魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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現在では日本を抜いて世界経済第2位の大国になった中国にも、今の北朝鮮と同じように、扇動され、あるいは動員された大衆が、「アメリカ帝国主義を打倒せよ!」「ソ連修正主義を打倒せよ!」「中国のフルシチョフ(劉少奇)を打倒せよ!」と声高に叫んでいた時代があった。所謂、プロレタリア文化大革命の時代である。
これらが叫ばれていたのは、私も含む日本人学生約200名が、北京、上海、井岡山、韶山(毛沢東の故郷で、湖南省)などを訪問した1968年8月頃である。
その頃は文革が始まってちょうど2年が経過したころで、天安門広場や上海人民広場に立てられた肖像画の毛沢東とその親密な戦友である林彪の二人の顔が、全国から集まってきた紅衛兵や労働者たちをにこやかに迎えていた。
上述のスローガンは革命歌の中に採り入れられ、革命歌は、小型の歌集まとめられて、林彪が人民解放軍のために編集させた毛語録とともに、全国から集まった彼らに配られ、全国的にも愛唱された。ちょうど、その頃の日本の歌声喫茶のポケット版歌集の如くに……
訪中したわれわれ日本人の一行も、中国側の世話人に教わって、移動中のマイクロバスの中や、井岡山の革命記念館や毛沢東の旧居前で大声で唱ったものである。あの時から、50年たった今日でも、その光景は、脳裏に焼き付いており、私の忘れがたい思い出となっている。当時は我ながら純真だったんだな、と時折苦笑もする。
ちなみに、現在の中国の都会では、円く輪になって当時の紅歌を唱う中年グループが各所に散見される。これを「紅歌会」という。
【中国のフルチショフを打倒せよ!】
さて、これら3つのスローガンで、毛沢東が最初に実現できたのが、「中国のフルチショフを打倒せよ!」である。
毛沢東は、文革中、中国のフルシチョフ(劉少奇)とその一派は、共産党員でありながら、大きな邸宅に住み、蓄財に励む実権派(資本主義の道を歩む実権派)であり、修正主義者である、と指弾した。毛とその取り巻きである四人組は、紅衛兵たちをたきつけて、彼らを徹底的にたたきのめし、大邸宅から彼らを追い出した後、財産を持たぬプロレタリアート(無産階級)の共産党員に分配し、開放し、自派を増やしていった。
一方、時が経つにつれ、林彪の謀反、四人組の跋扈、殺し合い、経済(生産)的機能の停止、密告、人間不信など様々な要因が交錯し、文革の負の側面が拡大し、文革における人民大衆の災禍は想像を絶するものとなった。文革における死亡者数は詳らかでないが、1000万人から4000万人とも言われる。
三角帽を被せられ、背中に「腐敗分子」の看板を負わされ、両手を後ろに縛られながらトラックに乗せられて、市中を引き回され、挙げ句の果てに投獄や下放させられ、多くの者が落命した。ちなみに、私は、北京や上海でそういう場面を何度も見ている。
【ソ連修正主義を打倒せよ!】
毛沢東が次に意図したのが、ソ連の侵攻に備えての中米国交回復であった。
1950年代の後半からの、ソ連のフルシチョフ首相によるスターリン批判の後、中ソ間の関係は徐々に悪化し、1968年夏には極東ウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)をめぐる国境紛争でなどで、中ソ間の対立が鮮明となった。
危機感を抱いた毛沢東は、事態を打開すべく米中国交回復を決意した。当時、米国との国交回復は、東西冷戦でソ連と対立していたアメリカのニクソン大統領の外交政策とも合致していた。アメリカとの国交樹立で、ソ連からの脅威はなくなり、毛の意図は実現した。
一方、ソ連では、フルシチョフを引退に追い込んだブレジネフ体制下、官僚主義の跋扈、アフガン介入の失敗、経済の低迷などによって社会は沈滞し、徐々に自壊して行った。今やソ連という国はない。
【アメリカ帝国主義を打倒せよ!】
毛沢東の中国はアメリカに、台湾は中国の不可分の領土であると認めさせ、中韓台における駐留アメリカ軍の脅威の一つを減らすとともに、台湾の国民党政府がアメリカと共同して福建省などに侵攻してくるリスクをなくした。
一方、ベトナム戦争で北を支援した中国は、アメリカ帝国主義を1974年4月サイゴンから追い出し、朝鮮戦争に次いでアメリカを東アジアから追い出すことに成功した。
日本や世界各国でも、「ベ平連」のような反戦運動や社会運動が盛り上がり、アメリカにはもはや帝国主義は通用しないと悟らせることとなった。
毛沢東と周恩来は、ニクソン、キッシンジャーとのギリギリの外交交渉を通じて水際でアメリカと手を握ることによって、自分たちの生前にアメリカが中国に攻めてくるのをなくすことに成功し、ほっとして二人で冥土に旅立ったのである。
2018.02.01
2018.02.20
私の中国生活はおよそ40余年になるが、その間、お世話になったお米について述べてみたい。
【広州のお米】
1957年以来広州で春秋2回開催されていた広州交易会には、1972年の日中国交回復以後、毎回参加し、開催期間中のほぼ1ヶ月、広州の長粒種米にお世話になった。
このお米は、シンガポール、香港の中華料理店や屋台でよく食した、長くて白い香りのある香米という美味しいタイ米に比べると、ゴミや砂が混じり、とてもノドを通る代物ではなかった。
後に耳にしたことだが、ゴミや砂が混じるのは、脱穀用の石を先端につけた棒で稲の穂先を叩いて脱穀した後、アスファルトの道路上の片側で天日干しをしていたためという。
【上海のお米】
1979年頃、上海某製鉄所の案件で商談に参加した際、資金手当で問題が発生し、半年ぐらい案件が中断した結果、暇になってしまった。ある日、上海大厦(旧ブロードウェーマンション)の8階の部屋から、ビルの真下を流れる蘇州河(運河)をぼんやりと眺めていた。
頻繁に行き交う船々にの中に、稲わらを満載したジャンク船が8~10隻連結されて、小型タグボートに牽引されて黄埔江に進んでいくのに気がついた。それらがガーデンブリッジ(白渡橋)を通過して、黄埔江に入ると、連結を解いた各ジャンク船の船頭は、それぞれが契約しているわら半紙工場に向かうべく、必至になってあのジャンク特有の帆を揚げて、黄埔江を進んでいった。
後に聞いたことだが、それらのジャンク船は、帰路、黄埔江の岸壁に何カ所も設けられた屎尿積み込み場で人肥を満タンにして、蘇州河を上っていくという。
先年、久しぶりに上海に出かけた折、以前よく散策した豫園周辺の下町長屋を再訪したが、朝出ししておいた馬桶(マートン)をきれいに水洗いして、家の前に斜めにかけている光景は見られなかった。現在では、住まいも近代的な高層マンションに変わり、戦前からの稲わらと人肥のリサイクルは途絶えたのだろう。
上海の米は、水が悪いせい(?)か、妙な臭いがして美味しくなかった。
【大連のお米】
2000年頃、上海から大連に引っ越すと、お米が急に美味しくなった。
現地の人に尋ねると、戦前、信濃川デルタの改良に携わった日本の農民が、満州開拓団として入植し、全身泥まみれになりながら、広大な遼河デルタの大湿地帯を改良した結果、美味しいお米が生産されるようになったという。
これは日本人が現地人から唯一感謝されていることであるという。遼河デルタは、仙台とほぼ同じ緯度で寒冷地だが、米作には適しているのだろう。
この遼河デルタは、大連から錦州に向かう折、よく通過したが、農業用トラクターに牽引された10数輌もの荷車が、往復2車線の片側を、車線をはみ出すほど稲わらを積み込んで、ゆっくり進み、また、反対方向からもやってくるため、追い越しもままならず、難儀したものだった。
【天津葦簀(ヨシズ)】
このデルタには、また、東洋一の葦原が広がっていて、道路は、稲わらの荷車ばかりか、稲わらよりも長い葦の束を積み込んだ荷車もよく往来していた。葦も、稲わらと同じようにわら半紙になるそうだが、品質のよいものは、ヨシズになるとかで、これらは天津あたりに送られ、天津葦簀となって、輸出されていた。
2017.11.16作成
2017.12.11投稿
1978年8月12日の日中友好平和条約締結後、中国各地には、それを記念して、日中友好(中日友好)と冠した病院や教育施設などが多く建設された。
1982年秋、私が勤めていた会社と農機会社のY社が共同で、北京郊外の中日友好人民公社に米作用農機を寄贈することになった。
季候のいい10月に友好訪中団がやって来たので、私はY社のY社長一行をその公社へ案内した。公社への道中、Y社長は、農地のあぜ道がクネクネ曲がっているのを指しながら、私に向かって、「人民公社になっても、まだ農地の整備がきちんとできていませんネ。農業の機械化のためには、できるだけ広く方形の耕作地を作らねば効率が悪いんです」と指摘された。
その時、私は新幹線の列車の車窓からよく見た、方形に広がっている琵琶湖東岸の水田の状況を思い出した。
この地方の水田が、私の故郷愛知県のそれと違うのは、あぜ道に高さ2メートルほどの高さの稲架木が等間隔に植えられ、稲刈り期には、木と木の間に長い横木を架けて稲架(はさ)として利用していたことだった。近江の人は賢い、とつくづく感心した。
私の祖父の水田では、稲刈り期には、丸太3本で稲架を架ける柱を組み、長い丸太の棒を農地近くの納屋からリヤカーで運び出して、その柱間に架けていた。その長い棒を盗まれたたこともよくあったらしい。
その後、2010年代になって京都勤務になり、近江平野を車窓から見ると、以前のような稲架に使う並木がすっかり姿を消しているのに気づき、不思議に思った。それで、彦根に住んでいる同僚に尋ねてみた。
「もうそんな昔のやり方は、どこもやってませんわ!」と笑われた。「収穫はすべて機械でやり、刈り取りと同時に、脱穀し、籾殻と藁にわけるんですわ。藁は田に戻して肥料にします……」
その結果、今では畳や藁細工用の藁が不足し、中国の奥地から藁を輸入しているらしい。彼は「害虫が付着していないか、農水省の検査が厳しくて……」と教えてくれた。
あれから45年、中日友好人民公社は解体された。人づてに、都市近郊型モデル農業として、しばらくは発展していたとは耳にしていたが……今頃、あのY社の農機もさび付いて、日中友好のモニュメントとともに、朽ち果てたことだろう。
2017.11.13作成
2017.11.21投稿
1980年代に北京に駐在していた頃、駐在仲間と酒を飲みながら、北京版イロハカルタのパロディーを作ったことがあった。「犬も歩けば棒にあたる」の句に対しては「犬もイヌ、猫もイヌ」が秀作と認められた。
1958年から1962年にかけて数千万人の犠牲者を出した大飢饉時には、犬はほとんど食べ尽くされ、いなくなってしまった。また、猫も同じ運命にあったという。
本社を大阪に置くキャットアイ社が、広東省の仏山市で自転車の後輪部につける赤い反射板を製造していたが、その会社と取引関係をもつフランスの輸入会社の社長夫婦が中国に来た折に、商談のために対応を命じられた。
その折、社長夫人から、中国では犬や猫やスズメなどをどこでも見かけないが、一体どうしたかと尋ねられた。彼女は、広東人はゲテモノ食いで犬を食べるということを知っていたが、まさか猫までも食べるとは思いもよらなかったという。
それで、中国滞在の長い私にその背景を尋ねてきたわけだが、私も猫がどうしていなくなったのか分からなかったので、その時は説明できなかった。
犬の肉は美味しいから食べてしまったのは分かる気がする。しかし、毛沢東時代に農業と人体に対して四害ありといわれたスズメ、ネズミ、ハエやカを大量に退治してしまった結果、スズメがエサとして食べていた虫が大量発生し、逆に困ったという話を聞いたことがある。ちなみに、広東料理屋で、龍といえばヘビで、トラが猫のことである。竜虎ともに食すというのが広東人らしいが……
さて、習主席が第一期就任後推しすすめた自画自賛の「トラを退治し、ハエを叩く」運動では、中国共産党員9,000万人のうち、150万人以上が退治されたという。スズメやネズミ退治によって害虫が大量発生したように、党員や役人退治によって何か食物連鎖が起こりはしないだろうか? そしてその食物連鎖によってどんな社会が到来するのだろうか? はなはだ興味深い。
2017.10.29作成
2017.11.14投稿
今回の衆議院解散劇やそれに続く小池新党の起ち上げに関して、9月30日付朝日新聞に、芥川賞作家で日大教授の楊逸さんのコメントが載せられていた。(『声を上げ続けて 世界は変わる』)。その感想の後段で彼女が述べていたフレーズが、中国で民主化を訴え続けて先頃中国でなくなった劉暁波を思い起こさせた。以下、その記事の一部を引用する。
……中国が政府に異議を唱えると身に危険が及ぶ国になってしまったのは、国民の責任です。日本は民主的で国民が「NO」といえる。どんどん意見を言って議論すればいいと思う。私は5年ほど前に日本国籍を取得しました。日本も中国も声を出し続ければ世の中は変わると信じています。
国が政府へ異議を唱えると身に危険が及ぶ国になるのは国民の責任だという彼女の言葉の裏には、日本もそうなってしまうことのないようにネ、という彼女の思いがにじんでいるように思う。
小池新党設立と民進党議員の受入に関して、「全員を受け入れることはさらさらありません」「排除いたします」、「閣僚経験者はおことわり」という小池氏の発言からは、権力を握った暁には、安倍首相以上に自分の考え方を中心に押し出して、異なる意見をもつ人々を排除しようとする気配を感じる。同志の若狭氏に対してすらテレビでの発言を控えるよう申しつけたとも言われている。彼女は、国民が異を唱えるのを許さぬ政治家になる恐れが多分にある。
都政で何の成果も出さず、ちゃぶ台をひっくり返して、都知事のまま国政に顔を出し、一体なにをしたいのか、どう日本を変えたいのだろうか、目的は何なんだろうか、誠に理解しがたいものを感じるのは私だけだろうか? これでは世の中変えられぬ。
尚、これはあくまで私の意見であり、楊逸さんの意見ではない。
2017.10.03作成
2017.10.14投稿
かたや「チビのロケットマン」、かたや「おいぼれ(dotard)」と互いに罵りあうトランプと金正恩。ロシアのラブロフ外相をして、「幼稚園の子供のけんか」と揶揄された二人の言葉合戦は、私のみならず、世界中がうんざりだ。もうこの辺で終わりにしてほしいものだ。
ところで、このロケットマンのマンには、単に男とか野郎という意味のみならず、相当見下した軽蔑的な意味があるように感じる。
かなり以前、鉄鉱石関係の仕事に従事していた頃、オーストラリアの鉄鉱山の会社である光景を目撃した。その会社には優秀な中国人が働いていた。彼の仕事のやり方が気にくわなかったのか、ある時、アメリカ人が彼に向かって、“Hey, Chinaman!”と呼んだ。そう呼ばれた中国人は、オーストラリアでの生活も長く、その意味を知っていたのだろう。アメリカ人が去ったあと、かなり激しく罵っていた。
われわれビートルズのファンなら、“Please, Mister Postman”の中で、遠くにいる彼女からのラブレターが自分に来ていないか探してほしい、とたのむ郵便屋さん、Postman には何の違和感も感じないだろう。だが、Chinaman とアメリカ人に見下された中国人は、相当頭にきていたようだから、スイスへの留学経験のある金正恩も、「チビの」という形容詞つきで、Rocketman と見下され、かなり頭に血が上っていたに違いない。
再度言う。口げんかはこれくらいで終わりにしてほしい。本当のロケットが落ちてくるのは、クワバラクワバラ!
2017.09.21作成
2017.10.02投稿
劉暁波が亡くなってほぼ1カ月、先日の朝日新聞(2017年8月10日)のザ・コラムに掲載された吉岡桂子編集委員のコメントが大変印象的だった。彼女は、劉さんと親交のあった徐友漁さんにニューヨークで会って、民主化活動を共にした仲間としての意見を聞き、劉さんの思いを伝えている。少し長くなるが、以下に記事の一部を引用する。
社会はいつか良くなる。動かせる。信じ続けることじたい、強い力がいる。
徐さんは劉さんを「自らを省み、自己批判できる力がある。自分を変えていける力があった」と評する。著名な文芸評論家だった劉さんは若いころ、他人を弁舌鋭く批判し、他人の話に耳を貸さなかったそうだ。「大衆や社会をどこか軽く見ていた」。ところが、天安門事件を機に投獄され、犠牲者の家族の声も聞くなかで、変わっていったという。
「獄中で思索を深めたのでしょう。常に相手の立場で考え、追い詰めず、自分に足りない点を考えるようになった」。(略)
劉さんが世の中を変えられると信じられたのは、自分を変える力を持てる人だからかもしれない。(略)
「声が低いが着実に抵抗することは、声高く真正面から抵抗する声を補充でき、これは一つの手段と見なすことができる」(劉暁波ほか著『「私には敵はいない」の思想』から)
私は、この言葉がとても好きだ。
「声が低いが着実に抵抗する……」は、1926年3月18日、時の政府に対して高い声で「帝国主義打倒」「段祺瑞打倒」などを要求するデモ行進中に、軍警に発砲されて多数の死傷者を出した(“三・一八事件”という)学生や労働者に向かって、魯迅が呼びかけた、今後の運動は塹壕線作戦で行こうと言ったことと同じだ。
真正面から声高く体を張って、政府に抵抗する若者たちが犠牲になるのを見て、声を低めて着実に抵抗してゆけば、社会は必ず変えられると信じられるのは、自分を変えてゆける強い力があればこそだ。
劉さんは、六・四天安門事件の後、ベルリンの壁が崩壊し、あの強権独裁のホーネッカー体制が瓦解するのを目の当たりにして、社会は変えられると信じたのだろう。
劉さんと魯迅とでは時代背景もちがうので比べようもないが、ペシミストだった魯迅は、中国人の考え方を変革してゆく(社会を変えてゆける)と信じていたかどうか若干疑問を感じる。魯迅自身、劉さんのように自分を変えてゆく強い力があったかどうか?
魯迅は、自分の周りの人々を罵り、人を喰いものにしてきた礼教社会を根底から批判、否定したが、社会と中国人の考え方は変えられなかった。彼は周りに敵をつくり、その敵を罵ることから出発していたからだろうか?
彼には劉さんのように「私には敵はいない」の思想はもてなかった。その意味で、08憲章を残して獄中で亡くなった劉さんは、次世代の若い人々が、自分のように社会は変えられることを信じて、自分自身を変えていけるように低い声で抵抗活動をするよう、呼びかけ続けることだろう。
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