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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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軍人たちへの痛言

軍人たちへの痛言
 軍人の格として最も高尚なのは、敵を破り、国を保つ責任である。その為に臥薪嘗胆、戈を枕に旦(朝)を待つ。軍人の自戒や如何!馬革に屍を包み、将を斬り、旗を奪うは、軍人自ら期すことなり、また如何!
 今吾紹興の軍人、自ら如何とするや?群れて閑遊する者あり、殴りあい喧嘩する者あり、娼館に宿し、歓を尋ねる者あり、賭博を捕え私に罰する者あり。身は軍・国・民の重い任務を帯びながら、無聊無頼の悪劇を演じるのは、その紀律が厳粛でなく、訓練不良のためか?そもそもガサツな根性ゆえ、教育訓戒は施しがたいせいか?そんな格の軍人を北伐に充てるのでは、中華民国の前途は危うい!
 樹(魯迅の名)曰く:雑草を除かねば、よい苗は興らず、教練の責めを司るものは、何ゆえこの群を害す馬を除去し、誠実で純潔な兵士を求め、まっとうな義勇の軍隊を作らないのか。
 且つ又、この北伐を宗旨とし、東関鎮に一社、闘鶏場に一社、第五中に一社を設け、各自費用を集め、各自兵を招く。
共に紹興にいるのに、勢力は散砂と同様、互いに連絡して気を一にできぬとは、これ誠に樹の理解できぬ所なり。

訳者雑感:
 魯迅が本名の一字、樹を使って、1912年1月16日、紹興の「越鋒日報」の「自由言論」欄に載せたものという。前年に辛亥革命が起こって、紹興にも中華民国の軍隊ができたのだが、実情は魯迅の指摘する通り、清国時代の兵隊と何ら変わらぬ、というより更に劣化したようだ。「好漢は兵にならず」と言われる通り、品格の優れた人間は兵隊にはならず、軍隊には入らない。それを痛切に感じて、まっとうな義勇の軍隊を作らねば、と訴えている。しかしこれはまさしく蟷螂の斧だ。誰も彼の文章に耳を貸さない。
 最近、習主席が軍人の着用する迷彩服を着て、全員が迷彩服の軍人たちの中で、いろいろ指図する映像が流されている。解説者のコメントは彼が作戦指揮センターのセンター長に就任したからとのこと。政治で党と国家のトップであり、首相の権限であった経済面でもその責任を取り上げた形だが、軍事面でも、共産党の軍隊である解放軍のトップでありながら、更に作戦指揮センター長も務めるというのは、それまでのそれに相当する任務を負っていた人間から、その権限を取り上げたような印象だ。余ほど部下を信じられなくなっているのだろうか。    2016/04/27記

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地質の続き 第六 結論

第六 結論
 私はすでに地質の分布と生成、その関連で鉱物埋蔵量など述べ、覚えず敬愛が生じ、種々憂慮し、筆を置いて大いに嘆息し、吾故国はどうなるかと思った。黄帝の神は嘯吟し、白人(帝国主義者)の害が踊っており、その足跡の至るところ、これに随って探索し、すでに鉱山採掘権を得て、遂に伏して力を潜め、某と某は均しく我が所有に非ず。今またロシアが我が金州復州海竜盖州の諸鉱山を探索した。初め新の商人某が自ら採掘を申請し、奉天将軍これを許し、既にロシアと闇取引した由で、その契約を破棄させんとしたが、ロシア人は激怒し、要求を欲するままにした。嗚呼、今まさに滅ぼうとしている国、翼々これを愛護しようとするも、猶至らぬを怖れ、なぜ盗人を室に入れ、これに協力してタル木を折り、棟をたわめ、大厦の傾くのを速めるのか。今また吾浙江をみるに、聞く所では、浙江の紳士某は某商の故智を窃し、その実、外人の手先となって契約を結んだ由。もし吾浙江人が政府のように、起ちてこれを壊せば、その結果はまたロシア人の金州の諸地の如くになるのみ。試みに、尻込みがちで、文弱な浙江人は老病で目もかすみ、耳も遠いような政府はどういう権力で以て敢えてその鉾先を止められようか:口を閉じ、自ら身を隠しても猶、禍に遭い、この凶暴な連中はひとえに外人に提案してこれを促して曰く:「何ゆえに吾浙江の鉱山を探索せぬや」と。嗚呼、険悪でこっそり人を陥れるのを謀り、猛鷲は口を開いており、その亡ぶや、その亡ぶや何の疑いがあろう。吾は将来を予測するに、吾浙江を剽窃される恐れは、北方なら目がぼーっとして見えぬということはない。彼等はすでに外人の銃刀に慣れ、淫りにこの徳政を掠し、伏して媚びてへつらい、以て未来の聖主の歓を博し、最愛の妻女を奪われても、猶敢えて怨むことなく、更にはどうして愛着の少しも無い片土あらんや!吾浙江がそうでなければ、台、処、衢、厳の諸府は、教士の説法により、なお巨大な禍をもたらす。況や忽然、碧眼白晳の異人が経営を指揮して、ガンガン吾国土を日々掘るのを見れば、きっと一種不可思議な感がし、脳に浮遊し、驚きおそれ、憤慨し、手を挙げ体を真っ直ぐに伸ばし、立ち上がり、これを刈り取って快を得る。すると外人はまた口実を得て、要求を出し、示威し、盗賊は束になってやってきて、義に就く者の血が流れる惨事が、また南方で起こるかも知れぬ。そうでなくとも、他の国は勢力均衡の説を持ち出し、群れとなって土地を奪い、瞬く間に瓜分し、国を滅ぼす禍を自ら速めるだけだ。幸いにして数十年後についに独立を得、栄光を奪い合うのは吾夢に符合するが:しかし吾浙江の鉱産物は他省より遜色あるのに、外族を入室させ、空になるまで掘らせたら、工商の諸業が栄えるのは困難になり、失敗の連続で、貧乏と病が待ち受けている。嗚呼、浙江人は戎の謗りに甘んじず、どうしてそれを挽回しようと考えないのか。
 これを如何にして救うか?曰く:子供が群児の食を奪うのをみれば、自分でそれをつかんで食べる。それを師とするは可である。中国は弱いが、吾仲間は中国の主人で、大群として結合し、起って興業すれば、群れてくる児はずるいが、敢えて耐えて阻喪することなければ、彼らの要求の機会は絶える、郷土の人は、お互いによくあえば、理を以て諭すことは可能で、異族に劣ることはない。目でにらみ返し仇を打てば、民は変わり、禍は止む。況や工業が繁盛して興り、機械を使うようになれば、文明の影響は日に日に脳内に記され、ずっと続けてゆけば、遂に良い結果を生む。吾は豪傑侠客の士は、必ず悲しい思いをして、以て袂を奮って起ちあがるのを知っている。さもなければ、吾は服箱(籠)ありても策を受ける暇ないのを憂える。いずくんぞ、そこばくの閑情ありて、地質のことをこれほどに語らんや。
 1903年10月、日本東京で出版の「浙江潮」月刊第8期に、索子の名で掲載。

訳者雑感:
 1903年当時の4字句をたくさん並べた文章は、なかなか理解できない点が多く、現代中国語辞典より、日本の漢和辞典を調べる方が分かりやすい個所もあった。それで地図や地名も入れて15ページの文に長くてこずってしまった。
 魯迅は父の死後、1898年18歳で南京の江南水師学堂(機関科、給費)に入学したが、翌年、江南陸師学堂附設の鉱務鉄路学堂に転校した。97年にドイツが膠州湾を占領している。1902年鉱務鉄路学堂を卒業し、江南督練公所派遣の形で日本に留学した。
 もともと地質学に興味があったのであろう。日本に来て日本語やドイツ語の文献を読み、1903年10月にこれを発表している。文章の中でリヒトホーヘンがこれほど長く中国を経めぐったのは、石炭の為で、それを運びだす手段として鉄路を引いて膠州湾(青島)を占領したことが良く分かる。
 1900年の頃は、石油天然ガスの前で、石炭こそがすべての産業の「根幹」だった。水力発電の電気とか多少はあっても、無尽蔵にあると言われた石炭を何とか確保して、自国の産業振興に資することが喫緊の命題であった。
 魯迅はこのころに、日清戦争で負けて、祖国が列強に好き放題に瓜分されるのを、歯ぎしりしつつこの文章を書いたのだ。
 結果としてはそれから1945年まで、開平(後のカイラン)炭や撫順炭など海岸から近くて採掘しやすくコストの安いものは日本を含む欧米列強に支配されてしまった。戦後も自国中心に採掘してきたが、過去10年の石油資源の高騰により、山西省などで膨大な石炭が採掘され、各地に「石炭王」が出現した。それが今は石油が40ドルを切ったために、石炭は売れなくなり、給与未払いが各地で続発し、全人代すらそれの影響を受けて騒ぎが一層拡大した。
 石炭・鉄鋼・セメントなどの産業を支える基礎物資の生産能力の過多・過剰が大問題となっており、こうした問題をどう解決してゆけば良いか?魯迅が生きていたらどうするだろう。
    2016/04/21記


 

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1903年 中国地質略論

1903年 中国地質略論
第一、緒言
 国情を調べるのは容易だ。国境を越え、市を探せばよい。一枚の自制の精密な地質図(及び地域文明と土質などの図を併せたの)が無いのは非文明国だ。それだけではすまない。殆どがきっと化石となり、後人は手をもみながら嘆息することになり、おくり名に曰く:絶滅種(Extract species)の祥となる。

 吾広く美しい愛すべき中国よ!誠に世界の天府、文明の開祖也。凡そ諸科学の発達したのは遥か昔、況や測量造図は末技とされた。なぜ地形を絵図にしたもので、分図は多いのだが、集成すると境界線は合わず:河流を俯瞰し、山岳は常に旁の形状である。デタラメで暗愚でぼやっとして何も考えない。これでは何を以て地質を論じ、何を以て地質の図を論ずることができようか。嗚呼、この小さな事が、吾を怖れさせ悲しませる。蓋し吾はインドの詳細図がかつてロンドンの書肆に展示されていたのを見た。況や、中国も孤児となって、人はこれを得て、魚肉のように扱う:だがこの孤児はまだぼやっとして知識に乏しく、その家の田宅に財貨がどれほどあるかも知らぬ。盗人がその部屋に来るや、持てる物を盗人に贈り、主人として、漠然と察知せず、残った羹を得て、冷めたものを炙り、大いに嘆じて曰く:「我に衣食があれば、我に衣食があれば」と。
そして独り兄弟の所へ行き、些細なことで争い、刃杖を手に仇をさがし、以て自ら相殺す。嗚呼、こんな状態では弱水が四周をとりまき、戸を鎖して孤立し、猶将に天行に淘汰され、日を以て退化し、猿鳥大蛤藻となり、非生物になる。況や、当に強種が鱗々と、吾四周にからみつき、箕のごとくに手を伸ばし、垂涎は雨となり、造図は説を列し、奔走して相議し、左手で刃を操つらないなら、右手で算を握り、吾は何を以て生きてゆくのか知らず。而して、何を以て風水家相の説を図とし、猶人心に深く刻み、つとめて冨源を杜絶し、自ら阿鼻(地獄)に就く。家相は大いに佳なのを知らず、公等は亦死す:風水破らず、公等亦滅ぶ。おくり名に曰く、愚の至り。どうしてうまくゆかぬなどと言うのか。また微笑を獲んとして、盗人を部屋に引き入れ、巨資はすでに虜となり、更にその家を焼くは吾漢族の大敵なり。凡そ迷信で国を弱め、自身の家を利し、群を害す者:歴代の民賊が経営養成したとはいうが、亦ただ地質学の発達をさせなかった故である。

地質学は地球の進化史だ:凡そ岩石の成因、地殻の構造は皆深く研究された。それを以て中国に貢じれば、すなわち色々のもの塵の球などを知ることができ、歴史を経て変化し、こういう相が造成されたものだ:無量の宝蔵を包含しておるから吾生を繕うに足るといえども、初めは大神秘、不可思議な物はなく、その間に存し、以て吾人の運命を制す。それ故にまず学者の中国地質に関する説を綴り、著して短い物を作り、吾民に報告する。本論にはいくつか空譚があふれるが、この法則を読めば、吾中国大陸の状況は略その概略を得るに似たり。

第二。
 外国人の地質調査
 中国は中国人の中国である。だが異民族の研究を容認するも可である。外国人の探検を容認するか:外国人の讃嘆を容認するは可だが、外国人の野心家は容認できない。しかし彼らは手足のタコも気にせず、吾内地に入り、オオカミやタカのようにぐるぐる見て回り、将に何をせんとするか?詩に曰く「子鐘鼓あり、たたくなかれ、打つなかれ。その死の後、他の人がそれを保つ」そうすれば、未来の聖主人は以て将に恵臨し、まず帳目を稽すも、それ何を怪しむや。左に(縦書きのためだから横書きでは下に)諸子を挙げればみな大変有名だ。
そのほか、幻のような旅人として変相して偵察するのはどれ程か知らない。山川を跋渉し、秘密を探索する。世界の学徒はみなかくの如し:しかし吾は之を知り、ぞっとして血が涌く。吾知らずば、なんと祥たることか?

 1871年リヒトホーヘンは(租界の)上海商業会議所の嘱託として、香港から広東、湖南(衡州、岳州)湖北(襄陽)四川(重慶、叙州、雅州、成都、昭化)に達し:陝西(鳳翔、西安、潼関)山西(平陽、太源)に入り、直隷(正定、保定、北京)に向かった。そして再び湖北(漢口、襄陽)に下り、山西(澤州、南陽、平陽、太源)を往来し、河南の懐慶を経て上海に至り、杭州に入って、寧波の舟山島に上陸し、全浙江をくまなく調べた。又長江を遡上し、蕪湖に至り、江西北部を調べ、折れて江蘇(鎮江、揚州、淮安)に行き、山東(沂州、泰安、済南、芝罘)に入った。碧眼を炯炯とさせ、うまい具合にいったと悦に入ったようだ。その志は止まることなく、三度山西(太原、大同)再度直隷(宣化、北京、三河、豊潤)に至り、開平炭鉱(開欒炭)を徘徊し、盛京(奉天、錦州)に入り、はじめて鳳凰城から栄口に出た。3年かけたその旅行距離は2万里以上。報告書を3冊作り、それで世界第一の石炭国の名が世界に広まった。
その趣旨に曰く:支那大陸は均しく石炭を埋蔵しているが、中でも山西が最も豊富である:しかし鉱業の盛衰はまず輸送が重要で、膠州(湾)を扼するなら、山西の鉱業を制するに足る。それ故、支那分割はまず膠州を得るのを第一とす。
嗚呼、今どうなっているか?文弱な地質学者というなかれ。眼光と足跡の間に、実に無限の堅く強い戦争のうまい軍隊を有している。蓋しリヒトホーヘン氏の遊歴以来、膠州はとっくに我が所有ではない。今ゲルマン民族は山西との間を往復するのは、皆リヒトホーヘンの化身で中国大陸を淪落する天の使いである。我が同胞よ、如何とするや。

 1880年、ハンガリーの伯爵Szechenyiは愛妻を失くし、旅に出てその苦しみをやわらげようとした。3人の地質学者を伴い、上海から長江を遡上、湖北(漢口、襄陽)に達し、陝西(西安)甘粛(静寧、安定、蘭州、涼州、甘州)を経て国境を出:また甘粛(安定、鞏昌)に入り、四川(成都、雅州)雲南(大理)を調査し、ミャンマーに出た。3年かけ、十万金を使い、紀行を3冊出した。蓋し、リヒトホーヘン氏探検の未詳の地を加える意があったようだ。
 
 4年後、ロシア人アグリエフが北部の満州、直隷(北京、保定、正定)、山西(太原)、甘粛(寧夏、蘭州、涼州、甘州)、蒙古などを回った。3年後、フランスのリヨン商業会議所の探検隊10人が南部の広西、河南(河内)、雲南、四川(雅州、松潘)などを探検した。精密調査は広西、四川が最も詳しい。この諸地域はロシア・フランスの植民地に接しているではないか?これを恐れずにいられようか!
 先年日本の理学博士神保、巨智部、鈴木の遼東行き、理学士西和田の熱河行き、学士平林、井上、斎藤の南部各地行き、いずれも地質調査を目的とした。和田、小川、細井、岩浦、山田の5人の専門家はまた緒処を勘探し、以前の探検者の誤謬を訂正したものを提出したのは去年の事。

第三 地質の分布
 昔、ドイツ哲学者Kantは星雲の説を唱え、フランス学者のLaplaceはこれに和した。地球は宇宙の大気中に析出した一部だとし、空間を旋回し、何億万劫を経たかは分からぬが、凝固して流(液)体となり:その後冷縮して外皮は遂に硬くなり、地殻となった。その中心についての議論は大変多い:内部融体説あり、非融体説もあり、内外固体の間に融体を挟む説もある。其々の学理によって文章で議論している。しかし地球の中心は奥深くて測ることはできず、どれくらいの幅かも弁ぜんとしてもとても難しい。ただ理想としての名で以て、地面の初めをFundamental formationとしている。その上の地層は当時の気候状態と内蔵された化石の種類により、四大代Eraに分け、細分して紀Periodとし、紀を更に分けて世Epocとしている。しかし、この緒地層もまた吾人の立足地を掘らなければ、即燦然と卒備できる。大部分はみな残缺錯綜し、各地に散在分布している。吾中国の場合は常にここに新しいものを発見し、あそこにも古いものを獲得する。蓋し、太古の気候、水陸が入り混じり、地層は一致し難い。なお人類史を論じる者は、専制立憲共和は政体の進化の公例とよく言う:だが専制は厳密に、一本の血刃で突如共和とするが、これを歴史の間にそうすることはできない。地層の例もまた同じである。今中国のことを言えば、即ち下記の如き地質年代(Geological Chronologyである。

(一)原始時代或いは太鼓時代 Archean Era
 地球が初めて生成し、気が凝固して水となり、当時の遺跡は原始地殻で初めて地質学者が目にできるものだ。それ故、吾らが見ることのできる地層はこれが極めて古いものだ。その岩石は片麻、雲母、緑泥が多いが、みな火力で変質したもの。標準的な石層を調べると略生物はいない。ただ、石類を分析すると:  (12)  Laurentian Period
(11)  Huronian Period
二紀である。後にEozone(初生生物の意)が発見された説がでたが、ドイツ人メイピヤオの研究結果、その誤謬が明らかになった:蓋しその頃、天は荒れ、地上の生物は枯れ、微生物の命も絶無だった。難解なのは岩石中に時に石灰、石墨に属すものが含まれていること。その石灰(石油?)は動物の遺骸、石墨(石炭?)は植物の残骸で、生物がいなければ、どうしてこれがあるのだろう?
しかしある人は言う、これらは必ずしも生物の力でできたのではない、と。今なお疑問である。吾中国でこれを探すと、両紀は均しく黄海沿岸でこれを見つけられる。どのように埋蔵されていたか分からぬが、太古時の地層に金銀銅プラチナ、カーバイド、ルビーなどが常にあり、それらは吾黄海沿岸地方にもあり、まさにこれだと分かる。

(二)古生代 Palaeozonic Era
 生物が初めて存在し、故に生物の名で6紀に分ける:
 (10) Cambrian Period
  (9)  Silurian Period
  (8)  Devonian Period
  (7)  Carboniferous Period  石炭紀
  (6)  Permian Period   二疂紀
 岩石は非常に多く、水成岩は砂、硅、粘板、石灰など:火成岩は花崗、角閃石、輝石など。石類は少ないものから多い物まで沢山あり、生物も単純なものから複雑なものまであるが、(10)紀になると、より鮮やかに見られる。(9)紀になると、藻類、三葉虫、サンゴ虫の族が日に日に盛んとなるが、水生物となって止む。
(8)紀に入ると魚、葦、鱗木、印木とだんだんと水生から陸生に向かう。しかし唯隠花植物だけで、高等植物はまだ見られない。(6)紀に降ると両棲動物と爬虫類が現れ、日ごとに変遷して高等化に進む。造化が自ら進化するのをダーウインがこれを剽窃し、19世紀の偉大な著者となった。

 埋蔵鉱物はこの代が最も豊富である。(10)紀のものは中国にも見られ、遼東半島から朝鮮北部まで土質は確かにやせて、石が多く平らでなく、農産物には適さないが、金銀銅錫などの産出は実に他の紀の緒岩石に勝る。土地の人は僅かに石の多い田を耕すだけで生計に余裕がある。(9)紀の岩石は、陝西から四川の山間に分布し、多く金を産す。(8)紀の岩石は雲南北境及び四川の東北にある。変質岩中によく玉類を含み、岩石鉱脈の間にまた少し銀鉄銅鉛を産し、全世界を探してもこの紀の岩石が最も多く、石類もまた均しく適用できる。その次の
(7)紀は石炭類が多く、故に石炭を以てその名とする。そして吾中国本部に実にくまなく分布し、これの無い所は無い。合計量は欧州をはるかにしのぐ。(第5に詳細付す):実にパンドラの万禍の箱の底の望みで、これを得れば、光明輝く前途は近いが、これを失えば又愁え苦しみ、ついには死をもって終わる也。吾国人よ、それうまく選択せよ!
 
(三) 中生代 Mesozoic Era
 この代を組成するのは岩石と粘板、角、硅、及び粘土などで、或いは岩塩、石炭、石膏の地層を含み、三紀に分け:
 (5) 三疂紀 Triassic Period
  (4) 侏羅紀  Jurassic Period
  (3) 白亜紀 Cretaceous Period
 前紀の生物はすでに消滅し、故に(5)紀の時、鱗印初諸木は衰えて久しく、松柏、蘇鉄、羊歯の諸科がそれに代わって植物界の主権を握った。(3)紀になって、無花果、白楊、柳、櫧(カシ)など被子植物が現れ、現在世界と殆ど差がなくなった。動物は前代に爬虫類が現れ、日増しに発達し、有袋類も生まれ、哺乳類の先導となった。(4)紀は怪獣類が現れ、陸上に跋扈し、歯を持つ大鳥が太空を飛び、蓋し生物誕生以来、このような奇怪なものが繁栄したのも珍しいこと。
且つ又菊石、べレムナイト類も大繁殖し、その遺骸が(3)紀の地層を造成し、即ち学校で使う白墨も、この微生物の余恵だ。(3)紀になると生物界に大変革が起き、旧動植物は衰えるか滅び、広葉樹と硬骨魚が興った。

 (5)紀の中国では、チベットで有用な鉱物の岩塩、石膏、銅鉄鉛など。(4)紀には、シベリア東方から中国本部まで、時に有用な鉱物もあるが、石炭は極めて少ない。(3)紀は有用鉱物も少なく、中国の最も西の方はそうだ。

(四) 新生代 Cenozoic Era
 新生代は地質時代の最後の地層で、その末葉。即ち、吾人の生息の歴史で、二紀に分けて曰く:
 (2) 第三紀 Tertiary Period
 (1)  第四紀 Quaternary Period
 岩石の表面は粗く、流紋、玄武、及び粘土、砂礫、泥炭など。生物は今と殆ど大差ないが、細かく見れば違う点は大変多く、象、獏、角獣、恐鳥などがある。その盛衰も順を追って進行し、洪積世に至って人類が生まれた。
 
 (2)紀は中国全土に分布し、鉱物は金属もあり、且つ石炭も産出するが、新しいもので、石炭紀の物には遠く及ばない。(1)紀は世界中に見られ、中国揚子江北部のLoess(黄色で層の無い灰質岩石)即ちこの時代に堆積した砂土で:黄河付近の黄土で、この時に生成されたロームの一種だ。

 第四 地質の生成
 地球誕生の前、吾中国も亦気体の一部に過ぎず、言うべきことも無い。故に地球の生成後に始まる。
(一)太古の中国 太古の地球は洪水があふれ、烈火も激しく、土地も出水は少なく、生物と言えば、その状況を瞑想するに、洪水と怒涛のみ。地殻は変形し、崑崙山脈が忽然と隆起し:蒙古の一部と今の山東は水から離れて陸となり、海から隆起したが、その他はただ巨大な波が際限なく、怒涛が天を払うのみ。
(二)古生代の中国  地殻と地心(中心)は苦闘久しく、その後地心の花崗岩の流体は火力に挟まれ、泉涌して海陸に流れ出し、地殻はこれに随って水面に隆起し、東宝アジア大陸を構成した。秦嶺以北は断層が諸方に分走し、台地となり、大葦鱗木印木などの巨大植物が繁殖した。以北は地層がつねに波状に屈折し、山脈の様な形となった。その後、風雨に剥蝕され、海浪の衝激で、秦嶺以北は徐々に海底になり、無量の植物が水石の圧迫を受け、地心の熱力で次々に枯れ死んだ。しかし地心の火力はなおそれまで無いほど衝突を続け、それで水中から再び隆起し、階段状の台地になり所謂シナ炭田が実にこの時に形成された。しかしその南部は海底に沈み、西北から横の圧力を受け、秦嶺以南の地層は遂に波状に隆起し、所謂シナ山系(南嶺)となった。

(三)中生代の中国 火山活動はここに至ってやや衰え、唯南方の一部は徐々に淪陥し、新しい地中海となり、これが今日の四川盆地(四川の赤盆砂地)で、それが南シナの炭田だ。ヒマラヤ山系が嶄然と頭角をあらわして後、南部中国ははじめて陸地となった。その後南京と漢江の北に、北京方面に分走する二つの断層だ生じ、陥落して中原となり、歴代の梟雄が鹿を逐う地となり、吾中国の旧史の骨子を造った。

(四)新生代の中国 人間は新生代の初め、水と火の威力が日ごとにやわらぎ、甘粛と蒙古地方は昔、内海だったが、だんだん干上がって涸れ、砂漠となった。しかし暴風が強烈で土砂は埃塵となり均しく風に随って飛ばされ、黄河流域に運ばれ黄土となった。揚子江北部も広大な砂漠となり、後に風に吹き払われ、雨に侵潤され、何回も堆積した。それが累積となって中国で大いに生成された。そのほかは今日の地形と大差ない。
 第五  世界第一の石炭国
 世界第一の石炭国! 石炭は国家経済の消長に密接な関係を持ち、盛衰生死を決す大問題だ。蒸気で力を生む世界は石炭を原動力とし、これを失えば機械は悉く止まり、鉄の軍艦も役に立たぬ。電力で力を生むと言うが、石炭も又一方の覇権を分掌でき、一国の生死を操ると断言できる。故に、英米の如く均しく枯れ死んだ植物の魂を以て、一世をほしいままにした:今日ようやく尽きようとし、あちらでもこちらでも全ての人は、胸に手をあて愁嘆し、驚き怖れながらこれを探す。列国かくの如し。我が国は如何? リヒトホーヘンは言う:
「世界第一の石炭国!……」
今日本の地質調査者の報告に依ると、石炭の大小の位置は左図(縦書きだったからで、今の横書きでは右の図となる:中国全図と日本海を含む旧満州と日本の2枚あるが、翻訳では描けないので割愛する)即ち:
 ●満州7所
  蕪河水
  賽馬集
  太子河沿岸(上流) 
  本渓湖       (以上 遼東)
  錦州府(大小凌河上流)
  寧遠県
  中後所    (以上遼西)
● 直隷省6所
石門塞(臨楡県)
開平
北京の西方(房山県付近)
保安州
蔚州   西寧州
● 山西省6所
東南部炭田  西南部炭田
五台県   大同寧民府間炭田
中略(音訳) 西印子(音訳)
● 四川省1所
雅州府
● 河南省2所
南召県  魯山県付近
● 江西省6所
豊城   新喩
萍郷   興安
楽平   饒州
● 福建省2所
邵武県  建寧府
● 安徽省1所
宣城
● 山東省7所
 沂州府  新泰県
 菜蕪県  章丘県
 臨楡県  通県
 博山県及び淄川県
● 甘粛省5所
 蘭州府  大通県
 古浪県  定羌県
 山丹州
 等43所である。この外に湖南東南部に有煙炭、無煙炭田がある由。ざっと計2万1千平方マイルといい、まだ根拠は示されてないが、吾中国炭田で未発見の物がどれ程あるか知らぬが、まさか湖南だけに留まるだろうか? 今、図(15ページ)の山西省の有煙無煙の大炭田だけでも約13,500平方マイル合計7百万歩(日本の面積単位で坪と同じ)、ほかの炭田を加えると、ごく少なめにみても1千万歩ある。平均の厚さを30尺とすると、1立方坪の重量は8MTで、総重量は凡そ1兆2千億トン。年1.2億トン掘っても1万年尽きない。更に湖南の伝説の炭田を加えると、566万歩、即ち6、800億トンある。吾はこれを以て自ら慰む。しかし、一つの奇妙な現象あり、即ち、吾前言と逆で、曰く:中国は石炭で滅ぶ、というのだ。列強の領土の中では、すでに無くなりつつあり、中国はその盛衰問題の解決の真っただ中にあり、列強の将来の工業の盛衰は、ほとんどシナ占領の得失かかっている。奮起して人に先んじられぬようにせねばならぬ。次から次へと割譲の話が出て、みな血眼になって分割させようとし、直接炭田を睨んでいる。我々はまた麻痺して無感覚の状態でいると、無量の巨大な資産を持ちながら、使い道を知らず、わずかな利益に満足し、自らを害している。それで山西の炭田は英国に奪われ、諸国は群がって要求して曰く:「採掘権を!採掘権を!!」と。嗚呼、10年もせぬうちにこの肥沃な中原はもはや吾曹操の故国ではなくなり、炭田を掘る旧主は、採炭の奴となり、宝蔵を放棄するどら息子となり、挙句は無知な男とおくり名される。炭田は人の欲望を起こさせるほど有るとはいえ、厳しく管理もせず使いもしない。誰の罪か。
(つづく)


 

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