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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「社会は変えられる」信じて

劉暁波が亡くなってほぼ1カ月、先日の朝日新聞(2017年8月10日)のザ・コラムに掲載された吉岡桂子編集委員のコメントが大変印象的だった。彼女は、劉さんと親交のあった徐友漁さんにニューヨークで会って、民主化活動を共にした仲間としての意見を聞き、劉さんの思いを伝えている。少し長くなるが、以下に記事の一部を引用する。


 社会はいつか良くなる。動かせる。信じ続けることじたい、強い力がいる。
 徐さんは劉さんを「自らを省み、自己批判できる力がある。自分を変えていける力があった」と評する。著名な文芸評論家だった劉さんは若いころ、他人を弁舌鋭く批判し、他人の話に耳を貸さなかったそうだ。「大衆や社会をどこか軽く見ていた」。ところが、天安門事件を機に投獄され、犠牲者の家族の声も聞くなかで、変わっていったという。
 「獄中で思索を深めたのでしょう。常に相手の立場で考え、追い詰めず、自分に足りない点を考えるようになった」。(略)
 劉さんが世の中を変えられると信じられたのは、自分を変える力を持てる人だからかもしれない。(略)
 「声が低いが着実に抵抗することは、声高く真正面から抵抗する声を補充でき、これは一つの手段と見なすことができる」(劉暁波ほか著『「私には敵はいない」の思想』から)

 私は、この言葉がとても好きだ。


 「声が低いが着実に抵抗する……」は、1926年3月18日、時の政府に対して高い声で「帝国主義打倒」「段祺瑞打倒」などを要求するデモ行進中に、軍警に発砲されて多数の死傷者を出した(“三・一八事件”という)学生や労働者に向かって、魯迅が呼びかけた、今後の運動は塹壕線作戦で行こうと言ったことと同じだ。
 真正面から声高く体を張って、政府に抵抗する若者たちが犠牲になるのを見て、声を低めて着実に抵抗してゆけば、社会は必ず変えられると信じられるのは、自分を変えてゆける強い力があればこそだ。
 劉さんは、六・四天安門事件の後、ベルリンの壁が崩壊し、あの強権独裁のホーネッカー体制が瓦解するのを目の当たりにして、社会は変えられると信じたのだろう。
 劉さんと魯迅とでは時代背景もちがうので比べようもないが、ペシミストだった魯迅は、中国人の考え方を変革してゆく(社会を変えてゆける)と信じていたかどうか若干疑問を感じる。魯迅自身、劉さんのように自分を変えてゆく強い力があったかどうか?
 魯迅は、自分の周りの人々を罵り、人を喰いものにしてきた礼教社会を根底から批判、否定したが、社会と中国人の考え方は変えられなかった。彼は周りに敵をつくり、その敵を罵ることから出発していたからだろうか?
 彼には劉さんのように「私には敵はいない」の思想はもてなかった。その意味で、08憲章を残して獄中で亡くなった劉さんは、次世代の若い人々が、自分のように社会は変えられることを信じて、自分自身を変えていけるように低い声で抵抗活動をするよう、呼びかけ続けることだろう。



2017.08.30作成
2017.09.10投稿

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魯迅と劉暁波

 末期がんの治療を理由に8年にわたる獄中生活から瀋陽の病院に移送された劉暁波氏について、釈放や国外での治療を求める声が各国から起こった。
 劉暁波は、今年の春、病気を患っていた妻・劉霞ととも出国する意思を表明したが、当局も最初は前向きだったという。これは人道的配慮というよりも国内での影響力の低下を願ったからだ。ただし、最終的には出国させなかった。(最終的に彼が海外で埋葬され、その墓が反中勢力のシンボルになるのを恐れたからだ。)
 ドイツのメルケル首相は、G20サミット(会期2017年7月7-8日)にあわせてドイツを訪問していた習主席に対して、治療のために劉氏を受け入れる用意があると表明した。これに対して、習主席は「帰国後に状況を確認し、関係部門と協議する必要がある」と応えたという。体のいいお断りである。
 それからわずか数日後の、7月13日には新華社から彼が死亡したとの英文ニュースが発表された。生前、妻とともに海外での治療を望んでいた劉暁波にとっては、さぞかし断腸の思いだっただろう。
 だが、劉暁波は結果的に中国国内でなくなった。これによって、彼の名声や影響力は末永く中国の人々の心に残るだろう。1997年病気治療のために渡米を許された魏京生、1998年にアメリカへ亡命を許された王丹などは現在ではほとんどその影響力を失った。
 魯迅は重い病気になって、日本の文人、友人や出版関係者ら多数から日本での治療を勧められても断り続けた。元金沢大学教授の増井経夫氏は、1935年12月、彼が上海租界の魯迅を訪ねて、彼の義父であり、文求堂の主人であった田中慶太郎氏の親書を手渡して、日本での病気療養を勧めたが、断られたと、その著『線香の火』の中で記している。
 魯迅にとっては、中国に踏みとどまり、中国語で文章を書いてこそ、中国人の精神を改革できるのである。中国に根を下ろさず、時の権力者の弾圧や状況によってコロコロを居場所を替え、中国のためにではなく自分のために、時には英語で文章を書いた胡適や林悟堂などを許さなかった。
 魯迅が「民族魂」といわれ、また、現在でも人々から慕われる所以がここにある。
2017.07.24作成
2017.08.01投稿

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劉暁波の死

 ある中国の改革派の学者が、先日(2017年7月15日)の神奈川新聞に、劉暁波の死に関して述べたコメントが強く印象に残った。「新たな劉暁波は又生まれるかもしれない。それを支持する大勢の大衆がいるか、そういう社会になっているかどうかが問題である」と。劉暁波は中国のために死んだ。このコメントは、その志を引きつごうということだろう。
 劉暁波らが提唱し、2008年12月9日インターネット上で発表した「08憲章」は、1989年6月4日、第二次天安門事件(六四天安門事件、六四運動)で、その2カ月前になくなった胡耀邦総書記の名誉回復と民主化を求めるために、戦車の砲身の前に空手で立ち向かった学生たちやそれを支持する人々への熱い思いを表明したものだ。また、振り返れば、この六四運動は、1976年4月5日、第一次天安門事件(四五天安門事件、四五運動)で周恩来の名誉回復を求めた学生大衆の民主化要求運動に流れを汲むといえる。
 劉暁波の逝去に際して、共産党政府は、遺灰は海へ散灰されると公表した。これは多分、彼の遺骨を墓に納めると、その墓が反政府運動のシンボルになるのを恐れたからだろう。周恩来は、生前、墓は建てず、遺灰は海に散じるようにと遺言した。これは、自分の墓が反政府運動のシンボルになって、時の政府から墓が暴かれることのないようにとの思いからだという。
 1836年に永眠した魯迅は、棺に「民族魂」と大書された白布にくるまれて万国公墓に土葬された。その墓石には、他の中国人と同様、写真を焼き付けた陶器が飾られていたが、戦後上海に抑留されていた堀田善衛が、魯迅の墓を訪れた時、その顔は投石か何かで欠けていたそうだ。
 その後、文革の嵐の中で、魯迅は毛沢東から、中国文化革命の主将とか、中国でもっとも硬い骨と称えられたり、空前の民族英雄と持ち上げられたりしたが、その遺骨は万国公墓から、上海の魯迅公園に作られた銅像つきの巨大な墓に埋葬され直した。「魯迅墓」という毛自身による揮毫を備えたこの墓は、それこそ、魯迅公園の記念碑(シンボル)となっている。
 もし魯迅が生きていたら、今頃どうしているでしょうね、と問われた毛沢東が、「相変わらず時の政府に抵抗する文章を書いて、監獄にいるか、死んでいるだろう」と応えたという話は有名だ。
 毛は、魯迅を巨大な墓に閉じ込め、「大勢の大衆」が再び担ぎ出せないようにした。その結果、今ではもう誰も魯迅を担ぎ出して反政府運動をしたりするものはいない。
 今後、第二、第三の劉暁波は現れるかもしれないが、それを支持する大勢の大衆がいるか、そういう社会になっているかどうか、中国の民主化や改革は気の遠くなるほど難しい問題だ。
2017.07.18作成
2017.08.01投稿

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