私は意志の疎通を図ろうとしたが効果なく、面倒に感じ「感慨これに系り」、「頭髪の故事」を呻吟した。だがなぜか知らぬが、彼女はその後も髪を伸ばさず、断髪のまま北京の街を歩いている。
 本来これ以上続ける要も無いのだが、ヒゲの型も自由がないのを、平素から不満に思っていたので、時に思い出すのである。ヒゲの有無、型、長髪などは直接影響を受ける人以外、何も口出しする権利も義務も無いと思うが、一部の人はどうしても「ひとこと」言いたいようで、無聊でつまらぬことを言い、それは誠に女子は髪を結わねばいけないという教育と、「奇装異服」する者は警察に連行し、罪を着せる政治と同様、奇妙なことである。人々に反発させなくするには、やはり刺激を与えぬようにすべきで:田舎の人は逮捕されて、知県の役所で尻を叩かれた後、頭を地に叩きつけて:「お役人様、ありがとうごぜーますだ」という始末だ。このような特異な風習は中国民族特有の物だ。
 何と丁度1年で、私の歯はまた問題を起こし、それでまた歯のことを話さねばならぬことになった。今度の話しは下に行くのではないが、歯の奥は喉その下は食道、胃、大小腸、直腸と食に関係あり、やはり雅な人は歯牙にもかけぬことだ:況や直腸の隣には膀胱もある。嗚呼!

3.
 民国14年10月27日、旧暦の9月9日、国民の自主関税を求めるデモが行われた。警察は交通遮断し衝突した。双方に「死傷者」が出たという。翌日幾つかの新聞「社会日報」「世界日報」「与論報」「益世報」「順天時報」等のニュースにこんな話が出ていた:
 「学生で負傷した者、呉興身(第一英文学校)は頭の傷甚だしく、…周樹人(北大教員)前歯2本が抜け落ち、その他は報告まだない…」
これでも不十分で、翌日「社会日報」「与論報」「黄報」「順天時報」に又云う:
 「…デモの中に北大教授周樹人(即魯迅)の前歯は確かに2本抜けた…」
 与論もしかり、社会を指導する機関も、「確かに」も「確かでないのも」私はそれを修正する書面を書くほどの閑も無い。しかし苦しめられたのは多くの学生達で、翌日私はL学校に授業に出たら、20名余の学生が欠席で、彼らは私が前歯を失くしたので,講義の価値も下がると思ったのではあるまいか。大抵きっと病欠だと推測したのだろう。更には会ったことがあるか、会ったことも無い人からも直接問い合わせを受け、又は書面での問いもあり:とりわけ朋基君などは先ず中央病院に出向き、面会をと計画したが果たせず、私の家にまで来て「前歯の恙がないのを見て、やっと東城に帰った。ところが「天は哀れみをたまわらず」とうとう大騒ぎとなった。
 本当に2本の前歯を失くしたら、大いに「校風を整頓しようとする連中とその徒党のはやる気を治められただろう:あるいはヒゲの話しの報いかもしれぬ――徐々に下の方に下がって行く嫌いはあるので報いを受けた――博愛家の言によれば、もともと一挙両得ではないか。だが、残念ながら私はその日現場にはいなかった。私が現場にいなかった理由は、胡適教授の言うように、研究室で勉強せよとの指示に従ったためでなく、また江紹厚教授の忠告に従い、作品の推敲をしていたわけでもない、更にはイプセン博士の遺訓によりまさに「自分を救出」しようとしていたのでもない:恥ずかしながら、私はまったくそんな大それた事をしていたのではなく、正直に白状すると、終日窓際のベッドに横になっていただけ。どうしてか:ちょっと体調が悪かったからで、他に理由は無い。
 然し、私の前歯は「確かに2本無くなった」のだ。
4.
 これも己の病は己知る、の一例で、歯が健全だと歯痛の人のつらさは決して分からない。口をゆがめて空気をシーシー吸っているのは実におかしい。盤古の天地開闢以来、中国は歯痛止めの良い方法をまだ発明していない。今、何とか「西洋の義歯やつめもの」があるが、大概はただ浅薄なことをかじっただけで、消毒や腐った所を除去するという大まかな理論さえ分かっていない。北京について言えば、また中国自身の歯医者についても、数人の米国留学の博士は良いが、Yes, 非常に高いのです。貧乏な田舎の僻地になると、浅薄なのすらいないので、不幸にも歯が痛くなったら、本分に安んじ、良医を求めず、土地の廟にお参りして、頭を地に叩きつけ、お願いするしかない。
 私は小さい頃から歯痛党で、故意に歯痛の無い正人君子に異を唱えるのではなく、実は「そうしたくてもできない」のだが、歯の性質のよしあしは、遺伝するといわれ、そうならこれは父がくれた遺産で、彼の歯もとても悪かった。虫歯や欠歯…ついには歯茎から出血し治しようが無かった:小さな町に住んでいたので、歯医者もない。当時世の中に所謂「西洋…」などがあるなどと思いもできず、ただ「験法新編」だけが唯一の救いだが:いろいろ試しても「験法」はすべて効かなかった。後にいい人が秘法を教えてくれ:日を選び、栗を風に干して、毎日これを食べると、神のような特効がある、と。ただどんな日を選ぶべきかもう忘れてしまった。まあこの秘法の結果は栗を食べたというだけで、随時風に干して食べられたので、それ以上考査することもしなくなった。
その後、私は初めて正式に漢方医にみてもらい、飲み薬を飲んだが、残念なが
ら医者は手をこまねいているだけで、これを「歯損」といって、大変治療がむつかしい由。ある日先輩が私を叱って、自分で大事にせぬからこんな風になるのだ;医者にどんないい方法があるというのか?私は分からなかったが、これ以後、人に歯痛のことを話さなくなった。どうもそれを言うのは恥らしい。こうして長い時間がたって、私が日本の長崎について、歯医者にみてもらうと、彼は歯の裏の所謂「歯垢」を削ってくれ、もう出血しなくなった。費用は2元1時間弱ですんだ。
 その後、中国の医薬書も見て、忽然目の覚める驚く説を発見した。それによれば、歯は腎に属し、「欠歯」の原因は「腎虚」からくる由。それでハタと悟った。以前彼等からケチをつけられた理由で、元来彼等はこういうことで私を故意に侮べつし陥れようとしたのだ。これまで漢方医がどれほど信頼に足り、処方が霊験あると言われても、全く信じてこなかった。当然その中の大半は、彼らが父の病を手遅れにした為だが、肌を切る痛みを帯びた私怨かもしれない。
 問題はまだたくさんあり、V・ユーゴの文才があれば、これで「レミゼラブル」の続編を書けるかもしれぬ。しかし、ただ単にそれが無いだけでなく、難に会ったのは自分の歯であり、人に向って自分の冤罪リストを送るのは大して意味の無いことだ。殆どの文章は9割がた無意識的に自己弁護なのだとはいえ。今、やはり前に向かって一歩踏み出し「前歯が確かに2本抜けた」話に戻ろう:
 袁世凱も全ての儒者と同様、尊孔を主張した。奇妙な古式衣冠を作り、祭礼を盛大に行ったのは、大体皇帝になろうとしていた1-2年前だ。この時以来、それを廃さないこととしたが、後継者が次々に代わり、とりわけ儀式での儀礼を行う状況が変わって:自ら維新を唱える者は洋服でお辞儀をし、尊古者が興ると、古装して頓首(頭を地につける)した。私がかつて教育部の僉事(役職名)の時、「区区(つまらぬ職)」だったため、お辞儀や頓首の列にも入らなかった:ただ、春秋の二祭には派遣されて執事をせざるを免れなかった。執事とは所謂「帛」(ハク)や「爵」を持って、お辞儀や頓首する諸公に渡す役目だ。民国11年秋、私は「執事」役をすませ車で帰ったが、なにしろ北京の秋の早朝で、大変寒いから厚い外套を着、手袋をし、手をポケットに入れていた。その車夫は眠気眼で、いい加減だったが、決して章士釗の徒党ではないと信じる:
だが途中で所謂「非常処分」を使い、「迅雷も耳を蔽うひまなく」自分から転んで、私を車から抛りだした。手はポケットに入れており、どこかをつかむこともできず、地面に口づけする他なかった。それで前歯が犠牲になった。その為前歯無しで半年講義し、12年の夏に義歯を入れ、今では朋其君に見せて安心させ、釈然として帰って行った。が2本は実はにせものなのだ。
5.
 孔子は言った:「周公のような才能があっても、それを驕り、ケチなら、その余は見るに足りぬ」と。これは確かに読んだことあり、非常に敬服する。だから前歯2本を失くし、それで周囲の人たちが傍らで快と感じ、「痛快」と思うなら、それに対してなんら吝惜の気持ちは無い。しかし現実に前歯の無いことは、この数本だとしても、とっくに抜け落ちたで何ともしかたない。昔の事を今の話しにしたくもない。ただ、ある事情により、私は本当の事を言いたいし、他人の「デマ」を抹殺するしかないのだ。これは大抵、自分に有利で少なくとも自分に損害を与えないということを限度とする。それ故私は章士釗が後の事を前に持ってくるというデタラメを引っ剥がすのだ。
 またしても章士釗だ。この名を見て私が頭を振るのは実にもう久しいことだ:但し以前は公であったが、今は漢方医を恨むが如く、私怨を帯びているようだ。彼は「故なく」して私をクビにしたから、既に書いたように:目下訴訟中だ。近来、彼の古文の答弁書を見ると、こまごまと「故なき」弁が実に多い。
その中には:
 『…また当該の偽校務維持会は当職員を担ぎ出して、当該委員も否認せず、明らかに本部の行政に抵抗しようとし、その理由の受容し難きこと、また法の許さぬことだ。それでやむなく8月12日を以て、執政府に周樹人免職を申請し、13日に執政府より批准された…』
 それで私も「なりけりあらんや」(文語調)で反駁した:
 『校務維持会が公に樹人を委員としたのは、8月13日で、当該総長が免職を申請したのは12日という。よもや予め樹人を委員にするのを知っていて、その前に免職の罪を着せたのではあるまい…』
 だがそうした何何「答弁書」は中国のデタラメなこじつけの紋切り型の法律に過ぎず、章士釗が必ずしもそれほどいい加減とは限らぬが:もし本当にただいい加減だけなら、いい加減な人間に過ぎぬが、彼は文章も上手く弄し、法をうまく使っている。彼は言う:「近頃の政治は内実甚だ複雑で、一つの事が起こる。その真意は往々、事象を求めて之を処理しようとするは大変むつかしく、
執法し抗争する。だがそれは事象の間のことにすぎない。…」従って、もし問題が自分と無関係なら、彼の政治法律ロジックの話しを聞くより、やはり実際は「太陽に尻を晒す賦」を読むに如かず。人を欺くということはこれらの賦には無いからだ。
 本題からいよいよ遠ざかってしまった:これは私の体の部分ではない。今はもうこれくらいにし、将来は何か話すのは、民国15年秋としよう。
      1925年10月30日

訳者雑感:1902年のころ、魯迅は長い間我慢していた歯の痛みに耐えかねて、日本留学で長崎に着くや否や、歯医者を探し、1時間以内で歯垢をきれいにとってもらい2元払ったと書いている。20数年前の歯の治療代を覚えているほど、それは印象に深く刻まれたのだろう。当時中国にはそんな歯医者もいなかったのだろう。彼はその後1936年に56歳で亡くなるのだが、歯が悪かったから、やはり栄養豊富な食べ物もあまり食べられなかったのだろう。半年間前歯無しで、講義をしたそうだが、堅い物をかぶりつくのも難儀だったろう。
     2015/10/18記

 

 

 

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眼を開いて良く観ることについて

眼を開いて良く観ることについて
 虚生氏の時事短評に、このテーマがあり:「我々は各方面を正視する勇気を持つべし」(「猛進」19号)。本当にしっかり正視するべきで、それでこそしっかりと考え、話し、書き、物事に対処することが望める。もし正視すら敢えてしないなら、他に何の成果を挙げられようか。然し不幸にしてこの種の勇気は我々中国人の最も欠けている点だ。
 しかし、今私が思い到ったのは別の事だ――
 中国の文人は人生に対し――少なくとも社会現象について、これまで多くは正視する勇気に欠けていたことだ。我々の聖賢はもともと早くから人に対し「礼にあらざれば視る勿れ」と教えて来た:この「礼」は非常に厳しく「正視」のみならず、「平視」「斜視」も許さなかった。現代青年の考えは知るべくもないが、体質的には大半は背を曲げ、眉を下げて、従順な態度で、名門の老成した子弟で馴良な市民で――これが対外的には大きな力であるというのはこの1ケ月来の新説で、実際はどうか知らぬ。
 再び「正視」に戻ると:まず正面から物事に向かわず、後から何もできず、その後は無論何も視ず、視ないとなる。自動車が壊れて道に停まっていると、一団の人がぼーっと囲んで見ていて、そこから得た結果は―― 一団の黒い物体で、然るに本体の矛盾や社会の欠陥からでてきた苦痛は、正視しなくても身に影響は無い。文人は畢竟敏感な人間で、彼等の作品を見ると、一部の人は確かに早くから不満を持っているのだが、もうまもなく欠陥がはっきり顕れようとしている危機一髪の際、かれはすぐ「そんなことはない」とまで言い出し、同時に目を閉じる。この閉じた目は一切が円満にみえ、目下の苦痛は「天が大任を人に降ろさんとしていて、必ずまずその心志を苦しめ、筋骨を労し、その身体を餓えさせ、その身を空乏にし、その所為(なす事)の乱れを払わんとするに過ぎず」とし、それで問題も欠陥も不幸もなく、即ち解決もせず、改革も反抗もない。凡そ物事は「団円」とするのが一番で、正に我々が焦躁することもない:安心して茶を飲んでぐっすり眠る。さらに余計なことをいうと:「時宜にあわぬ」と咎めを受け、大学教授の糾正を免れぬ。ペッ!
 まだ実験したことはないが、時に思う:もし久しく洞房に蟄居していた老人が夏の正午の烈日に抛りだされたら、或いは閨房から出たことの無い千金のお嬢さんを荒野の月のない真っ暗な夜にひきづりだしたら、大概眼を閉じ、暫く彼等の心に残る古い夢を見続けるしか無かろうし、どうしても闇と光を見ることは無い。まったく異なった現実に抛りだされるのだが、中国の文人もこれと同じで、万事眼を閉じ、些か自ら欺き、人も欺く。その方法は欺瞞と騙りである。
中国の婚姻方法の欠陥は、才子佳人小説作家は、とうに感じていて、彼はそれで、才子に壁に詩を書かせ、佳人がやって来てそれに和し、傾慕――今は恋愛といわねばならぬ――して「終身の約」に至る。だが約の後、難関がある。我々は皆知っているが、「私に終身を訂す」は詩や戯曲或いは小説では美談たるを失う事は無いが、(勿論、ただ最終的に状元になる男の私訂に限られているが)実際にはなかなか世間に受容れられず、やはり別離を免れなかった。明末作家はこれに目を閉じ、一層の補救をくわえて言う:才士は合格し、天子の命を奉じて成婚する。「父母の命、媒約の言」にはこういう大きな帽子をかぶせられ、半文の値打ちも無くなり、何の問題も無くなる。たとえあっても、只才子が状元に合格するか否かであって、決して婚姻制度の良し悪しではない。
(近頃、新しい詩人が詩を発表するのは、名を売って異性を引き付けるためだと言う人もいる:更には新聞雑誌が濫にそういうものを載せるのに怒っている。新聞がなくとも、壁には実に「古くから之あり」でつとに発表の機関となっており:「封神演義」によれば、紂王はすでに女媧廟の壁に詩を題し、その起源は実に非常に古い。新聞は白話を採らぬも可だし、小詩を排斥するも可だ。しかし壁は壊し尽くせぬし、すべて管理の及ぶものでもない:もしすべて黒壁にしても、陶器のかけらで字は書きつけられるし、チョークもある。対応に窮す。
詩を木版に刻さず、名山に蔵したりせず、随時発表するのは、弊害も多いが、それを途絶することは難しい)
 
 「紅楼夢」の小さな悲劇は世の中にはよくあることだが、作者はしっかり写実的に熱心に描いており、その結果は悪くない。無論、賈氏の家業が再び栄えて、蘭桂斎芳、即ち宝玉自身が大きな被毛氈の袈裟をつけた和尚にもなった。和尚は多いが、このような立派な袈裟をつけられるのは数人しかいない。すでに「人の聖たるや凡を超えて」いることは疑いない。他の人については早くから冊子に一々注定あり、末路は一つの帰結にすぎない:だが問題の終わりで、始まりではない。読者は多少不安だが、如何ともしがたい。然るに、後になって続編や改作が出、屍を借りて魂を還すのでなければ、冥土で他の人と結ばれ、必ず「美男美女がそこで団円」を迎えさせねば手を引かないのは、自分を欺き、人を欺く悪い癖は大変なものだ。だから小さな騙りを見て、それに甘んじていられず、目を閉じてデタラメなことを言わないと、気が晴れぬ。Haeckelは人と人の差は、時に類人猿と原人の差より大きいと言った。我々は「紅楼夢」の続編の作者と原作者を比べれば、この言葉は大概その通りだと認めることになる。
 「善をなす者に吉祥が降りる」という古訓について、六朝人も元々疑っており
墓誌を造る時、「積善報いられず、終に自ら人を欺く」とさえ言っている。その後の馬鹿な連中はまた欺瞞し出した。元劉信は3才の幼児を護摩の火炉に投げ入れ、妄りに福の佑を希求した。これは「元典章」にあるが:劇本「小張、児を屠焚し、母を救う」に云う:母の延命のため、命を伸ばす事が出来、児も又死なせずにすんだ、と。また女が不治の病の夫に侍って、「醒世恒言」に云う:
ついに共に自殺した、と:それを改作して、蛇が薬を煎じる薬缶に入ったが、それを飲んで全快した、と。凡そ、欠陥はあるのだが、後の作者の粉飾を経て、後半は大抵がらっと変わって、読者をまんまと欺瞞して、世間は十分光明に満ちており、不幸になった者は自業自得だとしている。
 明らかに異なった史実に向き合うと、もうごまかせない。関羽岳飛が殺されたのは、別の物語を造るしかない。一つは岳飛のように前世の因縁とし;もう一つは関羽のように死後神にする。宿命は逃れられず、神になるという吉報は人々を満足させるから、殺した者は責められず、殺された者も悲しむに足りぬ。冥冥の中で自ら裁配して、彼等を夫々その居るところを得さしめ、正に他の人に苦労させることはない。
 中国人は各面で敢えて正視せず、欺瞞と騙りで妙な逃げ道を作り、自分では正路と思う。この道はまさしく国民性の怯弱さ、怠惰と狡さを証明している。
一日一日と満足していると、即一日一日と堕落するが、又日々光栄を眺めていると感じる。事実一度亡国すると、何人もの殉難の忠臣を添え、その後、前の王朝を光復させようと思わず、ただ、数名の忠臣を賛美する:一度恥辱を受けても、一群の辱めを拒んで死んだ烈女をつくり、事件の過ぎた後、凶人を懲罰し、自衛しようと思わず、ただ、その烈女たちを讃える歌を吟ずるのみ。まるで亡国恥辱に逢うのは、むしろ中国人に「天地の正気」を発揮させる機会を与え、価値を高め、この一挙により、その到るに任すべきで、何ら愁い悲しむに足りぬ、と云うようだ。無論これも仕方ないことで、我々はすでに死んだ人を借りてきて、最上の光栄を得ているからだ。上海漢口の烈士追悼会で、生きてる人びとは共に敬慕する高くて大きな位牌の下で、互いに罵り殴り合ったが、それも我々の先輩と同じことをしているわけだ。
 文芸は国民精神の発する火の光で、同時に国民精神の前途を導く灯火だ。これは相互に因果関係にあり、麻油がゴマから搾出される如くだが、ゴマを浸すとさらに油っぽくなる。油っぽくするのが良いというなら何も云う事は無い:だが、そうでないと言うなら、他のもの、水やアルカリにすべきだ。中国人はこれまで人生を正視しようとしなかったから、ごまかしか騙りしかせず、それでごまかしと騙りの文芸が生まれ、この文芸から更に中国人をごまかしと騙りの深くて大きな沢に陥れ、甚だしきはすでにその自覚すらしなくなった。世界は日々改変している。我々の作家は仮面を取り、真誠に、深く大胆に人生と向き合い、且つ彼の血肉を描く時がとうに到来した:一刻も早く斬新な文の場を持つべきで、何人かの凶猛な勇将を持つべきだ!
 今、気象は一変したようで、到る所で花月を吟じる声は失せ、代わって銃と血の賛頌が起こった。然るにもし又欺瞞の心で欺瞞の口を使えば、当然またAとOを説き、YとZを説いても、同じ様に虚偽のままでは、これまで花月を卑しんできた所謂批評家を脅してその口を閉じさせ、満足げに中国は中興するのだと思っているだけだ、可哀そうに彼は「愛国」という大きな帽子を被って、又目を閉じてしまった――というか元々閉じているのだが。
 一切の伝統思想と手法を突破する勇将が出なければ、中国に真の新しい文芸は起こり得ない。
     1925年7月22日

訳者雑感:中国の歴史故事は京劇などに取り上げられ、大衆が喝采する内容にどんどん改作されて来た。現実の子殺しなどの悲惨な故事を、観終わった後ほっとするような内容にするのだ。中国語でよく「こんな事態は目にしたくない」という表現が使われる。正視したくないのだ。その一方で日本には歴史を正視してしっかり反省せよと迫る。勝手な物だ。文革で数千万人が殺されたということは正視したくない。耳を蔽いたい。だが南京の件は絶対忘れない。しかし、魯迅がよく引用する明末の満州軍による大量虐殺はもう殆ど話題にしなくなった。アヘン戦争や義和団での犠牲者のことはもう最近では映画にも取り上げなくなった。早く忘れたがっているかのごとくに。
     2015/09/24記
   

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「他媽的」を論ず

「他媽的」を論ず
 中国で暮らせば誰でも「他媽的」やその類似の言い回しをよく耳にする。この言葉の分布は中国人の足跡のあるところについて回っており:その頻度も丁寧な「お元気ですか」より多いと思う。よく言うように、牡丹が中国の「国花」なら、これは中国の「国罵」(罵倒語)といえよう。
 私は浙江の東で育ち、西瀅氏のいわゆる「某籍」である。あの地方で通用する「国罵」はとても簡単で:「媽」一字だけで他の人に及ぶようなことは無い。
その後各地を巡ってみて、国罵が博大にして精緻なのに驚いた:祖宗にまで遡り、姉妹にも関係し、子孫にも及び、同性にも関係し、実に「猶、銀河の如く極まりなし」だ。そして人間にだけでなく、獣に対しても使う。先年、石炭車が深いくぼみに落輪したのを見たとき、車夫は憤然と降りてきて、必死に車を引き揚げようとし、ラバを叩いて「お前の姉ちゃんをやっちゃうぞ」と叫んだ。
 他国の状況は知らない。只ノルウエー人のHamsunの小説「飢餓」には粗野な文言が多いが、この様な言葉は無かった。ゴルキーの小説には無頼漢が多いが、私の見た限り、こんな罵り方は無かった。只、Artybashevの「労働者セヴィリオフ」に無抵抗主義者アラージェフに「お前の御袋を」と罵らせている。但しその時はすでに愛の為に犠牲になると決意した後だから、我々は彼の自己矛盾の勇気を笑うことはできない。この罵倒の言葉は中国語では極めて容易に訳せるが、他の国では難しく、ドイツ語では「お前の御袋を使ったことが有る」日本語では「お前の御袋は俺の母犬だ」と。これではとても理解に苦しむ――私の目から見てのことだが。
 ではロシアにもこの種の罵り方があるわけだが、中国のように念の入ったものではないから、栄光はやはり中国に帰す。これは大した栄光でもないから、彼等も抗議しにこないだろう:「赤化」の怖さには及ばない。中国の金持ち、名士、人格者からもクレームされることも無かろう。中国でも使うのは「車夫」の類の「下等人」だけで、身分の上等な人、例えば「士大夫」の類の人は決して口にせぬし、文章に書くことは無い。「予は生まれがおそく」周朝には追いつけぬし、大夫にもなっておらず、士にもなっていないから、元々好き勝手ができるのだ。それで字ずらを少し換えて、「国罵」から動詞(姦)と名詞(性器)をとり、二人称を三人称としたのは、やはり車引きをしたことが無いので、「些か貴族臭」を免れぬゆえだろう。その用途は一部の人に限定すると「国罵」とは言えぬようだ:が、そうとも言えない。金持ちが褒める牡丹を下等人はこれまで「花の富貴なるもの」など思ったこともないのだ。
この「他媽的」はいつごろ始まったか、知らない。経史に出て来る人を罵る言葉は、「役夫」「奴」「死公」といったところだ:ちょっと激しいのは「老狗」「むじな」あたりで:そして更に先代に及び、「(お前の)母は婢(はしため)」とか「宦官の子」だ!まだ「媽的」云々というのを見たことは無い。多分士大夫がそれを諱んで、記録しなかったのだろうが、「広弘明集」(七)に北魏の邢子才が「婦人は保証できぬと思うと、元景に語って言う「卿の姓は王とは限らぬ」と。元景は色を変えた。子才曰く:「私もまた邢とは限らぬ:五世を保てようか?」さすればそのあたりの事が推測できる。
晋朝はすでに家柄を重んじ過度に重んじ:貴族は世襲で、子弟はすぐ官になれた。たとえ大酒のみの飯桶でも、高官たるを失わなかった。北方辺境は拓跋氏にとられたが、士人はそんなことにお構い無く、狂ったように門に自分の功績を記すことに熱中し、等級を分けて守るのを厳格化した。庶民に秀才がいても、名門とは比ぶべきもなく、名門は、祖先の功績を受け継いだだけで、古い業績を誇って、学も無いくせに、気位だけは高く、当然周囲の人は耐えられないが、士は祖先を護符(守り札)としたので、圧迫された庶民は彼等の祖先を仇と思った。邢子才の言葉は憤激して出たのかどうか分からぬが、家柄の陰に身をかくしてきた男女にとっては確かに致命的だ。権勢や名声も元々僅かに「祖先」というただ一つの護符に頼っているだけ故、もし「祖先」が毀たれたら、全てが無になる。それが「先祖の余碌」に頼って来た必然の報いだ。
 同じ意味で、邢子才の様な文才もない「下等人」の口から直接出たのが即ち:
「他媽的!」である。
 権門大族の堅固な古い保塁を攻撃するには、彼の血統に照準を当てるのが、戦略的にまことに妙法と言える。「他媽的」を最初に発明した人物は天才と言える――卑劣な天才ではあるが。
 唐以後は名門を誇る気風もだんだん薄れ:金元には夷狄を帝王と奉じ、自分たちも肉屋を卿士にするのも構わなくなり、「等級」の上下もこのころから決めにくくなったのだが、やはり「上等」になれるように苦心した人もいる。劉時中の曲にも大変おかしなこととして:『市中の匹夫の無知に呆れ、無頼者同士が偉そうな官名で呼び合い、その音声も立派なもので、字も俗っぽくない。少し紹介すると:米売りを子良と呼び:肉屋を仲甫……飯屋を君宝:粉ひきを徳夫と;何たることか?』(「楽府新編陽春白雪」三)これが当時の成り金の醜態だ。
 「下等人」が成り金になる前、当然多くは「他媽的」を口にしたが、ある機に、役職位を偸みとり、字を些か知り、すぐ雅になって:雅号を持ち:身分も高くなり:家譜を改修し、始祖を探そうとし、名儒でなければ名臣とした。そして「上等人」と成り、上等の先達と同様、言行も温和文雅となった。然し、愚民にも利口な者がいて、早くからこのからくりを見破り、だから俗諺に云う:「口では仁義礼智、心では男盗女娼!」と、彼等はよく分かっていた。
 それで彼等に反抗して言うのだ:「他媽的!」と。
しかし、人々は自他の持っている余沢や余碌を蔑棄して一掃することもできないし、何とかして他人の祖先になろうとすることも、いずれにせよ卑劣なことだ。時たま、所謂「他媽的」の生命に暴力を加えようとするが、大概は機に乗じてで、機運を造りだすのではなく、従ってどうしても卑劣になる。
中国人は今も無数の「等級」があり、家門や祖先の余碌に頼っている。これを改革しないと、永遠に声なき、又声ある「国罵」が続く。「他媽的」が上下四方を囲み、この状態は泰平の時もそのままだ。
 只、例外的用法もあり:驚きや感服を表すのもあり、私の故郷で郷土の父子が昼飯を食べている時、子はおかずを指して、父親に「これはうまい。媽的。食べてみて!」と言い、父は答えて「俺はいらない。媽的。お前食べろ!」と、全く醇化し、現在の「親愛なる!」の意味となっている。
     1925年7月19日

訳者雑感:「媽的」とは仲間同士でも、或いは人の聞こえないところでも、相手を罵る場合によく使われる。日本語だと「バカめ!」とか「この野郎」というようなニュアンスで使われているのだが、元々は魯迅が指摘する様な「等級」社会で、のし上がってきた「名門」ぶっている「偉いさん」「成り金・役人」を
罵るときに、お前の母親をやっちゃうぞ、そうなるとお前は俺の子供と同等で、儒教的な身分関係では自分の方が相手より上になる。汝の母を姦するぞ!というのを二人称を三人称に換え、動詞と目的語を省略したのが「他媽的」である、というのは面白い「国罵」だ。
日本でも「お前のかあちゃん出べそ」というのはこの辺に相通じるのかもしれない。北魏の邢子才が「婦人は保証できぬと思うと、元景に語って言う「卿の姓は王とは限らぬ」と。元景は色を変えた。子才曰く:「私もまた邢とは限らぬ:五世を保てようか?」さすればそのあたりの事が推測できる。
後宮に何百もの女を囲い、男は宦官以外だれも入れぬようにし、血統を保とうとしてきた歴代の皇帝たちも、劉とか李とかの姓を名乗ってはいるが、必ずしも劉とは決まらないぞ!というのが北魏の邢子才の言葉として記録されているのは、それを示唆している。
    2015/09/14記
 

 

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いろんな記憶

いろんな記憶
1.
 G. Byronの詩は多くの青年が愛読しているといわれるが、そうだろうと思う。私にとっても今なお、彼の詩を読んで自分が如何に奮い立ったか覚えている:特に彼の絵柄の布を頭に巻いて、ギリシャ独立支援に向かった時の肖像を覚えている。この像は去年「小説月報」で初めて中国に伝えられた。残念ながら私は英語が分からぬので、読んだのは翻訳である。最近の議論では訳詩は一文の価値も無いという。たとえうまく訳されていたとしても。しかし当時の人の目はそんなに高くなかったから、私は訳詩を読んで良いと感じたし、原文が分からないから、くさい草も芳ばしい蘭と思ったのかもしれない。「新ローマ伝奇」の訳も一時たいへん読まれた。使われたのは詞の調子だったし、Sapphoをサッフォーと訳したのは日本語からの重訳を証明している。
 蘇曼殊氏も何首か訳していて、その頃彼はまだ「筝を弾ず人に寄せて」の詩を書いてはいないから、バイロンとも縁があった。ただ、訳文はとても古めかしく、もしかしたら章太炎の潤色を経ているかもしれない。だから古詩のようで、余り読まれなかった。後に彼が出した緑面に金字の「文学因縁」の中に収めたが、今やこの「文学因縁」も少なくなった。
 その実、当時バイロンが中国で割合知られていたのは別の理由で、即ち、彼がギリシャ独立を支援したからだ。時は清末で一部の中国青年の心中は、革命思潮の正に盛んなころで、凡そ仇を討つとか反抗を叫ぶのにはすぐ反応した。当時私が覚えているのは、他にはポーランドの仇打ち詩人、Adam Mickiewicz:ハンガリーの愛国詩人、Petofi Sandor:フィリピンの文人でスペイン政府に殺されたリサール、彼の祖父は中国人で中国でも彼の辞世詩を訳したことがある。Hauptmann、Sudermann、Ibsenらはよく知られていたが、我々は余り注意しなかった。他の一部の人は、専ら明末遺民の著作を捜して集め、満州人の残虐な記録を、東京や他の図書館で書き写して印刷して中国に輸入し、忘れられた怨みの復活を望み、革命成功への一助とした。それで「揚州十日記」「嘉定屠城記略」「朱舜水集」「張蒼水集」などを翻印し、更に「黄蕭養回頭」やその他の単篇を収集した。今はもうそれらの名を挙げられない。他の人達は名前を改め、「撲満」「打清」の類を英雄的と考えた。そういう大号はもちろん実際の革命とは余り関係なかったが、当時の光復(明を復興)への渇望の気持ちがどれ程盛んだったか分かる。
 英雄的な名前だけでなく、悲愴に満ちた詩も紙の上だけの物で、後の武昌起義とは何ら大した関係は無いだろう。もし影響があったとしても、他の千言万語も大抵は平易で直截な「革命軍の馬前の卒、鄒容」の作った「革命軍」には及ばない。
2.
 革命が起こった後のあらましを言えば、仇打ちの思想は減退した。思うに、大半は成功の希望を抱いて「文明」という薬を飲んで、漢人として面子を大事にしたから、もう残酷な報復はしなかった。しかし当時の所謂文明は、確かに外来の文明で国粋のではなく:所謂共和も米仏式の共和で、周召共和の共和ではない。革命党人も大概自民族の名誉のために、兵隊もあまり掠奪しなかった。南京の土匪兵が少し掠奪したので、黄興氏は非常に怒って多くを銃殺したが、後に土匪は銃殺を怖れず、曝し首を怖れると知り、屍から首を切り離し、縄で括って木に吊るした。これ以後はもう何の事件も起こらず、私の住んでいた機関の住居の衛兵は、私が外出する時は直立で捧げ銃をして送った後、すぐ私の部屋の窓から部屋に入り込み、私の服を持ち去ったが、手口は大分穏やかで遠慮がちだった。
南京は革命政府の所在地で、勿論特段に文明的だった。が、私が以前満州人が駐在していた所を見たら、瓦礫の山になっていた:ただ、方孝儒の血跡石の
亭だけが残っていた。ここは元は明の故宮で、私が学生の頃、馬に乗って通ったら、悪ガキ達に罵られ、投石された――お前らには通る資格がないというようだった。従来からそうだったらしい。今は面目ががらりと変わり、住民も少なくなり:数軒の破屋は残っているが、門扉や窓はなく:門扉があってもそれはボロボロのトタン板で、要するに木製のものは何も無い。
 では落城時に漢人は大いに仇打ちをしたのだろうか?そうではないようだ。事情通の話しでは:戦闘時には当然建物など損壊したが:革命軍が入城すると、(満州の)旗人の一部の人は、古くからの法に従い、殉難する者もいたが、明の故宮の後の建物は火薬で爆発し、自分も爆死した。近くを通っていた騎兵も一緒に爆死した。革命軍は地雷で抵抗するのだと思い、一度火をつけて焼いたのだが、焼け残った部屋はまだたくさんあった。その後、彼等は自分の手で木材をはいで売った。先ずは自分の家で、次に人の家だった。家には一尺一寸の木も無くなった。そしてみんな流れ散ってゆき、跡は瓦礫の山となった。――但しこれは伝聞で、事実かどうかは保証できぬ。
 こういう情況を見ると、「揚州十日記」を目の前にしても、余り憤怒しないだろう。私が感じたのは、民国成立後は、漢満の間の悪い感情はどうやら消えたようで、各省の境界線(の争い)も以前より大分薄れた。しかし「罪深くて尽きることの無い」中国人は、1年もたたぬうちに情況は逆転し:宋社党の活動と遺老が誤った挙に出て、両族の古い歴史が人々の記憶を呼び戻させ、袁世凱のやり方が、南北間の悪感情を増大させ、陰謀家の狡計で、省の境界も利用され、その後更に厳しくなった。
3.
 私の性格が特に悪いのか、或いは以前の環境の影響からぬけられぬせいか、復讐するのはなんら奇とするに足りぬと思う。とはいえ、無抵抗主義者を無人格だと貶めるような考えは無い。だが時に思う:復讐は誰が裁くのか?公平さを如何に保てるか?そしてすぐ自答し:自分で裁き自分で執行する:上帝が主宰するのではないから、人間は目には首で以て償わせるか、首には目で償わせるか勝手だ。時に寛恕は美徳とも思うが、すぐそれは臆病者の発明だと疑い、彼は復讐の勇気がないからだと:或いは卑怯な悪者が創ったもので、彼は人を害しながら、人からの復讐を怖れ、寛恕という美名で騙すのだ。
 このため、私はいつも現在の青年がうらやましい。清末の生まれだが、民国時代に成長し、共和の空気を吸い、もう異民族の扼政への不満も無いはずだし、被圧迫民族として体制に従わされる悲しみも無いはずだから。その結果、大学教授すらすでに小説はなぜ下等社会を描くのか分からなくなっている。私と現代人が1世紀も籬れていたら、確かにそうだろう。但し私はそれらを洗い落とそうとは思わない――恥ずかしい気もずるが。
 エロシェンコ君が日本から追放される前、彼の名は知らなかった。放逐されて彼の作品を始めて読み始め:強制退去と知ったのは「読売新聞」に江口渙氏の文章が載っていたからだ。それでこれを訳し、彼の童話も訳し、脚本「桃色の雲」も訳した。だが当時の考えは、虐待された者の苦しみを伝え、中国人に呼びかけて、強権者に対する憎悪を激発しようとしただけで、「芸術の宮殿」から手を伸ばして、海外の珍しい草花を抜いてきて中国の芸苑に移植しようとしたのではない。日本語の「桃色の雲」の出版は江口氏の文章もあったが、検査機関(警察庁?)に多くの部分を削られていた。私の訳文は削られてないが、この脚本が出版された時は載せなかった。その時私はまた別の状況を見、別のことを考え、中国人の憤怒の火にさらに薪を添えようとは思わなかった。
4.
 孔子曰く:「己に如かざるものを友とするなかれ」と。この様な功利的な考え方は、現在、世界的にも大変多い。自分の国の状況を見れば、実はそんな友はなかなかいないことが分かる。いないだけでなく、大半はほとんど仇敵だった。甲を仇としていた時、乙に公正な論を仰ぎ、その後乙を仇とした時、甲に同情を期待する。従って一段ごとにみれば、全世界がすべて怨敵とは限らない。然し怨敵は常に一人はいて、1-2年ごとに愛国者はどうしても敵に対する怨恨と墳念を鼓舞しようとする。
これも今や極普通の事で、この国は彼の国を敵とするとき、まず手段を使って、国民の敵愾心を扇動し、彼らが一緒になって防御や攻撃に向かう。但し、ひとつ必要条件があり、即ち:国民が勇敢なこと。勇敢で勇んで前進し、強敵に立ち向かい、仇を打って、怨みを晴らす。怯弱な人民は如何に鼓舞しても、強敵に向かおうと決心しない:しかし点じられた憤怒の火は残っているが、それをはき出す先を見つけねばならず、ある地方が彼らより弱い民だとみると、同胞か異民族かは問わない。
 中国人がためこんだ憤怒はもう大変な物で、それは勿論強者から蹂躙を受けたからだ。だが彼等は強者にはあまり反抗せず、弱者の方にそれを向け、兵隊と匪賊の間では戦わず、銃砲を持たない民が兵匪から苦しみを受ける。これが最近の証拠だ。もっと露骨に言えば、そういう連中の卑怯さを証明している。
卑怯な連中は万丈の憤怒の火で、弱い草以外なにを焼けるというのか?
 或いはこう言う人もいる。我々は今人々の憤怒を外敵に向けさせ、自国人とは関係なくすれば、それで害を受ける事は無い。だがこの方向を変えるのは極めて簡単で、自国人とはいえ、憤怒を晴らす時は、一種の特異な名を付け、自由に刃を突き付ける。先ず異端、妖人、奸党、逆徒などの名だが、今は国賊、漢奸、西洋かぶれ洋狗洋奴だ。庚子の年、義和団が路上で人を捉え、勝手に教徒だとし、その鉄の証は彼の神通眼でその男の顔に「十字架」が見えた、と。
 然し、我々は「己に如かざるものを友とするなかれ」というこの世で、自国民を激発する他に、彼等に火花を散らせて、些かその場に適応させるほかに何か良い方法があるだろうか?だが我々は上記の理由で、更に一歩進めて、火のついた青年達に望みたい。群衆に対して、彼等の公憤を呼び起こした後、更に手を尽くして、強い勇気を注ぎ込み、彼等の気持ちを鼓舞する時には、はっきりした形で理性を以て啓発しなければならない:そしてまた勇気と理性を重んじて、継続して何年も訓練してゆく。この呼び声は断乎として賊を殺せという宣戦には及ばないだろう。しかし私はこれがより喫緊のことで、より困難だが偉大な任務だと思う。
 それでなければ、歴史が我々に教えるのは、災に会うのは敵ではなく、自分の同胞と子孫だということだ。その結果、却って敵に先制され、敵はこの国の所謂強者に対する勝者で、同時に弱者の恩人となるのだ。自分達はすでに互いに残酷に殺し合っており、たまった怨念憤慨はみな消えてしまっており、天下も泰平の盛世となっているからだ。
 要するに、私は国民に智が無く、勇気も無く、単に一種の所謂「気」に頼っているだけでは、実際は非常に危険だと思う。今、更に一歩進んでより堅実な任務に着手すべきだと思う。
       1925年6月16日

訳者雑感:魯迅は異民族たる満州人(清朝)を打倒して、漢族の政府を樹立したときの辛亥革命前後のことをいろいろ思いだして書いている。
威勢のいい文章やスローガンで敵を打倒しろと掛け声だけは勇ましいが、結局は前には進まない。やっと辛亥革命が成功したやに思われたが、すぐ南北の同族同士の争いになって、清朝皇帝も北京に残ることとなり、仇打ちを徹底的にすることは無かった。それが中途半端な状態で、各地に軍閥が跋扈して分裂状態が続いた。これがその後に現れた日本によって所謂傀儡政権や満州国建国となって、45年まで不幸な戦乱が続くことになってしまった。
    2015/09/07記

 

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灯下の漫談2

灯下の漫談2
二。
 但し、中国固有文明を称賛する人が増え、外国人もほめるが、いつも思うのだが、中国に来て、中国を心底憎み憎悪するなら、私は敢えて誠心から感謝の気持ちを捧げよう。彼はきっと中国人の肉を食いたいと思わないに違いないから!
 鶴見佑輔氏は「北京の魅力」の中で、ある白人が中国に来て、暫く――1年済む予定だったが、5年後もまだ北京にいて、帰りたくない由。ある日彼等2人で夕食をし、「丸いマホガニーの卓に坐って、次々に供される山海の珍味を食べ、骨董から絵画、政治談議を始める。電灯には中国式の笠がつけられ、淡い光が古物を陳列せる部屋に並んでいる。無産階級、Proletariatなどどこ吹く風のことか、と。
 『私は支那の生活の雰囲気に陶酔し、ある面で外人の感じる「魅力」についていろいろ考えてみた。元(モンゴル)人も支那を征服したが、漢人の生活の美に征服された:満州人も支那を征服したが、漢人の生活の美に征服された。今の西洋人も同じで、口ではDemocracyとか何とか言っているが、支那人が六千年かけて築き上げた生活の美に魅了されている。一度北京に住むと、その生活の味を忘れられぬ。強風が吹いて万丈の砂埃、三か月毎の督軍たちの戦争ごっこもこの支那生活の魅力を消す事は出来ない』
 このような話を私は今否定する力は無い。我々の古聖先賢は我々に古い物を保存せよとの格言を残してくれたが、同時に子女と財宝で、征服者への大宴を手配するようにしておいたのだ。中国人の辛抱強さ、子の多さ、いずれも宴席の準備に欠かせぬもので、これまでは我々の愛国者の自慢だった。西洋人が初めて中国に来た時は、野蛮な夷人と呼んで眉をひそめるのを免れなかったが、今や時機はすでに熟し、我々がかつて北魏に献じ、金や元、清に献じた盛宴を彼等に献じる時が来た。外出するには車で、それにガードがつき:通行止めでも自由に通り:賊にあっても必ず賠償させ:(賊の)孫美瑤は彼等を捕まえて、軍の前に(人質として)立たせて、官兵が発砲できなくさせた。豪華な部屋で盛宴を楽しんでいる時はなお更である。盛宴を享受するようになるのは、当然中国固有文明を称賛する頃となる:ただ、我々の楽観的愛国者は多分、却って欣然と喜色を示し、彼らが中国に同化され始めたと思うだろう。古人はかつて女人を以て一時しのぎの城を築き、自ら欺いてそれを美しい名で「和親」とした。今人は子女と財宝で奴隷の引き出物としている。そしてその美名を「同化」と呼ぶ。だから、もし外国の誰もが宴会に参加する資格を有する現在は、更に言えば、我々のために中国の現状を呪詛するものは、それこそ本当に良心のある敬服すべき人だ!
 しかし我々自身早くからすでに手を打っていて、貴賤・大小・上下をつけてきた。人に凌虐されるが、他の人を凌虐することができ:人に食われるが、他の人を食う事も出来る。一級、一級と級分けし、それを動かせないし、動かそうとも思わない。もし動かしたら有利になるかも知れぬが、弊害も出る。我々は暫く古人の良法と善意を見習う事だ――天に十干の日があり、人に十等あり。下は上に仕え、上は神に共す(つかえる)。故に王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、(中略:十等級あり)…僕の臣は台である。(「左伝」昭公7年)
 だが台には臣がいない。とても辛いではないか?心配ご無用。彼より卑な妻やより弱い子がいる。そしてその子にも望みがあり、成長したら「台」となり、同じ様に卑弱な妻子を持ち、自由にできるのだ。このような連環で夫々が所を得るので、敢えて非議をしようとすると、分に安んじないという罪名を被せられるのだ!
 古いことで、昭公7年は今からみるととても遼遠だが、「復古家」は悲観することは無い。泰平の現象はまだあり:常に兵火があり、水害と旱魃があるが、一体誰がその泣き叫ぶ声を聞いたか?殴る者は殴り、革(首にする)す者は革しても、処士の誰かこれに対して自由に議論できる者がいるだろうか?国民に対してこれほど専横で、外人に対しては媚びるのも、やはり差別の遺風ではないか?中国固有の文明もその実、けっして共和の2字の中に埋没しておらず、満州人が退場しただけで、以前と余り変わりはない。
 それ故、今でもまだ各式各様の宴を目にすることができる。焼肉、フカヒレの宴席から、通常食、西洋料理に至るまで。だが茅葺の軒下にも粗食あり、路傍には残されたスープ、野には餓死者の屍もある:焼肉を食べる身分の高い金持ちがいる一方、餓えて死にそうな1斤8文で売られる子もいる。(「現代評論」21号参照)所謂中国文明とはその実、この人肉を宴席に供する厨房にすぎない。
知らないで称賛するのは恕(ゆる)すが、そうでない者は永久に呪詛すべし。
 外人でそれを知らずに称賛する者は恕せるが:高位にいて、優雅に暮らし、それで蠱惑されてしまって、魂が曇って賛嘆する者もまだ恕せる。しかし、これ以外に2種あり、一つは中国人を劣種とみなし、ただすべて元のようにやるしか能がないから、故意に中国の古物を称賛するもの。もう一つは世界は色々違ったものがあるから、自分の興味で見聞を増やそうとし、中国に来て弁髪を見、日本では下駄を、高麗では笠を見る為で、もし同じ服装なら味も素っけもないものになるから、アジアの欧化に反対という。これらは皆憎むべきだ。
ラッセルが西湖に来た時、駕籠かきが(真夏にきつい山坂を登って山頂に着いた時に休憩したら、彼等は坐り込んでタバコを吸いながら、何の憂慮もないように:出版社注)微笑するの見て、中国人を褒めているのは、多分彼には別の考えがあるのかもしれない。だが駕籠かきがもし乗客に向かって微笑しなくてもすむようになったら、中国もとうに今の様な状態ではなくなっていただろう。
 この文明は外国人を陶酔させるだけでなく、早くから中国の全ての人を陶酔させ、微笑させてきた。古代から伝来してきたため、今でも多くの差別が有り、人を分離させ、他の人の苦痛を感じさせなくした;更には、自分は他の人を使役することができ、他の人の希望を食い、自分も同じように奴隷として将来を食われることを忘れている。それで大小の無数の人肉の宴席があり、文明が生まれて以来、ずっと今日に至っている。人々はこの(宴)会場で人を食い、食われ、凶人の愚妄な歓呼が、悲惨な弱者の声をさえぎっている。これは女や子供についても言うまでもなく同じだ。
 この人肉の宴席は今もまだ設けられ、多くの人はずっと設け続けると思う。こうした食人者を掃蕩し、こうした宴席をぶっ壊し、この厨房を破壊するのは、現在の青年の使命だ!
    1925年4月29日

訳者雑感:
 非常につらい仕事の苦痛にも耐え、何のくったくもなく、仲間とタバコを吸いながら、外人の顧客に笑みをみせる。ラッセルはそれを褒めているが、どういう考えなのだろう。分に安んじで何の憂慮も感じず、与えられた職業を続ける。それが長い長い、中国古来からの伝統なのだ、という。
 魯迅はそれを人が人を食う「礼教の社会」だと考え、「狂人日記」に書いた。
そうした人肉を食う宴席をぶっ壊し、食人者を掃蕩するのが青年の使命だ、と
いう。この時魯迅は40代半ば、自分もその青年の中に入れているのだろう。
    2015/08/28記

 
 


 

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灯下の漫談

灯下の漫談
一。
 ある時、民国2-3年の頃、北京の数行の国営銀行の紙幣の信用が日に日に高まった。これまで現銀すら躊躇していた田舎の人も、これは便利で信用できるから、と喜んで受け取り使うようになったと聞いた。些か事情に詳しい人、必ずしも「特殊知識階級」とは限らぬが、とっくに、重くてずっしりとした銀を懐中にいれて、重い目をみることもなくなった。思えば、銀貨に特別の嗜好と愛情を持つ一部の人以外、殆どの人は紙幣を持ち、それも自国のものだった。 だが後に突然大きな打撃を受けることになった。
 それは即ち袁世凱が皇帝になろうとしたあの年、蔡松坡氏が北京を逃れ雲南で兵を挙げた時だ。これが影響の一つで、中国銀行と交通銀行が兌換を停止した。兌換は停止したが、政令で、商民が旧行の札を使うようにとの威力はまだあった:商民も自ら本領を有していて、受け取らぬとは言わず、お釣りが無いとか言った。数十、数百元札を手に物を買おうにも、どうしたらよいか分からなかった。筆やタバコを一つ買うのに、まさか一元札で払うのか?そんなことをしたら堪らない。それだけでなく、そんな沢山の一元札も無い。それで少し銅銭に換えようと思ったが、どこも銅銭は無い。それで親戚友人に現金を借りようとしたが、どこもそんなものが有るはずもない。それで望みを格下げして、愛国はもうやめて、外国札を探した。が、外国の札は当時現銀に等しく、お金を貸してくれるとしても、銀貨を貸してくれるのだった。
今も覚えているが、当時私の懐にはまだ30-40元の中国銀と交通銀の札があったが、突然貧乏人になり、殆ど絶食のはめになり、恐慌をきたした。ロシア革命後のルーブル紙幣を持っていた金持ちの心境も多分こうだっただろうか?まあこれよりずっと深刻だったに過ぎまい。紙幣をどこかで割り引き換金してくれるところを探しまわった。幸運にも闇市で:6割ちょっとで換えてくれた。とてもうれしくて、半分ほど換えた。その後また7割になり、さらにうれしくなって、全て換えた。そしたらズシリと懐に沈んで、どうやらこれが命の重さだと思った。平時なら、両替店で銅銭一文でも少ないと文句を付けたのだが。
 だがひと包みの現銀を懐に入れると、ずしりとして安心し、うれしい時は突然また別のことを考え出す、即ち:我々はいとも簡単に奴隷に変われるし、変わった後、なおそれを喜んでいるということだ。
 もしある強制力で以て「人を人と看做さぬ」人と看做さぬのみならず、牛馬にも及ばず、物の数にもはいらぬとしたら:人が牛馬を羨み、「離散家族の人は、泰平な世の狗にも及ばぬ」と嘆息するようになると、略牛馬を等しい値段を付けられ、元の法律が定めたように、他人の奴隷を殺したら、牛一頭で賠償するとしたら、人は心から喜び、誠実に服従し、泰平の世を恭しく仰ぐ。なぜか?彼は人の数には入れられないが、牛馬に等しいのだから。
 我々は恭しく「欽定二十四史」を読む必要もないし、研究室に入って、精神文明の高揚を審査する必要もない。ただ、子供の読む「鑑略」をぱらりと――それも面倒なら「歴代紀元編」を見れば「三千余年の古国中の古い国」中華波、暦代やってきたことは、つまらぬ芸当に過ぎぬ事がわかる。ただ最近編集された所謂「歴史教科書」的な本は、読んでもよく分からぬがどうやら:我々はこれまで、良くやって来たと言いたいらしい。
 だが実際は中国人はこれまで「人」の価値を勝ち取ったことは無く、せいぜい奴隷に過ぎず、今なおそうだが、奴隷以下の時も多かった。中国の民は中立で、戦時に自分はどちらに属しているか知らない。勿論どちらにも属していた。
賊が来ると官に属しているとして殺され掠奪された:官兵が来たら、本来はみかたのはずだが、やはり殺され、賊の方に属しているとみなされた様だ。こう言う時、民はしっかり定まった主を持ちたいと思い、自分達を民として扱ってくれるように――それがいやなら、牛馬として扱ってくれれば、自分で草を探して食べるから、と。只、彼が民にどう進めば良いかを指示するように求めた。
 もし本当に誰かが彼等の為に決めることができ、何々とかいう奴隷規則を作ってくれたら当然「皇恩無窮」となる。残念だが暫時誰もそれを決められぬ時があった。最たるものは、五胡十六国の時のように、黄巣の時、五代の時、宋末、元末の時のように、民は通常の服役、年貢上納のほかに、思いもよらぬ災厄を受けた。張献忠の疳癪はとても不可解で、服役と年貢上納をせぬ者を殺し、服役し年貢上納した者も殺し、敵対する者は殺し、降参した者も殺した。この時、人々は他の主の現れるのを望んだ。彼等の奴隷規則を比較的大事に扱ってくれ、無論古いままでも良いし、新しいものでも、要するにある種の規則を作ってくれて、彼らが元の奴隷の軌道に乗せてくれれば良いのだ。
 「(夏の傑の暴政の)日もいずれ滅びん、我も汝とともに滅びん!」というのは憤慨しているだけで、それを決心し実行した者は少ない。実際、大概は群盗が麻の如く乱立し、戦乱が極まった後、より強い聡明で狡猾な、或いは異民族が登場し、比較的秩序だって天下を治める。規則を決め:どう服役、年貢上納させるか、どの様にお辞儀をして、どの様に聖王を仰ぐか。更にその規則は今のように朝三暮四ではない。で「万民歓呼」し:成語の「天下泰平」となる。
 貴方が尊敬する学者が歴史を編集する時どんなカッコよい言葉で、「漢族発祥時代」とか「漢族発展時代」「漢族中興時代」とかと称するのは一向構わないし、好意は誠に感ずるものはあるが、措辞は如何にも回りくどい。もっと直截な適切な言い方があり、それは――
 一。奴隷になりたくてもなれなかった時代。
 二。暫時おだやかに奴隷でおれた時代。
 この循環は先儒のいう「一治一乱」(孟子の言)で:その乱を起こした人物は後日の「臣民」からは「主」の為に道を清め、路を拓いたから「聖天子の為に駆除せり云々」となる。
 現代人はどの時代にいるのか、私もわからない。ただ、国学者が国粋を崇奉し、文学者が固有文明を賛嘆し、道学者が復古に熱心なのを見ると、現状に対してみな不満だと言うのがわかる。しかし我々は畢竟どの方向に向かっているのか?人々はわけのわからない戦争に巻き込まれると、少し金のある者は租界に逃げ込み、女子供は教会に行く。そこら辺は比較的「安全」な故で、暫時奴隷になろうとしてもなれないということにはならぬからだ。要は、復古や避難するのは、智者や愚者、賢者、不肖の関係なく、どうやら三百年前の泰平の世にあこがれ、暫時「安全に奴隷でいられる時代」に向かっているようだ。
 但し、我々も古人と同じく、永久に「古(いにしえ)より既にこれあり」に満足しておられる時代だろうか?みな復古家と同様、現在に不満で、三百年前の泰平の盛世に希望を持って行けるだろうか?
 勿論、現在にも不満だが、顧みるまでも無く、我々の前には道があるのだから。中国の歴史でかつて無かった第三の時代を創造するのが現在の青年の使命なのだ!

訳者雑感:これは前篇で後篇があるのだが、一区切りつけておく。
 1925年の中国には、これまでの2種類の時代から脱却して第3の時代を創造せねば、永久に所謂「循環論」に陥ってしまう。その危機をどの様に乗り切るか、はたまた開拓して行くか?これは魯迅の永遠の課題である。
 ロシア人のためにスパイをしたという中国人が日本兵に処刑されるのを大勢の中国人同胞が「うれしそうな顔をして」見物している。
 「阿Q正伝」や他の作品のなかでも、処刑(斬首)される布告を見ると、沢山の見物人が通りをうめるほどで、刑場の広場は満員となる。
 奴隷になれなかった時代より、暫く安全に奴隷でいられることに満足してそれ以上を望まない人々。それを改造するのは青年の力しかないのである。
     2015/08/21記


 

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