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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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阿Q正伝 2

第六章 中興から末路へ
 未荘に阿Qが戻ってきたのは、丁度この年の仲秋を過ぎたころで、人々は大変びっくりして、阿Qが帰って来たぞ。どこへ行っていたのだ、と噂した。以前何回か城内に行ったときは、帰るとすぐ得意げに吹聴したものだが、今回はそれをしない。それで誰も気に留めなかった。祠を管理している爺さんには、話して行っただろうが、未荘では、趙旦那、銭旦那、秀才の長男が城内に行くとき以外、ニュースにならなかった。二セ毛唐すら数に入らなかったから、況や阿Qをや。爺さんも彼のことをニュースにしなかったから、未荘の社会では知る由も無かった。
 今回阿Qが戻ってきたが、以前とは様変わりで、確かに一驚に値した。夕闇迫るころ、眠たそうな目で、酒店に現れ、カウンターに身を預けて、隠しから出した手には、銀貨と銅銭をいっぱい握って、カウンターに放り投げ、「ほれ現金だ、酒をくれ!」着物も新品の袷で、腰には大きな腰巾着をつけている。ずっしりと重そうで、帯がその重みでだらりと垂れている。未荘の例として人目を引く人物に会ったら、ぞんざいな態度を取るより、敬意を表しておくのだが、今、明らかに目の前にいるのは、阿Qなのだが、ボロの袷をまとっていた阿Qとは別人のようである。
古人曰く「士は三日会わざれば、刮目して見よ」と。だから、ボスもマスターも酒客も通行人も、疑いの眼差しながら、敬意の態度で迎えた。
「ほー。阿Q、戻ってきたか」
「おー、帰って来たよ」
「金持ちになって」 「お前どこで?」
「城内さ」
 このニュースは翌日、未荘中に広まった。人々は現金と新品の袷の阿Qの中興の物語を知りたがった。酒店、茶館、廟の軒下で、噂がどんどんふくれていった。この結果、阿Qは、新たな畏敬を獲得した。
 阿Qの話では、挙人旦那の宅で、仕事をしたという。これを聞いたものは、みな粛然とした。この旦那は白という姓だが、城内には挙人は彼一人。だから姓を冠する必要なく、挙人と言えば彼のこと。未荘だけじゃない、百里四方すべてそうだった。たいていの人は彼の名は挙人だと思っていた。従って、そこで仕事するなんてことは、当然ながら、そりゃ大変なことだった。だが、彼の話ではもう二度とそこではしたくないという。なんでも、この旦那、実はとても「気に食わない奴」だったから、という。この話を聞いたものは、ため息をつきつつも、なにやら痛快にも感じた。阿Qは本来、挙人旦那の家で仕事をする柄ではないというやっかみもあり、またそれをもうやらないというのは、それはそれで惜しいからでもある。
 阿Qに依れば、帰って来たのも、どうやら城内の連中に不満だったようで、彼らが、長凳を条凳と言ったり、魚の油炒めにネギの細切れを入れたり、かてて加えて、通りを歩く女の腰のひねり具合が、いかにもよろしくないというのであった。
 だが、中にはたいへん敬服すべき点もあり、たとえば未荘の田舎もんは、32枚の竹牌しか打てないし、二セ毛唐くらいが「麻醤(マージャン)」を打てる程度だが、城内では「小鳥亀子」など、とってもうまく打つ。二セ毛唐といえども城内じゃあ、たかだか十数歳の子供の「小鳥亀子」の中に入ったら「子鬼が閻魔さまにひねられる」てなもんさ。これを聞いたものは、みな恥じいった。
「お前たち、首切りを見たことがあるか?」と阿Qは聞いた。
「こりゃ見ものだぜ。革命党を殺すのさ。まあ、見ごたえあるぜ……」頭を揺らしながら、唾の飛沫を対面の趙司晨の顔に飛ばした。これを聞いていた連中は慄然とした。が、阿Qはおもむろにまわりを見渡してから、右手を挙げて、首を伸ばして夢中で聞き入っていた王胡のボンの窪を直撃して、「バサリッ」と一声。
 王はビックラ仰天、瞬時に電光石火のごとく首をひっこめた。聴衆はみなゾクッとしたが、とても喜んだ。これ以降、王は長い間、うだつが上がらず、二度と阿Qのそばには寄ってこなかった。他の連中も同じだった。
 この時の阿Qは、未荘の人から見た地位は、趙旦那を超えていたとまでは言わないが、略同じくらいと言っても過言ではなかった。
そして暫くすると、阿Qの名声は未荘中の閨房にも広まった。未荘には銭と趙の二軒しか
深閨のある邸宅はないから、それ以外の十中八九は皆、浅閨に過ぎないが、閨房には違いない。これもいささか不思議な現象であったが、女たちは顔を会わせば必ず話題にした。鄒七おばさんは阿Qから藍の絹のスカートを買った。品は中古だけど、たった九角だって。また趙白眼の母親が、一説には趙司晨の母と言い、要チェックだが、子供用の大きな紅い西洋織の生地を買って、7割がた新品をたったの三百銭で、それも一串92個で百文。それで彼女らは羨望のまなざしで阿Qに会いたがった。絹のスカートを持っていない者は、ぜひ欲しいと。西洋生地の欲しい者は、ぜひ買いたいと思った。
それで、道で会っても、身をひそめるどころか、ときには阿Qが通りすぎてから、追いかけて来て、「阿Q、絹のスカートはあるかい?無いの?西洋生地も欲しいけど、無い?」
 その後、これは浅閨から深閨に伝わった。鄒七おばさんは得意のあまり、絹のスカートを趙家の奥様に見せに行った。奥方は旦那にそれを話した。品はとてもいいものだったと褒めた。旦那は夕食時に、秀才の長男に話した。阿Qはどうも怪しい。我が家も注意せにゃならん。が、彼の品物は他にいいものがあるかどうか知らん。まだいいのが残っているかも知れん。奥方も値打ちで質の良い皮のベストを欲しいと思っていた。家族会議の結果、鄒七おばをすぐ阿Qのところにやった。このために第3番目の例外を作った。今夜はしばらく灯をつけるのを許す、と。
 灯油はだいぶ減ったが、阿Qはなかなか来ない。一族郎党みなとても焦り出していた。
欠伸をしつつ、阿Qはずぼらな奴だからとか、鄒七おばさんがしっかりしないから、と怨んだりした。奥方は、春の一件(敷居)のせいで、おっかながっているのではないか、と気をもんだが、旦那は心配いらない、「俺」が呼んだんだから、と。果たして、旦那の見たてに狂いはなく、阿Qは鄒七おばさんについてやって来た。
「彼は、もうただただ無いよ、もう無いよ、というばかりで……。だから私は、自分で直接話してくれと言っても、同じことのくりかえしで、わたしは…」彼女は息を切らして、駆けつけながら言った。
「旦那!」 阿Qは軒下で立ったまま、うすら笑いを浮かべて声を出した。
「阿Q,お前だいぶ金儲けしたそうだな」そういうと、大股で歩み寄り、全身をなめ回し、「そりゃよかった。そりゃよかった。それでお前は中古のいい品を持っているそうじゃないか。全部持ってきて見せてみろ。他でもない、わしは、一つ欲しいものがある」
「鄒七おばさんに話した通り、みんな売っちゃって、もう無いよ」
「みんな売っちゃったって?」旦那は不覚にも声を失い、
「そんなに早くおしまいか?」
「あれは友達のもので、もともと大して多くなかったし、みんなが買っちゃったから」
「だが、少しは残っているだろ」
「もう、門幕一枚だけだよ」
「すぐ持ってきて見せなさいよ」と奥方は急いで口をはさんだ。
「じゃあ、明日持って来な」旦那はあまり熱心じゃあ無さそうだった。
「阿Q、これから何か入ったら真っ先に全部俺たちに見せろよ…」
「他所より安いことは言わんから」秀才も口を出した。
秀才の女房も阿Qの顔をちらっと見て、彼がこちらの意が通じたかどうか確かめた。
「私は皮のベストが欲しいのよ」と奥方。
阿Qは口では承知はしたが、ものうさげに帰って行ったので、本当にしっかり気に留めてくれたかどうか判然としない。それで旦那は失望し、憤慨しつつ、心配にもなって、欠伸も引っ込んでしまった。秀才は、阿Qの態度に不満で、この「忘八蛋」はよく注意せにゃならん。地保によく因果を含めて話させ、未荘から追い出そう、と言った。が、旦那はそれには反対で、恨みを買う方が心配だし、この手の生業をする奴は、大抵は「地元じゃあ、荒仕事はしない」というから、うちの村は心配無いよ、但、自分たちで夜警をしっかりすればいい、と。秀才もこの「庭訓」を聞いて、その通りだと思い、阿Q駆逐の提案は取り下げた。が、鄒七おばさんに、今のことは絶対口外しないように言いつけた。
 しかし、鄒七おばさんは翌日にはもう、藍のスカートを黒に染め、阿Qの疑わしいことを漏らしてしまった。だが、秀才が駆逐しようとした事は、触れなかった。情勢は阿Qにたいへん不利になっていた。真っ先に、地保が戸口に来て、趙の奥様が見たいからと言って、門幕を持って行った。更に毎月の上納金の額を決めよう、という。次には村民の畏敬も急に変った。ぞんざいな態度こそ取らないが、少し離れていた方が無難となり、この気持ちはこの前の「バサリッ」とやられないようにという時のとは違って、「敬して遠ざく」の入り混じったものだった。
 ただ、一部の閑人は、阿Qの本当の実情を根掘り葉掘り聞き出そうとした。阿Qも何も隠しだてや格好つけたりせず、自分の経験を自慢げにしゃべりだした。そこから分かってきたのは、彼はただのワキ役で、壁を越えられないだけでなく、蔵にも忍び込めなかった。ただ、外で、物を受けとるだけだった。
 ある夜、彼は包ひとつを受け取って、シテが再度入ってから、しばらくすると中は大騒ぎになった。彼は大慌てで逃げだし、夜じゅう走ってやっと未荘に逃れてきた。それでもう二度とやろうとはしなくなった、と。これが阿Qにはとても不利な結果になり、村民の「敬して遠ざけ」ていた者は、怨みを買うことを恐れていただけだったので、彼がもう再び偸みに入らない泥棒だとなれば、まったく「これもまた畏るに足らず」であった。
 
 
第七章 革命
 宣統三年九月十四日、阿Qが例の腰巾着を趙白眼に売った日。真夜中に大きな黒篷船が、趙府の船着き場に着いた。こっそり漕いできたので、村民は白河夜船、誰も気づかず、明け方に出て行った時に何人かが目撃した。よく調べた結果、挙人旦那の船だと判明した。
 この船が未荘に大きな不安をもたらした。正午前には村中の人心が動揺した。船の使命は極秘だったが、茶坊や酒肆では、革命党が城に進入したので、挙人旦那は俺たちの村に避難してきたのだ、と言っていた。ただ、鄒七おばさんはそうじゃないと言い、何個かの古い衣装箱を、預かってもらおうとしたけど、趙旦那は送り返したのだ、と言った。
実際、挙人旦那と趙秀才は、平素なんら行き来も無いし、理屈から言っても、「患難を共にす」などの情宜も無い。鄒七おばさんは趙家の隣で、彼女の見たのは確かなものに違いないから、大概は彼女の言うとおりだろうとなった。
 しかし、デマはますます広がり、挙人旦那自身が来たわけじゃなさそうだが、中に厚い手紙が入っていて、趙家とは遠い親戚だと書いてあり、趙旦那もちょっと考えなおして、損は無いと思い、箱を引き取って奥方の寝台の下に隠した、とか。革命党はこの夜城内に入ったが、白い鎧兜を着け、これは崇正帝(明末皇帝)の喪に服すためだという。
 阿Qは革命党というのはとっくに聞いていたし、今年は自ら革命党を殺すのを見てきた。が、どこかで聞いた話では、革命党は造反するというので、造反となると彼も困ると思い、これまでは「深く憎み、これを根絶しよう!」と考えていた。
それがどうしたことか、百里四方に名の知れた挙人旦那が、こんなに怖がるとは!阿Qはそう聞くと、なんだか恍惚となる自分の感情を抑えきれず、況や未荘の馬鹿どもが、あわてふためくのをみて、阿Qの気持ちは更に痛快になった。
「革命、それもいいじゃないか」と彼は思い、
「この馬鹿野郎たちの命を革(かく)してやろう。憎むべき連中、怨むべき連中、…俺も革命党に投降しよう」
 阿Qは最近、手元も不如意になり、不満がたまっていた。加えて、昼すきっ腹に二碗の酒を飲んだせいか、酔いが早くまわってきて、そんなこと考えながら歩いていると、飄々然としてきた。どうしたわけか、革命党とはすなわち俺のことだという気分になり、未荘の連中はみな俺の俘虜だ。うれしさのあまり、大声で「造反だ! 造反だ!」と叫んだ。
 未荘の人々はみな恐れおののいた目で、彼をみた。この一種憐れむべき目つきは、阿Qがこれまで見たことも無いもので、それを見ると、6月に氷水を飲むような爽快な気分になった。いっそううれしくなって叫んだ。
「よーし、俺の欲しい物は、みな俺のもの。好きな女も俺のもの。ドンジャンドンジャン」
「悔やんでも、悔やみきれぬは♪、鄭君よ、酔って君を斬ってしまったことよ。悔やんでも悔やみきれない♪ああ、あああ♪ ドンドンジャンジャンドンジャンジャン。
ハガネのムチを振り上げて、お前を懲らしめてやる♪」
 趙家の二人の男と、本当の一族の二人が正門の前で、革命の話をしていた。阿Qはそれも見ずに、頭をあげて、うたいながら通りすぎた。
「ドンドン…  」
「Qさん」趙旦那が心配そうに、近寄ってきて声を落として呼んだ。
「ジャンジャン」阿Qは自分の名前に「さん」が付いているので、別人だと思い、自分とは関係ないと思って、ただドンジャンドンジャンとうたった。
「Qさん」
「悔やんでも悔やみきれない♪」
「阿Q!」秀才が直接彼の名を呼んだ。
阿Qはやっと立ち止まって、頭をひねって、「何?」と応じた。
「Qさん… 最近 …」趙旦那は何の話もないので、「近頃、金儲けしたのかい?」
「金儲け、もちろん。欲しい物はなんでも……」
「アー Q兄さん、我々こんな貧乏人仲間は大した問題にはならないよね……」趙白眼は、びくびくしながら言ったが、革命党の手口を探ろうとしているようだった。
「貧乏人? の仲間? どう見たって俺よりずっと金もちだ。」と言って彼は去った。
 皆憮然として、話も途切れた。趙旦那父子は家に帰り、灯を点けるころまで善後策を相談した。趙白眼も戻って、腰巾着を女房に渡して、箱の底に隠すよう命じた。
 阿Qは飄々然と舞い上がるごとく祠に帰った。酔いはもうさめていた。この夜管理の爺さんは、意外なほどに丁寧で、茶まで出してくれた。阿Qはついでに餅菓子を2枚頼み、食べ終わると、火をつけたことのある四両のローソクと高い燭台を頼み、点火して、自分の小部屋で一人寝た。えも言われぬいい気持ちで、うれしくてたまらず、ローソクの火も元日の夜のようにゆらゆら揺れ、気持ちも跳びはねるようだった。
「造反、こりゃ面白い。…… 白い鎧兜の革命党がやってくる。手には、青龍刀、ハガネのムチ、爆弾、鉄砲、三又の両刃の剣,鈎鎌の槍を持ち、「阿Q行こうぜ!」と祠に呼びに来る。「そこで一緒に……」「この時未荘の馬鹿どもは、面白いことになるだろうな。
俺の足元にひざまずいて、‘阿Q、助けてくれ!’という。‘おめえ誰だ?俺様に向かって’
 最初にやるのは、小Dと趙旦那、それに秀才、そして二セ毛唐。何人生かしてやるか?
王胡は残してやってもいいが…、やはりいらん。
「品物は…突入したら真っ先に箱をあけ、元宝銀、洋銭、西洋シャツ、秀才の女房のあの寧波式豪華寝台をひとまず祠に持ってこよう。そのほかには、銭家の食卓と椅子、或いは趙家のでもいい。自分の手で運ぶんじゃない。小Dに運ばせよう。早く運ばなきゃ、一発くらわしてやる。……。
「趙司晨の妹はブスだし、鄒七おばさんの娘は何年か先の話。二セ毛唐の女房は、辮髪の無い男と寝るような女だから、ペッ、ロクな女じゃない!秀才の女房はまぶたの上にかさぶたがあるし。……呉媽はもう長いこと会ってないが、どこにいるんだろうな。
だがなあ、彼女は足が大きいからなあ(纏足ではない、阿Qも纏足の方が、の意)…。
 阿Qは計画を十分まとめる前に、鼾をかきはじめた。四両のローソクも半寸ほどしかへっていない。紅い炎が彼の開いた口を照らしていた。
「はーああ」阿Qは突然声をあげて、頭をあげ、周りを見回したが、四両のローソクを見て、また眠った。
 翌朝起きた時、だいぶおそくなっていた。街を歩いても元のままだった。腹がへったので、どうしようかなと考えたが、何も浮かばない。が、急にアイデアが出たらしく、ゆっくりだが大またで、なにかありげに静修庵に向かった。
 庵は春のときと同様静かで、白壁と黒い門。ちょっと考えながら、門を叩いたら、犬が中から吠えてきた。急いでレンガのかけらを数個拾い、力を入れて門を叩いた。黒い門にいくつかぼつぼつができたころ、やっと中から人が出てきた。
 阿Qは急いでレンガをつかみ、足を開いて黒犬との戦闘に備えた。だが、門はほんのわずか開いただけで、黒犬は出てこなかった。のぞくとあの年かさの尼だけがいた。
「何の用?」彼女は驚いて聞いた。
「革命さ。知っているだろ?」阿Qも言いながらあいまいだった。
「革命。革命。――革命して革命する ――お前たちを」
「私たちをどうする気だい?」尼は両目を紅くして言った。
「何?…」阿Qは、わけがわからなかった。
「お前、知らないのかい。彼らはもう来て革命していったよ」
「誰?……」阿Qはよけいわからなくなった。
「あの秀才と二セ毛唐」
 阿Qはとても意外だった。不覚にもうろたえてしまった。尼は彼が鋭気を失ったのを見てとり、ばたんと戸をしめ、阿Qが再度押してもびくともしなかった。門を叩いたが応答はなかった。
 それは午前中のことだった。趙秀才は早耳で、革命党が夜城内に入ったと聞くや、辮髪を頭上に巻いて、朝早く、元もとさして仲良くもなかった銭二セ毛唐を訪ねた。今や「ともに維新」のときが来た。それで話はとんとん拍子。すぐさま意気投合して同志となって、手を携えて革命に行くことになった。いろいろ考えた後、静修庵に「皇帝万歳、万々歳」の龍牌が掛っているのを思い出し、さっそくこれを取っ払わねばならぬ、とすぐ一緒に庵に行って、革命したのである。尼が阻止しようとしたので、ふたことみこと言って、彼女を満州政府と同一なるものとみなし、ステッキと人差し指と中指の二本を曲げて、何回かこつこつと叩いた。尼は連中が去った後、気を取りなおし、調べてみたら、龍牌は粉々になって地上に散らばっており、観音様の前にあった宣徳炉は無くなっていた。
 阿Qは後から知ったのだが、今朝おそくまで寝ていたことをひどく悔やんだ。
だが、彼らが自分を呼びに来なかったのはとてもけしからんと思った。また一歩退いて考えた。「まさか彼らは俺が革命党に投降したのを知らないのか」と。
 
第八章  革命は許さん。
 未荘の人心は、外見は静かだった。伝来した消息では、革命党は入城したが、別に大きな変動もなく、知県様ももとのまま、ただ何とかいう名に改称された由。挙人旦那も何とかという官になって――こうした官名は、未荘の人には分からない――軍隊もやはり前の隊長のまま、只ひとつ恐ろしいのは、悪い革命党が混じっていて、ひっかきまわしている。翌日辮髪を切りに来て、隣村の便船の七斤がやられて、ブザマな姿にされた。が、そんなのは大して怖くない。未荘人は、元来城に行くことは少なく、たまに出かけるにしても、すぐ予定を変えられるから、危険な目にあうことはまず無い。阿Qも城内の友達を訪ねに行こうと考えていたが、この件を聞いて、取りやめた。
 一方、未荘も改革無しとは言えなかった。数日後、辮髪を頭上に巻いた者が徐々に増えてきた。すでに触れたごとく、一番は茂才公、次が趙司晨と趙白眼、その後が阿Q。夏なら辮髪を頭上に巻いたり、結わえたりするのは珍しくも無いが、晩秋の今、それをやるのは「晩秋に夏もの」で、巻辮髪は大変な英断である。だから未荘も改革と無縁とは言えないのだった。
趙司晨が後頭部をきれいさっぱりして、やって来るのを見た人々は「おお、革命党が来た!」と大騒ぎ。
阿Qはそれを聞いて、大変羨ましくなった。秀才がとっくに巻いたというのは知っていたが、自分もそれができるとは思いもよらなかった。趙司晨もそうしたのを見て、まねようと決心した。竹箸で辮髪を頭上に巻いて、長いことためらってから思い切って外に出てみた。
街に出て、人々は彼を見たが何も言わない。阿Qは最初とても面白くなかった。後には不満に思った。ちかごろすぐかんしゃくを起こしやすくなった。生活は造反の前より苦しくなったわけではないし、人々もぞんざいな態度になったわけでもない。店も現金でなきゃだめだとも言わない。だが、阿Qは自分とした事が、こんなことではと失望していた。革命したら、こんな具合じゃあおかしい。小Dを見かけたとき、一層ムカッとしてきた。
小Dも辮髪を頭に巻き、なおかつ竹箸を使っている。彼ですらこんな風にできるとは思ってもみなかった。彼がこんな風にするのを許すわけにはいかないと思った。小Dは何と心得るか!即刻、竹箸を折って辮髪を降ろさせ、何回かびんたをくらわせ、身の程知らずに、革命党を僭称するなど怪しからんと膺懲せにゃならん。
だが、そう思っただけで、結局は放免し、単に目を怒らせてにらみつけ、ペッと唾を吐いただけにとどめた。
この数日、城内に行くのは二セ毛唐ひとりだった。
趙秀才も例の箱を預かった由来を頼みに、自ら挙人旦那を訪ねようと思ったが、まだ辮髪があるので、危ないことはせぬが良いとしてやめた。彼は傘型に文面を整える正式の書状を、二セ毛唐に託して城内に持参してもらった。また、彼から自分を紹介してもらって、自由党に入党した。二セ毛唐は戻るなり、秀才に立て替えた四元の洋銭を請求し、秀才は銀のスペードのバッジを中国服の大襟にかけた。未荘の人たちは皆畏れいって、これが柿油党(自由党の当て字)のバッジで、翰林(科挙の優秀者)に相当すると言った。趙旦那はこのため、俄然はぶりが良くなり、息子がはじめて秀才になった時より鼻息があらく、眼中になんぴとも無く、阿Qなど鼻にもかけなかった。
 阿Qはとても不満で、だんだん気も落ち込み、銀のスペードの話を聞くや、自分の冷落の原因を悟った。革命するなら、投降だけじゃだめ、辮髪を巻くだけでもダメ、第一に革命党に行き、彼らと知り合いにならねば、と。だが、これまで革命党で知っているのは二人だけ。城内の一人はとうに「バサッ」とやられ、残る一人は二セ毛唐のみ。すぐ彼の所へ行って、相談する外ない。
 銭府の門は開いていたので、阿Qはおっかなびっくり入って行った。入ると驚いたことに、二セ毛唐が庭の中央に立って、真っ黒の洋服を着て、その服に銀のスペードをつけ、手にはかつて阿Qが教えを受けたステッキ、一尺余のザンバラ髪を肩の後ろに垂らして、まるで劉海仙人(がま蛙に乗った伝説の仙人)のような格好であった。その前に背筋を伸ばした、趙白眼と三人の閑人が恭しく、尊敬のまなこで話を聞いている。
 阿Qはそっと近づいて、趙白眼の背後に立ち、気持ちの中では、早く挨拶しようとしたが、どう挨拶すべきか分からない。もちろん二セ毛唐などと呼んでは、とんでも無い。洋人も適切ではない。革命党もちょっと。洋先生とお呼びすべきだろうな。
 洋先生は目をかっと開いて、話しに夢中で、彼の方にまったく注意を向けなかった。
「私は性急なたちで、私たちが会ったときは、いつも洪兄さん!やりましょう!と言ったのだが、彼はNo!――英語だから諸君には分からないだろうがね。さもなければ、とっくに成功していた。しかしこれが正しく彼の非常に用心深い点で。彼は再三再四、湖北に来てくれと私に言ってきたけど、私は行かなかった。このちっぽけな県城では、誰も何かやれるとは思わんがね。……」
 「おお… この…」阿Qは彼の話が少し途切れた時、思い切って勇気を出して口を開いた。が、どうしたことか、洋先生とは呼ばなかった。
話しに夢中になっていた四人は驚いて彼を見、洋先生もやっと見た。
「なにい?」
「おいら…」
「出てけ!」
「革命党に…」
「さっさと出て行け!」洋先生はステッキを振り上げた。
趙白眼と閑人は大声で「先生が出ていけ、と言っているのが聞こえんのか」と怒鳴った。
 阿Qは手を頭に載せて、知らぬ間に門外に逃げ出していた。洋先生も追っかけては来なかった。六十歩ほど速く走ってから、ゆっくり歩きだしたらやるせない思いが湧いてきた。洋先生は彼の革命を許してくれない。他に方法は無い。今後、白い鎧兜の人が、彼を呼びに来ることはもう決してない。すべての抱負、志向、希望、前途、どれもみな帳消しだ。閑人たちが、言いふらして、小Dや王胡の輩に笑われることなどどうでもいい。
 かつてこれほどまでに無聊をかこったことは無い。自分の巻辮も今や何の意味も無い。侮蔑すべきと悟り、仇打ちのために、辮髪をたらそうとしたが、そうはしなかった。夜まで遊んで、酒二碗をつけで飲み、飲み終わるとだんだん元気が戻って来、気持ちの中では、白い鎧兜のかけらがまた出てくるようになった。
 ある日、いつも通り夜遅くまで遊んで、酒店が閉じるまでいて、それから祠に帰った。
バーン、バン、バン!
突如、一種異様な音がしたが、爆竹ではない。阿Qは根っから騒ぎが大好きな野次馬で、暗がりの中を音のする方に向かった。前方で足音がする。聴き耳を立てると、猛然、前方から人が逃げてくる。それを見るや急いで一緒に逃げた。男が曲がれば彼も曲がり、立ち止まると、彼も立ち止まった。後ろから何も来ないと分かって、その男を見ると、なんと小Dだった。
「なあんだ」阿Qは不満に感じた。
「趙家が…や ら れ た!」小Dはぜいぜいしながら言った。阿Qの心はポンと跳びは
ねた。小Dは話し終えると去って行った。阿Qも逃げながら立ち止まること2,3回。彼は必竟、「この種の生業」をやったことがある人間だった。肝も格別大きい、それで疲れた足を引きずって、街角までゆき、注意して聞いてみると、まだ騒いでいるし、よく見ると、
白い鎧兜の人が次々と箱を担ぎ出している。家具も出し、秀才の女房の豪華寝台を担ぎ出しているが、はっきり見えない。前に出ようとしたが、足が動かない。
 この夜は月が無く、未荘は真っ暗でたいへん静寂であった。静寂さは伏羲のころと同じくらい泰平だった。阿Qは立ったまま苛立っていた。さきほどと同様、次から次へと運び出され、箱も家具も秀才の女房の豪華寝台も、目を疑うばかりだった。だが、彼はそれより前には出ないことに決めて、祠に戻った。
 祠は真っ暗だった。戸を閉め、手探りで中に入った。しばらく横になってやっと落ち着いて、自分の気持ちを整理した。白い鎧兜の人は確かに来た。だが、呼びには来なかった。これはすべて憎っくき二セ毛唐のせいだ。俺の造反を許さないからだ。さもなくば、今日どうして俺の取り分が無いなどということになろうか。考えれば考えるほど、ムカムカし、しまいに、心のそこから怨みを押さえられず、猛烈に首を上下させ、「この俺の造反を許さず、自分だけ造反して、こん畜生の二セ毛唐! よーし、お前が造反するなら、造反は首切りの罪だ。お上に訴えてやるぞ。県城にしょっ引かれて首切りだ。一族郎党、財産没収の上、首切りだ、バサッ バサッ」
 
第九章 大団円
 趙家がやられてから、未荘の人の大半はとても痛快に思ったが、またその一方で恐れもした。阿Qも痛快だったが、恐れもした。四日後、阿Qは夜中に突然、県城にしょっ引かれた。その夜は月も出ず、兵隊、自警団、警察の一団と五人の探偵がひそかに未荘に来て、闇に乗じて、祠を囲み、正面から機関銃を設置したが、阿Qは出てこなかった。長い間、動きが無く、隊長は焦り出した。二万の賞金をかけ、二人の自警団が危険を冒して垣を越えて入り、内外呼応して一斉に突入、阿Qを捕えた。祠の外まで連れ出して、機関銃の左近くに来て、彼はどうやら目が覚めたようだ。
 城内に入るともう正午。阿Qは両手を縛られ、古い役所の建物に入り、5,6回曲がって、小部屋に押し込められた。ちょっとよろめいた途端、丈の高い丸太の柵戸が、かかとにくっつくように閉まった。他の三面は壁で、よく見るともう二人いた。
 阿Qはちょっとびくびくしたが、辛いとは感じなかった。祠の寝間はこことそう変わらなかった。同室の二人は田舎者のようで、話し始めてみると、一人は挙人旦那が、彼の祖父の代の年貢未納を取り立てに訴えたためだ、という。もう一人はどうしてだか知らない。彼らが彼にどうしてだ、と聞くので、「造反しようとしたからだ」ときっぱり答えた。
 午後、檻から裁きの場に連れて行かれた。正面にツルテッカンの爺が坐っている。
阿Qは和尚かと思った。後ろには兵隊が立ち、両側は十数人の長衫を着たのが、ツルテッカンと同じようなものや、一尺くらいの髪を二セ毛唐のように肩の後ろに垂らしているのがいた。凶悪な顔で、目を怒らせて自分を見ていた。この連中はその筋の人だと思ったら、膝関節がふにゃふにゃとし、膝を地につけてしまった。
「立って答えろ! ひざまずかなくていい」長衫の男が叫んだ。
 阿Qは分かったようだが、立ち上がれない。体がいうことをきかず、ひざまずいたままで、ついには本当に「ひざまづき」の形になった。
「奴隷根性め!」長衫の男が軽蔑しきったように言ったが、立てさせはしなかった。
「正直に白状しろ。(拷問にかけられて)苦しみたくなければ。とっくに分かっているぞ。話せば許してやる」ツルテッカンの爺は、阿Qの顔を見定めて、穏やかな声ではっきり言った。
「さっさと白状しろ」長衫の男も大声で怒鳴った。
「おいら、もともと、(革命党に入ろうとして、申請に)来ようとしたんだ」阿Qはでたらめなことを考えながら、ぼそぼそと話しだした。
「では、なぜ来なかったんだ?」爺はおだやかに訊ねた。
「二セ毛唐がおいらを入れて呉れなかったのだ」
「でたらめ言うな!今頃そんなこと言っても遅い。今お前の仲間はどこにいるのだ!」
「なに」
「趙家をやった連中さ」
「彼らは俺を呼びには来なかった。彼らは自分で運んじゃったんだ」阿Qはそう言って憤慨した。
「どこへ行ったんだ?話せば許してやる。爺さんはさらに穏やかになった。
「おいら知らない。彼らはおいらを呼びに来なかったんだ……」
すると爺は目配せして、彼はまた檻の中に入れられた。二回目に出されたのは翌日の朝だった。裁きの場は同じ状態。正面にツルテッカンの爺。阿Qはひざまずいた。
爺は穏やかに訊ねた。「何か話すことはないかね?」
 阿Qは考えてみたが何も無かったので「ありません」と答えた。
 すると、長衫の男が紙と筆を阿Qの前に置き、阿Qに筆を握らせた。阿Qはこの時
びっくりしてほとんど「ぶっ魂消てしまった」筆を握るのは初めてだったから、どのように握ったらよいか知らなかった。その男はある場所を指して、花押を描かせようとした。
「俺は字を知らない」阿Qは筆を握りながら恐れおののき恥じ入るように言った。
「じゃあ、負けてやる。丸を描きな」
阿Qは丸を描こうとしたが、筆を持った手はふるえるばかり。それでその男は、紙を地面に置いて、阿Qを伏せさせた。彼は懸命に丸を描こうとしたが、この憎たらしい筆は重くて、いうことをきかない。ブルブル震えながら丸をくっつけようとしたら、外にはみ出して、西瓜の種のようになった。
 阿Qは自分の描いたのが丸くないので、恥ずかしくてたまらなかったが、その男はかまわず、紙と筆を持ち去った。
 数人の男たちが再び檻の中に連れて行った。檻の中に入れられても大して悩まなかった。
人間、天地のあいだに生きていりゃ、まあたいてい引っ張り込まれたり、連れ出されたりするものさ。時には紙に丸を描かされる。ただ丸く描けなかったのは自分の「行状」の上で、汚点であるが。暫くしてやっと分かった。彼はこう思った。自分の孫の代なら、真丸の円が描けるようになるさ。そして彼は眠った。
 しかしこの夜、挙人旦那は眠れなかった。彼は隊長がとても癪にさわった。彼としては、盗品を探し出すことが最優先されるべきと考えた。隊長は大衆へのみせしめが第一と考えた。隊長は近頃、挙人旦那を軽んじだした。ケンカ腰で「一罰百戒ですよ。私が革命党になってまだ二十日も経ってないのに、蔵破りはもう十数件。一件も捕まっていません。私の面子丸つぶれです。今回やっと捕まえたら、迂遠なことをおっしゃる。ダメですよ。ダメ。これは私の所管事項です」挙人旦那は困って、自説を堅持して、もし盗品探しをやらないなら、民政支援の職務を即刻辞す、と脅した。隊長は「ご随意に」と言うのみ。で、挙人旦那はこの夜眠れなかった。幸い翌日辞職はしなかったが。
 阿Qが三回目に檻を出された時は、ちょうど挙人旦那が眠れない夜の翌朝だった。裁きの場に着くと、正面にやはりツルテッカン。阿Qも例の通りひざまずいた。爺は穏やかな口調で、訊ねた。「何も話すことは無いかね?」阿Qは考えたが何も無いので「ありません」と答えた。
 長衫と短衣を着た男が大勢で、西洋織の白い布のチョッキを着せた。上に黒い字がある。阿Qはとてもくさくさしてきた。というのも、なにやら喪服のような感じがしたからだ。
喪服なんて縁起でもない。それから両腕を後ろ手に縛られ、役所の外に出された。
 阿Qは幌の無い車に乗せられ、数名の短衣の男たちも一緒に坐った。車はすぐ動き出した。前には鉄砲を担いだ兵隊と自警団。両側は口をぽかんとあけた見物人が沢山いた。後ろはどうか、阿Qは振り向かなかった。が、突然悟った。首切りされるのだ。あわてた。
両の目はくらみ、耳の中はガーンと鳴った。くらくらしてきた。が、完全にやられてはいなかった。あわてはしたが、泰然としていた。意識の中では、人間、天地の間に生きていりゃ、時として首を切られることも免れまい、と考えた。
 道は見おぼえがあったが、どうもおかしい。どうして刑場に向かわないのか。自分が見せしめのため、市中引き回しされているとは知らなかった。知ったところで同じこと。人生、もとより見せしめにあうこともあろうと考えるだろう。やっと分かった。回り道をして、刑場に連れられ、バサッと首を切られることを。呆然として左右を見回したら、路傍の人の群れの中に、呉媽がいた。久しぶりだったが、城内に働きに来ていたんだ。阿Qは自分が急に士気が無く、越劇のさわりの文句ひとつも唱えなかったのを恥じた。なんとかしなきゃという気持ちが空回りした。「悲しき未亡人」じゃあ元気がないし、「龍虎の闘い」の「悔やんでも悔やみきれない」ではむなしすぎる。やはり「ハガネのムチでお前を懲らしてやる」か、と思ったが、手を振り上げようとして、両手が縛られているのに気づき、それも止めた。
 「二十年後に生まれ変わり、男一匹」阿Qは焦りながらも、「誰に教わるでもなく」これまでやったことのない文句を唱いだした。
「好!いいぞ」群衆の中から狼の遠吠えのような声がした。
 車は前進を続けた。彼は喝采の中、目を凝らして呉媽を見たが、彼女は自分の方は見ず、ポカンと兵隊の背中の鉄砲を見ていただけだった。
 そこで阿Qは再び喝采の群衆を見た。この刹那、彼の気持ちはぐるぐると回った。四年前、山の麓で、飢えた狼に出くわした。ずっと不離不即で彼をつけ狙ってきた。彼の肉を食おうとしていたことを思い出した。あの時もうほとんど死にそうだった。幸い柴刈刀を持っていたので、勇気を出しなんとか未荘までたどりつけた。しかしあの狼の目は永遠に忘れられない。凶暴なくせに、おびえたような目で、遠くから彼の皮と肉と見透かすようだった。いま、これまで見たことも無いような恐ろしい目、鈍いけれど、鋭利ですでに彼のしゃべったことを噛み砕き、皮と肉以外のものを食らわんとして、つかずはなれずついてくる。この目が一丸となって、彼の魂を噛み砕きはじめたようだ。
「助けてくれ」そう思ったが、彼は口には出さなかった。
とっくに目はくらみ、しきりに耳鳴りがし、全身は粉みじんにくだけて飛び散ったように感じた。
 当時の影響で一番大きかったのは、挙人旦那で、ついに何も取り返せず、一家全員泣いた。その次は趙府で、秀才が城内に報告に行ったとき、悪い革命党に辮髪を切られただけでなく、二万の賞金を払わされ、一家全員でおろおろ泣いた。この日以来、彼らは旧時を懐かしむ遺老の気持ちになった。
 世論は未荘では異議は無かった。阿Qが当然悪い。銃殺されたのは悪い証拠で、悪くなければなんで銃殺にされるものか。城内の世論はよくなかった。半分以上は不満で、銃殺は首切りのような見ごたえが無い。そしてあの死刑囚はまさに噴飯ものだった。あんなに長く市中引き回しにされながら、ついに越劇の名場面の唱(チャン)の一節すらうなれなかった。ただついて回っただけまったく無駄骨で、しょうもなかった、と。
  一九二一年十二月   
 
2010年5月31日 温家宝首相訪日の日に。
 首相の職務を害されることを懸念して宝飾関係の夫人と離婚したと伝えられる人と、女性の大臣を罷免して、それが当人を害することになることを懸念しなかった人との会談の日に。
 
 
 
 
 

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阿Q正伝 1


 阿Q正伝は、50歳以上の日本人なら、名前は聞いたことがあると思う。だが、「星の王子さま」のように手にとって読んだ人は多くないだろう。戦前の翻訳では「滑稽本」のイメージもあったし、戦後はルンペンプロレタリアート的な面も加えられた。訳者も学生時代、中国語劇でこれをやった時、田漢の脚本に依拠したので、必ずしも、原作に忠実とは言えなかった。登場人物が多すぎて魯迅の吶喊の印象が薄らいでしまった。田漢も文革で完膚なきまでに批判された。
 今回、阿Qが30歳ごろまで過した海と河のほとりの,そして都会の近くの農村で暮らしている人々の写真が掲載された本が手に入った。何信恩氏と十余名の撮影者が浙江文芸出版社から出した、「与魯迅看社戯」(魯迅と一緒に奉納劇を観る)である。
今も沢山の屋根のそり返った楼閣的な、趣のある越劇の舞台が河辺にたくさん残っている。  
読み進めてゆくうち、阿Qの言葉の中に、山田洋次描くところの柴又のトラさんのセリフが、私の脳裏にダブった。大連にいるとき、日本のテレビで、何十本ものトラさんを見た。時代も半世紀以上ちがうし、辛亥革命のころと、戦後、復興に希望を見出していた日本と比較するのは、どだい無理というもの。だが、「野菊の墓」の時代、矢切りの渡しで、船頭さんが手こぎの櫓であやつる木の船に乗りながら、墨東の水と舟で生きてきた人たちの暮らしぶりと、トラさんがスッカラカンになって、祠に忍び込んで夜露をしのぐ姿と、阿Qとがダブった。トラさんにはさくらという妹もおり、革命騒ぎにも巻き込まれることなく 処刑されずにすんだ。だが、阿Qが祠の中で夢想した世界と、トラさんがトランク一つで日本各地を放浪して夢想したものは、似通ったものもある。
 明治維新のころ、日本にも阿Qがいたが、西南戦争を境に、滅びるものは滅びた。その後、凶作と恐慌で飢え死にしそうになった人を満州に送り出した。訳者の子供時代には、駅の近くに身寄りのない浮浪者がいたが、やがて姿を消した。彼らはどこへ行ったのだろう。魯迅はこの小説を書くとき、阿Qの霊が乗り移ったような気になった、と書いている。彼自身の内なる阿Qへの問いかけが、出発点であろう。
 第一章の序は、「月と6ペンス」に似て退屈かと思うが、阿Qの生い立ちというか、何の係累もないことの説明で、少し辛抱されたく。二章目から、トラさんの映画をみるようなつもりでごらんいただきたい。
 
第一章 
阿Qの伝記を書こうとして、1、2年にもなる。往事を顧みると私は適切な人間ではないのではと思う。従来,不朽の筆こそ、不朽の人の伝を書くべきで、それでこそ、人は文を以て伝わり、文は人を以て伝わるものだ。結局、誰が誰によって伝わるべきか、わからなくなってきた。が、私は阿Qの伝を書くことにした。どうやら阿Qの霊が私の中に、乗り移ってきたようだ。
 このすぐ朽ち果てる文を書こうとして、とても難しく感じる。第一が名だ。孔子曰く「名、正しからざれば、言、順がわず」と。伝の名は大変多い。列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝、……、どれもピタッとこない。列伝だと、名のある人と「正史」に載せられていなければ具合が悪い。自伝、私は阿Qではない。外伝とすると、内伝はどこだ、となる。よしんば内伝とせんか、しかし阿Qは神仙でもないから無理。別伝はというと総統から国史館に「本伝」を作るようにと、命が下ってもいない。英国の正史には、「博徒列伝」は無いが、文豪ディッケンズ(コナンドイルの記憶違い:魯迅の山上への手紙)は「博徒列伝」を作った。これは文豪だから許されるので、吾輩などには許されない。次は家伝だが、我が家が阿Qと同族かどうか知らない。彼の子孫の委託も受けてない。小伝だと大伝がなければならぬ。要するにこれが「本伝」となるべきものだが、私ごとき者の文章は、文体が下卑ていて、「車曳きや豆乳売り」の言葉だから、僭称はしたくない。それで、三教九流の小説家が使うところの、「閑話休題、言帰正伝」から借用して、正伝としよう。古人の撰した「書法正伝」と字面が混同しやすいが、この際やむをえない。
 第二、伝を書くときは、通常、最初に某(なにがし)、字は某、某地の人なり、とするのだが、彼の姓は全くわからない。一時趙だと思われたが、翌日にはもうあやふやになった。
それは趙旦那の息子が、秀才(科挙)に合格し、銅鑼で村中に知らせが回ったとき、阿Qはちょうど老酒の二碗目を飲んでいたところで、小躍りして、これは彼にとっても大変喜ばしいことで、趙旦那とは同族で、仔細に調べると、彼は秀才の三代前の世代に当たる。それを傍できいていた者は、粛然とし、尊敬の態度を取るようになった。それが翌日、地保(隣組の長)が、阿Qを趙旦那のところに引っ張って行き、旦那は顔を真っ赤にしてどなった。
「阿Q、このフーテンが、お前が俺の同族だと!」
阿Qは黙ったままうつむいていた。
趙旦那は烈火のごとく怒って、彼に近づいて、「でたらめ言うな!俺の一族にお前のような奴がいてたまるか!」「お前はほんとに趙姓と関係あるのか!」
 阿Qはだまったまま、後ずさりしようとすると、旦那はとびかかって一発くらわした。
「なんでお前が趙なものか。趙を名乗る資格なぞないわ!」
 阿Qは、自分は趙だと抗弁はせず、手で左頬をさすりながら、地保とともに退出した。外に出てから、地保に訓斥され、酒代二百文を召し上げられた。これを聞いた者は、阿Qもとんだドジを踏んだものよ。てめえから殴られに行ったようなものだ。趙姓も怪しい。もしほんとにそうだとしても、趙旦那がいらっしゃる限り、でたらめを言っちゃいけない。この後、誰も彼の姓について触れなくなったので、結局何という姓か分からずじまいとなった。
 第三、名も何と書くかわからない。生きていたころ、阿Queiと呼ばれていたが、死後、だれもそう呼ぶ者もいなくなったので、「竹帛に之を著す」ということも無い。もし「竹帛に之を著す」というならば、これが最初だろう。まずもってこの難関に立ち向かうことになった次第。つらつら思うに、阿Queiは阿桂か阿貴か。月亭という号を持っていれば、あるいは8月に誕生祝いをしていたら、阿桂だろう。だが、号も無いし、誕生祝いの回状を出したこともない。で、阿桂と書くのは、独断のそしりを免れない。兄弟に阿富という者がおれば、阿貴だろうが、兄弟はない。阿貴という証拠はない。この他に、Queiと発音する字は難しく思い浮かばない。以前趙旦那の子の茂才先生にうかがったが、あれほど博雅な公からも、確かな応えはなかった。結論から言えば、陳独秀主催の「新青年」が提唱するローマ字化のために、国粋の漢字文化は亡くなり、調査する手段も方法も無くなってしまったというわけ。最後の手段として、同郷の人に犯罪記録がないか調べてもらった。8か月経って、返事が来、記録にはQueiの音に近い者はいない、という。ほんとに居なかったのか、調べなかったのか知らない。が、万事窮す。注音字母の普及はまだおぼつかないから、ローマ字を使うよりない。英国で通用しているつづり方で、阿Queiとし、略して阿Qとする。
これは「新青年」に盲従するみたいで、誠に申し訳ないが、茂才さんですら、御存知ないからは、他にどんな方法がありえようや。
 第四、本籍。趙という姓なら最近普及した「群名百家姓」の注により、隴西天水の人也、と言えるのだが、この姓そのものが頼りにならない。それで、本籍も定まらない。未荘に長く住んだとはいえ、他でも住んでおり、未荘の人とも言えない。未荘の人とすると、やはり史法にもとることになる。
 自ら慰めることができるのは、「阿」だけは正確で、一切附会仮借のおそれはない。誰にも通じる字だ。その他に至っては、浅学の手に負えず、「歴史癖と考証癖」の胡適之先生の門人たちに、将来新たな端緒をたくさん探し出してもらうよう切望する。但し、この「阿Q正伝」がそのころには、とうに消滅してやせんか、はなはだ心配ではある。
 以上を以て、序に代える。
 
第二章 優勝記略
 阿Qは、姓名本籍があいまいなだけでなく、それまでの行状も判然としない。未荘の人々の彼との関係は、忙しい時か、からかう時以外、何もなかったので、彼の行状に関心もなかったし、阿Q自身も何もしゃべらず、ケンカをするときだけ、目をかっと開いて、
「俺も昔は、お前なんかよりずっと裕福だったんだ!お前なんぞ、何だ!」と言った由。
 阿Qには家がなく、未荘の祠に住んでいた。定職もなく、日雇いで、麦刈なら麦刈、米つきなら米つき、舟こぎなら舟こぎ、となんでもやった。仕事が長引くときは、その家に一時的に住みこんだが、終われば帰された。だから、忙しいときは阿Qを思い出すが、それは仕事を頼むためで、行状には関心も無かった。ヒマになったら、阿Qのことなど忘れてしまうので、行状などだれも口にしなかった。ただある時、老人が「阿Qは本当によくやる」と褒めたことがあった。このとき、阿Qは肌脱ぎで、呆然と痩せた体をさらしていたが、周囲の連中も、老人が本当に褒めているのか、からかっているのか、分からなかった。が、阿Qはこれを聞いて、とてもうれしがった。
 阿Qは自尊心がかなり強かった。未荘の住人は、彼の眼中になかった。特に二人の「文童」などは物の数にも入れず、軽んじていた。文童は将来、秀才になる可能性もあり、趙旦那、銭旦那が尊敬を受けているのも、金持ちというだけでなく、文童の父親だからであって、それを阿Qは精神的に少しも格別な崇敬を表せず、俺の子なら、もっと金持ちになるさ、と考えていた。彼はしばしば城内に出かけており、それも自負心を強めた背景だが、城内の人間さえも馬鹿にして、長さ三尺で、幅三寸の床几のことを未荘では、「長凳」といい、彼もそう呼ぶが、城内では「条凳」という。これはおかしい。間違っている!と。また、大頭魚の油炒めは未荘では半寸のネギを入れるが、城内では細切りだ。これも間違っている!と馬鹿にした。
 一方で、未荘の人は世間知らずの、田舎者で、彼らは城内の炒り魚を見たこともない、とけなす。
 阿Qは、昔は裕福で、見識も高く、本当によくできる、本来ほとんど完全無欠の人間であったが、体質的に小さな欠陥があった。一番悩ましいのは、頭にいつからか、疥癬の後のハゲができたのだ。これは自分の身に起こったことだが、貴とするに足りないもので、この疥癬の漢字の「癩」及び頼の発音に近い物を忌むようになり、光も忌み、亮も忌み、後には灯も燭もすべて忌むようになった。これを犯した者は、意識的か無意識かに拘わらず、ハゲのところを真っ赤にさせて、相手の力を見極めながら、口下手な相手には、痛烈に罵り、気の小さな奴は殴りつけた。が、ある時から、どうしたわけか、阿Qの分が悪くなる場合が増えてきた。それで、徐々に方針転換し、大抵は、目をかっと開いて、睨みつけるだけにとどめた。
 ところが、阿Qがこの方法をとりだしてから、未荘の閑人たちは、よけいからかうようになった。阿Qに出会うや、びっくり仰天、おどけてみせた。「おや、急に明るくなったぜ」
阿Qは目を怒らせて、かっと睨みつけるだけだった。
「おお、何かと思ったら、安全灯があったのか」閑人たちはまったく怖がらなくなった。
阿Qはしかたなく、別の報復手段を考えた。
「お前ら、このできそこないめ!」
このとき、自分の頭の疥癬は、ある種の高尚かつ光栄あるもので、そこらの疥癬とは違うんだ、という考えが閃いた。が、上述したように、これも「忌を犯す」ことになると悟って、言うのをやめた。
 閑人はさらに畳みかけるように、からかってきたので、ついに殴り合いになった。阿Qは負けてしまった。黄ばんだ辮髪をつかまれて、壁に頭を4、5回ぶつけられ、閑人は満足して去った。阿Qはしばらく呆然としていたが、心の中で、「ああ、倅に殴られてしまった。今の世の中なっとらん」とつぶやいて、精神的に勝利して、あたかも自分が勝ったような気分で、その場から去った。
 阿Qは、考えたことを、ぶつぶつ、言いだしたので、彼をからかう連中は、彼が一種の精神的勝利法をあみだした、と推測した。それで、辮髪をつかんで壁にぶつける前に、「阿Qよ、倅が親父を殴るんじゃないぞ。人間が畜生を殴るんだぞ。自分から言ってみろ。人間さまが畜生を殴るんだ」と命じた。
 阿Qは両手で、辮髪の根元を押さえながら、頭をゆがめて言った。
「虫けらを殴る。これでいいか。俺は虫けらだ。もう放してくれ」
だが、虫けらだと言っても放さず、壁に5、6回頭をぶつけてやっと満足して去った。今度こそ、コテンパンにやっつけてやったと思った。が、ものの十秒もしないうちに、阿Qは何もなかったように立ち去った。自分で自らを軽んじ、いやしめることのできる第一人者だと思った。「自ら軽んじ、いやしめる」を取れば、「第一人者」である。科挙の最優秀合格者「状元」は第一人者じゃないか。「お前など くそ食らえ」
 阿Qはこうした妙手を考え出して、仇敵に打ち勝ち、愉快な気持ちを取り戻し、酒店で数椀の酒を飲み、他の人と冗談を交し、言い争いをしてはまた勝って、いい気分で祠に帰り、そしてすぐ眠った。
 金ができたときは、サイコロ賭博に行った。地べたに、大勢の人がしゃがみ込んで夢中になっている。彼も顔から汗をたらしながら、その輪の中にいた。彼の賭けの張り声は、一番よく響いた。
「青龍に四百!」かけるぞ。
「八一。どうだー!胴元がつぼを開け、汗まみれの顔で唱えるように「天門だぜー♪。角は戻しいー、人と穿堂は、いただきー♪ 阿Qの銭はこっちによこしなって」
 「穿堂に 百五十、百五十!」とかけたが…。
阿Qの銭は、かくして唱(チャン)とともに、汗まみれの胴元の腰に移っていった。それでしまいには、賭け人の外に出て、後ろから見ていた。他人の賭けを自分がかけている如くに、散会するまで、未練がましくみていた。それから、祠に戻り、翌日は目をはらして働きにでた。
 「人生万事塞翁が馬」とはよく言う。阿Qはあるとき、大勝したが、最後はオケラになってしまった。未荘の賽神祭りの晩。このときは、いつも通り、越劇が奉納され、舞台の左手には、賭場が何ヵ所も開帳された。劇の銅鑼や鉦太鼓は、阿Qの耳には、はるか十里の外のよう。彼には胴元の声が聞こえるのみ。彼は勝ちに勝った。銅銭が角洋になり、角洋が大洋(メキシコ銀)になり、大洋が山となった。うれしくて有頂天で、「天門に二元!」とかけた。
 誰かが突然ケンカを始めた。怒声と殴り合いの音、足で蹴りあう大騒ぎとなった。彼の頭はふらふらになり、やっと這い上がったとき、賭場は失せていた。人もいなくなった。体中に痛みが走った。何回か殴られたようだ。野次馬がいぶかしそうに彼を見ている。何か無くしたような気がしたが、祠に戻って、気を取り直したら、あの洋銭の山がなくなっていることに気付いた。賽の賭場の胴元たちは、この村の人間じゃない。どこへ行けば、奴らを探し出せるか。
 ピカピカの洋銭。俺のもの。それが無くなった。倅に持ち逃げされたと考えても、どうにも面白くない。虫けらと考えても、頭に来る。今度ばかりは、さすがの彼も、失敗の苦痛をなめさせられた。
 が、失敗をすぐ勝利に転じた。右手で、思いっきり自分の頬を2回殴った。とても痛かった。でも殴った後は、気が静まってきた。殴ったのは自分で、殴られたのはもう一人の自分だが、しばらくすると、他人を殴ったのと同じような気になった。……
まだ痛いが、心では勝利を得て、満足して横になり眠った。
 
第三章 続優勝記略
しかし、阿Qは常に優勝していたとはいえ、それは趙旦那に頬を殴られた後、名を挙げたという次第であった。
地保に酒代二百文を払い、いまいましいと思いながら、横になっていたが、考えてみるに「今のご時世、全く話にならん。倅が親を殴るなんぞ」それでふと趙旦那の威風に思い至って、そうだ、今や彼が自分の倅だと思い、そうとなれば、自分ながらも、不思議と愉快になってきて、起き上がるや、「悲しき未亡人♪」の一節を口ずさみながら、酒店にでかけた。このとき、自分は趙旦那より一段格上になったような気がした。
 妙なことに、それ以後村の連中は、彼に一目置きだした。それは阿Qがひょっとすると、趙旦那の父親かもしれない、と思ったためで、実はそうではないのだが。未荘では、阿七が阿八を殴ったとか、李四が張三をこづいても、何の話題にもならなかった。名のある人、たとえば趙旦那の関係者がからんでこそ、話題になる。話題に上れば、殴ったのが名のある人なら、殴られた方も、そのおかげで名が出るって寸法。阿Qの方が間違っていても、そんなことはどうでもよい。それじゃなぜだというと、趙旦那は間違いっこないからだ、ということ。では、阿Qが間違っているのに、なぜみんな、彼を尊敬するのか。これを説明するのは難しいが、考えてみれば、ひょっとして阿Qは趙旦那の同族だと言ったために、殴られたのだから、もしそれが本当だったら、と心配し、まあとりあえずは敬意を表しておくのが、身のためだと考えたからであろう。さもなければ、孔子廟の牛と同じで、豚や羊と同じ畜生なのだが、聖人が箸をつけたものだから、先儒たちは、みだりに手をだそうとしないのと似ていると言える。
 阿Qはこの後、数年間というものは、絶好調であった。
 ある年の春、酒を飲んでほろ酔い加減で町を歩いていた。壁ぎわの日当たりで、王胡が服を脱いで虱を取っているのを見、自分も痒くなってきたように感じた。この王胡は、疥癬ハゲで、胡(ヒゲ)が毛むくじゃらで、みんなは彼を王癩胡と呼んでいたが、阿Qは癩の字は取って、王胡と呼んで、見下していた。阿Qとしては、癩は奇とするほどのことではない。頬からアゴまでぼうぼうのヒゲは、実に奇怪で、みっともなくてどうしようもない代物だった。
 彼は並んで坐った。もし他の閑人なら、隣には坐らない。が、王の横なら何も怖くない。本来なら、横に坐ってやるのは、奴の体面を上げてやるようなものだった。阿Qも袷を脱いで、裏返して見たが、最近洗ったせいか、注意が足りないのか、長いこと探して、やっと3、4匹捕まえただけ。王はと見ると、1匹また1匹、2匹3匹と口に入れ、ピシッ プシッといい音を立てている。
 阿Qは最初は失望していただけだったが、だんだん面白くなくなってきた。見下してきた王があんな沢山取るのに、自分はこんなに少ない。体面が傷つけられたこと甚だしいと思い、大きなのを1、2匹探そうとしたが捕まらない。やっと中くらいのを1匹捕まえ、厚い唇でくわえ、力いっぱい噛んでピシ、と音をさせたが、王のようにはいい音がしない。
 阿Qの疥癬ハゲはみるみる紅潮し、服を脱ぎ捨てるや、ペッと唾を吐いて言った。
「毛虫野郎め!」
「かささき犬、お前、誰に向かって言っているんだ!」王は軽蔑のまなこで応じた。
阿Qは近頃、まあそれなりに人の尊敬を受けて来、自分でもちょっと偉ぶっていたが、それでも喧嘩慣れしているヤクザな連中には、びくびくしていたが、今日は、勇気満々であった。ヒゲもじゃ野郎が何をほざくか、と思い、受けて立った。
「いつも毛虫野郎って言われている奴のことだ」
王も立ち上がって、上着を脱いで両手を腰にして怒鳴った。
「骨をガタガタいわしてもらいたいのか」
阿Qは彼が逃げると思って、先制攻撃、一発かまそうとしたが、拳が相手に届く前につかまれ、ぐっと引っ張られて阿Qのほうがゴロンと倒された。辮髪を掴まれ、壁のところまで引っ張ってゆかれて頭をゴツンゴツンとぶつけられた。
「君子は、口は出すが、手は出さぬ!」阿Qは頭をゆがめて言った。が、王は君子ではないようで、そんなたわごとに耳を貸さず、続けざま5回ほどぶつけると、力いっぱい押して、阿Qが6尺ほど転げたのを見届けて、満足して去った。
 阿Qの記憶では、生涯最大の屈辱だった。王は頬からアゴのヒゲという欠点で、これまで阿Qに馬鹿にされてきたが、彼から馬鹿にされたことはなかった。ましてや手を出されたことは無かった。しかし今回彼は手を出した。とても意外な気がした。まさか町で噂になっているように、天子さまが科挙の試験を廃止し、秀才や挙人をとらなくなったので、趙家の威風も地に落ち、自分も見くびられるようになったのだろうか?
 阿Qは呆然と立っていた。
向こうから来るのは、もう一人の天敵、大嫌いな奴、銭家の長男だった。彼は最初城内の洋学堂に入ったが、どうしたわけか日本に行き、半年後に帰ってきた。外人のように足をピンと伸ばして歩き、辮髪も無い。奴の母親は十数日間、泣きわめくし、女房は井戸に3回も跳び込んだ(自殺のジェスチャー)。後に母親は、「辮髪は悪い連中に酒に酔わされた揚句、知らないうちに切られた」と弁解して回った。「本来なら、大官に任命される予定だったが、髪が伸びるまで待つしかない」という。
 阿Qは冗談じゃないと信じなかった。それで彼を見ると「エセ毛唐」とか「外国のスパイ」と腹のなかで、罵ってきた。彼が心そこから憎み怪しからんと思うのは、奴の二セ辮髪だ。辮髪、それが二セときては、人間の資格が無いのだ。奴の女房が4回目の身投げをしないのも、ロクな女じゃないということだ。
 二セ毛唐は近づいてきた。
「ハゲ、とん馬……」阿Qは腹の中だけで罵って来たのだが、今日はムカムカしていたし、仇を討とうとしていたので、思わず口をついて出てしまった。
 このハゲは黄色い漆塗りの棍棒、すなわち阿Qの言うところの「喪主の杖」を振り上げて、大股に近寄って来た。阿Qはこの瞬間、殴られると察知し、急いで筋骨を緊張させ、首をひっこめた。果たして、パンと一声。頭上に一発食らったようだ。
「ハゲはあいつのことだよ」阿Qはそばにいた子供を指して弁解した。
 パンパンパン!
阿Qの記憶では生涯2番目の屈辱だった。が、パンパンと音がした後は、一件落着したような気になり、すっきりした。更に「忘却」という先祖伝来の宝刀も功を奏して、ゆっくり歩いて酒店の入り口に着いたころには、もういい気持になっていた。
 向こうから、静修庵の若い尼がやってきた。阿Qは普段、彼女を見ると必ず唾を吐いて罵ってきたのだが、さっき屈辱を受けたことを思い出し、敵愾心を燃やした。
「今日はどうしてこんなに運が悪いのかと思ったら、お前に会ったせいだ」と思い、近づいて行って、大声で、「ハー、ペッ」と唾を吐きかけた。若い尼は全く取り合わず、頭を下げて、そうそうに立ち去ろうとした。阿Qは更に近づいて行き、手を伸ばして剃ったばかりの頭を触ってオツム てんてんとやった。(関西で散髪直後にするのと同じ、厄除けのまじない的風習が紹興にあると、前書きに触れた何信恩氏の解説に依る)
「かわいい おつむちゃん。早く帰りな。和尚さんが待ってるぜ」
「どうして触るの?」尼は顔を真っ赤にして、急いで去ろうとした。
 酒店の客は大笑い。阿Qは自分の立てた勲功が称賛を博したと知り、一段と愉快になり、
「和尚ならいいけど、俺じゃだめか」と、尼の頬を触った。
酒店の連中はまた大喜び、阿Qは得意満面、観客を満足せしめんと、もう一回つまんでから放した。
 この一戦で王のことはとっくに忘れ、二セ毛唐のことも完全に忘れ、今日の不運のすべての仇を晴らした気になり、妙なことにパンパンと叩かれた時より、全身が軽快になり
飄々と舞い上がるような気分だった。
 
「子無し、跡無し阿Qの馬鹿!」
遠くから尼の泣き声まじりの罵声が聞こえた。
「はっ はっ は」阿Qは得意げに笑った。
「ハッ ハッ ハッ」と酒店の連中も和して笑った。
 
第四章 恋愛の悲劇
 世に云う。勝利者は敵が虎や鷹みたいな強敵でないと喜びを感じないと。羊やヒヨコなんかではつまらない。又、勝利者はすべてを平伏した後、死ぬものは死に、降参するものは降参し、「臣は誠に死罪にあたります」という状態になると、敵もいなくなり、自分ひとりになってしまうと、寂しくてやりきれなくて、却って勝利の悲哀さえ感じるものだ。
 しかし我々の阿Qは、そんな心配は無用。永遠に絶好調のようであった。或いはこれが、中国精神文明の世界に冠たるゆえんかも知れない。
 見よ!彼の飄々と舞い上がるごとき上機嫌を。しかるにこの度の勝利は、常とはいささか違ったようだ。半日ほど得意げに浮かれていたが、祠に戻って、いつもなら寝転がってすぐ鼾をかくのだが、この夜はなかなか寝付けなかった。親指と人差し指がなにかおかしかった。ぬるっとした感触で、尼の顔のなにかすべすべしたものが、指にくっついたか、
指先で尼の頬のぬるぬるしたものを撫でたせいか。
 「子無し 跡無し阿Qの馬鹿!」
阿Qの耳に尼の罵声がよみがえった。考えた。そうだ、女をさがさにゃならん。跡無しだと、墓に誰も飯椀を供えて呉れなくなる。女を探さなきゃ!
「不孝に三つあり。跡無しは最大と」そしてまた「若敖(民)の霊は飢える也」などは人生最大の悲しみだ、とその時そう思ったのは、聖なる経書と賢人の教えに合致していたのだが、惜しむらくは、その後「其の放逸を収めることができなかった」のである。
「和尚ならいいが、…… 女 女 女」と彼は思った。 
 この夜阿Qは何時頃まで寝付けなかったか知らない。多分このときから指先がぬるぬるして、それでこの時から、飄々として… 「女、女……」が欲しくなった。
 このことから、我々は女が人を害するものだということを知る。中国の男は本来、大半は聖賢になれる素地があるのだが、惜しいかな、すべて女によって芽を摘まれてしまう。
商は妲己によって亡び、周は褒姒にめちゃくちゃにされ、秦は…史書には記されてないが、女にといっても必ずしも間違ってはいない。そして董卓は確かに貂蝉に害されて死んだ。
 阿Qも本来、正人君子であって、誰の教えを受けたか詳らかではないが、これまで、彼が「男女の別」を厳格に守ってきて、異端を排す、――たとえば尼とか二セ毛唐とか― 
という正気を持ち合わせている男であった。彼の学説は、凡そ尼というものは、必ず和尚と私通しており、女が一人で出歩いているのは、必ず情夫を誘い込もうとしているのであり、男と女が二人して語らっているのは、必ずあいびきである。彼(女)らを懲らしめるために、常に目を光らせ、大声で「この不心得者め」と罵ったり、人の通らないところでは、うしろから石を投げたりした。
 彼も早、而立になろうとしているのに、若い尼に害されて飄々としてしまった。この飄々とした気分は、礼教から言えば、「あってはならない」ことである。従って女とはまさに憎むべき存在であり、尼の頬がすべすべしていなければ、阿Qも蠱惑されることにはならなかっただろう。また尼が顔に布をかぶっておれば、阿Qといえども、女に惑わされるような羽目に陥らなくて済んだのに。5、6年前、劇場の人ごみの中で、女の太腿に触れたことがある。が、布一枚隔てていたので、その時はなんら飄々然と舞い上がる気分にはならなかった。が、若い尼はちがう。これこそ異端は憎みて余りある証と言えよう。
「女……」阿Qは欲しいと思った。
彼は「必ずや情夫を誘わんとしている」とおぼしき女を、注意して探してみたが、女の方から彼に微笑みかけるものはいなかった。自分に話しかけてくる女の話しを、よく注意して聞いていたが、女の方から誘うような話を持ちかけてはこなかった。おお、これは女の憎むべき点で、彼女たちはすべて「まじめなふり」を装っているのだ。
 この日、阿Qは趙旦那の家で、米つきをし、晩飯後、台所で煙草を吸っていた。別の家だと、晩飯後は帰っていいのだが、趙家では晩飯が早いのと、普段は灯をつけないで、食後はすぐ寝るのだが、たまに例外があり、一:趙旦那が秀才になる前のころは、灯をともして読書するのを許した。二:阿Qが仕事をするときは、灯をつけて米をつくのを許した。この例外のおかげで、阿Qは米つきの前に、台所の床几に坐って一服できた。
呉媽は趙家のただ一人の女中で、皿を洗い終え、床几に坐って、阿Qと世間話をしていた。
「奥様は二日もお食事をお食べにならないのよ。旦那様が若い妾をお買いになったので…」
「女  呉媽……この年若い未亡人……」阿Qは欲しくなった。
「若奥様には8月にお子さんが生まれるっていうのに」
「女……」阿Qは欲しくてたまらなくなった。
阿Qはキセルを置くや、立ち上がった。
「若奥様はねえ……」呉媽は、なにやら言っていた。
「俺と寝て呉れ。お前と寝たい」阿Qは突然彼女に近づき、彼女の前にひざまずいた。
 一瞬、静寂がおそった。
「あれーえ」呉媽は息をはずませ、突然ぶるぶると震えだし、大声で叫んで、外に逃げていった。泣きながら、大声でわめきながら。
 阿Qは壁に向かって、ひざまずいたまま震えていたが、誰もいなくなった床几に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。まずいことになったな、とぼんやり感じながら、おろおろして、あたふたとキセルを腰にさし、米つき場に行こうとした。そのとき、ポンと一声、頭上で音がした。振り向くと、あの秀才が長い天秤竹竿を手に、目の前に立っていた。
「お前!造反するのか、この野郎!」
長い竹竿は彼をめがけて振り下ろされた。阿Qは両手で頭を抱えたが、指の関節に当たり、とても痛かった。台所から飛び出したが、背後からもう一発くらったようだ。
「忘八蛋(ワンパ‐タン、馬鹿野郎)!」秀才は後ろから北京官話で罵声を浴びせた。
 阿Qは米つき場に逃れしばし坐っていたが、指がとても痛かったし、「忘八蛋」という罵声の文句が耳にこたえた。この罵声は未荘の田舎では使わない。専らお役所の金持ち連中のもので、特に恐ろしく響くし、印象もとても強烈だ。
 ただ、もうこの時には、「女…」が欲しい、という気持ちはなくなっていた。更には、叩かれ罵られた後には、一件落着という感じで、もう何の心配も無くなったように感じ、米つきを始めた。つきだして暫くすると暑くなり、手を休めて服を脱いだ。
 服を脱いだら、外がなにか賑やかになり、阿Qは平素から賑やかなのが好きで、野次馬根性で、声のする方へ近づいて行った。声はどうやら庭の方からで、黄昏だったが、多くの人の顔はまだ判別できた。趙一族では、この二日間、絶食中の奥様がいたし、その隣は鄒七おばさん、本当の同族の趙白眼、趙司晨もいた。
 若奥様が呉媽を連れて、女中部屋から出て来て、「さあ外に来て、自分の部屋に閉じこもったりしないで……」と促した。
「お前がふしだらな女じゃないことは誰でも知っているよ。…早まったことおしでないよ」鄒七おばさんも傍らから言った。
呉媽はただ泣くばかり、何か話しているのだが、何を言っているのか分からなかった。
阿Qは「ふん、面白い。この若後家、いったい何を騒いでいるのだ」と思い、わけを聞いてみようと、趙司晨のそばに近づいた。このとき、旦那が彼の方に来るのを見た。そして手には竹竿を握っている。この竹竿を目にするや、猛然、自分が殴られたことを思い出し、この騒ぎと関係があることを悟った。すぐ身を翻し、米つき場に戻ろうとしたが、竹竿に阻まれ、また身を翻して走りに走って、門の外に逃れて、祠に帰った。
 阿Qはしばらく坐り込んでいたが、鳥肌が立つほどぞくぞくっとしてきた。春とはいえ、夜は余寒がきびしく、裸では過せない。服を趙家に置いてきたのを思い出したが、取りに行くには秀才の竹竿が怖かった。そうこうするうち、地保が入ってきた。
「阿Q、この野郎!趙家の女中に手を出しよって、全く、造反する気か!俺の安眠まで妨害しよって、このヤロー」
くどくど訓戒を垂れ、阿Qは何も口応えできず黙っていたが、しまいに夜も更けてきたので、地保に酒代として倍の四百文払わされることになったが、現金が無いので、毡帽をかたに取られた。その揚句、次の五項目をのまされることになった。
一.明日、紅燭 重さ一斤のものを一対、香一封を趙府に、贖罪として届ける。
二.趙府で道士を招き、首つり厄除けのお祓いをするが、その費用は阿Qが負担。
三.阿Qは今後、趙府の敷居をまたぐことを禁ず。
四.呉媽に向後、不測のことがあれば、阿Qが責めを負う。
五.阿Qは工賃と服の請求権を放棄する。
阿Qはやむなく受諾したが、金がない。幸いもう春だから、当面不要な布団を質に入れ、二千文で五項目を履行した。裸で、頭を地につけて謝った後、何文かは残ったので、かたに取られた毡帽は受け出さず、すべて酒に費消した。
只、趙府では香も燭も使わず、奥様が仏事の時に使うので、それまで取っておかれた。あの服も大半は若奥様が8月に生む赤子のムツキになり、残りのボロは、呉媽の布靴の靴底になった。
 
  第五章 生計問題
阿Qは謝罪後、祠に戻り、日が沈むと、世の中がだんだんおかしくなってきたなと感じだした。よく考えてみて分かった。その原因は自分の裸にある。まだ袷があったことを思い出し、それをひっかけて横になった。
眼が覚めると、太陽はもう西壁の上を照らしていた。起き上がって、「畜生め!」と声に出した。起きて町をほっつきだした。裸のときのような肌のひりひりする痛みはなくなったが、世の中がなにかおかしな雲行きになっているように感じた。この日以来、未荘の女たちは、全員はずかしがり屋になったようで、阿Qを見ると、さっと門の中に身を隠す。50に手の届きそうな鄒七おばさんも、一緒に身を隠した。さらには11歳の女の子まで中に呼び込んだ。奇妙なことになったわいと思い、「ここの女も急に、小姐みたいなそぶりを習い始めたか。この娼婦め……」
だが、世間がどうもおかしいと感じだしたのは、それから数日後のことだった。まず酒店がツケを拒否した。次に祠の管理のジジイがくだらんことを言いにきて、出て行けという。三つ目は、もう何日間か覚えてないが、ずいぶん長い間、誰も仕事を頼みに来なくなった。ツケがきかないのはしょうがないとしよう。ジジイの件は、うるさいと一喝して済んだが、仕事がこなくては腹が減る。まったくどうしようも無いことになってしまった。
阿Qは耐えられなくなり、以前雇ってくれた家に頼みに行った。趙府の敷居は跨げなかったが、他の家もどうもおかしい。男が出て来て、うるさそうな顔で、乞食を追い払うように、手を振って「仕事は無い! 出て行け!」
阿Qは妙に感じた。彼らはこれまで結構忙しかったはずなのに、今になって、なぜ仕事が無くなったのだ。きっとこれには訳があるに違いない。注意して聞いてみたら小Donにさせているようだ。この小Dはちびで、やせこけて、力も無い。阿Qからすれば、王胡の下だ。なんと奴が俺の飯のタネを取ってゆきやがった。阿Qの怒りは尋常ではなかった。怒り心頭に発して、手を振りかざして、「ハガネのムチでお前を叩きのめしてやる」と劇の一節をうなった。数日後、銭府の目隠し壁の前で、小Dにばったり出会った。「このヤロー、ここで会ったが百年目」と阿Qはとびかかって行き、小Dも立ち止まった。
「こん畜生」阿Qは睨みつけながら、唾を吐いて、罵った。
「おいら、虫けらさ。これでいいだろ……」と小Dは言った。
この卑下が、却って阿Qの怒りを爆発させた。が、ハガネのムチは持っていなかったので、素手で殴りかかって小Dの辮髪をつかもうとした。小Dは片手で自分の辮髪を守りながら、もう一方の手で、阿Qの辮髪を、つかもうとした。阿Qも片手で自分の辮髪の根元を押さえた。以前の阿Qなら小Dなど歯牙にもかけなかった。だがこの時は、腹が減っているのと、痩せて力がでず、小Dとどっこい どっこい、勢力均衡の状況で、四本の手で二つの辮髪をつかみあい、二人とも腰を曲げ、銭府の壁に、藍色の虹の形を映して、半時ほど過ぎた。
「好了、まあまあ」と見物人は言った。止めに入るような口ぶりだった。
「好、ハオ」見物人は口ぐちに「好」(いいぞやれ! と、まあその辺での両意:訳者注)と声をかけたが、もうやめろ、と言っているのか、面白がっているのか、扇動しているのかわけがわからなかった。しかし、二人は止めない。阿Qが三歩進むと、小Dは三歩退き、そこで踏みとどまる。小Dが三歩出ると、阿Qが下がる。半時間ほどして(未荘には当時まだ時報が無かったので、二十分位だったかもしれぬ)頭から湯気、顔からは大汗が出、阿Qが手を放すと同時に小Dも手を放した。背を伸ばして、後ずさりして、人垣から出て行った。
「覚えてやがれ!こん畜生。……」阿Qは少し遠ざかってから罵った。
「このヤロー、お前こそ覚えとけ」小Dも同じ遠吠えで応じた。
この「龍虎の闘」は勝敗がつかず、見物人も満足したかどうか知らない。その後、何の議論も呼び起こさなかった。が、依然として阿Qには誰も仕事を頼みに来なかった。
だいぶ暖かくなったある日、微風は夏も近いと思わせたが、阿Qはなぜかゾクッと寒気がした。これはまあ何とかしのげるが、一番困るのは腹が減ってたまらない。布団、毡帽、服はとっくに無い。ボロの綿入れも売ってしまった。残るはズボンのみ。こればかりは脱ぐわけにはゆかない。ボロの袷は残っているが、これはもう布靴の底地にしかならない、換金の値打ちもない。
それで、どこか道端に銭が落ちてやしましかと注意して見てまわったが、何も見つからない。自分の部屋で見つかるかもしれないと、部屋中さがしたが、何もあるわけがない。遂に腹を決めて、「求食(食のための職探し)」に出た。歩きながら、なじみの酒店やマントウ屋の前を通ったが、店頭に立ち止まりもせず、頼もうという気にもならなかった。自分が求めているのは、こんな類の仕事ではない。といって、自分が何を求めているのか、自分でもよくわからなかった。
未荘は小さな鎮で、しばらくすると外に出てしまった。多くは水田で、目の前に田植えしたばかりの柔らかな緑がひろがり、動いている丸くて黒い点は農夫だった。阿Qはこうした農家の田園の楽しみには、ほとんど興味がわかなかった。それでまた歩き続けた。これと彼の「求食」の道がはるかに隔たっていることを、直感的に感じていた。そうこうしているうちに、彼はとうとう、静修庵の壁の所にやってきた。
庵の周囲も水田で、壁は新緑の中に立っていた。後ろの低い土塀の中は菜園だった。阿Qは逡巡しながら、周りを見て、誰もいないのを確認し、低い塀によじ登り、ツルドクダミを引っ張った。土がパラパラと落ち、阿Qの足もぶるぶる震えたが、やっと桑の木をつたって、中に跳び下りた。中は一面青々と茂っていた。が、老酒やマントウのような食物は無いようだ。西の所は竹やぶで、筍がたくさん生えているが、煮えていないので食べられない。油菜も実がなってるし、芥菜も開花しているし、白菜もトウが立っている。
阿Qは文童が落第したときのように、いわれもない屈折を感じ、ゆっくりと門の方に行くと、大根があった。しゃがみ込んで、スポッと抜くと、門からまん丸の尼の頭がヌッと顔を出し、すぐ引っ込んだ。あの尼だ、尼くらいなら、阿Qにとっては、塵芥にすぎなかったが、ものごとは一歩退いて考えねばならぬ。そこで、大急ぎで四本抜くと、青菜をひねって、懐に入れた。と同時に、年かさの尼が現れた。
「阿弥陀仏。阿Q!なぜ菜園の大根を取るの?犯罪よ。ああ 阿弥陀仏」
「俺がいつ大根取った?」阿Qは周りを注意して見ながら、逃げの態勢で応えた。
「今とったそれは何?」尼は、ふところを指して言った。
「これがお前のだって?これにお前のだって、言わせられるかい?お前のだって」
阿Qは言い終わる前に、一目散に逃げ出した。追っかけて来たのは太った黒犬。この犬はもともと、前門にいたはずだが、どうして後門に来たのか。黒犬は吠えながら、阿Qを追っかけてきて、腿に噛みつきそうになったが、ふところからぽろっと落ちた大根に驚き、足を止めた。そのすきに阿Qは桑の木によじ登り、土塀をまたいで、大根もろとも塀の外に出た。残った犬は桑の木に向かって吠え、尼は念仏を唱えていた。
阿Qは尼が黒犬を外まで追いかけさせはしまいかと、急いで大根を拾って逃げた。道中で小石を拾ったが、犬はこなかった。阿Qは石を捨て、歩きながら大根を食べた、歩きながら考えた。ここじゃ何も無いから、城内に行ってみるか。三本食べ終わったころには、城内に行くことに決していた。

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范愛農


東京の下宿では、朝起きると、よく新聞を見た。学生は「朝日」と「読売」が多く、社会面のゴシップは「二六新報」だった。ある朝、いきなり中国発の電文が目に入った。
概略は:
「安徽省巡撫(省長) 恩銘がJoShikiRinに刺殺さる。刺客はその場で逮捕」
 みなたいへん驚くと同時に、顔を輝かせ熱心に語りだした。そしてこの刺客は誰かが話題の中心となり、漢字でどう書くか、と。ただ、紹興人は、教科書しか読んでない者でなければ、とうに分かっていた。徐錫麟である。留学から帰国後、安徽の道員(官吏)候補として巡警の仕事をしていたから、巡撫刺殺の可能なポストにいた。
 それから、皆は彼が極刑にされて、家族にも累が及ぶと危惧した。その後すぐ秋瑾女史も紹興で殺されたとのニュースが伝わって来た。徐錫麟は心臓をえぐり出され、恩銘の衛兵たちに全部くわれてしまった、と。その場の人間は怒り心頭に発した。何名かは秘密裏に会合を開き、旅費を集め、日本人の浪人(旧侍)を雇い、スルメを肴にし、酒を酌み交わし悲憤慷慨した後、彼をすぐ徐錫麟の家族を引き連れに向かわせた。
 例に依り、同郷会を開き、烈士を悼み、満州政府を罵り、それから北京に電報を打ち、満州政府の非人道性を譴責すべし、と主張するものが現れた。会は二派に分かれた。電報打つべし派と不要派。私は打電派で私が発言した後、「殺す者は殺し、死んだ者は死んでしまったんだ。屁のつっぱりにもならない電報を今頃打ってなんになる?」とある鈍重な声がした。
 背が高く、髪の長い、白眼の部分が黒眼より多く、人を見る時はいつも斜に構える男が、
席に坐ったまま、私が発言すると、すぐ反対するので、以前から妙な奴だと思っていた。この時、彼を知っている男に、あの冷酷な奴は誰だと訊いた。范愛農といい、徐錫麟の学生だと。私は大いに怒って、まったく人間たる資格も無い。自分の先生が殺されたのに、電報一本打つのを恐れ、それで私はなおさら強く打電するように主張し、彼と論争した。結果、打電派が多数を占め、彼は屈した。次に誰が原稿を書くか推挙することになった。
「推挙など必要無い。打電を主張した人が書けばよい…」と彼。
彼の言葉は私に向けられていると思い、それも理が無いとも言えない、その通りとも思った。だが、私はこの悲壮な文は烈士の平生をよく知っている人が書くべきで、他の人より親密な関係を持ち、気持ちもより悲憤しているから、書きあがった文章は人を感動させずにはおかないだろう、と主張した。また論争が起こり、結果として彼も書かず、私も書かない。誰が引き受けたか知らないが、散会し、原稿書きと一二の幹事が残り、打電した。
 これ以来、私は彼が妙な男で、憎むべき奴と思った。天下に憎むべきは当初満州人だったが、この時ばかりは、それは二の次で、最も憎むべきは彼であった。中国が革命をしないというなら、しかたない。が、革命するならまず彼を除去すべきだ、と思った。
 しかしこの考えはその後徐々に薄らいでゆき、しまいには忘れてしまった。その後我々は会うことはなかった。革命の前年、故郷で教員をしている時、多分春の終わりごろだったか、知人の宴席で、突然見覚えのある顔に出会った。
互いに二三秒顔を見合わせて、同時に叫んだ。
「おお。君は范愛農か!」
「おお、君は魯迅か!」
 なぜか二人とも笑いだしたが、それは嘲笑と悲哀が入り混じったものだった。彼の目は元のまま奇妙な感じだったが、頭には白髪があった。前にもあったのかも知れない。以前は気に留めなかっただけかも。ずいぶん古い布製の馬褂(清時代の服)を着て、ボロの布靴をはき、見るからに貧乏じみていた。私の経歴を話した後、彼はその後学費が続かず、留学をやめて帰国し、故郷に戻ったが、軽蔑、排斥、迫害にあい、受け入れてもらう場所も無かった。今は田舎に身をひそめ、数人の小学生を教えて糊口している。時折、気が滅入ってくると、気晴らしに船に乗って城内にやってくる、という。
 今では酒も飲むようになったというので、一緒に飲んだ。それから城内に来るたび必ず私を訪ねてくれ、親しくなった。酔うと愚にもつかぬことを話しだした。母も偶然耳にして、笑いだしたこともあった。ある日ふと東京で同郷会のときの旧事を思い出し、訊いてみた。
「あの日君は専ら私に反対した。故意だったようだけど、どうしてだい?」
「君、気がつかなかったの? 私はずっと君が嫌いで、私だけじゃなく我々は……」
「あの時より前に、私の名前を知っていたの?」
「知らないわけがないだろう。我々が横浜に着いた時、迎えに来てくれたのは、子英と君だったから。君は我々を見下し、首を横に揺らしていた。覚えているかい?」
 少し考えて、思い出した。七八年前のことだ。子英が私に、横浜に着く同郷の新留学生を迎えに行こうと言ってきた。汽船が着くと、大勢下りてきた。多分十数名。上陸すると、荷物は税関検査を受けた。税関吏は衣装箱の中を引っ繰り返して、刺繍のついた纏足の靴を見つけて、公務はほったらかして、それを仔細に眺めていた。私はたいへん腹立たしく思った。このロクデナシたちは、なんでこんなものを持って来たんだ。と思った。自分では気がつかなかったが、頭を横に揺らしていたかもしれない。検査が終わり、旅館で少し休憩した後、汽車に乗った。何たることか、この読書人たちは客車の中で席を譲り合う。甲は乙に「さ、どうぞ」とやり、乙は丙にどうぞ、どうぞ、とやる。儀礼が終わらぬ内に、汽車は動き出し、客車が揺れ、三四人が倒れた。あの時も、何をしているのかと思った。
汽車の中でさえ、席に関して身分の上下をそのまま持ち込もうとする馬鹿らしさを、暗に軽蔑して、頭を振ったかもしれない。その悠揚迫らず、儀礼を優先していた人物中に、范愛農がいたのを今になってやっと思い出した。彼だけじゃなく、今更言うのも恥ずかしいが、後に安徽で戦死した陳伯平烈士や、殺害された馬宗漢烈士、獄に長く繋がれた後、革命後、やっとお天道様を拝めるようになったが、身には獄吏に付けられた終生消えることのない傷痕を持つ人も1-2名いた。私はそんなことは露知らず、頭を揺らしながら、彼らを東京まで同道した。徐錫麟は同船で来たが、汽車には乗らなかった。彼は夫人と神戸で下船して、陸路で来たから。
 あの時、頭を振ったのは2回だったと思う。彼らが見たのはどちらだったか知らない。席を譲り合っていた時は、騒がしかった。検査の時は静かだったから、きっと税関のときだろう。愛農に訊いたら、そうだという。
「あんなものを持ってきてどうするつもりなのか、理解に苦しむよ。誰のだい?」
「先生の奥様のだ」白い部分の多い眼を剥き出しにして言った。
「東京に着いたら、纏足じゃない振りをしなきゃならんのに、なんでまたあんなものを?」
「知るもんか。奥様に訊いてくれ」
 
 初冬になって、我々の生活は苦しくなってきたが、酒はやはり飲み、冗談話しもよくした。突然、武昌起義がおこり、続いて紹興でも光復した。翌日愛農は城内に来た。農夫の被る毡(チャン)をかぶっていた。あのときの笑顔はこれまで見たことのないものだった。
「迅さん、今日は酒はいいから、光復なった紹興を見に行きたい、一緒に行こうよ」
 我々は街に着いて、歩いてみたら、街中は白旗ばかりだった。外面はそうであったが、中は旧態依然、郷紳が組織した軍政府は、何とか鉄道の大株主が行政司長で、銭荘(金貸)のあるじが軍械司長……。この政府も長続きせず、青年たちがひと騒ぎして、王金発が兵隊を率いて、杭州から乗りこんできた。騒がなくても、多分来ただろう。
彼が来てから、おおぜいの閑人と新参の革命党に担がれ、王都督となった。役所の人間は、初めは布の服だったが、十日もしないうちに、大抵は皮の袍を着るようになった。まだ寒くもなっていないのに。
 私は師範学校の長として金庫の傍に坐らされ、王都督から校費二百元の支給を受けた。愛農は監学になったが、やはり例の布服で、酒は飲まなくなり、世間話をする時間も減った。彼は事務も授業も担当し、立派に切り盛りした。
 
「状況はとても悪いです。王金発の連中は…」と去年私が教えた学生がやって来て、悲憤慷慨し「新聞を出して、彼らを批判しましょう」それで発起人に先生の名を借りたい。もう一人は子英さん。さらにもう一人徳清さん。社会の為に先生は辞退など決してされないと信じております。
 私は承諾した。二日後発行予定のビラを見た。発起人は本当に三人。五日後新聞が出た。トップ記事は、軍政府とその取り巻きを罵り、その後、都督を罵り、彼の親戚、同郷、妾たちを罵った。かくして十数日後。私の家に通報が届いた。都督は私たちが、彼の金を詐取しておきながら、彼を罵っているので、私たちを殺しに刺客を差し向ける、と。
 他の人はたいしたことはないと気にしなかったが、一番あわてたのは私の母で、私に外出はしないでくれと頼んだ。だが、王は我々を殺しには来ないと説明して、私はいつも通り出かけた。いくら緑林(馬匪)大学出身でも、殺人となると生半可ではできない、と。ましてや、私が受け取っているのは校費であって、この点は非常にはっきりしているから、とやかく言われる筋合いはない、と。やはり殺しには来なかった。手紙で、経費を請求したら二百元払ってきた。但、怒っているようで、次回からはもう払わないとの伝言つき。
 一方、愛農は別の情報を得ていて、これは大変難しいことになった。「詐取」したのは、校費ではなく、新聞社に別途出した金のことであった。新聞で数日罵ったら、王金発は五百元届けてきた。そこで我々の青年たちは会議を開いた。第一;受け取るべきや否や。決議:受け取るべし。第二:受けた後、やはり罵るべきや否や。決議:罵るべし。
理由として受け取った後、彼はオーナー株主だが、オーナーが悪いことをすれば、罵しるのは当然のことである云々。
 私は、すぐさま新聞社へ行き、ことの真相を問うた。すべて本当だった。彼の金は受け取るべきではない、と言ったら、会計担当が反対して、私に反問してきた。
「新聞社はなぜ出資金を受け取ってはいけないのか?」
「これは出資金ではない……」
「出資金ではないなら、何か?」
 それ以上話を続けるのはよした。この点は、私も少しは世故に通じるようになっていて、既に分かっていた。もし、私に累が及ぶなどと言うと、たいした値打も無い命を惜しんで、社会のために犠牲になることを肯んじない男だとして、面罵してくるだろう。或いは明日の新聞に、私がいかに死を恐れて、震え慄いていたという記事を見ることになろう。
 しかるに、ものごとは折よく、許寿裳から手紙が来て、南京に来いとの要請を受けた。
愛農もたいへん賛成してくれた。だが、とてもさびしそうな口ぶりで言った。
「ここもこんなんじゃ、もうとてもやって行けない。早く行った方が良い……」
彼の無言のところの言わんとすることも分かった。
南京行きを決めた。まず都督府に辞職届を出し、許可を得た。鼻水を垂らした接収員が来て、帳面と残金の一角と銅銭二枚を渡し、校長ではなくなった。後任は孔教会(孔子の教えを尊崇する会)会長の博力臣がなった。
 新聞社の件は、私が南京に着いて二三週後にケリがついた。兵隊が壊しに来たという。
子英は田舎にいて何もなかった。徳清は城内にいたので、太腿に刀傷を負った。彼は大いに怒り、たいへん痛かったと思う、だが、彼を責めるのは筋違いというもの。彼は大いに怒った後、服を脱いで写真を撮り、一寸ほどの刀傷を写して説明文をつけ、状況を記したものを各地に送り、軍政府の横暴をあばいた。この写真は今やもう誰も持っていないと思う。サイズも小さく刀傷も縮小され、ほとんど無いに等しい。もし説明が無ければ、見た人は気がふれた風流人の裸体写真と思うだろう。もし孫伝芳(軍閥)将軍のお眼にとまったら、発禁されるのは必至だろう。
 南京から北京に移る頃、愛農の学監のポストも孔教会会長が口実を設けて廃された。彼は革命前の愛農に戻った。彼のために北京で何とか仕事を探そうとした。彼もそれを非常に望んだが、機会はなかった。そのため、知人の家に寄食していた。手紙をしばしば呉れた。暮らしむきは益々困窮してきた、と文面も苦しさを訴えていた。
 ついには知人宅からも出ることになり、各地をさ迷った。ほどなくして同郷人からの伝聞で、河に落ちて死んだ、という。
 私は彼が自殺したのではないかと思った。泳ぎが上手かったし、そう簡単に溺れ死ぬわけがない。
 夜、一人で会館(県人会館の宿舎)にいると、やりきれぬほど悲痛に陥り、このことは嘘ではないかと思った。だが、端無くもこれはやはり本当だろうとも思い、もちろん何も証拠は無いが、ほかに手立てもなく、四首の詩を作った。後にある新聞に発表したことがあるが、今ではもう忘れてしまった。一首の中の六句だけは、覚えていて、起句の四句は、「酒をとって、天下を論じるも、先生は酒量少なく、大圜、酩酊するも、ほろ酔いまさに沈論によし。間の二句は忘れたが、末尾は「旧朋は雲と散じ尽くし、余もまた軽塵に等し」
 その後、故郷に帰って、はじめて詳しい話を聞くことができた。愛農は、最初のころ、何の仕事にも付けなかった。周りの人たちは彼を嫌っていたから。彼はとても困窮したが、酒は何とか飲めた。友人がおごってくれたからだ。そのころ、もう人と交際はしなくなったが、しばしば会っていたのは、後から知り合った比較的若い人たちだった。しかし、彼らも彼がくだをまくのを嫌がり出したが、軽口には趣があり、面白かった。
「明日、ひょっとすると電報が来て、開くと、魯迅が私に来い、と言ってくる」彼はしばしばこんなことを口にしたそうだ。
 ある日、数人の新しい友人と船に乗って、劇を観に行った。戻ってきたらもう夜半すぎ。
雨風も強くなってきた。彼は酔っていたが、どうしても船舷で、小便をすると言いだした。皆は止せといったのだが、彼は落っこちっこない、と自信たっぷり。しかし、彼は落ちた。もちろん泳げるのだが、いっかな浮き上がって来ない。
 翌日屍を探すと、菱の密生する(浅い)ところで見つかった。まっすぐに立ったままで。
私は今なお、彼が本当に足を滑らせたのか、自殺したのか、解らない。
 彼は死後、何も残さなかった。一人の幼女と夫人以外は。数名でお金を集めて女児の将来の学費の基金にしようとしたが、提議したとたん、親戚連中がこの金の保護権を争い出した。―――実際まだ金は集まっていなかったのだが、それで皆は無聊に感じ、うやむやに消滅してしまった。
 今、彼の唯一の女児はどうしているだろう。学校に行っていれば中学はもう卒業しているはずだが。
   十一月八日        2010.6.15.
 
訳者 あとがき
これは、作者の辛亥革命前後に袖すり合わせた人々への鎮魂歌である。
紹興という、さして大きな都会とは言えない場所からも、徐錫麟、秋瑾はじめ
彼が横浜に出迎えた時だけでも、何名かの烈士が義に就いている、と書いている。
 その中で、彼自身も軍閥やそれに類似した鉄砲で簡単に人殺しをしてきた軍政府から狙われ、「筆で書くより、足で逃げる方が忙しい」危機を何度もくぐり抜けてきた。
 病気がいよいよ回復の見込みが立たないほど悪化してきたとき、モスコーに行って療養してはどうか、とか。或いは日本に行って治療して欲しいとの、多くの申し出を、断り続けた。増井経夫も、岳父の書を携えて、来日を促しに出かけたのだが、日本に行ってはなにもできなくなる、と断られて、書を書いて返礼としている。最近その書が同家から上海の記念館に贈られたと報道されていた。
 上海という中華世界の混沌から離脱してしまっては、何もできない。何も書けない。というのが、断りの理由であった。
 私は、思う。彼は辛亥革命から25年間、古碑を書きうつしたり、自分の神経を麻酔させたりして、生き延びてきたが、それはそれまでに非条理な軍政府の銃弾で命を奪われた烈士たちへの鎮魂のためであった。そのための吶喊であった。
 21世紀の中国では、書店には信じられないほどの書物が、見ていて楽しくなるほどのきれいな写真とともに出版されている。だが、魯迅の作品は学校の教科書からも締め出される運命にある。今日の学生にとっては、もはや「鶏のあばら骨」に過ぎないのだという。
スープは多少上手いのが出せるが、食べる肉はほとんどついてない、と。
 本当は骨についているわずかな肉がおいしいのだが。マグロの中落ちのごとく。
最後に松枝茂夫が周作文の著作から引用している 魯迅の詩の関連部分の原文を記す。
把酒論当世 先生小酒人 大圜猶酩酊 微酔自沈論 (二句略)故人雲散尽 我亦等軽塵
各句少しずつ漢字が違うのが分かる。これは彼が原詩を見ずに、記憶の中から探り出したものだということがよく判る。故人は旧朋となっているが、それら旧朋が雲のごとく散じ尽くすのを見ながら、何も手を差し伸べてやれない、軽塵に過ぎない自分。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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夢物語

 ランプの灯は次第に小さくなり、石油の残りがもう無くなりそうだと予告していた。
上等な油ではないから、ガラスもすぐ黒ずむ。家の外では爆竹が鳴り、煙草の煙がくゆり、夜は更けてゆく。
 目を閉じ、仰向けに椅子の背にもたれて、「初学記」(唐代のアンソロジー)を持つ手を膝に置いた。
 朦朧としてきて良い夢を見た。
 この物語はとても美しく、幽雅である。たくさんの美人ときれいな風景が錦を織りなし、満天に流星が飛び、展転とまわり行きて終わらない。
 昔小舟に乗り、山陰道(紹興の風光明美な一帯)を巡ったことを思い出していたようだ。
両岸の柏、新穂、野花、鶏、犬、樹林、枯れ木、茅屋、塔、伽藍、農夫と農婦、村娘、晒されている衣、和尚、蓑笠、空、雲、竹……、すべてが澄んだ碧の小川に、逆さに影を映し、ひと櫂ごとに、おのおのがキラキラゆらめく日光に反照し、水中の藻と遊魚と一緒に揺れている。もろもろの影も物体も、ひとつとして離れることなく、揺れ動いては、大きくなり、互いに溶け合い、とけあうと見るや、小さくなってしまい、もとにもどる。
縁(ふち)は夏の雲頭のようににょきにょきして、日光に形どられ、水銀色の焔に輝く。私の廻った川はみなこうであった。
 今、私が見た夢物語もそうであった。青空の下の水面に、全てのものが交錯し、一つの物語を織りなし、永遠に生き生きと展開し、その結末を見ることは無い。
 川辺の枯れ柳の下の数株の立ち葵は、村娘が植えたものだろう。大きな深紅の花と、まだらの紅い花が、水面に浮動し、突然砕け散るかと思うと、ながく伸び、一筋の燕脂色の水のようだ。だが、暈(かさ)にはならない。茅屋、犬、塔、村娘、雲……、すべてが浮動している。大きな紅花は一朶一朶、みな長くなって、この瞬間ながく伸びて、紅い錦帯となる。その帯に犬も織り込み、犬は白雲の中にも織り込まれ、白雲は村娘も織り込む。この一刹那がすぎると、彼らはまた元に戻ってしまう。まだらの紅花の影も砕け散り、長く伸びては塔や村娘、犬、茅屋、雲を織りなす。
 今、私の見ている物語は、はっきりしてきた。美しく幽雅で、趣がある。そしてはっきりしている。上は青空、無数の美しい人と、美しいもの。ひとつひとつみな知っている。
 それらをじっと眺めてみる。
 私がまさに凝視しようとしたとき、突如驚いて目を開いた。雲の錦もすでにしわくちゃに小さくなり、乱れ出した。誰かが大きな石を投げ込んだようだ。波が突然おこり、全編の影が粉々に砕け散った。私は覚えず、膝に落としそうになった「初学記」をいそいでつかみなおした。目の前にはまだわずかばかり虹色の砕影が残っていた。
 私はほんとうにこの夢物語を愛す。砕けた影がまだ残っているうちに、それを追いかけて完成させ、留めておきたい、と願う事切なるものがある。
 私は、本を放り出し、伸びをして、筆をとる------だが、なんでこの砕影が残っていようか。薄暗い灯光があるばかり。私は小舟の中にはいないのだ。
 しかし私はこの夢物語をずっと今も、忘れられない。夜は暗く沈んでゆく。
  一九二五年二月二十四日     2010.7.25.訳
 
訳者あとがき
魯迅の小説の舞台は、一部の北京での生活に取材したものを除けば、7-8割はこの夢物語に描かれている、紹興周辺、これを会稽山の山陰と彼らは呼んでいるが、碧の澄んだ小川の両岸に暮らす農夫と農婦、それに村娘たち。唐の李白が歌った「笑いて荷(はちす)の花を隔てて、ひとと共に語る」の世界が舞台である。ここでは荷(はちす)の花ではなく、立ち葵のすっと伸びた茎に開いた深紅の花が、川面に長く映じては、錦の帯を織りなすという美しい夢物語である。
普段は、頑迷な国粋派との論戦に全力を集中して文章を刻んでいた1925年のこの時期にも、こうした散文詩の夢を見る詩人でもあった。彼の原点は山陰の絵のような風景なのだろう。
いちど半年か一年くらい住んでみたくなるほどだ。あたかも芭蕉が近江の湖畔をこよなく愛したように。
 

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「凧揚げ」


 北京の冬は雪が地上に残ったまま、葉をすっかり落とした黒い木の枝が晴朗な天に向かって突き出している。その遥かかなたに凧が一二個浮かんでいるのを見ると、私はなぜかある種の驚異と悲哀に襲われる。
 故郷の凧上げの季節は、春二月で、ヒューヒューと風車の音がして空を仰ぐと、薄墨色の蟹凧か、薄藍色の百足凧が浮かんでいる。寂しげな瓦凧は風車も無く、低空にさびしげに憔悴した可憐な姿に見える。しかしこのころには、地上の楊柳はもう芽を出し、早咲きの山桃もたくさんの蕾をつけ、子供たちの空の点景と呼応して、春日の温和な光景を醸し出す。
 私は今どこにいるのか?まわりはまだ厳冬の粛殺とした冷気の中に、離れて久しい故郷の過ぎ去りし春が、この天空にただよっている。
 私はこれまで、凧上げは好きでは無く、どちらかと言えば嫌いだった。それは向上心のない、意気地無しの子のする遊びだと思っていた。私と逆に、弟はあのころ十歳くらいだったが、病気がちでとても痩せていたが、凧が大好きで、自分では買えないのと、私が許さなかったので、小さな口を開けて、ただポカンと空を眺めているだけだった。時には小半日もそうしていた。遠くの蟹凧が突然落下して、彼は驚いて声を出した。二つの瓦凧がからんでいたのが、やっととけると、とても喜んで跳びあがった。こうしたことは私には、こっけいで軽蔑すべきものにみえた。
 ある日、彼の姿を何日も見かけなくなったことを思い出した。後園で枯れた竹を拾っていたのを見かけたことを思い出した。ふとあることを悟って、普段人が行かない物置の小屋に走って行った。戸を開けると、ほこりにまみれた道具のやまの中に、彼がいた。大きな角椅子に向かって、小さな椅子に坐っていたが、驚いて立ち上がり、色を失いかしこまった格好をみせた。角椅子の傍らには、糊づけしていない胡蝶凧の竹骨が凭せ掛けてあり、
椅子の上には目玉用の小さな風車があり、今まさに紅い紙きれで装飾中。まもなく完成するところだった。私は秘密をかぎつけた満足と、我が目を偸んだことに憤怒し、人に隠れて、いくじなしのこどもの玩具を作っているのを怒った。すぐ手を伸ばして、蝶の翅骨を折り、風車も地面に叩きつけ、踏んづけた。年齢と体力の差から彼は私にはむかえないので、もちろん私の勝ちであった。そして傲然と外に出た。彼は絶望して物置に残った。その後どうなったか知らないし、気にもしなかった。
 しかし、私への懲罰はついにめぐってきた。我々二人が離れてかなり久しくなった。私は中年になった。不幸にも偶々、外国の児童書を見て、初めて遊戯(あそび)はこどもの
最も正常な行動で、玩具はこどもの天使である、と。二十年来忘れていた小さいころの精神的虐待のシーンが、突如目の前に現れ、私の心は鉛の塊を飲んだようになり、ズーンと沈みこんだ。
 しかしどれほど沈み込んでも、千切れるまでには至らず、ただ気が重く沈んでゆくのだった。私はどうすべきかは知っていた。凧を贈るとか、凧上げを賛成し、勧めるとか、一緒になって揚げるとか。一緒に叫び、走り、笑う。……然し彼はもうその時私と一緒で、髭が生えていた。
 もう一つの償い方も知っている。彼の許しを請い、「もう何も怨んでいないよ」と言ってもらったら、私の気もきっと軽くなる。たしかにいい方法だった。ある日、我々二人が会った時、顔にはすでに多くの「生」の辛苦の皺を刻んでいて、私の気持ちはたいへん沈んでいた。話がじょじょに子供のころのことになり、この場面のことを話し出した。自ら少年時代はひどくでたらめだったと話した。
「でもなにも怒っちゃいないよ」彼がそう言ってくれたら、許しを得て私の気持ちはおちついて安心すると思った。
 「そんなこと、あったっけ?」彼は驚いて笑いながら、まるでひとのことを聞いているようで、何も覚えていなかった。
 全部忘れちゃったし、何も怨んじゃいない。だから許すも無いよ。怨んでないのに怨むなんて、嘘になるでしょ。
 私はこれ以上なにを望むか?
私の心は深く沈んで行くしかない。
今、故郷の春がまたこの異郷の空にあり、私の遠い昔のこどもの頃の記憶をよみがえらせてくれたが、それと同時に、とらえどころの無い悲哀に襲われた。私はやはり粛殺とした厳冬の中に身をひそめるしかないのだ。
まわりは本当の厳冬で、非常な寒さと冷気が私を冷たくする。
 一九二五年二月十四日    2010/07/25
 
 

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 希望 


 私の心は、どうしようもないくらい寂しい。
 しかし、いっぽうで落ち着いてもいる。愛憎も哀楽も、そして色も音も無い。
私は老いてしまったのか。髪はもう明らかに半ば白い。手も震えが止まらない。
これも明白ではないか。我魂の手もきっと震え、髪も半白に違いない。
 しかしこれは何年も前からのことだ。
かつて我が心も血腥い歌声に充ちていた:血と鉄、炎と毒、再起と報復。しかし突然、これらのすべては虚しくなってしまった。時には故意に自らを欺き、なんの足しにもならない希望を探してきては、穴埋めしようとした。
希望、希望、希望という盾で、あの虚しく暗い夜の襲来を拒もうとした。盾の裏も、虚しい暗闇なのを知りながら、それでもなお、我青春をつぎつぎと消耗し尽くしてきた。
 我青春はとうに過ぎ去ってしまったことを私が気付かないとでもいうのか。体外の青春は、なお存在している:星、月光、地に落ちた蝶、暗中の花、ミミズクの不吉な鳴き声、杜鵑の血を吐く声、意味も無い笑い、愛の飛翔する舞、……。悲しみに寂しく漂う青春、しかしそれも青春なのだ。
 しかし今、なにゆえかくも寂しいのか。体外の青春も過ぎ去ってしまったというのか。世の青年も多くは老いてしまったのか。
 私は自ら、この虚しき暗夜に肉迫するほかない。私は希望の盾を放り投げ、ペトーフィ シャンドル(1823-49)の“希望”の歌を聴く。
  希望とは何? そは娼婦:
  そは誰をも蠱惑し、すべてをささげさせ:
  君が、一番大切な宝――
  青春を献じたとき、――君を棄てる。
 この偉大な抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコザック兵の矛先の犠牲となってから、七十五年経った。悲しいかなその死:しかし更に悲しいのは、彼の詩が、今もなお死んでいないことだ。
 悲惨な人生! あの勇敢なペトーフィも、終には暗夜に対して歩を止め、茫々と広がる東方を顧みて、言う:
 絶望の虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ。
 
 明暗のない“虚妄”のこの世に、私になお生を偸ませるのなら、あの過ぎ去った、悲涼ただよう青春を探し求めよう。それが体外のものでも良い。体外の青春すら消えてしまったら、体内の晩年はすぐ凋落してしまうから。
 だが、今は星も月も無い。地に落ちた蝶も、意味の無い笑い、愛の飛翔する舞にいたるまで、すべて無い。しかし青年たちはとても平安だ。
 私はただ自ら、この虚しい暗夜に肉迫するほかない。たとえ体外の青春を探し当てられなくとも、やはり自力で我が体内の晩年を放擲しなければならない。だが、暗夜はいったいどこにあるのだろう? 今は星も無い、月も意味の無い笑い、愛の飛翔の舞も無い:
青年たちはとても平安だ。だが、私の面前には、ついにそしてまたもや、真の暗闇も消え去った。
 絶望の虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ。
 一九二五年一月一日          2010.7.22.訳
 
訳者あとがき
「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」
これは、1956年岩波版の魯迅選集の竹内好訳である。
絶望の淵に臨んだとき、その絶望すらも虚妄、うそ偽り、根拠のないものだと悟れば、希望がそうであるのと同じく、希望がはかなく潰えるのと同じく、絶望も当てにならない根拠のないものだから、絶望に打ちひしがれることも無用だ、と理解してきた。
今回、人民文学出版社2006年版の注に、ペトーフィの友人に宛てた手紙の中国語訳を付している。そこには、大略次のようである。
 「この句は、1847年、ペトーフィが友人に宛てた手紙で(中略)遠い目的地まで行かねばならなくなった場面で、それまでの旅程で見たことも無いような、やせた悪劣な駑馬しかなく、怒髪天を突くような絶望に陥った。それでその駑馬の車に乗ったのだが、…おお我が友よ!
絶望があのように人を騙すのは、まさしく希望といっしょだ。
これらのやせ細った駑馬が、こんなに速く私を目的地に運んでくれた。燕麦と干し草で飼育された貴族たちの馬さえも、彼らを称賛した。前にも言ったが、外面だけで物を判断してはならない、そんなことをしていては、真理はつかめない。」
という状況下で、発せられた言葉だと解説している。
絶望が人を騙す。絶望という状況に陥ったとき、人はその外面の状況に騙されて真実をつかみ損ねてしまう。絶望が虚妄、嘘いつわり、中国語の辞書には“没有根拠”とある。
絶望が根拠の無いものというのは、希望がそうであるのと同じである。
絶望して、生きる望みを失ったとしても、虚妄な希望を失ったときと同じである。されば、
絶望に直面したときも、希望をもっていたときと、なんら変わることもないのである、と。
 新聞にチンパンジーは、絶望しないと書いていた。どんな重病を患っても絶望しないそうだ。想像力が人間ほどはないから、くよくよしないので、治療の結果は良好だという。
 
 

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野草 題辞


沈黙していると、とても充実した気持ちになる。口を開くと、なぜか空虚に感じる。
 過去の命はすでにして滅び果てた。その滅びに対して、私は仏教でいう「大歓喜」を実感する。なぜなら、滅びによって、それがかつて存在し活動していたということを知ることができるからだ。滅びた命はすでに朽ち果てた。この朽ち果てたことに対しても「大歓喜」を実感する。なぜなら、朽ち果てたことで、それが虚(きょ)でなかったことを知ることができるから。
 生きとし生きてきた命は、泥土となり地上に棄てられ、そこに喬木は生えない。ただ、野草が生えるのみ。それは私の咎めであり苦しみである。
 野草の根はもともと深くない。花も葉も美しくない。しかし、露を吸い水を吸い、そして朽ち果てし死者の血と肉を吸いとって、それぞれが懸命に生きてゆく。生きてゆく間に、やはり踏みにじられ、刈り取られ、終(つい)には枯れて朽ち果ててしまう。
 だが、私は平然とし、欣然としてそれを喜ぶ。大いに笑い唱い出す。
 私は私の野草を愛するが、この野草で暗い社会の地表を飾ることは好まない。
 マグマは地下でうごめき、突如として吹き出し、溶岩となって一旦流れ出したら、すべての野草を焼き尽くし、火は喬木に及び、朽ち果てないものはない。
 だが、私は平然とし、欣然として喜ぶ。大いに笑い唱う。
 天地はかくも静粛であれば、大いに笑い歌わないわけにはゆかない。もしこんなに静粛でなければ、私もそうはできぬかもしれぬ。
 この一叢の野草で、明と暗、生と死、過去と未来のきわに、友と仇、人間とけだもの、
愛するものとそうでないものの前に、その証(あかし)として残すとしよう。
 自分自身の為、友と仇の為、人間とけだもの、愛するものとそうでないものの為に、この野草が、すみやかに朽ち果てることを希望する。さもなくば、かつて私が生存したことがなかったということになる。それは滅びることや朽ち果てることより更に不幸なことだ。
 去れ、野草。 我が題辞とともに!
一九二七年四月二十六日 魯迅 広州白雲楼にて  2010.6.18訳
 
訳者 あとがき                                             
1924年から26年にかけて、北京での論敵との激戦を経て、当時の軍閥政府から逮捕状が出たりしたこともあり、26年秋には北京からアモイに行き、そこで短期間教員生活をしたのち、「学者たちから仲間はずれにされ」広州に向かった。そこにもほんの短期間いただけで、上海に移動した。この2―3年の「筆で書くより、足で逃げるのに忙しかった」時に、
書きとめた物が「野草」である。時代背景抜きにしても味わえるような作品を訳してみる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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犬、猫、鼠

 去年あたりから私を嫌猫家と呼ぶ人がでてきたようだ。その原因は私が書いた「兎と猫」にあり:これは自らまいた種だから、何も言うことは無いし、気にもしていない。が、今年に入って少し心配になってきた。というのも、私は常々、筆を弄して、いろいろ書いてきたが、一部の人には、痒いところを掻くというのは少なく、痛いところを突いている方が多いようだ。万一それが、著名人や名教授、更には「青年を指導する先輩諸兄に、不謹慎かつ非礼な言動と見られたら、とても危険極まりない、ということになる。なぜか?こうした大家はいちゃもんをつけることにかけては、すさまじいものがあるからである。どれほどすさまじいか、といえば、私の文に一晩中カリカリした後で、新聞に寄稿して攻撃してくるからである。
「見てみろ!犬は猫を仇敵視しているではないか!魯迅氏は自ら猫嫌いと認めていながら、今度は“水に落ちた犬を叩け”」と言いだした。
この“ロジック”の奥妙さは、私の発言でもって、私を(嫌猫家の)犬だと証明しておいてから、私の文章の根拠を根こそぎ覆すからだ。私の2X2=4、3X3=9という九九は、すべて不正解となる。これが正しくないとなると、紳士諸兄の口から出る、2X2=7,3X3=1,000  が正解となる。
 そこで私はヒマを見つけて、犬と猫が仇敵関係になった“動機”を調べてみた。これは何も最近の学者が“動機”によって作品を評価しようとする流行を、僭越にも真似しようとするのではない。まずは自分で濡れ衣を晴らそうと思ったからにすぎない。動物心理学者にとっては、何の造作も無いことだろうが、惜しいかな、私にはその方面の学問がない。
そのうち、デンハルト博士の「自然史の国民童話」の中に、その原因を見つけた。それに依ると、こういうわけだ。動物たちが重要なことを決めるため会議を開いた。鳥、魚、獣、すべて集まったが、象が来ていない。使いを出して呼びに行くことになり、その籤を引いたのが、犬だった。「象というのはどうやって探すの?見たことも無いし、わからないよ」と訊いた。皆「そりゃ簡単さ」「象の背中は丸いから」と口ぐちに言った。犬は出かけた。途中で猫に会った。猫はいきなり背を弓なりに丸めたので、犬は象だと思って、会場まで同道してきて、背を弓のように曲げた猫を「みなさん象です」と紹介した。その場の全員が嘲笑った。これ以降、犬と猫は敵同士になった、という。
 ゲルマン人は森を出てから、あまり時間が経っていないが、学問文芸では相当なものがある。本の装丁や玩具の精巧さには舌をまく。しかしこの童話はどうも頂けない:怨みあうきっかけも面白みに欠けるし、猫が背を弓なりにするのは、何もわざと格好つけたのではない。咎は犬の眼力の無さにある。だが、原因と言えば、一つの原因かもしれない。しかし、私の猫嫌いは、これとはまったく別ものだ。
 人と獣の間は、本来なにも厳しく分ける必要はないの。動物の世界も、古人が幻想したほどには自由で快適とはゆかないものだ。が、ぶつぶつ文句を言ったり、見え透いた嘘をつくなどしない点では、人間社会より優れている。彼らは感情に素直で、正は正、誤は誤として弁解しない。蛆虫は清潔とは言えないが、自分から清らかで気高いなどとは言わない:猛禽猛獣は、自分より弱い動物を餌食にするから凶暴と言わざるを得ぬが、彼らは従来から「公理」だの「正義」だのという旗を振ったりしたことはない。それにもかかわらず、犠牲者たちから、食われる直前まで、敬服され称賛されてきている。
 人が直立できたのは、もちろん大進歩だし:話せるようになったのもそうだ:字を書き文を作れるのも大進歩。一方これは堕落でもある。それ以来、空談もするようになったからで、空談だけならいいが、心にもないこと、あるいは心にもとることを、知らず知らずに言いだした。ただ吼え叫ぶだけの動物に比べ、実に“厚かましい”し“忸怩たる”を免れない。もし一視同仁の造物主が高みから、人類のこうした小賢しさを、よけいなことと思い、まさしく動物園で、猿がとんぼ返りするのや、母象がお辞儀するのを見たら、破顔一笑はするものの、どうも薄気味悪く、一種の悲哀を感じ、こういう余計な小賢しさは無い方が良いと思うのと似ている。
 しかし、人間になった以上、“徒党を組んで異端を倒す”しかなく、他人の話すのをまねて、俗に従って話し、弁別するほかは無い。
 さて、これから私の猫嫌いの理由を書くが、自分としては十分な根拠があり、公明正大だと思っている。
1.性格は他の猛獣と異なり、スズメや鼠をつかまえても、一口に殺そうとはせず、思う存分もてあそび、放しては捕まえ、また放して捕まえる。もう飽きたと思う頃まで弄んでから食う。この点、他人の災禍を楽しむ人間が、弱い者をまずいじめるのと似ている。
2.猫は獅子や虎と同種ではないか?しかるにこんな媚態をするとは!が、これも天分かもしれない。もし猫の体が今より十倍も大きければどんな態度をとることやら。しかし、これらの口実は、今筆をとって、思いつくままに書いたものだが、当時の気持ちとしてはそういう理由があると思ったのである。
 ズバリ言うなら、猫の交合時の鳴き声のせいだと言う方が強いだろう。そこに至るまでの手続きがうるさく、他者の心を煩わすことすさまじい。特に夜、読書中、就寝中など、こんな時は長い竹竿で、叩いてやる。犬は道で交合するが、閑人が棍棒で痛打する:かつてブリューゲルの銅版画アルゴリー デル ウオルストにこの種の絵があった。こうした挙動は、古今内外同じようだ。あの執拗なオーストリーの学者フロイトが提唱した精神分析以来、(章士釧氏は「心解」と題したが、簡単で古風な訳だが、実はとても理解しがたい)我々の著名人、名教授もすこぶるあいまいな形で、拾い出してきて応用してきた。これはつまるところ、性欲に帰納されそうだ。犬を叩くことについては、ここでは触れない。
猫を叩くについては、やかましい、というだけである。それ以外なんの悪意もない。
私の嫉妬心は、たいして大きくないという自信がある。今、“何か動けば、咎を受ける”状況にあるから、まずはあらかじめ声明しておかねばならない。例えば、人間は交合の前に、いろいろな手続きが要る。新式ではラブレター、少なくもひと束、多いのはひと箱も要る。
古くは“釣り書き”“結納”、頭を床につける儀礼、去年、海昌の蒋家が北京で婚礼した時、祝いの儀礼が三日も続き、果ては、赤表紙の“婚礼節文”“序論”を印刷し、大変な議論となった:“平常心からこれを論じるに、名付けて礼というからには、必ず何回も行わねばならない。それをもっぱら簡易にしようとするなら、何を以て礼となさんか?……しからば、世の中で、礼に志ある人は、以て興るべし!礼の下らない庶人の地位に退居してはならぬ!と。
だが、私はなにも怒る気にすらならなかった。それは私が出席する必要に迫られなかったからだ:それゆえ、私の猫を敵視するのも、理由は実に簡単ということが判る。要するに、私の耳の近くでうるさく鳴き叫ぶからである。他人の各種の儀礼については、部外者は何も気にしないでよい。私はなにも構わない。だが、読書している時、または寝ているときに、他人が来て、ラブレターを声に出して呼んでくれとか、一緒に儀式に出て呉れというなら、自衛のために、長い竹竿で防御しなければならない。
 また、平素交際の無い人が、赤い招待状を寄こして“妹の嫁入りにご臨席を”とか
“息子の婚礼に”“何卒ご出席”“御一統さま全員で”とかの文言には“陰険な暗示”を含んでおり、お金を出さなければ、気持ち悪いことになり、楽しくないのだ。
 しかし、こうしたことは最近のことに過ぎない。顧みるに、私の猫嫌いについては、ずっと昔からで、こんな理由を言い出す前、十歳ごろのことだ。今もはっきり覚えているが、原因は極めて簡単で、猫が鼠を食ったからだ。―――私が飼っていた可愛くて小さなハツカネズミを食ったのだ。
 西洋では黒猫を好まぬようだが、確かなことは知らない:エドガー アランポーの小説の黒猫は、人を恐れさせるが、日本の猫は化けるのが上手く、伝説の猫婆は、人間を食うそうで、残酷さは確かに恐ろしい。中国の古代にも猫の妖怪がいたが、近来猫が妖怪になるのを聞かなくなった。どうやら古い手口は失われて、現実的になったようだ。ただ、私が幼いころ、猫には妖気があり、どうもなじめなかったようだ。それは、ある夏の夜に金木犀の下の小さな木の卓上で、横になって涼んでいた時、祖母が隣で芭蕉扇をあおぎながら、謎々や、昔話をしてくれたとき、突然、金木犀の木の上から、ザザーっと爪を引っ掻く音、暗闇にキラッと光る眼が、音とともに下りて来て、びっくりした。祖母の話も途切れ、それまでの話とは別の猫の話に変わった。
「猫は虎の先生だったって知っているかい?」と祖母。「子供は知らないだろうけど、猫は虎の先生なのよ。虎はもともと何もできなかったので、猫の弟子になったの。猫は殴り方や捉え方、食べ方を、丁度鼠を捕まえるときのように教えたの。みんな教わったら:虎はもう全部マスターした。誰も自分にかなう者は無い。ただ猫だけは自分より強い、もし猫を殺してしまえば、自分が最強になれる。虎はそう思うと、すぐさま猫を倒しに向かった。猫はとっくにそれを察知してぴょんと樹上に跳んだ。虎はなすすべも無く、木の下でうずくまるのみ。すべての技を教えた訳ではない。木の上に登ることは教えなかった。これは僥倖だと私は思った。幸いなことに、虎はとても性急なので、(木登りはマスターせずじまいだったからよかったが)さもなければ、金木犀から虎が下りてくることもあり得るのだ。
しかし、私はその話を聞いて怖くなって、部屋に戻って寝ようと思った。夜はだいぶ更けて:金木犀の葉は、さわさわ音を立て、微風が吹いて来て、茣蓙も少しは涼しくなって、寝がえりをしなくても眠れそうだった。
 築数百年の古い屋敷の豆油の灯の、うすぼんやりとした光は、鼠が跳梁する世界で、飄々と走り回り、チュッチュッと鳴き、その態度は往々にして“著名人や名教授”たちより軒昂である。猫は飼われていて食べるに困らない。祖母たちは普段は、衣裳箱をかじるし、食べ物を盗み食いする鼠を憎んでいたが、私はたいしたことではないと思い、自分には無関係だし、そんな悪いことをするのは、大抵は大きな鼠で、私の好きな小さな鼠の悪口を言うのは良くないと思っていた。この小鼠は、地上を走りまわり、親指ほどの大きさで、私の地方では隠鼠(二十日鼠の類か)と呼び、梁の上で駆けまわる人に憎まれるのとは別種だった。
 私の寝床の前に2枚の絵入りの襖があり、1枚は「猪八戒の婿入り」で全面に長い口と大きな耳が描かれ、良い眺めではなかったが、もう1枚は「鼠の嫁入り」でとても可愛かった。新郎新婦がお供や賓客、執事などみなアゴが尖り、足も細くてとても読書人みたいだが、みな赤いシャツと青いズボンである。こんな大規模な儀式を行えるのは私の好きな隠鼠に違いないと思った。
 現在では、俗っぽくなってしまって、道で嫁入りの儀式に出会っても、性交の広告ぐらいにしか思わなくなり、さして注意もしなくなった:但し当時は「鼠の嫁入り」の儀式を見たいと憧れていた。たとえ海昌の蒋家のように三日三晩やっても、煩わしいなどとは感じなかったろう。正月の十四日の夜は、そうやすやすと眠るわけにはゆかない。彼らの儀仗が、床の下から出てくる夜だから。しかし、待てども 待てども、裸の隠鼠がチョロチョロするだけで、慶事をしているようには見えなかった。待ちくたびれて不満に感じながら寝入っていまい、目を覚ましたら、空は明るくなっており、灯節(小正月)であった。
鼠たちの婚儀は、招待状も出さないし、賀礼も受けない。本物の「参列状」でも、絶対歓迎されないのだろう、これが彼らの従来からの習慣で、抗議してもしょうがないと思った。
 さて鼠の大敵は実は猫ではない。春の後、ザー、ザザザっと叫ぶのが聞こえる。これを「鼠の銭勘定」と呼ぶ。恐ろしい殺し屋が襲いかかってきたのだ。この叫び声は、絶望の余りの恐怖の叫びで、猫に会ってもこんなにあわてない。猫ももちろん怖いが、小穴に潜り込めば、猫には手が出せない。逃げる機会はけっこうある。只、恐ろしい殺し屋―― 蛇は細長く、径は鼠とほぼ同じ。鼠の這入れるところには、どこでも追いかけてくる。追跡もしつこく、幸いに万難を排しても、「銭勘定」をしだしたら、大概はもう次に打つ手は無いということだ。
 ある時、誰もいない部屋で、銭勘定の音がする。中に入って見ると、蛇が梁の上にいて、地上に一匹の隠鼠が、口角から血を流している。ただ、脇腹は鼓動し、呼吸をしている。とりあげて、紙箱の中で半日ほどすると、元気を取り戻し、だんだん飲食も歩行もできるようになった。二日目にすっかり回復したようだが、逃げ出さない。地上に置いても、人の前に寄って来て、足を伝って膝まで上ってくる。卓上に置くと、残り物を拾って食い、碗の端をなめ:書机の上に置くと従容として遊び出し、硯台に近づいて墨汁をなめた。私は驚き且つ喜んだ。父から中国には、ある種の黒猿がいて、親指ほどの大きさで、全身漆黒のぴかぴかの毛が生えている、と聞いたことがある。それは筆箱の中で眠り、墨をする音を聞くと、跳び出してきて待っている。人が字を書き終え、筆を置くと、硯の余墨をなめ、また筆箱に戻る。私はそんな黒猿がいたらいいなと思ったが、手に入れることはできなかった。どこにいるの?どこへ行けば買えるの?といろいろな人に訊いてみたが、誰も知らなかった。
“慰情聊勝無”(陶淵明の詩 弱女雖非男、慰情良勝無 より、黒猿では無いが、これも情を慰めてくれる:訳者注)この鼠は私の黒猿となった。ただ墨汁をなめるだけで、私が字を書き終えるまで待ってはくれるとは限らないが。
 もうはっきりとは覚えていないが、こうして一二ケ月:ある日突然、寂莫を感じた。まことに、何か自分の大切な物を失ったように感じた。あの鼠は卓上や目の前でうろちょろしていたのが、この日は半日も姿を見なかった。皆が昼飯を食べ終えても出てこなかった。いつも必ず出てくるのだが、私はじっと待った。さらに半日待ったが出てこなかった。
 私の守をしてくれていた長媽媽も、私が辛そうにじっと待っているのを見かねてか、ちらっとひとこと口にした。私は、すぐ憤怒の顔になり、悲哀にはちきれんばかりになって、猫を仇敵とすることに決意した。彼女は「鼠は昨夜、猫に食われちゃったよ」と言ったのだ。愛する者を失い、心はうつろになり、報復の憎しみでいっぱいになった。
 私の報復は家で飼っていた三毛猫から始まり、徐々に他の猫にも広がり、出会った猫すべてに至った。最初はただ、追いかけて叩くだけだった:後には手が込んできて、石を頭めがけて投げた。空き部屋に誘い込み、相手ががっくりくるまでいたぶった。この戦はだいぶ長く続いたが、この後、猫は一匹も近寄らなくなった。彼らにどんなに勝ったところで、英雄になることもなかった:ましてや中国で、生涯猫と闘った人間は、多くもないだろうし、一切の戦術、戦績も全て省略する。
 ただ、だいぶ後になって、多分半年も過ぎたころ。意外な情報を偶然に知った:あの鼠は、実は猫に食われたのではなく、長媽媽の腿を伝わっていこうとしたとき、彼女に踏み殺されたのだった。
 これは以前には確かに思いもよらなかったことだ。現在の私は、当時どんな感情を抱いたか、はっきり覚えていないが、それでも猫への気持ちはついに融和することは無かった。
北京に来て、猫が兎の子を殺したので、古い隙間に新しい嫌悪が這入り込み、さらに激しくなった。猫嫌いはかくして広まった。が、今やこれらは過去の話。私も態度を改め、猫にも頗るやさしくなり、万やむを得ぬ時は、追い出すのみで、叩いたり傷つけたり、殺害したりなどしない。これはここ数年の進歩で、経験も多く積み、一旦おおいに悟れば猫が魚を偸み、ヒヨコをさらったり、深夜に大声で鳴き叫ぶと、人は十人の内、九人は憎悪するが、それは猫に対してである。もし私が、のこのこと、人のためにこの憎悪を駆除しようなどと、叩いたり傷つけたり、或いは殺したりなどしたら、今度は猫がかわいそうだ、ということになり、憎悪の矛先は私の身に降りかかってくる。従って、目下の方法は猫が騒ぐのをみたら、人が嫌がっている場合、すぐ立ち上がって、戸口で大声で「しーっ」
「あっちへ行け!」といい、しばらく静かになると、書斎に戻る。かくして、侮られずに、請負人の資格を長く保持できる。
 実は、この方法は中国の官兵が常に実行していることで、彼らは決して土匪を一掃したり撲滅したりしない。もしそうしたら、自分たちが重要視されなくなり、ついには役割もなくなって、人員削減されるのが落ちだから。思うに、もしこの方法が、広く応用されれば、私は大概、いわゆる「青年たちの指導者」の「先輩」になる望みが達成されることだろう。但し、現下の情勢では、それを実践するという決断はできかねるし、まさしく慎重に研究推敲しているところである。
 一九二六年二月二十一日       2010.6.30訳
 

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二十四孝図

 私は何としても、最も激しく最も殺傷力のある呪文を見つけ出し、口語文に反対する人々、口語文を妨害する者を呪詛したい。たとい死後に、霊魂が残るとしても、この激しい憎悪の気持は、地獄に落ちても、悔いたりしない。まず何をおいても、口語文に反対する連中、口語文を妨害する連中を呪詛したい。
 いわゆる「文学革命」以来、子供向けの本は、欧米、日本に比べまだだいぶ見劣りするが、挿し絵もつき、読めるかぎりは、理解できるようになった。しかし、ある思惑を持った連中は、それすら禁じようとし、子供の世界のわずかな楽しみも奪おうとしている。
北京で今、子供を怖がらせる時に「馬虎子」(マーフーズが来るぞ)という。一説には、「開河記」に書かれている、隋の煬帝の命で運河を開削したとき、小児を蒸して(食べた)麻叔謀という:正確には“麻胡人”と書くべきだが、そうであれば、麻叔謀は胡人となる。ただ、彼が何人であれ、彼が子供を食ったとしても、人数には限りがあり、彼の一生の短い間に過ぎない。口語文妨害者の流す害毒は、洪水や猛獣より過酷で、非常に広範、かつ長期に及んでいる。全中国を麻胡(マーフー)にさせて、すべての子供を彼の腹の中で殺している。
 口語文を妨害せんとする連中を、滅亡せねばならない!
 こういうと、紳士たちは耳を覆うだろう。即ち、(彼らを呪詛する筆者が)「中空まで跳びあがり、完膚なきまでに罵り、―――罵りを止めない」からである。さらには文士たちも罵るに違いない。口語文は「文格」にもとるとか、「人格」を損ねることおびただしい、と。「言は、心の声」ではないか?「文」と「人」とは当然、相関関係にあり、人の世はもともと、千奇百怪、なんでも起こるが、教授たちの中にも、作者(魯迅)の人格は「尊敬しない」が、「彼の小説は良くない」とは言えない、という変な人もいる。が、私は頓着しない。幸いまだ(現実乖離の:人民文学出版注)「象牙の塔」に上がってはいないから、何の心配もいらない。もし、知らないうちに上がっていたとしても、すぐ転げ落ちるまでだ。転げ落ちる途中、地面に着くまでにもう一度言う:
 口語文を妨害せんとする連中を、滅亡せねばならない!
 小学生が粗雑な「児童世界」を夢中になって読んでいるのを見ると、外国の児童が読んでいる本の美しさ、精巧さと比べ、中国の児童たちがかわいそうになる。ただ、私や私と同窓の童年のころを思い出すと、だいぶ良くなったとは思う。我々の過ぎ去りし時代に悲哀の弔辞を贈る。我々のころは、見るべきものは何も無い。少しでも挿し絵があると、塾の先生、すなわち当時の「青少年を指導すべき先輩」から禁じられ、しかられて、掌の中心を叩かれた。私の級友は「人の初め、性は本来善」(という三字経)だけを読まされ、余りの退屈さに耐えられず、「文星高照」の、悪鬼の魁星の像を偸み見して、幼い審美眼を満たしていた。昨日も見、今日もそれを見るのだが、彼の目にはきらめきが蘇生し、喜びの輝きが戻った。
 塾外では禁令は緩やかで、というのは私個人のことだが、人によっては違うだろう。だが、皆の前でおおっぴらに読めたのは、「文昌帝君陰騭文図説」と「玉歴鈔伝」で、因果応報の物語だ。雷公と稲妻が雲の上に立ち、地面の下には牛頭と馬面がひしめき、「中空に跳びあがる」のは、天の掟を犯す者で、たとい一言半句でも符合せず、わずかの存念でもそれが抵触するようなら、相応の扱いを受ける。この扱いは決して「些細な怨み」などの騒ぎではない。そこでは鬼神が君主で、「公理」が宰相だから、跪いて酒を献じても何の役にもたたず、まったく手が出ない。中国では、人となるだけでなく、死者となるのも極めて困難なのだ。しかしこの世よりましと言えるのは、いわゆる「紳士」もいないし、「流言飛語」も無い点だ。
 あの世で静かに過したいなら、あの世のことをあまりほめてはいけない。特に、筆を弄ぶのが好きな人間は、流言がとびかう今の中国では、そしてまた「言行一致」を大いに推進せんとしている今、前車の覆るのを鑑としなければならない。
アルツイバージェフが以前、若い女性の質問に答えた「ただ人生の事実そのものの中に、歓喜を探し出す者のみが、生きて行ける。そこで何も見いだせなかったら、死んだ方がましだ」という一節がある。それに対して、ミハロフという人が、手紙で罵った。「……、だから私は衷心よりお勧めするのだが、君は自殺して、自分の命に禍を与えて、福を取れ。それが一番ロジックにあっているし、二番目には言行不一致にならずに済む」と。
 そうは言っても、この論法は人を謀殺するもので、彼自身はこのようにして、人生の歓喜を見つけ出してきたのだ。アルツイバ―ジェフは不平不満をならべただけで、自殺しなかった。ミハロフ氏はその後どうなったか知らない。歓びは失ったか、別に何かを探し出したか。まことに「そのころは勇敢でも安穏に暮せたし、情熱的であることに何の危険も無かった」ようだ。
 しかしながら、私はすでにあの世のことをほめてしまったので、前言は撤回できない;「言行不一致」の嫌いはあるが、閻魔大王や小鬼からびた一文もらっていないから、この役はいつでも降りられるのだが。まあ、このまま書きすすめてみよう:
 私が見たあの世の絵は、家の書庫にあった古い本で、私の専有ではない。私が自分の物として手にした最初の挿し絵本は、一族の年長者が呉れた:「二十四孝図」だ。ほんとうに薄い冊子だが、下に挿し絵、上に説明があり、鬼は少なく、人が多く描かれ、自分の本なので、とてもうれしかった。その中の故事は誰でも知っているもので:字の読めない者も、たとえば阿長(乳母)でも絵を見れば、滔々と物語ることができた。ただ、うれしさの後に来たものは、興味喪失感であった。
二十四孝図の物語を全て聞き終えたあと、「孝」がかくも難しく、それまで呆けたように妄想していたことと、孝子になろうとしていた望みは、完全に絶たれた。
「人の初め、性は本来善」というのは本当か?これは今、ここで研究しなければならぬテーマではない。ただ、私は今もはっきり覚えているが、幼いころ、親に逆らったことは一度も無いし、父母に対しては特に孝順であろうとした。しかし幼いときは、何も知らないから、自分なりに「孝順」を理解して「よく親の話を聞き、いいつけに従う」ことと思っていた。成人したら、年老いた父母に食事をあげること、だと。この孝子の教科書を見てから、決してそんな事だけではすまないのだと悟った。何十倍、何百倍も難しい、と。もちろん、努力すればできることもある。「子路、米を負う」「黄香、枕を煽ぐ」の類だ。「陸績、橘を懐にす」も難しくない。金持ちが私を招宴してくれたらの話だが。
「魯迅さん、デザートのミカンを懐に入れて持ち帰りますか?」私はすぐ跪いて「母の好物ですから、頂きます」と応える。主は敬服し、かくして孝子はいとも簡単に誕生する。
「(冬に)竹に哭いて、筝を生ず」は疑わしい。私の誠心では、このように天地を感動させる自信はない。ただ、哭いても筝が出てこないというだけなら、面子を無くすだけで済む話だが、「氷に臥して鯉を求む」となると、生命に関わってくる。我故郷は温暖だから、厳冬でも薄氷しか張らない。小さな子供でも、乗ったらバリっと割れて、池に落ちて鯉も逃げてしまう。もちろん命を大切にすべきで、それでこそ、孝が神明を感動させ、思いもつかない奇跡を呼ぶ。ただ、その頃私は幼くて、こんなことは知らなかった。
 中でも特に分からなかったし、反感を覚えたのは、「老莱、親を娯(たのします)」と
「郭巨、児を埋める」の二篇、である。
 今でも覚えているが、一つは、老父母の前で倒れている爺さん。もう一つは母の手に抱かれている幼児。どうして私は、この絵に違和感を覚えたのか。二人とも手にはデンデン太鼓を持っている。この玩具は可愛らしい。北京では小鼓という。即ち鼗(トウ)で、
朱熹曰く「鼗、小鼓、両側に耳あり、その柄を持って揺すると、傍らの耳が自ら撃ち」、
トントンと鳴る。しかしこんなものは老莱子の手に持たせるべきじゃない。彼は杖を持つべきで、こんな恰好はまったくでたらめで、子供を侮辱する。二度と見たくないので、このページに来ると、すぐ次をめくった。
 当時の「二十四孝図」は、とうにどこかに無くした。今手元にあるのは、日本の小田海僊の描いた(絵を中国で印刷した)本だけ。老莱子のことを「七十才で、老と称せず、いつも五色の斑斕の衣を着て、嬰児となって、親の側に遊ぶ。また常に水(桶)を手に堂に上がり、詐りて転び、地に倒れ、嬰児のように泣き、以て親を娯す」だいたいの内容は旧い本と同じで、私の反感を招くのは、詐りて転ぶだ。逆らうにせよ、孝順にせよ、子供は多くは「詐りて」など望まぬ。物語を聞いても作り話は喜ばない。こんなことは少しでも児童心理に心得のあるものは、みな知っている。
 もう少し古い本を見ると、こんなに虚偽に満ちてはいない。師覚授(南朝宋人)の「孝子伝」には、「老莱子…、いつも斑斕の着物で、親に飲み物を持って行き、堂に上がる際、
転んで父母の心を傷つけるのをおそれ、倒れ臥して嬰児の泣く真似をする」(太平御覧の413引)。今のと比べると、多少人情に近い。それがどうしたわけか、後世の君子が“詐りて”と改作しないと気が済まなくなったのか。鄧伯道が子を棄てて侄を救うというのも、考えてみれば、ただ“棄てる”だけなのだが、いい加減な連中が、子を樹にしばりつけ、追いかけて来られないようにした。まさしく「身の毛がよだつのを趣味」とするのと同じで、非情を封建道徳の鑑とするようだ。古人を侮蔑し、後の人に悪影響を及ぼすものだ。老莱子は、ほんの一例で、道学先生(朱子学者)は彼を無疵の完璧者とみなすが、子供たちの心の中では、すでに死滅している。
 デンデン太鼓を玩ぶ郭巨の子は、実に同情に値する。母の腕に抱かれ、うれしそうに笑っているが、彼の父親は正に穴を掘り、埋めようとしている。説明に「郭巨は家貧しく、三歳の子あり、母親は食を減らして、之に与う。巨は妻に言う。貧乏で母に充分な食事をあげられない。子にもまた母の食料を分けるしかない。蓋し、子を埋めてはどうか?」只、
劉向の「孝子伝」はこれと異なり、「巨家は富んでいたが、彼は二人の弟に全てを与えた:子は生まれたばかりで、三歳になっていなかった。結末は大略似ている。「二尺ほど掘ると、黄金の釜を得た。その上には:天が郭巨に賜った。官も取るべからず、民も奪うべからず!」
と書いてあり(郭が孝子だから、天からの賜物を得た、という孝行譚)。
 私は最初、この子のことが心配で、たまらなかったが、黄金の釜を掘り出して、やっとほっとした。しかし私はすでに、もう自分は孝子になろうなどとは思いもしなくなったし、
自分の父親が孝子になろうとするのではないかと心配になった。家もまさしく左前になりだして、父母が米と薪の心配するのをしょっちゅう聞いていたし、祖母も年老いて、もし私の父が、郭巨に学ぼうとしたら、埋められるのは私ではないか?もしその通りになり、黄金一釜を掘り当てられれば良いが、幼かった私にも、世の中そんなうまい話があるとは、思えなかった。
 今思い出すと、実際馬鹿げていると思う。今ではこんな古いでたらめは、誰も学ぼうとはしないが、封建道徳を美しく飾る文章はいつでもある。だが、紳士が裸で氷上に横になり、将軍が自動車から下りて、米を負うなどは、殆ど見かけない。ましてや、今や大人になり、古書も何冊か読み、新本も何冊か買った。「太平御覧」や「古孝子伝」「人口問題」や「産児制限」「二十世紀の児童世界」など、埋められることに抵抗する理由はいっぱいもつことができた。
だが、あの時は、あの時、今とは違う。あの時私はほんとうに恐ろしかった。掘っても、掘っても、黄金が出てこなければ、デンデン太鼓と一緒に埋められ、土を被せられ、踏み固められてしまったら、どうしたらよいか、考えることすらできなかった。
 事実はその通りにはならなかったが、その後、父母が窮状を愁えているのを聞くたびに、白髪の増えた祖母を見るのが怖く、彼女と私は、両立しないのだと感じた。少なくとも、
私の命と何らかの衝突のある人だと、後に、この印象は徐々に淡くなっていったが、彼女が亡くなるまで、残った。これは多分「二十四孝図」を私に呉れた儒者たちには、思いもよらなかったことだろう。
  5月10日             2010.7.14訳
 
訳者 あとがき
京の下京に住んでいたころ、四条西洞院からバスをよく使った。そのバス停の前が郭巨山という祇園祭の山車の蔵であった。そこに説明書きがあり、この作品と同じ内容が挿し絵とともに張られていた。それを3年間、何回も見ながらバスを待っていた。
祇園祭りの日に、その山車が巡行するのも見た。なぜこんな悲しい話が、室町時代から今日まで、山車として受け継がれてきたのだろうか。蘆刈山とか、これに似た悲劇の山車が他にもある。疫病や内戦が続き、大勢の人々が目の前で死んでゆくのを、目にしてきた京の下町の人々の発想に、どのような背景からこうした悲劇を取り上げる気持ちが起こったのだろうか。元義としては孝行の勧めだろうが、それなら魯迅の指摘するように、孟宗竹の話や、人を元気にさせてくれる明るい話は他にある。子供を埋めねばならぬほどの、
過酷な状況が、21世紀の今日では想像すらできないほどの頻度で、発生していたのではなかろうか。子殺し、といえば、21世紀の十年間でも、地面に叩きつけたり、冷蔵庫や湯船で殺すという現実は、我々を悲しませるが、孝行のために子殺しをすることは無い。
長野には姨捨伝説があり、東北には子殺しのおどろおどろしい絵が残されている。
祖母と嬰児に二人分の食糧を確保できなくなったとき、夫婦はどういう行動をとるのだろう。今では一人っ子政策で、子供は過保護なくらいに育てられるが、昔は毎年のように生まれてくる子供を、いかんともしがたい。日本には各地に姥捨て伝説と水子地蔵がある。
中国では、さすが儒教の儀礼の邦、敬老の思想から、姥捨てという説話は、寡聞にして知らない。水子地蔵というのも、日本のようなものを見たことは無い。どこかにあるのだろうか。30年前から「人工流産」という言葉を耳にするようになった。違和感がある。
魯迅の感じたように、この世の中 そうざらには黄金を掘り当てることはない。だから孝行譚として、奇跡が起こるというのが、説話としては残るのだろう。飢饉のおり、何も食べるものがなくなったとき、人はどの道を選ぶのだろうか。
 
 
 

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父の病


もう十数年前のことだが、S城内に有名な名医の話があった。当時往診料は1.4元だが、急患だと十元、深夜は倍、城外だとその倍。ある夜、城外の閨女が急病で、彼に診てもらった。彼はたいそう裕福になっており、面倒だから、百元でなきゃ診ないと言った。彼らはやむなくそれに従った。待つほどに彼は草草に診ただけで「たいしたことない」と一言。処方箋を書き百元を手にして帰った。その家は金持ちのようで、翌日も頼んだ。彼が着くや、主人が自ら出迎えに出、笑いを浮かべて言った。「昨夜先生の薬を頂いたら、だいぶ良くなりました。で、もう一度診て頂きたいと思いまして」と病室に案内し、老乳母が病人の手を几帳の外に出した。触ると氷のように冷たく脈もない。そこでうなずいて、「おお、この病か、わかった」と従容として机の前に行き、処方箋を書いた。
「この証文と引き替えに英国銀百元を支払う」署名と花押をつけた。
「先生、この病はそんな軽くはありません。薬ももう少し良く効くのにして下さい」と主人は背後から言った。
「よろしい」と応じ、別にもう一枚「この証文と引き替えに英国銀二百元を支払う」署名と花押。
 かくして主人は処方箋を受け取り、丁重に彼を送りだした。
 私はこの名医と丸二年つきあわされた。隔日一回。父の病を診てもらった。その頃もうすでに有名だったが、面倒くさがるところまで裕福にはなっていなかった。往診は1.4元。現在都会では十元の診料は奇とするほどのことでは無いが、当時の1.4元は相当な額で、なお且つ隔日ときてはそれを工面するのが大変だった。特に彼は確かに格別で、世間でも、処方は一般の物はダメで、私は薬のことは分からないが、私が感じたのは、「薬引」という補助剤はとても入手しにくいもので、新しい処方に換わると、急いでそれを探さねばならなかった。まず薬を買い、次に薬引を探す。「生姜」2片、先端を取った竹の葉10片、など一般的なものは使わなかった。最低でもまず蘆の根、これは川辺で掘る。三年霜を経た甘藷、これは探すのに少なくとも2,3日は掛る。妙なことだが、後にはお金で買えないものは殆ど無くなった。
 世間では彼の医の神妙さは正しくここにある、と言われていた。かつてある病人が、百薬効なく、ようやくのことに名医の葉天士先生にめぐり会えて、元の処方に薬引を一つ加えた。それが桐の葉だそうだ。それを一服すると、たちまち病は癒えた。「医は意也」その時は秋で、桐は天下に先んじて秋を知る。それゆえ、まず百薬はこれを投ぜず、秋気を以て動かし、気で気を感じせしめ、これによって……。私には何がなんだかさっぱり分からないが、ずいぶん敬服はした。凡そ霊薬なるものは、入手はたいへん困難なもので、仙人になろうとする人は、命がけで深山に入って、採薬に懸命になるのだと知った。
 こうして二年も診てもらうと、だんだん親しみも出、ほとんど友人のようになったが、父の水腫は日に日にひどくなり、起きられなくなってしまった。霜に三年耐えた甘藷の類に対し、徐々に信仰を失って行った。薬引探しも以前のような張り合いをなくした。ちょうどそんなころ、彼が来診し、病状を問い、非常に誠実かつ丁重に言った。
「私の学んだすべてのことは使い果たしました。陳蓮河という方がいて、私よりずっと素晴らしい名医ゆえ、彼に紹介状を書いても良い。病はたいしたことはないが、彼に診てもらえば、早く治る…」
 この日一日、みんなはふさぎこんでしまった。私は彼が駕籠に乗るまで見送って、部屋に戻ると、父の顔色はとても異様で、彼は皆に話していた。もう自分の病は治りそうもない。二年診てもらって、一向に効き目が無い。なじみになりすぎて、困ったことになりかねないので、危急になる前に、新しい医者を紹介し自分は手を引こうとしている、ということだった。しかし、他にどんな方法があろうか。S城の名医は彼以外、陳蓮河只一人だった。翌日彼に頼んだ。彼の往診料も1.4元。前の名医は丸くて太った顔だったが、彼は長くてふっくらした顔で、この点は違っていた。薬も違っていた。前の名医にはなんとか対応できたが、今回は、対応しきれなかった。処方箋にいつも決まって丸薬散薬と一種奇妙な薬引を一緒に書いた。
 蘆の根と三年霜に耐えた甘藷は使わなかった。最も一般的なのは「コオロギ一対」傍らに、小さい字で「原配のもので、同じ巣穴にいるもの」と注がある。昆虫も貞節でないといけないようで、後妻をもらったものや再婚したものは薬にする資格を失うようだ。但しこの役目は難しくない。百草園に行けば十対くらい容易に捕まえられる。糸で縛って生きたまま熱湯に入れて出来上がり。しかしまた、「平地木十株」という、何のことかさっぱりわからない。薬局、田舎の人、薬草売り、老人、読書人、大工の師匠などに訊いても誰も知らない。最後に遠縁の叔父さんに花木の好きな人がいたことを思い出し、訊いたところ、彼は知っていた。山中の大きな樹木の下に生える小さな木で、紅い実が小珊瑚珠のようになり、一般には「老弗大」と呼ばれていた。
「鉄の鞋が破れるほどあらゆる所を探しまわって苦労しても、入手できたら何のことは無い」の譬えの通り、薬引は探し出せた。その他に、特別の丸薬、破れ太鼓の皮が必要だった。これは古い太鼓の破れた皮で造る。水腫は一名鼓脹とも言われ、破れ太鼓の皮を飲めば、その病を克服できるという。清朝の大臣剛毅は「洋鬼(毛唐)」を憎悪したが、彼らと戦うために、軍隊を訓練し「虎神営」と称したが、虎は羊(洋)を食い、神は鬼を屈服させられる、という意味からつけた名だという。まさしくこの伝と同じだ。
 この神薬は城下で只一軒しか売っていない。我が家から五里も離れていたが、平地木ほど暗中模索することなく、陳先生が処方を書いてくれ、懇切丁寧に説明してくれた。
「ある特別の丹薬がある」ある時陳先生は言いだした。「舌の上にのせれば、必ず効くと思う。舌の中心は霊の苗があり、… 値段も高くない、一箱二元。……」
 父は静かに考えてから首を振った。
「こうして私がいろいろ薬を投じてみたが、大して効き目がない」ある時陳先生はこう言った。「誰かにみてもらってはどうだろう。何か冤罪か前業…… 医は病は治せるが、命はいかんとも。そうでしょう?これも前世の業で……」
父は黙って考えてから首を横にした。
凡そ国手なるものは、起死回生を行う人だ。医者の門前を通ると、このような扁額をよく目にする。今では少し譲歩し、医者も自ら言う「西洋医は外科に優れ、漢方医は内科に秀でる」と。だが、S城にはその当時、西洋医がいなかっただけでなく、誰一人天下に西洋医なる者がいるさえ思いもしなかった。それで何はともあれ、只、軒轅岐伯(名医)の嫡流たちに請け負ってもらうほか無かった。軒轅のころは、巫と医は分かれておらず、現在に至るも彼らの門徒は、鬼を見るし、舌の中心に霊苗があると考える。これが中国人の「命」であり、名医といえども医によって治すことあたわず、ということになる。
 霊丹を舌の上に置くことを肯んぜず、「冤罪と前世の業」も考えつかず、只単に百日余の破れ太鼓の皮を食べて、何の役に立つのか!依然として水腫は破れない。父はとうとう寝台に横たわったまま、ぜいぜい咳をしだした。それで陳先生に頼んだ。今回は急患扱いで、
洋銀十元。彼はなお泰然として処方を書いたが、破れ太鼓の皮の丸薬は止めたし、薬引もたいして神妙な物ではなかった。だから半日ほどですぐ煎じることができたが、飲ませたら、口角から戻してしまった。
 この時以来、二度と陳先生とのかかわりは持たなくなった。街で彼が三人担ぎの早駕籠に乗って行くのを見かけるのみ。彼は今も健在で、医を行う一方、漢方医の何とか学報を出して、今まさしく只外科に長じているのみの西洋医と闘っているそうだ。
 漢方医と西洋医の思想は確かに少しばかり違う。中国の孝行な子たちは、「自分の罪が
深いので、禍が父母に及ぶとき」何斤かの人参を買い、煎じて飲ませることで、父母が何日かでも、たとえ半日でも息永らえてくれるように努める。
 私の医学の先生は、医者の職務を教えてくれた時、治せるものは治すべきだが、治せないものは、苦痛を味あわせないようにすべきだ、と言われた。―――先生は西洋医だが。
 父のゼイゼイがとても長く続き、傍らにいる私ですら辛くて堪らなくなった。だが、誰も彼を救ってやれない。私はしまいには、電光一閃 「早く息が止まれば………」と思ったが、すぐまたこんなことは考えてはいけないと思いなおした。犯罪であると。ただそれと同時に、この考えも正当であるとも感じた。私は父をとても愛していた。今でもそう思っている。
 朝、隣の衍さんの奥さんが入って来た。儀礼にたいへん通じている婦人で、我々が何もしないでいてはいけない。彼の衣を換え、紙銭と一種の「高王経(仏教の経典)」を焼いて灰を紙に包んで、彼の手に握らせる…(冥土への路銀;何信恩氏)」
「呼んであげなさい!お父さんはもう息を絶つのよ。早く呼びなさい!」彼女は言った。
「父さん!父さん!」私はすぐ叫んだ。
「もっと大きな声で!彼が聞こえるように! 早く!」
「父さん!!! 父さん!!」
彼はもうすでに平穏な顔になっていたが、急に意識がもどり、目をかすかにあけて、少し苦しそうだった。
「呼びなさい! 早く!」彼女は促した。
「父さん!!!」
「なんだ? …… さわがしいな。……さわぐな…」彼は小さな声で言った。
そしてまた急にゼイゼイ咳をしたが、しばらくすると元の状態になり静かになった。
「父さん!!!」私はなお叫び続けた。彼が息を引きとるまで。
私は今なお、あのときの自分の声が聞こえる。聞こえるたびに、これが私の父に対する最大のあやまちだったと思う。
  十月七日                2010年6月4日 訳
 
訳者 あとがき
 何信恩さんの注に依れば、父の死んだのは魯迅16歳の時。当時のしきたりで、父の衣を換えるのは周家の男の年長者が執り行うこととなっており、彼が主となって行っただろうと、推測している。衣を換えるということの中には、映画「おくりびと」で本木が行ったような手筈とかを、しきたりに従って、「ある種の呪文」を唱えながら、行わねばならない。これは16歳の魯迅にとっては大変な苦難であったろう、と記している。
 この後、彼は南京の西洋式の学校に官費をもらって勉強に行くのだが、軍のためということなどで、そこを辞し日本に留学。仙台で医学を学ぶという道を選んだ。
 森鴎外の「高瀬舟」は、両者が医学と小説を書くという共通点から、二人の深層心理を読みとることができる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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