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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「他媽的」を論ず

「他媽的」を論ず
 中国で暮らせば誰でも「他媽的」やその類似の言い回しをよく耳にする。この言葉の分布は中国人の足跡のあるところについて回っており:その頻度も丁寧な「お元気ですか」より多いと思う。よく言うように、牡丹が中国の「国花」なら、これは中国の「国罵」(罵倒語)といえよう。
 私は浙江の東で育ち、西瀅氏のいわゆる「某籍」である。あの地方で通用する「国罵」はとても簡単で:「媽」一字だけで他の人に及ぶようなことは無い。
その後各地を巡ってみて、国罵が博大にして精緻なのに驚いた:祖宗にまで遡り、姉妹にも関係し、子孫にも及び、同性にも関係し、実に「猶、銀河の如く極まりなし」だ。そして人間にだけでなく、獣に対しても使う。先年、石炭車が深いくぼみに落輪したのを見たとき、車夫は憤然と降りてきて、必死に車を引き揚げようとし、ラバを叩いて「お前の姉ちゃんをやっちゃうぞ」と叫んだ。
 他国の状況は知らない。只ノルウエー人のHamsunの小説「飢餓」には粗野な文言が多いが、この様な言葉は無かった。ゴルキーの小説には無頼漢が多いが、私の見た限り、こんな罵り方は無かった。只、Artybashevの「労働者セヴィリオフ」に無抵抗主義者アラージェフに「お前の御袋を」と罵らせている。但しその時はすでに愛の為に犠牲になると決意した後だから、我々は彼の自己矛盾の勇気を笑うことはできない。この罵倒の言葉は中国語では極めて容易に訳せるが、他の国では難しく、ドイツ語では「お前の御袋を使ったことが有る」日本語では「お前の御袋は俺の母犬だ」と。これではとても理解に苦しむ――私の目から見てのことだが。
 ではロシアにもこの種の罵り方があるわけだが、中国のように念の入ったものではないから、栄光はやはり中国に帰す。これは大した栄光でもないから、彼等も抗議しにこないだろう:「赤化」の怖さには及ばない。中国の金持ち、名士、人格者からもクレームされることも無かろう。中国でも使うのは「車夫」の類の「下等人」だけで、身分の上等な人、例えば「士大夫」の類の人は決して口にせぬし、文章に書くことは無い。「予は生まれがおそく」周朝には追いつけぬし、大夫にもなっておらず、士にもなっていないから、元々好き勝手ができるのだ。それで字ずらを少し換えて、「国罵」から動詞(姦)と名詞(性器)をとり、二人称を三人称としたのは、やはり車引きをしたことが無いので、「些か貴族臭」を免れぬゆえだろう。その用途は一部の人に限定すると「国罵」とは言えぬようだ:が、そうとも言えない。金持ちが褒める牡丹を下等人はこれまで「花の富貴なるもの」など思ったこともないのだ。
この「他媽的」はいつごろ始まったか、知らない。経史に出て来る人を罵る言葉は、「役夫」「奴」「死公」といったところだ:ちょっと激しいのは「老狗」「むじな」あたりで:そして更に先代に及び、「(お前の)母は婢(はしため)」とか「宦官の子」だ!まだ「媽的」云々というのを見たことは無い。多分士大夫がそれを諱んで、記録しなかったのだろうが、「広弘明集」(七)に北魏の邢子才が「婦人は保証できぬと思うと、元景に語って言う「卿の姓は王とは限らぬ」と。元景は色を変えた。子才曰く:「私もまた邢とは限らぬ:五世を保てようか?」さすればそのあたりの事が推測できる。
晋朝はすでに家柄を重んじ過度に重んじ:貴族は世襲で、子弟はすぐ官になれた。たとえ大酒のみの飯桶でも、高官たるを失わなかった。北方辺境は拓跋氏にとられたが、士人はそんなことにお構い無く、狂ったように門に自分の功績を記すことに熱中し、等級を分けて守るのを厳格化した。庶民に秀才がいても、名門とは比ぶべきもなく、名門は、祖先の功績を受け継いだだけで、古い業績を誇って、学も無いくせに、気位だけは高く、当然周囲の人は耐えられないが、士は祖先を護符(守り札)としたので、圧迫された庶民は彼等の祖先を仇と思った。邢子才の言葉は憤激して出たのかどうか分からぬが、家柄の陰に身をかくしてきた男女にとっては確かに致命的だ。権勢や名声も元々僅かに「祖先」というただ一つの護符に頼っているだけ故、もし「祖先」が毀たれたら、全てが無になる。それが「先祖の余碌」に頼って来た必然の報いだ。
 同じ意味で、邢子才の様な文才もない「下等人」の口から直接出たのが即ち:
「他媽的!」である。
 権門大族の堅固な古い保塁を攻撃するには、彼の血統に照準を当てるのが、戦略的にまことに妙法と言える。「他媽的」を最初に発明した人物は天才と言える――卑劣な天才ではあるが。
 唐以後は名門を誇る気風もだんだん薄れ:金元には夷狄を帝王と奉じ、自分たちも肉屋を卿士にするのも構わなくなり、「等級」の上下もこのころから決めにくくなったのだが、やはり「上等」になれるように苦心した人もいる。劉時中の曲にも大変おかしなこととして:『市中の匹夫の無知に呆れ、無頼者同士が偉そうな官名で呼び合い、その音声も立派なもので、字も俗っぽくない。少し紹介すると:米売りを子良と呼び:肉屋を仲甫……飯屋を君宝:粉ひきを徳夫と;何たることか?』(「楽府新編陽春白雪」三)これが当時の成り金の醜態だ。
 「下等人」が成り金になる前、当然多くは「他媽的」を口にしたが、ある機に、役職位を偸みとり、字を些か知り、すぐ雅になって:雅号を持ち:身分も高くなり:家譜を改修し、始祖を探そうとし、名儒でなければ名臣とした。そして「上等人」と成り、上等の先達と同様、言行も温和文雅となった。然し、愚民にも利口な者がいて、早くからこのからくりを見破り、だから俗諺に云う:「口では仁義礼智、心では男盗女娼!」と、彼等はよく分かっていた。
 それで彼等に反抗して言うのだ:「他媽的!」と。
しかし、人々は自他の持っている余沢や余碌を蔑棄して一掃することもできないし、何とかして他人の祖先になろうとすることも、いずれにせよ卑劣なことだ。時たま、所謂「他媽的」の生命に暴力を加えようとするが、大概は機に乗じてで、機運を造りだすのではなく、従ってどうしても卑劣になる。
中国人は今も無数の「等級」があり、家門や祖先の余碌に頼っている。これを改革しないと、永遠に声なき、又声ある「国罵」が続く。「他媽的」が上下四方を囲み、この状態は泰平の時もそのままだ。
 只、例外的用法もあり:驚きや感服を表すのもあり、私の故郷で郷土の父子が昼飯を食べている時、子はおかずを指して、父親に「これはうまい。媽的。食べてみて!」と言い、父は答えて「俺はいらない。媽的。お前食べろ!」と、全く醇化し、現在の「親愛なる!」の意味となっている。
     1925年7月19日

訳者雑感:「媽的」とは仲間同士でも、或いは人の聞こえないところでも、相手を罵る場合によく使われる。日本語だと「バカめ!」とか「この野郎」というようなニュアンスで使われているのだが、元々は魯迅が指摘する様な「等級」社会で、のし上がってきた「名門」ぶっている「偉いさん」「成り金・役人」を
罵るときに、お前の母親をやっちゃうぞ、そうなるとお前は俺の子供と同等で、儒教的な身分関係では自分の方が相手より上になる。汝の母を姦するぞ!というのを二人称を三人称に換え、動詞と目的語を省略したのが「他媽的」である、というのは面白い「国罵」だ。
日本でも「お前のかあちゃん出べそ」というのはこの辺に相通じるのかもしれない。北魏の邢子才が「婦人は保証できぬと思うと、元景に語って言う「卿の姓は王とは限らぬ」と。元景は色を変えた。子才曰く:「私もまた邢とは限らぬ:五世を保てようか?」さすればそのあたりの事が推測できる。
後宮に何百もの女を囲い、男は宦官以外だれも入れぬようにし、血統を保とうとしてきた歴代の皇帝たちも、劉とか李とかの姓を名乗ってはいるが、必ずしも劉とは決まらないぞ!というのが北魏の邢子才の言葉として記録されているのは、それを示唆している。
    2015/09/14記
 

 

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いろんな記憶

いろんな記憶
1.
 G. Byronの詩は多くの青年が愛読しているといわれるが、そうだろうと思う。私にとっても今なお、彼の詩を読んで自分が如何に奮い立ったか覚えている:特に彼の絵柄の布を頭に巻いて、ギリシャ独立支援に向かった時の肖像を覚えている。この像は去年「小説月報」で初めて中国に伝えられた。残念ながら私は英語が分からぬので、読んだのは翻訳である。最近の議論では訳詩は一文の価値も無いという。たとえうまく訳されていたとしても。しかし当時の人の目はそんなに高くなかったから、私は訳詩を読んで良いと感じたし、原文が分からないから、くさい草も芳ばしい蘭と思ったのかもしれない。「新ローマ伝奇」の訳も一時たいへん読まれた。使われたのは詞の調子だったし、Sapphoをサッフォーと訳したのは日本語からの重訳を証明している。
 蘇曼殊氏も何首か訳していて、その頃彼はまだ「筝を弾ず人に寄せて」の詩を書いてはいないから、バイロンとも縁があった。ただ、訳文はとても古めかしく、もしかしたら章太炎の潤色を経ているかもしれない。だから古詩のようで、余り読まれなかった。後に彼が出した緑面に金字の「文学因縁」の中に収めたが、今やこの「文学因縁」も少なくなった。
 その実、当時バイロンが中国で割合知られていたのは別の理由で、即ち、彼がギリシャ独立を支援したからだ。時は清末で一部の中国青年の心中は、革命思潮の正に盛んなころで、凡そ仇を討つとか反抗を叫ぶのにはすぐ反応した。当時私が覚えているのは、他にはポーランドの仇打ち詩人、Adam Mickiewicz:ハンガリーの愛国詩人、Petofi Sandor:フィリピンの文人でスペイン政府に殺されたリサール、彼の祖父は中国人で中国でも彼の辞世詩を訳したことがある。Hauptmann、Sudermann、Ibsenらはよく知られていたが、我々は余り注意しなかった。他の一部の人は、専ら明末遺民の著作を捜して集め、満州人の残虐な記録を、東京や他の図書館で書き写して印刷して中国に輸入し、忘れられた怨みの復活を望み、革命成功への一助とした。それで「揚州十日記」「嘉定屠城記略」「朱舜水集」「張蒼水集」などを翻印し、更に「黄蕭養回頭」やその他の単篇を収集した。今はもうそれらの名を挙げられない。他の人達は名前を改め、「撲満」「打清」の類を英雄的と考えた。そういう大号はもちろん実際の革命とは余り関係なかったが、当時の光復(明を復興)への渇望の気持ちがどれ程盛んだったか分かる。
 英雄的な名前だけでなく、悲愴に満ちた詩も紙の上だけの物で、後の武昌起義とは何ら大した関係は無いだろう。もし影響があったとしても、他の千言万語も大抵は平易で直截な「革命軍の馬前の卒、鄒容」の作った「革命軍」には及ばない。
2.
 革命が起こった後のあらましを言えば、仇打ちの思想は減退した。思うに、大半は成功の希望を抱いて「文明」という薬を飲んで、漢人として面子を大事にしたから、もう残酷な報復はしなかった。しかし当時の所謂文明は、確かに外来の文明で国粋のではなく:所謂共和も米仏式の共和で、周召共和の共和ではない。革命党人も大概自民族の名誉のために、兵隊もあまり掠奪しなかった。南京の土匪兵が少し掠奪したので、黄興氏は非常に怒って多くを銃殺したが、後に土匪は銃殺を怖れず、曝し首を怖れると知り、屍から首を切り離し、縄で括って木に吊るした。これ以後はもう何の事件も起こらず、私の住んでいた機関の住居の衛兵は、私が外出する時は直立で捧げ銃をして送った後、すぐ私の部屋の窓から部屋に入り込み、私の服を持ち去ったが、手口は大分穏やかで遠慮がちだった。
南京は革命政府の所在地で、勿論特段に文明的だった。が、私が以前満州人が駐在していた所を見たら、瓦礫の山になっていた:ただ、方孝儒の血跡石の
亭だけが残っていた。ここは元は明の故宮で、私が学生の頃、馬に乗って通ったら、悪ガキ達に罵られ、投石された――お前らには通る資格がないというようだった。従来からそうだったらしい。今は面目ががらりと変わり、住民も少なくなり:数軒の破屋は残っているが、門扉や窓はなく:門扉があってもそれはボロボロのトタン板で、要するに木製のものは何も無い。
 では落城時に漢人は大いに仇打ちをしたのだろうか?そうではないようだ。事情通の話しでは:戦闘時には当然建物など損壊したが:革命軍が入城すると、(満州の)旗人の一部の人は、古くからの法に従い、殉難する者もいたが、明の故宮の後の建物は火薬で爆発し、自分も爆死した。近くを通っていた騎兵も一緒に爆死した。革命軍は地雷で抵抗するのだと思い、一度火をつけて焼いたのだが、焼け残った部屋はまだたくさんあった。その後、彼等は自分の手で木材をはいで売った。先ずは自分の家で、次に人の家だった。家には一尺一寸の木も無くなった。そしてみんな流れ散ってゆき、跡は瓦礫の山となった。――但しこれは伝聞で、事実かどうかは保証できぬ。
 こういう情況を見ると、「揚州十日記」を目の前にしても、余り憤怒しないだろう。私が感じたのは、民国成立後は、漢満の間の悪い感情はどうやら消えたようで、各省の境界線(の争い)も以前より大分薄れた。しかし「罪深くて尽きることの無い」中国人は、1年もたたぬうちに情況は逆転し:宋社党の活動と遺老が誤った挙に出て、両族の古い歴史が人々の記憶を呼び戻させ、袁世凱のやり方が、南北間の悪感情を増大させ、陰謀家の狡計で、省の境界も利用され、その後更に厳しくなった。
3.
 私の性格が特に悪いのか、或いは以前の環境の影響からぬけられぬせいか、復讐するのはなんら奇とするに足りぬと思う。とはいえ、無抵抗主義者を無人格だと貶めるような考えは無い。だが時に思う:復讐は誰が裁くのか?公平さを如何に保てるか?そしてすぐ自答し:自分で裁き自分で執行する:上帝が主宰するのではないから、人間は目には首で以て償わせるか、首には目で償わせるか勝手だ。時に寛恕は美徳とも思うが、すぐそれは臆病者の発明だと疑い、彼は復讐の勇気がないからだと:或いは卑怯な悪者が創ったもので、彼は人を害しながら、人からの復讐を怖れ、寛恕という美名で騙すのだ。
 このため、私はいつも現在の青年がうらやましい。清末の生まれだが、民国時代に成長し、共和の空気を吸い、もう異民族の扼政への不満も無いはずだし、被圧迫民族として体制に従わされる悲しみも無いはずだから。その結果、大学教授すらすでに小説はなぜ下等社会を描くのか分からなくなっている。私と現代人が1世紀も籬れていたら、確かにそうだろう。但し私はそれらを洗い落とそうとは思わない――恥ずかしい気もずるが。
 エロシェンコ君が日本から追放される前、彼の名は知らなかった。放逐されて彼の作品を始めて読み始め:強制退去と知ったのは「読売新聞」に江口渙氏の文章が載っていたからだ。それでこれを訳し、彼の童話も訳し、脚本「桃色の雲」も訳した。だが当時の考えは、虐待された者の苦しみを伝え、中国人に呼びかけて、強権者に対する憎悪を激発しようとしただけで、「芸術の宮殿」から手を伸ばして、海外の珍しい草花を抜いてきて中国の芸苑に移植しようとしたのではない。日本語の「桃色の雲」の出版は江口氏の文章もあったが、検査機関(警察庁?)に多くの部分を削られていた。私の訳文は削られてないが、この脚本が出版された時は載せなかった。その時私はまた別の状況を見、別のことを考え、中国人の憤怒の火にさらに薪を添えようとは思わなかった。
4.
 孔子曰く:「己に如かざるものを友とするなかれ」と。この様な功利的な考え方は、現在、世界的にも大変多い。自分の国の状況を見れば、実はそんな友はなかなかいないことが分かる。いないだけでなく、大半はほとんど仇敵だった。甲を仇としていた時、乙に公正な論を仰ぎ、その後乙を仇とした時、甲に同情を期待する。従って一段ごとにみれば、全世界がすべて怨敵とは限らない。然し怨敵は常に一人はいて、1-2年ごとに愛国者はどうしても敵に対する怨恨と墳念を鼓舞しようとする。
これも今や極普通の事で、この国は彼の国を敵とするとき、まず手段を使って、国民の敵愾心を扇動し、彼らが一緒になって防御や攻撃に向かう。但し、ひとつ必要条件があり、即ち:国民が勇敢なこと。勇敢で勇んで前進し、強敵に立ち向かい、仇を打って、怨みを晴らす。怯弱な人民は如何に鼓舞しても、強敵に向かおうと決心しない:しかし点じられた憤怒の火は残っているが、それをはき出す先を見つけねばならず、ある地方が彼らより弱い民だとみると、同胞か異民族かは問わない。
 中国人がためこんだ憤怒はもう大変な物で、それは勿論強者から蹂躙を受けたからだ。だが彼等は強者にはあまり反抗せず、弱者の方にそれを向け、兵隊と匪賊の間では戦わず、銃砲を持たない民が兵匪から苦しみを受ける。これが最近の証拠だ。もっと露骨に言えば、そういう連中の卑怯さを証明している。
卑怯な連中は万丈の憤怒の火で、弱い草以外なにを焼けるというのか?
 或いはこう言う人もいる。我々は今人々の憤怒を外敵に向けさせ、自国人とは関係なくすれば、それで害を受ける事は無い。だがこの方向を変えるのは極めて簡単で、自国人とはいえ、憤怒を晴らす時は、一種の特異な名を付け、自由に刃を突き付ける。先ず異端、妖人、奸党、逆徒などの名だが、今は国賊、漢奸、西洋かぶれ洋狗洋奴だ。庚子の年、義和団が路上で人を捉え、勝手に教徒だとし、その鉄の証は彼の神通眼でその男の顔に「十字架」が見えた、と。
 然し、我々は「己に如かざるものを友とするなかれ」というこの世で、自国民を激発する他に、彼等に火花を散らせて、些かその場に適応させるほかに何か良い方法があるだろうか?だが我々は上記の理由で、更に一歩進めて、火のついた青年達に望みたい。群衆に対して、彼等の公憤を呼び起こした後、更に手を尽くして、強い勇気を注ぎ込み、彼等の気持ちを鼓舞する時には、はっきりした形で理性を以て啓発しなければならない:そしてまた勇気と理性を重んじて、継続して何年も訓練してゆく。この呼び声は断乎として賊を殺せという宣戦には及ばないだろう。しかし私はこれがより喫緊のことで、より困難だが偉大な任務だと思う。
 それでなければ、歴史が我々に教えるのは、災に会うのは敵ではなく、自分の同胞と子孫だということだ。その結果、却って敵に先制され、敵はこの国の所謂強者に対する勝者で、同時に弱者の恩人となるのだ。自分達はすでに互いに残酷に殺し合っており、たまった怨念憤慨はみな消えてしまっており、天下も泰平の盛世となっているからだ。
 要するに、私は国民に智が無く、勇気も無く、単に一種の所謂「気」に頼っているだけでは、実際は非常に危険だと思う。今、更に一歩進んでより堅実な任務に着手すべきだと思う。
       1925年6月16日

訳者雑感:魯迅は異民族たる満州人(清朝)を打倒して、漢族の政府を樹立したときの辛亥革命前後のことをいろいろ思いだして書いている。
威勢のいい文章やスローガンで敵を打倒しろと掛け声だけは勇ましいが、結局は前には進まない。やっと辛亥革命が成功したやに思われたが、すぐ南北の同族同士の争いになって、清朝皇帝も北京に残ることとなり、仇打ちを徹底的にすることは無かった。それが中途半端な状態で、各地に軍閥が跋扈して分裂状態が続いた。これがその後に現れた日本によって所謂傀儡政権や満州国建国となって、45年まで不幸な戦乱が続くことになってしまった。
    2015/09/07記

 

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灯下の漫談2

灯下の漫談2
二。
 但し、中国固有文明を称賛する人が増え、外国人もほめるが、いつも思うのだが、中国に来て、中国を心底憎み憎悪するなら、私は敢えて誠心から感謝の気持ちを捧げよう。彼はきっと中国人の肉を食いたいと思わないに違いないから!
 鶴見佑輔氏は「北京の魅力」の中で、ある白人が中国に来て、暫く――1年済む予定だったが、5年後もまだ北京にいて、帰りたくない由。ある日彼等2人で夕食をし、「丸いマホガニーの卓に坐って、次々に供される山海の珍味を食べ、骨董から絵画、政治談議を始める。電灯には中国式の笠がつけられ、淡い光が古物を陳列せる部屋に並んでいる。無産階級、Proletariatなどどこ吹く風のことか、と。
 『私は支那の生活の雰囲気に陶酔し、ある面で外人の感じる「魅力」についていろいろ考えてみた。元(モンゴル)人も支那を征服したが、漢人の生活の美に征服された:満州人も支那を征服したが、漢人の生活の美に征服された。今の西洋人も同じで、口ではDemocracyとか何とか言っているが、支那人が六千年かけて築き上げた生活の美に魅了されている。一度北京に住むと、その生活の味を忘れられぬ。強風が吹いて万丈の砂埃、三か月毎の督軍たちの戦争ごっこもこの支那生活の魅力を消す事は出来ない』
 このような話を私は今否定する力は無い。我々の古聖先賢は我々に古い物を保存せよとの格言を残してくれたが、同時に子女と財宝で、征服者への大宴を手配するようにしておいたのだ。中国人の辛抱強さ、子の多さ、いずれも宴席の準備に欠かせぬもので、これまでは我々の愛国者の自慢だった。西洋人が初めて中国に来た時は、野蛮な夷人と呼んで眉をひそめるのを免れなかったが、今や時機はすでに熟し、我々がかつて北魏に献じ、金や元、清に献じた盛宴を彼等に献じる時が来た。外出するには車で、それにガードがつき:通行止めでも自由に通り:賊にあっても必ず賠償させ:(賊の)孫美瑤は彼等を捕まえて、軍の前に(人質として)立たせて、官兵が発砲できなくさせた。豪華な部屋で盛宴を楽しんでいる時はなお更である。盛宴を享受するようになるのは、当然中国固有文明を称賛する頃となる:ただ、我々の楽観的愛国者は多分、却って欣然と喜色を示し、彼らが中国に同化され始めたと思うだろう。古人はかつて女人を以て一時しのぎの城を築き、自ら欺いてそれを美しい名で「和親」とした。今人は子女と財宝で奴隷の引き出物としている。そしてその美名を「同化」と呼ぶ。だから、もし外国の誰もが宴会に参加する資格を有する現在は、更に言えば、我々のために中国の現状を呪詛するものは、それこそ本当に良心のある敬服すべき人だ!
 しかし我々自身早くからすでに手を打っていて、貴賤・大小・上下をつけてきた。人に凌虐されるが、他の人を凌虐することができ:人に食われるが、他の人を食う事も出来る。一級、一級と級分けし、それを動かせないし、動かそうとも思わない。もし動かしたら有利になるかも知れぬが、弊害も出る。我々は暫く古人の良法と善意を見習う事だ――天に十干の日があり、人に十等あり。下は上に仕え、上は神に共す(つかえる)。故に王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、(中略:十等級あり)…僕の臣は台である。(「左伝」昭公7年)
 だが台には臣がいない。とても辛いではないか?心配ご無用。彼より卑な妻やより弱い子がいる。そしてその子にも望みがあり、成長したら「台」となり、同じ様に卑弱な妻子を持ち、自由にできるのだ。このような連環で夫々が所を得るので、敢えて非議をしようとすると、分に安んじないという罪名を被せられるのだ!
 古いことで、昭公7年は今からみるととても遼遠だが、「復古家」は悲観することは無い。泰平の現象はまだあり:常に兵火があり、水害と旱魃があるが、一体誰がその泣き叫ぶ声を聞いたか?殴る者は殴り、革(首にする)す者は革しても、処士の誰かこれに対して自由に議論できる者がいるだろうか?国民に対してこれほど専横で、外人に対しては媚びるのも、やはり差別の遺風ではないか?中国固有の文明もその実、けっして共和の2字の中に埋没しておらず、満州人が退場しただけで、以前と余り変わりはない。
 それ故、今でもまだ各式各様の宴を目にすることができる。焼肉、フカヒレの宴席から、通常食、西洋料理に至るまで。だが茅葺の軒下にも粗食あり、路傍には残されたスープ、野には餓死者の屍もある:焼肉を食べる身分の高い金持ちがいる一方、餓えて死にそうな1斤8文で売られる子もいる。(「現代評論」21号参照)所謂中国文明とはその実、この人肉を宴席に供する厨房にすぎない。
知らないで称賛するのは恕(ゆる)すが、そうでない者は永久に呪詛すべし。
 外人でそれを知らずに称賛する者は恕せるが:高位にいて、優雅に暮らし、それで蠱惑されてしまって、魂が曇って賛嘆する者もまだ恕せる。しかし、これ以外に2種あり、一つは中国人を劣種とみなし、ただすべて元のようにやるしか能がないから、故意に中国の古物を称賛するもの。もう一つは世界は色々違ったものがあるから、自分の興味で見聞を増やそうとし、中国に来て弁髪を見、日本では下駄を、高麗では笠を見る為で、もし同じ服装なら味も素っけもないものになるから、アジアの欧化に反対という。これらは皆憎むべきだ。
ラッセルが西湖に来た時、駕籠かきが(真夏にきつい山坂を登って山頂に着いた時に休憩したら、彼等は坐り込んでタバコを吸いながら、何の憂慮もないように:出版社注)微笑するの見て、中国人を褒めているのは、多分彼には別の考えがあるのかもしれない。だが駕籠かきがもし乗客に向かって微笑しなくてもすむようになったら、中国もとうに今の様な状態ではなくなっていただろう。
 この文明は外国人を陶酔させるだけでなく、早くから中国の全ての人を陶酔させ、微笑させてきた。古代から伝来してきたため、今でも多くの差別が有り、人を分離させ、他の人の苦痛を感じさせなくした;更には、自分は他の人を使役することができ、他の人の希望を食い、自分も同じように奴隷として将来を食われることを忘れている。それで大小の無数の人肉の宴席があり、文明が生まれて以来、ずっと今日に至っている。人々はこの(宴)会場で人を食い、食われ、凶人の愚妄な歓呼が、悲惨な弱者の声をさえぎっている。これは女や子供についても言うまでもなく同じだ。
 この人肉の宴席は今もまだ設けられ、多くの人はずっと設け続けると思う。こうした食人者を掃蕩し、こうした宴席をぶっ壊し、この厨房を破壊するのは、現在の青年の使命だ!
    1925年4月29日

訳者雑感:
 非常につらい仕事の苦痛にも耐え、何のくったくもなく、仲間とタバコを吸いながら、外人の顧客に笑みをみせる。ラッセルはそれを褒めているが、どういう考えなのだろう。分に安んじで何の憂慮も感じず、与えられた職業を続ける。それが長い長い、中国古来からの伝統なのだ、という。
 魯迅はそれを人が人を食う「礼教の社会」だと考え、「狂人日記」に書いた。
そうした人肉を食う宴席をぶっ壊し、食人者を掃蕩するのが青年の使命だ、と
いう。この時魯迅は40代半ば、自分もその青年の中に入れているのだろう。
    2015/08/28記

 
 


 

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灯下の漫談

灯下の漫談
一。
 ある時、民国2-3年の頃、北京の数行の国営銀行の紙幣の信用が日に日に高まった。これまで現銀すら躊躇していた田舎の人も、これは便利で信用できるから、と喜んで受け取り使うようになったと聞いた。些か事情に詳しい人、必ずしも「特殊知識階級」とは限らぬが、とっくに、重くてずっしりとした銀を懐中にいれて、重い目をみることもなくなった。思えば、銀貨に特別の嗜好と愛情を持つ一部の人以外、殆どの人は紙幣を持ち、それも自国のものだった。 だが後に突然大きな打撃を受けることになった。
 それは即ち袁世凱が皇帝になろうとしたあの年、蔡松坡氏が北京を逃れ雲南で兵を挙げた時だ。これが影響の一つで、中国銀行と交通銀行が兌換を停止した。兌換は停止したが、政令で、商民が旧行の札を使うようにとの威力はまだあった:商民も自ら本領を有していて、受け取らぬとは言わず、お釣りが無いとか言った。数十、数百元札を手に物を買おうにも、どうしたらよいか分からなかった。筆やタバコを一つ買うのに、まさか一元札で払うのか?そんなことをしたら堪らない。それだけでなく、そんな沢山の一元札も無い。それで少し銅銭に換えようと思ったが、どこも銅銭は無い。それで親戚友人に現金を借りようとしたが、どこもそんなものが有るはずもない。それで望みを格下げして、愛国はもうやめて、外国札を探した。が、外国の札は当時現銀に等しく、お金を貸してくれるとしても、銀貨を貸してくれるのだった。
今も覚えているが、当時私の懐にはまだ30-40元の中国銀と交通銀の札があったが、突然貧乏人になり、殆ど絶食のはめになり、恐慌をきたした。ロシア革命後のルーブル紙幣を持っていた金持ちの心境も多分こうだっただろうか?まあこれよりずっと深刻だったに過ぎまい。紙幣をどこかで割り引き換金してくれるところを探しまわった。幸運にも闇市で:6割ちょっとで換えてくれた。とてもうれしくて、半分ほど換えた。その後また7割になり、さらにうれしくなって、全て換えた。そしたらズシリと懐に沈んで、どうやらこれが命の重さだと思った。平時なら、両替店で銅銭一文でも少ないと文句を付けたのだが。
 だがひと包みの現銀を懐に入れると、ずしりとして安心し、うれしい時は突然また別のことを考え出す、即ち:我々はいとも簡単に奴隷に変われるし、変わった後、なおそれを喜んでいるということだ。
 もしある強制力で以て「人を人と看做さぬ」人と看做さぬのみならず、牛馬にも及ばず、物の数にもはいらぬとしたら:人が牛馬を羨み、「離散家族の人は、泰平な世の狗にも及ばぬ」と嘆息するようになると、略牛馬を等しい値段を付けられ、元の法律が定めたように、他人の奴隷を殺したら、牛一頭で賠償するとしたら、人は心から喜び、誠実に服従し、泰平の世を恭しく仰ぐ。なぜか?彼は人の数には入れられないが、牛馬に等しいのだから。
 我々は恭しく「欽定二十四史」を読む必要もないし、研究室に入って、精神文明の高揚を審査する必要もない。ただ、子供の読む「鑑略」をぱらりと――それも面倒なら「歴代紀元編」を見れば「三千余年の古国中の古い国」中華波、暦代やってきたことは、つまらぬ芸当に過ぎぬ事がわかる。ただ最近編集された所謂「歴史教科書」的な本は、読んでもよく分からぬがどうやら:我々はこれまで、良くやって来たと言いたいらしい。
 だが実際は中国人はこれまで「人」の価値を勝ち取ったことは無く、せいぜい奴隷に過ぎず、今なおそうだが、奴隷以下の時も多かった。中国の民は中立で、戦時に自分はどちらに属しているか知らない。勿論どちらにも属していた。
賊が来ると官に属しているとして殺され掠奪された:官兵が来たら、本来はみかたのはずだが、やはり殺され、賊の方に属しているとみなされた様だ。こう言う時、民はしっかり定まった主を持ちたいと思い、自分達を民として扱ってくれるように――それがいやなら、牛馬として扱ってくれれば、自分で草を探して食べるから、と。只、彼が民にどう進めば良いかを指示するように求めた。
 もし本当に誰かが彼等の為に決めることができ、何々とかいう奴隷規則を作ってくれたら当然「皇恩無窮」となる。残念だが暫時誰もそれを決められぬ時があった。最たるものは、五胡十六国の時のように、黄巣の時、五代の時、宋末、元末の時のように、民は通常の服役、年貢上納のほかに、思いもよらぬ災厄を受けた。張献忠の疳癪はとても不可解で、服役と年貢上納をせぬ者を殺し、服役し年貢上納した者も殺し、敵対する者は殺し、降参した者も殺した。この時、人々は他の主の現れるのを望んだ。彼等の奴隷規則を比較的大事に扱ってくれ、無論古いままでも良いし、新しいものでも、要するにある種の規則を作ってくれて、彼らが元の奴隷の軌道に乗せてくれれば良いのだ。
 「(夏の傑の暴政の)日もいずれ滅びん、我も汝とともに滅びん!」というのは憤慨しているだけで、それを決心し実行した者は少ない。実際、大概は群盗が麻の如く乱立し、戦乱が極まった後、より強い聡明で狡猾な、或いは異民族が登場し、比較的秩序だって天下を治める。規則を決め:どう服役、年貢上納させるか、どの様にお辞儀をして、どの様に聖王を仰ぐか。更にその規則は今のように朝三暮四ではない。で「万民歓呼」し:成語の「天下泰平」となる。
 貴方が尊敬する学者が歴史を編集する時どんなカッコよい言葉で、「漢族発祥時代」とか「漢族発展時代」「漢族中興時代」とかと称するのは一向構わないし、好意は誠に感ずるものはあるが、措辞は如何にも回りくどい。もっと直截な適切な言い方があり、それは――
 一。奴隷になりたくてもなれなかった時代。
 二。暫時おだやかに奴隷でおれた時代。
 この循環は先儒のいう「一治一乱」(孟子の言)で:その乱を起こした人物は後日の「臣民」からは「主」の為に道を清め、路を拓いたから「聖天子の為に駆除せり云々」となる。
 現代人はどの時代にいるのか、私もわからない。ただ、国学者が国粋を崇奉し、文学者が固有文明を賛嘆し、道学者が復古に熱心なのを見ると、現状に対してみな不満だと言うのがわかる。しかし我々は畢竟どの方向に向かっているのか?人々はわけのわからない戦争に巻き込まれると、少し金のある者は租界に逃げ込み、女子供は教会に行く。そこら辺は比較的「安全」な故で、暫時奴隷になろうとしてもなれないということにはならぬからだ。要は、復古や避難するのは、智者や愚者、賢者、不肖の関係なく、どうやら三百年前の泰平の世にあこがれ、暫時「安全に奴隷でいられる時代」に向かっているようだ。
 但し、我々も古人と同じく、永久に「古(いにしえ)より既にこれあり」に満足しておられる時代だろうか?みな復古家と同様、現在に不満で、三百年前の泰平の盛世に希望を持って行けるだろうか?
 勿論、現在にも不満だが、顧みるまでも無く、我々の前には道があるのだから。中国の歴史でかつて無かった第三の時代を創造するのが現在の青年の使命なのだ!

訳者雑感:これは前篇で後篇があるのだが、一区切りつけておく。
 1925年の中国には、これまでの2種類の時代から脱却して第3の時代を創造せねば、永久に所謂「循環論」に陥ってしまう。その危機をどの様に乗り切るか、はたまた開拓して行くか?これは魯迅の永遠の課題である。
 ロシア人のためにスパイをしたという中国人が日本兵に処刑されるのを大勢の中国人同胞が「うれしそうな顔をして」見物している。
 「阿Q正伝」や他の作品のなかでも、処刑(斬首)される布告を見ると、沢山の見物人が通りをうめるほどで、刑場の広場は満員となる。
 奴隷になれなかった時代より、暫く安全に奴隷でいられることに満足してそれ以上を望まない人々。それを改造するのは青年の力しかないのである。
     2015/08/21記


 

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春末閑談

春末閑談
 北京は正に晩春、私が性急なのか夏のように感じる。で、突然故郷の腰細蜂を思い出した。それはたいてい盛夏で、青蠅が涼み棚の索に密集し、鉄のように黒い腰細蜂が、索の間や壁の角の蜘蛛の巣の辺りを飛び、時に小さな青虫をくわえていたり、蜘蛛をつかんでいたりする。青虫や蜘蛛は最初抵抗するが力尽き、くわえられて空に舞い上がり、飛行機の様に飛んでゆく。
老人が教えてくれた。あの腰細蜂こそ、ものの本にあるトックリ蜂で、メスばかりでオスはいない。稲の髄虫を捉えて継子にせねばならない。メスは青虫を巣の中に閉じ込めて、自分は日夜外から叩いて呪文で「私のようになれ」と。それから何日かすると――何日か忘れたが多分7x7=49日くらいか――その青虫も腰細蜂になり、それゆえ詩経に云う:「稲の髄虫に子あり、トックリ蜂はこれを負う」と。稲の髄虫は索の小青虫だ。蜘蛛は?彼等は蜘蛛には触れなかった。何人かの考証家が異説を立てた。メスは、本当は卵を生める:青虫を捉えるのは巣穴に入れて、孵化した幼蜂のエサにするのだ、と。しかし私の先輩達はこの説を採用せず、やはり連れ去って女児にするという。我々は天地の間に美談を残す為、こう言う風にした方が良いと、長い夏の間、することもなく、林の陰で暑さをしのいでいる時、2匹の虫が片方は連れ去ろうとし、もう一方はそれを拒むのを見る時、慈母が娘に教えるのを見るように、好意に満ちているようだが、青虫があらがっているのは、聞き分けのないやんちゃ娘のようだ。
 しかし夷人は憎らしい。何でも科学的にする。科学は多くの驚くべきことを教えるが、多くの美しい夢を壊す。フランスの昆虫学者ファーブルは仔細に観察後、幼蜂のエサと証明した。この腰細蜂は単に普通の凶手でなく、大変残忍な凶手で、学識技術面で極めて高度な解剖学者だ。メスは青虫の神経構造と作用を知っており、奇妙な毒針で、その運動神経球に只一刺で、麻痺を起こさせて、不死不生の状態にするので、身動きできなくなるが、不死不生ゆえ、腐らないので、卵が孵化した時、このエサを捉えた時と同じように新鮮のままだ。

 3年前神経過敏なロシア人のE君に会った。ある日彼は忽然心配そうに言った。将来の科学者はある種奇妙な薬を発明し、それを誰かに注射したら、その人は、喜んで永遠に服役し、戦争の機器になるかもしれない。その時私も眉に皺寄せ嘆息して、同じ心配をしたように装い「同感」の意を表した。殊に我国の聖君、賢臣、聖賢とその取り巻きは、すでにこのような黄金世界の理想を持っていたのだ。「唯、君福をなし、威を保ち、玉食す」ではないか。「君は心を労し、小人は力を労す」ではないか。「人に治められる者は、人を食(やしな)い、人を治める者は人に食(やしなわ)れる。残念ながら、理論的にはすばらしいが、実際は完全な方法を見いだせていない。威を為す人に服従する為には活動してはおられず、玉食を献じるためには死んではならない。治められるためには活動すべきではないし、治める人を養うためには死ぬことはできない。人類が霊長類に昇格するのは当然賀すべきことだが、腰細蜂の毒針がないので、聖君、賢臣、聖賢とその徒、現在の権勢家、学者、教育家は、これに手を焼いていた。将来どうなるか知らないが、昔なら、人を治める者はいろいろ手を尽くして麻痺させる術を使おうとし、トックリ蜂と先を競ってきたのだが、十分に効を奏しなかった。皇帝の一統についても、常に姓を改め、代易するを免れ難く、「永遠の長命」は無かった:「二十四史」は二十四世の多きに至った悲しむべき鉄の証だ。現在また別の面が現れ、世上所謂特殊知識階級の留学生が出て、研究室で研究した結果、医学の未発達は人種改良に有益だとか、中国の婦人の地位はとても平等で、全ての道理はみな正しく、すべての状況は十分良好だと説いている。E君の憂いはむべなるかなである。
だが、ロシアは大きな問題はない。我々中国と違い、所謂「特殊な国情」や「特殊知識階級」がいないからだ。
 只こういう仕事は、ついに古人のようにはうまく奏効できていない。それはこれが腰細蜂のしていることより難しいからだ。メスが青虫に対しては、ただ動けなくさせるだけだから、運動神経球を一刺すれば成功なのだ。しかし我々の仕事は、相手が動けるが、無知覚で知覚神経中枢に完全な麻酔を与えねばならぬからだ。だが知覚が失われると、運動もそれに随って主宰力を失い、玉食を献じられなくなる。上は「最高位者」から下は「特殊知識階級」までそれを享受できなくなるのが問題なのだ。現在について言えば、私見だが、遺老の聖経賢伝法や学者の研究室に入ろう主義、文学家と茶館の亭主の国事を談ず勿れ、教育家の(礼にあらざれば)見るな、聞くな、言うな、などの論以外に、本当に完全で弊害の無い物は無い。留学生の特別な発見も、実は何ら前賢の範囲を越えたものはない。
 ではまた「礼を失えば、これを野に求めん」とするのか。夷人は、そこから取り入れようとするのだから、ここでは当分それを外国と称するが、そこには比較的良い方法があるのだろうか?残念だが無い。あるのはやはり、集会禁止とか、発言禁止の類だ。我々中華と何ら違わない。然し至高な道もあり、人はそのような心を共に持ち、この理は華夷に差はない。猛獣は単独で行動し、牛羊は群れる:野牛の大群は角を並べて城のような形をとるが、一頭を引きだすと、モ―と鳴きだす。民と牛馬は同流で――これは中国についてであって、夷人は別の分類があり――これを治める道として、当然集会を禁じる:この方法は正しい。その次は発言させぬ事。人が発言できるのは、すでに禍をはらんでいて、況や時に文章を書く。だから蒼頡(漢字の創作者)が字を創ると、夜に鬼が鳴いた。鬼すら反対するのだから、官もまた然りだ!猿は言葉を発しないから、猿の世界にはストライキは無い――猿の世界には官もいないから。だがこれは又別途論じよう――確かに虚心に法を採り、本来の素朴な姿に戻り、口を開かず、文章も自から無くする:この方法も間違っていない。然しこれは理論的に言ったに過ぎず、実効についてはやはりとても難しい。最も顕著な例は、あれほど専制的なロシアのニコライ2世「崩御の後」(処刑)ロマノフ王朝はついに「途絶」した。要するに、その大きな欠点は、2つの良い面があるとはいえ、一つが欠けると即;人々の思想を禁止できなくなるからだ。
そこで我々の造物主は――天上にこのような「主」がいたら、とても憎いことだが、永遠に「治者」と「被治者」を分けなかったことが憎い:第2に憎いのは、治者に腰細蜂のような毒針を与えなかったことだ:第3は、被治者にたとえ思想中枢を内蔵する脳を切られても、動き続けて服役さえるようにしなかったことだ。3者の内一つでも得たら、権勢家の地位は永久に堅固な物となろう。
統御するのも労力を省け、天下泰平となる。だが今はそうではない。だからもし高い地位に上ろうとすれば、暫時、勢力を保ちながら日々いろいろ手段を尽くして、夜も考えをめぐらし、実にその苦労たるや大変なものだ。
 頭が無くなっても、服役と戦争の器具になれたら世の中はどうなろうか?こうなるともう帽子や勲章で上位者と下位を分ける要は無くなる。ただ頭が有るか無いかで主か奴か分かる。官か民か、上下、貴賤の区別もできる。更にもう何とか革命をやらかすことも無い。共和、会議などの乱も無く、常に電報が省に送られてくる。古人は畢竟、聡明だった。早くからこういうことを考えていて、「山海経」に名を「刑天」というある種の怪物がいた。彼には物を考える頭は無いが、生きていて、「乳を目とし、へそを口とし」…この点は周到に考えられている。さもないとどうやって見、どうやって食うのだろう――実に師法とする価値が有る。我々国民がみなこうなら、権勢家はどれほど安全快楽だろうか?だが彼刑天は又も「干戚(盾と矛)を執って舞い」かれはどうやら死んでも分に安んじようとしなかったようで、その点は私の考えていた専ら権勢家の為に尽くすという理想的な良い国民とは違う。陶潜は詩に云う:「刑天は干戚を舞い、猛志は固より常にあり」と。この昿達な容貌の老隠士すらこういうことから、頭が無くてもやはり猛志を持っておるから、権勢家の天下もいっときも泰平を得ると言うのは難しかろう。だが本当に多くの「特殊な知識階級」の国民も、特に例外的な希望があるかもしれない:ましてや、精神文明が大いに高まった後では、精神的な頭はそれより先に前に飛び去っており、区区たる物質としての頭の有無はもはや大した問題でもないから。
       1925年4月22日
訳者雑感:魯迅45歳の作品である。子供の頃に土地の老人から聞いた腰細蜂の面白い話しが下敷きになっている。
 あの毒針で一刺しして、脳を麻痺させるが、殺しはしない。それで自分の幼虫の孵化するまで新鮮なままで保存できる…。
 中国の治者はほんの一握りのエリートで、残りはすべてこの腰細蜂に毒針を刺された状態で、何も発言せず、せっせせっせと「年貢」を治める農民であり、
何も批判や革命などを言いださない、戦争の器具としての兵士だ。これが中国を長い間治めてきた治者の「理想」であった。理論的には大変すぐれていたが、
二十四史に示されている様に、長続きしたのは少しだけで、あとは戦乱の連続であった。
 たとえ頭がなくなっても、猛志はもとよりある。「山海経」にでてくる頭のない、怪物の挿絵はしばしば見かける。平時には中国の至るところにこの怪物が活動・生活しているのだ。
 日本の首相が歴代の談話を引用した翌日に記す。頭が切られても怪物のような猛志を持って生き続けるようだ。
      2015/08/15記

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鏡を見て感じたこと

鏡を見て感じたこと
 衣装箱を整理していたら、数枚の古い銅鏡が出てきた。多分民国初年、北京に初めて来た時、買ったもので「情は事に随って遷る」とやらで忘れてしまっていたので、まるで隔世の品を見る如し。
 一枚は直径2寸に過ぎぬが、とても重厚で背面には葡萄が一杯彫られ、跳躍するムササビもあり、周囲は小鳥が飛んでいる。骨董屋はみんな「海馬葡萄鏡」と呼ぶ。だが私のは海馬はいないから名に相当せぬ。かつて海馬のあるのをみたことあるが、高すぎて買わなかった。これらは全て漢代の鏡で:後に模造したのや、鋳型を造ったのもあり、摸様も粗末で拙劣なのが多い。漢の武帝は(中央アジアの)大宛国や安息と通じ、天馬や葡萄をもたらしたので、当時は大抵それを盛事と考えたので、什器の装飾に取り入れたのだ。古時、外来品には海の字をつけた。海榴(ザクロ)とか海紅花(ツバキ)、海棠の類の如く。海は即現在の所謂「洋」で海馬は現代語にすると洋馬だ。鏡のつまみは蝦蟇で、鏡は満月のようで、月にはヒキガエルがいる故だが、漢代の事とは関係ない。
漢人が如何に闊達に信頼の動植物を何のこだわりもなく、装飾の摸様に充てたかがしのばれる。唐人も弱くない。漢人の墓前の石獣の多くは羊、虎、一角鹿、一角獣の様なもので、長安の昭陵には箭(矢)を帯びた駿馬が刻まれ、更に駝鳥もいた。その手法はまったく古人のような方法ではない。今、墳墓には言うまでもないが、通常の絵画でも洋花や洋馬を描こうとしない。私人の印章に草書のような俗字を使う者がいるだろうか。雅人の多くは年月を記すのさえ、甲子を使い、民国紀元を使いがらない。この様な大胆な芸術家はいないのか:いたとしても、民衆が迫害するので、委縮してしまい、絶滅したのか知らぬ。
宋の文芸は今の様に国粋気味つまらない。しかし、遼金元が陸続と進攻してくると、この間の事情は面白い。漢唐も辺境には患わされたが、魄力は雄大だったから、人民は異族の奴隷にはならないとの自信を持っていた。そんなことは、少しも思わなかった。凡そ外来の物を取り入れるときは、それを俘虜の如く、自由に駆使して、全然気にしなかった。だが一旦衰退したら、神経衰弱で過敏になり、外国の物に遭遇するたびにそれが自分を俘虜にするのではないかと感じ、拒否し怖れ、委縮し逃避する。みなが震えてきっとある道理を考え付いて、ごまかし、刻すいはついに軟弱な王と奴隷の宝物になる。
何処からきたにせよ、食物が必要なら、壮健者は何も考えずこれは食いものだと認める。只、衰微し病んでいる者は、胃に悪いのではとか、体に良くないと心配し、多くの禁止事項を設ける。多くの避忌あり:更に一連の割合厳しく、どうも要領を得ぬ理由で、之を食すのも有益で、然るに究極的に食べても構わぬ云々という類だ。ただこの類の人物は日に日に衰弱すると言うのも、終日戦戦兢兢として自分から活気を失うからだ。
 南宋は現在と比べてどうだったか知らないが、外敵には明白に臣と称しながら、只国内では繫文縟礼とああだこうだと下らぬ話が多かった。そして失敗続きの人間がやたらに多くの避忌が多く、裕福で闊達な気風は消えた。後に、何ら大きな変化もなくなった。かつて古物展示の古画で、印文を見たが、幾つかのローマ字であった。が、それは所謂「我が聖祖仁皇帝」の印で、漢族を征服した主でだから彼は敢えてしたのだ:漢族の奴才にはそんな勇気は無かった。それで今、芸術家は西洋文字の印を使えるか?
 清順治帝時代、時憲書(暦の意味)に「西洋新法」による、と言う5文字が印され、これに対して痛哭し流涙して西洋人、アダム・シャールを弾劾したのは、漢人の楊光先だ。それから康熙初めに論争に勝ち、彼を欽天監正にさせたいと申し渡したが、「只推歩の理(暦の理)を知るのみで、推歩の数を知らないから」と辞退した。しかし辞退は認められず、痛哭流涙して「やむなし」として、「中華の良い暦がなくても、中華に西洋人を居させてはならぬ」とした。だが閏月すら間違えてしまった。彼は多分、良い暦は西洋人の専属と思い、中華人は自分では習得できず、うまく学べないと思った。只、彼は遂に死刑を受けたが、殺されず放免されたが帰る途中で亡くなった。アダム・シャールが中国に来たのは、明の嵩禎の初めで、その方法はまだ用いられなかった:後に、阮元(清代の天文学者)がこれを論じて:明末の君臣は大統暦のいい加減さに気づいて、改めようとし、新法の精密さを知ったが、今までそれを施行しなかった。聖朝が定まって、その方法で暦書を作り、天下に頒布した。彼の十余年の弁論と翻訳の労が以て我が朝の採用に備えんとするのであれば、亦奇とすべきなり!…我国聖人が相伝え、人を用いて政治を行い、その是を求め、先入観を持たない。この事によって天の如き度量を仰ぎ見ることができる!」(「畴人伝」四十五)
 今伝わる古鏡は塚から出土したものが多く、元は殉葬品だ。しかし私は一枚の日用品を持っている。薄くて大きく、漢代の物を規範にしたものだが、多分唐代のものだろう。その根拠は:一、つまみの所が摩もうしていて:二、鏡面のへこみを他の銅で補修してある。当時の閨房で唐人の額と眉を照らしたもので、今は私の衣装箱に監禁されていた訳で、今昔の感ひとしおである。
ただ、銅鏡の使用は大体、道光、咸豊時代にはガラスと併用されており:貧しい僻地では今も使われている。私の田舎は冠婚葬祭の儀礼以外すべてガラスに駆逐された。しかし、その余韻は残っていて、道を老人が肩に長椅子のようなものを懸け、上に猪の肝臓色の石と青い石をくくりつけているのを見かけたら、彼の呼び声を聞けば、それが「鏡とぎー、ハサミとぎー!」と分かる。
 宋鏡は良い物を見たことが無い。十中八九は装飾もなく屋号とか「其の衣冠
を正す」などつまらぬ銘があるのみで、まことに「世は日々悪くなる」だ。
しかし、進歩しようとか、退歩せぬようにと思うなら、時々自ら新しいものを
とりいれねばならない。少なくとも異域から材を採らねばならない。それに対して、いろんな顧慮があり、小心でぶつぶつ問題を言って、こうすると祖先に申し開きができないとか、そんな風にすると夷狄の様になり、薄氷の上で、びくびくして震えあがっていてはとても良い物は作れない。
 だから、実際「今は昔に如かず」なのはまさにぐずぐず文句だけ言って、「今は昔に及ばぬ」と言っている諸先生達のせいだ。現在の状況はこんなものだ。再び度量を大きく持ち、大胆に怖れず、新しい文化を尽く吸収せねば、楊光先のように西洋の主人に対して、中華の精神文明を説くような時が来るだろう。
 しかし私はこれまでガラスの鏡を排斥する人を見たことは無い。咸豊年間に汪日禎氏が彼の大著「湖雅」で攻撃していたのを知るのみだ。彼曰く:顔を映すには、ガラスの鏡は銅の精確さに及ばぬ、と。まさか当時のガラス鏡はそんなに悪かったわけでは無かろう。やはり彼の老先生は国粋のメガネで見た故か?私は昔のガラス鏡を見たことは無いから、この点は推測できない。
          1925年2月9日

   訳者雑感:鏡から暦に及ぶ話しだが、中国人の頑なさが如実に描かれている。
今でも暦には必ず旧暦が併記されていて、そちらの方が大切に扱われている。
ITのこれだけ進んだ21世紀でも年号や月日、時間なども十干十二支で表記する、というのが正式と看做しているようだ。さすが魯迅は各雑文の記載日を普通の数字で記しているが、毛筆で縦書きした文章には「辛亥とか甲午などで記され、西暦の漢数字でというのもちぐはぐな感はいなめない。
      2015/08/08記

 

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再び雷峰塔の倒壊について

再び雷峰塔の倒壊について
 崇軒氏の(2月号の「京報副刊」)通信で、彼が船中で聞いた2人の乗客の話しを知った。杭州の雷峰塔の倒壊理由は、土地の人達があのレンガを家に持ち帰って置いて置くと、万事平安如意で、凶に逢っても吉と化す、と。それでこちらも抜き、あちらも抜き、長い間抜いたので倒れてしまったのだ、と。乗客の一人は何度も嘆息して言った:西湖十景は欠けてしまった!
 このニュースは私をまた痛快にさせた。災禍を喜び楽しむのは明らかに紳士的とはいえぬが、元々紳士でもないから今さら取り繕わなくてもいいだろう。
 我々中国の多くの人が――ここで特に声明せねばならぬが:これは4億人全ての同胞を指してはいないことだ!――大抵はある種の「十景病」を患っていて、少なくとも「八景病」で、それが重くなったのは大概清朝時代で、凡その県志を見ると、この県には往々十景か八景があり、「遠山明月」「粛寺清鐘」「古池好水」の類だ。また「十」字型の病原菌が血管に入り込んだようで、全身に広がり、その勢力はとうに「!」(感嘆符)の形で亡国を嘆く病菌の下にはいない。点心(おやつ)には十種の錦、料理には十碗、音楽には十番、閻魔殿には十殿、薬には十全大補あり、ジャンケンには全指手、手福全(十本指が揃う事)
人間の犯罪や不正すら大抵十ケ条の罪状を宣布する。九ケ条を犯した時も手を緩めず十にする様だ。今、西湖十景が欠けてしまった!「凡そ天下国家の為に九経あり」九経はもともと古(いにしえ)よりこれ有りと雖も、九景はみかけないから、正に十景病の患者への格好の訓戒で、自己の愛しおる老病を知らしめ、十分の一が忽然欠けたことを知らしめるのだ。
 しかしそこには悲哀もある。
 実はこういう勢いが必ずもたらす破壊も、やはり虚しいので、痛快がるのも無聊な自己欺瞞に過ぎない。風流人士や仏教の信士、伝統文化の大家は何とかうまい文句をひねり出し、苦心して再び十景を取り戻すまであきらめない。
 破壊なくして新しいものはできないというのは大概その通りだ:が、破壊してもすぐ新しいものが建設できるとは限らぬ。ルソー、シュチルナー、ニーチェ、トルストイ、イプセンなどはボランデスの言を借りれば「軌道破壊者」だ。しかし彼等は破壊者というだけでなく、古いものを一掃し、大声をあげて邁進し、足手まといの邪魔な軌道は、レールごと全部、破片も含めてすべて無くして、決してスクラップやレンガを家に持ち帰って、廃品屋に売ろうなどとしない。中国にはこう言う人はとても少ないし、たとえいても、大衆から罵声をあび、罵しりの唾液でおぼれ死んでしまう。孔丘先生(孔子)は、確かに偉大で、巫や鬼神勢力があれほど旺盛な時代にあったが、鬼神の事を俗に従って話すようなことはしなかった:だが、余りに聡明で「祭はしますが如くし、神のいますが如く祭れ」とし、ただ彼が編集した「春秋」の例の手法に照らし、二つの「如」の字の間に「少しかっこうのよい刻薄」な言を寓したが、その時それを聞いた人はわけが分からなくなり、彼は本心では反対しているのを見いだせなくしている。彼は子路に対しては、それに誓うのを肯んじているが、鬼神に宣戦するのを肯んじていない。というのも、一旦宣戦したら平和を保てなくなり、人を罵る罪を容易に犯してしまうから――鬼を罵るに過ぎぬという――罪だが、「衡論」(1月号「晨報副刊」参照)の作家TY氏のようないい人は、鬼神に替ってこうひやかして曰く:名のためか?人を罵るのでは名を得られぬ。利のためか?人を罵るのも利を得られぬ。女性を口説こうとする為か?蚩尤の顔を文にすることもできぬ。何の楽しみのためにこんな事をするのか?
 孔丘先生は世故に深く通じていた老先生で、だいたい顔を文にすること以外は、深い心も持っていたが、目を見張るような大胆な破壊者にはならず、従って只談じないだけでなく、決して罵ったりしない。それで厳然と中国の聖人となり、その道は広大で包まぬものは一つとてない。さもなければ、現在の聖廟に祀られているのは孔という姓ではないだろう。
 舞台上の事に過ぎぬが、悲劇は人生の価値ある物を壊してみせる。諷刺も又喜劇の変化した支流である。ただし、悲壮で滑稽なのはいずれも十景病の仇敵で、破壊性を持っている為だ。破壊する対象は違うが、中国に十景病のようなものが今もあるからで、そうでなければ、ルソーのような狂人は決して生まれず、また、悲劇作家や喜劇作家、風刺作家も生まれない。すべては只、喜劇的な人物か非喜劇的な人物で、互いに模造した十景の中で生存し、一方では夫々が十景病を持っているのだ。
 然し全てが停滞した生活は世界でもめったにない。それで破壊者がやって来るのだ。が、それは自分達の先覚的破壊者ではなく、狂暴な強盗か外来の蛮夷だ。玁狁(ゲンイン:周代の異民族)は早くから中原に来たし、五胡も来た。蒙古も来た:同胞の張献忠は人間をまるで草を刈るように殺したが、満州兵の一矢により、樹林に逃げ込んで死んだ。ある人は中国を論じて、もし新鮮な血の野蛮人の侵入が無かったら、中国はこれほどまで腐敗することはなかった、という。
これは勿論極めて辛辣な冗談ではあるが、我々は歴史をひもとくと、冷や汗が背中をゾクッとさせられる。外寇が侵入してくると、暫く大騒ぎとなり、ついには彼に主になってもらうか、或いは他の主を探し、自分の瓦礫の古い習慣を補修してもらう。県志を見てみると、毎回の兵火の後に添えられているのは、多くの烈婦烈女の名前だ。近来の兵禍を見ると、節烈な者をたくさん表彰せねばならない。多くの男達は一体どこへ行ってしまったのか?
 凡そこの種の寇盗的な破壊の結果は、瓦礫の山を残すのみで建設と無関係だ。
 だが、平安時はそれこそ老例を補修し、寇盗の無い時は、国中に暫時破壊はないだろうか?そうとも限らぬ。その時は奴才式の破壊行為が次々に現れる。
 雷峰塔のレンガの抜き取りは極身近な小例に過ぎぬ。龍門の石仏のたいていの肢体は不全だし、図書館の本も挿絵の切り取りは防止すべきで、凡そ公共の物や持ち主の無いもの、移動困難なもので、完全な状態を保っているのは少ない。だがその毀損の原因は、それを革新しようとする人の志で除去しようとするのではなく、また寇盗の意図が、掠奪や単なる破壊ではないように、僅かな目の前の極小さな自己の利益の為だけで、完整した立派な物をひそかに傷つけて平気なのだ。人数が多いから傷も当然極めて大きくなり、倒壊後、加害者は一体誰か分かり難い。正に雷峰塔の倒壊後のように、我々は単に田舎の人の迷信だと知っただけだ。共有の塔が失われ、田舎の人の持ち去ったのは一個のレンガに過ぎず、このレンガは将来また他の人の自己利益の為に所蔵され、最終的には尽く無くなってしまう。若し、庶民の暮らしが安定している時なら、十景病の発作で、新しい雷峰塔が再建されよう。だが将来の命運も推察できるではないか。もし田舎の人がやはりこのままであり、老例はやはり老例となる。
 この種の奴才式破壊の結果は瓦礫の山を残すだけで、建設とは無関係だ。
 これは単に田舎の人の雷峰塔に対する問題にとどまらない。日々、中華民族の柱石を偸窃する奴才達は現在どれほどいるのか知らない!
 瓦礫の山の上で悲しむに足りぬ。この上で老例を補修することを悲しむべし。
我々は革新しようと意図をもつ破壊者に対しては、彼の心に理想の光があるのを知っている。我々は彼等と寇盗奴才とをはっきり分けねばならぬし、自分が後の二者に堕ちぬよう、気をつけねばならぬ。この区別は全然面倒でも、難しくもない。ただよく人を観察し、自分で反省し、凡そ言動と思想の中に、そのことで、目先の小さな便宜を図ろうとする前兆があるのは奴才だ。前面にどれほど美しい旗を掲げていようとも。
       1925年2月6日

訳者雑感:
 数日前、明代の万里の長城の多くが崩壊し、見る影もなくなったとの報道が写真付きで出ていた。万里の長城のレンガも本作品と同様な目にあったのだろう。レンガ造りのものは、いろいろな迷信から抜き取られることがよく起こる。
孟姜女の物語でも、彼女の夫が万里の長城の建設にかりだされて、その中に生き埋めにされたという伝説で、彼女が夫を探しに尋ね歩くと、壁が崩れ、夫の死体が現れたという悲しい故事もあった。 
私が「天津のコンプラドール」を書いていた時、テニスで知り合った梁さんの家を尋ねた際、彼が手で触りながら自慢げに、このレンガはね、普通の建設用のものと違うんだ。天津の城壁を取り壊すというので、それを払い下げてもらったもので、普通のレンガの3-4倍の大きさなのさ、ということだった。確かに普通の家で使うレンガの数倍はありそうで、さわると辛亥革命の頃に、袁世凱や蔡鍔(雲南の英雄)などが北京から天津にやってきたとき、馬車か自動車で通り過ぎた城壁なのだなと歴史を感じたことがある。
魯迅はこの作品で、辛辣に目先の私利というか便宜だけを追う十景病にかかっている殆どの中国人と、古い物を破壊して、革新的なものにしようとするとても小数の人をはっきり区別して、前者にならぬように呼びかけている。しかし、2015年の今日でも、おびただしい人数の中国人が、万里の長城からレンガを抜き去り、多くの名所旧跡の「石仏」「移動困難なもの」に落書きしたり、石片を削り去る行為が無くならない。
日本も次郎長の墓石を削って御守りにしたり、立派な御堂に落書きをする不心得者もいるが、だんだん少なくはなってきている。
  2015/07/28記

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写真―3 無題の類

写真―3 無題の類
 写真館は一人か数人の勢力家の写真を撰び、引き伸ばして門口に飾るのは特に北京特有のようだ。S市にいた頃目にしたのは、曾大人(曾国藩)のもので、大きさも6-8寸に過ぎず、長い間それが掛っていて、北京のように時折替えるとか、年々違うと言う事は無かった。だが革命後撤去したかどうか、正確なことは知らない。
 この10年の北京の事情は少し知っているが、写真は勢力家でなければならず、彼が「下野」したら写真は消えてしまうが、電光に比べればずっと長い。白昼明かりをつけて、北京市内のそうした勢力家のように引き伸ばされたり、縮小されたり、飾られたり、取り換えられたりしないのを探すとなると、浅薄な私が知る限り、実に梅蘭芳君だけだ。彼の麻姑(仙女)の「天女散花」「黛玉葬花」の写真は、勢力家たちのように引き伸ばされ、縮小されて、飾られたものよりずっと美しく、これだけでも中国人は実にすばらしい審美眼があると証明できるが――他方、引き伸ばされ、胸を張り、腹のでた勢力家の写真も止むを得ぬかもしれない。
 私は昔「紅楼夢」を読んだきりで、「黛玉葬花」の写真を見るまで、黛玉の目がギョロ目で、唇がこれほど厚いとは夢にも思わなかった。彼女は痩せて結核を患ったような顔と思っていたが、今はじめて福相で、天女の如しだと知った。そして又そういう姿に続いて模倣者たちの天女もどきの写真を見ると、子供が新調の服を着たようで、緊張から哀れで苦しそうな姿で、梅蘭芳君の永遠さを悟り、その目と唇は蓋し止むを得ぬ事で、これも中国人の審美眼を証明するに足る。
 インドの詩聖タゴール氏がご来訪の際、大瓶の香水の如くに、数名の先生方に文気と玄気(幽玄な気持ち)を薫じられたが、誕生祝賀会に陪席できたのは梅蘭芳君だけだった:両国の芸術家の握手だった。この老詩人が名前を「竺震旦」(インドと中国の意味)に変え、この理想郷に近い震旦(中国)を去って後は、震旦の詩賢の頭上にはインド帽も見られなくなった。新聞も彼のことを載せ無くなり、理想郷に近いこの震旦者も飾らなくなり、以前と同様あの巍然とした写真館のショーウインドーには「天女散花図」か「黛玉葬花図」が飾ってあるのみだ。
 唯この一人の「芸術家」の芸術が中国では永遠なのだ。
私が見て来た外国の男優女優の写真は多くないが、男が女に扮するのは見たことが無い。他の名士の写真は数十枚見た。トルストイ、イプセン、ロダンはみな年寄りだ。ニーチェは凶相だし、ショーペンハウエルは苦虫を噛んだようで、ワイルドは審美的な衣装をつけすっかり呆けてみえ、ロマン・ロランは些か妖気をおび、ゴルキーもまるで流れ者の様だ。みな悲哀と苦闘の痕跡がみえるが、天女の「好(ハオー、京劇などで観客のはやし声)」にはとても及ばないのは明らかだ。呉昌碩翁の印刻も彫刻家芸術には違いないし、揮毫料も高いから、中国では芸術家だが、彼の写真は見ていない。林琴南翁は大変な文名があるが、世間の人はあまり彼と「近づき」になりたくないようだ。私は一度薬屋の広告で彼の写真を見たが、それは彼が「お妾さん」の代わりに、丸薬の効能に感謝した関係で、写したもので、彼の文章の為ではない。更に言えば、「車引きや
物売り人」の文を書く諸君について言えば、南亭の亭長や我仏山人は昔の人だから、省略する。近来について言えば、奮闘して多くの作品を書いている創造社の諸君子も、小さなサイズに3人一緒に撮った者のみで、しかも銅板だ。
 我々中国の最も偉大で最も永遠の芸術は、男が女に扮することだ。
 異性はたいてい相愛するものだ。宦官はただ人を安心させることはできるが、誰も彼を愛すことはないのは、彼が無性だからだ。――私がもしこの「無」と言う字を使っても言語的に間違ってなければだが。しかし最も安心できないが。最も貴く思われるのは、男が女に扮することだとわかる。それは両方の性からみて、どちらからも異性に近いからで、男は「女に扮した」姿を見、女は「男が扮している」と見るから。だからこれは永遠に写真館のショーウインドーに掛けられ、国民の心の中に掛っているのである。外国にはこういう完全な芸術家はいない。だからあのようにハンマーとノミを握り、絵具を調合しインクを勝手に使う手合いが跋扈するままにせざるを得ないのだ。
 我々中国の最も偉大で最も永遠で、且つまた最も普遍的な芸術は男が女に扮するものである。
      1924年11月11日

訳者雑感:これまでの魯迅の梅蘭芳についてのコメントなどから推定すると、これは彼が演じる「女形」に熱狂する中国全土の京劇ファンに対する皮肉だと思われる。これは中国の男も女も梅蘭芳に異性を見いだして惚れていることを「無性」の宦官と比べて、痛烈に揶揄しているようだ。彼の写真が引き伸ばされてギョロ目で厚い唇など一向に気にしないという「審美眼」を!
    2015/07/14記

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写真―2、形式について

写真―2、形式について
 要するに、写真は妖術である。咸豊年間にある省で写真がうまいせいで、田舎の人に家財を壊されたことがあった。私が幼かった頃――つまり30年前には、S市にもう写信館があり、皆はとても疑いの目で見ていた。「義和団事変」で大騒ぎしていた頃で、即ち25年前、ある省で缶詰の牛肉は毛唐が殺した中国人の子供の肉だと思われていた。これは例外で、万事万物に例外は免れぬ。
 要は、S市には早くから写信館があり、私は前を通るたびに、その場を去るに忍びないほど興味津津の所であった。といっても年に4-5回しか通らなかったが。大きいのや小さいの、長いの短いの、それぞれ色んなガラス瓶や、つるつるしながら棘のあるサボテンなど私にはみなとても珍しいもので:壁には写信の額があり:曾大人、李大人、左中堂、鮑軍門(曾国藩以下当時の政治家)などで:私の一族の長老が夫々の名を教えてくれ、この人達の多くは現在の大官で、「長髪賊」を平らげた功臣で、お前も彼等から学ぶべきだと諭した。その時は彼等に学ぼうと思ったが、その為には「長髪賊」がすぐまた出てきてくれないかなと思ったりした。
 S市の人は余り写真が好きではなかった。魂を奪われるから、運気の良い時は撮らぬ方が良い。魂:即ち別名「威光」で:私が当時知っていたのはそれだけだったが、最近、世間には元気を奪われるのを怖れて入浴しない名士がいるのを知ったが、元気も多分威光だろう。それから私の知っている事も増え:中国人の魂、別名威光は即ち、元気で、写し取られるし、洗い去られる、ということなどだ。
 多くは無いが、その頃、確かに写真が大好きな人もいた。私はどんな人か知らないが、或いは運気の悪い徒か、新党の人だろうか。只、半身像は大抵避けられたのは、腰で斬られるのを怖れた為だ。もちろん、清朝はすでに腰斬を廃していたが、戯曲では包爺の包勉を一刀両断にするのも見られたが、何と恐ろしい事よ。たとえ国粋としても私にもそんなことはしないで欲しい。だからそんな写真も撮らぬが良い。だから彼等の多くは全身で、傍らには大きな机があり、帽子掛け、茶碗、水煙草用キセル、盆栽があり、机の下には痰壺があり、彼の気管支には痰が一杯つまっていて、次々に吐かねばならぬ。立っているのも坐っているのもあり、手に書物を持ち、襟から大きな時計をぶら下げ、拡大鏡で見れば、当時の時間がわかる。当時はマグネシウムを使っていないから、夜と疑う必要は無い。
 然し名士の風流はいつの世も無くならず、雅人はとうにこの千篇一律の間の抜けたようなスタイルに不満で、裸になって晋代の人物のマネをしたり、斜に絹帯をX状に締めて、X人になったりした。割によく見かけたのは、自分の写真を2枚撮り、服装と格好は別々で、それを併せて1枚にし、2人の自分が片や主賓でもう一人は下僕の如くで、「2人の吾の図」と称した。だが一人の自分が傲然と坐り、もう一人は卑劣で哀れな姿で、坐っているもう一人の自分に跪いているのは、別の名で「己に請う図」となる。この類の「図」は焼き付けてから詩を題すか、或いは「満庭芳の調べに寄せて」「魚児に模して」の類で、それを書斎の壁に掛ける。貴人富戸は元来間抜けの類に属し、この様な風雅なことは少ない。せいぜい何か特別な催しの際に自分が中央に坐り、膝下に彼の百人の子を坐らせ、千人の孫、万人の曾孫(下略)と撮って、「全家福」とする位だ。
 Th.Lippsは彼の「倫理学の根本問題」でこんな話をしている。凡そ人の主でも、容易に奴隷に変わることができるのは、一方では主になることを認めていながら、別の面で奴隷になるのも認めているからだと。威力が低下したら、新しい主人の前で首を垂れ、ひたすらひれ伏すのだ。その本は今手元にないので、大意を覚えているだけだが、中国には訳本もあり、全訳ではないが、この話しはあるだろう。事実で以てこの理論を証明する最も顕著な例は孫皓(三国時代の呉の最後の皇帝)で、呉を統治時は、わがままで残虐な暴君だったが、晋に降参するや、とんでもない無恥卑劣の奴隷になった。中国で何時も言われるが、下に驕るものは、上に伺う時は、かならずおもねる、というのもこの種のことを看破している。しかし表現を最も突き詰めたのは、「己に求む図」だ。将来中国が「図解倫理学の根本問題」を出す時は、これは極めて格好の挿絵となり、世界で最も偉大な風刺画家も、夢にも思いつかず、描けない図だ。
 だが我々が現在目にするのは、卑劣で哀れに跪く写真はもうない。大概は何とか記念写真か、上半身の引きのばしたもので、凛凛としている。私はこういう写真を見た時、何時も言ってる事だが、「己に求める図」の片方にみえるというのは、私の杞憂に過ぎないのであればと思っている。
    1924年10月11日

訳者雑感:写真をこのように合成したりFakeなものを造っておかしくするというのは、中国の絵画の伝統から来ているのだろうか。山水画でも非常に見事な渓谷や絶壁の秘境の絵に、仙人か隠者のような人の姿が描かれている。日本は山水画を中国から学んだが、こうした趣向はあまり取り入れなかったようだ。
 周恩来が亡くなった時、北京飯店の隣の王府井通りの人民日報の「写真展示のショーケース」に鄧小平の姿が他の指導者と並んで有ったのだが、翌日友人を案内して見に行ったら、きれいに消されていた。再度、失脚させられたのだ。
     2015/07/07記
 


 

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写真について

写真について
1.材料あれこれ
 私は幼い頃、S市にいた――30年ほど前だが、進歩の速い天才なら1世紀に相当するだろうが;S市は本名を付すが、その理由も言わないでおこう。
要するにS市ではいつも老若男女が、毛唐が目を抜くということを話していたからだ。ある女が、元々毛唐の家で女中をしていたが、その後そこを辞めて出てきたが、その理由は甕(かめ)の中に塩漬けの目がフナのように一層、一層と漬けられ、甕の縁まで一杯になるのを見たからで、彼女は心配になって逃げてきたというのだ。
 S市にはある習慣があり、余裕のある家は冬に甕に白菜の塩漬けを造り、1年の需要に備える。それが四川のザー菜と同じなのかどうかは知らない。毛唐が目玉を漬けるのはもちろん他の目的があるのだろうが、その方法はS市の白菜漬けの影響があるかもしれないが、中国が外国への同化力に富むと言われていることの証左かもしれぬ。しかしフナのようにというのはどういう事なのだろう?その答えは:確かにS市の人の目なのだ。S市の廟にはどこも菩薩がいて、目の娘娘(女神)と言われている。目に病があれば御参りして祷り:なおれば布か絹で一対の目をつくり、神棚の上か左右に懸けて、御加護へのお礼とする。だから懸かっている目の量をみれば、菩薩のご利益の大きさがわかる。懸けられた目の両側はとがっていてフナのようになっていて、毛唐の生理学の絵図に描かれた丸球のようなものは決してない。黄帝岐伯(医学の典籍)は遠い昔だし:王莾は翟義の党を誅して、肢体を分解し、医者に観察させたが、絵図にしたかどうか知らない。たとえ描いたとしても今ではすでに散逸してしまい、「古(いにしえ)よりすでにこれ有り」というのみ。宋の「析骨分経」は伝えによれば、実際に見たものに基づいており、「説郛」(叢書)の中にあり、私も見たことがあるが、多くはでたらめで、にせものだ。でなければ、実際に見たものすらデタラメであるなら、S市の人が目を理想化してフナの形にするのも怪しむに足りない。
 だが、毛唐は目を漬けものの代わりに食べるのか?そうでなければ他の目的に使うのだというのだ。
一、田舎の人の話しでは、電線の代わりに使う由。どうやって使うのか?それは彼も話さなかった:ただ毎年鉄線を添えていって、将来毛唐の軍隊が来た時、中国人はどこへも逃げられなくするという。
二、写真に使う。この道理は分かりやすく、余計な説明は要らない。我々は他の人と向い合って立つと、相手の瞳に自分の小さな写真(像)が映るから。
 また毛唐は肝を抉るそうで、これも別の目的がある。念仏婆さんが、その目的を説くのを横で聞いたことがある:彼等は抉ったあと、それを煮て油をとり、灯用に使う。それで地面を照らす。人間は欲が深いから、財宝の埋まっている所を照らすと、火先はそこで曲がるという。それですぐそこを掘って宝物を取り出す。だから毛唐はあんなに金持なのだ。
 道学先生の所謂「万物みな我に備えり」については、全国どこでも、少なくともS市の「目に一丁字も無い」者も知っている。だから人間は「万物の霊長」なのだ。それ故、経水も精液も、それを飲めば寿命が延びるし、毛髪と爪もそれで補血ができ、大小便も多くの病を治せるし、腕の肉は親を養う事が出来る。しかしこういうことは、本論の範囲外だからこれで止める。S市の人はとても体面を重んじるし、多くの事は口外を許さない:さもないと陰謀で誅殺される。
               1924年11月11日

訳者雑感: 魯迅は医学を学んだが、子供のころから人体解剖の図とかを丹念に眺めていたのだろう。その後仙台で藤野先生から人体の筋肉や血管の図を描いたものを「添削」されたときのコメントが興味深い。
以下「藤野先生」から引用する。

 一週間たち、多分土曜だったか、助手に私を呼びに来させた。研究室に入ると、整体人骨と沢山の頭蓋骨の中に坐っている彼を見た。―――彼はその時、頭蓋骨を研究していて、後に本校の雑誌に論文を発表した。
「講義は聞きとれますか?」と訊ねられ、
「はい、何とか少しは」と答えた。
「見せてごらん」
 ノートを差し出すと、彼は受け取って二三日後に返してくれ、今後は毎週見せるように、と。持ち帰って開いてみて、びっくりすると同時に、ある種の不安と感激を覚えた。ノートは初めから終わりまで、赤ペンで添削されていた。抜けた点も補充されていたばかりでなく、文法上の誤りも一つ一つ訂正されていた。こうしたことが、彼の授業が終わるまで続いた。骨学、血管学、神経学。
 残念ながら、当時の私は余り熱心な学生ではなく、時としていい加減であった。ある時、先生が私を研究室に呼んで、ノートの図を開いた。それは腕の血管だったが、それを指して穏やかな口調で指摘した。
「ほら、君はこの血管を少しずらしているでしょ。こうすると見栄えが良いのは確かだけど、解剖図は美術じゃないから、実物はそうなっているのだから、それを勝手に換えてはいけない。直しておいたから、今後は黒板の通りに描くようにね」と。
 しかし私は納得はせず、口ではハイと応えたが、心の中では「図は私の方がいい線行っているし、実際の状況はしっかりと記憶している」と考えていた。

この文章の真意は一概には断じられぬが、魯迅もやはり中国人の伝統を受け継いでいて、実際の血管の状況はしっかり記憶しているとかんがえていながら、解剖図ではすこし見栄えよく描く傾向にあるのは否定できないだろう。スタイリストというべきか、じっさいより格好を重んじるようだ。
      2015/07/03記

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