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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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2)「京の小窓」


 1.京の小窓
大仏次郎が晩年、神奈川新聞に寄せていた随筆の一節が興味をひいた。「ちいさい隅」と題して、数年間の連載からいくつかを選んでいる。絵葉書にのらないような街角の「ちいさい隅」の印象を語っている。彼が若いころに住んだことのあるパリの平凡な町の一角に、棒のように長い形のパンを買って抱えてくる老婆の影が鮮やかに残る、と。日本に帰って暮らしていて、よく見るパリはまったく取るに足らぬ町の、どこかの姿だ、と書いている。
  日本でも京都を訪れた折、そぞろ歩きした時に目にとまったちいさな隅を取り上げている。そんな中から、「京の小窓」という小品がとても清清しい印象を与えてくれた。40年以上も前に書かれたものだが、私が住むようになった昨今でも、彼が見たのではないかと思われるような小窓が、そのままあるのがうれしい。仏光寺通りや綾小路通りなど、四条通りなどの繁華な通りから一歩、足を踏み入れた途端、人通りは少なくなり、静かなたたずまいを見せる。
  何の変哲もない普通の古びた町家の一角に、ガラス一枚分ほどの小窓をしつらえ、小物や一輪ざしの花をひっそりと置いている。京人形、袋もの、大きな薬缶、大原女の人形、急須など。その家ではこれらの品物の一部に、細工を施しているのであろう。家の奥のほうで手仕事をしている職人の音が聞こえるところもある。
  彼はその品を買いたくなり、木戸をあけてあの窓に出ているものが欲しい、と申し入れた。「あれは手前どもでは細工しておりますだけで、品物は三条のこれこれの店にお願い申してありますから、ご迷惑でもあちらさまへご足労くださいまして」と礼儀正しく断られる場合がまれでないと。
  大仏次郎が眺めた小窓は今も残っていて、この手仕事が受け継がれて、代々このような小窓に伝ってゆくと思う。ただ、こうした小路にも、大路からはみでてきた自動車が、近道をしようとして、警笛を鳴らしながら、闖入してくるのには閉口する。やはり京の小窓は、そぞろ歩きを楽しめる小路にこそふさわしい。
2.三歩一廟七歩寺
中国から来た友人が、京都のことをパソコンで調べてきたのが表題である。
京には神社仏閣がいっぱいある。三歩あるけば廟に出会い、七歩すすめば、寺に会うということだ。住まいの近くを歩いてみて、天神さんやお稲荷さん、それに熊野さんや住吉さんなど全国的にも有名な神社の祠が、町家と町家の間の狭い所にひっそりとある。京都に越す前の印象では、京都はお寺さんの町で、神社よりも寺の方が圧倒的に多いだろうと思っていた。
だが、中国版ヤフーの表現によれば、寺の数より廟の方が多いとなる。
廟というのは、お寺以外の祠の全てを指すとすると、路地の隅や家の前にあるお地蔵さんやお稲荷さんなど、確かに寺より多い気がする。
かつては京の下町のあちこちにも、たくさんの寺があったそうだが、秀吉が御土居を築いて、京をにぎやかにしようとした時、多くの寺を御土居の外に追い出した結果だそうだ。それで、現在では繁華街になった新京極とか寺町通りとかにお寺が集中しているのだという。寺が御土居の外に移されてしまったので、町民たちは、家の近くに、めいめいが小さな祠を作って、地蔵尊などを祭ったのだろうか。家の角を削って、そこかしこに卍のついた祠を建てている。      先祖代々からの祠だから、毎朝、おばあさんは孫を、親は子を連れ、花や線香を供え、合掌する。それが習い性となっているから、毎日お参りしないと気がやすまらない。
出勤の途中、何人もの人が祠を洗い清めながら、お参りしている姿を目にする。葬儀などは遠くに引っ越してしまった寺にお世話にならねばならないが、日々の暮らしでは氏神さんに拍手をうち、お地蔵さんに合掌することで安心安寧を得ている。
3.京都、バリ、バンコック
日本、中国、韓国、アセアン諸国などの中で、京都・バリ・バンコックの3都市の共通点を挙げよと言われれば、「祈り」だと思う。庶民は家のすぐ近くに小さな祠を作り、毎日お供えを欠かさず、朝夕の祈りをささげる。中国版の京都旅行案内に「三歩あるくと廟に出会い、七歩あるけば寺に着く。」とある。
中国人の言う「廟」というのは、立派な伽藍を持った大きな寺院のことも指すだろうが、町中にある、小さな祠のこともさすのではないだろうか。その小さな祠には、立派な赤銅の屋根の下に地蔵尊が祭られている。そうではなくて、屋根もないような質素な祠に、目も鼻もかけてしまった、輪郭の無い石の地蔵さんが白い前掛けをしているのも見受ける。大日如来や阿弥陀さまもいる。
  いずれの祠にもかならず日ごとのお供えがある。夏には大きな西瓜がまるごと供えられていたりする。東京あたりだと、カラスが来てすぐ失敬してしまいそうだが、人家がびっしりと立て込んでいるのと、上空にはトンビなどが飛んでいたりして、カラスがお供えを食い散らす心配はない。暑い日も寒い日も、水をかけ雑巾でしっかり拭いたあと、線香を上げて祈る。親が子どもに、線香の火のつけ方、供え方を教えている。
  バンコックの町にも、家々の角に小さな祠があり、そこに炊きたての白飯がバナナの皮にお供えされ、熱帯の花も活けられ、若い娘が敬虔にお祈りする姿を見かける。托鉢の僧にもよく出会う。黄色い袈裟がまばゆい。
  バリの家の近くにもバンコックと似たような食べ物と生花が供えられ、お祈りする姿が隅隅に見られる。室町時代の祠のようなイメージで、丈の高い笹竹の葉がざわざわと揺れる。バリには芸術的な石像が各所にあり、阿吽のポーズをとるもの。啖呵をきるしぐさとその表情がたいへん魅力的だ。
 他の町にもあるのだろうが、この3都市の下町を歩く時ほど、こんなに多くの祠とそれを大切に御参りする人々を知らない。千年以上もの長い年月を経て、代々受け継がれてきた祈りの伝統なのだろうか。親が祈る姿を見て、子どもが真似る。子どもは、親の年代になったら、それを自分の子に引き継ぐ。
  東アジアのモンスーン地帯から熱帯にかけての風習なのだろうか。中国大陸でも福建や広東、それに台湾などでもかつては似たような風習があったのではないだろうか。春節の前後には、各地の廟や観や寺に沢山の庶民が訪れ、太くてでかい香を供えるので、境内中が煙濛々となる。寺男がまだ煙っている香を次から次へと抜いてゆく。それを入れる大きな桶がすぐ一杯になる。お参りに来る人たちは、遠方なので、そうそうはお参りに来られない。1年分を一時に供えるのであろうか。紙銭も、抱えきれぬほどの束を次から次へと竈(くど)に薪を放るように燃やす。後ろに順番を待つ人が並ぶ。
4.京の豆腐売り
夕方仕事を終えて、路地を歩いていたら、懐かしい声が聞こえてきた。
運搬用自転車の後ろに細身のリヤカーを曳きながら、「とーーふーー、
とーーふうー」とラッパを鳴らす音だ。子供の頃に聞いて以来の音を、ここではまだ聞くことができる。
曳いているのは、老境に入りかかった男で、グレーの仕事着の格好である。懐かしさも手伝って、一丁買った。普段スーパーで買うパックに入ったものの3倍ほどの大きさと値段である。今晩は昆布だしの湯豆腐でいっぱいやろうと思う。豆腐は湯が沸騰してからおもむろに入れるとうまい。
豆腐屋のある南北の通りは、地下水が豊富で、代々豆腐作りをしてきて、当人も親が引退してしまったので、こうしてリヤカーを曳き始めたという。暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、夕刻には決まりのコースを行商するのだと。
これも地下水が豊富だからできるので、高層マンションの工事などで、地下水脈が絶えたら、この商売もおしまいで、それが心配の種だという。
この周辺には、なお生産を続けている友禅の染工場も、このところの着物離れに加えて、やはり地下鉄工事の影響で、水脈が絶たれて廃業に追い込まれたところがある。どうしてかなあ,と素朴な質問をしたら、そんなことも知らないのかと呆れられながら、「染めはねえ、水道の水では色が出ないんだよ」と教えてくれた。浄水用の薬品処理された水では、地下水のような良い色が出ぬという。豆腐も同じことだそうだ。そうか地下水で作るから、京の豆腐はおいしいのかと今頃さとった。
 中国の作家茅盾が、京都に住んでいた頃のことに触れた作品に、晩秋の夕暮れどきに、豆腐売りのラッパの音が、彼の下宿の2階に聞こえてきて、望郷の思いにかられたくだりがあったことを、突然思い出した。彼が京都にいたのは戦争の始まる前、80年近く昔のことだ。そのころのラッパの音は今と何も変わっていないと思う。初夏と晩秋の夕暮れどきとでは、聞く者の心の方はおおいに異なるだろう。ましてや異国で聞く豆腐屋の音が、故郷の音に似ていては。
5.タバコ屋の看板娘
タバコを吸わなくなって、もう長い。夜更けて、帰宅の途次、ポケットの中のタバコの残りが少ないのに気づいて、タバコの自販機を探すことも無くなった。精神衛生上きわめて良い。  
京に住んで、もはやタバコに関心を寄せることは何も無いのだが、小路の角に、東京近郊では今やほとんど見かけなくなった、2枚のスライド式のガラス窓を開け閉めする、昔ながらのタバコ屋が、何軒も商売を続けているのが郷愁を誘った。店の横には、40年ほど昔のジュークボックス型の自動販売機が取り払われずにある。建物に組み込まれた形なので、おいそれと新型には切り替えにくいのだ。
ガラス窓の向こうには、昔のような看板娘はいないが、部屋の奥のほうで昔娘だった人がテレビを見ている。もうタバコを手渡しで売ることは無いのだが、ライターやガムなどの小物を置いている。自販機に入らない高額の洋モクやパイプ用などは、手ずから売るのだ。
京の下町に住んで半年、町家には息子夫婦が郊外に引っ越してしまった後も、老夫婦あるいは婦人一人で昔ながらの店を守っている人の多いのを知った。先の地蔵盆でも学生時代の印象では、天幕の下で、はしゃぎまわる子供たちのにぎやかなざわめきが、本当に楽しそうであった。こういう風習のない土地に育ったものとして、うらやましく眺めていたことを思い出した。
子供たちが、にわか作りの舞台で、学芸会のような出し物を演じたり、褒美のおもちゃやお菓子をくじで当てたりして、うれしそうであった。今では地蔵盆はほとんどが大人たちだけで、それも60歳以上の過去のノスタルジーから、自分たちが元気なうちは、絶えさせたくないとの気持ちが支えている。郊外に越した子たちの孫がこのために帰ってくることはない。京の知人が私に語ったことばが印象に残った。郊外に越した人たちも、親があの世に行ったら又戻ってくるのだが、元気なうちは別々さ、と。
6.京大根
京の大根は漬物も有名だが、煮(たい)てもとても美味しい。
中国が今日のように改革開放される前は、バーもカラオケも何も無かった。駐在員たちは夕食が終わると他にすることも無いから、駐在経験の長い先輩の話を酒の肴に、長い冬の夜を過ごした。
 酔いが回ってくるとつい尾篭な話になる。これから紹介するのは、中国の文化大革命のころの解放軍の話だ。素朴な木綿の軍服で、規律正しく毛主席に忠誠を誓っていたころだ。話と言うのは、その解放軍の小便についてである。その頃、尿素が肌に良いと喧伝され、その薬用効果が注目された結果、世界中で引っ張りだこになった。水洗が普及するまでは、欧米諸国でも軍隊などの便所から、良質の尿素が取れたのだが、水洗の普及とともに、良い安定供給ソースが減ってきた。
 70年代に入ると、世界中で水洗化が一段と進展した。団体生活の軍隊のような施設から、尿素を安定確保することが困難になった。一般家庭からのは、大小混合が多いし、一戸ずつでは効率が悪い。やはり安定的かつ大量に確保しようとしたら軍隊から調達するのが一番だ。
 それで、話はこう展開する。世界的に尿素が不足してきた為、さる筋が中国の解放軍に輸出を打診してきた。当時の解放軍は軍律厳しく、病原菌の汚染も低いとされてきた。かなり高い値段の提示があったそうだ。が、話は結局まとまらなかった。
なぜか。
文化大革命では、自力更生という毛沢東のスローガンがすべてに優先した。敵が攻め込んできても、外部の食料や物資に依存することなく、自力ですべてをまかなえるようにとの仕組みだ。解放軍では自分で田畑を耕し、米麦はむろんのこと、豆腐から衣服まで軍隊内で作って自給自足の体制を築いてきた。尿の中のアンモニアはこの自給自足の根幹をなす大切な源「肥料」なのだ。これが途切れたら、米も野菜も取れなくなる。なるほど。と、水洗トイレで育った連中が先輩の話に感嘆する。
 松田道雄の作品で読んだのだと思う。彼が子どもの頃、京では鹿ケ谷辺りから農民が大根を積んでやってきて、小水と交換して行くのを見たそうだ。そのための桶が、小路の塀の脇に据えてあった。女性も丈の高いその専用容器、小便担桶に、後ろ向きの立姿でしているのを見たと。桶一杯で大根3本と交換されたそうだ。
量が足りないと、農民の方から文句がで、通行人に協力を呼びかける。道中膝栗毛の作者も興を催したか、道端でのやり取りを見て、ヤジさんかキタさんに、その場で協力させている。江戸では、青梅街道を奥多摩の石灰と野菜が江戸町民の排泄した大小の混合と引き換えに、大八車で運ばれたそうだ。小便のみということは奇妙に感じたのだろう。大根などの京野菜は、小水だけで、今日の味とつやができたそうだ。なるほど、人の肌をすべすべさせる尿素の効用を、京の近郊農民は江戸の昔から知っていたのだろう。
7.河畔の教会
以前、欧州やその植民地だった都市の教会の多くが河の畔にあると聞いた。それについてイタリアに暮らしたことのある友人が教えてくれた。イタリア人は河の畔に教会を建てるのは、河の対岸に別天地があると考えたからだ、と。そこに渡ることへの憧れ、彼岸への憧憬から河の畔に教会が建てられた。そこに全国から通ずる道ができ橋が架けられた。参拝者が増えて、道が拡幅され、橋も石造の立派なものに架け替えられた。馬車の代わりに鉄道が敷かれるようになると、門前駅ができたのだと言う。
 バチカンのあの巨大なサンピエトロ寺院も初めは小さなものだったに違いない。キリスト教が盛んになって、全欧州の信者が訪れるようになり、寄付が集められてあの1日ではとても回りきれないほどの巨大な寺院が建てられた。寺院が巨大で広壮になればなるほど、参拝者や観光客が増える。そこで寄付金が寄せられて、更に大きな伽藍が建てられる。法王や僧正は在位中に伽藍が立派に修復されるように精励する。全世界の信者がいかに彼を慕って喜捨をしたかの証として。寂れ果てて、やがて朽ちてしまう小さな寺でその生を終える者と、修復や大改造を竣工させた大僧正との違いはどこにあるのだろうか。
  人間はどれだけ多くの人に影響を与えたかでその生の価値が判断される。作家や哲学者、芸術家はその通りだろう。それが宗教界でも同じだとすると、より沢山の信者たちから尊崇されて、在位中に広壮な伽藍が建てられることが、宗教家としての値打ちというか、死後の名声に繋がるのだと信じているのであろうか。終身その地位にいられるというのが至福なのであろうか。
 京の寺は、下町ではせまい境内すら駐車場にしているところが多い。一方、山麓の大伽藍はきれいな白壁と太い柱に、立派な甍を誇る。世界からの観光客の拝観料と全国の末寺の参詣者からのお布施で清楚な美しさを保ちながら、訪れた人たちに安らかな気持ちを与えている。副業での収入に精を出すのと、敬虔な信仰との間には大きなへだたりと違和感がある。
8.ギャーティ ギャーティ
河畔の教会の話をしていたら、京の友人が面白いねと彼の話を語りだした。
 「天竜寺や建仁寺なども桂川や鴨川の畔にあるよね」
 「おまけにすぐ横に渡月橋とか四条大橋が架かっているよ」
天竜寺には阪急や嵐電の嵐山駅があり、建仁寺には阪急京阪の四条駅。東京の浅草観音も隅田川の畔で大橋と東武の駅がすぐ前にある。そんなとりとめも無いことをだべりながら呑んでいたら、ドイツ語の得意なKさんがやってきた。
 ドイツではねえ、ベルリンやコロンなど駅前に大きな教会があってそこが晴れの場で多くの人が集まるのさ。そしてね、駅裏には岡場所というか赤い灯青い灯の街がきまってあるのさ。教会のミサに集まる人、そのあとで彼岸に行く人、いろいろさ。なるほどねえ。
 江戸の頃から、お伊勢参りや浅草観音詣での後はお神酒がでて精進落とし。勢い弾んで脱線する。そして彼岸に遊んで浮世の憂さを忘れる。美味しいもの食べて、脱線できることも庶民の多く集まる仕掛けかもしれない。そんな仕組みが、何百年の間に自然に出来上がってきたのかな。京都でも建仁寺のすぐ隣が祇園の花見小路だし、北野天満宮の東隣には上七軒の花街がある。つい数十年前まで本願寺からさほど遠くないところに島原があったし、浅草には吉原。
  人間の智恵なのだろう。般若心経に云う。羯諦羯諦。行こう行こう、ともに手を携えて。ご利益(りやく)のある神社仏閣に詣でるときっといいことがある。お参りの後は般若湯をいただいて、ともに「彼岸」へ行こうじゃないか。お参りに行けば、救われるのだ。
 イラクのファルージャの塹壕で武者震いしている米兵の顔が強く目に焼きついた。殺戮の前線に立って、「敵を殺すことに興奮してわくわくしている」との言動。そんな精神状態に自らを追い込まないと、とてもやりきれない。彼らを一刻も早く、ドイツの駅裏の赤い灯のところへ連れていってやりたい。プレスリーのGIブルースを聞かせながら。
9.京の打ち水
京の町家は夏を如何に涼しくしのぐかという発想から建てられている。うなぎの寝床のような長い建物の中ほどに、植え込みの庭を配す。そこに水を撒いて、その蒸発熱で表からの風を奥まで通す。家の前にも各戸がそれぞれ分担を決めたように朝夕の決まった時刻に打ち水をする。いまではバケツに柄杓ではなく、水道ホースの先に器具を取り付けて道路の向こうまで飛ばす。
 夏の間は朝出かけるとき、決められたように正確な時刻なので、目礼を交わしているうちに、知り合いになって挨拶をかわすほどになる。私が近づくと、ホースの先を植え込みや鉢植えの方に向けて待機していてくれる。早く通れというような素振りは見せない。うれしい気配りだ。私の住まいの大家さんも、毎朝家の前一帯に水を打ってきれいにしている。今年はいつまでも暑い日がつづいたから十月でもまだ水を打っていた。紅葉が始まり、東京で木枯らし一番が吹いてもまだ朝の打ち水は止めない。良く注意してみると、盛夏の頃ほどではないが、通りの両側で打ち水を日課にしているような男たちがいる。夏の盛りでも一切打ち水されない家がある一方、十一月の声を聞いても朝夕必ず打ち水をする家が、数軒に一軒ずつあるのに気づいた。
 それで職場の友人と昼食を食べながら、そんな話をしていた。それを小耳に挟んだ、土地の人が教えてくれた。京の男たちは、小さいときから親に与えられた日課として打ち水するのが習い性となってしまってね。冬でもホースを握って家の前に打ち水をしないと、一日が始まらないのさ。
「へえー」
確かにホースを握って打ち水しているのは、男に限られるようだ。欧州の名物、何とか小僧を連想させる。女性は、大抵は不要になった台所の水をバケツに入れて、柄杓で撒く姿が多い。水が豊富な京だからできることで、水不足の地域では考えられないことだ。箒で掃くより、打ち水で洗い流して清めるのが習慣になったようだ。京都は北大路と京都駅の東寺の塔の高さが同じだそうで、それだけの勾配を鴨川が、いくつもの段差を流れ落ちてゆく。
 京の街の地下には、幾筋もの地下水脈が河のように流れていて、町はその水流の上に浮かんでいるような格好だそうだ。上流で汲み上げた水を、打ち水でその地下水流に戻しているのだろうか。巨鯨池という湖のような池が伏見の南にあったが、干拓で陸になってしまった。その穴埋めをするかのように、地上に水を撒く。夏だけじゃなく冬でも。巨鯨池の弔いをしているようである。
10.始末屋の効用
京都人は先祖から伝わってきたものを大切に使う。「彼は始末屋だから。」とケチな人を非難しながら、無駄遣いする人を軽蔑する。舶来好き、あたらし物好きであると同時に、古さを自慢もする。コピーでも不要になった印刷物の裏側を使う会社が多い。紙が貴重品だった平安時代以来の伝統かも知れない。
 先日奈良の正倉院展に出かけた。朝十時でも、もう大変な人出だ。千円の入場券に加えて5百円の解説用のイヤホーンを借りる人も多い。めったに見られるものではないから、こうしたお金は節約しない。入場料に見合うだけの収穫をと、熱心に鑑賞する。
 解説を聞きながら、唐招提寺の鑑真和尚が東大寺の良弁宛に出した華厳経の借用書の文字を、熱心に読んでいる人の多いのに感動した。1,300年前の手紙が21世紀の一般人にも容易に判読できる簡明な楷書で書かれている。現在の活字より姿かたちがしっかりしている。ひらがなは無く、全て漢字である。だが、その後の仮名まじりの草書より、判読しやすい。
 説明文に「塵芥文書」と記されている。これらは、借用書として使われた後、塵芥となって役所で裏返しにされて徴税用の記録用紙として再利用されたものだそうだ。役所の記録だから、大切に保管された結果、後世の研究者が何だろうかと裏返して大発見。ビックリ仰天と相成った。
 今日ならシュレッダーにかけられ、処分されて何も残らない。奈良時代の役人たちの始末屋ぶりが功を奏した。他にも九州の役所の戸籍簿が展示されている。租庸調を奈良の都に納めさせるための閻魔帳である。この当時、都から遥か離れた地方にもこんなにしっかりした文字を書ける役人が何名もいたのだ。
同志社の森先生に依れば、都に納める物には必ず「どこそこの国の何々」という品名を書いた荷札というか、納品書のようなものが付いていたそうだ。木の札が多く、一部は破片が残っているが、殆どは朽ちたか燃料として燃やされてしまった。政府の徴税記録文書は無味乾燥で、ヤクタイも無いが、鑑真和尚が東大寺の良弁に対して唐から新着の「華厳経」を貸して欲しいと頼んでいる文書が、その裏で残されていたというのは、大変なことだと思う。
正倉院はシルクロードの東の終点といわれるが、日本国内の古文書の宝庫としての価値もすばらしいものだと思った。
文化は辺土に存す。とは日本やイギリスにぴったりの言葉だ。

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京の小窓(続き)


11.雪舟の天の橋立
先月の台風23号で、天の橋立も大きな被害を受けた。砂洲の見事な枝の松が何百本も倒れてしまった。倒れてしまった松を見ていて、舞鶴から天の橋立に客を案内したときに読んだ雪舟の本を思い出した。
 室町時代に中国 明に渡り、南画の世界に遊んだ彼の絵は、中国人も驚くほどのエネルギーに満ちた水墨画だ。想像で描いたものも多いが、その原風景は彼が明に渡ったときに、自分の目に焼き付けたものだという。それがある時空を経て、彼の脳裏に湧き出してきて、具象化したのだ、と。
 事実は小説より奇なり、とは文章の世界。雪舟の絵は実風景よりも奇なり、というのが絵の世界。彼が晩年描いたといわれる「天橋立」を見た。解説の中に、この絵はどこから描いたのであろうか。実際にこういう角度から天橋立が描ける場所は無いという。それともう一つ、橋立の根元にある多宝塔がきちんと描かれていることだそうだ。本当にこれを見て描いたのなら、この多宝塔の建立時期からして、雪舟が高齢になってから天橋立を訪れて描いたものだ、との説。
 確かに彼の絵は、内海を隔てて橋の東側の高い山から見て描いたように思える。が、実際には遠景として橋立がそんな構図で見渡せる山はない。飛行機の無い時代、鳥の翼に乗って見たとしか思えない。
 私はこう思う。彼の時代でも、伊能忠敬ほどではなくとも、天橋立の地図を描いた人はいたであろう。初歩的な地図で、東に突き出た半島があり西に橋立が見える図だ。そんな地図を頭に刻んだ上で、今ケーブルで登る有名な観光地、傘松公園に上って、股覗きをする。そのひっくり返った絵を再度ひっくり返す。すると彼が描いたとおりの絵が浮かび上がるという寸法だ。
多宝塔のことは誰かから聞いたか、他の絵で見たものを描き加えたことも十分ありうる。ちょうど中国 明に渡って各地で見た風景を、他の絵の部分と合成して長い絵巻のような大作に描いた様に。
 芭蕉が出雲崎の荒海からは、見えもしないはずの天の川を、佐渡によこたえた句に仕立てたように。
12.聖護院の導師
診察を終えて待合室で薬を待っていた。どこかで会った事のある顔立ちの立派な紳士が入ってきた。はてどこで会ったか思い出せないまま、お辞儀をしたら、先方も不審な面持ちながら返礼した。その瞬間思い出した。
そうだ、数ヶ月前、さる神社で山伏による護摩法要の際、導師役を務めた人だ。額にお椀様のものをつけ、山伏の装束なのですぐには思い出せなかったが
ぎょろっ、とした大きな目、がっしりとした体型、悠然と構えた姿が印象に残っていた。
「失礼しました。先日法要の際に拝見していたものですから。」と自己紹介したら「ああそうですか」と応じてくれた。似たようなことが以前にもあったかのようだ。初めてあのような大掛かりな護摩法要を見て、たいへん感動した。
山伏が、狂言を演ずるかのように、結界を挟んで問答をすすめ、五色の矢を射たり、神剣で悪霊を追い払ったりした。その後導師の先導で、太い丸太を井桁に組み、山ほどに積み上げたヒノキの枝に火を放ち、次から次へと護摩の札を投げ入れる。青い葉の茂ったヒノキはめらめらと燃え、それに周りから山伏が水をかけると、白煙がもくもくと立ち上がり、2-30メートルも立ち上り、白龍が天に昇るかのようだ。
一瞬のうちにあの日の光景を思い出し、年に何回くらいあのような護摩法要を行うのか、と尋ねた。大規模なものは年に数回で、小さいのも入れると20回くらいだ、と。山伏たちは通常は自分の生業を持っていて、法要のあるときは滋賀や大阪からもやってきて、その場で山伏の衣装に着替え、一日勤めて、夕刻には俗界に戻るそうだ。荒縄で身を縛り,尻には獣の皮をつけ、大峰山などに入る時は何日も俗界には戻らぬそうだ。以前は日本全国に出かけたが、最近は近畿地方のみになってしまった。それぞれの地区に霊峰があり、おのおのがそこに入って修験を積む。聞けば聖護院におられるとのことで、時間があれば遊びに来てくださいという。数千名の人たちが、彼のような導師の下で、普段は娑婆で生産活動をし、休みをとって山伏となって山に分け入るのだそうだ。
そんな話しを聞いていたら、名前を呼ばれて「では、失礼します。はい」と相成った。
13.京の橋の下
パリの空の下 セーヌは流れる。というのは映画にもなりシャンソンの名曲も生んだ。アコーデオンのメロディに乗せて陽気に歌うスト決行中の労働者たち。それと同時進行で飼い猫のミルクのために数サンチームのお恵みをと、ミルク缶をもって一日中市内を歩く老婆の姿が映像の中に浮かんでは消える。
京の橋の下、鴨川はほんのせせらぎ程度にしか流れていないが、鯉や鮎が泳ぐ。それを狙う鷺たちと、それを見ながら数メートル間隔で語りあう恋人たちの姿。日曜の午後、河原を散歩しながら橋の下を過ぎるたびに、花見時に使われた青いビニールのテントが少しずつ増えていると感じる。隅田川や上野公園と同じ光景が、二条から五条あたりの橋の下に見られる。が、京のほうが風雅さにおいてやや勝っているようだ。少し早足で過ぎようとするが、どうしても道幅が狭くなっているので、彼らの生活ぶりが目に入ってしまう。
40代くらいにしか見えない女が、普通の服を着て七輪で夕食を準備中だ。
60代の男が、真剣に眺めているのは競馬新聞。30代の男が文庫本を片手に、悠然と缶ビールを飲んでいる。コタツの古い板を縁台の上に置いて、トランプをしている。
かつて橋の下にはぎっしりと小屋が川岸まで建てこんでいて、河岸を歩くことはできなかった。大阪万博の前後に、お上の命で一斉撤去されるまで、人々はそこをねぐらに、みすぎをしていた。いつなんどき官憲に追い出されるかと、不安におびえながらも、大勢が肩よせあって生きていた。今日では、都心の橋の下にねぐらを作れば、毎日の生活には事欠かないようだ。粗大ごみで払い下げにあったソファーに座りテレビを観ていたりする。悪びれるそぶりもなく、ごく自然に生活しているような印象を受けた。出雲の阿国たちの時代から今日まで、河原で暮らす人たちはたくましい。
14.観月橋の燕
八月の下旬、京都新聞で宇治川の下流の葦原につばめが2万羽以上集まってきて、天空がつばめの群れで黒くなるとの写真が出ていた。周辺から飛んできて、ここに数日いて集団で南に飛び立つというので、見に出かけた。観月橋というのはてっきり宇治の平等院の近くの橋だと錯覚していて、駅の交番に尋ねたら、ここは宇治橋だという。ではこの新聞の橋はどこかと写真を見せたら、ここの警官すらつばめのことはあまり知らないらしく、仲間を呼んできて、こりゃどこだろうという。
上空のつばめの群れとその向こうの山並みから、これは観月橋の下流に違いないとのことで、さっそく京阪電車を乗り継いでお目当ての葦原に向かった。まだ6時を少し回ったところだから、日暮れまでには充分間に合う。
浪曲、森の石松で有名な三十石舟がもやっている。橋を渡り近鉄の鉄橋をくぐり、それらしき葦原を探す。他の人が向かっていそうもないので心細い。だんだん暮れてくる。宇治川の左岸の土手を10分ほどゆくと、河原に野球場があり、芝生でサッカーしている親子がいた。下流には高圧線が何本も宇治川をまたいでいる。その向こうにやっと人だかりが見えてきたので、うれしくなった。犬を連れた女性や、子供とボール遊びを終えた父親が三々五々集まってきて燕の群れを指差していた。土手の左は水面と同じくらいの低地に住宅が建てられている。水害を防ぐために土手はたいへん高いところまで盛り上げられている。葦の河原も百メートル以上の幅である。
やっとお目当てのつばめの群れが暮れなずむ上空から、数千羽単位で旋回しながら、そのうちの数百羽が一気に急降下して、葦原の中に落ちてゆく。まるで大型爆撃機からつぎつぎに放たれた散弾の破片が飛び散るようである。燕たちは滋賀や奈良あたりで雛を育てあげ、夏の終わりに南国に飛び立つ基地として、この葦原に集まってくるのだそうだ。葦原に数泊し、ころあいよしとみるや、ある日突然、南に向かって一斉に飛び立つ。土手の穴にではなく、葦の茎に泊まって、旅立ちを待つ。
彼らのねぐらの周囲を見ると、上流は2系列の高圧線で仕切られ、野球場や芝生があって、人間が遊んでいる、そしてその上手に近鉄の鉄橋がある。下流側にも何本もの高圧線が宇治川をまたいでいて、対岸の土手は京阪が通り、高速道路に車が行き交う。
高い土手のこちら側は団地で人間がいっぱいである。燕たちは人間の作った遮断物で、四周を囲まれた葦原なら、大型の鳥や獣の害から襲われる心配は無い。ちょうど五月に家々の軒下に巣を作るように、電力会社の高圧線と鉄道が旅立つ燕のサンクチュアリーを作っているようだ。
15.京の人力車
ひょんなことから、野宮神社に行くことになった。6月、北野天満宮にでかけた折、参拝を済ませてバス停にいたとき、4名の女子中学生が私に近づいてきて、「野宮神社へ行くには何番のバスに乗ればいいですか」と尋ねて来た。のみや神社と発音されて、まったく見当がつかない。わら神社なら知っているけど、安産祈願だから女子中学生にはまだ早いし、などと考えていると、「嵯峨野の縁結びの神様」という補足説明で、それならバスより嵐電がいいと北野白梅町駅への道を教えた。
10月のはじめ台風一過の快晴の日曜に、嵯峨を歩いてみようと嵐電の駅に向かった。増水した保津川の流れが、渡月橋の橋げたすれすれに怒涛のように流れてゆく。川の両側の山々がなだらかな調和を見せて、さすが嵐山だと長い間、橋の欄干にもたれて眺めていた。それから周恩来の「雨中嵐山」の詩を見、保津川の治水をした角倉了以の像に参り、天竜寺の境内に出て、商店街の歩道を歩いてゆくと大勢の若者が並んでいる店があり、とても楽しそうにアイスクリームの買える番を待っている。
その店の向こうに竹やぶが見える。アイスを手に談笑しながら、皆そちらの方に向かう。私もつられてひとつ買って、彼女らのあとに続いた。後ろから人力車がついてくる。黒シャツ姿の若い車引きの、肩から二の腕は夏の日差しで黒光りに焼けている。丁寧な物言いで、「これからやぶに入りますから、ほろを下ろしますね」と一旦車を止めて、黒い幌を畳んだ。これから向かうところは、源氏物語で有名な六条御息所のなんとかと説明が聞こえてくる。関西弁風ではあるが、純粋の京都弁ではない。よそから京都に来て、仲間の学生や職場の先輩から関西弁を耳で学んで、観光客に流暢に説明している。話しぶりが面白いので車の後について竹やぶのうっそうと茂る小道を暫く行くと、「野宮神社」に着いた。ああここだったのか、6月の修学旅行の女生徒たちに道を聞かれたのは。私のように男一人でお参りしているのはいないが、中に入ってわが娘たちの良縁を祈った。
観光人力車は、話しの上手い若者たちの格好のアルバイトとして、京の名所旧跡にはなくてはならないものになっている。標準語でしゃべられると少し嫌味な気がするが、関西弁はしゃべくりな男の軽いのりの言葉として、吉本の漫才を通じて独特の地位を築き上げてきたようだ。
16.嵯峨野の金木犀
野宮神社を後にして、ぶらぶら歩いてゆくと、竹やぶの切れ目に踏み切りが現れた。ちょうど警報機がカンカンと鳴り出して、向こうから男が猛スピードで走ってくる。スリルを味わうように両手にペットボトルを抱えて、間一髪で遮断機をくぐりこちらにやってきた。と見る間に、嵯峨野線の列車が竹やぶをかすめるようにして通り過ぎていった。竹やぶを抜けると、一気に視界が開け、刈入れの終わった田んぼとその畦に咲くコスモスの花が、なんともいえないのどかな雰囲気で、とてもうれしくなる。
田んぼの中の道を何の目的もなく歩いてゆくと、とてもかぐわしい香りが漂ってきた。少し先の農家の生垣のなかに、大ぶりな金木犀がこんもりと茂り、山吹色の実のような花を、枝じゅうに咲かせている。秋ののどかな空気のなかを、幸せの香りを運んでくれる。このかぐわしい香りは秋ならこそだと思う。薫風とは春の風だろうが、秋のものでもあるとしみじみ思った。
 
秋風や 垣から香る 金木犀
ふだん市中の町家の密集したところに住んでいるので、田んぼの中の道を歩いた後に、生垣から香ってくる金木犀に涙が出るほど感謝したくなった。生垣のところまで来ると不思議なことに、鼻がなれてしまったのか、先ほどのような芳香は減じてしまった。
嵯峨野あたりは渡月橋から眺める保津川両岸の桜や、天竜寺とその周辺の寺の紅葉が余りにも有名で、観光ポスターや絵葉書の定番である。確かに、春の桜と晩秋から初冬にかけての紅葉は、全国各地から京都に人を呼び寄せる、最高の舞台装置であることは間違いない。金木犀というのは他にも結構たくさん植えられているし、絵葉書にもポスターにもなりにくい。だが、禅寺や名所旧跡を訪ねたあと、嵯峨野の、のどやかな農道を歩きながら、その折々の香りをかぐことができるのは、京都なればこそだと思った。
17.終焉の地
私の住まいの近くに、歴史上有名な人の碑がいくつかある。多くは彼らが生まれた場所、住んでいた所とかであるが、終焉の地という碑もある。道元や親鸞などは永平寺や本願寺で、弟子たちに看取られて冥土に旅たったと、勝手に思っていた。ちょうど涅槃の釈迦が大勢の信者に看取られたように。だが彼らの終焉の碑は、今日の下京の町中の建物の間やちいさな寺の前にある。
京都の町は木の家がびっしり建て込んでいて、応仁の乱や蛤御門の変などで過去何回も、全市が灰燼に帰したという。それでも先人たちが残しておいた石碑は残っていて、その後有志が建て直したりして引き継がれてきた。自分たちの町内の先人が、大変な恩恵を与えてくれた道元や親鸞の終焉を暖かく受け入れ、親身になってお世話をし、最後は終焉の時を迎えてしまったが、そのことを誇りに思い、後世に伝えてゆこうとする意志の表れである。
仏の教えを広め、大衆を救おうとして全国を巡った二人は、病に倒れ、京都の信者の家にやっかいになりながら、治療を受けたものか。現代のように病院があるわけでもなく、旅の途中で病で倒れたら、そこが終焉の地となってしまったのだろう。
鎌倉時代の日本人に大変な影響を与えた道元や親鸞たちが、病を得て余命いくばくもないというときに、彼らのお世話をして懸命に尽くす。そうすることにこの上ない喜びを感じ、彼らの最期の声を聞くことができた。それを後世に伝えて行きたい。碑を建てて、それを残す。お墓は誰かがどこかに建てるだろう。だが、ここで、自分たちの住んでいるこの場所で、息を引き取ったということを伝えてゆきたい。きっと二人の魂が自分たちの町を守ってくれるにちがいないから。
18.フレンチ リーブ
11月下旬,冷たい雨が降り、木々の葉が紅葉する。先週末の朝、ベランダに出てみたら、ちょうど目の高さにある、赤や黄色に染まった桜の葉が音もなく、はらはらと枝から離れていった。
4月の花びらが春風に舞う白雪ならば、11月の桜葉は秋風に立つ踊り子の髪飾りのようだ。
 覚えずシャンソンの名曲「枯葉」の一節を口ずさんでいた。
Falling Leaves ♪♪
Leafの複数形はLeaves。これは葉が枝から離れるからか、と変な妄想をしてしまった。辞書を繰ると、Leaveにはもともと古期英語の「留まらせる」意味から「去る、離れる、捨てるなどの意味で使われてきた。」とある。
もう一つの「許可」という意味から「休暇をもらう」「賜暇」が出てきた。
木の葉Leafは、秋、気温が急速に冷え込んで、根から養分の補給が途絶え、水の補給も絶たれ、葉脈のバルブが閉まって葉緑素ができなくなると、黄葉する。
そして枝からLeaveする準備を始める。

人の将に死なんとする、その言や良し。
木の葉の将に落ちんとする、その色や良し,と思う。

春から今まで自分を育ててくれた、木の幹や枝に「許可」を得て去る。
小枝たちを幹に「留めたままで」。
許可を得ているのだから、黙したままで去る。
挨拶はしない。

French Leaveという言葉がある。
18世紀のフランスで、客が主人に挨拶せずに辞去することを指すそうだ。
秋。
京都にはFrench Leaveする木の葉に挨拶しようと、
日本各地から多くの人々が、みずからやって来る。

日本語の「葉」も「離れる」の「は」と同じ音で始まる。
「花」も葉の変形したものだそうだが、これも咲き終わると、はらはらと
「離れる」のが良い。
(完)
 
 

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