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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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1) 「大連の山」

写真は大黒山 八十年前に大連で生まれた詩人清岡卓行は随筆「大連港で」の中で大和尚山について語っている。今は大黒山と呼ばれている開発区の奇妙な形の山だ。清岡は663Mの褶曲の激しい奇観を呈する山を大連市内から眺めていた。その遠景を日本に帰国後も心の中に暖めてきた。随筆の中で小学時代の副読本で読んだ唐の太宗と、泥鰌がこの山の中腹に残る石塁を築く時の面白い民話も紹介している。一夜のうちにこの土塁を築くために、泥鰌たちの力を借りたという話だ。
この山は遼東半島の先端では一番高い山で、その形も非常に特徴がある。霧の無い日に大連を訪れた人はきっと印象に残るにちがいない。特に市内から開発区に向かう高速道路が海上に向かう時、肩を怒らせた青海入道のような山容が目の前に迫って来る。袈裟を着てあぐらをかいた和尚が茣蓙を敷いてデンと座っているようでもある。「大連によう来たな」と、こわもての歓迎である。
古来この山は大和尚山、大黒山、老虎山、東山などと呼ばれてきた。十九世紀に英国人がこの地に上陸した時、香港と同じようにビクトリア湾など英語の名前を沢山付けた訳だが、この山を「マウントサムソン」と呼んだのも、むべなるかなとうなずける。はるか英国から遠征してきた艦隊が黄海から大連湾に入る時、ごつい坊主頭の巨大な山がサムソンに見えたのであろう。
   大連ゆかりの詩人をもう一人あげるとすれば、安西冬衛を忘れるわけにはゆかない。教科書にものっていたのでご存知と思うが、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」の彼である。この詩は大陸を放浪していた時、蝶々が樺太に向けて飛んで行ったのを謳ったとする説もあるが、清岡の言うように安西が大連の南山に登って対岸の大和尚山を遠景とする大連湾を渡って飛んで行く蝶々を一匹見つけて詠んだものだとするのが、より自然だと思う。
   詩のイメージは韃靼海峡で良い。大分昔にこの説を読んだことを、二月のある晴れた週末に、植物園の魯迅のレリーフの所からゆるゆると下りてきた時、突然目の前に茶色のちいさな蝶々が一匹氷のとけたばかりの映松池の方に飛んで行ったのを見て思い出した。八十年ほど前に詩人がヒントを得た蝶々の子孫かもしれない。そう思ったらなんだかとても大きな幸せに出会ったような気持ちになった。
  もう一つ大黒山で気持ちの良い場所は、朝陽寺である。春四月末から五月にかけて、桃や桜の咲く季節の境内はとてもすばらしい。大黒山の中腹まで車で上り、明代の山門をくぐると、一段下がった地に桃源郷をしのばせるようなたたずまいの山寺である。
学生たちが五人、十人と連れ立って遠足に来ている。大連ではこれを春遊と言う。彼らは山の麓からリュックに弁当を入れて登ってくる。そうそう学生だけではない。内陸から開発区に働きに来た若者たちも長い冬の後、白い花赤い花が一斉に開きそろう、五月のおいしい空気を吸いにやってくる。蝶々が花むらに飛び交うように、若者たちがここで愛を語り恋を芽生えさせる。かくして開発区の寮からちょうどさなぎから蝶が飛び立つように若者たちが飛び立ってゆく。一匹で韃靼海峡を渡ってきた蝶は二匹になり子孫を残す。それが私の子孫の目の前をよぎる。そんな想像ができるのは春ならばこそ、である。
2.大黒山の点将台
私の好きな大連の眺めという題で、和尚さんが袈裟を着てあぐらをかいているような姿の大黒山に触れた。今回はこの山頂に辿り着くまでの道草の楽しみについて述べてみたい。
   国慶節のころ、大連はもっとも過ごしやすい日が続く。トステムの工場を右に見て、金州の方角に向かう。料金所を過ぎ、右折してずんずん登って行くと、朝陽寺に着く。ここから右に進むと、羅漢が歓迎してくれる。歩道付きの快適な登山道が最近できた。右や左にくねった道を登ると、急に視野が開ける。
  市旅遊局が、昔ここにあった唐王殿を修復している。伝説によると、唐の太宗が新羅との戦いでこの地にきた時、この山の近くで病に臥したそうだがお坊さんの祈祷のおかげでなんとか治癒できた。その礼として彼が寄進したのがこの寺の縁起だというのが、修復工事を監督している髭のおじさんの自慢話だ。
   その先に立派な門構えの「点将台」が見える。建築中のところを崖の先まで入って行くと何と素晴らしい眺めか。開発区の全景とはるか大連市の半島の先まで見渡せる。右を見れば金州の町並みが豊かな緑の中に霞みながら浮かんでいる。
  「点将台」とは耳慣れない言葉なのでどういう意味か聞いてみた。唐の昔太宗がここに上って将兵を閲兵したことに由来するらしい。今この台から開発区の工場やビルの群を眺めていると、唐の太宗が閲兵した往時の姿と重なるものがある。何万の軍勢は失せ、二十数万の人の働き、生活する場所となった。
   もとの道に戻り、無線塔の建つ頂上をめがけて登って行く。途中二人の若者にであった。軍の送信施設の保守勤務があけて下山するところだと言う。頂上への道を尋ねたら、萩が道を覆っている先をさして、あそこから登ればすぐだよと、教えてくれた。
  緩やかな坂道と違ってこの石段は勾配がきつい。五百段余で稜線に着いた。急に霧が出てきて視界が閉ざされた。やはり低いとは言え渤海と黄海の水温の差のせいなのであろうか。海から吹いてきた風が稜線を越える時、急に冷やされて霧となるのであろう。周りは全く見えなくなった。
   大連に住み始めて、市内からこの大黒山がくっきりと見える日は多くない。日本の秋のようにくっきりした秋晴れが、大連でも味わえたらどんなに素晴らしいことであろうか。無理な注文であろう。やはりどんなに低くともこのような山があるおかげで霧が出て植物が潤うのであろう。霧で空港が閉鎖されて飛行機がこなくなるのは困ったことだが。
3.私の好きな大連の花
  十二月から二月までの寒い冬に耐えて三月から四月にかけて桃の花や辛夷の花が咲き始めると大連にも漸く春が来たのだと、うれしくなる。東京近郊や中国の江南地方では二月に咲く梅の花が、気候の関係か大連では余り見ることができない。やはり梅はうっとうしい梅雨のあるモンスーン地帯の人々への、代償としての早春の贈り物である。
   大連に赴任した最初の春に梅が咲かない内は春が来ないと思って、「探梅」してみた。地の人に聞いてみたが多くの人は「梅の花」を知らない。「さあ」と首をかしげられ、咲いているところを見たことが無いという。そんな具合で「探梅」は断念せざるを得なかった。春分をすぎるころ、ぽつりぽつりと桃の花や辛夷の花が、日当たりの良いところから咲き始めた。理工大学から旅順南路に向かう路を少し山側に入ると、全山が満開の桃の花で、まさしく桃源郷を思わせる光景に感動した。
   五月になると梧桐の紫の花が街路を飾る。天津街に「百年梧桐」という標識を付けた大木がある。百年前、先輩たちが植えたものかなと思うと感無量だ。家具になってどこかの家に鎮座している同輩もあろう。解放路から少し右に入った服飾学校の右の校庭の梧桐も大変美しいし、桃源山荘から付家荘国際村に至る路にも大きな梧桐が花をつける。
   五月中旬から咲き始めるアカシアの花のことは触れる必要もないかと思う。
大連のアカシアは、うれしくない響きだが、本当はニセアカシアというらしい。四月に入って始めて春雨が降り始めるころ、長さ三メーターくらいの小枝も根も殆どない丸太棒のような苗木が、植えられる。去年植えたのが今年の夏はもう枝葉も茂り、一人前の姿に成長している。北の厳しい気候に適した成長の早い樹木である。
     六月末から七月にかけて、とんぼが飛び、セミが泣き出すころ、私の最も好きな「合歓の花」が咲き始める。北京の台基廠通りでは五月の中旬に満開となり、北京子たちが落花を拾い上げて、ふうと息をかけて天に飛ばしくるくる舞い落ちてくるのが楽しそうであった。今年は暖冬のせいか、去年見たような紅さは無くやや淡い色調である。そうだ去年復元されたアジア号の機関車「パシナ」を見に、周水子駅から旅順に向かう鉄路を「新亜細亜展望車」に乗ってゆったりのどかな汽車旅をした時、夏家河駅のプラットホームに咲いていた合歓の木の真紅の花は、一昨年の零下十五度の寒さに耐えた色であったかと分かったような気がした。
写真説明:大連の合歓の花
4.大連の正月
  01年は大連に住む日本人にとり、いろいろな出来事があった。春さきから夏にかけて肝炎にかかって帰国する人が出て大変心配した。五月には市内からすぐ近くの海に北京からの飛行機が墜落して三名の邦人を含む多くの方が亡くなった。日中国交三十周年という記念すべき年に不幸なできごとがおこった。
が、総じて言えば大連で生産活動をしている企業の皆さんは、比較的順調な経営環境に恵まれて、業績も向上した。
   昨年十一月に開催された第十六回全人大の結果、中国は政治的にも安定しており、経済はさらに発展するだろうと、世界中の人々が期待して見ている。こうした元気のよい活気に満ちた大連の町で、皆さんがこの地の人たちと仲良く愉快に過ごせることは、何にもまして大切なことだと思う。
   さて皆さんは大連の正月をどう過ごされましたか。東京や大阪など日本の温暖な地域に比べて気候も厳しく、始めて大連で正月を迎えた方たちにとっては「望郷」の念にかられることもあったかと思う。木々の葉はすべて落ち、雪の舞い散る冬景色。「ああ、やはり日本に帰れば良かったな」と。
家族で大連に来ている方々は日本の正月のように年賀に回ったり、お餅を焼いたりトランプをしたりして過ごした方もいたでしょう。南の暖かい地方に旅行に出かけた家族も多いでしょう。単身の人はあらかた国に帰ってしまって、日本人居住区はガラーンとしてちょっと寂しい正月だったところが多いのではと思います。大連の正月の過ごし方をちょっと考えてみた。
  日本人が正月に欠かせないものは「羽子板や凧上げ」に「初詣」でしょうか。羽子板に似たものはありませんが、凧上げなどは寒い大連の正月でも、市役所前広場やいろいろな場所で大連っ子もさまざまな形の凧をあげて楽しんでいます。日本と同じように、大の大人が子供と高さを競い合っています。彼らの中に入って一緒に楽しんだりしている友人も何人かいます。こうしてこの町に溶け込み、二年三年と年を重ねるごとに、人は環境になじんでゆくものかと思います。住めば都と言うのでしょうか。
   七十年ほど前、大連で正月を暮らした日本人の話を聞いたことがあります。大連にも「神社」や「お寺」が何ヶ所もあって、やはり寒風の中、家族揃ってお参りしたこと。雪の中をに乗って知人の家を年始に尋ねたこと。そんな話を聞いて、感ずるものがありました。日本人はやっぱり年の始めは「初詣」とか「年始回り」をして一年の無事を祈り、友人や親戚の家に集まってお屠蘇をいただいたりしないと正月を迎えたような気持ちがしないんだ、と。転勤でよその土地に行っても、土地、土地のお宮やお寺に詣でて一年の息災を祈る。必ずしも氏神さまでなければならないということはない。神社でなくて成田山や川崎大師さまにも大勢が初詣に訪れる。
  では大連でもそれをすれば良いではないだろうか。以前NHKで大晦日に蘇州の寒山寺の鐘を聞きに行く日本人ツアーが何十組もあると「行く年、来る年」で放送していた。大連でも金州の大黒山にはいくつかの寺廟がある。大連大学の上にある「観音閣」に登れば、快晴なら初日の出も拝めるであろう。碧海山荘の「碧海祠」は崖の上に建立されているから、大連市と三山島が一望できる。お寺はどうもという向きは、開発区のUFOの形をした展望台に登ることをお勧めしたい。まもなく完成する大黒山の「点将台」なども黄海と渤海
をいながらにして一望できるので、来年の正月に行きたいと考えている。
5.大連の春節 音と光りの饗宴
  今年の春節は陽暦の二月一日ととても区切りが良い。この日を境にいっぺんに日の光が暖かくなったように感じる。気温はさほど暖かくなってはいないのに、である。日本でも太平洋側は「光の春」という言葉がある。日照時間が
長くなって、「ぬくい」という日本語がピッタリ。「水ぬるむ」まではあと一ヵ月ほど待たねばならぬが、白い花が咲き出すのが待ち遠しい季節である。
  大連の春節は「音と光りの饗宴」で幕を開ける。音とは何か。「爆竹」の音である。光とは何か。「花火の火煙」である。中国の大都市では過去の度重なる事故の結果、厳重に禁止されてしまったが、寛容な大連市政府の方針と事故を起こさない慎重な市民との協調により、市内および金州開発区のここかしこで、新年の始業の朝に一斉に花ひらく。
  市内目抜き通りの中山路や人民路の両側の近代的な高層ビルの玄関先で何百本もの爆竹が吊るされ、いっせいに点火される。中国銀行大連支店の前で点火されるや、次々に呼応され、東亜銀行、友誼商店、人民保険、国際酒店などなどに飛び火し、さながら「星火燎原」の観を呈す。その音たるや凄まじい。なまなかなことでは済まされない。これが大連っ子の生きがいとでも言わんばかりのやかましさである。
  ビルの前の歩道という歩道は「宴の後」の残り香というべき硝煙と赤い紙の残骸が山のごとくに掃き集められる。その山が高ければ高いほどそのビルの店子たちは、うれしそうである。「どうだい。うちのはこんなにすごかったんだぜ」「今年の商売繁盛も間違いなしさ」という顔である。
   その夜は狭い歩道をテープで囲って、「花火」の打ち上げである。本当に「音と光りの饗宴」無しには春節を迎えられないというらしい。ビルの窓ガラスからわずかしか離れていないところから、天にむかって打ち上げる。火の粉は道路を通行中の自動車に降りかかる。日本人から見ると、危険がいっぱいという「音と光りの春節」もそれなりの経験則から安全性が立証されて今日まで、認められてきているのであろう。昔、中原のひとびとが守り続けてきた節季ごとの習慣が、北京や上海では火事や死亡事故を起こした結果、姿を消したが、祖先の多くが山東省から渡ってきたひとびとの心の中に、絶やしてはならないものとして、残っていると考えられる。寒い冬の終りと恵みの光をもたらす春節を迎える儀式として、何をおいても絶対欠かしてはならないものなのだ。
6.大連の物売り
  秋も終わりに近づくと大連の街角に中国各地から天秤棒を担いでやってくる物売りの姿が目に付く。近隣からは焼き栗や焼き芋、真っ黒に日焼けした顔が売り物の焼き栗の皮と不思議に調和している。少し皮に皺のよった焼き芋をドラム缶を半切りにした釜の上に並べている。いずれも大連近郊からリヤカーか荷台つき自転車でやってくる。あどけない顔の売り子も多い。
  新彊省からやってきた奇麗な縁取りの丸帽子を頭にのっけたウイグル族の若者が干し葡萄や名も知らない色とりどりの木の実を売っている。まだ中学を出ていないのではないかと思われるような、小柄できゃしゃな娘たちが二人一組で南方の茶を天秤棒を揺らしながら売り歩く。小さなブリキ缶に詰めたお茶を買う人の必要なだけ小分けして売って歩く。
  以前は師走から春節にかけて自転車のハンドルに満艦飾に刺し込んだサンザシの実を飴にからめた「というお菓子を売る姿がここかしこに見られた。ほこりにまみれて決して衛生的とは言えない状態だったが、今ではひとつずつセロハンに包まれている。
大人は買わない。やはり甘ずっぱいものが大好きな娘さんや子供たちのためのものである。
     天津街の大改造で戦前からあった二階建て煉瓦造りの情緒ある町並みはすっかりなくなってしまい、こうした物売りが自転車の後ろに荷車を載せて売ったり、天秤棒を担いで売る姿も、減ってしまうことだろう。北京の胡同が取り壊されて、物売りの声が聞かれなくなったのはつい最近のことだが、その波がここに訪れるのももうすぐのような気がする。
     労働公園の東側、おいしいイタリアレストラン「イゴッソー」付近一帯の古い建物があっという間に取り壊されてしまった。夏には歩道に円卓と椅子を、ところせましと並べてさながらパリの路上カッフェーの大連版 食の小路や、近海の赤貝やシャコ、渡り蟹や車海老を超特価で買うことのできた海産物の自由市場もそのうち姿を消さざるを得ない運命にあろう。近代的なマンションやオフイスビルが建ってしまえば、その場にそぐわなくなってしまうということで、追い出されてしまう。
   春節が過ぎ、まだ頬を打つ風が冷たいのに、大連でも真っ赤な苺やさくらんぼを売るスカーフを被った農婦が歩道に並ぶ。日本では見かけなくなった天秤量りを持ち「一斤たった五元、安いよ、買ってきな」と通行人に声をかける。秋口には日に焼けて真っ黒だった同じ農婦の頬も心なしか白くなっているのに気づく。一冬の寒さを農家で過ごして、また大連の街に来たよ。どうだい、買ってかないか。と言っているようである。
  アカシアの白い花咲く五月になれば、もう何でも売っている。十年前までの中国駐在員には夢のような話だが、桃や梨などには目もくれない。楊貴妃が玄宗皇帝に早馬で送らせた「ライチー」は山のように積まれているし、南洋の果物の王様「ドリアン」もタイやインドネシアと同じ新鮮なものを廉価で売っている。広大な中国で輸送改革が起きて、全国どこへも安く配達できるような仕組みが整い、物売りの姿も変わって行くことであろう。便利さと情緒は両立できないかもしれない。
7.大連のオブジェ
  はじめて大連に来た人は空港から市内までの間に大きな乳牛が何頭も芝生に寝そべり、キリンの親子がプラタナスの葉をむしゃむしゃ食べているのを見て、一瞬「あれー何だろう」と思わず声をだす。大きな象もいるし老虎灘の虎とか、30メートルもの、長い魚とか面白いオブジェがいっぱいある。
  ホテルについて旅装を解き、半島の東海岸の公園に出かけるとさあ大変。
サキソフォーンを吹く男やら、将棋を指す二人、釣りに興じる男とかロッククライミングする男女。ユーモラスな黒人夫婦など来訪者がなでて、ぴかぴかに光っている例のシンボルとか、面白い光景である。
  しばらく行くうち、道路と海岸の砂浜の間にとてつもなくでっかい亀が今にも海に泳ぎ出そうとしている。真っ黒い巨大なアリや、ハマグリやら巻き貝やらなんでもオブジェにしてしまう。そうこうすると左手に直径数メートルもありそうな馬鹿でかいガジュマロが不自然なほどの緑の葉を茂らせている。大連空港に着陸する飛行機の中からも見えるほどの大きさである。
  棒錘島賓館のゴルフ場に入ると、道路の両側にディズニーのキャラクター
なども出てくるので、子供たちは大喜びだ。聞くところでは市長が世界各国の彫像家を招いてコンクールを開いて作ったものだそうだ。
  日本人学校の辺りにくると海岸の先に「ひょっこりひょうたん島」にそっくりの島が浮かんでいる。ひょっとして今まで見てきたオブジェたちはこの島から抜け出してきて、大連を訪れる人々をたのしませてくれているのかと思ったりする。
  さらに車を走らせると、右手に何十頭ものバッファローが斜面を駆け下りてきてぎょっとする場面がある。ここを右にまがれば本物のパンダに会える。道は崖の上につくられたため海岸線から沖の島々がくっきりと見える。春の日の光を受けて、ひねもすのたりのたりとたゆとう海をながめていると、日常の憂さも自然に消えてしまうようだ。何か仕事や生活でつらいことが起きたら、是非ここに来ると良い。心を癒してくれる絶対のおすすめコースだ。
  内陸から来た人には1時間ほどかけてここに案内する。公害も少なく青い海に浮かぶ島影とオブジェたち。冬の気候は厳しいけれど、春から秋までの半年はここで勉強する生徒たちは他では味わえない生活ができる。百余名の生徒達が何か面白いオブジェを作って、どこかの芝生に植樹とともに残してゆけたらさぞかし良い思い出になって、十年後に再訪した時の感慨もひとしおだろう。

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