忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「百草園から三味書屋へ」

我が家の裏に大きな園があり、百草園と呼ばれていた。今では家とともに朱文公の子孫に売ってしまったので、最後に見たときから7,8年経ってしまったが、中には確かいくばくかの野草が生え、私の楽園だった。
 言うまでも無く、青々とした野菜の畝、すべすべした石の井戸、高いトウサイカチ、紅紫の桑の実、木には泣き続けるセミの声、腹の丸い蜜蜂が菜の花にとまり、機敏な雲雀が草むらからふいに飛び立ち雲をめがけてまっしぐら。
 低い土塀の近くにも、尽きせぬ趣があった。油蛉(鳴く昆虫の一種)は低い声で鳴き、コオロギは琴を弾くごとし。レンガを裏返すと、ムカデがい、ハンミョウもいて、指で背を押すとポンと音をたて、尻から煙霧をシュッと出す。何首烏のツルと木蓮のツルがからまり、木蓮はハスのような実がなり、何首烏はゴロッとした根がある。根に人間の形のものがあり、食べると仙人になれるというので、それを探そうとして根を抜いたのだが、ずるずると抜き続けて土塀を壊してしまった。その後、人間の形をしたものを見ていない。トゲを気にしなければ、覆盆子(木イチゴ)を摘む。小さな珊瑚珠を寄せ集めた小球で、酸っぱくて甘い。色といい味といい、桑の実より格段に上だ。
 茂った草むらには行かなかった。ヤマカガシ(無毒の蛇)がいると言われていたから。
長媽媽(乳母)はよく話をしてくれた。昔ある書生が古い廟で勉強していた。夜、庭で夕涼みしていると、誰かの呼ぶ声がする。すぐ応答して周りを見ると、美女が塀のうえから顔を出し、ほほ笑んでから顔を引っ込めた。彼はとてもうれしかった。だが夜、彼の所にきて話をしてゆく老和尚にこのからくりは看破されてしまった。彼の顔に妖気がただよっているから、きっと‘美女蛇’を見たに違いない。この人頭蛇身の妖怪は、人の名を呼び、それに応えると、夜忍んできてその人の肉を食う。その男は死ぬほど驚いたが、和尚は大丈夫という。この小箱を枕辺に置いておけば、枕を高くして寝られる、と。彼は言われたとおりにしたが、どうしても眠れぬ。―――とても眠れない。夜なかにやはりやって来た。シャシャシャ!戸外は雨風の音。彼がぶるぶるふるえている時、フオーとひと声、金色の光が枕辺から飛び出し、外はもう音がしなくなった。金色の光は戻って来、小箱の中に入った。「それからどうなったの?」それからね、和尚さんは話した。これは飛ムカデで、蛇の脳髄を吸ってしまうのさ。それで美女蛇は死んじゃったのよ。
結末の教訓は、だから知らない人から声をかけられても返事しちゃだめよ、であった。
 この話は、人が生きて行くことの険しさを教えてくれた。夏の夜、夕涼みのとき、よく用心し、塀の上を見ないようにしたが、それ以上に和尚の小箱のように飛ムカデが欲しくてたまらなくなった。百草園の草むらに行くといつもそう思った。今に至るもそれは手に入らなかったし、ヤマカガシにも美女蛇にも出会ったことは無い。私の名を呼ぶ知らない人は、しょっちゅういたが、もちろん美女蛇ではなかった。
 冬の百草園はあまり面白くなかったが、雪が降れば別世界。雪上にばたんと伏せて、
雪人間の鋳型を作り、雪だるまを造ったりして人に見てもらおうとした。が、ここは寂れてしまって、人があまり来ないので、見てもらうにはふさわしくなかった。鳥をつかまえるのが楽しかった。小雪ではだめで、一両日しっかり降って、鳥たちが餌を探せなくなったときが絶好期。雪をかいて地面が現れたら、短い棒で大きな竹ザルを支え、下にシイナを撒く。棒に長い縄をつけ、遠くから引っ張る。鳥がエサをついばむために竹ザルの下に来た時、縄を引けば、捕まえられる。大抵はスズメだが、白頬の‘張飛鳥’も捕れる。
だがこれは非常にせっかちで、翌朝までもたない。
 これは閏土の父親が教えてくれたのだが、私は余りうまくなかった。確かに鳥が入ったのを見届けてから、縄を引くのだが、走って行ってみると中は空っぽ。半日かけて、3,4匹がやっと。閏土の父は、小半日で数十匹捕った。叉袋に入れると、チュンチュン鳴き、ぶつかり合っていた。私がコツを教えてほしいと聞いたら、静かに笑って、「あわてちゃだめ。しっかりザルの真ん中に来るまで待つのだよ」と。
 家人がなぜ私を塾にいれたのか知らない。そこは城中で最も厳しい塾だった。ひょっとすると、何首烏を抜いて、土塀を壊したせいかも。またはレンガを隣の梁家に投げ込んだせいか。或いは石の井戸の上に立って飛び降りたせいか、知る由もない。要するに、それからというもの、百草園に足しげく行くことは叶わなくなった。Ade(さらば)私のコオロギたち。Ade私の木イチゴや木蓮!
 家の門を東に、半里ほどの石橋を過ぎると先生の家があり、黒い竹門を入って三番目の部屋が教室。正面に「三味書屋」の扁額がかかり、その下は絵。太った梅花鹿が古樹の根もとに休んでいる。孔子の牌位は無く、我々はその扁額と鹿に向かってお辞儀をした。一回目は孔子に、二回目は先生にお辞儀した。
 二回目のとき、先生はニコニコして傍らから答礼された。背が高くて痩せた老人で、髪もヒゲもゴマ塩だった。大きな眼鏡をかけていた。私は、先生に大変礼儀正しくした。というのも、城内で最も礼儀正しく、質朴でたいへん博学な人だと聞いていたから。
 どこで聞いたか忘れたが、東方朔も大変博学で、ある種の虫を知っていて、名を‘怪哉’といい、冤罪の気が化けたもので、酒を注ぐとすぐ消える、という。この話しをもっと詳しく知りたくて、阿長(前出の乳母)に聞いたが、彼女は博識じゃないから知らない。今やっとその機会ができたので、先生に訊ねた。
「先生、‘怪哉’という虫はどんな虫ですか?…」初めての授業が終わって退室のとき、急いで訊ねた。
「知らない!」先生はご機嫌ななめのようで、顔に怒りの色をあらわにした。学生はこんなことを訊いてはいけない、ということを知った。読書、ただ読書のみ。彼は博識の老学者で、決して知らないということは無いので、知らないというのは、言いたくないということだ。私は、年上の人は往々にしてこうで、何回もこうした場面に出会った。
(怪哉とは、うっ屈とか濡れ衣などの苦悶を紛らす酒のことか;訳者推測)
 私は読書に専念し、正午は習字、晩は対句づくりをした。初めの数日間、たいへん厳しかったが、後に徐々によくなってきたが、読まねばならぬ本はだんだん多くなった。対句も徐々に字数が増え、三言が五言になり、しまいには七言になった。
 三味書屋にも裏に草園があり、小さかったが、花壇に上って、蝋梅の枝を折ることもできた。地面や金木犀の枝にセミの抜け殻を見つけた。一番面白いのは、ハエをつかまえて蟻の餌にすること。これは音を立てなくて済むので、具合がよかった。しかし同窓生が園にたくさん来て、長い時間戻らないと、先生は教室から「どこへ行ったか?」と大声で叫んだ。それで一人ずつ時間をずらして戻った。一斉に戻るのはまずかった。
 先生は体罰用の棒を持っていたが、普段使わなかった。また跪きの罰もあったが、あまり行わず、普段は目をかっと開いて、大声で「勉強せよ」とおっしゃるのみ。それで皆は口を大きくあけ、声を出して朗読した。まさしく、人の声が鼎の湯が湧くようであった。
「仁遠からんや。我仁を欲すれば、仁ここに至る」ある者は「人の歯の欠けたを笑う云々」
またある者は「上九、潜龍 用いる勿れ」ある者は「その土は下の上、云々」など、銘々が自分の書を朗読する。
 先生も自ら朗読される。と、我々の声は小さくなってゆき、静かになり、彼だけが大きな声で朗読していた。
「鉄の如意、指揮倜儻、一座皆驚呢……金叵(杯)羅、顚倒淋漓噫、千杯未酔荷(口編)」
(怪哉の助力もあり、千杯飲んでも意気軒昂…の意か:訳者推測)
私はこの段は極上の文に違いないと思った。ここら辺に来ると、先生はきっとほほ笑み、頭を仰ぎ、揺すりながら、徐々に後ろにそらしてゆく。
 先生が読書に専心されているときは、我々にはもっとも好都合な時で、何人かは紙で造った兜を指にさして(人形)劇で遊ぶ。私は絵を描く。荊川紙を小説の絵の上に置き、画像を一つずつ写す。習字の練習のときのように。読む本が増えれば増えるほど、絵も増えた。読書の方は物に成らなかったが、絵の成績は少なからず上がった。一番良いのは「蕩寇志」と「西遊記」で、一冊の厚い本になった。後に、金が必要となり、金持ちの同窓に売った。彼の父親は(紹興特産の錫箔の)紙銭店をしてい、今では彼が店主の由で、まもなく紳士の地位に上るという。だが、この絵はもうとっくになくなってしまっただろう。
  9月18日                    (2010、6、3、)
 

拍手[6回]

PR

宮芝居 (奉納劇と改称)

 訳者 まえがき
 これから訳すのは、原題は「社戯」日本では「宮芝居」と訳されてきた。日本でも訳者が小さい頃には、神社の祭礼の時に、参道の広場で旅回りの役者が演じる芝居を見たことがある。だが、それは股旅物など、時代劇が多かったと記憶する。漢語の戯というのは、京劇とか昆劇、越劇などが有名である。京劇はオペラのような歌劇に近い。それで英訳ではペキンオペラという。といっても京劇では音曲は、いくつかのパターンが決まっていて、クライマックスでは、さあこれからだぞ、と観客がわかるようなメロディが奏でられる。それまでよそ見していた客も、舞台に目をやる。西洋のオペラのように作曲家が、一作ごとに曲を作るわけでなく、昔からある宋詞元曲などの調べにのせて、大概の物語は歌える。元曲の伝統を今日まで伝えていると言われるゆえんか。
歌劇と芝居は日本でも意味するところと、出し物は異なるようだ。筆者が、北京で2回、そして故郷で見たのは、銅鑼や太鼓でドンドンジャンジャン頭がクラクラするほどの音響の中で、とんぼを切る派手な活劇と、唱と言って、喉をうならせ、頭のテッペンから絞り出す甲高い声で、歌い続ける劇などがあり、それらが組み合わさって、人気を博し、津々浦々でプロから素人までが唱し、それが今も、すたれないでいる。小学生の名優、普通の服装で唱の部分だけ歌う、一日中これを放映するテレビもある。
 訳者が一昨年の国慶節休みに、山西省五台山の小さな祠を訪ねたとき、朝8時にも拘わらず、全国から何十台もの大型バスで参詣に来た人々が、押すな押すな、であった。とても有名で、ごりやくがあるということで、大勢の人が願掛けとお礼まいりに来る。
 その祠の対面に、常設の舞台が設けられ、夜明けから、奉納劇が始まる。それが夜が更けて、参拝客がいなくなってもやっているそうだ。この劇は祈願成就の人がお礼として、神様に奉納する由で、それを参拝客もみることになるのだが、趣旨はあくまで、神様への奉納で、ドンチャンドンチャン騒がしい、役者が唱い、踊り、剣劇もある。
 日本のお神楽に近いかもしれない。薪能などは、奉納の面が強いだろう。もちろんそれを見に来た人々へもおすそ分けをするのだが。演者も、本尊への奉納と思えば、一層張りあいが出てくるというものだ。この作品は、最初の部分は、何を言いたいのか理解しにくいが、後半が面白い。まるで京劇のはじめのやや退屈な部分と、後半のクライマックス仕立てのようである。主人公が観たのは越劇であろう。越劇では京劇と違って女性が多く登場し、小旦は若い女性、花旦はヒロイン、老旦はおばさん或いは老婆の役である。女形はいない。新劇ではなく、伝統的な中国劇である。
 
 
 かれこれ二十年の間に、二度しか中国劇を見ていない。初めの十年は一回も見ていない。見ようという気にならなかったし、機会もなかった。で、二回というのはこの十年のことだが、結局なにも見ずに劇場を出てきてしまった。
 最初は民国元年、北京に来たばかりで、友人が京劇は素晴らしいから見に行こうと誘われ、京劇もいいな、と興味津津、某劇場に出かけた。劇は始まっていて、外にまでドーン
ジャーンと音が聞こえてき、木戸をくぐると赤や青のけばけばしい衣装が、目に飛び込んできた。客席をみると、人の頭でいっぱいだったが、中央に空席が見えたので、身をよじりながら入って行き、坐ろうとすると、隣の男が何か文句を言っている。耳は銅鑼の音で、グアーン、として何も聞こえない。注意して聞いてみると「人がいるから坐るな」と言っているのだった。
 後ろに戻ると、辮髪をてかてかに光らせた男が、壁際の席に案内した。ここは長い床几の席で、板は太腿の四分の三くらいの狭さ。高さは下肢より三分の二も高い。もう坐る気にもならず、拷問の刑具のように感じて、ぞーっとして出て来てしまった。
 だいぶ歩いたろうか、後ろから友の声がする「どうしたの?」振り向いて、彼も一緒に出てきたのかと思った。「どうして返事もしないで、ずんずん行っちゃうの?」「ごめん、ごめん。ドン ジャンで耳が何も聞こえなくなっちゃって」
 後になってこのことを思い出すたびに、とても奇妙に感じ、この劇がそもそも面白くなかったとも思った一一 また私がもう舞台を観ることに適さなくなったのだと思った。
 次はいつだったか忘れた。湖北水害の義捐興行で、名優、譚叫天の亡くなる前だった。
二元で券を買い、第一劇場に行った。名優が名を連ね、その一人が小叫天。買ったのも、もともと、義捐金集めの人への義理。それに好事家から良い機会だから、叫天の大法要を見ない手はないよ、というのに乗ったのである。数年前にドンジャンでさんざんな目にあったことを、ころっ、と忘れて、劇場に向かった。高いお金を払った以上、行かなきゃ損というのが半を占めていた。叫天の出番はおそいと聞いていたし、第一劇場は新式だから、席を取られる心配もないと9時に出かけた。あにはからんや、もう一杯で入り込む余地もない。舞台から離れた立ち見の人で込み合う場所で、立ったまま、老旦が唱ずるのを観た。老旦が口に火のついたコヨリを二本くわえて演じているのを見、傍らに鬼卒が立っているし、後から和尚も出てきたので、誰だったなかと思いを巡らし、目連の母だろうと思った。しかし、その名優の名を知らなかったので、満員の中で、身を細めてる太った紳士に聞いてみた。とんでもないことを聞く奴だと軽蔑した顔をして、「龔雲甫!」と。私は浅薄固陋、粗忽疎漏を恥じ、真っ赤になった。そしてもう二度と人には聞くまいと心に決めた。
 それから、小旦が唱じ、花旦も、老旦も唱った。誰が何を唱っているかも知らず、活劇の立ち回りを見、二三人のかけ合いを見、9時から10時、10時から11時、11時から11時半、11時半から12時 一一 になっても叫天はついぞ現れなかった。
 これまで、こんな辛抱強く何かを待ったことはない。隣の太った紳士は、スーハーと大きな息を吐くし、舞台では、ドーン、ジャーンとすごい音。赤や青の衣装がきらきら揺れ、
すでに12時。ここは私のいる場所ではないと悟って、身をよじって外に出ようとすると、後ろもぎゅうぎゅうで、出られない。あの太っちょの弾力ある紳士が、早くも私の去った後の空間を占めんとばかりに、右半身をねじりこませてくるのだ。後ろにさがるのは無理と悟って、身をよじらせくねらせ、なんとか木戸の外にでた。
 外は客待ちの車の他、誰もいない。大門の所には、十数人が上の看板の演目を見ている。
もう一方の連中は、立ったまま何も見ていない。彼らは劇のはねた後に出てくる女たちを待っているのだろう、と思った。それにしても叫天は、まだ出ない。
 夜気はじつに爽快で、まさしく「肺腑にしみわたる」心地よさ。北京に来て初めてこんなうまい空気を吸った。
 この夜が、中国劇に別れを告げる夜となった。その後、二度と行こうとも思わなかったし、劇場の前を通っても、お互い無関係で、一方は天の南に、もう一方は天の北にいた。
 数日前、何気なく日本の本を見ていた。書名と著者は忘れたが、要するに、中国の劇についてだった。大意は、中国の劇は、おおいに敲き、叫び、跳ね、観客の頭がクラクラしてしまうから、劇場には適さず、野外の開けたところで、遠くから観たら、特色もうまく出せるだろう、という。これぞまさしく、我が意中にありながら、言い表せなかったことを言ってくれた、と思った。
 確かに、私は野外でとても素晴らしい劇を観た覚えがある。北京に来て、2回劇場に行ったのも、多分その時の影響だろう。惜しいかな、どうしたわけか書名を忘れてしまった。
 
 素晴らしい劇を観たのは、実に「遥か遠い昔」のことで、多分私が十一、二歳のころ。魯鎮の習慣では、嫁に行った女は、本人が家政を任されるまでは、夏の間、たいていは実家に戻って過した。当時私の祖母はまだ元気だったが、母は既に何がしか、家政を分担していて、夏に長い間、帰省するのは無理だった。だが、(清明節の)墓参りが終わって、暇ができると、何日か戻った。このころ母に連れられて、実家に行った。そこは平橋村といい、海に近い片田舎の、河沿いの小さな村で、三十戸に満たなかった。みな農業か漁業で、雑貨屋が一軒だけあった。しかし私には楽園であった。ここで私はただ優遇されるだけでなく、「秩秩斯干幽幽南山」(詩経の句:訳者注)の暗唱から放免された。
 一緒に遊んだ友達も、遠来の客ということで、私と遊ぶ分、家の仕事を減らしてもらえた。小さな村では一軒の客は、全村の客で、我々は年も近かったので、もし、世代関係を言い出すと、伯父や曾祖父に当たるのもいた。全村同姓で、本家分家の関係だったから。
しかし、友達なのだから、たまに喧嘩して曾祖父を殴っても、「目上の人を殴った」などとは言いだす者はいなかった。99%は文字を読めなかったし。
 毎日、たいていミミズをとってきて、銅線の鈎につけ、岸に腹這ってエビガニを釣るのが楽しみだった。エビガニは水中世界のあんぽんたんで、餌とみるや、両手ですぐつかみ、口に持って行く。それであっというまに、大きな鉢が一杯。それを私に食べさせてくれるのだ。その次は牛の世話。だが牛は高等動物だから、黄牛も水牛も、私のような素人をあざむくし、侮って言うことを聞かないので、私は近寄らなかった。それで少し離れて立って見ているだけだったが、小さい子たちが、「秩秩斯干…」という文句を読める私を容赦せぬとばかり、みな大笑いとなった。
 一番の楽しみは、趙荘に劇を観に行くことだった。趙荘は平橋村から五里ほどのやや大きな村だった。平橋はちいさすぎて、自分では劇をやれなかったので、なにがしか払って共催にしてもらった。当時、私はどうして毎年劇をやらなければならないのか、その訳を考えてもみなかった。現在思うに、あれはきっと、春の祭礼で、祠へ奉納されたのだろう。
 十一二歳のころ、その日が待ち遠しかった。それなのに、残念ながら、朝、船を頼んだのに、もう私の乗れる船はなかった。平橋村には、朝出て、晩帰る大きな船は、一隻しかなかった。その他は小舟で、使えない。人をやって隣村に問い合わせたが、そこもダメだった。すでに他の人が押さえていた。祖母は気をもんで、家人がもっと早く頼んでおかないから怪しからんと、ぶつぶつ怒りだした。母はなんとか、なだめようと、魯鎮の劇は小さな村のより、ずっといいし、一年に何回もやっているから、今日はもういいですよ、と言った。ただ、私が急に泣き出したので、母は懸命になって、そんなダダこねちゃいけないよ。おばあちゃんに叱られるよ、と言い、他の子と一緒に行くのも、おばあちゃんが心配するから、と認めてくれなかった。
 すべて終りであった。午後になると、友達は出かけて行った。劇はもう始まっているだろうな。銅鑼や太鼓の音が私の耳に聞こえるようだった。そして、みんな舞台の下で、うまい豆乳を買って飲んでいることを知っていた。
 この日は、エビガニ釣りにも行かず、食欲も無かった。母も困ってしまったが、どうしようもなかった。夕食時になって、祖母もやっと察して、私がとてもつまらないと感じているに違いない。みんな怠慢だよ!となじり、客をもてなすのに、こんなことってないよ、と叱った。
 夕食後、劇を観てきた友達が集まってきて、とても楽しそうに劇のことをしゃべっていた。私はただ黙っているので、みんなはため息をつき、同情してくれた。そのとき突然、
頭のいい双喜が、良い案がある、と言った。大きい船なら、八叔の便船はもう戻っている筈さ。十数人の子供たちも、そうだそうだと言い、この便船で私と一緒に行けるじゃないか、と言いだした。私はうれしくなった。だが祖母は子供だけじゃ心配だ、という。母は大人を誰かつければいいけど、一日中働いて、夜もまた頼むのはねえ、とためらっていた。
 そうして結論が出ぬままぐずぐずしていると、双喜が事情を察して、「おいらが保証するよ!船もでかいし、迅ちゃんもムチャしないし、俺たちみな泳ぎもうまいし」と大きな声で、提案した。その通り!この子たちで泳げないのは一人もいない。その中の何人かは、大潮乗りの名手だ。(杭州湾の大潮)
 外祖母と母も信用して、反対せず、ほほ笑んだ。即刻 ワーッと一声、門を出た。
 私の沈んだ気持ちも一気に軽やかになり、体ものびやかに大きくなったように感じた。
外に出るやいなや、月光の下、平橋のたもとに停泊している白篷の便船に乗りこんだ。
双喜が舳先の棹を抜き、阿発が船尾のを抜いた。小さい子はみな私の周りの船倉に坐り、
年長者は船尾に集まった。母が送りに来て、「気をつけてね」と声をかけたときには、船はもう動きだしてい、橋石を一突き、数尺バックしてから、すぐ前進。橋を通過した。
そこで二丁の櫓をつけ、一丁に二人、一里ごとに交代。笑うもの、叫ぶ者、サラサラと
舳先にかき分けられる水の音、両岸の碧緑の豆と麦の畑の中を、船は飛ぶように趙荘めざして進んだ。
 両岸の豆と麦の、そして河底の水草が発するすがすがしい芳りが、水気とともに、私の頬に吹いてきた。この水気におぼろな光を浮かべた月。暗緑色の起伏する山なみは、鉄製の獣の背骨が、波打つかのように、一山、ひと山と船の後方に走り去って行く。しかしそれでも私には、船が遅いように感じられた。漕ぎ手は四回替わった。ようやく趙荘がかすかに臨めるところに来た。唱や音曲が聞こえるようだ。灯もみえる。あれが舞台かと、或いは漁火か、と思った。
 あの音は横笛だろう。コロコロコロと転がす如く、悠揚迫らず、私のこころを静かに落ち着かせてくれたが、また、茫然として、豆と麦と水草の芳り、そして夜気とが一体になったような気がした。
 その灯は、近づいてみると果たして漁火だった。さきほど目にしたのは、趙荘ではないということを、思い出した。あの舳先の前に見える松柏の森は、去年遊びに行った場所で、
壊れた馬の石像が地面に横たわっており、羊の石像が草むらにうずくまっていた。
 その森を過ぎると、船は曲り、河が交差する港に入った。そこから趙荘が目の前に現れた。
 一番目を引くのは、荘外の河畔の空地に屹立するように建てられた舞台だった。模糊とした月光の下でみる遠景は、天空と溶けあって、絵画で見たことのある仙境が現出したのではないかと思われた。
 このとき、船は急に速くすべりだし、舞台の上に役者が登場するのが見え、赤や青の衣装をまとったのが動き回った。舞台近くの河面は、観劇に来た黒篷の船でいっぱいだった。
 「近くは空いてないから、遠くから観ようぜ」と阿発。それで船足をゆるめて、近寄ろうとしたが、近づけそうもない。それでそこで棹をさすしかなかった。舞台の対面にある神社より遠く離れていた。
 実を言えば、我々の白篷の便船は、もともと黒篷の船と一緒に停泊するつもりはなかった。それに空いた場所もなかった。
 いそいで船を泊めると、舞台では黒くて長い髭の役者が、背に4本の旗を差し、長槍を手にしごき、肌脱ぎの連中をバッタバッタとなぎ倒すのが見えた。双喜はあれが有名な鉄頭の老生だよ。連続84回もとんぼを切るんだぜ、と昼に自ら数えたと言う。
 我々は船首に集まって、活劇を眺めた。が、鉄頭老生は、とんぼを切ってくれない。肌脱ぎの連中が、数回切っただけで退場してしまった。そして小旦が出てきてキンキンした高音でうたった。双喜は「夜は客が少ないから、鉄頭も手を抜いたんだ。得意技は客が大勢いないときには、見せたりしないんだ」と言った。その話はもっともだと思った。そのころには、舞台下の席にはたいして客がいなかった。田舎の人は明日の仕事のため、夜更かしはできない。もう寝に帰ってしまっていた。立って観ているのは、数十人の趙荘と隣村の閑人だけだった。黒篷の金持ちの家族はもとよりいたが、彼らは観劇というより、お菓子や果物、瓜の種をかじるのを専らとし、したがって誰もいないに等しかった。
 だが私の気持ちは、とんぼを切るのを観たいためではなかった。一番観たかったのは、白い更紗をかぶって、両手で頭上に棒のような蛇の頭をかざした、蛇の精だった。その次は、黄色のぬいぐるみをまとって、跳ねまわる虎だった。だが、いくら待っても出てこない。小旦は下がったが、次に出たのはひどい年寄りの小生。私は疲れてきて、桂生に豆乳を買ってきて、と頼んだ。戻ってきて、「もう無かったよ。豆乳売りの聾も帰っちゃった。昼はいたんだ。2碗も飲んだんだ。…  水くんできてやるよ」と言う。
 水は飲まずに我慢して観ていた。何を演じているのかも分からず、役者の顔もぼうっとしてきて、目鼻立ちもぼやけ、見わけもつかなくなってしまった。ちいさい子たちは欠伸しだし、年長の子たちもめいめいの話を始めた。そして、赤い衣装の小丑(ピエロ)が柱に縛られ、白ひげの男に鞭で打たれるのを観て、やっと元気を取り戻して笑った。その夜、これが一番面白かった。
 それからついに、老旦が出てきた。私は老旦がいちばん嫌いで、坐ってうたいだしたら、もうどうしようもなかった。皆も興味喪失したらしく、彼らと私の意見は一致した。老旦は初めのうちは、動きながらうたっていたが、とうとう坐ってしまった。私の心配があたった。双喜たちはすぐ罵りだした。私は辛抱強く待った。かなり経って、老旦が手をあげたので、立ち上がるだろうと期待した。が、またゆっくりとその手をおろして元に戻って、うたいつづけた。
 船中の数名は、ため息をつき、他の者も欠伸を始めた。双喜はもう我慢できない、あいつは明日の夜明けまでうたっても終わりそうにないから、帰ろうよという。皆賛成した。
出発したころと同じくらい元気になり、3,4人が船尾に行き、棹を抜いて数丈バックし、船を回転させ、櫓をつけ、老旦を罵りながら、松柏の森めざして前進した。
 月はまだ落ちていなくて、劇を観たのもそんなに長い時間ではなかったようだ。趙荘を離れると、月はまた格段に明るさを増し、皓々としてきた。はるか舞台の灯を眺めたら、着いたときと同様、渺茫として仙山楼閣のごとく、紅い霞にすっぽり蔽われていた。耳元に聞こえてくるのは、やはり横笛で、悠揚としていて、あの老旦はもう退場したのではと思った。が、もう一度戻ってみようとは言いだせなかった。
 そのうち、松柏の森も船の後ろになり、船足も速くなったが、周りは真っ暗で、夜もだいぶ更けてしまった。皆は役者をつかまえては、罵ったり笑ったりしつつ、せっせと漕いだ。舳先に当たる水音も大きくなった。船は一匹の白い大きな魚が、子供たちを背に、波の花の上を跳ねるがごとく進み、夜通し漁をする漁父たちも、漕ぐ手を休めて喝采した。
 平橋村まで1里ほどのところに来て、船足は遅くなった。漕ぎ手は疲れたと言い、力を出しすぎたし、長いこと何も食べていなかった。桂生が良い考えがあると言いだした。ソラマメは丁度食べごろだ。柴もあるし、ちょっくら失敬して食べようぜ、と言った。賛成。
すぐ近くの岸辺の畑は、黒々と光る、熟したソラマメだ。
「あ。阿発、この辺のはお前ん家のだ、あっちは老六のだ。どっちを取る?」双喜が先に跳び下りて岸から聞いた。
 我々もみな跳び下りた。阿発は跳び下りざま、言った。「ちょっと待って、おいらが見てみる」彼は両方を一わたり見て、身を起して、「おいらん家のにしよう。こっちのが大きい」
その一声で、みなが阿発の畑にちらばり、各自一抱え摘んで、船倉に投げ入れた。双喜はこれ以上取ると、阿発のおっかさんにばれると、泣いて罵られるから、次は六一爺さんの豆を各自一抱え取った。
 年長の何人かはゆっくり漕ぎ、残りは船の後ろで火を起し、年少組と私は豆の皮をむいた。まもなく豆が煮え、車座になりにぎやかに食べた。食べ終わると、船を出し、器具を洗い、さやと豆柄は、河に捨てた。何の痕跡も残さぬよう注意した。ただ双喜が心配したのは、八叔の船の塩と柴を使ったので、爺さんは細かいことにもうるさいから、ばれたら、
怒るだろうな、ということだった。みんなで議論の結果、心配しなくて大丈夫、もし彼が怒ってきたら、我々は、去年彼が岸辺で拾った枯れた柏の木を返せ、と反論すりゃいい。
面と向かって、「かささき」って言ってやれば、引っ込むから、まず問題ないとなった。
 
 「みんな、無事帰ってきたよ。保証通り! 問題なしさ」双喜は船首で大声で叫んだ。船首の先を見ると、もう平橋だった。橋の上に立っていたのは私の母で、双喜は彼女に叫んでいたのだ。私は前に行き、船も平橋を過ぎて、止まり、皆上陸した。母はとても怒って、もう三更も過ぎてるのに、なんでこんなに遅くなったの、と言いながら、うれしそうに、
皆に、家に炒り米を食べにおいで、と言った。
 みんなお腹は一杯だったし、眠いから早く寝たいとそれぞれ家に帰った。
 翌日、昼ごろ起きたが、八叔の塩と柴の件で悶着が起こったとは何も聞かなかった。午後は相変わらずエビガニ釣りに出かけた。
 「双喜! このがきゃあ、昨日俺の豆を偸んだな。きれいに摘まないで、しかも畑を踏み荒らしやがって」見ると、六一爺さんが、舟を回して近づいてきた。豆を売っての帰りで、舟腹にはまだ豆が、一山残っていた。
 「そうだよ。お客を招いたんだ。俺たちゃ、最初おじさんとこのは止めよう、っていったんだ。ほら釣ったエビガニが逃げちゃったじゃない」と双喜は言った。
 六一爺さんは私を見て、櫂を止め、笑って「お客さんを? そりゃそうだな」と言い、
私に向かって「迅さん、昨日の劇は面白かったかい」と訊ねた。
 私はうなずいて、「面白かった」と応えた。
 「豆はどうだったかい?」
 私はうなずいて「とってもうまかったよ」と言った。
 そしたら、六一爺さんは非常に感激して、親指をにゅっと突き出して、得意げに言った。
 「大きな町で学問なさってる人は物の良し悪しがよくおわかりじゃ。わしとこの豆は、種をひとつひとつ、えりすぐってるから、田舎もんはそれも分からんと、人のに、劣るとぬかしよって。今日は奥様にお持ちして、召し上がって頂くことにするよ」と櫂をこぎながら、去って行った。
 母が夕食だよと呼びに来て、戻ってみると、卓上の大きな鉢にソラマメのゆでたのが、山もりだった。六一爺さんからのだった。彼は母に私のことを、とても褒めて「お若いのに、立派な見識をお持ちで、将来は必ず状元さまじゃ、奥さま、あなたの福はもう保証付きじゃ」と言って帰ったという。私はソラマメを食べたが、昨夜のようにうまくは感じなかった。
 本当に 今に至るまで、あの夜のようにうまい豆を食ったことはない一一 また、あの夜のように面白い劇を観たこともない。
   1922年10月
 

拍手[1回]

頭髪について 

 日曜の朝、昨日の日めくりをめくり、新しい頁を見た。
「おお、十月十日。 今日は双十節か。だが、日めくりには何も書いてない!」
 N先輩が訪ねてきて、私の声を聞いて不機嫌そうに言った。
「彼らは正しいのさ、もう覚えてもいない。どうすることもできない。君が覚えていても、それでなにになるのか」
 Nさんは元もと、偏屈で、時に突然怒りだし、世故に通じぬことを言う。その時は、彼の言うままにして、何も口をはさまなかった。彼はひとりでしゃべって終わった。
 彼は言った。
 「北京の双十節が一番だよ。朝、警官が戸毎に‘国旗掲揚’と告げ、‘はい’と各戸は大半は面倒がりながらも、国民は出て来て、まだら模様の派手なキャラコの国旗を掲揚した。夜になって降ろされて戸を閉める。数軒はたまたま忘れられ、翌朝も上がったままなのがある。
 「彼らは記念を忘れ、記念も彼らを忘れた!」
「私も忘れたうちの一人、たとえ記念したとしても、初めての双十節の前後のことを思い出すと、いてもたってもいられなくなるよ」
「何人もの故人の顔が目に浮かぶ。何人もの青年たちが、十数年も辛酸をなめ、奔走したが、闇からの一発の銃声で命を落とした。打たれたが命中せず、1か月以上も牢に入れられ、高い理想を抱いていた青年たちは、忽然、影も形も消され、屍首もどこに捨てられたかも不明のまま。彼らは社会からの冷笑と悪罵の中で一生を台無しにされ、今や彼らの墓すらも忘れ去られ、やがて、平らな土になってしまうのだ」
 「もはや、そのことを記念するに堪えない」
 「もっと、愉快な話をしようよ」
Nは忽然笑い出して、頭に手をやって、大きな声で話し始めた。
「一番愉快なのは、最初の双十節以降、道を歩いていても、誰も罵らなくなった」
「頭の毛というのは、我々中国人の宝であり、冤罪の種でもあるんだ。古今、このためにどれほどの人間が、何の意味もなく苦しめられてきたことか!
 大昔の人は、軽く見ていた。法によると、一番大事なものは、もちろん首で、大辟(斬首)は極刑、次は生殖器。宮刑と幽門は恐ろしい刑。髪の毛なんざ、微々たるものさ。しかしだよ、考えてみるに、これまでどれほどの人間が、髪の毛が無いがために、一生を台無しにされてきたことか」
 「我々が革命を起そうとした時、‘揚州十日’や‘嘉定屠城’(明末に満州族の侵入に対する抵抗などの記述:訳者注)などを引っ張り出して来て、大いに議論したものだが、その実、一種の手段にすぎなかったのさ。正直、当時の中国人の反抗は亡国を憂えてではなく、辮髪を強要されたことへの抵抗に過ぎなかったのさ。
頑固な民は皆殺しにされたが、遺老はすべて寿を全うした。辮髪もとうに安定したんだが、
太平天国の騒ぎが起こった。祖母の話じゃ、あのころ一般大衆はとても大変な目にあった。
髪を伸ばせば、お上に殺され、辮髪のままだと長毛賊に殺された。「どれほどの中国人が、痛くも痒くもない髪の毛に苦しんだことか。罪を着せられ、殺された」
 Nは天井を見上げて、なにやら考えていたが、続けて言った。
「何とその髪の毛の苦しみが、私にも降りかかってきた」
「留学して、辮髪を切った。これは何の不思議もない。とても不便だったからにすぎない。ところが、辮髪を頭上にくるくる巻きあげた同級生たちが、私を憎み、嫌悪した。
(留学生の)監督も大変怒って、官費は停止され、即帰国させる、と言いだした。
 数日後、この監督も辮髪を切られ、逃亡してしまった。切った人のなかには、‘革命軍’
を書いた鄒容がいたが、彼ももう留学を続けられなくなって、上海に戻ったが、暫くして、西牢で死んだ。もうみんな忘れちゃっただろう。
 私も、数年後、実家の景気も以前ほどじゃなくなって、何かしないと飢えてしまうので、帰国した。上海の市場で一本二元の辮髪を買って、帰宅した。母は何も言わなかったが、周りの連中は一目見るなり、この辮髪をためつすがめつして、ニセだと分かると、冷笑し、首を切られるぞと脅し、一族の誰かは、お上に訴えそうにすらなった。だが革命党の造反がひょっとして成功するような雲行きとみて、結局取りやめたが」
「ニセモノは本物より、どうもさっぱりしないので、むしろこの際、それも取って、洋服を着て、町に出るようにした。歩き出すと嘲笑する奴、後からついてきて、‘この軽薄者め! エセ毛頭!’と罵るものが絶えなかった。
それで、洋服はやめて、(中国伝統の衣服)大衫にしたら、奴らはよけいひどくなった」
「この日暮れて、道なお遠し、という時、ステッキを持ち、何回も殴ったら、奴らはもう
罵らなくなった。だけど、まだ殴ったことのない場所へ行くと、やはり罵るやつがいた。
 このことで私は、とても悲しくなった。今も覚えているが、留学当時、日本の新聞を読んでいたのだが、南洋と中国を遊歴した本多博士の記事があった。この博士は中国語もマレー語もひと言もできない。で、言葉を知らなくてなにか不便は感じなかったですかと聞かれて、彼はステッキを持ち上げて、これが彼らへの言葉さ。みなこれの言うことを聞くんだ。私は、これを読んで、何日間もムカムカしていたことを思い出すのだが、まさかこの私が、知らず知らずのうちにそうなっていたんだ。しかも彼らとは、言葉が通じるというのに!……。
「宣統初年、私は故郷の中学の校長になったが、同僚たちは私をさけ、近寄らなかった。官僚たちは、自己防衛のため、気を許して私を受け入れると、大変な目にあうことを恐れた。それで私は終日、氷室の中にいるようで、また刑場のそばに立っているような気持ちになったのだが、それもこれも、一本の辮髪が無いためだった!
「ある日、数人の学生が私の部屋に入ってきて、‘先生、私たちも辮髪を切りたい’と言った。
「私は‘やめなさい’‘辮髪は有る方がいいか、無い方がいいか?’‘無い方がいい’‘あなたはなぜやめなさい、というのか’‘お上に逆らってもろくなことはない。切らない方がいい。ちょっと待て’
彼らは何も言わなくなって、口をとがらせて出て行った。だが、ついに切ってしまった。
「あ、こりゃ大変なことになった。周囲の人はみな私を叱責した。私は知らないふりをした。坊主頭の彼らと、
辮髪の学生たちが一つの教室で勉強した。
「その後、この辮髪切りが伝染し、三日目には師範学校の学生も6本の辮髪を切り落とした。即刻6人は退学となった。学校にも戻れず、家にも帰れない。最初の双十節から1カ月以上経って、やっと犯罪者の烙印を消すことができた。
 「私はって? 一緒さ。民国元年に北京に来てからも、何回も罵られたが、私を罵った連中も、
警察に辮髪を切られるようになり、それでやっと、罵られたり辱めを受けることは無くなった。しかし、田舎には行かなかった。
 Nは楽しそうに話していたが、ふと顔をくもらせて、言った。
「今、君たち理想家は、また何を好んで、女性も髪の毛を切れとか言い始めたんだい。何のメリットの無いことを言って、彼女らを苦しめるのだ。
「もうすでに、髪を切った女性が入学試験で落とされたり、退学させられたりしてるじゃないか」
「改革しようたって、武器はどこにあるのさ。半工半読というけど、工場はどこにあるのだい」
「やはり髪は残して、嫁に行き家事をし、すべて忘れた方が、幸せじゃないか。彼女らが、自由平等を知っても、一生苦しい目にあうだけじゃないか!」
「アルツイバージェフの言葉を借りて、君たちに聞きたい。君たちは黄金時代の出現をこうした人々の子孫に約束しているが、これらの人たちに何を与えられるというのか?」
「ああ。天地創造者のムチは、中国の背骨まで、まだ届いていない。中国は永遠に、こんなふうな中国のままだ。自分で一本の毛髪さえも、改めようとしないんだ!」
「君らは、口の中には、一本の毒牙すらないのに、額に“毒蛇”だぞという大きな字を貼って、乞食どもを引きずり込んで、殺そうとせにゃならんのだ。……」
 Nは話しだすと、いよいよ奇怪な方向に脱線したが、私の聞きたくないようなそぶりを感じ、口を閉じ、立ち上がって帽子を取った。
「帰るの?」と声をかけた。
「ああ、雨になりそうだから」と彼は言った。黙って戸口まで送った。
 帽子をかぶって彼は言った。
「さよなら。お邪魔したね。幸い明日はもう双十節じゃないから、我々はすべてを忘れることができるさ」
   1920年10月
 
 

拍手[0回]

藤野先生

東京もまあこんなもんだろうと思った。上野の花は今まさに春爛漫、薄紅の春霞は、確かに聞いていた通りであったが、花の下には‘清国留学生’速成班が、頭のテッペンに大きな辮髪を巻きあげ、学生帽をトンがらして、あたかも富士山のようであった。辮髪をバラした者もいて、平たく頭に巻きつけ、帽子を脱ぐと、油でテカテカし、姑娘(クーニャン)の髷のようで、これで首でもくねらせれば、じつに美形であった。
 中国留学生会館のロビーには買いたくなるような本が何冊かあり、時には出かけてみる価値があった。午前中は、洋間に坐って静かに過ごせたが、夕方になると、ある部屋の床がいつもドスンドスンとやかましかった。もうもうとしたほこりが部屋に充満した。
事情に詳しい人に訊くと、「ダンスの稽古さ」とのこと。
 よそに行ってみてはどうだろう。
 それで仙台の医学校に行くことにした。東京を離れて暫くすると、日暮里という駅に着いた。なぜか今もこの名を覚えている。次は水戸しか覚えていない。ここは明の遺民、朱舜水先生が客死された所。仙台は市だが、さして大きな都会ではなく、冬は大変寒い。中国留学生は一人もいなかった。
 物は希なるを以て貴とする。北京の白菜は浙江に運ばれ、紅い紐で根元を束ねられ、八百屋で逆さに吊るされ「膠菜(膠は山東省)」と尊称される。福建で野生している蘆薈(ロカイ)は北京に来ると温室に入れられ「龍舌蘭」という美名を与えられる。私が仙台に来ると、これに似た大変な優待を受け、学費免除だけでなく、数名の職員が宿舎や食事の心配までしてくれた。最初監獄のそばの下宿に入った。初冬でも相当寒く感じられ、それに蚊もまだ多かったので、布団を全身に被り、服を顔に乗せ、鼻のところだけあけて息をした。息の出るところはさすがの蚊も刺すことあたわず、やっと安眠できた。食事も悪くなかったが、ある先生がこの宿は囚人の食事をまかなっているから、よくない、として何回も繰り返し引っ越すように促した。宿が囚人の賄いをしていることと、私とは何の関係も無いと思ったが、好意は辞しがたく、別なところを探さねばならなかった。それで引っ越したのだが、監獄からはだいぶ離れていたが、毎日とても喉を通らない芋の茎の汁を飲まされるはめになった。
 この後、新しい先生にたくさん教わった。新鮮な講義をあまた聞いた。解剖学は二人の教授の分担。初めは骨学。教室に色黒い痩せた先生が入ってきた。八字ヒゲで、眼鏡をかけ、大小何冊もの本を抱え、それを教机に置いて、ゆっくりと抑揚をつけて自己紹介した。
「私は、藤野 厳九郎 といいます…」
後部席から笑いが聞こえた。続けて、日本に於ける解剖学の発達の歴史を語り始めた。大小何冊もの本は、初めのころから今日に至る関係書物であった。何冊かは糸綴本で、中国の訳本の翻刻もあり、新医学に対する彼らの翻訳と研究は決して中国より早いというわけではなかった。
後ろで笑ったのは、前年の不合格者で、一年の経験があり、彼をよく知っていたのだ。彼らは新入生に各教授の来歴を教えてくれた。この藤野先生は、着るものに無頓着で、時にはネクタイを忘れ、冬は一着の外套のみで、寒さに震えている。ある時、汽車に乗っていたら、車掌にスリと疑われ、乗客に用心するようアナウンスされたそうだ。彼らの話しの大抵は事実で、私もネクタイ無しで教壇に上がった彼を見たことがある。
 一週間たち、多分土曜だったか、助手に私を呼びに来させた。研究室に入ると、整体人骨と沢山の頭蓋骨の中に坐っている彼を見た。―――彼はその時、頭蓋骨を研究していて、後に本校の雑誌に論文を発表した。
「講義は聞きとれますか?」と訊ねられ、
「はい、何とか少しは」と答えた。
「見せてごらん」
 ノートを差し出すと、彼は受け取って二三日後に返してくれ、今後は毎週見せるように、と。持ち帰って開いてみて、びっくりすると同時に、ある種の不安と感激を覚えた。ノートは初めから終わりまで、赤ペンで添削されていた。抜けた点も補充されていたばかりでなく、文法上の誤りも一つ一つ訂正されていた。こうしたことが、彼の授業が終わるまで続いた。骨学、血管学、神経学。
 残念ながら、当時の私は余り熱心な学生ではなく、時としていい加減であった。ある時、先生が私を研究室に呼んで、ノートの図を開いた。それは腕の血管だったが、それを指して穏やかな口調で指摘した。
「ほら、君はこの血管を少しずらしているでしょ。こうすると見栄えが良いのは確かだけど、解剖図は美術じゃないから、実物はそうなっているのだから、それを勝手に換えてはいけない。直しておいたから、今後は黒板の通りに描くようにね」と。
 しかし私は納得はせず、口ではハイと応えたが、心の中では「図は私の方がいい線行っているし、実際の状況はしっかりと記憶している」と考えていた。
 学年試験の終了後は東京に出てひと夏過した。秋の初めに学校に戻ると、成績が発表された。百人中、私は中くらいで落第しなかった。今度の藤野先生の担当は解剖実習と局部解剖学だった。
 解剖実習を一週ほど学んだ後、彼はまた私を呼び、大変うれしそうに抑揚のある声で私に言った。
「中国人はとても鬼(死人、幽霊)をこわがると聞いていたので、とても心配だったが、君は死体解剖を嫌がりはしないようで、安心した」
 但、彼は時折、私を困らせるようなことも言った。中国の女性は纏足するそうだが、詳しいことは知らない。それでどのように足を巻くのか、足の骨はどんな畸形になるのだろう。と嘆息して、「やはり見てみないと分からないね。一体全体どんな具合か」
 ある日、クラス会の幹事が下宿に来て、ノートを貸してほしいという。取り出してきて見せたら、ぺらぺらめくっただけで持っては行かなかった。だが、彼らが去って後、郵便配達がたいへん部厚い封書を届けに来た。開いてみると、
「汝、悔い改めよ!」
 これは「新約」の句ではないか。トルストイが最近引用したものだった。その当時はまさしく、日露戦争の真っ最中、ト翁はロシアと日本の皇帝に手紙を書いたが、その書き出しをこの句で始めた。日本の新聞は彼の不遜を大いに譴責した。愛国青年は憤慨した。だが見えない形で彼の影響を受けたようである。続けて、去年の解剖学の試験問題で、藤野先生はノートに記号を付け、私はあらかじめそれを知っていたので、こんな成績を取れたのだ、云々。文末は匿名だった。
 私はこの時、数日前のことを思い出した。クラス会開催の知らせを、幹事が黒板に書いた。末尾に「全員参加のこと!くれぐれも漏れのないよう」その「漏」の字の横に丸印を付けた。そのときは、どうして丸印を付けたのか、おかしかったが不思議にも思わなかった。しかし今になって、あの字も私を風刺しているのだと悟った。私が教員から問題漏えいを受けていた、といわんばかりに。
 私は藤野先生にこの事を話した。私と親しい同級生もとても怒って、言を弄してノートを検査した幹事の非礼を難詰に行こうと言い、彼らの検査結果を公表するよう要求した。それでしまいにはこの流言は消えてなくなり、幹事は懸命に、あの匿名の手紙を取り戻そうとした。トルストイ式の手紙は彼らに返した。
 中国は弱国で、したがって当然のことながら中国人は低能児であり、60点以上とれたのは自分の能力ではない。彼らが疑うのも無理は無かった。
 但、私はそれに続いて、中国人の銃殺を見るという運命に出会った。二年目は細菌学が加わった。細菌の形状はすべてスライドで示された。授業が一段落して、まだ放課までに時間があると、時事関係のものを映した。もちろん全て日本がロシアに勝っている場面であった。どうしたわけか、中国人が出て来、ロシア人のためにスパイをした罪で、日本軍に捕まり、銃殺されるシーンが映された。まわりで見物しているのも中国人。教室の中にもう一人 私。
「万歳!」彼らは手をたたいて歓呼した。この歓呼は各シーン毎に起こった。歓呼の声が私の耳をいたく鋭く刺した。
 その後、中国に戻り、犯罪者を銃殺するのをのんきに見物している人々を見ると、彼らはどうして、酔い痴れるがごとくに喝采するのか、嗚呼―――考えられない! しかしあの時、彼の地で、私の考えはすっかり変わったのだ。
 二年目の終わるころ、藤野先生を訪ねて、私は医学をやめて、仙台も去ると告げた。彼は、悲哀をうかべたような顔で、何か言おうとして、何も言わなかった。
「私は生物学を勉強したいと思います。先生が私に教えて下さった学問はきっと役に立つ、と」実は生物学を勉強しようなどとは決めていなかったのだが、彼の表情が凄然としているのを見て、慰めるための嘘をついたのだ。
「医学の為に教えた解剖学の類は、生物学ではなんら役に立たないだろう」と嘆息された。
 去る数日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚呉れ、裏に「惜別」の二字を書き、私の写真を所望されたが、この当時たまたま写真が無かったので、撮ったら送るように言われた。また、時折は近況を知らせて呉れ、とも。
 仙台を去って後、長い間写真を撮らなかった。状況も無聊をかこち、そんなことを書いたら、彼を失望させるに違いないと思い、手紙を出すのをためらった。時が経てばたつほど、何から書きだしたらよいかも分からなくなり、手紙を書こうとは何回も思いながら、どうしても筆を取れなかった。今に至るまで一通の手紙も写真すらも送っていない。彼からすれば、去りしのち、杳として消息無し、ということになるだろう。
 しかし何故かわからぬが、私は時として彼を思い出し、私が師と仰ぐ人のなかで、彼は私を最も感激させ、一番熱心に激励してくれる師の一人である。しばしば思うのだが、彼の私に対する熱い希望、倦まざる教えは、小にしては、中国の為、中国に新しい医学が起こるため、大にしては、学術の為、新しい医学が中国に伝わることを望んでいた。
 多くの人は彼の名を知らないだろうが、私の目の中と心の中ではたいへん偉大である。
彼の添削してくれたノートは三冊の厚い本に装丁し、永遠の記念にとっておいたが、七年前の引越しのとき、輸送中に一個の箱が壊れてしまった。その箱の中に運悪くこのノートが入っていた。運送局にクレームし、探させたが何の返答も無かった。
 彼の写真は今も私の北京の寓居の東の壁に架けてあり、書机に対している。夜、疲れて、怠けようとするとき、灯の下で、彼の黒くて痩せた顔を仰ぎ見ると、抑揚をつけながら、とつとつと話を始めるようで、私は忽然、また良心を取り戻し、勇気倍増して、煙草に火をつけ、「正人君子」の輩が憎悪し、いやがる文字を書き続けるのである。
  十月十二日                      2010.6.8訳
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
東京もまあこんなもんだろうと思った。上野の花は今まさに春爛漫、薄紅の春霞は、確かに聞いていた通りであったが、花の下には‘清国留学生’速成班が、頭のテッペンに大きな辮髪を巻きあげ、学生帽をトンがらして、あたかも富士山のようであった。辮髪をバラした者もいて、平たく頭に巻きつけ、帽子を脱ぐと、油でテカテカし、姑娘(クーニャン)の髷のようで、これで首でもくねらせれば、じつに美形であった。
 中国留学生会館のロビーには買いたくなるような本が何冊かあり、時には出かけてみる価値があった。午前中は、洋間に坐って静かに過ごせたが、夕方になると、ある部屋の床がいつもドスンドスンとやかましかった。もうもうとしたほこりが部屋に充満した。
事情に詳しい人に訊くと、「ダンスの稽古さ」とのこと。
 よそに行ってみてはどうだろう。
 それで仙台の医学校に行くことにした。東京を離れて暫くすると、日暮里という駅に着いた。なぜか今もこの名を覚えている。次は水戸しか覚えていない。ここは明の遺民、朱舜水先生が客死された所。仙台は市だが、さして大きな都会ではなく、冬は大変寒い。中国留学生は一人もいなかった。
 物は希なるを以て貴とする。北京の白菜は浙江に運ばれ、紅い紐で根元を束ねられ、八百屋で逆さに吊るされ「膠菜(膠は山東省)」と尊称される。福建で野生している蘆薈(ロカイ)は北京に来ると温室に入れられ「龍舌蘭」という美名を与えられる。私が仙台に来ると、これに似た大変な優待を受け、学費免除だけでなく、数名の職員が宿舎や食事の心配までしてくれた。最初監獄のそばの下宿に入った。初冬でも相当寒く感じられ、それに蚊もまだ多かったので、布団を全身に被り、服を顔に乗せ、鼻のところだけあけて息をした。息の出るところはさすがの蚊も刺すことあたわず、やっと安眠できた。食事も悪くなかったが、ある先生がこの宿は囚人の食事をまかなっているから、よくない、として何回も繰り返し引っ越すように促した。宿が囚人の賄いをしていることと、私とは何の関係も無いと思ったが、好意は辞しがたく、別なところを探さねばならなかった。それで引っ越したのだが、監獄からはだいぶ離れていたが、毎日とても喉を通らない芋の茎の汁を飲まされるはめになった。
 この後、新しい先生にたくさん教わった。新鮮な講義をあまた聞いた。解剖学は二人の教授の分担。初めは骨学。教室に色黒い痩せた先生が入ってきた。八字ヒゲで、眼鏡をかけ、大小何冊もの本を抱え、それを教机に置いて、ゆっくりと抑揚をつけて自己紹介した。
「私は、藤野 厳九郎 といいます…」
後部席から笑いが聞こえた。続けて、日本に於ける解剖学の発達の歴史を語り始めた。大小何冊もの本は、初めのころから今日に至る関係書物であった。何冊かは糸綴本で、中国の訳本の翻刻もあり、新医学に対する彼らの翻訳と研究は決して中国より早いというわけではなかった。
後ろで笑ったのは、前年の不合格者で、一年の経験があり、彼をよく知っていたのだ。彼らは新入生に各教授の来歴を教えてくれた。この藤野先生は、着るものに無頓着で、時にはネクタイを忘れ、冬は一着の外套のみで、寒さに震えている。ある時、汽車に乗っていたら、車掌にスリと疑われ、乗客に用心するようアナウンスされたそうだ。彼らの話しの大抵は事実で、私もネクタイ無しで教壇に上がった彼を見たことがある。
 一週間たち、多分土曜だったか、助手に私を呼びに来させた。研究室に入ると、整体人骨と沢山の頭蓋骨の中に坐っている彼を見た。―――彼はその時、頭蓋骨を研究していて、後に本校の雑誌に論文を発表した。
「講義は聞きとれますか?」と訊ねられ、
「はい、何とか少しは」と答えた。
「見せてごらん」
 ノートを差し出すと、彼は受け取って二三日後に返してくれ、今後は毎週見せるように、と。持ち帰って開いてみて、びっくりすると同時に、ある種の不安と感激を覚えた。ノートは初めから終わりまで、赤ペンで添削されていた。抜けた点も補充されていたばかりでなく、文法上の誤りも一つ一つ訂正されていた。こうしたことが、彼の授業が終わるまで続いた。骨学、血管学、神経学。
 残念ながら、当時の私は余り熱心な学生ではなく、時としていい加減であった。ある時、先生が私を研究室に呼んで、ノートの図を開いた。それは腕の血管だったが、それを指して穏やかな口調で指摘した。
「ほら、君はこの血管を少しずらしているでしょ。こうすると見栄えが良いのは確かだけど、解剖図は美術じゃないから、実物はそうなっているのだから、それを勝手に換えてはいけない。直しておいたから、今後は黒板の通りに描くようにね」と。
 しかし私は納得はせず、口ではハイと応えたが、心の中では「図は私の方がいい線行っているし、実際の状況はしっかりと記憶している」と考えていた。
 学年試験の終了後は東京に出てひと夏過した。秋の初めに学校に戻ると、成績が発表された。百人中、私は中くらいで落第しなかった。今度の藤野先生の担当は解剖実習と局部解剖学だった。
 解剖実習を一週ほど学んだ後、彼はまた私を呼び、大変うれしそうに抑揚のある声で私に言った。
「中国人はとても鬼(死人、幽霊)をこわがると聞いていたので、とても心配だったが、君は死体解剖を嫌がりはしないようで、安心した」
 但、彼は時折、私を困らせるようなことも言った。中国の女性は纏足するそうだが、詳しいことは知らない。それでどのように足を巻くのか、足の骨はどんな畸形になるのだろう。と嘆息して、「やはり見てみないと分からないね。一体全体どんな具合か」
 ある日、クラス会の幹事が下宿に来て、ノートを貸してほしいという。取り出してきて見せたら、ぺらぺらめくっただけで持っては行かなかった。だが、彼らが去って後、郵便配達がたいへん部厚い封書を届けに来た。開いてみると、
「汝、悔い改めよ!」
 これは「新約」の句ではないか。トルストイが最近引用したものだった。その当時はまさしく、日露戦争の真っ最中、ト翁はロシアと日本の皇帝に手紙を書いたが、その書き出しをこの句で始めた。日本の新聞は彼の不遜を大いに譴責した。愛国青年は憤慨した。だが見えない形で彼の影響を受けたようである。続けて、去年の解剖学の試験問題で、藤野先生はノートに記号を付け、私はあらかじめそれを知っていたので、こんな成績を取れたのだ、云々。文末は匿名だった。
 私はこの時、数日前のことを思い出した。クラス会開催の知らせを、幹事が黒板に書いた。末尾に「全員参加のこと!くれぐれも漏れのないよう」その「漏」の字の横に丸印を付けた。そのときは、どうして丸印を付けたのか、おかしかったが不思議にも思わなかった。しかし今になって、あの字も私を風刺しているのだと悟った。私が教員から問題漏えいを受けていた、といわんばかりに。
 私は藤野先生にこの事を話した。私と親しい同級生もとても怒って、言を弄してノートを検査した幹事の非礼を難詰に行こうと言い、彼らの検査結果を公表するよう要求した。それでしまいにはこの流言は消えてなくなり、幹事は懸命に、あの匿名の手紙を取り戻そうとした。トルストイ式の手紙は彼らに返した。
 中国は弱国で、したがって当然のことながら中国人は低能児であり、60点以上とれたのは自分の能力ではない。彼らが疑うのも無理は無かった。
 但、私はそれに続いて、中国人の銃殺を見るという運命に出会った。二年目は細菌学が加わった。細菌の形状はすべてスライドで示された。授業が一段落して、まだ放課までに時間があると、時事関係のものを映した。もちろん全て日本がロシアに勝っている場面であった。どうしたわけか、中国人が出て来、ロシア人のためにスパイをした罪で、日本軍に捕まり、銃殺されるシーンが映された。まわりで見物しているのも中国人。教室の中にもう一人 私。
「万歳!」彼らは手をたたいて歓呼した。この歓呼は各シーン毎に起こった。歓呼の声が私の耳をいたく鋭く刺した。
 その後、中国に戻り、犯罪者を銃殺するのをのんきに見物している人々を見ると、彼らはどうして、酔い痴れるがごとくに喝采するのか、嗚呼―――考えられない! しかしあの時、彼の地で、私の考えはすっかり変わったのだ。
 二年目の終わるころ、藤野先生を訪ねて、私は医学をやめて、仙台も去ると告げた。彼は、悲哀をうかべたような顔で、何か言おうとして、何も言わなかった。
「私は生物学を勉強したいと思います。先生が私に教えて下さった学問はきっと役に立つ、と」実は生物学を勉強しようなどとは決めていなかったのだが、彼の表情が凄然としているのを見て、慰めるための嘘をついたのだ。
「医学の為に教えた解剖学の類は、生物学ではなんら役に立たないだろう」と嘆息された。
 去る数日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚呉れ、裏に「惜別」の二字を書き、私の写真を所望されたが、この当時たまたま写真が無かったので、撮ったら送るように言われた。また、時折は近況を知らせて呉れ、とも。
 仙台を去って後、長い間写真を撮らなかった。状況も無聊をかこち、そんなことを書いたら、彼を失望させるに違いないと思い、手紙を出すのをためらった。時が経てばたつほど、何から書きだしたらよいかも分からなくなり、手紙を書こうとは何回も思いながら、どうしても筆を取れなかった。今に至るまで一通の手紙も写真すらも送っていない。彼からすれば、去りしのち、杳として消息無し、ということになるだろう。
 しかし何故かわからぬが、私は時として彼を思い出し、私が師と仰ぐ人のなかで、彼は私を最も感激させ、一番熱心に激励してくれる師の一人である。しばしば思うのだが、彼の私に対する熱い希望、倦まざる教えは、小にしては、中国の為、中国に新しい医学が起こるため、大にしては、学術の為、新しい医学が中国に伝わることを望んでいた。
 多くの人は彼の名を知らないだろうが、私の目の中と心の中ではたいへん偉大である。
彼の添削してくれたノートは三冊の厚い本に装丁し、永遠の記念にとっておいたが、七年前の引越しのとき、輸送中に一個の箱が壊れてしまった。その箱の中に運悪くこのノートが入っていた。運送局にクレームし、探させたが何の返答も無かった。
 彼の写真は今も私の北京の寓居の東の壁に架けてあり、書机に対している。夜、疲れて、怠けようとするとき、灯の下で、彼の黒くて痩せた顔を仰ぎ見ると、抑揚をつけながら、とつとつと話を始めるようで、私は忽然、また良心を取り戻し、勇気倍増して、煙草に火をつけ、「正人君子」の輩が憎悪し、いやがる文字を書き続けるのである。
  十月十二日                      2010.6.8訳
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

拍手[4回]

朝花夕拾 小引(はしがき

乱世に生きていると、せめて暫しの閑静を得たいと思うが、それも容易ではない。現実の世はかくも乱れ切っており、心も落ち着きを保てない。人は生きて来て、残るのはただ追憶のみというなら、その生涯は無聊という他ない。だが私は時に、その追憶すらもなくなってしまうのだ。中国で文章を書くには軌範がある。世の中は相も変わらず、同じようにグルグル回っている。数日前、中山大学を辞める時、わずか4か月前にアモイ大学を辞めたことを思い出した:そして今また飛行機の音が頭上に聞こえるので、1年前に北京の上空を、(奉天軍の)飛行機が毎日(爆撃のために)旋回していたことを思い出した。あの時は何とか「一覚」(まどろみ)という短文を書いた。今はもうその‘まどろみ’さえ無くなった。
 広州はじつに早くから暑くなり、夕日は西の窓から射し込み、シャツ一枚でもやりきれない。机の上の水栽培の梔子は、こちらにきて初めて見るのだが、一本の枝を水につけておくだけで、枝から濃い緑の可愛いのが出てくる。その葉をながめ、古い原稿を整理していると、何かやっているような気になる。こんなことでは、生きていても張り合いは無いが、炎熱をしのぐ助けにはなる。
一昨日「野草」を仕上げた。今日は「莾原」に連載した「旧事重提」の番で、「朝花夕拾」と改題した。朝露に濡れた花を手折れば、色香もすばらしいが、私はそれができない。心の目で見た不思議なことや、脈絡のないものを、すぐ幻にすることはできない。乱雑な文章と、とりとめもない物語にするだけである。他日、天を仰いで、行雲を眺めたりしていたら、ひょっとして目の前にきらりと何か光り輝きだすかもしれない。
ときに私は、子供のころ故郷で食べた野菜や果物:菱の実、そら豆、マコモダケ、マクワ瓜を思い出す。すべてが新鮮でおいしかった:それらが私に望郷の念をかきたてるが、久方ぶりの帰郷時に食してみたが、それはそれだけのことであった。記憶の中では、旧来の味が残っているが、それは一生、私を欺き通し、おりにふれ回想させるものである。
ここに載せた十篇は記憶をもとに書いたもので、実際とは違っているかもしれない。だが、私はこのように記憶しているのである。文体が乱れているのは、書いては中断し、九か月余もかかったためだ。環境も変わり:前二篇は北京の寓居の東壁の下で:中三篇は逃走中に(三一八事件で、軍閥政府の弾圧から避難したことを指す:人民文学出版社注)病院と工房で書いた:後の五篇はアモイ大学の図書館の楼上で、学者たちから、既に仲間外れにされていた時のものだ。(学者たちとはアモイ大学教授の顧頡剛などを指す:同上)
一九二七年五月一日 魯迅 広州白雲楼にて   2010.6.23訳
 
訳者  雑感
一.
1926年3月18日の三一八事件で、軍閥政府に追われていた魯迅は、山本医院とか、ドイツ系、フランス系の病院、工房などに避難しながら活動を続けた。だが、とうとう北京にはいられなくなってアモイに行く。魯迅の日記には26年の9月4日にアモイに着く、とある。9月8日多くの人に手紙を出したこと、2-3の友人の来訪を受け、顧頡剛より宋濂(明代の人)の「諸子弁」一冊贈られる。との記述がある。顧頡剛は「古史弁」を書いた歴史家で、まさしく学者である。訳者も彼の作品は、何冊か読み、その主張に感銘を受けた。アモイ大学というのはシンガポールのゴム王、福建出身の陳嘉庚が1921年に建てた。林語堂も26年に赴任し、文科系の長で、魯迅は林に招かれたと聞く。顧氏も彼以前に着任していたようだが、どういういきさつで、魯迅がまえがきの最後に書いたようにそんな短期間で仲間外れにされたのか、仔細は知らない。
魯迅がアモイに着いた4日後に、部屋に来て、明代の本を贈った時には、お互いに清末までの科挙制度の背骨であった「孔教」ではこの国は救えないという共通の出発点を持っていた、と推測される。儒教否定、古史を疑うこと、これらの点については、二人の著作に共通点が多い。「中国小説史略」「古史弁自序」などで、二人とも古代の民話や伝説、伝奇、戯曲などに特別の関心を寄せて、収集研究し作品に発表している。
だが、わずか数か月で、顧氏ら学者たちに仲間外れにされて、それも一因なのかどうか分からないが、アモイを去ることになった。
昔から「文人相軽んず」という。かつて雑誌の同人仲間であった林語堂をすら後に徹底的に批判した魯迅は、胡適とも親しかった顧氏とは、最後のところで、そりがあわなくなったのだろうか。
二.
 朝露を帯びて咲いている花木を,手折ってきて花瓶に活ける。それはもう叶わなくなった。古い詩に、花木は咲いているうちに手折れ、花散りし後ではもう遅い、と。彼はこの詩の伝統を踏まえているのであろうか。故郷で味わった果物の味、幼少年時代の暮らしの中で見聞きし、体験したこと、それらを夕方になって拾い集めたというのが、この自伝的回想文である。ただ回想するだけでは、生きていても張り合いに欠ける。だが、世の中がかくも乱れ、軍閥政府から逮捕されそうな状況では、暫しそれらを拾い集めて暑さしのぎとしよう、と彼は言う。
 百草園の蔓草の匂い、父親の病気治療のために捕まえたコオロギのつがい。科挙の試験勉強のために通った書屋で、講談本の中の豪傑たちの挿し絵を写し取る楽しみ。藤野先生のノートへの朱書きとスライド。范愛農の師、徐錫麟の奥様の刺繍のついた纏足靴、等等。
 ひとつひとつの小さな物が、彼の記憶の中には朝露を付けたままの花としてくっきりと浮かび上がってくる。彼が後年愛してやまなかった版画のように、古い小説本や講談本の中の挿し絵のように、木版刷りの絵入りの本が、現代のカラー写真よりも強烈な印象を、少年魯迅に与えたと言える。おどろおどろしい二十四孝図。
 現代日本でも、我々は秀吉や家康の顔を「猿とか狸」というイメージを先入観的に持っている。当時写真などないから、肖像画というより、講談本の中の挿し絵とか、芝居演劇の役者の化粧した顔が、一般庶民の中に定着してきたものと思われる。
 日本では、清盛とか頼朝あたりまでは、遡れるし、更に昔の聖徳太子の子供のころの立像や大人になった後の肖像画が一万円札にも使われている。
それが中国では 孔子などの像があるのは、それを礼拝する対象として、弟子たちが追想しながら造らせたものだろうから、ある程度は実在の孔子に似せて作ったと言えよう。孔子あたりは、さもありなんと思うのだが、曲阜に祭られている孔子の冠は、唐代のもののようでもあるし、彼が最も盛んに祭り上げられていたときの、皇帝たちのかぶっていた冠より高位のものに見える。それがその像を寄進した人の心情であろう。
 アフリカ黒人のキリスト教徒にとって、聖母マリアは黒い顔でないと親しみが持てないという。西欧のマリア像は白人の顔で、中東人の顔ではない。それぞれの地で、それぞれの時代の人々が、自分がそう願う、受け入れやすいと思う像を奉納するのであろう。
 中国では、孔子、老子はおろか、伝説上の、存在しなかったのではないかと疑念をもたれている人の肖像がたくさん残されている。そして時代が下がって、漢や唐の時代の歴史家やおびただしい数の詩人たち、一人ひとりの肖像が書き継がれている。本当にそういう容貌だったのか、同じ人が版木製作者の依頼を受けて、何十人もの肖像を描いたので、印象として似通ったものもあるのは、否めない。だが、中国人のこの肖像に対する熱情というのは、信じられないほど強いものがある。
それは西安の秦の始皇帝の墓から出土した兵馬俑に顕著に表れている。数百名の殉死を免れることを望むそれぞれの兵士の顔は、兵馬俑製作者に自分の顔に似せた頭部を作ってもらい、それを既成の胴体に嵌めこんだという。一つとして同じ顔は無いそうだ。
最近の中国都市近郊の大型墓苑の墓石には、死者のカラー写真がタイル画にされて、嵌めこまれている。魯迅が1936年に亡くなったとき、万国公墓に民衆葬として葬られ、
やはり彼の写真が嵌めこまれていたそうだが、堀田義衛が墓参したおりに見たのは、その一部が石か何かで傷つけられていたという文章を記憶している。
三.
 墓石について書いてきたら、棺桶のことを思い出した。映画「第三の男」の中で、掘り返した墓の下の棺桶に入っていたのはオ―ソンウエルズの替え玉だった。欧州でも立派な棺桶で埋葬して、ある年月が経ったら、掘り返してシャレコウベだけ教会の地下室に納骨し、墓地は次の世代に明け渡すという話を聞いた。日本では、訳者の祖父母が亡くなった時は、白木の棺桶のまま、土葬して上から親族会葬者が土をかけたものだが、その上に建てた墓石は遺体の腐食によりゆがんだりするので、それをもう一度埋めなおすこともあった。父母の時代には、もう土葬は禁じられた。火葬後に、本山に納骨が行われるようになった。
 「魯迅書簡集」(人民文学出版社‘76年)の増田渉宛に彼が長与善郎との出会いについて、1935年8月22日の手紙の返事として長与の「魯迅と遇ふた晩」という(魯迅の手紙の原文)題で雑誌に載せた文中で、魯迅が「棺に這入りたい」などと暗い云々ということを書いているのに対して、次のように反論している。
(魯迅の手紙の原文)
「棺に這入りたかった」云々などは実に僕の云う一部分で、其の時僕は支那にはよく極よい材料を無駄に使って仕舞う事があると云うことについて話していた。その例として「たとへば黒檀や陰沈木(日本の埋木らしいもの、仙台にあり)で棺をこしらへ、上海の大通りの玻璃窓の中にも陳列して居り蠟でみがいてつやを出し、実美しく拵えて居る。僕が通って見たら実にその美事なやりかたに驚かされて這入りたくなって仕舞ふ」と云うようなことを話した。併しその時長与氏は他人と話して居たか、或いは外の事を考えて居たか知らんが、僕の仕舞の言葉丈取って「くらいくらい」と断定した。若しだしぬけそんな事を言うなら実は間が抜けているので「険しい、くらい」ばかりの処ではない。兎に角僕と長与氏の会見は相互に不快であった。
 
 訳者はこの手紙を読むよりだいぶ前に、松本重治の「上海時代」(中公新書)「中巻284頁」の下記の記述を読んだ。それを少し長いが引用する。
(松本の文章)
 昭和十年六月中旬、岩永さん(松本の通信社の上司:訳者)の実弟で作家の長与善郎さんが、満州から北平、天津を経て上海に現れた。(魯迅に会ってはという勧めに対して)
「北平では弟さんの周作人さんに会ったんだが、魯迅はあまり人に会わないと聞いたが」
とのコメント。(中略)内山さんに頼んでみようということになったが、彼は留守だった。後で彼から電話で「魯迅さんと友人二三人を加え、老半斎(四馬路の店)で一席用意しましょう」ということになり、長与、荘原、松本で会食に参加した。
「経済往来」昭和十年七月号「魯迅に会った夜」と題して、彼が文章を載せたことに触れ、
(松本のコメントとして)
「魯迅は濃紺色の綿服、折り目がまだはっきりしていたもので、きっと仕立て下ろしの一張羅、と思った。
(中国での言論圧迫にふれて魯迅の発言)
「作家はみな生活ができないので苦しんでいます」
(長与の発言)
「日本へでも来て、仕事をされる気はありませんか」
(松本のコメント)
中国民衆を愛すればこそ、叱咤激励しつづけてきた魯迅さんにとって、今、中国を離れる気なんか、毛頭なかったに違いない。さすが、魯迅さんからは、金も無いし健康も許さないという意味の当たり障りのない返答がなされた。
(長与の発言と魯迅の反応)
 済南で聞いた堯琴(音楽:訳者)の話をし、かつて孔子が奨励したことが、判るようだ、と言ってみたが、魯迅さんは冷淡な反応ぶりであった。
「孔子を持ち出したのが、魯迅に気に食わなかったのか」と長与さんは思ったが、「中国に生まれ、最も愚劣に形式化された儒教を、子供の時から押しつけられて、それに対する反感のみが、牢として抜くべからざるものになっているとは、ムリからぬこととは言え、気の毒なものとおもわずにはいられなかった」と書いている。(と引用している:訳者)
 
 中国料理にはほとんど手をつけなかった魯迅さんは、やっと飯が運ばれてきたころ、彼は軽く箸を執りながら「ここへ来る道で、いま樟の立派な棺を見たら、急にはいりたくなってしまった」と半ば独語(ひとりごと)のように言った。(棺材の名が違っている:訳者)
 
「一座は笑わんと欲して笑えず、妙に白けてしまった」と長与氏はあの夕の会合の最後の光景を描写した。
 
 帰途、腹ごなしの為、四馬路からバンドに、バンドからホテルへと長与さんと荘原君と三人で散歩したが、私は長与さんに「暗い。たしかに暗い。以前は、あんなに陰惨な感じの人じゃなかったんだがな」と言った。
 
松本は、日中国交調整と排日取締りについての日本側からの執拗な要求にも密接な関係があった。と書いた後、
いよいよ暗くなった魯迅さんのプロフィルはますます激しくなる弾圧のひどさを反映しているかのように見えた。
 長与さんは「急に棺に這入りたくなった」と言った魯迅の独語(ひとりごと)をとらえて、「厭世作家魯迅」という表現を用いたが、それは長与さんの読みが間違っていたのだ。
毎日毎日の闘争を続けていた魯迅さんは、厭世作家どころか、生きることに火のように燃えていた。たまには心身の疲れを癒す憩いが欲しかったのかも知れぬ。だからこの憩いの願いが、樟の棺と連想されて、上述の独語となったのではなかろうか。
 むしろ魯迅さんは、日本の代表的なヒューマニスト作家が、当代中国の暗黒面を知らず、魯迅の立場、思想を解しなかったことに、ひとしお淋しさを覚えたのであったろう。
 魯迅・長与善郎の出会いは右の如くあまり愉しいものではなかった。しかし魯迅が与えた印象は、その後の長与さんの後半生に少なからざる影響を与えたものと、私は推測している。
 最後の作の一つ「切支丹屋敷」は宗教裁判や踏み絵のことを歴史小説的に書かれたもので、思想の自由に対する弾圧が一つのテーマである。
 長与さんが友人の勧告を退けて、亡くなる二三年前に、中華人民共和国の招待に応じて、七十歳になりながら、北京上海を訪れたのは、やはり魯迅の果たした役割とその成果を、現地に立って考えたいという念願から、思い立ったものと、私は推測していた。
 長与さんはこの中国行きにつき、紀行文らしきものを遺していないので、私の推測を裏書きするものは無い。
 
松本の文章からの引用が長くなったが、芥川の小説「藪の中」で描かれた如く、会食しながらの話し、それも5-6名以上での複数の対話が並行してなされたりしたときの誤解や聞き漏れなど、双方が不愉快になることの証左であろう。それを雑誌に載せるに際しては、相手方にも原稿段階で確かめないと、このような不幸なことになってしまう。
日米間や日中間の戦争が勃発するまでの交渉のすれ違いは、お互いになんとか戦争は避けたいと念じながら、一方がユーモアのつもりで、無駄なことに大金をつかう譬えとして見事な棺桶を見て、「棺に這入りたくなった」といった独語を、「暗い、くらい」と解してしまうときの「キーワード」として聞きとってしまうような小さなほころびから両者の間を不愉快なものにしてしまうことになる。
彼がそれを「経済往来」という雑誌に載せた意図は何だったのであろうか?
その文章を相手が見るだろうということを考えなかった筈はない。長与がそう書いた背景は、何だったのだろうか? 松本も長与の読みが間違っていたのだ、と書いているが、彼自身も四馬路からバンド、バンドからホテルへの腹ごなしの散歩中に、長与に対して「暗い、たしかに暗い。以前はあんなに陰惨な感じの人じゃなかったんだがなあ」と言った。とみずから書いている。長与に「くらい」と書かせた裏打ちは、松本の散歩中のコメントだった可能性が高い。
魯迅は長与と会った翌年、世を去った。日中間の戦火が拡大する前に。
    2010年6月26日記
 
 

拍手[1回]

「薬」


 訳者 まえがき
 西洋医学が、東方に伝播してきた後も、多くの東アジア人は、先祖伝来の漢方薬とか漢方医の処方箋に大枚を払わされて、身上を潰してきた。とくに孝の思想から、身内に病人が出たら、何を犠牲にしてでも、珍しい薬、霊験あらたかな薬を手に入れることが、子の務め、孝行だとされてきた。今から翻訳するのは、肺病にかかった一人息子を助けるために、処刑された辛亥革命前の烈士の、処刑直後に彼女の熱い血を、取り出してきて、息子に与える、という話しである。古軒亭口で処刑された秋瑾のことを記念している。
 なお、監獄に入れられたら、牢屋の番人に賄賂を送って、手加減してもらい、食事の差し入れにも、お目こぼし、あるいはさらにお金を使って、上部に減刑を嘆願するのが、上記の「孝」と同じ発想から出ている。家族としては、身内からだれかが牢につながれたら、すべての財産を投じて、救い出すのが人としてのつとめであった。
 魯迅は仙台の医専に入った。下宿先が囚人の「まかない」を請け負っているところだから良くないとして、先生からよそへ引っ越すように言われ、それに従ったのだが、新しい下宿は毎日芋の茎の汁ばかりで、喉に通らなかった、と「藤野先生」に書いている。牢獄への食事は、差し入れする家族からのお金が回っていたのだろう。
 中国語の「好処」は、恩恵とかメリットの意味が一般的だが、「うまい汁」と訳すのが、適切な場面が増えてきた。口利きや、犯罪を裁く側が、相手からどれだけうまい汁「好処」を引き出せるかで、物事が処理される。作品中の康大叔は、人血マントウはとってきたが、ほかの連中に比べると、うまい汁にはありつけなかった、とこぼしている。芥川賞作家の楊さんのコメントが印象に残る。今中国で、子供を有名大学に入れて、役人にさせる目的は、みな将来「好処」をできるだけたくさん自分のものにしたいからでしょ。
私が思うに、今の日本の大学生は、そんな気になる前の状態にあるようだ。あるいは、もうそんなことは卒業してしまったかのごとく。
 
1.
 秋の夜も更け、子の刻はとうに過ぎ、月も落ちた。朝日は未だ出ず、青黒い空の下、夜遊びする者をのぞいて、すべて寝静まっていた。華老栓は忽然、起きだして、マッチをすり、油のこびりついた灯心に火をつけると、茶館の二つの部屋に、青白い火がゆれた。
「とうさん、出かけるかい?」と老女の声。奥の小部屋から、ゴホンゴホンと咳。
「ああ」と老栓は応えながら、ボタンをとめ、手を出して、「だしてくれ」と言った。
かみさんは、枕の下をごそごそまさぐって、銀貨の包を渡した。彼はふるえる手で、隠しにしまいこみ、上から二回押さえて、提灯に火をつけ、灯心を消して、奥に入っていった。奥でも、ごそごそ音がし、続いてゴホンゴホンと咳。老栓は、息子の咳が静まるのを待って、小さな声で、「小栓、起きなくていいよ。店は母さんがやるから」
老栓は、息子が静かになったので、眠ったと思い、戸を開けて街に向かった。街はまだ暗くて、人っ子一人歩いていなかった。白い道がくっきり浮かんで見えた。提灯は足元を一歩一歩照らした。犬が何匹かいたが、一匹も吠えてこなかった。外は部屋よりかなり冷えたが、彼にはかえって爽快だった。まるで青年に戻ったようで、神通力を得て、誰かに生命を与える能力を得たごとく、大股で歩き出した。道も徐々に明るくなって、空も白み始めた。
老栓は歩くだけに専念していたが、はるか向こうに三叉路が見えてきて、びくっとした。
後ずさりして、戸の閉まった店の軒下に入って、戸にもたれて立っていた。だいぶ時間がたって、体が冷えてきた。
 「ふん! くそ爺」
 「何だよう。ぬかよろこびさせやがって」
老栓はまた驚いて、目を開くと、何人もの男が目の前を通り過ぎて行った。一人がふり返って、彼をにらんだ。はっきりとはわからないが、長いこと飢えていた男が、やっと獲物にありついたように、目がギラっと光った。提灯の火は消えていた。隠しを確かめたら、硬いのはまだあった。向こうを見たら、怪しげな男たちが二人三人、死人のように徘徊していた。目を凝らしてみたが、別に奇怪なものは見えなかった。暫くすると、兵隊たちが行進してきた。兵服の前と後ろには大きな白い丸がはっきり見えた。目の前を通りすぎる時、暗紅色の縁取りまで見えた。一陣の足音が過ぎ、ちょっと目をはなしている間に、もう大勢になって、あの三々五々の連中も、忽然一体となり、潮のように進んでいった。
三叉路に着くや、立ち止まって半円形になった。
 老栓もそちらを見たが、人だかりの山で、背中しか見えなかった。まるで、見えざる手で、首を持ち上げられたアヒルの群れのように、全員首を伸ばしていた。静けさの中にも小さな音が聞こえていたが、急にざわざわしだすと、ドーンと一発。みな一目散で、後退した。老栓の立っているところまで来て、止まったので、押しつぶされそうだった。
 「さあ、金と引き替えだ!」真っ黒な男が彼の前に仁王立ちして、睨みつけるので、老栓はちぢみあがった。男は大きな手を目の前に突き出し、もう一方の手に、真っ赤なマントウをつかんでいた。赤いのがポタポタたれていた。
 老栓はあたふたと銀貨を取り出し、ふるえながら彼に渡そうとするのだが、その物を受け取るのが恐ろしかった。男はいらいらしながら、「なに怖がってるんだ! 早く取れ!」とどなった。老栓がまだぐずぐずしていると、男は提灯をひったくり、べりっとそれを破って、マントウを包んで、老栓に握らせ、銀貨をつかんで、確かめてから身を翻し、「この
くそ爺!」と悪態をつきながら去って行った。
 「誰を治すんだい?」老栓は誰かが話しかけるのが聞こえたようだが、応えなかった。神経はすべて包の中に集中していた。十代続いた直系の嬰児を抱えるように大切にして、他のことは一切考えないことにした。この包の中の新しい生命を、自分の家に移植して、幸福をつかむのだ。
 朝日も出てきた。彼の前に一筋の大きな道が現れ、家の方までまっすぐ伸びていた。三叉路の角には、こわれかけた扁額にうすぼけた金文字で「古□亭口」とあった。
(2番目の□は欠落)。
2.
 老栓が家に戻ると、店は掃除もすみ、きれいに磨かれた茶卓が並んでいた。客はまだいなくて、小栓が奥で、朝飯を食べていた。大粒の汗がひたいからポタポタと落ち、あわせの背中にくっついて、肩甲骨が陽刻の「八」の字のようである。老栓はそれを見て、少し気が重くなった。女房が炊事場から急いで出てきて、唇をふるわせながらじっと見て、
「手に入ったかい?」ときいた。
「ああ」
 二人は炊事場に行き、相談した。カミさんは出て行って、しばらくして大きなハスの葉を手にして戻り、卓上に広げた。老栓も提灯の包を開き、ハスの葉で真っ赤なマントウを包みなおした。小栓も飯をすませたが、母親はあわてて「小栓、そこにいて!こっちに来ちゃダメだよ!」と言った。
 カマドの火を掻いて、老栓は碧緑の包と紅白の破れ提灯をいっしょにカマドに入れた。
紅と黒の火焔が舞い上がり、店中に奇怪な香味がただよった。
 「いいにおいだね。何たべてるの?」せむしの五少爺が入ってきた。この男は毎日茶館で過す。一番に来て、最後までいる。このときものっそりと入ってきて、通りに面した角の卓に着くやいなや、訊いてみたのだが、誰も応答しない。「炒り米の粥かい?」
老栓はあたふたと出てきて、茶を注いだ。
 「小栓、おいで!」母親は小栓を奥の部屋に呼んだ。中央に腰かけがあり、そこに坐った。母は真っ黒になったものを差し出した。「お食べ。すぐ良くなるから」と言った。
 小栓は黒いのをつかんで、ちょっとながめて、自分の命をつかんだような、なんともいえない気持ちになった。慎重に半分に割ると、焦げた皮の中から湯気がでた。湯気が消えると、白い小麦粉のマントウだった。 食べ終わるのにさして時間もかからなかったが、どんな味だったか、忘れてしまった。空になった皿が残り、傍らには父親、もう一方には母親がいて、二人の目は、彼の身に何かを注ぎこみ、そしてまた、何かを取り出そうとしているようであった。彼は心臓が跳びはねそうにドキドキするのを抑えきれず、胸をなでおろしたが、またゴホンゴホンと咳き込んだ。
 「お休みな!そしたらすぐ良くなるから」小栓は母に言われる通り、咳をしながら、眠りについた。母は咳が静まるのを待って、ふんわりとつぎだらけの布団をかぶせた。
 3.
 客は増え、老栓も忙しくなり、ヤカンから一人ひとりに湯を注いで回った。目はクマができていた。
「老栓、具合でも悪いのかい?病気かい?」ゴマ塩髭の男がきいた。
「いや」
「じゃない。うれしそうに笑っているし、病気にはみえんが」ゴマ塩髭の男は自分の質問を取り消した。
 「老栓は忙しいだけだよ。もし息子が ……」
せむしの五少爺の話がおわらぬうちに、突然、顔の肉がたるんだ男が、黒い着物をボタンもせず、幅広の黒い腰帯をだらりとさせて、闖入してきた。入るなり、老栓に大声で、
「食ったか?良くなったか?老栓、おめえは運のいい奴よ!幸運だ。もし俺様の情報が遅かったら……。」
 老栓はヤカンを手にしながら、恭しく頭を下げ、にこにこして聞いていた。客も恭しく、聞いていた。カミさんも、目にクマをつけながらも、うれしそうに茶碗と茶葉を出し、オリーブも入れると、老栓が湯を注いだ。
 「まかしとけ。今度のは、そんじょそこらのとはわけが違う。熱いうちに取ってきて、熱いうちに食うんだから」肉のたるんだ男は、大声でしゃべり続けた。
 「本当さ。もし康大叔さんのお力添えがなければ、どうしてこんなにうまく……」カミさんも、大変感激して、彼に礼を言った。
 「まちがいない。請け負うぜ。こんなふうに熱いうちに食う。この人血マントウなら、どんな肺病だって、すぐ治るさ!」
 カミさんは「肺病」と言われて、顔色が変わり、不満気であったが、作り笑いをして、きまり悪そうにその場を離れていった。康大叔は、そんなことは何も気づかぬがごとくに、
声を張り上げて、騒いでいたが、その騒ぎで寝ていた小栓もいっしょになって咳をしだした。
 「おめーん家の小栓は、こんな幸運にめぐり会えたんだから、きっと治るよ:どうりで、老栓もうれしそうにしているわけだ」ゴマ塩髭がしゃべりながら、康大叔の前に近づき、くぐもった声できいた。「康さん、今日殺されたのは、夏家の子だってそうだが、どの夏さんだい?で、何をやらかしたの?」
 「どのだって!四番目、のに、決ってるじゃないか。あのがきゃー!」康大叔は衆人が
耳をそばだてて聞くので、ことのほかうれしくなってきて、たるんだ肉をゆらしながら、声を荒げて、「あの がきゃー、命はいらねえーって。要らねえーなら、それまでよ。だがな、今日俺は、ひとつもうまい汁にありつけなかったんだ。奴の服も、牢番の赤目の阿義に持ってかれちゃったし。一番運がいいのは栓さんで、二番目は夏の三番目の奴さね。二十五両のピカピカの銀貨を一人占めしやがった。俺たちにはびた一文も分けちゃくれねえ。」
 小栓は、ゆっくりと出てきた。胸をさするのだが、咳がとまらない。カマドから冷や飯を盛って、熱湯をかけて食べ始めた。母は彼と一緒に出てきて、「小栓、良くなったかい?
でも、お前やっぱりお腹がすくんだね。……」
 「請け負うよ。まちがいないって」。康大叔は小栓をちらっと見てから、衆人の方に向き直って、言った。「夏の三爺は、ほんとにおりこうさんさ。もし彼が、お上に届けなきゃ、
奴の家だって全滅さ。それがどうだい。銀貨だぜ。」
「あのがきゃー、ほんとにどうしようもねえ。牢にぶち込まれても、牢番に造反をそそのかすんだ。」
 「へええ。造反!」後ろの方に坐っていた二十代の男が憤慨して言った。
 「赤目の阿義が仔細を調べに行ったら、奴はこう言ったてんだ。この大清国の天下は、われわれみんなのものだ。どうでー、これがまっとうな人間の言うことかよ。」
 「赤目は、奴の家は、ばあさんが一人いるだけで、金ヅルはないってことは百も承知の助だが、まさか、あんなに貧乏だったとは、思いも及ばなかったそうだ。一銭たりとも、牢番への付け届けすら出てこなかったって。それで頭に来たってわけさ。その上、奴ときたひにやー、まったくもう、虎の頭の上で、かゆいところを掻くようなまねしやがって、
それで、二発ほどおみまいしてやったんだそうだ。」
 「義兄貴は、拳道の達人だし、二発も食らやー、やっこさんも参ったろうね。」角のせむしが忽然、興奮して立ちあがった。
 「それが何と! 殴られても、平チャラでよ、言うにこと欠いて、義兄貴に向かって、
かわいそうに!かわいそうに!ってさ。」
 「こんなガキを殴って、何がかわいそうなもんか」とゴマ塩が言った。
 康大叔は、見下したような冷笑を浮かべて、「お前、俺の話がわかってねえな」「奴が言うのは、阿義がかわいそうだって、いうんだ」
 聞いていた連中の目はきょとんと動かなくなった。話も止んだ。小栓は食べ終わっていたが、全身汗をかいて、頭から湯気がでていた。
 「阿義がかわいそう。 きちがい沙汰だ。まったく気が狂ったんだ」ゴマ塩が悟ったように言った。「気が狂ったんだ」二十代の男も悟ったかのように続いた。
 店内の客も、また元に戻って、騒ぎだした。小栓もこの騒ぎにまぎれて、ゴホンゴホンと咳をした。康大叔が寄ってきて、肩をたたいて、言った。
 「良くなるよ。小栓。お前そんなに咳するな。きっと良くなるから!」
 「気が狂った!」せむしの五少爺は頭を揺らしながらぶつぶつつぶやいた。
 4.
  西門外の城壁沿いの土地は、もともとお上のものだった。中央にくねくねと細い道が一本あった。近道をする人たちが通った結果であったが、自然と境界線になった。道の左側は、死刑囚や獄死人の墓で、右側は貧乏人の墓地だった。両方とも、すでに何列もの墓が並んで、さながら、大金持ちの祝いのときにお供えされる、マントウの如くであった。
 その年の清明節は、とくに寒く、楊柳の芽も米粒の半分くらい出たばかりであった。夜は明けたばかり、華のカミさんは、右側の新しい墓の前に、四皿の料理と飯一碗を供えて、ひとしきり泣いていた。紙銭を燃やし、呆けたように地べたに坐り、何かを待っているかのようであるが、何を待っているのか、自分もわからない。微風が起こり、短い髪をゆらした。白いものは去年よりかなり増えていた。
 その道を、また一人の女が歩いてきた。半ば白髪で、ボロをまとい、壊れかけた朱塗りの丸かごに、紙銭を吊り下げ、やすみやすみしながら歩いて来る。華のカミさんが自分を見ているのに気づくと、はっとして、少したじろぎ、はずかしそうにしていたが、やがて、意を決して、左側の墓地の前に、かごを置いた。
 その墓は、小栓の墓と道を挟んでちょうど線対象にあった。カミさんは、彼女が四皿の料理と飯一碗を供えて、立ったまま泣いてから、紙銭を燃やすのを見て、「あの墓も息子のだな」と思った。老女は、まわりを見渡すと、急に手足が震え始め、へなへなと後ろに倒れそうになったが、目はぎょっと見開いたままだった。
 華のカミさんは、この様子を見ていて、老女は傷心のあまり気が狂ってしまわないかと、心配になった。それで立ちあがって、小道を横切って、「お母さん、もう帰りましょうよ」と小声で言った。女はうなずいたが、やはり上を見て、ぶつぶつつぶやいた。「あれ!見て、
あれは何?」カミさんは、女の指す方を見た。その墓をじっと見て、墓の土饅頭の上の草は、まだはえそろっていなくて、黄色い土がむきだしでみっともなかった。さらにその上を見てゆくと、びっくりしてしまった。紅白の花が土饅頭の頂上の周りを囲んでいるのだった。
 二人の老女は既に老眼であったが、この紅白の花は、はっきりと見分けることができた。
花はさして多くないし、丸く囲んだようになっているが、そんな新しくはないが、きれいに並んでいる。華のカミさんは自分の息子のや、人の墓を見たが、寒さに強い青白い花が、ほんの少し咲いているだけであった。それで何か物足りなく、うつろな気分になったが、それがどうしたわけか、知ろうとは思わなかった。老女は近づいてゆき、仔細にながめてから、ひとり言のように言った。「この花は根がない。根から生えた花じゃない。こんな場所に誰が来るもんか。息子がこの世に来られるはずもない。親類や本家の連中も、とっくに来なくなったし。一体どうしたのか。老女はいろいろ考えたが、訳もわからず、また涙を流し、大声で叫んだ。
 「息子よ!彼らはみんなして、お前に冤罪をかぶせたんだね。その悔しさを忘れられなくて、悲しんでばかりもいられなくて、今日は特別に帰ってきておくれだね。私に何を言いたいのだい。」彼女は周りを見回した。一羽のカラスが木の葉のない樹の上にいるのを見て、言った。「分かったよ。息子や。かわいそうな奴らは、お前を穴埋めにして、きっと奴らに報いが来るさ。お天道様は、お見通しだよ。さ、もうお前は安らかにお眠り。お前が 
もしほんとにここに帰ってきて、私の声が聞こえるなら、あのカラスをお前の墓の上に、飛んでこさせて、私に見せておくれ。」
 微風はもう止んだ。枯れ草も微動だにせず,針金のように立っていた。何かがゆれる音がしたが、だんだんしなくなって、死んだような静けさになった。二人は枯れ草の中に立って、カラスを仰ぎ見ていた。カラスは筆のようにまっすぐ伸びた枝にとまって、頭をすぼめ、鋳物のように動かなかった。
 時間がだいぶ経った。墓参りの人も増え、墓と墓の間に、老若男女が、見え隠れした。華のカミさんはなぜかしら、重い荷をおろしたような気がして、もう帰ろうと思い、老女に「帰りましょうよ」と言った。
 老女はため息をついて、やるせなく、飯と料理をしまいながら、まだ逡巡していたが、やっとぶつぶつ独り言を言いながら、歩きだした。「一体、どうしたんだろう」
 彼女らが二三十歩も行かないうちに、背後で「クアー」と鳴き声がした。二人はぞっとして、振り向くと、カラスが翼を広げて、一旦身をすくめてから、まっすぐ遠くをめがけて、矢の如くに飛び去って行った。
   1919年4月。
 
訳者あとがき、
大連の街かどにも、清明のころ、十字路のいたるところで、何十もの紙銭を燃す人が集まる。一家で、あるいは一人で燃す。親や先祖への供養である。彼らは近くに墓がない。
親や先祖への送り火は、まだ

拍手[0回]

故郷 

訳者 まえがき
 武田泰淳が、数十年前、宿願であった魯迅の生地を訪ねて、「故郷」の中で閏土が被っていた、フェルトの帽子を買ってきた、と言って、夕刊か何かの文芸欄に写真とともに彼の小品が載っていた。私も30年ほど前、紹興に行ったときに、黒くて厚手の持ち重みのする帽子を買った。かぶってみたが、へんてこな感じだった。
他の地域では麦藁とか、葦や竹のとか、いまでは中国各地の観光地ではそれぞれの特産の帽子を、山のように並べて売っているおばさんたちがいる。2個千円、安いよ、と。
紹興でこの帽子が普及した理由は知らない。阿Qに被らせたり、閏土にかぶせたりして、なにやらフランスの街角の片隅にいるルンペンの被っている帽子のイメージが、強くなったようだ。先日、あのあたりに出かけたが、あまり見かけなくなった。
今では大量生産で、安くできる野球帽が、とってかわったようだ。魯迅の希望した通りかどうかは、別として、大都市近郊の農民は、新しい生活を始めたように見える。
この作品の書かれた90年前よりは、少なくとも軍閥や匪賊とか郷紳などから、搾り上げられ、手も足も出ぬ、がんじがらめのような理不尽なことは、稀になったと言えようか。さあ翻訳を始めよう。
 
 厳寒の中、二千里余も離れた遠いふるさとへ、二十数年ぶりに帰るところであった。
 真冬の風景は、故郷に近づくにつれ、空も陰鬱になり、風が音を立て、小舟のなかに吹きこんできた。篷の隙間から外をのぞくと、どよーん、とくすんだ空に、活気のない、さびれた荒村が、点点としていた。
 私はむしょうに、たまらなく悲しくなった。
 ああ。これは私が二十年来、思い描いてきた心の故郷ではない。私の心にある故郷は、こんなんではない。もっと素晴らしいはずだ。が、美しさ、素晴らしさを思い出そうとしても、影像は形にならず、言葉も出てこなかった。こんなものだったかも知れない。それで自分に言い聞かせるかのように、故郷は、もともとこんなものさ、なんら進歩もないが、私が感じているほど悲愴さもなにもないのだ。ただ、自分の気持ちが変わってしまっただけなのだ。今回、私が帰る目的は、気の晴れる、楽しいことでもないのだから。
 今回は、もっぱら故郷に別れを告げに来たのだ。私たち一族が、長年大家族として暮らしてきた老屋は、すべて別姓の人に売り払われ、年内に明け渡すことになっており、正月前に住みなれた家とも永別し、懐かしの故郷から、遠く離れた、いま生計を立てている異郷に越さねばならないのだ。
 翌早朝、やっと一族の屋敷の入り口に着いた。屋根の上は、枯れ草の茎が何本も、風に揺れていた。この老屋が主替わりをまぬかれない仕儀となった事情を説明していた。数棟あった本家は、とうに越していて、音もなく静かだった。自分たちの棟に着くと、母はすでに迎えに出ていて、8歳になったおいの宏児も飛び出してきた。
 母はとてもうれしがってくれたが、心の中は、悲しみではちきれんばかりなのが分かった。座をすすめ、茶をいれてくれ、お疲れだったね、まずお茶をお飲みというのみで、しばらく引越しの話はしなかった。宏児は初めてなので、離れたところから立ったまま私の方を見ているだけであった。
 とうとう引越しの話になった。住む家はもう手配したし、家具もだいぶ買いそろえた。ここにある木製の家具は、すべて売って、向こうで買いなおせばよい、などと話した。
母も、そうだね、と言った。引っ越し荷物はほぼ整理したし、家具は運ぶのが大変だから、半分ほどはもう売ったけど、いくらにもならなくてね、と。
 「一日か二日休んでから、本家や親せきに挨拶したら、いつでも出られるさ」と母。
 「そうだね」
 「あ、それから閏土(ルントウ)がね、来るたびにお前のことを聞いてね。とても会いたがっていたよ。お前の帰るおおまかな予定は、知らせておいたから、多分きっともうじき来るよ」
 このとき、私の脳裏に、忽然、一幅の神秘的なシーンが閃いた。濃紺の空に、黄色い丸い月が浮かび、下は海辺の砂地。見渡す限り青いスイカ畑。そこに十一、二歳の少年が立っている。銀の首輪をはめ、鉄の刺叉を、チャー(獣偏に査)めがけて、全力で突き刺そうとしている。が、獲物はするりと体をかわすと、彼の又下をくぐり抜けて、逃げられてしまった。
 この少年が閏土。知り合ったときは、私も十数歳で、かれこれ三十年前だ。父はまだ存命で、はぶりもよく、私はまさしく坊ちゃんであった。その年は、我が家が、大祭礼の当番だった。この当番は三十数年に一度という大役で、とても丁重に行われた。正月に先祖の像を飾り、たくさんの供物、祭器もとても立派なものをそろえた。お参りに来る人も多いので、祭器が偸まれないようにしなければならなかった。我が家には、忙月(マンユエ)という雇い人は一人しかいなかった。(私の地方では、3種の雇い人があり、1年中雇うのは長工、日雇いを短工、自分で耕作しながら、年越しや節季、年貢の徴集のときなどに雇うのを、忙月と呼んでいた)。それで、忙しくてとても手が回らないから、息子の閏土に祭器の見張りをさせたい、と頼みに来た。
 父は許した。私はとてもうれしかった。以前、閏土の名は聞いたことがあり、彼が私とほぼ同い年で、閏月に生まれて、五行の土を欠いていたので、閏土と名付けられたと知っていた。仕掛けをこしらえて、小鳥を捕えるのがとてもうまい、とも。
 それからというもの、正月が早く来ないか、と待ち遠しかった。正月になれば閏土が来る。年末のある日、母が、閏土が来たよ、と言ったので、走って見に行った。台所で、日に焼けた丸顔で、小毡帽(紹興のフェルトの帽子:訳者注)をかぶり、キラッと光る銀の首輪をして、父親が、どれほど息子を可愛がっているかが分かった。息子が死なないよう、神仏に願をかけて、この首輪で守ってもらっているのだ。恥ずかしがり屋だったが、私にはとても人懐こく、人がいないときに、打ち解けてすぐなんでも話すようになり、しばらくすると、とても仲良しになった。
 何をしゃべったか、ほとんど忘れてしまったが、彼が城内に連れて行ってもらって、村ではめったお目にかかれない珍しいものを沢山見たよ、と興奮しながら話してくれたことは、よく覚えている。
 次の日、鳥を捕ってほしいと頼んだら、彼は「今日はだめだよ。大雪が降らなきゃ。砂地に雪が積もったら、それを掃いて、空き地をつくり、そこに短い棒に大きな竹ザルを仕掛けて、シイナを撒く。鳥が食べに来たら、離れた場所から棒に結わえておいた縄を引っ張るのさ。すると鳥はザルの中って寸法さ。どんな鳥でも捕まえられるよ。稲鶏、角鶏、スズカケ鳩、藍背……」
 私は雪が降るのが待ち遠しかった。
 閏土は私に、こうも言った。
 「今は寒くてだめだけど、夏になったら、僕ん家へおいでよ。昼は海辺で貝殻がいっぱい拾えるよ。赤いのや青いの、何でも取れるよ。鬼見怕も観音手も、取れるよ。夜になったら、父ちゃんとスイカの見張りに君も連れて行ってやるよ」
 「泥棒?」
 「ちがうよ。僕らのとこじゃ、喉が渇いたひとが、一個くらい取っても、泥棒とは言わないよ。見張るのは、アナグマ、ハリネズミ、チャーさ。月が出ると、がさがさ音がして、チャーがスイカをかじるのさ。そしたら胡叉を持って、静かに近づいて、……」
 そのころ私は、彼の言うチャーとはどんな生き物か 一 今なお知らないのだが 一 なんとなく、格好は小型犬のようだけどとても獰猛な奴くらいに感じていた。
 「人間は咬まないの?」
 「胡叉があるさ。近づいて見つけたらさっと刺すのさ。あん畜生はとてもすばしこいから、歯向かってきて、又の下をさっとくぐって逃げるのがうまいんだ。毛はツルツルしていて……」
 この世の中にこんなに私の知らないことをたくさん知っている。海辺には五色に輝く沢山の貝があり、スイカがこんな危ない目にあっていたなんて。果物屋の店先に並んでいるのしか知らなかった。
 「砂地にはね、潮があげてくると、跳ね魚がいっぱい跳びはねるのさ。カエルのように二本足でさ」
 「ああ。閏土の心には汲めども尽きぬ珍しいことがいっぱいあって、普段の友達が知らないことばかりであった。彼らは何も知らない。閏土が海辺にいるとき、彼らは私同様、高い壁に囲まれた内庭で、四角い空しか知らないのだ。
 正月が終わって、閏土は帰ることになり、私は急に大声で泣き出した。彼も台所に身をひそめて、帰りたくないと泣きじゃくった。しかし、しまいには父親にひかれるようにして帰って行った。その後、父親に託して、いろいろな貝殻やきれいな羽毛を私にくれた。
私も何回か送ったが、それ以降、会ったことはない。
 今、母が彼のことを話したので、子供のころの記憶が、稲光のように忽然とよみがえって、私の美しい故郷を見たような気がした。それですぐに「そりゃあ、とてもうれしいね。
今、彼はどんなぐあい?」とたずねた。
 「彼かい……、それがねえ……」母は応えながら、窓の外を見て、「あの人たちがまた来たよ。家具を買うようなこと言って、ついでに何か持ってっちゃうんだよう。見張りに行かなきゃ」
 母は出て行った。外で数人の女の声。私は宏児を呼んで、字は書けるかいとか、よそに行くのは、うれしいかいとかきいた。
 「汽車に乗って行くの?」
 「そうだよ。汽車に乗るんだよ」
 「船は?」
 「最初は船さ」
 
 「まあ、こんなえらくなりなすって。髭も立派に」と甲高い不思議な声がした。
 驚いて立ち上がったら、ほう骨の出た唇の薄い50歳くらいの女が、私の目の前で、両手を腰に、裳裾なしの、もんぺ姿で、脚を広げて立っていた。あたかも製図用のコンパスの細い脚のようであった。
 愕然とした。
 「忘れたの?あんなによく抱っこしてあげたのに」よけい愕然としたが、母が近づいてきて「長いこと離れていたから、忘れちゃったんだよ。ほら思い出して、筋向いの楊おばさんだよ, 豆腐屋の」
 「おお、思い出した。小さいころ、筋向いの豆腐屋に、一日中坐っていた楊おばさんだ。
豆腐西施と呼ばれたほどの」だが、当時はオシロイを塗り、頬もこんなに出てなくて、唇もこんな薄くなかった、それに一日中坐っていたので、コンパスのような姿は見たこともなかった。その当時、彼女のおかげで、この店はとても繁盛していた。だが、年齢の加減で、私には何の感化も及ばなかった。それですっかり忘れてしまっていた。コンパスはそれがとても不満げで、人をさげすむように、まるでフランス人にしてナポレオンを知らざるを、アメリカ人にしてワシントンを知らざるを嘲るごとくに、冷笑し、非難した。
 「忘れちゃったの?偉くなるとこうだからね」
 「そんな…、私は……」私は慌てふためいて立ち上がった。
 「それじゃ言うけど、迅ちゃん、お金持ちになったんだから、引越しにわざわざ重くて大変な家具は、もうだいぶくたびれてもいるし、私にちょうだいよ。うちのような貧乏人にはまだまだ使い道があるんだからさ」
 「金持ちだなんぞ、とんでもない、これを売って、また買わなきゃならないんだ」
 「あれま。道台(清朝時代の地方長官)までやってさ。お金持ちじゃないっていうの。三人もお妾さんがいて、8人担ぎの立派な駕籠でお出ましっていうじゃない。それでも金持ちじゃない?ふん!私は騙されないからね」 
 私は何を言っても始まらないと黙っていた。
 「あああ、ほんとうだね。お金持ちになれば一銭も出さないし、一銭もださなきゃ、ますますお金がたまるって道理だよ」コンパスはぷんぷんしながら、身をひるがえし、ぶつぶつ言って、おもむろに外に出て行きざま、母の手袋をもんぺの腰にねじ込んで、去っていった。
 この後、近所の本家や親せきが訪ねてきた。その応対をしながら、暇をみつけては荷物をまとめた。三、四日はあっという間に過ぎた。
 とても寒い日の午後。昼を済ませて、お茶を飲んでいると、人が来たようだった。外を見て、思わずびっくりし、急いで立って行って、迎えに出た。
 閏土だった。一目で彼だとわかった。が、記憶の中の閏土ではなかった。背は倍になり、以前の日焼けした丸顔は、今では灰色になり、深い皺が増え、目も父親とそっくりで、目の周りは腫れて赤らんでいた。海辺で農業すると、終日海風に吹かれて、たいていこうなるということは知っていた。
 くたびれた毡帽をかぶり、非常に薄い綿入れを着て、全身、ちぢこまって見えた。紙包みと長キセルを持ち、手は私が覚えている血色の良い、ふっくらしたのではなく、粗くてごつごつし、ひび割れの、松の樹皮のようだった。
 このとき、とても興奮して、なんと切り出せばよいかわからず、ただ、
 「あ!閏土さん、よく来たね」と発した。続いて、たくさんの話しが、数珠のように湧き出してきて:角鶏、跳魚ル、貝殻、チャー……、だが、何かがつっかいをしているようで、脳の中でぐるぐる回っているだけで、口から外に出てこなかった。
 彼は立ったまま、うれしさとさびしさが、入り混じったような顔をして、唇を動かすのだが、声にならなかった。
 彼はようやく、うやうやしい態度になって、はっきりと言葉を口にした。
 「旦那さま!……」
 ああ一、私はぞーっと身震いした。われわれの間は、すでに悲しむべき厚い壁に隔てられてしまったのを悟った。私も声をつまらせてしまった。
 彼はうしろを向いて、「水生、旦那様にごあいさつしなさい」と後ろに隠れていた子供に挨拶をさせた。この子はまさしく、二十年前の閏土だった。ちょっと痩せているのと、銀の首輪はしていないが。
 「五番目の子で、世間様にあまり出してないもので、人見知りして…」
 母と宏児が下りてきた。声を聞きつけたのだろう。
 「大奥様、お知らせはとうにいただいておりました。ほんとうにうれしくて、旦那様がお帰りになるって……」閏土は言った。
 「お前、どうしてそんな遠慮するんだい。昔は兄ちゃん、弟って呼びあってたんじゃないか。やはり以前のように、迅にいさんって、呼んであげなよ」母はうれしそうに言った。
 「大奥様、めっそうもない。昔は礼儀知らずで、子供だったものですから、何も知らずに」閏土は言った。そして水生に挨拶をさせた。その子ははずかしがって、彼の背中にくっついていた。
 「この子が水生かい?五番目?初めてだから、はずかしがるのも無理はないよ。宏児と一緒に遊んでおいで」と母は言った。
 宏児はそれを聞くと、水生に声をかけて、二人してうれしそうに出て行った。
 母は閏土に席を勧めたが、彼は一度辞退したが、ようやく坐った。長キセルを卓に凭せ掛けて、紙包みを差し出して言った。「冬で、何もありませんで、家で作った青豆の干したのですが。旦那さんに、…」
 「暮らしはどう?」とたずねたら、頭を揺らすばかり。
 「とても苦しくて、六番目の子も、もう手伝うようになったんですが、食えなくて、世の中も物騒で、どこも、何をするのも、理由もなくお金を取られて、作物も不作で、育てたのを売りに行っても、いつも損してばかりで、元手にもならず、また売りに出かけなきゃ、腐らせるばかりで、……」
 頭を揺するばかりで、顔は皺だらけだったが、石像のように、皺すらほころびようがないのだった。彼は、苦しいことばかりで、それを言い出せなくて、しばらく沈黙のままであったが、ようやくキセルを手にとって、黙々と吸い始めた。
 母がたずねたら、家の方が忙しいので、明日には戻らなければならない、と。また昼もまだだ、というので、自分で台所に行って、炒飯でも作って食べるようにと言った。
 彼は出て行った。母と私は彼の状況を知り、嘆息した。子だくさん、飢饉、苛税、兵隊や匪賊のユスリ、役人、郷紳たちが、寄ってたかって、彼をまるで木の人形のように、手も足も出せないほど、めちゃくちゃにしてしまったのだ。母は言った、引っ越しで持って行かないものは、みな閏土にあげよう。彼に欲しいものを選ばせよう、と。
 午後、彼はいくつか選んだ。長卓二竿、椅子四脚、香炉と燭台。それに台秤。また、ワラ灰も全部欲しいと言った。(我が家では煮炊きにワラを使うので、灰は砂地の肥料になる)私たちが出立するころ、舟で取りに来ることになった。
 夜、我々はとりとめのない話をして、翌朝はやく、彼と水生は帰っていった。
 それから九日が過ぎ、出立という日、閏土は朝早く来た。水生は来ず、5歳の女児に舟の番をさせていた。その日は一日中忙しかったので、話しをする暇もなかった。来客も多かった。送別の人、物を持って行く人、送別と物の両方兼ねる人も多かった。
 夜、我々が船に乗る頃、我が老屋のすべての、こわれかけた大小粗細なものは運びだされて、全くのカラになった。
 我々の船が進もうとしだすと、両岸の青山が黄昏の中で、濃い黛のようになり、連なって、船の船尾の方に去って行った。
 宏児と私は船窓にもたれて、ぼうーっとした外の景色を見ていた。彼が突然私にたずねた。「伯父さん、ぼくたちいつ帰ってくるの?」 
 「帰る? まだ出発してもいないのに、もう帰ること考えてるの?」
 「うん。水生と彼の処へ遊びに行くって約束したんだもん」黒い目を見開いて、たわいないことを考えていた。
 私も母も、茫然として、そして閏土のことに話が及んだ。母は言った。「あの豆腐西施の
楊さんがね、引っ越し荷物を整理しだしてから、連日のようにやってきてね。一昨日、灰の中から十何個もの皿と碗を探し出してね、議論の末、閏土が隠したんだと言ってさ、灰を運ぶときに、一緒に持ち出そうと:楊さんが発見して、鬼の首をとったように威張ってさ、あの犬じらし(我々の所で使う養鶏の器具:木盤の上に柵檻を乗せて、餌を入れて鶏は首を伸ばせば食べられるが、犬はじらされる故、かく言う)を掴むや、飛ぶがごときに走り去った。あんな高い靴底の纏足で、よくもまああんな速く走れるものよ。
 老屋はだんだん遠ざかった。故郷の山水もしだいに遠ざかったが、名残惜しさは特に感じなかった。私の周りには、目に見えない高い壁があり、私ひとりを孤独にさせ、とても滅入ってしまった。スイカ畑の銀の首輪の小さな英雄の像は、この前までは、はっきりと思い浮かべることができたのだが、もうぼんやりしてしまったことが、私の悲哀を痛切にした。
 母と宏児はもう眠ったようだ。
 横になって、船底のさらさらと聞こえる水音を聞き、自分の道を進んでいるのだと思った。私は考えていた。ついに閏土と隔絶した、こんなところに来てしまったが、我々の次の世代は、まだ気持ちを通じることができて、宏児は水生のことを想っているではないか。
彼らが、二度と私のように、かけ離れてしまわないように願った。その一方で、彼らが気持ちを通じ合ってゆくために、私のような辛くて苦しい暮らしをすることもなく、閏土のように、辛酸で神経を麻痺させられるような暮らしをしなくて済むように願った。また、他の人のように、生活の辛さゆえに、そこから逃避してでたらめな生き方をしないように、心から願った。彼らには新しい生活を始めてもらいたい、と。我々の経験したことのない新しい生活を切に希望する。
 希望、について考えたら、忽然、怖くなってしまった。閏土が香炉と燭台を下さいと言ったとき、私は心の中でこっそりと笑っていた。まだ偶像崇拝してるのか、と。いつ何時も、片時も忘れずに。私の今いう希望とは、私が手の中でこしらえた偶像ではないか、と。
ただ、彼の願望は手の近くにあるもので、私のは、茫としてはるか遠くにあるに過ぎない。
 朦朧とするうちに、目の前に海辺の紺碧の砂地が広がってきた。私は思った。希望とは、
もともとあるとも言えないし、無いとも言えない。それは正しく、地上の道と同じである。
その実、地上にも、もともと道はなかった。歩く人が多くなって道になったのだ。
    1921年1月
 
 
訳者 あとがき
この作品の最後の句は、第一次大戦とロシア革命の5年後に書かれた。5年間の、いわゆる古い体制を打ち破り、新しい社会制度が、人類社会、なかんずく軍閥や郷紳にでたらめにされてきた中国の新青年たちに、「希望」を与えるかのように歓迎された。
 作者は別のところで、「絶望の虚妄なること、希望に相同じい」という東欧の言葉を引いている。閏土のように、手足をもぎ取られた木の人形、希望のない自暴自棄にならざるを得ない暮らし。次世代が、そんなでたらめな理不尽な社会から抜け出せることを切望して。
絶望がその虚妄に達したとき、希望が見えてくる。
 
 
 
 

拍手[1回]

「ちいさなできごと」

1.
 郷里を出て、都に住み始めて、あっという間に6年過ぎた。その間、いわゆる政治がらみの事件は、何回も見聞きした。が、それらは私の心には、何の痕跡もとどめていない。もし、それらの事件の影響はと考えれば、私のかんしゃく癖を増長させただけであった、と思う。事実、私は日ごとに、人を軽蔑し、見下すようになってしまった。それがほんとうに心苦しく、いたたまれないのである。
 たったひとつ、とても意義深い、と感じたちいさなできごとが、その悪い癖から解放してくれた。それは今も忘れない。
 民国六年の冬、北風がぴゅーぴゅー吹いていた。が、私は生計のため早朝から出かけねばならなかった。路上には誰もいない。
やっとのことで、人力車をつかまえ、S門まで走らせた。しばらくすると、北風も小やみになり、路上のチリは吹き飛ばされて、きれいになり、車夫は白い大道をはや足でかけ続けた。S門に近づいたとき、梶棒にだれかがひっかかってゆっくり倒れた。倒れたのは老女だった。白髪混じりで服もぼろだった。道の端から急に車の前を横切ろうとして、車夫はさっとよけたのだが、彼女のぼろのチョッキは、ボタンをとめてなくて、風にあおられ、梶棒にからんでしまったようだ。幸い車夫は、その前に歩をゆるめていたのだが、さもなければ、老女は頭を打って出血しただろう。
 老女は地面に伏していた:車夫はすぐ立ち止まった。私は、女は怪我などしていないと思ったし、誰も見ているものもいないので、車夫はなぜ余計なおせっかいをするのかと思った。自分で問題を引き起こし、私の予定を狂わせるのはけしからん、と。
 それで、「何でもないよ。行こう行こう!」と命じた。
 車夫はすこしもとりあわず、さも聞こえないかの如くに、車をおいて、老女をゆっくりと助け起こし、腕を支えて立ちあがらせた。
 「どうしちゃったの?」
 「ころんで、けがしちゃった」
 私は思った。女はあんなにゆっくりと倒れたのを、見ていたんだ。けがなんかするものか。大げさにして、憎たらしい。車夫も余計なことを。自ら墓穴を掘って、どうすることが自分に一番都合がいいか、よく考えてみろ、と思った。
 車夫は老女の話を聞くと、何の躊躇もせず、腕を支えて、前方に歩いてゆく。訝りながらその進む先をみると、駐在所があった。大風の後で、外には誰もいなかった。車夫は老女の腕を支えながら、入り口に向かって行った。
 このとき、私は突然、一種異様な感じに打たれた。車夫のほこりだらけの後ろ姿が、一瞬の間に、大きくなり、歩み去るごとにだんだん大きくなって、仰ぎ見なければならないほどになった。そしてさらには、ある種の威圧感を感じ、おのれの、毛皮の外套の中にかくしていた卑小さを絞り出して、見せつけられたように感じた。
 私の気力はこのとき、ほとんど失せていて、呆然と坐ったまま動けなかった。何も考えられないほど、ぼーっとしていたが、駐在所から巡査が出てくるのを見て、やっと車から降りた。巡査は近づいてきて「彼はもう引けないから、別の車を雇うように」と言った。
私は考えもせずに、外套のポケットから銅貨をひとつかみ出して、巡査に渡して言った。
 「彼にやってくれ……」
 風は止んで、路はとても静かだった。歩きながら考えた。自分のことを考えることが、こわい気がしてきた。(余計なことを、と疑った)さいぜんのことは、しばらく置くとして、この銅貨は一体全体なんのつもりか。彼への褒美か?彼を裁く資格がこの俺にありや。自分に対して、答えをだせなかった。
 このできごとは今に至るも、しばしば思い出す。このために胸が痛み、自分自身のことを良く反省しようとする。この数年来、この国の文治問題とか、武力騒動などは、私が小さいころ習った「子曰く、詩に云う」と丸暗記させられたお題目と同様、一言半句も覚えてはいない。ただ、このちいさなできごとは、常に私の目の前に浮かび、時にさらにはっきりとしてきて、慙愧の念に堪えなくさせる。そして自らを新たにするように促し、勇気と希望を大きく持て、と励ましてくれるのである。
 1920年7月 (編集者注:1919年11月)
 
訳者あとがき
 これは、現代では、ほとんど見かけることのできないできごとであろう。百年前でも同じだったであろうが。江戸時代から明治初期の日本の籠かきや人力車夫も、はっきり言って、いわゆる「道中ゴマのはえ」的なのがほとんどであったのも事実である。
 だが、何人かの外国人が日本のタクシーに財布を忘れても、交番経由で、ホテルのカウンターに戻ってくるということに、驚嘆してくれることもある。大連の夕刊にも、日本人観光客のパスポートの入った財布が、お金ごと戻ってきたという記事が載ったこともある。
 
 民国六年のころにも、身は埃だらけの服を着ていても、著者の卑小さを恥じ入らせるほどに、正直を絵に描いたような車夫もいたことが、救いである。木枯らしがぴゅうぴゅうと吹きすさぶ、北京の城内。朝早くから車を引く車夫の話は、一服の清涼剤か。中国にも皇帝になりたがったような軍閥や、へたな政治家よりずっと人間らしい車引きが 何人かはいたのである。
 
 しかし作者が一番慙愧に堪えないのは、田舎から出てきて、都会のぎすぎすした生活の中で、車夫とかぼろをまとった老女を見下してしか、暮らしてゆけない自分に対する嫌悪
である。そして、そこから自分を新たにしようと反省させてくれた、庶民に出会えたことである。ちいさなできごとにすぎないが。

拍手[1回]

 孔乙己

訳者 まえがき
 神田神保町の交差点の西に、「新世界菜館」という辛くておいしいラーメンを食べさせる店がある。内幸町にいたころ、仲間と地下鉄に乗って食べに行った。店の2階には辛亥革命の同志たちが、日本に亡命してきたときの集合写真が、誇らしげに飾られていた。階段には花彫紹興酒の空の大甕が置いてあった。
 暫くして、その近くの店に「咸亨酒店」という看板が掛った。どこかで見たことがあるぞ、と思いを巡らしていたら、昔読んだ魯迅の小説の中の名だと思いだした。それで入ってみたが、いささか期待を裏切られた。店の名前から受ける印象は、万事うまく行く。この酒屋に呑みに来た者は、みな楽しく過ごせる、というような雰囲気を醸し出していたのだが。カウンターも無く、普通の中華料理屋であった。これから、翻訳を試みる。日本でもかつて飲み屋には、チロリというアルミか真鍮製の取っ手のついた、お燗用の器具を備えていた。紹興を訪ねたとき、同じものがあって、これはこの辺から来たんだな、と感心したことだ。
今では、大抵の店は、一升瓶を逆さにしてお燗し、徳利か小瓶に移して持ってくる。
もう水を足したり、まぜものするなどというスリルや、それをチェックするなどという、
客と店員の駆け引きも無くなったようだ。ちなみにチロリは漢字で銚の後に字画の多い難しい字を書く。興味ある方は、広辞苑でお調べ願いたい。
 
1.
 魯鎮の酒店のつくりは、よそと違って、通りに面して曲尺形の長いカウンターがあり、その中でお湯がいつも沸いていて、すぐに燗ができるようになっていた。職人たちが、昼時や夕方、仕事を終えて、一碗四文で、いやこれは20年前だから、今では十文はするだろうが、カウンターに身を預けて、熱燗を呑みながら、一日の疲れを癒していた。もう一文出せば、塩ゆでの筍や、茴香豆を肴にできた。十数文出せば、肉も買えたが、カウンターの客は、たいていは仕事着のままで、そんな贅沢はしなかった。
 長衫(清朝時代、読書人の着た足元まである衣服:訳者注)の連中は、店の奥の部屋に入って、酒肴を注文し、ゆったり坐ってくつろいでいた。
 私は12歳で、鎮の入り口の「咸亨酒店」に丁稚奉公にでた。マスターは私の顔を見て、はしこそうに見えないから、長衫の客には向かないと決め、外の仕事に回された。
外の客は、相手するのは、別に何の難しいこともなかったが、中には、酔って絡んでくるものもいた。彼らは常に、老酒を甕から、栓をひねって注ぐときから、チロリの底に水が残っていないか、そしてそれを熱湯に入れるまで、自分の目で確かめないと、気がすまない。こんなにチェックされたのでは、混ぜ物をするのは並大抵ではなかった。それで、暫くすると、マスターは、お前には無理だな、と言った。
幸い、口をきいてくれた人の顔で、首にはされずに、その後は燗をするだけの、ヤクタイもない仕事に回された。
 それからというもの、一日中、カウンターの中で、只管、自分の仕事のみに専念した。失業の憂き目は見ずにすんだが、単調な毎日で、無聊をかこった。マスターはいつも怖い顔をしているし、カウンターの客は、ぱっとせず、元気になりようがなかった。が、孔乙己が店に来ると、笑いが起こった。それで今でも覚えているのだが。
 孔乙己は立ち呑みする唯一の長衫だった。背が高く、顔は白かったが、皺の間にはいつも傷痕があった。ゴマ塩の髭もなんの手入れもせず、ぼうぼうだった。長衫とは言え、汚れ、ほころびていた。もう十数年、繕ったことも、洗ったこともないようだ。
 話すときは、いつも「なり、けり、あらんや」の文語調で、何を言っているのか、さっぱり分からなかった。孔という姓なので、手習いの最初に出てくる「上大人孔乙己」から、あだ名として孔乙己と呼ばれるようになった。彼が店に現れると、客はみな、彼を見て、笑った。「孔さん、また額に傷が増えなすったね」と声をかけるのだが、彼は取り合わず、カウンターに「熱燗二碗と茴香豆」と注文し、九文並べた。すると客たちは、故意に大きな声で、「また人の物を盗んだんだろう!」と茶化した。孔乙己は目をパチクリさせて、「諸兄はなんで潔白な余に、冤罪を……」と、「潔白?俺はこの目で、一昨日お前さんが、何(ホー)家の本を偸んで吊打されているところを見たんだぜ」。孔乙己は額に青筋を浮かべて、弁じて曰く「窃書は偸みにあらず……。窃書は……読書人の業、なんすれぞ、偸みなどと言えよう!」そのあとは、聞いても分からない「君子もとより窮す」とか、「なり、けり、あらんや」と続き、衆人をどっと笑いに引きずり込んだ。店中が、元気になった。
 客の話しによれば、彼はもとは読書人で、ただ竟に進士(科挙の合格者)にはなれずじまい。暮らしに困って、乞食寸前にまで落ちぶれた。幸い、字がうまいので、古書を書き写すことで、生きてきた。しかし悪い癖があり、酒が好きで、怠け癖があり、暫くすると、人も古書も紙も筆硯も失せてしまった。そんなことが数回に及ぶと、もう誰も彼に書写を頼まなくなった。それで、彼はやむなく時には窃盗をせざるを得ぬ仕儀となった。
 ただ、私の店では品行はましな方で、つけはきちっと払った。もちろんたまには手元不如意で、黒板に記されたが、ひと月内に払って、黒板の名を消した。
 孔乙己は半碗ほど呑むと、さきほど真っ赤になった顔も徐々にもとに戻った。隣で呑んでいた客が「孔さん、お前さん本当に字を知ってなさるのかい?」とおちょくった。彼は、相手にするのも馬鹿らしいと、無視した。彼らは追い打ちをかけるように、「お前さんは、どうして秀才(科挙の合格者)のはしくれにもなれなかったの?」彼はみるみる、どうしようもできないほどオロオロして、顔面は灰色になり、口もなにやらモゾモゾしだしたが、
「なり、けり、あらんや」の類で、一言も分からなかった。これを見て、衆人はどっと笑いだし、店中はにぎやかになった。
 こうしたとき、私は客と一緒になって笑ったが、マスターは怒らなかった。マスターも彼が来ると、いつもの質問をして、人を笑わせるのだった。孔乙己は、客と話しをしてもしょうがないと思って、子供を相手にするしかなかった。ある時、私に「君は本を読んだことがあるかい?」と聞いた。私がいい加減にうなずいていると、「ほう、本を読んだことがある。…… じゃあひとつ試してみるか。茴香豆の茴の字はどう書くかね?」私は乞食同然の者に、私を試験する資格などあるものか、と考えて顔をそらして取り合わなかった。
 彼はだいぶ経ってから、丁寧な話し方で、「書けないかい。……それじゃ教えてあげよう。
覚えておくといい。将来マスターになったとき、帳面に書かなきゃならんからね。」私はマスターになるのは、とても遠い先のことで、それに今のマスターだって、茴香豆など帳面に書いたこともない:おかしなことを言うな、と、うるさくなってぞんざいにこたえた。
「教えてもらわなくても、知ってるよ。草冠に1回2回の回でしょ」。孔乙己はとてもうれしそうに、二本の指の長い爪で、カウンターを敲いて、うなずいて「正解、正解!……。
じゃあ、回の字には四つの書き方があるのを知ってるかい?」とまた訊いた。私はもう、うんざりして、口をとがらせてその場を離れた。彼は指先に酒をつけて、カウンターに字を書こうとしたが、私がまったくその気になっていないので、嘆息して、とても残念そうな顔をした。
 近所の子供たちも、店の賑やかな笑い声を聞きつけて、それを見たさに集まってきて、孔乙己を取り囲んだ。彼は子供たちに、茴香豆を一人一個ずつ与えた。それを食べ終わっても帰ろうとせず、皿の中を覗き込むのだった。彼はあわてて、五本の指で覆って、腰をかがめて言った。「もうないよ。もうたいして無いんだ。」そして身を起して、豆を見、顔をゆすって、「多ならず、多ならんや、多ならずなり」と例の調子。そこで子供たちは、笑いながら、帰って行った。
孔乙己は、このように人を愉快にさせてはくれたが、彼が来なくても別にどうということもなかった。
ある日、多分、仲秋節の二三日前だったか、マスターは帳面をつけながら、黒板を下ろして、「孔乙己は長いこと来てないな。十九文貸しがある。」と言った。確かにもう長いこと来ていない。と、客の一人が言った。「来られるわけがない。足を折られたんだから!」
マスターは「おおー!」と、客は「相変わらず偸んでいるのさ。今回、何を血迷ったか、
丁挙人の家に入ったんだ。彼の家の物は偸めっこないのに。」「それで?」「どうなったってか。始末書、書かされ、夜までぶたれて、腿を折られたんだ。」「それから?」「腿を折られたんだよ、それからは知るもんか! 多分、死んだだろうよ。」マスターはもう何も聞かず、帳面つけに戻った。
 仲秋節も過ぎ、秋風が冷たく感じられ、まもなく初冬という頃、一日中、火のそばにいたが、綿入れを着なきゃ、寒くてたまらなかった。そんなある日の午後、客は一人もいないので、目を閉じて坐っていた。忽然「熱燗一碗」という声がした。小さな声だが、聞き覚えのある声だ。目を開けてみたが、誰もいない。立って外を見たら、孔乙己がカウンターの下で、しきいに向かって坐っている。破れた袷を着て、両脚を丸め、蒲の包を尻に敷いて、荒縄で肩から吊っている。私の顔を見て、「熱燗一碗たのむ」と言った。マスターは首を伸ばして、「孔乙己かい?十九文つけが残ってるよ。」孔乙己は、呆けた顔をして、仰ぎ見ながら、「そいつは今度払うから、今日は現金で払うから。酒はいいやつをたのむよ。」
と言った。マスターはいつもと同様、笑いながら「孔乙己、お前さんまた何か偸んだな!」
と言った。彼も、今日は何を弁解してもしょうがないと考えてか、「人を笑い物にするな!」
と一言。「笑い物?もし偸んでなきゃ、なんで腿を折られたんだい?」孔乙己は小さな声で、「ころんだんだ、こ、こ、ころんで……」彼の目は、もうそれ以上言ってくれるなと、懇願しているようだった。このとき、すでに何人かが入ってきていて、マスターといっしょになって笑った。
 私は燗をした酒を持って行き、しきいの上に置いた。彼は破れた着物の隠しから四文取り出して、私の手に乗せた。彼の手は泥だらけだった。この手でいざって来たのだ。しばらくして、呑み終えると、店の者たちの笑い声を背に、この手でいざりながら、ゆっくりと去っていった。
 その後、また長いこと彼を見かけなかった。その年も暮れようとするころ、マスターは黒板を下ろして「孔乙己はまだ十九文残ってる」とつぶやいた。翌年の端午の節句にも、また言った。「孔乙己はまだ十九文貸し」。仲秋節になった。もう何も言わなくなった。
 また年の瀬を迎えようとしていたが、彼を見ることはもうなかった。
 今に至るも、ついに彼を見たことはない。
 多分、孔乙己はきっと死んでしまったんだろう。
    1919年3月        

拍手[3回]

狂人日記


某君兄弟、名は秘すも、余が中学時の友なり。われ故郷を離れしより年ふり、音信も稀になりしが、数日前、その兄弟の一人が、病に伏すと聞き、帰郷の折に見舞いし。患いしは弟の由。遠路忝し、と兄は謝す。
病は癒え、任官の話しあり、既にさる地に、赴任せりと、呵々大笑し、日記二冊を余に見せ、当時の病の様も知られん。君になら見せても構わぬ、といって呉れた。帰りて、一読するに、患いしは、「被害妄想」のたぐい。ことばも乱れ、順序もなく、荒唐の話も多い。日付はないが、墨も字体も不揃いゆえ、いっきに書かれしものでないことが知られる。脈絡ある文もあり、そを取り出して一篇とし、医家の研究に供す。文中の誤字は一字も易えず。ただ人名は、田舎の人で、世に知られし者はないゆえ、一向に構わぬが、すべて易えた。書名については、本人、癒えし後に題せしにより、改めはせずに置いた。
(民国)七年四月二日 記す。
 
1.
今夜はとても良い月が出ている。
 こんないい月を見なくなって三十年;今日は明月が見えたので気分爽快。これまでの三十余年は、まったくどうかしていたのだ。
用心せねばならぬ。さもないと、あの趙家の犬は、なぜ俺をにらむのだ。俺を怖がるのは、きっと訳があるに相違ない。
 
2.
今日はまったく月がない。どうもおかしい。朝、用心して外に出たら、趙貴翁が、うさんくさそうな目で俺を見やがる。俺を怖がっているようだし、害そうとしているようでもある。また、ほかの奴らも七、八人、顔を寄せ合って、俺のことをひそひそ話している。俺がそれに気付くのを恐れてもいる。通行人も同じだ。一番凶暴な奴は、口を開いて、俺にあいそ笑いする:俺は頭から足の先までぞっとした。奴らが手筈を整えつつあるのを悟った。
 だが、俺は怖くないふりをして、歩き去った。前方の子供たちも、俺のことを話している:目の色は、趙のと同じだ。顔色もどす黒い。この子たちも何の恨みがあるのか考えたら、こわくてたまらなくなって、「どうしてだ?」と叫んだら、やつらは逃げて行った。
 俺は考えた:趙貴翁は何の恨みがあるのか。通行人もまた何の恨みがあるのか:二十数年前に、古久さん家の帳簿を踏んで駄目にしたとき、彼が怒ったことくらいしか、思い浮かばない。趙貴翁は彼とは面識ないが、噂に聞いて、それで彼に代わって怒っているのか:通行人たちにも俺に無実の罪をきせるように、仕組んでいるのか。だが子供たちはなぜだ?あのころ子供たちはまだ生まれてもいなかったのに、どうして今日は怪しげな目つきで俺を見るのか。俺を恐れているようでもあり、殺そうとしているようでもある。俺は本当にこわくなってきた。どうしてか訳がわからない。俺の心はとても傷ついた。
 わかったぞ。奴らのおふくろや親父が教えたのだ。
 
3.
 夜はどうしても眠れない。物事はしっかり研究して、はじめて分かるものだ。
 奴らは、知県(旧体制の地方役所の長、犯罪者を裁くこともする;訳者注)に首かせを架けられた者や、郷紳に殴られた者、役人に女房を寝取られた者もいるし、高利貸しに追い立てられて、親父やお袋が首をくくったのもいる:彼らの顔色は、あの頃は昨日のように恐ろしくもなかったし、そんなに凶暴でもなかったのだが。
 一番不思議なのは、昨日、町で見かけたあの女が、息子をぶつときに口走った言葉だ。
「あんた、もう!何回もかみつかなきゃ、気がおさまらないよ!」その時、目は俺の方を見ていた。俺はびっくりして、腰も抜けそうになった。どす黒い顔に白い歯を剥き出しにした連中は、どっと笑い出した。陳老五がそばに来て、俺を引っ張って家に連れ戻してくれた。
 家に戻っても、家人はみな、知らんふりしている:彼らの目の色も奴らと全く同じだ。書斎に入れられると、外からカギをかけ、まるで小屋に追い込まれた鶏や鴨のようだ。これでますます訳が分からなくなってしまった。
 何日か前、狼子村の小作人が、凶作の報告に来たとき、兄に話した。彼らの村で大悪党を皆で殴り殺した:数人がその悪党の心臓や肝臓を取り出して、油でいためて食べた、という。食べると、胆が太くなるのだ、と。俺が口をはさんだら、奴と兄はじろっと俺を見据えた。今日、やっと分かった。彼らの眼光が、外の奴らとまったくそっくりなわけが。
 思い出すと、頭のてっぺんから足の先まで、ぞっとする。
 彼らは人間を食うんだ。俺を食わないともかぎらない。
 あの女の「かみついちゃうぞ」というのも、あのどす黒い顔で歯を剥き出す笑いも、数日前の小作人の話も、符合している。彼らの話にはみな毒があり、笑いの中に刃がある。彼らの歯が真っ白に並んでいるのは、人を食うためだ。
 思うに、俺は悪人ではないが、古久家の帳簿を駄目にしてからというもの、どうもやばいことになったようだ。連中は何か別のたくらみがあるようで、俺には見当もつかない。
連中は、仲たがいすれば、すぐ相手を悪党呼ばわりする。兄貴が俺に論文の書き方を教えてくれていたころ、どんな良い人物でも、そいつをけなしてやると、兄貴は褒めてくれた:悪人に対しても、その実、良いところもあると書くと、彼はすぐさま、「天を翻すがごとき妙手。衆の意見とは異なる明察。」と褒めてくれた。彼らは一体全体この俺をどうしようとするのか。分からない:この俺を食おうとしていたのだから。
 物事は、すべからくよく研究しなければ分からない。古来、常に人肉を食ってきた。俺もまだなんとなく覚えてはいる。が、そんなにはっきりとは覚えていない。それで歴史の本を開いてみた。本には年代がない。だが、どの頁にもくねくねした字で、「仁義道徳」とある。夜はどのみち眠れないから、深夜まで仔細にながめていたら、字と字の間から、別の字が見えてきた。すべての頁に見えてきたのは、「人食い」という字だ。
 歴史書にこんな沢山書かれている。小作人もなんだかんだと話したが、にたにたと笑いながら、俺を怪しげな目つきで見ていた。
 俺も人間だ。奴らは俺を食おうとしている!
 
4.
 朝、静かに座っていた。陳老五が飯を持ってきた。一菜と一匹の煮魚。この魚、目は白くて硬く、口をあけて、あの人食いの連中と同じだ。食べてみたが、ぬるっ、とした感触で、魚肉か人肉か分からん。呑み込んだハラワタなどみな吐き出してしまった。
 陳老五に言った。「俺は気がめいってしまったから、庭を散歩してくる、と兄貴に伝えてくれ。」老五は返事しないで、去ろうとしたが、ふと立ち止まって、扉を開けにきた。
 俺は出かけもせずに、奴らが果たしてどんな手を使うのか考えた:彼らは決して俺を放したりしないだろう。果たして、兄はどこかから爺さんを連れてやってきた:目は凶暴な光に満ち、眼鏡の端から、こっそり俺を見た。兄は言った。「今日はだいぶ良いようだな」俺は「はい」と答えた。兄は、「今日は何(ホー)先生に診ていただく」と、「分かりました」と俺は答えた。だが俺は、この爺さんは下手人が変装しているってことぐらい、わからないわけがない!脈を見てしんぜよう、とか言って、肉づきを見ようとしているに違いない:奴はこの功により、一片の肉にありつけるってわけさ。俺も怖がっちゃいない:人肉は食ったことないが、俺の胆は奴らより太いのだ。両手を差し出し、奴がどんな手を使うか、見てやろう。じじいは、座って、目を閉じ、しばらくさすっただけで、じいーっとしたまま:すると、鬼のような目を開いて言った。「つまらぬことをくよくよ考えないで、静かに数日養生していれば、じきに良くなりますよ。」
 つまらぬことをくよくよ考えずに、静かに養生だって!太れば、それだけ多くの肉を食べられるってわけだ:そんなことしたって、俺には何にも良いことはない。なんで「良くなる」ことができるものか。この手合いときたら、人肉を食いたがるくせに、祟りを恐れて、なんとかそこを、ごまかそうとして、直接手を下そうとはしない。笑止千万だ。
こらえ切れずに、声に出して笑ってしまったら、とても愉快になった。俺としては、この笑いの中には、義勇心と正気があると思った。じじいと兄は顔色を失った。俺のこの勇気と正気に圧倒されたのだ。
 だが、この勇気があるというのは、彼らにとってより一層、俺を食って、勇気のおこぼれに預かろう、と思わせることになってしまう。じじいは、門を出て歩み去る前に、小声で兄貴に言った。「はやいとこ食べてくださいよ」、兄はうなずいていた。なんと!
兄貴もグルか!この大発見は意外であったが、想定内でもあった。いっしょになって俺を食おうとしているのが、俺の兄貴なのだ!
 人肉を食うのは俺の兄だ!
 俺は人食いの弟だ!
 俺自身、人に食われてしまっても、やはり人食いの弟なんだ!
 
5.
 ここ数日、少しひるがえって考えてみた:あのじじいが、下手人の変装でなく、本当の医者でも、やはり人食い人間にちがいない。彼らの祖師の李時珍の「本草なにやら」にも、
人肉はこれを煎って食すことも可、とはっきり書いてある。それでもまだ、自分は人肉を食わない人間だと言えようか?
 我が兄に至っては、冤罪だと許すわけにはゆかない。俺に学問を教えてくれたとき、自ら、[子を易えて食す」と説いた。また一度などは、たまたま悪人の話に及んだとき、彼は言った。こいつは殺すだけでは不十分だ。「肉を食らって、皮を敷いてその上で、寝てやる」くらい憎むべし、と。当時俺は小さかったので、びっくり仰天して、長いこと、心臓がどきどきして止まらなかった。一昨日、狼子村の小作が心肝をえぐって食べた話をしたとき、彼は少しも不思議がらず、首肯していた。これから判ずるに、彼の考えは昔と変わらず、残忍なままである。
 「子を易えて食す」ことができるなら、何でも易えられる。どんな人間でも食すことができる。俺はかつて彼が道理を説くことを聞くだけで、ほかのことは気にせずにきた。今、分かったのだが、彼が道理を説いていたとき、唇のまわりは、人肉の油にまみれていただけでなく、心の中は、人肉を食おうという気持ちでいっぱいだったのだ。
 
6.
 真っ暗な闇。今、昼なのか夜なのか。趙家の犬がまた吠え出した。
 獅子のごとき凶暴な心、兎のごとき臆病さ、狐のごとき狡猾、… …。
 
7.
 彼らの手口がやっと分かった。直接手を下すことはしない、またようやらない。祟りを恐れているのだ。だからみなして、連絡をとり、網をしかけ、自ら死ぬよう仕向けるのだ。数日前、町で見た男女の様子と、ここ数日の兄のやり口からすると、十中八九、その通りと思う。理想的には、腰ひもを梁にかけ、自分で首を吊る:こうなれば殺人罪に問われず、願望成就だ。天地も揺るがさんばかりに大喜びだ。たとえそうでなく、おびえおののいて、悶死したとしても、少々やせ衰えはするが、まずまずの首尾だということだ。
 いずれにせよ、彼らは死肉しか食えないのだ!何かの本で見た、ハイエナは、目つきと姿はみすぼらしい動物で、死肉のみを食い、大きな骨も噛み砕いて呑み込んでしまう、と。思い出すだけでぞっとする。ハイエナは狼の仲間で、狼は犬の先祖だ。一昨日趙家の犬が、じろっと俺を睨んだが、奴も陰謀の仲間か。とっくに打ち合わせ済みというのか。じじいの目は、下を見ていても、俺をゴマ化すことはできない。
 一番哀れなのは、兄貴だ。彼も人間なのだから、全然怖くないというわけでもあるまい:それなのに、奴らと示し合わせて、俺を食うのだから。それも慣れっこになってしまって、もう悪いこととも思わなくなってしまったのか。良心をなくしてしまった、確信犯か?
 俺は人肉を食らう人間を呪詛する。まず兄からだ:人肉を食らう人間を改心させるように、勧めなければならない。まず、彼から始めなきゃならない!
 
8.
 しかし、こんな道理は彼らもとっくに分かっているはずなんだがなあ……。
 男がやってきた:二十歳ぐらいか、顔はぼやけている。満面に笑みをたたえ、俺に会釈する。彼の笑いはうそくさい。俺は尋ねた:「人肉を食うのは正しいことか?」、彼は、笑ったまま「飢饉でもなきゃ、人肉など食うものか」。俺はわかった。彼もグルだ。人肉を食うのが好きなのだ。そこで勇気を出して「ほんとに?いいの?」と重ねて聞いた。
「そんなこと聞いて、何になるのだ。冗談はよせ。……。  今日は良い天気だね。」
 天気はいい。月もとても明るい。しかしもう一度君に聞きたい。「いいのかい?」
 彼は釈然としない様子で、あいまいに「いいことじゃない」と答えた。
 「よくない。じゃあなぜ食ったりするんだ!」
 「そんなことはない…」
 「そんなことはない、だって!じゃあなぜ狼子村では今も食っているし、’真っ赤でぴちぴちした’なんて本に書いてあるんだ?」
 彼の顔は鉄のようにどす黒くなった。目を開いて、「そんなことがあったかもしれぬが、昔からそうだったんだ。」
 「昔からそうだったって。じゃあ、いいのかい?」
 「君とこんなこと話したくない:要するに君はこんなこと話すべきじゃない。そんな話をすると君は自分を誤ってしまうよ。」
 俺はびっくりして跳び上がった。目を開けたら男はいなくなっていた。全身汗だくだった。
彼は兄よりずっと若い。しかし一味なのだ。これは彼の親父やお袋が教えたに相違ない。彼は自分の子供に教えたかもしれない:だから子供たちも残忍な目つきで俺を見るのだ。
 
9.
 人肉を食いたがる人間は、人に食われることを恐れ、疑心暗鬼で互いの顔を見る。
こんなことはさっぱり忘れ、安心して仕事をし、歩き、食べて寝て、すごせたらどんなに気持ちがいいだろう。それには、一歩でいいから方向を変えさせねばならない。連中は、親子・兄弟・夫婦・友人・師弟・仇敵・面識もない者どうし、グルになって互いに勧め、牽制し合って、決してこの一歩を踏み出そうとしないのだ。
10.
 朝早く、兄に会いに行った:彼は広間の前で空を見ていた。後から扉を背にして、静かに、穏やかに彼に声をかけた。
「兄さん、話があるんだけど」「なんだい」と彼は振り向いて、顔をタテにふった。
「ひとことですむ話だけど、うまく言えないんだ。兄さん、昔ね、野蛮人はみな、人肉を食べてたんでしょ。それから後になって、気持ちが変わって、ある者は食べなくなり、一部の者は、向上しようと考えて、真人間になった。でもまだ多くの人間は食べ続けた。虫みたいに。それでも中には魚になり、鳥になり、猿になって、そうして人間になった。でも向上心がないから、今でも虫とおんなじ。人肉を食う人間は、食わない人間と比べると、とっても恥ずかしい筈だよね。虫が猿に恥ずかしいと感じるより、ずうっと、ずうっとだよね。易牙(伝説上の料理名人)が、自分の子を煮て、桀紂に供したのは、太古のことだけど、盤古(天地創造者)の天地開闢以来、易牙の子を食べるまで:易牙の子から、(辛亥革命前の烈士)徐錫林までずうっと食べてきた:徐錫林から今に至るまで、狼子村で捕まえた悪党まで食ってきた。去年城内で罪人を処刑したとき、肺病患者にその血をマントウにつけて嘗めさせたというじゃないか。
 「奴らは私を食おうとしている。あなた一人なら、もともとそんなことは考えもしなかったのに:どうして、仲間に入ったの?」「人肉を食らう人間はどんなことだってやる」
「彼らは私を食うことも、仲間同士で食うこともする。でもほんの一歩、方向を変えるだけで、すぐ改心できる。平和に暮らせる。昔からの習慣かもしれないけど、今日からちょっと向上心を持って、人肉なんか食うことはできない、と言って欲しい。兄さん、私は兄さんがそう言えると信じている。一昨日、小作人が年貢を負けてくれと頼みに来た時、
そんなことはできない、と断ったじゃないか。」
兄は初め、冷やかに笑っていたが、声を荒げ、眼光は凶暴になり、彼らの隠し事を暴かれたと思い、顔もどす黒くなった。門の外に連中がいたが、その中に趙貴翁と犬もいて、ぞろぞろと入ってきた。中には顔の分からないのもいる。布を被っているのだ。ほかの者は以前と同様、どす黒い顔に真っ白い歯で、口をすぼめて笑っておる。奴らはグルで人食いだと分かった。が、彼らの気持ちは少しずつ違っていて、ある者は昔からこうなんだから、食うべきだ、と。しかし一部の者は食うべきじゃない、と思ってはいるが、やはり食いたい。そしてまた、他人に自分の気持ちを見透かされるのを恐れている。だから俺の話しを聞くと、ますます憤慨するのだが、口をすぼめて冷笑している。 このとき、兄は忽然、凶相を呈して、どなった。「出てゆけ! 狂人は見せ者じゃない!」
 俺はこのとき奴らの巧妙さを知った。改心しないばかりでなく、とっくに手配を済ませていた。俺に狂人の名を着せて、将来、俺を食っても泰平無事。それだけでなく、ほかの人間が実情を嗅ぎつけるのを心配しているのだ。小作が言った通り、みんなして悪党を食ったのも、まさにこの手口だ。やつらのいつもの手だ。 
 陳老五が怒って戻ってきた。どうして俺の口を塞ぐことができるものか。奴らにどうしても言っておかねばならぬ。」
 「汝 悔い改めよ!心そこから悔い改めよ!やがて人肉を食らうことは許されなくなる。
この世で生きてゆけなくなるぞ。」「それでも改心しないならば、自分たちも食いつくされてしまうのだ。たとえ次々に子を産んでも、真の人間に滅ぼされる運命なのだ。狩人に殺される狼や、虫けら同様。滅ぼされるのだ。」
 連中は陳に追い出された。兄もどこかに姿を消した。陳は部屋に戻るように、と言った。
そこは真っ暗だった。梁と垂木が頭上で揺れだした。すると揺れが激しくなり、俺の上に覆いかぶさってきた。とても重いので、身動きが取れなくなった。俺を押しつぶそうとしている。だが、この重さは偽だと分かったので、なんとか抜けだした。大汗をかいた。それでも言わねばならぬ。「汝 悔い改めよ!心そこから悔い改めよ!」
「これからはもう人間を食うことは許されぬのだ ……。」
 
11.
 太陽も出ず、扉も開かぬ。一日二回の食事。
 箸をとりあげて、兄のことを思った:妹が死んだのは、すべて彼の仕業だと分かった。妹は五歳。可愛い、可憐な顔が眼前に浮かぶ。お袋は泣き通しだった。彼は泣かないで、と言った:きっと自分が食べてしまったので、とても申し開きのできない気持ちだったのだ。もし今もまだ申し訳ないという気持ちが、残っているのなら ……。
 妹は兄貴に食われたのだ。お袋は知ってか知らでか、俺には分かりようもない。多分お袋もうすうす知ってはいただろう。が、泣いていたときは何も言わなかった。多分、しょうがないとあきらめていたのだ。俺が四、五歳のころ、広間の外で涼んでいたとき、兄貴が言った。親父やお袋が病を患ったら、子たるもの、自分の肉を切って、よく煮て供するのが、孝行というものだ。お袋はそんなことしちゃいけない、とは言わなかった。一口食えるなら、丸ごとだって食えるってもんだ。ただあの日の泣き方は、今思い出しても、実際問題、心が千切れそうになる。本当に奇怪至極だ。
 
12.
 もう考えられなくなった。
 四千年来、いつも人肉を食ってきた国。今日初めて分かった。俺もそこで生きてきた。兄が丁度、家のことを取り仕切っていたとき、妹は死んだ。彼はおかずの中に、こっそりと入れて、俺たちに食わせたかもしれぬ。
 俺も知らぬ間に、妹の肉をいく切れか食わなかったとは限らぬ。今、その番が俺に回ってきた。……。
 四千年の人食いの経歴を持つ俺、初めは知らなかったが、今やっと分かった。
真の人間にはめったにお目にかかれないってことが!
 
13.
 人肉を食ったことのない子供は、あるいは、まだいるだろうか?
 子供を救え!
         1918年4月、(2010年5月2日訳)
 
訳者あとがき
 40年以上も前、岩波の魯迅選集で竹内好訳の「狂人日記」を読んで、中国文学の世界に入門した。魯迅があらがって打ち倒そうとした鉄製の壁「礼教」の呪縛、「人食い」で象徴された「旧社会の制度」は、1949年に一旦は引っ繰り返されたかに見えた。しかし、
文革の10年、改革開放の30年を経て、中国で生活していると、多くの老人から「旧社会に戻った」という嘆息を耳にする場面に遭遇した。
1.「駱駝祥子」の中の台詞。貧乏人の車引きは売力、女(娼婦)は売肉の世界。
2.囚人の内臓を販売するという噂。
3.広州の米領事館付近の飯店に見る、何十組もの養子縁組で米国に行く幼児たち。
4.戸籍のない幼児たちの売買。人さらい。学童を無断で連れ去り労働に従事させる。
5.全国各地の外資系企業の単純労務工の採用、延長に関わる人事総務部長のピンハネ。
  その額たるや、ベンツなどいとも容易に手に入る。
6.各省や地方都市の省長や警官、司法関係者などの汚職、とくに夜の商売にからむ、
  人間の欲望を満たすために存在する商売への目こぼしとその見返り。
 枚挙に暇のないほどである。
7.社会主義という鉄製の甲羅を脱ぎ捨てざるを得なくなった中国が、三千年の伝統に
 戻ろうとするごとき動きのなかで、魯迅のえぐりだした「狂人日記」の世界が再演されてはならない。
8.世界各国に中国語の普及のための学校を建てたのは良いが、何も「孔子学院」とする
 ことはないのではないか。ドイツのゲーテ書院にならって、魯迅書院として欲しかった。
9.尊敬する竹内好訳に対して、僭越ながら若輩が蟷螂の斧のごとき訳文を書いてみた。
 40年の中国文学との関わりの中で、中国人から肌で感じ取ったもの、言葉を耳の奥
から、呼び戻しながら、中国語のニュアンスを日本語に置き換えてみた。誤訳その他、
 諸先輩のご指正を仰ぐ次第である。 

拍手[1回]

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R