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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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2)「京の小窓」


 1.京の小窓
大仏次郎が晩年、神奈川新聞に寄せていた随筆の一節が興味をひいた。「ちいさい隅」と題して、数年間の連載からいくつかを選んでいる。絵葉書にのらないような街角の「ちいさい隅」の印象を語っている。彼が若いころに住んだことのあるパリの平凡な町の一角に、棒のように長い形のパンを買って抱えてくる老婆の影が鮮やかに残る、と。日本に帰って暮らしていて、よく見るパリはまったく取るに足らぬ町の、どこかの姿だ、と書いている。
  日本でも京都を訪れた折、そぞろ歩きした時に目にとまったちいさな隅を取り上げている。そんな中から、「京の小窓」という小品がとても清清しい印象を与えてくれた。40年以上も前に書かれたものだが、私が住むようになった昨今でも、彼が見たのではないかと思われるような小窓が、そのままあるのがうれしい。仏光寺通りや綾小路通りなど、四条通りなどの繁華な通りから一歩、足を踏み入れた途端、人通りは少なくなり、静かなたたずまいを見せる。
  何の変哲もない普通の古びた町家の一角に、ガラス一枚分ほどの小窓をしつらえ、小物や一輪ざしの花をひっそりと置いている。京人形、袋もの、大きな薬缶、大原女の人形、急須など。その家ではこれらの品物の一部に、細工を施しているのであろう。家の奥のほうで手仕事をしている職人の音が聞こえるところもある。
  彼はその品を買いたくなり、木戸をあけてあの窓に出ているものが欲しい、と申し入れた。「あれは手前どもでは細工しておりますだけで、品物は三条のこれこれの店にお願い申してありますから、ご迷惑でもあちらさまへご足労くださいまして」と礼儀正しく断られる場合がまれでないと。
  大仏次郎が眺めた小窓は今も残っていて、この手仕事が受け継がれて、代々このような小窓に伝ってゆくと思う。ただ、こうした小路にも、大路からはみでてきた自動車が、近道をしようとして、警笛を鳴らしながら、闖入してくるのには閉口する。やはり京の小窓は、そぞろ歩きを楽しめる小路にこそふさわしい。
2.三歩一廟七歩寺
中国から来た友人が、京都のことをパソコンで調べてきたのが表題である。
京には神社仏閣がいっぱいある。三歩あるけば廟に出会い、七歩すすめば、寺に会うということだ。住まいの近くを歩いてみて、天神さんやお稲荷さん、それに熊野さんや住吉さんなど全国的にも有名な神社の祠が、町家と町家の間の狭い所にひっそりとある。京都に越す前の印象では、京都はお寺さんの町で、神社よりも寺の方が圧倒的に多いだろうと思っていた。
だが、中国版ヤフーの表現によれば、寺の数より廟の方が多いとなる。
廟というのは、お寺以外の祠の全てを指すとすると、路地の隅や家の前にあるお地蔵さんやお稲荷さんなど、確かに寺より多い気がする。
かつては京の下町のあちこちにも、たくさんの寺があったそうだが、秀吉が御土居を築いて、京をにぎやかにしようとした時、多くの寺を御土居の外に追い出した結果だそうだ。それで、現在では繁華街になった新京極とか寺町通りとかにお寺が集中しているのだという。寺が御土居の外に移されてしまったので、町民たちは、家の近くに、めいめいが小さな祠を作って、地蔵尊などを祭ったのだろうか。家の角を削って、そこかしこに卍のついた祠を建てている。      先祖代々からの祠だから、毎朝、おばあさんは孫を、親は子を連れ、花や線香を供え、合掌する。それが習い性となっているから、毎日お参りしないと気がやすまらない。
出勤の途中、何人もの人が祠を洗い清めながら、お参りしている姿を目にする。葬儀などは遠くに引っ越してしまった寺にお世話にならねばならないが、日々の暮らしでは氏神さんに拍手をうち、お地蔵さんに合掌することで安心安寧を得ている。
3.京都、バリ、バンコック
日本、中国、韓国、アセアン諸国などの中で、京都・バリ・バンコックの3都市の共通点を挙げよと言われれば、「祈り」だと思う。庶民は家のすぐ近くに小さな祠を作り、毎日お供えを欠かさず、朝夕の祈りをささげる。中国版の京都旅行案内に「三歩あるくと廟に出会い、七歩あるけば寺に着く。」とある。
中国人の言う「廟」というのは、立派な伽藍を持った大きな寺院のことも指すだろうが、町中にある、小さな祠のこともさすのではないだろうか。その小さな祠には、立派な赤銅の屋根の下に地蔵尊が祭られている。そうではなくて、屋根もないような質素な祠に、目も鼻もかけてしまった、輪郭の無い石の地蔵さんが白い前掛けをしているのも見受ける。大日如来や阿弥陀さまもいる。
  いずれの祠にもかならず日ごとのお供えがある。夏には大きな西瓜がまるごと供えられていたりする。東京あたりだと、カラスが来てすぐ失敬してしまいそうだが、人家がびっしりと立て込んでいるのと、上空にはトンビなどが飛んでいたりして、カラスがお供えを食い散らす心配はない。暑い日も寒い日も、水をかけ雑巾でしっかり拭いたあと、線香を上げて祈る。親が子どもに、線香の火のつけ方、供え方を教えている。
  バンコックの町にも、家々の角に小さな祠があり、そこに炊きたての白飯がバナナの皮にお供えされ、熱帯の花も活けられ、若い娘が敬虔にお祈りする姿を見かける。托鉢の僧にもよく出会う。黄色い袈裟がまばゆい。
  バリの家の近くにもバンコックと似たような食べ物と生花が供えられ、お祈りする姿が隅隅に見られる。室町時代の祠のようなイメージで、丈の高い笹竹の葉がざわざわと揺れる。バリには芸術的な石像が各所にあり、阿吽のポーズをとるもの。啖呵をきるしぐさとその表情がたいへん魅力的だ。
 他の町にもあるのだろうが、この3都市の下町を歩く時ほど、こんなに多くの祠とそれを大切に御参りする人々を知らない。千年以上もの長い年月を経て、代々受け継がれてきた祈りの伝統なのだろうか。親が祈る姿を見て、子どもが真似る。子どもは、親の年代になったら、それを自分の子に引き継ぐ。
  東アジアのモンスーン地帯から熱帯にかけての風習なのだろうか。中国大陸でも福建や広東、それに台湾などでもかつては似たような風習があったのではないだろうか。春節の前後には、各地の廟や観や寺に沢山の庶民が訪れ、太くてでかい香を供えるので、境内中が煙濛々となる。寺男がまだ煙っている香を次から次へと抜いてゆく。それを入れる大きな桶がすぐ一杯になる。お参りに来る人たちは、遠方なので、そうそうはお参りに来られない。1年分を一時に供えるのであろうか。紙銭も、抱えきれぬほどの束を次から次へと竈(くど)に薪を放るように燃やす。後ろに順番を待つ人が並ぶ。
4.京の豆腐売り
夕方仕事を終えて、路地を歩いていたら、懐かしい声が聞こえてきた。
運搬用自転車の後ろに細身のリヤカーを曳きながら、「とーーふーー、
とーーふうー」とラッパを鳴らす音だ。子供の頃に聞いて以来の音を、ここではまだ聞くことができる。
曳いているのは、老境に入りかかった男で、グレーの仕事着の格好である。懐かしさも手伝って、一丁買った。普段スーパーで買うパックに入ったものの3倍ほどの大きさと値段である。今晩は昆布だしの湯豆腐でいっぱいやろうと思う。豆腐は湯が沸騰してからおもむろに入れるとうまい。
豆腐屋のある南北の通りは、地下水が豊富で、代々豆腐作りをしてきて、当人も親が引退してしまったので、こうしてリヤカーを曳き始めたという。暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、夕刻には決まりのコースを行商するのだと。
これも地下水が豊富だからできるので、高層マンションの工事などで、地下水脈が絶えたら、この商売もおしまいで、それが心配の種だという。
この周辺には、なお生産を続けている友禅の染工場も、このところの着物離れに加えて、やはり地下鉄工事の影響で、水脈が絶たれて廃業に追い込まれたところがある。どうしてかなあ,と素朴な質問をしたら、そんなことも知らないのかと呆れられながら、「染めはねえ、水道の水では色が出ないんだよ」と教えてくれた。浄水用の薬品処理された水では、地下水のような良い色が出ぬという。豆腐も同じことだそうだ。そうか地下水で作るから、京の豆腐はおいしいのかと今頃さとった。
 中国の作家茅盾が、京都に住んでいた頃のことに触れた作品に、晩秋の夕暮れどきに、豆腐売りのラッパの音が、彼の下宿の2階に聞こえてきて、望郷の思いにかられたくだりがあったことを、突然思い出した。彼が京都にいたのは戦争の始まる前、80年近く昔のことだ。そのころのラッパの音は今と何も変わっていないと思う。初夏と晩秋の夕暮れどきとでは、聞く者の心の方はおおいに異なるだろう。ましてや異国で聞く豆腐屋の音が、故郷の音に似ていては。
5.タバコ屋の看板娘
タバコを吸わなくなって、もう長い。夜更けて、帰宅の途次、ポケットの中のタバコの残りが少ないのに気づいて、タバコの自販機を探すことも無くなった。精神衛生上きわめて良い。  
京に住んで、もはやタバコに関心を寄せることは何も無いのだが、小路の角に、東京近郊では今やほとんど見かけなくなった、2枚のスライド式のガラス窓を開け閉めする、昔ながらのタバコ屋が、何軒も商売を続けているのが郷愁を誘った。店の横には、40年ほど昔のジュークボックス型の自動販売機が取り払われずにある。建物に組み込まれた形なので、おいそれと新型には切り替えにくいのだ。
ガラス窓の向こうには、昔のような看板娘はいないが、部屋の奥のほうで昔娘だった人がテレビを見ている。もうタバコを手渡しで売ることは無いのだが、ライターやガムなどの小物を置いている。自販機に入らない高額の洋モクやパイプ用などは、手ずから売るのだ。
京の下町に住んで半年、町家には息子夫婦が郊外に引っ越してしまった後も、老夫婦あるいは婦人一人で昔ながらの店を守っている人の多いのを知った。先の地蔵盆でも学生時代の印象では、天幕の下で、はしゃぎまわる子供たちのにぎやかなざわめきが、本当に楽しそうであった。こういう風習のない土地に育ったものとして、うらやましく眺めていたことを思い出した。
子供たちが、にわか作りの舞台で、学芸会のような出し物を演じたり、褒美のおもちゃやお菓子をくじで当てたりして、うれしそうであった。今では地蔵盆はほとんどが大人たちだけで、それも60歳以上の過去のノスタルジーから、自分たちが元気なうちは、絶えさせたくないとの気持ちが支えている。郊外に越した子たちの孫がこのために帰ってくることはない。京の知人が私に語ったことばが印象に残った。郊外に越した人たちも、親があの世に行ったら又戻ってくるのだが、元気なうちは別々さ、と。
6.京大根
京の大根は漬物も有名だが、煮(たい)てもとても美味しい。
中国が今日のように改革開放される前は、バーもカラオケも何も無かった。駐在員たちは夕食が終わると他にすることも無いから、駐在経験の長い先輩の話を酒の肴に、長い冬の夜を過ごした。
 酔いが回ってくるとつい尾篭な話になる。これから紹介するのは、中国の文化大革命のころの解放軍の話だ。素朴な木綿の軍服で、規律正しく毛主席に忠誠を誓っていたころだ。話と言うのは、その解放軍の小便についてである。その頃、尿素が肌に良いと喧伝され、その薬用効果が注目された結果、世界中で引っ張りだこになった。水洗が普及するまでは、欧米諸国でも軍隊などの便所から、良質の尿素が取れたのだが、水洗の普及とともに、良い安定供給ソースが減ってきた。
 70年代に入ると、世界中で水洗化が一段と進展した。団体生活の軍隊のような施設から、尿素を安定確保することが困難になった。一般家庭からのは、大小混合が多いし、一戸ずつでは効率が悪い。やはり安定的かつ大量に確保しようとしたら軍隊から調達するのが一番だ。
 それで、話はこう展開する。世界的に尿素が不足してきた為、さる筋が中国の解放軍に輸出を打診してきた。当時の解放軍は軍律厳しく、病原菌の汚染も低いとされてきた。かなり高い値段の提示があったそうだ。が、話は結局まとまらなかった。
なぜか。
文化大革命では、自力更生という毛沢東のスローガンがすべてに優先した。敵が攻め込んできても、外部の食料や物資に依存することなく、自力ですべてをまかなえるようにとの仕組みだ。解放軍では自分で田畑を耕し、米麦はむろんのこと、豆腐から衣服まで軍隊内で作って自給自足の体制を築いてきた。尿の中のアンモニアはこの自給自足の根幹をなす大切な源「肥料」なのだ。これが途切れたら、米も野菜も取れなくなる。なるほど。と、水洗トイレで育った連中が先輩の話に感嘆する。
 松田道雄の作品で読んだのだと思う。彼が子どもの頃、京では鹿ケ谷辺りから農民が大根を積んでやってきて、小水と交換して行くのを見たそうだ。そのための桶が、小路の塀の脇に据えてあった。女性も丈の高いその専用容器、小便担桶に、後ろ向きの立姿でしているのを見たと。桶一杯で大根3本と交換されたそうだ。
量が足りないと、農民の方から文句がで、通行人に協力を呼びかける。道中膝栗毛の作者も興を催したか、道端でのやり取りを見て、ヤジさんかキタさんに、その場で協力させている。江戸では、青梅街道を奥多摩の石灰と野菜が江戸町民の排泄した大小の混合と引き換えに、大八車で運ばれたそうだ。小便のみということは奇妙に感じたのだろう。大根などの京野菜は、小水だけで、今日の味とつやができたそうだ。なるほど、人の肌をすべすべさせる尿素の効用を、京の近郊農民は江戸の昔から知っていたのだろう。
7.河畔の教会
以前、欧州やその植民地だった都市の教会の多くが河の畔にあると聞いた。それについてイタリアに暮らしたことのある友人が教えてくれた。イタリア人は河の畔に教会を建てるのは、河の対岸に別天地があると考えたからだ、と。そこに渡ることへの憧れ、彼岸への憧憬から河の畔に教会が建てられた。そこに全国から通ずる道ができ橋が架けられた。参拝者が増えて、道が拡幅され、橋も石造の立派なものに架け替えられた。馬車の代わりに鉄道が敷かれるようになると、門前駅ができたのだと言う。
 バチカンのあの巨大なサンピエトロ寺院も初めは小さなものだったに違いない。キリスト教が盛んになって、全欧州の信者が訪れるようになり、寄付が集められてあの1日ではとても回りきれないほどの巨大な寺院が建てられた。寺院が巨大で広壮になればなるほど、参拝者や観光客が増える。そこで寄付金が寄せられて、更に大きな伽藍が建てられる。法王や僧正は在位中に伽藍が立派に修復されるように精励する。全世界の信者がいかに彼を慕って喜捨をしたかの証として。寂れ果てて、やがて朽ちてしまう小さな寺でその生を終える者と、修復や大改造を竣工させた大僧正との違いはどこにあるのだろうか。
  人間はどれだけ多くの人に影響を与えたかでその生の価値が判断される。作家や哲学者、芸術家はその通りだろう。それが宗教界でも同じだとすると、より沢山の信者たちから尊崇されて、在位中に広壮な伽藍が建てられることが、宗教家としての値打ちというか、死後の名声に繋がるのだと信じているのであろうか。終身その地位にいられるというのが至福なのであろうか。
 京の寺は、下町ではせまい境内すら駐車場にしているところが多い。一方、山麓の大伽藍はきれいな白壁と太い柱に、立派な甍を誇る。世界からの観光客の拝観料と全国の末寺の参詣者からのお布施で清楚な美しさを保ちながら、訪れた人たちに安らかな気持ちを与えている。副業での収入に精を出すのと、敬虔な信仰との間には大きなへだたりと違和感がある。
8.ギャーティ ギャーティ
河畔の教会の話をしていたら、京の友人が面白いねと彼の話を語りだした。
 「天竜寺や建仁寺なども桂川や鴨川の畔にあるよね」
 「おまけにすぐ横に渡月橋とか四条大橋が架かっているよ」
天竜寺には阪急や嵐電の嵐山駅があり、建仁寺には阪急京阪の四条駅。東京の浅草観音も隅田川の畔で大橋と東武の駅がすぐ前にある。そんなとりとめも無いことをだべりながら呑んでいたら、ドイツ語の得意なKさんがやってきた。
 ドイツではねえ、ベルリンやコロンなど駅前に大きな教会があってそこが晴れの場で多くの人が集まるのさ。そしてね、駅裏には岡場所というか赤い灯青い灯の街がきまってあるのさ。教会のミサに集まる人、そのあとで彼岸に行く人、いろいろさ。なるほどねえ。
 江戸の頃から、お伊勢参りや浅草観音詣での後はお神酒がでて精進落とし。勢い弾んで脱線する。そして彼岸に遊んで浮世の憂さを忘れる。美味しいもの食べて、脱線できることも庶民の多く集まる仕掛けかもしれない。そんな仕組みが、何百年の間に自然に出来上がってきたのかな。京都でも建仁寺のすぐ隣が祇園の花見小路だし、北野天満宮の東隣には上七軒の花街がある。つい数十年前まで本願寺からさほど遠くないところに島原があったし、浅草には吉原。
  人間の智恵なのだろう。般若心経に云う。羯諦羯諦。行こう行こう、ともに手を携えて。ご利益(りやく)のある神社仏閣に詣でるときっといいことがある。お参りの後は般若湯をいただいて、ともに「彼岸」へ行こうじゃないか。お参りに行けば、救われるのだ。
 イラクのファルージャの塹壕で武者震いしている米兵の顔が強く目に焼きついた。殺戮の前線に立って、「敵を殺すことに興奮してわくわくしている」との言動。そんな精神状態に自らを追い込まないと、とてもやりきれない。彼らを一刻も早く、ドイツの駅裏の赤い灯のところへ連れていってやりたい。プレスリーのGIブルースを聞かせながら。
9.京の打ち水
京の町家は夏を如何に涼しくしのぐかという発想から建てられている。うなぎの寝床のような長い建物の中ほどに、植え込みの庭を配す。そこに水を撒いて、その蒸発熱で表からの風を奥まで通す。家の前にも各戸がそれぞれ分担を決めたように朝夕の決まった時刻に打ち水をする。いまではバケツに柄杓ではなく、水道ホースの先に器具を取り付けて道路の向こうまで飛ばす。
 夏の間は朝出かけるとき、決められたように正確な時刻なので、目礼を交わしているうちに、知り合いになって挨拶をかわすほどになる。私が近づくと、ホースの先を植え込みや鉢植えの方に向けて待機していてくれる。早く通れというような素振りは見せない。うれしい気配りだ。私の住まいの大家さんも、毎朝家の前一帯に水を打ってきれいにしている。今年はいつまでも暑い日がつづいたから十月でもまだ水を打っていた。紅葉が始まり、東京で木枯らし一番が吹いてもまだ朝の打ち水は止めない。良く注意してみると、盛夏の頃ほどではないが、通りの両側で打ち水を日課にしているような男たちがいる。夏の盛りでも一切打ち水されない家がある一方、十一月の声を聞いても朝夕必ず打ち水をする家が、数軒に一軒ずつあるのに気づいた。
 それで職場の友人と昼食を食べながら、そんな話をしていた。それを小耳に挟んだ、土地の人が教えてくれた。京の男たちは、小さいときから親に与えられた日課として打ち水するのが習い性となってしまってね。冬でもホースを握って家の前に打ち水をしないと、一日が始まらないのさ。
「へえー」
確かにホースを握って打ち水しているのは、男に限られるようだ。欧州の名物、何とか小僧を連想させる。女性は、大抵は不要になった台所の水をバケツに入れて、柄杓で撒く姿が多い。水が豊富な京だからできることで、水不足の地域では考えられないことだ。箒で掃くより、打ち水で洗い流して清めるのが習慣になったようだ。京都は北大路と京都駅の東寺の塔の高さが同じだそうで、それだけの勾配を鴨川が、いくつもの段差を流れ落ちてゆく。
 京の街の地下には、幾筋もの地下水脈が河のように流れていて、町はその水流の上に浮かんでいるような格好だそうだ。上流で汲み上げた水を、打ち水でその地下水流に戻しているのだろうか。巨鯨池という湖のような池が伏見の南にあったが、干拓で陸になってしまった。その穴埋めをするかのように、地上に水を撒く。夏だけじゃなく冬でも。巨鯨池の弔いをしているようである。
10.始末屋の効用
京都人は先祖から伝わってきたものを大切に使う。「彼は始末屋だから。」とケチな人を非難しながら、無駄遣いする人を軽蔑する。舶来好き、あたらし物好きであると同時に、古さを自慢もする。コピーでも不要になった印刷物の裏側を使う会社が多い。紙が貴重品だった平安時代以来の伝統かも知れない。
 先日奈良の正倉院展に出かけた。朝十時でも、もう大変な人出だ。千円の入場券に加えて5百円の解説用のイヤホーンを借りる人も多い。めったに見られるものではないから、こうしたお金は節約しない。入場料に見合うだけの収穫をと、熱心に鑑賞する。
 解説を聞きながら、唐招提寺の鑑真和尚が東大寺の良弁宛に出した華厳経の借用書の文字を、熱心に読んでいる人の多いのに感動した。1,300年前の手紙が21世紀の一般人にも容易に判読できる簡明な楷書で書かれている。現在の活字より姿かたちがしっかりしている。ひらがなは無く、全て漢字である。だが、その後の仮名まじりの草書より、判読しやすい。
 説明文に「塵芥文書」と記されている。これらは、借用書として使われた後、塵芥となって役所で裏返しにされて徴税用の記録用紙として再利用されたものだそうだ。役所の記録だから、大切に保管された結果、後世の研究者が何だろうかと裏返して大発見。ビックリ仰天と相成った。
 今日ならシュレッダーにかけられ、処分されて何も残らない。奈良時代の役人たちの始末屋ぶりが功を奏した。他にも九州の役所の戸籍簿が展示されている。租庸調を奈良の都に納めさせるための閻魔帳である。この当時、都から遥か離れた地方にもこんなにしっかりした文字を書ける役人が何名もいたのだ。
同志社の森先生に依れば、都に納める物には必ず「どこそこの国の何々」という品名を書いた荷札というか、納品書のようなものが付いていたそうだ。木の札が多く、一部は破片が残っているが、殆どは朽ちたか燃料として燃やされてしまった。政府の徴税記録文書は無味乾燥で、ヤクタイも無いが、鑑真和尚が東大寺の良弁に対して唐から新着の「華厳経」を貸して欲しいと頼んでいる文書が、その裏で残されていたというのは、大変なことだと思う。
正倉院はシルクロードの東の終点といわれるが、日本国内の古文書の宝庫としての価値もすばらしいものだと思った。
文化は辺土に存す。とは日本やイギリスにぴったりの言葉だ。

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1) 「大連の山」

写真は大黒山 八十年前に大連で生まれた詩人清岡卓行は随筆「大連港で」の中で大和尚山について語っている。今は大黒山と呼ばれている開発区の奇妙な形の山だ。清岡は663Mの褶曲の激しい奇観を呈する山を大連市内から眺めていた。その遠景を日本に帰国後も心の中に暖めてきた。随筆の中で小学時代の副読本で読んだ唐の太宗と、泥鰌がこの山の中腹に残る石塁を築く時の面白い民話も紹介している。一夜のうちにこの土塁を築くために、泥鰌たちの力を借りたという話だ。
この山は遼東半島の先端では一番高い山で、その形も非常に特徴がある。霧の無い日に大連を訪れた人はきっと印象に残るにちがいない。特に市内から開発区に向かう高速道路が海上に向かう時、肩を怒らせた青海入道のような山容が目の前に迫って来る。袈裟を着てあぐらをかいた和尚が茣蓙を敷いてデンと座っているようでもある。「大連によう来たな」と、こわもての歓迎である。
古来この山は大和尚山、大黒山、老虎山、東山などと呼ばれてきた。十九世紀に英国人がこの地に上陸した時、香港と同じようにビクトリア湾など英語の名前を沢山付けた訳だが、この山を「マウントサムソン」と呼んだのも、むべなるかなとうなずける。はるか英国から遠征してきた艦隊が黄海から大連湾に入る時、ごつい坊主頭の巨大な山がサムソンに見えたのであろう。
   大連ゆかりの詩人をもう一人あげるとすれば、安西冬衛を忘れるわけにはゆかない。教科書にものっていたのでご存知と思うが、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」の彼である。この詩は大陸を放浪していた時、蝶々が樺太に向けて飛んで行ったのを謳ったとする説もあるが、清岡の言うように安西が大連の南山に登って対岸の大和尚山を遠景とする大連湾を渡って飛んで行く蝶々を一匹見つけて詠んだものだとするのが、より自然だと思う。
   詩のイメージは韃靼海峡で良い。大分昔にこの説を読んだことを、二月のある晴れた週末に、植物園の魯迅のレリーフの所からゆるゆると下りてきた時、突然目の前に茶色のちいさな蝶々が一匹氷のとけたばかりの映松池の方に飛んで行ったのを見て思い出した。八十年ほど前に詩人がヒントを得た蝶々の子孫かもしれない。そう思ったらなんだかとても大きな幸せに出会ったような気持ちになった。
  もう一つ大黒山で気持ちの良い場所は、朝陽寺である。春四月末から五月にかけて、桃や桜の咲く季節の境内はとてもすばらしい。大黒山の中腹まで車で上り、明代の山門をくぐると、一段下がった地に桃源郷をしのばせるようなたたずまいの山寺である。
学生たちが五人、十人と連れ立って遠足に来ている。大連ではこれを春遊と言う。彼らは山の麓からリュックに弁当を入れて登ってくる。そうそう学生だけではない。内陸から開発区に働きに来た若者たちも長い冬の後、白い花赤い花が一斉に開きそろう、五月のおいしい空気を吸いにやってくる。蝶々が花むらに飛び交うように、若者たちがここで愛を語り恋を芽生えさせる。かくして開発区の寮からちょうどさなぎから蝶が飛び立つように若者たちが飛び立ってゆく。一匹で韃靼海峡を渡ってきた蝶は二匹になり子孫を残す。それが私の子孫の目の前をよぎる。そんな想像ができるのは春ならばこそ、である。
2.大黒山の点将台
私の好きな大連の眺めという題で、和尚さんが袈裟を着てあぐらをかいているような姿の大黒山に触れた。今回はこの山頂に辿り着くまでの道草の楽しみについて述べてみたい。
   国慶節のころ、大連はもっとも過ごしやすい日が続く。トステムの工場を右に見て、金州の方角に向かう。料金所を過ぎ、右折してずんずん登って行くと、朝陽寺に着く。ここから右に進むと、羅漢が歓迎してくれる。歩道付きの快適な登山道が最近できた。右や左にくねった道を登ると、急に視野が開ける。
  市旅遊局が、昔ここにあった唐王殿を修復している。伝説によると、唐の太宗が新羅との戦いでこの地にきた時、この山の近くで病に臥したそうだがお坊さんの祈祷のおかげでなんとか治癒できた。その礼として彼が寄進したのがこの寺の縁起だというのが、修復工事を監督している髭のおじさんの自慢話だ。
   その先に立派な門構えの「点将台」が見える。建築中のところを崖の先まで入って行くと何と素晴らしい眺めか。開発区の全景とはるか大連市の半島の先まで見渡せる。右を見れば金州の町並みが豊かな緑の中に霞みながら浮かんでいる。
  「点将台」とは耳慣れない言葉なのでどういう意味か聞いてみた。唐の昔太宗がここに上って将兵を閲兵したことに由来するらしい。今この台から開発区の工場やビルの群を眺めていると、唐の太宗が閲兵した往時の姿と重なるものがある。何万の軍勢は失せ、二十数万の人の働き、生活する場所となった。
   もとの道に戻り、無線塔の建つ頂上をめがけて登って行く。途中二人の若者にであった。軍の送信施設の保守勤務があけて下山するところだと言う。頂上への道を尋ねたら、萩が道を覆っている先をさして、あそこから登ればすぐだよと、教えてくれた。
  緩やかな坂道と違ってこの石段は勾配がきつい。五百段余で稜線に着いた。急に霧が出てきて視界が閉ざされた。やはり低いとは言え渤海と黄海の水温の差のせいなのであろうか。海から吹いてきた風が稜線を越える時、急に冷やされて霧となるのであろう。周りは全く見えなくなった。
   大連に住み始めて、市内からこの大黒山がくっきりと見える日は多くない。日本の秋のようにくっきりした秋晴れが、大連でも味わえたらどんなに素晴らしいことであろうか。無理な注文であろう。やはりどんなに低くともこのような山があるおかげで霧が出て植物が潤うのであろう。霧で空港が閉鎖されて飛行機がこなくなるのは困ったことだが。
3.私の好きな大連の花
  十二月から二月までの寒い冬に耐えて三月から四月にかけて桃の花や辛夷の花が咲き始めると大連にも漸く春が来たのだと、うれしくなる。東京近郊や中国の江南地方では二月に咲く梅の花が、気候の関係か大連では余り見ることができない。やはり梅はうっとうしい梅雨のあるモンスーン地帯の人々への、代償としての早春の贈り物である。
   大連に赴任した最初の春に梅が咲かない内は春が来ないと思って、「探梅」してみた。地の人に聞いてみたが多くの人は「梅の花」を知らない。「さあ」と首をかしげられ、咲いているところを見たことが無いという。そんな具合で「探梅」は断念せざるを得なかった。春分をすぎるころ、ぽつりぽつりと桃の花や辛夷の花が、日当たりの良いところから咲き始めた。理工大学から旅順南路に向かう路を少し山側に入ると、全山が満開の桃の花で、まさしく桃源郷を思わせる光景に感動した。
   五月になると梧桐の紫の花が街路を飾る。天津街に「百年梧桐」という標識を付けた大木がある。百年前、先輩たちが植えたものかなと思うと感無量だ。家具になってどこかの家に鎮座している同輩もあろう。解放路から少し右に入った服飾学校の右の校庭の梧桐も大変美しいし、桃源山荘から付家荘国際村に至る路にも大きな梧桐が花をつける。
   五月中旬から咲き始めるアカシアの花のことは触れる必要もないかと思う。
大連のアカシアは、うれしくない響きだが、本当はニセアカシアというらしい。四月に入って始めて春雨が降り始めるころ、長さ三メーターくらいの小枝も根も殆どない丸太棒のような苗木が、植えられる。去年植えたのが今年の夏はもう枝葉も茂り、一人前の姿に成長している。北の厳しい気候に適した成長の早い樹木である。
     六月末から七月にかけて、とんぼが飛び、セミが泣き出すころ、私の最も好きな「合歓の花」が咲き始める。北京の台基廠通りでは五月の中旬に満開となり、北京子たちが落花を拾い上げて、ふうと息をかけて天に飛ばしくるくる舞い落ちてくるのが楽しそうであった。今年は暖冬のせいか、去年見たような紅さは無くやや淡い色調である。そうだ去年復元されたアジア号の機関車「パシナ」を見に、周水子駅から旅順に向かう鉄路を「新亜細亜展望車」に乗ってゆったりのどかな汽車旅をした時、夏家河駅のプラットホームに咲いていた合歓の木の真紅の花は、一昨年の零下十五度の寒さに耐えた色であったかと分かったような気がした。
写真説明:大連の合歓の花
4.大連の正月
  01年は大連に住む日本人にとり、いろいろな出来事があった。春さきから夏にかけて肝炎にかかって帰国する人が出て大変心配した。五月には市内からすぐ近くの海に北京からの飛行機が墜落して三名の邦人を含む多くの方が亡くなった。日中国交三十周年という記念すべき年に不幸なできごとがおこった。
が、総じて言えば大連で生産活動をしている企業の皆さんは、比較的順調な経営環境に恵まれて、業績も向上した。
   昨年十一月に開催された第十六回全人大の結果、中国は政治的にも安定しており、経済はさらに発展するだろうと、世界中の人々が期待して見ている。こうした元気のよい活気に満ちた大連の町で、皆さんがこの地の人たちと仲良く愉快に過ごせることは、何にもまして大切なことだと思う。
   さて皆さんは大連の正月をどう過ごされましたか。東京や大阪など日本の温暖な地域に比べて気候も厳しく、始めて大連で正月を迎えた方たちにとっては「望郷」の念にかられることもあったかと思う。木々の葉はすべて落ち、雪の舞い散る冬景色。「ああ、やはり日本に帰れば良かったな」と。
家族で大連に来ている方々は日本の正月のように年賀に回ったり、お餅を焼いたりトランプをしたりして過ごした方もいたでしょう。南の暖かい地方に旅行に出かけた家族も多いでしょう。単身の人はあらかた国に帰ってしまって、日本人居住区はガラーンとしてちょっと寂しい正月だったところが多いのではと思います。大連の正月の過ごし方をちょっと考えてみた。
  日本人が正月に欠かせないものは「羽子板や凧上げ」に「初詣」でしょうか。羽子板に似たものはありませんが、凧上げなどは寒い大連の正月でも、市役所前広場やいろいろな場所で大連っ子もさまざまな形の凧をあげて楽しんでいます。日本と同じように、大の大人が子供と高さを競い合っています。彼らの中に入って一緒に楽しんだりしている友人も何人かいます。こうしてこの町に溶け込み、二年三年と年を重ねるごとに、人は環境になじんでゆくものかと思います。住めば都と言うのでしょうか。
   七十年ほど前、大連で正月を暮らした日本人の話を聞いたことがあります。大連にも「神社」や「お寺」が何ヶ所もあって、やはり寒風の中、家族揃ってお参りしたこと。雪の中をに乗って知人の家を年始に尋ねたこと。そんな話を聞いて、感ずるものがありました。日本人はやっぱり年の始めは「初詣」とか「年始回り」をして一年の無事を祈り、友人や親戚の家に集まってお屠蘇をいただいたりしないと正月を迎えたような気持ちがしないんだ、と。転勤でよその土地に行っても、土地、土地のお宮やお寺に詣でて一年の息災を祈る。必ずしも氏神さまでなければならないということはない。神社でなくて成田山や川崎大師さまにも大勢が初詣に訪れる。
  では大連でもそれをすれば良いではないだろうか。以前NHKで大晦日に蘇州の寒山寺の鐘を聞きに行く日本人ツアーが何十組もあると「行く年、来る年」で放送していた。大連でも金州の大黒山にはいくつかの寺廟がある。大連大学の上にある「観音閣」に登れば、快晴なら初日の出も拝めるであろう。碧海山荘の「碧海祠」は崖の上に建立されているから、大連市と三山島が一望できる。お寺はどうもという向きは、開発区のUFOの形をした展望台に登ることをお勧めしたい。まもなく完成する大黒山の「点将台」なども黄海と渤海
をいながらにして一望できるので、来年の正月に行きたいと考えている。
5.大連の春節 音と光りの饗宴
  今年の春節は陽暦の二月一日ととても区切りが良い。この日を境にいっぺんに日の光が暖かくなったように感じる。気温はさほど暖かくなってはいないのに、である。日本でも太平洋側は「光の春」という言葉がある。日照時間が
長くなって、「ぬくい」という日本語がピッタリ。「水ぬるむ」まではあと一ヵ月ほど待たねばならぬが、白い花が咲き出すのが待ち遠しい季節である。
  大連の春節は「音と光りの饗宴」で幕を開ける。音とは何か。「爆竹」の音である。光とは何か。「花火の火煙」である。中国の大都市では過去の度重なる事故の結果、厳重に禁止されてしまったが、寛容な大連市政府の方針と事故を起こさない慎重な市民との協調により、市内および金州開発区のここかしこで、新年の始業の朝に一斉に花ひらく。
  市内目抜き通りの中山路や人民路の両側の近代的な高層ビルの玄関先で何百本もの爆竹が吊るされ、いっせいに点火される。中国銀行大連支店の前で点火されるや、次々に呼応され、東亜銀行、友誼商店、人民保険、国際酒店などなどに飛び火し、さながら「星火燎原」の観を呈す。その音たるや凄まじい。なまなかなことでは済まされない。これが大連っ子の生きがいとでも言わんばかりのやかましさである。
  ビルの前の歩道という歩道は「宴の後」の残り香というべき硝煙と赤い紙の残骸が山のごとくに掃き集められる。その山が高ければ高いほどそのビルの店子たちは、うれしそうである。「どうだい。うちのはこんなにすごかったんだぜ」「今年の商売繁盛も間違いなしさ」という顔である。
   その夜は狭い歩道をテープで囲って、「花火」の打ち上げである。本当に「音と光りの饗宴」無しには春節を迎えられないというらしい。ビルの窓ガラスからわずかしか離れていないところから、天にむかって打ち上げる。火の粉は道路を通行中の自動車に降りかかる。日本人から見ると、危険がいっぱいという「音と光りの春節」もそれなりの経験則から安全性が立証されて今日まで、認められてきているのであろう。昔、中原のひとびとが守り続けてきた節季ごとの習慣が、北京や上海では火事や死亡事故を起こした結果、姿を消したが、祖先の多くが山東省から渡ってきたひとびとの心の中に、絶やしてはならないものとして、残っていると考えられる。寒い冬の終りと恵みの光をもたらす春節を迎える儀式として、何をおいても絶対欠かしてはならないものなのだ。
6.大連の物売り
  秋も終わりに近づくと大連の街角に中国各地から天秤棒を担いでやってくる物売りの姿が目に付く。近隣からは焼き栗や焼き芋、真っ黒に日焼けした顔が売り物の焼き栗の皮と不思議に調和している。少し皮に皺のよった焼き芋をドラム缶を半切りにした釜の上に並べている。いずれも大連近郊からリヤカーか荷台つき自転車でやってくる。あどけない顔の売り子も多い。
  新彊省からやってきた奇麗な縁取りの丸帽子を頭にのっけたウイグル族の若者が干し葡萄や名も知らない色とりどりの木の実を売っている。まだ中学を出ていないのではないかと思われるような、小柄できゃしゃな娘たちが二人一組で南方の茶を天秤棒を揺らしながら売り歩く。小さなブリキ缶に詰めたお茶を買う人の必要なだけ小分けして売って歩く。
  以前は師走から春節にかけて自転車のハンドルに満艦飾に刺し込んだサンザシの実を飴にからめた「というお菓子を売る姿がここかしこに見られた。ほこりにまみれて決して衛生的とは言えない状態だったが、今ではひとつずつセロハンに包まれている。
大人は買わない。やはり甘ずっぱいものが大好きな娘さんや子供たちのためのものである。
     天津街の大改造で戦前からあった二階建て煉瓦造りの情緒ある町並みはすっかりなくなってしまい、こうした物売りが自転車の後ろに荷車を載せて売ったり、天秤棒を担いで売る姿も、減ってしまうことだろう。北京の胡同が取り壊されて、物売りの声が聞かれなくなったのはつい最近のことだが、その波がここに訪れるのももうすぐのような気がする。
     労働公園の東側、おいしいイタリアレストラン「イゴッソー」付近一帯の古い建物があっという間に取り壊されてしまった。夏には歩道に円卓と椅子を、ところせましと並べてさながらパリの路上カッフェーの大連版 食の小路や、近海の赤貝やシャコ、渡り蟹や車海老を超特価で買うことのできた海産物の自由市場もそのうち姿を消さざるを得ない運命にあろう。近代的なマンションやオフイスビルが建ってしまえば、その場にそぐわなくなってしまうということで、追い出されてしまう。
   春節が過ぎ、まだ頬を打つ風が冷たいのに、大連でも真っ赤な苺やさくらんぼを売るスカーフを被った農婦が歩道に並ぶ。日本では見かけなくなった天秤量りを持ち「一斤たった五元、安いよ、買ってきな」と通行人に声をかける。秋口には日に焼けて真っ黒だった同じ農婦の頬も心なしか白くなっているのに気づく。一冬の寒さを農家で過ごして、また大連の街に来たよ。どうだい、買ってかないか。と言っているようである。
  アカシアの白い花咲く五月になれば、もう何でも売っている。十年前までの中国駐在員には夢のような話だが、桃や梨などには目もくれない。楊貴妃が玄宗皇帝に早馬で送らせた「ライチー」は山のように積まれているし、南洋の果物の王様「ドリアン」もタイやインドネシアと同じ新鮮なものを廉価で売っている。広大な中国で輸送改革が起きて、全国どこへも安く配達できるような仕組みが整い、物売りの姿も変わって行くことであろう。便利さと情緒は両立できないかもしれない。
7.大連のオブジェ
  はじめて大連に来た人は空港から市内までの間に大きな乳牛が何頭も芝生に寝そべり、キリンの親子がプラタナスの葉をむしゃむしゃ食べているのを見て、一瞬「あれー何だろう」と思わず声をだす。大きな象もいるし老虎灘の虎とか、30メートルもの、長い魚とか面白いオブジェがいっぱいある。
  ホテルについて旅装を解き、半島の東海岸の公園に出かけるとさあ大変。
サキソフォーンを吹く男やら、将棋を指す二人、釣りに興じる男とかロッククライミングする男女。ユーモラスな黒人夫婦など来訪者がなでて、ぴかぴかに光っている例のシンボルとか、面白い光景である。
  しばらく行くうち、道路と海岸の砂浜の間にとてつもなくでっかい亀が今にも海に泳ぎ出そうとしている。真っ黒い巨大なアリや、ハマグリやら巻き貝やらなんでもオブジェにしてしまう。そうこうすると左手に直径数メートルもありそうな馬鹿でかいガジュマロが不自然なほどの緑の葉を茂らせている。大連空港に着陸する飛行機の中からも見えるほどの大きさである。
  棒錘島賓館のゴルフ場に入ると、道路の両側にディズニーのキャラクター
なども出てくるので、子供たちは大喜びだ。聞くところでは市長が世界各国の彫像家を招いてコンクールを開いて作ったものだそうだ。
  日本人学校の辺りにくると海岸の先に「ひょっこりひょうたん島」にそっくりの島が浮かんでいる。ひょっとして今まで見てきたオブジェたちはこの島から抜け出してきて、大連を訪れる人々をたのしませてくれているのかと思ったりする。
  さらに車を走らせると、右手に何十頭ものバッファローが斜面を駆け下りてきてぎょっとする場面がある。ここを右にまがれば本物のパンダに会える。道は崖の上につくられたため海岸線から沖の島々がくっきりと見える。春の日の光を受けて、ひねもすのたりのたりとたゆとう海をながめていると、日常の憂さも自然に消えてしまうようだ。何か仕事や生活でつらいことが起きたら、是非ここに来ると良い。心を癒してくれる絶対のおすすめコースだ。
  内陸から来た人には1時間ほどかけてここに案内する。公害も少なく青い海に浮かぶ島影とオブジェたち。冬の気候は厳しいけれど、春から秋までの半年はここで勉強する生徒たちは他では味わえない生活ができる。百余名の生徒達が何か面白いオブジェを作って、どこかの芝生に植樹とともに残してゆけたらさぞかし良い思い出になって、十年後に再訪した時の感慨もひとしおだろう。

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天津のコンプラドール 1

写真:唐山大地震後の天津南京路の路上一杯の掘立小屋: 1.
二十数年ぶりに天津に出かけた。北京空港から高速道路で2時間。市の中心を流れる海河の畔のハイアットホテルに着き、夕食の時間まで、昔住んでいた頃の建物を探しながら歩いた。当時は、唐山大地震の後で、大通りの両側は、掘っ立て小屋がびっしりと並び、家を失った人々が、体を寄せ合うようにして、懸命に生きていた。今も鮮明に思い出すのだが、片道三車線の大通りの半分は、倒壊した建物のレンガや木材を再利用したバラックで埋め尽くされていた。もちろん歩道も同じ状態なので、歩く余地もなく、私は人々と同じように、車道の端を歩いた。そのうち、一軒の板壁に手書きで、「此屋有病人、請粛清」とあるのを見つけた。「病人がいるので、静かに」の意味。
 暑い夏の夕日がようやく沈む頃、人々は近くの露天市場で買ってきた野菜を、
道路端の七輪で煮炊きしていた。水はどこから手に入れるのだろうか。市政府は、郊外に建てた避難住居に移るように公告を張っているのだが、多くの人は、
生活用水も無い路上のバラックから離れたがらない。郊外に出てしまうと、これまでの八百屋や肉屋からの食糧が入手できなくなる。郊外の臨時住宅には、ろくな食料品店が無い。それに仕事場からも遠くなって、通勤に不便だ。それらが、引っ越せない、やむにやまれぬ事情だという。
 図書館前の広場には、魯迅の像が残っていた。その像の台の辺りからロープを引いて、いく張りものテントの下で暮らしている人がいた。テント越しに魯迅の顔を眺めながら、魯迅選集の中の一枚の写真を思い出していた。北京の師範学校の校庭だったか、大勢の学生達の中心に、椅子の上に立って上半身だけ見える形で、学生達に語りかける魯迅の姿を。
2.
 今では天津の町は、すっかり整理されたが、横丁の一角にはまだ当時の面影が残っている。しかしそのころ大いに繁昌していた露天市場は、あとかたもなくなっていた。渤海湾から採れたばかりの渡り蟹を売っていた屋台の魚屋たちは、どこかに引っ越してしまっていた。
 当時、事務所兼住居として住んでいた「友誼賓館」はすっかり模様替えされて、当時の事務所はサロンに変じていた。家族連れの外国人は珍しいということもあって、ホテルの従業員も親切にしてくれた。彼等と、仕事の合間に、いろいろおしゃべりした。こうしたホテルで働いていたものは、労働改造で精神をたたきなおさなければならない、として、安徽省の山村に送り込まれ、3年ほど「土とともに暮らした」と言う。
稲草も麦草も知らない、都会暮らしの青年にとって、土にまみれて生きることは、とても耐えられないことであった。ホテル勤務のような、土と遠くかけ離れた生活をしてきた若者にとって、過酷な自然のなかでの暮らしは、筆舌に尽くせないことであった。が、人間は慣れればなんとか生きられるものだと悟った。「豚になっても生きよ」とは映画「芙蓉鎮」の中で、腐敗分子の濡れ衣を着せられて牢に繋がれることになった恋人に向かって、男の口から出た言葉だが、まさしく豚小屋に入れられも、豚になっても生き続けるのだ!との叫びであった。
 ひと月の給料は三元。これで歯ブラシや石鹸などを買うのが精一杯であった。
でも、自分はまだましだ。友達の多くは、黒龍江省や新疆ウイグル自治区などに送られて、家族からの連絡も途中から取れなくなってしまい、帰るにも帰られない長い年月を過ごさねばならなくなった、という。

 その年の秋から年末にかけて、菊人形展覧会も終わり、水上公園の動物園の
放し飼いの丹頂鶴たちが、氷雪の上でダンスを踊り始める頃、寒いね、寒いねと言いながらも、子供を連れてパンダを見に出かけた。水上公園から帰って、食事を済ませて、部屋に戻ってテレビをつけてみると、逮捕された四人組の裁判が公開放送されていた。つい数年前まで猛威をふるった四人組の時代は終わったのだ、と全国民に告げているのであった。大学の大きな階段教室のような
大ホールが、この歴史的裁判の舞台であった。演壇の上には、裁判官が並ぶ。
被告席には、かの江青以下の四人組。そしてその後方の階段席には、大勢の傍聴人の姿。3人の被告はうなだれて,しょぼんとしているのに対し、江青被告は、背筋をぴんと伸ばし「私は国家のためを思って、こんなに精力を傾けて、働いてきたのに、こんな仕打ちにあうのは断じて許せない。毛沢東主席夫人が、こんな裁判などにかけられることがあってはならない。」などと叫び、壇上の裁判官を傲然と睨みつけていた。
写真説明:天津のジャーディンのビル 3.
 そのテレビを見た翌日、一人の初老の男が、私の事務所の戸を叩いた。品のよさそうな、いかにも教育を受けたことのあるという感じであった。中肉中背で50代半ばころと見受けた。彼が言うには、先日テニスコートに日本人らしき私を見つけたので、受付の人にどこの誰かと聞いて、尋ねてきたのだとのこと。「戦前の天津カネボウに友人がいて、私の会社の先輩とも一緒にテニスをした」という。「文化大革命で、すべての財産は没収され、姉と二人で生きてゆくだけの、ぎりぎりの狭い部屋に押し込められてきた。その姉も逝ってしまったので、ビザが取れしだい、香港にいる親戚を頼って移住する予定だ」という。「それまで良ければ、週末、彼の所属する「天津テニスクラブ」に遊びに来てくれ、友人たちを紹介するから」と言う。
戦前、イギリス人たちが「ブリティシュ クラブ」なるものを、世界各地の港湾都市に作っていた。香港やシンガポール、上海、横浜などにもその俤が残っている。天津にもそれほど規模は大きくないが、室内プールとテニスコートがその記念(かたみ)として残っていた。それで週末になると、そのコートに出かけて、初老の人たちとテニスをして仲良くなった。彼の仲間は戦前に始めた人たちで、外国人との接点も多く、大公報の記者をしていたとか、国際的な人たちが多かった。
 だいぶ親しくなったころ、彼は自分の生い立ちを語り始めた。「実は私の家は広東出身のコンプラドールで、百年ほど前に、天津に支店を出すというので、こちらに移ってきたものだ。私の会社とも取引があって、Shipping Invoiceに
名前があるのを見たことを覚えている。今は、昔の住まいの離れの一角に住んでいるが、一度食事に誘うから、家族3人で来てくれ」という。
妻に相談したら、子供がまだ小さいので、迷惑をかけるから、遠慮したいというので、私ひとりで出かけた。所番地をたよりに、タクシーで彼の家の近くまでたどりついた。
番地は広東路某番地余、と余の字がつく。「本体の番地は数家族用の住まいとして、人々の手に渡ってしまい、私の住んでいる離れは「余」を付けているのよ」と彼は笑って話した。離れといえども、家のレンガは普通のものの3倍くらい大きくて、たいそう頑丈なのが彼の自慢であった。万里の長城のレンガのような印象を受けたので、そう言うと、「これは清朝時代の天津の城壁を取り壊したときのレンガなのだ。それを貰い受けて造ったものだ」という。李鴻章や袁世凱が北京から汽車に乗って、天津駅頭に降り立つ映画で見たシーンが思い浮かんだ。義和団の乱や辛亥革命を見てきた城壁のレンガを触ってみた。暖かな手ざわりがした。「牢から開放された後、この離れに住んで、姉と一緒に暮らしてきたが、とうとうその姉もいなくなってしまったので、一人暮らしは耐えられそうも無い。だから香港のジャーディン マセソン社に親戚がいるので、それを頼りにビザを申請しているところだ」という。「四人組が逮捕され、この部屋に戻ってきた。まだいつ又何がおこるか心配だったが、私の会社のような外国の商社の支店ができて、家族も一緒に滞在できるようにまでなったのだから、もう二度と元に戻るようなことにはならないだろう」と自信に満ちた言葉で語った。
 そうした生活を半年ほど続けた後、私たちが帰国することになったというと、彼は泣き出さんばかりに悲しんだ。せっかく仲良くなれたのに、私たちが去ってしまうと、又ひとりぼっちになってしまうのだ。友情の記念にと、私たちの出発の前日、子供への土産と、お腹の大きく張り出した布袋さんのような弥勒さんの置物を抱えてきた。日本の住所を教えてくれというので、自宅の住所を書いて渡した。「香港に移住できたら、是非とも日本に遊びに行きたい」と別れを惜しんでくれた。その後、半年ほどして、彼からの手紙が届いた。香港への移住がかなって、昔の縁でジャーディン社の顧問として、生活の場を得て、若い頃やっていたShipping関係の仕事をみていると書いてきた。最後に、香港に来ることがあったら、是非連絡してくれとあった。
天津の広東会館: 4.
 香港には広州交易会に参加するとき、立ち寄る機会があったが、空港からそのまま広州に直行という忙しいスケジュールの中で、彼のところに尋ねてゆく時間はなかった。暫くして私は北京に転勤となった。私は北京から彼宛に手紙を出したが、返事は返ってこなかった。体調でも崩して、会社を休んでいるのだろうか。或いは日本へは気軽に出せる手紙も、北京へとなると、万一昔のような理不尽なやり方が再発して、私に変な嫌疑がかかるかもしれないと心配して、手紙を書くのをためらったのかもしれない。当時は手紙が開封されることは常識だったから。
 それから暫く後、仕事の関係で、ジャーディン社の北京事務所があることを知った。ジャーディン社の中国における活動に興味が湧いてきた。いろいろな本を読んでゆくうち、キーワードは茶とアヘンだと分かってきた。
 今でこそ、アヘンは禁止され、商取引の対象にはなっていないが、ジャーディン社が香港、広東で活躍していたころは、れっきとした貿易品目として扱われていた。大航海時代以来、冒険者たちの最大の目的は、一儲けして財産をなすことであった。だが、誰しもが簡単にひと財産を残せるほど、簡単ではなかった。
ヴァスコダガマのように大量の胡椒を無事ヨーロッパまで持ち帰ることができれば、莫大な稼ぎとなった。胡椒の次は茶が登場する。新茶を一番早くヨーロッパに持ち帰れば、その帆船は英雄扱いされた。南中国からイギリスの港まで、
何日で着けるか、航海日数の短縮競争が起こった。Tea Clipperとして有名なカティサークの出番であった。その茶の代金の支払いに大量の銀が中国に払われたが、中国がイギリスから買うものは何も無い。21世紀の今日の、米ドルが一方的に中国の外貨保有高を押し上げるだけで、中国は米国から買うものは、あまりないのと似ている。そこで、イギリスはその銀を取り戻すため、インドで作ったアヘンを売り込んだ。ジャーディン社関係の本の中に、アヘン取引での収益が最大であった、という記述を見て、愕然とした。
 吸引者を廃人にしてしまうアヘンで、財をなしたというのは許せないと感じた。それまでの印象では、アヘンは広東など南方中心で、北方は比較的その害に毒されていないと錯覚していた。実態は全中国に広まっていて、遥か遼東半島の金州あたりまでアヘン窟がいっぱいでき、中毒患者が増え、全中国を蝕んだ。金州の博物館に、長いキセルを手に、ほとんど死んだような目をした常習者の写真が何枚も展示されている。
 今日から見れば、唾棄すべきアヘン貿易も、ジャーディンとパートナーのマセソンたちの議会への働きかけで、イギリス政府のお墨付きの下に、堂々と営まれてきた。
 それが、林則徐により禁止され焼却されたため、アヘンを没収されたジャーディン社を含む貿易商たちは、その賠償を求めて、本国政府を説得して、大艦隊を中国に遠征せしめた。英国議会でも賛否両論、激しい論戦となった。当時は、ごろつきたちと見下されていたアヘン貿易商の賠償のために、栄光の英帝国艦隊を極東にまで派遣すべきではない。非人道的なアヘン貿易のためなどとは、言語道断だと、良識ある議会人は反対した。しかし、マンチェスターの産業界の支持を得て、自らも議員となっていたマセソンなどの活動により、さらには英女王の取り巻き立ちの、清との貿易から得られる莫大な利益のためにという貪欲さが合致した結果、艦隊派遣となった。イラク戦争が石油のための戦争といわれる如く、この戦争はアヘン戦争と呼ばれ、大英帝国に不名誉な名を残す戦争となった。この戦争の引き金を引く中核的な役割を担ったのが、ジャーディン社と知ったときは本当に驚いた。
 当時、英国は中国からの茶に高額の関税を課して、財政をまかなっていた。その茶の代金として銀の代わりに、アヘンを使ったのだが、もし英国が財政的に、茶に関税など課す必要がないほど余裕があって、なお且つ貪欲でなく、そしてもし、植民地アメリカに対しても茶税などを課すようなことをしなければ、
例の有名なボストン茶会事件は起こらなかったであろう。そしてアメリカ独立戦争はもう少し遅くなったであろう。茶という嗜好品をめぐって、アメリカが独立し、アヘン戦争が起こった。
5.
 当時のイギリスはアメリカ産の綿花を原料に、マンチェスターで綿織物としてインドに輸出した。その結果インドの土着綿業を破壊してしまったほどだ。その一方で中国産の茶を大量に仕入れたイギリスは、その見返りとして織物などの売り込みを試みたが、うまくゆかなかった。
「地大物博」と豪語していた清は、外国が求めてきた物品を分け与えてやるという態度で、その支払いには金銀銅などの貴金属貨幣を要求した。イギリスも茶の代金として大量の銀を払い続けた結果、巨大な貿易赤字を抱えてしまった。何らかの手段でこの穴埋めをしなければならない。片貿易は必ず破綻する。
一方だけが、金銀などを貯め込むと、貿易摩擦が生じ、挙句の果ては戦争になる。片貿易が起こったら、双方が真剣に協議を重ね、解決策を見出さないと大変なことになる。これが平等互恵のルールである。しかし今から170年ほど前には、そんな智恵は働かず、武力に訴えることとなってしまった。朝貢貿易しか認めない清国に対して、英国は物乞いのような取引は屈辱的だとし、貴重な銀の大量流出に耐えられなくなった。そこで、一攫千金を狙って、極東にまで出張っていた冒険的商会のボスたちにインド産のアヘンを渡し、これを清に売り込んで、それまで払い続けてきた銀を取り戻そうとした。その商会のボスたちの頭目的存在がジャーディンであった。
 アングロサクソン魂というのは、おそろしいほどの私欲の発露たる商魂の塊である。イラク戦争、パレスチナ紛争など、その源をたどれば、このアングロサクソンの私欲に発している。貪欲な商魂のすさまじき発露である。富や資源を求めて、あらゆる手段を駆使して、その目的を達成するのが、ゲームのように楽しく感ずるのであろうか。先の大戦でも、ユダヤ人を虐殺したことを大きく報道し、ユダヤ人の支持とその富を取り込むために、アラビア半島の土地を、
パレスチナ人からユダヤ人に分け与えるという約束をして、ドイツを屠った。
日本軍の頑固な抵抗で、さらに多くの米国兵が犠牲になるのを防ぐため、サハリン、千島などを分け与える約束で、ソ連に対日攻撃を承諾させた。
6.
 数年前、中国に返還後の香港を訪れた。返還直前にも訪れたのだが、その時、現地の人から聞いた話が、実によくこの魂を表していると思う。アヘン戦争後、植民地にしてから160年の間に蓄えた膨大な財産がある。これをそのまま中国に渡してなるものかと、空港や鉄道、橋梁など次々と巨大な土木工事を行い、それらの元請をすべて英国系の会社に発注した。香港政庁の金庫が、空になるまで使い切った。その上前は、いうまでもなく、イギリス政府に戻ってくる仕掛けだ。
 今回、返還から数年経って、落ち着いてきた香港島の中国銀行のビルを眺めながら、公園を散歩していたら、その一角に「茶の博物館」という案内板が目にとまった。古い格式ある建物を利用したもので、入場券をと尋ねたら、無料ですとの答え。二階には、数百年前に中国各地で作られた、素晴らしい姿形の骨董の茶器が展示されていた。説明書によると、かつて英国人総督の邸宅を、茶の博物館として公開し、香港の好事家たちが蒐集した茶器を一堂に集めたそうだ。アヘン戦争の結果、割譲させられた香港が祖国に戻ってきた。アヘン戦争といわれるが、その底は茶のための戦争でもあった。現代の香港の繁栄は、元をただせば、茶によって始まったといえる。茶の取引が始まり、銀が払われ、それが底をついて、アヘンで代替されて起こった戦争。その戦利品としてイギリスに割譲された香港。最後の総督パッテンが英海軍基地から乗船して香港を去って行ったとき、いかほどの財を持ち出したかは知らない。しかし、その邸宅は持ち出せなかった。それを茶の博物館にしたとは、なんと面白い意趣返しかと、感心した。
写真:天津のフランス教会 7.
天津にも上海と同様、列強が競って作った租界の跡がある。フランス人は、モントリオールに見るような、美しい塔の印象的なカトリック教会を建てた。唐山地震にも倒れず、冬の夕暮れには美しいシルエットで、仕事に疲れた私を慰めてくれた。
イギリス人は、ホテルや競馬場、そしてブリティシュ クラブという娯楽場を造った。戦後数十年経ても、そうした歴史的建物は壊されずに残っている。面白い対照である。英仏が競って植民したカナダの諸都市を始め、上海や天津など、両国人の残したものは、永い年月を経てその民族性を示してくれる。フランス人の住んでいた町には、カトリック教会の尖塔が聳え、イギリス人の方は、酒を飲みながらカードやビリヤードで遊ぶクラブや競馬場、そしてゴルフ場さえも残している。そんなことを感じながら、夕食に間に合うようにホテルに戻った。約束の時間までまだ20分ほどあったので、ロビーの売店を冷やかしていた。ひさかたの天津なので、なにか記念になるような土産はと探していると、「近代天津十大買弁」という本が平積みされていた。買弁とは確か二十数年前、彼から身の上話を聞いたときの「コンプラドール」のことだったなと、
思い至った。表紙の丸囲いの写真の右には、梁炎卿とある。ひょっとして、ひょっとすると、この写真の主は、私の知っている梁さんの祖父か父親ではないかと直感した。顔のつくりというか、輪郭のかもし出す雰囲気が似ている。白い美髯を蓄え、ふっくらとした頬の横に長い耳をもち、清朝時代の肖像画に良く描かれている、典型的な広東商人のイメージだ。アヘン戦争の映画に登場する、広東十三行の頭目たちの風貌である。早速買い求めて中をめくってみた。
しかし約束の時間が迫ってきたので、それを部屋に置きに帰った。
8.
 天津の人たちとの会食は、海河の畔の「飲茶」の店で、好みの点心を肴に
紹興酒をごちそうになった。私が唐山地震の後の復興の時期に、この街に住んでいたという話題になった。彼等もそのころの生活を思い出してか、今日では想像すらできないほど、人々の暮らしの大変だったことが語られた。天津から秦皇島に向かう鉄道の線路際には、途切れることなく、地震でなくなった人々の土饅頭が並んでいた。「十何万もの人が犠牲になったので、こうするほかには葬送の手段が無かった」という。
 最近ようやく、トヨタなど世界的な大企業が進出してきて、天津の市内も活況を呈してきた。上海のような派手さはないが、着実に製造業が基盤を固めつつある。そんな話をして、友誼を確かめ合い、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、早速先ほどの本を読み始めた。読みすすめてゆくうち、表紙の写真は、私の梁さんの父親だと分かった。「1872年、20歳のとき先輩の唐景星に随って、上海のジャーディンの練習生となり、その後天津に転勤、1938年に亡くなるまで、60年以上の長きにわたり、ジャーディンの買弁として活動した」とある。
 その本に依れば、ジャーディンは1840年代のアヘン戦争前後に、大変な財をなし、今日の大銀行、香港上海銀行の設立にも、中核的な役割を果たした、英国の商社である。今でも香港を中心に世界各地で活躍している。梁さんの父は、そのジャーディン社に手腕を買われて、同社天津支店の買弁として活躍した。堪能な英語を駆使し、大変な商才を発揮した。その結果、ジャーディン社の買弁の総元締め、House Compradorとなった。義和団事件のあった1900年を挟み、第一次世界大戦前後には、梁さんの父は、英国資本と清朝の官民企業との間の仲介者として、大活躍した。当時の商取引はほとんど「つけ」で行われた。端午の節句、夏の中元、大晦日の3回に勘定を払った。
江戸時代の日本でもそうであったように、侍や商人は年に2回、或いは3回しか代金を払わないのが、東方の習慣であった。しかし、英国商社のジャーディンは毎月決済を主張して譲らない。そこで買弁たちは、その間に介在して、
清国商人たちの不払いリスクの見返りとして、高率の口銭を取って収益を拡大した、などと記されている。
9.
 この本の著者、劉海岩氏は買弁たちが、どのようにして莫大な利益をあげたかを、詳細に記している。値上がりしそうな商品は、市場の動向をよく見極めながら、大量に買い出動する。土地や建物も将来の値上がりを見込んで、優良物件を片端から買いに出る。古来、中国の商人は、手にした金で、産業を興すというよりは、商品や土地建物を仕入れて、その売買で稼ぐという方面で、商才を発揮してきた伝統がある。21世紀の今日でも、商才に長けた人たちは、額に汗して、ものづくりに励むよりも、その方がスマートで格好良いし、手っ取り早いと考えている節が見られる。
 劉氏は、これもあれもなんでもやった、と言う具合に買弁たちの手口を記述する。船荷証券の数量と、税関用の書類の数量を自分の都合の良いように書き換えるのは、朝飯前。運賃請求用の重量も、単位が替わるごとに数字を変換して、利ざやを稼ぐ。12進法と中国の旧式の重量単位との変換で、当時の算盤は、買弁たちの手元に、お金が沢山残るような仕組みになっていたと記す。
 買弁としての梁家のことを非難しつつも、筆者は梁家が、第一次大戦中は、中国の商品を大量に輸出して祖国に富をもたらしたと記す。その過程で、大いに資本を蓄積し、土地建物に投資して、大変な財を成したとする。どうしてこんなに莫大な財産を築けたか。「彼は生涯、ジャーディンというイギリス商社のために忠実に働き、勤勉倹約に努め、投資するときも、リスクを排除し、無謀な投資は一切せず、ただひたすら蓄財に励んだからだ」と著者は言う。
 時勢に会った良きパートナーに恵まれたということ。それはジャーディンにとっても同じで、外国に出向いて、成功するか否かの鍵は、現地のパートナーの良し悪しにかかっているとは、よく言われることだ。
 ほかの買弁のように、官と結託して政商として活動したり、官位を買うなどということをしなかった。戦争で負けることの無かった英国商社の代理人となったことも、成功の基盤であった。
 日本にも明治維新後、たくさんの外国商館ができ、今日でも長崎、神戸、横浜などに多くの建物が残っている。しかし、殆どが小規模なままで、その後、民族系商社に敗れて、多くは消滅してしまった。日本でも、外国商館のために働く買弁は多くいた。しかし、明治政府の富国強兵政策のもと、自前の商社、石炭鉱山の開発、商船会社などを興し、外国商館を駆逐した。そうした外国商館も、商売規模の小さい日本を見限って、清国の上海、天津などに移っていった。日本に上海や天津のような欧米人が、勝手に振舞える租界が無かったことも幸いした。
10.
 梁家と比較の意味で、この本にあるドイツ商社の買弁であった、王銘槐に触れてみる。梁氏と同時代に活躍した王氏は、北京の官界に入り込み、政商として一世を風靡した。しかし、ドイツの敗北によって破綻してしまう。時の実力者、李鴻章が天津で洋務を弁じるとして、軍需産業を興したとき、ドイツ泰来商会の買弁として、李に取り入って、魚雷艇や銃砲を買い付け、その後の北洋海軍の基礎を築いた。今もアモイの要塞跡に一門残っている、世界最長の砲身を持つクルップの大砲を買い付けた。イギリスの軍艦を仮想的としている以上、その防御のために、イギリスから大砲を買うわけにはゆかない。中国の古い物語にあるように、「汝の矛で、その盾を破ってみよ」である。イギリスが、清国に自国の艦艇を撃沈できるような大砲を売ってくれるはずがない。ちなみに、日本の明治の大砲といわれるものは、英国のアームストロング社のもので、日本製鋼所が技術導入して、自前で製造できるまでにした。
 明治の初期に、不平等条約改定の前交渉のために、欧米各国を回覧した岩倉具視たちの記録「米欧回覧実記」には、彼等が訪問先でいかに歓待を受けたかが実によく描けている。彼等は訪問先で、立派な装束で歓迎式に臨み、旅行費用は日本から持参した小粒の金できちっと払っている。受け入れ先の企業は、
蒸気機関車や大砲、軍艦など、明治日本が米欧などから大量に買い付けた実績と将来きっと上得意になると期待されたのであろう。しかも金払いがしっかりしていた。このあたりが、武士の魂がまだ健全であった日本の救いであった。野蛮な土地からきたと聞かされてきた割には、服装も整っており、眼光も鋭いものがある、と米国の新聞は報じている。
 さて、話を李鴻章に戻す。クルップの工場で大砲の操作を習得中の清国兵の
研修風景を視察している彼の写真が、最近クルップの書庫で見つかり、きれいに表装されて、アモイの大砲の説明書の横に展示されている。ロシアのニコライ二世の戴冠式に、彼でなければならないと、ロシア側から逆指名され、老体に鞭打つ形で、日清戦争での屈辱を受けた、憎き日本の土地には一切上陸を拒んで、シベリヤ鉄道で、ペテルブルグ入りした李鴻章は、その後ドイツ各地の武器工廠を視察した。ドイツのメーカーにとっては将来有望な重要顧客として、下にも置かぬ大歓待をしたことであろう。李鴻章はロシア、ドイツなどを訪問して帰国したのだが、このとき、ロシアと密約を交わし、満州鉄道の敷設権を与えたりして、相当額のルーブルを得たと非難を浴びていたので、クルップとしても、せっかく撮影した写真を送るのを躊躇したのであろうか。それが、最近のフォルクスワーゲンの事業や、上海のリニアーカーなどのプロジェクトなどが沢山実現して、ドイツと中国の関係が好転しており、李鴻章に対する評価も、残照の清国の最後の宰相として、愛国者でもあったとの評価も出てきており、アモイの要塞に格好の記念物として古証文の写真が、書庫から取り出されて、日の目を見たのであろう。
 余談だが、先年中国のテレビで放映された「共和への道」という連続ドラマで、日清戦争の黄海会戦で敗れるべくして敗れた清国海軍の、悲惨且つとんでもない挿話が紹介されている。皇帝の観閲式に、欧州から買い付けた最新鋭の軍艦から放った砲弾が、的として沖に浮かべた老朽船にいっかな命中しない。あろうことか、このことあるのを恐れていた海軍司令官は、老船に忍び込ませておいた水兵に自爆を命じた。なんとも言いようの無い惨状である。このドラマでは、明治天皇が国民とひもじさを共有せんと、広島の本営で、昼食は硬い握り飯一個で済ませているのに対比して、紫禁城では連日、贅沢な満漢全席を
供させて、箸も付けずに浪費している西太后や皇帝らを映し出している。
 李鴻章にとっては、そんな皇帝であっても忠義を尽くそうとしている。その忠義を果たすためには、軍隊が必要であり、莫大な金が必要であることは何時の時代も同じである。王は、李鴻章の腹心、財布係として資金調達で大変重要な役を果たした。
11.
 その李鴻章のことである。日清戦争の講和交渉に、これもそんな役割など誰も引き受け手がないので、請われてやむなく全権代表として下関に向かった。春帆楼での講和談判の卓に並んだ人物の絵でみると、辮髪を蓄えた李は、大変な寒がりとみえて、彼の隣には火鉢が置いてある。
 2億テールという賠償金の交渉に当たっても、最後の最後になっても、帰国の路銀の足しにいささかでもまけてくれぬかと、伊藤博文に頼んでいる。演出者のシナリオの行間には、それをも彼は私せんとしているような印象を残す。
 台湾や遼東半島まで割譲させられて、帰国後は売国奴として国民から一斉に非難を浴びた。しかし、その後自ら独仏露三国に働きかけて、清朝の故地である遼東半島を取り戻すことに成功した。この時、英国は日本が清朝に外国企業が清国内で工業を興すことができることを認めさせ、自動的に英国がその特恵を享受できるようになったことなどから、日本を重宝し始めていたので、三国干渉には加わらなかった。
 日本の歴史教科書のこの辺の記述は、日本はせっかく手に入れた遼東半島を、
三国干渉により、ロシアに奪われた。憎きロシア! いつの日か,仇を討たんと臥薪嘗胆を唱えた。これが10年後の日露戦争への導火線となるのだ。
 清にとっては、台湾くらいまでは耐えられるが、満州族の故地まで、弟のような存在にすぎなかった小国日本に取られるのは、大変な屈辱であった。この辺の認識が、当時の日本人は理解できていなかったのであろう。爪を伸ばしすぎたとも言えよう。
 日本から取り戻した遼東も、不凍港の欲しいロシアにすぐ租借させている。これは、「夷を持って夷を制す」という李鴻章の思惑から出ている。下関での屈辱を晴らすには、ロシアをして日本に当たらせるのが一番良いと考えた。日本とロシアは早晩、矛を交えることになったであろうが、その触媒役をつとめたのが、李鴻章であった。その李とロシアの間で、実務的なことがらを取り持ったのが、買弁であった。ロシアの方も、日清戦争後、李との接触を強めた。1896年には、清とロシアの政府間の合弁銀行「道勝銀行」を設立し、天津に支店を開いた。外資系銀行として始めて紙幣発行や、塩税、国税などの徴収を認可され、その見返りに、清の親王たちや高官たちの便宜をはかり、清朝御用達銀行として、莫大な資金を運用している。そこに預けた財産保全の為に、李鴻章は腹心の王銘槐を、この銀行の買弁として送り込んでいるのだ。
 李の評価は、最近はいささか修正され、彼の伝記なども、何冊かの本が出版されている。かつての国賊扱いから、西洋列強から祖国を守ろうとして、倒れかけていた清朝をなんとか支えんとして、心血を注いで、苦心した人物として描かれることもでてきた。それは相対的なものではあるが、それまでの腐敗しきった官僚たちに比べれば、の話ではある。国防のために、軍需工場を造り、艦隊を建造し、軍隊を整えたというに過ぎない。それまでイギリスから買っていた武器を、ドイツに切り替えた。背景には支払った代金の一部を還流させる目的もあった。後発のドイツメーカーの方が、そうした方面に融通がきいた。そうした目論見から、買弁を使って、大量の兵器を買い付ける。買弁から還流させた資金は、自分の子飼いの軍隊の軍資金として自在に使える。王はこうした役割をつとめ、当時最大の政商に登りつめた。そして破綻する。まるでつい最近の守屋事務次官と山田洋行の宮崎某の関係のようである。
スケールの大きさで言えば、象と蟻ほど、月とスッポンほどの差があるが。
ちなみに、上海事変で、蒋介石の国民党軍はドイツ製の精鋭な武器で日本軍と対峙した。この英ではなく独のという伝統は李鴻章以来のものといえよう。
12.
 梁さんは、父炎卿と妻妾4人との間に生まれた15人の内の末子らしい。父親は倹約家で、周囲からは「吝嗇(けち)」と、仇名されていた。口癖は「一銭、
一銭貯めることが、金持ちになる道」であった。一方、子弟の教育費は、惜しまなかった。他の南方系中国人と同じく、彼の家系も多産系で、且つ長期に亘って子をなした。
 余談だが、私がシンガポールの南洋大学にいたころ、下宿していた張さん一家は、やはり広東出身で、祖父の代にインド洋のセーシェルに渡り、そこで育った彼は、勉学のために親戚を頼ってシンガポールにやって来た。そこで本屋の見習いをした。その後、一般書の販売から、教科書の販売まで扱うようになり、戦後は印刷も始めた。9人の子供を育て、炊事洗濯に二人の使用人を使い、子供たちは2人一部屋とか3人一部屋で生活させ、離れの2部屋を外国人に貸していた。私たちの前にはインドネシアから来た学生に貸していた。これは、自らがセーシェルから勉学にきた時の経験から来ているものであった。又、子供たちに外国人との交流に慣れさせようとするものでもあったろう。
母屋の食堂には、8人掛けの円卓があり、私も週末などに呼ばれては、親戚やその配偶者などと一緒に家庭料理を食べさせてもらった。高菜と豚の角煮、白菜と蝦の炒めたのなど、素朴なおかずでご飯を御代わりした。8人が食べ終わると、次の8人が座る。食べ終わった人が私を誘って、彼らの部屋でおしゃべりし、カードなどで遊んだ。2段ベッドの部屋で、お金は一杯あるのに、子供の教育は自分が育ってきた多産系の南方人のやり方で、集団で生活させて、お互いの生活の智恵を伝授し、共有させていたのだと今になって感心している。
 長男が結婚するというので、私たちに貸していた離れを新婚用に改装することになった。それで、母家の一部屋を空けるので、そこに住んでくれという。それで残る半年ほどを、中学生の子供たちと隣室になった。夕食前に、サッカーゴールにシュートとか、バドミントンなどして仲良くなった。
 清明節に、張氏の会館で先祖を祭る儀式に誘われた。生贄の山羊が丸ごと供えられ、海外に住む華僑たちの風習をよく見ていってくれと、礼拝の仕方などを教わった。
 大家族の伝統であろう。子供の頃は一つの部屋で、けんかしながら暮らしてこそ、成人してからも兄弟の絆を忘れないのだ。小遣いは一切与えず、質素に暮らさせる。大人になったら親の仕事を受け継いで、事業を大きくする。これが海外に出た華人たちの成功の礎である。広東から天津にやってきた梁さん一家にも、同じ伝統が脈打っている。
13.
 さて、私の梁さんには1878年生まれの長兄がいた。コーネル大学とマサチュセッツ農科大学に学び、1912年、民国初期の唐紹儀内閣のときに、農務次官を務めた。が、唐内閣の退陣により天津に戻り、父の後を継いだ。彼は農場を買って経営しようとしたが、それにも失敗した、云々と記述の後、突然、梁文奎の文字が目に飛び込んできた。「ややや、これはまさしく彼のことではないか。」
 長男は1930年代、頻繁に起こった身代金目的の誘拐事件の犠牲となった。身代金は払ったのだが、当人は死体となって送り返されてきた。それで次男が継いだ。しかし彼も父親のような商才はなく、梁家の前途にかげりが出てきた。
 実質的には、父親の亡くなった1938年に19世紀以来の古いコンプラドールの時代は終わった。その後、戦争で日本の占領が全てを変えてしまった。
 1945年に日本が敗れると、ジャーディンも戻ってきた。彼等が新しいコンプラドールに任じたのが、私の知っている梁さんなのだ。父親が生前、ジャーディンの幹部に、自分が死んだら、彼を後継にしてくれと頼んだのだそうだ。戦後すぐ、学校を卒業したばかりの彼が、四代目の買弁となった。この頃は、戦前のような仕組みはなくなり、代払いなどもなくなって収益は減ったが、高額な給与制となり、彼は1952年にジャーディンが天津から撤退するまで、
船舶部遠洋航海部門の経理を兼任した。
 その後は、前に書いたとおり、政治運動の荒波に巻き込まれ、離れの一角に
軟禁状態のような形で、お姉さんと暮らしてきた。四人組が逮捕され、冤罪で牢に繋がれていた人たちが、名誉を回復し、彼の軟禁も解かれた。新中国になってから30年。さまざまな荒波が何回も彼を飲み込み、海の底へひきずりこまれてしまった。片時も離れずに暮らしてきた姉が亡くなってしまったので、親類のいる南方に戻ろうと決意したという。アヘン戦争から始まった西洋の衝撃を、コンプラドール、買弁という役割を演じながら、受け止めてきた梁さんの一族の物語を知ったことで、それまで歴史の教科書でしかしらなかった、アヘン戦争以後の中国近代史が、身近なものとして私の心に重く残った。
   (2008年3月20日)

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「両地書」序言

 この本はこのようにして生まれた――
 1932年8月5日、霽野、静農、叢蕪の三名の署名した手紙を得、漱園が8月1日朝5時半、北京同仁医院で病没したので、彼の遺文を集めて彼の記念集を出したいので、私の元に彼の手紙が無いか問うてきた。この知らせは私の心を突然緊縮させた。なぜなら第一に、私は彼が快癒できるものと希望しており、必ずしも良くないとは知ってはいたし:彼が良くなるとは限らぬことを知りながら、彼のあの枕に伏せながら、一字一字書いた手紙を棄てるとは思いもしなかった。
 私の習慣は、平常の手紙は返信後棄てるが、議論や故事が含まれているものは往往残した。直近の三年になって二回大焼却をした。
 5年前、国民党の清党時、私は広州で常々起こったこと、甲が捕まり、甲の所で乙の手紙が見つかり、乙が捕まり、また乙の家で丙の手紙が探し出され、丙も捕まり、全員行方不明となり、古い昔に行われた「芋づる式」でしょっ引かれるのを知っていたが、それは昔のことだと考えていたが、事実が私に教訓を与え、現代でも古人と同様、人間として生きてゆくのは困難だということが分かった。然し私はやはりいいかげんで軽い気持ちだった。
1930年に自由大同盟に署名したら、浙江省党部が中央に「堕落文人魯迅等」の通報を呈示したので、私は家を棄て逃げ去る前に、忽然心血が騒ぎ、友人からの手紙を全て棄てた。これは何も「叛逆を企てた」痕跡を消すためではなく、手紙が人に累が及ぶはいわれのないことと思い、中国の役所は一度でも関わりを持つとどれほど恐ろしいか誰も知っているから。後にこの難を逃れ寓居を移り手紙も積み上がり、またいい加減にしていたが、31年1月、柔石が捕まり、彼のポケットから私の名のあるものが出てきた為、私を捜索しているとの話が耳に入った。当然私は又家を棄て逃げた。今回は心血が一層明らかに騒ぎ、当然全ての手紙を焼却した。
 こんな事が二回あったので、北京からの手紙は多分残ってないと思ったが、書箱文箱をひっくり返してみたが何も無かった。友人の手紙は一通も無く、我々自身の手紙が出てきた。これは何も自分の物を特に宝のように大切にしたというのではなく、時間の関係で自分の手紙はせいぜい自分の身の上に関わるだけだから放っておいたためだ。その後これらの手紙も銃砲火に2-30日身をさらしたが、一つも欠けなかった。一部欠落はあるが多分当時は気にも留めず、早くに遺失したもので、官災とか兵火のせいではない。
 人はもし一生で大禍に遭わなかったら、他の人たちは特別視しないが、牢に入れられたり戦地へ行ったりすると、彼がどんな平凡な人間でも特別視する。私のこの手紙についてもまさしくその通りだ。以前箱の底に仕舞いこんでおいたものが、今あやうく訴訟されそうだとか砲火にあいそうだというと、特別なものの様に感じいとおしくなる。夏の夜は蚊が多く静かに字も書けぬので年月順に編集し、地名ごとに三集に分け、統一名を「両地書」とした。
 言うなれば:この本は我々には一時は大いに意義があったのだが、他の人にはさほどでもない。中に死ぬの生きるのという情熱も無く、花よ月よの佳句もない:文辞はといえば、
我々には「尺牘精華」や「書信作法」を研究したことも無く、ただ筆に任せて書いたので、
文律に大きく背いており「文章病院」に入れなければならぬものが大変多い。内容も学校騒動、本人の状況や食事がうまいとかまずいとか、天気の晴曇りなどにほかならず、更にもっと悪いのは我々はその頃大きなテントにいて、幽明も弁ぜず、自分たちのことを語るのは何ともないが、天下の大事を推測するようなことに出会うと、とてもいい加減なことになるのを免れないから、凡そ欣喜鼓舞するような言葉は、今から見ると大抵はたわごとに過ぎない。どうしても特色を挙げろと言うなら、多分それは平凡なことだと思う。
こんな平凡なことは他の人には大概起こり得ない。もしあったとしても、必ずしもそれを残さないが、我々はそうではなかったから、それだけが一つの特色と言えるだろう。
 然し奇怪なことに、ある書店が出版したいという。出版するならそれに任そう。それは自由だが、そのために読者に相まみえることになるから、二つほど声明を出し、誤解を免れなければならぬ。其の一:私は今左翼作家連盟の一員で、近頃の本の広告は、大抵作家が一度左に向かうと旧作は即飛昇し、子供時代の鳴き声さえもすべて革命文学に合致する感があるが、我々のこの本はそうではないし、革命の気息は全くない。其の二:人は常に
書信は最も掩飾の無い、本当の面を顕すものだと言うが、私はそうではない。私は誰に書く手紙でも、最初かならず敷衍し、口では是としつつも、心では非としており、この本でも割と緊要な場面では、後から往往にして故意にぼかして書いており、それは我々のいる所は「当地の長官」、郵便局、校長…などが自在に手紙の検閲ができるお国柄だからだ。
ただ、はっきりと書いたものも少なくはない。
 もう一点、手紙の中の人名は幾つか改名した。その意図はいい面、悪い面いろいろある。
それは他の人が手紙の中で本人の名が出ると具合が悪いとか、私自身のためだけでも、又
「裁判所の開廷を待て」式の面倒を起こさぬようにするためだ。
 六七年来を回想すると、我々を取り巻く風波も少なくなかったと言える。不断のあらがいの中でお互いに助け合ったこともあり、投げてしまったものもある。笑罵誣蔑などされても、歯を食いしばってあらがいながら生活して六七年になる。その間、中傷する輩たちもだんだん自分で暗黒の所に没入して行ったが、好意を寄せてくれた友もすでに二人はこの世にいない。即ち漱園と柔石。我々はこの本を自分たちの記念とし、行為を寄せてくれた友人に感謝し、我々の子供に贈り、将来我々が経てきた真相を知ってもらいたい、というのが大体のところである。
       1932年12月16日 魯迅
 
訳者雑感:生前に作家が日記や書簡集を出版するのはどういう背景、心理からだろう。
やはり読者に読んでもらって、作品としてお金を出して読むに値する「文芸作品」として
世に問おうとするものだろう。従ってこの前文も1933年4月に上海青光書局の出版した「両地書」に最初入れられていたものを、1933年12月31日の夜に上海寓居で「題記」を書いて1934年3月に上海同文書店から出版したこの「南腔北調集」に再編入したものだ。
言うなれば、作家自身による「広告」である。「両地書」が何かの都合で再販差し止めされたり、絶版にさせられても、それを出版したという事実を別の所に残して置きたいという、
切なる願いが込められてもいようか。
 この本が当時の上海でどのように受け止められていたのだろうか。嘲笑、罵倒、誣告、侮蔑するものたちがきっと数多くいたことだろう。その輩たちもじょじょに暗黒の場所に
没入して行った。彼らのことはどうでもよい。少しでも好意を寄せてくれる人々に勇気を
与えることができたら、そして子供たちにも自分らの経てきた道の真相を伝えたい、というのがこの雑文集への編入だと思う。
       2012/01/02訳

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「自選集」自序

私が小説を始めたのは1918年「新青年」で「文学革命」が提唱された時だ。この運動は、今ではもう文学史上の旧事になっているが、当時は疑いの無い革命運動であった。
私の作品の「新青年」での歩調は大抵他の人と同じだったから、確かにこれらは「革命
文学」と呼べる。
 然し当時「革命文学」に対して、実は大した熱情は無かった。辛亥革命を見、二次革命を見、袁世凱が帝政を称すのを見、張勛の復辟といろいろ見、懐疑を抱き始め、失望消沈してしまった。民族主義文学家は今年、小新聞に「魯迅多疑」と書いたがその通りで、私はそうした人たちも本当の民族主義文学家ではないだろうと疑っている。どのように変わるかも分からないのだ。だが私はまた、自分の失望に対しても懐疑を抱いているのは、私が見た人たちや事件は極限られたものであり、こうした考えが私に筆を執る力を与えてくれてもいるのだ。
『絶望の虚妄なること、希望と相同じい』
「文学革命」への直接の熱情ではないとしたら、またなぜ筆を執ったのか?考えてみれば、
大半は熱情家たちへの同感だ。これらの戦士は寂寞の中にいながら、考えは間違っていないから、いくらか叫んで応援しようと思った。まずはそのためだ。勿論この間には旧社会
の病根を暴露し、人々に注意を喚起し、なんとか治療したいとの希望も混じっていたが、
この希望達成の為に、前駆者と同一歩調を取るべきで、それで私は暗黒を削って笑顔を装い、作品に少しの明るさを出した。それが後に「吶喊」計14篇となった。
 これらも「遵命文学」と言える。しかし私が遵奉したのは当時の革命前駆者の命であり、
私自身もまたその命を遵奉することを願ってい、決して皇帝の聖旨とかお金や指揮刀の為ではない。
 後に「新青年」の団体は散り散りになり、ある者は出世しある者は隠退、ある者は前進、
私はまた同一陣営の仲間にもやはりそうした変化があることを経験し、一「作家」の肩書を得て、依然砂漠の中を歩き回り、すでに散漫な雑誌に気ままに書くということから逃れられなくなった。小さな感触から短文を書き、誇張すると一種の散文詩を一冊にまとめたのが「野草」だ。まとまった材料を得て短編小説を書いたが、唯の勇兵となり、たいした
布陣もできぬので、技術面では前作よりましになったし、考え方もわりとこだわりをなくしたが、戦闘の意気込みはだいぶ冷めた。新しい戦友はどこにいるのか?これはとてもまずいと思った。そこでその時期の11篇を「彷徨」にまとめ、それ以後は二度とこのようにはならぬように願った。
『路漫漫と果てしなく、其れ修遠(遠くまで伸びている)、吾将に上下して求め索(たずぬ)』
(「離騒」から「彷徨」を取った:出版社)
 計らずもこの大口はその後影も形も無くなった。北京を脱出、アモイに身をひそめ、只
大楼上で幾らか書いたのが「故事新編」と10篇の「朝花夕拾」前者は神話伝説と史実の
演義で、後者は追憶の記述。
 その後は何も書かず、「空空の如し也」
 しいて創作と称せるのは只この5冊のみで、短時間で読み終えられるのだが、出版社は
自選集として一冊選べという。推測するに多分こうすると一つは読者の出費節約、二つには作者の自選だから他の人より特に分かりやすいはずだということか。一番目は私も異存はない。二番目はとても難しい。これまで私は格別注力したとか、特に手を抜いたという作品は無いから、特に高妙と思う物もなく、抜きんでた価値を持つ作品も無い。仕方ないから材料と書き方の異なるものを読者の参考に供する為、22篇を選び一冊とし、読者に
「重圧感」を与えるような作品は務めてはずした。これは現在の私の考えが:
 『自ら苦しんで寂莫と感じたものを、私の若い時のように今まさしく美しい夢をみている青年に伝染させたくないからだ』
 然しこれもまた「吶喊」を書いた頃のように故意に隠瞞したのとは似てはいない。なぜなら、今私は現在と将来の青年はきっとそんな心境にはならないと信じているから。
     1932年12月24日 魯迅 上海寓居にて記す
 
訳者雑感:
 今の青年たちに、魯迅が若い頃なめたような「苦しい寂莫」を伝染させたくないから、
22篇の自選集には、「狂人日記」「薬」など「重圧感」を与えるものははずしたという。
「奉納劇」と「藤野先生」も無い。「奉納劇」は「故郷」と材料とか舞台が近いせいか。
だが「藤野先生」は日本語訳には必ず入れて欲しいと言ったほどで、それを目にした
藤野先生と再会できることも期待していたという話もある。そして戦後にはこの作品が
中国でも有名になり、仙台の東北大学に彼の銅像が建てられたほどだし、そもそも「吶喊」
の序にある「スライド事件」はこの仙台が出発点であり、「棄医就文」への転機となったものだ。だがこの1932年ころの日本の侵略が激しくなる時代に「藤野先生」を入れることは
問題だと考えたものだろう。本当は青年に勇気を与えるものであるのだが。
       2011/12/27訳
 

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罵倒恐喝は戦闘に非ず

罵倒恐喝は戦闘に非ず
 「文学月報」編集部への書信
起応兄:
 一昨日「文学月報」4号拝受し一読。物足りないと感じたのは、他の雑誌の多様さに及ばぬためではなく、以前よりまだ充実できていない点です。ただ今回数名の新しい作家を出してきたのは極めていいことだし、作品の良しあしはさて置き、ここ数年の刊行物にかつて名のうれてない作家は登載されぬ趨勢では、新しい作者は作品発表の機会をなくすでしょう。今この局面を打破し一月刊誌の一号にすぎぬと雖も、ついにこれらの沈悶を一掃したのは良いことだと思う。但し、芸生氏の詩には非常に失望した。
 この詩は一目瞭然、前号のべドヌイの風刺詩を見て書いたもの。然し比べると、べドヌイの詩は自ら「悪毒」と認めながら、最もひどいのでも笑って罵るに過ぎぬ。だがこの詩はどうか?侮辱の罵倒あり、恐喝あり、又意味の無い攻撃あり:その実必ずしもそうまでしなくともよい。
 例えば、冒頭から姓についての冗談。作者が使う別名から彼の思想を推察できる。「鉄血」「病鵑(ほととぎす)」の類は固よりそこから小さな冗談を始めるのは構わない。しかし、
姓氏貫籍は本人の功罪を決められない。それは先祖から受け継いだもので、彼が自主的にどうこうできぬ。というのも4年前、ある人が私を「封建の遺物」と評し、その実それを題材にして、自分はしてやったりと思いあがっているのは、本当に「封建的」である。
この気風はここ数年大変少なくなってきたが、はからずも今また復活し出したのは、確かに退歩と言わざるを得ぬ。
 特に堪えられないのは、結末の侮辱罵倒だ。今一部の作品は、必要でもないのに会話中に罵倒を多用するきらいがある。どうもそうしないと無産者の作品ではないようだ、と。
罵倒が多ければ多いほど無産者の作品のようだ。だが良い労農は、めったやたらに罵ってはいない。作者は上海ヤクザの行為を彼らの身上に塗ってはいけない。たとえ罵るのが好きな無産者がいても、それはただ悪い癖であり、作者は文芸的に正さねばならず、万に一つも二度と展開してはならず、将来の無産階級社会で、一言でも不都合のため、祖宗三代に亘ってごたごたが収束できないことになる。ましてや筆戦でも他の兵戦や拳闘と同様、隙を窺い虚に乗じるのが良く、一撃で敵の死命を制しても構わぬのであって、ずっと騒ぎ続けると「三国志演義」式戦法となり、父母を罵るまでになって、意気揚々と引きあげて、
自分では勝利したと思うなら、それはまったく「阿Q」式戦法だ。
 次にまた「西瓜割り」の類の恐喝。これも極めて間違っていると思う。無産者の革命は、
自己の解放と階級の消滅の為で、人を殺す為ではない。たとえ正面の敵が戦場で死ななくても、大衆の裁判が有り、一詩人が筆で生死を判定できない。今なにやら「殺人放火」の伝聞が多く飛び交うが、これも一種の誣告で、人を陥れることだ。中国の新聞では本当の事は分からぬが、外国の例を見ればわかるし、ドイツの無産階級革命(成功しなかったが)
では、みだりに人殺しはせず、ロシアはツアーの宮殿すら焼き打ちしなかったではないか?
だが我々の作者は革命労農の顔に、人を脅かす鬼の面を描いている。これは粗暴の極みだと私は思う。
 勿論中国の暦来の文壇には誣告で陥れることや、デマ、恐喝、侮辱罵倒は、多くの歴史に見られるし、今に至るも応用してきており、更にひどくなっている。
 だが私はこの遺産はすべて狆ころ文芸家に受け継がせ、我々の作者はそれを抛り棄てねば彼らと「同じ穴の狢」になってしまう。
 しかし私は敵に追従笑いとかへりくだれと言うのではない。戦闘的作者は「論争」に重点を置くべきで:詩人として情として抑えきれぬ時には、憤怒や嘲笑罵倒もダメだとはいえない。だが嘲笑に止め、熱く罵るに止めるべきで、「喜怒哀楽、皆文章となす」ようにし、
敵にそれで大きな痛手を負わせて死に到らし、自分は卑劣な行為に出ず、見る者も汚いと思わぬようにする。これこそ戦闘的作者の本領である。
 たった今以上のことを思い到ったので編者の参考までに送ります。要するに今後の「文学月報」に二度とこのような作品が載らぬよう希望します。
 取り急ぎ用件のみ。 よろしく。
            魯迅 12月10日
 
訳者雑感:
「喜怒哀楽、皆文章と為す」は宋の黄庭堅の「東坡先生真贊」にある由。(出版社注)
無産者文学の作者たちが陥りやすい問題を取り上げ、やみくもに相手を罵倒するとか、
西瓜割りの如くに敵の頭を叩き潰せ式の「威勢」だけの文章を戒めている。
 蘇軾は何回も左遷され、危うく死刑にされそうにもなるほど、敵を攻撃する文章をたくさん書いたし、詩もたくさん作った。詩の言葉をよくよく吟味すると彼と敵対していた相手にはとても大きな打撃を受けるような内容だった。彼は意識してそう書いたのかどうか。
彼は喜怒哀楽皆文章に為す、という考えだからものごとに対して自分の喜怒哀楽の感情を
思いついたままに書きつけたのだと思う。それは別に罵ったり侮辱したりするような内容ではなかった。しかしそれを読んだ相手は自分のことを謗っていると思い、彼を解任し、南方に左遷した。蘇軾は何回も左遷され、海南島に流刑になってもくじけず詩作を続けた。
彼の楽天を魯迅はどう捉えたのか。この雑文に「喜怒哀楽皆文章と為す」を引用した。
     2011/12/22訳
 

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太炎先生から思い起こす二三のこと


(小活字で)題を書いてからいささか躊躇した。空話が多く俗語に言う「雷声大にして雨少なし」ではないかと危惧する。(これ以降は普通の活字に戻る)
「太炎先生に関する二三のこと」を書いてから、もう少し閑文を書けると思っていたが、もう根気が失せ止めるほか無かった。翌日目が覚めたら新聞がもう届いていて、読みだしたら覚えず頭を撫でながら驚いて声をあげた「双十節25周年!中華民国も1世紀の四分の一が過ぎた。快ならざるや!」但しこの快は迅速の意味だ。その後増刊をパラパラめくると、新人作家が老人の文を悪罵するのを偶見し、頭から半瓢の冷水をかけられたようだ。
私を例にとっても性情は日に日にひねくれてきて、25年しか経っていないのに一世紀の
四分の一と買いて喜び、形容が多く一体何を言いたいのか:且つまた頭を撫でるしぐさなど、実に時代遅れそのものだ。
 このしぐさは驚喜或いは感動した時に、もうすでに四分の一世紀やってきたが「辮髪は
やっと切り落とせた」というべきで、もとは勝利の表現だった。この気持ちは現在の青年には通じない。街で辮髪の男がいても、30前後の壮年と20歳前後の青年は珍しがるのみ。
 或いは面白いと感じるだけだと思うが、私は依然憎み怨み憤怒するのは、自分がかつて
これで大変な苦しみを味わったためで、辮髪切りは大問題だったためだ。私が中華民国を
唇を焦がし舌がただれるほど愛するは、これが衰微するのを心配するからだが、その実、
本当は辮髪を切り落とせた自由を得るためで、初めのころ古跡保存のために辮髪を切らずに残せというなら、私は多分決してこれほどまでに民国を愛しはしなかった。 張勛でも段祺瑞でも誰でも構わぬ。私は本当に愧かしいが、一部の士君子の大きな度量には及ばないのだ。
 子供のころ、当時の老人の話では:髪剃り職人の道具箱の旗竿には、三百年前には頭が
懸けられていた。満州人が入関し辮髪令が出され、髪切り人は通りで人を拉しては髪を切った。歯向かうものは頭を切り落とし旗竿に吊るし、他の人間を探しに行った。当時の髪切りはまず水をつけ、もんでからカミソリで剃ったが、実に気の塞ぐことだったが、頭を吊るしたという故事に対しては、怖いとは思わなかった。カミソリが嫌いだといっても、
もうその頃は髪剃り人は私の頭を切り落とすことも無いし、旗竿の枡の中から飴を取り出し、剃り終わったら上げるよと言い、懐柔策を取るようになっていたから。見慣れると誰も怪しく思わない。辮髪も醜いとは感じなくなり、スタイルも豊富になり、姿かたち論で言うと、ゆるく結ぶもの、きゅっとしたの、三つに分けたり、バラバラにしたり、周囲に前髪を垂らしたり(今の「劉海」)それも長短あり、長いのは二本の細い辮髪にしたり、
てっぺんで丸めたり、自分の姿を見て美男子だとうっとりしたり:作用論でいうと、ケンカの時は引っぱられるし、姦通したら切り落とされたし、戯劇を演じる時は鉄竿に縛り付けることもできた。父親として子女を鞭打つときに使ったり、変劇をやる時は、頭を揺らせば龍蛇の如く飛舞できた。昨日警官が道で人を捕え、片手で一人ずつ計二人を引っぱっていたが、これが辛亥革命前なら、辮髪を掴めば少なくとも十数人は可能で、治安の観点から言えば、至極便利だ。不幸にして所謂「海禁が廃され」士大夫が洋書を読み始め、比べるようになり、西洋人に「豚の尻尾」と言われなくても、すでに全て剃るのでもなく、全て残すのでもなく、ぐるりと剃って、一つまみだけ残し、尖った辮髪にし慈姑(くわい)の芽のようにしたが、もう無茶苦茶だったと思うが、何もそんなにする必要もないのだ。
 これは民国生まれの青年もきっと知っていると思うが、清の光緒の頃、康有為が変法をしたが成功せず、反動として義和団が起こり、八国聯軍が北京に入城した。この年代はとても覚えやすい。ちょうど1900年。19世紀の終わり。そこで満清政府の官民はまた維新をしようとし、維新には昔からの譜があり、例によって官吏を外国に考察に派遣し、学生を留学させた。私もその時、両江総督が日本へ派した人たちの一人。勿論排満の学説と辮髪の罪状及び文字の獄などの大略は早くから一部は知っていたが、まず初めに実に不便だと感じたのは辮髪だった。
 凡そ留学生は日本に着くと急いで求めたものは新知識で、日本語学習と専門の学校への進学準備のほか、会館に出かけ、書店を回り、集会に行って講演を聞く。最初の経験は、名前は失念したがある会場で頭を白い包帯で巻き、無錫なまりで排満をぶつ英勇的
青年で、覚えず粛然と敬意を持った。だが聞いてゆく内に「私がここであの婆あを罵ると、婆はきっとあちらでは呉稚暉を罵っている」と言う。皆はどっと笑ったが、何の面白いことも無く、留学生はにやけたあほ―に他ならぬと感じた。この「婆あ」は西太后を指す。
呉稚暉は東京で集会を開き、西太后を罵るのは目の前のことで、疑いもないが、その時
西太后は北京で会を開いて呉稚暉を罵るというのは信じられない。
 講演は固より嘲笑と罵りを挟むのは構わぬが、意味のない悪ふざけは無益なだけでなく、
有害である。だが呉先生はこの時まさに公使蔡鈞と闘争中で、名は学界に馳せ、白包帯の下に名誉の傷痕が蔵されていた。それからまもなく本国に送還されることになり、皇居外堀を通りかかった時、逃げ出したがすぐ捕まり、国に護送された。これが後に太炎先生と
彼が筆戦時の文中にある所謂「大池に身を投ぜず、陽溝に投身して、面目を露す」だが、日本のお堀は決して狭小なものではないが、警官護送時だから、たとえ面目が露れなくても必ず救い出されただろう。(留学生取締法で送還されることへの抗議の自殺未遂:訳者)
この筆戦は日ごとに激しくなり、ついには毒々しい罵詈雑言が混じるようになった。今年
呉先生は太炎先生が国民政府の優遇を受けたのを風刺し、この件を再提起し、30余年前の
古帳簿だが今も忘れず、怨みの毒がいかほどかが分かる。だが先生手ずからの「章氏叢書」にはこうした攻戦の文章は集録されてない。先生は務めて清虜を排したが、数名の清の儒者に対しては服膺し、殆ど古賢の後を追おうとしてこの様な文言で自身の著述を穢したくなかった――私は、その実それは大きな損失で、欺かれているのだと思う。この種の
醇風は正に物の本質を隠してしまうので、千古に禍を残すのだ。辮髪を切り落とすのは、
当時ほんとうに一大事だった。太炎先生は切った時「辮髪を解く」を書き、中に言う――
 『…共和2741年(1900年)秋9月、余33歳。時満州政府は非道にも朝士を殺傷虐待、
強い隣国をむやみに挑発し、使節を殺し商人を略し、四方と交戦す。東胡の無状(非礼)
を憤り、漢族の職を得られぬのを、落涙して曰く:余すでに而立するも、なお戎狄の服を被り、咫尺も違わぬに剪除できぬは余の罪なり。薦紳束髪(かつての漢族の服装)して以て近古に復さんとするも、日すでに給せず。衣もまた得られぬ。そこで曰く:昔祁班孫、
釈隠玄、皆、明の遺老を以て断髪し歿す。「春秋穀梁伝」に曰く:「呉祝発」「漢書」「厳助伝」に曰く:「越劗(きる)髪」と(晋灼曰く:劗は張揖、古くは剪の字也)余呉越の民のゆえに之を去るも亦猶古の道を行う也…』
 これは木刻初版と排印再版の「訄書」に見えるが、後に更定を経て「検論」と改名された時削除された。私が辮髪を切ったのは私が越人だからでなく、越人は古い昔「断髪文身」
したことから、今特にこれに倣い、先民の儀礼規則をまねたのみ。いささかも革命性は無い。要するに不便だからである:第一脱帽に不便、次に体操に不便、三番目は頭上に巻くのがとてもうっとうしいからだ。
 事実としては辮髪を切った者も帰国後はまた黙って伸ばし、二心の無い臣と化した者も多かった。黄興は東京で師範学校の学生だったとき、断髪はしなかったし、革命を大いに叫ぶこともなかった。彼の楚人としての反抗的蛮性を少し表したのは、日本の学生監督が
中国人学生の裸を禁じたのを、わざと上半身裸で、ホーローの洗面器を手に、浴室から中庭を通って、ゆうゆうと自修室に戻ったことだけだ。
 
訳者雑感:太炎先生とは章炳麟の字。彼が辛亥革命前後に書いた攻撃的な文章をその後の
「章氏叢書」で削除してしまったことを、大きな損失で欺かれているものだと指摘する。
青年時代、東京で師と仰いだ人の晩年になって清儒の仲間入りをして、後世に名を残そうとする人の行為を、大きな損失でそうすることは「古い儒教の呪縛」に欺かれているのだと断じている。言ってみれば章氏は「転向」したわけだ。革命派から古典的儒学派へ。
 最後の段で、魯迅本人は別段革命性があって辮髪を切ったわけじゃなく、ただ不便だから切ったまでだと書いている。しかし彼は帰国後、上海で2元のニセ辮髪を買っている。
その一方で、多くの革命を叫んで辮髪を切った連中も、帰国後は黙ってまた伸ばした、と。
二心の無いことを証明するために。そうなのだ、清朝政府に雇ってもらうためには辮髪無しでは不可能だったから。
 それにしても、末筆で突如黄興に触れて、辮髪も切らなかったし革命を叫びもしなかった。ただ監督の言うことに反発して裸で中庭を歩いただけ、というのは何を示唆するのか。
    2011/12/21訳
 
 
 
 

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「連環画」を擁護する

 かつてこんな経験がある。ある日、さる宴席で気ままに:映画を使って学生に授業をしたらきっと教師の授業より良いから、将来はそうなるだろう、と。だがこれは話し終わらぬ内にどっと笑いの渦にかき消されてしまった。
 勿論この話には多くの問題があり、例えばまずどんな映画を使うか。アメリカ式の大金をもうけて結婚する式の映画は当然ダメだ。しかし私自身は確かに映像を使った細菌学の講義を受けたし、全て写真で数句の説明があるだけの植物学の本を見た。だから生物学だけでなく歴史地理も可能だと深く信じている。
 だが多くの人はすぐどっと笑いだし、白いチョークで相手の鼻を塗り、ピエロがふざけあっているようにしてしまった。
 数日前、「現代」で蘇汶氏の文を見たら、彼が中立的文芸論者の立場で「連環画」を抹殺していた。勿論それは気ままな発言に過ぎず、絵画の専門的な言葉で討論した物でもないが、青年美術学生の心にとっては多分重要な問題ゆえ、再び少し書いてみよう。
 絵画史で見慣れている挿絵に「連環画」は無い。名人の作品展には「ローマの夕照」や「西湖晩涼」でなければ、下等なものとみなされ、「大雅の殿堂」に飾るものではない。
だがイタリ―のヴァチカンへ行けば――私はまだその福に浴しておらず、紙上のヴァチカンだが――偉大な壁画が見られ、殆ど「旧約」「耶蘇伝」「聖者伝」の連環画で、美術史家はその一段を取り出し印刷して「アダムの創造」「最後の晩餐」と題し、みる者はそれを下等とは思わない。その原因は宣伝の妙にあり、その原画は明らかに宣伝的連環画である。
 東方でも同様。インドのアジャンター石窟はイギリス人が模写印刷して美術史上で光を増した:中国の「孔子聖跡図」も明版すらとうに収蔵家の宝となった。この二つは、一つは仏陀の本生(ジャータカ)で、もう一つは孔子の事跡で、明らかに連環画の宣伝である。
 本の挿絵は、もとは書籍を装飾して読者の興趣を増すためだったが、その力は文字の及ばぬ所を補助するものだったから、一種の宣伝画であった。この画の枚数が極めて多くなると、図像を見ただけで内容が分かり、文字と離れて独立した連環画となった。最も顕著な例がフランスのG.Doreで彼は挿絵版画名人で、最も有名な「神曲」と「失楽園」「キホーテ先生」「十字軍記」の挿絵で、ドイツでは全て単行本になっていて(前の二つは日本にもある)概略を見れば本の梗概が分かる。然るにDoreのことを美術家でないと誰がいうだろうか?
 宋の人の「唐風図」と「耕織図」は今も印本と石刻が入手可能で:仇英の「飛燕外伝図」
と「会真記図」に至っては、翻印本が文明書局から発売された。凡そこれらは、当時も
現在も美術品である。
 19世紀後半以来、版画が復興し多くの作家が数枚の「連作」刻印を好んだ。この連作は、
決して単なる事件ではない。今青年美術学生のために幾つかの版画史上での地位を固めた
作家と一連の実際の作品を下記する。
 最初に挙げねばならぬのはドイツのKollwitz夫人。彼女はハウプトマンの「織匠」の
為に、6枚の版画を彫ったほか、三種の題はあるが説明文のない――
1.「農民の闘争」金属版 7枚
2.「戦争」 木刻 7枚
3.「無産者」木刻 3枚
中国では「セメント」の版画で知られているC.Meffertは新進の青年作家で、かつて
ドイツ語訳のFignerの「狩りをするロシア皇帝」の為に5枚の木版画を彫り、また2種
の連作――
1.「貴方の姉妹」木刻 3枚 題詩一幅:
2.「擁護する門徒」(原作未詳)木刻 13枚
 ベルギーのMasereelは欧州大戦時、ロマンロラン同様、非戦のために国外に逃れた。彼の作品が一番多く、すべて一冊の本になり、書名のみで小さな題目すらない。今ドイツで印刷された普及版は一冊3.5マルクで入手は容易だ。私が見たのは
1.「理想」木刻 83枚
2.「我が祈り」 木刻 165枚
3.「字の無い物語」 木刻 60枚
4.「太陽」  木刻 63枚
5.「仕事」木刻 枚数失記。
6.「一人の受難」木刻 25枚
 米国作家はSiegelの木刻「パリコミューン」を見たことがあるが、NYのJ.Reed Club
の出版。また石版のW.Cropperの描いた本で、趙景深教授説では「サーカスの物語」(正しくはサーカス団の)で、別の訳にするときっと「信だが不順」となりそうだから、原名のまま下記引用する――
 「Alay-Oop」(Life and Love Among the Acrobats)
 英国の作家は作品の値段が高いので余り知らない。
しかし一冊の小冊子に15枚の木刻と200字未満の説明だけで、作者は有名なGibings
の500部限定があり、英国紳士は死んでも重版を肯んじないから、今は絶版になり、一冊
数十元するだろう。それは
「第七の男」
 以上、私の考えは全て事実を挙げて連環画が美術となれるだけでなく、すでに「美術の宮殿」に座っているということだ。これも他の文芸同様、良い内容と技術が求められているのは言うまでも無い。
 私は青年美術学生に、大判の油絵や水彩画を棄てろと勧めるのではない。それと同様に
連環画と本や雑誌の挿絵を重視し、努力するのを望み:勿論欧州の名家の作品は研究すべきだが、中国の古書の挿絵や画本や新しい一枚一枚の花紙(年画の絵)にも注意すべきだ。
こうした研究とここから出てくる創作は、勿論今の所謂大作家が一部の人たちから受けている例のような感嘆や称賛は得られないが、私は信じている:連環画は、大衆が見たいと
思っており、大衆はきっと感激する、と!
           7月25日
 
訳者雑感:
 魯迅の冒頭の話しは、テレビ講座とか放送大学とかを予見していたようだ。仙台で医学の授業に見た細菌学のスライドと「日露戦争の戦争報道」のスライドが強烈な印象として
彼の脳裏に残されていたのだ。それを30年後にこう書いているわけだ。
 彼は子供のころから中国の古小説や物語の挿絵を書き写すのが大好きだったし、それを
一冊の本に仕上げてもおり、金持ちの子弟の級友が欲しいというので小遣い稼ぎに売ったりもしたと自ら書いている。
 ヴァチカンの絵は宗教宣伝の連環画の一部だと喝破しているのはさすがだ。「二十四孝図」などの挿絵や仏教の教えを広めるための地獄絵図や「死無常」などの挿絵が彼の小さい頃に抜けることのないイメージを育てたのだろう。
講釈師の傍らに架けられた絵、紙芝居、文字の助けとして挿絵、連環画は今のアニメの原点だろう。連環画は文革中にたくさん出回った。手のひらにすっぽり入るほどの小型の物が、中国中に広まり、毛語録しか書棚になかった本屋にもこれだけは買うことができた。
それは、内容としてはやはり中国共産党の宣伝臭のあるものではあったが、毛語録では伝えきれないものを大衆と子供に伝えようとしていた。大衆はこれを見たがったし、感激もしただろう。だが、文革の終了後は、その数がめっきり減り、テレビでアニメが放映されると、姿を消した。
 魯迅が冒頭で指摘した通り、先生の授業より面白いことになり、連環画すらもテレビという映像にその主役の座を明け渡したかもしれぬが、やはり紙に印刷した漫画は依然として大きな人気を博している。原作は原点だから。
     2011/12/19訳
 

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太炎先生について二三のこと

 少し前、上海のお上と紳士たちが太炎先生の追悼会を開いたが、参加したのは百名に満たず、寂漠のなかで閉幕したので、一部の人は、青年たちは自国の学者に対して、外国のゴーリキーへのような熱い思いに及ばずと慨嘆した。これは実は当を得ていない。お上と紳士の集会にはこれまで小市民は参加しようとせず、それにゴーリキーは闘争の作家だが、
太炎先生は最初は革命家として活躍されたが、後に静かな学者になり、自らの手と人の助けを借りて壁を造り時代と隔絶してしまった。祈念したい人は当然いるが、多くからは忘れ去られた。
 先生の業績は革命史上に残るが、実際それは学術史上より大きいと思う。30余年前を回顧すると、木版の「訄書」(きゅうしょ:初期学術論著作)が出されて、懸命に読んだが、句読点すら付けられず、多分当時の青年の多くは皆同じだったろう。中国に太炎先生がいるのを知ったのは彼の経学と小学(文字関係)のためでなく、彼が康有為を駁斥し鄒容の
「革命軍」に序を書いたためで、そのために上海の西牢に監禁されたためだ。当時日本に留学中の浙江籍の学生は(雑誌)「浙江潮」を発行し、そこに先生が獄中で書いた詩を載せたが、その詩は難しくなかった。これが私を感動させ、今も忘れない。ここに二首を写す。
  獄中 鄒容に贈る                                                           
  鄒容 吾弟、有髪で瀛州に下り、快く剪刀で辮髪を除き、干した牛肉で餱(ほしい)を作る。英雄入獄するや 天地亦悲秋、 命に臨み手で支うべきは乾坤只両頭。
 
  獄中 沈禹希の殺さるを聞く
  久しく沈君を見ず、 江潮 隠に淪ずを知る(沈む)。
  粛々 壮士を悲しみ、今 易京の門に在り。
  魑魅(ちみ)は争焔を羞じ、 文章は総じて断魂。
  中陰 当(まさに)我を待ち、 南北は幾つもの新墳。
 1906年6月出獄、即日本に渡り東京に着くや暫くして「民報」を主持。私はこの「民報」
を愛読したが、先生の文筆の古奥のためでなく、解釈も難しく、或いは仏法を説き「倶分
進化」を講じ、保皇を主張する梁啓超との闘争、「XX」のXX闘争、「紅楼夢」を成仏への
要道」とするXXX闘争、まことに向かうところの草をなぎ倒し、読むものをはつらつとさせ、意気を旺盛にさせた。聴講したのもこの頃だったが、学者だからではなく、学問のある革命家だからであった。
 従って今でも先生の声形笑顔は目に浮かぶが、講義された「説文解字」は一句も覚えていない。
 民国革命後、先生の志は達せられ、大いに為す所あるはずだったが、志を得られずに終わってしまった。これもゴーリキーが生きて崇敬を受け、死して哀悼されたのとまったく異なる。二人の遭遇が異なる由縁の原因はやはりゴーリキーのそれまでの理想が後にすべて実現し、彼の一身は大衆と一体となり、喜怒哀楽すべて相通じたが:先生は排満の志は
大いに伸べられたが、最も緊要なことは「まず第一に宗教的信心を発起し、国民的道徳を増進すること:第二は国粋で民族性を激動させ、愛国の熱腸を増進させる」(「民報」第6)
にあり、僅かな高妙な幻想に止まったこと:暫くして袁世凱が国を奪い、私下から、更に
先生は実地を失い,空文を垂れるのみとなり、今となってはただ我々の「中華民国」の呼称は先生の「中華民国解」に源を発すのが(これも「民報」にあり)巨大な記念となるのみで、これを知る人ももう多くないだろう。
 民衆から離れ、だんだんすたれ去り、後に投壺(宴会の遊び)に参じ贈答品を受け、遂に論者の不満の対象となった。これも玉にきずに過ぎず、晩節を穢したわけではない。
 其の生涯を顧みるに、大勲章を扇の柄飾りとし、総統府の門に臨んで、袁世凱の悪企みを大いになじった第一人者で:七度捕まり、三回(実は二回:出版社)入獄させられたが、
不撓不屈な革命への志は彼に及ぶもの無し:これぞ先哲の精神で、後生の模範だ。近頃、
売文の輩が小新聞と結託し、先生を誹謗する文を得意になって載せているが、これは実に
「小人は人の美を成すを欲せず」で、「羽蟻が大樹を揺らそうとするが如き、身の程知らず、
笑止千万だ!」
 しかし革命後、先生は徐々に後世に示すために、自らその鋭い舌鋒を仕舞われた。浙江で印刷した「章氏叢書」は手ずから編されたが、敵の間違いを暴くとか、怒り罵倒した物は大抵、古(いにしえ)の儒風にたがうとして、多くの人から謗りを受けると思われたか、
以前の刊行物に載せられた闘争の文章の多くは落とされたし、上述の二首も「詩録」に無い。
 1933年の北京版「章氏叢書続編」は所収品も少なく、更に純粋謹厳でかつ旧作は取らず、
当然ながら闘争の作品も無く、先生はついに身に学術の華やかな衣をまとい、純粋の儒の大家となって、贅(ニエ)を執って弟子になりたいと思う者はとても多くなり、倉皇と
「同門録」まで作られた。最近の新聞に版権保護の広告が出、三つめの続叢書の記事があり、遺された著作の出版計画があることが判るが、以前の戦闘的文章を補すかどうかは、知るすべもない。戦闘的文章は先生の生涯で最大級かつ最も永久的業績で、もしそれを入れる備えが無いというのなら、私は一つ一つ集録印刷して先生と後生たちを相い印せしめ、
戦闘者の心に活かすべきと思う。然し今この時に際し、そう望んでも実現できぬかもしれぬ! 嗚呼!          
                    10月9日
 
訳者雑感:最後の段は、墓銘碑のように感じる。章家は魯迅に墓銘碑を書いてくれとは依頼しなかったろう。儒の大家として後世に名を残そうとしたのはどういう経緯からだろうか。排満には成功してもその後の袁世凱あたりまでは罵り続けてきたが、投壺という古代の宴会遊びや贈答品を受けるようになったのは、多くの文人学者が家族やその取り巻きからの「出世栄達、将来の子孫繁栄」のため、或いは「自分の今の心地良い生活」を維持するためだったかもしれない。軍閥政府とか日本の傀儡政府などで高官の職に就き、それで
なんとか自分一家と周囲に安寧な暮らしをさせながら、生きていこうと決めたのだろう。
魯迅の弟、周作人も同じく、日本人妻と共に傀儡政府の北京での「心地よい暮らし」を
棄てきれず、傀儡政府に出仕して協力し、戦後共産党政府から奸漢とされてしまった。
一方の魯迅は、軍閥政府からにらまれ、逮捕されそうにまでなった結果、北京を脱出せざるを得ず、南方に逃げて、罵る生活を続けた。そして罵った相手から罵り返されたが、それを雑文のネタにして生計を立てた。
      2011/12/17訳

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「第三種人」を論ず


 三年来、文芸面の論争は停滞し、指揮刀の保護の下で「左連」の看板を掲げ、マルクス主義の中に文芸自由論を見つけ、レ-ニン主義に共匪の皆殺し説「理論」を探し出した論客(胡秋原を指す。彼は真正のマルクス主義者と自任する一方で中国工農紅軍を土匪と蔑視した)以外、殆ど誰も口も開けなかったが、それでもなお「文芸の為の文芸」的文芸が「自由」だというのは、彼がルーブルを貰った嫌疑が全くないからだ。だが「第三種人」即ち「死んでも文学を放さぬ人」もまたある種の苦痛の予感から免れない:左翼文壇が彼のことを「資産階級の狗」と呼ぶのではないかという予感である。
 この「第三種人」を代表して不平を鳴らすのは「現代」の3号と6号の蘇汶氏の文章だ。
(私はまず声明せねばならぬが:便宜上暫く「代表」「第三種人」と書くが、これらは蘇汶
氏の「作家の群」や「或いは」「多少」「影響」という余り断定的ではない言葉を使うのと同様、固定的な名称が不要だというのは、名が一旦固定してしまうと不自由になるからだ)
彼は左翼の評論家はややもすると作家の事を「資産階級の狗」とみなし、甚だしくは中立者も中立ではないとし、中立ではないとなると「資産階級の狗」とみなす可能性があり、「左翼作家」と称すと「左だが何も書かず」「第三種人」は書こうにも書けないという状態で、文壇には何も無くなってしまう。しかし文芸は少なくとも一部は階級闘争の外に出ており、将来の「第三種人」が抱えている真に永遠の文芸となる。ただ惜しいことに左翼理論家は敢えて書こうとしないのは、作家がまだ書く前から罵られる予感を持つからだ。
 この種の予感はありうることだと思うし、「第三種人」を自任する作家が愈々増えるだろう。作者の言うことは今とてもわかりやすい理論で、感情が変わりにくい作家だと思う。
然るに、感情不変となれば、理解できた理論の度合いも感情が既に変わったか、或いは略
変わったものと異なることは免れぬし、ものの見方も全く異なってこよう。蘇汶氏の見方は私からみると全く正確とはいえない。
 勿論左翼文壇ができてから、理論家は間違いを犯し、作家の中にも蘇汶氏のように「左だが書かない」だけでなく、左ながら右、甚だしくは民族主義文学の一兵と化し、書店のオヤジ、政党のスパイとなり、これら左翼文壇嫌いの文学家の遺した左翼文壇も依然存在し、存在するだけでなく更に発展し、自分の短所を克服し、文芸と言うこの神聖な地に向かって進軍する。蘇汶氏は問う:三年かけて克服しようとしたがまだうまくゆかぬか、と。
答えは:はい、まだ克服し続け、30年はかかるかも、と。然るに一方で克服しつつ一方で
進軍するのは、克服完成まで待てぬからで、然る後にあの様な馬鹿なことをするのか。但し蘇汶氏は「笑い話」を言った:左翼作家は資本家から原稿料を取っており、私から本当のことを言えば:左翼作家はまだ封建的資本主義の社会の法律で禁固され殺戮されている。
従って左翼の刊行物は全て破壊され、今では大変寥寥としており、偶々発表されても作品の批評も極めて少なく、たまに出てもややもすれば作家を「資産階級の狗」呼ばわりし、
「同伴人」は不要だとなる。左翼作家は天から下りてきた神兵ではないし、国外から来た
仇敵でもないが、いつも数歩は常に「同伴する人」が必要なだけでなく、路傍に立って見ている観客も招いて一緒に前進しなければいけない。
 だが今問わねばならないのは:左翼文壇は今圧迫され、多くの批評も発表できす、もし
発表できても、この「第三種人」を「資本階級の狗」と指摘するようなことにならぬか?
 思うに、左翼批評家が何も言わぬと宣誓しないと、ただ悪い面からの発想ではその恐れもあり、状況は更に悪化すると思う。だが私はこの予測は実は地球がひょっとして破裂する日がくると心配の余り、先に自殺するようなもので、その心配は不要だろう。
 然るに蘇汶氏の「第三種人」はこの未来の恐怖の為に「擱筆」した由。まだ経験していないことを、心に描いた幻影の為だけで擱筆して「死んでも文学を放さない」作者の包容力は、なぜそんなにも弱いのか?二人の恋人は将来の社会的斥責を予防し敢えて抱き合おうとしないのか?
 その実、この「第三種人」の「擱筆」の原因は左翼批評家の厳酷のせいではない。真の原因の所在はこのような「第三種人」になれぬし、この様な人にもなれぬことだ。第三種の筆も無く、擱筆するかしないかは問題にも成らぬ。
 階級社会に生まれ、階級を超えた作家になろうとし、闘争時代に生まれ、闘争から離れ独立しようとし、現在に生きていながら将来に残す作品を書こうとする。このような人は、
実際は一人の人の心の中に造った幻影で現実世界には存在しない。このような人になるためには自分の手で髪を引っ張って、地球から離れようとしても離れられずに焦っているが、
それは人が頭を揺らすからではなく、敢えて引っ張ろうとしないからだ。
 従って「第三種人」といえども階級を超えられぬし、蘇汶氏もまずは階級の批判を予測し、作品にも叉どうしても階級的利害を脱却できようか:またきっと闘争からも離れられず、蘇汶氏は「第三種人」の名で抗争を提起し、「抗争」の名ではあるがまた作者の願う所ではない:且つまた現在を跳び越えられず、創作で階級は超え、将来の作品の前にまず左翼の批判に留意する。
 これは確かに苦しいことだ。だがこの苦しさは幻影が現実とは成れぬ為に起こったことだ。たとえ左翼文壇の妨害が無くとも、この「第三種人」はあり得ぬし、ましてや作品はなおさらだ。だが蘇汶氏は心中で横暴な左翼文壇の幻影を作り、「第三種人」の幻影が現れぬようにし、将来、文芸が生まれぬ罪をそれに押しつけている。
 左翼作家は実際高尚ではないし、連環画や劇本も蘇汶氏の断じるように見込みがない。
左翼もトルストイ、フローベルを求めている。だが「努力して将来(彼らは、現在は不要だとしているため)に属するものを創造する」トルストイやフローベルを求めない。彼ら二人はともに現在の為に書いており、将来は現在からみた将来であって、現在有意義であってこそ将来も有意義となる。特にトルストイは短編を農民の為に書いても、自分を「第三種人」とは任じていなかったし、当時資産階級のいろんな攻撃もついに彼に「擱筆」させることはできなかった。左翼はほんとうに蘇汶氏の言うように愚かにも「連環画はトルストイを産みだせぬし、フローベルも産みだせぬ」のを知らぬ程ではないが、ミケランジェロ、ダヴィンチの様な偉大な画家は産みだせると思っている。更には劇本や講談から、
トルストイ、フローベルを産みだせると私は信じている。今、ミケランジェロたち画家を
提起しても、非を鳴らすものはいないが、実はそれらは宗教宣伝画で「旧約」の連環画ではないだろうか?且つまた当時の「現在」の為であった。
 要するに、蘇汶氏は「第三種人」とその欺瞞、贋物を出すより、やはり努力して創作するに如かずと主張しており、それは極めて正しいことだ。
「自信に満ちた勇気をもつこと、それで初めて仕事への勇気が出てくる」これはとりわけ正しい。然るに、蘇汶氏と多くの大小の「第三種人」たちは不祥の兆しを予感したため、
左翼批評家の批評によって「擱筆」してしまった。「どうすれば良いだろう?
        10月10日
訳者雑感:
 この文の意図はもうひとつ良く分からない。蘇氏を代表とする「第三種人」なるものが、
当時どういう状況にあったのか。左翼作家たちから罵倒されるのを恐れて筆を置いてしまった。将来のために書くということと、現在の為に書くということ。その答えは最後にあるミケランジェロである答えが見つけられるかも知れぬ。
 第三種人になるなどといわずに、自分たちの良いと思う陣営に立って、その考え方を宣伝し現在生きている人々のために「ものを書く」ことが宗教宣伝画を描いた、それもその当時の現在の為に描いたミケランジェロに習え、ということか。
       2011/12/16訳
 

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