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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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  「青年必読書」

 「京報副刊」のアンケートに答えて。(アンケート用紙は罫線の一枚もの)
1.青年必読書:これまで気にかけてこなかったので、今答えられない。
2.附註:しかしこの機に自分の経験を述べて若干の読者の参考に供したい。
私は中国の本を読むと、いつも静かに沈んで行くような気持ちになり、実人生から遊離するような気がする。外国の本を読むと、但しインドは除く、常に人生と向きあって、何かをやろうと言う気になる。
中国の本にも、世の中に向かうように勧めているものもあるが、多くは硬直した屍の楽観論である。外国の本はたとえ退廃と厭世なものでも、生きている人間の退廃と厭世である。
私は、中国の本は少ししか、或いは全く読まないで、外国の本を多く読むのが良いと思う。
中国の本は、少ししか読まなくても、その結果は作文がうまく書けないに過ぎない。しかし現在の青年に最も大切なのは“行”であって“言”ではない。生きて活動するなら、作文ができなくてもたいしたことはない。
 一九二五年二月十日    2010.7.28.訳
 

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華蓋集  題記

 大晦日の深夜、この年の雑感を整理したら、「熱風」の丸四年分より多かった。大部分はもとのような意見だが、態度はそれほど素直ではない。措辞もいつも回りくどく、議論も往々にして、数件の小さなことに拘泥し、見識家の笑い物とされるに十分だ。しかし他に何の手だてがあろう。今年はこうした小さなことに出会い、小さなことにこだわる癖がついてしまったようだ。
 偉大な人(ブッダ)は三世を見通し、一切を観照し、大苦悩を嘗め、大歓喜を得て、大慈悲を発す、という。だが私はこれを成すには、深く山林に入り、古樹の下に坐して、静観黙想し、天眼通を会得し、ひとの世から遠く離れれば離れるほど、ひとの世をより広く認識できるということを知っている。そこでその言説が、より高度なものになれば、更に偉大になり、天人の師となるということも、知っている。私は小さい頃、空を飛べるようになるのを夢想したけれど、今なお地上におり、小さな切り傷も救えないから、広い心で、公正妥当な議論を展開し、公平に道理に通じる「正人君子」のようなことをするヒマなど、どこにあろうか。まさしく水に濡れた小蜂は、ただ泥の上を這いまわるだけで、洋館に住んでいる“通”の人たちと競争しようなど決して考えない。
 だが、私は自分の持つ悲しみ苦しみ、憤激は決して洋館の通の人々の会得できるものではない。
 この病の痛さの根底は、私がこの世に生きているからで、そして一個の常人で、“華蓋の運”にめぐり合えたからだ。
 これまで運勢学を勉強したことは無いが、老人の話では、ひとは時に“華蓋の運”に会うそうだ。この華蓋は彼らの発音は大概「鑊蓋(ほーがい)」と訛っているので訂正する。
この運は和尚にとっては幸運で、頭上に華蓋があれば、成仏して開祖になる兆しだが、俗人は不運で、華蓋が頭上でかぶさっていると、釘付けのようで頭が上がらないという。
 今年、雑感を始めたら、二回大きな釘に打たれた。
 一つは「文字の詮索」もう一つは「青年必読書」。署名入りと匿名の豪傑諸士の罵倒の手紙が山のようになり、書架の下に突っ込んである。このあと、又突如として所謂学者、文士、正人君子等に会ったが、彼らは異口同音、公正な話をし、公理を談じ、“同じ仲間と徒党を組み、異見者を打倒す”というのは良くないと言う。残念ながら私と彼らとは大きな違いがある。それゆえ彼らには何回か打たれたのだが、これはもちろん“公理”の為で、私の“党同伐異”とは違うからである。
 かくして今に至るも完結せず、“来年まで待とう”とするほかない。
またある人は私に、このような短評はもう書くなと勧めて呉れる。その好意には大変感謝し、決して創作の貴重なことを知らないではない。しかしこのような事をする時は、やはりこのような事をしなければならない。もし芸術の殿堂にこんな面倒な禁令があるのなら、行かない方がましだ。やはり砂漠に立ち、飛砂流石を見、楽しかったら大笑し、悲しかったら大いに泣き叫び、憤れば大いに罵る。たとえ砂礫に打たれてボロボロになり、頭が傷つき血が流れても、ときどき自分の凝血をさすって、もしそれが花模様のように見えたら、
中国の文士たちとシェークスピアの御相伴で、バター付きパンを食べる愉しさよりましだろう。
 しかるに一方で私の視界が狭いと怨みに思う。中国だけ取り上げてもこの一年、大事件もたくさんあったが、往々にしてそこにも言及しなかったので、なんの感触も無いように思われるだろう。私はかねてから、中国の青年が立ちあがって、中国の社会、文明に何ら忌憚のない批評をしてほしいと望み、「莽原週刊」を出して発言の場としたが、投稿者はたいへん少なかった。他の刊行物は大抵は反抗者に対する攻撃で、これは実に私にとっては、このまま続けられるか心配だった。
 今、一年の最後の深夜、夜も尽きようとし、我が生命も少なくとも一部はすでにこの無聊の中に費消され、私の得た物は自分の魂の荒涼とすさんだ姿だ。しかし私はいささかもこれらを憚ったりしないし、隠そうとも思わない。実際、それらを愛おしくすら思う。これは私が輾転と風砂の中で、暮らしてきた結果だから。自分が風砂の中で、輾転と生活してきたと感じたから、この意味が会得できた。
「熱風」を編集したとき、遺漏以外は数編削除した。今回はこれと異なり、一時の雑感一類のものは全てここに収めた。
 一九二五年十二月三十一日夜 緑林書屋東壁の下で  2010.7.26訳
 

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夢物語

 ランプの灯は次第に小さくなり、石油の残りがもう無くなりそうだと予告していた。
上等な油ではないから、ガラスもすぐ黒ずむ。家の外では爆竹が鳴り、煙草の煙がくゆり、夜は更けてゆく。
 目を閉じ、仰向けに椅子の背にもたれて、「初学記」(唐代のアンソロジー)を持つ手を膝に置いた。
 朦朧としてきて良い夢を見た。
 この物語はとても美しく、幽雅である。たくさんの美人ときれいな風景が錦を織りなし、満天に流星が飛び、展転とまわり行きて終わらない。
 昔小舟に乗り、山陰道(紹興の風光明美な一帯)を巡ったことを思い出していたようだ。
両岸の柏、新穂、野花、鶏、犬、樹林、枯れ木、茅屋、塔、伽藍、農夫と農婦、村娘、晒されている衣、和尚、蓑笠、空、雲、竹……、すべてが澄んだ碧の小川に、逆さに影を映し、ひと櫂ごとに、おのおのがキラキラゆらめく日光に反照し、水中の藻と遊魚と一緒に揺れている。もろもろの影も物体も、ひとつとして離れることなく、揺れ動いては、大きくなり、互いに溶け合い、とけあうと見るや、小さくなってしまい、もとにもどる。
縁(ふち)は夏の雲頭のようににょきにょきして、日光に形どられ、水銀色の焔に輝く。私の廻った川はみなこうであった。
 今、私が見た夢物語もそうであった。青空の下の水面に、全てのものが交錯し、一つの物語を織りなし、永遠に生き生きと展開し、その結末を見ることは無い。
 川辺の枯れ柳の下の数株の立ち葵は、村娘が植えたものだろう。大きな深紅の花と、まだらの紅い花が、水面に浮動し、突然砕け散るかと思うと、ながく伸び、一筋の燕脂色の水のようだ。だが、暈(かさ)にはならない。茅屋、犬、塔、村娘、雲……、すべてが浮動している。大きな紅花は一朶一朶、みな長くなって、この瞬間ながく伸びて、紅い錦帯となる。その帯に犬も織り込み、犬は白雲の中にも織り込まれ、白雲は村娘も織り込む。この一刹那がすぎると、彼らはまた元に戻ってしまう。まだらの紅花の影も砕け散り、長く伸びては塔や村娘、犬、茅屋、雲を織りなす。
 今、私の見ている物語は、はっきりしてきた。美しく幽雅で、趣がある。そしてはっきりしている。上は青空、無数の美しい人と、美しいもの。ひとつひとつみな知っている。
 それらをじっと眺めてみる。
 私がまさに凝視しようとしたとき、突如驚いて目を開いた。雲の錦もすでにしわくちゃに小さくなり、乱れ出した。誰かが大きな石を投げ込んだようだ。波が突然おこり、全編の影が粉々に砕け散った。私は覚えず、膝に落としそうになった「初学記」をいそいでつかみなおした。目の前にはまだわずかばかり虹色の砕影が残っていた。
 私はほんとうにこの夢物語を愛す。砕けた影がまだ残っているうちに、それを追いかけて完成させ、留めておきたい、と願う事切なるものがある。
 私は、本を放り出し、伸びをして、筆をとる------だが、なんでこの砕影が残っていようか。薄暗い灯光があるばかり。私は小舟の中にはいないのだ。
 しかし私はこの夢物語をずっと今も、忘れられない。夜は暗く沈んでゆく。
  一九二五年二月二十四日     2010.7.25.訳
 
訳者あとがき
魯迅の小説の舞台は、一部の北京での生活に取材したものを除けば、7-8割はこの夢物語に描かれている、紹興周辺、これを会稽山の山陰と彼らは呼んでいるが、碧の澄んだ小川の両岸に暮らす農夫と農婦、それに村娘たち。唐の李白が歌った「笑いて荷(はちす)の花を隔てて、ひとと共に語る」の世界が舞台である。ここでは荷(はちす)の花ではなく、立ち葵のすっと伸びた茎に開いた深紅の花が、川面に長く映じては、錦の帯を織りなすという美しい夢物語である。
普段は、頑迷な国粋派との論戦に全力を集中して文章を刻んでいた1925年のこの時期にも、こうした散文詩の夢を見る詩人でもあった。彼の原点は山陰の絵のような風景なのだろう。
いちど半年か一年くらい住んでみたくなるほどだ。あたかも芭蕉が近江の湖畔をこよなく愛したように。
 

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「凧揚げ」


 北京の冬は雪が地上に残ったまま、葉をすっかり落とした黒い木の枝が晴朗な天に向かって突き出している。その遥かかなたに凧が一二個浮かんでいるのを見ると、私はなぜかある種の驚異と悲哀に襲われる。
 故郷の凧上げの季節は、春二月で、ヒューヒューと風車の音がして空を仰ぐと、薄墨色の蟹凧か、薄藍色の百足凧が浮かんでいる。寂しげな瓦凧は風車も無く、低空にさびしげに憔悴した可憐な姿に見える。しかしこのころには、地上の楊柳はもう芽を出し、早咲きの山桃もたくさんの蕾をつけ、子供たちの空の点景と呼応して、春日の温和な光景を醸し出す。
 私は今どこにいるのか?まわりはまだ厳冬の粛殺とした冷気の中に、離れて久しい故郷の過ぎ去りし春が、この天空にただよっている。
 私はこれまで、凧上げは好きでは無く、どちらかと言えば嫌いだった。それは向上心のない、意気地無しの子のする遊びだと思っていた。私と逆に、弟はあのころ十歳くらいだったが、病気がちでとても痩せていたが、凧が大好きで、自分では買えないのと、私が許さなかったので、小さな口を開けて、ただポカンと空を眺めているだけだった。時には小半日もそうしていた。遠くの蟹凧が突然落下して、彼は驚いて声を出した。二つの瓦凧がからんでいたのが、やっととけると、とても喜んで跳びあがった。こうしたことは私には、こっけいで軽蔑すべきものにみえた。
 ある日、彼の姿を何日も見かけなくなったことを思い出した。後園で枯れた竹を拾っていたのを見かけたことを思い出した。ふとあることを悟って、普段人が行かない物置の小屋に走って行った。戸を開けると、ほこりにまみれた道具のやまの中に、彼がいた。大きな角椅子に向かって、小さな椅子に坐っていたが、驚いて立ち上がり、色を失いかしこまった格好をみせた。角椅子の傍らには、糊づけしていない胡蝶凧の竹骨が凭せ掛けてあり、
椅子の上には目玉用の小さな風車があり、今まさに紅い紙きれで装飾中。まもなく完成するところだった。私は秘密をかぎつけた満足と、我が目を偸んだことに憤怒し、人に隠れて、いくじなしのこどもの玩具を作っているのを怒った。すぐ手を伸ばして、蝶の翅骨を折り、風車も地面に叩きつけ、踏んづけた。年齢と体力の差から彼は私にはむかえないので、もちろん私の勝ちであった。そして傲然と外に出た。彼は絶望して物置に残った。その後どうなったか知らないし、気にもしなかった。
 しかし、私への懲罰はついにめぐってきた。我々二人が離れてかなり久しくなった。私は中年になった。不幸にも偶々、外国の児童書を見て、初めて遊戯(あそび)はこどもの
最も正常な行動で、玩具はこどもの天使である、と。二十年来忘れていた小さいころの精神的虐待のシーンが、突如目の前に現れ、私の心は鉛の塊を飲んだようになり、ズーンと沈みこんだ。
 しかしどれほど沈み込んでも、千切れるまでには至らず、ただ気が重く沈んでゆくのだった。私はどうすべきかは知っていた。凧を贈るとか、凧上げを賛成し、勧めるとか、一緒になって揚げるとか。一緒に叫び、走り、笑う。……然し彼はもうその時私と一緒で、髭が生えていた。
 もう一つの償い方も知っている。彼の許しを請い、「もう何も怨んでいないよ」と言ってもらったら、私の気もきっと軽くなる。たしかにいい方法だった。ある日、我々二人が会った時、顔にはすでに多くの「生」の辛苦の皺を刻んでいて、私の気持ちはたいへん沈んでいた。話がじょじょに子供のころのことになり、この場面のことを話し出した。自ら少年時代はひどくでたらめだったと話した。
「でもなにも怒っちゃいないよ」彼がそう言ってくれたら、許しを得て私の気持ちはおちついて安心すると思った。
 「そんなこと、あったっけ?」彼は驚いて笑いながら、まるでひとのことを聞いているようで、何も覚えていなかった。
 全部忘れちゃったし、何も怨んじゃいない。だから許すも無いよ。怨んでないのに怨むなんて、嘘になるでしょ。
 私はこれ以上なにを望むか?
私の心は深く沈んで行くしかない。
今、故郷の春がまたこの異郷の空にあり、私の遠い昔のこどもの頃の記憶をよみがえらせてくれたが、それと同時に、とらえどころの無い悲哀に襲われた。私はやはり粛殺とした厳冬の中に身をひそめるしかないのだ。
まわりは本当の厳冬で、非常な寒さと冷気が私を冷たくする。
 一九二五年二月十四日    2010/07/25
 
 

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 希望 


 私の心は、どうしようもないくらい寂しい。
 しかし、いっぽうで落ち着いてもいる。愛憎も哀楽も、そして色も音も無い。
私は老いてしまったのか。髪はもう明らかに半ば白い。手も震えが止まらない。
これも明白ではないか。我魂の手もきっと震え、髪も半白に違いない。
 しかしこれは何年も前からのことだ。
かつて我が心も血腥い歌声に充ちていた:血と鉄、炎と毒、再起と報復。しかし突然、これらのすべては虚しくなってしまった。時には故意に自らを欺き、なんの足しにもならない希望を探してきては、穴埋めしようとした。
希望、希望、希望という盾で、あの虚しく暗い夜の襲来を拒もうとした。盾の裏も、虚しい暗闇なのを知りながら、それでもなお、我青春をつぎつぎと消耗し尽くしてきた。
 我青春はとうに過ぎ去ってしまったことを私が気付かないとでもいうのか。体外の青春は、なお存在している:星、月光、地に落ちた蝶、暗中の花、ミミズクの不吉な鳴き声、杜鵑の血を吐く声、意味も無い笑い、愛の飛翔する舞、……。悲しみに寂しく漂う青春、しかしそれも青春なのだ。
 しかし今、なにゆえかくも寂しいのか。体外の青春も過ぎ去ってしまったというのか。世の青年も多くは老いてしまったのか。
 私は自ら、この虚しき暗夜に肉迫するほかない。私は希望の盾を放り投げ、ペトーフィ シャンドル(1823-49)の“希望”の歌を聴く。
  希望とは何? そは娼婦:
  そは誰をも蠱惑し、すべてをささげさせ:
  君が、一番大切な宝――
  青春を献じたとき、――君を棄てる。
 この偉大な抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコザック兵の矛先の犠牲となってから、七十五年経った。悲しいかなその死:しかし更に悲しいのは、彼の詩が、今もなお死んでいないことだ。
 悲惨な人生! あの勇敢なペトーフィも、終には暗夜に対して歩を止め、茫々と広がる東方を顧みて、言う:
 絶望の虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ。
 
 明暗のない“虚妄”のこの世に、私になお生を偸ませるのなら、あの過ぎ去った、悲涼ただよう青春を探し求めよう。それが体外のものでも良い。体外の青春すら消えてしまったら、体内の晩年はすぐ凋落してしまうから。
 だが、今は星も月も無い。地に落ちた蝶も、意味の無い笑い、愛の飛翔する舞にいたるまで、すべて無い。しかし青年たちはとても平安だ。
 私はただ自ら、この虚しい暗夜に肉迫するほかない。たとえ体外の青春を探し当てられなくとも、やはり自力で我が体内の晩年を放擲しなければならない。だが、暗夜はいったいどこにあるのだろう? 今は星も無い、月も意味の無い笑い、愛の飛翔の舞も無い:
青年たちはとても平安だ。だが、私の面前には、ついにそしてまたもや、真の暗闇も消え去った。
 絶望の虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ。
 一九二五年一月一日          2010.7.22.訳
 
訳者あとがき
「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」
これは、1956年岩波版の魯迅選集の竹内好訳である。
絶望の淵に臨んだとき、その絶望すらも虚妄、うそ偽り、根拠のないものだと悟れば、希望がそうであるのと同じく、希望がはかなく潰えるのと同じく、絶望も当てにならない根拠のないものだから、絶望に打ちひしがれることも無用だ、と理解してきた。
今回、人民文学出版社2006年版の注に、ペトーフィの友人に宛てた手紙の中国語訳を付している。そこには、大略次のようである。
 「この句は、1847年、ペトーフィが友人に宛てた手紙で(中略)遠い目的地まで行かねばならなくなった場面で、それまでの旅程で見たことも無いような、やせた悪劣な駑馬しかなく、怒髪天を突くような絶望に陥った。それでその駑馬の車に乗ったのだが、…おお我が友よ!
絶望があのように人を騙すのは、まさしく希望といっしょだ。
これらのやせ細った駑馬が、こんなに速く私を目的地に運んでくれた。燕麦と干し草で飼育された貴族たちの馬さえも、彼らを称賛した。前にも言ったが、外面だけで物を判断してはならない、そんなことをしていては、真理はつかめない。」
という状況下で、発せられた言葉だと解説している。
絶望が人を騙す。絶望という状況に陥ったとき、人はその外面の状況に騙されて真実をつかみ損ねてしまう。絶望が虚妄、嘘いつわり、中国語の辞書には“没有根拠”とある。
絶望が根拠の無いものというのは、希望がそうであるのと同じである。
絶望して、生きる望みを失ったとしても、虚妄な希望を失ったときと同じである。されば、
絶望に直面したときも、希望をもっていたときと、なんら変わることもないのである、と。
 新聞にチンパンジーは、絶望しないと書いていた。どんな重病を患っても絶望しないそうだ。想像力が人間ほどはないから、くよくよしないので、治療の結果は良好だという。
 
 

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野草 題辞


沈黙していると、とても充実した気持ちになる。口を開くと、なぜか空虚に感じる。
 過去の命はすでにして滅び果てた。その滅びに対して、私は仏教でいう「大歓喜」を実感する。なぜなら、滅びによって、それがかつて存在し活動していたということを知ることができるからだ。滅びた命はすでに朽ち果てた。この朽ち果てたことに対しても「大歓喜」を実感する。なぜなら、朽ち果てたことで、それが虚(きょ)でなかったことを知ることができるから。
 生きとし生きてきた命は、泥土となり地上に棄てられ、そこに喬木は生えない。ただ、野草が生えるのみ。それは私の咎めであり苦しみである。
 野草の根はもともと深くない。花も葉も美しくない。しかし、露を吸い水を吸い、そして朽ち果てし死者の血と肉を吸いとって、それぞれが懸命に生きてゆく。生きてゆく間に、やはり踏みにじられ、刈り取られ、終(つい)には枯れて朽ち果ててしまう。
 だが、私は平然とし、欣然としてそれを喜ぶ。大いに笑い唱い出す。
 私は私の野草を愛するが、この野草で暗い社会の地表を飾ることは好まない。
 マグマは地下でうごめき、突如として吹き出し、溶岩となって一旦流れ出したら、すべての野草を焼き尽くし、火は喬木に及び、朽ち果てないものはない。
 だが、私は平然とし、欣然として喜ぶ。大いに笑い唱う。
 天地はかくも静粛であれば、大いに笑い歌わないわけにはゆかない。もしこんなに静粛でなければ、私もそうはできぬかもしれぬ。
 この一叢の野草で、明と暗、生と死、過去と未来のきわに、友と仇、人間とけだもの、
愛するものとそうでないものの前に、その証(あかし)として残すとしよう。
 自分自身の為、友と仇の為、人間とけだもの、愛するものとそうでないものの為に、この野草が、すみやかに朽ち果てることを希望する。さもなくば、かつて私が生存したことがなかったということになる。それは滅びることや朽ち果てることより更に不幸なことだ。
 去れ、野草。 我が題辞とともに!
一九二七年四月二十六日 魯迅 広州白雲楼にて  2010.6.18訳
 
訳者 あとがき                                             
1924年から26年にかけて、北京での論敵との激戦を経て、当時の軍閥政府から逮捕状が出たりしたこともあり、26年秋には北京からアモイに行き、そこで短期間教員生活をしたのち、「学者たちから仲間はずれにされ」広州に向かった。そこにもほんの短期間いただけで、上海に移動した。この2―3年の「筆で書くより、足で逃げるのに忙しかった」時に、
書きとめた物が「野草」である。時代背景抜きにしても味わえるような作品を訳してみる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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犬、猫、鼠

 去年あたりから私を嫌猫家と呼ぶ人がでてきたようだ。その原因は私が書いた「兎と猫」にあり:これは自らまいた種だから、何も言うことは無いし、気にもしていない。が、今年に入って少し心配になってきた。というのも、私は常々、筆を弄して、いろいろ書いてきたが、一部の人には、痒いところを掻くというのは少なく、痛いところを突いている方が多いようだ。万一それが、著名人や名教授、更には「青年を指導する先輩諸兄に、不謹慎かつ非礼な言動と見られたら、とても危険極まりない、ということになる。なぜか?こうした大家はいちゃもんをつけることにかけては、すさまじいものがあるからである。どれほどすさまじいか、といえば、私の文に一晩中カリカリした後で、新聞に寄稿して攻撃してくるからである。
「見てみろ!犬は猫を仇敵視しているではないか!魯迅氏は自ら猫嫌いと認めていながら、今度は“水に落ちた犬を叩け”」と言いだした。
この“ロジック”の奥妙さは、私の発言でもって、私を(嫌猫家の)犬だと証明しておいてから、私の文章の根拠を根こそぎ覆すからだ。私の2X2=4、3X3=9という九九は、すべて不正解となる。これが正しくないとなると、紳士諸兄の口から出る、2X2=7,3X3=1,000  が正解となる。
 そこで私はヒマを見つけて、犬と猫が仇敵関係になった“動機”を調べてみた。これは何も最近の学者が“動機”によって作品を評価しようとする流行を、僭越にも真似しようとするのではない。まずは自分で濡れ衣を晴らそうと思ったからにすぎない。動物心理学者にとっては、何の造作も無いことだろうが、惜しいかな、私にはその方面の学問がない。
そのうち、デンハルト博士の「自然史の国民童話」の中に、その原因を見つけた。それに依ると、こういうわけだ。動物たちが重要なことを決めるため会議を開いた。鳥、魚、獣、すべて集まったが、象が来ていない。使いを出して呼びに行くことになり、その籤を引いたのが、犬だった。「象というのはどうやって探すの?見たことも無いし、わからないよ」と訊いた。皆「そりゃ簡単さ」「象の背中は丸いから」と口ぐちに言った。犬は出かけた。途中で猫に会った。猫はいきなり背を弓なりに丸めたので、犬は象だと思って、会場まで同道してきて、背を弓のように曲げた猫を「みなさん象です」と紹介した。その場の全員が嘲笑った。これ以降、犬と猫は敵同士になった、という。
 ゲルマン人は森を出てから、あまり時間が経っていないが、学問文芸では相当なものがある。本の装丁や玩具の精巧さには舌をまく。しかしこの童話はどうも頂けない:怨みあうきっかけも面白みに欠けるし、猫が背を弓なりにするのは、何もわざと格好つけたのではない。咎は犬の眼力の無さにある。だが、原因と言えば、一つの原因かもしれない。しかし、私の猫嫌いは、これとはまったく別ものだ。
 人と獣の間は、本来なにも厳しく分ける必要はないの。動物の世界も、古人が幻想したほどには自由で快適とはゆかないものだ。が、ぶつぶつ文句を言ったり、見え透いた嘘をつくなどしない点では、人間社会より優れている。彼らは感情に素直で、正は正、誤は誤として弁解しない。蛆虫は清潔とは言えないが、自分から清らかで気高いなどとは言わない:猛禽猛獣は、自分より弱い動物を餌食にするから凶暴と言わざるを得ぬが、彼らは従来から「公理」だの「正義」だのという旗を振ったりしたことはない。それにもかかわらず、犠牲者たちから、食われる直前まで、敬服され称賛されてきている。
 人が直立できたのは、もちろん大進歩だし:話せるようになったのもそうだ:字を書き文を作れるのも大進歩。一方これは堕落でもある。それ以来、空談もするようになったからで、空談だけならいいが、心にもないこと、あるいは心にもとることを、知らず知らずに言いだした。ただ吼え叫ぶだけの動物に比べ、実に“厚かましい”し“忸怩たる”を免れない。もし一視同仁の造物主が高みから、人類のこうした小賢しさを、よけいなことと思い、まさしく動物園で、猿がとんぼ返りするのや、母象がお辞儀するのを見たら、破顔一笑はするものの、どうも薄気味悪く、一種の悲哀を感じ、こういう余計な小賢しさは無い方が良いと思うのと似ている。
 しかし、人間になった以上、“徒党を組んで異端を倒す”しかなく、他人の話すのをまねて、俗に従って話し、弁別するほかは無い。
 さて、これから私の猫嫌いの理由を書くが、自分としては十分な根拠があり、公明正大だと思っている。
1.性格は他の猛獣と異なり、スズメや鼠をつかまえても、一口に殺そうとはせず、思う存分もてあそび、放しては捕まえ、また放して捕まえる。もう飽きたと思う頃まで弄んでから食う。この点、他人の災禍を楽しむ人間が、弱い者をまずいじめるのと似ている。
2.猫は獅子や虎と同種ではないか?しかるにこんな媚態をするとは!が、これも天分かもしれない。もし猫の体が今より十倍も大きければどんな態度をとることやら。しかし、これらの口実は、今筆をとって、思いつくままに書いたものだが、当時の気持ちとしてはそういう理由があると思ったのである。
 ズバリ言うなら、猫の交合時の鳴き声のせいだと言う方が強いだろう。そこに至るまでの手続きがうるさく、他者の心を煩わすことすさまじい。特に夜、読書中、就寝中など、こんな時は長い竹竿で、叩いてやる。犬は道で交合するが、閑人が棍棒で痛打する:かつてブリューゲルの銅版画アルゴリー デル ウオルストにこの種の絵があった。こうした挙動は、古今内外同じようだ。あの執拗なオーストリーの学者フロイトが提唱した精神分析以来、(章士釧氏は「心解」と題したが、簡単で古風な訳だが、実はとても理解しがたい)我々の著名人、名教授もすこぶるあいまいな形で、拾い出してきて応用してきた。これはつまるところ、性欲に帰納されそうだ。犬を叩くことについては、ここでは触れない。
猫を叩くについては、やかましい、というだけである。それ以外なんの悪意もない。
私の嫉妬心は、たいして大きくないという自信がある。今、“何か動けば、咎を受ける”状況にあるから、まずはあらかじめ声明しておかねばならない。例えば、人間は交合の前に、いろいろな手続きが要る。新式ではラブレター、少なくもひと束、多いのはひと箱も要る。
古くは“釣り書き”“結納”、頭を床につける儀礼、去年、海昌の蒋家が北京で婚礼した時、祝いの儀礼が三日も続き、果ては、赤表紙の“婚礼節文”“序論”を印刷し、大変な議論となった:“平常心からこれを論じるに、名付けて礼というからには、必ず何回も行わねばならない。それをもっぱら簡易にしようとするなら、何を以て礼となさんか?……しからば、世の中で、礼に志ある人は、以て興るべし!礼の下らない庶人の地位に退居してはならぬ!と。
だが、私はなにも怒る気にすらならなかった。それは私が出席する必要に迫られなかったからだ:それゆえ、私の猫を敵視するのも、理由は実に簡単ということが判る。要するに、私の耳の近くでうるさく鳴き叫ぶからである。他人の各種の儀礼については、部外者は何も気にしないでよい。私はなにも構わない。だが、読書している時、または寝ているときに、他人が来て、ラブレターを声に出して呼んでくれとか、一緒に儀式に出て呉れというなら、自衛のために、長い竹竿で防御しなければならない。
 また、平素交際の無い人が、赤い招待状を寄こして“妹の嫁入りにご臨席を”とか
“息子の婚礼に”“何卒ご出席”“御一統さま全員で”とかの文言には“陰険な暗示”を含んでおり、お金を出さなければ、気持ち悪いことになり、楽しくないのだ。
 しかし、こうしたことは最近のことに過ぎない。顧みるに、私の猫嫌いについては、ずっと昔からで、こんな理由を言い出す前、十歳ごろのことだ。今もはっきり覚えているが、原因は極めて簡単で、猫が鼠を食ったからだ。―――私が飼っていた可愛くて小さなハツカネズミを食ったのだ。
 西洋では黒猫を好まぬようだが、確かなことは知らない:エドガー アランポーの小説の黒猫は、人を恐れさせるが、日本の猫は化けるのが上手く、伝説の猫婆は、人間を食うそうで、残酷さは確かに恐ろしい。中国の古代にも猫の妖怪がいたが、近来猫が妖怪になるのを聞かなくなった。どうやら古い手口は失われて、現実的になったようだ。ただ、私が幼いころ、猫には妖気があり、どうもなじめなかったようだ。それは、ある夏の夜に金木犀の下の小さな木の卓上で、横になって涼んでいた時、祖母が隣で芭蕉扇をあおぎながら、謎々や、昔話をしてくれたとき、突然、金木犀の木の上から、ザザーっと爪を引っ掻く音、暗闇にキラッと光る眼が、音とともに下りて来て、びっくりした。祖母の話も途切れ、それまでの話とは別の猫の話に変わった。
「猫は虎の先生だったって知っているかい?」と祖母。「子供は知らないだろうけど、猫は虎の先生なのよ。虎はもともと何もできなかったので、猫の弟子になったの。猫は殴り方や捉え方、食べ方を、丁度鼠を捕まえるときのように教えたの。みんな教わったら:虎はもう全部マスターした。誰も自分にかなう者は無い。ただ猫だけは自分より強い、もし猫を殺してしまえば、自分が最強になれる。虎はそう思うと、すぐさま猫を倒しに向かった。猫はとっくにそれを察知してぴょんと樹上に跳んだ。虎はなすすべも無く、木の下でうずくまるのみ。すべての技を教えた訳ではない。木の上に登ることは教えなかった。これは僥倖だと私は思った。幸いなことに、虎はとても性急なので、(木登りはマスターせずじまいだったからよかったが)さもなければ、金木犀から虎が下りてくることもあり得るのだ。
しかし、私はその話を聞いて怖くなって、部屋に戻って寝ようと思った。夜はだいぶ更けて:金木犀の葉は、さわさわ音を立て、微風が吹いて来て、茣蓙も少しは涼しくなって、寝がえりをしなくても眠れそうだった。
 築数百年の古い屋敷の豆油の灯の、うすぼんやりとした光は、鼠が跳梁する世界で、飄々と走り回り、チュッチュッと鳴き、その態度は往々にして“著名人や名教授”たちより軒昂である。猫は飼われていて食べるに困らない。祖母たちは普段は、衣裳箱をかじるし、食べ物を盗み食いする鼠を憎んでいたが、私はたいしたことではないと思い、自分には無関係だし、そんな悪いことをするのは、大抵は大きな鼠で、私の好きな小さな鼠の悪口を言うのは良くないと思っていた。この小鼠は、地上を走りまわり、親指ほどの大きさで、私の地方では隠鼠(二十日鼠の類か)と呼び、梁の上で駆けまわる人に憎まれるのとは別種だった。
 私の寝床の前に2枚の絵入りの襖があり、1枚は「猪八戒の婿入り」で全面に長い口と大きな耳が描かれ、良い眺めではなかったが、もう1枚は「鼠の嫁入り」でとても可愛かった。新郎新婦がお供や賓客、執事などみなアゴが尖り、足も細くてとても読書人みたいだが、みな赤いシャツと青いズボンである。こんな大規模な儀式を行えるのは私の好きな隠鼠に違いないと思った。
 現在では、俗っぽくなってしまって、道で嫁入りの儀式に出会っても、性交の広告ぐらいにしか思わなくなり、さして注意もしなくなった:但し当時は「鼠の嫁入り」の儀式を見たいと憧れていた。たとえ海昌の蒋家のように三日三晩やっても、煩わしいなどとは感じなかったろう。正月の十四日の夜は、そうやすやすと眠るわけにはゆかない。彼らの儀仗が、床の下から出てくる夜だから。しかし、待てども 待てども、裸の隠鼠がチョロチョロするだけで、慶事をしているようには見えなかった。待ちくたびれて不満に感じながら寝入っていまい、目を覚ましたら、空は明るくなっており、灯節(小正月)であった。
鼠たちの婚儀は、招待状も出さないし、賀礼も受けない。本物の「参列状」でも、絶対歓迎されないのだろう、これが彼らの従来からの習慣で、抗議してもしょうがないと思った。
 さて鼠の大敵は実は猫ではない。春の後、ザー、ザザザっと叫ぶのが聞こえる。これを「鼠の銭勘定」と呼ぶ。恐ろしい殺し屋が襲いかかってきたのだ。この叫び声は、絶望の余りの恐怖の叫びで、猫に会ってもこんなにあわてない。猫ももちろん怖いが、小穴に潜り込めば、猫には手が出せない。逃げる機会はけっこうある。只、恐ろしい殺し屋―― 蛇は細長く、径は鼠とほぼ同じ。鼠の這入れるところには、どこでも追いかけてくる。追跡もしつこく、幸いに万難を排しても、「銭勘定」をしだしたら、大概はもう次に打つ手は無いということだ。
 ある時、誰もいない部屋で、銭勘定の音がする。中に入って見ると、蛇が梁の上にいて、地上に一匹の隠鼠が、口角から血を流している。ただ、脇腹は鼓動し、呼吸をしている。とりあげて、紙箱の中で半日ほどすると、元気を取り戻し、だんだん飲食も歩行もできるようになった。二日目にすっかり回復したようだが、逃げ出さない。地上に置いても、人の前に寄って来て、足を伝って膝まで上ってくる。卓上に置くと、残り物を拾って食い、碗の端をなめ:書机の上に置くと従容として遊び出し、硯台に近づいて墨汁をなめた。私は驚き且つ喜んだ。父から中国には、ある種の黒猿がいて、親指ほどの大きさで、全身漆黒のぴかぴかの毛が生えている、と聞いたことがある。それは筆箱の中で眠り、墨をする音を聞くと、跳び出してきて待っている。人が字を書き終え、筆を置くと、硯の余墨をなめ、また筆箱に戻る。私はそんな黒猿がいたらいいなと思ったが、手に入れることはできなかった。どこにいるの?どこへ行けば買えるの?といろいろな人に訊いてみたが、誰も知らなかった。
“慰情聊勝無”(陶淵明の詩 弱女雖非男、慰情良勝無 より、黒猿では無いが、これも情を慰めてくれる:訳者注)この鼠は私の黒猿となった。ただ墨汁をなめるだけで、私が字を書き終えるまで待ってはくれるとは限らないが。
 もうはっきりとは覚えていないが、こうして一二ケ月:ある日突然、寂莫を感じた。まことに、何か自分の大切な物を失ったように感じた。あの鼠は卓上や目の前でうろちょろしていたのが、この日は半日も姿を見なかった。皆が昼飯を食べ終えても出てこなかった。いつも必ず出てくるのだが、私はじっと待った。さらに半日待ったが出てこなかった。
 私の守をしてくれていた長媽媽も、私が辛そうにじっと待っているのを見かねてか、ちらっとひとこと口にした。私は、すぐ憤怒の顔になり、悲哀にはちきれんばかりになって、猫を仇敵とすることに決意した。彼女は「鼠は昨夜、猫に食われちゃったよ」と言ったのだ。愛する者を失い、心はうつろになり、報復の憎しみでいっぱいになった。
 私の報復は家で飼っていた三毛猫から始まり、徐々に他の猫にも広がり、出会った猫すべてに至った。最初はただ、追いかけて叩くだけだった:後には手が込んできて、石を頭めがけて投げた。空き部屋に誘い込み、相手ががっくりくるまでいたぶった。この戦はだいぶ長く続いたが、この後、猫は一匹も近寄らなくなった。彼らにどんなに勝ったところで、英雄になることもなかった:ましてや中国で、生涯猫と闘った人間は、多くもないだろうし、一切の戦術、戦績も全て省略する。
 ただ、だいぶ後になって、多分半年も過ぎたころ。意外な情報を偶然に知った:あの鼠は、実は猫に食われたのではなく、長媽媽の腿を伝わっていこうとしたとき、彼女に踏み殺されたのだった。
 これは以前には確かに思いもよらなかったことだ。現在の私は、当時どんな感情を抱いたか、はっきり覚えていないが、それでも猫への気持ちはついに融和することは無かった。
北京に来て、猫が兎の子を殺したので、古い隙間に新しい嫌悪が這入り込み、さらに激しくなった。猫嫌いはかくして広まった。が、今やこれらは過去の話。私も態度を改め、猫にも頗るやさしくなり、万やむを得ぬ時は、追い出すのみで、叩いたり傷つけたり、殺害したりなどしない。これはここ数年の進歩で、経験も多く積み、一旦おおいに悟れば猫が魚を偸み、ヒヨコをさらったり、深夜に大声で鳴き叫ぶと、人は十人の内、九人は憎悪するが、それは猫に対してである。もし私が、のこのこと、人のためにこの憎悪を駆除しようなどと、叩いたり傷つけたり、或いは殺したりなどしたら、今度は猫がかわいそうだ、ということになり、憎悪の矛先は私の身に降りかかってくる。従って、目下の方法は猫が騒ぐのをみたら、人が嫌がっている場合、すぐ立ち上がって、戸口で大声で「しーっ」
「あっちへ行け!」といい、しばらく静かになると、書斎に戻る。かくして、侮られずに、請負人の資格を長く保持できる。
 実は、この方法は中国の官兵が常に実行していることで、彼らは決して土匪を一掃したり撲滅したりしない。もしそうしたら、自分たちが重要視されなくなり、ついには役割もなくなって、人員削減されるのが落ちだから。思うに、もしこの方法が、広く応用されれば、私は大概、いわゆる「青年たちの指導者」の「先輩」になる望みが達成されることだろう。但し、現下の情勢では、それを実践するという決断はできかねるし、まさしく慎重に研究推敲しているところである。
 一九二六年二月二十一日       2010.6.30訳
 

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二十四孝図

 私は何としても、最も激しく最も殺傷力のある呪文を見つけ出し、口語文に反対する人々、口語文を妨害する者を呪詛したい。たとい死後に、霊魂が残るとしても、この激しい憎悪の気持は、地獄に落ちても、悔いたりしない。まず何をおいても、口語文に反対する連中、口語文を妨害する連中を呪詛したい。
 いわゆる「文学革命」以来、子供向けの本は、欧米、日本に比べまだだいぶ見劣りするが、挿し絵もつき、読めるかぎりは、理解できるようになった。しかし、ある思惑を持った連中は、それすら禁じようとし、子供の世界のわずかな楽しみも奪おうとしている。
北京で今、子供を怖がらせる時に「馬虎子」(マーフーズが来るぞ)という。一説には、「開河記」に書かれている、隋の煬帝の命で運河を開削したとき、小児を蒸して(食べた)麻叔謀という:正確には“麻胡人”と書くべきだが、そうであれば、麻叔謀は胡人となる。ただ、彼が何人であれ、彼が子供を食ったとしても、人数には限りがあり、彼の一生の短い間に過ぎない。口語文妨害者の流す害毒は、洪水や猛獣より過酷で、非常に広範、かつ長期に及んでいる。全中国を麻胡(マーフー)にさせて、すべての子供を彼の腹の中で殺している。
 口語文を妨害せんとする連中を、滅亡せねばならない!
 こういうと、紳士たちは耳を覆うだろう。即ち、(彼らを呪詛する筆者が)「中空まで跳びあがり、完膚なきまでに罵り、―――罵りを止めない」からである。さらには文士たちも罵るに違いない。口語文は「文格」にもとるとか、「人格」を損ねることおびただしい、と。「言は、心の声」ではないか?「文」と「人」とは当然、相関関係にあり、人の世はもともと、千奇百怪、なんでも起こるが、教授たちの中にも、作者(魯迅)の人格は「尊敬しない」が、「彼の小説は良くない」とは言えない、という変な人もいる。が、私は頓着しない。幸いまだ(現実乖離の:人民文学出版注)「象牙の塔」に上がってはいないから、何の心配もいらない。もし、知らないうちに上がっていたとしても、すぐ転げ落ちるまでだ。転げ落ちる途中、地面に着くまでにもう一度言う:
 口語文を妨害せんとする連中を、滅亡せねばならない!
 小学生が粗雑な「児童世界」を夢中になって読んでいるのを見ると、外国の児童が読んでいる本の美しさ、精巧さと比べ、中国の児童たちがかわいそうになる。ただ、私や私と同窓の童年のころを思い出すと、だいぶ良くなったとは思う。我々の過ぎ去りし時代に悲哀の弔辞を贈る。我々のころは、見るべきものは何も無い。少しでも挿し絵があると、塾の先生、すなわち当時の「青少年を指導すべき先輩」から禁じられ、しかられて、掌の中心を叩かれた。私の級友は「人の初め、性は本来善」(という三字経)だけを読まされ、余りの退屈さに耐えられず、「文星高照」の、悪鬼の魁星の像を偸み見して、幼い審美眼を満たしていた。昨日も見、今日もそれを見るのだが、彼の目にはきらめきが蘇生し、喜びの輝きが戻った。
 塾外では禁令は緩やかで、というのは私個人のことだが、人によっては違うだろう。だが、皆の前でおおっぴらに読めたのは、「文昌帝君陰騭文図説」と「玉歴鈔伝」で、因果応報の物語だ。雷公と稲妻が雲の上に立ち、地面の下には牛頭と馬面がひしめき、「中空に跳びあがる」のは、天の掟を犯す者で、たとい一言半句でも符合せず、わずかの存念でもそれが抵触するようなら、相応の扱いを受ける。この扱いは決して「些細な怨み」などの騒ぎではない。そこでは鬼神が君主で、「公理」が宰相だから、跪いて酒を献じても何の役にもたたず、まったく手が出ない。中国では、人となるだけでなく、死者となるのも極めて困難なのだ。しかしこの世よりましと言えるのは、いわゆる「紳士」もいないし、「流言飛語」も無い点だ。
 あの世で静かに過したいなら、あの世のことをあまりほめてはいけない。特に、筆を弄ぶのが好きな人間は、流言がとびかう今の中国では、そしてまた「言行一致」を大いに推進せんとしている今、前車の覆るのを鑑としなければならない。
アルツイバージェフが以前、若い女性の質問に答えた「ただ人生の事実そのものの中に、歓喜を探し出す者のみが、生きて行ける。そこで何も見いだせなかったら、死んだ方がましだ」という一節がある。それに対して、ミハロフという人が、手紙で罵った。「……、だから私は衷心よりお勧めするのだが、君は自殺して、自分の命に禍を与えて、福を取れ。それが一番ロジックにあっているし、二番目には言行不一致にならずに済む」と。
 そうは言っても、この論法は人を謀殺するもので、彼自身はこのようにして、人生の歓喜を見つけ出してきたのだ。アルツイバ―ジェフは不平不満をならべただけで、自殺しなかった。ミハロフ氏はその後どうなったか知らない。歓びは失ったか、別に何かを探し出したか。まことに「そのころは勇敢でも安穏に暮せたし、情熱的であることに何の危険も無かった」ようだ。
 しかしながら、私はすでにあの世のことをほめてしまったので、前言は撤回できない;「言行不一致」の嫌いはあるが、閻魔大王や小鬼からびた一文もらっていないから、この役はいつでも降りられるのだが。まあ、このまま書きすすめてみよう:
 私が見たあの世の絵は、家の書庫にあった古い本で、私の専有ではない。私が自分の物として手にした最初の挿し絵本は、一族の年長者が呉れた:「二十四孝図」だ。ほんとうに薄い冊子だが、下に挿し絵、上に説明があり、鬼は少なく、人が多く描かれ、自分の本なので、とてもうれしかった。その中の故事は誰でも知っているもので:字の読めない者も、たとえば阿長(乳母)でも絵を見れば、滔々と物語ることができた。ただ、うれしさの後に来たものは、興味喪失感であった。
二十四孝図の物語を全て聞き終えたあと、「孝」がかくも難しく、それまで呆けたように妄想していたことと、孝子になろうとしていた望みは、完全に絶たれた。
「人の初め、性は本来善」というのは本当か?これは今、ここで研究しなければならぬテーマではない。ただ、私は今もはっきり覚えているが、幼いころ、親に逆らったことは一度も無いし、父母に対しては特に孝順であろうとした。しかし幼いときは、何も知らないから、自分なりに「孝順」を理解して「よく親の話を聞き、いいつけに従う」ことと思っていた。成人したら、年老いた父母に食事をあげること、だと。この孝子の教科書を見てから、決してそんな事だけではすまないのだと悟った。何十倍、何百倍も難しい、と。もちろん、努力すればできることもある。「子路、米を負う」「黄香、枕を煽ぐ」の類だ。「陸績、橘を懐にす」も難しくない。金持ちが私を招宴してくれたらの話だが。
「魯迅さん、デザートのミカンを懐に入れて持ち帰りますか?」私はすぐ跪いて「母の好物ですから、頂きます」と応える。主は敬服し、かくして孝子はいとも簡単に誕生する。
「(冬に)竹に哭いて、筝を生ず」は疑わしい。私の誠心では、このように天地を感動させる自信はない。ただ、哭いても筝が出てこないというだけなら、面子を無くすだけで済む話だが、「氷に臥して鯉を求む」となると、生命に関わってくる。我故郷は温暖だから、厳冬でも薄氷しか張らない。小さな子供でも、乗ったらバリっと割れて、池に落ちて鯉も逃げてしまう。もちろん命を大切にすべきで、それでこそ、孝が神明を感動させ、思いもつかない奇跡を呼ぶ。ただ、その頃私は幼くて、こんなことは知らなかった。
 中でも特に分からなかったし、反感を覚えたのは、「老莱、親を娯(たのします)」と
「郭巨、児を埋める」の二篇、である。
 今でも覚えているが、一つは、老父母の前で倒れている爺さん。もう一つは母の手に抱かれている幼児。どうして私は、この絵に違和感を覚えたのか。二人とも手にはデンデン太鼓を持っている。この玩具は可愛らしい。北京では小鼓という。即ち鼗(トウ)で、
朱熹曰く「鼗、小鼓、両側に耳あり、その柄を持って揺すると、傍らの耳が自ら撃ち」、
トントンと鳴る。しかしこんなものは老莱子の手に持たせるべきじゃない。彼は杖を持つべきで、こんな恰好はまったくでたらめで、子供を侮辱する。二度と見たくないので、このページに来ると、すぐ次をめくった。
 当時の「二十四孝図」は、とうにどこかに無くした。今手元にあるのは、日本の小田海僊の描いた(絵を中国で印刷した)本だけ。老莱子のことを「七十才で、老と称せず、いつも五色の斑斕の衣を着て、嬰児となって、親の側に遊ぶ。また常に水(桶)を手に堂に上がり、詐りて転び、地に倒れ、嬰児のように泣き、以て親を娯す」だいたいの内容は旧い本と同じで、私の反感を招くのは、詐りて転ぶだ。逆らうにせよ、孝順にせよ、子供は多くは「詐りて」など望まぬ。物語を聞いても作り話は喜ばない。こんなことは少しでも児童心理に心得のあるものは、みな知っている。
 もう少し古い本を見ると、こんなに虚偽に満ちてはいない。師覚授(南朝宋人)の「孝子伝」には、「老莱子…、いつも斑斕の着物で、親に飲み物を持って行き、堂に上がる際、
転んで父母の心を傷つけるのをおそれ、倒れ臥して嬰児の泣く真似をする」(太平御覧の413引)。今のと比べると、多少人情に近い。それがどうしたわけか、後世の君子が“詐りて”と改作しないと気が済まなくなったのか。鄧伯道が子を棄てて侄を救うというのも、考えてみれば、ただ“棄てる”だけなのだが、いい加減な連中が、子を樹にしばりつけ、追いかけて来られないようにした。まさしく「身の毛がよだつのを趣味」とするのと同じで、非情を封建道徳の鑑とするようだ。古人を侮蔑し、後の人に悪影響を及ぼすものだ。老莱子は、ほんの一例で、道学先生(朱子学者)は彼を無疵の完璧者とみなすが、子供たちの心の中では、すでに死滅している。
 デンデン太鼓を玩ぶ郭巨の子は、実に同情に値する。母の腕に抱かれ、うれしそうに笑っているが、彼の父親は正に穴を掘り、埋めようとしている。説明に「郭巨は家貧しく、三歳の子あり、母親は食を減らして、之に与う。巨は妻に言う。貧乏で母に充分な食事をあげられない。子にもまた母の食料を分けるしかない。蓋し、子を埋めてはどうか?」只、
劉向の「孝子伝」はこれと異なり、「巨家は富んでいたが、彼は二人の弟に全てを与えた:子は生まれたばかりで、三歳になっていなかった。結末は大略似ている。「二尺ほど掘ると、黄金の釜を得た。その上には:天が郭巨に賜った。官も取るべからず、民も奪うべからず!」
と書いてあり(郭が孝子だから、天からの賜物を得た、という孝行譚)。
 私は最初、この子のことが心配で、たまらなかったが、黄金の釜を掘り出して、やっとほっとした。しかし私はすでに、もう自分は孝子になろうなどとは思いもしなくなったし、
自分の父親が孝子になろうとするのではないかと心配になった。家もまさしく左前になりだして、父母が米と薪の心配するのをしょっちゅう聞いていたし、祖母も年老いて、もし私の父が、郭巨に学ぼうとしたら、埋められるのは私ではないか?もしその通りになり、黄金一釜を掘り当てられれば良いが、幼かった私にも、世の中そんなうまい話があるとは、思えなかった。
 今思い出すと、実際馬鹿げていると思う。今ではこんな古いでたらめは、誰も学ぼうとはしないが、封建道徳を美しく飾る文章はいつでもある。だが、紳士が裸で氷上に横になり、将軍が自動車から下りて、米を負うなどは、殆ど見かけない。ましてや、今や大人になり、古書も何冊か読み、新本も何冊か買った。「太平御覧」や「古孝子伝」「人口問題」や「産児制限」「二十世紀の児童世界」など、埋められることに抵抗する理由はいっぱいもつことができた。
だが、あの時は、あの時、今とは違う。あの時私はほんとうに恐ろしかった。掘っても、掘っても、黄金が出てこなければ、デンデン太鼓と一緒に埋められ、土を被せられ、踏み固められてしまったら、どうしたらよいか、考えることすらできなかった。
 事実はその通りにはならなかったが、その後、父母が窮状を愁えているのを聞くたびに、白髪の増えた祖母を見るのが怖く、彼女と私は、両立しないのだと感じた。少なくとも、
私の命と何らかの衝突のある人だと、後に、この印象は徐々に淡くなっていったが、彼女が亡くなるまで、残った。これは多分「二十四孝図」を私に呉れた儒者たちには、思いもよらなかったことだろう。
  5月10日             2010.7.14訳
 
訳者 あとがき
京の下京に住んでいたころ、四条西洞院からバスをよく使った。そのバス停の前が郭巨山という祇園祭の山車の蔵であった。そこに説明書きがあり、この作品と同じ内容が挿し絵とともに張られていた。それを3年間、何回も見ながらバスを待っていた。
祇園祭りの日に、その山車が巡行するのも見た。なぜこんな悲しい話が、室町時代から今日まで、山車として受け継がれてきたのだろうか。蘆刈山とか、これに似た悲劇の山車が他にもある。疫病や内戦が続き、大勢の人々が目の前で死んでゆくのを、目にしてきた京の下町の人々の発想に、どのような背景からこうした悲劇を取り上げる気持ちが起こったのだろうか。元義としては孝行の勧めだろうが、それなら魯迅の指摘するように、孟宗竹の話や、人を元気にさせてくれる明るい話は他にある。子供を埋めねばならぬほどの、
過酷な状況が、21世紀の今日では想像すらできないほどの頻度で、発生していたのではなかろうか。子殺し、といえば、21世紀の十年間でも、地面に叩きつけたり、冷蔵庫や湯船で殺すという現実は、我々を悲しませるが、孝行のために子殺しをすることは無い。
長野には姨捨伝説があり、東北には子殺しのおどろおどろしい絵が残されている。
祖母と嬰児に二人分の食糧を確保できなくなったとき、夫婦はどういう行動をとるのだろう。今では一人っ子政策で、子供は過保護なくらいに育てられるが、昔は毎年のように生まれてくる子供を、いかんともしがたい。日本には各地に姥捨て伝説と水子地蔵がある。
中国では、さすが儒教の儀礼の邦、敬老の思想から、姥捨てという説話は、寡聞にして知らない。水子地蔵というのも、日本のようなものを見たことは無い。どこかにあるのだろうか。30年前から「人工流産」という言葉を耳にするようになった。違和感がある。
魯迅の感じたように、この世の中 そうざらには黄金を掘り当てることはない。だから孝行譚として、奇跡が起こるというのが、説話としては残るのだろう。飢饉のおり、何も食べるものがなくなったとき、人はどの道を選ぶのだろうか。
 
 
 

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父の病


もう十数年前のことだが、S城内に有名な名医の話があった。当時往診料は1.4元だが、急患だと十元、深夜は倍、城外だとその倍。ある夜、城外の閨女が急病で、彼に診てもらった。彼はたいそう裕福になっており、面倒だから、百元でなきゃ診ないと言った。彼らはやむなくそれに従った。待つほどに彼は草草に診ただけで「たいしたことない」と一言。処方箋を書き百元を手にして帰った。その家は金持ちのようで、翌日も頼んだ。彼が着くや、主人が自ら出迎えに出、笑いを浮かべて言った。「昨夜先生の薬を頂いたら、だいぶ良くなりました。で、もう一度診て頂きたいと思いまして」と病室に案内し、老乳母が病人の手を几帳の外に出した。触ると氷のように冷たく脈もない。そこでうなずいて、「おお、この病か、わかった」と従容として机の前に行き、処方箋を書いた。
「この証文と引き替えに英国銀百元を支払う」署名と花押をつけた。
「先生、この病はそんな軽くはありません。薬ももう少し良く効くのにして下さい」と主人は背後から言った。
「よろしい」と応じ、別にもう一枚「この証文と引き替えに英国銀二百元を支払う」署名と花押。
 かくして主人は処方箋を受け取り、丁重に彼を送りだした。
 私はこの名医と丸二年つきあわされた。隔日一回。父の病を診てもらった。その頃もうすでに有名だったが、面倒くさがるところまで裕福にはなっていなかった。往診は1.4元。現在都会では十元の診料は奇とするほどのことでは無いが、当時の1.4元は相当な額で、なお且つ隔日ときてはそれを工面するのが大変だった。特に彼は確かに格別で、世間でも、処方は一般の物はダメで、私は薬のことは分からないが、私が感じたのは、「薬引」という補助剤はとても入手しにくいもので、新しい処方に換わると、急いでそれを探さねばならなかった。まず薬を買い、次に薬引を探す。「生姜」2片、先端を取った竹の葉10片、など一般的なものは使わなかった。最低でもまず蘆の根、これは川辺で掘る。三年霜を経た甘藷、これは探すのに少なくとも2,3日は掛る。妙なことだが、後にはお金で買えないものは殆ど無くなった。
 世間では彼の医の神妙さは正しくここにある、と言われていた。かつてある病人が、百薬効なく、ようやくのことに名医の葉天士先生にめぐり会えて、元の処方に薬引を一つ加えた。それが桐の葉だそうだ。それを一服すると、たちまち病は癒えた。「医は意也」その時は秋で、桐は天下に先んじて秋を知る。それゆえ、まず百薬はこれを投ぜず、秋気を以て動かし、気で気を感じせしめ、これによって……。私には何がなんだかさっぱり分からないが、ずいぶん敬服はした。凡そ霊薬なるものは、入手はたいへん困難なもので、仙人になろうとする人は、命がけで深山に入って、採薬に懸命になるのだと知った。
 こうして二年も診てもらうと、だんだん親しみも出、ほとんど友人のようになったが、父の水腫は日に日にひどくなり、起きられなくなってしまった。霜に三年耐えた甘藷の類に対し、徐々に信仰を失って行った。薬引探しも以前のような張り合いをなくした。ちょうどそんなころ、彼が来診し、病状を問い、非常に誠実かつ丁重に言った。
「私の学んだすべてのことは使い果たしました。陳蓮河という方がいて、私よりずっと素晴らしい名医ゆえ、彼に紹介状を書いても良い。病はたいしたことはないが、彼に診てもらえば、早く治る…」
 この日一日、みんなはふさぎこんでしまった。私は彼が駕籠に乗るまで見送って、部屋に戻ると、父の顔色はとても異様で、彼は皆に話していた。もう自分の病は治りそうもない。二年診てもらって、一向に効き目が無い。なじみになりすぎて、困ったことになりかねないので、危急になる前に、新しい医者を紹介し自分は手を引こうとしている、ということだった。しかし、他にどんな方法があろうか。S城の名医は彼以外、陳蓮河只一人だった。翌日彼に頼んだ。彼の往診料も1.4元。前の名医は丸くて太った顔だったが、彼は長くてふっくらした顔で、この点は違っていた。薬も違っていた。前の名医にはなんとか対応できたが、今回は、対応しきれなかった。処方箋にいつも決まって丸薬散薬と一種奇妙な薬引を一緒に書いた。
 蘆の根と三年霜に耐えた甘藷は使わなかった。最も一般的なのは「コオロギ一対」傍らに、小さい字で「原配のもので、同じ巣穴にいるもの」と注がある。昆虫も貞節でないといけないようで、後妻をもらったものや再婚したものは薬にする資格を失うようだ。但しこの役目は難しくない。百草園に行けば十対くらい容易に捕まえられる。糸で縛って生きたまま熱湯に入れて出来上がり。しかしまた、「平地木十株」という、何のことかさっぱりわからない。薬局、田舎の人、薬草売り、老人、読書人、大工の師匠などに訊いても誰も知らない。最後に遠縁の叔父さんに花木の好きな人がいたことを思い出し、訊いたところ、彼は知っていた。山中の大きな樹木の下に生える小さな木で、紅い実が小珊瑚珠のようになり、一般には「老弗大」と呼ばれていた。
「鉄の鞋が破れるほどあらゆる所を探しまわって苦労しても、入手できたら何のことは無い」の譬えの通り、薬引は探し出せた。その他に、特別の丸薬、破れ太鼓の皮が必要だった。これは古い太鼓の破れた皮で造る。水腫は一名鼓脹とも言われ、破れ太鼓の皮を飲めば、その病を克服できるという。清朝の大臣剛毅は「洋鬼(毛唐)」を憎悪したが、彼らと戦うために、軍隊を訓練し「虎神営」と称したが、虎は羊(洋)を食い、神は鬼を屈服させられる、という意味からつけた名だという。まさしくこの伝と同じだ。
 この神薬は城下で只一軒しか売っていない。我が家から五里も離れていたが、平地木ほど暗中模索することなく、陳先生が処方を書いてくれ、懇切丁寧に説明してくれた。
「ある特別の丹薬がある」ある時陳先生は言いだした。「舌の上にのせれば、必ず効くと思う。舌の中心は霊の苗があり、… 値段も高くない、一箱二元。……」
 父は静かに考えてから首を振った。
「こうして私がいろいろ薬を投じてみたが、大して効き目がない」ある時陳先生はこう言った。「誰かにみてもらってはどうだろう。何か冤罪か前業…… 医は病は治せるが、命はいかんとも。そうでしょう?これも前世の業で……」
父は黙って考えてから首を横にした。
凡そ国手なるものは、起死回生を行う人だ。医者の門前を通ると、このような扁額をよく目にする。今では少し譲歩し、医者も自ら言う「西洋医は外科に優れ、漢方医は内科に秀でる」と。だが、S城にはその当時、西洋医がいなかっただけでなく、誰一人天下に西洋医なる者がいるさえ思いもしなかった。それで何はともあれ、只、軒轅岐伯(名医)の嫡流たちに請け負ってもらうほか無かった。軒轅のころは、巫と医は分かれておらず、現在に至るも彼らの門徒は、鬼を見るし、舌の中心に霊苗があると考える。これが中国人の「命」であり、名医といえども医によって治すことあたわず、ということになる。
 霊丹を舌の上に置くことを肯んぜず、「冤罪と前世の業」も考えつかず、只単に百日余の破れ太鼓の皮を食べて、何の役に立つのか!依然として水腫は破れない。父はとうとう寝台に横たわったまま、ぜいぜい咳をしだした。それで陳先生に頼んだ。今回は急患扱いで、
洋銀十元。彼はなお泰然として処方を書いたが、破れ太鼓の皮の丸薬は止めたし、薬引もたいして神妙な物ではなかった。だから半日ほどですぐ煎じることができたが、飲ませたら、口角から戻してしまった。
 この時以来、二度と陳先生とのかかわりは持たなくなった。街で彼が三人担ぎの早駕籠に乗って行くのを見かけるのみ。彼は今も健在で、医を行う一方、漢方医の何とか学報を出して、今まさしく只外科に長じているのみの西洋医と闘っているそうだ。
 漢方医と西洋医の思想は確かに少しばかり違う。中国の孝行な子たちは、「自分の罪が
深いので、禍が父母に及ぶとき」何斤かの人参を買い、煎じて飲ませることで、父母が何日かでも、たとえ半日でも息永らえてくれるように努める。
 私の医学の先生は、医者の職務を教えてくれた時、治せるものは治すべきだが、治せないものは、苦痛を味あわせないようにすべきだ、と言われた。―――先生は西洋医だが。
 父のゼイゼイがとても長く続き、傍らにいる私ですら辛くて堪らなくなった。だが、誰も彼を救ってやれない。私はしまいには、電光一閃 「早く息が止まれば………」と思ったが、すぐまたこんなことは考えてはいけないと思いなおした。犯罪であると。ただそれと同時に、この考えも正当であるとも感じた。私は父をとても愛していた。今でもそう思っている。
 朝、隣の衍さんの奥さんが入って来た。儀礼にたいへん通じている婦人で、我々が何もしないでいてはいけない。彼の衣を換え、紙銭と一種の「高王経(仏教の経典)」を焼いて灰を紙に包んで、彼の手に握らせる…(冥土への路銀;何信恩氏)」
「呼んであげなさい!お父さんはもう息を絶つのよ。早く呼びなさい!」彼女は言った。
「父さん!父さん!」私はすぐ叫んだ。
「もっと大きな声で!彼が聞こえるように! 早く!」
「父さん!!! 父さん!!」
彼はもうすでに平穏な顔になっていたが、急に意識がもどり、目をかすかにあけて、少し苦しそうだった。
「呼びなさい! 早く!」彼女は促した。
「父さん!!!」
「なんだ? …… さわがしいな。……さわぐな…」彼は小さな声で言った。
そしてまた急にゼイゼイ咳をしたが、しばらくすると元の状態になり静かになった。
「父さん!!!」私はなお叫び続けた。彼が息を引きとるまで。
私は今なお、あのときの自分の声が聞こえる。聞こえるたびに、これが私の父に対する最大のあやまちだったと思う。
  十月七日                2010年6月4日 訳
 
訳者 あとがき
 何信恩さんの注に依れば、父の死んだのは魯迅16歳の時。当時のしきたりで、父の衣を換えるのは周家の男の年長者が執り行うこととなっており、彼が主となって行っただろうと、推測している。衣を換えるということの中には、映画「おくりびと」で本木が行ったような手筈とかを、しきたりに従って、「ある種の呪文」を唱えながら、行わねばならない。これは16歳の魯迅にとっては大変な苦難であったろう、と記している。
 この後、彼は南京の西洋式の学校に官費をもらって勉強に行くのだが、軍のためということなどで、そこを辞し日本に留学。仙台で医学を学ぶという道を選んだ。
 森鴎外の「高瀬舟」は、両者が医学と小説を書くという共通点から、二人の深層心理を読みとることができる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「百草園から三味書屋へ」

我が家の裏に大きな園があり、百草園と呼ばれていた。今では家とともに朱文公の子孫に売ってしまったので、最後に見たときから7,8年経ってしまったが、中には確かいくばくかの野草が生え、私の楽園だった。
 言うまでも無く、青々とした野菜の畝、すべすべした石の井戸、高いトウサイカチ、紅紫の桑の実、木には泣き続けるセミの声、腹の丸い蜜蜂が菜の花にとまり、機敏な雲雀が草むらからふいに飛び立ち雲をめがけてまっしぐら。
 低い土塀の近くにも、尽きせぬ趣があった。油蛉(鳴く昆虫の一種)は低い声で鳴き、コオロギは琴を弾くごとし。レンガを裏返すと、ムカデがい、ハンミョウもいて、指で背を押すとポンと音をたて、尻から煙霧をシュッと出す。何首烏のツルと木蓮のツルがからまり、木蓮はハスのような実がなり、何首烏はゴロッとした根がある。根に人間の形のものがあり、食べると仙人になれるというので、それを探そうとして根を抜いたのだが、ずるずると抜き続けて土塀を壊してしまった。その後、人間の形をしたものを見ていない。トゲを気にしなければ、覆盆子(木イチゴ)を摘む。小さな珊瑚珠を寄せ集めた小球で、酸っぱくて甘い。色といい味といい、桑の実より格段に上だ。
 茂った草むらには行かなかった。ヤマカガシ(無毒の蛇)がいると言われていたから。
長媽媽(乳母)はよく話をしてくれた。昔ある書生が古い廟で勉強していた。夜、庭で夕涼みしていると、誰かの呼ぶ声がする。すぐ応答して周りを見ると、美女が塀のうえから顔を出し、ほほ笑んでから顔を引っ込めた。彼はとてもうれしかった。だが夜、彼の所にきて話をしてゆく老和尚にこのからくりは看破されてしまった。彼の顔に妖気がただよっているから、きっと‘美女蛇’を見たに違いない。この人頭蛇身の妖怪は、人の名を呼び、それに応えると、夜忍んできてその人の肉を食う。その男は死ぬほど驚いたが、和尚は大丈夫という。この小箱を枕辺に置いておけば、枕を高くして寝られる、と。彼は言われたとおりにしたが、どうしても眠れぬ。―――とても眠れない。夜なかにやはりやって来た。シャシャシャ!戸外は雨風の音。彼がぶるぶるふるえている時、フオーとひと声、金色の光が枕辺から飛び出し、外はもう音がしなくなった。金色の光は戻って来、小箱の中に入った。「それからどうなったの?」それからね、和尚さんは話した。これは飛ムカデで、蛇の脳髄を吸ってしまうのさ。それで美女蛇は死んじゃったのよ。
結末の教訓は、だから知らない人から声をかけられても返事しちゃだめよ、であった。
 この話は、人が生きて行くことの険しさを教えてくれた。夏の夜、夕涼みのとき、よく用心し、塀の上を見ないようにしたが、それ以上に和尚の小箱のように飛ムカデが欲しくてたまらなくなった。百草園の草むらに行くといつもそう思った。今に至るもそれは手に入らなかったし、ヤマカガシにも美女蛇にも出会ったことは無い。私の名を呼ぶ知らない人は、しょっちゅういたが、もちろん美女蛇ではなかった。
 冬の百草園はあまり面白くなかったが、雪が降れば別世界。雪上にばたんと伏せて、
雪人間の鋳型を作り、雪だるまを造ったりして人に見てもらおうとした。が、ここは寂れてしまって、人があまり来ないので、見てもらうにはふさわしくなかった。鳥をつかまえるのが楽しかった。小雪ではだめで、一両日しっかり降って、鳥たちが餌を探せなくなったときが絶好期。雪をかいて地面が現れたら、短い棒で大きな竹ザルを支え、下にシイナを撒く。棒に長い縄をつけ、遠くから引っ張る。鳥がエサをついばむために竹ザルの下に来た時、縄を引けば、捕まえられる。大抵はスズメだが、白頬の‘張飛鳥’も捕れる。
だがこれは非常にせっかちで、翌朝までもたない。
 これは閏土の父親が教えてくれたのだが、私は余りうまくなかった。確かに鳥が入ったのを見届けてから、縄を引くのだが、走って行ってみると中は空っぽ。半日かけて、3,4匹がやっと。閏土の父は、小半日で数十匹捕った。叉袋に入れると、チュンチュン鳴き、ぶつかり合っていた。私がコツを教えてほしいと聞いたら、静かに笑って、「あわてちゃだめ。しっかりザルの真ん中に来るまで待つのだよ」と。
 家人がなぜ私を塾にいれたのか知らない。そこは城中で最も厳しい塾だった。ひょっとすると、何首烏を抜いて、土塀を壊したせいかも。またはレンガを隣の梁家に投げ込んだせいか。或いは石の井戸の上に立って飛び降りたせいか、知る由もない。要するに、それからというもの、百草園に足しげく行くことは叶わなくなった。Ade(さらば)私のコオロギたち。Ade私の木イチゴや木蓮!
 家の門を東に、半里ほどの石橋を過ぎると先生の家があり、黒い竹門を入って三番目の部屋が教室。正面に「三味書屋」の扁額がかかり、その下は絵。太った梅花鹿が古樹の根もとに休んでいる。孔子の牌位は無く、我々はその扁額と鹿に向かってお辞儀をした。一回目は孔子に、二回目は先生にお辞儀した。
 二回目のとき、先生はニコニコして傍らから答礼された。背が高くて痩せた老人で、髪もヒゲもゴマ塩だった。大きな眼鏡をかけていた。私は、先生に大変礼儀正しくした。というのも、城内で最も礼儀正しく、質朴でたいへん博学な人だと聞いていたから。
 どこで聞いたか忘れたが、東方朔も大変博学で、ある種の虫を知っていて、名を‘怪哉’といい、冤罪の気が化けたもので、酒を注ぐとすぐ消える、という。この話しをもっと詳しく知りたくて、阿長(前出の乳母)に聞いたが、彼女は博識じゃないから知らない。今やっとその機会ができたので、先生に訊ねた。
「先生、‘怪哉’という虫はどんな虫ですか?…」初めての授業が終わって退室のとき、急いで訊ねた。
「知らない!」先生はご機嫌ななめのようで、顔に怒りの色をあらわにした。学生はこんなことを訊いてはいけない、ということを知った。読書、ただ読書のみ。彼は博識の老学者で、決して知らないということは無いので、知らないというのは、言いたくないということだ。私は、年上の人は往々にしてこうで、何回もこうした場面に出会った。
(怪哉とは、うっ屈とか濡れ衣などの苦悶を紛らす酒のことか;訳者推測)
 私は読書に専念し、正午は習字、晩は対句づくりをした。初めの数日間、たいへん厳しかったが、後に徐々によくなってきたが、読まねばならぬ本はだんだん多くなった。対句も徐々に字数が増え、三言が五言になり、しまいには七言になった。
 三味書屋にも裏に草園があり、小さかったが、花壇に上って、蝋梅の枝を折ることもできた。地面や金木犀の枝にセミの抜け殻を見つけた。一番面白いのは、ハエをつかまえて蟻の餌にすること。これは音を立てなくて済むので、具合がよかった。しかし同窓生が園にたくさん来て、長い時間戻らないと、先生は教室から「どこへ行ったか?」と大声で叫んだ。それで一人ずつ時間をずらして戻った。一斉に戻るのはまずかった。
 先生は体罰用の棒を持っていたが、普段使わなかった。また跪きの罰もあったが、あまり行わず、普段は目をかっと開いて、大声で「勉強せよ」とおっしゃるのみ。それで皆は口を大きくあけ、声を出して朗読した。まさしく、人の声が鼎の湯が湧くようであった。
「仁遠からんや。我仁を欲すれば、仁ここに至る」ある者は「人の歯の欠けたを笑う云々」
またある者は「上九、潜龍 用いる勿れ」ある者は「その土は下の上、云々」など、銘々が自分の書を朗読する。
 先生も自ら朗読される。と、我々の声は小さくなってゆき、静かになり、彼だけが大きな声で朗読していた。
「鉄の如意、指揮倜儻、一座皆驚呢……金叵(杯)羅、顚倒淋漓噫、千杯未酔荷(口編)」
(怪哉の助力もあり、千杯飲んでも意気軒昂…の意か:訳者推測)
私はこの段は極上の文に違いないと思った。ここら辺に来ると、先生はきっとほほ笑み、頭を仰ぎ、揺すりながら、徐々に後ろにそらしてゆく。
 先生が読書に専心されているときは、我々にはもっとも好都合な時で、何人かは紙で造った兜を指にさして(人形)劇で遊ぶ。私は絵を描く。荊川紙を小説の絵の上に置き、画像を一つずつ写す。習字の練習のときのように。読む本が増えれば増えるほど、絵も増えた。読書の方は物に成らなかったが、絵の成績は少なからず上がった。一番良いのは「蕩寇志」と「西遊記」で、一冊の厚い本になった。後に、金が必要となり、金持ちの同窓に売った。彼の父親は(紹興特産の錫箔の)紙銭店をしてい、今では彼が店主の由で、まもなく紳士の地位に上るという。だが、この絵はもうとっくになくなってしまっただろう。
  9月18日                    (2010、6、3、)
 

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