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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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哀詩三首(范愛農を悼む)

哀詩三首(范愛農を悼む)
一、
風雨飄揺日   風雨飄揺とする日
余懐范愛農   余は範愛農を懐う
華頭萎寥落   白頭は萎え 髪も抜け
白眼看鶏虫   鶏や虫けらの如き輩を白眼で視た

世味秋荼苦   世間の味は秋荼(と)みたいに苦く
人間直道窮   この世に真直な道は窮まった
奈何三月前   いかんせん、別かれて三月で
竟爾失畸躬   突然畸人を失うとは

二、
 海草国門碧   水草は城門の堀に碧く
 多年老異郷   長い間異国にいたが
 狐狸方去穴   狐狸(清の役人)はやっと穴に去ったが
 桃偶已登場   桃偶(新政府の木偶)がもう登場し

 故里寒雲悪   故里は寒い黒雲に覆われ
 炎天凛夜長   炎天の日でも夜は凛と長く
 独沈清冽水   独り清冽な水に沈む
 能否滌愁腸?  愁腸を洗滌できたろか?

三、
 把酒論当世   酒を手に当世を論じ
 先生小酒人   先生は酒飲みを軽んじ
 大圜猶酩酊   天下はなお酩酊
 微酔自沈淪   微酔して自ら沈淪
 
 此別成終古   この別れが永別となり
 従茲絶緒言   茲より諸々の言葉も絶え
 故人雲散尽   故人は雲の散ずるように尽き
 我亦等軽塵   我は亦軽塵に等し!
 
 私は愛農の死後、何日も心がふさぎ、今なお釈然としない。昨日忽と三首を作り、これを書きとめ、急に鶏と虫を入れ、真に奇絶妙絶に感じ、一声霹靂したら、死にぞこないは狼狽した。今これを録し、大鑑定家に鑑定してもらおう。悪くなければ「民興」に載せる。天下はまだ必ずしも仰望もう久しくないとはいえ、然るに私も亦あにもう言わないで置くことができようか。
   二十三日 樹又言。

編者 周振甫氏の注釈:
 魯迅のこの三首は1912年に書かれた。当時辛亥革命は清王朝を倒し、民国を建てたが、魯迅はこの度の革命が失敗の運命にあることを深く認識していた。彼は当時の政局がやはり激しい風雨に揺さぶられ、清朝の支配者を追い出したとたん、傀儡がしゃしゃり出てきた。直な道は受け入れられず、正直な知識分子、范愛農のような人たちの生活は、荼を咬むように苦しく、天下は酩酊しており、社会に公正な是非は無かった。こうした辛亥革命後の中国の状況は、死に追い詰められた范愛農の時代背景を描くことにより、辛亥革命への強烈な批判となっているが、これは魯迅が深く人間の生活に入り込んで、本質をつかんで初めて得られる見方で、その結果、深く力強くなった。彼は後に「阿Q正伝」で辛亥革命を強く批判したが、この三首は民国が成立したその年に作られており、その当時魯迅はこういう見方をしていたということは、確かに非常に本質をついている。
 この三首は范愛農を死に追いやった典型としての環境を刻み描いているのみならず、范愛農の形象も描いている。「白頭」の句は范愛農が若いのに髪は白くなり、枯れて抜け落ち、彼が受けた打撃とともに、彼の生活の困窮と関係がある。彼の「白眼」で人を見るのは、(傀儡に)おもねっている連中を見下し、彼の性格をさらにはっきりさせている。詩には彼の死の理由を描き、世間はあの苦い荼のようににがく、彼の率直な性格はいたるところで壁にぶつかり、歩める道もなくなってしまった。彼は故郷にいて、寒い雲がたれこめ、明朗な日は無く、「炎天の昼も、寒い夜は長い」と彼が社会の冷酷さを感じざるを得ないことを描く。天地は酔っていると嘆じ、それを訴えるところも無く、歩める道も無い。唯「独り清冽な水に沈む」のだ。死んでも知覚があるとしても、やはり世間の哀愁を洗い流す術はないだろう。それゆえ言う、「愁腸は洗滌できたろうか?」と、更に嘆じる。
 許寿裳は「懐旧」でこの三首について説く:「1912年5月初、私は彼と海路北に来て、(魯迅先生は教育部に勤めていて、部が南京から北京へ遷ったのに伴って移動したことを指す:周氏注)北京に来た後、一緒に紹興会館に住み:私と先兄銘伯は嘉蔭堂で、彼は藤花館。……ある日、多分7月末だったか、大風雨ですごく暗い日に、彼は傘をさしてやってきて、我々に告げた:「愛農が死んだ。溺れて死んだというけれど、自殺じゃないかと思う」それから昨夜作った「哀詩」三首を我々に見せた。(次いで三首の原文を引用)先兄は読んで、大変良いと言った:私も特に「狐狸はやっと穴に去った」の二句が気に入った。というのも、その時彼はすでに袁世凱がひと芝居打とうとしているのを見抜いていたから」次いで言う:『彼はアモイで<旧事再提>の<范愛農>を書いた頃、こう書いた「夜、独りで会館にいると、とても物悲しくなり、この知らせは間違っていると思うが、また何となくこれは信用すべきだと感じた、何の根拠もないが』
 この三首の表現の手法は、注目に値する。作者は死に追い込まれた范愛農の境遇をしっかり刻んで「風雨飄と揺れる日」「天下はなお酩酊」で、総体としての状況を述べ、「桃偶(新政府の木偶)がもう登場」は政局について述べ、このように大環境から小環境に帰結して――「故里は寒い黒雲に覆われ」と描く。このような環境は范愛農に対して言えば、「秋荼(と)みたいに苦く」彼に
「この世に真直な道は窮まった」と痛感させ、歩むべき道が無い。それで作者は范愛農の当時の心境を「炎天の日でも夜は凛と長く」と書き、炎天は暑いが、夜は凛と冷たく感じ、炎天の夜は短いが、彼には長く感じられ、それで一層人の世の冷酷さを倍加させ、彼の心情の愁苦を描いた。これは正に汪中の「自序」に言う「秋荼(にがな)の甘み、或いはナズナの如し」と。秋荼は苦いがある人は甘いと言い、これは正にその人の置かれた処は、秋荼より何倍も苦いから、
秋荼も甘くなるのだ。こう書くのは根拠がないわけではない。1912年陰暦3月27日、范愛農は魯迅に手紙を書いている:
 『豫才(魯迅)様足下へ:
 私は子淵経由陳子英の手紙で、貴兄はもう南京より戻ったと知りました。南京の措置と杭紹魯衛は、(杭州と紹興はほぼ同じで、「魯衛」は、「論語」に基づけば、「魯衛の政は兄弟也」――周氏注)この様な世の中だと聞き、実際如何に生きてゆけるか?蓋し吾輩は生を受けて以来、いっこくで、波に従って流れに乗ることができず、唯死のみで、端なくも生きてゆけない。弟は旧暦正月21日、杭州に行き、自分でも迎合することが得手でないことを悟り、生を謀る機会を失くし、西湖に抛りだすこともできず、ゆえにこの小作文を留めるのみ』
 「哀范君」の詩に、「この様な世の中だと聞き、実際如何に生きてゆけるか?」
吾輩は生を受けて以来、いっこく者で、波に従って流れに乗ることができず、唯死のみで、端なくも生きてゆけない」凄苦な心境、旧社会の正直な人を死に追いやる罪悪を暴露している。
 詩中の「海草国門碧 水草は城門の堀に碧く」は李白の詩「海草三緑、国門に帰らず」を引用している。又暗に劉安の「隠士を招く」の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋」を引き、草は緑になったことで、家に帰りたい想いを興し、それで「多年老異郷 長い間異国にいた」とつながっている。
この三首の「小酒人」は三種の解釈あり:一、小酒を飲むで「小」は酒を形容し、山東方言で少量の酒を飲むのを「小酒を飲む」という。二、小さい酒人で、「小」は「酒人」を形容し、これは酒乱になる人と異なり、少し飲んで、微酔後は飲まない。これは下文の「微酔」と相応している。三、「小」は動詞で、軽視する、酒徒を見下すこと。
 魯迅は「朝花夕拾・范愛農」で:「彼はまた今では酒を飲むのがすきになったといい、それで我々は酒を飲んだ。その後彼が町に来るたびに必ず私を訪ねてきて、とても親しくなった。我々は酔った後、愚にもつかぬ話をし、母も時たまそれを耳にして笑った」と書いており、彼はやはり酒に酔える口で、酔ったら馬鹿話をするのだから、少量しか飲めないなら酔うことはなく、「少量の酒」というのは正しくない。更に言えば、魯迅と范愛農は紹興人で山東方言は使わないだろう。「范愛農」に又言う、紹興は光復した時、彼は魯迅に向かって、「今日は我々は酒を飲まないことにしよう」と言い、彼は監学になってから「余り飲まなくなった」とあり、この事から彼の酒は愁いを解くためだったと分かる。
彼は任務をしっかり果たそうとし、酒の徒を軽視した。彼を小さな酒徒とするのは多分適切ではない。

訳者雑感:「小酒人」というのは周氏の注釈では3つの意味がある由。山東方言ではないとすると、少しの酒でほろよいになるか、酒飲みを見下すかだろうが、魯迅の作品「朝花夕拾・范愛農」の終わりごろに、手元に原詩がないから当時詩を作ったのを少し覚えていて、「把酒論天下、先生小酒人、大圜猶酩酊 微酔合沈淪」と数文字が違っているが、小酒人はそのままである。
 訳者として、この魯迅の作品の脈絡からみると、彼は少量の酒でほろよいになり、いい気持ちでいろいろ論じるのが好きだったようで、泥酔して船べりから用を足そうとして誤って浅い川に落っこちて、泳げるのに浮かんでこなかった、云々とあり、この詩の小酒人を、酒飲みを軽視するという意味で使うのは何か唐突な感じがする。
         2016/03/22記

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1903年 自題小像

1903年 自題小像

霊台無計神矢

風雨如磐暗故園

寄意寒星荃不察

我以我血薦軒轅。

わが心は神の矢を逃れる計なく

風雨は大岩のように故園を暗くする

わが意を冬の星に寄せるが察してもらえず

私は我が血を以て軒轅(黄帝)に献じん。

訳者雑感:1903年東京で辮髪を切った自分の写真に題した詩だという。
神の矢とはキューピッドの矢で、出版社注には、西洋の民主主義革命の強烈な刺激を受けて、それから逃れられなくなっているとの意味。一方祖国は清朝の反動封建専制政治で暗黒の世界をどうしようもない状態に陥っている。後の2句は屈原の故事を暗示しながら、漢族の始祖とされる黄帝に我が血を献じようと、21歳の魯迅が「青春の血の騒ぎ」を詩にしている。
     2016年3月8日記

 


 

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