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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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魯迅日記の中の「範愛農」

 先の『家長魯迅』で、魯迅の日記には、「魯迅を尊敬し、或いは慕って近づいてくる後輩たちからの手紙への返信や雑誌等への寄稿による支援も多く見られる」と記した。
 だが、故郷紹興の知人であり、魯迅と同じ清末の革命団体光復会の会員でもあった範愛農に関しては、1912年5月15日、19日、6月4日の日記では、彼からの書状を入手、××杭州発信、と記されているだけで、彼に返信したかどうかの記述は全く見あたらない。
 魯迅は後に、『範愛農』という小説を著した。その中で、故郷紹興の田舎で家庭教師をしている範に、「そのうちに魯迅から北京に来いと言ってくるから……」と、語らせている。範が、袁世凱政府の教育部の役人になった魯迅が、自分のことを引き上げてくれるだろうと周囲の人に言っているのだ。
 辛亥革命直後、紹興で師範学校の校長になった魯迅は、確かに範を同校の学監(旧中国の学校で学生を監督管理する人員)に就職させている。だが、就職したものの、範は周囲との折り合いがわるく、その後職場を辞し、やけ酒に溺れてしまう。
 範が、5月中旬から6月初めにかけて3回も魯迅へ手紙を送って、就職を依頼したにもかかわらず、魯迅は1通の返事さえ送ったとも記していない。
 魯迅を教育部の役人に引き上げてくれた祭元培教育総長は、6月22日に辞職したと、23日の魯迅の日記には記されており、魯迅も範のことを何とかせねばと思いつつも、頼みとなる後ろ盾を無くしてしまっては、知人の就職どころではなくなったのだろう。
 そうこうするうちに、魯迅は、弟の周作人から7月19日付け書信で、範が12日に水死したとの報を受ける。この報に接した魯迅の忸怩たる思いはいかばかりだったろうか? 魯迅は、1912年7月22日の大雨の夜に、『范愛農を悼む』という五言律詩を創作した、と日記に記している。
 なお、この詩は日記のみならず、小説中にも使われている。
2017.07.01作成
2017.07.04投稿

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横浜隆盛の恩人 ~井伊直弼~

 最近、肺がんで療養中の先輩のOさんが、入退院の合間を縫って、関内から神奈川宿のあった旧東海道へ通じる横浜道周辺を歩き巡った紀行文を送ってくれた。
 この横浜道に因んで、私も、数年前、Oさんが訪れた場所のひとつ、掃部山に登ったことがある。それは、なぜ横浜に掃部山があるのか、不思議に思ったからである。
 この掃部山と横浜道を南に越えた野毛山の間には、神奈川県奉行所跡、伊勢山皇大神宮、野毛山の佐久間象山顕彰碑や成田山横浜別院など、江戸時代や明治時代にかかわるものが結構集中している。
 さて、その掃部山は公園になっており、公園には、幕末ペリーから開国を迫られて、攘夷派が反対するなか、勅許を得ないまま日米通商条約を締結し、開国を進めた大老、井伊直弼掃部頭の銅像が建っていた。
 なるほど、開国を決定した井伊さんは、明治以降大きく発展した横浜の恩人であることは、確かである。だが、掃部という言葉が、井伊直弼とリンクしていることを知っている人は、よっぽどの歴史好きに違いなく、一般の人はほとんど知るまい。
 幕末、ペリーから江戸に近い神奈川に開港を迫られた江戸幕府は、当初、神奈川宿に近い神奈川湊を開放したが、この地は比較的人口も多く、日本人と外国人との接触が増えるにしたがって、トラブルが多く発生し、問題となっていた。これを恐れた幕府は、神奈川湊に代わるものとして、野毛山にほど近い桜木町付近から南にかけて新たに港を建設した。それが現在の横浜港である。
 その後の横浜港の発展はご存じの通りである。井伊直弼といえば、開国に反対した攘夷派などを安政の大獄において次々と処断したため、イメージがよくなく、それほど人気もないが、横浜にとっては大恩人というべき人で、横浜の人々にもっと知ってもらいたいものだ。
2017.6.13作成
2017.6.29投稿

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家長魯迅

 魯迅は、日本留学で医専を中退し大学の卒業証書も得ないまま、辛亥革命直後の故郷に戻り、紹興や杭州で学校の校長等を勤めた後、孫文が率いる国民党の南京臨時政府で教育総長(教育大臣)をしていた同郷の先輩、祭元培の引きにより、教育部の役人となった。その後、孫文が大総統を辞職し、袁世凱に譲ったため、政府も袁世凱の本拠地北京へ引っ越した。魯迅もその影響で袁世凱政府の役人として北京へ引っ越すことになる。
 彼の日記は、この時から、つまり1912年5月5日に上海から船に乗って天津に到着した日から始まり、死去前の1936年10月17日まで、24年間も続いている。
 彼は、友人や後輩への手紙や雑文の中で、血気にはやり、むやみやたらに義士ぶって、少人数で武装蜂起し、清朝の役人を殺したり、官憲に切り込んだりしても、結局捕まって犬死にするだけだから、生命を無駄にしてはならなず、どうせやるなら、第一次世界大戦中の塹壕戦のような方法を採るのがよい、と戒めている。
 辛亥革命前の東京で、滅満興漢の革命団体――光復会に加入したとされる魯迅は、少人数の武力闘争には参加しなかった。
 それは、多分、官憲に逮捕され、獄死することになれば、母や一族郎党が路頭に迷うことになると恐れたことも影響しているかもしれない。
 魯迅が10代の初め頃、科挙の最高位(進士)の役人であった祖父は、息子(魯迅の父)の科挙受験に際して、その試験官として故郷に帰ってきた自分の友人に賄賂を贈って、父の合格を頼んだことが発覚し、牢獄に繋がれてしまった。その上、長い間患っていた父も亡くなり、稼ぎ手を失ってしまった一家は、一気に没落した。魯一家を支えねばならぬ長男の魯迅は、家長として残された自分が祖父の様に獄に入れられたら、全てはお仕舞いになると考えたのだろう。
 魯迅の日記には、次弟・作人と三弟・建人の嫁であった日本人姉妹、信子・芳子の実家へ生活資金として、北京の東交民巷にあった日本郵便局から為替で送金していたことも記されている。実の母と彼の最初の妻への仕送りは当然のこととして何も記されていないが…
 その他、日記には、魯迅を尊敬し、或いは慕って近づいてくる後輩たちからの手紙への返信や雑誌等への寄稿による支援も多く見られる。この辺りにも中国文芸界の家長としてできるだけ支援したいという彼の配慮が感じられる。
2017.6.14作成
2017.6.23投稿

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孫文夫人・宋慶齢の死

 北京の中南海のやや北、北海および什刹海という湖の西側地区には、中国政府要人の住居が多い。ここはやや古びた大きな別荘地のようで静かな雰囲気に包まれている。1981年頃から外国人にも開放されだした。ある日その辺りを歩いていたら、「宋慶齢故居」という案内が偶然に目に入ってきたので、見学したことがある。
 その後しばらくして、ラジオを聞きながら散歩していたら、イヤホンから、宋慶齢の死を告げるニュースが流れてきた。そのコメントでは、遺骨は孫文の墓とは別の場所に埋葬されるということだった。不思議に感じたので、その訳を親しい中国の友人に尋ねたら、彼女は、1925年(民国14年)の孫文の死去の後、他の男性と一緒に暮らしてきたから……ということだった。
 中華民国の建国の父、国父たる孫文の正夫人だったのだから、もし国民党の政権が続いていたら、彼女は国父の正夫人として「国母」と呼ばれていただろう。だが国民党政府は、毛沢東を中心とする中国共産党との戦いに敗れ、台湾への逃亡を余儀なくされた。
 彼女は、孫文死去後の1930年代以降、魯迅たちの左翼文芸戦線に近づき、共産党に近い立場で活動していた。魯迅の作品にも、彼女がアグネス・スメドレーと一緒に写っている写真が記載されている。

      魯迅の葬儀の様子
 1936年の魯迅の葬儀に際して、彼女は葬儀委員として、作家の茅盾や内山完造らとともに名を連ね、彼らとともに「民族魂」と大書された白い棺掛け布に包まれた魯迅の棺を取り囲ながら、何万人もの上海市民と一緒に万国公墓へ向かっている。
 その後も彼女は、国民党とは一定の距離をとりつつ、非共産党員でありながら共産党に協力している。新中国建国後も政治協商会議の重要メンバーとして共産党政権を支えていった。その彼女にしてみれば、自分の死後、孫文の墓に埋葬されるのは、思想的にも夫婦感情的にも受け入れられないことだったのだろうか?
2017.6.12作成
2017.6.16投稿
2017.6.19改訂

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雨中嵐山の詩碑

 周恩来が日本留学中の1919年4月5日に嵐山で詠んだ「雨中嵐山」の詩の石碑が、保津川左岸の坂道を登った所に設置されている。この石碑は、日中友好の証として、日本人観光客のみならず、訪日中国人や留学生たちが、記念写真に収める有名なスポットである。
 この詩は、1920年1月20日に中国天津で発行された「覚悟」の創刊号に投稿されたもので、「雨の中二度目の嵐山に遊ぶ」から始まり、「両岸の蒼い松の間に、何本もの桜が咲いて美しい」と続き、京の美しい自然を讃えている。
 だが、一方で同じ日に書かれた「雨後嵐山」という詩が、同誌同号に掲載されていることは、一部の人を除いて、あまり知られていない。以下に、その詩の拙訳を試みる。
  (訳文)

  雨後嵐山
  山あいの雨が通り過ぎると、雲がますます暗くなり、
  ようやく黄昏が近づく。
  万緑に抱かれた一群の桜は、
  うっすらと赤くしなやかで、人の心を酔わせるほど惹きつける。
  人為も借りず、人の束縛も受けない、自然の美しさ。
  考えれば、あの宗教、礼法、旧文芸……粉飾物が、信仰とか、情感とか、美観とかを説く、人々を支配する学説に今なお存在する。
  高きに登り遠くを望めば、青山は限りなく広く、覆い被された白雲は帯のようだ。
  十あまりの稲妻が、ぼんやり暗くなった都市に光を射す。
  この時、島民の胸中が、あたかも情景より呼び出されるようだ。
  元老、軍閥、党閥、資本家……は、今より後、「何を当てにしようとするのか」?
  (原文)

  雨后嵐山
  山中雨過云愈暗,
  漸近黄昏;
  万緑中擁出一叢櫻,
  淡紅媚嫩,惹得人心醉。
  自然美,不假人工;
  不受人拘束。
  想起那宗教,礼法,旧文芸,……粉飾的東西,
  還在那講甚麽信仰、情感、美観……的制人学説。
  登高遠望,青山渺渺,被遮掩的白雲如帯;
  十数電光,射出那渺茫黒暗的城市。
  此刻島民心里,仿佛従情景中呼出;
  元老,軍閥,党閥,資本家,……
  従此后“将何所恃”?

 雨後嵐山は、雨中嵐山に比べると、政治的志向――「覚悟」をより強く打ち出しているようだ。
 二度の国立大学受験に失敗して帰国を決意した周恩来は、帰国の前に京都の友人を訪問し、九日間滞在した。その間、円山公園や嵐山などに遊んだが、彼は、この島国――日本の人々の心がどこへ向かって行こうとしているのか、とこの詩の中で問うている。
 この島国が、元老や軍閥、党派、資本家など、この国の支配層の意向に忠実に従って、周辺国を侵略し、植民地化していこうとするのか? 彼は、中国と中国人が小さな島国に支配されることに対し、断固として立ちあがり抵抗せねばならぬと覚悟を決め、帰国を決意する。
帰国後、彼は天津で政治活動を行って逮捕され、留置所での拘留を経験するも、釈放後はフランスへ渡り、中国共産党欧州支部の設立に関わっている。
フランスから帰国の後は、共産党員として政治活動を行ったことは周知の事実である。
2017.6.5 作成
2017.6.15 投稿

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毛沢東の周恩来への送り火

 1976年1月8日、長い間病床にあった周恩来が満77歳で死去した。翌朝、毛の住む中南海の一角から何発もの花火が上がった。この花火は、毛が彼の地位を脅かす恐れのある唯一の政治家、周恩来が自分よりも先に往生したことに大いに安堵し、それを喜んで打ち上げたのだ、と解説する人もいる。
 それから約30年後の2007年春、筆者は大連開発区のアカシアビラという集合住宅に移り住んだ。道ひとつ隔てた一角の広大な敷地に「開発区病院」という病院があり、ある日午前6時頃、その敷地で何発もの花火が打ち上げられ、目を覚まされた。それがどういう意味か分からなかったので、さっそく大連の中国人の友人に、その理由を尋ねてみた。彼の答えは以下のようなものであった。
 大病を患って開発区病院に入院していた故郷の親が、治療も甲斐なく亡くなってしまった。親孝行の末に大病院で昇天したことを喜び、花火であの世へ送り出し、それを周囲の人に知らせるのだ、と。
 ところで、周の死去に対する毛の気持ちはどうだったのだろう? 周は、毛を中心とする共産主義専制政治の中枢にいて、実務を取り仕切り、毛に対しては一度も叛くことなく、忠実に仕え、一度も失脚しなかった故に、不倒翁と呼ばれていた。
 文革期間には、劉少奇から林彪まで、いわゆる毛の後継者といわれたNo.2を悉く追いつめ、あるいは失脚させてきた毛にしてみれば、自分の存命中にいつ叛かれやしまいかと心配してきたその周が、毛自らの手を汚すこともなく、自分より先に死んでくれたのだ。これは、2人にとって大変喜ぶべきことだから、花火を打ち上げて、天下の人々に知ってもらうが良い。友人の話から推測すれば、それが毛の気持ちだったのかもしれない。
 文革末期、四人組は「批林批孔」運動を繰り広げた。この運動で、彼らは周を孔子になぞらえて、林とともに葬り去ろうとしたのである。
 周は批判の対象となったまま失意のうちに死去した。1976年4月5日、文革に苦しめられ、四人組を憎んでいた民衆は、彼の死を悼み、天安門で花輪を捧げた。この花輪は北京市当局によって撤去された。この撤去をめぐって抗議する民衆と当局が衝突、これが四五天安門事件(第一次天安門事件)である。ちなみに、この年から15年後の1989年に起こった天安門事件は、六四天安門事件(第二次天安門事件)という。
2017.5.24 作成
2017.5.27 投稿

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両地書 第2集 36

両地書 第2集 36
広平兄:
 9月1日乗船。2日朝7時出帆。4日午後1時アモイ着。一路無風で船も揺れず。この地の方言は全く分からず、まずホテルへ行くしかなく、林語同に電話したら迎えに来てくれ、その晩から即学校に移り住んだ。
 船から後方に一隻の船が見え、ずっと着かず離れずで、「広大」じゃないかと思った。君が船から1隻の船が見えたかどうですか?見えたなら私の推測は間違っていないことになる。
 ここは山を背に海に面し風景絶佳、昼は温かとはいえ――華氏87-8度――夜は涼しい。周りに人家は殆どなく、市街地から十里ほど離れ静養に良い。が、買い物には不便だ。使用人は極めて怠惰で、何もせぬし、やろうともしない。郵便局もとても怠慢で土曜午後と日曜は閉じている。
 教員宿舎は未完成で(1ヶ月後完成と言うが、確かなことは分からぬ)暫定的に大変大きな3階の部屋におり、上り下りが不便だが眺望は良い。学校は20日開始で、まだ暇な時間がだいぶある。
 これを書いている時は、君はまだ船上でしょうか。明日出しますから、君が学校に着いたころは届いているでしょう。到着したら返事をください。その時はもっと詳しい状況を書きます。まだ来たばかり故、何も分かりません。
  迅。9月4日夜

訳者雑感:二人は上海から別々の船でアモイと広州に向かったのだろう。魯迅は後ろからついてくる船を広州行きの船で、それに許広平が乗っていると推測している。これから2年間会うことが無いという気持ちが、後ろの船に彼女が乗っていると心を膨らませている。
   2016/10/20記
 

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両地書35

両地書35
 広平兄:
 素晴らしい夜明けが来る前にこの大作を読んで、これは発表せぬ方が良いと思いました。この種のテーマは実は今、私だけが書けるのです。というのも、大概攻撃にさらされるためです。私はかまいません。一つは、私には反撃の方法あり:二つは今「文学家」であるのに嫌気がさしてきて、機械に変わった様に感じるから、「文壇」から引きずり下ろされたいのです。諸君のような美顔クリーム派はまだ「うぶ」ですから、一篇の文章で攻撃され、誤解されるようなことはせぬ方が良く、ついには「泣いて襟をぬらす」ことの無いように。
 あの前半部は小説か回想文なら、もとより何も奇とするに足りぬが、評論で現在の中国の読者向けとしては率直過ぎます。後半部は少し迂遠です。私はあの文章で本当に言いたかったことは:ああいう罵倒の仕方は「卑劣」だ、と。
しかし貴方はかたくなに無実の罪を着せて「以て光栄とする」としているが、それは良くありません。
 その実、伝統思想にどっぷりつかっている人たちに対してはあのように罵ってもいいです。現在の評論の中には表面的には何もありませんが、骨の中は「この野郎」的な考えがあり、このような批評への批評は直截的でかつ爽快に罵るのが「即、その人の道を以て、その人の身を収める」方法で、人にも私にも均衡しているのです。私は常々思う:中国では2種の方法を持つべきだ、と。新しいものには新しい方法で、古いものには古い方法で対処すべし。例「遺老」が罪を犯したら、清朝の法で:板で尻叩き。それが彼の恐れる罰だから。民国元年革命時は、全ての人に寛容だった。(当時それを「文明」といった)しかし、第2次革命の失敗後、多くの旧党は革命党に対して「文明」でなく:殺戮した。もしあの時(元年)新党が「文明」を唱えてなければ、多くのものたちがとっくに滅亡したから、旧党の連中が古い手段を発揮できだろうか?現在「この野郎」と、祖宗の位牌を背にして威張りくさっている奴らを罵るのは、やり過ぎだといえようか!?
 もう一篇、今日出したが、2つを一つの題にし「五分と半年」とした。すてきな題でしょう。
 雨が降り続いています、刺繍のブラウスはどうでしたか?雨が止んだら急いで干してください。忘れぬように!
  迅。7月29日、或いは30日。
訳者雑感:これが北京での最後の手紙。この後二人は共に上海に向かった。この頃に、魯迅の母と妻はもう魯迅は彼女らの元へは戻ってこないだろうと感じたと、他の文章に引用されている。事実はその通りとなった。
    2016/10/19記

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両地書34

両地書34
 広平仁兄大人閣下。
 拝啓;大作を寄稿賜り、早速載せますが、或いは作者から蔭で呪詛されるやもしれません。私は題名まで変えたのですから。変えた理由は原題がとてもおっかないと感じたからです。結末は迫力が足りないので数句加えました。ご尊意に背くとは思いませんが:要するに:とくに専断的で、望むらくは是非ともご容赦いただき、貴方の罵りを免れたく、角突きださず、「害馬」の才も暫く停止いただき、またご投稿くだされば幸甚です!
 大作が常に載るのは、実際「莾原」が飢饉に陥っているからです。私が載せたいのは評論ですが、どうしても寄稿は小説詩が多いのです。以前はいつわりの「花よ」「愛よ」だったが、今はいつわりの「死よ」「血よ」の詩です。嗚呼、頭が痛いです。従って評論に近いものがあれば、載せやすいのです。これを「子供だまし」と言わんか?そして又新しく文章を書く人は、私の編集するものには、比較的容易に載りやすいが、これが「子供だまし」の嫌疑をうけるのです。だが暫く書き続けたら、必ず進歩の結果が出てくるもので、怠けていい加減に書いていたら猛烈な攻撃を加えますよ。ご注意のほど。
 謹んで申し上げる次第。
 「おしゃべりがうまくなるよう」祈ります!
    「老師」謹訓。7月9日
 新聞は章士釘が辞職し、屈映光が後任と報じています。彼は浙江省の有名な「私は元々(宴席に呼ばれて)食事はしません」式人物です。士釘と五十歩百歩で、或いは少し劣るくらい。それゆえ、私はいつも内政を改革せぬ限り、良い状況にはならないと思っていますし、無論どんなデモを行って示威行動を起こしても、何の役にも立ちません。  (この間、5-6通 欠落)

訳者雑感:冒頭から大仰な言い回しで、評論を寄稿してくれる許広平に感謝しているが、題名を変え、結末は迫力不足として補っている。この辺りから二人の間に変化が起き始めているようだ。
  2016/10/17記

 

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両地書33

両地書33
広平兄:
昨夜或いは今朝、一通出したので、もう着いていますか。今、28日の手紙を入手。何か書かねば、と。小鬼はどうして何度も恐れ入って謝罪するのですか?おそらく「某籍」の姐御のデマでも耳にしたのでしょう。デマは否定せねばなりません:
第一、アル中はいるでしょうが、私は違います。もしそうだとしても、自分の事で人とは関係ない。且つまた私はもう50歳に近く、講師もしており、自分の酒量をわきまえもないことがあろうか。若い女の刺激を受けるなどに至っては、全くあり得ない。
第二、私は何の「戒条」も受けていない。母も私の飲酒を禁じていません。これまで本当に酒に酔ったのは1回半で、決してこんなに平穏ではなかった。
然るに、「某籍」の女性は自分の逃走を粉飾するために、きっとどこかから拾った故事か何だか知らぬが(多分太師母あたりからか)それを敷衍して、小鬼すらびっくり驚き、謝罪せねばと思わせたものだろう。だが太師母といえども、現実は必ずしも正しいとは限らぬ。私は自分で分かっているが、あの日は全く酔っていないし、バカなことをして家主を驚かせて逃げ出すような挙に出たことはない。全て覚えている。
だから今後もう二度とお詫びなどするのを許しません。でないと、私は「笈を負って単洋(日本にだけ、西洋には行ってない)に留学し、17年教鞭をとり(楊蔭楡の言葉)、楊蔭楡式の宣言をして、女学生たちの肝が小さい罪状をふれ回りますよ。君たちはそれでも何か言えますか?
原稿は少し書き過ぎの点があり、いくらか手を入れねばなりません。その中の一部の文章は、大体執政府へ請願をだすことへの反対でしょう。要するに今回は学生を攻撃した中心人物の馬良を総指揮にするというのだからお笑いです。
 「莾原」十号は「京報」と同時にストをし、原稿を書いたのは水曜で、まだ停刊は考えておらず、だから目次は他の週刊誌に載せました。今まさに交渉中で、彼らに補正印刷の要請をするかどうかに目鼻がつかない。補正できねば、元の原稿は今週金曜に出さねばならない。
 「莾原」の投稿は小説が多すぎ、議論が少なかったが、今や小説も少なくなり、皆はもっぱら愛国で「民間の中へ」で、従って文章は書かない。
  迅。 6.29晩 (この間、何通か欠落、数は不明)

訳者雑感:魯迅も自身で1回半酒に酔ったことはあるが、泥酔し、家主を驚かせて逃げ出させるようなことは無い、と断言している。1回半とは何だろう?
   2016/10/17記

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